<<アイルランドの左翼>>
〔
共産党
CPI〕
Pairti Cumannach na hEireann
党史
歴史
スコットランド社会主義連合
の活動家であった
ジェームズ・コノリー
により1896年
アイルランド社会主義共和党
ISRP
が結成される。
コノリーは民族解放と社会主義が両立できると考えた。
この党はダブリンにしか活動的支部は結成できなかった。その他はコーク、ベルファストは不成功。
コノリーは内部衝突で1903年米国に去った。
更なる分裂により反コノリーの小組織アイルランド社会主義労働党が結成されるが1904年に解散。
コノリーは他の幹部エドワード・スチュワートと労働組合や選挙戦術で衝突。
コノリー不在中に党は1909年
アイルランド社会党
として再建されるが再び不活発となる。
ISRPの他のメンバーとして
ウィリアム・オブライエン
(アイルランド労働組合運動の主導的人物となる)、
コン・レハン
らが著名。
コノリー
は1910年米国から戻ってからは
運輸総労働組合
ITGWUの
ジェームズ・ラーキン
の片腕となる。
コノリーは革命は革命党より
ワン・ビッグ・組合
から生じると考え主に
運輸総労働組合
と
アイリッシュ市民軍
に従事。
コノリーは1913年、
ロックアウト
に対抗し、労働者を守るために
ジャック・ホワイト
と共に
アイリッシュ市民軍
を結成。
コノリーは1912年
アイルランド労働党
結成。
1916年反乱にコノリーは
アイリッシュ市民軍
と参加し、英国により処刑される。
英国の
造船所労働者全国組合
NUDLの組織者であった
ジェイムズ・ラーキン
は1907年ベルファストで組織化活動を開始。
ストライキの処理をめぐってNUDL幹部と衝突し1908年南に移り組織化活動を行い、
ITGWU
結成。
1911年新聞アイリッシュ労働者発行。1912年
コノリー
と
アイルランド労働党
結成。
1914年労働紛争の失敗により
ラーキン
は米国に行き(
ウィリアム・オブライエン
が組合指導者となる)、1923年戻る。
アイルランド社会主義共和党残党とダブリンを拠点とする社会主義者グループをもとにベルファストとコークでアイルランド社会党展開。
1910年全国協議会で
フランシス・スケフィントン
(党首)、
ウィリアム・オブライエン
、
マイケル・マリン
(書記)、
ジェームズ・コノリー
(全国組織者)らが指導者となる。
第1次世界大戦で1917年反戦争派と親戦争派に分裂し事実上崩壊。
ロシア革命の影響下、ダブリンで
ショーン・オカシー
,
ウィリアム・オブライエン
、
カザール・オシャノン
らが社会党を復活させ、
ロディー・コノリー
、
リアム・オフラエルティ
、ジョージ・ポロック(グラスゴーから亡命)らが残党確保、
オブライエン
、
オシャノン
を追放しアイルランド共産党
として再建。
1917年のロシア2月革命のあと社会党が再び再建されるが独立戦争で活動できず。その後活動開始するがロシア革命全面支持・、
コミンテルン加盟派と
コミンテルン加盟
と共産党化反対の古参の
ウィリアム・オブライエン
、
カザール・オシャノン
に分裂。
ジェームズ・コノリー
の息子
ロディー・コノリー
が勝利、1921年
アイルランド社会党
が
共産主義インター加盟
により共産党と党名変更、
ロディー・コノリー
が指導者となり、
リアム・オフラエルティ
を編集者として新聞”労働者共和国”発行。
内戦で共産党は反条約側で戦う。1923年
ラーキン
が米国から帰国。
1923年、
ジェイムズ・ラーキン
が
アイルランド労働者同盟
IWLを結成したがこれは党として組織されなかった。
一方、アイルランド共産党はラーキンにより解散される。(党史)
1924年
ラーキン
はコミンテルン会議に参加し、執行委員となる。最初の年の最も著名な活動は反条約派IRAの救援活動。
ラーキン
がコミンテルンで不在中、兄弟のピーターが
運輸総労働組合
の支持者により
アイルランド労働連合
WUIを結成。
これは急速に拡大し
赤色労働組合インターに加盟
。しかしIWLとWUIは
ラーキン
の矛盾し独裁的性格で成長がとまる。
1925年1月コミンテルンは英国人共産主義者のボブ・スチュワートを
ラーキン
と協力して共産党結成のため送り込む。
5月の結成会議には
ラーキン
が参加せず延期。
1927年9月選挙で
ラーキン
が北ダブリンから当選、これは1997年の
ジョー・ヒギンズ
(
社会党
)までの自称共産主義者の唯一の例。
ウィリアム・オブライエン
との金銭問題で議席を維持できず。1930年代ラーキンとソ連の関係悪化、1940年代初め
ラーキン
は労働党
に加入。
ラーキン
の最後のコミンテルンとの関係は1928年モスクワのレーニン学校に
ショーン・ムレイ
、息子ジェームズ・ラーキン・Jr、
ベン・バクレーを送ったことである。このなかで
ショーン・ムレイ
だけが共産主義運動を継続した。
ショーン・ムレイ
が1931−1941年まで共産主義運動の主導権を握る。
1927年
ノラ・コノリー・オブライエン
(
ジェームズ・コノリー
の娘)、
ロディー・コノリー
らが革命的労働者・労働農民党を結成、
ラーキン
を通さず
コンテルンの承認を得ようとして失敗、この組織は数ヶ月したもたなかった。(党史)
ノラ・コノリー・オブライエン
は1930年代トロツキーと交通し欧州の著名な非スターリン主義者左翼となった。
ロディー・コノリー
は
ジェームズ・コノリー
の息子で1916年の
イースター蜂起
に参加、1917年社会党に参加。
1920―1921年に数回ロシアに旅しレーニンと関係をもち、ソ連指導者の影響を受けた。
共産党結成を支援し最初の指導者となった。1921年12月条約に反対し、内戦では共和国勢力で戦った。
内戦後コミンテルンから派遣された
ミハイル・ボロディン
が指揮するが1924年コミンテルンによりCPIは解散させられ(ウィキペディア)、
1926年労働者党結成、これも1927年モスクワにより解散させられた。
1926−1927年コミンテルンが支持した
アイルランド労働者同盟
IWLに反対してアイルランド労働者党結成。
共和主義者の
シャルロット・デスパード
、
マウド・ゴーン
(
ショーン・マクブライド
母)らと旧共産党の
ロディー・コノリー
、ジョージ・ポロックを含む。
1927年2月コミンテルンは加盟を拒否し解散しIWL参加を要求、
コノリー
らは応じたがポロックは拒否、1927年秋まで崩壊。
コノリー
は1928年労働党に参加、1934年共和会議に参加。
コノリー
は1943年労働党から国会議員となり1971―1978年には党議長となる。
共産党結成のため1929年革命的労働者グループが形成され、これにはコノリー・クラブ(1926年
ロディー・コノリー
設立)・メンバーが関係。
他に
ベティ・シンクレア
、
ジム・グラルトン
(1933年国外追放され米国移住)。
1933年革命的労働者グループにより現在の共産党CPIが結成される。
1933年6月新共産党CPIが結成会合が開かれジェームズ・ラーキン・Jrが議長、
ショーン・ムレイ
が書記長となる。
再建には
ビル・ガノン
らも参加。
1933年3月極右により革命的労働者グループの本部
コノリー・ハウスが襲撃
される。これは1930年代のアイルランドの反共主義
を象徴する。
党は1936−1939年のスペイン戦争の
アイルランド志願者
の中核となり多くのメンバーが死亡。
1941年共和国の党が活動停止、北地区では
北アイルランド共産党
CPNIが活動継続。
CPNIはその後斜陽したがアイルランド労働党は北アイルランドには存在しなかったので労働組合により左翼政治に大衆的影響を与え、
IRAを政治化しようとした。1960年末
市民権協会
NICRAにより頂点を迎えた。
ベティ・シンクレア
が1942−1945年の書記。CPNIは
1945年
北アイルランド総選挙で3名の候補で3.5%獲得。
一方
マイケル・オリオーダン
らが1948年共和国で
アイルランド労働者同盟
の名で再建、1962年アイルランド労働者党と変更。
アイルランド労働者党はアイルランド労働党に加入を行った。
オリオーダン
は
アイルランド労働者同盟
、アイルランド労働者党、アイルランド共産党の指導者を長年勤めた。
1970年2つの組織がアイルランド共産党として再統合。
20世紀前半初期はアイルランドの権威的、厳格カトリック政治文化を変えることができなかった。
1976年頃ユーロ共産主義者グループ、アイルランドマルクス主義者協会が分裂、これはマルクス主義フェミニズムを支持。
また北アイルランドの2民族理論を否定。ほとんどのマルクス主義者協会メンバーは後に労働党に参加。
1960年代から1980年代初めまで着実に成長、1980年代末ソ連の崩壊で衰退したが1990年代を生き残り、再建。
