タン・マラカ Tan Malaka(1896又は1897.6.2−1949.2.21)

 タン・マラカはインドネシアの民族主義活動家であり共産主義指導者であった。
 オランダ東インド植民地政府とインドネシア民族革命後国を支配する共和主義者
スカルノ支配の双方の強い批判者で、またしばしばインドネシアの最初の急進的
政治政党インドネシア共産党の1920年代と1940年代の指導とも衝突した。
 (戦後の共産党の正史は彼を1926−27年蜂起に反対した「裏切り者」「トロツキ
スト」として断罪している。)

 人生の大部分は政治的局外者で、タン・マラカは人生の大部分をインドネシアからの
国外追放で過ごし、いつもオランダ当局とその同盟者による逮捕に脅かされた。
 この周縁性にもかかわらず、しかし彼は東南アジアの反植民地運動と国際共産主義
運動の結合での鍵となる知的役割を演じた。
 彼は1963年のインドネシア国会決議で”民族革命の英雄”と宣言された。


【初期の人生と教育】

 ミナンカバウ民族集団の一員として、タン・マラカは1896年または1897年の6月2日、スマトラ西部のスリキSuliki
のバンダン・ガダンPandan Gadangのナガリ(村)に生まれた。
 彼の名前はダトゥク・イブラヒム・ゲラル・スタン・マラカDatuk Ibrahim Sutan Malakaであるが、母の
貴族的背景を受け継ぐ名誉ある名であるタン・マラカとして子供のときも大人になっても知られた。

 1908年から1913年(12から16歳)までミナンカバウ文化の知的中心であるオランダ植民地政府によって設立
されたブキティンギ(Fort de Kock)の教員養成学校(Kweek school)に通った。
 (Mrazek:彼はナガリの長老によってここへ送られ、これがタン・マラカのランタウの始まりであった。)
 ここで彼はインドネシア人生徒に教えるはずのオランダ語を習い始めた。
 1913年に彼はナガリの長老からオランダでさらに教育を受けるための貸し付けを受け、そのときから
1919年まで彼はハールレムの王立師範学校に学んだ。

 彼が共産主義および社会主義理論を学び始めたのはこのヨーロッパ滞在(6年間のオランダ滞在)の間であった。
 そしてオランダとインドネシア学生の両者との影響によりインドネシアは革命によりオランダ
支配から自由にならねばならないと確信するようになった。
 彼の自伝でタン・マラカはロシア革命を政治的覚醒と資本主義、帝国主義と階級抑圧の結び
つきの増大する彼の理解として引用している。

 彼はオランダで重い結核になり、それを冷たい気候と不慣れな食事のせいにしている。
 これが彼の仕事をしばしば妨げた彼の生涯の問題の始まりであった。

 (Mrazek:彼は肉体と精神の苦悩から活力、力を評価するようになる。
 この時期タン・マラカはロシアにおける共産主義革命に熱狂するとともに、ドイツ文化、特にその
力強さをも評価している。
 1947年にいたっても彼は哲学ではニーチェが正でルソーが反でマルクス・エンゲルスが合であると書いている。)
 (健康を害し、勉学への意気込みも挫折していき、やがて下宿した鉄鋼労働者家庭の貧しい暮らし振り、同宿ベルギー
人社会主義者の影響、植民地学生に対する宗主国の厳しい民族差別、第一次大戦によるヨーロッパ社会の激動は自ら
被支配民族の息子であることを自覚させ、祖国の現状へと彼の目を開かせる。
 なかでも決定的影響をあたえたのはロシア革命の勝利であった。
 かつてニーチェにひかれ超人たらんことを夢みた彼はいまや資本論を読みふけり、オランダ人相手に植民地論争を
挑んでミスター・ボルシェビキと呼ばれる青年に変わっていた。)

【共産党の勃興】

 彼のオランダでの勉強は終わり、1919年11月、タン・マラカはインドネシアに戻った。
 彼はスマトラの北西海岸、メダン近くのスイス人とドイツ人所有タバコ農園の契約苦力(クーリー)の
子供の教育の職に就いた。
 (東スマトラ、デリのタバコ農園でヨーロッパ人待遇で職を得る。)
 彼のスマトラ滞在の間に、彼は最初ののちにインドネシア共産党PKIとなるインド諸国社会民主連合ISDVの
仕事を始め、ISDVの新聞に彼の最初の文章を載せた。
 タン・マラカは農園のヨーロッパ人管理者と彼の学生の授業内容、地方新聞に書いた自由な政治論評、そして
彼の労働組合活動家としての仕事、特に1920年の鉄道労働者のストライキについてしばしば衝突した。

