<<ニュージーランドの左翼>>


ニュージーランド共産党
 ニュージーランド労働党結成の5年後の1921年結成。
 ニュージーランド・マルクス主義者連合(1918年結成)と古社会党のメンバーが主に参加。
 1960年代の中ソ衝突で毛沢東支持をとる。ソ連支持派は社会統一党結成。
 共産党は毛沢東死後アルバニアのエンヴェル・ホジャ支持となる。
 親中派は追放され1975年共産党(ML)結成準備委員会(1988年マルクス主義統一組織OMUと改名。)を形成。
 1990年、1970年に追放されたグループが他のグループと労働者共産主義同盟結成。
 アルバニアの崩壊でスターリン主義、毛沢東主義、ホジャ主義支持をやめ最後の総書記グラント・モーガンは国家資本主義説
を展開。反対派は1993年毛沢東派がアオテアロア共産党を結成。これはトロツキズムに移行。
 1994年党は国際社会主義者組織(トロツキスト)ISOと合流し社会主義労働者組織SWOとなる。しかし以前のISO派は
国際社会主義者組織を再結成、SWOは社会主義労働者となる。社会主義労働者国際社会主義潮流に参加、2007年
メーデーでベネズエラ革命を支持。
 1990年代中期からマルクス主義統一組織アオテアロア共産党の合同の話し合いが行われている。

 社会統一党はいくらか労働組合運動に影響をもったが、しかし議会に議席をもつことはできなかった。
 ときにはよりまし悪として労働党を支持した。
 指導者のケン・ダグラスは1999年までニュージーランド労働組合評議会の会長として15年間にわたりニュージーランド労働組合
運動を率いてきた。彼は1970年代、1980年代に選挙に立候補したが100票を越えることはなかった。
 のちに彼は右傾化し、エアー・ニュージーランドとニュージーランド郵便の幹部などになった。
 一方別の指導者のビル・アンダーソンはノーザン運転手組合や全国配送組合の会長を務めた。
 また社会統一党の後継組織のアオテアオラ社会党を率いた。かれは生涯活発な活動家であった。
 社会統一党は今は解散しているが1990年分裂したアオテアロア社会党は現存している。

社会党NZSP)
 1901年、マルクス・エンゲルスの著作を広めるため結成。他の多くの社会主義者と比較し、比較的穏健であったがほとんど具体的
成功はなかったが、ニュージーランドの社会主義運動にかなりの衝撃を与えた。
 1916年ニュージーランド労働党に合体。
 党はウィリアム・ランステッドの週刊誌によって勧誘された約190人の英国社会主義者移民であるクラリオネットのメンバーによって
結成された。
 当初の目標は社会主義植民地の確立であった。
 ウェリントン支部は1901年7月に、クライストチャーチ支部は1902年1月結成。
 主な著名な人物はフレデリック・クック、エドウィン・J・ハワード、トム・マン。
 1903年までロバート・ホッグは党誌公共福祉(コモンウィール)をウェリントンで発行。
 1908年4月までに党員は3000人に増加。

 別のグループがニュージーランド社会党SPNZを1930年に結成し、これはニュージーランド国際社会党となった。
 この党は革命的かつ反レーニン主義の党で英国社会党SPGP(1904年結成)と国際社会主義運動に加盟。
 この党は1996年の選挙に候補をたて27票獲得。

共産主義者同盟
 1969年、ウェリントンのビクトリア大学生が結成。当初は社会主義行動同盟。第4インター統一書記局USFI参加。
 ベトナム戦争抗議運動である程度の大衆的活動を行う。1980年代の米国SWPのトロツキストとの分裂でこの組織も
USFIから離れ、これに従わないグループは追放ないし離脱。このとき共産主義者同盟と名を変える。
 SWPの開拓者潮流と関係する。選挙に候補を立てるが100票程度しか獲得できない。

 トロツキストはそのほかに1972年結成のスパルタクス同盟に起源をもつ1995年結成の共産主義労働者グループなどが存在。 
 スパルタクス同盟は1992年革命的共産主義者インターナショナル同盟と合同し労働者の力を結成。