強く新リベラル主義と欧州連合に反対、キューバとヴェネズエラを強く支持。
選挙ではほとんど候補をたてず、成功したこともないが、労働組合運動には大きな影響をもっており、
北アイルランド市民権協会
NICRAに活発に関係している。また多くの著名な労働党メンバーがかつて共産党員あるいはその
青年組織(コノリー青年運動)
メンバーであった。労働党の
デクラン・ブレー
は
コノリー青年運動
のメンバーであった、また
コノリー青年運動
の
マッジ・ダヴィソン
は
NICRA
の活動家で1972年1月30日の
血の日曜日
のデモに参加。
NICRA
は1967年1月ベルファストで、
共和クラブ
(のち労働者党)、
北アイルランド労働党
、
アルスター自由党
、社会正義委員会、
アイルランド共産党CPI、
アイルランド労働組合会議
により結成される。
指導的メンバーはノエル・ハリス、コン・マクルスキー、デレク・オブライエン・ピータース(CPI)や
ウォルフェ・トーン協会
メンバー、他の
活動家は
ベティ・シンクレア
、
ビリー・マクミレン
、
パディ・デヴリン
など。
NICRA
と
デリー住宅行動委員会
が1968年10月5日の
デリー行進
を組織、プロテスタントの
デリー少年師弟団
が介入宣言し、
北アイルランド政府が行進禁止、禁止に挑戦した行進を国王警察が襲撃、RTEがこれを放送。
これによりクイーンズ大ベルファストの
ベルナデット・デヴリン
らがより急進な
人民民主
結成。
人民民主
はマルティン・ルターのモントゴメリー行進を範にとり1969年1月ベルファス−デリー行進を強行。行進は道々で王党派の
襲撃を受け、バーントレットで大襲撃を受ける、公式IRAから臨時IRAが分裂しカトリック地域を防衛。
英国政府は多くの人々を裁判なしで拘留、
NICRA
の1972年1月30日のデリーでの拘留反対行進で英軍により13名が殺され、
血の日曜日
となる。
(
共和会議
)
歴史
1934年左派共和主義者がIRAから去り、結成。
ペダール・オドンネル
、
フランク・ライアン
、
ジョージ・ギルモア
などの古参IRAが率いた。
アイルランドの労働者共和国を目標としていた。
1930−1931年にはIRAの著名メンバーの
ペダール・オドンネル
、マイケル・フィリッツパトリック、ドナル・オコンノルらにより
労働者革命党WRPが結成されたが英国政府により1931年禁止。メンバーはシール・エーレ結成に関係。
1931年9月IRAの共産主義傾斜メンバーにより
シール・エーレ
(自由アイルランド)が結成された。
設立メンバーで著名なのは前の
アン・ポブラヒタ(共和国)
編集者でIRAの左派の指導的人物の
ペダール・オドンネル
。
シール・エーレ
は労働者と労働農民の組織と規定。その他
ジョージ・ギルモア
、
フランク・ライアン
、
ダヴィド・フィッツジェラルド
、
ショーン・ハイエス
、
ショーン・マクブライド
(1974年ノーベル平和賞受賞)、マイケル・フィリッツパトリック、シェイラ・ハンフレイズ
(
クマン・ナ・ムバン
)など。ローマン・カトリック教会により共産主義的と否定され
クマン・ナ・ゲール
政権により禁止。
1934年3月のIRA軍大会での社会主義者の提案拒絶により
フランク・ライアン
、
ペダール・オドンネル
、
ジョージ・ギルモア
が辞任。
社会主義によるアイルランド共和国を望むメンバーによる共和会議の4月集会で9月年会開催決定
1934年の共和主義者大会で共和会議支持者とIRAメンバーが衝突、17000のうち会議支持者は約600―2000と推定された。
IRA指導部は自分たち以外が旗をかかげるのを禁止した。
一部急進派は資本主義打倒のためプロテスタント、カトリック、国教反対派の統一という標語を主張しIDA指導部から共産主義として
反対された。
1934年9月の最初の年会で2つに分裂
、一方は主要政党体制打破と共和国のための左翼共和派の統一戦線を主張、
(
オドンネル
、
ライアン
、
ギルモア
、ボビー・エドワーズ)、反対派(
マイケル・プライス
、
ロディー・コノリー
、その妹
ノラ・コノリー
(のち
トロツキーと交流))は労働者共和国のための政党(労働者共和党)を主張。前者の決議がオドンネルとCPIの支持で通り、労働者共和国派
は会議から離脱。グループは斜陽に陥り、1936年事実上解散。
会議メンバーはスペイン戦争で
コノリー縦隊
として共和国側で戦い最後の凱歌をあげた。
1936年7月のスペイン戦争勃発時にナチス下のオリンピックに反対して開催された人民オリンピックでバルセロナにいた、
ペダール・オドンネル
がアイルランドに戻り人民戦線政府支援の志願部隊結成に動いた。多くはIRAないし共和会議メンバーであった。
旧IRAメンバーで1927年共産党に加わった
ビル・ガノン
が募兵・組織化で重要な役割を果たした。
フランコ側にはアイルランドの準ファシスト
青シャツ
により800のアイルランド部隊が送られていた。
1930年代IRAと青シャツは街頭で抗争を行っていた。
国際義勇軍には
マイケル・オリオーダン
、
チャールズ・ドネリー
、
ピーター・オコンネル
、
リアム・トゥミルソン
、
ベン・ムレー
などが参加。
フランコを支持したカトリック下のアイルランドで国際義勇軍参加者は厳しい状況に置かれた。
アイルランドのフォーク歌手
クリス・ムーア
は国際旅団で戦ったアイルランド人義勇兵のため
ヴィヴァ・ラ・キンタ・ブリゲード
を捧げた。
コノリー・クラブ
が1938年ロンドンで出発したコノリー協会は多くの共和会議のロンドン・メンバーを含んでいた。
機関紙アイルランドの自由が1939年発行されこれは1945年アイルランド民主主義者となった。
1948−1988年の編集者
C.デスモンド・グレーヴズ
(歴史家、)が大きな影響を与えた。
その他
アンソニー・クフラン
、同様な組織に1997年設立の
ウォルフェ・トーン協会
がある。
〔
シン・フェイン
〕
1900年
アルトゥール・グリフィス
らが民族主義・分離主義者の結集のため古
クマン・ナ・ゲール
結成。これがもとになり1905年
アルトゥール・グリフィス
、
エドワード・マルティン
、
ジョン・スウィートマン
らにより
シン・フェイン
党が結成された。
1916年
アイルランド共和同胞同盟
(1858年
ジェームズ・ステフェンス
が結成)により組織された
イースター反乱
(1916年
4月24−30日、
パトリック・ピアス
率いる
アイルランド志願兵
(1913年結成、のち
IRA
)に
ジェームズ・コノリー
の
アイルランド市民軍
、
クマン・ナ・ムバン
(女性同盟、1914年結成)が参加、ダブリンの主要拠点を占拠し、英国からのアイルランド共和国独立を宣言、
6日間の戦闘のあと指導者は処刑された)のあとこれは
シン・フェイン
の反乱とされた。
生き残った反乱指導者は集団で
シン・フェイン
に参加、共和国宣揚の手段としようとした。その結果
グリフィス
のアングロ−アイリッシュ
2重王制支持の当初のメンバーと
エイマン・デ・ヴァレラ
の共和国達成派が衝突。1917年
グリフィス
が指導者を退き
ヴァレラ
に代わった。
シン・フェイン
は1917年の会議で初めて共和国確立を宣言、
グリフィス
はスカンジナヴィアのような君主制を支持。
シン・フェイン
は
ジョン・マクスウェル
による反乱指導者の処刑(
パトリック・ピアス
、
トム・クラーク
、
トーマス・マクドナー
ら16名)への怒り
で後押しされた。
シン・フェイン
は
ジョン・レドモンド
の
アイルランド議会党
と闘った。
1918年選挙
結果は
シン・フェイン
が46.9%、73議席、
アイルランド連合主義党
が25.3%、22議席、
アイルランド議会党
21.7%、6議席など。
1919年1月21日、
第1回アイルランド議会
(
ダイル
)が開催され、不在の
ヴァレラ
、
グリフィス
に代わり
カハル・ブルー
が
議長
となり、
1916年の宣言
を再確認し
アイルランド独立を宣言
。
アイルランド志願兵
は
アイルランド共和国軍
IRAとして再構成された。
独立戦争
は1月19日から衝突が始まり、議会は5月11日、議長の
ヴァレラ
が公式に交戦状態存在を承認。
マイケル・コリンズ
が独立運動の中心人物であった。南での戦いは7月11日でほとんど終わったが北では1922年夏まで続いた。
1921年5月選挙
は
北アイルランド
は
アルスター連合主義者党
66.9%、40議席、シン・フェイン20.5%、6議席、
民族主義者党
11.8%、6議席。
南
(実際の投票は行われず)はシン・フェインが128議席中124議席。
(共和国大統領は
ヴァレラ
(1921.8.−1922.1.)、
グリフィス
(1922,1.−8.)、
コスグレイヴ
(1922.8.−12.))
