フランスの極左>   


フランスのトロツキスト 年譜 年譜日本語  系統図

戦前のトロツキスト)   

 1924年アルフッレド・ロスメルボリス・スヴァリヌピエール・モナット左翼反対派としてPCFから追放される。
 1924年モーリス・パピエール・モナットとともにロシア反対派を支持。1926年コミンテルンはロリオ−パ−デュノワを社民偏向と批判。
 1925年ピエール・モナットは雑誌プロレタリア革命(1939年中絶)を創刊、これにはフェルナン・ロリオ(1870−1932年)、
アルフレッド・ロスメルボリス・スヴァリヌアネメデ・デュノワ(1927年PCFを去り1930年SFIO再参加、1945年ベルゲン・ベルゼン収容所
で死亡)、更にはダニエル・ゲランシモーヌ・ヴェーユミッシェル・コリネヴィクトル・セルジュジャン・マイトロンモーリス・パらが寄稿。
 1927年パは共産主義者反対派機関紙として流れに抗してContre Le Courantを発行。モーリス・パとマグドゥレーヌ・マルクス(パの妻)が
PCFから追放される。1929年パとトロツキーが衝突。1931年パはSFIOに戻る。
 1930年国際左翼反対派の最初の協議会の準備のためアルフレッド・ロスメルピエール・ナヴィーユピエール・フランクレイモン・モリニエらは
イスタンブールのトロツキーを訪問、フランスに戻り1930年、共産主義者同盟を結成。
 アルフレッド・ロスメルは1929年ラ・ヴェリタ(他にルネ・ビネら)編集長となり、1930年フランス共産主義者同盟結成参加。
 しかしモーリス・ドマンジェレイモン・モリニエロスメルピエール・ナヴィーユに意見相違が生じ、ロスメルはモリニエについてトロツキーと
意見が合わず1930年同盟を去り、ヴェリテとの協力も絶つ。
 1931年共産主義者同盟にアルベール・トランが参加。しかしモリニエと衝突しマルク・シリックらと追放されアルベール・トランは1934年
SFIOに戻る。
 マルク・シリックは1933年左翼共産主義者アンリ・シャゼらと共産主義者連合結成。これにSFIO加入を好まなかった共産主義者同盟
メンバー参加。
 共産主義者連合評議会共産主義に向かい、更にパリのボルディガ派を迎え、イタリア左派に次ぐ反スターリン派組織となる。1939年消滅。

共産主義者同盟(1930−1934年)
 1930年結成され真実(ラ・ヴェリテ)を機関紙とし第4インター結成前の左翼反対派を結集。
 1934年SFIOに参加しボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ結成するも1935年SFIOから追放される。
 追放後1936年POIを結成するが、間もなく分裂し、レイモン・モリニエピエール・フランクはPCI結成。

 共産主義者同盟は1930年真実(ラ・ヴェリテ)周辺のグループが結成。ソ連を追放されたトロツキーに促され、超現実主義者の
ピエール・ナヴィーユジラール・ロ−ゼンタール(超現実主義者でナヴィーユの友人)のグループとレイモン・モリニエピエール・フランク
グループに分かれていたトロツキストを統合。
 半ダースの指導者と約50人の活動家のこのグループに若いイヴァン・クレポが出会う。
 間もなくナヴィーユロスメル、ロ−ゼンタールとモリニエフランクが衝突、トロツキーは仲裁のため1931年、アンドレス・ニン、
アマディオ・ボルディガ、レフ・セドフ、マックス・シャハトマンを派遣。
 アルベール・トランマルク・シリクらが参加するが1933年分裂し、共産主義者連合を結成し評議会共産主義に向かう。
 1934年2月6日の危機(極右による反議会街頭行動)のあとトロツキーは加入戦術を発表、モリニエらとマルセル・ブレイブトル
マルソー・ピヴェールのグループと提携。
 レイモン・モリニエピエール・フランクらの多数派はSFIOに参加しボルシェヴィキ・レーニン主義者グループ結成。ナヴィーユ、ロ−ゼンタールの
少数派は個人的にSFIOの地方組織に参加。
 ジャン・マイトロンは1935年共産党に復帰。
 1935年SFIO大会でトロツキストは少数派となり、イヴァン・クレポフレッド・ゼレルダヴィド・ルセらは社会主義青年から追放される。
 マルソー・ピヴェールはジャン・ジロンスキーと意見相違となり少数派となり革命的左翼結成するが1938年SFIOから追放されて
労働者農民社会党結成。
 1935年トロツキーは加入戦術を放棄し革命党結成路線をとりピヴェール派から離脱することを宣言。同年トロツキストはSFIOから追放される。
 レイモン・モリニエピエール・フランクはこの新路線に否定的でSFIOに留まろうとしたが追放され革命的行動グループGARを結成し
ラ・コミューン発行。
 1936年GARは国際主義共産党PCIとなる。
 ナヴィーユは雑誌階級闘争(1927年創刊)と真実(ラ・ヴェリテ)を統合し労働者闘争を創刊し革命的労働者党PORを結成。
 イヴァン・クレポナヴィーユモリニエの衝突を好まず、両陣営に加わるのを嫌い革命的社会主義青年JSRを結成、これにはフレッド・ゼレル
ジャン・ルーら、更には共産党と衝突したピエール・ブッセ(ランベール)らが参加。JSRは共産党と衝突した若い共産主義者を結集。
 ピエール・ブッセピエール・フランクにより勧誘されトロツキストとなり1938年国際主義者共産党PCIに参加する。
 1936年の人民戦線成立でトロツキーは3派の統合を試み国際主義労働者党POIが結成される。
 モリニエ派の一部は革命的左翼に留まる。

国際主義労働者党POI (1936−1939年、1942−1944年、1939−1942年は第4インターナショナル・フランス委員会)
 1936年トロツキーのイニシアチヴでピエール・ナヴィーユの革命的労働者党、雑誌ラ・コミューン(PCI)のレイモン・モリニエピエール・フランク
らとイヴァン・クレポフレッド・ゼレル(元青年社会主義者指導者)、ジャン・ルーらの革命的社会主義者青年JCRに分散していたトロツキストは
統一のため国際主義者労働者党POI結成。しかしモリニエ派の参加は短く、間もなく追放され国際主義共産党PCI結成。
 JSRは党にとどまりグループを維持。
 バンジャマン・ペレはレオ・マレとPOIに参加。レオ・マレジャン・ルーとPOIのスペイン派遣員となりPOUMついでドゥルッティ小隊で闘う。
 1938年ナヴィーユは第4インターナショナルのフランス代表となる。
 1939年POI会議でピエール・ナヴィーユの多数派はPSOP参加に反対、イヴァン・クレポの少数派はPSOP参加を支持しPOIを去り、
PSOPで第4インターナショナル委員会を形成。しかし間もなくPSOPから追放される。
 1940年の敗戦のあとクレイポ、ルー、バルタ、ゲランらが第4インターナショナル委員会結成し火花発行、革命的敗北主義を支持。
 第4インターナショナル指導部はPSOP統合拒否に反対しPOIを解散する。
 革命的左翼は1935年マルソー・ピヴェール周辺が労働者インター・フランス支部SFIO内分派として結成。
 革命的左翼の動議は1936年11%から1938年で21.5%と上昇、1938年SFIOから分裂し労働者・農民社会党PSOP結成。
 これはロンドン・ビュローのメンバーである。
 この党にはトロツキストのほかにルクセンブルク主義者ルネ・ルフェーブル)も参加した。
 主なメンバーはマルソー・ピヴェールルシアン・エラールルネ・ルフェーブルダニエル・ゲラン(のちアナーキスト)、コレット・オドリー
ミッシェル・コリネ
 PSOPは1940年ペタン政権により解散させられる。1940年のペタンとドイツの停戦以降、PSOP参加拒否した旧POIの活動家
マルセル・イックダヴィド・ルセ)はイヴァン・クレイポの第4インターナショナル委員会とフレッド・ゼレルのJSRに参加。
 革命的敗北主義の採用でレジスタンスに対するトロツキストの考えは分裂する。
 1939年ダヴィド・コルネルが追放されバルタ・グループが結成される。(1942年共産主義者グループ結成し階級闘争発行)
 1940年ジャン・ルーフレッド・ゼレル革命的民族運動を結成し英国との提携志向。革命的民族運動にはPSOPのルシアン・ヴァイツも参加。
 (民族トロツキズム
 これはイヴァン・クレポの第4インターナショナル委員会や他のトロツキストから社会排外主義と批判される。
 1940年マルセル・イックはPOIを再建、第4インターナショナル・欧州書記局の指導者となる。1943年逮捕され、1944年ドラ収容所で死亡。
 1940年イックの第4インターナショナル・フランス委員会(1942年POIとなる)は地下雑誌ラ・ヴェリテを発行。
 1940年マルセイユでシルヴァン・イトキヌマルセル・ブライプトルが労働者協同組合干果実(クロック・フリュイ)を創設し1942年まで避難者、
亡命者を救援。
 1940年のドイツ侵入でピヴェールはメキシコ、モリニエとフランクはベルギーから英国、モリニエは更にブラジルに逃亡、ナヴィーユは活動をやめ
学術生活に入る。
 古参トロツキストの撤退でマルセル・イック(POI)、ロドルフ・プラジェ(PCI)ら若いトロツキストが地下活動に従事するようになる。
 PCI、PSOPの一部はマルセル・デア(SFIO)の協力者組織人民民族結集(1941年結成、アンリ・モリニエも参加)に参加。
 1940年マルセル・イックのPOIはレジスタンスとプチ・ブルジョアジーとの提携の必要性を認める。
 1942年、ジャン・ムーランは第4インターナショナルを握るイックに協力を要求するが彼はこれを社会排外主義と批判し伝統的立場に戻る。
 ダヴィド・コルネル(バルタ)はこれを異端者と批判する。
 1940年のトロツキーの暗殺で第4インターナショナルは事実上の指導者を失い、トロツキズム組織は困難に陥る。
 そこで1943年12月第4インタナショナル臨時書記局は徐々にレジスタンスと提携する。
 しかしラ・ヴェリテは1944年6月ルーズヴェルトの解放はヒットラーの社会主義と同じと書く。
 1942年南地域の指導者の逮捕後第4インターナショナル委員会はPOIと名乗る。
 1943年ブリターニュでイヴ・ボデネらが逮捕され、ボデネはドラ収容所で死亡。
 1943年ピエール・ブッセはPCIから追放されPOIに参加。
 1943年のマルセル・イックの逮捕でイヴァン・クレポ、ルーマニア人ニコラス・スプルベールマルセル・ギブランが指導部となる。
 1944年国際主義共産主義者委員会(元PCIのロドルフ・プラジェらが1940年結成)、10月グループレイモン・モリニエの兄
アンリ・モリニエらが結成)とミカリス・ラプティスの仲介で合流し国際主義共産党PCI(1944年)結成。
 国際共産主義者連合(バルタ・グループ)は統合を拒否し労働者闘争結成。

