<<イギリスの学生運動>>
〔
イギリスの学生組織〕
Student unioni学生組合という名称が主流であるがギルドや協会associationと名乗る場合もある。
保守党の
メイジャー政権(1990−1997年)は英国での学生組合の影響を厳しく縮小することを試みたが、NUSと各学生組合は
なんとかこれをくいとめた。教育相のジョン・パッテンはクローズド・ショップをやめさせようとした。
2003年
マンディ・テルフォードのもとで追加授業料(修士と博士、
チャールズ・クラークが推進、
高等教育令2004で実現)
反対
運動展開。
2004年、NUSの反対にもかかわらず労働党
ブレア政権は
高等教育令2004による変動授業料(大学が授業料を設定、授業料は
卒業後払う、給付奨学金復活)を導入。
⇒
イギリスの大学授業料と学生支援 授業料と奨学金
*イギリスは1998年から大学授業料(修学時)有料化、2006年から新授業料制度(大学が独自に授業料設定、授業料は卒業後
所得に応じて払う)、一方1990年から貸与奨学金制が導入され給付grant奨学金から徐々に貸与奨学金(実質利子0)に比重移行、
1998年(ブレア政権)給付奨学金廃止、元利均等返還から所得連動型(ローン化)へ移行。2006年給付奨学金復活、高授業料で
大学独自の奨学金義務。
○イギリス全国学生連合NUS
National
Union of Students NUS歴史 歴史
1884年、最初の学生代表評議会
SRCがエディンバラ大に結成される。
1885年前後に学生代表評議会
SRCがアバディーン、グラスゴー、聖アンドリュース大に結成される。
1889年スコットランド学生代表representative評議会counci
lSRCが上記4つの古い大学によって結成される。
これはスコットランドの
大学令1889によって公式化される。
1893年、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン学生組合unionがイングランドでの最初のカレッジ当局公認を勝ち取る。
第1次大戦後、
国際学生連合CIE(1919−1940年、フランスのUNEFによって設立、国際連盟メンバー国の全学連が参加)参加を希望する
学生によって1922年、バーミンガム大、ロンドン経済学校(ロンドン政経学院、ロンドン大学経済学部)LSE、
帝国ロンドン大学(カレッジ)、王立ロンドン大学(カレッジ)、ブリストル大など
14のイングランドとウェールズの大学によってNUSが結成された。
初代委員長は
イヴィソン・マカダム。
帝国ロンドン大学は創設に参加したが1923年離脱。
スコットランドは一時自分たちの組織(1935年結成)をもっていたが1971年参加。
グラスゴー大はNUSに参加せず。
2012年、NUSには700以上の組織が参加、ただしグラスゴー大、聖アンドリュース大、サザンプトン大、デュンデー大、帝国ロンドン大学
(2008年再離脱)などが不参加。
NUSは労働者学生によって支配されているという批判がある。
NUSは政治と宗教利害の外部にあるように創られた。
NUSは1920年代
国際学生連合CIEの活発なメンバーであった。
1935年には聖アンドリュース大とエディンバラ大がNUSスコットランドを創設。
1937年NUSの門戸は継続教育(教師養成、技術大学)の学生にも開放。
1930年代、学生は大学の社会主義者協会結成に関係するようになった。
この結果、1939年
ブライアン・サイモン(1935年大ブリテン共産党CPGP参加、トリニティ・カレッジ)が委員長となる。
第2次大戦が近づくとCIEはファシズムに引き付けられ英国の学生に衝撃を与える。
1941年カナダ出身の
シドニー・チェックランドがNUS委員長となり、翌年CIE委員長となる。
戦後は新生
国際学連IUSは以前より多くの学生を引き付け、1947年NUSは
国際学連IUSに参加。しかし冷戦でIUSが共産主義に接近し過ぎると
考えまた東西対立でNUSは委員長
スタンレー・ジェンキンスのとき1952年、IUSから抜ける。
1950年国際学生協議会ISCが結成され1952年第1回協議会開催。
1949年
スタンレー・ジェンキンスが委員長となる。カーディフ技術大学(カレッジ)学生で始めての非ユニヴァース学生。