当初の
IRA
は1921年12月の
英国アイルランド条約
のあと1922年分裂、条約支持派は
マイケル・コリンズ
のもと
国民軍
を結成。
1922年6月選挙
(南アイルランド)は
マイケル・コリンズ
の親条約派45.3%、58議席、
ヴァレラ
の反条約派28.1%、36議席
、
労働党
13.3%、16議席など。
英国アイルランド条約
により
英連邦自治領
の
アイルランド自由国
(1922−1937年)が成立。
ジョン・オケリー
らは1919年樹立の
アイルランド共和国
(英国政府と
IRA
の
独立戦争
中存続)の継続を主張。
1922年4月14日
反条約派IRA
(
エルニー・オマリー
、
トム・バリー
)は
臨時政府
防衛のため行動を開始、
コリンズ
は
選挙の結果
を
まって行動しなかったが、6月28日
コリンズ
は英国の協力でこれを攻撃、これにより28日ダブリンで
戦闘勃発
。
反対派は
ヴァレラ
、
カハル・ブルー
(7月戦闘中死亡)ら、賛成派は
コリンズ
(8月戦闘中死亡)、
グリフィス
、
リチャード・ムルカーイ
など。
7−8月で
自由国の攻撃
は終わり反条約派の勝利の可能性はなくなった。このあと8ヶ月のゲリラ戦の後、1923年、4月
リアム・リンチ
の死亡後、30日
フランク・アイケン
が戦闘停止を命令。
1922年6月−1923年4月の
アイルランド内戦
(親条約派:
国民軍
と反条約
共和
派:
IRA
、のちの
フィナ・ガイル
と
フィアナ・フォール
)
のあと1923年親英国アイルランド条約派
シン・フェイン
国会議員
TD
が
クマン・ナ・ゲール
(ゲール社会)結成。
自由国の最初の首相は
ウィリアム・コスグレイヴ
(1922.12.−1932.3.)
1923年選挙
は
ウィリアム・コスグレイヴ
の
クマン・ナ・ゲール
38.9%、63議席、
ヴァレラ
の
シン・フェイン
26.1%、44議席、
トーマス・ジョンソン
の
労働党
12.4%、14議席など。反条約派
シン・フェイン
は
議会を棄権
。
1925年北アイルランド選挙は
アルスター連合主義党
61.5%、32議席、
民族主義者党
19.2%、10議席など。
1926年
シン・フェイン
が小差で自由国家憲法受け入れを拒否し
ヴァレラ
が辞任、
ジョン・オケリー
が
シン・フェイン
の指導者となる。
ヴァレラ
は
フィアナ・フォール
(共和党)を結成し自由国での棄権主義を放棄。この党は1932年以来議会最大党で1932−
1948年、1951−1954年、1957−1973年、1977−1981年、1982年、1987−1994年1997−に政権獲得。
1927年6月選挙は
クマン・ナ・ゲール
27.5%、47議席、
フィアナ・フォール
26.1%、44議席、
労働党
13.8%、22議席、
ジョン・オケリー
の
シン・フェイン
5議席。9月選挙は
クマン・ナ・ゲール
39.8%、61議席、
フィアナ・フォール
37.3%、57議席、
労働党
13議席、
ジェイムズ・ラーキン
の
アイルランド労働同盟
1議席、
シン・フェイン
0議席。
シン・フェイン
は分裂により参加せず。
1932年
は
フィアナ・フォール
44.5%、72議席、
クマン・ナ・ゲール
35.3%、56議席、
労働党
7.7%、7議席など。
クマン・ナ・ゲール
は
フィアナ・フォール
を共産主義者と規定し、
ヴァレラ
をスターリンになぞらえた。
1932年3月首相の
ヴァレラ
(1932.3.−1937.12.)がIRA禁止法を廃止。
クマン・ナ・ゲール
は
民族中央党
(1932年
農民党
などが結成)、
軍同志協会
(1932年
エオイン・オドゥフィ
結成、通称青シャツ)と
合同し、1933年
フィナ・ガイル
(統一アイルランド党)結成。
1937年
は
フィアナ・フォール
45.2%、68議席、
フィナ・ガイル
34.8%、48議席、
労働党
13議席など。
1929年
IRA
支持の
コールレ・ナ・ポブラヒタ
(共和評議会、
マリー・マクスウィニー
、
ジョージ・プルンケット
、
ブライアン・オヒギンス
ら)
が将軍会議で結成され、
シン・フェイン
、
クマン・ナ・ムバン
、
IRA
、
第2議会
反条約派残存者やその他左翼共和派により構成され
シン・フェイン
と
IRA
の違いを解消しようとしたが不成功。
ブライアン・オヒギンス
は1931−1933年指導者。
マイケル・オフラナガン
が1933−1935年の党首で、彼はカトリック司祭としてスペイン戦争で共和国側支持。
1922年
第2議会
(1921.8.−1922.6月)で
ジョン・オケリー
、
ジョージ・プルンケット
、
ブライアン・オヒギンス
ら
政権首脳7人
が
アイルランド共和国の権力を
IRA軍協議会
(
ショーン・ラッセル
指揮下、1939年英国との宣戦布告)に委譲したと
ブライアン・オヒギンス
の新聞が1938年発表。
これを根拠に
IRA
と
シン・フェイン
はアイルランド共和制と北アイルランドの国家の拒否と政治的棄権主義を正当化。
1936年IRAメンバー(
パディ・マクローガン
、
アンディー・コーニー
)によって
クマン・ポブラヒタ・ナ・ヘーレン
(アイルランド共和協会)
が結成され、
ジョージ・プルンケット
らが補欠選挙に立候補するも当選せず、1937年解散。
1937年
アイルランド憲法
発効。
初代首相(
ティーショホ
)は
ヴァレラ
(1937.12.−1948.2.
