
カミロ・トーレス Camilo Torres Restrepo 1929年2月3日〜1966年2月15日
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Cruz de luz ・・カミロが倒れたところに光の十字架が生じた。
interprete:Daniel Viglietti :Victor Jara >
Homenaje
コロンビア人カトリック司祭。
ゲリラ神父の原型であり、解放の神学の先駆者。
社会学者でもあり特に都市の大衆問題を研究。
(コロンビア)民族解放軍ELNに参加しゲリラ行動中死亡。
カトリック司祭として大衆の貧困は観念的な祈りや愛だけで解決できない、現実の社会や
政治を変えることが必要であると主張し、そのための行動の必要性を説き自らそのように行動した。
カミロ・トーレス
Jorge Camilo Torres Restrepo は1929年2月3日、ボゴタ

で生まれた。
父のカリクスト・トーレス・ウマニャCalixto Torres Umanaは名声を博した医者で、
母はイサベル・レストレポ・ガビリアIsabel Restrepo Gaviriaといい、裕福な自由
主義的ブルジョアの家庭の出であった。
1931年から1934年まで家族は一緒にヨーロッパで生活し、1937年に両親は
離婚した。
後、カミロは母と兄弟のフェルナンド(医師として有名になりミネソタ大学の
神経生理学の教授となる。)とボゴタで過ごした。
ボゴタのドイツ人学校で初等教育を、キンタ・ムティスで中等教育を受けた。
1944年にセルバンテス・リセに入学。
1946年にセルバンテス・リセを卒業し、そのあと国立コロンビア大学で法律を半期学び、
堅固な遅れた召命(第二次世界大戦後の数年の流行現象)によりボゴタの司教神学校に入った。
そこには7年居た。
その間に社会の現実に興味を持ち始め、仲間のグスタボ・ペレスGustavo Perezと一緒に社会を学ぶ
サークルを作った。
クリスチャンとして貧困と社会正義の問題に関心を引き寄せられた。
カミロは1954年、司祭に任命された。それからルーヴァン大学で社会学を学ぶためベルギーに旅した。
ヨーロッパで学ぶ間にキリスト教民主主義(第二バチカン司教会議に先立つ)、キリスト教労働組合運動
そしてパリのアルゼンチン抵抗集団、などの彼を被抑圧者の主張に接近させた要因と接触するようになった。
1955年、コロンビア人大学生の集団とECISE (コロンビア社会経済研究施設Equipo
colombiano de
investigacion socioeconomica)を設立した。
ボゴタ、パリ、ロンドンにECISEの支部が作られた。
1958年論文”ボゴタの社会経済的現実への統計的接近”で社会学者として卒業した。
(1987年”ボゴタのプロレタリア化”として出版)
この論文は国内都市社会学の先駆であった。
1959年ボゴタに戻り、国立大学の牧師に任命された。また政治科学部の社会学科の教授になった。
そこでオルランド・ファルス・ボルダOrlando Fals Bordaと一緒に1960年に社会学部を創設した。
彼の階級理論によって導かれた社会学研究は田舎の社会構造同様に都市の社会構造にも彼を接近
させることになった。
1960年、大学共同推進運動(MUNIPROC)を設立し、大学の教授や学生たちとボゴタの大衆・労働者地区
に関する研究と社会行動の仕事を実現した。
牧師としては第二バチカン司教会議の改革をコロンビアへ紹介し、同様にミサに背を向けるのではなく、
顔を向け、そしてラテン語でなくスペイン語で語った。
問題は祈りや愛だけにあるのではなく現実の社会や政治にあることを説いた。
またコロンビア農地改革研究所(INCORA)と国家行政学院(ESPA:労働構造の改革をするための組織)の
活動にも参加した。
1961年、コンチャ・コルドバConcha Cordoba 枢機卿と問題が生じた。
彼はカミロの仕事を良く見ていなかった。
状況は困難になり、高位聖職者は彼を牧師の職と学校の仕事、国立大学に持っていた管理の職務
から罷免した。
1962年、国立大学での積極的行動から遠ざけるため彼はベラクルス教区の司祭に任命された。
しかしながら以降も社会学の研究を発表したり、また社会学部に再協力あるいはNCORAやESPAなどに
協力したりして社会的活動を活発に行っている。
1963年、第一回国内社会学会議で”コロンビアの地方の暴力と社会文化の変革”という研究を発表した。
1964年には第12回ラテン・アメリカ社会学会議に参加し研究を発表している。
