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 ドイツの学生運動  ブッデベルク 1968−1984  英語  1968世界  学生運動


〔ドイツの学生組織〕 →ドイツ学生団体の歴史(de) 

ドイツ学生団体連合VDS 1949−1990年  
 1949−1975年までドイツ学生団体連合、1975−1990年までは統一ドイツ学生団体。
 第2次世界大戦後1945年ドイツ学生団体はナチス組織として禁止された。
 1949年連邦共和国で後継組織としてドイツ学生団体連合結成される。(オーストリアでは1950年大学生団体OS)
 初期は主に東からの亡命学生救援、対外接触再開、学生の社会要求の支援に従事。
 1957年ホネファー・モデルと呼ばれる学生支援制度を導入に成功しこれは1971年連邦教育促進法BAfoGとなる。
 (無利子学生ローンと給付)
 政治的には1960年代まで中立的で、地方の総学生委員会AStAには長い間名簿選挙はなかったし伝統的学生連合も初めは
禁止され、1956年に議論の末初めてSDSフランク・ダーレンドルフ委員長に選出された。
 1960年代末学生運動により、総学生委員会とVDSは左派が多数派となった。
 1969年、SDSはVDSを反動的として革命的闘争組織転換を試みたが成功しなかった。
 ボン事務所は解散されすべての財産は売却された。1969年、SDS及びVDS執行部は解散した。
 1970年のSDSの解散で1970年代に他の左派グループMSBスパルタクス社会主義学生同盟JUSO学生グループ
リベラル学生連合、基礎Basisグループ(草の根グループ)などによるVDSの指導は弱体化を招いた。
 1975年の応用科学大学連合との合同(統一ドイツ学生団体結成)でも政治的重要性は回復しなかった。
 1989年の組織の将来のありかたや中国の天安門事件の評価をめぐって種々の潮流に分裂し合意できず、JUSO大学生Hochschul
グループと基礎Basisグループ(草の根グループ)が引き上げ実質的に崩壊。
 1993年後継のドイツ学生団体自由連合fzsが結成された。

 委員長は
 ヘルベルト・ガセルト(1953−1954年)
 ロルフ・メラー(1955−1956年)
 フランク・ダーレンドルフ(1956−1957年)、初めて学生政治組織(SDS)メンバーで委員長となる。
 ハインリッヒ・ヴィトネーベン(1957−1958年)
 クラウス・メッシュカット(1958−1959年)、1967年共和主義クラブ参加、SDSで委員長となる。
 マンフレット・レニングス(1959−1960年)
 ディートリッヒ・ヴェンツェル(1960−1961年)、緑国会議員、SPD、SDS参加
   ギュンター・メイヤー(1961−1962年、副委員長)、CUD
 ロタール・クラップマン(1962−1964年)
 ヴァルター・ヒルヘ(1966−1967年)、1970年FDP参加
   オットー・ヘルツ(1967−1968年、副委員長) 
 クリストフ・エーマン(1968−1969年)、人道主義学生連合
 エルンスト・クリストフ・ストルパー(1984−1986年)、緑

ドイツ学生団体自由連合fzs 1993年
 FZSは欧州学生連合ESU国際学生連合IUSのメンバー。地方学生協議会とも接触。
 授業料反対行動同盟支持。アンティファ
 大学メンバー代表には無党派活動家のほかにJUSO学生グループキャンパス緑、リンケ周辺や独立左派も見られる。
 RCDS連合リベラル学生グループは左翼的傾向があるとして協力拒否、しかし学生代表にはRCDSメンバーも参加。
 2003−2005年執行部のコルネリア・ヒルシュ(1980年生)は2001−2002年関西外大で学び2005年からリンケの国会議員。

地方学生協議会
 地方総学生委員会AStA協議会LAK。
 バーデン・ヴュルテンベルク、バイエルン、ヘッセン、ニーダーザクセン、ラインラント・プファルツ、シュレスヴィッヒ・ホルシュタインに
存在。
 
