コーカサスの歴史


[17] ポントス草原の人々

(8) コサックと北コーカサス


(8−2) ロシア・コサック

(8−2−1) ドン・コサック

 コサックの正確な起源は不明。現代の見解では、ドン・コサックはドニエプル、ノヴゴロド共和国とリャザン公国から来た
スラヴ人と北コーカサスの西部から生じたゴート・アラン人の子孫。
 ドン川草原は荒野と呼ばれた。この地域は黄金オルダの支配下にあり、多くの武装タタール・グループが彷徨し、
ロシア人と外国商人を襲撃。この地域に最初に住んだキリスト教徒はヤースカソギ種族。
 1480年の黄金オルダの崩壊後、シェロンの戦い(1471年、モスクワ大公国とノヴゴルド共和国)後のノヴゴルド共和国から
より更に多くの、そしてまた近隣リャザン公国からもこの土地にロシア人植民者が広がり始めた。
 16世紀末まで、ドン・コサックが独立自由領域に住んだ。

 リャザンのコサックが、1444年、黄金オルダ部隊へのペレスラヴィ・ザレススキの防衛者としてと、1502年以降のロシアの
イワン3世の手紙で言及。1480年の黄金オルダの崩壊で、ドン川周辺地域は西側のクリミアと東側のノガイに分割。
 国境では、14世紀以降、ドン地域の広い草原は既存の社会秩序に満足しない人々、土地所有者の権威を認めない人々、
逃亡農奴、自由を望む人々が住んだ。やがて彼らは統一共同体となりコサックと呼ばれた。初めはこれら小武装部隊の職業は
狩猟と漁業で、また、彼らを攻撃するトルコ人とタタール人といつも戦った。後に定住し、農耕をした。

 コサック村スタニツァに関係する最初の記録は1549年に遡る。
 1552年のカザン包囲で、アタマンのスサル・フェドロフ指揮下でドン・コサックがイワン雷帝軍に参加。
 1556年、アタマンのリアプン・フィリモノフのコサック連隊がモスコヴィ軍とアストラハン・ハン国を占領し、併合。
 イワン雷帝の時代にアタマンのイェルマーク・ティモフェイエヴィッチがシベリア征服遠征にでかけた。
(*ドン・コサック軍団は1570年、イワン4世によって認められた最も古いコサック軍団。)
 ポーランド・モスクワ戦争(1605−1618)でポーランド・リトアニア貴族アレクサンデル・ヨゼフ・リオソフスキの作った
騎兵傭兵グループにドン・コサックが加わった。このグループはポーランド王に仕えた。
 ピョートル大帝とその後の支配者の下で、ドン・コサックは多くの遠征に参加、これでロシア帝国は黒海からバルティック海に
広がった。
 長年、コサックはオスマンとクリミア・ハン国と戦争した。1637年、ドン・コサックはザポロジュ・コサックとオスマンのアゾフ要塞を
占領。1641年のアゾフ要塞防衛はドン・コサック史の鍵となる行動。
 ドン・コサックの自由領域がすべてモスコヴィ支配下に入って、ドン・コサック史はすべてロシア史と絡み合った。
 中世ロシアの南国境防衛のみかえりに、ドン・コサックは免税特権を与えられ、皇帝のコサックの土地への権威は他の様に
絶対ではなかった。
 この時期の3つの最も有名な反乱、ステパン・ラージン(1670−1671)、コンドラティ・ブラヴィン(1707−1708)と
エメリアン・プガチョフ(1773−1775)はドン・コサック。
(*ブラヴィン反乱の前にドン・コサックは周辺の国から独立して組織されたが、1646年以降、ロシア駐留兵がドンに継続的に
駐留。ラージン反乱後、1671年、ドン・コサックはロシア皇帝に忠誠を誓った。1708年、ピョートル1世によってドン・コサックの
地域はロシア帝国統治制度に編入、アタマン選出は廃止された。)
 1786年、ドン・コサックの地域は公式的にドン軍団の土地と呼ばれる。
(*軍団の駐留地はウクライナのルハンスクとドネツィク・オブラスチの一部とロストフとヴォルゴグラド・オブラスチを占めた。)
 1805年、首都がチェルカススクからノヴォチェルカススクに移動。
 ドン・コサックはナポレオン侵攻で重要な役割を果たす。
 1884年の人口調査で、ドン・コサック男子住民は42万5千で、当時存在した10コサック軍団で最大。


