カナダの学生運動 


 カナダでは1950年末から1960年代に新左翼学生組織が出現。
 主なものは平和行動学生連合SUPAと青年カナダ人カンパニーCYC。 
 SUPAは1965年平和主義的、倫理主義的な核非武装結合大学運動CUCNDのサスカチョン大での協議会から出現し、その運動の
範囲を不利益地域の草の根政治運動と急進化の意識的高揚を含むまで、またカナダ青年の経験した世代ギャップの自覚的取り上げ
まで拡大した。
 CUCNDは1959年の80人の学生たちの国立戦争記念碑へのデモから始まり、1962年頃はポート・ヒューロン宣言に影響されていた。
 SUPAは脱中心化組織で地方大学キャンパスに根ざし、カナダ学生の明白な中流志向を受け継いでいた。
 1967年末SUPAは解散してからメンバーはCYCあるいはカナダ学生連合CUSの活発な指導者となり、CUSが新左翼学生の活動の場と
なるようになった。組織は知的議論の広がりで刻印された。
 たとえば伝統的労働者階級は買収され体制に統合されたとし、新しいより良き社会ののための闘争の主役はだれかというような問題
を残した。SUPAは労働者階級と旧左翼の役割に関する議論で分解した。
 CUSはダグ・ワード(1966−1967年)、ヒュー・アームストロング(1967−1968年)、ピーター・ワリアン(1968−1969年)、
マーティン・ロニー(1969−1970年)などの委員長のもとSUPAやCYCと学生は社会変革の主人公であるべきという立場で積極的活動をした。
 1966年からのCUSの急進化で大学協会(自治会)が抜け始めた。マーティン・ロニーのときにCUSは崩壊した。
 1968年民主大学学生SDUがマクギルサイモン・フレイザー大で結成された。
 サイモン・フレイザー大SDUは当初、以前のSUPAメンバーと新民主青年により構成されたが、キャンパスのリベラル・クラブ青年社会
主義
のメンバーも吸収した。SDUは1969年の管理占拠と学生ストライキで著名。学生ストライキの失敗でSDUは分解。
 一部は世界産業労働者IWW(ウォブリーズ)と青年国際党(イッピーズ)に参加。他は1970年ヴァンクーヴァー解放戦線結成を支援した。
 1970年代から公益研究グループPIRG’sが学生の連合全国投票で創設された。
 カナダのPIRG’sは事業が学生志向で学生によって運営される点が米国と異なる。
 戦争反対学生連合(1999年アルバータ大学生が結成)が形成され公的教育と非暴力積極主義、組織化、支援、改良に焦点を置いて
いる。

青年カナダ人カンパニー
 1966−1977年のカナダ連邦政府後援によるカナダ青年計画。
 著名な学生はジレ・デュセップジョージ・エラスムスバーバラ・ホールフィル・フォンテーヌマイケル・ヴァルピー

青年社会主義
 1961年カナダのトロツキストは新民主党の青年組織新民主青年に加入したが急進化がうまくいかず1967年独自組織青年社会主義
を結成。

反戦学生連合
 2005年初めブッシュの2004年11月30日オタワ訪問反対デモから形成された。
 当初はカールトン大学とオタワ大学学生の連合で学園小反戦グループグルーバル平和連合などが合流。
 結成をカールトンとオタワのオンタリオ公共利益研究グループとカールトン国際社会主義者が支援。


カナダの学生組織

 1926年カナダ大学生全国連合NFCUSが結成される。1963年NFCUSはカナダ学生連合CUSとなる。
 1960年代はカナダ学生連合CUSが代表。1969年終焉。  
 静かな革命(1960年代ケベック・リベラル党ジャン・ルサージュ州政権のもとでの世俗化と福祉国家建設、ローマ・カトリック教会の手にあった
保健・教育を州政府が奪取、英語カナダ人のケベック経済支配変革)の影響でケベック学生総連合が1963年分離、これは1969年活動停止
 1972−1981年はカナダ学生全国連合NUSが全国組織となる。