〔学生政治組織〕

JUSO学生グループ
 1973年5大学のグループの共同セミナーとして結成。最初のJUSO学生グループは1969年ギーセン大で結成。
 SPDからのSDSの分裂で1960年に結成されたSHBと対照的に個々の大学から出現した。
 SHBは1968年運動の過程で国家独占資本主義理論を受け入れ、マルクス主義の伝統にたつようになり、更にDKPに近い
MSBスパルタクスと一緒に行動するようになった。非教条的JUSOはSHBとMSBの考えを受け入れがたかった。
 1973年初めにJUSO幹部のオットマール・シュライナーがVDSの執行部に入った。翌年からJUSO学生グループは西ドイツの大学生
組織のひとつとなり、ずっとその状態を継続。
 1975年SHBの一部がJUSO学生グループに入りフロイデンベルク・サークルを結成し国家独占資本主義理論を維持した。
 それによりJUSOの改良主義多数派、反修正主義派、シュタモカップ(国独資)3派がJUSO学生グループにも形成された。
 1989−1990年に天安門事件の態度に抗議してあるいは1989年のSHB崩壊によりSHBから多くがJUSO学生グループに流入。
 東ドイツ自由革命で1989年生まれた社会民主学生同盟BSDSが1991年JUSO学生グループに合流。

キャンパス緑−緑連合・選択大学生グループ
 90同盟・緑の内外の緑に近い全国学生グループ。1970年代末からドイツの大学には緑、多色、選択、フェミニズム、国際主義と自称
する、教条的Kグループや地域を越えたMSBスパルタクス、SHB、JUSO学生グループと自己を区別するグループが存在。
 この緑・選択系のグループは全国組織はもたずVDSでの分派を目指し基礎グループとして存在していた。1990年のVDSの崩壊で
一体性を喪失。1990年代に緑連合と近い関係の色合いの新グループに分化。
 1990年代初めに緑に近いゆるい全国グループが起こり1999年緑連合選択学生に合流、2005年キャンパス緑と改名。
 緑に懐疑的になったグループが1998年左翼連合・急進民主学生グループを結成したが間もなくほとんど消滅し大部分は左翼SDS
に参加。

リンケ(左翼)SDS
 法的には独立のリンケ(左翼)に近い社会主義者学生の全国連合。左翼青年−連帯の活動共同体の1つ。
 2007年5月結成。左翼党やWASGの学生グループのほかに、JUSO学生グループ、統一志向のグループや現代トロツキスト、
左翼同盟・急進民主学生グループなどからも参加。最初は2007年G8抗議行動に注力。
 学習志向(資本論読書サークルなど)で大学政策への関心を欠き、VDSへあまり関わらない。

マルクス主義学生連合AMS
 1997年、スパルタクスの後継として結成。労働組合志向戦術採用。
 DKPに近く、ウンゼレ・ツァイト(我々の時代)祭りに参加。
   
キリスト民主学生の輪RCDS
 1951年結成。しかし第2次世界大戦後すぐにキリスト民主学生グループCDHが出現し、拠点は当初ソ連占領地域にあった。
 そこではドイツ・リベラル民主党LDPD学生グループとともに社会主義統一党SEDの大学政治抵抗センターとなった。
 東ドイツでの学生評議会の解散と唯一の組織自由ドイツ青年同盟結成でCDHは活動を西ドイツとベルリンに移す。
 多くの東ドイツとソ連占領地区脱出活動家は西で新学生グループを結成し1951年最終的にRCDSに参加。
 西ドイツの大学で当初RCDSは周辺的役割しか演じなかった。保守派は学生連合(主にカトリック、1945年禁止、1950年禁止
取り消し)と学生共同体カトリックドイツ学生契約KDSE)を支持。1960年代初めから学生議会(自治会)での地位が強化されるが
学生運動の結果再び受身的となる。1990年代初めの左翼学生組織(MSB、SHB、RSG)などの崩壊で再び地方学生代表を
握るようになる。
 2008年他の大学組織(LHGドイツ大学生連合:教師組織、その他学生・教師組織)とともに大学連合Hochschulallianz.結成。
 100以上の学生グループと約8000のメンバー(2008年)を有する。
 
リベラル学生連合LHV
 1972年学生運動の混乱で崩壊したドイツ・リベラル学生同盟LSDの後継として結成される。
 LHVは左派路線をとっていたが1982年まではFDPの学生組織であった。
 社会リベラル連邦政権(SDP−FDP連立崩壊)の崩壊のあと、1982年FDP青年組織青年同盟とともにFDPから分離する。
 1988年急進民主学生グループRSG−大学青年民主と名乗る。1990年代初めのVDS崩壊とともにRSGも解散。
 1998年から一部は左翼同盟・急進民主学生グループで活動し、2007年のリンケ(左翼)SDS結成に参加。

