フランク・ファン・デル・フース小伝

  オランダのマルクス主義理論家、SDAPと独立社会党の共同創立者。
  1859年2月13日、アムステルダムで誕生、1939年6月5日、北ホラント州ラーレンで死亡。
  父は歩兵隊長でのち保険仲立人のウィレム・ファン・デル・フース、母はヨハンナ・クノープ・コープマンス。
  1893年3月2日、マリー・クーンスと結婚、4人の娘を儲ける。

  ファン・デル・フースは非貴族の軍人伝統の古い家柄の出身。
  母方の祖父、アムステルダムの高校教授のウォプコ・クノープ・コープマンス(1800−1849)を誇りとしていた。
  自宅学習の後に、高校HBSで教師のウィレム・ドーレンボス(1820−1906)と仲間のヤッケス・ペルク(1859−1881)の影響を受けた。
  彼らを通して文学と劇場に関心を持ち始め、ヨハネス・デ・コーの左翼リベラル雑誌”アムステルダム”De Amsterdammerの若い劇場批評家
 となる。
  この当時、コンラト・ブスケン・ヘト(1826−1886)に批評を学び、ムルタトゥリ(ダウエス・デッケル、1820−1887)を知り、評価し、一方、
 H.Th.バックルとハーバート・スペンサーの歴史哲学により社会学的関心を高めた。
  ファン・デル・フースは1881年、ムルタトゥリ委員会の秘書となり、後にムルタトゥリ記念行事に参加、支援した。
  1881年、ファン・デル・フースは文学サークルのブレーロ・クラブとフラノルFlanor を他の人々と創設した。
  これらのメンバーは新案内De Nieuwe Gids(1837年の案内に対抗)を創刊、支援した。1885年、新案内第1号出現。
  (ファン・デル・フースの他に、フレデリク・ファン・エーデンウィレム・クロースウィレム・パープアルベルト・フェルウェイが編集)
  新案内にファン・デル・フースは偽名Ph. Hack van Outheusdenで政治について書いた。
  彼は政治的編集者として行動し、これが他の急進派の寄稿を促した。
  1889年から彼は内心社会主義者と感じ、翌年公然と現した。
  1890年以降、彼は新案内に社会主義者としての精神で書いた。
  彼は間もなく社会民主同盟SDBアムステルダム支部議長のアドリアーン・ロットと衝突。
  ファン・デル・フースによると私有財産は残るが(ロットは否定)、将来、天然資源と生産手段は共有財産となる。
  1893年、ファン・デル・フースの政治的立場が純粋な審美主義の新案内の他と衝突し、彼は他とのすべての協力から撤退し、雑誌は
 ウィレム・クロース(1859−1938)の文学雑誌となった。
  1982年、”社会の有機的発展”を発表。これには進化論の影響があった。
  社会主義は商品生産の発展によって可能となる。社会主義は生産力の意識的征服で、これにより人間の物質的必要性から解放される。
  (社会主義と芸術Socialisme en Kunst、1896年)

  ファン・デル・フースは身長1.8mで、良く着飾った紳士で経済的にも恵まれていた。
  1878年からテル・メーレン保険会社で教育を受け、1881年の父の死で、アメリカの保険会社エクイタブルの代表と、アムステルダム−ロッテルダム
 蒸気船会社の監督となった。
  政治的にはこの時期、彼は急進派ないし左翼リベラルで、1887年から全国選挙権連合と自由思考連合”デ・ダヘラート(夜明け)のメンバーで
 あった。
  彼は政治生活世代連合”デ・ウニー”のメンバーにもなった。
  これらの組織の左翼支持者とともに1888年、選挙連合アムステルダムを来る下院議員選挙の候補の指名のため創設した。
  しかし社会主義者アドリアーン・ヘルハルトが候補として拒否され、彼はこれから離れた。
  1889年、ファン・デル・フースはデ・ウニーの代表となった。
  この間、冊子”マヘストエイトシュネス(陛下の不名誉)”(1886年、アムステルダム)にドメラ・ニーウェンホイスへの訴訟のやり方を批判して書いて、
 広く知られるようになった。彼の立場はアルヘメーン・ハンデルスブラート(全国貿易紙)から厳しく批判された。
  1892年、彼は激しい社会主義の演説をした。
  この結果、劇場学校での朗読の講義と後に芸術学校(コンセルヴァトリウム)の講義をあきらめざるを得なかった。
  更に証券取引所の活動をやめた。これは良い収入をもたらしていた。
  1893年、彼より14才若い、19才のマリー・クーンスと結婚。