 ドン川流域と支流                         ドン軍団の領域

 ロシア・コサックの系譜


 シベリア地域への進出

シベリア・コサックは1582年、シビル・ハン国征服の報酬としてイワン雷帝がイェルマークの部隊を公認、ドン、テレクに
続く3番目に古い公認コサック。
 1619年、シベリア・コサックがエニセイ・オストローク(要塞村落)を建設し、エニセイ・コサックの基礎を据える。
 エニセイ・コサックは1632年、ヤクーチアに、1649年、ザバイカルに遠征、1635年、ヤクーツク・コサックが分離、
1661年、最初のイルクークツ・コサック出現(軍団は1816年創建)。
 ザバイカル・コサックはエニセイとシベリア・コサックによって、1639年頃創建。
 アムール・コサックが1854年、ザバイカル・コサックによって、ウスリー・コサックが1855−1862年にザバイカル・コサック
と懲罰されたコサックによって創建される。
 オレンブルク・コサックが1735年創建。
 セミレチエには1847年、カパルスカヤ・スタニツァが築かれ、コサックの基礎が据えられる。1867年、シベリア・コサック連隊
が配置される。1873年のヒヴァ遠征に参加。


<参考> ホピョル・コサック

 ホピョル川(ドン左支流)流域に住んだコサック。その主居住地はチェルヴリョニイ・ヤルと呼ばれる。
 中世にホピョル川周辺に住んだ人々は主にブロドニキでその起源はトルコ・スラヴあるいはスラヴ・ローマ等諸説ある。
(*チェルヴリョニイ・ヤルの中世の住民は主にブロドニキチギ(ジヒ)で、一説には非スラヴ系のチギがチェルヴロニイ・ヤル
に住むホピョル・コサックのもととなった。13世紀中期にジュチ・ウルスの支配下に入った。)
 最初にコサックが出現したホピョル・コサックについての筆記資料は黄金オルダの時代に遡る。
 チェルヴロニイ・ヤルに住む兵士をコザツと呼んでいる。
 モンゴル・タタールの軛の崩壊でリャザンを犠牲にしてモスクワの勢力が強化され、その影響がホピョルに及んだ。
 1707年、ホピョル・コサックはコンドラティ・ブラヴィンの反乱を支援。ホピョルのコサック村は焼き払われた。
 1717年、以前のホピョルとチェルカス(スロボダ・コサック)によって再建。
 1777年、ホピョル連隊は新しくできたアストラハン軍に編入された。これでホピョルのコーカサス移住が余儀なくされた。
 1786年、ホピョル連隊はコーカサス(アゾフ−モズドク)線のコサック連隊に編入された。
 1792年、エカチェリーナ2世は多くのドン・コサックのコーカサス線への移住を命令。これには下ホピョルがいた。
 (1709年にドン・コサックに残った。)
 クバンへの強制移住で1792−1794年にドン・コサックの反乱(エサウロフ反乱)が起き、シュチェルバトフ将軍がこれを鎮圧。


(8−2−2) テレク・コサック

 テレク・コサック軍団は1577年、ヴォルガからテレク川に再移住した自由コサックが形成。地域テレク・コサックが後に参加。
 (*東でのタタール国家の崩壊でコサックの膨張の条件が生じた。1577年、ドン・コサックがテレクに向かい、テレク・コサックの
基礎を据えた。)
 (*テレク・コサック軍は2番目に古いコサック軍で、1577年に初めて皇帝の旗のもと行動。)
 1792年、コーカサス線コサック軍団に含まれ、1860年に、それから分離し、ヴラディカフカズを首都とした。
 テレク・コサックの多くの初期メンバーはオセット人。

 最初のコサック共同体がテレクにどのように出現したかは不明。
 1説にはハザール・ハン国とトムタラカン侯国の子孫。
 トムタラカンのミスティアラフの1023年のリストヴェノの戦いで、彼がヤロスラフの軍を破った時に、彼の側にコサックがいた
ことを示す記録がある。
 下テレク川へのスラヴ移住の知られる初期の記録は1520年に遡り、リャザン公国がモスクワ大公国に併合されたときに、
孤立グループが去り、テレク川の自然避難所に移住。初期の定住地はアクタシュ川河口に位置した。
 これは最古のコサック・グループ、グレベン・コサックを形成、川の両岸に住んだ。
 1559−1571年、ロシア・ツァーリ国がいくつかの遠征の過程で、いくつかの要塞を築き、そのなかで最初のテルカが築かれ、
これはまだ独立していたコサックが奪った。
 1577年、ヴォルガ・コサックがストレレツ(歩兵隊)のイヴァン・ムラシュキンに敗れ、多くは散り散りになり、一部はテレク流域
に住み、ヴォエヴォダ(司令官)のノヴォシルツェフがテレクに第2番目のテルカを築き、テレク・コサックの出発を刻印した。
 1584年、テルカは再び、コサックに奪われ、コサックの一部はジョージア人のカルトリ王シモン1世に募兵された。

 16世紀末期にテレク・コサックによって何度かの遠征がオスマン帝国のテムリュクに行われ、それでスルタンはイワン雷帝に
苦情を言った。1589年、スンジャの最初の拠点が築かれ、テルスク・ゴロドクとして知られる、永続的テルカがテレク下流に
築かれた。