フィアナ・フォール
)
1945年北アイルランド選挙
は
アルスター連合主義党
50.4%、33議席、
労働党
18.5%、2議席、
民族主義党
9.1%、9議席、
連邦労働党
7.8%、1議席、
北アイルランド共産党
、3.5%、0議席など
1946年IRAの以前の指導者
ショーン・マクブライド
は
クマン・ナ・ポブラヒタ
(共和家族)結成、
1948年選挙
で13.2%、10議席と
成功を収める。
1948年の条約で1949年4月18日共和国宣言、アイルランド国王が大統領に置き換えられる。
1948年アイルランド議会選挙
は
フィアナ・フォール
41.9%、67議席、
フィナ・ガイル
19.8%、31議席、
労働党
11.3%、14議席、
民族労働党
5議席など。
1949年北アイルランド選挙
は
アルスター連合主義党
62.7%、37議席、
労働党
7.1%、0議席、
民族主義党
26.8%、9議席、
北アイルランド共産党
、0.2%など。
マルガレト・ブックレー
が1937−1950年の党首となる。この間
シン・フェイン
は
IRA
の支持をえられなかった。
パディ・マクローガン
(1950−1962年)が
1954年選挙
から参加、
1957年選挙
で5.3%、4議席、
1961年選挙
3.1%、0議席。
1958年北アイルランド選挙
は
労働党
(北)15.8%、4議席、
アイルランド労働党
3.0%、0議席。
1962年北アイルランド選挙
は
労働党
(北)25.4%、4議席、
アイルランド労働党
1.1%、1議席。
1960年代党は左傾化、
英国共産党
の
コノリー協会
と結びついた知識人世代の影響下、過去の宗教的政策と衝突。
コノリー協会
は英国のアイルランド人移民を基礎とし新聞
アイルランド民主主義者
によりベルファストの労働運動活動家に影響を与えた。
1956−1962年のIRAの北アイルランドへのゲリラ戦(
国境運動
)の失敗で新世代指導者はアルスターのプロテスタント労働者と
反帝国人民戦線に向かう。
1969年12月。
公式IRA
(
公式シン・フェイン
と結びつく)と
ショーン・マック・スティオファイン
の
臨時IRA
に
IRA
が分裂。
1970年1月
臨時IRA
の政治組織の臨時シン・フェインが結成され
ルイアリ・オブラダイー
(1970−1983年)が党首となる。
トマス・マック・ギオラ
(1962−1988年)の
シン・フェイン
多数派は
カザル・ゴルディング
の
公式IRA
と結びつき、
公式シン・フェイン
となる。
臨時派は1969年以前のIRAの原則を維持し、英国の北アイルランド支配とアイルランド共和国政権を非合法とし、IRA軍評議会を
全島アイルランド共和国の合法政権とした。これらほとんどの棄権主義者原則は1986年に放棄された。
両IRAは北アイルランドでの軍事行動を進展させ1972年
公式IRA
が不明確な停戦を宣言したのちも
臨時IRA
は攻勢を続けた。
2005年7月IRA軍評議会は武装運動終焉を宣言。
1973年北アイルランド選挙
は
アルスター連合主義党
30.8%、24議席
社会民主・労働党
22.1%、19議席、
民主連合主義党
10.8%、8議席、
労働党
(北)2.6%、1議席。
公式シン・フェイン
は1974年分裂に見舞われ停戦不満派は
アイルランド民族解放軍
INRAと
アイルランド共和社会党
を結成。
公式シン・フェイン
はマルクス・レーニン主義の方向へ展開し、
臨時IRA
に支持される暴力的共和主義伝統を批判。
北アイルランド衝突に平和・民主・階級政策という標語を採用、カトリックとプロテスタントを統一した階級闘争で宗派政治を置き換え
ようとした。
公式シン・フェイン
は
アイルランド・ラジオ・TV
RTEに強い影響をもったとされる。
1977年
ショーン・ガーランド
が総書記となる。
1977年シン・フェイン労働者党、1982年
労働者党
となる。アイルランド共和国議会選挙では一定の影響をもったが、北アイルランド
ではほとんど影響をもたなかった。
1981年選挙
は
フィアナ・フォール
45.3%、77議席、
フィナ・ガイル
36.5%、65議席、
労働党
9.9%、15議席、シン・フェイン
労働者党1.7%、1議席、
反Hブロック
(
1981年ハンガー・スト
支援運動)3.1%、2議席。
1982年2月シン・フェイン労働者党2.2%、3議席、11月シン・フェイン労働者党3.3%、2議席。
1982年北アイルランド選挙は
社会民主・労働党
18.8%、14議席、
シン・フェイン
10.1%、5議席、
労働者党
2.7%など。
1987年選挙
では
労働者党
3.8%、4議席、
シン・フェイン
(
ゲリー・アダムス
)1.2%、0議席など。
1988年
プロインサイス・デ・ロッサ
が党首を
トマス・マック・ギオラ
から引き継ぐ。
1989年選挙
は
労働者党
5.0%、7議席、
シン・フェイン
(
ゲリー・アダムス
)1.8%、0議席など
1992年ソ連崩壊で
ダイレ
議員7名中6名が
民主左翼
結成、これは1997年
アイルランド労働党
に合同。
分裂で
労働者党
はマルクス・レーニン主義的様相を強化、一方で共和的伝統を強調。1992年以来
ダイレ
に議席をもたないが、
共和国と北アイルランドの全国および地方選挙には参加。
臨時シン・フェインが現在は
シン・フェイン
と呼ばれ、北アイルランドでは
公式シン・フェイン
より成功を収めているが共和国では貧弱。
1986年の(臨時)
シン・フェイン
(
ゲリー・アダムス
、1983年−)の棄権主義放棄でこれに反対する
ルイアリ・オブラダイー
らの
共和シン・フェイン
RSFが分裂。これは棄権主義を支持しているので議席をもたないが、地方選や2007年北アイルランド選に参加。
1996年北アイルランド選挙
は
社会民主・労働党
21.36%、21議席、
シン・フェイン
15.47%、17議席、
労働連合
0.85%、2議席、
労働者党
0.47%、
民主左翼
0.16%など。
1997年選挙
は
フィアナ・フォール
第1優先39.3%、77議席、
フィナ・ガイル
27.9%、54議席、労働党10.4%、17議席、
民主左翼2.5%、4議席、緑党2.8%、2議席、
シン・フェイン
2.6%、1議席、
社会党
(
ジョー・ヒギンズ
)0.7%、1議席など。
2002年選挙は労働党10.8%、20議席、
シン・フェイン
6.5%、5議席、
社会党
(
ジョー・ヒギンズ
)0.8%、1議席など。
2003年北アイルランド選挙
は
シン・フェイン
23.5%、24議席、
社会民主・労働党
17.0%、18議席、0.85%、2議席、
社会主義環境
0.4%、
労働者党
0.3%など。
2007年アイルランド議会選挙
は
フィアナ・フォール
第1優先41.56%、77議席、
フィナ・ガイル
27.37%、51議席、
労働党10.13%、20議席、緑党4.69%、6議席、
シン・フェイン
(
ゲリー・アダムス
)6.94%、4議席(−1)、
社会党
(
ジョー・ヒギンズ
)
0.64%、0議席(−1)、
労働者党
(
ショーン・ガーランド
)など。
2007年北アイルランド議会選挙は
民主連合主義党
第1優先30.1%、36議席、
シン・フェイン
(
ゲリー・アダムス
)26.2%、28議席、
社会民主・労働党
15.2%、16議席、
アルスター連合主義党
14.9%、18議席、
共和シン・フェイン
0.4%(2522票)、
社会主義環境連合
、0.3%、(2045票)、
労働者党
975票、
社会党
473票、
北アイルランド労働党
123票、(得票は候補者数にも
依存)など。
2008年、
ミック・フィネガン
が
労働者党
指導者となる。
2011年選挙は9.9%、13議席と9議席増。
2014年EU選は19.5%、3議席(フィナ・ガイルの22.28%、4議席に次ぐ)、欧州統一左翼・北欧緑左翼に参加。
2016年選挙はフィナ・ガイル25.5%、49議席、フィアナ・フォール24.3%、44議席、シン・フェイン13.8%、23議席、労働党6.6%、7議席、
反緊縮連合−利益の前に人民3.9%、6議席、
独立4変革
1.5%、4議席、社会民主3.0%、3議席など。
2020年選挙はシン・フェイン24.5%、37議席、フィアナ・フォール22.2%、37議席、フィナ・ガイル20.9%、35議席、緑7.1%、12議席、
労働党4.4%、6議席、
社会民主
2.9%、6議席、
連帯−利益の前に人民
2.6%、5議席。
フィアナ・フォール、フィナ・ガイルと緑の連立政権成立。
シン・フェイン
は
ルイアリ・オブラダイー
(1970−1983年)、
ダイティ・オ・コネイル
により
アイレ・ヌア
(新アイルランド)路線がとられた。
これは英国の北アイルランド撤退による全アイルランド共和国結成を描くものであった。
1975年
オブラダイー
含むIRA軍協議会が英国軍敵視中断の公然終了を支持するという1975年真実が発覚。これは若い世代の
ゲリー・アダムス
らの批判を受ける。1983年
ゲリー・アダムス
(1983年−)、
マーティン・マクギネス
らに指導部が交代。
他に
ダニー・モリソン