国際主義共産党PCI(1936−1940年、1941年から第4インターナショナル建設国際委員会、1943年から国際主義共産主義者委員会
 1936年、レイモン・モリニエピエール・フランクはPOIついで第4インターナショナルから追放され、国際主義共産党PCIを結成し、
雑誌コミューンを発行、イヴァン・クレポジャン・ルーのPOIに対抗。
 モリニエグループはPOIのピエール・ナヴィーユのボルシェヴィキ・レーニン主義グループと提携し、1938年PSOPに参加。
 ロドルフ・プラジェロジェ・フォワリエらが赤い先駆者連合から国際主義共産主義者青年JCI結成。
 ロドルフ・プラジェ(1935年JSR参加、JSRではフレッド・ゼレルへの反対派でPCI参加)は1938年モントリオールの共産主義者青年JCの
反対派ジャック・グランブラ、ピエール・ブッセを獲得。
 1938年ピエール・ブッセがPCにI参加し、ロジェ・フォワリエ、アンドレ・ジェイエドラらの他のモリニエ派とPSOP青年組織に参加。
 1939年秋には旧POI活動家と旧PCI活動家よりなる第4インターナショナル(のための)・フランス委員会 Comite francais pour
la IVe Internationale(1939−1942年、後に再びPOIと名乗る)とマルセル・デアの協力者組織人民民族結集RNPに加入した
アンリ・モリニエ、ロジェ・フォワリエ周辺の旧PCIグループの2つの主要なトロツキスト・グループが存在。
 1939年モリニエとフランクはベルギーに行き、そこでロドルフ・プラジェやベルギーのジルジュ・フェレーキン、スペインのエドワルド・マウリシオ
らと国際通信(インプレコール)発行。
 モリニエとフランクはドイツ侵入に遭い英国へ行く、彼のベルギーの仲間はほとんど逮捕される。
 レイモン・モリニエらは武装レジスタンスを無駄なテロリズムで大衆を犠牲にすると拒絶。
 彼らは1941年の独ソ協定崩壊後のPCFの愛国主義転換を国際主義の名目で反対し、ドイツ・プロレタリアの獲得のため占領軍への
情宣を選択。フランスにとどまった旧PCIメンバーは第4インターナショナル建設国際委員会を結成。
 PCIはアンリ・モリニエ(レイモンの兄)、ロジェ・フォワリエ、ジャック・グランブラ(Privas)、ロドルフ・プラジェピエール・ブッセらによって
地下組織として再建。
 またPCIはマルセル・デア(SFIO)の協力者組織人民民族結集に加入戦術を行い、アンリ・モリニエ、ロジェ・フォワリエ、アンドレ・ジェイエドラ
Gailledrat(Morgat)らが参加。
 1940年シャルル・マルニュCharles Margne、ピエール・ブッセらが共産主義宣伝の罪で逮捕される。
 1941年グランブラ、プラジェはアンリ・モリニエをPCI指導部から追放。
 1942年ジャック・グランブラ、ロドルフ・プラジェ唯一の道周囲に旧PCIメンバーが組織され1943年国際主義共産主義者委員会CCI
が結成される。
 1943年アンリ・モリニエらが旧PCIの少数派となり10月グループ結成。10月グループのメンバーの多くはジャック・デュボワン率いる
アボンダン(豊富)主義者運動由来。モリニエは1944年レジスタンスでゲシュタポにより殺される。
 1943年ピエール・ブッセがPCIを追放されPOIに参加。

革命的社会主義者青年JSR
 1935年のSFIOからのトロツキスト追放で共産主義者同盟のイヴァン・クレポ、旧社会主義青年JSのフレッド・ゼレルジャン・ルーらが
1936年結成。クレポはピエール・ナヴィーユの革命的労働者党PORとレイモン・モリニエのラ・コミューングループ参加を拒否した。
 JSRは革命を発行。
 JSRにはPCFと衝突した青年共産主義者やピエール・ラヌレのような極左(評議会共産主義)も参加。ピエール・ブッセが15歳で参加。
 1936年末モリニエらのPCIの加入戦術を受けるが、PCIの分裂組織化は失敗。
 JSRは結局PCIとPORの統合で結成された国際主義労働党POIへの個人での参加を受け入れるが組織の独立性と雑誌”革命”は維持。
 ロドルフ・プラジェは1937年フレッド・ゼレルと対立しJSRを去りレイモン・モリニエのPCIに参加しJCI(1936−1938年)結成に参加。

人民民族結集RNP(1941−1944年)
 1941年2月マルセル・デアによって結成されたフランスの協力者組織。
 マルセル・デア新(ネオ)社会主義者となり1933年SFIOを追放される。
 RNPにはPCIのトロツキストが加入を行う。
 アンリ・モリニエ(PCI指導部)、ロジェ・フォワリエ(PCI、JSOP)、モリス・デグリス、アンドレ・ジェイエドラ、ジャン・デスノJean Desnotsが加入。
 ロジェ・フォワリエ、アンドレ・ジェイエドラはピエール・ブッセに近かった。

アルフレド・ロスメル(1877−1964年) 
 20代始めから労働組合運動に参加し、1909年にピエール・モナットが創刊した労働総連合CGTの雑誌労働生活に関わる。
 1919年の第3インターナショナル結成大会に参加し、ジノヴィエフ、ラデック、ブハーリン、ベラ・クーンらと政治局員となる。
 ロスメルロリオスヴァリヌに近く、中央派のフロサールカシャンには不信を持っていた。
 またジノヴィエフ派のアルベール・トランとも対抗。ジノヴィエフによるトロツキー排除に反感をもつ。1924年モナットと政治局から排除される。
 1929年トロツキーがトルコに追放されると夫婦で世話を試みる。
 1929年ラ・ヴェリタ(他にルネ・ビネら)編集長となり、1930年フランス共産主義者同盟結成参加。
 しかしトロツキーと意見が合わず1930年同盟を去り、ヴェリテとの協力も絶つ。モスクワ裁判の時期にトロツキーとの関係を修復するが
組織の周辺に留まり、1938年の第4インター結成協議会に自宅を貸したが会議には参加しなかった。
 1940年米国に出、1946年にフランスに戻る。

ボリス・スヴァリヌ(1895−1984年)
 キエフ生まれ。
 1920年からフェルナン・ロリオシャルル・ラポポールらと第3インターナショナルを支持。第3インターナショナル・フランス支部の指導者となり、
1921年第3インターナショナルの書記局員となる。この時期フランスではフロサールカシャンの中央派に反対。
 1923年にはトロツキーに近寄りフランスではジノヴィエフと第3インターナショナル指導部支持のアルベール・トランに反対。
 1924年共産党を追放される。
 1930年民主共産主義者サークル結成、これにはレイモン・クノージョルジュ・バタイユシモーヌ・ヴェイユルネ・ルフェーブル
ルシアン・ロラピエール・カーンジャン・ジャック・スデーユらが参加。
 民主共産主義者サークルはスターリン主義者の犯罪批判とスターリンに迫害されていたダヴィド・リャザノフヴィクトル・セルジュらを擁護。
 1940年米国に渡り、1948年帰国。戦後は改良主義に移行し強い反ソ主義の立場をとる。
 民主共産主義者サークルから戦闘マルクス主義者が分かれ、SFIO内で時には戦闘社会主義者ジャン・ジロンスキーマルソー・ピヴェール
ら)と提携。
 戦闘マルクス主義者にはジュリアン・コフィネルシアン・ロラロベール・ギウヌフらが関わった。
 
ピエール・モナット(1881−1960年)
 CGTの左派で1923年PCFに参加し、スヴァリヌロスメルに近かった。1924年党から追放され1925年雑誌プロレタリア革命創刊。
 CGTとCGTU(1921−1936年)の再統合に努力。
 スペイン戦争の際にはスターリニストのPOUMやアナーキストに対する犯罪を非難。第2次大戦勃発で公的活動を沈黙。
 プロレタリア革命は1939年に中絶し、1947年にロベール・ルゾンらが再刊。
 戦後は資本主義とスターリン主義の勝利でモナットにとっては良い時代ではなく、主に著述に従事。

ピエール・ナヴィーユ(1904−1993年)
 1924−1926年までは超現実主義者、1928年までは共産主義者、PSU参加まではトロツキスト。
 1922年フィリップ・スポル、マックス・ヤコブ、ルイ・アラゴン、ブレーズ・サンドラール、マティアス・リュベックらと前衛雑誌ゆで卵(ルフ・デュール)
創刊。1924年超現実主義革命をアンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、バンジャマン・ペレらと創刊。
 1924年軍役でリフ戦争に出会う。レーニン、トロツキーの著作を読みクラルテを指導する共産主義知識人と接触し始める。
 共産党に参加しアンリ・バリュビュスのクラルテ編集に参加。1926年革命と知識人発行。
 1927年彼の影響でルイ・アラゴン、ジャック・バロン、アンドレ・ブルトン、ポール・エリュアール、バンジャマン・ペレ、ピエール・ユニックらが
共産党に参加。
 ヴィクトル・セルジュからソ連で起こっている事を知らされる。
 1927年、ジェラール・ロ−ゼンタールとモスクワに行き、トロツキーと出会う。
 クラルテをPCFの左翼反対派の雑誌に変え、スターリンにより秘密にされたレーニンの遺言を出版。
 クラルテは階級闘争と改名される。これで1928年PCFから追放される。レイモン・モリニエと出会う。
 1929年トロツキーのソ連追放でプリンキポのトロツキーをモリニエ、ローゼンタールと訪問。
 トロツキーはロスメルにモリニエ派と超現実主義者との合同を任せる。1929年ラ・ヴェリテが創刊されついで共産主義者同盟が結成される。
 SFIOにボルシェヴィキ・レーニン主義グループとして結集したトロツキストのSFIOからの追放で分裂。
 ナヴィーユは雑誌階級闘争を1935年真実と合同し労働者闘争を創刊し革命的労働者党PORを結成。
 1936年分裂したトロツキストは再統一されPOI結成しついで第4インターナショナルに参加。
 ナヴィーユジャン・ファン・ハイエノールトと亡命トロツキーに関わるが、徐々にトロツキーと不和となりPOIのマルソー・ピヴェールのPSOP
合流に反対し1939年衝突。
 1940年投獄、翌年解放され1941年以降学術に専念。
 1次PSU、PSG、UGSにかかわりPSUでイヴァン・クレポ側につく。

