コーカサスの歴史



 [7] ジョージアの歴史概要


 (1) ジョージアの歴史

 コルキスとイベリアの多くの先行する古代王国から生じ、ジョージア民族は8−9世紀にバグラティオニ朝のバグラト3世の
もとで初めて統一された。
 ジョージア王国(サカルトヴェロス・サメポ)は10−12世紀にダヴィド4世と女王タマルの治世に繁栄し、1243年の
モンゴル侵攻で衰退した。
 ゲオルゲ5世の治世に短期間、再統一されたがティムールの侵攻(1386−1403)で再び衰退。
 1490年までに多くの小さな王国と侯国に分解し、初期中世期じゅう、オスマン、イラン(サファヴィー朝、アフシャール朝、
ガージャル朝)と独立維持のため戦い、最終的に19世紀にロシア帝国に併合された。

 ジョージアでの初期の農耕新石器時代の居住はBC6000−5000年に遡る。
 シュラヴェリ・ショム文化では黒曜石を道具に使用し、牛、豚のような動物を育て、ブドウを含む穀物を育てた。
 初期金属加工はジョージアではBC6千年に始まり、シュラヴェリ・ショム文化と結びついている。
 BC4千年始めから東ジョージアと全南コーカサス地域で金属が大規模に使用されるようになった。
 BC4−3千年の銅使用時代にジョージアと東小アジアはクラ・アラクセス文化の本拠地となり、BC2千年にはトリアレティ文化
席を譲った。

 ディアウエヒは初期ジョージアの種族連合で最初にBC12世紀に有史(歴史記録)に登場。
 進んだ冶金・金属加工で特徴づけられる初期の政治的および国家形成の要素はBC7世紀以前にさかのぼる。
 BC2100−750の間のヒッタイト、ウラルトゥ、メディア、プロト・ペルシア、キンメリアによる侵入にこの地域は生き残った。
 同時期にプロト・カルトヴェリ人はいくつかの分枝に分かれた。それらはスヴァン、ザン/チャンと東カルトヴェリである。
 それは最終的に現代カルトヴェリ語:グルジア、スヴァン、メグレル、ラズ(後2者はザン方言から派生)の形成をもたらした。
 そのときまでスヴァンは現代スヴァネティとアブハジアで優勢で、ザンは現代ジョージアのサメグレロに居住、一方、東カルトヴェリは
現代東ジョージアで多数派を形成。
 文化的および地理的分画で将来のジョージア文化の二つの核地域と原国家が西と東ジョージアにBC8世紀末までに形成された。
 西ではコルキスの王国として、東ではイベリアの王国として知られる最初の二つのジョージア国家が出現した。

古代
コルキスとイベリアの初期ジョージア人王国

 第2のジョージア種族連合は、BC13世紀に黒海沿岸に西ジョージアのコルキス王国のもと出現。
 コルキスの王国は、BC6−1世紀に存在し、最初の初期ジョージア国家形成とみなされ、コルキス人という名は黒海東岸に住む、
ミングレリア人、ラズ人、そしてチャン人のような初期ジョージア・カルトヴェリ種族の集合的名前として使用された。
 古代ギリシャ人はコルキスを知っていて、ギリシャ神話のイアーソーンとアルゴー船員の話に語られた。
 BC2000年ころから北西コルキスにはカルトヴェリ種族のスヴァンとザンの人々が住んだ。
 古代コルキスの他の重要な民族要素はギリシャ人で彼らはBC1000−550年に沿岸地域に多くの交易植民地を建設した。
 それらにはナエスス、ピティウス、ディオスクリアス(現代スフミ)、グエノス、ファシス(現代ポティ)、アプサロスと
リゾス(トルコのリゾ)がある。
 ジョージアの東部分にはBC6−4世紀の間、種々のジョージア連合の間に主導権争いがあり、最終的にムツヘタMtskhetaの領域の
カルトリ種族が勝利した。
 ジョージアの伝統ではカルトリ王国(ギリシャ・ローマ文献ではイベリア)はBC300年頃、パルナヴァズ王朝の最初の支配者
パルナヴァズ1世によって創建された。

(*中世ジョージア年代記などではアゾを祖とし、カルトリの支配者の出で、アレキサンダー大王によってムツヘタの王にされたとする。
 また1説にはパルナヴァズ1世は父をアゾに殺され、逆に彼はアゾを殺し、王位を簒奪したとする。)

 BC653−333年の間、コルキスとイベリアの両方はメディア帝国の引き続く侵略から生き残った。
 しかしアケメネス・ペルシャの場合は別であった。
 ヘロドトスによるとアケメネスの勢力はコーカサス山脈まで届いたが、コルキスは彼の20のサトラピの中に含まれていない。
 ダリウスと彼の後継者の古ペルシア碑文のアケネメネスの土地リストにも言及されていない。
 クセノポンのアナバシスにはコルキスの種族とポントスの種族は独立したものとして言及されている。
 他方、ヘロドトスはBC481−480年のクセルクセスのギリシャ遠征に参加した約57の民のカタログでコルキス人と種々の
ポントス種族に言及している。
 BC4世紀末に南イベリアはアレクサンダー大王の軍隊の侵入を証明していて、これでコーカサスの南に広いグレコ・マケドニア人
帝国が創建された。

(*ストラボンによるとアルタクシアス1世とザリアドレスはセレウコス帝国のサトラップでそれぞれ大アルメニアとソフェネを
支配したという。
 BC190年のマグネシアでの戦いでのアンティオクス3世のローマへの敗北で両者は反乱し、独立を宣言したという。)





 イベリアもコルキスもアレキサンダーの帝国に編入されず、後継の中東のいかなるヘレニズム王朝にも編入されなかった。
 しかし古代ギリシャの影響は非常に大きく、コルキスの都市では広くギリシャ語が話された。
 イベリアではギリシャの影響はほとんど認められず、アラム語が広く話された。
 BC2世紀初期とAD2世紀末の間に、コルキスとイベリアの両方は近隣の諸国とともにローマ、アルメニアと短期間存在した
ポントゥス王国のような主要な地域勢力の長く激しい衝突の場となった。
 BC189年、急速に大きくなったアルメニア王国がイベリアの半分以上を占領した。
 BC120−63年にアルメニアの同盟者ポントゥスのミトリダテス6世が全コルキスを征服し、王国に編入し、東と北黒海沿岸地帯と
ほとんどすべての小アジアを包囲した。


  ミトリダテス6世時代のポントス王国(淡い紫、濃い紫はそれ以前)


  BC69年 アルメニアのティグラネス2世時代

ゴルディエネ(コルドゥエネ):ゴルディエネ王国はセレウコス帝国の衰退で出現し、歴史の大部分、ローマ帝国の属州。
  BC189−90年に独立を享受。
アディアベネ:アケメネス朝とササン朝ペルシャに従属、1世紀にアディアベネの女王はユダヤ教に転向。116年のトラヤヌスの
 侵攻でローマ属州となる。
オスロエネ(エデサ):アラブ起源の王朝によって支配され、BC132−AD216年に半から完全独立で、216−608年は
 ローマ属州。


ローマとイランの競合とローマのコルキス征服  

 アルメニアとの密接な結びつきがローマ将軍ポンペイウスによる侵入(BC65)をもたらした。
 彼はそのときミトリダテス6世およびアルメニアと戦争していた。しかしローマはイベリアへの永続的支配を確立できなかった。
 19年後、ローマは再び進軍し(BC36)、イベリア王パルナヴァズ2世にコーカサス・アルバニア遠征への参加を強制した。
 このときアルメニアとポントスはローマを犠牲にして積極的に拡大し、その東地中海支配地を占領した。
 しかし反ローマ連合の成功は長く続かなかった。
 ローマのポンペイウスの遠征と、西からのルクルスと南からのパルティアの侵入で、アルメニアはBC65年に征服した大部分を失い、
ローマ・パルティアへの従属に至った。
 同時に、ポントス王国はローマによって完全に破壊され、コルキスを含むそのすべての領域はローマ帝国に編入され、属州となった。
 以前のコルキス王国はローマ属州ラズィクムとなりローマ総督によって支配された。

(*皇帝ネロは63年、コルキスをポントス属州に編入し、81年にはドミティアヌスがカッパドキアに編入した。
 一方、イベリアは従属国となりかなり独立性を有したが、低地はしばしば山岳地帯の種族により襲撃され、ローマの保護に頼った。
 イベリアは自主的にローマの保護を受け入れ、1世紀のミフルダト1世(58−106)は碑文にカエサルの友人、ローマ愛好
イベリア人とある。)

 続く600年のジョージアの歴史はローマと近隣のペルシア(パルティアと引き続いてササン朝)の間の抗争によって刻印された。
 彼らはシリア、メソポタミア、アルメニア、アルバニアとイベリアを含む西アジア支配をめぐって互いに戦った。
 (ローマ・ペルシア戦争:BC66−628、ローマとパルティア、ローマとササン朝、ビザンチンとササン朝)
 コルキスのジョージア人王国はローマ属州として支配されたが、コーカサス・イベリアは進んでローマ帝国の保護を受け入れた。
 AD2世紀に、イベリアはこの地域の地位を強化し、特にパルスマン2世の統治のとき、ローマからの完全独立を達成し、衰退する
アルメニアから以前失った地域を再征服した。
 3世紀初期に、ローマはアルバニアとほとんどのアルメニアをササン朝ペルシアに引き渡さざるをえなかった。
 ラズィクム属州はある程度の自治を許され、3世紀中までに完全独立し、ザン、スヴァン、アプシルApsylとサニグSanyghの小侯国の
地域に新しいラズィカ・エグリシ王国を形成した。
 この新しい西ジョージア国家は562年まで250年以上生き延びた後、ユスティニアヌス1世の東ローマ帝国に吸収された。
 (*ラズィカ参照)