らが
アイレ・ヌア
路線批判。
1981年
アイレ・ヌア
が拒絶される。1986年棄権主義放棄。1998年4月の
ベルファスト合意
なる、
アイルランド・ハンガースト
参加の
ゲリー・ケリー
らがこれに関わる。
北アイルランドでは
シン・フェイン
の
マーティン・マクギネス
が2007年
イアン・パイスレー
政権の
副首相
となった。
〔
労働者Workers党
〕
IRAの1956−1962年の
国境運動
の失敗のあと、
カザール・ゴールディング
、
ショーン・ゴーランド
らは
シン・フェイン
と
IRA
を、伝統的共和主義(32県アイルランド共和国)から社会主義と市民権活動に重点を移し、軍事主義を放棄
していった。
国会の権威を認める多数派と力によるアイルランド統一の少数派でシン・フェインは1970年分裂。
IRAも
臨時IRA
と
公式IRA
に分裂、
公式IRA
の政治グループは当初
公式シン・フェイン
と称したが1977年
シン・フェイン労働党と名乗る。
北アイルランドでは1981年まで共和クラブついで共和クラブ労働者党となる。1982年両者とも労働者党と名乗る。
1972年5月
公式IRA
が永久戦闘停止を宣言し1970年代政治運動を展開。宗派主義を国民問題とし、北アイルランドでの労働者階級
の統一を優先。1977年
イーゴハン・ハリス
(その後徐々に右に移行、2003年イラク侵攻を強く支持、ネオコンは湾岸民主化に社民より
より多くのことをしたと宣言。)、イーモン・スムレンの”アイルランド産業革命”を政治文書に採用、現行の暴力は労働階級を階級闘争から
目を背けると宣言。
1980年代テロリズムに反対、1981年ハンガー・ストライキにも反対。
1974年停戦と組織問題で
セアムス・コステロ
の
共和社会党
分裂。
コステロ
は公式IRAからも追放される。非公然の
民族解放軍
も
同時結成。
コステロ
は伝統的共和主義軍事主義とマルクス主義志向政治路線を採用、1983年アイルランド政府により禁止される。
1981年
ジョー・シャーロック
が議席を勝ち取り、1982年3人の議員が
フィアナ・フォール
少数政権を支持。
1980年代成長し1987年4名、1989年7名、3.8%から5%となる。
1989年にはダブリンでは11.4%と9.5%の労働党を凌ぐ。指導者の
プロインシアス・デ・ロッサ
はEU議員に選出される。
プロインシアス・デ・ロッサ
のあと1992年
デス・ジェラティ
がUE議員となる。
1980年代末まで伝統的共和主義と初期のスターリン主義を放棄。
1992年
デ・ロッサ
、
デス・ジェラティ
は活動家多数派と議員のほとんどの支持で党の変革をはかるが失敗し(61%支持)
民主左翼
結成。
理由は市場経済受け入れと
公式IRA
が依然として武装し種々の犯罪に関係していること。
党に残った議員
トーマス・マック・ギオラ
は1992年議席を失い(党は0.7%)、1993年ダブリン市長となる。
多くの一般党員は労働者党に残り
マリアン・ドネリー
が指導者となり、1994年
トム・フレンチ
と交代。
1998年
ショーン・ガーランド
と交代、2008年には
ミック・フィネガン
と交代。
2014年マイケル・ドネリーと交代。
2011年選挙は3056票、0.1%。
2015年英選挙では5候補で2724票。
2016年選挙は3242票。
(
民主左翼
)
労働者党
から分裂し1992ー1999年存在し
労働党
に合流。
党の
公式IRA
との結合を断ち切り、民主集中制組織を議会主義組織に変えようとして失敗。
プロインシアス・デ・ロッサ
、
パット・ラビット
、
イーモン・ギルモア
、
パット・マカートン
、
ジョー・シャーロック
、
エリック・ビルン
が参加。
1992年アイルランド選挙
で2.8%、4議席、補欠選挙で2議席獲得。
リッツ・マクマヌス
、
カトリーン・リンチ
が新たに議席を得る。
1994年の
フィアナ・フォール
・
労働党
連立政権崩壊で
フィナ・ガイル
・
労働党
と連立政権参加。
1997年選挙は2.5%で6議席のうち2議席失い、1999年労働党と合流したが北アイルランドのメンバーは除外。
労働党党首
ルアイリ・キン
が新党党首となる。2004年
デ・ロッサ
がEU議員となる。
2002年
パット・ラビット
、
リッツ・マクマヌス
がそれぞれ労働党党首、副党首になる。
2007年選挙後
イーモン・ギルモア
が
パット・ラビット
に代わり労働党党首となる。
〔
社会主義者ネットワーク
〕
2001年旧
労働者党
メンバーが中心となってベルファストとダブリンを拠点に結成。
マルクス主義の伝統にあるが民主集中制と前衛思想に反対し、レーニン主義とトロツキズムを拒否。
2007年選挙にダブリン北西選挙区で立候補し505票獲得。
〔
緑党
〕
1981年ダブリンで教師の
クリストファー・フェット
がアイルランドエコロジー党として結成。
1983年緑連合、1987年緑党となる。
1982年総選挙に7名で0.2%獲得。1989年総選挙で初めて
ロジャー・ガーランド
が議席獲得。
1994年EU議会選挙では7.2%、2議席獲得。(
パトリシア・マッケンナ
、
ヌアラ・アーン
)
1997年総選挙は2.8%、2議席。ダブリンで
ロジャー・ガーランド
のほか
ジョン・ゴームレイ
が議席獲得。
2001年
トレヴァー・サージャント
が最初の指導者となる。
2002年総選挙で3.8%、6議席獲得。
2007年
フィアナ・フォール
、
進歩民主
(保守)との連立政権参加。
2007年党首選は
ジョン・ゴームレイ
と
パトリシア・マッケンナ
で478対263で
ジョン・ゴームレイ
勝利。
パトリシア・マッケンナ
は
フィアナ・フォール
と緑の政権計画に反対。
政権参加で
マッケンナ
のほか、
ブロウェン・マハー
らが離党。
緑党の政権撤退による2011年選挙では1.8%、0議席と敗北。
同選挙には政権参加反対派が
フィス・ヌア
を結成して選挙参加するが5人で938票。
2014年EU選は4.9%、0議席。
2016年
選挙は2.7%、2議席。
2020年選挙は7.1%、12議席。フィアナ・フォール、フィナ・ガイルとの連立政権。
〔
労働Labour党
〕
1912年、
ジェームズ・コノリー
、
ジェームズ・ラーキン
、
ウィリアム・オブライエン
がアイルランド労働組合会議(1894年結成)の政治部門
として、アイルランド労働党を結成。これは1914年議会法でのダブリン議会で労働者を代表する予定であったが、1913年の
ダブリン・ロックアウト
での労働組合の敗北で労働運動が弱体化し、更に1914年の
ラーキン
の移民と、1916年の
コノリー
処刑で党は
更に損害を受けた。
1913年の
ダブリン・ロックアウ
トで労働運動の非公式軍事組織の
アイリッシュ市民軍
ICAが形成され、
ICA
は
1916年反乱
に参加。
これにより
コノリー
は英国銃分隊により処刑された。
英国労働党
がすでにアイルランドで組織されていたが労働党全国執行委員会NECはアイルランド労働党が全アイルランド
での組織権を持つことに同意。ベルファストの労働組合主義者はこれを拒否し、1892年結成(−1924年)の
英国労働党
加盟
の
ベルファスト労働党
が新党の外に存在していた。
ベルファスト労働党
は後に
北アイルランド労働党
(1924−1987年)の中核となった。
ICA
は
ピーダー・オドンネル
の
共和会議
(1934年結成)で復活したが、1935年分裂し、多くはアイルランド労働党に参加。
ラーキン
不在の間
ウィリアム・オブライエン
が
運輸総労働組合
の中心人物となり、労働党に大きな影響を振るった。
オブライエン
は
アイルランド労動組合会議も支配。労働党は
トーマス・ジョンソン
に率いられ、
ダニエル・シーハン
(独立労働議員)の
アイルランド土地
労働協会
(1890年代初期結成)のような組織の後継としてアイルランド憲法制度対する国民投票の形態をとることができるように
1918年総選挙
参加しようとした。アイルランド労働党は参加せず(
シン・フェイン
と
アイルランド議会党
の十字砲火を浴びることを危惧)
ベルファスト労働党
が参加。結果は
シン・フェイン
が46.9%、73議席、
アイルランド連合主義党
が25.3%、22議席、
アイルランド議会党
21.7%、6議席、
ベルファスト労働党
1.2%など。1921年選挙にも参加せずその結果独立闘争の活発な時期に議会(
ダール
)の外にいた。
その間、古
IRA
と英国政府間で
アイルランド独立戦争
(1919・1.−1921.7.)が起こった。
英国アイルランド条約
(1921.12.6.)は党を分断した。あるメンバーは不正規軍と
アイルランド内戦
(1922。6.28.−
1923.5.24.)に参加。
オブライエン
と
ジョンソン
はメンバーに条約を支持するよう促した。
1922年選挙
では128議席中16議席獲得。この年多くのストライキがあり、
1923年選挙
では14議席となった。
1927年に
フィアナ・フォール
(共和党)が議席をもつまで、労働党が
クマン・ナ・ゲール
(ゲール社会、親条約派シン・フェイン結成)政権に
