コーカサスの歴史
[19] アナトリアの歴史
(6)
アナトリアの古代−ローマ期以降
ローマ期
ローマ共和国 BC190−AD27
BC282年までにローマは北イタリアを征服し、
ピュロス戦争(BC280−275)の結果、南イタリアのギリシャ植民地に覇権を
確立した。
まもなくローマは西地中海でカルタゴとの
ポエニ戦争(BC264−146に巻き込まれ始めた。
これら戦争の結果ローマは海外植民地を獲得した。
次のギリシャとの出会いはマケドニアの膨張から生じ、
マケドニア戦争(BC214−148)が起きた。
セレウコス朝がその国境をヨーロッパに拡大するまでアナトリアへの直接侵攻は起きず、BC190年にセレウコスはローマと
その提携者によって粉砕され、地域の東部分に撤退を余儀なくされた。
このあと、西と中央アナトリアの主要勢力はローマの政治的軍事的介入の増加でしばしば戦争をした。
ローマの存在は散発的介入から増加し従属国を、
属州化によって直接支配するようになった。
ローマのアナトリア介入 BC3−1世紀
ローマのアナトリア支配は帝国の他の部分と異なり、統治と組織では手際よかった。
地域での不安定要素の支配はペルガモンとビテュニアの王によるローマへの遺贈によって行われた。
ポエニ(BC264−146)とマケドニア(BC214−148)戦争
第2次ポエニ戦争で、ハンニバルがマケドニアのピリポス5世と提携した時に、東でハンニバルをかわし、西アナトリアで
マケドニアの膨張を阻止するのを助けるためにアエトリア同盟と小海軍を使用した。
ペルガモンのアッタロス1世はロードスとともにローマへ行き、ローマ人のマケドニアとの戦争が必要なことを確信させた。
ローマ将軍ティトゥス・クィンクティウス・フラミヌスはBC197年に
キノスケファラエの戦いでピリポス軍を破っただけでなく、
ギリシャ人にローマが望むのはアナトリアの独立したギリシャ人とギリシャ都市であるといってギリシャ人に希望をもたらした。
セレウコスのヨーロッパ侵攻と西アナトリアからの撤退 BC196−188
フィリポス5世の敗北に、アエトリア同盟はいくばくかの戦利品を獲ようとセレウコス朝
アンティオコス3世に一緒の遠征を望んだ。
アンティオコスは同盟と提携しようとBC192年までにギリシャに進んだ。
これをローマはBC191年、テルモピラエで破り、彼のアナトリアへの撤退を余儀なくさせた。
BC189年、
マグネシアの戦いでペルガモンの
エウメネス2世はローマ勢力と一緒にアンティオコスと戦い、ローマは
アンティオコス3世に決定的に勝利した。
翌年のアパメア条約でペルガモンはタウルス山脈の北のすべてのセレウコスの土地(フリギア、リディア、ピシディア、
パムフィリアとリキアの一部)を与えられ、ロドスは残りを与えられた。(リキアの一部とカリア)
強いペルガモンはエーゲとセレウコス帝国の間の緩衝国としてのローマの利害にあっていた。
しかし、ローマは拡大する地域の統合性を確保するために多くの場合介入を必要とし、たとえばビテュニアのプルシアス1世と
ポントスのパルナケス1世への戦争がそうであった。
第3次マケドニア戦争でのエウメネスのローマ支援のあと、マケドニアの勢力は粉砕され、ローマはもはや強いペルガモンを
必要としなくなり、その弱体化に乗り出し、エウメネスの兄弟のアッタロス2世とプルシアスと交渉し、最近破ったガラティア人を
解放した。
アッタロス2世が継承した時までにペルガモンは衰退していて、最後の王アッタロス3世は王国をローマに遺贈した。
エウメネス3世による短い反乱のあと、ローマのアシア属州となった。
中央アナトリア政治への関与 BC190−17
BC2世紀のポントスとカッパドキアの王国の興隆までアナトリア内陸はガラティア人の時折の侵攻を除いて比較的安定していた。
アリアラテス4世のカッパドキアは始め、ローマへの戦いでセレウコス朝と提携していたが、すぐに考えを変えローマとの関係を
修正した。
息子のアリアラテス5世も父のローマ提携政策を継続し、BC154年のビテュニアのプルシアス1世との戦いに参加さえした。
彼はBC131年に僭称者ペルガモンのエウメネス3世をローマが倒すの支援していて死んだ。
彼の治世は内部抗争で刻印され、そのため彼は復帰のためローマの支援を必要とした。
これ以降、ローマのカッパドキアへの介入は増加し、ポントスとアルメニアに対しカッパドキアを支援し、BC95年に従属国とし、
BC17年に属州とした。
ポントスはマケドニアの脅威が除かれたミトリダテスの治世以来、独立王国であった。
ポントスはセレウコスと容易でない提携を維持し、特にパルナケス1世もとで多くの地域戦争に巻き込まれ、そのいくつかは
ローマの介入をおこさせた。
僭称者ペルガモンのエウメネス3世の反乱鎮圧の時にローマを支援し、ミトリダテス5世とローマの短い協力があった。
これはミトリダテス6世のもとで変わり、彼の攻撃的勢力はアナトリアを一掃し、まもなくローマとの直接衝突をもたらし、結局、
ミトリダテス戦争に至った。
他のアナトリアの主要な王国のビテュニアはローマと、特にその提携者と種々の関係をもった。
最後の君主ニコメデス4世は王国をローマへ遺贈し、ポントスがビテュニアを要求し、ローマとのミトリダテス戦争を引き起こした。
ポントスとミトリダテス戦争BC89−63
