コーカサスの歴史



[19] アナトリアの歴史

(7) ビザンティン・アナトリア

ビザンティン帝国の形成
 ディオクレティアヌス(東:284−305)はビテュニアのニコメディアに統治の中心を確立。
 コンスタンティヌスは(全帝国:324−337)はビザンティウムに新都コンスタンティノプルを建設。
 コンスタンティヌスはなんとか帝国を統一したが、彼の死で再び分裂し、テオドシウス1世(東:379−392、全帝国:392−395)の
もとで再統一された。


  395年の4道 灰色:オリエンティス道(プラエフェクティ・プラエトリオ) アナトリアはほぼアシアとポントスのディオエケーシス(管区)からなる。
  (道−管区−属州の順)

テオドシウス朝 378−457
 テオドシウスは395年にミラノで死亡、息子のホノリウス(西:395−423)とアルカディウス(東:395−408)が帝国を分割し、
再び統一されることはなかった。このようにして東帝国は5世紀初めまでに最終的に確立され、中世に入った。
 一方、西は衰退することになり、ローマはホノリウスのもとで略奪された。
 西は一連の短期の皇帝のもとで衰退し、だんだん帝国は縮小し、頻繁に東が介入し、ユリウス・ネポス(474−475)で事実上終焉した。
 395年、アルカディウス(東皇帝:395−408)が帝国を相続。彼の父の行ったササン朝との和平は長く続いた。
 北と西の野蛮人はいつも脅威であったが、彼らは攻撃を西の帝国の弱体化に集中した。
 アルカディウスを息子のテオドシウス2世(408−450)が継承。
 ローマ・ササン戦争(421−422)とフン(422年、ルギラ下のフンがトラキアに侵攻し、コンスタンティノプルまで進軍、貢納で和平。)の
問題とホノリウスの死後の西への介入にも拘わらず、比較的平和で国内問題に集中できた。
 彼の死後、姉妹のプルケリアの夫のマルキアヌス(450−457)が継承。彼の治世は孤立主義政策を追跡し西の野蛮人による攻撃を放置。


 東西ローマ帝国

レオ朝
レオ1世 457−474
 マルキアヌスの死後、継承者がなく軍人のレオ1世(457−474)が継承。
 彼はコンスタンティノプル総主教により戴冠した最初の王で、法にギリシャ語を導入。
彼はマルキアヌスより西に干渉、西の皇帝にアンテミウス(467−472)を指名し、西を脅かすヴァンダルに遠征し、失敗。
 彼は野蛮人のコンスタンティノプル攻撃の防衛に成功。

ゼオンとアナスタシウス 474−518
 その後、ゼノン(474−491)の治世に西の帝国は最終的に崩壊。(476年)
 彼は2度、簒奪者に追われる。彼は貢納で野蛮人を買収。
 ゼノンを宮廷官アナスタシウス(491−518)が継承、彼も簒奪者にあい、イサウリア戦争(492−497)がおきる。
 502年、ササン朝は支援を断り、東アナトリアに進軍、国境のテオドシオポリスを制圧。このアナタシアス戦争は506年まで続いたが
両者とも大して領土を獲得できなかった。

ユスティヌス朝 518−602  
ユスティヌス1世とユスティニアヌス1世 518−565
 アナスタシウスの護衛の首領ユスティヌス1世(518−527)が継承。
 彼は西と東のキリスト教会のアカキウスの分裂(484−519)を解決しようとした。
 東では決着のつかないイベリア戦争(526−532)が燃え上がった。
 彼をユスティニアヌス1世(527−565)が継承。彼はラテン語を話す最後の皇帝。
 彼の外国政策は西帝国の失った領域回復に中心が置かれ、536年ローマを再占領。
 しかし、西での行動は東での戦争勃発で妨げられた。
 541年以降、ローマとイタリアは頻繁に支配が変わったが、554年までにビザンティンが再び確固たる支配確保。
 彼はササン朝とのイベリア戦争(526―532)を継承、532年、エテルナルの和平を締結、しかし541年に今度は
ラズィカ戦争(541−562)が起き、今度は50年和平でこれは572年まで続く。
 またコンスタンティノプルはバルカンからの繰り返しの脅威にさらされ、トラキアを渡るものと更にエーゲ海と黒海からの攻撃の
可能性があった。帝国は金と外交と軍事の組み合わせで侵攻に対処した。

ユスティニアヌス1世の継承者 565−602
 ユスティヌス2世(565−574)は近隣国への貢納をやめ、悲惨な結果を招いた。
 イタリアはランゴバルトに荒らされ、東では572年にササン朝との戦争(ビザンティン・ササン朝戦争;572−591)が再燃、
3皇帝の治世中継続。アルメニアのササン朝への反乱が衝突を招いた。
 ユスティヌス2世は574年までに退位し、妻のソフィアと将軍のティベリウスが彼の死の578年まで摂政となった。
 ユスティヌス2世をティベリウス2世(574−582)が継承し、これを別の将軍マウリキウス(582−602)が継承。
 彼は2前線での戦争を継続し、ペルシャとの長期戦(572−591)に耐え、結局ペルシャの内戦発生で有利な結果を得た。
 西とバルカンでの戦争はペルシャの問題が決着するまでうまくいかなかったが、602年にバルカンで最終的に決着。
 別々の統治(エクサルク)が確立し、帝国は息子たちに分割された。マウリキウスは602年、フォカスによって帝位を簒奪された。


 600年頃 ビザンティン(紫)とササン朝(黄)


中世ビザンティン帝国 7−11世紀  (*皇帝名表記はギリシャ語)

フォカス 602−610
 フォカスはコンスタンティヌス以来の激しい戦争を行ったが、まもなく先行者の成果をバルカンと東国境で失い、ササン朝によって
戴冠された簒奪者に直面した。
 608年、ヘラクレイオスの反乱に直面し、彼の過剰な残忍さで友人も少なく、すぐに見捨てられ、610年、ヘラクレイオスに殺された。

