サルバドール・アジェンデ・ゴセンス 1908年6月26日−1973年9月11日
Salvador Allende Gossens


英語版Wikipediaから

初期

 アジェンデは1908年、バルパライソという港町で生まれた。
 彼はサルバドール・アジェンデ・カストロとラウラ・ゴセンス・ウリベの息子である。
 アジェンデはバルパライソのEduardo de la Barra高校(リセ)とチリ大学医学部
で学び、1933年に医学位を得て卒業した。
 彼はオルテンシア・ブッシと結婚して3人の娘をもうけた。

 1933年、アジェンデはバルパライソでチリ社会党を共同で設立し、その指導者
となった。

 1934年、彼はペドロ・アギーレ・セルダに率いられた3つの人民戦線政府のひとつの大臣となった。
 彼はまた別に内閣大臣cabinet minister, 議員deputy, 上院議員senatorを努め、ついに1966年から
チリ上院議長になった。
 彼はペドロ・アギーレ・セルダ政府で厚生Health大臣となり、そのため1937年にバルパライソで勝ち
得た議席をさらざるを得なかった。
 その頃彼はチリの「社会的・医学的現実」という本を書いた。
 ペドロ・アギーレ・セルダの死後、議会Parliament に復帰した。

 1945年、彼はValdiviaLlanquihueChiwaloeAisenMagallanes地域の上院議員を努めた。
 1953年にTarapaca、Antofagasta の、1961年にAconcaguaValparaiso;の、1969年に再び
Chiloe,、AisenMagallanesの(ここは勝利の困難な地域であった)の上院議員を努めた。

 1966年から彼は満場一致で上院議長を努め、そのため辞職するとき、El Mercurioという彼の最大の
敵の新聞から賛辞を受けた。
 1952年、1958年、1964年の選挙での大統領への挑戦はいずれも失敗し、彼の墓銘は”ここに次期
大統領が眠る”となるであろうと揶揄された。
 1952年にはわずか5.4%得ただけであったがそれは部分的にはカルロス・イバニェスCarlos Ibanez
を支持した一部の社会主義者との分断と共産主義の禁止によるものであった。
 1958年には社会主義者と共産主義者の連合(人民行動戦線FRAP )の大統領候補として28.5%を得た。
 このときの彼の敗北は人民主義populist候補Antonio Zamoranoによるもので彼がアジェンデから大衆の
票をある程度奪い取った。
 1964年には再びFRAPの候補として立候補したがキリスト教民主党のエドワルド・フレイEduardo Frei
55.6%を獲得し彼は38.6%しか獲得できなかった。
 選挙はアジェンデとフレイの争いとなり、当初過激なJulio Duranに投票しようと考えた右派はよりましな
候補lesser evilとしてフレイを受け入れた。

 アジェンデは熱心なマルクス主義者であり、率直に資本主義を批判した。
 彼は合法的手段による広範囲な社会改革を主張した。
 このためJ.Fケネディからリチャード・ニクソンに至るアメリカ合衆国の大統領にアジェンデは極めて不人気な
人物であった。
 彼らはチリが共産主義国家となりソ連の影響下に入る危険性があると信じた。

 アメリカはチリに対し具体的経済利害があり、ITT, AnacondaKennecott
や他の企業は民族化ないしは没収されるおそれがあった。
 ニクソン政権はとりわけ強くアジェンデに敵対し、ニクソンは公然と敵意
を認めた。
 アメリカ政府は保守党候補ヨルヘ・アレッサンドリと同盟する政党に資金
援助し、アジェンデ選出の阻止を企てた。
 アジェンデもまた外国の共産主義・社会主義組織の財政支援を受けた。

選挙

 アジェンデはついに1970年に人民連合の候補としてチリ大統領選に勝利した。
 1970年9月4日に36.2%を得て元大統領Jorge Alessandriの34.9%、第三候補のキリスト教民主党
Radomiro Tomic27.8%に辛勝した。
 キリスト教民主党のトミッチの選挙基盤は極めてアジェンデと近かった。
 チリ憲法ではどの候補も国民選挙で絶対多数を獲得できなかったときはチリ議会が高位得票の二者から
勝者を選出することになっていた。
 伝統としては議会は最大多数の候補を選出することになっており、1958年には国民選挙でわずか31.6%
しか獲得しなかったヨルヘ・アレッサンドリが選出された。