レイモン・モリニエ(1904−1994年)
 ボリス・スヴァリヌ(1920年代後半トロツキーと衝突、戦後改良主義・反ソ主義者となる)と知り合い、左翼反対派を知り、1924年PCFを
スヴァリヌ、ロリオ、ロスメル、モナト(1925年プロレタリア革命創刊)と追放される。
 左翼反対派を率いるスヴァリヌの発行する共産主義者ブルティン編集委員会に参加。
 1929年プリンキポのトロツキーを訪問し、フランク、ジャン・ファン・ハイエノールト(1912−1986年)と知り合う。
 1929年ラ・ヴェリテ創刊ついで翌年共産主義者同盟参加。
 ピエール・ナヴィーユは間もなく同盟指導部と衝突。
 1934年PCFの階級対階級戦術に反対のトロツキーの加入路線に従い、モリニエとフランクはSFIOに参加。
 1935年SFIOから追放されトロツキストはPOIを結成、しかしモリニエナヴィーユにより追放され1936年PCI結成しラ・コミューン発行、
また第4インターから追放される。
 戦中ベルギー、英国などを逃亡し、最終的にブラジルに渡る。1940年トロツキーに和解の手紙を出す。1944年第4インター再加盟。

ピエール・フランク(1905−1984年)
 1930年プリンキポ島のトロツキーに会い書記となり国際左翼反対派協議会開催を準備する。
 フランスに戻り共産主義者同盟結成に参加。
 1935年のSFIOからのトロツキスト追放では多数派はトロツキーの勧告に従いSFIOから去るがフランクはアンリ・モリニエと
SFIO内部残留支持の少数派となり、第4インターナショナル運動から追放されモリニエとラ・コミューン・グループ結成。
 1935年公式にナヴィーユによりトロツキスト・グループから追放され1936年PCI結成。
 1939年モリニエとフランクはベルギーに行き、そこでロドルフ・プラジェやベルギーのジルジュ・フェレーキン、スペインのエドワルド・マウリシオ
らと国際通信(インプレコール)発行。
 モリニエとフランクはドイツ侵入に遭い英国へ行く、彼のベルギーの仲間はほとんど逮捕される。英国でフランスのトロツキストから孤立し英国の
トロツキストと接触。しかし警察に敵前逃亡で逮捕されベティ・ハミルトンの助力で解放される。
 終戦でフランスに戻りトロツキスト再統合に参加。

イヴァン・クレポ(1911−2001年)
 ポワティエのリセでマルクス主義グループを結成し活動を初め、1928年このグループを追放されパリに行き、共産主義者同盟を知り参加。
 1930年共産主義者青年JCに参加し1934年これを追放される。
 1934年危機のあとピエール・フランク、ジェラール・ローゼンタールらとSFIOのマルソー・ピヴェールと統一戦線結成の交渉を行う。
 加入戦術の採用でSFIOでボルシェヴィキ・レーニン主義BLグループ結成。
 マルセル・イックダヴィド・ルセ(1912−1997年)、ルイ・リゴディアス、、ジャン・ファン・ハイエノールトらと社会主義者青年のBL指導部形成。
 1935年ノルウェー追放中のトロツキーの個人秘書となる。
 モリニエとナヴィーユの衝突に反対しフレッド・ゼレルジャン・ルーらと革命的社会主義青年JSRを結成。
 1936年のトロツキーの”裏切られた革命”発行でソ連は”堕落した労働者国家”ではなく、官僚的集産主義体制ブルーノ・ルッツィ
シャハトマン、ジェ−ムズ・バーナム、ハル・ドラッパーらが引き継ぐ)と考えるようになる。
 1938年POI参加し、1939年POIの少数派反対派とマルソー・ピヴェールのPSOPに参加し第4インターナショナル委員会CCIを結成し、
PSOPを追放される。
 第二次大戦初期の奇妙な戦争の間にクレポの思想に変化がおきジャン・ルー、ダニエル・ゲラン、バルタ(間もなく追放)らと
第4インターナショナル委員会を結成しレーニンの声、火花を発行。彼は革命的敗北主義を支持。
 1940年の独仏休戦協定後、第4インターナショナル委員会はフレッド・ゼレルのJSR、POIと合同。
 またマルセル・イックとボルシェヴィキ・レーニン主義者機関紙ラ・ヴェリテを占領下秘密雑誌として発行。
 1943年のPOIメンバーの多くの逮捕でドイツ軍兵士向け情宣の責を帯びる。
 1944年PCI結成に参加し、1946年PCI総書記となりまた第4インターナショナル書記局員となる。
 1948年かれのグループはPCI、第4インターナショナル追放され(第4インターナショナルの資本主義危機説に反対)、クレポは活動から撤退し
ガダループで教師となり、間もなくFEN活動家となる。1954年パリに戻り新左翼結成に参加し間もなく左翼社会主義者連合UGS合流に参加。
 1960年PSU結成に参加。

ロドルフ・プラジェ  (1918−2002年)  
 社会主義者青年JSに参加しトロツキズム(グループ・ボルシェヴィキ・レーニン主義者)に影響される。
 SFIOからのトロツキスト追放で1936年のJSR結成に参加。
 JSRではロジェ・フォワリエ(1910−1989年)とともにフレッド・ゼレルへの反対派でPCIに参加。
 1937年国際主義共産主義者青年JCI結成参加。
 1938年セーヌのPSに再加入を試みるがマルソー・ピヴェール・グループの追放と労働者・農民社会党とJSOP結成でこれに参加。
 同時にモントリオールの青年共産主義者の反対派ジャック・グランブラ、ピエール・ブッセを獲得。
 1939年モリニエとフランクとベルギーに行き、そこでベルギーのジルジュ・フェレーキン、スペインのエドワルド・マウリシオらと国際通信
インプレコール)発行。1939年逮捕されるが、ドイツの侵攻で解放される。フランスに戻りジャック・グランブラ、ロジェ・フォワリエらと
旧PCIグループ再結集を図る。
 1940年秘密組織”唯一の道”(スル・ヴォワ)グループ結成、これは後に国際主義者共産主義者委員会CCIとなる。
 1943年から第4インターナショナル欧州書記局員となる。
 1944年PCIに参加、後PSU参加、1969年PSUから追放され1978年からトロツキー研究所副代表となる。

フレッド・ゼレル(1912−2003年)
 美術学校の生徒時代に社会主義運動に関わり、レオン・ブルムやヴァンサン・オリオールと接する。また1932年のトロツキー来仏でトロツキーと
出会い、後に秘書となる。セーヌの社会主義者青年の総書記で1935年SFIOから追放される。トロツキーに誘われてノルウェーに住む。
 パリに戻って革命的社会主義者JSRに参加し、第4インターナショナルに参加。(戦後の数年後に離れる)
 ドイツによる占領の初めからレジスタンスとなる。1940年6月の独仏休戦協定後ゼレルのJSRとイヴァン・クレポの第4インターナショナル
委員会は合同。8月ボルシェヴィキ・レーニン主義者秘密機関紙ラ・ヴェリテ発行。ついで議会主義とナチズムに反対し、英国を支持する
ジャン・ルーの革命的国民運動MNR機関紙の”フランス革命”と”革命的国民闘争”発行。MNRは社会主義ヨーロッパ合衆国を支持する。
 1945年初め絵画に専念するため積極的政治活動から身を引くが革命的民主結集のメンバーとなる。

ジャン・ルー(1908−1985年)
 おじの影響でSFIOに参加し、1932年トロツキストに加わり、GBLに参加。
 1934年フランス滞在中のトロツキーと知り合いノルウェーに同行。トロツキーによりスペインに派遣され、アンドレウス・ニンと会う。
 POUM結成に参加。
 1935年JSR結成に参加。1936年POI結成参加。
 PSOP参加をめぐるフランス・トロツキスト分裂でクレポとPSOP参加、PSOP崩壊でクレポと第4インターナショナル委員会を結成し
雑誌火花発行。
 しかし1940年追放され革命的国民運動MNR結成。
 戦後SFIOに加わり1948年SFIOを去る。サルトルのRDRに参加し、1960年PSU結成参加。
 1968年フリーメイソンに参加。

ミッシェル・ルケンヌ(1921− 
 戦中レジスタンスに参加しトロツキストと関係をもつ。
 1946年からPCI中央委員会メンバーで1988年までその地位維持。
 1965年のPSU結成でその内部で革命的社会主義者グループ結成。
 また雑誌共産主義批評の編集メンバーとしてマルクス理論、歴史の著作を行う。
 あるいは 別名、ピエール・ジェロームとして歴史等の著作をあらわし、特にコロンブスの研究家となる。

マルセル・ブライプトル(1918−2001年)
 1934年レイモン・モリニエピエール・フランクらがSFIOで結成したレーニン主義ボルシェヴィキ・グループ参加。
 また社会主義学生活動家でこれと衝突しシルヴァン・イトキヌらと革命的社会主義学生ESRを結成し第4インターナショナルに参加し
1936年SFIOから追放される。
 1940年マルセイユでシルヴァン・イトキヌらと労働者協同組合干果実(クロック・フリュイ)を創設し1942年まで避難者、亡命者を救援。
 1944年PCIに参加し雑誌”真実”を指導する。

ダヴィド・コルネル(1914−1976年)
 ダヴィド・コルネル(バルタ)はルーマニア人でパリの学生時代トロツキズムの洗礼を受ける。
 1930年代ルーマニア人のレーニン主義ボルシェヴィキグループに参加。スペイン戦争でフランスに戻りPOIに参加しついでPSOPに参加。
 イヴァン・クレポジャン・ルー、ダニエル・ゲランと第4インターナショナル委員会を結成し火花LL'etincelle発行。
 革命的敗北主義を支持しCCIから追放される。(ルーマニア人友人スプルベールの提案とされる)
 1942年共産主義者グループを結成、これは1944年共産主義者連合となる。1942−1949年まで階級闘争発行。