 動乱の時代(1598−1613)に、1606年、4千のテレク・コサックが自分たちの皇帝候補イレイカ・ムロメツ支援のために
ヴォルガに向かった。1614年までに、グレベンは新しいロマノフ君主を支持し、アストラハンの反乱鎮圧を支援した。
 1633年、彼らはノガイ・ホルドの残りを破壊し、1646年、クリミア・ハン国に対しドン・コサックを支援。
 1670年代に、テレク・コサックがアストラハンでステンカ・ラジンを破るのを支援。
 1680年、正教会からの古儀式派の分裂(ラスコル)後、正教会がドン・コサックに到来し、多くの古儀式派がドン川を去り、
最初、クマのちにアグラハンに移住。アゾフ遠征(1695−1696、ロシア軍のトルコ要塞占領)中に、テレクとグレベン・コサックの
ドン・コサックへの支援後、1695年、オスマン帝国がテレク・コサックへ報復し、1707年、テレク右岸のほとんどのその拠点は
破壊された。

 1711年、アプラスキン伯爵がすべてのグレベン・コサックをテレク左岸に再移住させ、これは恨みをかい、全18世紀に、
テレク・コサックは依然左岸に住み、1799年まで、豊かなブドウ園と土地を使用することになる。
 1720年にまたグレベンとテレクは完全にロシア帝国に組み込まれ、ロシア・ペルシャ戦争(1722−1723)の間に、コサックは
ピヨートル1世の東ダゲスタン征服とデルベント占領を助けた。遠征中に、アグラハンとスラクの千人の再移住ドン・コサックが
アグラハン・コサック軍団を形成し、これはテレク・コサックと統一。
 1735年ペルシャとの協定で、スラク線は放棄され、アグラハン・コサックは下テレク・デルタに再移住、キズリヤル要塞が
築かれた。
 このようにして1735年、3軍団が形成された:グレベンは最初期のコサックの子孫、テレク(テレスク)家族はキズリヤルへの
再移住アグラハン・コサックから、テレク・キズリヤルはアグラハン・コサックとアルメニア人とジョージア人から。
 カルムイクが北西カスピに来た時に、露土戦争(1735−1739)の間にテムリュウクに対し、一緒に遠征し、テレク・コサックは
アルメニア人アウカとペトロフに率いられた。
 1736年と1765年に依然名目的にコッサクのものであったが、テレク右岸はチェチェン人に提供された。
 彼らはロシアの保護を希望し、そこに再移住を望んでいた。テレク川の北にはモンゴル侵攻前はチェチェン人がいて、その後も
ある程度いた。
 18世紀後半にコサックと山岳人の関係は悪化。
 1765年、拠点モズドク築かれたが、テレク線とキズリヤルを攻撃したカバルディア人の直ちの標的となった。
 1771年、イェメリアン・プガチョフがテレクに到着、忠誠を示すために、アタマンのタタリンツェフは彼を逮捕。
 プガチェフは逃げ、プガチェフの反乱(1772−1774)はテレクで支持を得られなかった。

 露土戦争(1768−1774)とクチュク・カイナルサ条約でロシアのコーカサス膨張の口実が与えられ、長いコーカサス戦争
(1817−1864)が始まった。1769−1770年にヴォルガ・コサックのほとんど半分がモズドク周辺に再移住。
 1776年、より多くのヴォルガ・コサックを含む更なる移住者(下ヴォルガに残ったコサックはアストラハン・コサック軍団に
分割される。)と東ドン地域からのホピョル・コサックが到来。これらはアゾフ・モズダク防衛線を形成。
 中央コーカサスへのロシア膨張の前進拠点が再移住者によって築かれ、これらには1777年のホピョル連隊の
ギオルギイェフスクと、1784年のヴラディカフカスが含まれる。
 1774年、デヴレト・ギレイが大カバルディア軍をテレク・コサックに送り、ナウルスカヤのスタニツァ(コサック軍団村)が防衛、
1785年、キズリヤルがシェイフ・マンスールから防衛される。
 1788−1791年に、テレク・コサックは3度の遠征に参加し、アパナのシルカシア港に行く。
 防衛線の西部の空隙は、1792年、黒海コサックが再移住し、解決された。
 次の30年はロシアのコーカサスでの努力は厳しい困難をもたらした。1801年のジョージアのロシア併合後と引き続く、
ロシア・ペルシャ戦争(1804−1813)では全般に彼らはいつも根拠線を守っていた。
 1816年の将軍イェモロフのコーカサス軍指揮ですべてが変化。彼は守勢から攻勢に転じ、スンジャ・ヴラディカフカズ線を
築き始め、強固な拠点グロズナヤとヴネザプナヤを築いた。イェモロフは更にコサック体制を改革し、1819年、選出アタマンを
指名指揮官に代えた。
 南コーカサスで、コサックは露土戦争(18128−1829)に参加、カルス包囲やその他の鍵となる戦いに参加。
 1832年、中央コーカサスの臨時連隊はテレクの3軍団と統一され、コーカサス線コサック軍団を形成。
 1836年、キズリヤルと家族連隊は統一され、テレク・デルタに責任をもった。1837年、小ロシア連隊(1831年、ポーランドの
11月反乱と戦うため形成)はヴラディカフカスの上テレクに再移住。1842年、コーカサス線軍団に編入。
 これにスンジャ連隊形成が続いた。この時点までにコーカサスのロシア支配は改善し、主導権はコサックの手にあった。
 ほとんどの戦いはコサック拠点から遠いチェチェンとダゲスタンで起きた。
 コーカサス線コサックはクリミア戦争(1853−1856)と、最後に1859年のロシアの前進終幕段階のシャミルへの戦いに参加。