 ソ連とアメリカの超大国は選挙に投資した。
 KGBはアジェンデのしらないキャンペーンに42万ドル使用し、一方ITTはアレッサンドリにすくなくとも35万
ドル与えた。
 CIAはアレッサンドリの勝利を確信していたので、アレッサンドリへの直接資金援助を意味あると思わなかった。

 しかし9月4日の結果は右翼にとって悲惨だったのでニクソンはCIAによって"Track One"と"Track Two"
として知られるアジェンデの選出を阻止する計画を命令した。
 1970年の選挙のあとCIAはチリの元大統領のフレイに彼の党(キリスト教民主党)が議会でアレッサンドリへ
投票することを説得するように働きかけた。
 計画ではアレッサンドリはただちに彼の職を棄てて、それを受けて新しい選挙が行われるはずだった。
 フレイはそのとき憲法上再出馬可能であった。
 なぜならチリ憲法は大統領の二期連続就任を禁止してはいたが、連続しない多選は禁止していなかったから
である。そしておそらくフレイは容易にアジェンデを打ち敗るであろう。

 しかし結局、議会は計画を拒絶し、アジェンデがチリ憲法を尊重し、それに従い、彼の社会主義改革は憲法の
どの要素も侵食しないという確認の憲法保証令に署名することを条件にアジェンデを大統領に選出した。
 アジェンデは1970年11月3日に大統領に就任した。

大統領期間

 就任のあとアジェンデは”社会主義へのチリの道”と呼ばれるチリにおける根底的な社会主義計画の実施の
彼の綱領の実行に着手した。
 これは広範囲な産業(著名な銅鉱山と銀行)の民族化、健康管理制度の完全な改革、教育制度の改革、
子どもへの無料ミルク計画と前任者のフレイの農地改革の継続を含んでいた。
 チリの大統領は最大六年の就任しか許されていなかった。それがアジェンデが経済再編を急いだ理由であった。
 彼は重大な再編計画を組織するだけでなく、それはもしアジェンデの後継者が選出されても成功しなければ
ならなかった。
 新しい超過利益税excess profit tax が創られた。
 政府は外国負債の支払い猶予と外国政府と国際債権者の債務不履行を宣言した。
 アジェンデはまたすべての価格を凍結し、一方で給与を上げた。
 これらの改革を遂行する政府の努力は土地所有者、いくつかの中間階層集団、右翼民族政党、ローマ・
カトリック教会(教育改革の方向に不満だった)の、そしてその結果キリスト教民主主義者の強い反対を喚起した。
 
 彼の政府の中心政策としてアジェンデが重視した農地改革はすでに彼の前任者のフレイのもとで始められて
いた。
 フレイは五分の一から四分の一の引き受けてのある所有地を没収した。
 アジェンデ政府の計画は8ヘクタール以上の基本的に灌漑されたすべての所有地を差し押さえるものだった。
 アジェンデはまたチリの貧しい市民の社会経済福祉の改善を目指していた。
 鍵は新しく民族化された企業か公的労働計画による雇用の供給であった。

 アジェンデ政権の最初の年では経済大臣Pedro Vuskovicの拡大金融政策の短期経済の結果は明らかに
好ましいものであった。
 12%の産業成長と8.6%GDP増加とインフレ(34.9%から22.1%)と失業(3.8%への低下)の大きな
低下を伴った。
 しかしこれらは持続しなかった。1972年にはチリのエスクード(チリ通貨単位)はインフレで140%膨張した。
 インフレと政府の強制価格固定政策が結びついて米、豆類、砂糖、小麦粉の闇市場と、そのような主要商品
の市場の棚からの消失が起った。

 1971年には西半球の国ではないような米州機構の前から確立している慣例(メキシコだけが例外でその
ような慣例の採用を拒否していた。)にもかかわらずキューバとの外交関係再建に引き続き、キューバの
カストロ首相のチリへの一ヶ月訪問が行われた。
 この訪問のあいだカストロは国内政治に積極的に関与し、大衆集会を開き、アジェンデに公の助言を与え、
これらは”社会主義へのチリの道”はチリをキューバと同じ道にさせる努力であるという見解を立証する政治的
右翼のために利用された。