ヘラクレイオス朝 610−711
ヘラクレイオス 610−641
 ヘラクレイオスはギリシャ語を帝国の公式言語とすることでローマからビザンティン帝国への移行を完成した。
 彼は前任者のペルシャ攻撃を受け継いだ。ビザンティンは627年までに勝利したが、戦争は両者を消耗させ、周辺国の野望を
受けやすくなった。彼は帝国を安定させ、100年続くことになる王朝を確立した。
 一方、東には気づかないうちにアラビアにイスラム予言者ムハンマドのもとの新しい勢力が出現、隣のペルシャの土地まで拡大、アラブは
633−642年に一連の攻撃を行い、実質的にササン朝支配を終焉させ、ビザンティン帝国への直接的脅威となった。
 634年、シリアが侵攻され、ヘラクレイオスの兄弟テオドロスが敗れ、638年までに失い、ついでアルメニアとエジプトを失った。
 これらに西での領土の損失が加わり、国境の急速な縮小となった。シリアの損失が永久的であるだけでなく、侵略者はアナトリア本土
へも侵攻。これで長期のアラブ・ビザンティン戦争(629−1050年代)がはじまり、11世紀まで続くこととなる。
 ビザンティンが敗れたヤルモウクの戦い(636年)が初期の一つの画期であった。
 ヘラクレイオスは帝国を2人の息子、コンスタンティヌス3世とヘラクロナスに残したが、それぞれの死亡と強制退位ですぐに
コンスタンス2世(コンスタンティヌス、641−668)が帝位についた。

ヘラクレイオスの後継者 641−711
  コンスタンス2世は彼の治世でアラブ征服の完成を見、647年、アラブはすぐに、カッパドキアに侵攻し、首都カエサレア・マザカを
包囲し、648年にはフリギア侵攻。アラブのキリキアとイサウリア攻勢でコンスタンスは651年に休戦を交渉または西アナトリアを失った。
 彼はまたバルカンでスラヴ人に対処せざるをえず、西で戦争を行った。
 668年、彼は暗殺され、息子のコンスタンティノス4世が継承。短期間、シシリーのミジジオス(668−669)が簒奪。
 コンスタンティノス4世(668−685)は654年に共同皇帝となり父の西方遠征(662−668)で東を支配。
 646年、アラブはフリギアのアモリウムとビテュニアのカルケドンを攻撃。670年にはミシアのクジクスとシミルナと他の沿岸都市と占領、
最終的に674年、コンスタンティノプルを攻撃。
 678年に包囲を解き、更に後退で休戦となり、コンスタンティノスはバルカンの脅威に専念できた。
 ブルガル人は681年にビザンティンに重い損失をもたらした。
 コンスタンティノスは民生と軍事改革を始めた。これは始めの属州制度の廃止とテマに基づく新しい統治制度で、アナトリアの残りの
部分は7つのテマに分割された。
 彼は668年に死亡、息子のユスティニアノス2世(685−695、705−711)、681年以降の共同皇帝が継承。
 彼は父の東での成功を継続することができ、これでバルカンに専念でき、ここでも成功した。
 彼は東に戻って692年にセバストポリスの戦いでアラブに敗れた。
 彼はテマの組織化を続け、土地、税制政策で抵抗に会い、695年にレオンティオスの反乱(695−698)を引き起こし、
彼は退位させられ、22年の7皇帝の長引く不安定と無政府の時期をもたらす一連の出来事を引き起こした。
 レオンティオスは不人気で逆にティベリオス3世によって倒された。ユスティニアノスは復帰を陰謀、ブルガル人と提携し、ブルガル人は
コンスタンティノプルを奪い、ティベリオスを処刑。
 ユスティニアノスは更に6年治世(705−711)を続けた。彼はフィリピコス・バルダネスの反乱に直面した。
 ユスティニアノスは捕らえられ、息子と共同皇帝ティベリウス(706−711)は処刑され、ヘラクレイオス朝系は消えた。
 ユスティニアノスは実質的にコンスルの歴史的役割を廃止し、皇帝に組み込み、皇帝制を絶対君主として強化した。

  650年のビザンティン


  最初のテマ(7世紀中期のスラヴのバルカン侵攻とアラブの征服でディオクレティアヌスとコンスタンティヌスの属州制度を置き換えた。

非王朝時代の無政府性 711−717
 フィリピコスの治世(711−713)にブルガル人はコンスタンティノプルの壁に到達、首都防衛のために軍隊を移動させ、これで
アラブが東で侵攻できるようになった。軍隊が反乱し、彼を退位させ、アナスタシオス2世(713−715)に代えた。
 アラブは海陸から714年にガラティアまで到達した。
 しかし、彼に軍隊がまた反乱し、新皇帝を宣言、6か月コンスタンティノプルを包囲、彼はやがて逃げた。
 軍隊はテオドシウス3世(715−717)を新皇帝に宣言、彼はすぐさまアラブの第2回コンスタンティノプル包囲(717−718)に直面し、
ブルガル人の支援を求めざるを得なかった。彼はついで717年に、アナトリコンとアルメニアコンの2つのテマからの反乱に直面し、
退位を選び、レオン3世(717−741)が継承、暴力と不安定の周期を終えさせた。

イサウリア朝 717−802
 レオン3世が最初に直面したのはアラブのコンスタンティノプル包囲でこれは718年に終わった。
 レオンは前任者のブルガル人との提携を継続した。
 719年に退位させられたアナスタシオス2世が反乱し失敗、処刑された。
 彼は統治では多くのテマを副分割、小さければ地方の中央への脅威はより小さかったので。
レオン3世の最も重要な影響の1つは彼の726年頃の偶像破壊運動への関与であった。
 842年の廃止まで、これは帝国に宗教的、文化的に大きな影響を与えた。
 レオンが死亡し、息子のコンスタンティノス5世(741−775)が継承。

 717年のビザンティン

レオンの後継者 741−802
 コンスタンティノス5世は父の治世より成功せず、帝位につくや義理の兄弟アルタバスドスによって攻撃され敗れ、2人の皇帝の間で
内戦が起き、彼らはテマを分け合った。しかし743年までにコンスタンティノス5世が何とか勝利。衝突は部分的にはイコンに関し、
アルタバスドスはイコン崇拝派によって支援された。
 コンスタンティノス5世は父のテマ再組織化を継続し、アラブとブルガル人への攻勢に乗り出した。
 彼はブルガル人への遠征で死亡、息子のレオン4世が継承。
 レオン4世もまた異母兄弟の反乱を抑える必要があった。彼は偶像破壊者として育てられながら偶像崇拝のイレーナと結婚し、
イコンの問題でビザンティン社会に衝突をもたらした。彼は宥和政策を行った。
 彼もまた前任者同様にアラブとブルガルから国境を防衛せざるを得なかった。
 彼が死亡し息子のコンスタンティノス6世(780−797)はわずか9歳で母のイレーナが摂政として統治。
 女帝を宣言した母との権力闘争を行い不評な支配者で、やがて母の支持者が彼を退位させ、彼女は唯一の女帝となった。
 イレーナ(797−802)は配偶者女帝(775−780)、未亡人女帝と摂政(780−797)、統治女帝(797−802)であった。
 彼女は787年にイコン崇拝を公式に回復できた。
 西方教会は女帝国家を受けいれられず、800年に別の皇帝(シャルルマーニュ)を戴冠させ西と東の分裂を更に深化させた。
 彼女は総主教の陰謀で退位させられ、イサウリア朝は終焉。