 3世紀に、ラズィ種族はほとんどのコルキスを支配するようになり、地域的にエグリシとして知られるラズィカの王国を確立した。
 コルキスは東ローマ/ビザンチンとササン朝帝国の長い競合の場となり、542−562年のラズィ戦争で頂点に達した。
 イベリアはササン朝のシャプル1世の統治の間(241−272)にササン朝の貢納国となった。
 ササン朝の影響はゾロアスター教の伝搬で明らかで、イベリアでは260年代から290年代に確立されたようである。
 しかしローマ・ササン朝戦争(296−299)の結果のニシビシの和平(298)で、ローマ帝国はコーカサス・イベリアの従属国
としての支配を再獲得し、全コーカサス領域への支配を確認した。
 ホスロイド朝の最初のミリアン3世がイベリアの王と認められた。

国家宗教としてのキリスト教採用
 キリスト教化される前、ミトラス信仰とゾロアスター教が一般的に1世紀からイベリアで行われていた。
 東ジョージアのイベリア王国が327年(諸説ある)に世界でキリスト教に転換した国家のひとつとなった。
 イベリア王ミリアン3世がキリスト教を国教とした。
 4世紀中までにラズィカ(以前のコルキス王国)とイベリアの両者がキリスト教を公式宗教に採用した。
 これでビザンティン帝国と結びつくようになり、その文化的影響を大きく受けるようになった。
 363年の帝王ユリアヌスのペルシャ遠征中での死亡後、ローマはイベリアの支配をペルシアへ譲り、王ヴァラズ・バクル1世
(363−365)はペルシアに従属。これは387年のアキリセネの和平で確認された。
 しかし、後にカルトリの支配者、パルスマン4世(406−409)は独立を維持し、ペルシャへの貢納の支払いを止めた。
 ペルシャは制圧し、ササン朝の王は総督(ピティアクサエ)をおき監視させ始めた。
 彼らは次第に世襲的になり低カルトリは総督府となった。
 これはカルトリ王国の一部ではあったが、総督は支配領域をペルシャの影響の中心とした。
 ササン朝支配はジョージアのキリスト教信仰に厳しい試練をもたらした。彼らはゾロアスター教育を推進し、5世紀中までに
東ジョージアではゾロアスター教は第2の公式宗教となった。
 4世紀とほとんどの5世紀の間、イベリア(カルトリの王国)はペルシャの支配にあった。
 5世紀末に、公子ヴァフタング1世は反ペルシャ反乱を指揮し、イベリアの国家性を回復し、王を宣言した。
 このあとヴァフタングの軍隊はペルシャとビザンティン帝国の両方への幾多の軍事遠征に乗り出した。
 しかし彼のジョージア国家の独立と統一の闘いは長くは成功しなかった。
 502年(または522年)のヴァフタングの死のあと息子のダチ(522−534、12年間)の短い支配のあと、イベリアは再び
ペルシャの州として編入され、580年、ササン朝ホルミズド4世によってイベリア王国は廃止され、王バクル3世の死後
(580年)、イベリアはマルズパン(総督)が支配するペルシャの州となった。
 しかし今回はイベリアの貴族に総督(エリスムタヴァリ)選出の特権が与えられた。
 ジョージア貴族は582年にビザンティン皇帝マウリキウスにイベリア王国の復活を急き立てた。
 しかし、591年、ビザンティンとペルシャはイベリアの分離に合意し、トビリシはペルシャへ、ムツヘタ(トビリシの20km北)
はビザンティンのものとなった。
 7世紀末までに、ビザンティンとペルシャの中東での競合はこの地域のアラブ征服へ席を譲り、マルワン・イブン・ムハマドの
ジョージア侵攻(735−737年)でコーカサスでのアラブの覇権(7世紀中期〜1122年)が確固となった。









中世

ジョージア国家の統一
 アラブ占領への戦いでバグラティオニ王朝はタオ・クラルジェティを支配するようになり、ビザンティン帝国のもとでの名目上の
従属としてイベリアのクロパラテス(宮廷責任者)を確立した。
 ジョージアの王権の回復は888年に始まり、アダルナセ4世がイベリア人の王の名称をとった。
 しかしバグラティオニ朝はその王国の統一維持に失敗し、実際は王国は3家系に分かれ、主分枝はタオを維持し、他は
クラルジェティを支配した。
 10世紀末に、クロパラテスのタオのダヴィドはイベリア(カルトリ)の侯国に侵攻し、これを彼の養子バグラト3世に与え、
グルゲンを摂政にした。
 グルゲンは後にバグラト2世の死(994年)で、イベリア人の王の王とし戴冠した。
 バグラト3世は父のグルゲンの妻が、従って彼の母はアブハジア王ゲオルゲ2世の娘で、子供のないテオドシウス3世の姉妹で、
彼は退位を余儀なくされ(978年)、バグラト3世がアブハジアの王位を継いだ。
 1008年、グルゲンは死亡し、バグラト3世がイベリア人の王を継承。
 これで彼はアブハジアとイベリアを統一した最初の王となった。
 また2年の戦いと外交政策で1010年頃、ジョージア最東のカヘティ・ヘレティの王国を併合。
 バグラト3世は息子のゲオルゲ1世への継承(1014年、アブハジア、カルトリとカヘティ)を確実にするため従兄弟を投獄。
 バグラトの治世は一般的に平和的でビザンティンと近隣のムスリムとの衝突を避けたが、ダヴィドの領域のタオは依然ビザンティン
にあり、トビリシはアラブの手にあった。

セルジュークとビザンティンの間

 ゲオルゲ1世の統治の間の主な政治的、軍事的出来事はビザンティン帝国との戦争であった。
 以前、タオのダヴィド3世は無益なバシレイオス2世との戦いで領土を失い、バグラト3世は併合を阻止しようとしたが無駄だった。
 ゲオルゲはクロパラテスのジョージア継承を回復しようと軍事遠征に乗り出し、1015−1016年、タオを占領。
 ビザンティンは当時ブルガール帝国との戦争に巻き込まれていて、西への行動に制限があった。
 ブルガリアが征服されるや否や、バシレイオス2世はジョージアに軍隊を派遣(1021年)。
 2年間の消耗戦でビザンティンの決定的勝利となり(スヴィンダクスの戦い)、ゲオルゲはタオだけでなく彼の南西部も譲らざるを
得なかった。
 3歳の息子はバシレイオス2世の人質となった。バグラト4世は2年間コンスタンティノプルで過ごし、1025年に解放された。
 1027年のゲオルゲ1世の死で8才で王座を継いだ。バグラト4世が王になった時までに、バグラト王朝のすべてのジョージアの
土地の統一の完成の推進力は後戻りのない勢いを得た。
 ジョージア王は西ジョージアのクタイシに居り、アブハジア王国のすべてとイベリアの大部分を統治した。
 タオはビザンティンに奪われ、トビリシには依然、ムスリムのエミールがいて、カヘティ・ヘレティの王が最東ジョージアで頑固に
独立を守っていた。
 更に大貴族のジョージア王座への忠誠は確固としてなかった。バグラトが未成年の間、高位の貴族の立場は摂政団によって
前進させられたが、彼が全支配を取ったときに制限しようとした。
 しかし同時にジョージア王は二つの恐るべき外敵に直面した。
 ビザンティン帝国と蘇ったセルジューク・トルコ。
 セルジュークの脅威はジョージアとビザンティンの密接な協力模索を駆り立てた。
 提携を確実にするためにバグラトの娘マルタ(マリヤ)がビザンティンの共同皇帝ミカエル7世ドゥーカスと結婚した。

大セルジュークの侵略
 11世紀の第2半期はセルジューク・トルコの戦略的な重要な侵略で刻印された。セルジューク・トルコは1040年代末までに
ほとんどの中央アジアとペルシャを含む広大な帝国建設に成功した。
 セルジュークはジョージアに1060年代末に最初に出現、スルタンのアルプ・アルスランはジョージア王国の南西州を荒らし、
カヘティを降伏させた。ビザンティン軍は1071年、マンジケルトで決定的敗北をした。
 ジョージアはタオの確保でアルプ・アルスランの侵略から回復できたが、ビザンティンはアナトリアから撤退し、ジョージアは
セルジュークと直接接触することになった。
 1073年のアルプ・アルスランのカルトリ蹂躙に続く、1076年の侵略をゲオルゲ2世は撃退に成功した。(パルツヘシの戦い)
 1076年、セルジュークのスルタンのマリク・シャー1世はジョージアに侵入し、多くの居住地を崩壊させた。
 ジョージア史で1079/80年以降、大トルコ侵入として知られる大量トルコ人流入に悩まされ、ジョージアは毎年の貢納という
犠牲で高価な平和を確保するため、マリクシャーに服従を余儀なくされた。