対する主要な反対政党であった。
トーマス・ジョンソン
が1922−1927年指導者、1927−1932年は
トーマス・オコンネル
。
1923年
ラーキン
がアイルランドに戻る。彼は党の主導権を握ろうとして
オブライエン
に拒否され9月、党の急進派と
アイルランド労働者同盟
を結成。1924年
ラーキン
は第5回コミンテルン会議に参加し、執行委員となる。
1932年労働党(
トーマス・オコンネル
)は
エイモン・デ・ヴァレラ
の最初の
フィアナ・フォール
政権を支持、この政権は社会改革綱領を提案した。
1943年選挙では15.7%、17議席で
フィアナ・フォール
41.9%、66議席、
フィナ・ガイル
(統一アイルランド党、1933年結成)
23.1%、32議席につぐ第3党。
ラーキン
と
オブライエン
の不仲は継続し1940年代労働党とアイルランド労動組合会議の分裂を惹き起こした。
1944年
オブライエン
は6名の議員と
民族労働党
を結成、
ジェームズ・エヴェレット
が指導者となった。
1944年選挙は
ウィリアム・ノートン
の
労働党
8議席、
全国労働党
4議席となった。
1948年選挙は
労働党
11.3%、14議席、
民族労働党
5議席。
1947年
ラーキン
が死亡し1950年両党は統合した。
労働党は
1948−1951年
と
1954−1957年
の政党間inter-party政権(第1党
フィアナ・フォール
以外の政党連立、首相
ジョン・コステロ
)
に参加、
ウィリアム・ノートン
が副首相(
ターナステ
)となる。
この時期党は
北アイルランド労働党
以来1948年に
パディ・デヴリン
がベルファストでアイルランド労働党を再建し、北アイルランド
選挙に候補をたて議員を持ったが、1964年
ゲリー・フィット
が離党し
共和労働党
を結成してから選挙に参加していない。
1960年
ブレンダン・コリッシュ
が新指導者となる。彼は党に社会主義的政策を導入した。
1973−1977年に労働党は
フィナ・ガイル
と連立政権樹立(首相
リアム・コスグレイヴ
)、
コリッシュ
が副首相となる。
1977年選挙
で連立敗北。
フランク・クルスキー
が党首となる。
1981−1987年に労働党は
フィナ・ガイル
と連立政権(首相
ガレット・フィッツジェラルド
)に参加、経済不調による社会サービス削減で
不評を買う。
1987年は
ディック・スプリング
のもと6.4%、12議席と4議席減で急進的な
トマス・マック・ギオラ
の
労働者党
の3.8%、4議席
に脅かされる。
1980年代、党は左派と右派が対立、
エメット・スタッグ
らの急進派は主要政党の両中道右派との連立に反対。
1989年新聞ミリタント周辺のグループが追放され
ジョー・ヒギンス
らは
社会党
結成。
1990年
マリー・ロビンソン
が大統領となる。彼女は1985年
英国アイルルランド協定
に反対し党を追放されていた。
彼女は女性最初の大統領で
フィアナ・フォール
以外で2人目であった。
1990年党は
ジム・ケニー
の
民主社会党
と合同、1992年、
デクラン・ブリー
の独立社会党と合同。
1992年選挙は第1優先投票で19.3%と1989年の9.5%から9.9%増、33議席、18議席増。
1993年
フィアナ・フォール
と
アルバート・レイノルズ
の
連立政権
結成し、
ディック・スプリング
が副首相となる。
最高裁議長任命で政府は論争に陥り、党は
レイノルズ
支持をやめ、選挙なしで初めて連立政権交代。
1994年と1997年
フィナ・ガイル
、
民主左翼
と
虹連立
(首相
ジョン・ブルトン
、副首相
ディック・スプリング
)を結成。
1997年選挙
は10.4%、17議席と15議席減、大統領選では
アディ・ロシュ
を
緑党
、
民主左翼
と一緒に立て7%以下、
5人中4番目と失敗。党首が
ルアイリ・キン
に交代。1999年
民主左翼
と合同。
2002年選挙は合同による21議席から20議席、10.8%と不成績で初の党員直接選で旧
民主左翼
の
パット・ラビット
が党首となる。
2004年EU選でダブリンから旧
民主左翼
の
プロインシアス・デ・ロッサ
が議席維持、同日の地方選では史上始めた100以上の州議席
を勝ち取り、ダブリン市とゴールウェイ市で最大党となる
2004年地方選の前に
パット・ラビット
が
フィナ・ガイル
の党首
エンダ・ケニー
と相互乗り入れ協定を支持、党内には反対もあったが多数
は賛成、
労働青年同盟
や
運輸総労組
からは組織的反対があった。
2007年選挙は第1優先投票は10.13%、20議席、
フィナ・ガイル
、労働党、
緑党
は絶対多数派とならず、
フィアナ・フォール
、
緑党
、
進歩民主
が連立政権形成。
パット・ラビット
は党首を辞任、
イーモン・ギルモア
が党首となる。
2011年選挙では19.4%、36議席となりフィナ・ガイルは19議席増70議席、フィアナ・フォールはー58議席減18議席と大敗。
フィナ・ガイルと連立政権形成、これには
トミー・ブルーガン
、
ジョアンナ・タフィ
が反対。
2014年EU選は5.3%で議席失う。
2016年選挙は6.6%、7議席と大敗。ブレンダン・ホウリンが党首となる。
(
北アイルランド労働党
NILP)
1924−1987年まで存在。
1913年
英国労働党
は
アイルランド労働党
にアイルランドの組織権を与えたが、これはベルファストの労働組合活動家には不人気で、
彼らはプロテスタント傾向で広く
連合主義者
であった。
1921年5月の
アイルランド分離
(北東6県と他の26県の分離、自治領
北アイルランド議会
と
アイルランド自由国
となる)で
ベルファスト労働党
(1892年結成
英国労働党
加盟)グループ等がNILP結成。
1942年連合主義者
ハリー・ミジレー
が
連邦労働党
結成。
1943年
ジャック・ベアティー
が唯一の議員となった。
1949年のアイルランド共和国結成で党は英国との連合支持。これではっきりと斜陽化しアイルランド労働党が北アイルランドでの
組織化を試みた。
1950年代から持ち直し、1960年末には10万の支持を得るようになった。
アイルランド問題
の開始とともに
社会民主・労働党
、
北アイルランド同盟党
、
民主連合党
などの出現で後退を示した。
1971年
ブライアアン・ファウルクナー
が党議員の
ダイヴィド・ブリークレー
を大臣に任命したが翌年政権倒壊。
1973年の州の将来についての
国民投票
では英国残留を運動。
1987年党の残党は1985年旧SDLPの
パディ・デヴリン
が結成した
北アイルランド労働党
、
アルスター自由党
、
統一労働党
と
労働87グループを結成し北アイルランドでの
英国労働党
組織化を運動。これは
ニュートンナビー労働党
も支援。
〔
社会民主・労働党
SDLP〕
北アイルランド問題
(1960年代末から1990年代早期の北アイルランド民族主義者と連合主義者の間の30年の暴力紛争)の間の
北アイルランドでの主要な民族主義政党であるが、IRAが停戦してから競争相手の
シン・フェイン
に地位を譲る。
社会民主主義で
社会主義インター
加盟、
欧州社会主義者党
のメンバー。
1970年 6名のストーモントMPと1名のセナター、つまり旧
共和労働党
の国会議員(、
アイルランド労働党
の断片)、
民族民主主義者
(北)、
北アイルランド労働党
メンバー、独立民族主義者などが結成。
ゲリー・フィット
が党首、他に
パディ・デヴリン
等が参加。
当初は
民族党
の棄権主義を拒否し、ストーモント(
北アイルランド国会
)体制での市民権闘争を模索。すぐに改革不能とみて撤退。
3年後に復帰、1974年
ブライアン・ファウルクナー
の
権力共有政権
に
ゲリー・フィット
らが副首相などで参加。
1976年党会議で
デヴリン
、
イヴァン・クーパー
、
セアムス・マロン
とこれを警察に甘いとする
フィット
、
オースティン・キュリー
、
ジョン・ヒューム
(1998年ノーベル平和賞)が対立、
デヴリン
の動議153対111で敗北。
デヴリン
はカトリックとプロテスタントの統一を考えていた。1978年
デヴリン
は
統一労働党
結成、1987年NILP残党と
労働’87
結成。
1980年
フィット
から
ヒューム
に指導者交代し、
フィット
離党。
デヴリン
同様
フィット
はSDLPは社会主義勢力でなくなったと考えた。
デヴリン
、
フィット
らは
ヒューム
は民族主義者であって社会民主主義者でないと考えていた。
SDLPには社会民主主義路線支持者と
臨時IRA
の準軍事路線に反対し市民権運動と平和的統一を支持する立憲主義民族主義者
統一政治運動を主張するものがいた。
またSDLPは合意原則を採用していた。
シン・フェイン
がこれを冷笑している間はその意義があったが、1998年
ベルファスト合意
後、
この合意原則は多くの人に受け入れられた。
1980年代
ヒューム
らはアイルランド共和国と英国の共同支配を支持し、これは諸政党とも一緒であったが、
サッチャー
によって拒絶
された。この反動で1981年
ハンガーストライキ
が起こり、1985年サッチャーと
ガレット・フィッツジェラルド