労働者党
 2002年、反資本主義連合として結成。
 2002年のニュージーランド総選挙での候補支援のため親毛派の当初の労働者党と親トロツキスト革命グループの選挙連合
として結成された。党は登録されず比例選挙には参加できなかったが4名の候補を立てた。
 2004年両者合同して革命的労働者同盟となる。その後労働者党を出版物で使用。
 2005年には8人の候補をたて582票獲得。
 2007年選挙では4名を市長選にたてた。全国では4705票獲得、うち2101票はレベッカ・ブロードであった。

連合
 連合は1991年末、元労働党政治家ジム・アンダートンが結成した新労働党、最古の民主党(元社会信用党)、マナ・モトゥハケ
の4党の連合によって結成された。
 連合は無料教育、無料健康管理、失業削減、福祉国家維持を強く支持。
 また女性の権利、環境主義、マオリの権利を強く強調。非核政策支持でアフガニスタンやイラクのような攻撃的軍事行動参加に反対。
 民主党は1953年結成の社会信用党社会信用は生産の目的は消費であるから生産は消費者の利益に仕えるべきとする:
クリフォード・ダグラスの1924年著作)が起源で1985年民主党となった。
 マナ・モトゥハケは1979年労働党のマティウ・ラタが結成したマオリの政党。2004年新しくマオリ党が元労働党のタリアナ・トゥリア
により結成されメンバーがこちらに移行し2005年登録解消。

 1989年に労働党を離れるまでアンダートンは労働党議員のなかで最も党の新路線に批判的であった。
 財務大臣のロジャー・ダグラスに率いられ労働党は選挙運動での約束と対照的に経済自由化、自由貿易、国有資産の私有化の
急進政策を採用。これは公的部門と一般の党員には非常に不評判であったが、首相のデイヴィド・ランギは有効な拘束がとれず、
ダグラスとその同盟者は改革を進めた。アンダートンは党権力の強い圧力にもかかわらず、この手段に反対投票し、離党した。
 彼は1990年選挙では1989年結成の新労働党で議席確保に成功。彼は労働党を離党して議員を維持した最初の人物であった。
 新労働党には同じ労働党のマット・ロブソンライラ・ハレフィル・アモスマット・マカーテンや元共産党員のブルース・ジェソン
なども参加。
 新労働党は1990年の選挙では全選挙区に候補を立て5.16%を獲得したがアンダーソンしか議席確保できなかった。

 1991年12月に新労働党民主党マナ・モトゥハクが公式党として連合結成に同意。
 これで左派経済、環境主義、マオリ問題の3本柱が確立された。
 連合結成後、国民党からの小分裂グループ自由党が参加。
 1992年のタマキの補欠選挙で保守国民党指導者ロバート・ムルドゥーンに奇跡の勝利、更にオークランド議会の支配権を獲得。
 これにより連合は主要政党を脅かす重要な地位を獲得。
 1993年選挙では18%を獲得したが2議席しか獲得できず、アンダートンとサンドラ・リー・ヴァーコマナ・モトゥハケ)が議席獲得。
 1996年選挙では10%を獲得し新選挙制度(99から120議席に増加)で13議席確保。
 ニュージーランド1番国民党が連立を組み、労働党と連合が反対派となった。
 新たにヘレン・クラーク率いる労働党はロジャー・ダグラス路線から離脱し、ダグラスたちは離党しACT党を結成した。
 1997年緑が別々のほうがよいとして連合離脱を決定した。
 新労働党と自由党は解散し、民主党マナ・モトゥハケが別の党として連合を構成した。
 1999年選挙では8%で10議席となりの支持(5.16%で7議席)で労働党と連立政権形成し、アンダートンが副首相となった。
 しかし低支持率で党内危機が発生し始めた。議員に対し党員は労働党支持を好まず、議会指導者アンダートンと党議長
マット・マカーテンに亀裂が発生。
 アンダートンらは2002年進歩党を結成。ライラ・ハレらの議員は連合に残留、民主党はアンダートンに従い、マナ・モトゥハケ
とどまった。
 2002年選挙では連合と進歩党は互いに争い連合は1.27%で議席を失い、進歩党は1.7%で2議席獲得、緑党が7.0%で
9議席獲得。
 選挙後マナ・モトゥハケは連合離脱、連合は構成政党がなくなり連合メンバーだけになった。
 2005年選挙についてマオリ党あるいは緑支持、選挙区だけと党内で意見が分裂、結局、名簿だけで参加し0.07%しか獲得
できなかった。その後2008年選挙のため組織再建に努力。
 進歩党は2005年選挙で1.16%、1議席(アンダートン)となった。
 2008年選挙は1909票、0.08%獲得。
 2011年選挙ではアンダートンは立候補せず引退。連合は1069票、0.05%。民主党は1432票、0.07%。