王ダヴィド4世建設者とジョージア・レコンキスタ(再征服)
 セルジュークへの戦いはバグラティニ王族の若い王ダヴィド4世によって率いられ、彼は父のゲオルゲ2世の退位で1089年、
16才で王座を継いだ。ダヴィドはセルジュークの植民に対するために正規兵と農民軍を創設。
 最初の十字軍(1096−1099)とアナトリアとシリアでのセルジューク・トルコへの十字軍攻撃はダヴィドのジョージアでの
軍事遠征成功に優位であった。
 1099年までにダヴィドは貢納支払いをやめ、トビリシとヘレティを除いて、ほとんどのジョージアの土地を解放した。
 1103年、彼はジョージア正統教会を認め、これを国家と密接に結びつけ、カトリコス(大主教)をジョージアの王冠大法官に
任命した。
 1103−1105年のジョージア軍はヘレティを占領し、依然としてセルジュークが支配していたシルヴァン攻撃に成功した。
 1110−1118年の間にダヴィドはロリ、サムシュヴィルデと他の低カルトリの要塞を奪い、これでトビリシはセルジュークの
孤立した飛び地となった。
 1118−1119年、トルコ人遊牧民の撤退の結果、非常に多くの土地が空いた未住地となり、更に軍隊のための良質の人資源が
必要となり、ダヴィドはおよそ4万人のキプチャクの戦士を北コーカサスから家族とともにジョージアに移住させた。
 1120年、アラニアの支配者はダヴィド王の従属者となり、多くのアラン人をジョージアへ送り、彼らはカルトリに定住した。
 ジョージア宮廷軍は傭兵としてキエフ・ロシア同様にドイツ、イタリアそしてスカンジナヴィアでも歓迎された。
 1121年、セルジュークのスルタンのマフムドはジョージアにジハードを宣言し、将軍イルガーズィのもとジョージアとの戦いのため
強力な軍隊を派遣した。
 トルコは数的に圧倒したが、ジョージアはディドゴリの戦いでなんとか侵略者を破り、1122年、彼らはトビリシを占領し、
ジョージアの首都とした。
 3年後、ジョージアはシルヴァンを征服、西シルヴァン(かつて繁栄したアルバニア王国の名残)の最もキリスト教徒の多い
ギシ・カバラ地域はジョージアに併合、すでにイスラム化した残りのシルヴァンはジョージアの従属国となった。
 同年、アルメニアの大部分はダヴィドの軍隊によって解放され、ジョージアの手に落ちた。
 これで1124年、ダヴィドはアルメニアの王にもなり、北アルメニアをジョージアの土地に編入した。
 1125年、ダヴィドが死亡し、ジョージアは強い地域勢力として残された。ダヴィドは建設者と呼ばれた。
 ダヴィドの後継者(デメテル1世とゲオルゲ3世)はジョージアの膨張政策を継続し、北コーカサスのほとんどの山岳氏族と種族を
包囲し、更にシルヴァンでジョージアの地位を確保した。しかしジョージアの最も栄光の統治は女王タマルの時代であった。

女王タマルと偉大な黄金時代(1184−1213)
 女王タマルの治世は全民族史でのジョージアの力の頂点を示した。
 タマルの母はアラニア王の娘ブルドゥハンで、1178年、タマルは父ゲオルゲ3世の共同統治者となった。
1177年、ゲオルゲ3世は甥のデムナ(ダヴィド5世の唯一の息子、ダヴィド5世は父のデメトリウス1世を退位させていたので、
彼の死後、デメトリウスは若い息子のゲオルゲ3世を後継者に据えた。)を担ぐ貴族グループの反乱にあい、デムナは去勢され、
投獄され死亡。
 1194−1204年に、タマルの軍隊は南東と南からの新しいトルコ人の侵入を粉砕し、南アルメニアを支配するトルコへの
軍事遠征に乗り出し成功した。
 その結果、カリン、エルジンジャン、ヘラト、ムシュとヴァンの都市を含む南アルメニアのほとんどがジョージア支配下に入った。
 しかしこれはジョージア王の土地に含まれず、名目的に地域トルコ人エミルとスルタンの支配に残され、南アルメニアはジョージア
王国の保護領となった。
 1204年のビザンティン帝国の十字軍への一時的落城で、ジョージアとブルガリア帝国は全東地中海で最強のキリスト教国家
となった。
 同年、女王タマルは以前のビザンティンのラゾナとパリヤドリアをアティナ、リザ、トレビゾンド、ケラスント、アミソス、
ヘラクレアの都市とともに占領するために軍隊を派遣した。
 1205年、占領領域はトレビゾンド帝国へ移され、これはジョージアから独立した。
 タマルの縁者の王子アレクシオス・コムネスが帝王となった。
 彼の父はゲオルゲ3世の娘ルスダン(タマルの妹)と結婚、アレクシオスとダヴィドが生まれた。
 引き続きジョージア軍隊は北ペルシャ(現代のイラン領アゼルバイジャン)に侵入、マランド、タブリズ(1208)、アルダビル、
ザンジャン、ホイ(1210)とカズヴィン(1210)の都市を奪取、征服領域一部をジョージアの保護領とした。
 これはジョージア史上最大の領土であった。女王タマルはアブハジア人、カルトヴェリ人、ラン人(Ran、アランArran)、
カフ人(カヘティ)とアルメニア人、シルヴァン・シャヒネとシャヘ・イン・シャヒネの女王、東と西の統治者と呼ばれた。
 12世紀初期と13世紀初期の間の時期、特に、偉大なタマルの時期はジョージアの真の黄金時代と考えられる。
 政治的、軍事的成果のほかに、建築、文学、哲学と科学を含むジョージア文化の発展で刻印された。





モンゴル侵入とジョージア王国の衰退

 1220年代に、南コーカサスと小アジアはモンゴル侵入に直面した。
 ジョージア・アルメニア勢力とその同盟者の激しい抵抗にもかかわらず、ほとんどのジョージアを含む全領域、すべてのアルメニアの
土地と中央アナトリアは結局、モンゴルの手に落ちた。

 ゲオルゲ4世はタマルのジョージア封建国家強化政策を継続した。
 1210年代、隣のムスリム従属国の反乱を制圧し、1220年の十字軍支援の準備を始めた。
 しかし、モンゴルのジョージア国境接近で計画は実現しなかった。
 最初のモンゴル派遣軍は1220−1223年、ジョージア軍を2度破り、コーカサスを通って去った。
 ジョージアは重い損失で苦しみ、王自身はひどく負傷した。
 1222年、王はルスダンを共同統治者に指名。ゲオルゲ4世は1223年、31才で死亡。妹のルスダンが継承。

 ゲオルゲの死はジョージアの黄金時代の終わりの始まりを刻印した。
 ルスダンは彼の母の獲得したものを維持できなかった。
 1225年秋、ジョージアはモンゴルに追われたホラズムシャーのジェラル・(ア)ディン・ミングブルヌの攻撃を受けた。
 ジョージア人はガルニの戦いで敗北し、宮廷はクタイシに移動、首都トビリシはホラズム軍によって包囲され、翌年占領。
 1227年、ジェラル・ディンのアルメニアでの敗北を利用し、トビリシを取り戻したが間もなく放棄せざるを得なかった。
 彼らは占領軍との戦いで放火。
 ホラズムにモンゴルが取って代わった。モンゴルは1235年、ジョージアに入り込み、ジェラル・ディンによって略奪されていた
ジョージアは大した抵抗もせず降伏。
 1240年代までに国すべてがモンゴルの軛下となった。

 1243年、ジョージアの女王ルスダンはモンゴルと和平条約を結び、ジョージアは従属国を失い、西シルヴァン、ナヒチェヴァンと
いくつかの他の領域を譲り、他の地域の半分以上を占領させ、事実上支配はもちろん、モンゴルに貢納することに同意した。
 モンゴルの占領するトビリシは依然公式的には王国の首都であったが、女王はそこへ戻ることを拒否し、1245年の死まで
クタイシに留まった。
 甥のダヴィド7世(ゲオルゲ4世の庶子)を恐れ、ルスダンは彼を投獄、息子のダヴィド6世を相続人と認めてもらうために
モンゴル宮廷に送った。
 彼女は息子の帰還を待ちながら1245年死亡。
 ルスダンの死で空位時代が始まり、モンゴルはコーカサスを8つのトゥメン(万戸)に分割。
 モンゴルはグルジスタンのヴィライェット(州)を作り、これにはジョージアと全南コーカサスを含んだ。
 これを彼らはジョージア君主によって、間接支配した。君主はハーンによって承認された。
 モンゴルはジョージア貴族を2つの競争党派に分け、各々が王位候補を支持した。
 これはダヴィド7世ウルとダヴィド6世ナリンであった。1247年、グユク・ハーンは両者を各々王国の西と東の部分の共同統治者
とし、彼らはまたサムツヘとアルメニアを切り取り、イルハーン国の直接統治とした。
 トゥメン制度は廃止された。

 これら困難に加え、モンゴルから逃れていた王国の一部は分解し始めた。王はサムツヘの軍司令官への支配を失い始め、
彼は独自にモンゴルとの関係を確立し、1266年までに実際的にジョージアから分離した。
(*ジャケリ家のムタヴァリ(公子)のサルギス1世がイルハーンのアバカの庇護で独立、サムツヘ・アタベグ国成立。)

 1259−1330年の間の時期はジョージア人のモンゴルのイルハン朝への完全独立のための戦いで画期された。
 最初の反モンゴル反乱は1259年王ダヴィド・ナリン(ダヴィド6世)の主導で始まり、実際、彼の戦争はほとんど30年、戦われた。
 反モンゴル闘争は王デメトリウス2世(1270−1289)とダヴィド8世(1293−1311)のもとで続けられた。

 最終的にイルハン国の衰退を利用し1220年以前のジョージア国境を回復し、トレビゾンド帝国をジョージアの影響領域へ回復
したのはゲオルゲ5世(第2治世:1314−1346)であった。

 デメトリウス2世は1289年にモンゴルによって処刑された。小さなゲオルゲ(5世)はサムツヘの母の祖母、ベカ1世ジャケリの
もとに送られた。
 1299年、イルハーン国のハーンのガザン・ハーンはゲオルゲ5世を、反抗的なダヴィド8世の競争支配者として指名した。
 イルハーン勢力に支援されながら、ゲオルゲの勢力はトビリシの外に広がらず、そこでハーンは1302年、別の兄弟
ヴァフタング3世に代えた。
 ゲオルゲ5世は彼のダヴィドとヴァフタングの両兄の死後、ダヴィドの息子(ゲオルゲ6世)の摂政となった。
 彼は未成年で1313年死亡し、ゲオルゲ5世が再び王となった。
 1315年、ゲオルゲ5世は小アジアの反モンゴル反乱を鎮圧するジョージア支援軍を率いた。これはモンゴル部隊で戦った
最後の派遣隊であった。
 1320年、彼は略奪するアラン人をゴリから追い出し、コーカサス山脈に戻らせた。
 1329年、西ジョージアのクタイセを攻撃し、地域の王(イメレティ)、バグラト1世を従臣公子とした。
 ゲオルゲ5世の仲の良かったモンゴル王子チョバンが1327年、アブ・サイド・ハーンによって処刑された。
 そのあとクトルグシャーの息子イクバルシャーがモンゴルのジョージア統治者に指名された。
 1330年、西ジョージアのクタイセを攻撃し、地域の王(イメレティ)、バグラト1世を従臣公子とした。
 1334年、彼は実質的に独立していた、従兄弟のクヴァルクヴァレ1世の支配するサムツヘの侯国への権威を主張した。