 1860年、コーカサス線コサック軍団は2分割され、2つの西連隊は黒海コサックに加わり、クバン・コサック軍団を形成、残りは
テレク・コサック軍団に参加。
 1865年から常備警察軍が形成され、1869年、テレク・オブラストが形成された。
 1871年、テレク・コサックへの憲章が発行された。
 テレク・コサックは1873年のヒヴァ遠征を含むいくつかの帝国の戦争に参加。
 1878年のチェチェンとダゲスタンの反乱に動員される。1885年には中央アジアのアフガン国境まで行った



テレク川流域と支流


(8−2−3) グレベン・コサック

 北東コーカサスに住んだコサック、始めは大コーカサスの東(現代北ダゲスタン)、後に北コーカサスの東、テレク川中流
(現代チェチェニヤのシェルコフスキ・ライオン)と恐らく、しばらくの間、カバルダの東部。
 グレベンの祖先はこの地域に16世紀までに出現、その共同体はドン(別種:リャザンとヴォルガ・コサック)からとロシアの
逃亡農奴から形成された。コサックは20世紀まで、古儀式派を信仰。

 16−17世紀はグレベンは自由(泥棒)コサック。
 イワン4世、ヒョードル1世、アレクセイ1世、その他が、北コーカサス東部への影響強化のために、彼らに武器・弾薬を与えた。
 南方国境防衛政策とこの方向への膨張政策を進め、モスクワは地域での衝突でグレベン・コサックを支援し、そのコーカサスでの
主要な敵、オスマン・トルコ(とクリミア・ハン国)とサファヴィー朝イランとの衝突に対しグレベンを利用した。
 北コーカサス東部ではトルコまたはイランの提携者は周期的にダゲスタンの国々とノガイと更に一部のナフ山岳社会が演じた。
 ピョートル1世のもとで、グレベン・コサックはテレク左岸に移動し、ロシア国籍を取った。
 彼らの築いた5つの村はコーカサス要塞線の基礎を築いた。
 1711(1712)年、グレベン・コサック軍団がグレベンの武装グループから形成された。
 1832年にグレベン・コサック連隊に再組織、1870年にはテレク・コサック軍団のキズリヤル−グレベン・コサック連隊となった。
 一部資料ではグレベンはテレク・コサックの祖先、しかし始めは両者は互いに一緒に存在した。
 現代的意味では、テレク・コサックにはアグラハン、グレベン、キズリヤル、モズドク、下テレク、スンジャとテレク家族コサック
の子孫のすべてが一緒になっていて、グレベンは祖先の一つ。

 グレベン・コサックに関する基礎資料は左岸への移住後にだけ出現。
 1712年、グレベン・コサックはテレク左岸のテルカ・オストログ(要塞)地域に移動し、5要塞村を築いた。

 16−17世紀にはグレベンはロシアに属さなかったので自由(泥棒)コサックと呼ばれた。軍隊の集会でアトマンが選ばれた。
 ピョートル1世のもとでロシアに属し、1711(1712)年、グレベン・コサック軍団が形成された。
 1723年、コサック軍団のアトマンはすべてロシア皇帝の指名となった。(最初はドン・コサック)

起源
 グレベンはコーカサスで生じた最古のコサック共同体。形成は15世紀末期から16世紀前半。
 多くの資料ではでは北コーカサス東部山麓にドン・コサックの移動とモスクワ大公国中央部からの逃亡農奴が共同体を形成。
 恐らく、最初のグレベン移住者はグレブニ山稜のアクタシュ川岸に出現、一説では、ここに移住したドン・コサックがグレベン・
コサック共同体の元となった。
 別の説では、16世紀に北ドネツとカリトヴァの間のグレベン山脈と呼ばれる高台に住んだドン集団が1528年にアクタシュの
尾根(グレブニ:原形grebenb)境界に住んだ。
 また別の説では、1520年、リャザン公国が大モスクワ公国併合で、チェルヴロニイ・ヤルのリャザン都市の一部に住む
コサックがヴォルガをカスピ海に下り、テレク河口に上陸。ここで彼らは2つの共同体に分かれ、最初にテレクに住んだコサック
はテレクと呼ばれ始め、2番目のコサックは大コーカサス山脈(グレブニ)近くに住み、グレベンと呼ばれ始めた。