アオテアロア・ニュージーランド緑党
 1990年価値党残党と他の多くの環境主義組織が合流し現代緑党結成。
 これで1990年選挙で6.85%獲得(議席0)。
 1991年、緑は連合の協同設立者となる。1996年選挙で連合の一部としてジャネット・フィッツシモンズロッド・ドナルド
フィルダ・バンクルを議会に送り込む。
 1997年、連合から独立して選挙に臨むことを決定、これで連合と緑でメンバーの出入り発生。
 スー・ブラッドフォードキース・ロックらは新労働党から連合経由で緑に移行。
 1999年選挙で5.16%、7議席獲得、この選挙後労働党連合が連立、緑はあとから支持決定し、エネルギー・環境問題で
予算枠確保。
 2002年選挙で7.0%、9議席獲得、しかし労働党統一未来の支援で進歩党と連立し、緑は政権から除外されるが政権は時々
緑の支持を得る必要があり、これで政策形成に関与。
 2005年選挙では5.30%、6議席獲得。統一未来ニュージーランド1番の拒絶により政権から排除される。
 男女共同指導者制をとりロッド・ドナルドの死後、ジャネット・フィッツシモンズラッセル・ノーマンが共同指導者。
 2008年選挙は6.72%、9議席獲得。
 2009年共同指導者がジャネット・フィッツシモンズからメティリア・トゥレイに代わる。
 2011年選挙は10.62%、13議席獲得。
 2014年選挙は10.02%、13議席。
 男子共同指導者ジェームズ・ショー
 2017年選挙は6.27%、8議席。労働党とニュージーランド第一党の連立政権を支持。
 2018年女性共同指導者マラマ・ダヴィドソン。

価値党
 1972年、ウェリントン・ヴィクトリア大でトニー・ブルントらが結成した世界最初の全国的環境政党。
 マルクス・レーニン主義小政党とパンとバターの中道左派労働党に疎遠観をもった新左翼に訴えた。
 半ユートピア的平等でエコロジカルな持続可能社会を目指す。政権党への反対主義でなく選択政策の提案に関心をもつ。
 価値党の政策は反原発、ゼロ成長、中絶、ドラッグ、同性愛法改革を含む。
 1972年、1975年、1978年選挙に参加、2.0%、5.2%、2.4%獲得するが議席は確保できなかった。
 ゼロ成長思想は現実のゼロ成長での失業、インフレにより批判的投票者はロバート・ムルドゥーンの国民党を好んだ。
 選挙結果で赤い緑と原理主義者の内部分裂発生。これで指導者のトニー・クノウィスキーは辞任し、銀行家としての成功の道へ転進。
 1990年残党はアオテアロア・ニュージーランド緑党に合流。
 その主な活動家はジャネット・フィッツシモンズロッド・ドナルドマイク・ワードなど。

