労働イタリア総連合CGILの歴史 組合史
1861年にイタリア王国が成立したイタリアは他のヨーロッパ諸国に遅れて産業革命が起こった。それに伴い古い職業ギルドと
ともに
相互援助労働者協会(1860−1880年が黄金時代)が急速に広がり、
共同組合運動(1893年
全国同盟結成)も発展。
1872年ローマで労働者協会と印刷労働者の全国大会が開催されイタリア印刷労働者協会が発足。
この頃から互助主義から抵抗・闘争形態の組合組織に変化していった。とりわけ織物労働者の闘いは1877年ビエッレセ羊毛工場で
100日以上のストライキで成功を勝ち取った。1884年マントヴァノの労働者は賃上げの大闘争を行った。
労働運動の勃興で労働者を代表し社会的権利獲得のための組織結成がいそがれた。
1891年ミラノ、ピアンチェ、トリノで
オスヴァルド・ニョッキ・ヴィアニ(1882年
イタリア労働者Operaio党結成)により種々の職業協会を
結びつける最初の
労働協議所(パリの労働紹介所を真似た)が生まれた。同年レオ13世が
レルム・ノヴァルム(”新しい事々について”で
資本と労働の権利と義務に関して自由協定を述べている)を発表し、これが長らく教会の社会教義となり、これから20世紀始めに
キリスト教労働組合運動が生じる。
1892年ジェノヴァで
イタリア労働者Lavoratori 党(1903年社会党)結成大会が開催され、
労働協議所を労働者闘争の組織とすることを宣言。
1893年
労働協議所の全国会議開催。1901年
金属労働者イタリア連合FIOMが結成される。
FIOMは
ブルノ・ブオッツィ、
ジョヴァンニ・ロヴェダ、
アミノ・ピッツォルノ、
ヴィットリオ・フォア、
ルチアーノ・ラーマ、
ブルーノ・トレンティン、
セルジョ・ガラヴァーニらを指導者とする。
1887−1889年の
クリスピ政権は全国に広がる社会動員を残酷に弾圧した。1891−1894年のシシリーでの高物価、高税金に反対
する労働者、羊飼い、農民、鉱夫の
シシリア・ファッシ運動は軍隊により打倒された。
1898年ミラノではフィレンツォ・バヴァ・ベッカリス将軍によりパン価格上昇に抗議する大衆が銃撃され死傷者がでた。
2年後アメリカから来たアナーキスト・
ガエタノ・ブレッシが犠牲者の復讐のため将軍を賞賛したウンベルト1世を暗殺。
労働者の闘いの高揚で1900年ジェノヴァの
労働協議所が解散させられる。労働者の反撃で解散の県条例が取り消される。
この労働者の闘いの成功により
ジヴァンニ・ジョリッティ政権(1892−1921年に5回政権維持)は労働運動との対話推進を表明。
1906年
労働者総連合CGdLが結成される。約700の地域組合から2万5千以上の代表が参加。
最初の総書記に
リナルド・リゴラ(1906−1918年、)が選出される。
リゴラは進化主義者で19世紀社会主義者で、そのためCGdLは
第1次世界大戦まで社会党から独立した組織であった。
ジョリッティ政権は女性と子供の労働保護法を発足させ、強制保険、社会保障全国制度などを発足させた。
地域レベルでの企業との集団交渉協定が署名された。職場の労働者代表組織内部委員会が生まれ、トリノとボルサリノの
イタリア自動車会社との職業協定が実施された。
1908年ガラス製造連合と最初の全国集団協定が署名された。
1910年企業組織である
イタリア産業総連合が生まれる。
ジョオリッティ政権の改良主義政策は1911−1912年リビア戦争で急転換される。
攻撃的民族主義と反動で警察による労働運動弾圧が再び起こる。
CGdLはリビア戦争に反対し1912年の分裂で弱体化する。多くの
革命的組合主義者(
アルチェステ・デ・アンブリス、
フィリッポ・コッリドニ、
オッタヴィオ・ディナレ、
ミケレ・ビアンキ、)が
イタリア労働組合連合USIを結成。
USIは1914年の第1次世界大戦で英仏露三国協商側での介入問題で分裂、民族組合主義者
