コーカサスの歴史
[5] イベリアの初期王国
(1)
イベリア王国 BC302頃〜AD580
ギリシャ・ローマ地理誌でイベリアはジョージア人のカルトリ王国(カルトリス・サメポ)に対する名前で、カルトリはその中心地域
からで古典古代と中世初期の間、コーカサスの重要な君主制であった。
それはあるときは独立国家であるときはササン朝やローマ帝国のような大帝国に従属した。
イベリアは現在の東ジョージアを中心とし、西はコルキス、東はアルバニア、南はアルメニアと境した。
住民のイベリア人はジョージア人(カルトヴェリ)の核を形成した。
イベリアはパルナマズ朝、アルサキド朝、ホスロイド朝によって支配され、西のコルキスとともにバグラティオニ朝の統一中世
ジョージア王国の核を形成することとなる。
4世紀に聖ニノによるイベリアのキリスト教化後、
ミリアン3世の治世にキリスト教が王国の国家宗教となった。
6世紀初期から始まり、ササン朝の従属国としての立場はペルシャの直接支配に変わった。
580年に
バクル3世の死後、ササン朝の
ホルミズド4世(578−590)は君主制を廃止し、イベリアはマルズパンの支配する
ペルシャの州となった。
初期
先史時代、コーカサス・イベリアにはクラ・アラクセス文化から生じたいくつかの関係する種族が住んでいて、ギリシャ・ローマ
民族誌で集合的にイベリア人(あるいは東イベリア人)と呼ばれた。
いろいろな古典歴史家によって言及された
モスキとその後裔と思われる
サスペル(ヘロドトスが言及)はこの地域に住む種族の
統合に重要な役割を演じたと考えられる。モスキはゆっくりと北東へ移動しながら居住地を形成した。
これらのひとつがムツヘタ、将来のイベリア王国の首都。
ムツヘタは後にママサフリシ(ジョージア語で家族の父)と呼ばれる地域的公(侯)子によって支配された。
多分に伝説的な中世ジョージアの年代記のひとつでは、
アゾという支配者とその人々は
アリアン・カルトリ(プロト・イベリア人の
最初の故郷でアケメネス朝の支配にあった)から来て、ムツヘタが建設される場所に居住した。
別の年代記ではアゾはアレクサンダーの武官で、彼は地域支配家族を虐殺し、地域を征服し、BC4世紀末当時の地域の首領の
公子パルナヴァズに敗北した。
アレキサンダーのカルトリ侵攻は伝説であるが、ヘレニズム期のジョージア君主制確立をジョージア学者がこの出来事を著名な
征服者と結びつけたがることを反映している。
BC290年
パルナヴァズ1世とその子孫
権力闘争に勝利した
パルナヴァズ1世はイベリア王(BC302−237頃)となった。
ジョージア年代記によると侵略を跳ね返したのち、西ジョージアのコルキス国(地域的にエグリシとして知られた)の一部を含む
近隣地域を彼は征服し、新しく成立したシリアのセレウコス朝の承認を得たようである。パルナヴァズ1世はまた主要な聖堂
アルマズツィヘとアルマズィ神への神殿を建築したともいわれている。また国をサエリスタヴォスといういくつかの国に分割した。
*パルナヴァズ1世は地域支配のエリスタヴィ(役所、公)を7か所設けた。
コルキス、カヘティ、フナニ(現在の北アゼルバイジャン)、サムシュヴィルデ、ツンダ、オズルヘとクラルジェティ。
ジョージア年代記(9−14世紀の一連の文献)による王国の国境
彼の後継者はダリアル(コーカサスの門)によってコーカサスの峠の支配を獲得し、これは非常に重要であった。
この繁栄期に続く時期は絶え間ない戦争期のひとつで、イベリアはこの地域への多くの侵入者からの防衛を余儀なくされた。
アルメニアからBC2世紀に征服した南部のいくつかはアルメニアに再統合され、コルキスの土地は別々の侯国に分離した。
BC2世紀末に
パルナヴァズ朝王
パルナジョムは家臣によって退位させられ、アルメニア王子
アルタクシアス(アルシャク)に
王位が与えられ、彼はBC93年王位に就き、
アルタクシアド朝を確立した。
ローマ期とローマとパルティア敵対期
アルメニアとポントスとの密接な結びつきが、ローマ将軍ポンペイウスによる侵攻(BC65)を招いた。
ポンペイウスは当時ポントスのミトラダテス6世とアルメニアと戦争中であった。ローマはイベリアを長く支配できなかった。
17年後ローマは再びイベリアに進軍し(BC36年)、パルナヴァズ2世にアルバニアへの遠征に参加することを強制した。
コルキスはローマの州として支配され、イベリアは自発的にローマ帝国の保護を受け入れた。
石碑には1世紀の支配者ミフドラト1世(58−106)を“カエサルの友人“そして”ローマの愛するイベリア人“と書かれている。
皇帝ウェスパシアヌスはAD75年、イベリア王のために古代ムツヘタの場所のアルザミを要塞化した。
次の2世紀はこの地域へのローマの影響は継続したが、パルスマン2世(116−132)の治世ではイベリアはある程度
以前の力を回復した。
ローマ皇帝ハドリアヌスはパルスマンを宥和しようとしたが、ハドリアヌスとパルスマンの関係は緊張した。
ハドリアヌスの後継者アントニヌス・ピウスの代になって、パルスマンはローマを訪問したといわれるほど関係は改善された。
この時期はローマがイベリアを従属国というより政治的提携者と認めるほどに政治状況は変化した。
ローマ帝国がパルティアと敵対していた間も政治状況は依然同じであった。
1世紀にはミトラスとゾロアスター信仰が一緒にイベリアで行われていた。
徐々にイラン的考えと生活方法がイベリア宮廷とエリートに浸透。
アラム文字を基礎にしたツェレテリいうところのアルマジ文字と言葉が使用されていた。
BC3世紀にパルナヴァズによって
アルマジ(キリスト教以前のイベリアの神界の最高神、パルナマズはそのために
アルマジ要塞を
建築)信仰が導入された。
ローマ/ビザンチンとペルシャ
224年のアルダシル1世のササン朝創設はイベリアの歴史に重要であった。
シャプル1世(241−272)の治世にイベリアはササン朝の貢納国となった。
2国の関係は始めは友好的であった様に見える。イベリアはローマに対する軍事遠征でペルシャと協力した。
イベリア王アマザスプ3世(260−265)はササン朝領域の高位者に挙げられ、従臣でなかった。
しかしササン朝の攻勢的傾向はゾロアスター教の普及に明白で、これは恐らく260年代から290年代に確立された。
しかし、ニシビスの和平(299年)で、ローマ帝国は従属国としてのコーカサス・イベリアの支配を再び獲得し、全コーカサス地域の