連合リベラル学生グループLHG
 1987年結成の自由民主党系学生連合。結成には種々のリベラル学生連合(社会リベラル学生連合SLH、青年リベラル学生
グループ、リベラル学生イニシアチフェLSI)が参加。
 1969年のドイツリベラル学生同盟LSDのFDPからの分離以来はじめての全リベラル学生の全国的傘組織。
 80以上の参加グループを有するドイツ第2の学生組織。ヨーロッパ・リベラル青年に参加。


〔ドイツの以前の学生政治組織
  
社会主義ドイツ学生同盟SDS
 1946年公式的には独立組織として設立、実際はSPDに近い組織。
 当初は党に近く、委員長のヘルムート・シュミットや党指導者クルト・シューマッハーの圧力で多くの共産主義者を追放。
 1950年代初期は学生連合再建に反対。1954年エリッヒ・オレンハウアーの党指導部との衝突が頂点に達する。
 1950年代中期、SPDとドイツ再軍備問題、反核運動等で緊張関係となる。
 雑誌コンクレート周辺のウルリケ・ナインホフらはSDSを親東ドイツ路線に持っていこうとした。これらはユルゲン・ザイフェルトらの
当時のSDS指導部によって追放された。
 しかし1961年までSDSのすべてのメンバーは党から追放。
 ユルゲン・ハーバーマスヴォルフガング・アーベンロ−トらと社会主義者同盟を結成してSDSに支持を与えた。
 SPDからの排除で議会外反対派の指導的組織となり、SPDとCDUの大連合で活動的となった。
 ベトナム戦争に反対し、核兵器に反対し、依然影響をもつ旧ナチスに反対した。
 1964年、SDSはAStAやVDSなどで協力する最高合意をSHB、LSD、国際学生同盟学生運動民族横断連合
ISSFと結ぶ。後に地方ではHSUあるいは福音学生組織ESGの一部も参加。
 
 1965年ベルリンのSDSにルディ・ドゥチュケディーター・クンツェルマンベルント・ラベールらが以前のコミューンTの周辺
から出現し、影響を与える。
 1967年反シャー(パフラヴィー)・デモで学生ベンノ・オーネゾルクが警察に射殺され全国的学生抗議運動となる。
 1868年11月4日はテーゲラー通りのベルリン地方裁判所でのホルスト・マーラー(当初極左のち極右)の最初の公判の日であった。
 この際にテーゲラー通りで約1000の抗議者と警察が衝突(テーゲラー通りの闘い)、130の警官と22名のデモ参加者が重傷、
この街頭衝突は議会外運動の転機となる。
 1969年末から後のMSBスパルタクスや反権威主義の後のK−グループとなる集団が発生。
 1968年がピークで約2500のメンバー、その後影響力は後退し1970年解散。1988年再建されたがほとんど影響力がない。
 ヘルムート・シュミットウルリケ・マインホフルディ・ドゥチュケなどが重要人物。
 ホルスト・マーラーは1970年バーダー・マインホフ・グループ結成に参加、2000年国家民主党に参加!極左から極右へ。

共和主義クラブ
 西ベルリンの議会外反対派の連合組織。1967年、ヨハネス・アグノリヴィリアム・ボルムオシップ・K・フレヒトハイム
ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーエッケハルト・クリッペンドルフクラウス・メッシュカットヴォルフガング・ノイスらSDSの
メンバーを中心に創設。
 ベルリンに倣って各地に同様の組織が結成され、SDSと並ぶ学外の議会外反対運動の指導組織となった。
 共和主義クラブを利用した集団に女性解放行動評議会がある。この組織はキンダー・レーデン(自主管理幼稚園)創設に関わった。
 このキンダー・レーデンは当時SDSのモニカ・ザイフェルトが始めた。

社会主義者支援団体(ゲゼルシャフト)SFG
 SPDと衝突したSDSを支援する組織。1961年結成。
 ヴォルフガング・アーベントロートヘルガ・アインゼレオシップ・K・フレヒトハイムハインツ・ヨアヒム・ハイドルン
アレクサンダー・ミッターリッヒヘルムート・ゴルヴィッツァーなどが参加。
 SPDはSFGとSDSメンバーと党員とは両立しないと声明し、ヴォルフガング・アーベントロートオシップ・K・フレヒトハイムらは離党、
ペーター・フォン・エルツェンエーリッヒ・エルラッハらはSFGから撤退。
 1962年社会主義者同盟となり1969年解散。代わりに社会主義者事務所結成、これは1997年解散