アルチェステ・デ・アンブリス、
フィリッポ・コッリドニ、
ジュゼッペ・ディ・ヴィットリオが介入支持、
アマディオ・ボルディガ、
アルベルト・メッシが反軍国主義を貫く。
第1次世界大戦でCGdLは戦争反対を宣言し、社会主義者は議会で戦債に反対投票。
イタリアの参戦で産業動員が行われストライキ権は廃止され、
ジョオリッティ政権の社会法は事実上廃止された。
戦中に頂点に達した緊張は戦後に、恐るべきインフレによる物資不足が引き金となり社会反乱と労働組合の要求を巻き起こした。
改良主義者
ルドヴィコ・ダラゴナ率いるCGdLにより組織された力は拡大し、
赤い2年間(1919−1920年、1921−1922年は
黒い2年間で1922年ムッソリーニのローマ行進が起こる)で戦争末期の25万から1919年百万、1920年220万となる。
戦後の政治・社会混乱はロシア革命の影響も受けた。
1919年
ブルーノ・ブオッツィ指導のFIOMは8時間労働を実現。
トリノでは
アントニオ・グラムシと
パルミ−ロ・トリアッティの
新秩序運動が
工場評議会運動を
FIATで始める。
1920年のFIATの闘争でCGdLは革命派とPSI最大限綱領派の多数派(組合的要求に限定)に分裂。
全国評議会で
ルドヴィコ・ダラゴナ路線が54%で多数派となる。1920年10月の工場占拠は敗北し、
赤い2年間の反動が到来する。
資本家、土地所有主の支援を受けたムッソリーニのファシストは警察に守られて
労働協議所、協同組合、社会党、社会主義者支配地域
を襲撃し、放火し、殺人を行った。
ファシスト部隊にたいする反応は弱かった。社会党は内部抗争で分裂し、1921年共産党が結成された。
君主主義、リベラルの旧政治階級は統制できるという幻想でファシストに門戸を開いた。
CGdLとカトリック組合
労働者イタリア連合(1918−1926年、最後の委員長は
アキッレ・グランディ)CILはファシストの暴力と経済危機
で弱体化、資本家は
赤い2年間の譲歩を取り戻そうとし、CGdLとCILの提携の試みは無駄だった。
1922年のローマ進軍のあと王はファシスト党の権力掌握を後押しし、少数派にも関わらず政権を取らせた。
1924年
ジャコモ・マテオッティの暗殺による抗議の展開を契機に独裁を行った。
1925年のキジ宮協定、1926年ヴィドニ宮協定でファシストと
イタリア産業総連合体制は確立、ファシスト組合だけが合法化された。
1926年11月CGdL本部はファシストにより破壊され、1927年初め、執行部はCGdLを自主解散。
CGdLの多くの指導者は自主解散に反対、
ブルーノ・ブオッツィはフランスに亡命しCGdL本部を再建、共産主義者組合指導者は
イタリアで秘密活動を行った。しかしファシスト体制で自由に労働組合を組織することはできなかった。
1940年ムソリーニはイタリアをナチス・ドイツ側で参戦させる。1943年ファシズムの長い夜は悲劇的結果に向かう。
英米連合軍のシシリー上陸でファシスト体制は恐慌に陥る。7月国王はムッソリーニを逮捕し、首相をバドリオに代える。
3月トリノと北部の大工場の戦争と窮乏への抗議の大衆ストライキがファシスト体制を揺るがす。
亡命
ブルーノ・ブオッツィとイタリアで行動するグループが論争を乗り越え1935年から統一行動を始めた。
10月イタリアは分割、南からイタリアは米英軍によりナチスから徐々に解放される。中北部にはナチス傀儡のムッソリーニの
イタリア社会(サロ)共和国が創設される。
ナチス占領闘争運動が生まれ、レジスタンスの成功に労働者の寄与は決定的であった。
連合軍による南部解放で1943年11月CGdL南部書記局会議が開催され共産党の
エンリコ・ルッソ、プロレタリア統一社会党の
ニコラ・ディ・バルトロメオ、
行動党のジーノ・ジェンティリらが臨時執行部(赤いCGL)を形成。1943年末から1944年初めにCGLは