ポントスのミトリダテス6世はすみやかに彼の帝国を建設した。黒海沿岸に沿っての国境拡大にあたって、彼はローマの注意を
ひくことを避けた。
ローマは他の問題で一杯で、アシア属州の東の出来事に注意を払うことが妨げられた。
ローマはしかしBC108年にミトリダテスがパフラゴニアをビテュニアのニコメデス3世と分割した時に東に目を向けた。
彼らは撤退というローマの命令を無視しただけでなく、ガラティアに進軍した。
次はカッパドキアでそこにミトリダテスは甥のアリアラテス7世を据えた。
彼は間もなく暗殺された。
彼はローマをなんとか説得しようと試みたが失敗し、ローマはミトリダテスにカッパドキアから出るように命令した。
ミトリダテスはBC89年までに撤退したようであるが、キリキアの総督スッラが、新しいカッパドキア王(アリオバルザネス1世)を
据えるために派遣された。
BC91年までにローマは再び戦争によって(
社会戦争)によって目を奪われて、2つの重大な出来事が起きた。
BC95年にティグラネス大王(BC95−55)がアルメニア王位に就き、結婚によってミトリダテスと提携し、一方、ニコメデスが
BC94年に死亡し、王国を若い息子のニコメデス4世に残し、これで領土拡大の可能性が生じた。
ティグラネスはカッパドキアへ進軍し、アリオバルザネスはローマへ逃げ、ニコメデスは追い払われた。
ローマは警告し、両君主に回復を明示、問題処理にマニウス・アキリウスとマンリウス・マルティムスを派遣し、ポントスと
アルメニアは撤退した。
第一次戦争 BC89−84
ビテュニアとカッパドキアはローマ保護下で、ローマに急き立てられ、ニコメデスはポントスに侵攻、これに対し、ミトリダテスは
ローマに文句を言い、自分の力と同盟者を自慢、ローマは宣戦布告し、第一次ミトリダテス戦争が起きた。
ローマは社会戦争(同盟市戦争)に巻き込まれ、最初はBC89−88年には同盟者にうまくいき、フリギア、ミシア、ビテュニア、
エーゲ沿岸の一部、パフラゴニア、カリア、リキア、リカオニアとパムフィリアを奪い、アキリウスは最初の直接対決で敗れた。
ローマのアナトリア支配は粉砕された。
BC88年に更に悪いことが起きた。ミトリダテスは多くのローマ人とイタリア人の虐殺を命じた。
ミトリダテスは小アジアからローマ人を一掃し、ついでロードスを犠牲にしようとして、失敗、彼は次にエーゲ諸島に移動し、
デロスを奪った。
多くのギリシャ本土の国はポントス君主の進軍を歓迎、これの処理に当たったスッラはBC87年までイタリアを出発しなかった。
ミトリダテスは、アケドニアでローマ軍を破った。両者の最終的対決で、スッラはカエロネア(BC86)とオルコメヌス(BC85)の
2つの戦いで勝利しギリシャのローマによる支配が回復。
アナトリアで拡大する反乱に直面し、ポントスは和平を求めた。
ミトリダテスはアシアとパフラギニアを諦め、ビテュニアをニコメデスに、カッパドキアをアリオバルザネスに戻した。
これで彼はローマの提携者としてポントスを支配し続け、ハリス川の南と西のすべての地域を放棄した。
しかしローマ軍は西小アジアを略奪し、リンダクス川でポントス勢力を破った。
これで最終的にミトリダテスはスッラの条件を受け入れた。(ダルダノスの和平)
ミトリダテスは弱い立場で終戦したが、一方でローマは内戦に直面していてスッラも巻き込まれた。
第二次戦争 BC83−81
スッラは内戦に勝利し、ディクタトルとなりアシアの総督にリキニウス・ムウレナを派遣。彼はBC83年にカッパドキアに干渉のため
進軍、そこではミトリダテスがアリオバルザネスを復帰させていた。
両者の攻撃でミトリダテスは何回かムレナを破り、スッラが介入し、以前の状態に両者は撤退。
ローマはこの地域の支配回復のためプブリウス・セルヴィリウスのもとキリキア属州を作った。
第三次戦争 BC75−63
ビテュニアのニコメデス4世が死に、王国をローマに遺贈。
キリキア統治はルキウス・リキニウス・ルクルス、ビテュニアはマルクス・アウレリウス・コッタが任命された。
BC73年までにルクルスが到着、ミトリダテスはパフラゴニアからビテュニアに進軍し、彼の海軍と合流し、コッタのローマ艦隊を
カルケドンの戦い(BC74)で破った。彼は更に進み、キジクスの包囲(BC73)でミトリダテスは敗れた。
ミトリダテスはBC72年、リンダクスとグラニクスの戦いで破れた。一連の海上戦での敗北でミトリダテスはポントスに戻った。
ルクルスは進軍しBC72年にポントスに入った。ミトリダテスはアルメニアに逃げた。
BC69年のティグラノケルタの戦いでティグラネスは敗れた。
しかしBC67年までにポントスのローマ軍はミトリダテスの攻撃をますますうけるようになり、ゼラの戦いでミトリダテスが勝利。
ルクルスはBC67年にマルキウス・レクスと代えられ、彼はキリキアの海賊問題に対処し、東の指揮はアキリウス・グラブリオが
取った。
ルクルスはガラティアに撤退し、ミトリダテスは速やかに失った地域を回復した。
一方、ローマはBC68年にアナトリアの統治制度をプラエトル制に変更。
アナトリアの司令官はポンペイウスとなった。BC66年にリクスの戦いでポンペイウスはミトルダテスに勝利。
ミトリダテスはコルキスに逃亡。ポンペイウスはティグラネスに目を向けた。
パルティアに追われていたティグラネスは降伏し従属国となった。
ミトリダテスはBC63年までに死亡し、ローマはポントスをキリキアとローマ属州とした。アルメニアを征服してポンペイウスは