 1972年10月には初めていくつかのチリ社会の歴史的な富裕層による対抗的ストライキの波が起った。
 トラック所有者のストライキには小事業家、いくつかの労働組合(ほとんどは専門家の)、学生集団が参加した。
 経済への不可避な損失以外に24日間ストライキの主な効果は陸軍の指導者のCarlos Prats将軍の内相
としての政府参加をもたらした。
 2000年に公開されたCIA報告はCIAのこのトラック・ストライキへの財政支援を認めている。

 早期に議論された雇用供給に加えて、アジェンデは1970年から1971年の間、何回か賃金を上げた。
 これらの賃金上昇は継続的食糧価格上昇で相殺された。
 フレイ政権のもとでも価格上昇は高かったが(1967から1970年の間に27%)、1972年8月には
基本消費商品は1ヶ月だけで120%、190エスクードから421エスクードに上昇した。
 1970−72年の、アジェンデ政権の間、輸出は24%低下し輸入は26%上昇し、食糧の輸入は149%
増と見積もられる。
 名目賃金は増加したがそれに応じたチリ市民の生活水準の上昇はなかった。

 輸出の低下はほとんど銅価格の低下による。チリは単一の最重要輸出品の価格の国際変動に翻弄
されていた。
 ほとんどの大半の発展途上国と同様に、チリの50%以上の輸出受け取りはたった一つの基本的
必需品だった。
 銅国際価格の相反する変動は1971−72年にはチリ経済に不利に影響した。
 銅価格は1970年のピークのトン66ドルから1971年と72年のトン48ドルに低下した。
 この銅価格の低下は経済援助の欠如と結びついて1973年後半の出来事に至る経済状況をもたらす。

 大統領の間、アジェンデはチリ国会と不和であった。国会はキリスト教民主党に支配されていた。
 キリスト教民主党は1970年の選挙では左翼的立場で運動をしたが、アジェンデの大統領の間徐々に
右に移動し始め、ついには右翼の国民党と同盟した。
 彼らはアジェンデがチリをキュ−バ型独裁制にしようとしていると非難し続け、彼の多くのより急進的改革を
ひっくりかえそうとした。
 アジェンデと議会のその反対者は繰り返し互いにチリ憲法を侵食し、非民主的に振舞っていると非難し合った。

 アジェンデの増大する大胆な社会主義政策(部分的には彼の同盟者内部の急進的部分からの圧力の対応)は
彼の密接なキューバ接触と結びついて、ワシントンの恐怖を増大させた。
 ニクソンの指令はチリに対する多数の国の組織による経済圧力の行使を取り始め、チリ国会のアジェンデの
反対者を支援し続けた。
 彼の選出のほとんど直後にニクソンはCIAと米政府役人にアジェンデ政府に圧力をかけるよう指示したが、
これがアジェンデの転落にどの程度影響したかははっきりしない。

武力政変(クーデター)

 クーデターの恐れは現実に起るまえから長いあいだ広まっていた。少なくとも1972年
からうわさはあった。
 1973年には一部はアジェンデの反市場、反私有財産政策と一部は銅価格(チリの
主要輸出品)の急速な低下により、経済は非常な低下を示した。
 9月までに超インフレと物資不足は国をほとんど無秩序に陥れた。
 
 経済指標の低下にもかかわらず、アジェンデの人民連合は1973年始めの議会選挙
で得票を43%に着実に増やした。
 しかしこの点ではキリスト教民主党との非公式な同盟で始まったのが、今やキリスト
教民主党はアジェンデ政権に敵対する右翼の国民党と同盟し、両者はそれを民主同盟
と呼んだ。
 行政と立法の間の衝突は両者間からの主導を麻痺させた。