 1920−1930年代のカナダの大学は富者と上層中流階層の手にあった。NFCUSは1930年代、時代の論争的問題に関わることを避けた。
 1940年NFCUSは戦争協力のため活動閉鎖。戦後、従軍者は大学で教育を受け、古参兵の大学入学が大学を変えた。
 1945年NFCUSは再開された。1953年ケベックとの緊張が公然化。1957年までにNFCUSは供益クラブから学生連合(学生組合)に変化した。
 大学教授組織との提携がなされた。1957年NFCUSは学生への財政援助のため戦うことを決定。
 連邦政府との数年のロビー活動で1964年リベラル党と打開がなされ、リベラルは奨学金に代わり学生融資(ローン)を選択。多くの学生が
1964年のカナダ学生融資計画に裏切られたと感じた。1961年までNFCUS内でフランス語系学生との緊張が明らかとなる。
 モントリオール大学生協会は学生は知的労働者として社会変革の触媒となるべきであるという宣言採択。
 学生組合主義がケベック学生に顕著な態度となる。
 静かな革命でケベック政治が連邦主義と民族主義に分裂したことがケベック学生に大きな影響を与える。
 1962年からケベックの学生はケベック学生総連合を組織化、ケベック問題にともない1963年NFCUSはカナダ学生連合CUSとなる。
 フランスとケベックの学生組合主義の影響でNFCUSは供益と単一問題のロビー・グループから学生運動に向かう。
 1964−1965年にカナダ学生融資計画により授業料が大幅上昇。CUSは1964年授業料凍結、1965年授業料廃止を決議。
 SDSや黒人市民権運動に影響され、学生評議会はCUSと協力して学園で集会やその他の活動を組織化し始める。
 NFCUSやCUSのロビー活動により1965年授業料が凍結となる。
 この時期CUSは急進化し、大学制度や政治秩序に批判的となる。
 新左翼政治、ベトナム戦争、SDS、ブラック・パワー運動などが指導者に影響を及ぼす。しかし、授業料凍結と大学管理者と結んだ右翼の浸透が
CUSの土台を揺るがし、新左翼は追い出され学園で別の組織に向かう。同時にいくつかの学生評議会(ないし学生連合)はCUSから撤退し1969年
CUSは崩壊する。1969−1972年まで全国規模の組織が存在しなくなる。

 切迫する大学教育予算削減に対応して1972年NUS/UNEが学生により結成された。大学への連邦政府補助削減の見込み、教育大臣評議会
提案による全額融資学生助成計画、費用増加等が学生に1969年に崩壊したCUS再組織化に向かわせた。
 1972年11月全国の51の学生評議会、学生連合代表によりNUS/UNEが結成された。
 NUSとその加盟地域組織は全国で大学(総合大学と単科大学)への連邦資金削減反対運動を展開。1960年代末から1970年代初期に
凍結された授業料は1972年から上昇し始めた。1977−1978年に授業料情報反対の全国的に調整された活動がNUSと加盟組織によって組織
された。教育機会(アクセスビリティ)問題のほかに住居、女性平等、学生雇用が政府とのロビー(省内交渉)の重要問題であった。
 この時期NUSは貧困、政治、環境悪化などの問題に関わるべきでないという批判を受けた。一方指導者のなかにはNUSは政府交渉を
パンとバターの問題にばかりに狭めており、授業料より重要な問題に十分でないとみていた。

 カナダ学生連盟CFSは1981年NUSと学生評議会協会(1969年いくつかの大学の学生評議会が結成、1974年旅行Cutsという学生旅行組織
設立)が合同して結成の最大組織。結成には政府の補助金EPF削減宣言(授業料値上げへ跳ね返る)も影響していた。
 1995年20大学がCFSの政治路線、特に湾岸戦争反対に対し批判的で分裂しカナダ学生協会同盟CASA結成。
 1993年連邦政府が社会計画は抜本的・重大な変革とともにより再検討されると発表し、CFSに加盟しないいくつかの学生が教育問題で連邦政府
交渉のため組織化努力を始めた。