コーカサスに移動。
BC65年までにアルバニアと休戦し、イベリアとコルキスを一掃。
彼はポントスとビテュニアの属州組織に取り掛かり、BC65−64の間にアルメニアの王国を従属させた。
BC64年に、彼はカッパドキアとキリキアを通ってシリアに進軍、シリアを属州に併合し、実質的にアンティオキアのセレウコス帝国を
終焉させた。

ポンペイウスが分割したアナトリア BC63年
アナトリアの属州化 BC133−AD114
ルクルスとポンペイウスのミトリダテス戦争での東への膨張の軍事的成果は元老院の想像以上であった。
ペルガモンの
アッタロス3世は王国をBC133年にローマに遺贈し、これは
アシア属州となった。(BC129年あるいはBC133)
その境界は、BC78年に東に南西地中海沿岸に沿って隣の
キリキア属州を形成することで強化された。
ビテュニアのニコメデス4世の遺贈(BC74年)で北東に黒海沿岸に沿って隣を加え、これは東隣のポントスと結合して
ビテュニアとポントスをBC64年に形成した。
ポンペイウスは東に後にその年にシリアを併合した。
(*ニコメデス4世の遺贈が第3次ミトリダテス戦争を引き起こし、その結果、ポントスはローマに征服される。)
ポンペイウスはBC62年末にアナトリアを去り翌年、勝ち誇ってローマにもどった。
このようにポンペイウスの時にローマの属州はアナトリアの西、北と南を覆った。
中央のガラティアは
ブロギタルス(BC63−50)によって従属国として支配され、始めは義理の父デイオタルスと、ついで息子の
アミンタスと共同統治された。アミンテスは始めリカオニアを所有し、ついでイサウリア、ピシディアとカッパドキアを付け加えた。
BC25年にアミンテスはタウルス山脈で敵を追っていて死に、ローマは彼の土地を新しい属州(
ガラティア)として自分のものとし、
西と中央アナトリアは完全にローマのものとなった。
東の以前のアルメニア王国は依然地域支配のままであった。
多くのポントスはビテュニアとポントスの新しい属州となったが、東はポントスを含む従属国に分割し、これは最後の王
ポレモン2世(38−64年)が皇帝ネロによって退位させられ、ポントスは属州制度に吸収された。
カッパドキアは独立従属国として継続し、一時ポントスと統一され、皇帝ティベリウスが最後の君主アルケラウス(BC36−AD17)を
退位させ、同名の属州を形成した。
ミトリダテス戦争のあとアルメニアは従属国として継続し、ローマとパルティアの間で引き裂かれ、やがて114年にトラヤヌスのもとで
属州となった。
キリキアはシリアに吸収されるまで、短期間、別の属州(BC64−47)であった。
ポンペイウスはそれを西タウルス山脈と沿岸平原を越えてシリアと分離するアマヌス山脈までも含めて拡大した。
しかし、そこには依然、北方山脈に面倒な種族がいて誰も征服に成功しなかった。
南西端のリキアは独立していて、43年に属州となり(クラウディウスが併合)、ついでガラティアのパムフィリア地域と一緒にリキアと
パムフィリアを形成した。(74年、ヴェスパシアヌス)
3頭政治と共和国の最後 BC61−27
ポンペイウスが去った年からローマのアナトリア統治は東国境のパルティアを警戒し、時には恐れて見ていたが、ローマの中央統治は
カエサルと西ヨーロッパの出来事に焦点があった。
ローマとペルシャの間で2世紀の衝突が続いた。BC53年に
カルラエの戦いでローマはペルシャ(パルティア)に敗れ、クラッススは
殺された。
パルティアによる散発的シリア侵攻が続き、BC51年にパルティアは大きな逆転を受けた。
しかしクラッススの死で第1次3頭体制(カエサル、ポンペイウス、クラッスス)が揺らぎ、ポンペイウスとカエサルの内戦でアナトリアは
更に不安定となった。
ポントスのファルナケス(BC63−47)はポンペイウスとの協定を破り領土拡大の機会と見て、コルキスと小アルメニアついで
ガラティアに移動した。
ガラティア人はカエサルに訴えたが、ファルナケスは既にBC48年にニコポリスの戦いでローマ軍を撃破し、すべてのポントスを
占領。
カエサルはエジプト遠征から戻り、アンティオキアに上陸、BC47年にゼラでファルナケスと対決し、大いに破った。
ポントスは従属王のもとBC17年まで、ガラティアはBC25年まで続いた。
第2次3頭体制(オクタヴィアヌス、レピドゥス、アントニウス)で、アントニウスは依然として東を統治、そこで彼はパルティアの
更なる侵攻に直面、
パルティアはシリアを占領、BC40−38年にパルティアはカリアまで入った。
この侵攻のあと、パルティアは撃退された。
(BC36年頃、ペルシャ遠征の前段階として、ローマ・エジプト連合軍はアルメニアに侵攻、ついでイベリア、アルバニアを征服。
アルメニアとコーカサスを確保してからアントニウスはアトロパテネに入った。
BC36年8月中までパルティア領深く進軍、2か月の州都包囲の後、撤退し、途中で悲惨な目に合う。*以上アントニウスから)
BC34年にアントニウスとクレオパトラは東方の土地を息子たちに分配しようとして、内戦を引き起こし3頭制は終焉した。
アルメニアはアレクサンダー・ヘリオスに、シリアとキリキアはプトレマイオス・フィラデルフスに与えられた。
アントニウスはBC31年のアクティウムの戦いで敗れ、翌年死亡。