  ファン・デル・フースは政治的発言でオランダ−ドイツ系繊維商人のイグナス・バールマンの注意を引いた。
  彼はドイツ社会民主党SPDの上層部と結びつきがあった。
  オランダでは彼はドメラ・ニーウェンホイスのすべてへの権利Recht voor Allenの発行を支援していた。
  パリでの1889年の国際社会主義者会議の後、SDB指導者はむしろ、ドイツ社会民主党指導者に批判的になった。
  バールマンは対抗者を探し、ファン・デル・フースにこれを期待した。
  バールマンの資金援助でファン・デル・フースはディー・ノイエ・ツァイト(新時代)とベルリン人民紙(後に前進Vorwarts)への投稿と、
 1890年のSPDのハレ大会(反社会主義法廃止後初めてのドイツでの大会)参加を助けた。
  大会にファン・デル・フースは深い印象を受けた。規律と戦術に関して進んでいると感じた。
  1891年7月、SDBメンバーになり、小さな鉄道組合”いつも前進”の代表で1891年8月のブリュッセルの国際社会主義者会議に参加。
  (SDBは1881年に結成され、ドメラ・ニーウェンホイスが支配。)
  10月、エアフルトのSPD大会に参加、ここではエアフルト綱領が採択され、これはオランダにも重要な意味を持っていた。
  SDB内外でヘンリ・ティンダルウィレム・トレーブ(ドメラ・ニーウェンホイスの選挙の競争相手)と熱い議論に包まれた。
  一般党員からの不信の眼と、特にドメラ・ニーウェンホイス(1846−1919)と論争した。
  W.H.フリーヘン(1862−1947)はファン・デル・フースを背の高い若い紳士と称し、ファン・デル・フースは1893年の彼との最初の出会いで
 完全に貴族的態度で帽子をとった。
  ファン・デル・フースは”すべてへの権利”の編集者をあまりにも激しく説教しすぎると批判、”すべてへの権利”は反議会主義態度をまし、
 教育的というより、より扇動的になっていった。
  短期間ですべてを純化する革命に対するユートピア的期待がこの時期、非常に広まった。
  メンバーになってからほとんど1年で、ファン・デル・フースのアムステルダム支部からの排除は明白であった。
  ドメラ・ニーウェンホイスは彼をドイツの党のスパイで、彼らはニーウェンホイスも参加していたハレ大会で指導者としての地位をニーウェンホイス
 にとって代わるように説得したと見ていた。
  P.J.トルールストラ(1860−1930)とH.H.ファン・コルはドメラ・ニーウェンホイスによる疑惑の眼に悩まされた。
  ドメラ・ニーウェンホイスは彼らすべてを個人的敵とみなした。
  ファン・デル・フースは会合で議論してもSDBを去ることはせず、自分の意見をはっきりさせるために小冊子を発行した。
  ファン・デル・フースはクリスティアーン・コルネリッセン(1864−1942)に対し1891年、”階級的偏見”や”社会主義者が望まないもの”を書いた。
  ファン・デル・フースは科学的社会主義とコルネリッセンの労働者社会主義を区別した。
  ファン・デル・フースは科学と指導者の役割を強調した。科学には階級性はない。
  ファン・デル・フースの社会主義に対し”すべてへの権利”で返答がなされた。
  コルネリッセンは、党は科学の名によって活動を振り回すと批判。科学はファン・デル・フースにとって扇動をより高貴に、より浸透しやすくさせる。
  ファン・デル・フースは国中どこでも招かれたところで演説した。全国選挙権連合、SDBあるいは人民党の支部、社会主義者、急進派、一般有権者
 の集会、特にフリースラントあるいはその他。
  (フリースラント人民党は1886−1900年まで存在したSDB、全国選挙権連合、全オランダ労働者連合などの連合組織、SDBの反議会路線化で
 斜陽化し、多くはSDAPに参加。)
  ファン・デル・フースはピーテル・ウィーデイク(1867−1938)、トリーベルス兄弟のマウリッツ(デルフト、偽名:プロプリア・クレスのケメン)、
 ルドルフ(アムステルダム、偽名:プロプリア・クレスのJ.ファン・メーデン)らが率いる社会民主学生連合SSVの後援者及び名誉会員となった。
  (プロプリア・クレスは1890年創刊の学生紙)
  (SSVは1891−1893年、その他、社会主義学習共同体SLとして1898−1903年など、結成にはいずれもファン・デル・フースが関係。
  講師はほかにホルテル、ウィバウト、ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト更には論敵のウィレム・トレーブ、社会学者S.R.ステインメッツ、外国からは
 ヴィルヘルム・リープクネヒト、エリノア・マルクス、カウツキーなど。学生はW.A.ボンヘルルドルフ・コイペルなど。)
  ファン・デル・フースは1889年の2院選挙の人民党のハーグの候補であったが、59票しか獲得できなかった。
  1891年は人民党のより多くの選挙区、すなわち、フロニンゲン、ユトレヒト、ハーグ、アムステルダム、ロッテルダムの候補であった。
  彼は1891年5月24日のアムステルダムの選挙集会で演説、ここでは504票獲得。
  バールマンの資金援助と彼自身のSDBへの批判的態度によりかれは自分の計画を進めた。
  まず初めにヨアン・ニーウェンホイスの瀕死状態の急進週刊紙 Radicaal Weekblad(人民党機関紙)を手に入れようとし、ついで新党を結成しよう
 と考えた。
  しかしバールマンが断念した。
  また1891年10月4日、ズウォレでA.H.ヘルハルトダニエル・デ・クレルクとイギリスのフェビアン協会のような討論クラブを結成しようとし失敗。
  ファン・デル・フースはウィリアム・モリスの影響を受け、1897年”どこでもないところからの知らせ”を翻訳。これは当時話題になった。
  翻訳は新案内上でロデウェイク・ファン・デイセルと非常に論争になった。
  資本論の要約の紹介はすでに1881年に”資本と労働”としてドメラ・ニーウェンホイスによってなされていたが、マルクスの資本論の翻訳によって
 社会主義は明確に理解できると考えた。
  第1巻は義理の兄弟(妻が姉妹)のマウリッツ・トリーベルスの協力により1894年発行。
  クリスティアーン・コルネリッセンはこの翻訳を批判(社会案内、1894年)、エンゲルスに手紙を書いたが(恐らく病気のため)返事はなかった。
  ファン・デル・フースは1895年、ロンドンのエンゲルスの葬式に参加し、ドイツの党の幹部と会った。
  第2巻の学習はアントン・パンネクークと彼がヘト・ホーイに移るまで行われた。
  第1巻の初版は最初の8章しか含まれていなかった。第1巻の完訳は1910年出版。1933年の記念版は25章すべてを含む。