南部に広がったがキリスト民主(
ブルーノ・ブオッツィと協定)の代表は再建に参加せず、
全国解放委員会CNLのメンバーにもCGLに
敵意を増大させるものがいた。
1944年1月CLN会議で赤いCGLに反対、
ブルーノ・ブオッツィが総書記、共産党の
ジョヴァンニ・ロヴェダ、キリスト民主(
ACLI)の
アキッレ・グランディが副書記となり
労働イタリア総連合CGILが生まれた。
CGILには
エンリコ・ルッソに代表される共産主義者と左派社会主義者とジーノ・ジェンティリの
労働主義者の2潮流が存在。
しかしトリアッティのサレルノの転換(4月)で左派は政治的支持を失い、多くが共産党から追放された。
左派は1945年1月
イタリア共産主義者・社会主義者左派連合を結成。
1944年6月首都は依然ナチスにより占領されていたが3主要政党がローマ協定に署名。
協定は労働組合の統一と労働イタリア総連合CGIL再建を取り決め、共産党の
ジュゼッペ・ディ・ヴィットリオ、社会党の
エミリオ・カネヴァリ、キリスト民主の
アキッレ・グランディが署名。
ヴィットリオと熱心に協定実現のため働いた
ブルーノ・ブオッツィは
数日前にドイツにより暗殺された。
1944年8月大会でCGLの多くがCGILに参加、
エンリコ・ルッソは周辺化した。
教会は共産主義者と社会主義者が強く望んだ統一CGILに反対はしなかったが、1945年の
イタリア労働者キリスト教連合ACLI結成
を喜んだ。
戦争末期までCGILは解放地域で内部委員会と
労働協議所を護り、賃金協定を取り決めた。
1945年4月25日のレジスタンスの総決起宣言とファシズムの最終的敗北と解放による反ファシスト統一の雰囲気で、CGILは
その存在と影響を全国に拡大した。CGILは王制廃止と統一共和国勝利に寄与した。
1946年6月の共和国誕生と憲法制定国会を決める選挙に初めて女性が参加。
1947年6月に全国会議でCGILは570万のメンバーを持っていた。
ジュゼッペ・ディ・ヴィットリオが総書記に選ばれた。
しかし共産党とカトリックの分裂の兆候が見えた。政治状況は急速に変化していた。
ヤルタ会議で世界は分割され東ヨーロッパとアジアはソ連の主導権下、西ヨーロッパは米国の軍事勢力下に入った。
イタリアは戦略的に重要で社会主義陣営の端にあり、地中海への自然門戸であった。
反ファシズム闘争の間に社会党、共産党の同盟者ととりわけ労働者の間に勢力を強めた共産党の存在の抑制と孤立化への米国の
強い圧力があった。
1947年5月の共産主義者と社会主義者の国家統治からの追放と民族統一政権の崩壊はCGILにも影響した。
1948年選挙でキリスト教民主党が勝利。
ディ・ヴィットリオの統一の個人的努力にも関わらず分裂に危機が増大。(社会党からはフェルナンド・サンティ、キリスト民主からは
ジュリオ・パストレが総書記として
ディ・ヴィットリオとCGIL指導)
キリスト民主の分裂の口実は共産党指導者
パルミーロ・トリアッティ襲撃(1948年6月14日)に対するCGILの抗議全国ストライキであった。
ジーノ・バルタリのツール・ド・フランスでの勝利が襲撃による内戦を避けるのに寄与したとさえ言われた。
ACLIの存在を背景にストライキの数日後キリスト民主、
共和主義者、
社会民主主義者は分裂を決定、自由CGILが結成され、
1950年
労働組合イタリア連合CISLとなった。
しかし社会民主主義者と
統一社会党の合同で
民主社会党が結成され中道世俗主義者(少数派共和主義者)と
労働イタリア連合
UIL(
ジュリオ・パストレ)を結成。
50年は分裂の年月で、労働組合の政党付随に苦しんだ。特にCISLは中道キリスト民主政権を支持し、現代化と労資協調を基礎に交渉で
企業と取り決めを行う路線を進めた。
CGILは強固な階級主義、反資本主義で共産党と強く結合していた。
1953年