 CFS(80大学、50万)はロビー活動とデモなどの議会外圧力を採用するがCASA(24学生組織、30万)は政府官僚との会合によるロビーを
重視し議会外活動を軽視。
 CFSは貧困、住宅、国際人権、反戦活動にも積極的だがCASAがこれらを学生問題の範囲外と見なす。
 CFS幹部は新民主党あるいはリベラル政府から仕事を得ているという批判がある。
 ケベックには1989年結成のケベック大学生連盟(15協会、12万メンバー)などがある。

 学生組合連帯協会 ASSE
   起源はASSE大連合 2012年のケベック学生ストライキ 北沢

 *ポート・ヒューロン宣言、SDS等はアメリカの項を参照。



オーストラリアの学生運動

 初期の学生団体はほとんど富者のグループであった。19世紀末から20世紀はじめに各大学組織は互いに関係をとり始め徐々に
統一学生組織となった。
 1930年代までに労働党が小さな大学生グループの政治的関心をひいた。これら学生が労働クラブを結成し学生組織の指導を競った。
 学生クラブはしばしば独立保守学生の反対を受けたが、彼らは労働クラブのような広範な活動家組織を欠いた。
 1950年代学生団体構成が急変した。メンジース政権は新技術志向大学を創設。これで労働者階級の学生が種々の過程で大学に
入れるようになった。これら学生は組合(ユニオン)に参加し、労働者として政府と結んで将来の使用者に対し圧力を行使し新卒者の権利を
保護することができた。1970年代にウィットラム政権で同様の波が地域大学創設で起こった。
 広い範囲の社会階層への高等教育の公開は1960、1970、1980年代の学生組合主義の普及となった。
 1984年のオーストラリア学生連合AUSの崩壊は学生組合主義への政治的権利にたいする厳しい態度と対応する。
 リベラル政党は学生組織の強制普通加入制度による資金を左翼政治活動に使用することを阻止する政策を開始した。
 自発的学生組合主義VSUは1990年代に法的索引力を得始め西オーストラリアとヴィクトリアで制度化された。
 VSUは1996年のハワード連邦政権の政策であった。労働党は州VSU開始をひっくり返したが2005年連邦政府はVSUを
法制化し、2007年初めから完全施行に入った。
 VSUだけでなく選挙、財政管理の失敗、大学当局の介入も学生組織に問題を惹き起こした。
 2000年代多くの学生組織が大学によって解散あるいは再建させられこの過程で多くが独立性を失った。

オーストラリアの学生組織

 1926−1929年、イギリスの帝国学生協議会のオーストリア代表を送るためオーストラリア大学生連合があった。
 1937年安い教科書を輸入と連邦政府を大学運営に関与させる(それまでは州事項であった)必要のため、あるいはファシズム興隆で
オーストラリア大学生全国連合NUAUSが結成された。
 1950年NUAUSはコロンボ計画展開で重要な役割を果たした。これで多くの東南アジア学生がオーストラリアで学んだ。
 1960年代NUAUSはベトナム戦争のための徴兵反対運動を展開。
 1950−1960年代リベラル学生連合が活動的でしばしば全国執行部を保持した。
 旧教員大学と工科大学参加が認められて1971年オーストラリア学生連合AUSと改名。
 AUSは初期に南アフリカとのラグビー交流に反対し、リベラル政権は南アフリカとのスポーツ交流を禁止。
 1974年ウィットラム政権下で無料教育と学生財政援助制度導入。
 フレイザー政権登場によりNUSと政府の密接な関係終焉。
 フレイザー政権は無料教育廃止を宣言したが、1976年のAUSの組織した全国学生ストライキで撤回。
 このようなAUSの社会的影響により政府支持者は一体化した攻撃をAUSに始めた、
 いくつかの地域・州でのAUSへの加盟料支払い妨害や、学生旅行事業が政府によって妨害された。
 リベラル学生はAUS不信を煽り各学園で脱退工作を推進した。
 これら危機で手痛い内部抗争が起こり、脱退が起こった。
 1981−1982年にはまだフレーザー政権の授業料再導入を阻止できたが、更なる脱退の波が到来。
 結局リベラル学生連合、フレイザー政府、州リベラル政府のAUS破壊のための激しいキャンペーンでAUSは1984年解散。(NUS)
 同年の全国学生頂点会議(サミット)で新組織結成のための同意はできなかった。