最初の休学(サバティカルsabbatical)役員。
1950年、NUSは教育予算削減対策のため議会ロビーを組織。
1960年代、英国の大学でも他の国々同様に学生運動が重要となる。
ヴェトナム戦争と人種問題が焦点となった。
1960年、カーディフ大学学生連合のアパルトヘイトに反対の南アフリカ商品ボイコット提案を支持。
1962年、最初のベトナム戦争抗議が
核非武装運動CND(1957年、
キングスレー・マーティンらが結成)などによって催された。
1965年、250人の学生が米国大使館前でベトナム戦争の抗議を行う。
この年、オックスフォードで最初の学生ティーチ・イン(討論集会)を行い、
ロンドン政経学院LSEではローデシアのイアン・スミス政権への抗議が行われる。
1966年、急進学生連合(alliance)RSAと
ベトナム連帯キャンペーンVSC(バートランド・ラッセルらの資金援助で
国際グループ周辺の活動家
が結成)が結成される。
VSCは
ラルフ・シューマン(ラッセルの秘書でCNDの中心メンバー)が指導者でタリク・アリ、アル・リチャードソン、デイヴィド・ホロヴィッツ、
パット・ジョーダンらが中心的役割を果たした。
国際社会主義者も1968年頃に深く関与。
1967年、
ロンドン政経学院LSEで初めて、学生連合(union)によって2人の学生の停学に対して座り込み抗議sit-inが行われる。
1968年3月17日、VSCのタリク・アリ、デイヴィド・ロビンソンらが組織したデモがロンドンの米大使館前
グロスヴナー広場の騒動を引き起こす。
タリク・アリとヴァネッサ・レッドグレイヴがデモの先頭に立つ。(2月のベトナムのテト攻勢でのサイゴンの米大使館占拠により鼓舞された。)
NUSでは指導部の対抗グループがNUSの権威に挑戦し始めるが、委員長の
ジェフリー・マーティンは海外を背景とする激しい学生抗議に
反対し、1968年会議で学生パワーの危険性を説く。
1960年代末国際学生組織についてIUSか国際学生協議会ISCかで論争となり、1967年ISCがCIAの支援を受けていることが暴露され
論争は過熱。ISCはこのため1969年崩壊。
1966年急進学生連合が結成され、1968年には
革命的社会主義者学生連合が結成される。
1967年NUS委員長選では
ジャック・ストロー(リーズ大)とデイヴィド・アーデルスタイン(LSE)が
ジェフリー・マーティンに敗北。
1968年のNUS委員長は
トレヴァー・フィスクでLSE出身。
ファビアン協会メンバー。穏健派として急進派の
ジャック・ストローに勝つ。
フィスクは英国大学改革のキャンペーンに乗り出したが、学生にヴェトナム戦争反対運動に参加しないよう求め、またNUS憲章からの
非政治条項削除に反対し批判を受けた。翌年再選に失敗し、
ジャック・ストローに敗れる。
1969年、政治議論を禁止した非政治条項削除。
1970年までに学生運動は沈静化。それでも女性の間から女性問題で批判の声があがる。
1964−1970年は労働党の
ハロルド・ウイルソン政権。
1970年ジャック・ストローが最初の首相(
ハロルド・ウイルソン)面談者となる。
1970年、教育秘書のサッチャーがNUS活動制限を発表。
1971年SUS(スコットランドNUS)解散し多くはNUSに参加、NUSはNUS・UKとなる。SUSは
NUS・スコットランドとなる。
1971年と1973年は共産党
CPGBの
ディグビ・ジャックスが委員長。
ジャック・ストローのあとをついで急進学生連合RSAの候補となる。
1972年、サッチャーは学生組合(union)に介入しようとするが失敗。サッチャーは1980年代学生運動を掘り崩そうと努めた。
1968−1969年、
トレヴァー・フィスク、1969−1971年、
ジャック・ストロー、1971−1973年、
ディグビ・ジャックスに続き1973−1975年は
独立の
ジョン・ランドール。
1973年、NUSがゲイ権キャンペーンに乗り出す。NUSウェールズが結成される。
1974年は
移譲可能選挙制度の導入で極左の2人の除外のあとの第2回は選択左翼のマイク・ヒル131、広い左翼のスチュアート・ポール287、