デ・ガスペリ政権が多数派を強化するため選挙法を改正しようとした際にはCGILは反対の全国ストライキを宣言。
CGILはすべての労働者、組合員、非組合員を代表する普遍主義で、一方CISLはメンバーに正統性を求める、自由加盟主義であった。
重い反共主義の雰囲気でCGIL活動家は激しい弾圧に遭った。多くの活動家は解雇されたり管理職の前で部屋に閉じ込められると
言うような非人間的扱いを受けた。
ローマの名家出身の
ピオ12世(1939−1958年)は共産主義者を破門し、ネオ・ファシストの
イタリア社会運動MSIと提携した。
警察の弾圧も厳しかった。
マリオ・シェルバ内相は労働者のデモへ銃撃することを躊躇しなかった。
1947年シチリアでメーデー参加者が盗賊団により銃撃される
ポルテッラ・デラ・ジネストラの大虐殺が発生。これは選挙での社共ブロックの
驚異の勝利のあとのできごとであった。引き続き数年間、CGILの土地占拠を伴う労働者と農民の闘争で殺人が起こった。
1950年1月のモデナでのロックアウトへの抗議で警察が労働者に銃撃し6人が殺され15人以上負傷。
社会主義者の
フェルディナンド・サンティに助けられCGILを率いる共産主義者の
ジュゼッペ・ディ・ヴィットリオは政府と産業界の厳しい
攻撃に対し、生産手段の国有化を含む
労働計画を発表し対抗した。もちろんこれは政府には受け入れられなかったがこれでCGILは
孤立を打ち破り、全国に、勤労者、失業者、北部工場労働者、南部農村労働者に話しかけることができた。
1952年CGILは労働者の権利と労働の場に憲法を実現することを目標とした。これは1970年
労働憲章として具体化した。
CISLやUILと対照的にCGILは全国的大問題と闘った。CISLは工場での個々の協定追求を基礎としていた。
労働の場での内部委員会の一緒の選出は政治選挙で対立を反映し労働組合間のより厳しい思想対立を巻き起こした。
1955年3月のFIATの内部委員会選挙では解放以降常に65%近い絶対多数を占めていたCGILのFIOMが36%に減少し、
CISLのFIM41%、UILのUILM23%となった。
これが転機となり中心化された組織で全国的あるいは国際的問題にばかり目を向けていたCGILは個々の労働者の具体的状況、職場の
状況や下部組織の役割に目を向けるようになった。
企業レベルの交渉が新しい手段となり、階級闘争はより柔軟となった。
この戦術の採用によるCISLの協力再考により職場からの再統一過程が始まる引き金となった。
しかし1956年の出来事が起こった。フルシチョフのスターリン批判と脱スターリン化の過程が始まったがハンガリー事件が起こり、
CGILにとって困難な時期となった。
イタリア共産党と異なり
ジュゼッペ・ディ・ヴィットリオはソ連介入を批判した。
多くの役員が辞任しメンバーは1955−1958年で100万減少した。
CGILの社会主義者は繰り返し分裂をそそのかされたが拒絶した。
執行部は内部での意見不一致の公開の権利を認め、共産党は党と組合の役割の違いを主張し労働組合の完全独立路線を採用した。
戦後の厳しい時期CGILを指導して来、内部統一を維持し、CISLとUILとの統一交渉回復の道を切り開いてきた
ジュゼッペ・ディ・ヴィットリオ
が1957年11月死亡。
後継は
アゴスティーノ・ノヴェッラ(1957−1970年、FIOM出身、総書記を辞めてから共産党で
ベルリンゲルを支える)。
アミントーレ・ファンファーレの最初のキリスト民主−
民主社会党−
共和党政権(1958年7月−1959年2月)はすぐに倒れ、
1960年には
フェルナンド・タンブロニ政権が
イタリア社会運動MSIの支援で成立した。(1960年3月−1960年7月)
これで
タンブロニはレジスタンスにとって記念すべき都市ジェノヴァでMSIが祝賀会議を開くことを許した。