 労働党による無料教育廃止の衝撃で新組織が結成された。1988年全国学生連合NUSが完全に活動し始めた。
 
オーストラリアNUS 
 現在のNUSの形態は先行者のAUSの1984年の崩壊後、1987年に始まった。ホーク労働党政権のウィットラム政権の導入の
無料授業料制度廃止と、高等教育寄与制度HECS導入と同時に結成された。
 NUS結成は無料教育廃止を阻止はできなかったが、政府により公式承認を勝ち取り、当時の政府の高等教育評議会に参加した。
 1990年代初期には学生財政援助の後払い融資(ローン)移行を阻止し、学生財政援助の独立資格年齢の25から22歳引き下げに成功。
 しかし1990年代にはNUSは厳しい財政状態となった。加盟金(入会金)がAUS時代の半分以下となった。
 西オーストラリアやヴィクトリアの反学生組織法規(自発的学生組合主義VSU)で多くの学園が加盟金を払えなくなった。

 1996年のハワードリベラル政権登場で蹉跌に遭う。この政権はNUSや全国3級教育組合のような左派3級部門組織に敵意を示した。
 NUSは変動率(課程による将来見込まれる収入差で支払いが異なる)HECS導入を阻止できなかった。

 2003年にはNUSの教育大臣ブレンデン・ネルソンとの交渉やマスコミや反対党への意見表明などの努力にもかかわらず改革法案
がセナート(上院)を通過。
 これでHECSに加えて大学による国内学部学生前払い授業料導入が可能となり、また大学がHECS率を25%上げるのを可能とした。

 1970年代、AUSが学生組合は学生個人から構成されていると見なしたのと異なりNUSメンバーは学生が直接構成するのではなく、
NUSは各学生組織が民主的過程で参加を決める学生組織の自発的連合である。
 現在NUSは65万の学生と結びついた70加盟組織が参加している。NUSには教育、福祉、女性、クィア、環境、小・地域学園、管理
部門があり独立した国際学生のための全国連絡委員会NLCを国際学生の声として認めている。

 現在NUSには全国労働学生社会主義左翼)、学生統一労働統一)、リベラル学生連合草の根左翼社会主義選択独立派など
のグループが存在。

 Austudy5
 1992年のNUSのメルボルンの全国デモで逮捕された5人の活動家グループ。
 キーティング政権の学生給付としてのAustudyを廃止して学生融資に代えるという提案をしたのに対しNUSはデモを召集。
 約3千の抗議者がヴィクトリア政府前の警戒線を突破、デモ参加者の逮捕でデモ隊は警察車を包囲して逮捕者の釈放を要求。
 3週間後警察は早朝、国際社会主義者組織ISOの活動家5人(ジル・スパロー、ジェフ・スパロー、ミック・アームストロングら)を逮捕。

 民主社会学生SDS
 1968年にメルボルンで結成される。ハリー・ヴァン・モーストマイケル・ハメル・グリーンデイヴィド・デイ、ダイアン・クルンデンらが活動。
 1971年急進行動運動と名を変える。

 異議学生
 1968年夏メルボルンの多くの高校で地下小冊子が発行される。これは異議学生が関係していた。
 これらはモナッシュ労働クラブ(モナッシュ大の労働党系学生組織、アルバート・ランガーなど)の影響を受けていた。
 これらグループはベトナム戦争反対運動などに関わっていた。1969年社会主義高校生学生と名を変える。

〔オーストラリアの学生政治組織〕

リベラル学生連合ALSF
 1948年結成のリベラル党と結びつくグループ。
 リベラル学生連合は結成当初から長く学生団体に関係し影響を与えていて、1950−1960年代オーストラリア大学生全国連合NUAUSを
支配していたが、1970年代までにリベラル学生連合は学生代表に幻滅するようになった。
 学生代表はその多くはテロリスト活動か権威的体制の前線支持者となっているほとんど外国で活動する急進周辺分子を支持し、学生利益
擁護と学生サーヴィス供給という中心的役割を果たさないで国内教育政策より国際事件に関心を持っている。(オーストリア政府)
 リベラル学生連合、フレイザー政府、州リベラル政府のAUS破壊のための激しいキャンペーンでAUSは1984年解散。(NUS)
 いつも多くの代表を維持しているわけではないが、ALSFはNUS内で声高で論争的なグループの1つである。
 ALSFの政治綱領は自発的学生組合VSUを原則とし、2005年リベラル党教育大臣のブレンデン・ネルソンにこれを導入させた。
 ALSFは第3セクターの規制緩和支持でVSUを選択の自由、結社の自由として擁護。
 2004年のNUS大会からALSFはGod Save the Queen'の儀式を妨害している。