 1973年6月29日、陸軍大佐Roberto Souper指揮下の戦車部隊が大統領宮殿を荒々しく取り囲んだが、
クーデターは失敗した。
 8月9日にはプラッツ将軍が防衛大臣になったが、この決定は軍に不評で8月22日には彼はこの地位だけで
なく、陸軍最高指揮官の役割の辞任もせざるをえなかった。
 陸軍最高指揮官はピノチェトが取って代わった。
 数ヶ月の間、政府はcarabinerosとして知られている国家警察の召集を彼らの忠誠心不足から躊躇していた。
 1973年8月、憲法上の危機ははっきりと近かった。
 最高裁は政府の国法実行の無能性を公に非難し、8月22日、議院(キリスト教民主主義者は今や強固に
国民党と結びついていた)はアジェンデの非憲法的行為を非難し、軍務大臣に憲法秩序の保証を要求していた。

 1973年9月始め、アジェンデは危機解決のための国民投票の考えを思いついた。
 そのような解決策を述べるアジェンデの演説は9月12日に予定されていた。
 しかし彼はそれを伝えることができなかった。

 1973年9月11日、ピノチェト将軍に率いられたチリ陸軍はアジェンデに
対する1973年のチリクーデターを上演した。

 モネダ大統領宮殿の捕獲のほんの寸前に、銃声と爆音がはっきりと聞こ
える背景で、アジェンデはチリへの愛情と未来への深い信念について、
過去時制で彼自身話しながら、生放送でチリ国民への有名な別れとなる
演説をした。
 アジェンデははっきりと最後まで戦うことを示しながら、彼のチリへの
係わり合いで彼が安易な道をとることや彼が反逆者(安全通行の申し出を
受け入れた)と呼んだ連中によって宣伝道具として利用されることはでき
ないと述べた。
 
 間もなくアジェンデはマシンガンで自分を撃って死んだ、その銃には”フィデロ・カストロから私のよき友サルバ
ドーレ・アジェンデへ”という刻印が彫られた金板が取り付けられていたであろう。
 その当時そしてその後長い間、彼の支持者の多くはクーデターを演出した軍隊によって彼は殺されたと推定
したが、近年は彼が自殺したという説がより受け入れられるようになった。
 特にDr. Patricio Guijon(モネダ宮の診療陣の一員、時々報告されるアジェンデの個人的医師のDr. Enrique
Paris Roaでない)と、彼の死まで一緒にいた二人の密接な仲間のニュースとドキュメンタリー・インタビューでの
証言で自殺の詳細が確認できる。

 またいつも率直に話す彼の妻を含むアジェンデの直接の家族が決して自殺説に反駁しなかった。

 クーデターの前、米国はチリの政治に関与いたが、クーデター自身へのへの関与の度合いは議論がある。
 CIAはチリとの接触によって前もってクーデターが二日に差し迫ることを通告されていたが、それにはクーデター
には直接の役割は果たしていないと反論している。

 ピノチェトが権力を握ってから、米国報道官のキッシンジャーはニクソン大統領に米国は”それ(クーデタ自体に
言及して)をやってやってはいない”が経済的強制を含めた”できるだけ可能な状況を作った”と言った。
 最近公開された文書には米国政府とCIAはアジェンデが政権をとる直前から、そのときの軍最高司令官
シュナイダー将軍Rene Schneider の命を奪った事件によって1970年に彼を打ち倒そうとしていた
Project FUBELT )ことが示されているが、彼らが1937年クーデターに直接関与したという主張は公に利用
可能な書類証拠では証明されない。
 多くの関連する可能性のある文書はまだ機密である。

遺産と議論

 彼の死から30年以上たって、アジェンデは依然議論のある人物である。
 なぜなら彼の人生は彼の大統領職が終わる前に終わったから、彼が依然権力に
とどまることができたたらチリがどうなったであろうか、について多くの推測があるから
である。

 アジェンデの話題は共産主義政府はいまだかつて民主的選挙で選ばれたことが
あるかという議論でしばしば引用される。
 多くの人々はアジェンデが民主的選挙で合法的に勝ったことを主張するが、この
ことの重要性は彼が国民投票で相対多数であっただけであって、絶対多数でなかっ
たことにより議論となる。
 しかしながらこのような票決様式は代表制民主主義では決してまれなことではなく、
クリントン、ジョージ・ブッシュ、サッチャー、ブレアそしてニクソンまでが国民投票で
絶対多数でなく選ばれた指導者なのである。