  780年 ビザンティンの小アジア :首都

ニケフォロス朝 802−813
 イレーナを継承したニケフォロス1世はゲニコス・ロゴテテース(財務大臣)であった。
 彼はイレーナの退位で直ちに財政改革に乗りだした。彼の統治改革はテマの再組織を含んだ。
 彼は803年の内戦を生き残り、3つの戦線での戦いに直面し、805年のフリギアでのクラソスに戦いで敗れ、ブルガリア人への
遠征で死んだ。彼の死で、息子で共同皇帝のスタウラキオス(811年)が継承、しかし彼は父が死んだ戦いでひどく負傷し、翌年退位し、
姉妹の夫、ミカエル1世(811−813)が継承。彼の先行者が命を失った、ブルガリアのクルムとの戦いで生き残ったが、彼はクルムに
何度も敗れ、立場をひどく弱体化させた。
 反乱の可能性を知り、退位を選び、ニケフォロス朝王朝は終焉。

レオン5世 813−820
 ニケフォロス朝王朝はレオン5世(813−820)によって倒され、彼はミカエル1世のビザンティンがブルガリア人によって敗走させられた
ヴェルシニキアの戦い(813年)での裏切りが疑われた。彼は803年の内戦で立場を変え、ニケフォロス1世によって報いられ、
アナトリアのテマの総督に任命され、そこからミカエルの没落と自分の継承を演出した。
 レオンの最初の仕事はブルガリアの状況への対応で、彼らはいまやほとんどのトラキアを占拠し、コンスタンティノプルを封鎖していた。
 やがて815年、和平を結んだ。彼は偶像破壊を採用し決定的論争の第2局面(814−842)をもたらした。

フリギア(アモリ)王朝 820−867
 レオン5世は将軍アモリ人のミカエルの陰謀によって没落し、これはミカエル2世(820−829)となった。
 彼はレオンと同様にアナトリア・テマの首都アモリウム(フリギア)の出身であった。
 ミカエルがレオンを退位させるや否や、彼は帝位を主張する同僚の将軍スラヴのトマスの反乱に直面した。
 内戦が824年まで続き、トマスは敗れ、殺された。彼はレオンの偶像破壊政策を続けた。
 その死後、息子で共同皇帝のテオフィロス(829−842)が継承。彼はビザンティン・アラブ戦争に直面、アラブはアナトリア深く進攻し、
ビザンティンにひどい敗北を与えた。アラブは838年に王朝の故郷のアモリウムを略奪した。
 彼は842年に死亡、息子のミカエル3世(842−867)が継承。彼は2才で母のテオドラが摂政(842−856)となった。
 テオドラは偶像破壊運動を終焉させた。
 彼女は叔父のバルダスによって退位させられ、彼はカエサルに任命された。
 ミカエルはアラブに勝ったり、負けたりした。しかし815年のレオン5世のブルガリア人との協定にも関わらず、855年、バルカンで
戦争となった。しかしブルガリア人のキリスト教転向と864年の和平でブルガリア戦争の長い休止となった。
860年の新しい脅威が更に北から出現、キエフ・ルスの出現と引き続くルス・ビザンティン戦争。
有力者のマケドニアのバシレイオスが866年にバルダスを殺し、共同皇帝となった。
ミカエルはまたバシリスキアノスを共同皇帝にしようとした。バシレイオスは両者を殺し、バシレイオス1世として戴冠。 

(以上でビザンティン・アナトリアは終わり、以下個別皇帝の項で構成)


マケドニア朝 867−1056
 バシレイオス1世(867−886)は卑しい出自にも関わらず、彼はビザンティン芸術の復興をもたらし、彼の王朝はビザンティン帝国で
栄光と繁栄の時代と見なされた。
 彼の治世はテフリケを拠点とする異端パウロ派との戦いで刻印された。
 彼らはアラブと提携しニケアまで侵攻、エフェソスを包囲、彼らは872年にバティス・リアクスの戦い(872−878)で破られた。
 小アジアではアラブといつもの国境戦争がありほとんど具体的前進はなかったが東の国境は強化された。
 キプロス島は7年間だけ回復された。
 バシレイオスはコンスタンス2世以来の最初の西での帝国勢力回復の積極政策を進めたビザンティン皇帝であった。
 バシレイオスは神聖ローマ帝国のルートヴィッヒ2世と提携し、アラブに対しアドリア海での襲撃を一掃するために139艘の艦隊を
派遣した。ビザンティンの支援でルートヴィッヒ2世は871年のアラブからバリを占領した。バリは876年にビザンティン領土となった。
 しかし、シシリー島での状況は悪化、878年にシラクサはシシリーのエミール国に落ちた。
 しかし将軍ニケフォロスは880年にタラントとカラブリアを奪うことに成功した。
 イタリア半島での成功でそこでのビザンティン支配の新時期が開かれ、特に地中海、とりわけアドリア海での強固な存在を確立し始めた。



 バシレイオスは886年に死亡し、息子のレオン6世(共同:870、886−912)が継承。バシレイオスは学問好きのレオンを好まなかった。
 彼の治世に、バシレイオスから始まった文学復興が続いた。
 しかしバルカンでのブルガリアとシシリーとエーゲでの何度かの軍事的敗北を見た。
コンスタンティノス7世は非正統的生まれで、レオンは908年に2才で彼を共同皇帝とした。
 レオン6世は912年に死亡、弟のアレクサンドロスが継承、彼は879年以来、父と兄と共同皇帝であった。
 コンスタンティノス7世は依然共同皇帝であった。

 アレクサンドロス3世(912−913)はレオンのほとんどの政治助言者を排除し、コンスタンティノス7世の母を僧院に閉じ込めた。
 彼の治世中、東ではアッバース朝から攻撃され、戴冠での贈り物を拒否し、ブルガリアとのシメオンとの戦争(913−927)を引き起こした。
 彼は913年、ツィカニアオン(ポロ)の試合中に死亡、コンスタンティノス7世が継承。