 スマトラでの彼の地位に失望して、(オランダ留学中の借金の返済という就職の所期の目的も果たしたので)
1920年2月末彼はジャワに向けて去った。
 彼は最初ジョグジャカルタに滞在し間もなく民族主義組織サレカット・イスラムSIのための国民学校設立の
要請によりセマランに移った。
 後にジャワの他の多くの都市にも創られたこの学校は学生に民族的誇りを教え込むに有効な教育を
与えるためSIによって創られたのものであった。
  (当時ジャワではサレカット・イスラムSIとPKIが主導権争いをしていた。このようななかで1921年3月の
ジョグジャカルタのSI全国会議でPKI初代議長スマウンと知り合い彼に請われて中部ジャワ・セマウンに同行する。
 彼はここでPKI指導下のSIの学校運営をまかされ大成功を治める。)

 タン・マラカ滞在中のセマランは民族主義者と共産主義者の政治の主要な中心となり、彼はすぐにそこの
政治的仕事に深く関わるようになった。
 彼はいくつかの職業組合に指導的役割を保持し、いくつかの職業組合とPKI出版物のために熱心に書いた。
 彼の最も顕著な指導的役割は1921年12月に生じた。彼はPKIの議長に選ばれた。(1922年3月まで)
 (学校運営の成功、彼の党機関紙への”ソヴェートか議会か”の発表は彼の実力を印象つけ、更にスマウン、
ダルソノらの国外追放でPKIはヨーロッパ流の理論を身につけた新しい指導者を求めていた。)
 彼の指導の短い期間、PKIはいくつかのストライキの間労働者を支援することで職業組合との関係を作り出す
ことに精をだした。
 (党議長として彼は決定的な対立を迎えていたSIとの関係修復に努めた。)

 タンマラカのPKIでの顕著な役割は植民地政府により破壊活動と見なされた。
 彼は1922年2月バンドンで植民地政府により逮捕され、3月24日オランダに国外追放された。
 (チモール島流刑を示されるが国外追放を希望した。)

【国外追放】

 タン・マラカのオランダ到着での最初の活動のひとつは1922年の議会選挙のオランダ共産党CPH名簿の
第3番目候補に搭載されることであった。
 彼はそれまでにオランダの官職に立候補した最初のオランダ東諸インド国民であった。
 彼は実際に選出されることを期待しなかった、そして予期せぬ強い支援を受けたにもかかわらず実際
議席を勝ち得なかった。なぜならそのときとられていた比例代表制度のもとでは、彼の第3番目の位置
では選ばれることはほとんどありえなかったから。
 彼の選挙での予定された目的はそのかわりインドネシアでのオランダの行動について言及する演壇を
得、CPHがインドネシア独立を支援するように説得することを働きかけることであった。

 選挙結果が発表される前に、タン・マラカは(Mrazek:彼の後継PKI議長のダルソノに会うため)ベルリンに
数ヶ月移り、そしてついで1922年の10月までにモスクワに移った。
 ここで彼は共産主義インター(コミンテルン)の政治と深くかかわるようになり、ヨーロッパの共産党は
植民地アジアの民族闘争を支援すべきだと活発に主張するようになった。
 (1922年11月のコミンテルン第4回大会にPKIを代表して出席、”東洋問題についてのテーゼ”の討議に参加、
ここで汎イスラム主義を敵視するコミンテルンの態度を批判し、民族解放闘争におけるイスラムの革命性を強調し、
共産主義者とイスラム教徒の連帯を訴えた。植民地解放を第一とする彼の主張はヨーロッパ諸国の共産党代表から
冷ややかにむかえられたが、その強烈な個性と論客ぶりはジノヴィエフ、ラディックらに認められる。)
 (Mrazek:会議での誰に対しても講義するような彼の傾向は敵をつくった、同時にタンマラカが国際運動で突然
有名になったことに対しPKIのメンバーには嫉妬をもったものもいた。)
 彼は恐らく1923年6月のコミンテルン執行委員会でコミンテルンの東南アジア責任者に指名された。
 彼の最初の仕事のひとつはコミンテルンに対して国の政治と経済について記述したインドネシアについて
の本を書くことであった。この本は1924年に出版された。