支配を認められた。ローマ帝国は
ミリアン3世、最初のホスロイド朝、をイベリア王と認めた。
正教採用とササン朝ペルシャ期
ローマの支配は宗教問題で重大であった。ミリアン3世と指導的貴族は317年頃、東方正教会に転向し、正教を
国家信仰と宣言した。
これはカッパドキアの使節の女性、聖ニノが303年イベリアのジョージア王国(東ジョージア)で正教を説教したこと関係する。
信仰はジョージアとローマ(後にビザンチン)との強固な結びつきとなり国の文化と社会に大きな影響を持った。
東方正教会の採用で古代ジョージアでのイラン要素は徐々に消え始めた。
しかし皇帝のユリアヌスが363年の失敗したペルシャ遠征の間に殺され、ローマはイベリアの支配をペルシャへ譲り、
王ヴァラズ・バクル1世(363−365)はペルシャに従属し、387年のアキリセネの和平で確認された。
しかし、後にカルトリの支配者ファルズマン4世(406−409)は独立を維持しペルシャへの貢納を止めた。
ペルシャは優勢で、ササン朝王は従属国を監視するためにピティアクサエ(総督)を任命した。
彼らは下カルトリの支配居館に次第に世襲的在庁を形成し、カルトリのピティアクサテとなり、広い地域を支配した。
それはカルトリ王国の一部であったが総督は領域をペルシャの影響の中心とした。
ササン朝支配でジョージアの正統教会は厳しい試練に会った。彼らはゾロアスター教の教義を推進し、5世紀中までにゾロアスター教は
東ジョージア第2の公式宗教となった。
イベリア王
ヴァフタング1世の統治初期は王国の相対的復興で画期された。
公式的にはペルシャに従属し、コーカサス山脈を征服し、北方国境を確保し、近隣の西と南ジョージアの土地を手に入れた。
ムツヘタに独立正教会総主教を確立し、トビリシを首都にした。
482年、彼はペルシャに反乱し、独立のための戦争を行い、20年間続いた。
ビザンティンの支援を得られず、やがて敗北し、502年に戦闘で死んだ。
王国の没落
コーカサスの支配をめぐるビザンティンとササン朝の継続的対立とグルゲンによるジョージアの不成功の反乱(523年)は国に
厳しい結果をもたらした。それ以降、イベリア王は名目的権力しかもたず、国は実質的にペルシャによって支配された。
580年、ホルミズド4世(578−590)はバクリウス3世死後、君主制を廃止、イベリアはマルズパン支配のペルシャの
州となった。
ジョージア貴族は582年、ビザンティン皇帝マウリキウスにイベリア王国復活を急き立てた。
しかし、591年、ビザンティンとペルシャは互いにイベリアを分割することに合意、トビリシはペルシャへ、ムツヘタは
ビザンティンの支配になった。
7世紀初めにビザンティンとペルシャの休戦は崩壊。
イベリア公子ステファノズ1世(590−627頃)は607年、イベリアの全地域統合のためペルシャに加わることを決心、
目標は達成した。
しかし皇帝ヘラクレイオスの627年と628年の攻勢でジョージアとペルシャに勝利、アラブのコーカサス侵攻までの
ビザンティンの西と東ジョージア支配が確保された。
アラブ期 アラブのジョージア支配 トビリシのエミラテ
アラブはイベリアに645年頃到達し、エリスタヴィ(公子)
ステファノズ2世(673−650年頃)にビザンティンへの忠誠を
捨ててカリフを支配者として認めることを強制した。
イベリアはこのようにして貢納国となりアラブのエミールが653年頃、トビリシに置かれた。
9世紀初め、新しいバグラティオニ王朝のエリスタヴィのアショト1世(813−826)は南西ジョージアの彼の基盤から
アラブ支配の弱体化を利用してイベリアの世襲的公子(ビザンチンの称号クロパラテスとともに)として自己を確立した。
後継者イベリアのアダルナセ4世は公式的にはビザンティンに従属し、888年、ジョージア人の王として戴冠した。
彼の子孫バグラト3世(975−1014)は種々の侯国を合体させ統一ジョージア国を形成した。
イベリア王
パルナヴァズ1世(一説にBC302−237):ジョージア年代記によると、カルトロスの息子、ムツヘトスの息子、
ウプロスの子孫で、カルトロスは強力で有名な8兄弟の一人で、彼らは聖書のノアの息子、ヤペテの孫のティラスの
息子、タルガモスの子孫。彼は非ジョージア資料からは直接的には証明されない。彼の物語は伝説で溢れ、象徴的。
ジョージア年代記によると、彼は3才で家族を根絶やしにされ、遺産はアレクサンダーの置いたアゾによって簒奪された。
彼は親無しで育てられ、魔法の夢を見、それによって大量の宝物を得、アゾに対する軍隊を築き、コルキスのクジに
助けられ、アゾを破り、殺し、27才で王になった。
彼はセレウコス朝の宗主権を認めたと言われる。
サウロマケス1世(サウルマグ)(BC234−159):アイニナとダニナ信仰を導入したとされる。
ミリアン1世 ニムロド朝(パルナマズの継続)(BC159−109):サウルマグの娘と結婚。
パルナジョム(BC109−90):ザデン神を導入したといわれる。これが反乱を招き殺され、義理の息子アルタクシアスが
王とされた。
アルタクシアス1世(BC90−78):
アルタクシアド朝、アルメニア王アルタヴァスデス1世の息子とされる。
アルトケス(BC78−63):ローマのポンペイウスの侵攻を受ける。
パルナヴァズ2世(BC63−30):イランに亡命していたパルナジョムの息子ミリアンがイラン軍と帰還し、パルナヴァズ2世を
殺し王となる。
カッシウス・ディオによると、彼は、ローマ軍のイベリア侵攻に対し、イベリア王と提携した。
ミリアン2世 ニムロド朝(パルナマズの継続)
アルタクシアス2世(BC20−AD1):
パルスマン1世(1−58):パルナマズ朝、母がパルナヴァズ2世の娘、亡命から帰還し、アルタクシアス2世を破り、王となる。
兄弟のミトリダテスがローマ皇帝ティベリウスによってアルメニア王とされる。
ミフルダト1世(58−108):中世ジョージア年代記では無視。
アマザスプ1世:ジョージア年代記(他の同時代資料がないと信頼度に欠けるようである)では共同統治。学者は共同統治を否定。
パルスマン2世:ジョージア年代記では共同統治。ローマ皇帝ハドリアヌスと同時代。
アダム(ガダム)
パルスマン3世:ローマ皇帝アントニウス・ピウスと同時代。父アダムの死で、祖母アルメニア皇女ガダナハの摂政で王となる。