 コンスタンティノス7世(913−959)は913−919年は母が摂政で、920−945年は妻のヘレーナの父ロマノス・レカペノス(1世)と
その息子ステファノスとコンスタンティノスと共同統治。
 ブルガリアとの戦争は917年のアケロウスの戦いでのビザンティンの敗北でブルガリアはバルカンに覇権を確立、ギリシャ南部深く
入り込んだ。ビザンティンはこれにセルビアを巻き込み、セルビアはブルガリアに併合された。
 シメオンはコンスタンティノプル征服のための海軍支援を得るためにアラブ・カリフを誘った。
 これにビザンティンはアラブへの贈り物で提携を転換させた。
 927年のシメオンの死までバルカンのビザンティン領はほとんど奪われたがコンスタンティノプルには達しなかった。
 疲弊した両者は927年に和平。
 949年、ビザンティンはゲルマニケア(カフラマンマラシュ)を占領、952年、ユーフラテス上流を横断。
 しかし。953年、ハムダーン朝がゲルマニケアを再占領し帝国領域に入った。
 958年に、ニケフォロス・フォカスがやがて東方の領土を回復。
 彼はコルドバのカリフや神聖ローマ帝国のオットー1世などと外交関係をもち、957年にはキエフ・ルス摂政のオルガが訪問している。
 彼は959年に死亡、息子のロマノス2世(共同:945−、上級:959−963)が継承。

 遊び好きの皇帝は軍事を将軍たち、特にニケフォロス・フォカスに任せた。彼はムスリムからのクレタ島回復のため派遣され、961年、
全島に支配回復。ついで東方国境に派遣され、962年、キリキアとアレッポを解放。
 963年、ロマノス2世が死亡。
 既に息子のバシレイオス2世とコンスタンティノス8世が共同皇帝であったが、5才と3才で母のテオファノが摂政となった。
 彼女は軍事的英雄であったニケフォロス・フォカス(ニケフォロス2世、963−969)と提携した。
 軍隊はすでに彼をカエサレアで皇帝と宣言、ニケフォロスはコンスタンティノプルに入り、テオファノと結婚し、皇帝として戴冠。
 ニケフォロス2世は西方の戦争ではほとんど成功しなかった。ブルガリアとの関係は悪化。
 最初の失敗はシシリーで起きた。メッシナ海峡での戦いで敗北し、シシリーはイスラムに征服された。
 967年にファーティマ朝と和平。一方、イタリア維持を巡って、ビザンティンとドイツ皇帝オットー1世に緊張が生じた。
 968年、オットーはアプリアに侵攻し戦いが始まった。両帝国はニケフォレスの死まで小競り合いを続けた。
 964−965年にニケフォレスはキリキアを征服、メソポタミア上流とシリア侵攻を行い、一方、ニケタス・カルコツェスはキプロスを回復。
 967年頃、ニケフォレスは外交によってタロンのアルメニア人国を併合。968年、ニケフォレスはトリポリまで侵攻。
 彼はアンティオキアの籠城戦のため近くの要塞にミカエル・ブルツェスを留まらしたが、彼は命令に反しアンティオキアを奪い、不信を買った。
 965年頃、ニケフォレスは不忠誠を疑い、ヨハネス・ツィミスケスを東小アジアに追いやっていた。
 969年、ニケフォレスはツィミスケスによって暗殺された。フォカス一族は反乱したが、鎮圧され、ツィミスケスが帝位についた。

 ヨハネス1世ツィミスケス(969−976)はコンスタンティノス7世の娘テオドラと結婚し正統性を確保。
 彼は簒奪を正当化するために侵略者の帝国からの追い出しを進めた。
 970−971年にキエフ・ルスに遠征、アルカディオポリスの戦いで敵をトラキアから追い出し、ドロストロンの要塞攻略で
スヴャトスラフ1世を破った。
 972年にアッバース朝とその従属国に向かい、メソポタミア上流に侵攻。975年にはシリアを狙った。
 976年この遠征から帰る途中に突然死亡。バシレイオス2世が継承。

 バシレイオス2世(976−1025)の治世中アナトリアの貴族の将軍、バルダス・スケロス(976−979)ついでバルダス・フォカス
(987−989)の反乱が起き、フォカスの989年の死で、これをスケロスが継承したが、991年には死亡している。
 長い戦い(970−1018)の後に、ブルガリア帝国を征服した。
 ファーティマ朝と987年頃休戦したが、バシレイオス2世はカリフ国に遠征し、1000年にまた休戦。
 彼はハザール・ハン国に遠征し、クリミアの一部を獲得、ジョージア王国に遠征(1014−1208)を行った。
 彼は娘のアンナ・ポルフィロゲニタをキエフのウラディミール1世と結婚させ、キエフのキリスト教化をもたらした。
 この結婚で見返りとしてビザンティンの軍事組織バランゴン守備隊が形成された。
 バシレイオス2世はアルメニアの大部分を併合。
 彼はビザンティン君主で最長の治世を維持。死までに帝国は北イタリアからコーカサス、ダニューブからレヴァントまで広がった。
 シシリー遠征の準備中に1025年死亡、彼は子供がなく、弟のコンスタンティノス8世が継承。

 コンスタンティノス8世(1025−1028)は962年から63年間名目的共同皇帝であった。彼は政治に関心がなかった。
 彼は死の間際にロマノス・アルギロスを娘のゾエと結婚させ、継承させた。
 ロマノス3世(1028−1034)は貴族で高官であった。
 1030年、彼はアレッポのミルダシド朝に遠征し敗れた。
 義理の妹のテオドラは陰謀を試み僧院に閉じ込められた。
 1034年、ロマノスは死亡。ゾエは愛人のミカエルと結婚し、ミカエル4世が帝位についた。
 ミカエル4世(1034−1041)はパフラゴニアの農民の出であった。
 彼は宮廷で仕事を見つけるまで両替商として働き、宮廷でゾエ・フィロゲニタの目に留まった。
 国内ではアンティオキア、ニコポリスとブルガリアで反乱があった。
 1038年にはアナトリアで軍隊の反乱があった。
 軍事的に、ミカエルの治世は良くない状態で始まった。アラブがミラを略奪、セルビア人が離反、ペチェネグがテッサロニカに迫ったが、
状況はすぐに安定化。東ではアラブは鎮圧された。
 西では一時シシリーを奪った。ノルマンの傭兵使用が問題を起こすようになる。
 北では1040年、セルビア人とブルガリア人が反乱したが鎮圧。1041年、ミカエルは死亡し、甥がミカエル5世(1041−1042)として
4か月、帝位についた。彼はゾエをプリンキポ島に閉じ込め、大衆反乱を招き、失脚。