 1334年、ジャライールのシャイフ・ハサンがアブ・サイドによってジョージア統治者に指名された。
 ゲオルゲはイルハーン国の内戦を利用し、彼は貢納をやめ、モンゴルを国から追い出した。
 翌年、モンゴルへの勝利を祝うツィヴィ山での祭りを命令し、そこですべての反対派貴族を虐殺した。

 王国の統一を回復し、彼は文化、社会そして経済計画に焦点を置いた。彼はガザン・ハーンの発行した貨幣をゲオルゲのテトリと
呼ばれるジョージアのものに変えた。
 彼のもとでジョージアはビザンティン帝国とジェノヴァとヴェニスとの国際的商業的結びつきを確立した。

 ゲオルゲ5世の治世は再統一と復興の時期であったが、1386−1403年に、ジョージア王国は、8回、ティムール指揮の
トルコ・モンゴルの侵入に直面し、これはジョージアに大きな打撃を与えた。
 アブハジアとスヴァネティを除き、侵略でジョージア経済、住民と都市の中心は荒廃させられた。

 ティムールの最初のコーカサスへの出現は1385年のトクタミシュ・ハーンのコーカシアの土地を通っての北イランへの略奪の
襲撃への応答であった。
 1386年、晩秋、ティムールの大軍がジョージアを攻撃、トビリシが包囲され、11月に奪われた。
 都市は略奪されバグラト5世と家族は投獄された。
 これを利用してイメレティのアレクサンデルは独立を宣言し、1387年、イメレティ王として戴冠。

 ゲオルゲ7世は治世をほとんどティムールとの戦いに過ごした。ティムールは1387−1403年に7回以上のジョージア王国に
遠征し、国は荒廃した。
 最終的に、1403年にゲオルゲは敵と和平せざるをえず、ティムールを宗主と認め貢納することになった。

 ティムールの破滅的な侵攻と引き続く、ジョージアの衰退の後に間もなく新たな脅威に直面した。
 1405年のティムールの死は彼の帝国の終焉の始まりを刻印し、統一は従属民の恐怖と血によってなされた。
 トゥルクメン、特に、カラ・コユンルが最初にほとんどのペルシャとマウェランナフル(トランスオクシアナ)を支配する
シャー・ルフに対し反乱した。
 カラ・コユンルの支配者カラ・ユスフがシャー・ルフを破りバグダドを占領し、ティムール朝を西ペルシャから追い払った。
 彼らは中東の新しい主導勢力として自己を確立してから、ジョージア人の一時的弱点を利用し攻撃に乗り出し、これでおそらく
ゲオルゲ7世が殺された。
 コンスタンティネ1世はシルヴァンシャーのイブラヒム1世とシャキの支配者シディ・アフメドと提携し、コーカサスに進む
カラ・コユンルに対抗した。
 チャラガンの戦い(1412年)で連合軍は敗走し、コンスタンティネと異母兄弟ダヴィドとイブラヒムは捕虜となった。
 捕虜の間、コンスタンティネ1世は傲慢に振る舞い、激高したトゥルクメン王子カラ・ユスフは彼とダヴィドと300のジョージア
貴族を処刑した。

 アレクサンデル1世は衰退する王国の強化と回復に努めたが、トゥルコマン族の絶え間ない侵入に直面した。
 1431年、彼はジョージア国境確保に重要なロリを再征服した。
 1434年頃、アルメニア公子オルベリア家のベシュケン2世を促して、シュニクのカラ・コユンルの一族を攻撃させ、
彼の勝利に対し、封臣としてロリを与えた。
 1440年、アレクサンデルはカラ・コユンルのジャハン・シャーに貢納するのを拒否。
 ジャハン・シャーはジョージアに2万の軍隊で侵入し、サムシュヴィルデの都市を破壊し、首都トビリシを略奪。
 彼は多くのキリスト教徒を虐殺し、ジョージアに重い賠償を課し、タブリズに戻った。
 彼は1444年、2回目の遠征を行い、アハルツィヘでアレクサンデルの後継者と会ったが戦いは決定的とならずジャハン・シャーは
タブリズに戻った。

 内外の戦いの結果、統一ジョージア王国は1466年後存在停止し、いくつかの政治単位に分解。
 カラ・コユンル種族連合は別の連合のアク・コユンルによって破壊された。
 アク・コユンルは当然ジョージアの分裂を利用した。
 ジョージアはアク・コユンルの王子ウズン・ハサンによって1466年、1472年そして恐らく1476−7年に攻撃された。
 そのときの多くのジョージアの支配者バグラト6世は侵入者と和平し、トビリシを敵に放棄せざるを得なかった。
 ジョージア人が首都を取り戻したのはウズン・ハサンの死(1478)後であった。
 1488年冬、ハリル・ベイ率いるアク・コユンルはジョージアの首都トビリシを攻撃、長い包囲の後、1489年2月、町を占領。
 アレクサンデルはこれを直ちに利用し、クタイシとカヘティの残りの支配を握った。
 首都占領は長く続かず、コンスタンティネ2世は彼らを追い返すことができたがジョージアにそれは高くついた。
 サファヴィー朝創建者イスマイル1世は1502年ジョージア人と提携し、同年、決定的にアク・コユンルを破り、彼らの国を破壊し、
侵入は終わった。

 王国の政治的分裂はサムツヘのエリスタヴィによって加速された。
 1462年、クヴァルクヴァレ2世ジャケリはジョージア王に対しアク・コユンルのウズン・ハサンを呼び、彼の侵入は西ジョージアの
公子バグラト6世によって利用された。
 1463年、バグラト6世はチホリでゲオルゲ8世を破った。
 ダディアニ、グリエリ、アブハジアとスヴァンは征服者のところに来て、王を祝福するすべてのイメレティ人の意志を示した。
 しかし、このときからイメレティはひとつの王国と4つの侯国あるいはサタヴァドとなった。
 1466年、彼はジョージアの王を宣言したが、実際は西ジョージアと内カルトリを所有しているに過ぎなかった。
 ゲオルゲ8世はカヘティに行き、独立したカヘティ王国を形成した。
 バグラト6世を君主として認め、アレクサンデル1世の孫、コンスタンティネ2世は低カルトリ(トビリシ)を固め、一方、
サムツヘ・サアタバゴは独立侯国となった。
 1477年、オディシのエリスタヴのヴァメク2世ダディアニはバグラト6世に反対し、アブハジア人とグリア人を集め、
イメレティを攻撃し、占領した。バグラト6世は大軍でオディシを攻撃し、ヴァメク2世を破り、制圧した。
 カルトリと西ジョージアの王、バグラト6世は1478年死亡。息子のアレクサンデル2世が継承。
 これはコンスタンティネ2世の挑戦を受けた。アレクサンデルはラチャとレチュフミの山岳地帯に撤退した。
 そこから彼はイメレティ王に登位しようとした。
 彼はダディアニ(オディシ、ミングレリア)、グリエリ、シェルヴァシジェ(アブハジア)とゲロヴァニ(スヴァネティ)を
招集したが、彼らはヴァメク2世に率いられ、ヴァメク2世は彼を支援することを拒否し、コンスタンティネ2世を西ジョージアに
招いた。
 コンスタンティネは西ジョージアのエリスタヴ達の支援でクタイシを占領し、短い間、カルトリと西ジョージアの統一を回復した。
 連合は全ジョージア統一を計画し、まず、サムツヘ・サアタバゴを加えようとした。
 ヴァメク2世は西ジョージアの軍隊とコンスタンティネ2世を助け、1481年、サムツヘのアタベグと戦い、王はサムツヘを
服従させた。
 コンスタンティネ2世は全ジョージアの王となった。
 1483年、コンスタンティネ2世はアラデティでアタベグ・クヴァルクヴァレ2世ジャケリ(サムツヘ)、と戦い敗れた。
 バグラトの息子、アレクサンデル(2世)はこれを利用し、クタイシを占領し、王として戴冠した。そのとき、オディシの新しい領主、
リパリト2世ダディアニはコンスタンティネ2世を西ジョージアへ2度目に招いた。
 1487年、コンスタンティネは軍隊とともに西ジョージアに来てクタイシと他の重要な要塞をリパリト2世ダディアニと他の
西ジョージアの大封建領主の助けで占領した。しかし、完全に西ジョージアを併合するのに失敗した。
 1488年、アク・コユンルのヤクブ・ビン・ウズン・ハサンが東ジョージアに侵攻し、カルトリ王はこれと戦いに行った。
 アレクサンデルはこれを利用し、クタイシとイメレティのすべての要塞を再び、占領し、その後、ダディアニとグリエリと和解した。
 これで彼はイメレティを平静化し、アブハジア人とスヴァン人を服従させた。

 1490年、コンスタンティネは宮廷法廷(ダルバジ)の特別集会で王国統一の回復に関する助言を求めた。
 宮廷法廷は良い時期までのこの戦いの延期をコンスタンティネに助言した。
 この後、カルトリの王はカヘティとイメレティの王とサムツヘの公子と一時的に和解せざるを得ず、ジョージアは実質的に分裂した。
 その統一は最終的に打ち砕かれ、1490年までに、各々が競争しあうバグラティオニ朝の分枝によって率いられる3つの独立王国、
カルトリ(中央から東ジョージア)、カヘティ(東ジョージア)、とイメレティ(西ジョージア)とそれぞれの封建一族によって
支配される、5つの半独立侯国、オディシ(ミングレリア)、グリア、アブハゼティ、スヴァネティとサムツヘに分解。