ローマ帝国 BC27−4世紀
プリンキパトス 27−193
アントニウスの死で、レピドゥスは周辺化し、第2次3頭体制は実質的に解消し、オクタヴィアヌスが唯一の権力者となった。
これで共和制が終焉。プリンキパトス(元首制)が成立。
終わりのない戦争が小アジアを荒廃させた。
ユリウス・クラウディウス朝 BC27−DA68
ユリウス・クラウディウス朝はBC27−AD68年にアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロからなり、
ネロは自殺。
アウグストゥスのもとでガラティアはBC25年に公式属州となり、西アナトリアのローマの直接支配を強化、一方、BC27年に
キリキアはシリアに吸収された。カッパドキアとアルメニアは従属国として継続。
ティベリウスは最後の王アルケラウウスの死で、17年にカッパドキア属州を形成。
ティベリウスを
カリグラ(ガイウス・カエサル)が継承、彼は41年に暗殺された。
クラウディウスはリキア同盟を解散させ、43年にリキアを属州に組織化。
ネロは最後の王ポレモン2世を退位させ、ポントス王国の残りの東部分を属州に組織化。
ポレモンは死までキリキアの王となった。
ポントスは3区から構成:西のポントス・ガラティクス、これはガラティアと境し、ガラティアはこの地域に編入;中央の
ポントス・ポレモニアクスは首都ポレモニウム、イリスからファルナキア、ビテュニアとポントスに編入;東のポントス・カッパドキウス、
カッパドキア(小アルメニア)に境し、カッパドキアを編入。
アルメニアはローマとパルティアの間の発火点であり続けた。
ネロのもと36年と
58年に戦争が起き、62年のランディアの戦いでローマはひどく敗れ、妥協がなされ、ローマの承認で、
パルティアの押す
ティリダテスがアルメニア王位についた。

アウグストス時代(BC31−AD6年)、黄:BC31年以前、濃緑BC31−19年、桃:従属国

50年頃、ローマ・パルティア戦争前
4帝とフラウィウス朝の時代 69−96
ネロの自殺で
ユリウス・クラウディウス朝が終わり、69年に、ウェスパシアヌスが
フラウィウス朝を創建するまで不安的期となった。
64年にガルバ、オット、ウィッテリウス、ウェスパシアヌスの4帝があいついだ。
ネロの自殺で
ガルバが継承、7か月で彼は殺され、
オットが継承したが3か月で
ウィッテリウスの反乱にあい自殺。
ウィッテリウスはすぐにウェスパシアヌスの挑戦を受け、敗北、8か月しか持たなかった。
ウェスパシアヌススは
フラウィウス朝(69−96)を創建、
ティトゥスと
ドミティアヌスが継承。
ウェスパシアヌス72年にキリキアの別々の地域をローマ属州に統一した。これらの多くは小王朝であった。
ウェスパシアヌスはまたクラウディウスのリキア属州とガラティア属州のパムフィリア地域から
リキアとパムフリア属州を作った。
ネルワ・アントニウス朝 96−192
96年にドミティアヌスが暗殺され、
ネルワが継承し、
ネルワ・アントニウス朝が創建され、96−192年にネルワ、トラヤヌス、
ハドリアヌス、アントニウス・ピス、ルキウス・ウェルヌス、マルクス・アウレリウス、コンモドゥスが継承。
この時期は比較的平和で、繁栄し、最大領域の一時代であった。
トラヤヌスが114年にアルメニアの属州化を達成。しかしわずか4年間。
2世紀にパルティアとの戦争がまた勃発、戦争は一般的にローマに有利であった。
パルティアはアルメニア王のローマ承認という合意を破った。
トラヤヌスは以前の政策を変え、アルメニアに侵攻、パルタマシリスを殺し、メソポタミアとアッシリアに属州を作り、116年、
クテシフォンを占領したが、
勝利は短く、トラヤヌスはアンティオキアに撤退せざるをえず、117年に死亡。
後継者の
ハドリアヌス(117−138)は東方に固執しなかったが、アルメニアはこの時期、衝突の源であり続けた。
マルクス・アウレリウス(161−169)は就任でパルティアの侵攻に直面、
戦争(161−166)は5年続き、クテシフォンは
再び略奪された。
新しい脅威は
アントニナ疫病(161−169)でアシアに激しく起きた。

117年頃のローマ帝国

2世紀 トラヤヌスのローマ属州
5帝とセウェルス朝時代 193−235
コンモドゥスが192年に暗殺され、
ペルティナクスで193年の
5帝の年となった。
5帝はペルティナクス、ディディウス・ユリアヌス、ペスケンニウス・ニゲル、クロディウス・アルビヌスと
セプティミウス・セウェルス。
ペルティナクス、ディディウス・ユリアヌス、ペスケンニウス・ニゲルは地方総督でペルティナクスは2か月で部下に殺され、
そのほかはセウェルスに敗れた。
セウェルスがコンモドゥス死後の実質的皇帝であった。彼はアフリカ出身(旧フェニキア)であった。
セウェルス朝は193−235年に支配、セウェルスは193−197年に内戦で勝利。
セウェルス朝はセウェルス、カラカラ、ゲタ、
マクリヌス、エラガバルス、アレクサンデル・セウェルスが続いた。
セプティミウス・セウェルス(193−211)は195年にメソポタミアに侵攻し、クテシフォンを包囲。(197年)
カラカラ(198−217)はある程度成功したが、しかし、これらは
マクリヌス(217−218)のもとで失われた。
しかしパルティアは終焉し始めていて、224年によみがえったペルシャ帝国(ササン朝)、東の新しい脅威によって倒された。