  1891年のSDB大会ではファン・デル・フースはあまりに長い演説をし、聞き手をイライラさせた。
  同じようなことが1893年にも生じた。このときはA.S.デ・レフィタが一緒で、レフィタは党の腐敗を批判した。
  ファン・デル・フースはレフィタとともに、主にダイヤモンド労働者のヘンリ・ポラック、アンドリース・ファン・ウェゼル、ヨス・ループイットらのような
 アムステルダムの議会主義グループに属していた。
  1892年SDBから追放される。指導部はアナルコ・サンディカリズムに向かっていた。彼は党の方向を変える努力をした。
  SDBは1893年大会でいかなるかたちでも議会参加を拒否。
  1894年、彼らは社会民主連合SDVを結成。議会主義派の間には矛盾があり、新党結成が遅れた。
  これは紳士と労働者の間、紳士のファン・デル・フースとトルールストラの間で生じた。
  最終的矛盾は雑誌”新時代De Nieuwe Tijd”の問題で生じた。
  この雑誌はデ・スネーケル・クラントの後継でファン・デル・フースが編集者と経営者になっていた。
  (De Sneeker Courantは1889年12月、ヘッセル・ポストマが創刊、最初は中立的であったがだんだん人民党に接近。1891年トルールストラ
 と接近、トルールストラが編集者に入り急進化。1892年ファン・デル・フースが経営者となる。)
  出版者のヘッセル・ポストマとトルールストラの衝突に際し、ファン・デル・フースはポストマ側に着いた。
  ポストマはトルールストラの入獄中に彼が資金流用したと批判。
  結局、すべての議会主義派、雑誌編集者のほとんどは一緒になり、ファン・デル・フースも含め12使徒は1894年8月、ズウォレでSDAPを結成。
 (12使徒はファン・デル・フース、トルールストラの他に、ヘンリ・ポラック、ウィレム・フリーヘンヤン・スハペルH.H.ファン・コルルイス・コーヘン
 ヘンドリク・スピークマンアドリアーン・ヘルハルトJ.A.フォルトインウィレム・ヘルスディンゲンH.J.ファン・デル・フェフト。)
  複雑な社会主義者間の関係で、ファン・デル・フースはオランダにおける社会主義の構築、人集め推進で他より重視された。
  ファン・デル・フースはそのためSDAPの精神的父親と称された。
  ファン・デル・フースは新党執行部には選ばれなかった。
  フリーヘンによるとファン・デル・フースは依然として紳士然としていたためであるという。
  H.H.ファン・コルとファン・デル・フースはエアフルト綱領(1891年)とチューリッヒの国際社会主義者会議決議(1893年)をもとに綱領を作成。
  これはカウツキーの1891年綱領のコピーであるが、国家の義務教育を拒否していた。(1895年)
  その後の年月、ファン・デル・フースは講演、研究、執筆、教育で過ごした。多くの教え子と友人になった。
  パンネクーク(1873−1960)、ヘルマン・ホルテル(1864−1927)、ピーテル・ウィーデイク(1867−1938)、F.M.ウィバウト(1859−1936)。
  1900年頃、P.L.タク(1848−1907)のデ・クロニークでの価値論論争に参加。
  論敵のウィーデイクによるとファン・デル・フースは第1巻だけの選択的学習のために、マルクス主義の知識が不足していた。
  ファン・デル・フースはかつては資金が豊富であったが、いまや家族の困窮ため友人の支援を必要とした。
  これによって規則的に雑誌に書いてきた。
  De Amsterdammer、新案内De Nieuwe Gids (1885−1893)、新時代De Nieuwe Tijd (1893−1894、1896−1916)、カウツキーのドイツ
 理論誌De Neue Zeit (1905年後)、社会主義者案内The Socialist Guide(1916−1927)、彼は人民Het Volk,、週刊紙Het Weekblad、年代記
 De Kroniek.を出版。   
  新時代De Nieuwe Tijd と 社会主義者案内De Socialistische Gids.では編集者。
  1899−1912年にはアムステルダム大学の経済学の私的講師としてマルクス主義政治経済学の基礎を教えた。