ランドール266であったが、ヒルの票をランドールが多く受けポール314、ランドール335となる。全国執行部NECは広い左翼が16中11、選択左翼が2。
1974年は人種主義とファシズムがテーマであった。翌年は経済危機が争点であった。学生は25%以上のインフレに苦しんだ。
1974−1976年は再び労働党の
ハロルド・ウイルソン政権。1976−1979年は
ジェームズ・キャラハン労働党政権、
1974年、人種差別の増加に対し
無機会政策(人種差別主義者に活動の機会を与えない)を採用。
チャールズ・クラークが1975−1977年の委員長。
広い左翼から立つ。ただちに労働党に参加し
第4条グループとして活動。後に労働党MP。
1976年NUS選挙は
チャールズ・クラークが
ヒュー・ラニング(独立社会主義者)、保守学生連合のマーク・ハプグッドに勝つ。
NECは15名中12名が
広い左翼、2名が国際社会主義者IS、1名がこの10年で初めての保守学生連合FCS。
1977−1978年は
スー・リップマン(CPGPメンバー、1981年
社会民主党SDP結成に参加、1987年にはSDPは友好的にサッチャー主義を
批判すべきと述べる)が委員長。
広い左翼。初めての女性委員長。
1976年には聖アンドリュース大でNUSの政治化、左傾化に対し離脱を騒動が起きる。
リップマンはこれらをエリート学校と批判。
後に聖アンドリュース、エディンバラ、グラスゴー、ダンディー大がエインシャント・グループを結成、これが1999年スコットランド高等教育学生連合となる。
この騒動でストラスクライドも離脱、後再加盟。
1978−1980年は
トレヴァー・フィリップスで初めての黒人委員長(1996年労働党参加)。
広い左翼としてたつ。
1979年エディンバラ大離脱。
1979−1990年
マーガレット・サッチャー、1990−1997年
ジョン・メイジャーと長い保守党政権が続く。
1980年代初め
保守学生連合は主にスコットランドから来た指導者たちが自発的学生組合を主張し、指導者
ピーター・ヤングが
NUS離脱運動を展開。
1980−1982年は
デヴィッド・アーロノヴィッチ(CPGBの
サム・アーロヴィッチの息子)が
広い左翼としてたつ。
1981年、労働者学生全国組織NOLSが最終的に共産党支配の
広い左翼と衝突、以降NOLSがNUSを支配。
しかしNOLSは過去にはミリタントにそして
1980年代にはSSIN(NOLSの社会主義者)に脅かされる。
1982−1984年は
ネイル・スチュワート。NOLS。
1983年、
キース・ジョセフの授業料導入の試みを打ち破る。
1984−1986年は
フィロップ・ウーラス、労働党員。後に国会議員MP。
1986年、学生融資導入提案を打ち破る。
1986−1988年は
ヴィッキー・フィリップス、労働党員。
1988−1990年は
メヴ・シャーロック。NOLS。
対立候補はSSIN(NOLSの社会主義者)のサイモン・ポッティンガー(後社会党)、
レムビット・オウピック(後リベラル民主)。NEC(執行部)はNOLS7、共産主義者2、SSIN4、ミリタント1、その他7。
1989年、アンドレア・エニスオーが最初の黒人NECとなる。
1990−1992年は
スティーヴン・トウィッグ、NOLS、後にMP。
1990年、学生への奨学金が給付金制度から学生ローン制度(実質無利子)に変更。
1992年、工科大(ポリテクニック)、カレッジが学位授与権のある
大学に昇格。
1992−1994年は
ローナ・フィッツモンズ、後にMP。
1992年はリベラル民主の
ジャスティン・マクギネスが立候補。
1993年は左翼統一の
ジャナイン・ブース(AWL)に490対376。
1994年給付金の部分的復活。学生連合弱体化する法令成立、NUSはロビーで最小限の損失にとどめる。
1994−1996年は
ジェイムズ・マーフィ、
労働学生。後にMP。1995年労働党政策と提携して給付廃止反対をを取り下げ批判を受ける。
これは次の労働党政権が授業料を導入するのを円滑にするためであった。これに反対して
自由教育運動CFEが結成される。
1996年、NUSは
院生税に賛成。
1996−1998年は
ダグラス・トレイナー。