 コミンテルンの指示を手にして、彼は1923年12月、中国の広東に移った。
 (ここで孫文と会いその人柄に強い感銘を受けている。)
 タン・マラカの仕事は英語の新聞の発行も含んでいたが、その仕事は困難なことが判明した。
 なぜなら彼はほとんど英語を知らなかったから、そしてローマ文字の印刷所をみつけることも困難であった。

 1925年7月、タン・マラカはフィリピンのマニラに移った。そこで彼は新聞の仕事を見つけた。
 同時期、PKIは権力を得るため直ちにインドネシアで反乱を起こす予定でいた。
 しかしそれは植民地政府によりはかない敗北となった。
 タン・マラカはこの行動に強く反対した。
 彼には革命を準備できない弱い党の貧弱な戦略と感じられた。
 彼は自伝ではフィリピンでの彼の場所からのインドネシアの出来事についての情報を見つける
ことの不可能さとPKIの指導への影響の欠如についての不満を述べている。
 コミンテルンの東南アジア代表として、タン・マラカはPKIの計画を拒絶する権限をもつことを議論した。
 主張はある以前のPKIメンバーの回顧のなかで否定されている。
 同時に彼は実際何人かの国内のPKI指導者に武装反乱は党の最善に利益にならないことを
説いている。
 しかし西ジャワと西スマトラのPKI指導者は突っ走り、オランダ政府はそれを口実にPKIを精力的に
弾圧し、幾人かの指導者の処刑も行った。

 一方1926年12月、タン・マラカはバンコックに旅した。そこで彼は新党インドネシア共和党PARIを設立した。
 コミンテルンから距離を置いたばかりでなく党の宣言のなかでPKIを批判した。
 PARIは実際国内でささやかな党員しかもたなく、決して大きな組織には成長しなかった。
 しかしPKIは地下に潜行し、それは1920年代末にはインドネシアの即時独立を公然と要求する唯一の
組織であった。
 タン・マラカは1927年8月にマニラに戻ったが、すぐにオランダの要請でアメリカ警察に逮捕された。
 彼はフィリピンへの不法入国の罪に問われた。
 彼はフィリピンの民族感情の糾合点となり、大学は抗議のストライキを実行し、フィリピン政治家は
彼を守るため資金を集めた。
 彼はホセ・アバド・サントスにより弁護される予定だった。しかし裁判を受けないかわりに出国に同意した。

 船でフィリピンを去るに際し、彼は中国に上陸すると同時にオランダにより再逮捕されることを予期した。
 そこでフィリピン人船員の助けにより、船がアモイの港に停泊している間に脱出し、近くの村に隠れた。
 このあとの数年間の彼の人生の詳細は不明である。彼の自伝にはこの期間大きな空白があり、他の
情報源はほとんど彼の行動を述べていない。
 ションチン村に多分2年間滞在したあと、彼は1929年上海に移った。
 1931年彼は再びコミンテルンのために働き始めた。
 (モスクワから派遣されたアリミンと会いコミンテルンでの活動再開を約束したといわれるが1933年以降は
国際共産主義運動ともインドネシア国内の運動とも完全に接触を断たれた。)
 アビディン・クスノはこの上海滞在はタン・マラカの後の1940年代末のインドネシア革命の行動を形成する
に重要な期間であったと主張する。
 港湾都市は名目上は中国の主権下にあったが、最初はヨーロッパの国々によって都市の商業租界とともに
支配され、そして後は1932年9月の侵略により日本により支配された。
 彼がこの両者の権力の下に中国の圧制を見たことが、他の著名なインドネシア民族主義者が懐柔的姿勢
をとっていたのに対する、彼の1940年代末の日本との協力あるいはオランダとの交渉に反対する非妥協的
位置付けに寄与するとクスノは主張する。
 
 日本が1932年9月上海を侵略占領したとき、タン・マラカは偽名を使用し、中国系フィリピン人を装い
南の香港に逃走した。
 しかしながら到着するやいなや彼は英国当局に逮捕され、数ヶ月投獄された。
 彼は英国法により彼の訴因を議論する機会を、そして多分英国に亡命を求めることを期待していた。
 しかし数ヶ月の尋問のあと彼は単に罪なしに香港から追放されることが決定された。