  20世紀初めの党内での農業問題と学校問題ではファン・デル・フースは党指導部の背後にいた。
  しかし1903年の鉄道ストライキとそこでのトルールストラの役割についてはファン・デル・フースから批判が起こった。
  彼は扇動により4カ月の有罪宣告を受け投獄された。上告で1カ月に減少。
  1904年のアムステルダムの国際社会主義者会議でホルテル、パンネクーク、ヘンリエッテ・ローラント・ホルストとともにファン・デル・フースは
 全国ストライキについて報告。
  1905年の議会選挙では彼はいくつかの選挙区で候補となったがどこでも当選できなかった。
  1903年と関連してトルールストラは厳しい批判を受け、人民Het Volkの編集員を断念せざるを得なくなった。
  彼は冊子に党指導部への苦情を並べ挙げ、これは1906年党大会の直前に出た。
  新時代グループはトルールストラの批判を受けて、トルールストラの告発への反論の仕事をファン・デル・フースにさせた。
  これはすぐにはなされず、しかのいつものようにファン・デル・フースの文章はながたらしかった。
  結局、彼の冊子は1907年のSDAPのハーレム大会では議論ができなかった。
  更に党内闘争は和解に至った。彼の冊子は一部にしか配布されず秘密にされた。
  和解は長続きしなかった。
  ダフィド・ウェインコープ(1876−1941)、ウィレム・ファン・ラフェスタイン(1876−1970)、ヤン・セトン(1875−1943)率いる、反対派機関紙
 デ・トリブーネ(ファン・デル・フースは編集者就任を断った)の第1号が1907年3月出現。
  臨時党大会の要求が強まった。
  ファン・デル・フースは47人のマルクス主義者と臨時党大会を開催しない要求に署名した。彼らは党員追放が行われると考えた。
  これは当たった。1909年デンフェル党大会でデ・トリブーネの3人組は追放された。彼らは雑誌発行断念を拒否した。
  ファン・デル・フースはウィバウト、ローラント・ホルストと党内にとどまった。
  人民Het Volkに追加される新しい”週刊紙”Het Weekbladが反対派や反対意見の受け皿になると考えた。表現の自由は救済された。
  ローラント・ホルストが1910年に編集から降りたとき、ファン・デル・フースが跡を継ぎウィバウトと1919年まで編集を行った。
  彼の妻は一時、新しい社会民主党の党員であった。
  ファン・デル・フースは党執行部に参加(1910−1924年)、人民の編集者に指名(1912−1925年)。
  更にヒルフェルスムの地域評議会員に選ばれた(1910−1914年)。
  労働者の状態は資本主義で改善されるという可能性にもとづいた新綱領案(1912年)に寄与。
  1913年予期しない選挙勝利。
  連立政権への入閣に際しファン・デル・フースはトルールストラとウィバウト共にフリーヘンヤン・スハペルと反対の立場。
  (結果は入閣しなかった。)
  入閣はすでに1904年に(国民非常時を除いて)国際社会主義者会議で非難されていた。
  第1次世界大戦の間、ファン・デル・フースは反ドイツ、親協商派(英・仏・露)で軍事準備支持のR.コイペル(1874−1934)に反対。
  1916年、SDAPの理論月刊誌”社会主義者案内De Socialistische Gids”発行で編集者となる。(1916−1930年)。
  彼の最後の文章は1927年に出た。
  ファン・デル・フースは1918年のトルールストラの間違いを非難したSDAPの著名メンバーに属さなかった。