 彼の支持者は、彼がはっきりとした絶対多数を勝ち得なかったのはキリスト教民主
主義者のトミッチがアジェンデと同様の左翼的基盤にあり左翼票が分裂したからであると主張する。
 トミッチとアジェンデの票を合わせると64%であり、はっきりした絶対多数である。
 一方アジェンデの反対者はアジェンデは投票者の期待した以上に左にいったと主張し、キリスト教民主党は
後に右翼と同盟し、アジェンデを政権から取り除くために軍の介入に擁護的であったことを指摘する。
 
 アジェンデは政治的左翼の多くから英雄視されている。彼を社会主義のために死んだ殉教者とみる人もいる。
 彼の顔は有名なチェ・ゲバラ像のようにマルクス主義の象徴として様式化され再現されている。
 米国、とりわけキッシンジャーとCIAが彼の死に責任があり、彼はアメリカ帝国主義の犠牲者であるとみる人も
いる。

 アジェンデを非常に好ましくないと見る人もいる。
 彼は彼の政府が私的産業の多くを民族資本化したと批判され、左翼革命運動のようなより戦闘的グループに
好意的であったと断言され、彼の大統領期の後半の年に起った物資不足と超インフレなどが結びついて彼の
人気の深刻な低下を引き起こし、クーデター期のキリスト教民主党の反対を受けた。
 彼はまた独裁的やりかたをとり、議会を欺こうと試み、批判的メデアに対し敵対的態度をとったと非難される。

 一般的そしてもっと厳しい批判は彼がフィデロ・カストロと東側の国々に接近したことにより、彼はチリを
キューバ風独裁に変えようと計画していたというものである。
 そのような主張は大きな議論となっており、軍事政権によって公開された”Z計画”なるものは偽りの宣伝で
あることがわかった。(Z計画ではアジェンデ政権は軍に先立って血なまぐさいクーデターを起こし彼を独裁者
にしようと計画していたといわれる。)

 最近の議論はベルリン自由大学のVictor Fariasの最近の本の主題であるアジェンデの1993年の博士論文
”精神衛生と怠惰”によって巡らされている。
 ファリアスは彼の本のなかでアジェンデは人種主義と反ユダヤ主義的意見をもっていたと主張している。
 しかしこれらの主張は最近アジェンデ財団によって反駁されている。
 財団はアジェンデは単にイタリアの人種主義者のCesare Lombrosoを引用しているだけで、彼自身はこの
理論に批判的であると主張している
 ファリアスは彼の本に見られる主張を維持している。

 アジェンデを退けたクーデターへの米国の関与の性質については冷戦間の米国の行為の文脈で依然として
熱い議論の話題である。
 この時期ラテンアメリカでは幾つかのクーデターがあるが、アジェンデの転落はそのなかのもっとも議論の
あるものである。

 KGB文庫の記録によればチリのKGB担当武官 Svyatoslav Kuznetsov は幹部により”チリ政府の政策に
好ましい影響を及ぼす”ように指導されていた。
 タイムはMitrokhin文庫の巻Uから歴史家Christopher AndrewとKGBの転向者Vasili Mitrokhinの次の
ような言葉を引用している。
 ”KGBの観点からはアジェンデの基本的失敗は彼が進んで彼の反対者に力を行使しなかったことにある。
 国のすべての機構に完全な支配を確立しなければ彼の権力保持は安全ではない。”

 彼は”信頼関係を強固にする”ためと”価値ある情報”を提供するためソビエトから3万ドル受け取った。
 アジェンデのKGB文書によると彼は”チリ軍と情報機関の再組織化とチリとUSSRの情報機関が関係をもつ
ことの必要性を理解するよう説得され”、彼は積極的に反応したと言われる。
 1972年6月、クズネツォフとアジェンデの密接な関係は新しいソビエトの大使でソ連共産党中央委員会
メンバーAleksandr Vasilyevich Basovのサンチャゴへの到来で乱されたようである。
 1972年、モスクワはアジェンデ体制の将来への評価を格下げした。
 CIAに資金援助された”トラック業者のストライキ”は現実的に3週間経済を麻痺させ、それをモスクワは人民
連合政府の弱点の証拠とみなした。