ニュージーランド労働党
 労働党は初期の数多くのグループ(そのうちの最も古いものは1901年結成)の合同による。
 これら種々のグループの単一政党への合同過程は異なるグループの緊張が強く困難であった。
 20世紀はじめのニュージーランド労働者階級の急進派は1901年結成の社会党で代表された。
 より穏健な左派は一般的には自由党支持者であった。1905年自由党路線に不満な労働者階級政治家グループは
独立政治労働同盟を結成し、議会に議席(デイヴィド・マクローレン)を得ることができた。これでニュージーランドの左翼政党の
基本分離路線が確立した。
 社会主義者は革命的で戦闘的傾向となり、穏健派は漸進的改良に焦点を置いた。
 1910年独立政治労働同盟は現代の党と異なる労働党の再結成に乗り出した。
 1911年にはジョン・ロバートソンが議席を得た。
 しかし間もなく新組織の指導者たちは左派協力を推進するには更なる努力が必要と統一協議会を組織した。
 社会主義者は出席を拒絶し、何人かの独立労働活動家は同意した。
 1912年、統一労働党が生まれた。
 その後間もなく、労働運動は1912年、労働組合運動の急進派によって推進されたワイヒ・鉱山ストライキに出会った。
 運動は支持派と急進派反対派に分裂し、結局、ウィリアム・マッセイの保守党政権によって力で鎮圧された。
 ストライキの余波の間、運動の分裂を終焉させる推進力があり、統一戦線が結成され、他の統一協議会が要求され、今回は
社会主義者も出席した。
 その結果2つの主要な政党、強硬路線の社会党と穏健な統一労働党が統合し1913年、社会民主党が結成された。
 社会民主主義者は急速なあと押しを得、結成のすぐあとで補選で勝利しパディ・ウェッブジェームズ・マッコムが議会に入った。
 同年港湾労働者と鉱員ストで穏健派はストを非難し、急進派はストを支持、ストはまたもマッセイによって強権的に鎮圧された。
 1914年選挙では労働者組織間の協力はできなかったが、ストライキへの豪腕返礼と第1世界大戦勃発で労働者票は強化され、
社会民主党でパディ・ウェッブジェームズ・マッコムが議席維持、統一労働党残党も3議席獲得し労働志向独立派のジョン・ペイン
当選した。6人は議会で協力し統一労働党のアルフレッド・ヒンドマーシュが事実上の指導者となった。

 すべての統一労働党が新組織を受け入れたわけではなく、あるものはその名で継続した。しかし徐々に社会民主主義者とULP残党
の違いは減少し、1916年他の集会が開催された。今回はすべての労働運動グループが統一に同意し、現代労働党が結成された。

 ほとんどすぐに新労働党は第1次世界大戦で起こった徴兵に関するとげとげしい議論に巻き込まれた。
 労働党は強く徴兵に反対し、多くの指導者は投獄された。
 これにより党は不安定状態に脅かされたが結局生き延びた。
 1919年の統一党としての真の意味で本当の最初の選挙で労働党は8議席を得た。政権党の改革党は47で自由党は21であった。
 労働党からはより戦闘的分派(種々の社会主義政党を結成)が分裂したが、急進社会主義路線を維持した。
 労働党の土地使用権政策は国家からの永久貸与制度で土地転移はすべて国家経由によるものであった。
 これは投票者に不評で1920年代には他の急進政策とともに除かれた。
 1922選挙では17議席獲得、1925年選挙は12議席に減少したが自由党(11議席)を追い越し第2党になった。
 1928年選挙は改革党と統一党(旧自由党残党)がともに27議席でどちらも労働党の支持なしには政権がとれず、
労働党は統一党を支援し、改革党の5期政権を終焉させた。
 大不況で労働党の人気は上昇し、これが労働党と統一党との間に緊張をもたらした。
 統一党の経済政策を労働党は労働者に敵対的とみなし、2党の協定は崩壊した。
 統一党は改革党と連立政権を組み、労働党は反対派になった。
 1931年選挙では労働党24議席、2党連合51議席で連立は維持されたが、経済政策の失敗で徐々に大衆の不満を買い、
1935年選挙で労働党は53議席(連合は19議席)と大勝した。
 初期の労働党の思想堅固者はオーストラリア生まれであった。ハリー・ホランドマイケル・サヴェッジボブ・センプルパディ・ウェッブ
クラレンス・スキナーマベル・ホワードヒュー・ワットなど。