初期近代期

オスマンとイラン支配

 15世紀に全領域はすべての可能な方面で劇的に変化した。言語、文化、政治など。
 その時期の間にジョージア王国は孤立し、破壊したキリスト教孤立集団、トルコ・イラン世界が優勢になったムスリムに取り囲まれた
消えた東ローマ時代の遺物となった。
 引き続く3世紀の間、ジョージア支配者はトルコのオスマン朝とイランのサファヴィー朝、アフシャール朝とガージャール朝支配の
もと従臣として危うい独立を維持し、ときには強力な宗主国の手のあやつり人形でしかなかったが。
 15世紀中までにほとんどのジョージアの古い隣国は100年以内に地図から消え去った。
 1453年のコンスタンティノープルのオスマン・トルコへの落城は国家を封鎖し、この地域のキリスト教国家の残余をヨーロッパと
他のキリスト教世界と切り離した。ジョージアはクリミアのジェノヴァ共和国の植民地を通しての接触で西と結びついた。
 これら変化の結果、ジョージア王国は経済的そして政治的衰退に苦しみ、1460年代に王国はいくつかの王国と侯国に分解した。
 カルトリ(1466−1762)、カヘティ(1465−1762)とイメレティ(1455−1810)の3王国。
 グリア(1460年代−1829)、スヴァネティ(1463−1858)、サムツヘ(メスヘティ、1465−1625)、
アブハゼティ(1463−1864)とサメグレロ(ミングレリア、1557−1867)の5侯(公)国。

 15世紀末までにオスマン帝国はジョージア諸国に西から侵入し、1501年、新しいムスリム勢力、サファヴィー朝イランが
東に興った。
 次の数世紀、ジョージアは2つの大競争相手の間の戦場となり、ジョージア諸国は独立維持のために種々の手段で戦った。
 オスマンとサファヴィー朝イランの侵入では、オスマンは15世紀晩期、サファヴィー朝イランは16世紀初期で、サファヴィー朝は
1500年に東ジョージアを従属国にした。
 1555年、オスマン・サファヴィー戦争(1532−1555)のあとオスマンとサファヴィー朝はアマシア和平条約に調印、
ジョージアでの影響領域を確定、西のイメレティはトルコへ、東のカルトリ・カヘティはペルシャに割り当てた。
 しかしオスマンが優勢になり軍事遠征(ララ・ムスタファ・パシャのコーカサス遠征)に乗り出し、この地域のペルシャ支配を
終わらせることを狙った次のオスマン・サファヴィー戦争の間、条約は実行されなかった。
 サファヴィー朝イランはほぼ20年後、オスマン・サファヴィー戦争(1603−1618)でジョージのほとんどに対する
完全覇権を含むすべての失った領域への覇権を再確立した。
 オスマンが東コーカサスに永久的足場を獲得することに失敗したことが明らかになって、イランは直ちにその地位を強化し、
最終的に反抗的な東ジョージア王国を従わさせることに努め、それらを帝国の構成部分とした。
 次の150年の間、ペルシャの支配で、いろいろのジョージア王と貴族が反乱を起こしたが、ほかの多くの時期は政治活動は
睡眠状態でしかなく、多くの王と貴族はイランのシャーの恩恵に対しペルシャの支配者を受け入れ、更にイスラムに転換した。
 サファヴィー朝と同じくカージャール朝とオスマン・トルコ王朝の母系の多くはジョージア貴族または別の家柄であった。
 17世紀初期にカヘティのテイムラズ1世がキリスト教市民とカラバフの統治者を襲い殺したと聞いてシャー・アッバース1世は
ジョージアに懲罰的遠征を行った。しかしテイムラズ1世はジョージアへ逃げ、オスマンのアフメド1世を頼った。
 これでナス・パシャ条約(1603−1612年戦争の結果の条約)が終焉した。
 1616年、アッバス1世はジョージアに軍隊を急派し、トビリシのジョージア人反乱を抑圧しようとしたが、サファヴィー兵士は
トビリシ市民から強い抵抗に会った会った。シャー・アッバスは公衆の大虐殺を命令、多くのジョージア兵と市民が殺された。
 カヘティからジョージア人がペルシャへ強制移住させられた。
 この衝突の間、テイムラズ1世はアッバスとの交渉のため母の女王ケテヴァンを送ったが、テイムラズ1世の反抗への
報復として女王にキリスト教の棄教を命令したが拒否され拷問死させた。
 17世紀までに東と西のジョージアは両方ともたえまない戦争のため貧困に沈んだ。
 ジョージアの種々の支配者はオスマンあるいはイランの支配権を認めるか、あるいは独立に努力するかで分裂した。
 第3の帝国勢力、キリスト教ロシアの北への出現がますます魅力的選択となった。

18世紀と19世紀:主にイラン中心の舞台からロシアへの併合

 18世紀初期、カルトリはヴァフタング6世のもと、部分的回復をみた。
 サファヴィー朝は内戦とその結果、混乱にみまわれ、オスマンとロシアはペルシャの大部分の分割を決めた。
 (コンスタンティノープル条約、1724年)
 ジョージアは2分割されたが、ナデール・シャーによる急速な復活でオスマンは1735年、カヘティとジョージアの残りから
追い払われ、ジョージアのほとんどすべてのペルシャ支配が再確立した。
 テイムラズはペルシャに味方しカルトリ近くでペルシャのワリ(統治者)となった。
 しかし多くのジョージア貴族は新体制受け入れを拒否し、重い貢納に対し反乱を起こした。
 テイムラズとヘラクリウスはシャーに忠実で、それは部分的には競争相手ムフラニ家系の復帰を阻止するためであった。
 ムフラニ家系は1720年代没落し、カルトリのテイムラズの継承への道を開いた。
 ヘラクリウスはテイムラズが1744年、短期間、イスファハンに呼ばれた時に摂政となり、同時に、ペルシャの覇権に
反対するギヴィ・アミラフヴァリ率いる貴族を鎮圧し、1747年、競争相手のムフラニ朝のジョージア公子アブドラ・ベグの
クーデターを破った。
 報酬としてナディールはカルトリの王権をテイムラズにカヘティの王権をヘラクリウスに与え、甥のアリ・コリ・ハーン
(後のアディル・シャー)とテイムルズの娘ケトヘヴェンと結婚させた。
 両ジョージア王国は1747年のナディールの暗殺まで依然重いペルシャの貢納の元にあったが、テイムルズとヘラクリウスは
ペルシャの政治的不安定を利用し独立を主張し、ペルシャ守備兵をトビリシを含む、ジョージアのすべての重要な場所から
追い出した。
 互いに協力しあい、1748年、アデル・シャーの兄弟のエブラヒム・ハーンによってそそのかされたムフラニ支持者による
反乱を阻止した。
 彼らは南コーカサス東部でのヘラクリウスの優越権を認めたアゼルバイジャンのハーンとの反ペルシャ連合を結んだ。
 1752年ジョージアの王たちはロシアへペルシャに親ロシア政権樹立のための支援を求める使節を送ったが、当時ロシア宮廷は
ヨーロッパ問題に心を奪われており成功しなかった。
 1762年テイムラズ2世が死亡し、ヘラクリウスがカルトリの王を継承し、3世紀ぶりに東ジョージアが政治的に統一される。
 エレクレ2世はオスマンとペルシャに対し防護のためロシアの方を向いた。
 1783年、エレクレはロシアとゲオルギエフスク条約を結んだ。
 1795年、新しいペルシャのシャー、アグハ・モハムメド・ハーンは条約に怒り、ジョージアへ侵攻し、首都トビリシを占領、
焼き払い、ジョージアへのペルシャ支配を再確立した。
 エレクレの死後、カルトリ・カヘティの王座継承を巡って内戦が勃発、対抗候補の一人がロシアの介入を求めた。
 1801年1月、ロシア皇帝パウル1世がジョージアのロシア編入法令に署名、9月アレクサンデル1世が承認。
 1800年、ゲオルゲ12世が死亡したが、ダヴィドは王位継承を認められなかった。
 1810年、イメレティ王国がロシア帝国に併合された。
 1803−1878年にロシアのトルコとペルシャに対する幾多の戦争の結果、いくつかの以前のジョージア地域がロシアに
併合された。
 これらの地域(バトゥミ、アルトヴィン、アハルツィヘ、ポティとアブハジア)は現在のジョージア国家の大部分の領域である。


<参考> グルジアの歴史

古代王国
コルヒダとイベリア
 歴史家はグルジアの歴史で最初に言及された国はコルヒダ王国であると考える。
 コルヒダ王国は黒海の東岸に位置する。これはBC1千年のギリシャ著者ピンダロスとアイスキュロスによって最初に言及され、
ギリシャ神話の金羊毛にも登場する。
 グルジア歴史家はまたヘロドトスの近東の4民族を重要と考える。これはペルシャ人、メディア人、サスペルス人とコルフ人で、
コルフ人はペルシャ人同様にその国を持ったと考える。公式ジョージア歴史学では、BC1千年のコルヒダの住民は非常に発展し、
政治体はギリシャ人によって築かれたのではなく、地域住民によってであり、ギリシャの影響は主に交易に限られていたと考える。
 しかし考古学の熱心な調査によっても国家の存在のいかなる証拠も発見されていない。
 ヘロドトスの言葉は国家の存在ではなく、種々のコルフ民族のアケメネス朝への従属であると解釈される。
 エンサイクロペディア・イラニカはアケメネス朝の治世下(BC546−331)の南コーカサスのグルジアの住民は
プロト・グルジア民族であると考える。
 グルジア歴史学によるとコルヒダ王国の主な住民はメグレル・チャン民族で、ギリシャ人はBC1000−500年の間に、沿岸に
多くの交易拠点と植民地を築いた:ファシス(現在ポティ)、ピチュヴナリ(クブレティ)、ギエノス(オカムキレ)、ディオスクリア
(スフム)、ピティウントとその他。
 BC5世紀末にコルフは近隣民族への影響を失い、以降、コルヒダ王国はリオニ川峡谷に限られた。