235−284の危機の時代 、258−274の分裂、ゴート侵攻(255年)
セウェルス朝の最後の皇帝
アレクサンデル・セウェルス(222−235)の暗殺でアウグストゥスのプリンキパトスが終焉し、
3世紀の危機(235−284)に入り、これは約50年続いた。少なくとも51人が皇帝位を主張し、25人が権力に就いた。
多くは著名な軍人で、ほぼ25人が元老院の承認を受けている。
ほとんどは暗殺されるか、国境に迫った敵との戦いで死んだ。
プリンキパトスから
ドミナトスへの変化は古典古代から晩期古代への推移と一致する。
ローマ帝国は東と北国境でますますの圧迫を経験し始めたが、東国境の防衛に集中するようになった。
軍人皇帝時代(235−284):33年で約14皇帝、僭称者含めると、約26名。
マクシミヌス・トゥラクス(235−238)から始まった。
6帝時代(238):マクシミヌス・トゥラクス、
ゴルディアヌス1世、ゴルディアヌス2世、プピエヌス、バルビヌス、
ゴルディアヌス3世。
マクシミヌス・トゥラクスはイタリアの軍団の指揮官で管区兵により選ばれた。これに元老院が反発。
ゴルディアヌス朝(238−244):
ゴルディアヌス1、2、3世で間にプピエヌス、バルビヌス。
最後は
アラブのフィリプス(244−249)。
ゴルディアヌスはアフリカのプロコンスルでマクシミヌス・トゥラクスに反乱。
プピエヌスとバルビヌスはマクシミヌス・トゥラクスに対抗し、共同皇帝。
ゴルディアヌス2世はわずか21日の在位。フィリプスはデキウスに裏切られ、殺された。
デキウスは軍によって皇帝に選ばれた。
デキウス朝(249−253):
デキウス、ホスティリアヌス、ガルス、
アエミリアヌス。
ガルスと
アエミリアヌスはモエシア総督で軍団に選ばれた。
アエミリアヌスは253年にゴートを破り、軍によって皇帝に選ばれ、ガルスを破ったが、翌月、ウァレリアヌスに敗れた。
ウァレリアヌス朝(253−261):
ウァレリアヌス、
ガリエヌス
ウァレリアヌスはノリクムとラエティアの総督で軍団に選ばれた。ガリエヌスはポストゥムスに殺された。
*
ガリア朝(260−274、ガリア帝国):
ポストゥムスが創建。
テトリクス1世で終焉、
アウレリアヌスが再征服。
イリュリア皇帝時代(268−284):
クラウディウス2世、クインティルス、アウレリアヌス、
タキトゥス、フロリアヌス、
プロブス。
イリュリア皇帝はデキウスから、固有にはクラウディウス2世から、284年のデオクレティアヌスの勃興と4頭制に続いた。
更に
ウァレンティニアヌス2世(375−392)まで。
2−3世紀にイリュリクムと他のダニューブ地域(ラエティア、パンノニア、モエシア)はローマ軍が集中(12軍団、3分の1)で主要な
募兵の場であった。元老院による高位軍人の指名がなくなり、下層起源の職業軍人が軍団首脳、指揮官となった。
クラウディウス2世もマクシミヌス・トゥラクス同様下層の出身で軍経験で上昇、軍によって皇帝に選ばれた。
アウレリアヌスの死後、軍は皇帝選出を元老院に譲り、タキトス(275−276)が選出され軍が承認。
これが最後の元老院選出皇帝であった。
彼は熱病で死んだ。彼を継いだ異母兄弟のフロリアヌスはすぐにプロブスの反乱にあい殺された。
プロブスはペルシャ戦争準備中に兵士によって殺された。そのあとにカルスが兵士によって皇帝に選出された。
カルス朝(282−285):
カルス、ヌメリアヌス、
カリヌス。
4頭制(テトラルキ)、
ドミナトゥス:
ディオクレティアヌス(284−305)〜
*
ブリテン皇帝時代(286−297):
カラウシウスが反乱。
コンスタンティウス1世(293−305)が平定。
ペルシャと東方戦線
ペルシャの侵攻は236年に始まり、
ゴルディアヌス3世(238−244)の治世にローマが報復したが、若いゴルディアヌスが殺され、
アルメニアをペルシャに譲った。
ペルシャは251年に再び攻撃し、アルメニアを併合した。
ニコメディアとカルケドンのゴートによる占領で
ウァレリアヌス(253−260)は軍隊をカッパドキアに派遣、これでササン朝の脅威を
抑える彼の努力は弱体化。
ササン朝へに遠征の過程で、ウァレリアヌスは260年にエデサの戦いでシャプル1世に敗れ、捕獲された最初のローマ皇帝となった。
ササン朝軍は西はイサウリアとカッパドキアまで侵攻。
反攻はシリア前哨基地にかかっていて、ウァレリアヌスの後継者
ガリエヌス(260−268)は西に専念した。
小アジアはトラキアになだれ込むバルカンのダニューブ・ゴートの攻撃を受け、一方、黒海のその同類は沿岸都市を襲撃した。
皇帝
カルスはアルメニア支配回復のため東方遠征を行い、初期にササン朝による損失を取り戻そうとして遠征中に死んだ。
ゴートの侵攻
3世紀のゴートの膨張でこの時期アナトリアに新しい問題が出現。マケドニア、イタリアとゲルマニアからの中央ヨーロッパへの道は
すべてローマによって防衛され、アナトリアはゴートにはその富と防衛の劣化で魅力的であった。
ボスポラスから捕獲した船隊と平底船で黒海を横断し、船出し、255年、ウァレリアヌスの治世(253−260)に東岸付近、ポントスの
トレビゾンドの沿岸都市に上陸した。
続いて起こったことはポントスにとって大変な迷惑であった。