ピエール・ブッセ(1920−2008年)
 ピエール・ブッセ別名ランベールは1934年共産主義青年に参加、ラヴァル・スターリン協定(フランス・ソ連協定)に疑問を持ち追放される。
 1936年当時マルソー・ピヴェールの革命的左翼に支配されていたセーヌの社会主義青年に参加。社会主義青年はSFIOから追放され
イヴァン・クレポらの革命的社会主義者青年JCR結成に参加。1937年CGT参加。ピヴェール派には加入戦術のピエール・フランクらが入っており、
ブッセフランクによりトロツキストに勧誘され、1938年レイモン・モリニエのPCIに参加。
 1939年政府はPOIとPCIの2つのトロツキスト組織を解散する。そこでブッセは秘密組織第4インターナショナル建設国際委員会
Comite International pour la construction de la IVe Internationaleに参加。
 ブッセはロジェ・フォワリエRoger Foirier、ジャック・プリヴァJacques Privasそしてアンリ・モリニエとPCI再建に努力する。
 彼らは奇妙な戦争の間兵士に革命的敗北主義を呼びかける。
 1940年2月逮捕されるが6月の転送中脱走。この件でバルタやパブロの批判を受ける。(名前をばらす?)
 1940−1941年までアンリ・モリニエ(Testu)のPCIに参加。モリニエはマルセル・デアのRNP加入を支持していたが、のち断念し
レジスタンスに参加し、
1944年ゲシュタポにより殺される。ブッセはRNPのようなファシスト組織への加入を実践していたモリニエの路線を放棄する。
 1943年PCIを追放されPOIに参加、POIは革命的敗北主義を展開し、解放闘争を指示していたPCFに反対していた。
 1944年PCI結成に参加し中央委員会メンバーとなる。1947年のCGT分裂(労働者勢力FO結成)でCGTにとどまる。
 (解放後ヒットラー・トロツキスト(当時共産党系の出版物でよく見られた言葉)としてCGTを追放される。)
 1950年ユーゴスラヴィアのチトーを評価し労働組合代表を派遣、これにより共産党支配のCGTから”ヒットラー・トロツキスト”として追放される。
 1952年マルセル・ブライブトル、ミッシェル・ルケンヌおよびランベールのPCI多数派は第4インターナショナル書記のミッシェル・パブロ(ラプティス)
のテーゼ(加入戦術)を拒否する。
 ランベールはブライブトルらとPCIを追放され、この多数派の指導者となり第4インターナショナル再建国際委員会結成を主導。
 1954年アメリカの社会主義労働者党SWPと提携、しかしSWPは周辺化したパブロと衝突し再統一書記局参加。
 1956年労働者民主行動結合(リエゾン)委員会CLADO結成参加。
 1958年労働者情報発刊。1961年CGT−FO参加。1965年組織の発展でグループから組織化へを標語としOCI結成。
 1968年法令decretで組織解散させられ、国家評議会に訴え解散取り消しを得る。1982年PCIを名乗る。
 1980年ナウエル・モレノと結びつくが1981年衝突。
 1983年彼のフリーメイソンとの関係は論争を巻き起こし1985年労働者党運動結成にいたる。このためステファン・ジュスト
フランソワ・シェスネ、オマル・フェルナンデス、フランソワ・プルティ、ミッシェル・ヴァルガ(OCIはCIAとKGPと関係していたと主張)らが
追放される。この過程でルネ・ルヴォルピエール・ブルエが追放される。
 これについてのPCIの無反応はこの党の退廃を示しその結果、1992年労働者党結成される。

マルセル・イック(1915−1944年)
 革命的社会主義青年JSRに参加し、1936年POI参加。1940年非合法でPOIを再建し指導者となり、また第4インターナショナル欧州書記局
指導者となる。1943年逮捕(再逮捕)され、1944年ドラ収容所で死亡。


(戦後のトロツキスト)


国際主義共産党PCI)  
 国際主義共産党PCI(第4インターナショナル)が1944年、国際主義労働者党国際主義共産主義委員会(1943年結成)、
10月グループによって結成された。
 ピエール・フランクは第二次大戦終了後フランス・トロツキスト合同運動を始めPCIに参加。

 1945年、党会議は多数派:マルセル・ブライプトルMarcel Bleibtreu(書記長)、少数派:イヴァン・クレポに分裂。
 同年ダヴィッド・ルセーが離脱し1948年サルトトルと革命的民主集合RDR結成。
 1946年、ラルジュ(広大)傾向が党会議を奪取しイヴァン・クレポが書記長。
 1947年、エトロワット(偏狭)傾向が多数派になる。ピエール・フランクPierre Frank、ジャック・グランブラ(プリヴァス)、ピエール・ブッセ
(ランベール)、マルセル・ファーヴル(ブライブトル)。
 同年、社会主義か野蛮か(クロード・ルフォールClaude Lefort、コルネリウス・カストリアデスCornelius Castoriadis)グループ
が離党し評議会主義となった。
 1948年イヴァン・クレポのグループ追放される。国家資本主義マルセル・ペネティエ)離脱。

 1945年からPCIは社会主義青年JSに加入戦術をとり、クレポに近いアンドレ・エッセル(1947年追放)がJSとSFIOの
分派組織化を行った。
 イヴ・デシェゼルアドリアン・ティクシエロベール・ポンティヨンロジェ・ファジャルディマックス・テレ、ジャン・ルーらが親PCIとなる。
 
 朝鮮戦争中の1952年、多数派がピエール・フランクの少数派により排除される(。ピエール・ランベール周辺のマルセル・ブライブトル、
マルセル・ギブラン、ミッシェル・ルケンヌ、ピエール・ブルエステファン・ジュストら、ランベール派とパブロ派の分裂)、
 彼らはスターリン主義党への加入戦術を拒否、彼らは他のトロツキストたちと第4インターナショナル国際委員会ICFIを結成し
過渡期綱領を維持。
 この分裂で1965年国際主義者共産主義組織が結成される。少数派がPCIの名を維持。
 PCIはピエール・フランクとエルネスト・マンデルErnest Mandelに支配され、第4インター国際書記局TSFIを支持し、1963年、
再統一第4インター支部となり、これは1968年解散した。(1968年6月12日の解散
 パブロ派(ミカリス・ラプティス:パブロ)は1965年分裂し第4インターナショナル革命的マルクス主義者傾向結成、パブロ派は
1969年革命的マルクス主義者連合AMR創設、1975年PSUに合流。

 1952年後PCIは主に知識人の約200人の活動家で1956年PCFから共産主義者の声(フェリックス・ガダリ等)の活動家が参加。
 共産主義青年連合UECにも入り込み1966年アラン・クリヴィーヌ周辺に革命的共産主義者青年同盟JCR結成。
 JCRは1968年PCIとともに解散。

 解散したPCIとJCRは1969年合流し共産主義者同盟となった。これは1973年、極右”新秩序”の集会襲撃により新秩序と一緒に
禁止され、1974年革命的共産主義者同盟LCRとして再建された。

 アルジェリア戦争中、右派が分裂しトロツキズム組織から離れ第2左翼の種々の運動に散らばっていった。
 イヴァン・クレポピエール・ナヴィーユ(右派)、ローラン・フィリアトル、ジャン・ルー(右派)、ロベール・シェラミーRobert Cheramy
(ランベール派)、イヴ・デシェゼレYves dechezelles(ランベール派)らはPSUに参加。

 1956年フランスのトロツキズムは
 ・クロード・ブルデ(PSU参加)の新左翼周辺の約50人の右派
 ・マルセル・ブライブトル、ミッシェル・ルケンヌのボルシェヴィキ・レーニン主義傾向
   これはマルクス主義者トリビューヌを発行し、新左翼とジョルジュ・フォントーヌ自由共産主義連合と接触を維持。このグループは
   約20名で数年後イヴァン・クライポのUGSに結集し、1960年PSU結成に参加、50名の全国局のうち6名を数えた。
  (イヴァン・クレポピエール・ナヴィーユ、ローラン・フィリアトル、ジャン・ルー、ロベール・シェラミー、イヴ・デシェゼレ)
 ・ピエール・フランク、リヴィオ・マイタン、エルネスト・マンデル周辺に結集するパブロ派の約30人、PCIを支配し、大部分はPCFに加入し、
   フェリックス・ガダリ、デニス・ベルジャーの共産主義者の声を強化。
 ・OCI(訴訟で敗れPCIの名を失う)とラ・ヴェリテに結集する約50人のランベール派、たとえばピエール・ブルエステファヌ・ジュスト
   ジェラール・ブロッホ、イヴ・デシェゼレ、ダニエル・ルナールなど。1960年代初め、アナルコ・サンディカリストと全国教育連合FENの
   解放学校傾向を支配。

・社会主義か野蛮か Socialisme ou barbarie
 1946年PCIのカストリアディスルフォール・グループが社会主義か野蛮かグループ結成。
 1948年社会主義か野蛮かはPCIとトロツキズムから離れ、米国のジェームズ−ドゥナウエフスカヤ・グループに近い立場をとる。
 1951年戦前の共産主義者連合を含む国際左翼共産主義者フランス・グループの非ボルディガ派が参加。
 カストリアディスアントン・パンネクークと論争を行う。
 1951年カストリアディスルフォールが衝突、1958年ルフォールアンリ・シモンのグループが労働者連絡情報・グループ結成。
 1960年カストリアディス(マルクス主義放棄)反対派はジャン・フランソワ・リオタールピエール・スユリの周囲に結集、1963年
分裂し、労働者の力Pouvoir Ouvrier結成し1969年解散。社会主義か野蛮かは1967年自動的に解散。
 ルクセンブルク主義者のアラン・ギエレムは統一社会党に加わっている。


ランベール派) 

国際主義共産主義者組織OCI  

 ピエール・ブッセ(ランベール)らはスターリニスト党への加入戦術を拒否し、1953年第4インター国際委員会、ついで分裂で
1972年第4インター再建組織委員会結成に参加。

 1955年少数派マルセル・ブライブトル、ミッシェル・ルケンヌらがアンドレ・マルティとの結集を志向し排除される。このグループは
のちに統一社会党参加。
 1958年雑誌労働者情報発行。
 1961年ランベール派が革命的学生連絡委員会CLER結成。
 1954−1962年にアルジェリア独立戦争でメッサリ・ハジアルジェリア民族運動MNAを支持する。
 1965年、国際主義共産主義者組織OCI結成。
 1968年CLERが革命的学生連合FERとなる。
 1968年OCIとFERが解散させられる。OCIはトロツキスト組織、FERは社会主義青年連合AJSと社会主義学生連合AESなる。
 1970年OCIとFERの解散取り消される。
 1968年以降労働組合の労働者勢力FO、フランス学生全国連合UNEFついでUNEF−IDに非常な影響を与える。
 1971年フランス学生全国連合UNEF分裂。
   UNEF−USはAJSが支配、UNEF−革新は共産主義学生連合UECが支配。
 1973年ミッシェル・ヴァルガが追放され革命的労働者同盟LOR結成。