彼はローマと友好的関係を築き、王国を拡大。
アマザスプ2世:ジョージア年代記によると侵攻してきたアランに勝利し、逆に侵攻。反乱した甥のレヴ1世に殺された。
レヴ1世(189−216):
アルサキド朝、アルメニア王の息子とされる。
ヴァチェ(216−234):ジョージア年代記でしか知られない。第20または22代とされる。
バクリウス1世(234−249):中世ジョージア年代記だけで知られる。
ミフルダト2世(249−265):ササン朝シャプル1世が反対王
アマザスプ3世(260−265)を据えたらしい。
アスパクレス1世(265−284):アルメニア人とササン朝のコーカサス侵攻に抵抗したとされる。
イラン軍に敗れ、アラニアに亡命し死亡。娘がミリアン3世と結婚したとされる。
ミリアン3世(284−361):
ホスロイド朝、ササン朝バフラム2世によって王に据えられる。イラン7大貴族の一つの
ミフラン家の一員。
最初の妻はアルサキド朝最後の王の娘アベシュラでこれは子供なくして死亡し、ついでポントス出身の
ナナと結婚。
彼女はジョージアのキリスト教化の役割で聖者とされた。
サウロマケス2世:ジョージア史では無視。363年シャプル2世に追い払われ、父方の叔父アスパクレス2世が据えられる。
ササン朝の介入はローマの介入をもたらす。
サウロマケスは王位を回復するがアスパクレスの息子ミフルダトも北東部支配を確保。
ササン朝とローマは対立するが、ゴート戦争でローマはサウロマケスを諦める。
アスパクレス2世(363−365):シャプル2世が甥のサウロマケスを捨てアスパクレスを王とした。
ミフルダト3世(365−380、共同370−378):同時代歴史家アンミアヌス・メルケリヌスでは知られていず、
アスパクレスが継続。
370年頃、イランの干渉で、ローマの介入をもたらす。
アスパクレスが北東イベリアを、サウロマケスが南西を支配。
ローマのアドリアノプルでのゴートへの敗北でサウロマケスが378年に追い払われ、アスパクレスが全土支配。
アスパクレス3世(380−394頃):ミフルダト3世の息子で縁者のトルダトの娘と結婚。彼の治世にローマとササン朝が
アキリセネの和平を結び、これでローマはイベリアとアルメニアの大部分を失う。
息子はパラスマン(ラテン:パラスマネス)4世とミフルダト4世。
トルダト(394−406頃):ジョージア年代記ではミリアン3世の息子の
レヴ2世(父のミリアン3世と共同統治とされる)の
息子、母
サロメはアルメニア王ティリダテス3世の娘。兄弟は
サウロマケス2世。
高齢で縁者で義理の息子ヴァラズ・バクル2世(アスパクレス3世)を継承。
彼はササン朝に貢納せざるを得なかった。
ルスタヴィとネクレシに教会を築いたとされる。
パルスマン4世(406−409):アスパクレス3世とトルダトの娘の息子。
ミフルダト4世:(409−411):ジョージア年代記は信仰心が欠如と批判。
ササン朝軍に敗れ、イランに連れていかれ、そこで死亡。
アルチル(411頃−435):ミフルダト4世の息子。ジョージアの2つの年代記(カルトリの転向とカルトリの生命)の
記述は矛盾。一方はゾロアスター教を支持したとし、他方はイランに反乱したとする。
ミフルダト5世(435頃−447):アルチルの息子、ガルドマン公子の娘
サグドゥフトと結婚、ヴァフタングの父。
ヴァフタング1世(439または443頃−502または522):ビザンティンと提携し、ササン朝との長い覇権戦争をもたらす。
伝説では
ジョージア正教会を再組織し、トビリシを築いた。
若い時はササン朝軍に参加していたが、後に翻し、ローマに接近。482年にはコーカサスの親イラン派筆頭の
ゴガレネの
ヴァルスケンを殺し、イランと公然衝突。
ダチ(522頃−534):ヴァフタング1世とササン朝ホルミズド3世の娘
バレンドゥフトの息子。
バクリウス2世(534−547):若い子供を残して死亡し、イベリアはササン朝支配下に陥った。
パルスマン5世(547−561):ジョージア年代記の中世アルメニア翻案によれば、彼の治世にアラン人(オセット人)が侵攻、
彼はペルシャ保護下に入った。しかし、ジョージアの王史ではアラン人には言及がなく、ペルシャの侵攻が
述べられている。
パルスマン6世:当時イベリアはササン朝が支配し、彼の権力は名目的。
バクリウス3世:父のパルスマン6世を継承。ホルミズド4世(579−590)と同時代。支配領域はウジャルマ要塞を越えず、
トビリシと内カルトリはササン朝が支配。580年の死で、ホルミズド4世はイベリア王制を廃止。
<参考>
パルナヴァズ朝
ジョージア年代記によるとカルトリ(イベリア)のジョージア人の最初の王朝。
支配は途中の中断を含めBC3世紀からAD2世紀に渡った。
主系列は初期に廃止され、女系で関係する一族が続いた。
2世紀末にパルナヴァズ朝支配は終わり、アルサキド朝がイベリア王位を奪った。
王朝はパルナヴァズ1世によって創建され、彼の息子サウロマグ(治世:BC234−159)は男子相続者がなく、その娘の
ニムロド朝のミリアンとの結婚により女系で生き残った。ニムロドは王朝ではなく中世ジョージア年代記者によって
古代イラン人に採用された言葉である。
ミリアンの息子パルナジョム(治世:BC109−90)はアルメニアのアルタクシアド朝分枝によって退位させられ、
アルタクシアド朝(イベリア)はBC90−30年に存在、その後、パルナマズ朝が再び王位に就いた。
当時南コーカサスはローマ覇権下にあったが、イベリアはBC1世紀末にローマ支配をはねのけ、1世紀にはより強力な国家
として出現した。
パルスマン1世(治世:1−51)は精力的にアルメニアに介入し、兄弟の
ミトリダテス(35−51)をアルメニア王位に就けた。
しかしミトリダテスを除き、息子の
ラダミストゥスを王位につけたが55年に追い払われた。
パルスマン1世の継承者ミフルダト1世(治世:58−106)はローマと提携しアラン人から国境を防衛した。
パルティアの
アルサキド朝の分枝が2世紀にアルメニアを支配し、その分枝がイベリアのパルナマズ朝に取って代わった。
これはアルメニア王(おそらく
ヴォロガセス2世)の支援で貴族がアマザスプス2世(治世:185−189年頃)に
反乱した時に起きた。
ヴォロガセスはアマザスプの姉妹と結婚し、アマザスプの甥で息子の