 オランダの手が届かない場所である追放地としてのいくつかの選択肢の考慮からタン・マラカはアモイ
への帰還を選んだ。
 そこで彼は再び古い友人と関係をもち、探知の及ばない友人の村イウェにつくことができた。
 ここで、彼の健康は数年間衰え、大いに衰弱し、漢方薬治療で結局彼が健康に回復させるまで
数年間病気になった。
 1936年彼はアモイに戻り、学校を始めた。そこでは英語、ドイツ語とマルクス主義理論を教えた。
 1937年までそれはアモイで一番大きな語学学校であった。

 1937年8月、彼は再び南方に進出してきた日本軍から逃れ、まずシンガポール経由でビルマのラングーン
(現ヤンゴン)に一ヶ月旅し、そこで彼の資金はほとんど尽き、ペナン経由で南のシンガポールに戻った。
 シンガポールで彼は教師の仕事を見つけた。
 (約5年間シンガポールの中国人社会で暮らす。)
 日本がマレー半島を占領し、1942年にオランダをインドネシアから追い出したとき、タン・マラカは最終的に
インドネシアにほぼ20年ぶりに戻ることに決めた。

 タン・マラカの東南アジア流浪とチェ・ゲバラの南米バイク旅行を対比する人もいる。

【インドネシア帰還】

 タン・マラカのインドネシアへの帰還は数ヶ月の長い旅とともに始まった。
 スマトラ横断の前に一時、ペナンに留まり、1942年7月、日本占領下のジャカルタ郊外に居を定めるまえに
そのあとメダンとパダンそしていくつかの他のスマトラの都市を訪れている。
 ここでの彼の時間のほとんどはジャカルタの図書館での著述と研究、彼の本マディログMadilogとアスリアASLIA
の仕事に占められている。

 彼のシンガポールからの資金がほとんど尽きたとき、南部西ジャワのバヤの炭鉱の事務員の仕事に就いた。
 そこでは戦争遂行を支援するための日本の管理のもと産出量が非常に増大していた。
 (住友鉱業が日本軍に委託されて経営していた。)
 バヤでは彼はロムシャ(労務者)についての記録を管理していた。
 (*このことが後にタン・マラカに対する日本協力の疑念となる。)
 ロムシャという強制労働者はジャワの至る所から鉱山労働と鉄道建設のため送りこまれた。
 表向きの仕事に加え、彼は病気と飢餓による死亡者数が非常に高かった労働者の労働条件改善の
ため働いた。

【革命での役割】

 第二次世界大戦の終わりを告げる、1945年8月の日本降伏とインドネシア独立宣言のあと、タン・マラカは
バヤを去り、彼の本当の名前を使用し12年ぶりに始めて姿を現した。
 彼は最初ジャカルタに、ついでジャワ周辺を広く旅した。
 この旅の間、彼はスカルノとモハムマド・ハッタはオランダの島々への再支配の企図に対し懐柔的であり
すぎると確信した。
 彼らは日本が去ったことにより独立宣言を行い、インドネシアの指導者と見なされていた。
 自伝のなかで、彼は、ほとんどのインドネシア国民は、スカルノによって特にインドネシア民族革命の初期には
支持されてない立場である即時完全独立のため喜んで戦うという確信を表明している。

 タン・マラカのこの明らかな断絶に対する説明は約140の小さな集団の連合であり、明白にPKIを含まない
”ペルサトゥアン・ペルジュアンガンPersatuan Perjuangan(闘争連合)”に見出されるだろう。
 2、3ヶ月の議論のあと、1946年の1月中旬のスラカルタ(ソロ)での会議で連合が正式に設立された。
 それは”最小限綱領”を採用し、そのなかで唯一完全独立のみが受け入れられ、政府は国民の希望に従わ
ねばならず、外国人所有の農園と産業は国有化されるべきことが宣言された。
 タン・マラカはすべての外国軍隊がインドネシアを立ち去るまでは政府はオランダと交渉すべきではない、
なぜならそうでないと両者は対等に交渉できないからと主張した。