国際主義共産党PCI

 1980年OCIがUNEF-IDから生まれたLCRから分裂の国際主義共産主義者同盟LCI(ダニエル・グリュックスタン)と統一。
 1981年国際主義共産党PCIとなる。
 1983年、ミッテラン政権の経済政策の転換によりPSとPCFの活動家がPCIへ接近してきた。
 1984年EU議会選でマルク・ゴクランのPCI名簿は0.9%獲得。
 ステファン・ジュストらが追放される。
 PCIは1985年、社会党や共産党に失望した活動家を集め労働者党運動MPPTを結成した。
 1986年、400の活動家が分裂、社会主義者結集Convergences を結成し社会党に参加。
 この影響でUNEF-IDの多数派がPCIから社会党に移る。
 主な人物はジャン・クリストフ・カンパデリ、マルク・ロザンブラ、フリップ・ダリユラ、フィリップ・カンパンキなど。
 オマル・フェルナンデス周辺の雑誌全真実グループが追放され第4インターナショナル再建トロツキスト・グループ結成。
 1988年大統領選でピエール・ブッセルが0.38%獲得。
 1989年ピエール・ブルエらが追放される。EU議会選をマルク・ゴクラン率い0.6%獲得。
 1991年アンドレ・ランジェヴァンらが追放される。
 1992年4人の中央委員(ペドロ・カラスケド、アレクシス・コルビエール、ジャン・リュク・メランションら)と約150の活動家が追放される。
 ペドロ・カラスケドラ・コミューン・グループ(モレノ派)結成。

労働者党PT
 1991年労働者党運動MPPTがUASのアナルコサンディカリストと連合し労働者党結成される。
 1992年、PCIがPTの国際共産主義者潮流となる。
 1997年、PTとPCFの正統派がマーストリヒト条約破棄の全国委員会結成。
 2002年大統領選で書記長のダニエル・グリュックシュタンDaniel Glucksteinが0.5%獲得。
 2007年大統領選でジェラール・シヴァルディ支持、0.34%。

 党内には国際主義共産党PCIから生じた国際共産主義者潮流(トロツキスト)、元PS・市民運動の社会主義者潮流、
共産主義者潮流、アナルコ・サンディカリズム潮流(アレクサンドル・エベールなど)などがある。
 多数派はトロツキストだが党はLOやLCRのような厳密なトロツキズムではない。
 PTの前身のOCIは1980年代まで加入戦術をとっており、リオネル・ジョスパン(1965年)はこの組織と関係があった。
 その他社会党の著名な指導者の旧ランベール派としては、ジャン・リュック・メランション(1969年参加、1977年社会党)、ダヴィド
ダニエルのアスリーヌ兄弟、ジャン・クリストフ・カンパデリなど。

○独立労働者党
 2008年労働者党解散し独立労働者党Parti ouvrier independantとなる。
 全国書記はダニエル・グリュックシュタンジェラール・シヴァルディ(2003年まで社会党)など4名。
 これにはトロツキス(CCI)ト、旧共産党グループ、社会主義者グループ、アナルコ・サンディカリスト・グループがいた。
 2015年ダニエル・グリュックシュタンのグループ(CCI)は民主独立労働党POID結成。


革命的共産主義者同盟LCR) 歴史
 1969年結成の共産主義者同盟が1973年に禁止された後、1974年に樹立。再統一第4インター派
 主な代弁者はアラン・クリヴィーヌAlain Krivine、ロセリーヌ、ヴァシェッタ、オリヴィエ・ブザンスノーOlivier Besancenot
 LCRの活動家は公然と”市民支援のための金融取引課税連合”ATTACや労働組合連帯統一民主SUDで活動している。

 フランスのトロツキストは1968年以前、主に国際主義共産党PCI(第4インター)と革命的共産主義者青年同盟として
存在していた。PCIはPCFへの加入戦術をめぐって1953年、ランベール派が分裂した。(後に労働者党PT)
 PCIはベトナムとアルジェリアの民族解放闘争支持とまたチトーを批判的に支持して分解。

 トロツキストは共産主義学生連合に加入して活動し、反対派を形成した。これは1966年大統領選でミッテラン支持を拒否して
分裂し革命的共産主義者青年同盟JCRを結成。これはピエール・フランクに促されてアラン・クリヴィーヌ、ダニエル・ベンサイド、
アンリ・ウェーベルらが結成。JCRはランベール派やパブロ派、労働者闘争LOに反対しフランク派に提携。
 
 1969年、JCRはPCI(ピエール・フランク)と合流し共産主義者同盟LC結成し、第4インターナショナル支部となる。
 アンドレ・グリュックスマンギ・オッカンガムら自発主義者と運動主義者グループは広範な革命戦線構成を支持し、
第4インターナショナル参加に反対しLCを去る。
 
 1969年大統領選挙でLOや共産主義万歳の支持を受けアラン・クリヴィーヌ1.06%獲得。
 1968年5月をロシア革命と類推し、革命を導く前衛党獲得のため諸領域に介入。
 ベンサイドはスターリン主義的選挙主義を批判し革命的暴力を支持、一方ジェラール・フィロシュは組合活動と労働者党への加入を主張。
 ジャネット・アベルとピエール・ルセはその中間を提案。他のグループはLOとの提携の兆候を示すがバルタ派は徐々にこれを解消。
 クリヴィーヌ、フランクが席を占める第4インターナショナル統一書記局は1969年革命的焦点(フォコ)戦術のゲヴァラ主義路線を支持。
 パブロ派の革命的マルクス主義者連合と異なりLCRは新社会運動に曖昧な態度であったが、ジェラール・フィロシュの妻の
フランソワ・フィロシュは1970年代女性解放運動の革命的傾向レ・ペトロルーズ(石油点火者)の一人であった。
 1970年にはジェラール・フィロッシュ、ダニエル・グリュックシュタンらの第1傾向T1、アラン・クリヴィーヌ、ダニエル・ベンサイド、
アンリ・ウェーベルらの第2傾向T2、ミッシェル・ルケンヌジャン・ルネ・ショヴァンらの第3傾向T3が存在。
 1971年イザック・ジョシュア、アンリ・マレ、クリスチャン・ピケらの革命が分裂。
 1972年、PSUの革命的国際主義マルクス主義傾向TMRIのグループがロカール・グループ解散にともないLCR参加。
 (ジャン・マリー・ヴァンサンデニス・ベルジャー、クリスチャン・ルカット、ジャック・ケルゴア
 革命的アナーキスト組織から追放された多数派がLCR参加。(少数派は労働者闘争LO参加。)
 1972年の共同綱領でLCRは分裂
   共同綱領に反対の極少数派はスパルタクス主義者となる。
   クリヴィーヌ、サイードの多数派は社会党や共産党を批判しながら左翼連合支持。
   イヴ・サレス率いるグループは左翼連合統合を支持。
   旧PCIのピエール・フランク、ミッシェル・ルケンヌのグループは左翼連合を支持し社会党の将来に期待した。
 ジェラール・フィロッシュ、ダニエル・グリュックシュタン、ドミニク・ルセらの周囲が少数派形成。

 LCは1973年、極右”新秩序”の集会襲撃により新秩序と一緒に禁止され、1974年革命的共産主義者同盟LCRとして
再建された。この行動はLCRの支持を拡大したが同時に革命戦略と暴力の役割が議論となり、左翼主義から左翼連合へと
転換した。
 極右襲撃はジェラール・フィロシュには知らされずクリヴィーヌ、ベンサイド、ミッシェル・ルカナティにより決定され、ルカナティ
ロマン・グピルにより組織された。PCF総書記のジャック・デュクロはLCR解散抗議集会に参加し連帯を表明した。
 ミッシェル・ルカナティは1978年自殺。
 ジェラール・フィロシュアンリ・ウェーベルジャネット・ピアンスキーらはこのような暴力主義を批判し、工場復帰を主張。
 LCRはダニエル・ベンサイドイヴ・サレス、ピエール・ルセらに(彼らはある種のテロ行動を支持していた)支えられ
左翼主義から徐々に離れていった。
 シャルル・ミシャル、ジャネット・アベル、フランソワ・サボドらはLCRを社会運動の方向へ向け、これはOCIとの再結集を
予測させるようになっていった。
 古い指導者(クリヴィーヌ、ベンサイド等)は周縁化していった。
 1974年大統領選はPSUメンバーでCFDT活動家シャルル・ピアジェ支持を表明したがPSUのロカールはミッテランを支持し、
結局クリヴィーヌ立候補で0.36%獲得。
 1974年には
  組合運動注力で広い前衛での主導権優先反対のジェラール・フィロシュダニエル・グリュックシュタンのT1が20%、
  クリヴィーヌ、ウェーベル、ベンサイドの多数派のT2
  旧PCIのルケンヌ、ジャン・ルネ・ショヴァンの改良主義者と統一行動と広い前衛構成支持のT3
  ジャック・コッタ、デニス・コランのランベール派提携グループ、公式分派形成前に追放される。

 1975年PSUと統合交渉されるが不成功。
 同年ボルシェヴィキ・レーニン主義グループが選挙主義組織を拒否し労働連合を結成し極左に近づいていった。
 またマルティーヌ・リニエール・カスが社会党に参加。(ジャン・ポプランに接近)
 1976年、LCRの学生が組合行動運動MAS(ロカール派学生組合)に参加。
 1977年、MASでLCRが多数派となる。
 自由共産主義者組織(1976年革命的アナーキスト組織から分裂)との統合交渉失敗。
 この当時LCRは約3800の活動家でランベール派OCIは約8000。
 1975−1978年にフランソワ・サバド、ドミニク・ロセイが学生運動部門の主導権を握り、組合運動に方向を向けさせる。
 フランソワ・コルトとともに彼らが組織の学生絶対多数派を形成。
 ジル・カサノヴァ、ロビ・モルデール、ディディエ・レシらの少数派は社会運動で急進化し指導部と衝突し、1977年自主管理共産主義者委員会
CCA(パブロ派)に参加。
 ドミニク・ロセイ、フランソワ・コルトはランベール派に参加。
 ダニエル・グリュックシュタンはフィロッシュから離れT4指導者となり社会党・共産党連合とランベール派との提携支持。
 1978年選挙はCCA、労働者共産主義者組織OCT(1976年革命とPSUから出た毛派労働者農民左翼GOPが統合)と社会主義のために、
労働者に権力をの標語で共同名簿形成。
 1979年、EU選挙でLO−LCR統一名簿”欧州社会主義合衆国のために”(ラギエ筆頭)が3.08%。
 同年のトロツキスト・レーニン主義傾向追放は米国社会主義労働者党SWPのフランス・グループ(ダニエル・グリュックシュタン、ドミニク・ロセイ)
と親ランベール派(フランソワ・コルト、クリシュチャン・ルカット)およびボルシェヴィキ傾向(親モレノ)の結集を生み出した。
 同年会議の組織の20%を占める離脱者は国際主義共産主義者同盟LCIを結成し1980年、OCIと合流。
 LCIはサンディニスタをブルジョア分子がいることを理由に支持拒否。
 ドミニク・ロセイとクリシュチャン・ルカットは間もなくOCIに移り、ダニエル・グリュックシュタンがLCIの指導者となる。
 OCIはこの利益で1980年UNEF−UD会議でジュリアン・ドレイ、シルヴィア・ザッピのLCR(15%支持)を周辺化する。