 ゾエの妹テオドラ(1042−1056)が女帝を宣言、ゾエ(1042−1050)と共同統治。
 テオドラは1042年、コンスタンティノス9世(1042−1055)と結婚。
 1043年、キエフ・ルスが艦隊で攻撃したが敗れる。
 1045年、アニのアルメニア王国を併合。1046年、ビザンティンは初めてセルジューク・トルコと接触。
 1048年、アルメニアのカペトロンの戦いでセルジューク・トルコを撃退。
 1047年、甥のレオ・トルニキオスがアドリアノプルで反乱、この反乱でバルカンの防衛が弱体化、1048年、ペチェネグにより侵攻された。
 これは1053年まで続いた。
 1054年、ギリシャとローマの境界が最終的に分離、これでノルマン人に対する法王との提携ができなくなり、彼らは南イタリアを占領。
 1055年、コンスタンティノスが死亡し、1056年までテオドラが単独統治。テオドラはミカエル6世(1056−1057)の帝位就任後まもなく死亡。
 これで189年のマケドニア王朝が終焉。


<参考> ビザンティンのテマ

 7世紀中期にスラヴのバルカンとムスリムのビザンティン領域侵攻の余波で形成された。
 最初の4テマはアルメニア、アナトリア、トラキア(トラケシオン)とオプスキオン
 テマは軍事的総督のストラテゴスが統治。

主なアナトリアのテマ
 ほとんどのテマは1071年のマンジケルトの敗北以降失われる。

660−930年代
 アナトリア:首都アモリウム。中央小アジア。始めはフリギア、ピシディア、イサウリア。1070年代末にセルジューク・トルコが征服。
 アルメニア:首都アマセア。小アルメニア地域から7世紀中期に形成された4つの最初のテマの一つ。
 ブケラリオン:ほとんどの古代パフラゴニアとガラティア、フリギアの一部。(オプシキオンから)
 カッパドキア:アラブの脅威で830年頃までにアルメニアから分割。
 ハルディア(840−):首都トレビゾンド。黒海東部、北東アナトリア。後にトレビゾンド帝国の中心となる。
 ハルシアノン:アルメニアのテマから形成。カッパドキア地域。
 ケルソン:830年代初期形成。南クリミア。1204年のビザンティン崩壊でにトレビゾンド帝国へ。
 キビルラエオト:地中海沿岸。
 コロネイア:アルメニアのテマから形成。
 メソポタミア
 オプシキオン:北西小アジア。コンスタンティノプルに隣接。1234年、ラテン帝国に奪われる。
 オプティマトイ:北西小アジア。ボスポラスのコンスタンティノプルの向かい。8世紀中期にオプシキオンから。14世紀前半オスマンに奪われる。
 パフラゴニア:820年頃。
 ファシアネ/デルゼネ:アラス川源流地域、1001年、タオのダヴィド3世の死で遺贈。
 セバスティア:アルメニアのテマから。10世紀初めに形成。
 セレウキア:934年までに形成。
 トラケシオン:オプスキオンの南、エーゲ海沿岸。14世紀初期にトルコ人ベイリク占領。

930−1060年代
 デルゼネ(テルジャン):エルジンジャン県、12世紀のサルトゥク朝女性支配者メリケ・ママ・ハトゥンの建築複合体で有名。
 イベリア(1001または1023年頃):タオのダヴィド3世がバシレイオス2世に遺贈、1045年、アニと、1064年、カルスと一緒になる。
   ⇒イベリアのテマ
 マンジケルト(1000−):タオのダヴィド3世から継承。
 メリテネ:もともとアルメニアのUあるいはV属州であったが638年にアラブが占領。970年代ビザンティンが奪い返す。
 タロン(966−):10世紀初期から従属し、966年、テマとなる。マンジケルトの戦いで失うまで維持。
 テオドシオポリス(エルズルム):949年の征服で形成、979年、タオのダヴィド3世に譲渡、1000年取戻し、イベリアのテマの首都。
 ヴァアスプラカニア(1021−1071):ヴァスプラカン王セネケリム・ホヴァンネスが譲渡、1071年以降セルジュークが征服。





 テマ

非王朝時代 1057−1059
イサクシオス1世
 ミカエルは軍事貴族の不満に直面し、これが頂点に達し、1057年、将軍イサクシオス・コムネノスがパフラゴニアで皇帝を宣言、
ミカエルは退位。
 イサクシオス1世(1057−1059)はアルメニア人のテマ軍隊の軍事義務を廃止。イサクシオスはたった一度軍事遠征を行った。
 1059年、ハンガリア人とペチェネグの侵攻で悩まされるバルカンへ。彼は病にかかり、間もなく死ぬことを恐れ、1059年、
コンスタンティノス10世(1059−1067)を後継者に指名し、退位、僧院でまもなく死亡。

ドゥカス王朝とマンジケルトの惨事 1059−1071
 ドゥカス朝支配でビザンティンはセルジューク・トルコとの戦いで敗れ、特に1071年のマンジケルトの戦いでの破滅敗北で小アジアの
残った領土のほとんどを失った。ビザンティンはまたバルカンをセルビア人へ、そしてイタリアでの最後の足場をノルマンへ失った。
 十字軍が12世紀に一時的に帝国を猶予させたが、完全には復活せず、やがて中世末期(パライオロゴス朝:1261−1453)に
オスマンの圧力で解体の時期と最終的衰退に入った。