 ペルサトゥアン・ペルジュアンガンは共和国軍同様に国民に支持を広げた。
 軍ではスディルマン将軍がタン・マラカの組織した連合の強固な支持者であった。
 1946年2月、組織はオランダとの交渉の主唱者であるスタン・シャフリル首相の暫定辞任を強い、
スカルノはタン・マラカに支持をとりつけるため相談した。
 タン・マラカは明らかに連合を現実の政治支配に変容させるため、彼の連合内での政治部門との橋渡しを
することはできなかった。
 シャフリルはスカルノ内閣を指導するため戻った。
 この敗北に対して、ペルサトゥアン・ペルジュアンガンは構成集団が強くどんな交渉にも反対したため
共和国政府への不支持を明言した。

 (タン・マラカがインドネシアの政治の舞台に再登場するのは1945年8月17日の独立宣言の直前である。
 本名を伏せたまま急進派の若い民族主義者たち<プムダpemuda>に接触する。
 同年9月以降、英印軍に支援されたオランダの軍事攻勢が始まるなか、武力対抗を目指す急進派への
影響力を次第に強め、一方で独立革命の主導権をめぐって共和国政府上層部への工作を進めた。
 国内に組織基盤をもたない彼の力の最大の源泉は「伝説の革命家」という名声であった。
 タン・マラカが新聞などを通じてインドネシア社会にひろく知られるようになるのはおそらく11月末から
12月初旬にかけてである。
 武装解除を求めて上陸した英印軍と拒否するスラバヤ人民の衝突に端を発した11月の「スラバヤの戦い」は
彼がその存在と革命理論をもって独立革命の表舞台に一挙に登場する機会となった。
 これをもとに独立革命の基本戦略として対オランダ長期武装闘争を提起したパンフレットをまとめた
 これはこの戦いからオランダとの外交交渉による独立達成という方針を打ち出し12月に首相となる
シャフリルへのアンチテーゼとして表されたもので急進派に大きな理論的影響を与えた。
 そして1946年1月、百パーセントの独立を!をスローガンに結成された闘争連合で彼は象徴的存在となる。)

【投獄、解放そして死】

 ペルサトゥアン・ペルジュアンガンの引き続く反対に対して、スカルノ政府は1946年3月、タン・マラカを含む
大部分の連合指導者を逮捕した。
 彼は1948年9月まで獄中にあった。

 彼の拘留の間、PKIは政府の外交姿勢の強固な批判者として姿を現した。
 彼の自伝の翻訳者のヘレン・ヤルヴィスHelen Jarvisはタン・マラカと他のペルサトゥアン・ペルジュアンガンの
指導者はPKIより脅かすことの少ない反対者として解放されたと主張している。
 今に至るまで、タン・マラカとPKIは完全に仲たがいしている。
 彼は党内で1920年代の厳しい批判に対し憎まれており、彼は当時のPKI指導者の戦略判断を信頼しなかった。
 (*トロツキスト問題が彼の評価を複雑にしてると思われる。)

 彼は解放によりムルバ党Partai Murba(人民党)と呼ばれる新政党を形成する仕事で1948年末を
ジョクジャカルタで過ごした。
 ムルバ党は国民の支持をひきつけ以前の成功を繰り返すことはできなかった。
 1948年12月、オランダが国民政府を捕獲したとき、彼は街から西ジャワの田舎に逃れた。
 そこで彼は反共和国政府ゲリラ軍により保護されることを望んだ。
 しかし彼は共和国軍により捕獲され、即座に処刑された。
 多分1949年2月19日であろう。(Poeze)
 (49年2月、ゲリラ戦を指導して東部ジャワを転戦中、クディリ近くでインドネシア国軍に射殺されて
52年の生涯を閉じた。)


【政治信念】

 タン・マラカは共産党の成長はアジア植民地に現れていた多くの民族運動の強固さと本質的に両立する
と信じていた。
 1920年代半ばにはこの立場はコミンテルンとその他の場で多くの議論の的であった。
 共産主義者の主導の範囲内では多くの懐疑があり、最も著名な言明はインド人共産主義者M.N.ロイに
よるものである。
 それはそのような脱植民地化のヨーロッパの中枢国民の労働者階級への影響の関心と同様にこのアジア
の非産業化民族が自治に成功する可能性への懐疑である。