 グリュックシュタンが去りクリヴィーヌ、サイードは多数派となり、フィロッシュと提携する必要がなくなり、左翼連合支持は放棄、
共産党との提携に向かいソ連のアフガニスタン介入を支持。
 翌年クリスチャアン・ピケの革命が復帰。
 これでフィロッシュ20%、ルケンヌ、ショヴァン、ピケが27%でクリヴィーヌ40%ととなる。
 LCRは労働者主義になる。
 LCR指導部のソ連のアフガニスタン介入支持で1981年ジャン・マリー・ヴァンサンがLCRを去る。
 1980年、MASがフランス全国学生連合・独立・民主UNEF-ID(−2001)結成に参加。
 1981年、LCRの小グル−プ(組合行動運動MAS)が離脱しPSで疑問社会主義者を形成。
 疑問社会主義者はUNEF-IDの統一労働組合派を支配し、1984年SOS人種主義を設立。
 参加者はジュリアン・ドレイアルレム・デシールイサベル・トマスローランス・ロシニョールなど。
 ジュリアン・ドレイLEASの学生幹部の大部分とセーヌ・サンデニのトロツキストが従う。

 1977年頃には3800の活動家が1981年にはわずか570とされ、1981年大統領選では500名の署名が得られず、
第1回はアルレット・ラギエ(LO)またはジョルジェ・マルシェ(PCF)投票、第2回はミッテラン投票を呼びかける。
 一方OCIは第1回からミッテラン投票を呼びかける。

 ピエール・テュルカンによると1980年の主要トロツキスト組織のメンバーは
 OCI:4500
 LCR:1800
 LO:650
 国際主義共産主義者同盟ダニエル・グリュックシュタン)LCI:430
 フランス・トロツキスト同盟LTF:150
 革命的労働者同盟LOR:80

 1983年、ファビウス政権で政治環境が変化し、1986年シラク政権が成立した。
 これによりすべての極左運動が衰退した。(逆に国民戦線が拡大)
 1984年クリスチャン・ピケ主導で現代化を展開し、これで組織に不満が生じる。
 LCRは共産主義者選択党PAC(ML共産党が毛沢東主義から離れ1985年改名)あるいは選択左翼連合に接近する。
 1986年大統領戦後には選択左翼連合にフェデリク・ブラン、パトリク・フランジュらT3の一部が移る。
 1987年(党会議で多数派49%(大統領選ピエール・ジュカン支持)、10%(ピエール・ジュカン不支持)、ARA?傾向10%、T3が8%。
 ダヴィド・アスリーヌらの革命的労働者同盟が合流。
 1988年、大統領選ではPSUと元PCFのピエール・ジュカンを支持したが失敗だった。
 ピエール・ジュカン2.10%、緑のアントワーヌ・ヴェシュテル3.78%、LOのアルレット・ラギエ1.99%、労働者党運動
ピエール・ブッセ(ランベール)0.38%。
 同年、社会主義、エコロジー、自主管理のための新左翼AREF結成に一部参加。
 同年フランソワーズ・フィロシュ、パスカル・ディアスの関わった看護師ストライキでエドモン・メールはLCRメンバーを労働民主フランス連合
CFDTから追放。ピエール・エリティエは指導部から追放される。クリストフ・アギトンSud−PTT(連帯・統一・民主−郵便・電報・通信)結成。
 1989年ベルリンの壁崩壊、1991年のソ連崩壊後LCRは新党−広範な反資本主義党−結成に向かう。
 1992年、青年組織青年革命的共産主義者からの追放者が革命的左翼結成。
 革命的左翼は1996年指導部の多数派が解散、一部は共産党(雑誌プロメテ)参加、一部はミリタン結成。
 組合行動運動MAS活動家が分裂し結成した疑問社会主義者が1992年社会党に参加。
 (1981年ジュリアン・ドレイが追放され、社会党参加、彼にLEASの学生幹部の大部分とセーヌ・サンデニのトロツキストが従う。
 1994年、民主と革命(ジェラール・フィロッシュ)の活動家が分裂し、PSの左翼反対派(メランションドレイリエヌマン)に加わった。
 LCRは複数左翼に参加しなかった。
 1998年偽名使用を放棄。
 1999年のEU選挙でLCRはLOと連合を組み5議席獲得(LCRからはクリヴィーヌとロセィーヌ・ヴァシェッタ)、2000年議会でLCR/LO議員
トービン税に賛成せず批判を受ける。
 同年自由エコロジスト・急進社会民主共感SELSが参加。
 SELSは1997年緑を去ったフィリップ・コルキュフ、クレール・ル・ストラ、リリアン・マティウ、ウィリ・ペルティエが結成。
 2000年LOから分裂した労働者の声が合流。
 2001年、旧労働者の声革命的民主派結成。
 2002年の大統領選(1974年以降始めて)ではオリヴィエ・ブザンスノーが4.25%、2007年は4.1%獲得。
 2002年にはLOやPTと異なり、第2回では反ル・ペン、事実上のシラク支持を行った。
 同年、前進派結成、2003年多数派参加(プラット・フォーム1)
 2003年プロレタリア独裁放棄。
 2003年と2004年の地方選挙とEU選挙ではLOと複数左翼に対する左派として統一名簿を形成、地方選挙では良い結果が
得られたが政治的には成果は得られなかった。
 EU選挙では1.06%、0議席に後退。
 底辺社会主義(英国社会主義労働者党SWP系)合流。
 EU憲法国民投票ではコペルニクス財団を通しノン左派に参加。
 この反対運動はLCR内に苦悶を生じた、LCRはブザンスノーを2007年大統領選候補としたが反リベラル統一候補推進意見
も存在した。
 2006年会議では
   プラット・フォーム2(革命的民主):12.14%。
   プラット・フォーム4(底辺社会主義と旧革命のレオンス・アギール):8.94%
   プラット・フォーム5(前進):4.28%   *前進2002年結成、2008年解散。
 2007年大統領選挙のあとLCRは反資本主義新党の結成を発表。
 2008年1月大会では社会党の社会リベラリズムに対し厳しく自立する反資本主義新党の多数派とCPF、社会党少数派、PRSなどの
反リベラル左翼よりなる反リベラル、革命連合派あるいは反リベラル集合派が存在し、少数派には社会党からの独立優先を疑問視
するものもいた。
 投票では反資本主義新党派83%、PCFや社会党少数派との反リベラル左派14%、反リベラル集合派3%となる。


反資本主義新党NPA Nouveau Parti anticapitaliste
 2009年2月初め結成大会開催。参加組織はLCR、その青年組織JCR革命的左翼(1992年LCRから分裂)、コミューヌ・グループ
(1992年労働者党から分裂、ペドロ・カラスケドら)、国際主義者革命的共産主義者グループ(2002年労働者党から分裂、LCRで
光明傾向となる)、赤い広場集合collectif Carre Rouge(1995年元PCI活動家結成、フランソワ・シェスネら)、自由エコロジスト・急進社会民主共感
SELS(ナディア・バンエラフィリップ・コルキュフら)など。
 労働者闘争LOの炎Etincelle(1996年−)はオブザーヴァー。
 党名は反資本主義新党のほかに革命的反資本主義党、左翼反資本主義党など。
 NPAは左翼党とフランス共産党にEU選のための連合結成を提案したがこの両党はすでに左翼戦線結成を提案していたため拒否。
 NPAは2009年3月初めに左翼戦線参加拒否。
 LCR少数派の統一Unirクリスチャン・ピケに率いられ分裂し新党統一左翼Gauche unitaire.を結成、左翼戦線参加。
 全国大会動議は3.7%でしかなかった。
 分裂反対の統一グループは2009年5月NPAで収束・選択を結成。
 またCLAIRE(光明)傾向が形成された。これは旧国際革命的共産主義者CRIグループ(2002年労働者党の国際共産主義者潮流が結成、
2008年から解散まで第4インターナショナル・トロツキスト・フラクションのシンパ)と旧LCR等からなる。
 2009年EU議会選は4.8%、0議席。
 2010年地域選挙は21地域の独立あるいは支持名簿の得票は3.4%でEU選よりよくなかった。
 15の独立名簿では2.85%、左翼党と提携した3地域は4−5%。左翼戦線と3名簿のうち2つは5%を越えた。
 ラングドック・ルシロンで8.59%、リムザンが13.13%。リムザンでは第2回で社会党が提携を拒否したので独自で19.10%獲得。

 20011年第1回会議のための党員投票では
  ポジション1:NPA指導部の左翼戦線提携反対、40.83%。
  ポジション2:アイデンティティ(ガエル・キラントら)の左翼戦線とのすべての提携反対、28.29%。
  ポジション3:収束・選択の左翼戦線提携賛成、27.20%
  ポジション4:光明傾向、革命的共産主義者潮流、3.40%。
 2012年大統領選へのオリヴィエ・ブザンスノーの不立候補で自動車労働者フィリップ・プトゥを候補とする。(代表の支持53%)
  旧多数派は分裂し41%獲得の新少数派は左翼戦線との結集を支持し、ピエール・フランソワ・グロン、フレデリック・ボラ、ミリアム・マルタン
 (2011年からクリスチーヌ・プパンと共同代弁者)らが率いる。
  LOとの提携は5.75%となる。

 このあと収束・選択はNPAから独立し、2012年大統領選は左翼戦線参加を決定。
 更に反プレカリアート(不安定労働)闘争集合”呼び出しとつるはし”L'appel et la piocheの活動家レイラ・チャイビとマエル・ゴプフェルトが
NPAを去り左翼党に参加。 
 2012年ミリアム・マルタン反資本主義左翼とともに左翼戦線に去る。
 2012年大統領選はフィリップ・プトゥが1.15%。2017年もフィリップ・プトゥで1.09%。

労働者闘争LO Lutte Ouvriere
 通常は共産主義者連合の名のトロツキスト。1973年からアルレット・ラギエArlette Yvonne Laguiller が代弁者で、大統領選にも
ラギエがでているが、ロベール・バルシアが創設者で中央指導者。
 LOは国際主義者共産主義者連合UCIのメンバー。
 LOは労働の場での活動を強調し、他の左翼グループのように労働の場以外での闘争を重視しない。
 別の国際化運動のような最近の現象に批判的である。LOの厳格な規律と秘密主義には批判がある。