社会民主学生同盟SHB
 1960−1992年、1972年からは社会主義学生同盟。
 SPDと当時の学生同盟SDSの衝突が頂点に達し、SDSの党に忠誠なグループが党指導部の支援でSHB結成。
 しかしやがて党と衝突するようになり、1960年代激しく離反するようになり、再びSDSと接近し、SDS、LSDHSUや他の
左翼グループと大連合を形成。
 学生運動の展開にともない1968年から左派が興隆し分派闘争が進展。
 1970年代初期マルクス主義に立脚し、DKPに近いMSBスパルタクスとともに国家独占資本主義理論を受容し、MSBとSHBは
シャム双生児と批判される。
 シュタモカップ(国独資)批判的、行動主義少数派は1971年社会主義グループSFを結成し間もなく離脱し全国的SHB/SFの
結成を試みたが失敗。
 SDPは1971年SHBと離れ社会民主の使用を禁止。それから社会主義学生同盟と名乗る。
 SDPはSHBをSHBから分かれて形成されたJUSO学生グループに置き換える。
 SHBは1970−1980年代大学教育政策と平和運動を優先した。
 同盟メンバーは研究者代表としてあるいはその傘のVDSで活動。多くはJUSOSやSPDでも活動。
 これにより1987年までメンバーは増加。
 大学環境の変化(脱政治化、権利の進展、エリート教育)や東欧放火で1980年代末急速に衰退。
 路線論争も発生し1988年から危機が公然化。
 1989年天安門事件ではSHBは中途半端に批判。この結果個人やグループが大量に離脱。
 JUSO学生グループ同様にSHBを支持してきたJUSOSの支持も失う。この結果SHBは1990年JUSO学生グループ
社会民主学生連合を提案し、不成功し、1992年解散、メンバーにはJUSO学生グループ参加を求めた。
 主な人物はデトレフ・アルバースマリールイズ・ベック(緑)、アンケ・ブルンユルゲン・ビュソヴクリストフ・ブッターヴェッゲ
ヴォルフ・ディーター・ハーゼンクレーファー(諸党遍歴)、マティアス・マッハニッヒウヴェ・オステンドルフハーマン・シェーア
 
マルクス主義学生同盟スパルタクス(MSBスパルタクス)
 1971−1990年に西ドイツに存在し、主に1970年代に全国的に影響をもった当時最大6500名のメンバーをもった
学生同盟。DKPに近く、東ドイツ崩壊で解散。
 MSBは1960年代の学生運動に根源する。当時社会主義ドイツ学生同盟SDS内部にマルクス主義核が形成され、
1969年、SDSの反権威主義潮流から分離し、ケルンとボン大学にマルクス主義学生連合が形成された。
 最初の緩い集団から1971年5月全国組織としてマルクス主義学生同盟スパルタクスとなった。
 これらはDKPに近く、少なくとも社会主義学生同盟SHBとの強い協同活動により、数年間地方の学生連合とその集合組織
ドイツ学生団体連合VDSに支配的影響をもった。
 1970年代末にMSBとSHBを失ったが、SPDに近いJUSO学生グループと緑選択底辺グループに発言力をもった。
 政治的にはRCDSやKBWなどの毛派に対抗。1980年代には自主管理主義者非教条左翼に対抗しMSBとSHBは提携
を志向した。
  
マルクス主義グループMG(1971−1991)
 1968年、ミュンヘンの学生運動から赤い細胞が顕れそれらによってMGが構想され1970年代前半後期に結成される。
 絶えず権力の監視化におかれそのため1991年解散、当時約1万のメンバー。
 解散でも組織は維持されたが出版組織や行事制度(討論集会、支持者集会)は解散された。
 1992年雑誌反対派GegenStandpunkt発行、1997年ゲーゲン・シュタントプンクト・グループが討論集会などを組織し公然登場。

左翼同盟・急進民主学生グループ
 1998年結成の独立左翼学生連合。政治的には青年民主/青年左翼(元自由民主党青年組織)と民主社会党PDSに近い。
 左翼党、左翼結成の過程で分裂し、学生同盟としては実質的に解散し、2007年左翼・社会民主学生連合(左翼SDS)が結成される。