【マルクス主義と宗教】

 タン・マラカは共産主義とイスラムは両立でき、そしてインドネシアでは革命は両者の上に建設されると強く
主張した。
 このように彼はPKIのサレカット・イスラムとの継続的同盟の強固な支持者であり、彼が国外追放の間、PKI
がサレカット・イスラムと絶縁したことに困惑した。
 タン・マラカはまたイスラムは北アフリカ、中東、南アジアの広範囲な労働者階級の反帝国主義、反資本主義
の戦いを統一する可能性をもっていると見なした。
 彼のこの位置は彼を多くのヨーロッパ共産主義者とコミンテルンの指導性と対立する立場に置いた。
 彼らによって宗教的信念はプロレタリア革命の妨げで支配階級の道具と見なされていた。

【地域統合】

 1926年代の大衆行動と1946年代のテーゼを含むいくつかの出版物で、タン・マラカは広範囲な国家の
形成を主唱している。
 それを彼はアスリアAsliaと呼び、オーストラリアと、東南アジアのすべての島々と東南アジアの主大陸を
含んでいる。
 (Mrazek:AsliaはFederation of Asia and Australiaからとられている。これはビルマからフィリピン、オーストラリア
を含む沿海東南アジアより構成されている。この中心はボンジョールからマラカの線である。
 この概念の源泉の一つに彼が1923年南方の土地とオーストラリアに対する共産主義運動の指導権を
与えられたことが考えられる。)
 この国家はそれによりロシアと中国を含む他の巨大社会主義国とそして米国と対等に共存できると主張
している。
 より小さな地理的な規模ではインドネシアに対してスペインと米国に対するフィリピンの独立の戦いを教訓
として引いており、自伝ではインドネシアとフィリピンを同じ地域の南部と北部と記述している。

【牢獄から牢獄へ】

 タン・マラカの最もよく知られた著作は自伝である”牢獄から牢獄へDari Pendjara ke Pendjara”である。

 1947年と1948年のスカルノ共和国政府によって投獄されていた時期にタン・マラカは3巻の著作物を書いた。
 この作品はタン・マラカの政治信念と哲学を記述している理論的章と彼の人生の様々な様相を記述している
伝統的自伝的章が交互している。
 特に第3巻は、闘争に関する鍵となる文書の部分の翻刻と同様にマルクス主義修史とインドネシア独立への
オランダとの戦いの前進での彼の位置への論評を伴う自由な物語的構造をもつ。

【マディローグ】

 マディローグMADILOGは唯物論・弁証法・論理学(Materialism-Dialektika-Logika)からのタン・マラカの
造語である。
 この本は彼の死後1951年に出版された。

 マディローグは西洋の合理主義、論理学、マルクス・レーニン主義から獲得された新しい思考方法であった。
 これは古い、神秘的、観念的東洋の思考方法対する武器として提起された。
 しかしマディローグではマルクス・レーニン主義の術語は使用されているが、社会進歩をもたらすのは階級闘争
ではなく思想の力であった。
 彼は人民の支援を語りそれは教育であった。

 唯物論がマディローグの最初の基礎であるが、彼のそれは西洋の語の意味とほとんど一致しない。
 彼の関心は精神、活力にありこれは永遠のもであった。精神が物質の活力のもとであり、人間が死んでも
物質輪廻によりやがてまた人間の精神に蘇える。
 唯物論は現実的、実践的、柔軟な思考法であり、唯物論的方法は経験され点検された充分な証拠に基づいて
結論を探すことを意味した。

 弁証法は古い受動的知性と戦う概念であった。
 弁証法は人類の思考の止まざる発展と物質世界を変える永遠の思考の力への信念をもたらす。

 タン・マラカの意図は西洋の哲学で東洋の思考方法を訂正あるいは近代化することではなかった。
 西洋の哲学の生まれた諸々の要因は東洋と異なるからそれはさしあたり不可能であった。

 (*ここは全面的にMrazek氏によっている、ただし私の理解力の不足とMrazek氏の個性によりタン・マラカの
理解不足ないし誤解がありうることをお断りする。)

【ゲルポレク】

 ゲルポレクGERPOLEKは1948年5月獄中で執筆された。
 GERPOLEKはGerilya−Politik−Ekonomi(guerrilla, policy and economy)ゲリラ・政策・経済からの造語。
 この書は1945年8月17日の宣言を実現し完全独立を果たすパルチザンの闘いの武器である。