2回目のアナトリア侵攻はビテュニアを経由し内陸に大きな恐怖をもたらした。
ゴートはカルケドンに入り、そこを基地に、ニコメディア、プルサ、アパメアとニカエアを略奪した。
冬の接近のような気候の転機だけがアナトリア深くへ入り込むのを遠ざけた。
ゴートは海路攻撃をアナトリア沿岸だけでなく、ギリシャと更にイタリアへも続けた。
タキトゥス(275−276)と
プロブス(276−282)はアナトリア侵攻者ゴートと対抗した。

3世紀のゴートの侵攻
分裂、再統合と分割
258年までに西の属州の離反で帝国は分解し、
ガリア帝国(ポストゥムス)が形成された。
260年にシリアを含む東の属州は分裂し、
パルミラ帝国(ゼノビアが統治、260−273年)を形成した。
これはアンキュラまで拡大し、ビテュニアを併合しようとさえした。
アウレリアヌスが274年までに再統合に成功した。
カルスは息子のカリヌスを西の帝国の共同皇帝とし、彼と別の息子ヌメリアヌスは東に専念した。
カルスと
ヌメリアヌスのペルシャ遠征の死で、ディオクレティアヌス(カルスの騎兵司令官)は
カリヌスを破って皇帝となった。

分裂後 271年 緑:ガリア帝国、桃色:ローマ帝国、橙色:パルミラ帝国
帝国:ドミナートス 284−4世紀
4皇帝政治 第1次東帝国 284−324
ディオクレティアヌスの就任で秩序と安定は回復され、ローマ帝国の次で最後の段階、ドミナトスとなった。
ディオクレティアヌス(生存:244−311)は4皇帝政治制度を継続した。上位皇帝の名はアウグストゥスとなり、下位皇帝は
カエサルと呼ばれた。
彼は西を
マクシミアヌスに任せた。
第1次4皇帝政治 293−305
この東西分割統治は293年、4皇帝政治に発展、帝国は4つに分割された。
ガレリウス(東のカエサル)と
コンスタンティウス
(西のカエサル)が新共同皇帝となり、第1次4皇帝制が形成された。
4つの新しい首都があり、東はビテュニアのニコメディアで統治された。
ここはバルカンとササン朝からの侵攻の防衛基地とディオクレティアヌスの首都となった。
(他はメディオラヌム(ミラノ)、アンティオキア、トリーア)
ディオクレティアヌスの改革で属州はより小さな単位に分割され、293年のすぐあとのほとんど倍となり、小アジアの始めの
地域を再現した。
アシアは7小属州に分割、ビテュニアは3つ(ビテュニア、ホノリアス、パフラゴニア)。
ガラティアは北部と南部を失い、パフラゴニアとリカオニアそれぞれ。リキアとパムフリアは再び2つに分割。
カッパドキアはポントスと小アルメニア地域を失った。
また中間統治構造として
ディオエケーシス(管区)が確立された。
アナトリアは3つの管区に再構築され、それらはやがてオリエンス道(道:
プラエフェクトゥラ・プラエトリオ)にまとめられた;
アシア(アシアナ)、ポントス(ポンティカ)、東(オリエンス)。
アルメニアは287年にティリダテス3世(287−330)のもと従属国としてローマ領となり、299年に公式に保護国となった。
東では296年にペルシャが新たに敵対し、ガレリウスの勢力を失わせ、ディオクレティアヌスが西から新たな軍隊を導入し、翌年、
小アルメニアでペルシャと衝突し、298年にクテシフォンまで追跡し、遠征は終わった。

第1次4頭政治(293−305)時代
第2次、第3次4皇帝制と内戦 305−324
305年、両アウグストゥスが辞め、両カエサルが昇任、新しいカエサルは
セウェルス(東)と
マクシミヌス。
ガレリウスが東のアウグストゥス、西は
コンスタンティウス。
306年、コンスタンティウスの死で帝位を巡って
紛争が起きる。
308年に一応の解決を見、西は
リキニウスと
コンスタンティヌス(カエサル)、東はガレリウスとマクシミヌス。
これにマクセンティウスとコンスタンティノヌスは不満で309年までに両者はアウグストゥスとなり、帝国は分裂し内戦に至る。
西に比較し東は安定で、ディオクレティアヌスからガレリウスへの305年の移行は順調であった。
ガレリウスはエジプトとシリアをマクシミヌスに割り当てた。
311年、ガレリウスの死でマクシミヌスは東、リキニウスは西に分割。マクシミヌスはリキニウスと不仲となる。
313年、両者は
ツィラルムで戦い、リキニウスが勝利。マクシミヌスは逃亡の途中死亡。
2皇帝制 313−324
312年にはコンスタンティヌスは
マクセンティウスを退位させ、帝国の分割に合意、コンスタンティヌスは西、リキニウスは東。
312年から324年までコンスタンティヌスがマクセンティウスとついで、313年に
キバラエの戦いから、リキニウスと324年の
クリソポリスの戦いまで戦う。この戦いでコンスタンティヌスが勝利し、再統一帝国(324−337)の唯一の皇帝となる。
末期帝国 324−425
コンスタンティヌス朝(ネオ・フラウィウス)(324−363)
コンスタンティヌス1世の324年の就任から363年の
ユリアヌスの死まで
コンスタンティヌス朝(ネオ・フラウィウス)が支配。
コンスタンティウスの息子、コンスタンティヌスは307年、マクシミヌス2世と共同皇帝となり、324年に単独皇帝となった。
コンスタンティヌス 324−337
コンスタンティヌス1世(大王)は330年、首都をビザンティウムに移し、コンスタンティノポリスと命名。
コンスタンティヌスの統治改革によってペディトゥム(歩兵指揮、後にミリトゥムが軍務全般)、エキトゥム(ディクタトルの代理、