 コンスタンティノス10世(コンスタンティノス・ドゥカス)は第2の妻エウドキア・マクレムボリティサ、総主教ミカエル・ケルラリオスの姪との
結婚で権力を獲得した。彼は1057年、イサクシオス1世の簒奪を支援、やがて新帝の改革に対し、宮廷官僚に味方、これにもかかわらず
1059年、病のイサクシオス1世により後継者に指名された。
 軍隊経費を削減し、アルメニア人の地域部隊を解散し、これがセルジューク・トルコ西進と一致した。
 コンスタンティノスはノルマンに対し多くのイタリアのビザンティン領を失った。
 彼はまた1064年、アルプ・アルスラン(ムハンマド・ビン・ダウド・チャグリ)の小アジア侵攻をうけ、アルメニアの首都を失い、
1065年にオグーズ・トルコ(?)によるバルカン侵攻をうけ、一方、ベオグラードをハンガリーに失った。
 1067年に死亡し、ロマノス4世(1068−1071)が継承。彼は未亡人女帝エウドキア・マクレムボリティサと結婚。
 1067年までにセルジューク・トルコは思うがままにメソポタミア、メリテネ、シリア、キリキアとカッパドキアに侵攻し、カエサリアを略奪し、
聖バシレイオス教会を略奪。
 ロマノスの最初の遠征は1068年に行われある程度成功したが、シリアはアレッポのサラセンの脅威にあった。
 1069年にノルマン人傭兵の反乱にあい、フランク人軍隊はアルメニア・テマを襲撃した。同時期、カエサレア周辺は再びセルジュークが
侵攻した。ロマノスは彼らを追跡したが、彼らはなんとか逃走。ロマノスは大した成果なく帰還。
 1070年には将軍マヌエル・コムネノスが捕虜となった。マヌエル・コムネノスはアルプ・アルスランの不評を買い、アルプ・アルスランは
マンジケルトとアルケシュを占領。1071年8月26日、マンジケルトの戦いでロマノスは捕虜となり、身代金で釈放。
 この間傭兵のウゼ人(ビザンティンでのオグーズの呼び名)が寝返り、将軍の敵対行為などが発生。
 この状況を利用してカエサルのヨアネス・ドゥカスとミカエル・プセルロスはミカエル7世にロマノス4世の退位を宣言するように説得。
 ロマノスは帰還して敗北、キリキアのアダナまで撤退しやがて降伏。
 しかしヨアネス・ドゥカスはロマノスの眼をつぶし、ロマノスは最終的に死んだ。
 ミカエル7世(1071−1078)はエウドキアを僧院に送り込んでアウグストゥスとして戴冠。
 給料を払われない軍隊は反抗的となり、ビザンティンは1071年、イタリアの最後の領土バリをノルマンのロベルト・グイスカルドに失った。
 同時にバルカンの反乱に直面、ブルガリア国の回復の試みに直面。この反乱は鎮圧されたが、小アジアの損失は回復できなかった。
 マンジケルト後、ビザンティンはセルジューク・トルコを抑えるために新しい軍隊を派遣したが1073年、敗北し、指揮官は捕獲された。
 西方では傭兵が逃走し、この対策にヨアネス・ドゥカスが派遣されたが敗北し、捕虜となり、帝位簒奪を強制された。
 ミカエル7世は1074年、セルジュークの小アジア征服を認め、彼らの支援を求めざるを得なかった。
 セルジューク軍によって強化された軍隊は1074年、最終的に傭兵軍を破りヨアネス・ドゥカスを捕らえた。
 1078年、2人の将軍ニケフォロス・ブリエンニオスとニケフォロス・ボタネイアテスが同時にバルカンとアナトリアで反乱、セルジュークの
支援を受けたボタネイアテスがまずコンスタンティノプルに到来。ミカエル7世は1078年、退位し僧院に引き込んだ。
 ニケフォロス3世(ボタネイアテス、1078−1081)が戴冠し、アレクシオス・コムネノスの支援でブリエンニオスと他の競争相手を破ったが、
セルジュークの小アジアからの一掃には失敗した。
 反乱がほとんどすぐに始まった。幾人かのアルメニア公子が独立を試み、パウロ派がトラキアで反乱。
 彼はますますアレクシオス・コムネノスに頼り、アレクシオスはニケフォロス・バシラケスのバルカン反乱(1079年)を破り、
アナトリアのニケフォロス・メリセノスを抑えることを任された。
 ノルマン伯ロベルト・グイスカルドがコンスタンティノス・ドゥカスの権利擁護を口実に戦いを宣言。
 アレクシオスはノルマン侵攻と戦うことを任され、これに対しヨアネス率いるドゥカス派はニケフォロスを倒し、アレクシオスに代えことを陰謀。
 セルジューク・トルコまたはニケフォロス・メリセノスの支援を得られず、ニケフォロス3世は退位を余儀なくされた。


  1081年頃


コムネノス王朝 1081−1185  治世
 コムネノス王朝の時代にビザンティンは十字軍(1095−)に直面した。

 
 十字軍国家 1135年

アレクシオス1世(1081−1118)
 マンジケルト後、コムネノス朝の努力で部分的復興が可能であった。
 アレクシオスの37年近い治世は戦いで満ちていた。
 最初はロベルト・グイスカルドと息子のボエモン1世のノルマン侵攻で、彼らはディラキウムとコルフを奪い、テサリアのラリサを襲撃。
 アレクシオスは反撃に成功する前に何度か敗れた。
 1085年のグイスカルドの死に助けられビザンティンはほとんどの失地を回復。
 アレクシオスはついでトラキアの騒乱に対処する必要があった。そこでは異端派のポゴミル派とパウロ派が反乱し、ダニューブの
彼方のペチェネグと提携した。帝国軍のパウロ派兵士がノルマンとの戦い中に裏切った。
 ノルマンの脅威が去ると直ちにアレクシオスは反乱と裏切りを罰しにかかっり、彼らの土地を没収した。
 これで更なるフィリップポリス近くでの反乱をまねき、西の野戦軍指揮官グレゴリ・パクリアノスは敗れ殺された。
 1087年、ペチェネグがトラキアに侵攻、アレクシオスは仕返しのためにモエシアを横切りドロストロン奪取に失敗。
 撤退中に皇帝はペチェネグにより包囲され、負傷し、休戦し、保護金を払いざるを得なかった。
 1090年、ペチェネグは再度トラキアに侵攻、一方ルーム・スルタンの義理の兄弟チャカ・ベイは船隊で乗り出し、ペチェネグと一緒の
攻撃を取り決めを試みた。アレクシオスはこの危機をクマンとの提携で打ち破り、彼らの支援で1091年、トラキアのレヴニオンの戦いで
ペチェネグを粉砕した。これでペチェネグの脅威は終わったが。しかし、1094年、クマンがバルカンの帝国地域を襲い始めた。
 ロマノス4世の息子を僭称するコンスタンティヌス・ディオゲネスに率いられ、その指導者が葬り去られるまで東トラキアまで侵攻した。
 バルカンがある程度平穏化し、アレクシオスは今度は小アジアに目を向けた。ここはほとんど完全にセルジューク・トルコによって侵略された。
 アレクシオスの登位までにセルジュークはほとんどの小アジアを奪った。
 アレクシオスは沿岸地域の多くを確保できたがこの勝利はセルジュークを止めることができなかった。
 アレクシオスはローマ法王に支援を求めた。これに対し、ウルバヌス2世は1095年、十字軍派遣を説いた。
 隠者ピエールの十字軍は小アジアに送られ、1096年、セルジュークによって虐殺された。
 ブイヨンのゴドフロワ、タラントのボエモン、トゥールーズのレイモン4世らの西洋貴族率いる十字軍は小アジアに送られ、顕著な成功を
収めた。ヨアネス・ドゥカスは1097−1099年にキオス、ロドス、スミルナ、エフェソス、サルディスとフィラデルフィアの支配を再確立した。
 アンティオキアの戦いでのビザンティンの支援の失敗で、十字軍はビザンティンの誓いが無効になったと考え、ボエモンは
アンティオキア侯国(1098−1268)を創建し、短期間(1107−1108)バルカンでアレクシオスと戦ったが1108年のデヴォル条約で
アレクシオスの従臣となった。
 1116年、すでに末期の病であったアレクシオスはコンヤのセルジューク・スルタン(ルーム・セルジューク)のマリク・シャーに
ビテュニアとミシアで防衛作戦を行った。1117年攻勢にうつり、セルジューク支配のアナトリア平原深く入り、フィロメリオンの戦いで
セルジュークを破った。
 彼の治世中、多くの簒奪者が出現、反乱がおきた。妻のイレーネ・ドゥカイナも陰謀を企んだ。