 アジェンデは熱烈な愛国者であった。
 その愛国者としての情熱は祖国の労働者や農民、婦人、青年とりわけ非遇な子供たちに注がれていた。
 国家は彼らのためにあり指導者は彼らの幸福のために献身すべきというのが彼の信念であった。
 どこかの国の権力者たちのように国民は国家(=権力者の欲望と企業の利益)に服従すべき、
国民は国家に奉仕すべきというのとは正反対であった。

引用

 サルバドール・アジェンデによる
 
 ・”ブルジョワ国家については我々はそれを打ち破り、打ち倒すよう努力している。”
  −フランス・ジャーナリストRegis Debrayとのインタビューで1970年。

 ・”私はすべてのチリ人の大統領ではない、わたしはそう言うほどに偽善者ではない。”
  −公演会で、すべてのチリの新聞に引用、1971年1月17日

 ・”チリ万歳、チリ人民万歳、チリ労働者万歳” 
  −最後として知られている言葉(1973年9月11日の朝のラジオ放送)

 ・”私はキューバに何回もいったことがある、私はフィデロ・カストロと何回も話し、エルネスト・ゲバラをよく知る
 ようになった。私はキューバの戦いとその指導者を知っている。しかしキューバの状況とチリは非常に異なる。
  キューバは独裁制に由来する。私は25年間の議員から大統領になった。”.[13]
  同じインタビューから”私には経験があり、それをチリの道、チリの問題に利用している・・・我々は誰かの心を
 植民地化するためにここにいるのではない。”

 サルバドール・アジェンデについて

 ・”その国の国民の無責任さによってその国が共産主義国家になっていくのをなぜ傍観あるいはじっと
 見ている必要があるの私にはかわからない。
  問題はチリの投票者にかかっていることが重要すぎて彼ら自身が決定することができないことである。”
  −ヘンリー・キッシンジャー

 ・”アジェンデが権力を握るのを阻止するまたは彼の地位を奪うような(チリ)経済情勢にしろ。”
  −リチャード・ニクソン

 ・”クーデターによってアジェンデが倒されるというのが確固とした持続的政策である。これは10月24日
 以前に起ることが好ましいが、この件についてこの日を過ぎても努力は勢力的に続けられるだろう。
  この目的のためにすべてのふさわしい手段を利用して我々は最大限の圧力を発し続けるつもりだ。
  USGと米国の手が隠されるようにこれらの行動が秘密に安全に行われる必要がある。”
  −チリのCIA根拠地への伝達、1970年10月16日発行。

 ・”アジェンデ政権下のチリにはナットあるいはボルトひとつやらない、いったんアジェンデが政権についたら
 力のかぎりできることをしてチリとすべてのチリ人にできる限るの損失と貧困を与える。”
  −米国のチリ大使Edward M. Korryがアジェンデの選出を聞いて。

 ・”アジェンデは全権力を握るつもりだ。それはプロレタリアート独裁を装った共産主義専制である。”
  −チリキリスト教民主党の国会宣言、1973年5月13日。

 ・”この地域のすべての指導者のなかで、アジェンデが一番我々に不利益である。彼はいわばカストロ派
 であり、米国に敵対している。彼の内政はチリ民主主義と人権を脅かしている。”
   −ヘンリー・キッシンジャー、Years of Renewal (1999年出版)

 ・”人民連合政府は社会主義への純粋な平和的移行を打ち立てる最初の試みを意味する。
  その社会主義は起源的には、権威的官僚でなく、民主的自己統治によって導かれるべきものである。”
   −ラテンアメリカに関する北米会議 (NACLA) 編、2003年7月


 アジェンデ演説集・・・アジェンデの思想を知るために

 勝利演説 9月5日
 勝利記念演説 11月5日
 最初の国会演説(社会主義革命について)
 コンセプシオン大学での演説(学生、青年に向けて)
 国連演説 1972年12月4日
 社会党40周年記念
 最後の演説



サルバドール・アジェンデ 年譜


家族

 アジェンデ一族の起源はスペインのバスクvascoにある。
 彼らの先祖は17世紀にチリに来、19世紀の前半以来貴族社会で目立ち始めた。
 より際立ったのは祖父のラモン・アジェンデ・パディン(エル・ロホ:赤)で、彼は急進党員で
フリーメイソンの大指導者であった。