名目は騎兵指揮)、オフィキオルム(最上級統治官)の3つのマギステル(政務官)が置かれた。
統治改革には事実上、道制(
プラエフェクトゥラ・プラエトリオ、ローマ帝国末期の統治分割)が含まれた。
ディオクレティアヌスのもとでは2道あった。各アウグストゥスに一つ。
コンスタンティヌスは軍事から道の民政を分割した。道は純粋な民政であった。
これはコンスタンティヌスの治世に起源し、337年、コンスタンティノスの死後の帝国の分割で完成した。
(将来的にムスリム征服と東ローマ帝国の成立で新しいテマ制度が導入された。)
310年にプロブスがガレリウスによってオリエンス(コンスタンティノプル)の総督に任命された。
317年、コンスタンティヌスの息子、クリプスのために2番目の西のガリア(首都トリーアついでアルル)が追加。
326年、彼は処刑されたがガリアは維持された。
325年、
ニカイア公会議を開催。
336年、ペルシャがアルメニアに侵攻し、ペルシャに従属する王を就けた。
コンスタンティヌスはペルシャ遠征を行おうと考えたが病気になり、337年に死亡。
コンスタンティヌスの後継者
コンスタンティノス1世は
コンスタンティヌス2世(337−340)、
コンスタンティウス2世(337−361)、
コンスタンス(337−350)によって継承された。
彼らは直ちに、いとこの
ダルマティウス(335−337、部下に殺される)とコンスタンティヌス1世の帝国を奪いあった。
337年、コンスタンティヌスの死で帝国が分割され、道制が確立、西の
ガリア(コンスタンティノス2世)、中央の
イタリア
(コンスタンス1世、首都ローマ、ミラノ、ついでラヴェンナ)、東の
オリエント(コンスタンティウス2世、首都コンスタンティノプル)。
347年から断続的に4つめの中央の
イリリクム(首都シルミウムついでテサロニカ)が追加。
350年までにコンスタンティウス2世の兄弟は死亡し、帝国は彼のもと統一された。(361年まで)
(340年、コンスタンティヌス2世はコンスタンスの領域のイタリアに侵攻し、戦闘中に死亡。コンスタンスは350年、軍人の
マグネンティウスに帝位を簒奪され、殺された。マグネンティウスはコンスタンティウスとの戦いに敗れ、最終的に、353年自殺。)
コンスタンティウス2世は従兄弟から
カエサル(副帝)指名の伝統を継続、
ガルス(コンスタンティウス1世の孫)がアンティオキアで
東(351−354)を彼が殺すまで統治。
ユリアヌス(ガルスの兄弟)が西(カエサル:355−360、アウグストゥス:361−363)を統治。
ユリアヌスはコンスタンティウスと競ったが、衝突が起きる前にコンスタンティウスが死亡。
彼はササン朝ペルシャへの遠征で死亡し、短いコンスタンティウス朝が終焉。
これらは混乱した時代であったが、アウグストス(BC27−AD14)からコンスタンティヌス1世(306−337)までは、アナトリアは
比較的平和を享受し、地域が拡大できた。

ローマ帝国の分割、西からコンスタンティヌス2世、
ダルマティウス(335−337)、コンスタンス1世、コンスタンティウス2世、
ヨウィアヌスとウァレンティアヌス 363−378
ユリアヌスの死亡で彼の軍事指揮官
ヨウィアヌスが皇帝となる。彼はコンスタンティヌス一族と結びつきはなく、短い治世に
キリスト教を国教として再建し、ペルシャに有利な条件で和平を行った。
彼を軍人の
ウァレンティアヌス1世(364−375)が継承、
ウァレンティアヌス朝(364−378)が創建される。
彼は直ちに帝国を分割、東を兄弟の
ウァレンス(364−378)に任せる。
ウァレンスに僭称者
プロコピウスが反乱し、これは、366年、
ティアティラの戦いで殺される。
ウァレンスは2つの戦線に直面、バルカンでゴートと、これとは369年、和平。
これでペルシャのアルメニア攻撃に対処。問題は複雑化、イアウリアで反乱が起き、シリアではサラセンによって攻撃された。
更に西の野蛮人との戦いに支援を送らねばならなかった。彼は首都をアンティオキアにしたが、東の状況が悪化、ゴートが
トラキアになだれ込んだ。
378年、
アドリアノプルの戦いでゴートに敗れ、ウァレンスは死亡。
ウァレンスはカッパドキアを北の第1と南西の第2に分割。
短期間、西のウァレンティアヌス1世の息子でウァレンスの甥、
グラティアヌスが統一(378−379)、しかし一人で統治は困難で
東に義理の兄弟
テオドシウス(375−395)をコンスタンティノプルに派遣。
西はウァレンティアヌス朝が
ウァレンティアヌス3世(425−455)の死まで支配。
テオドシウス朝 378−455
テオドシウス1世は東と西を支配した最後の皇帝であるが、彼は共同統治の伝統を息子の
アルカディウス(383−395)を
共同支配者に指名して継続した。
西の状況は非常に複雑であった。ウァレンティアヌス1世が375年に死亡し、息子のグラティアヌスが王位に就くと、将軍たちが
弟の
ウァレンティアヌス2世をたてた。
グラティアヌスは383年に簒奪者マクシムス(383−388)によって殺され、マクシムスは388年、テオドシウスによって
退位させられた。
これでテオドシウスは388−393年は唯一の皇帝であった。
ウァレンティアヌス2世は392年に死亡し、別の簒奪者
エウゲニウス(392−394)が出現。