 BC4世紀に現代グルジアの東部では内紛が終わり国が形成され、これはグルジア歴史学ではカルトリ王国と、古代には
カフカス・イベリア(タキトゥス)と呼ばれた。
 伝説ではイベリアはムツヘタを首都とし、これはBC300年頃、ファルナマズ朝の祖、ファルナマズ1世によって築かれた。
 コルヒダとイベリアはアレクサンダーの帝国あるいはその崩壊で形成されたいかなるヘレニズム王国にも併合されなかった。
 同時に、ギリシャ文化はグルジアに顕著な影響を持ち、コルヒダの都市ではギリシャ語が話された。一方、イベリアにはギリシャ語は
広まらず、アラム語が非常に広がった。
 BC2世紀初めと2世紀末の間に、コルヒダとイベリアは1度に3か国(ローマ帝国、大アルメニア、ポントス王国)の影響範囲と
なった。
 ポントス王ミトリダテス6世は全コルヒダを占領し、その国に併合した。ポントス王国は当時、全北部および東部黒海地域と
小アジアを含んでいた。

ローマの征服
 BC65年、その時、ポントスとアルメニアと戦っていた、ポンペイウス指揮下のローマ軍がイベリアに侵攻したが、すぐ去った。
 BC36年、ローマはファルナマズ2世をカフカス・イベリア遠征に参加させた。
 BC65年までに、ローマとパルティアの戦争の結果、アルメニアがその領土の多くを失い、ポントス王国はローマに併合された。
 特に、コルヒダはローマの属州となり、レガトゥス(総督代理)が支配した。
 やがて、イベリアは中東支配のためのローマとペルシャの抗争の中心となった。
 2世紀にファルスマン2世が完全独立を達成した。
 3世紀にラズィカは非常に広範な自治を獲得し、3世紀末にラズィカ王国(エグリシ)が形成された。これは250年間存在し、
562年にビザンティンに併合された。

キリスト教の採用
 キリスト教の採用前には、ミトラ教とゾロアスター教がグルジアに広まっていた。
 ミリアン3世のもとで、キリスト教がカルトリの国家宗教となった。正確にはわからないがしばしば326年と言われる。
 4世紀から5世紀のほとんどはイベリアはペルシャに従属し、王国は存在せず、シャーが総督を指名した。
 5世紀後半の国の集権化への抗争とグルジア人のイラン侵略者への闘争が一致する。この時期、ヴァフタング1世・ゴルガサルが
王であった。5世紀末にヴァフタング1世が反乱を起こし、ペルシャ勢力を倒し、その後、彼は数度ペルシャとビザンティンへ遠征した。
 しかしヴァフタンの息子ダチの514年の死後、イベリアは再びペルシャの一部となったが、今度は総督(エリスタヴ)を選べた。
 6世紀始めに、トビリシがカルトリの首都となった。

アラブのジョージア侵攻
 ビザンティン皇帝ヘラクリウス1世の末年にアラブへの戦いで一連の敗北を帰し、シリアとパレスティナを失なった。
 640年代初めに、イランが崩壊し、それでアラブの南コーカサスへの道が開けた。
 640年に、アラブはアルメニアに侵攻し、首都ドヴィンを占領した。
 カルトリにアラブは642−643年に出現したが、カルトリはそれらを破り、国境から追い出した。
 しかし、徐々にアラブは強化された。
 アラブ史家タバリによると、ハビブ・イブン・マスラマ指揮下のアラブはカルトリ遠征を再開し、住民に安全について
フィルマン(勅書)を与えた。この遠征は644−645年に遡る。
 654年初めまでに、全アルメニアを占領し、同年、アラブはビザンティンの南コーカサス国境の主要拠点フェオドシオポル
(エルズルム)を奪い、カルトリに向かった。657−659年にアラブは短期間、カルトリとエグリシを占領した。
 しかし、カリフ国で内紛が勃発。この時期、アラブはカルトリまたはエグリシに関心がなく、ビザンティンが取り戻した。
 新しいカリフはコーカサス支配のために厳しい手段に訴えたが、その後でも、コーカサスの政治状況は変わりやすかった。
 696−697年にビザンティンに従属していたエグリシ支配者はアラブを招いてビザンティンを追い払った。
 グルジアの主要駐留地はトビリシ、ノカラケヴィ、ムツヘタとディオスクリアであった。
 711年、ビザンティン王位継承者レオン3世・イサウロスはなんとかアブハジアだけ解放した。
 またローマ人は一時ファシスを占領し、ツィヘ・ゴジに達した。しかし、アラブは反撃し、ファシスを取り戻した。
 レオン3世・イサウロスはアラブとの戦いを続け、シデロン要塞を破壊、これはラズィカの首都(ツィヘ・ゴジ)に次ぐ重要な
拠点であった。
 ビザンティンの陣営はラズィカ沿岸にあり、アラブ駐留地は居住地にあった。
 アラブのコーカサスの主要拠点は8世紀末までラズィカ(アラブは北コーカサスとハザール・カガン国への踏み台としてこの地域を
維持しようとした。)、アルメニア東部、カルトリとコーカサス・アルバニアにあった。しかしその全地域はビザンティンが狙っていた。
 ビザンティンは長らく、西アルメニアとエグリシを侵食しようとし、アランとハザールと一緒に行動し、これらは目をカルトリと
デルベントに向けた。アルメニアとカルトリのカリフ国への大反乱にビザンティンとハザールによる攻撃が伴い、間もなく、
ほとんどの地域はギリシャ人またはアラブ人に従属するようになった。
 アラブに服従するすべての地域(ラズィカとアブハジアを含む)はハラジュ(土地税)とジズヤ(人頭税)を払った。
 支払いを避け、キリスト教を維持するためにグルジア人とアルメニア人は村から高地に去った。
 735−737年に、マルワンがグルジアに侵攻、彼はエグリシを経由してハザリアに行きそこを破壊するつもりであった。
 途中、服従しないジョージア、アブハジアとアルメニアを破壊したが、彼の計画はカルトリ王ミルとアルチルによって妨げられた。
 彼らはアナコピア要塞に避難した。ここでアラブは敗れ、メグレリアにもどり、そこで彼らは首都ノカラケヴィを焼き払った。
 アブハジアでのビザンティンの反撃の成功にも関わらず、アナコピアの南地域は、依然アラブ支配下にあった。
 これらの土地のアラブからの解放は9世紀中期まで続いた。

中世
グルジア統一
 グルジア人の運命は各王国と侯国の一つの強力な国への統一に完全にかかっていた。
 これを妨げる主要な要素は外敵(アラブ、ビザンティン、後にセルジューク)で、統一の戦いは数世紀続いた。

 最初の解放の兆候は東のカヘティとヘレティとビザンティン下の西のアブハジアから来た。
 当時ビザンティンにとって重要であったエグリシ解放は実質的に不可能で、ノカラケヴィ攻防は失敗した。
 カリフ国が強く支配するファシスからのアルメニア侵攻は失敗であった。アナコピアでのマルワンの敗北で、アブハズ人は
その土地に戻り、ビザンティン帝国の許可で独立を達成。8世紀末にカヘティとヘレティはカリフ国から離れた。
 9世紀中期に黒海東岸でのアラブ国の弱体化を利用して、アブハジアはアラブをエグリシ(イングリとファシス川の間の地域)
から追い払い、トビリシに遠征できたが、アラブはこの地域では、依然強かった。同世紀末にアルメニアは解放された。
 9世紀のカリフ国の弱体化で、バグラティド朝のアショト1世の新しい王国が南西グルジアから出現、この地域からアラブを
追い払った。この国はタオとクラルジェティの侯国と南西グルジアの小さな封建領を含んだ。公式的には、タオ・クラルジェティは
ビザンティンに従属(クロパラト国イベリアの名で)したが、事実上完全に独立し、首都はアルタヌジ(現在トルコ)であった。
 10世紀に始めて資料にグルジア−カルトリの概念が出現。
 9世紀から10世紀初めに、アラブは最終的に南カフカスから追い払われ、後にビザンティンがこの地域から去らざるを得なかった。
 タオ・クラルジェティに加え、他の封建国家が勃興:アブハジア王国、カルトリ、カヘティ、ヘレティ。
 これらの間の抗争はタオ・クラルジェティのダヴィド3世が10世紀末にカルトリを征服して終わり、バグラティド朝のバグラト3世が
アブハジア王となり、1001年、ダヴィドの死後、タオ・クラルジェティの王位を継承。
 1008−1010年に、バグラトはカヘティとエレティを占領し、統一グルジアの初代王となった。

11世紀のグルジアとビザンティンの関係
 グルジアの統一はビザンティン皇帝の計画に向けられた。当時、ビザンティンは非常に強化され、その宿敵のアラブ・カリフ国は
内紛で弱体化していた。ビザンティンはこの状況を利用し、中東諸国同様にカフカスへの以前の影響を回復させようとしていた。
 南カフカスではグルジアとアルメニアで大政治的統一がなされていて、ビザンティンはグルジアとアルメニアの強化に強く敵対し、
その統一に対し戦った。大アズナル達を篭絡し、王位へのすべての簒奪者を支援し、グルジア人の土地を奪い、ビザンティンは統一
グルジア国を従わせようとした。またグルジア王への種々の名誉と慈悲を惜しまなかった。11世紀のグルジア王国とビザンティン
皇帝の政策の関係はそのようなものであった。1001年のダヴィドの死後、ほとんどのその領土はビザンティンが奪った。
 クロパラトの遺産でグルジアとビザンティンの戦いが長く続いた。
 11世紀の全後半はセルジューク・トルコの侵攻で刻印された。
 1071年、セルジューク・トルコはマンジケルトの戦いでビザンティン、アルメニアとジョージアの混成軍を破り、
1081年までに、ほとんどのグルジアはセルジュークに占領された。