 起源は1939年、ルーマニア人ダヴィド・コルネルDavid Korner(バルタ、1914−1976年)によって設立された共産主義者連合という小さな
トロツキスト・グループで、バルタは第4インターナショナルに当時プチブルジョア雰囲気がはびこっていると感じ、これから去り10数人の活動家と
共産主義者連合を結成し労働者階級のなかに入っていこうとした。共産主義者連合は反帝国主義世界戦争の情宣に勤めた。
 占領中ピエール・ボワマティユ・ブホルツが階級闘争を配布。
 マティユ・ブホルツは1944年スターリニストによってナチスと批判され暗殺される。これで若い当時16歳の共産主義者ロベール・バルシア
(1928−2009年)がトロツキスト運動に入る。
 1947年グループは10数人の活動家でルノーでのストライキに積極的に参加。ピエール・ボワが実践の指導者でダヴィド・コルネルが
政治的指導者、ロベール・バルシアは結核で参加できなかった。
 ストライキ後グループは約400人のルノー民主組合を結成。しかしバルタとボワの衝突で、1950年共産主義者連合は消滅。
 これでダヴィド・コルネルはすべての政治的活動を止める。
 ロベール・バルシアピエール・ボワはルノーで活動しグループ再建に努力し、旧バルタ・グループを再結集し1956年労働者の声が結成された。
 ピエール・ボワは社会主義か野蛮かに近い工場の仲間と活動していた。
 バルタはグループ再建に関わる事を拒否し、著作を行い指導者にはならなかった。
 バルシアは1953年から主に医療活動に従事。
 長い間PCI−ランベール派と協力し雑誌労働者の声を回覧、1963年から労働者の声は週刊となる。
 68年5月の学生反乱支援により禁止され、労働者闘争となりグループは成長をとげた。
 アルレット・ラギエ(1940年生)は最初PSUに参加していたが1968年の労働者闘争結成に参加。
 1970年にはLOはLCと統合の議論を開始したが、成功しなかった。
 1976年に再び議論が進行した。2つの組織は選挙や運動で一緒になった。
 LOは選挙での立候補に努力し、ラギエは大統領候補としてよく知られるようになった。
 1974年、ラギエは大統領選初めての女性候補となり、2.33%獲得。(クリヴィーヌは0.33%と低下。)
 LOのもうひとつの大きな公然活動は1971年からの年祭りである。 →Fete Lutte Ouvriere
 1970年代に2回の分裂があった。ソ連を労働者国家とするのを批判して国家資本主義と考えるグループが発生。
 1974年労働者連合が結成された。これは極左になり1977年消滅し、活動家は労働者自主管理の潮流となっていった。
 別のグループは戦闘共産主義者を結成し、これは社会主義インターナショナルとなり、1990年消滅した。
 1990年代、選挙の結果がよく(1995年大統領選5.3%)新労働者党結成が話題となり、2001年、労働者の声
結成され、間もなくLCRに合流した。
 1995−2008年まで小グループ、年会議で旧ソ連の発展に関する不一致で約3%支持のグループ発生。2008年の反資本主義新党結成に参加。
 しかし2007年には大統領選1.33%と2002年の5.72%から急落した。
 ナタリー・アルトーがラギエ(1940年生まれ)に代わり2009年EU選候補となる。
 LOは何度か選挙でLCRと手を組んでいる。たとえば1979年、1999年のEU選、2004年地方選、この選挙では4.58%で
2002年の両者の合計10%より低かった。
 LOはすでに1971年にはPSU、1995年にはPCFと連合している。2008年にはPCF、PSを中心にLCR、緑、MRC、PT、PRG
などと協力、186中69が統一候補で79議席うち65が統一候補、ちなみに2001年は単独で33議席。
 2009年EU議会選挙は1.2%。
 2010年地域選挙ではLOは全地域で独立名簿を形成。1.1%獲得
 ナタリー・アルトーの大統領選は2012年0.56%、2017年0.65%。
 2019年EU選は0.8%。

ミリタン Le Militant〕
 2004年結成のテド・グラント系のトロツキスト(労働者インターナショナル委員会)の連合。
 支持者は政党では社会党、共産党、左翼党に参加し、労働組合ではCGTやFOに関係している。
 パリの移民の間に働きかけを行っている。
 2006年CPE反対運動で連絡の手紙(ラ・レトル・ド・リエゾン)、ミリタン、ラ・コミューヌ、国際主義者共産主義者委員会で交流グループ
結成される。
 2007年ミリタン編集者は社会党のヴァンサン・プレジュメイらの連絡の手紙(ラ・レトル・ド・リエゾン)と合流。
 レイモン・デボール(社会党)らが代弁者。2008年社会党会議ではブノワ・アモン提案支持。
 レイモン・デボールは1996年共産党参加、2005年社会党参加。
 そのほかジャン・フランソワ・シャロ(2008年社会党を去り左翼党参加)などが主要メンバー。
 2012年レイモン・デボールらが左翼党参加。
 2008年総会ではメンバーの80%が移民で代表の70%は女性。
 2009年ミリタント編集者は労働者国際ネットワーク結成に参加。

パブロ派
 1952年の朝鮮戦争の間、パブロ(ミカリス・ラプティス)提唱のPCFとCGTへの加入戦術を拒否したマルセル・ブライブトル
ミッシェル・ルケンヌ率いる国際主義共産党PCI多数派は第4インターナショナルから追放され、ランベール派がこの潮流を支配し、
国際主義者共産主義組織OCI結成。
 (1953年ランベール派等により国際委員会ICFIが結成され、パブロ派は国際書記局ISFIと称される、1963年までにISFIの英国SWP等は
ICFIに復帰、パブロは再統一の障害とみなされ、統合に反対、1965年に組織外へ)
 パブロ派は分裂後チトーを支持し、アルジェリア戦争では民族解放戦線を支持、これに絡んでパブロは逮捕・投獄、アルジェリア独立後ベンベラの
助言者となりメフディ・ベン・バルカと3大陸組織結成に参加。
 この時期ピエール・フランク率いる潮流がPCI多数派となる。フランクはアルジェリアあるいは民族解放運動に焦点をあてるより、共産主義者
グループ内で動員する戦術を追求。1965年分裂が公然化、パブロ派が今度は第4インターナショナルから追放される。
 第4インターナショナルが承認したフランク多数派は会議では第4インターナショナルのフランス活動家の51%であった。
 ジルベール・マルキス、ミッシェル・フィアン、ミッシェル・パブロ周辺の活動家は第4インターナショナル革命的マルクス主義者傾向TMR−IV
を結成。
 PCIの青年グループ(フランク派)は1966年の共産主義学生連合UECからの追放でJCRを結成したが、パブロ派はUECのイタリア派と協力。
 1967年モーリス・ナジュマンらがリセ・行動委員会結成、これはピエール・フランクのPCI、労働者の声(後の労働者闘争LO)とトロツキズム
推進組織化のため革命的マルクス主義者構成。これは1968年旧イタリア運動派を含むPCF離脱者と革命運動イニシアチヴ委員会CIMR
(クリヴィーヌ、ベンサイード、アンリ・ウェーベルらのJCR系組織)でチェコスロヴァキア連帯行動を行い、また1969年大統領選では
アラン・クリヴィーヌ支持。
 ’68五月のあとパブロ派は革命的マルクス主義者連合AMRを結成し、新社会運動に関わり、自主管理理論に向かう。
 1972年TMR−IVは国際マルクス主義傾向TMRIとなり、トロツキズムから離れる。
 リセではAMRはJEC、PSUとリセ闘争委員会、リセ闘争センターに参加。
 学生ではUNEFの分裂にもかかわらず革命的サンディカリスト傾向を維持。
 教育と企業ではFEN、CFDT、CGTの解放学校傾向に存在。国際的にはチリやプラハの春に連帯。
 1974年大統領選ではCFDTのシャルル・ピアジェ(Lip活動家)を支持。ロカ−ルがPSUを去りAMRはPSUに合流(モーリス・ナジュマン、
ベルナール・シャルチャ、ミッシェル・フィアン、ジルベール・マルキス、パトリス・バルディ)。PSUでは分派を形成せず、TMRIは
国際雑誌として”社会主義の旗の下に”を維持。(ピエール・アヴォット、シモーヌ・マンケ、パブロはPSUに参加せずTMRIを指導)
 TMRIの支部は1994年再統一第4インターに復帰、パブロはこれに関与せず、1996年死亡。
 1977年、大部分の旧AMR活動家はPSUを去りLCRメンバーと自主管理共産主義者委員会CCA結成。
 1981年大統領選後一部がCCAを去りAMRを再建、ジルベール・マルキスは2次AMRに参加したがミッシェル・フィアンはCCAに留まる。
 のちにパトリス・バルディ(再統一第4インター政治局員)、ジルベール・マルキス、ミッシェル・フィアンらは赤・緑選択AREV(1989年)ついで
選択(1998年)結成に参加、アラン・マム・マニは1990年エコロジー世代結成参加。

反撃 ラ・リポスト
 ラ・リポストは1990年代初めに結成された。このグループは英国生まれで1981年からフランス在住のグレグ・オクスレイが率いていた。
 グレグ・オクスレイは1999年雑誌ラ・リポストを創刊し編集。
 リポストは国際マルクス主義者傾向のフランス支部。
 グループは2002年大統領選挙でPCFを支持。2007年も再びPCF候補を支持。
 グループは成長し2008年共産党大会で動議に15%の支持を得る。
 2011年には翌年大統領選の左翼戦線候補の共産党内選考に共産党のアンドレ・カセニュを支持し36.82%でジャン・リュク・メランション
59.12%に敗れる。

革命的左翼
 革命的左翼(1992年)は1992年革命的青年共産主義者JCRから親組織のLCRによって追放された約80人の活動家
レイモン・ドボールら)が結成。人種問題、移民問題、アラブ共同体防衛などに取り組む。
 労働者インターナショナル委員会に所属。
 1996年指導者の多数派は辞任し、あるものは共産党に参加(雑誌プレメテ)、あるものはミリタンを結成。
 2000年ラ・コミューン・グループとの統合が試みられるが失敗し多くがLCRに参加。
 革命的左翼は2009年の反資本主義新党に参加。

火花(労働者闘争)
 火花は1996−2008年のLO内分派、NPA結成過程で追放される。火花のメンバーは2009年のNPA結成以来そのメンバー。
 この分派は1989年の旧ソ連の展開についての意見不一致で形成された。年大会で約3%の支持を得ていた。

ラ・コミューヌ・グループ
 1992年結成、2009年解散。
 労働者党PTの国際主義共産主義者潮流から追放されたペドロ・カラスケドのグループが結成。
 一部は国際主義者社会主義者グループを結成。これはモレノ派で労働者国際同盟(第4インターナショナル)支部。
 革命的左翼との合流失敗のあと結成される。国際労働者統一(第4インターナショナル)支部。
 2006年の反CPE運動以来ラ・コミューヌ・グループ国際主義者共産主義者委員会、ミリタン、社会主義・革命・民主制連絡・クラブ
交流グループ結成。2009年解散しNPA参加。