 タン・マラカはまず1945年8月から1948年5月までのインドネシア共和国の歴史を回顧し1946年3月までの
闘いによる勝利の時期(人民戦線指導者の逮捕で終了)とそれ以降の外交交渉による失敗の時期があるとしている。
 ついでインドネシア人民による戦争は支配征服のための戦争ではなく解放の戦争、インドネシア・プロレタリアートの
政治的・経済的独立のための闘いであることを指摘し、この戦争は前進と後退の戦術をとる遊撃(パルチザン)戦で
あると述べ、遊撃戦戦術について語り、遊撃戦が有利に続けばオランダは経済的に苦境に陥り、交渉と平和路線に
戻ればオランダは支配を回復するであろうと述べる。
 オランダの意図は日本とインドネシアの協力と同じような”協力”であり、インドネシア共和国の目標は完全独立であるとする。
 このためには人民戦線は人民政府と人民軍形成を要求すると述べる。
 1947年7月21日以降のオランダの攻撃で人民の生活条件はますます悪化しており、インドネシア人民の経済状況改善
には頭脳委員会だけではだめで人民との協力が必要であるとする。更にオランダへの協力は許されないとする。
 戦争と経済での人民の協力が必要であるとする。

【ミナンカバウとナガリとランタウ】

 ミナンカバウ人は西スマトラを故地としナガリと呼ばれる自立性の強い村を基礎に母系社会を維持し、
ランタウと呼ばれる出稼ぎで知られる進出性に富む、インドネシアでも個性の強い人々である。
 ミナンカバウ人にとってランタウは外部世界を知り、それにより村をよりよくすることを意味した。
 またそれは若者にとってミナンカバウ社会での地位を得る方法であった。
 Rudolf Mrazek氏はランタウによりタン・マラカの政治的個性の形成を説明している。

【タン・マラカとインドネシアの紅はこべ】

 イギリスの女流作家バロネス・オルツィの「紅はこべ」はフランス大革命を舞台とした物語でイギリス貴族が率いる
秘密結社<紅はこべ>がドーバー海峡を渡り革命政府によって断頭台にかけられるフランス王党派救出に現れる
というものである。
 これを翻案した「インドネシアの紅はこべ」と題する5連作の大衆小説が1938年から40年にかけてスマトラのメダン
で出版され人気を博した。
 これはオランダ植民地政府によって祖国を追われた<紅はこべ>を領袖とするインドネシアの民族主義者たちが
1930年代の世界を股にかけて帝国主義とスターリニズム相手に神出鬼没の戦いをくりひろげる「政治的冒険小説」
である。
 物語は半ば史実に半ば荒唐無稽な空想にもとずいている。
 登場人物は主人公<紅はこべ>のほかにインドネシア共産党の指導者スマウン、アリミン、ムソ、ダルソノらが
ロシア風の名前で脇役に配されている。
 <紅はこべ>はタイ、中国、パレスチナ等々活躍舞台に応じてさまざまな偽名を使い分けているが誰であるかは
最後まで明かされない。しかし読者にはこれがタン・マラカであることは容易に理解される。
 前半は人民戦線下のフランス、スペインやパレスチナ、ソ連、イランの時代背景をとりこみ恋をからませた壮大な
活劇でありながら、かつタン・マラカに対する当事者ないしはその周辺しかしりえない情報をも含んでいる。
 物語の背景をなすフィリピン、タイ、ベトナム、インドといったアジアの解放運動、日中戦争、ヨーロッパのファシズム、
スペイン戦争、スターリンによる反対派の粛清、パレスチナ戦争といったものやカルカッタ、上海、パリ、マドリッド
といった都市の細部描写は読者の好奇心を誘わずにはいられない。
 (以上押川氏の論文より)

【タン・マラカと汎イスラム主義】

 ムスリムにとってイスラムがすべてである(国家であり経済であり・・)から汎イスラム主義は民族解放闘争
を意味する。
 それ故、汎イスラム主義はすべてのムスリム人民の同胞愛とすべての抑圧されたムスリム人民の解放闘争
を意味する。
 この同胞愛は全体としての世界資本主義への実際の解放闘争を意味する。
   <1922年第4回コミンテルン会議で>



墓碑銘




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