独立派
 2005年に全国レベルで調整され、全国大会では左派全国執行部確保のため他グループと協力し労働左派候補は学生統一を破った。
 2006年大会では独立派は左派と協力し、学生統一を打ち破り学生統一は15年来で始めて全国書記を失い、独立派マシュー・チャック
が左派とリベラルの支持で全国書記となった。2008年からNUS内で強固な役割を行い始めた。

全国労働学生
 労働党の社会主義者左翼志向。2006年労働学生全国組織NOLSとオーストラリア労働学生ALSの合同により結成。
 無料教育支持(高等教育寄与制度HECS(授業料相当額の卒業後後払い制度、1989年ホーク労働党政権導入)反対)
 NUSで第2のグループ。

学生統一
 AUSが財政崩壊したので統一は健全財政、適正管理を強調、学生に直接関係ない問題や急進的すぎる問題に関わることに反対。
 反グルーバリズム、環境問題、中東危機などの問題に金を使うことに反対。
 一般的に現在の労働党の政策支持。労働党統一グループ支持。唯一HECS支持。
 反対派は統一はフェミニズムやクィアLGBT:レスビアン、ゲイ、両性愛、性同一性障害)に無関心と批判。
 草の根左翼社会主義選択は統一と対立することが多い。
 1991年デイヴィド・フィーニーがNOLSの右派で結成。以来NUS最大グループの1つ。
 2006年までほぼ全国書記を維持。2006年(2007教育学年)全国労働学生独立派と結んだため敗北。翌年から奪回。

・(オーストラリア労働学生ALS)
 1997年ヴィクトリアと西オーストラリア拠点グループのNOLS右派が全国委員長選で分裂結成。労働党左派志向、NOLSより右、
学生統一より左、2006年NOLSと全国労働学生結成。

・(労働学生全国組織NOLS)
 労働党の社会主義者左翼志向。批判的に労働党支持。HECSに反対、ほとんどホークキーティング労働党政権の経済政策に反対。
 社会主義、フェミニズム、組合主義(ユニオニズム)、民主制が標語。
 ニュー・サウス・ウェールズ、クイーンズランドが拠点で特にシドニー大。
 AUS時代はオーストリア労働党学生協議会CALPSで労働党の左右両派が協力。CALPSはNOLSとして再建し左派が支配。
 1989年のホーク政権のHECS導入で分裂、右派は1991年学生統一結成。1997年ALS分裂。
 学生統一結成前から左派は委員長、右派は副委員長ないし書記を確保。
 2006年ALSと再統合し全国労働学生結成。

草の根左翼
 NUS内とオーストラリア学生運動で活動する左派学生活動家の小ネットワーク政治グループで、オーストラリア学生環境ネットワーク
ASENのような社会運動路線をとるべきであると主張する点でNUS内の他の左派と区別される。
 更に草の根左翼は労働左派グループの政治を宗派主義、機械主義(?machinist)と見なし、社会主義選択の行動を反民主的
と批判し反発されている。
 ネットワークのメンバーはアナーキスト、緑メンバー、環境主義活動家、クィア活動家、小社会主義者グループ(レジスタンスなど)、
労働党の非同盟左派メンバーを含む。草の根左翼とその先行者は伝統的に学生統一と敵対関係にある。
 草の根左翼はニュー・サウス・ウェールズNSW(ヴィクトリア、クイーンズランド)で勢力があり、そのほか東部州、首都特別地域などでも勢力がある。
 草の根左翼のその先行者全国広範左翼NBLは2004年社会主義選択連帯社会主義行動、非同盟・非社会主義左翼に3分裂。
 2005年ASENをめぐるNUS内での議論で草の根左翼が出現、ASENメンバーはNUS環境部門をASENと置き換えることを提案。
 社会主義選択はASENは基礎的組合政治に関わっていないと攻撃し、NUSに分離構造を設立することはVSUキャンペーンと全国
組合(ユニオン)非難と同類であると論難した。
 草の根左翼は自分達のネットワークは以前のものと高度の組織で独立、公式という点で異なると主張。