1998年マンチェスター工科大UMISTがNUS離脱、もうひとつの不参加は帝国大、スコットランドの大きな大学ベスト4も不参加。
1997−2007年
トニー・ブレア、2007−2010年
ゴードン・ブラウンと労働党政権。
1998年
高等教育への授業料導入(有償化)。学生給付金廃止。
1998−2000年は
アンドリュー・ペイクス。
2000−2002年は
オーウェン・ジェームズ、労働党員だが独立で立候補。2000年はより急進な自由・平等教育のための統一のアリソン・アングス
に595対504、労働学生は敗北を予想し候補を立てず。
2001年の対抗は
SWP、CFE、AWLなど支持のヘレン・アスペルで602対327。
2001年、アバディーン学生協会、ダンディー、エディンバラ、聖アンドリュース、グラスゴー大SRCが
スコットランド高等教育学生連合CHESSを結成。
これは
2009年から活動せず。
2002年サザンプトン大学生組合離脱
2002−2004年は
マンディ・テルフォード、女性として5人目、労働学生。
2003年、サンダーランド大離脱。
2004−2006年は
キャスリン(キャット)・フレッチャー。
2004年には前年
マンディ・テルフォードに3票差で敗北した
キャスリン・フレッチャーが労働学生の
ラミ・オカシャに2票差で勝利。
フレッチャーはCFE候補として立ち、AWLのほかCPGBや労働学生左派などの支持を受けた。
CFEは12名をNECに獲得、これには社会主義行動の2名も含むが社会党は候補を立てず。
社会党は去年は
フレッチャーを支持したが今回は支持せず、去年は支持したSWPが対立候補を立てる。
2005年は
保守未来、
社会主義労働者学生協会(
SWP派)などを破り
労働者自由連合AWLのメンバーであった
カット・フレッチャーが
NUS委員長再選。
2005年、2006年は労働学生は候補を立てず。
2005年、給付金復活。
2006−2008年は
ジェマ・トュメルティ、組織化独立、労働党員。
2006年、新授業料制度導入、(変動授業料top up fee制、授業料の後払い化)、授業料大幅値上げ。
トュメルティはNUS委員長としてTUC大会で初めて演説。
2006年、アストン大離脱。
2007年、帝国ロンドン大学再加盟(1923年離脱、再加盟?2002年離脱?)、しかし2008年離脱。2007年ダンディー大離脱(1994年再加盟)。
保守党によりNUS不参加キャンペーンが各大学で仕掛けられる。
2008−2010年は
ウェズリー・ストリーティング。
2008年は独立、
非商業教育、
学生広い左翼の候補を破り労働者学生の
ウェス・ストリーティングが委員長となる。
2009年はSWPのロブ・オーウェンに対し、81%を獲得。
2010年から保守党
デイヴィッド・キャメロンのもとで保守、リベラル民主連立政権成立。
2010年12月、大学授業料大幅値上げ決定(イングランド)。
2010年、ダーハム大離脱。
2010−2011年は
アーロン・ポーター、65%で選出される。
組織化独立としてたつ。労働党員。政府の授業料値上げ案に反対。
1969年以来始めて再選にでず。1968年以来始めて大学協議会に招待される。
2010年11月10日、政府(保守−リベラル民主連立)の継続教育(専門学校教育)予算削減と授業料上限上昇案反対の
大学・カレッジ連合(組合)との
共同デモを組織。3万から5万2千が参加し中央ロンドンの通りをデモ。
このデモでは保守党本部のあるミルバンク塔が占拠され警察との激しい衝突が起こり、14人負傷し、54人(男33、女21)逮捕された。
このデモには労働党、
プライド・クムリ(ウェールズ民族主義政党)、緑党、
社会主義労働者党SWP、
社会党(イングランドとウェールズ)、
革命、
以上3者のトロツキストと
青年共産主義者同盟(
ブリテン共産党CPG青年組織)、
革命的共産主義者グループ(ML主義)、
共産主義者学生(
CPGB)
からの参加があった。労働党国会議員MPの
ジョン・マグドネルも参加。
デモの過程で一部がミルバンクを包囲、NUSオルグはこれを阻止しようとしたが約300名の学生が突進し建物を占拠。また少数の学生がレベラル民主
の本部まで行き、車の窓を割る。
アーロン・ポーターは占拠を批判。しかしNUS
LGBT幹部の