テオドシウスはそれで、息子で8才の
ホノリウス(394−423)をウァレンティアヌスの代わりに指名。
テオドシウスは394年、
フリギドゥスの戦いでエウゲニウスを退位させた。
テオドシウスの主要な問題はゴートと西の国境で、そのためコンスタンティノプルから離れた。
東では384年、ササン朝とのアルメニアに関する協定で、国境が確立したが、ほとんどの
大アルメニア(ササン朝アルメニア)を
放棄し、長い安定をもたらした。
4世紀に、オリエンス管区はキリキアTとキリキアUに分割、西(ユーフラテスの)はポントス管区内の旧
小アルメニアにあり、
アルメニア・プリマとアルメニア・セクンダを形成。東では、2地域あり、北は
大アルメニア(ビザンティン・アルメニア)が属州で
南は6つのサトラピまたは侯国(ソフェネ、
ソファエネ、
アンズィテネなど)の連合からなった。
テオドシウスは395年にミラノで死亡、息子のホノリウスとアルカディウス(単独:395−408)が帝国を分割し再び統一される
ことはなかった。
このようにして東帝国は5世紀初めまでに最終的に確立され、中世に入った。
一方、西は衰退することになり、ローマはホノリウスのもとで略奪された。
西は一連の短命の皇帝のもとで衰退し、だんだん帝国は縮小し、頻繁に東が介入し、ユリウス・ネポス(474−475)で事実上
終焉した。
<参考>
アナトリアのローマ属州
第一次ポエニ戦争以降、ローマは拡大を始め、BC241年のシチリアと、BC237年のコルシカとサルディアから
属州形成が始まった。
セレウコス朝とのマグネシアでの戦い(BC190)で勝利して、アナトリアへの進出が始まり、第3次ミトリダテス戦争以降、アナトリア
の属州化が本格化。
属州にはアウグストゥス以降、
皇帝属州と
元老院属州があった。
主な皇帝属州:アルメニア、アッシリア、キリキア、ガラティア、シリア。
主な元老院属州:アシア、ポントスとビテュニア。
共和国時代
BC129年:
アシア。ペルガモンのアッタロス3世がBC133年に遺贈。
BC63年:
ポントスとビテュニア。BC74年にニコメデス4世が遺贈。
第3次ミトリダテス戦争(BC73−63)後、ポンペイウスによってポントス王国東部がBC63年に編入。
BC63年:
シリア。第3次ミトリダテス戦争(BC73−63)後、ポンペイウスが編入。
BC58年:
キリキアとキプロス。BC102年海賊への遠征で軍事支配地域として形成。
BC74年にリキアとパムフィリアの一部が加わり、第3次ミトリダテス戦争(BC73−63)後、キリキアを完全支配、BC58年に
キプロスが加わった。
プリンキパトス時代
BC25年:
ガラティア。アウグストゥスが編入。
17年:
カッパドキア。保護国であったが、ティベリウスが編入。
43年:リキア。クラウディウスが編入、74年、パムフィリアと一緒になり、
リキアとパムフィリアとなる。
72年:コンマゲネ。王が退位させられ、シリアに併合。
114年:アルメニア。トラヤヌスが併合、118年、ハドリアヌスが王国復興。
116年:
メソポタミア。トラヤヌスがパルティアから奪い、併合、118年、パルティアに返却。
214年:
オスロエネ。
ディオエケセス(管区)
第一次4頭制時代(293−313)に297年頃形成とされるが不明確。(ディオクレティアヌスの改革とされる。)
530年代のユスティニアヌスの改革で、ほとんどの管区が廃止される。
4道(
プラエフェクトゥラ・プラエトリオ)のもと、
プロウィンキア(州)の上の行政単位として形成。道−管区−州。
ガリア、イタリアとアフリカ、イリリクム、
オリエンスの
4道。
オリエンス道はトラキア、
アシア、
ポントス、
オリエンス、エジプトのディオエケセスがあった。
アシア・ディオエケセスには11プロウィンキア、首都エフェソス。アシア(ビザンティンのフリギア)、ヘレス・ポントス、パムフィリア、
カリア、リディア、リキア、リカオニア、ピシディア、フリギア・パカティアナ、フリギア・サルタリア、イスラエ(エーゲ諸島)。
ポントス・ディオエケセスには12プロウィンキア、首都アマセイア。ビテュニア、ホノリアス、パフラゴニア、ヘレノポントス、
ポントゥス・ポレモニアクス、ガラティアT、U、カッパドキアT、U、アルメニアT、U、アルメニア・マグナ、ソフェネの
自治アルメニア人侯国(サトラピアエ)。
536年、アルメニアV、Wが形成される。
オリエンス・ディオエケセスには始めほとんどの中東部を含んだ。首都アンティオキア:始めはイサウリア、キリキア、キプロス、
ユーフラテンシス、メソポタミア、オスロエネ、シリア・コエレ、ポエニケ、パラエスティナ・プリマ、パラエスティナ・セクンダ。
エジプトのアエギプトゥス、アウグスタムニカ、テバイス、リビア・スペリオル、リビア・インフェリオルは後にエジプト・ディオエケセス。
後にいくつかは分割。
オリエンス・ディオエケセスはビザンティン・ササン朝戦争(602−628)の間に610、629年代、ササン朝が支配、戦争で
ビザンティンが勝利し、回復するが640年までに大部分ムスリムが征服。

395年頃のローマ帝国のアナトリアの
統治区域

400年のアシアのディオエケーシス

400年のポントスのディオケセ、イサウリア、キリキアは
オリエンティスのディオエケーシス

395年の最終的分割 道