 彼の息子のサルバドール・アジェンデ・カストロも急進党員でフリーメイソンであった。
 彼はバルパライソの港で官吏および公証人として働いた。
 彼はその才能、詩の才能(彼の父同様)とタクナとアリカのチリ化の熱狂で知られていた。
 彼は非常な美人で敬虔な女性であるベルギー移民とコンセプシオンの貴婦人の娘の
ラウラ・ゴセンスと結婚した。
 アジェンデ・カストロの子供は6人である。
 アルフレド、イネス、サルバドールそしてラウラ、最後の二人の死により、あとの二人もサルバドール
とラウラと名付けられた。

出生と幼少時

 サルバドール・アジェンデ・ゴセンスは1908年7月26日、サルバドール・アジェンデ・カストロと
ラウラ・ゴセンス・ウリベ夫婦の6人の息子の5番目としてバルパライソの港で生まれた。

 アジェンデの家族はブルジョアで父は役人としての色々な職務により国を広く移動しそのたびごと
家族を引越しさせた。
 彼はバルパライソに生まれ、ついでタクナ、イキケ、サンチャゴ、バルディビアと移動した。
 アジェンデは最初の8年をタクナで育った。
 (タクナはもともとペルー領であったが1880年チリに占領され1929年再びペルー領になっている。
  アリカが現在チリの最北であり、その隣がイキケである。タクナはアリカの北、サンチャゴはチリ中央
よりやや北よりでバルパライソはサンチャゴの近くでサンチャゴはアンデスよりであるがバルパライソは
チリの外港の位置、バルディビアはサンチャゴの更に南。 地図
 幼いアジェンデはタクナ中学校の予備校から勉強を始めた。
 このころのアジェンデは祖母によるといたずらで精力的な子供であったという。
 1918年イキケに短期間移った。次の予定地はバルディビアであったので

1919年
 バルディビアの中学校(リセ)に入った。
 ここでは仲間に比べ彼が社会的に高い位置にあり、衣服にこっていたので”きざpije”、あるいは
 ”上品な若者pollo fino”というあだ名をもらった。

1921年
 バルパライソに戻りエドワルド・デ・ラ・バラ中学校で勉強を続けた。
 そこで老靴職人のアナーキストのフアン・デマルキを知る。
 アジェンデの告白によれば大きな影響をうけたという。

1924年
 2番目の勉強を終え、兵役に就こうと決心。

1925年
 自発的にビナ海兵隊兵士の役につく。ついでタクナの歩兵連隊に移動する。
 一年で予備役士官として退役。

1926年
 サンチャゴで医学を学ぶためチリ大学入学、このよう恵まれた生活に疑問を感じ
 奨学金を貰いながら父がわのおばのアニタと一緒に謙虚に生活したが依然”きざ”であった。

1927年
 医学学生センターの議長として定期的にマルクス主義を読み議論するために
会合するグループを仲間と組織。

1929年
 彼の大学の仲間と一緒にアバンセAvance・グループを設立。

1930年
 チリ学生連合FECHの副議長。カルロス・イバニェスの独裁と活動的に戦う。
 カルロス・イバニェス・デル・カンポの独裁の数ヶ月まえにグループを追放された。
 これにもかかららず学生のリーダーとして活動しつづけ、そのため拘留された。
 
1931年
 大学理事会の学生代表メンバー。
 同時に大学から追放される。が成績優秀と卒業間近かなためすぐに再編入。
 6月イバニェス倒される。
 家族の伝統に従いフリーメイソンに加入した。(29年とも)

1932年
 学校を終え病気の父のそばにいるためバルパライソに移る。
 この間彼の記念”碑衛生医学と犯罪”を職業実習として編集。
 6月社会主義共和国la Republica Socialista 宣言、マルマドゥケ・グロベMarmaduke Groveが名簿にのる。
 はかない社会主義経験のあと新政府は進歩派の追求を始める。
 アジェンデは投獄される。
 獄中の間父が死亡。墓前で若き医師はチリの自由のための戦いに生涯を捧げることを誓う。
 (父が病気で死にそうになり、出獄を許され最後の瞬間に間に合ったとも。)