ヴィッキー・バーズ、アラン・ベイリー、NUS黒人学生幹部
カンジャイ・セサイ、
ロンドン大学連合(組合union)ULU委員長
クレア・ソロモンらは占拠に好意的であった。
24日には
授業料と削減反対全国キャンペーンNCAFCがデモを組織。このデモではホワイトホールで議会広場への阻止線を張る警官とデモが衝突、
警察の車が傷つけられる。41名逮捕。
23から24日にかけてはロンドン大学、ロンドン南バンク大学、エジンバラ大学など10を越える大学で占拠が行われる。
30日にもデモは行われ、ホワイトホールで警察と衝突。警察は24日同様にトラガルファー広場に封じ込めを行う。146名が不退去
で逮捕。
12月9日の教育改革の国会投票予定日には2つの別々のデモが中央ロンドンで組織、
一方はNUS、もう一方は
ロンドン大学連合(組合union)ULU(ユニヴァーシティとカレッジ連合)とNCAFCが共同。
議場に続く通りは警察が阻止線を張る。提案通過の知らせで警察との衝突は頂点になる。
抗議はそのほかの都市でも行われる。
2011年からは
リアム・バーンズ、2010−2011年のNUSスコットランド委員長で労働党員であるが独立候補としてたった。
政府の教育費用削減を批判。
対抗候補は
教育活動家ネットEAN、NCAFCの
マーク・バーグフェルド(SWP)、
アーロン・ポーターに近い
シェイン・チョウェン、保守の
トーマス・バーン。
第1回はバーンズ322、チョウェン250、バーグフェルド149、バーン18、第2回はバーンズ336、チョウェン257、バーグフェルド151、
第3回バーンズ446、チョウェン279。労働学生はNEC選で良好な結果を得る。
11月にはNUSとULUの支持でNCAFCが政府の高等教育白書に反対しデモを組織。1万5千が警察の厳しい警備に会う。
2012年は第1回バーンズ302、
ウスマン・アリ(ムスリム)149、エド・マーシュ143、カンジャ・セセイ(
学生広い左翼)120。
第3回バーンズ335、マーシュ185、アリ183、第4回バーンズ387、マーシュ295。
副委員長選で労働学生が学生広い左翼の
ヴィッキー・バールズに敗れる。
協議会では
NCAFCとSWPが反対派。代表は720名、10年前は1100だった。
ここ10年でエディンバラ、ストラスクライド、アバディーン再加盟するもグラスゴー、ダンディー、帝国、聖アンドリュースは依然不加盟。
2013年
委員長はトニ・ピアス(コーン・ウォール・カレッジ出身)が424票、、ヴィッキー・バールズ(210票)、保守候補スモール・ウッド(91票)を破る。
トニ・ピアスは街頭デモに対し、学園へ戻って学生と再結合を主張。
2014年再選。
2015年
メガン・ダンがベス・レドモンドBeth Redmond(労働者自由連合AWL、NCAFC)を破る。
2016年ブラック・モスレムの
マリア・ブアッティアMalia Bouattiaがメガン・ダンに372対328
で勝つ。
マリア・ブアッティアはNUSのイラク・シリアのイスラム国ISIS批判を阻止し、反ユダヤ的言動をとって物議をおこしている。
前年にはNUS NECでの左派のクルド解放闘争支援の動議に反対。しかし2016年委員長選では左派(トロツキスト)はマリア・ブアッティアを支持。
メガン・ダンは
CAGE(テロルに対する戦争に反対、指導者は元グアンタナモ抑留者モアッザム・ベッグ)とNUSの関係をやめることを主張。
マリア・ブアッティアは
CAGEと密接な関係をもっている。
マリア・ブアッティアの選出でいくつかの大学がNUS離脱運動を開始し、26大学で投票の結果、ニューカスル大、ハル大、ラフバラー大が離脱。
2017年委員長選では継続教育副委員長の
シャキラ・マーティンが予想外にマリア・ブアッティアに402票対272票で勝利し再選阻止。
シャキラ・マーティンは28歳で黒人、労働者階級、シングルマザーと自己規定。極左は彼女をブレア右派と規定。
2018年はシャキラ・マーティン再選。
2019年はソマリ避難民の子供の
ザムザム・イブラヒム(女性)選出。彼女はイスラム占領Islamic takeoverを叫んで論争を生んでいる。
NUSには
保守未来、
非商業教育(
労働者自由連合系)、
労働者学生、
社会主義者学生(