山麓期
 グレブニ(尾根?)境界に形成されたコサック共同体は徐々にスンジャ川に沿って移住。
 1555年、この共同体の何人かのアタマンがカバルダ公子のモスクワへの使節に参加、そこでカバルディア人はイワン4世に
彼らのロシア国籍受け入れを懇願。カバルディア人に加え、王はグレベン・アタマンを受け入れ、自由の川(?)を与えた。
 1633年、グレベン・コサックの部隊は小ノガイ・オルダ(クバン・タタール)への南ロシア国と大ノガイ・オルダの混成軍の
遠征に参加。
 1651年、皇帝アレクセイがスンジャに要塞を築く。
 1651−1653年のロシア・ペルシャ戦争で、グレベン・コサックは2度、1651と1653年にスンジャ要塞包囲で防衛支援
するが失敗し、要塞は焼き払われる。
 1671−1681年の露土戦争でグレベン・コサックはロシア・ウクライナ軍に参加。

テレク右岸再移住
 1685年(あるいは1680年)、頻繁な山岳人の攻撃による圧力で、グレベンは山麓を去り、テレク近く、右岸に住んだ。
 グレベンの数はドンとクマ川から来るコサックにより、徐々に増加、カバルダに2つの要塞都市が築かれた:大カバルダの
カジャロフツィと小カバルダのタタル・トゥプ。後に更に2つが生じた:ノヴォグラドキとチェルヴレニ。
 露土戦争(1686−1700)の間に、グレベン・コサックはロシア軍に参加、グレベンはクリミア・ハン国侵攻、いわゆる
1687と1689年のクリミア遠征と、1695と1696年のピョートル1世のアゾフ遠征。

テレク左岸再移住
 1711年、グレベンはアプラクシン伯爵の小ノガイ・オルダへの遠征に参加。
 ついで、伯爵に要請され、グレベン・コサックは1712年、テレク左岸へ移動し、5要塞都市を築いた。

ロシア帝国軍で
 右岸から左岸に移動し、グレベン・コサック軍団が形成された。
 非正規軍のロシア帝国への参加は1711または1712年に起きた。
 1716−1717年にグレベン・コサックはヒヴァ遠征に参加。
 1721年、すべてのコサックとコサック軍団はロシア帝国の軍指揮最高府に従属。
 1819(1832)年、軍団はグレベン・コサック連隊に再組織。後に数度非正規部隊に再配備され、1870年、キズリヤル・グレベン・
コサック連隊がテレク・コサック軍団の一部としてグレベンとキズリヤルから形成された。
 18−19世紀に、グレベン・コサックはロシアの多くの軍事衝突に参加:一連の露土戦争、1817−1864年のコーカサス戦争。


 テレク川、スンジャ川とアクサイ川とアクタシュ川



(8−2−4) ヴォルガ・コサック 

 1734年、女帝アンナ・ヨアノヴァの勅令で公式的に形成され、プガチョフの反乱への参加で、1777年、エカチェリー2世に
より廃止された。

 最初の下ヴォルガでのコサック言及は1554年のアストラハン征服と結びついている。
 1556年の遠征の、アストラハンの最終併合で、ロシア軍にはアタマンの部隊が含まれていた。
 彼らはドン・コサックでアストラハン近くでの行動後、ヴォルガ・ドン・ペレヴォロカ(連水陸路)に戻った。
 1560年以降の言及はヴォルガ・コサックはドン・コサックと同じで、ジグリ地域で強盗に従事していた。
 16−17世紀の資料はヴォルガ下流(特にアストラハン)には泥棒以外、コサックは記録されない。
 更に、アストラハン地域は恐らく、ロシアの南国境で奉仕階級としての都市コサックの記録されていない唯一の例外。
 1698年、モスクワのストレリツィ(銃兵隊)の反乱後、その一部はクラスニ・ヤル、チョルニ・ヤル、ツァリツィン、カミシン、
サラトフに追い払われた。このなかで、クラスニヤルはクラスノヤル・コサックの名を取り、チョルノヤルはストレリツィのままであった。
 18世紀前半に下ヴォルガ都市の都市部隊はコサックの名を受けた。
 1718−1720年に、ドンとヴォルガの間にツァリツィン監視線が築かれた。これにはドン・コサックが住んだと思われる。
 1733年、コサック移住者をヴォルガに移し、ヴォルガ軍団を形成することがきめられた。

 1771年、ヴォルガ・コサックはテレクとモズドクとアゾフの間の線に移動し、これが不満をもたらし、プガチョフの反乱へ参加。
 反乱参加で軍団が廃止され、ヴォルガ・コサックは終焉、北コーカサス移動が加速された。
 一部は居住地を去り、あるいはコーカサス線からヴォルガへ逃げた。