レヴ1世(治世:189−216年)を王に据え、
アルサキド朝となった。
<参考>
アルサキド朝
イベリアのアルサキド朝は189−284年に存在、ホスロイド朝によって継承された。
アルサキド朝はアルメニア、イベリア、アルバニアの3コーカサス王国の王位を得たが、本国、イランでは226年、
ササン朝によって倒された。
ササン朝は親ローマのイベリアの政治傾向を変え、イベリアを貢納国にした。シャープル1世(治世:242−272)は、
ミフルダト2世(治世:249−265)に対し、重臣の
アマザスプス3世(治世:260−265)を対立王にした。
284年、
アスパクレス1世の死でイベリアのアルサキド朝は終わり、ササン朝はローマ帝国の内紛を利用し、彼らの候補、
ホスロイド朝の
ミリアン3世をイベリア王に据えた。
<参考>
ダリアル峡谷(ダリアル回廊)
ダリアル峡谷はロシアとジョージア国境にある河川峡谷。東はカズベク山(5054m)に発し、南はヴラディカフカズまで。
峡谷はテレク川によって刻まれ約13km。
ダリアルはペルシャ語でアラン人の門を意味するダル・イ アランから発生。
アラン人が紀元初めの世紀に回廊の北の土地を保持。
古代にはローマ人とペルシャ人によって要塞化。要塞はイベリア門、コーカサス門などとして知られた。
ダリアル回廊はササン朝が252−253年にイベリアを征服、併合し、ササン朝に陥落。
回廊の支配は628年、西突厥に移動、644年にはアラブ・ラシドゥン・カリフ国に移動。以降ジョージア王国が支配。
ここはイル・ハンと金帳汗国の戦場となった。ついでサファヴィー朝とガージャール朝が間接的に支配。
ロシアによる1801−1830年のジョージーア王国併合でロシアが占領。
ダリアル回廊はデルベント回廊とともにコーカサス山脈の重要な横断路であった。
少なくともBC150年に要塞化された。
1799年、ロシアがここを通る軍事道路を建設。
<参考>
イベリア(王国)
イベリア(イヴェリア、イヴィリア)は歴史的東ジョージア地域に存在した古代ジョージア人国家のカルトリの外部名。
西はコルヒダ、東はコーカサス・アルバニア、南はアルメニアと境する。ジョージア人と古代アルメニアとビザンティンの
著者が言及。
古代と中世初期に、イベリアは独立国家または特にササン朝とローマのような大帝国に従属した、コーカサスの
重要な君主国家であった。
歴史的、地理的名のイヴェリアはジョージアのアルメニア名ヴィルクに由来すると思われる。
イベリアの初期の歴史の書かれた資料は主に中世ジョージア年代記で、これは半伝説的物語である。
古代にクラ・アラクセス文化に起源を有するいくつかの部族がイベリア領域に住み、これをギリシャーローマ地理誌では
集合的にイベリア人と呼ばれた。
BC6−3世紀の転機に、地域の東ジョージア部族の長い発展の結果、現代のカルトリ地域に階級国家が形成された。
BC8−7世紀のスキタイ・キンメリアの侵攻後、コーカサスと中東に広がる、カルトリ王国出現に好都合な
民族政治的条件が促進された。
西ジョージア人のコルヒダ王国の勢力が非常に弱体化し、ウラルトゥとアッシリアのようなカルトヴェリ人国家の
厳しい敵が完全に消滅。
このような状況と、BC4世紀のアケメネス帝国の崩壊とが結びつき、東ジョージアの民族政治的真空がもたらされ、これは
若いカルトリ国家によって充たされた。
初期イベリアの階級分裂は始め非常に強固で、カルトリ農民の一部は自由に連合し、他は王族と貴族に従属した。
奴隷労働が宮廷経済と建築と他の重労働に使用された。後にイベリアの首都となるムツヘタが前国家期でもイベリア人居住地の
主要な地位を占めた。そこではウルブニシ、ウプリスツィヘ、その他の都市の様に手工業と商業が栄えた。
同時期、特にファルスマン2世(2世紀)の治世にイベリアの顕著な強化があった。
4世紀にイベリアで封建制度が発達し始め、318−332年にミリアン3世がキリスト教を国家信仰と宣言した。
4世紀末にイベリアはペルシャに従属し、重い貢納を課された。
5世紀中期にイベリア王ヴァフタング1世がササン朝への反乱の指導者となった。
ヘレニズム期にすでに、イベリアという言葉ははっきりした政治単位(国家)を意味し、これは現在のジョージアの南と東に
位置した。
この地域は、大部分、ジョージア人部族(カルトヴェリ・イベリア人)が住んだ。
ヘレニズム期に多くの部族連合が形成され、初期階級国家体制の始まりがすでに見られた。
アケメネス朝期にアリアン・カルトリという名で知られた地域にジョージア人部族の統一が存在し、これは、ペルシャ王国領の
東ジョージア人の統一を意味した。
BC3−2世紀に転機に、この連合はシダ・カルトリに勢力を拡大できた。このようにしてムツヘタ周辺を中心とする国家が
形成された。
ムツヘタの名は恐らく命を意味するジョージア語幹ムツフmtsxに由来するが、一般的には古代ジョージア人部族の一つ
メスヒに由来する。
メスヒは小アジアから到来し、ヒッタイト神(アルマジ、ザデニ)信仰をもたらし、これは徐々に最高神と考えられるようになった。
ムツヘタ周辺にはこの神のためにアルマツィヘとザデンツィヘの2つの大要塞が築かれた。
BC3世紀初めにコルヒダ王クジの支援でカルトリでファルナヴァズ1世が権力を獲得、彼はイベリア貴族出身でアレクサンダー大王
庇護のアゾンを倒し、最初に東ジョージア人王朝のファルナヴァズ朝を創建した。カルトリス・ツホヴレバ(12世紀に形成された
中世ジョージア年代記集)によれば、ファルナヴァズは歴史的ジョージアのほとんどをなんとか統一し、国を8つの統治区域に分割し、
そのうちの7つはエリスタヴィの地位を得た:アルグヴェティ;カヘティ;ガルダバニ;タシリとアボツィ;ジャヴァヘティ、コラ、
アルタアニ;サムツヘとアジャラ;クラルジェティ。
8番目の統治単位は中心地域のシダ・カルトリでトビリシとアラグヴィからタシスカリとパラヴァニ湖までで、これはスパスペト
(軍司令官)が統治。カルトリス・ツホヴレバによると別の自治政治体がエグリシ(コルヒダ)にあり、クジが統治した。
クジはマケドニアの庇護するアゾンとの戦いの提携者であった。このように、カルトリス・ツホヴレバによれば、イベリアは
その勢力がほとんどの歴史的西、東と南ジョージアに達した。しかし、初期段階のイベリアの領域については依然、議論がある。
ヘレニズム期のイベリアは初期階級の前封建国家であった。生産者の中心は自由農民と戦士であった。