SP系)、
社会主義労働者学生協会、
リベラル青年、
学生レスペクト、
学生広い左翼(
社会主義行動と関係、
自由教育運動から分裂)、若い緑(ヤング・グリーン)、
授業料と削減反対全国キャンペーンNCAFC、
組織化独立などのグループが存在。
○
授業料と削減反対全国キャンペーンNCAFC
2010年結成、2010年抗議で大きな役割を果たす。
○
教育活動家ネットEAN
2010年結成。
(急進学生連合)
1966年末、CPGBの学生組織者
ファーガス・ニコルソンが青年リベラル(
リベラル学生連合)の一部やNOLSを支配していたトロツキストと結成。
あとを1972年CPGBの
学生組織者の
デイヴ・クックらが創設した
広い左翼が継ぐ。
広い左翼はトロツキストに対抗。1973−1982年まで支配権確立。
(
革命的社会主義者学生連合)
1968年1月結成、1969年末崩壊。毛沢東主義者、トロツキスト、
国際社会主義者、
ニュー・レフト・レヴュー関係者が参加。
○
LSE(ロンドン政経学院)学生連合LSESU
1967年、旧ローデシアにおける白人支配協力者ウォルター・アダムスの大学監督指名反対活動により学生組合委員長の
デイヴィド・アーデルスタインと院生協会委員長の
マーシャル・ブルームは停学処分を受けた。
学生のハンガー・ストライキで取り消し。米国市民であった
マーシャル・ブルームはベトナム戦争に徴兵され1969年11月1日
自殺(25歳)。
1969年急進派学生はウォルター・アダムスの学校監督指名と彼による警門設置に反対し3週間学校閉鎖した。
最初の警門は学生が除去。
1968年10月、監督ウォルター・アダムスは占拠と、反ベトナム戦争デモ学生による支援の拡大を恐れ学生や研究者の意志に反し、
LSEの週末閉鎖を決定、これで3千の学生が占拠に至った。占拠で警察が導入され侵入者は一掃された。
1969年講師
ロビン・ブラックボーンとニック・ベイトソンの停職に対しロンドン大学組合
ULUは自由LSEを組織。
1990年代から
緑党グループが勢力を増し、現在のLSESUの最大政治グループは
緑党である。LSESUでの
緑党の競争相手は
労働党やリベラル民主ではなく保守で、SU選挙ではときどき保守に敗れることもある。
○
アルドウィッチ・グループ
1994年結成の
ラッセル・グループの大学の学生組合グループ。
オックスフォード、ケンブリッジ、リーズ、LSE等著名20大学よりなる、英国版アイヴィー・リーグと称される。
〔イギリスの学生政治組織〕
○労働者学生運動
Labour
Students
労働党に属する学生組織でメンバー権は加盟カレッジ、ユニヴァーシティ・クラブ(労働クラブ)からなる。
1967年、労働学生組織全国協会は
社会主義労働同盟SLL(
労働者革命党WRP)に乗っ取られたため労働党は関係を絶った。
衝突の原因はヴェトナム戦争であった。伝統主義者の
トレヴァー・フィスクは米国を支持するハロルド・ウィルソン政府批判を拒否、
ジャック・ストローはこれに闘いを挑み1969年、
NUS委員長を奪った。
ジャック・ストローは1966年、リーズ大学労働クラブ委員長
になり、リベラル、社会主義者、共産主義者協会を含む連合である
広い左翼の支持でリーズ大学連合union議長となった。
(のちに
バーバラ・キャッスルの助言者となり1979年からその跡を継ぎ労働党議員、2000年のピノチェットのチリ帰国責任者)
1967年のNUS会議で彼とロンドン大学経済学部LSEの急進学生デイヴィド・アーデルシュタインは役員選挙で敗北、1968年
ストローは委員長選挙でトレヴァー・フィスクに敗北、1969年急進派の増加でNUS議長に選ばれた。
1970年、労働者学生はその年の総選挙のため労働者勝利学生SLVを結成。これは1971年労働者学生全国組織NOLSを結成。
NOLSは2派に分裂していた。
加入戦術トロツキストの
革命的社会主義者同盟RSL(のち
ミリタント傾向)と、1974年に
4条グループして出現するグループ
左派傾斜の労働党主流グループ。
ミリタントは1974年1月から1975年12月までNOLSを支配。
当時のNOLSは
チャールズ・クラーク(1975−1977年委員長)、
サリー・モーガン、