1933年
 色々の謀略の末医師の資格を受ける。
 長い間病院から病院を移動しなければならなかったが安定した仕事をバン・ブレン病院の解剖病理学の
助手になるまで続けた。
 4月19日、、エウヘニオ・マッテ・ウルタドEugenio matte Hurtado、マルマドゥケ・グロベMarmaduke Grove、
エウヘニオ・ゴンサレスEugenio Gonzalez、オスカ・シュナケOscar Schnake その他とチリ社会党の結党に参加、
 生地バルパライソの本部を組織した。
 ホセ・ビスカラJose Vizcarra と協力して国民健康の構造についての本を書く。

1935年
 チリ医学協会の指導者。バルパライソでチリ医学会報を設立。
 7月、拘留され12月までカルデラCalderaの港(カラマCalamaとも)に追放される。

1936年
 3月、人民戦線結成に参加、バルパライソの地域代表を引き受ける。

1938年
 人民戦線がペドロ・アギレ・セルダPedro Aguirre Cerdaを候補者に宣言。
 アジェンデはバルパライソの運動の総指導者。

1939年
 チリ地震の夜(1月25日)偶然サンチャゴで歴史教師のオルテンシア・ブシ・ソトHortencia Bussy Sotoを知る。
 9月議会を諦め、人民戦線政府の健康大臣に就く。
 チリの社会医学の現実という本を書く。

1940年
 オルテンシア・ブシ・ソトと結婚、1945年に娘のイサベルが生まれている。
 彼女は2003年、チリ下院議長になっている。
 なお作家として有名なイサベル・アジェンデは彼のいとこの娘である。

1941年
 APRAの招待によりペルーへ旅行する。
 米国医学協会の年会に参加。

1942年
 チリ社会党書記長。

1945年
 Valdivia, Llanquihue, Chiloe, Aysen y Magallanesから上院議員。

1947年
 社会党分裂。アジェンデは人民社会党に加わる。

1949年
 チリ医師会の代表。

1951年
 PSPのCarlos Ibanezの候補への後援に対し、アジェンデはPSPと絶交しチリ社会党の戦列に戻る。
 共産党と一緒に人民戦線の結成を推進する。

1952年
 人民戦線はアジェンデを候補として52000票得る。

1953年
 TarapacaとAntofagastaから上院議員

1954年
 フランス、イタリア、ソ連、中華人民共和国に旅する。
 上院副議長。

1957年
 人民社会党とチリ社会党が合同し共産党と一緒に人民行動戦線を結成。
 FRAPは彼を大統領候補とする。

1958年
 ヨルヘ・アレサンドリに選挙で敗北。

1959年
 ベネズエラのRomulo Betancourtの就任式に出席し、キューバ革命過程を知るためハバナ訪問。
 チェ・ゲバラとフィデル・カストロと長い会話をする。

1960年
 3ヶ月以上続いた炭鉱のストライキを支援。
 5月地震の影響をみるため国の南部ほとんどを回る。被災者のための種々の法案を提出。
 
1961年
 ValparaisoとAconcaguaから上院議員。
 Punta del Este (Uruguay)を旅しチェ・ゲバラと一緒に進歩のための同盟の宣伝文書公表。
 
1963年
 FRAPの会議はまた彼を共和国大統領候補に指名。

1964年
 エドワルド・フレイ・モンタルバに敗北、しかしほぼ100万票獲得。

1965年
 ヨーロパとラテン・アメリカ各地旅行実現。
 政治編集者により最優秀国会議員に指名される。

1966年
 上院議長。

1967年
 ハバナの3大陸会議に出席する代表団に加わる。
 ラテン・アメリカ連隊機構(OLAS)の議長。
 10月革命50周年記念祝賀のためソ連訪問。

1968年
 朝鮮民主主義人民共和国、ベトナム民主共和国(ホー・チ・ミンと会見)、カンボジャ、そしてラオス訪問。
 チェ・ゲバラの死後、アジェンデは個人的に生き残りの3人のキューバ・ゲリラをタヒチに連れて行く。

1969年
 Chiloe, AysenとMagallanesから上院議員
 共産党、社会党、急進党、MAPU(統一人民行動運動)、Padena(国民民主党)とAPI独立人民行動党
を統合し人民連合を創設。

1970年
 1月22日UPが大統領候補の宣言



墓碑銘




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