ダヴィド4世建設王とグルジアの強化
 11−12世紀は封建グルジアの最大の政治的力の時期で経済と文化の頂点にあった。
 ダヴィド4世建設王は父のゲオルゲ2世の退位で、1089年に16才で王位を継承した。
 王位に就いてすぐにダヴィドはセルジューク攻撃を反撃できる正規軍を形成した。
 1096−1099年の第一次十字軍はセルジューク勢力に向けられ、1099年末に、ダヴィドは貢納を止め、ついでトビリシと
エレティ以外のほとんどすべてのグルジアの土地を回復できた。
 1103年、グルジア正教会を認め総主教を指名した。ついで1103−11105年に、ヘレティを征服し、1110−118年の
間に全下カルトリと南コーカサスのアルメニア(ソムヘト)の一部を征服した。その結果、トビリシはセルジューク支配下の
孤立飛び地となり、全面をグルジアによって取り囲まれた。
 1118−1119年に彼はトルコ人が去った土地に4万のポロヴィッツを住ませた。
 ダヴィドはまたヨーロッパ人(ドイツ、イタリア、スカンジナヴィアですべてフランクと呼ばれた)とロシア商人の移住を歓迎した。
 1121年に、ダヴィドは強力なセルジューク軍をディドゴリの戦いで破り、その後、トビリシを奪い、グルジアの首都にした。
 1125年に、ダヴィドはグルジアを地域の強国の一つにして死亡。
 その後継者(デメテル1世、ダヴィド5世とゲオルゲ3世)はグルジア強化・拡大政策を継続した。

女王タマルと黄金時代
 1194−1204年にタマルの軍は南と南東のセルジュークの数度の攻撃を跳ね返し、東アルメニアに侵攻し、占領した。
 更に、カリン、エルジンジャンとヴァンを含む、ほとんどの中央と南アルメニアがグルジア保護下となったが公式的には
ジョージア王国に併合されず、地域エミール(シャー・アルメン)が支配。
 1204年の十字軍によるコンスタンティノプル占領で、グルジアは一時、全東黒海沿岸での最強キリスト教国となった。
 同年、タマルは以前のビザンティンのラゾンとパリアドリア地域に遠征を行い占領し、そこから1205年、トレビゾンド帝国が
形成され、トビリシで育った女王タマルの甥アレクセイ1世が皇帝となった。
 1210年、グルジア軍は北ペルシャに侵攻し、メレンド、アルダビル、タブリズ、ザンジャンとカズヴィンの都市を占領した。
 グルジアは全歴史上、最大の版図となった。
 女王タマルの公式称号はアブハジア、カルトヴェリ、ラン、カフとアルメニア、シルヴァンシャーとシャーインシャー、東と西の主君。

 12世紀にキエフ・ルスと文化、経済と政治関係が確立された。
 1185年にタマルとウラディミール・スーズダルの公子アンドレイ・ボゴリュフスキーの息子ユーリが結婚。

モンゴル征服
 1220年代にジンギスカンの軍隊が小アジアと南コーカサスを通過し、グルジアとアルメニア勢力の抵抗を粉砕した。
 ほとんどのグルジアと全アルメニアと中央アナトリアはジンギスカン帝国の支配に入った。
 1227年、ホラズムのジャラル・アディンがグルジアを攻撃。始めはグルジア軍は勇敢に敵の攻撃を跳ね返したが、
トビリシに住むペルシャ人が夜に都市の門を開き、敵軍を引き入れた。キリスト教を放棄したものは生存を許可され、
その他は切られ、10万グルジア人が犠牲になった。
 1243年、女王ルスダンはモンゴルと和平し、貢納を約束、実質的にグルジア地域の約半分を支配。
 トビリシはモンゴルが占領したが首都のままで、しかし、女王はそこへ戻ることを拒否し、1245年の死までクタイシで支配した。
 以降、他は衰退し始めた。グルジアの南部のサムツヘはモンゴルと別に和平し、1266年までにグルジアから分かれた。

 1259−1330年の間、グルジアは絶えずイルハンと独立のための戦いをした。
 モンゴルとの戦いはデメトレ2世(1270−1289)とダヴィド8世(1293−1311)のもとでも続いた。
 ゲオルゲ5世(1314−1346)はイルハンの弱体化を利用して貢納を止め、1220年までに国境までグルジアを回復。
 彼は宮廷権力を強化し、モンゴルで破壊された国を復活させた。

ティムールの侵攻
 1386−1403年、グルジアはティムールの8回の侵攻に生き残ったが、これで国の経済は枯渇し、崩壊近くに至った。
 バグラト5世とゲオルゲ7世は国を防衛できた。

ペルシャ、オスマンとロシア帝国とグルジア
オスマン帝国とペルシャとの戦い
 15世紀にグルジア王国は孤立キリスト教国となり、全方位ムスリムによって囲まれた。
 ほとんどのその隣人は1453年のオスマンによるコンスタンティノプル占領後、存在しなくなり、オスマンの影響は全黒海地域に
広がった。グルジアのキリスト教世界との接触は主にクリミアのジェノヴァ植民地を通じて行われた。
 その結果、グルジアは経済的、政治的に衰退に陥り、1460年代にカルトリ王国、カヘティ王国、イメレティとサムツヘ・
ジャヴァヘティに分裂。
 次の数世紀は、グルジアはオスマン帝国とサファヴィー朝の影響範囲に入った。
 1555年、トルコとイランはコーカサスでの彼らの影響範囲を決めた。これで、イメレティはトルコへ、カルトリとカヘティはイランに
渡った。
 17世紀までに、グルジアは引き続く内外の戦争と、北コーカサス民族の膨張で貧困に至り、都市住民は減少した。
 トルコまたはイランへの公式的従属でしばしばイスラムへの転向が必要となった。北のキリスト教国ロシアの出現はこの状況を
打破する機会と思われた。

18世紀のグルジア
 モンゴルの軛で中断させられたグルジアとロシアの結びつきは更新され、規則的性格を取った。
 グリジア支配者はロシアに軍事支援を求め、しばしばトルコとイランへ一緒に行動した。
 17世紀末に、グルジア人居住地がモスクワに出現、ロシアとグルジアの接近に重要な役割を果たした。
 18世紀初めにカルトリの支配者ヴァフタング6世は新しい法を導入し、国の経済改善を試みた。
 1709年、印刷が始まった。ヴァフタングの支配はオスマン侵攻で中断させられ、ヴァフタングはロシアに逃げざるを得なかった。
 エレクレ2世(ヘラクリウス2世、1762−1798)のもとで、統一カルトリ・カヘティ国は強化され、南カフカスでのその影響は
大きくなった。
 トルコは国から追い払われた。グルジア文化が蘇り、活版印刷が出現。
 啓蒙が社会思想の主要領域の一つとなった。
 エレクレ2世はイランとトルコからの保護をロシアに頼った。
 エカチェリーナ2世はトルコと戦い、一方で、提携に関心を持ちながら、しかし、グルジアに大軍を送ることは望まなかった。
 1769−1772年に将軍トトレベン指揮下のロシア部隊がグルジア側でトルコと戦った。
 1780年の人口調査では、グルジアでのグルジア人の人口は67.5万に達した。
 1783年、ロシアとグルジアはゲオルギエフスク条約でカルトリ・カヘティ王国のロシア保護を確立。
 これによるとロシアの軍事防衛と交換に独立外交政策は追求しないことになった。
 1785年、アヴァールがグルジアに侵攻、以降、エレクレ2世はアヴァール・ハン国に貢納を誓った。
 エレクレ2世は、近隣のひとつ、トルコの従臣と独立して接触していて、そのため、1787年、露土戦争(1787−1791)が
始まると、ロシア軍はグルジアを去った。
 1795年、イランのシャー、アーガー・モハンメド・ハン・ガージャールはグルジアに侵攻し、クルザニスの戦い後、トビリシを
襲撃した。

ロシア帝国の一部としてのグルジア
 エレクレ2世は1798年に死亡し、ゲオルゲ12世が王位に就いた。彼はロシア皇帝パーヴェル1世にグルジアのロシア編入を
求めた。彼はグルジアがペルシャに占領され、グルジア公子達が内紛を起こすことを恐れた。
 ゲオルゲの兄弟、アレクサンドレはロシア軍の東グルジアでの存在がやがてカルトリ・カヘティ王国のロシアへの完全併合に
なるのではと疑った。アレクサンドレはイランのシャーのファトフ・アリ・シャー・ガージャールを当てにして、トビリシから
アヴァール支配者のオマル・ハンの所に逃げた。
 新しいイランのシャー、ファトフ・アリ・シャー・ガージャール(1797−1834)はアレクサンドレをグルジアのワリに認め、
王位抗争で、彼を支援することを約束した。彼は兵を集め、グルジア人の自分の正当性を訴えた。
 1800年、パーヴェル1世はゲオルゲ12世の王国のロシア編入の要請受け入れを認め、1801年、宣言に署名。
 1800年、ゲオルゲ12世が死亡し、ダヴィド12世が継承し、国の状況は悪化。
 女王ダレジャン(エラクレ2世未亡人)とその息子たちはダヴィド12世とグルジアのロシア併合を認めることを拒否。
 1801年、ロシア将校はダヴィド12世を排除し、将軍ラザレフは臨時政権を樹立。
 1800年、アレクサンドレとオマル・ハンはアヴァール軍とカヘティに侵攻したが、ロシア・グルジア混成軍にイオリ川の
戦いで敗北。
 オマル・ハンは負傷し、ダゲスタン山岳に逃げ、アレクサンドレと支持者はカラバフのハリル・ハンのもとについで
ダゲスタンに撤退した。この敗北を聞いてペルシャのファフト・アリ・シャーは計画を中止した。
 ロシア当局はアレクサンドレを裏切者と宣言し、アレクサンドレはグルジアの色々な地域で反ロシア反乱を組織したが、
彼は貴族と住民の多数の支持を得ず、ダゲスタン傭兵部隊を指揮した。
 1802年、新しい政権がトビリシで開かれ、軍司令官が率いた。政権の主要な長にはロシア軍人が指名された。
 1805年、イラン公子アッバ−ス・ミルザがトビリシに進んだがロシア部隊に敗北した。
 1810年、イメレティの支配者ソロモン1世の抵抗は粉砕され、イメレティはロシアに編入された。
 1803−1878年の間に、露土戦争の結果、残りのグルジア地域もまたロシアに編入された。