コーカサスへの退避
 ヴォルガでの新しい軍団はその場で長く続かなかった。1770年、517家族がモズドクに移住、モズドクからグレベン軍の間の
テレク左岸に沿って、5村を築き、カバルディア人の襲撃から地域を守った。彼らはモズドク連隊を形成し、司令官はアタマンで
なく指名された。1777年、連隊は200カルムイクを含み、彼らは正教に転向したが、すぐに、仏教(ラマ教)に戻った。
 1777年、モズドク−アゾフの西の継続要塞線に、ヴォルガ軍団の残りが派遣され、エカチェリニンからアレクサンドロフ要塞
までの5村に移住した。
 以前の名前を復活した、5百のヴォルガ・コサック連隊が活動。徐々にコサック村は前進、軍の強化のためにクマの4住民村から
約4千の男女住民が割り当てられた。
 1832年、モズドクとヴォルジュスキ連隊は新しく形成されたコーカサス線軍団の一部となった。
 1860年にはテレク(テレスク)軍団の一部となった。(コーカサス線軍団をテレク・コサック軍団とクバン・コサック軍団に分割)


 ヴォルガ川流域



(8−2−5) ヤイク(ウラル)・コサック 

 ヤイク・コサックはロシア語を話し、主にロシア人が先祖だと自認するが、兵士に多くのタタールが含まれている。
 ペテル・リチュコフによるとこれらの一部はハザール起源のブルガル人と称し、これらタタールとロシア人を含む最初の
ヤイク・コサックは14世紀末までに存在。
 これらタタールはクヴァシュ人とミシャリ(ロシア語のメスチェラ)で、後者はムスリムとユダヤ教徒だけでなく、キリスト教徒で、
これが彼らのロシア人との融合を促進。メスチェラはドンでも重要。
 ヴォルガのカザンからアストラハンへの征服の20年後、1577年、モスクワはヴォルガ沿いの海賊と襲撃者(その一人が
エルマク)を追い散らすため、部隊を派遣。
 一部は南東のウラル川に逃げ、ヤイク・コサックに参加。
 1580年、彼らはサライチク(カザン・ハン国)を一緒に占領。
(*1584年、数百のドンとヴォルガ・コサックがヤイク川に沿ったノガイの土地を奪った。)
 1591年までに、彼らはモスクワのために戦い、次の世紀に公式に認められた。
(*1591年、ヤイク・コサックはタルコフのシャムハルへの皇帝軍の遠征に参加。)
 1717年、アレクサンドル・ベコヴィッチのヒヴァ遠征で1500人失う。
 1723年、人口調査では軍役に適するものは3196人。
 ヤイク・コサックは1773−1774年のイェメリアン・ブガチェフの反乱の推進力。
 彼らの主な生活手段は漁業で、課税はコサックと国との摩擦の主要原因。
 反乱後ヤイク・コサックはウラル軍団の一部として改名。
 ウラル連隊は後にスヴォロフのイタリアとスイス遠征、1812年の大愛国戦争、露土戦争、1830年の多くの反乱と、
クリミア戦争に参加。1870年代のトゥルキスタン遠征でも重要な役割を演じた。


 ウラル流域



(8−2−6) アゾフ・コサック軍団

 アゾフ・コサックは1832−1862年にアゾフ海北岸に存在したコサック軍団(ヴォイスコ)。
 軍団はそこに再移住したいくつかのコサック・グループによって構成された。
 最も多いのは以前のダニューブ・シーチ・コサックで、これは1828年にロシア保護下に入った。
 軍団は主な任務が沿岸警備のロシア帝国で唯一のもので、コーカサスとクリミア戦争に広範囲に参加。

 露土戦争(1828−1829)で、以前オスマン支配のダニューブ・デルタに亡命して住んでいたダニューブ・シーチ・コサックは
1775年に彼らが去った正教ロシア帝国への忠誠で分裂し、イスラムのオスマン帝国はそのときちょうどロシアと戦争を
始めようとしていた。
 キシュ・アタマンのオシプ・グラドキに率いられ、一部のコサックはロシアへの寝返りを選択、彼らは1828年にニコライ1世に
許された。皇帝は彼らから特別ザポロジュ軍団を形成し、これは大いに戦争に参加した。
 ロシア勝利後、別の新しく形成されたダニューブ・コサック軍団で国境警備は十分とみなされ、以前のザポロジュのダニューブ
の存在は多すぎるとみなされた。
 そこで皇帝はクバンに移動し、他の以前のザポロジュ・コサックの黒海コサック軍団に加わることを示唆した。これは
コーカサス戦争でシルカシア人との戦いに積極的に参加していた。しかし、グラドキはそこへの移住を拒否した。
 皇帝は、そこで、適当な空き地を見つけることを条件にノヴォロシア(現在ウクライナ黒海沿岸地域)に留まることを許した。
 グラドキはベルジャンスクとマリウポルの間のアゾフ海北岸のドン・コサック軍団の西の隣に地域(現代ウクライナの
ドネツ・オブラスト)を見つけた。このようにして1832年、グラドキは軍団をプリアゾヴィア(アゾフ北岸)に移動させ、これは
2336(女性637を含む)を数え、アゾフ・コサック軍団が公式的に形成された。彼らは海軍の役割をもち、コーカサスとクリミアの
国家沿岸を護る唯一のコサックであった。数が少ないために、ノヴォスパソフカ・セロ(村)の農民が軍団に編入された。
 彼らにはチェルニゴフ・グベルニア(ドニエプル左岸)から多くの志願者が加わり、1839年、217名のネクラソフ・コサックが
加わった。