 ASENの提案と呼応して緑ブロックが形成され2005年NUS協議会でNBLと独立して環境活動を計画。緑ブロックは草の根左翼に発展。
 彼らは他のNUS執行部と不和な活動家と、NUSとその幹部は特に労働党での政治経歴追求ではなく学生の社会運動参加を支持すべきと主張。

全国広範左翼NBL(通称トロッツ)
 左派、トロツキスト、環境主義者、自主管理主義者その他急進左派の緩い集合体。各個人は主に、社会主義選択国際社会主義組織
レジスタンス、労働者の力、オーストリア緑などと結びついている。このなかの大きなグループである社会主義選択と主に環境主義者を主とする
自主管理主義者には断絶がある。急進左翼はAUS時代から存在し、NBLは左翼連合の残党により1999年結成された。
 2001年NUS統一のため労働党右派を執行部に参加させるというNBL多数派の主張に反対しレジスタンスが去る。
 2005年ASEN問題で分裂、社会主義選択と緑ブロックが別々のNUS連絡員を選出しており公式に分裂したと思われる。
 NBLは一方で学生統一に、他方でリベラル学生連合に反感をもっているが、学生統一リベラル学生連合間の抗争は知られていない。
 NBLはNOLSとは交錯した関係を持っている。学生統一撹乱のためには協力するがNBLはNOLSを十分急進的でないとして疑惑で見ている。

・(左翼連合
 左翼連合はNUS内グループとして1987年結成され、ほとんどの非労働党左翼を含み、当初は共産党によって支配されていた。
 これは1986年と1989年の労働党連邦政府による授業料再導入が契機となった。1992年までに独立左派活動家は左翼連合メンバーでなくなり、
このため択一組織として非同盟左派Non-Aligned Left が1993年頃結成された。左翼連合は1990年代中期谷に陥り、NALが非労働党左翼と
しての立場を強化した。1996年リベラル、国民連立が連邦政権をとると左翼連合が再び成長し、政府の大学政策改革反対運動で多くの中心活動家
を獲得し再びNUSの支配的非労働党左翼となった。しかし潜在していた矛盾が表面化し、親指導部グループとニュー・サウス・ウェールズを拠点とする
リバータリアン共産主義集合Libertarian Communist Collective(後の愛と怒り、1998年出現)に分極化、愛と怒りは1999年分裂し全国広範左翼NBL
結成。

・オーストラリア学生環境ネットワークASEN
 1997年学生持続可能性(1991年から開催のオーストラリア学生環境運動年会)協議会で結成されるが間もなく休眠状態となり、2002年、特に
205年から復活。学園の環境グループの情報促進を行っている。
 1995年頃のNSW学生環境行動ネットワークSEANとクイーンズランドSEAN結成によって刺激された。
 1995年非同盟左派NALの努力によりNUSに全国環境役員が創設されたが、当時の労働党学生は左右とも連邦政府の行動に余りに声高に反対する
ことを渋っていた。その結果NALが多くの学園で有力勢力となった。1995年までにヴィクトリアとクイーンズランド支部が影響力をもつNSW支部をNALが
支配し、全国NUS環境役員NEO地位創設の成功。1997年にはASENは自分達の書記局がNUS環境部門であるべきであるという決議を行う。
 これは問題を含んでいるが、ASENメンバーがNEOに選出される限り表面化しなかったが2001年民主がNEOとなり、またNUS指導部の環境問題活動
低下により、2002年ASENは独自の自己決定とNUSから独立した選挙を取るようになった。
 2005年ASENが公式にNUSによってその全国環境部門として再組織化されるべきという提案はNUSによって拒絶され、2006年NUS環境役員と
ASEN全国召集者Convenorは別々の地位に分離された。
 
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