解放からまだそんなにたってないのでこれは大きな挑戦とみなされジェノヴァと全国にストライキとデモが捲き起こり、このなかで
警察の銃撃でレッジョ・エミリア、ペレルモ、カタニアで労働者と青年に死者がでた。
フェルナンド・タンブロニ政権は辞任を余儀なくされ社会党参加の
中道左派政権が樹立された。
1960年代初期イタリアは経済成長を遂げた。
ピエモント、リグリア、ロンバルディアの産業三角地帯が発展し南部との格差が拡大し、南から北の産業地帯に170万の労働者が移動。
国際的、政治的、労働組合的、経済的出来事が徐々に組合統一の新しい過程を生み出した。
労働組合の統一行動が1960年のミラノのフィアットのFIOM、イタリア金属機械連合
FIM、金属機械労働者イタリア連合
UILMから始まった。
FIMは1950年結成のCISL主要組合で
ルイジ・マカリオ(1977−1979年)、
ピエール・カルニティ(1979−1985年)がCISL総書記となる。
UILMは
ジルジョ・ベンヴェヌトが1976−1992年UIL総書記となる。
1961年賃金上昇と労働時間短縮による協定の季節が終焉、1962年から1963年に大闘争が起こった。
社会党の
中道左派政権参加で1963年社会党から
プロレタリア統一社会党が分裂し
ヴィットリオ・フォア率いる社会主義者組合活動家が参加。
1964年末にはCGILは57.2%が共産党、28%が社会党、14.8%がプロレタリア統一社会党であった。
1965年CGILとCISL(
ブルノ・ストルティ)の大会で経済計画と労働組合の独立性が議論となる。
1966年ACLI会議(
リヴィオ・ラボル)でキリスト民主との協力主義が破棄され労働組合統一と、共産主義者差別反対を表明。
1968年は年金改革に対する労働運動の歴史的成功で明けた。労働原点からの強い抗議で政府との合意を撤回しCGILは
単独で全国ストライキを宣言。
1968年は学生運動の年であった。米国から発しフランスへと広がり世界各国に展開。イタリアでは学生運動は労働者の闘争と織り
重なった。主役は底辺委員会comitati di baseで内部委員会commissioni interneに置き換わった。マルゲラ港の石油化学、ミラノの
ピエリ・ビコッカや他の大工場に展開。組合によらず同一部門から直接代表を選出。
1968年メーデーは1948年の分裂以来はじめてのCGIL、CISL、UIL統一パレードで祝われる。
CISLは政治問題と労働組合問題の不両立を認め、政党と距離を置くようになる。
ワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキア侵攻が起き、CGILはソ連の介入を批判し、更に
世界労働組合連合WFTUから脱退。
イタリアでは南部で闘争が起こり、12月アヴォラで警察による労働者(労使交渉決裂でデモ)銃撃で2」名死亡。
1969年4月にはバッティパリアで更に多くが警察に銃撃される。(地域タバコ工場閉鎖に対するスト)
そして
暑い秋、その結果
マリアノ・ルモル政権で社会党労働大臣
ジャコモ・ブロドリーニにより1970年
労働憲章成立。
暑い秋では全国協定の季節に種々の要求でFIOM、FIM、UILMが闘争の中心となり70年代固有の統一新組合
工場評議会
consigli di fabbricaが生まれた。
1969年12月
フォンタナ広場の大虐殺により
鉛の年(アンニ・ディ・ピオンボ、1970年代早期から1980年代の爆弾と銃撃の波の時代)
の緊張とテロリズム戦術の厳しい時代が始まる。
1970年
ルチアーノ・ラーマ(−1986年)がCGIL指導者となる。
ルチアーノ・ラーマは社会党の
オッタヴァイノ・デル・トゥルコと協力して
CISL、UILとの合同に努力。
1970年代は女性解放闘争を中心とした市民運動の時代。しかし1970年代後半は経済危機で労働組合の活動は弱体化し、資本は