<参考> ジョージア年代記レオンティ・ムロヴェリ

 ジョージア年代記はもともとはカルトリス・ツホヴレバ(カルトリの生涯)という中世ジョージア歴史文献集。
 9−14世紀の別々の一連の文献からなる。
 現存の最も古い写本は1479−1495年のアナセウリ本とされる。
 10巻が現存し、1巻はレオンティ・ムロヴェリのカルトリの王たちと族長たちの生涯。9世紀または11世紀のもので、
BC4−AD5世紀を扱っている。
 ムロヴェリはアルメニア人史家モヴセス・ホレナツィなどを資料に使用している。
 11世紀までに最初の3巻、上記とヴァフタング1世とアルチルを扱ったものができ、12世紀中期にカルトリ年代記
(バグタト3世からゲオルゲ2世)とダヴィド4世を扱ったものができた。
 6巻はバグラティオニ朝、7巻はゲオルギ4世、8,9巻はタマル、10巻は14世紀の年代記。

 レオンティのカルトリの起源では:
  アルメニア人、カルトリ人、ラン人、モヴァカン人、エロ人、レク人、ミングレル人とカフカシアン人はすべてタルガモスを
 父とする。
  タルガモスはタルシスの息子、ノアの息子ヤペテの孫。
  タルガモスの息子はガオス(ハイク)、カルトロス、バルドス、モヴァカン、レコス、エロス、カフカソス、エグロス・・・

 なおカルトリの転向はジョージア年代記とは独立の最も初期の残存する中世ジョージア歴史文献集。
 10世紀に書かれ、年代記は最古の時代から7世紀のカルトリの歴史で、特に4世紀初期の聖ニノによるジョージアのキリスト教化に
焦点がある。
 2つの主要な要素からなり、最初の1は年代記として知られ、アレクサンダー大王の神話的遠征から7世紀までのカルトリの短い歴史。
 基本文献はカルトリの王、統治公子と高位聖職者の名簿が伴っている。



<参考> ジョージアの名

 ジョージアは現地名サカルトヴェロSakartveloで、ロシア名グルジヤGruziya。
 両方とも、古典とビザンティン資料ではイベリアIberiaとして知られる中央ジョージアのカルトリKartliに由来する。
 西洋とロシア名はジョージア人のペルシャの呼び方のグルガンgurganに由来すると思われ、これは中世ペルシャ語の
ウルガンwurganと古ペルシャ語のヴァルカンvarkanから発展し、これの意味はオオカミの土地。
 これはまた古アルメニア語ヴィルクvirkに影響し、古ギリシャ語のイベリアiberiaの源になった。(ラテン語Hiberia)
 ジョージアのアルメニア名はヴラスタンVrastan、ヴィルクVirk。
 ジョージア語ではsa-X-oは、”Xが住む地域”を意味し、語幹カルトヴェリkartvel-iはもともと中央ジョージアのカルトリの
住民を指した。
 初期のサカルトヴェロへの言及は800年頃のジュアンシェル・ジュアンシェリアニによるジョージア年代記である。

 ヨーロッパのゲオルギアはペルシャ語のグルグgurugから発生し、十字軍と聖地巡礼者がゲオルギアGeorgiaという名を
与えたとされる。
 これが誤ってその起源が聖ゲオルギオスの名声によってジョージア人に説明された。
 別の説ではゲオルギアをギリシャ語のゲオルゴス(土地の耕作者)と結びつける。
 この説では小プトレマイオスやポンポニウス・メラの言及するゲオルギに言及されるが、これは単なる農耕種族でタウリカの
パンティカペア川対岸の非定住で遊牧隣人と区別するための名称である。

 ロシア名グルジヤもまたペルシャ語起源でペルシャ語のゴルジェスタンGorjestan(トルコ語グルジスタンGurjistan)に由来する。
 1389年に旅行者がグルジgurziと言及。
 アファナシ・ニキティンがジョージアをグルジンgurzynスカヤ・ゼムリヤ(グルジン人の土地)と呼んだ。(1466−1472)
 GurzがGruzとなりGruz-iyaが生じた。(ロシア文字はローマ字化)



 (2) ムツヘタとクタイシ

ムツヘタ

 トビリシの北約20kmにある。ムトクヴァリ(クラ)とアラグヴィ川合流点にある。
 今は小さな州都。約1千年の間、5世紀まで、ムツヘタは大要塞都市で、イベリア王国の重要な経済と政治の中心であった。

 考古学からムツヘタ地域の人類居住はBC2千から1千年初期に跡付けられる。
 青銅時代の多くの埋葬物(BC1千年初め)でこの時期、ムツヘタにはすでにかなりの居住があったことが証明される。
 ジョージア年代記によると、ムツヘタはジョージアの名祖カルトロスの息子のムツヘトスによって築かれた。
 都市周辺の壁は、ニムロドの祖先アルダムによって築かれた。
 より歴史家によって受け入れられている別の説では、ムツヘタは古代のメスヘティ人(ムシュキあるいはモスホイと
結びつけられる)によってBC5世紀に築かれた。

 BC3世紀からAD5世紀まで、初期ジョージア人王国の首都。
 年代記では、イベリア王国とその首都は、BC4世紀に、アレクサンダー大王によって征服されたというが、一般的歴史家は
これを認めない。結局、アレクサンダーの指名した支配者はムツヘタの壁を崩壊させ、4つの要塞だけが残り、その一つがアルマジ。
 BC4−3世紀の古資料によるとムツヘタには多くの近隣がいて、それらはアルマジス・ツィヘ、ツィツァムリ、ジュヴァリその他があった。

 発掘とジョージア年代記両方によると、ヘレニズム期住居、宮殿と要塞など、かなりの建築があった。
ムツヘタ周辺の新しい壁が初代ジョージア王パルナヴァズによってBC3世紀初めに築かれ、後に、その息子サウルマグによって、
BC3世紀末から2世紀初めに強化された。
 BC2世紀末から1世紀初めに、パルナジョム王がペルシャとの関係を強化、ゾロアスター教祭司を招き、ムツヘタに住ませた。
 これでゾロアスター寺院が建設されたようだが、そのような考古学的証拠は存在しない。
 壁は、BC1世紀のバルトム(パルナヴァズ2世か)後にはアデルキ(しばしばパラスマネス1世とされる)によって改良された。
 後者はカルトリでのキリスト教徒共同体出現とユダヤ人によるイェルサレムからのもたらされた聖衣の到来と結びつけられる。

 この時期、都市は強固に要塞化され、壁はムトクヴァリ川両岸にあり、3要塞がこれを守っていた。
 主要砦のバギネティ山のアルマジは南と東からの、ジュヴァリ山麓のツィツァムリは北から、サルキネは西からの入り口を護った。

 ムツヘタは初期のキリスト教徒の活動の場所で、これでイベリアのキリスト教化が生じ、337年、キリスト教の国教化が宣言された。
 ここには依然としてジョージア正教会の本拠がある。
 その頃、ムツヘタは文化的に発展した都市であった。

 ヴァフタング1世を継承したダチ王(6世紀初期)が、より防衛しやすいトビリシに首都を移動したが、ムツヘタはジョージアの
19世紀の王国終焉まで、ほとんどの王の戴冠と埋葬の場所となった。



クタイシ

 トビリシの西221km、リオニ川にある。中世にはジョージア王国の、その後イメレティ王国の首都。
 古代コルキス王国の首都。
 ギリシャ神話のアルゴー船の最終目的地でアイエーテース王の居住地と考えられた。

 クタイシはBC4世紀にはコルキス王国の首都であった。のちに短期間アラブに占領されるまでラズィカ王国の首都となった。
 736年、アラブの西ジョージア侵入はアブハジア、ラズィクとイベリアによって跳ね返された。
 後にアラブの短期間占領までラズィカ王国の首都で、786年頃、レオン2世がビザンチンから完全独立し、首都をクタイシに移動し、
ラズィカとアブハジアを王朝連合により統一。
 これで11世紀にジョージア君主制が統一される。
 1008−1122年、クタイシは統一ジョージア王国の首都で、15世紀から1810年まではイメレティ王国の首都。
 1122年、セルジュークに勝利したダヴィド4世は、宮廷をクタイシからトビリシに移した。
 トビリシが首都となった、統一ジョージア王国は黄金時代を築くこととなる。
 しかし黄金地時代は長続きせず、1236年ジョージアはモンゴル支配下に落ちる。
 これでジョージア王国は分裂し始める。
 1320年代、モンゴルはジョージアから追い出された。
 1508年、クタイシはオスマン帝国のセリム1世により征服された。
 17世紀にイメレティ王はオスマンからの独立のためロシアに支援を求めたが、無視され、1768年にやっと支援があり、
1770年、ソロモン1世がクタイシを首都に回復。
 1810年、イメレティ王国はロシアに併合、統治府が置かれた。


  現在のジョージアの行政区域


 ジョージアの地理



戻る 目次 次へ




inserted by FC2 system