により
英国・アイルランド協定
が結ばれた。
協定後
ヒューム
らはポスト民族主義政党を標榜した。
ダーカン
は党を共和主義とした。
1998年
ベルファスト協定
が結ばれ
ジョン・ヒューム
は
デイヴィド・トリンブル
とノーベル平和賞受賞。
1999年
セアムス・マロン
が指導者となり、2001年、
マロン
、
ヒューム
が引退、
マーク・ダーカン
と交代。
1999年から
アルスター連合主義者党
、
民主連合主義者党
、
シン・フェイン
との
デイヴィド・トリンブル
(1998−2002年)の
権力共有政権
に
マロン
、
ダーカン
が副首相として参加。
最近は他政党(
フィアナ・フォール
、
フィナ・ガイル
、
アイルランド労働党
)との合同が噂されている。
北アイルランド議会選挙
では
1973年SDLP22.1%、19議席、
NILP
2.6%、1議席。
1975年SDLP23.7%、17議席、
共和クラブ
(
マック・ギオラ
)2.2%、
NILP
(
デイヴィド・ブリークリー
)1.4%、
1982年SDLP18.8%、14議席、
シン・フェイン
10.1%、5議席、労働者党2.7%。
1996年SDLP21.36%、21議席、
シン・フェイン
15.47%、17議席、
2003年
シン・フェイン
23.5%、24議席、SDLP17.0%、18議席、2007年
シン・フェイン
28議席、SDLP16議席。
2011年シン・フェイン29議席、SDLP14議席、2016年シン・フェイン28議席、SDLP12議席。
2010年連合王国選挙
はシン・フェイン171942票、5議席、SDLP110970票、3議席。
2015年連合王国選挙はシン・フェイン4議席、SDLP3議席。
2017年連合王国選挙
はシン・フェイン7議席、SDLP0議席。
[
社会民主
]
2015年、スティーヴン・ドネリー、キャサリン・マーフィ(元労働者党、民主左翼)、ロイシン・ショータル(元労働党)の3議員が結成。
2016年選挙では3名当選するが、まもなくスティーヴン・ドネリーが離党、フィナ・ガイルに参加。
2020年選挙は2.9%、6議席。
[
独立4変革
]
2014年結成。2016年選挙でミック・ワラス、クレア・ダリ(元社会党)、ジョーン・コリンズ(元社会党)4名当選。
まもなくそのうちのトミー・ブルガン(元労働党が離党。
2019年EU選ではミック・ワラス、クレア・ダリがMEPとなる。
(
民主社会党
)
1972年
ジム・ケニー
が
労働党
から離党して結成。労働党左派の立場で北アイルランドに関する民族主義傾向に反対し、世俗主義
の立場で産児制限、離婚、中絶などの問題に対するカトリックの関与に反対。
英国・アイルランド共産主義者組織
BICOを惹き付け、1982年
アイルランド社会党(1971年)
が参加。
1990年労働党に合流。多くの旧
BICO
メンバーは1992年の
民主左翼
結成でこれに参加。
(
社会党
) 1971−1988年
1971年旧
公式シン・フェイン
メンバーがダブリンで結成。CPIに対する強硬路線ML主義の選択肢と自称。
1970年代民族問題について同じ路線の
英国・アイルランド共産主義者組織
BICO、
ジム・ケニー
の
民主社会党
と交渉が進み、
民主社会党
に合流。
〔
社会党
〕 1996−
1970年代から1980年代労働党に加入し、
ミリタント労働
を結成し、1989年アイルランド労働党から追放された
ミリタント傾向
が
1996年結成した小トロツキストグループ。
労働者インター委員会
に所属。
1996年
北アイルランドフォーラム選挙
で
ミリタント労働
、
北アイルランド労働党
、
ニュートンナビー労働党
が
労働連合
結成し
0.85%しか獲得できず。
1997年、2002年
ジョー・ヒギンズ
が国会議席確保。
2007年選挙
は0.64%で議席確保できず。
他に市議として
ミック・マーフィ
(元学生運動活動家)、
クレア・ダリ
(元学生運動活動家)、
ルス・コピンガー
ら。
2009年欧州議会選挙で
ジョー・ヒギンズ
が当選。
2011年選挙
では
利益の前に人民連合
(2005年社会主義労働者党が結成)、
労働者失業者行動グループ
(クロンメル拠点に1985年結成)
および旧労働党メンバー(
デクラン・ブレー
ら)と選挙連合の
統一左翼連合
を結成し、2.7%、ダブリン地域を中心に5議席獲得。
ジョー・ヒギンズ
ら社会党2名、
利益の前の人民連合
2名、
労働者失業者行動グループ
1名。
統一左翼連合
は社会主義民主(第4インター)の支持も受けた。
2014年EU選は1.8%で議席失う。反緊縮連合AAA結成。
2016年選挙はAAA−PBPで
ルス・コピンガー
、
ポール・マーフィ
再選、
ミック・バリー
も当選。
2017年、AAAは
連帯
となる。
2019年、ポール・マーフィがライズRISE結成。
〔
統一左翼
〕
2013年社会党議員のクレア・ダリーと
利益の前に人民連合
のジョーン・コリンズが結成。
〔
英国・アイルランド共産主義者組織
BICO〕
アイルランド大衆のために公式共産主義者組織に反対するロンドン在住アイルランド人により主に構成された
アイルランド共産主義者グループが1965年分裂。毛派はアイルランド共産主義者組織ICO、のちに
英国・アイルランド共産主義者
組織
となる。指導者はブレンダン・クリフォード。
ゲリー・ローレス率いる広範なトロツキスト・グループは
アイルランド労働者グループ
となった。
ゲリー・ローレスらは
シ−ル・エーレ
(1967−1975年)に関係した。
アイルランド労働者グループ
は1968年
労働者共和国同盟
を結成。
他のアイルランド共産主義者グループのメンバーとして
SWP
の
イーモン・マッカン
、
人民民主
の
マイケル・ファレル
。
北アイルランド危機ではICOは当初プロテスタントの攻撃からカトリック地域防衛に参加。また2民族論を採用。
1974年
ブリテン諸島共産主義者組織
COBI分裂。
BICOは1970年代アイルランド社会党と協力を始めた。1972年一部が
民主社会党
に参加。
以降COBIは定見のない策動を行っている。
(
アイルランド労働者グループ
)
アイルランド労働者連合に起源し種々のマルクス主義者グループを含む。アイルランド共和主義を背景とするものやゲリー・ローレス
は
シ−ル・エーレ
に参加。
毛派とトロツキストに分裂。毛派は
ブリテン・アイルランド共産主義者組織
となる。トロツキストはアイルランド労働者グループIWGとなる。
1967年までにIWGはロンドンの亡命活動家を拠点とし活動に失敗、雑誌を
ショーン・マットガンマ
に渡す。
他のメンバーでは
SWP
指導者
イーモン・マッカン
と
人民民主
の
マイケル・ファレル
に影響を与えた。1960年代末までに存在停止。
1976年に
社会主義労働者運動
から分裂したグループもアイルランド労働者グループを名乗る。
〔
労働者共和国同盟
LWR〕
1968年
アイルランド労働者グループ
によって結成。
ICFI
加盟。
英国のアイルランド移住者を中心とする
アイルランド労働者グループ
はブレンダン・クリフォードの毛派のアイルランド共産主義者組織ICと
ピーター・グラハム、
ショーン・マットガンマ
、ゲリー・ローレスのトロツキストに分裂。
このグループはロンドンを拠点としているためアイルランドでは不活発。
パディー・ヒーリー
(元アイルランド教師連合議長)、キャロル・クルター、バジル・ミラー(学生活動家)などが主要人物。
英国トロツキストの影響と国際組織加盟問題で分裂発生。
1970年
ICFI
支持少数派が
労働者前衛同盟
として分裂。1972年の
ICFI
分裂で労働者同盟となる。1978年解散。
1972年
革命的マルクス主義グループ
分裂(
USFI
支持派)、1976年社会主義共和国運動となり1978年
社会主義民主
に参加。
このグループではベティ・プルセル、アン・スピード(シン・フェイン)が著名。
1971年
社会主義労働連合
結成でメンバー参加。パディー・ヒーリーらは労働党で活動。
1970年代中期
社会主義労働党
に参加。
パディー・ヒーリー、キャロル・クルターらが1987年フランス人
ピエール・ランベール
と衝突。キャロル・クルター、
アレックス・ホワイト
(労働党)らはトロツキズムから離れる。パディー・ヒーリー、
セアムス・ヒーリー
(2000−2007年TD、2007年元同グループの労働党
フィル・プレンダーガスト
に敗北!落選後撤退)らは留まる。
セアムス・ヒーリー
は1985年南ティペラリで
労働者失業者行動グループ
を結成し成功する。
(革命的社会党 RSP) 1944−1947年 <
アイルランドのトロツキスト
>
最初のアイルランドの公然
トロツキスト
党、オブライエンとラーキンの反目によるアイルランド労働組合運動と労働党の分裂に
引き続き形成された。
間もなく消滅、
マット・メリガン
が青年メンバーであった。
1941年までに第4インターに加入していないが2つの小さなトロツキスト・グループが存在。
一方はベルファストで共和社会党内に、もう一方はダブリンでアイルランド労働党内に。