マイク・ゲイプス、
トレヴァー・フィリップス(黒人、
1978−1980年委員長)らが含まれたいた。
4条グループは1970年代から1980年代の労働者学生のグループで結成には
ジョン・マン、
フィル・ウーラスと
CPGP学生組織者で
のち
ストレート左翼指導者となるファーガス・ニコルソンが関係した。このグループは長い間NOLSを支配しミリタント傾向とNOLS支配
をめぐって抗争した。1991年解散。
フレイザー・ケンプ、
マイク・ゲイプス、
ジョン・デンハム、
マーク・ラゾロヴィッチ、
マーガレット・カラン、
ジョン・ラモント、
サラ・ボヤック
らがこれに関係した。
これらの多くは
労働調整委員会LCCに関わった。LCCは1978年結成、1995年解散。LCCは労働党左派の調整のため結成。
NOLSはミリタントが支配を失った1975年12月から1970年代末まNUSで
広い左翼に参加。
広い左翼はNUSでの労働党、自由党、CPGBの政治連合、保守党とトロツキストに対抗。1973−1982年まで支配権確立。
1980年代初めNOLSは
広い左翼と分裂し、1982年NUSの指導権を握った。2000年まで最強の挑戦者は党内左派であった。
この時期NOLSはNUS全国執行委員会NECで少数派だったがうまく支配した。
1990年代初期労働学生と名乗る。
1983年のNOLSの協議会は混乱の頂点で会議は中止され、党の指導がはいった。その結果以降NOLS協議会は静かになった。
広い左翼で最初のNUS委員長
チャールズ・クラーク(1975−1977年)は労働党政治家、
スー・リップマン(1977−1978年)は
共産党員でNUS委員長になりのち
社会民主党へ、
デヴィッド・アーロノヴィッチ(1980−1982年NUS委員長、
青年共産主義者同盟、
当時ユーロコミニスト)はジャーナリスト。
多くの議長経験者は政治家として成功している。
カロリン・フリント(1982−1984年)、
ジョン・マン(1983、1984年)、
サラ・ボヤック
(1985年)、
トム・ワトソン(1992年)、
マイケル・ドーファー(1997年)らが議員となっている。
2000年には敗北を予想して
組織化独立OIsの
オーウェン・ジェームズ(労働学生であった)を支持。2002年は労働学生LSとOIsが対立し、LSの
マンディ・テルフォードが勝利。
*
SSIN(NOLSの社会主義者)
1978年労働勝利のために社会主義運動(キャンペーン)SCLVが
国際共産主義者同盟によって設立された。SCLVから社会主義者組織化連合
が生まれ、SSIN(NOLSの社会主義者)がNOLSで活動するため1982年公式に組織化される。1990年は社会主義者組織化連合は労働党による
機関紙禁止により解散し、1992年
労働者自由連合が結成される。SSINは1989年左翼統一となる。
○
オックスフォード大学労働者クラブ
1919年創設。
トニー・ベン(1925−)、
バーバラ・キャッスル(1910−2002年)、
マイケル・フット(1913−2010年)、
デイヴィッド・ミリバンド(1965−)、
エドワード・ミリバンド(1969−)などが旧メンバー。
オックスフォード大学学生組合は1961年結成。
ケンブリッジ大学学生組合は1971年結成、
チャールズ・クラーク(労働党)が1971−1972年のサバティカル(休学・専従)役員。
○
社会主義労働者学生協会SWSS
SWPの学生グループで
戦争を止めろ連合に注力している。
SWPとその先駆者は1950−1960年代労働者学生組織全国連合NALSOでその労働党内グループと一緒に活動していた。
1960年代初期指導的メンバーがNALSOの雑誌クラリオンの編集者となった。労働党から離れてから社会主義協会Socialist
Societies
や
革命的社会主義学生連合を基礎に活動。これが崩壊し国際社会主義者学生全国組織そして1977年には社会主義労働者学生組織
SWSOとして活動。1980年代初期SWSSとなる。
○
社会主義者学生
1990年代末社会党(イングランドとウェールズ)が結成。
新労働党支配のNUS執行部に反対し地域学生連合と民主的学生連合運動を闘う。
2006年授業料打倒運動に乗り出す。
○
非商業教育ENS