征服された農耕部族は主に宮廷一族によって使用された。
住民の特権階級はまた軍事、宮廷貴族と聖職者によって代表された。
この時期、明確な王位継承原則は最終的には依然、認められてはいなかった。死んだ王の最も年長の縁者が王位に登った。
山岳地域の住民の習慣は低地の住民と非常に異なった。当時、彼らは依然、初期的共同体的制度で住んでいた。
BC65年、ローマ司令官グナエウス・ポンペイウスがイベリアに遠征。
激しく抵抗したが、イベリア王アルタク(
アルシャク1世の息子)はローマに降伏せざるを得なかった。
(アルタク→アルトケス、アルシャク→アルタクシアス)
しかし、むしろ、速やかに、イベリアはローマ従属を止めた。1−2世紀にイベリアは再びより強力になり、しばしば、南コーカサスと
中東のローマの敵となった。イベリアの強化はコーカサス山脈回廊支配の確立と北コーカサスに住む遊牧民の遠征での利用で
促進された。
1世紀後半には、イベリアはローマと友好的関係を維持したが、130−150年代に、ファルスマン2世治世でのイベリアの勢力の
最盛期に、ローマとの関係は複雑となった。ファルスマン2世は皇帝ハドリアヌスのローマ招待を無視し、その息子の
アントニウス・ピウスの治世に家族と多くの従者とともにローマを訪問した。皇帝はローマにイベリア王の騎馬記念碑を建てた。
支配王朝
ファルナヴァズ朝(BC299−189)
アルタシェス朝(BC90−30)
アルシャク(アルタシェス)1世
アルタク
ファルナヴァズ2世
ファルスマン1世
アルシャキド朝(189−284)
ホスロイド朝(284年以降)
(2)
ササン朝イベリア
ササン朝イベリアはイベリア王国がササン朝帝国の宗主権にあった時期を指す。
この時期はササン朝イラン王が指名したマルズバンに支配された、後にイベリア侯国を通して支配された。
ジョージア王国は3世紀以降、ササン朝とローマ・ビザンティン帝国によって争われた。
次の数百年の間、ビザンティンとササン朝はなんとかこれらの地域に覇権を確立した。
残りの少ない時期、ジョージア王がなんとか独立性を維持した。
ササン朝統治はシャプル1世の治世(240−270)に始めて確立された。
284年、ササン朝はイベリア王位にミフラン3世(284−361)の名から知られるミフラン家からのイラン公子を確保。
ミフラン3世はこのようにしてイベリア王国のミフラン家のホスロイド朝として知られるこの分枝の最初の当主となった。
その一員はイベリアを6世紀まで支配することになる。
363年、ササン朝の宗主権はシャプル2世(309−379)によって回復された。
彼はイベリアに侵攻し、アスパクレス2世(ミフラン3世の息子、363−365)を従臣としてイベリア王位につけた。
ビザンティンとササン朝ペルシャのコーカサスの支配権をめぐる争いは続き、グルゲンのもとのジョージア人の不成功の
反乱(523年)は国に厳しい結果をもたらした。以降、イベリア王は名目的で国はペルシャが実質的に支配した。
580年にバクル3世が死に、ホルミズド4世(578−590)下のササン朝はこの機会をとらえてイベリア君主制を廃止した。
イベリアはペルシャの州となり、指名されたマルズバンが直接支配した。
イベリア人貴族はこの変化を抵抗せずに黙従した。一方、王家の嗣子は高地要塞に撤退した−カヘティの主要なコスロイド系と
クラルジェティとジャヴァヘティの若いグアラミド分枝。
しかしペルシャの直接支配は重税とほとんどキリスト教の国に熱烈なゾロアスター教促進をもたらした。
そこで、582年に東ローマ皇帝マウリキウスがペルシャに軍事遠征に乗り出したときに、イベリア貴族は君主制回復を頼んだ。
マウリキウスはこれに応え、588年、彼が庇護するグアラミド朝のグアラム1世をイベリアの新しい支配者として送った。
しかしグアラムは王として即位せずに、支配する公子として東ローマの称号、クロパラテスを授けられた。
591年、ビザンティン・ローマ条約で新しい体制が確認されたが、イベリアはローマとササン朝支配のトビリシに分割された。
ムツヘタはビザンティン支配になった。
グアラムの後継者ステフェン1世は分割されたイベリア再統一の願いで彼の政治はペルシャを向き、目標が完成しそうに見えたが、
ビザンティン・ササン朝戦争(602−628)の間の、626年の皇帝ヘラクレイオスのトビリシ攻撃で、彼の妻が犠牲となり、
627−628年までにほとんどのジョージアはムスリムのペルシャ征服まで、決定的にビザンティンが支配するようになった。
<参考>
イベリア戦争
526−532年にササン朝従属国でビザンティンに寝返った東ジョージアのイベリア王国を巡ってビザンティンと
ササン朝の間で起きた。
530年まで、ササン朝が優勢であったが、ドラとサタラの戦いでビザンティンが巻き返した。
531年のカリニクムでのササン朝の勝利で、もう1年戦争は続いたが、532年、
永久和平が結ばれた。
542−525年にカヴァド1世は息子のホスロー1世をユスティヌス1世の養子にすることを提案。
ホスローの継承は宿敵の兄弟とマズダク教徒によって脅かされていたので、これによって継承を強化しようとした。
しかし、この交渉は失敗。
しかし、530年までは、国境では、両者は南はアラブ提携者の、北はフンの代理による戦争を選んだ。
両者の緊張はイベリア王グルゲンのローマへの寝返りで強まった。
プロコピウスによると、ササン朝のカヴァド1世はキリスト教徒のイベリア人をゾロアスター教徒にしようとし、
イベリア人は524−525年、グルゲンのもと、ペルシャに反乱を起こした。
グルゲンはユスティヌス1世からイベリアを護るという誓約を得、ローマはコーカサスの北から、フンをイベリア支援のため
募兵した。
両者が出会った種々の場所で戦争が激化。
525年にはイェメンを巡って、ローマとアラブ提携者(ラフム朝)が衝突。
526−527年までに、南コーカサスと上メソポタミアで両者の公然の戦いが勃発。
527年、ユスティヌス1世が死亡し、ユスティニアヌス1世が継承。
戦いは初期はペルシャに優位で、527年までに、イベリアの反乱は鎮圧され、ローマのニシビシとテベトへの攻勢は失敗、
タンヌリスとメラバサの要塞化の試みは阻止された。
528年、ペルシャはイベリアから東ラズィカ占領に押し進んだ。