 *huygens ingによると
  分裂の後遺症で彼の理論的寄与は減少し、著名な党イデオローグから一片のジャーナリストに堕落。
  1910−1919年はF.M.ウィバウトとともに穏健なマルクス主義誌Weekbladを編集(党機関週刊誌人民に追加的に創刊)。
  1912−1925年は人民の外部編集者として、1916−1929年は社会主義者案内の編集者。
  1927年、雑誌”人民”から退いて間もなく雑誌”社会主義者”周辺の左翼反対派に参加。このグループは共産主義者と協力し、SDAPの
 カトリックとリベラル民主主義者との提携路線に反対していた。

  1927年以降、68才でも、ファン・デル・フースは鷹の眼で党にいた。
  再びSDAP内で反対が起きた。最初は雑誌統一Eenheid (1926−1928年)周辺、ついで社会主義者De Socialist(1928−1931年)周辺。
  反対派によると、ヤン・アウデヘースト(1870−1950)とJ.W.アルバルダ(1877−1957)によって党は右傾化している。
  それは1928年のアメルスフォートの国際哲学学校の週末に起きた。
  ファン・デル・フースと彼の妻の他に、ウィバウト、M.メンデルスサム・デ・ウォルフヤクェス・カット(1897−1988)が参加していた。
  1932年のSDAP大会でファン・デル・フースは別れの演説を行い深い感銘を与えた。
  ピート・シュミット(1896−1952)は新しい独立社会党OSPにファン・デル・フースを勝ち取った。
  ファン・デル・フースは党執行部と、デ・カット、シュミットとともに炎De Fakke(1932−1935年)の編集に参加。
  OSPにはNVVから強い反対が起き、OSPメンバーは加盟組合から一掃された。
  ファン・デル・フースはシュミットが扇動罪で投獄されていた間(1933年11月〜1934年1月)、党首となった。
  ファン・デル・フースは1934年のラーレン市長の左翼青年協議会の禁止と4名のドイツ人のナチスへの引き渡しに抗議した。
  ウィリー・ブラントも出席していたが、ノルウェー・パスポートで助かった。
  1935年、OSPはヘンク・スネーフリートの革命的社会党RSPと合流し革命的社会労働党RSAPを形成。
  RSAPの頂点期には多くのトロツキストが活動していたが、それまでファン・デル・フースはいなかった。
  ファン・デル・フースはヤン・モレナールらと1200名の仲間と革命的社会主義者同盟BRS(1935−1940年)を結成。
  ファン・デル・フースは社会主義者De Socialistの編集に参加。(1935−1939年)
  BRSは彼にとっては1891年にフェビアン協会にならって結成しようとした組織のようなものであった。
  ファン・デル・フースは最初、カウツキーからついでオーストリア・マルクス主義者、マックス・アドラーの影響を受け、これをSDAPに及ぼそうとした。
  SDAPは1939年2名入閣。ファン・デル・フースは1939年6月に80才で死亡。



 オランダの左翼
 ヘルマン・ホルテル小伝
 アントン・パンネクーク伝
 アントン・パンネクークの人と思想(人間と思想と活動の詳しい論評)
 ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト小伝
 オランダ初期社会主義者群像


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