2005年大会で追加授業料で裏切った右派NUS指導部と左派原則の一貫性を裏切った左派の両派に反対し左派の柱を組織化
するグループとして出現。ENSはCFEの後継を主張するが同じメンバーはほとんどいない。
CFE同様労働者自由連合の支援を受けそのほかに種々の左派グループ活動家が参加。
2006年のケンブリッジ大の追加授業料反対の講義ホール12時間占拠を支援。
NUS執行部の路線に強く反対。
○
学生広い左翼
1997年
自由教育運動から分裂して結成。1998年のNUS選挙に初めて参加。
パレスチナ権利とアイルランド自己決定支援、米国のキューバ封鎖反対を主張。
他のグループ同様富の再分配による自由教育を要求。
反対派はこのグループは
社会主義行動と結びついていると主張。たとえば
人種反対学生会議、
ファシズム反対統一、学生CND
(
核非武装運動)、キューバ連帯などの
社会主義行動の運動を支援していると指摘。
学生広い左翼は長い間
自由教育運動CFE、
社会主義労働者学生協会SWSSと候補名簿を形成。
2004年選挙ではCFEとSWSSは分裂。2008年
学生広い左翼は
学生レスペクトと候補名簿形成し委員長候補を立てる。
ケン・リヴングストンと関係があるとされる。
○
学生レスペクト
2005年
レスペクトが結成。
学生広い左翼側にたつNUSでは勢力のあるグループ。
いくつかの大学の幹部を有しNUS全国執行委員をもつ。
○
自由教育運動CFE
授業料
tuition
feesと奨学金student grants廃止に反対するグループ。
1995年労働者学生と
組織化独立Organised Independentsの奨学金廃止反対放棄提案に反対して結成される。
最初は種々のグループが入っていたが労働者自由連合により強固な左派に移行した。
ハダースフィールド大では1996年音楽組織チョコレート・ファイアーガードによって組織された”妥協しない”というCDのおかげで
強い支援を得た。
CFEは執行部に継続的に参加、レズ・ゲイ・バイセクシャルLGBTと女性運動から強い支持がある。
学生広い左翼、SWSS、全国黒人学生連合などの種々のグループとしばしば連合名簿形成を形成する。
2004年CFEからたった
カット(キャスリン)・フレッチャーが最初に非労働学生以外支援のNUS委員長となったが間もなくグループを離れ
右派に移行。
自由教育運動はその活動家が
非商業教育結成に参加し斜陽。
○
共産主義者学生
2006年結成。
CPGP準備中央委員会系。
イラン人民から手を引け、
戦争を止めろ連合や
労働代表委員会青年部門の
社会主義青年ネットワークなどに関係。
○
若い緑(ヤング・グリーン)
2002年結成。
2006年ジョー・ルーニーが非商業教育名簿でNUS NEC(中執)に選出される。
○
組織化独立OI
NUS全国執行委員会候補によって構成されるグループ。1990年代に労働者学生が支配するNUS指導部支援のため結成。
労働党員であるが労働者学生メンバーでないものが存在。
2000年労働学生が後退しオーウェン・ジェームズを支持し独立として委員長となる。
2002年NUS選挙ではOIと労働者学生が対立、一般的にはOIが勝利したが委員長だけは労働学生の
マンディ・テルフォードが
勝利。2007−2008年はOIの
ジェマ・トゥメルティが委員長。
1997年書記のサイモン・ウェーバーらが中心的活動家。
○
リベラル民主学生
1988年社会民主党とリベラル党の合同により結成されたリベラル民主の組織。
1993年リベラル民主青年・学生LDYSが学生リベラル民主とイングランド青年リベラル民主の合同により結成される。
2008年LDSYがリベラル青年となる。
NUS選挙に立候補し、全国執行委員をもつ。
○
保守未来 歴史 保守学生連合
1998年青年保守と保守大学院生と
保守大学フォーラム(1986年結成)が合同結成。
保守学生連合が1940年第末から1986年まで存在。
2002年再び保守学生がNUSのNECに2名確保。
1980年代保守党ではサッチャーに
批判的なウェットと支持派のドライという呼称があった。
○
学生イギリス民族党BNP
極右
イギリス民族党BNPの学生組織。
解釈 解釈2 解説 エピソード 文献 急進学生