この為、ユスティニアヌスは軍の再編成を行い、東方軍を2分割し、北部に別のアルメニアのマギステル・ミリトゥムを指名。
528年、ベリサリウスがタンヌリスに遠征、要塞化を守護しようとした。彼の軍は
タンヌリスの戦いで
クセルクスに敗北し、
ダラまで撤退せざるを得なかった。ペルシャの損害も大きかった。
一方で、シリア方面での状況は、ユスティニアヌスを提携(ガッサーン朝)強化に向かわせた。
530年、ベリサリウスのローマ軍は、はるかに大軍のペロゼスのペルシャ軍を
ダラの戦いで破り、一方、
シッタスとドロテウスはミフル・ミフロエの軍を
サタラの戦いで破った。
531年、ベリサリウスはペルシャとラフム朝勢力に
カリニクムの戦いで敗れたが、夏に、ローマはアルメニアのいくつかの
要塞を占領し、ペルシャの攻勢を跳ね返した。
ユスティニアヌスはカヴァドと交渉を開始しようとしたが不成功。
ペルシャは
マルティロポリスを包囲しようとしたが、532年、カヴァドが死亡し、包囲を放棄。
新しい交渉が新ペルシャ王ホスロー1世と始められ、532年に
永久和平がなった。
ローマはラズィカの要塞を取り戻し、イベリアはペルシャの手中に留まった。
この和平は、540年までしか続かなかった。
(3)
イベリア侯国 588−888
イベリア侯国(カルトリス・サエリスムタヴロ)は核ジョージア領域のカルトリ、すなわち古典著者のイベリアの初期中世貴族体制。
6世紀から9世紀の空位時代に栄え、主導的政治権威は公子の継承によってなされた。
侯国制はササン朝が地域王族ホスロイド朝を鎮圧してから、580年頃、間もなく確立され、888年、バグラティオニ朝によって
王権が回復されるまで続いた。
その国境は統治するイベリアの公子がペルシャ、ビザンチン、ハザール、アラブそして近隣のコーカサス支配者と対立するにつれて
この時期の間、非常に変動した。
バクル3世(バクリウス3世)が580年に死ぬと、ササン朝のホルミズド4世(578−590)はこの機会をとらえてイベリアの
君主制を廃止した。
イベリアはマルズパンが支配するペルシャの州となった。イベリア貴族は抵抗せず、この変化に従い、王族の後継者は高地要塞地に
撤退した、主
ホスロイド系はカヘティに、若い
グアラム分系はクラルジェティとジャヴァヘティに。
しかしペルシャの直接支配が重税とほとんどがキリスト教の国に強力なゾロアスター教推進をもたらした。
それで東ローマ皇帝マウリキウスが582年、ペルシャに対する軍事遠征に乗り出したときに、イベリア貴族は君主制回復を要請した。
マウリキウスはこれに応え、588年、グアラム朝の
グアラム1世をイベリアの新支配者として送った。
しかしグアラムは王として戴冠せず、公子として東ローマ帝国の称号クロパラテスを授けられた。
591年のビザンチン・ササン朝協定はこの新しい体制を確認したが、イベリアはローマとトビリシのササン朝支配部分に分割された。
グアラムの後継者、ステファン1世は彼の政治を分割されたイベリアの再統一を求めてペルシャに向いた。
しかし626年ビザンチン皇帝ヘラクレイオスはトビリシを攻撃し、ステファン1世は627年、戦いの間に殺された。
ヘラクレイオスはより親ビザンティン的なホスロイド朝の一員を復帰させたが、これは640年代にウマイヤ朝カリフの宗主権を
認めることを余儀なくされたが、680年代アラブ覇権に対し反乱し失敗した。
イベリア侯国を奪われ、
ホスロイド朝はカヘティの属領に引きこもり、そこで9世紀初期まで、家系が死滅するまで地域公子として
支配した。
グアラム朝が権力に復帰し、ビザンチンとアラブの間を策動するという困難な仕事に直面した。
アラブは主に都市と交易路の支配維持に関心をもち、彼らにトビリシを放棄させ、そこに730年代、ムスリムのエミールを置いた。
イベリアの王朝はウプリスツィヘにあり、そこで彼らは地域のジョージア領主に限られた権力を行使した。
領主は山の城に身を置き、アラブからある程度の自由を維持した。
グアラム朝は748−780年頃短期間、ネルシアニド王朝によって継承され、786年までに消滅した。
この年はコーカサスのアラブ総督(ワリ)のフザイマ・イブン・ハジムによって組織された反乱したジョージア貴族への血なまぐさい
弾圧で証言される。
グアラム朝の消滅とホスロイド朝のほとんどの消滅で彼らの精力的な縁者の
バグラティオニ朝が
アショト1世(813−826)が、
イベリアの一部を相続に付け加えた。
ビザンチンの保護を受けて、バグラティオニ朝は彼らの基盤のタオ・クラルジェティ領域から文化復興と地域拡大期を支配した。
888年、、バグラティオニ朝の
アダルナセ4世は長い宮廷闘争から勝利者として現れ、ジョージア人の王の称号を称して、
ジョージア王室の権威を回復するのに成功した。
グアラム1世(588−590頃):
グアラム朝。
ステフェン(ステパノズ)1世
アダルナセ1世(
ホスロイド朝):カヘティの
エリスタヴィ
ステフェン2世
アダルナセ2世(650ー684頃):息子は
ステパノズ2世(カヘティ公子)
グアラム2世(
グアラミ朝)(684−693頃):クラルジェティとジャヴァヘティ
グアラム3世
アダルナセ3世(
ネルシアニ朝) 748−760頃
ネルセ(760−772、775−779):アラブ支配に挑戦し、投獄され、775年解放されるが、再び逃亡を余儀なくされた。
ステフェン3世(
グアラミ朝)(779−786)
アショト1世(
バグラティオニ朝)(813−830):タオ・クラルジェティ
バグラト1世(830−876)
ダヴィド1世(876−881)
グルゲン1世(881−888)
(
アダルナセ4世)(888−923)
(4)
ホスロイド朝
ホスロイド朝またはイベリア・ミフラン朝は4−9世紀のイベリアの初期ジョージア人王国、後に侯国の王朝。
イランの
ミフラン朝起源で、キリスト教を公式宗教として337年頃(または319、326年)に受け入れ、独立を維持する
ためにビザンティン帝国とササン朝の間を行き来した。
580年頃のササン朝によるイベリア王権の廃止で一族は老ホスロイド朝と幼グアラム朝の2つの密接に関係する、
しかし時には競合する分枝として、イベリア王位をジョージア人バグラト朝によって継承される9世紀初期まで生き残った。
ホスロイド朝はイランの7大家の一つのミフラン家王侯の分枝でササン朝と遠縁で、その2分枝はアルメニアの
ゴガレネと