 1935年、マイケル・サヴェッジが首相となった。政府は社会福祉制度の再建や国営住宅制度創設などの諸策をすぐとった。
 サヴェッジラタナ(マオリの政治運動)の2名の議員と連合を結んだ。
 サヴェッジは労働者階級に人気があった。反対派は労働党の左派政策を攻撃し、自由企業と重労働の侵食を非難した。
 改革党と統一党は合同し1936年、国民党を結成した。
 労働党は内部反対派にも直面した。党は初期の急進主義から徐々に離れていった。
 党の最初の指導者で教条主義者のハリー・ホランドが死亡し、党史に転機を迎えた。
 社会信用理論と社会主義の混合見解者のジョン・リーが党指導部を批判し追放され民主労働党を結成したが党は成長しなかった。
 1940年サヴェッジが死亡し、ピーター・フレイザーに代わり、彼は長く(1940−1949年)首相を務めた。
 フレーザーは第2次世界大戦の間ほとんど首相を務め、戦後は物資不足と産業問題で不人気となり、1949年選挙で国民党に
46議席対34議席で敗北した。1957年選挙で僅差(41議席対39議席)勝利しウォルター・ナッシュが政権に返り咲いた。
 支払いバランス改善のため酒、タバコ増税を行い不評を買い1960年選挙で敗北。
 1965年若いノーマン・カーク(1923年生)が指導者となり、1972年選挙でようやく勝利(55議席対32議席)。
 カークは勢力的に新政策を実施、特に外交ではフランスの太平洋での核兵器実験と南アフリカのアパルトヘイト制度を強く批判。
 しかしカークは体が弱く、1974年死亡。ビル・ローリングがとって代わったががカークほどのカリスマ性がなく1975年選挙で
ロバート・ムルドーンの国民党に敗北。1978年、1981年と得票率では勝ったが議席で敗北。
 ローリングからデイヴィド・ロンギに交代し1984年選挙で勝利(56議席対37議席)。
 国民党政権が隠していた財政危機が露見。これは1986年の憲法改正にまで至った。
 1987年選挙にも勝利、しかし閣内に経済政策で分裂発生。自由市場論者の財務相ロジャー・ダグラスに批判がおき、
労働組合評議会からも党は批判された。
 ジム・アートンは離党し新労働党を結成。
 結局1988年ロンギはダグラスを辞任させ、間もなくロンギも辞任、ジェフリー・パルマーに代わった。しかし労働党の伝統的支持者
の不満を解消できずマイク・ムーアに代わった。1990年選挙は67対29の1935年最初の政権以来初の大敗となった。
 ムーアからヘレン・クラークに代わり国民党のジム・ボルガーの反対派になったが、初期の強い左派立場に戻ることはなかった。
 1996年の新制度での選挙ではどの党も過半数をとれず、中道のニュージーランド1番国民党と連立を組んだ。
 この連立は不安定で間もなく崩壊し、国民党少数政権となった。
 1999年選挙で労働党は最大党(120中49議席)となりの支持で連合とのヘレン・クラーク連立政権で政権に復帰した。
 連合の分裂で数ヶ月選挙が早めれられた2002年選挙で労働党は勝利し、進歩党との連立形成。
 2004年初期、磯辺(渚)と海底問題(マオリが所有権主張)の政策で党が分裂、タニア・トゥリアマオリ党を結成。
 2005年選挙(50議席獲得、国民党48議席)後、中道右派の統一未来ニュージーランド1番の閣外支持で進歩党(1議席)との
連立政権形成、緑党も限定支持。ヘレン・クラークは1999年からの長期政権を維持。
 2008年選挙は33.99%、43議席で国民党の44.93%、58議席に敗北し、政権を失い指導者はフィリップ・ゴフに交代。
 2011年選挙は27.13%、34議席と更に後退し国民党は47.99%、60議席獲得。
 指導者がデイヴィッド・シアラー(元国連職員)に交代。2013年指導者はデイヴィッド・カンリフに交代。
 2014年選挙は24.69%、32議席。国民党48.06%、61議席。党首アンドリュー・リトルの交代。
 2017年党首ジャシンダ・アーダーンと交代。
 2017年選挙は36.89%、46議席。国民党44.45%、56議席、第一党7.20%、9議席、緑6.27%、8議席。
 ニュージーランド第一党と(緑党の支持で)連立政権形成。ジャシンダ・アーダーンが37才で女性首相となる。

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