暑い秋の結果による力関係の回復を図る。
1970年からFIOM、FIM、UILMの後押しで連合統合が推進される。
(これはやがて
クラクシ政権のサン・ヴァレンティノ令(1984年2月)で崩壊。
1972年7月3連合が統一協定に署名し共同組織(
統一連合)を結成。
労働運動の盛り上がりに対し、クーデター陰謀やファシストが暗躍し始める。
1974年5月ブレシアのロッジャ広場で労働組合のデモの最中にファシストの爆弾破裂、8名死亡、100名以上負傷。
鉛の年は1978年3月16日のアルド・モロの赤色旅団により暗殺にいたる。
1975年イタリア産業総連合と3連合が
物価スライド制に合意。
この時代CGILは緊張戦術に反対しテロリストの攻撃に対し民主主義防衛に努める。
赤色旅団はCGIL幹部
ギド・ロッサさえ暗殺(1979年1月)。
1977年街頭での武装行動を主張する
労働者自主管理と
歴史的和解路線の共産党が衝突。
2月労働組合
CGIL総書記の
ルチアーノ・ラーマは占拠されたラ・サピエンサ大学内で演説をし追い出される。
1978年3連合が
ルチアーノ・ラーマの発案で
エウルの転換(発展維持と雇用を護るため政策のため賃金抑制)を行う。
1980年9月フィアットが1万4千の解雇と2万3千の自宅待機を発表。
金属技術工は解雇に反対しフィアットの門で35時間生産阻止、
エンリコ・ベルリンゲルはフィアット・ミラフィオリの門で闘争を支持
して連帯。これに対しフィアットは幹部と職員による闘争と組織に対する抗議デモ”4万人の行進”をトリノで組織。
この敗北はフィアットの組合闘争だけでなくそれまでの高専門職集団に侵食された組織の合法路線の敗北であった。
フィアットの出来事がCGIL−CISL−UILの連合統一に内在する不一致を明確にする。
1982年のローマでの大デモに対し産業総連合が一方的に物価スライド制を放棄したことに対し3連合の態度は対照的であった。
CISLとUILは改訂に前向きで、CGIL多数派は反対であった。
1984年クラクシ政権とCISL、UILが物価スライドの4%削減に同意。
これで連合統一は崩壊し、CGILの内部統一は試練に立たされた。共産党は国民投票に持ち込み敗北。
1986年共産党の
エンリコ・ベルリンゲル(1972年
ルイジ・ロンゴから総書記を引き継ぐ)が死亡し、1つの時代が終わった。
あとを
アレッサンドロ・ナッタ(1984−1988年)が引き継いだ。
国民投票敗北でCGILは困難な時期に入った。労働紛争は劇的に減少し、3連合の組合員も減少。産別利益を護る独立組合が発生。
1980年代末3中央組織に不満なグループが工場評議会型労働組合の復活を目標に下からの組織化による
底辺委員会Cobasを結成。
これは
共産主義再建党あるいはトロツキストの影響を受けていた。
まず1986年公立学校(
ピエロ・ベルノッキ)とイタリア鉄道(
エツィオ・ガロッリらが
統一機械工調整CO.M.U)で結成。
1990年にはアナーキストの
統一COBAS底辺イタリア連合(
ステファーノ・デリッコ)が結成された。
1999年に
底辺委員会連合(
ピエロ・ベルノッキ)が設立された。
1986−1988年
アントニオ・ピッツィナート(FIOM出身、1992年共産党議員、ムッシ支持で民主党参加)が
ルチアーノ・ラーマと交代。
1988年
ブルーノ・トレンティン(1999−2004年
左翼民主主義者のEU議員)と交代。
共産主義の崩壊とともにキリスト民主はその役割を終え、贈収賄疑獄で社会党と共に1994年解散、更に共産党も党名と党の性格を変える。
北部同盟のようなポピュラリズム運動が第1共和国の危機を加速。
1991年
ブルーノ・トレンティンが共産主義者グループを解散し、多数派に対し
ファウスト・ベルティノッティの少数派(
労働組合であれ
Essere sindacato)が議案を提出。