ガルドマンの王位に就いた。
284年にササン朝はミリアンをイベリア王に据えた。
ジョージア年代記によると、最初のホスロイド朝王
ミリアン3世(統治:284−361)は最後のジョージア人アルサキド朝王
アスパクレス1世の娘アベシュラと結婚していた。
ミリアンはカッパドキア使節、ニノによってキリスト教に転向した最初のイベリア王とされる。
298年のニシビシの和平で、ローマは東ジョージアへの宗主権を認められたが、ミリアンをイベリア王と認めた。
ミリアンは直ちにローマに接近した。しかしササン朝は、361年にミリアンのローマ支持継承者
サウロマケス2世を
親イランの
アスパクレス2世のために退位させた。
ローマ皇帝ウァレンスが介入し、370年にサウロマケスを復位させたが、アスパクレスの息子
ミフルダト3世
(統治:380−394)に王国東部支配維持を許した。
しかし380年までにササン朝は
アスパクレス3世(統治:380−394)にイベリアを再統一させることに成功した。
ローは387年のアキリセネ条約の余波でイベリアをペルシャへ失うことを認めた。
東ジョージアへのイランの影響はゾロアスター教促進を含め増加し、キリスト教会と貴族の一部によって抵抗を受けた。
ホスロイド朝王はキリスト教徒でありながら、一般的にイラン宗主権に忠実であったが、
ヴァフタング1世(統治:447−522)
は482年に政治的方向性を転換させ、国と教会を親ビザンティンにした。
彼はついでアルメニア公子
ヴァルダン・マミコニアンと提携し、ササン朝に抵抗し、死まで無駄な戦いを続けた。
522年のヴァフタング1世の死で、一族は衰退し、イベリアに限られた権威しかもてなかった。
バクリウス3世の580年の死で、ササン朝はイベリア人貴族から大した抵抗もなく君主制を廃止した。
王位を奪われて、ヴァフタング1世の継承者は山岳の要塞に留まった。老ホスロイド分枝はカヘティ、幼分枝グアラム朝は
クラルジェティとジャヴァヘティ地域。
グアラム分枝の
グアラム1世(統治:588−590)は588年にササン朝に反乱し、ビザンティン皇帝マウリキウスに忠誠を
示し、クロパラテスの称号を与えられた。
彼は侯国として独立を回復し、591年の和平でイランに認められた。
和平によってイベリアはトビリシでビザンティンとイランに分割された。
ステパヌス1世は忠誠をササン朝に移し、イベリアを再統一した。
やがて皇帝ヘラクリウスによって厳しく応答され、ヘラクリウスはハザールと提携し、イベリアに遠征し、627年の攻防後、
トビリシを占領。ヘラクリウスはステパヌスを生き剥ぎし、親ビザンティンのホスロイドのカヘティの
アダルナセ1世
(統治:672−637/642、
バクリウス3世の息子)に変えた。
ステパヌス2世(637/642−650)はアラブ・カリフ国に貢納することを認めさせられた。
アダルナセ2世(統治:650−684)の死で、競争相手のグアラム分枝が
グアラム2世(684−693)で権力を再獲得、
年長分枝は再びカヘティに撤退し、そこで
アルチルは786年にアラブによって殉教者となった。
アルチルの死で息子の
ヨアネは西ジョージアのビザンティン支配地域エグリシに避難し、その弟の
ジュアンシェル
(統治:786−807)はカヘティに留まり、ジョージア人バグラティオニ朝の祖
エルシェティ・
アルタニのアダルナセの娘ラタヴリと
結婚した。
<参考>
グアラム朝
グアラム朝はイベリアのホスロイド王室の幼(弟系)分枝で、レオの息子グアラム1世(統治:588−590)から始まり、この一族の
一員はイベリアをエリスタヴィとして588−627、684−748と779/780−786に支配、そのうちの3つは
クロパラテスの称号をビザンティン帝国によって与えられた。
この分枝はイベリア王ヴァフタング1世とビザンティン皇帝の縁者の第2の妻ヘレナの息子レオの血を引く。
レオと兄弟のミフルダトはイベリア王国の西部を与えられ、これはクラルジェティ、オドズルヘの公国とツンダ公国の西半分からなり、
しかし、すぐに老(兄系)ホスロイド系によって奪われ、クラルジェティとジャヴァヘティが残された。
グアラム朝は結婚によってジョージアの主導的王家、ホスロイド、ネルシアニとバグラティオニ朝と縁者であった。
バグラティオニ朝の場合、グアラム3世(統治:779/780−786)の娘と逃亡中のアルメニアのバグラトゥニ公子ヴァサク
との結婚で新しいバグラティオニ朝が生まれ、これは後に最後の最も長く続いたジョージア支配一族となった。
グアラム系の8世紀末期までの廃止で、バグラティオニ朝が再び以前のグアラム朝国を継承した。
<参考>
ネルシアニ朝
初期中世ジョージア王家で5世紀末期、
ヴァフタング1世の治世に出現し、2度、アダルナセ3世と息子の
ネルセがイベリアの
エリスタヴィを748−779/780年に得た。アダルナセはビザンティンのクロパラテスの称号を得た。
一族はグアラム朝と
グアラム3世の息子とアダルナセ3世の娘との結婚で縁者となった。
ネルセはアラブによって退位させられ、姉妹の息子
ステパノズ3世(治世:779/780−786)が地位を得た。
(5)
バグラティオニ朝
バグラティオニ朝はジョージアを中世から19世紀初期まで支配した、世界で最も古い現存するキリスト教王朝。
ギリシャ風にジョージア・バグラティドとも呼ばれる。
歴史家のキリル・トゥマノフはアルメニア人のバグラトゥニ朝との共通の起源を主張するが、他の資料はジョージア人起源を
主張する。
初期ジョージア・バグラティドは王朝間結婚で8世紀末にホスロイド朝を継承し、イベリア侯国を得た。
888年に
アダルナセ4世はジョージア君主制を回復し、ついで種々の土着政治体がジョージア王国に統一。
これは11−13世紀に繁栄。
特に、ダヴィド4世(1089−1125)と曾孫のタマル(1184−1213)の治世にジョージア史でのジョージア黄金時代を築いた。
15世紀末の統一ジョージア王国の分解で、その分枝は3つの分裂したジョージア人王国、カルトリ王国、カヘティ王国と
イメレティ王国を19世紀初期のロシア併合まで支配した。
起源
バグラティオニ朝は、11世紀から王朝の
ダヴィデ王の子孫というユダヤ起源説を有する。彼らは530年頃イスラエルから
来たとする。
伝説ではダヴィド系の7人の避難兄弟のうち、3人はアルメニアに住み、4人はカルトリに到着し、そこで彼らは