ドイツリベラル学生同盟LSD
 LSDは1950−1969年までの自由民主党FDPの公式学生組織、1950年代末からFDPと衝突し始め、1960年から社会リベラル
連合を要求し、1961年連邦選挙からSPD支持のグループが発生。
 1960年代末から議会外運動に参加し、1969年FDPと最終的に衝突。
 学生運動の後退でSDS同様の運命をたどり、1972年リベラル学生連合LHV結成される。
 1973年右派リベラル志向の社会リベラル学生連合SLHが1960年代末結成されたドイツ学生連合から出現。
 1987年連合リベラル学生グループLHGが社会リベラル学生連合SLH、青年リベラル(1994年結成の自由民主党系)学生グループ、
リベラル学生イニシアチフェLSIなどにより結成されFDP学生連合としてとって代わる。

人道主義学生連合unionHSU
 1962年人道主義連合の学生組織として結成。アデナウアー期の政権政党キリスト保守への公然反対派の結集運動を目的とする。
 特に独裁的政権と宗教的紐帯のしがらみからの大衆の解放を目的とする。国家と教会による精神的後見は個人の自己責任と自己実現
を後退させると主張。1964年解散し他の左派学生連合(SDS、SHB、LSD)と合意し学生議会AStAを支配)とAStA選挙を相互支持。
 この体制でHSUは無党派の穏健左派をほとんどの主要大学で代表し、連合パートナーとなる。
 1967−1968年学生運動後の政治的分極化でHSUは急速に意義を失う。
 主なメンバーはイングリド・マテアス・マイアー(FDP、SPD政治家)、ウルリヒト・ヴィッカート(TVジャーナリスト)、ヨアヒム・カール
(宗教批評家、出版者)、ハーマン・ヨゼフ・シュミット(哲学者)など。

急進民主学生グループRSG
 1972年、学生運動の混乱で崩壊したドイツ民主学生同盟LSDの後継として最初リベラル学生連合LHVとして結成。
 大学では左派路線をとったが1982年まではFDPの学生組織にとどまった。
 社会リベラル政権崩壊にともない1982年青年民主とともにFDPから別れる。
 1980年なかから存在意味が問われ、1988年左翼民主学生グループRSG−学生青年民主となる。
 VDS崩壊にともない学生連合としての急進民主学生グループは解散し、一部は1998年から左翼同盟・急進民主学生グループ
活動し、2007年リンケ(左翼)SDS結成に参加。

ドイツ学生連合DSU
 1968年、学生運動への応答として結成され、穏健派を目指す。
 当時の学生政治的色合いではDSUは保守というよりリベラルを含んでいた。社会リベラル政権の改革政治を支持し、1973年
社会リベラル学生連合SLHと改名。LHVと異なり共産主義者の影響にある左翼提携を拒否しRCDSとの提携を志向。
 1980年に40の大学グループ、2000のメンバーをもつ。このころからFDP右派に接近し1987年連合リベラル学生グループLHG
結成。

〔ドイツの急進運動〕

議会外反対派APO
 議会の外で発生した議会で代弁する政党をもたない反対派、西ドイツの1960年代中期に学生運動として発生。
 中心となったのはSDS。
 1966年のクルト・キージンガーのCDUとSDPでの大連合への反対派として発展した。
 タラール(大学儀式用マント)の下には千年来の黴のスローガンで大学政策の民主化も求めた。
 経済再建ばかり追い求めるナチ世代の親の社会的抑圧の罪を批判もした。
 ベトナム戦争に反対し民族解放戦線に連帯し、第三世界革命指導者(ゲバラなど)などもホーチミンらと偶像となった。
 フランスと異なる点は労働者の参加がほとんどなかったことである。
 転機は1967年6月のイランのパーレビ訪問反対闘争での警官による学生ベンノ・オーネソルクの射殺であった。
 これにより学生運動は急進化していった。翌年SDSの著名な指導者ルディ・ドチュケが労働者ヨゼフ・バッハマンにより銃撃
される。これがもとでドチュケは1979年死亡。
 1969年以降APOは重要性を失うが依然として議会外反対派は活動し、1970年代以降新社会運動(エコロジー、反原発等
)に接近。
 SDSは1968年分解し小左翼サークルや小共産主義者グループ(K−グループ)が発生、ルディ・ドゥチュケ制度を通る行進
と称して議会に参加、1980年代緑を結成し成功を収める。

 1960年代の左翼とりわけ議会外反対派と学生運動にフランクフルト学派とその批判理論、サルトルの実存主義、
特にヘルベルト・マルクーゼは大きな影響を与えた。しかしテオドル・アドルノは1960年代左翼の反知性的傾向を厳しく批判した。
 エルンスト・ブロッホも学生運動や解放の神学に影響を与えた。

破壊行動
 ディーター・クンツェルマンが1962年結成。

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