 ヨハネス2世(1118−1143)はすでに1092年に共同皇帝として戴冠し、1118年、バシレウスとして父を継承。1122年、彼は
息子のアレクシオスを共同皇帝とした。
 彼は西アナトリアの確保のためにトラケシオンのテマを再建、ミラサとメラノウディオンの新しいテマをトラケシオンの南に形成した。
 西では南イタリアのノルマンに対し、ドイツ皇帝との提携維持が原則となった。
 東ではコンヤ(イコニウム)のルーム・セルジュークと、北東、アナトリアの内部を支配するダニシュメンド朝(1071−1178)との
違いを利用した。
 レヴァントの十字軍国家でビザンティンがアンティコキアへの権利主張は法的に正しいと認められてはいたが実際は軍事的な
場合だけであった。彼は治世中、多くの遠征を行った。
 1119−1121年にセルジューク・トルコを破り、南西アナトリアに支配を確立。
 1122年にはパリストリオン(ダニューブ下流)に侵攻したペチェネグを攻撃。ベロイアの戦いで勝利し、ペチェネグは独立集団としては消えた。
 1124−1126年にはヴェネティアと衝突、ヨハネスはヴェネティア商人をコンスタンティノプルから追い出し、その艦隊の攻撃を
イオニア諸島が受けた。
 ヨハネスのハンガリー王女との結婚で彼はその宮廷内紛に巻き込まれた。
 1127年のイステヴァン2世がバルカン侵攻し敵対は1229年まで続いた。
 アナトリアのトルコ人との消耗戦も続いた。
 東方への通路を確保するためにアナトリア南岸を攻撃。1119年、ラオディケ、1120年、ソゾポリスを奪った。
 ハンガリーとの敵対が終わってヨハネス、その余年をほとんど小アジアに集中。
 1130−1135年、ダニシュメンド朝に例年のごとく遠征。彼の遠征で小アジアでのトルコ人の膨張は抑制された。
 1139年にもサンガリオス川地域に侵攻したトルコ人に遠征し、更にトレビゾンドのガブラス支配を終焉させ、カルディア地域を直接支配に
取り戻す。1140年にはネオカエサレア占領に失敗。
 レヴァントではビザンティンは十字軍国家への宗主権を主張、特にアンティオキアへの権利を主張。
 1137年、キリキアのアルメニア人侯国からいくつかの地域を征服、1138年にはレヴォン1世とほとんどの一族を捕獲し
コンスタンティノプルへ連れてくる。これでアンティオキア侯国への道が開け、アンティオキア公子ポワティエのレイモン、エデッサ伯国の
ジョスラン2世が1137年の帝国の従臣であることを認めた。トリポリ伯国のレイモン2世も急ぎヨハネスに敬意を表した。
 そこでヨハネスはアンティオキアとエデッサを率い、ムスリムのシリアに遠征、アレッポは強固であったが他のいくつかの要塞を奪った。
 ヨハネスはシャイザルを攻撃し、そのエミールは降伏し、ザンギー朝勢力が接近していたので受け入れた。
 皇帝はセルジュークのキリキア襲撃に気をそらされていたが、西ではシシリーのノルマン人に対しドイツ皇帝との提携を進めていた。
 レイモンとジョスランはアンティオキア要塞引き渡しを陰謀しヨハネスへの大衆反乱を掻き立て、ヨハネスはシリアを去らざるを得なかった。
 1142年始め、アナトリアを経由してのシリアへの通路確保のためイコニウムのセルジュークに遠征。通路を確保してシリア遠征に乗り出し、
これはイェルサレム巡礼も含んでいた。
 イェルサレムのフルク王は、圧倒的軍勢と一緒の皇帝の存在を恐れ、穏やかな護衛を連れてくることを願った。これでヨハネスは巡礼を延期。
 1143年アンティオキア攻撃を準備中、タウルス山での狩猟中、毒矢で腕を切り、数日後に死亡。