地域支配一族と通婚し、いくらかの世襲領土を得た。4人の兄弟の一人、グアラム(532年死亡)が息子のバグラトに
ちなんで呼ばれるバグラティオニを創建。後継者の
グアラム(グルゲネス)はビザンティン保護下でイベリアの統治公子に据えられ、
575年、クロパラテスの称号を得た。
キリル・トゥマノフによると、ジョージアのバグラティド朝は
アダルナセという名のアルメニアのバグラティド朝から分枝し、その父
ヴァサク(アショト3世、732−748年のアルメニアの統治公子の息子)は775年のアラブ支配への反乱に失敗し、カルトリに渡った。
アダルナセの息子
アショト1世は813年、イベリア侯国を得て、ジョージアの最後の王朝を創建。
ジョージア人歴史家ニコ・ベルジェニシュヴィリによると、バグラティオニ朝は最古のジョージア地域スペリから派生。
彼らはその手腕で6−8世紀に大きな影響を与えた。その1分枝がアルメニアに、他はイベリアに移り、両者は南コーカサス
支配者のなかで、支配的地位を勝ち取った。
歴史
初期王朝
バグラティオニ一族はジョージア君主制が6世紀にササン朝に陥落したときまでに著名となり、そして中心的地域支配者一族は
アラブの攻撃で消滅した。新王朝の勃興はグアラム朝の廃止と、ホスロイド朝の廃止状態で可能となった。
イベリアの2つの初期王朝とバグラティオニ朝は積極的に通婚した。
またアッバース朝が内紛状態で、更にビザンティン帝国とも衝突していた。
アラブ支配はバグラティオニ朝がトビリシと東カルトリに拠点を築くことを許さなかったが、彼らはクラルジェティとメスヘティの
彼らの始めの領土を維持でき、ビザンティン保護下で領土を南方へ拡大し、タオ・クラルジェティとして知られる大政治体を
形成した。
813年、アショット1世によって新王朝はイベリアのエリスタヴィの相続称号を得、これに皇帝はクラパラテスという名誉的称号を
付け加えた。
君主制が復活したがジョージアの土地は競争相手に分割されたままであった。トビリシは依然アラブ人の手にあった。
アショット1世の息子と孫たちは3つの分枝、カルトリ、タオとクラルジェティ系を確立し、しばしば互いに、そして近隣と戦った。
カルトリ系が優勢となり、888年、アダルナセ1世によって、580年以来のイベリア固有の王権を回復した。
その子孫のバグラト3世はタオ・クラルジェティとアニハジア王国の相続を確固とさせた。これは主に養親のタオのダヴィド3世の
精力的外交と征服による。
黄金期
統一王国はビザンティンとセルジューク帝国からの不安定な独立を11世紀中維持し、ダヴィド4世はセルジューク攻撃を跳ね返し、
1122年にトビリシを再征服し、ジョージア統一を完成させた。
ビザンティンの衰退とセルジューク帝国の解体でジョージアは東方キリスト教の秀でた民族の一つとなった。
その汎コーカサス帝国はその最大時には北コーカサスから北部イランまで、西方は小アジアまで拡大した。
繰り返す王朝抗争にもかかわらず、王国はデメトリオス1世(1125−1156)、ゲオルゲ3世(1156−1184)と特に
その娘タマラ(1184−1213)の時代に繁栄し続けた。
ゲオルゲ3世の死で主男系は途絶し、王朝はタマラのハザール王子ダヴィド・ソスランとの結婚で継続した。
転落
1225年のホラズムと、1236年のモンゴルの侵攻でジョージア黄金時代は終わった。
モンゴル支配への戦いで、イメレティを支配するバグラティオニ分枝が生まれた。
ゲオルゲ5世のもとで、短い再統合と復活があったが、ティムールの1386−1403年の襲撃はジョージア王国への強力な
打撃となった。
約1世紀後、その統一は最終的のカラ・コユンルとアク・コユンルによって破壊された。
1490/1491年までに、君主制はカルトリ(中央から東)、カヘティ(東)とイメレティ(西)の3つの独立王国に解体した。
その各々がバグラティオニ朝の競争分枝であった。更にその固有の封建一族が支配する5つの半独立侯国、オディシ・ミングレリア、
グリア、アブハジア、スヴァネティとサムツヘ。
引き続く3世紀に、ジョージア支配者はその危うい自立を、オスマンとペルシャのサファヴィー、アフシャールとガージャールのもと
従臣として維持した。この時期多くのジョージア人支配者が必要性のためにイスラムに転向した。
1762年、
エレクレ2世がカヘティとカルトリを統一。カルトリは1658年以降、
ムフラニ分枝の男系で生き残っていた。
最後の君主
1744年、エレクレ2世とその父テイムラズ2世はナーデル・シャーからカヘティとカルトリの王権をそれぞれ与えられた。
1747年のナーデル・シャーの死後、エレクレ2世とテムラズ2世はこれを利用し、事実上の独立を宣言。
1762年にテイムラズ2世が死亡し、エレクレ2世が父をカルトリ支配者として継承し、2つの王国を同君連合により
カルトリ・カヘティ王国として統一、3世紀間、政治的の統一された東ジョージアを支配する最初のジョージア支配者となった。
エレクレ2世(ヘルクレス)はある程度の安定をカルトリ・カヘティの成し遂げ、南コーカサス東部に政治的覇権を確立した。
1783年のゲオルギエフスク条約で王国を帝国ロシア保護下においた。しかしロシアはペルシャのアガー・モハンマド・ハン・
ガージャールが1795年に、トビリシを占領し略奪した時に支援に失敗し、、ペルシャが再びこの地域に覇権を確立したとき、
ジョージアとロシアの結びつきは切れた。
1798年のエレクレの死後、息子で後継者のゲオルゲ12世はパーヴェル1世に新たに保護を求め、エレクレの息子や孫との
内紛で、介入を急き立てた。パーヴェルは一定の内部自治での、カルトリ・カヘティ王国のロシア帝国編入を提案し、1799年、
ロシア軍がトビリシに進軍。交渉中に1800年、ロシアは、カルトリ・カヘティを併合。
1801年、皇帝アレクサンデル1世はバグラティオニ朝をジョージア王座から退位させた。
イメレティのソロモン2世は1804年、ロシアの従臣となり、1810年、退位させられた。
名目的王(タオ・クラルジェティ公子)
アダルナセ4世(888−923)
ダヴィド2世(923−937)
(
アショト2世):クロパラテス
スムバト1世(937−958)
バグラト2世(958−994)
グルゲン(994−1008):994年からジョージア人の王たちの王
(バグラト3世)
*参考 ⇒
ジョージアの歴史概要