光明claire傾向
  国際主義革命的共産主義者グループがNPAに参加して分派として形成。
  国際主義革命的共産主義者グループは労働者党PTの国際主義共産主義者潮流由来グループが2002年結成。
  第4インターナショナルトロツキスト分派(中南米グループが中心)のシンパ。
  正式名称は共産主義C、自主組織化闘争LA、国際主義者Iと革命性REのためにで略称TC(クレール傾向)。

赤い広場集合
 1995年旧OCI/PCIの活動家が創設した雑誌赤い広場周辺のグループ。
 フランソワ・シェスネらが編集。
 1999年欧州議会選挙ではLO−LCR名簿投票呼びかけ。
 フランソワ・シェスネは社会主義か野蛮か、OCI/PCI、ステファヌ・ジュスト革命的労働者党建設委員会と移ってきている。
 2009年NPA参加。

国際主義者共産主義者委員会革命的労働者党建設グループ
 1984年ステファヌ・ジュスト結成の革命的労働者党建設委員会(革命的労働者インターナショナル)由来。
 革命的労働者党建設委員会ステファヌ・ジュストのPCI指導部からの追放でPCI活動家が結成。
 1984−1991年まではPCI指導部の民主主義防衛路線に反対しPCIのプロレタリア革命路線復帰のため闘ったが、1991年のOCIの
労働者党Pと労働者インタナショナル協調結成で第4インターナショナル再建不可能と考えトロツキスト党としてのPCI消滅を宣言。
 1997年のジュストの死亡で同組織名、機関紙名(社会主義のための闘争)に2分裂。
 1999年多数派(オリヴィエ・レスタン)が革命的労働者党建設サークル(革命的労働者インターナショナル)結成。他は社会主義のために
(ピエール・サルヴァン)。(少数派はエレーヌ・ベルトラン、セルジュ・グダール)
 2003年革命的労働者党建設委員会内に路線を正すための公共グループ結成され、これは急速に革命的労働者党建設委員会から分離。
 2006年から公共グループは国際主義者共産主義者委員会(トロツキスト)となる。ジャン・リブが率いる。
 2006年CPE反対運動で連絡の手紙(ラ・レトル・ド・リエゾン)、ミリタン、ラ・コミューヌ、国際主義者共産主義者委員会で交流グループ
結成される。
 2004年革命的労働者党建設委員会は革命的労働者党建設サークルとの公開討論を受け入れるかどうかで危機に陥る。結局両組織の
統合が決まり、2007年革命的労働者党建設グループが結成される。

ボルシェヴィキ・グループ
 ステファヌ・ジュスト死亡による革命的労働者党建設委員会の1997年の分裂に由来し、2001年結成。
 国際的にはペルーとオーストリアのグループの参加する永久革命集合に参加。

フランス・トロツキスト同盟〕 RG 
 旧国際スパルタクス主義者傾向の国際共産主義者同盟(第4インターナショナル)のフランス支部。
 米国のスパルタクス主義者同盟メンバーの布教によるとされる
 1963年米国の社会主義労働者党SWPから革命傾向が追放され、1964年初めスパルタキスト第1号が発行される
 1966年米国でスパルタキスト同盟が結成される。
 1972年5月にフランス語版スパルタキスト第1号が発行される。
 1975年LCRの反対派(第4インターナショナル再建ボルシェヴィキ・レーニン主義者分派)と国際スパルタクス傾向の活動家によって結成される。

国際主義者社会主義者グループ
 1992年労働者党PTから追放されたペドロ・カラスケドラ・コミューヌ・グループ形成された時に、同時に追放されモレノ派が結成。

革命的社会主義者選択−戦闘
 2006年結成。

連絡liaisons・グループ
 主に国際主義共産党PCI由来のPCF、社会党CGT、FO、統一組合運動FSU(教員組合)、SUDで活動するトロツキスト・グループ。
 正式な名称は社会主義・革命・民主制連絡・クラブで電子雑誌連絡の手紙(ラ・レトル・ド・リエゾン)周辺が2005年結成。
 主な編集者はヴァンサン・プレジュメイ。
 2006年の反CPE運動以来ラ・コミューン・グループ国際主義者共産主義者委員会、ミリタンと交流グループ結成
 2007年連絡の手紙の編集はミリタンと合流。

社会主義インターナショナル)(1984−2002年、英国SWP系、LCR合流)、
 社会主義インターナショナルは1984年に結成され1997年底辺社会主義と社会主義インターナショナルに分裂。
 社会主義インターナショナルはソ連・東欧を国家資本主義とする英国社会主義労働者党SWPのトニー・クリフの理論を支持。
 しかし国際社会主義者傾向のメンバーではない。
 起源はLOの旧メンバーの小グループで1974年労働者連合(前年LOから分裂)に参加しようとLOを去ったが労働者連合の分解で
闘争社会主義者を結成。その一部が英国の国際社会主義者に勧誘される。
 彼らはLCRに参加するが後に去り社会主義インターナショナル結成。

 ドイツの左翼移行のSPDのUSOS参加による成功例でトニー・クリフが社会党参加を指示したため分裂発生、底辺社会主義は社会党に参加
したが悲惨な結果となり再び社会党を去る。
 底辺社会主義は2004年、社会主義インターナショナルは2002年にLCRに参加。
 LCR参加時、底辺社会主義は約50名の活動家で社会主義インターナショナルはそれ以下。
 底辺社会主義は英国SWPに支持され別の国際化運動の出現でATTACに参加。2003年にはイラク戦争反対運動に参加。
 社会主義インターナショナルはイスラム風スカーフ禁止反対運動に参加。2007年大統領選ではジョゼ・ボヴェの運動を支持。
 2008年NPAに参加。2009年から社会主義インターナショナルの雑誌は発行されず、旧メンバーはNPAの統一マルクス主義者
グループ(雑誌反資本主義者発行)と活動。
 旧底辺社会主義メンバーは何をなすべきか(ク・フェール)発行。
 底辺社会主義は2006年LCR大会でレオンス・アギールとプラットフォーム4として8,94%獲得。

(その他のトロツキスト組織) その他 その他 

労働者の声(1997年)〕
  1997年LOから追放された(LOの約10%)ボルドーとルーアンの活動家が結成。2000年LCR合流、ボルドーのグループはLCRで
 重要な位置を占める。LCRでは革命的民主グループとなる。2006年LCR大会ではプラットフォーム2として12,145獲得。
  
労働者の力
  社会主義か野蛮派生で1963年ジャン・フランソワ・リオタールピエール・スユリらが結成。
  社会主義か野蛮の資本の破壊の概念に反対し経済の民主的労働者管理を支持。
  1967年古いモグラ・グループ(1965年創設、ピエール・ギヨームら)が追放される。
  労働者の力は1969年解散。

国際主義者革命的共産主義者グループ
  2002年労働者党の国際主義共産主義者潮流から分裂して結成。
  トロツキストが分裂状態にあるのは革命的共産主義者インターナショナル結成の障害と考え、NPA結成に参加。
  NPAでは光明claire傾向結成に参加。

革命的労働者同盟LOR)
  1976年OCIからミッシェル・ヴァルガ(バラツ・ナジ、ハンガリー人)が追放された際に結成される。主要メンバーはダヴィドらのアスリーヌ兄弟。
  ミッシェル・ヴァルガは国際的にはOCIに味方していたが1972年のOCIの国際書記局ICFIでの分裂によりのランベール派と衝突し追放され1973年
 第4インターナショナル再建国際同盟を結成。ヴァルガはOCIからCIAとKGBの両方のスパイと非難された。
  革命的労働者同盟は1987年LCRに合流しジェラール・フィロシュのグループに参加。

革命労働者共産主義者組織
  革命は1971年LCRから分裂したクリスチャン・ピケらが結成、1972年PSUからも参加があった(マニュエル・ブリディエ)。
  1976年PSUの毛派の労働者農民左翼と合同し労働者共産主義者組織OCT結成。
  OCTは反帝国主義、エコロジスト、同性愛、フェミニズム活動家出会いの場として赤い波ラジオ(非合法自由ラジオ)を創設。
  1976−1981年組織混乱、最初の大会は1500のメンバーと称する。
  傾向Aの運動主義者は集中政治組織を無用と主張し、OCT組織を闘争調整プラットフォーム化しようとする。
  傾向Bはレーニン主義者。
  傾向Aは労働者農民左翼の中心を結集、旧革命の少数派は政治家活動停止、あるものは後に緑に参加。
  大会後カエン、マルセイユの活動家と指導部はLCR復帰を提案。1980年クリスチャン・ピケらLCR復帰。
  ミッテラン体制の評価で分裂し約100−200の残った活動家は1981年組織解散。
  他は1984年労働者革命戦線結成参加、最終的に選択左翼連合FGA参加。
  労働者共産主義者組織の主なメンバーはマルティーヌ・ビラール(ビヤール?)(のち緑から左翼党)、ジル・ルメール(のち緑)、
 アラン・リピエッツ(のち緑)、グスタフ・マシアクリスチャン・ピケなど。
  労働者革命戦線結成は1967年創設のアナーキスト革命組織労働者共産主義者組織、トロツキストの労働者社会主義者同盟
 などの一部が結成、1986年まで雑誌イニシアチヴを発行、2005年まで月間情報レター発行。

国際主義共産主義者同盟
  1979年のLCR大会で国際問題でレーニン主義・トロツキスト傾向とボルシェヴィキ分派(モレノ派)支持の活動家が追放され
ダニエル・グリュックスタン、クリスチャン・ルカットらが結成。活動家の大部分はクリスチャン・ルカットのレーニン主義・トロツキスト傾向に所属。
  これは国際的には統一書記局の分裂に起因し、LCRと統一書記局多数派はニカラグアのサンディニスタを支持。
  国際主義共産主義者同盟は1980年国際主義共産主義者組織OCIと合流。

第4インターナショナル再建トロツキスト・グループ
  ランベール派から分裂、1986年オマル・フェルナンデス周辺が結成。雑誌全真実トゥト・ラ・ヴェリテ発行。

〔労働者の声(2008年)〕
  ロベール・パリ周辺のLOからの少数派分裂者が2008年結成。


1968年6月12日の解散
 1968年6月12日の共和国大統領命令により解散させられたのは
 革命的共産主義青年同盟JCR(1965−、1979再建、アラン・クリヴィーヌら)、労働者の声(1956−、解散後1968年
労働者闘争)、反乱(レヴォルト)グループ、革命的学生連合(1968−、OCI系)、革命的学生連携委員会、マルクス・レーニン
主義共産主義青年連合
(1966−、UECから分裂、親中派、プロレタリア左翼フランス・マルクスレーニン主義共産党合流)、
国際主義共産主義者党PCI、フランス・マルクスレーニン主義共産党、革命的青年連合、国際主義共産主義者組織
5月22日運動(ナンテール校学生運動、ダニエル・コーン・バンディットら)。



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