1965年の始め枢機卿は彼の活動を放棄させるために彼を管区委員会の宗教社会学のメンバー
に任命した。
一方この年、人民連合unidad popular運動の基礎を据える活動を行い、人民統一戦線を設立した。
多くの宣言や公然の行為を展開し、週間新聞”統一戦線Frente Unido ”を発刊した。
リマで開催された共同開発ボリバール会議にも参加している。
同時に7月密かにサンタンデールに行き(キューバのM-26運動に刺激されて1964年に組織された)
民族解放軍ELNの最高司令官ファビオ・ヴァルケス・カスターニョと接触し、都市での政治情宣の継続、
必要なら組織化を行うことについて一致した。
(カミロはELNに接近することを選び、南部革命集団である、コロンビア共産党を選ばなかった。
彼らは無神論的唯物論のマルクス主義でクリスチャンと対話しようとしなかった。
彼らはやはり1964年にコロンビア革命軍FARCを設立していた。)
高位聖職者の圧力により1965年司祭職を放棄した。
1965年の第二半期にカミロは統一戦線の推進と週間新聞”統一戦線”の発行に努力した。
そのなかで種々の人々にあててメッセージをだしている。
1965年8月26日の第1号で”キリスト教徒へのメッセージ”を発表した。
ここでは現状の矛盾とそれに対するキリスト教徒の混乱に対し宗教的基盤の解決を与える必要を
指摘している。
まずカトリックの原理は隣人への愛であるとし、現実に困窮している多数の人々を現実的・効率的に
幸福にすることの必要性を説きそのためには少数特権階級の権力を奪って多数の貧者を救うこと
を訴えている。
革命は隣人への愛を実現する政府を獲得する行為でそれ故、革命はすべての人への愛を実現する
ためのキリスト教徒の義務であると述べている。
カミロは隣人への愛から革命へ身を投ずることを宣言している。
9月2日の第2号には”共産主義者へのメッセージ”を載せている。
ここでは統一戦線が確立しようとしているキリスト教とマルクス主義、教会と
共産党の関係に出されている疑問について述べている。
彼はコロンビア人、社会学者、キリスト教徒、僧職として革命的であると
述べている。
この立場は貧しい大衆の状況の現実的解決のために戦っている共産主義者
と相反しないと述べている。
彼は共産主義に改宗する気はないし、彼らの戦列に入る気はないが共通の
目的のため一緒に戦う準備はあると述べている。
彼はフアン(ヨハネ)23世の『パーケム・イン・テリスPacem in Terris―
地上の平和』の言葉を引用して自分の行為を正当化している。
またポーランドの例をひいてキリスト教の本質を破壊しないで社会主義建設が
可能であることを説いている。
以降、軍人へ(9月9日)、非戦列者へ(9月16日)、労働組合へ(9月23日)、
農民へ(10月7日)、女性へ(10月14日)、学生へ(10月21日)、失業者へ
(10月28日)、政治犯へ(11月18日)、専制政府へ(12月9日)のメッセージが
発表されている。
1965年9月には選挙棄権運動と各地でのデモに参加した。
10月のボゴタのボリバール記念広場で大行動でカミロは広場を民衆で一杯にし、目まぐるしい
政治的上昇をなした。
10月7日の”統一戦線”第7号の農民へのメッセージのなかではコロンビア農民の行動圧殺への
北米軍事使節の関与を示唆している。
彼は革命的立場をとりながら公然政治活動も行った。
この間、軍や警察の大衆への弾圧、自身への政治的懐柔行為や脅迫、政治家の腐敗を間に見て
、カトリック聖職者としての革命理論を実践に移すため、11月、ELNに加わわった。
12月9日の”統一戦線”特別号の専制政府へのメッセージでは人民の声で権威付けて専制政治家
たちに最終警告・絶縁宣言を発している。
1966年1月、”山岳から””コロンビア人への宣言”を発した。
”コロンビア人へ:
長年、我が祖国の貧しい人々は専制政府に対する最終闘争に乗り出す戦闘の声を待っていた。
・・・・・・・
・・・・・・・
このとき重要なのは革命の準備をすることである。
・・・・・・・
コロンビア人よ:人民と革命の呼びかけに応えよ。
統一戦線の兵士よ、我々の任務を実行せよ:
人民階級の統一によって、死まで!
人民階級の組織によって、死まで!
人民階級のための権力奪取によって、死まで!
・・・・・・
最終勝利まで、民族解放軍ELNの任務とともに
一歩たりとも退かない、自由か死か!”
このなかでカミロは統一戦線と同じ思想をもっているからELNに参加したと述べている。
1966年2月15日のサンタンデールのパティオセメントでの彼の最初の戦闘で死んだ。
カミロには銃で人を撃つことはできなかった。