しかし1943年までに労働党内のトロツキストは厳しい状況におかれ党から撤退し北アイルランドのトロツキストと革命的社会党RSPを
結成し1944年ありうは1946年に第4インター支部として認められる。RSPは約80名から出発。
これはソ連評価をめぐり分裂し1947年に消滅。結局トロツキスト組織の再建は1965年のアイルランド労働者グループ結成による。
(
社会主義労働党
SLP)
1977年、ATGWAのダブリン書記の
マット・メリガン
と国会議員
ノエル・ブラウン
、ジャーナリストの
ブライアン・トレンチ
らが結成。
ノエル・ブラウン
は
クラン・ナ・ポブラヒタ
、
フィアナ・フォール
、
民族進歩民主
、労働党、SLPと渡り歩いてきた。
設立者は1975―1976年にフィアナ・ファイルとフィアナ・ゲールの既成政党によるアイルランド社会の文化的・経済的不毛と向かい合う
ことを目的とする進歩組織と個人の連合組織、左翼選択を樹立しようとした労働左翼連絡委員会の出身であった。
1980年代初期まで民族主義色を強め、1981年
ノエル・ブラウン
が離脱。
SLPは党内に分派形成を認めた。最も著名なのは
社会主義労働者運動
の周辺に形成された社会主義労働者傾向で1980年離脱、
アイルランド労働者グループ
周辺に組織された行動のための労働者連合は1979年離脱、
人民民主
周辺の共和社会主義傾向も1979年
離脱。SLPは1982年解散。
〔
社会主義労働者党
SWP〕
SWPは社会主義労働者運動SWMに起源する。
社会主義労働者運動SWMは英国の
国際社会主義者
(今の
SWP
)の北アイルランド支持者が1971年結成。
これらは以前は
人民民主
、ウォーターフォード社会主義運動、青年社会主義者のメンバーであった。
多くのメンバーは新しい
社会主義労働連合
で活動していた。
SWMの一部は分裂して
アイルランド労働者グループ
を結成、のちに
労働者の力
となった。
1977年にSLPが結成されるとSWMはこれに参加、分派社会主義労働者傾向を結成。
1980年にSWMを一新するためにSLPを離脱。SWMは長い間
労働者党
のようなスターリニスト組織の影にかくれていたが1989年
の東欧陣営崩壊後成長。SWMはスタリニスト官僚の国家資本主義への革命としてこれを支持。トリニティー・カレッジやダブリン大などに
主要なグループを形成。
1995年SWPとなる。1997年から国会や地方政府選挙に参加しているがほとんど成功を収めていない。
2007年総選挙では”
利益の前の人民連合
”の旗で4人の候補(うち3人がSWP、
リチャード・ボイド・バレット
ら)をたてた。
ジャーナリストの
イーモン・マッカン
が著名、彼は2004年EU選挙で北アイルランド選挙区で
社会主義環境連合
(
ゴレッティ・ホーガン
)
として9127票、1.6%獲得。
国際社会主義傾向
所属。
主な人物は
ブライアン・マニング
(歴史家)、
コノール・コスティック
、キーラン・アレン(社会学者)、
ジョン・デ・クルシー・アイルランド
、
ジム・ケリー(労働運動指導者)など。
ロリー・ハールンはトリニティー・カレッジ学生連合の代表で
アイルランド学生連合
の副代表。
2011年選挙
では
利益の前に人民連合
と
統一左翼連合
の連合で
利益の前に人民
1.0%、2議席、
統一左翼連合
1.2%、2議席、労働者・失業者行動
グループ0.4%、1議席(シームス・ヒーリー)。SWPは
リチャード・ボイド・バレット
が統一左翼連合で当選
2016年選挙はAAA−PBPで6議席、リチャード・ボイド・バレットらが当選。
〔
反緊縮連合AAA−利益の前に人民PBP
〕
2015年、AAAとPBPにより結成。
AAAは2014年発足(社会党結成)、PBP連合は2005年SWPが結成。
2011年選挙でPBP−
統一左翼連合
(2011年社会党、労働者失業者行動グループげ結成)でジョーン・コリンズら2議席獲得。
2013年ジョーン・コリンズはクレア・ダリーと統一左翼結成。
2016年選挙で6議席獲得。(連帯3、PBP3)
リチャード・ボイド・バレット(SWP)、
ルス・コピンガー
(社会党)、
ポール・マーフィ
(社会党)、
ミック・バリー
(1989年労働党から追放)など。
2017年からAAAは
連帯
となる。2019年、ポール・マーフィがライズRISE結成。
2020年選挙では2.6%、5議席。
〔
社会主義環境連合
〕
デリー拠点のトロツキスト傾斜組織。過去に
アイルランド共産党
と
ニュートンナビー労働党
(
北アイルランド労働党
から1970年代独立)
の支援を受けていたが主に
SWP
で活動。2003年北アイルランド選挙で
イーモン・マッカン
らが立候補。
2004年EU選挙では
イーモン・マッカン
が1.6%、
2007年北選挙
は0.3%。
〔
労働者の力
〕
1970年代社会主義労働者運動での分派から発展、1976年追放されアイルランド労働者グループを結成。
これは
第5インター同盟
L5Iに加盟。
2000年代までに雑誌階級闘争を廃止、英国の
労働者の力
の雑誌を配布。
ダブリン、デリー、ゴールウェイなどで活動。臨時IRAを支持。
労働者共和国同盟、社会主義民主、
社会主義労働者運動
を民族主義、中道主義と批判。今日まで
継続IRA
(1986年臨時IRA
から分裂)や
真のIRA
(1997年臨時IRAから分裂)を反英帝戦闘勢力として支持。
2006年ほとんどのアイルランド人
L5I
支持者は英国の
永続革命
グループとともに
L5I
から追放される。
〔
人民民主
PD〕
1968年10月5日の王立アルスター警察の
北アイルランド市民権協会
NICRAのデリー行進襲撃のあと結成。
NICRA
より急進な北アイルランド政府の改革を要求。
王立大ベルファスト学生の
ベルナデット・デヴリン
、
マイケル・ファレル
、
シリル・トマン
らが結成に参加。
PD
は1960年代のクイーンズ大の労働クラブ(労働学生の先駆)と青年社会主義者連合を握った種々の左派学生メンバーから生まれた。
1968年事件以来PDはますます急進化し多くのメンバーが毛沢東主義に向かった。
1971年
社会主義労働連合
結成に参加。
1970年代にダブリンを基礎とする
社会主義共和国運動
と合流しトロツキズムの立場に展開、1976年
再統一第4インター
のアイルランド
支部となる。
1970年代中期アルスター王党派をファシストとしてアイルランド共和主義政府支持を要求するグループは離脱し
左翼革命グループ
結成。
コノグループは1976年
赤色共和党
となり1978年消滅。
1969−1974年
ベルナデット・デヴリン
がウェストミンスターから議席を確保。
シン・フェインが選挙をボイコットしていた1980年代、ベルファスト市議会に
フェルグス・オハレ
ら2議席確保。
PD
は批判的に臨時IRAを支持。
1979年のHブロック結成で70年代末から80年代初めに左傾化したシン・フェイン参加が議論となった。
シン・フェインのボイコット終了で
PD
は政治危機に陥った。
1982年から活動家は
PD
を離れシン・フェイン参加。
1986年少数派はSF参加、多数派は小情宣グループとなる。
1990年代初期マルクス主義綱領アイルランド委員会に着手、1996年これが終焉、
社会主義民主
となる。
社会主義民主
はベルファスト拠点の小グループ、2004年この都市の以前の
SWP
メンバーグループの国際社会主義者と合流。
〔
社会主義労働連合
〕
1970年青年社会主義者を含む労働党メンバーにより社会主義労働行動グループが結成される。
1971年結成会議には個人のほか人民民主、青年社会主義者、
労働者共和国同盟
、ウォターフォード社会主義運動が参加。
ついで参加者・組織の多くは
社会主義労働者運動
、
革命的マルクス主義グループ
を結成。
(
シ−ル・エーレ
) (1967−1975年)
IRAメンバーとトロツキストからなる急進アイルランド共和組織。
1967年青年社会主義者のピーター・グラハム、モリーン・キーガン、
アイルランド労働者グループ
のゲリー・ローレス、前のIRAの
ダブリン旅団の司令官フランク・キーンらが結成。
シ−ル・エーレ
は都市ゲリラを志向。労働者階級が武装闘争に中心と考える。
1967−1970年に銀行強盗を実行。メンバーの死亡などにより1975年解散。
〔
アイルランド共和社会党
〕
1974年12月以前の公式共和運動、独立社会主義者、労働組合活動家などがシン・フェインと公式IRA指導者
セアムス・コステロ
に
率いられ結成。同日
アイルランド民族解放軍
を非公然に結成。
アイルランド共和社会主義運動
と称する。
コステロ
は
公式IRA
と
公式シン・フェイン
から追放される。1977年
コステロ
が暗殺される。ついで3名のメンバーが暗殺される。
1981年の
ハンガー・ストライキ
で3名のメンバー死亡。1981年ゲリー・ケリーとショーン・フリンが
人民民主
と共同でベルファスト市議
当選。1982年の
ドロッピン・ウェル爆撃
に関与。
ベルファスト合意
と
平和過程
に反対。
[シーラ
]
反対派アイルランド共和主義者が2016年結成。