労働組合であれメンバーは他に
ロサ・リナルディ、
ジョリジョ・クレマシ、
ジャン・ポロ・パッタら
共産主義再建党グループ。
1992年
アマト政権(社会党、キリスト民主、社会民主党、リベラル党)が物価スライド賃金制の放棄と協約復帰を提案。
1993年結局リラ25%切り下げを伴う経済破産のあとCGILはCISL、UILととも政府、産業連合と物価スライド賃金制を
放棄する所得政策に合意。
1994年
セルジョ・コッフェラティが総書記となる。(−2002年、2004−2009年ボローニャ市長、2009年民主党EU議員)
1994年中道右派連合が選挙に勝利し成立した
ベルルスコーニ政権は社会保障政策削減に取り掛かかろうとする。
3組合連合は統一して11月ローマで百万の労働者、年金生活者による大デモを行い、
北部同盟離脱で
ベルルスコーニ政権崩壊。
1995年
ディニ内閣により年金改革が行われる。
1996年中道左派(
オリーヴ)の勝利で
共産主義再建党の支持を得て
プロディ政権成立し労働組合との対話が前進。
北部同盟の分離主義に対しミラノとヴェニスでCGIL、CISL、UILは大デモを行う。
1994年にCGIL、
CISL、UILと産業連合とで所属組合に関係なしに実際の同一労働で雇用される全ての労働者を代表する
統一労働組合代表RSURappresentanza sindacale unitaria結成が合意され、これが1997年公務員まで拡大され組合連合は大きな
成功を収め、CGILは最大の組合連合となる。
2000年代初期にCGILとの合意なしにCISL、UILはベルルスコーニ政権と協定(
イタリア協定2002年、賃金抑制政策)に署名。
2001年の選挙勝利後ベルルスコーニ中道右派政権は労働者憲章18条を削除しようとした。
2002年3月
セルジョ・コッフェラティのCGILは300万という戦後最大の労働者を動員しこれを阻止。
2002年
グリエルモ・エピファーニが総書記となる。
中道右派政権の政策にたいする反対で3組合連合の統一行動が回復する。
CGILは
ベルルスコ−ニ政権の諸政策と厳しく対決。
2006年選挙で連合が勝利し
プロディ政権が成立し、またCGILが強く主張したベルルスコーニ政権発案の憲法改正反対に勝利。
CISL 歴史
全国書記は1950−1958年
ジュリオ・パストレ(戦後キリスト民主に参加し60年代中期中道左派政権に入閣)、
1958−1977年
ブルノ・ストルティ(1970年
バルダッサレ・アルマトが少数派左派反対派形成)、1977−1979年
ルイジ・マカリオ(
FIM出身、1979−1984年キリスト民主EU議員)、1979−1985年
ピエッレ・カルニティ(FIM出身、社会党参加、1993年
社会キリスト運動を
エルマンノ・ゴッリエリと結成、後に左翼民主党、左翼民主主義者EU議員)、1985−1991年
フランコ・マリニ
(キリスト民主、
人民党、
マルゲリータ参加)、1991−2000年
セルジョ・ダントニ(キリスト民主、
キリスト教中道民主連合、
マルゲリータ、
民主党などに参加)、2000−2006年
サヴィノ・ペッツォッタ(
中道連合参加)
UIL 歴史
全国書記1953−1969年
イタロ・ヴィリアネゼは1963年社会党セナート、
3次ルモル内閣、
コロンボ内閣大臣(1970−1972年)。
共和主義者ラッファエレ・ヴァンニをついで1976−1992年全国書記の
ジョルジョ・ベンヴェヌト(
UILM出身)は1993年
ベッティノ・クラクシのあとをついで短期間(解散)
社会党書記となる。1998年
左翼民主主義者参加。
1992−2000年全国書記の
ピエトロ・ラリッツァは2007年
左翼民主主義者セナートとなり2008年は(再建)
社会党から立候補。
2000年からの全国書記の
ルイジ・アンジェレッティ(
UILM出身)は2008年
社会党参加。