 ルム・セルジューク

  1140年頃

マヌエル1世(1143−1180)
 マヌエルはセルジュークへの戦いで優れ、後継者に選ばれた。
 1144年、マエヌエルはアンティオキアのレイモンのキリキア譲渡要求に直面、しかしエデサ伯国がイマッディン・ザンギーのジハードに
飲み込まれた。これでレイモンは皇帝に服従。
 1146年、西アナトリアとキリキアの帝国国境を繰り返し侵すルーム・セルジュークのマスードに遠征、アクロエヌスでトルコを破り、
首都コニヤに到達し周囲を破壊。
 1147年、ドイツのコンラド3世の第2次十字軍がビザンティン領に入った。これでビザンティン軍とコンラド軍が衝突、ビザンティンが
ドイツを破った。その後、両指導者の関係は良くなった。コンラドは1152年、死亡、マヌエルはその後継者フレデリク1世とは合意に達しなかった。
 1156年、アンティオキアの新しい公子レイノルドがキプロス攻撃。1158−1159年にマヌエルはキリキアに進軍、キプロス攻撃に
加わったキリキアのアルメニア人王トロス2世は山岳に逃走、キリキアの多くはマヌエルに落ちた。
 これでレイノルドはマヌエルの降伏、従臣となった。
 イタリアではシシリーのルッジェロ2世がビザンティン領に侵攻、1148年、マヌエルはドイツ王コンラド3世と提携し、ヴェネティアの
支援でルッジェロを破る。1155年にはアプリアに侵攻。バリを落とし更にいくつかの都市を占領。
 しかしブリンディシの戦いで敗れ、ビザンティンのイタリア支配回復は終わり1158年、ビザンティン軍はイタリアを去り、2度と戻らなかった。
 マヌエルは1151−1153年、1163−1168年、ハンガリーと戦った。
 マヌエルはエジプト支配のためイェルサレムの王アマルリックと提携し、1169年、エジプトのダミエッタを襲撃したが失敗。
 ビザンティンは1158−1162年、ルーム・スルタン国に遠征し有利な条約を結んだ。
 これでマヌエルは他の方面に集中できた。西ではハンガリーを破り、バルカンを支配。
 東ではキリキアを回復、アンティオキア故国を従属国にした。
 しかしこの和平はセルジュークのキリジュ・アルスラン2世をも強化させた。
 1174年、ヌル・アディン・ザンギが死亡し、その継承者サラディンがエジプトとパレスティナに中心を置き、国境付近が手薄になったときに
キリジュ・アルスランはダニシュメンド朝領域を侵した。これに対しマヌエルはこれを攻撃、1176年、ミリオケファロンの戦いで敗北し、
以降、両者の勢力均衡は徐々に変化し、ビザンティンは、アナトリア地域をトルコ人から回復できなかった。
 1180年、マヌエルが死亡し、息子のアレクシオス2世(1180−1183)が即位。幼少のため母のマリアが摂政となった。
 彼女は息子を権力から排除し、アレクシオス2世派は騒乱を起こし、1182年に抑えられた。
 前帝マヌエルの従兄弟(アレクシオス1世)アンドロニコス・コムネノスがこの混乱を利用した。彼は共同皇帝を宣言。
 アレクシオス2世の治世に、1181年、ハンガリーにシルミアとボスニアを失った。後にダルマティアをヴェネティアに失った。
 1182年、キリジュ・アルスラン2世が帝国に侵攻、コティアエムの戦いでビザンティンを破り、帝国はコティアエウムとソゾポリスを失った。
 アンドロニコス1世(1183−1185)は1183年、アレクシオス2世を殺して単独帝となった。
 彼の激しいやり方で国内は混乱、これでシシリーのグリエルモ2世の侵攻を招き、これは最終的にイサキオス・アンゲロスによって
1186年に追い出された。
 1185年、皇帝不在中にイサキオス2世が皇帝を宣言。戻った皇帝は捕まり、大衆に襲撃され、殺された。
 アンドロニコス1世はコンスタンティノプルを支配した最後のコムネノス王朝皇帝だが、彼の孫のアレクシオスとダヴィドは1204年、
トレビゾンド帝国を創建した。



  1180年頃、コムネノス朝末期

アンゲロス朝 1185―1204
 イサキオス2世(1185−1195)は朝廷間結婚で立場を強化。彼の姪はセルビア王の息子と結婚、妹は第3次十字軍の
イタリア人貴族と結婚。イサキオス自身は1186年、ハンガリー王の娘マルガレートと結婚。
 イサキオスは1185年、シシリー王グリエルモ2世に対しデメトリツェスの戦いで決定的勝利を得る。
 グリエルモ2世はアンドロニコスの治世末期にバルカンに侵攻した。
 これ以外に彼の政策はほとんど成功しなかった。
 彼の重税で1185年末、ヴラフ人とブルガリア人が反乱、これでヴラフ・ブルガリア帝国81185−1396)が形成された。
 1189年、神聖ローマ皇帝フリ−ドリッヒ1世の第3次十字軍がビザンティン領を通過、サラディンと提携していたイサキオスは途中妨害、
これに対しフリ−ドリッヒ1世の軍隊はフィリプポリスを占領しビザンティン軍を破った。
 次の5年はブルガリアとの戦争で乱され、イサキオス自身が何度か遠征。1194年アルカディオポリスで敗北。
 1195年、兄のアレクシソス・アンゲロスがイサキオスの不在に皇帝を宣言し、兵士に認められ、イサキオスは盲目にされ投獄された。
 8年の捕らわれのあと、第4次十字軍の到来ではアレクシオス3世・アンゲロスは首都から逃げ、イサキオス2世が再登位、幽閉で
衰弱していて、息子のアレクシオス4世(1203−1204)が共同統治。
 アレクシオス3世(1195−1202)は地位を保持するために金を消費し、国は財政的に崩壊し、無防備となった。
 第4次十字軍に対しイサキオスの息子アレクシオス4世がアレクシオス3世を退位させ、父を復位することを支援することを訴えた。
 1203年12月、十字軍とコンスタンティノプル住民の間で暴力が発生。アレクシオス4世は住民と父との関係が悪化か。
 1204年1月、アレクシオス4世が十字軍を攻撃したが失敗。コンスタンティノプル住民は反乱し、ニコラス・カナボスを皇帝と宣言。
 アレクシオス・ドゥカスがアレクシオス4世とその父を投獄。アレクシオス・ドゥカスはアレクシオス5世となった。
 帝国はアレクシオス4世の短い治世に黒海沿岸をトレビゾンド帝国に失った。
 アレクシオス5世は食料を求めて攻撃する十字軍に対し要塞を強化した。攻撃失敗し和平を求めて厳しさのため決裂。
 十字軍は市内に入城し、アレクシオス5世は1204年4月にトラキアへ逃亡。コンスタンティノス・ラスカリスが皇帝を宣言したが、戦いを
継続できず、やはり逃亡し、コンスタンティノプルは十字軍の支配下に入った。


  12世紀末



参考 ⇒ニカエア帝国
参考 ⇒パライオロゴス朝ビザンティン



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