 アゾフ軍団はすぐにコーカサス戦争に巻き込まれ、将軍イェロモフの助手ヴェリアミノフはシルカシア人をコカサス山脈の
南西斜面から圧迫することを提案。アパナからスフミまでの防衛線が提案された。
 1830年、最初にロシア黒海艦隊によって最初の海上からのガグラ近くへの上陸が、アゾフ軍団形成前に行われた。
 グラドキは1832年に到着してから、直ぐに、ロシア海軍を支援。アゾフ・コサックはまた多くの英国、フランスとトルコの密輸を
阻止した。
 しかし、1839年、イマムのシャミルはナイブのマゴメト・アミンを派遣、彼は1840年、シルカシア人と黒海線に向かった。
 数が勝り、ロシアのいくつかの要塞と駐留地は襲撃され、黒海沿岸放棄が決定され、アゾフ・コサックはロシア部隊撤退で
重要性を証明した。ロシアの撤退は、黒海沿岸警備のアゾフ・コサックの役割に影響しなかった。
 クリミア戦争では、1855年のタガンログの攻防で敵がドンに達するのを阻止する任務を完了した(当時1920人動員)。
 1856年の戦争終焉で1部隊を除くすべてが解散。グラドキは1866年に死亡。
 1860年、コーカサス戦争が最終段階となり、将軍イェヴドキモフはコーカサス軍団改革を行い、以前の黒海、コーカサス線
軍団からクバンとテレク・コサック軍団を形成。
 また、敵対するシルカシア人をオスマン帝国に追い払い、西コーカサスの空いた山岳地帯への移住支援のためアゾフ・コサック
を移動させようとした。
 ダニュー−ブ・シーチの子孫のほとんどのコサック、ネクラソフ(ニコラスカヤとポクロフスカヤ・スタニツァ:村)とスタロドゥブスカヤ・
スタニツァのコサック(チェルニゴフ移住者の子孫で、その先祖はスロボダのコサック)はクバン移動に同意。
 1862年、そのほぼ半分がアゾフ軍団の1093家族(5224人)がアゾフを去り、クバン・コサック軍団のアビンスクと
アダグムスク連隊のスタニツァに移住。彼らは1864年に終わった、コーカサス戦争の最終段階に参加。
 以降、以前のアゾフ・コサックはクバン軍団に編入され、その歴史を完全にクバン軍団と共有した。





(8−2−7) クバン・コサック

 クバン・コサックはクバン地域に住んだコサック。
 ほとんどのクバン・コサックは18世紀末に北コーカサス西部に再移住した種々の異なるコサック・グループの子孫。
 軍団の西部(タマン半島とその北西周辺)は1792年から黒海コサックが住み、これは始めはザポロジュ・コサック。
 軍団の東と南東部は以前はコーカサス線コサックのホピョルとクバン連隊とドン・コサック(1777年ドンから再移住)が
統治した。
 クバン・コサック軍団が1860年に形成された。
 (コーカサス戦争の終焉で、黒海コサック軍団とコーカサス線コサック軍団から1860年、形成)

黒海コサック
 1775年、ザポロジュ軍団がロシアによって崩壊させられ、分散、30%はオスマン支配下のダニューブ地域に逃げた。
 他はロシア軍に参加し、ほとんどは地域農場と交易に転じた。
 1778年、トルコのスルタンは亡命ザポロジュに新しいダニューブ・シーチを築く機会を与えた。
 ポテムキンは1787年、以前のザポロジュ指揮官に以前のコサックを忠誠なザポロジュ軍団にすることを指示。
 新しい軍団は露土戦争(1787−1792)で重要な役割を演じ、これの報酬として、当時ノガイの残余が住んでいたクバンが
永久に与えられ、コーカサス戦争(1817−1864)で、ロシア線を更にシルカシアに前進させた。
 黒海コサック軍団と改名し、1792−1793年に2万5千が移住した。 

ロシア国境で
 露土戦争(1768−1774)でロシアの南方国境は拡大、クバン川からアゾフ海、その右岸に沿ってテレク川湾曲部
まで広がった。
 1777年、ヴォルガ・コサックとウラジミール連隊に加え、ホピョル連隊がアゾフ・モズドク防衛線構築のため、
北コーカサスに再移住。
 これがコーカサス戦争の開始を刻印し、これは約90年続くこととなる。
 ホピョル連隊が線の西側の任にあたった。1778−1782年、ホピョル連隊が4つのスタニツァ(軍団村)を築いた。
 (1777年に築かれたスタヴロポル要塞の隣から)
 シルカシア人がほとんど毎日襲撃し、条件は厳しかった。1825−1826年、連隊は最初の膨張を始め、西へ、クバン湾曲部
へ進み、5つの新しいスタニツァを築いた。
 1828年、ホピョル・コサックはカラチャイ征服に参加し、更に最初のロシア遠征隊の一部として、1829年、エルブルス頂上に
到着。しかし、コーカサスでのロシアの立場は悪く、統治緩和のために1832年、軍を改革、テレク川河口から西カバルダの
ホピョルまで、10連帯を結合し、単一コーカサス線コサック軍団を形成。ホピョル連隊はいくつかの市民移住地を与えられ、
1万2千に増加。ラバ川まで更に前進し、ホピョル地区は2連隊に分割。
 スポコイナヤ、イスプラヴナヤ、ポドゴルナヤ、ウドブナヤ、ペレドヴァヤ、ストリジェヴァヤがラバ線を形成。

クバンの向こうのザポロジュ
 ザポロジュ・コサックの多くの伝統が黒海コサックでも続いたが、新しい伝統に置き換わった場合もある。
 中心シーチの代わりに、クバン川黒海入り口から、大ラバ川入り口まで防衛線が形成された。
 この線の西の土地にはスタニツァと呼ばれる村ができた。統治の中心イェカチェリノダルが築かれた。
 黒海コサックはロシア帝国の要求で多くの主要な遠征に人を派遣、それには1794年のポーランドのコシチュシュコ蜂起
鎮圧もある。
 1796年のペルシャ遠征ではほぼ半分のコサックが飢えと疫病で死んだ。1812年の愛国戦争にも参加。
 露土戦争(1826−1828)では、1828年、北黒海沿岸のオスマンの残った最後の砦アナパ要塞を猛攻。
 1853−1856年のクリミア戦争ではコサックはタマン半島上陸を阻止。
 彼らが去った土地ではブフ・コサックダニューブ・シーチからの強力な緩衝となった。
(*ブフ・コサックは1769年、ウクライナ人、ヴラフ人とブルガリア人から形成、1775年、南ブフ川左岸に再移住、1788−
1796年、エカチェリノスラフ・コサック軍団の一部となる。)
 露土戦争(1828−1829)後、ほとんどのダニューブ・コサックはロシアに降伏、恩赦でマリウポルとベルディアンスクに間に
再移住、アゾフ・コサック軍団を形成。
 年月とともに黒海コサックは北コーカサスの山岳地域に系統的に入り込み、ロシアの北コーカサス征服の最終段階に積極的に
参加し、征服した土地に移住した。彼らの支援のためにブフからの計7万の元のザポロジュのエカチェリノスラフと最終的に
アゾフ・コサック軍団が19世紀中期にそこに移住。すべての以前の3者は、新しいロシアの植民のために土地を明け渡す
必要性と、バルカンの独立干渉国家形成とますますのオスマン帝国の弱体化で、更なるコサックの存在の必要が終わった。
 1860年に彼らはクバンに移住。
 コーカサス山岳民からウクライナ民族黒海コサックを分離したのはコーカサス線コサック軍団で、ドン地域からのロシア民族
コサックであった。
 新しい軍団はロシアで2番目に成長し、クバン・コサックは19世紀にロシアの出来事に積極的に参加。


 クバン川流域と支流



(8−2−8) コーカサス線コサック軍団と黒海コサック軍団

コーカサス線コサック軍団 
 ロシア帝国の非正規軍隊組織で、北コーカサスで1786−1860年に展開。軍団の本拠は始めはピャティゴルスクで、
ついでスタヴロポル。
 コーカサス線コサック軍団の歴史は1786年4月に始まり、ロシアは高地人への戦いの戦線を形成。
 地域のグレベン・コサックヴォルガ小ロシア・コサック(ウクライナのコサック)によって強化された。
 いくつかの村からテレク川に沿って単一前線が形成された。
 最終的にテレク河口からモズドクに位置するテレク・コサック(キズリヤル、テレスク一族、グレベン、ドズドクとゴルスク)の5連隊
とアゾフ・モズドク線(ヴォルガ、コーカサス、スタヴロポル、ホペルスクとクバン)の5コサック連隊が形成された。
 コーカサス線コサック軍団は黒海コサック軍団とテレク河口からクバン河口のコーカサス要塞防衛線を占め、特別コーカサス軍団と
コーカサス戦争に参加。

黒海コサック軍団 
 以前のザポロジュ・コサックを基礎に、1787年に形成され、18−19世紀に存在したコサック軍隊組織。
 その配置地域は南ブグとドニエステルの間で、中心都市はスロボゼヤ。
 1792年、クバンに移動し、40班形成し、中心はエカチェリノダル。
 1802年、エカチェリノスラフ・コサック軍団が、50年代にアゾフ・コサック軍団が加わる。
 1860年、コーカサス線コサックが黒海コサックに編入され、クバン・コサック軍団が形成される。


 アゾフ・モズドク(カフカース)要塞線


参考 ⇒コーカサスのロシア要塞線



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