<<アイルランドの左翼>>


共産党CPI〕 Pairti Cumannach na hEireann 党史 歴史

 スコットランド社会主義連合の活動家であったジェームズ・コノリーにより1896年アイルランド社会主義共和党ISRP
が結成される。
 コノリーは民族解放と社会主義が両立できると考えた。
 この党はダブリンにしか活動的支部は結成できなかった。その他はコーク、ベルファストは不成功。
 コノリーは内部衝突で1903年米国に去った。
 更なる分裂により反コノリーの小組織アイルランド社会主義労働党が結成されるが1904年に解散。
 コノリーは他の幹部エドワード・スチュワートと労働組合や選挙戦術で衝突。
 コノリー不在中に党は1909年アイルランド社会党として再建されるが再び不活発となる。
 ISRPの他のメンバーとしてウィリアム・オブライエン(アイルランド労働組合運動の主導的人物となる)、コン・レハンらが著名。
 コノリーは1910年米国から戻ってからは運輸総労働組合ITGWUのジェームズ・ラーキンの片腕となる。
 コノリーは革命は革命党よりワン・ビッグ・組合から生じると考え主に運輸総労働組合アイリッシュ市民軍に従事。
 コノリーは1913年、ロックアウトに対抗し、労働者を守るためにジャック・ホワイトと共にアイリッシュ市民軍を結成。
 コノリーは1912年アイルランド労働党結成。
 1916年反乱にコノリーはアイリッシュ市民軍と参加し、英国により処刑される。

 英国の造船所労働者全国組合NUDLの組織者であったジェイムズ・ラーキンは1907年ベルファストで組織化活動を開始。
 ストライキの処理をめぐってNUDL幹部と衝突し1908年南に移り組織化活動を行い、ITGWU結成。
 1911年新聞アイリッシュ労働者発行。1912年コノリーアイルランド労働党結成。
 1914年労働紛争の失敗によりラーキンは米国に行き(ウィリアム・オブライエンが組合指導者となる)、1923年戻る。

 アイルランド社会主義共和党残党とダブリンを拠点とする社会主義者グループをもとにベルファストとコークでアイルランド社会党展開。
 1910年全国協議会でフランシス・スケフィントン(党首)、ウィリアム・オブライエンマイケル・マリン(書記)、ジェームズ・コノリー
(全国組織者)らが指導者となる。
 第1次世界大戦で1917年反戦争派と親戦争派に分裂し事実上崩壊。
 ロシア革命の影響下、ダブリンでショーン・オカシー ,ウィリアム・オブライエンカザール・オシャノンらが社会党を復活させ、ロディー・コノリー
リアム・オフラエルティ 、ジョージ・ポロック(グラスゴーから亡命)らが残党確保、オブライエンオシャノンを追放しアイルランド共産党
として再建。
 1917年のロシア2月革命のあと社会党が再び再建されるが独立戦争で活動できず。その後活動開始するがロシア革命全面支持・、
コミンテルン加盟派とコミンテルン加盟と共産党化反対の古参のウィリアム・オブライエンカザール・オシャノンに分裂。
 ジェームズ・コノリーの息子ロディー・コノリーが勝利、1921年アイルランド社会党共産主義インター加盟により共産党と党名変更、
ロディー・コノリーが指導者となり、リアム・オフラエルティを編集者として新聞”労働者共和国”発行。
 内戦で共産党は反条約側で戦う。1923年ラーキンが米国から帰国。
 1923年、ジェイムズ・ラーキンアイルランド労働者同盟IWLを結成したがこれは党として組織されなかった。
 一方、アイルランド共産党はラーキンにより解散される。(党史)
 1924年ラーキンはコミンテルン会議に参加し、執行委員となる。最初の年の最も著名な活動は反条約派IRAの救援活動。
 ラーキンがコミンテルンで不在中、兄弟のピーターが運輸総労働組合の支持者によりアイルランド労働連合WUIを結成。
 これは急速に拡大し赤色労働組合インターに加盟。しかしIWLとWUIはラーキンの矛盾し独裁的性格で成長がとまる。
 1925年1月コミンテルンは英国人共産主義者のボブ・スチュワートをラーキンと協力して共産党結成のため送り込む。
 5月の結成会議にはラーキンが参加せず延期。
 1927年9月選挙でラーキンが北ダブリンから当選、これは1997年のジョー・ヒギンズ社会党)までの自称共産主義者の唯一の例。
 ウィリアム・オブライエンとの金銭問題で議席を維持できず。1930年代ラーキンとソ連の関係悪化、1940年代初めラーキンは労働党
に加入。
 ラーキンの最後のコミンテルンとの関係は1928年モスクワのレーニン学校にショーン・ムレイ、息子ジェームズ・ラーキン・Jr、
ベン・バクレーを送ったことである。このなかでショーン・ムレイだけが共産主義運動を継続した。
 ショーン・ムレイが1931−1941年まで共産主義運動の主導権を握る。

 1927年ノラ・コノリー・オブライエンジェームズ・コノリーの娘)、ロディー・コノリーらが革命的労働者・労働農民党を結成、ラーキンを通さず
コンテルンの承認を得ようとして失敗、この組織は数ヶ月したもたなかった。(党史)
 ノラ・コノリー・オブライエンは1930年代トロツキーと交通し欧州の著名な非スターリン主義者左翼となった。

 ロディー・コノリージェームズ・コノリーの息子で1916年のイースター蜂起に参加、1917年社会党に参加。
 1920―1921年に数回ロシアに旅しレーニンと関係をもち、ソ連指導者の影響を受けた。
 共産党結成を支援し最初の指導者となった。1921年12月条約に反対し、内戦では共和国勢力で戦った。
 内戦後コミンテルンから派遣されたミハイル・ボロディンが指揮するが1924年コミンテルンによりCPIは解散させられ(ウィキペディア)、
 1926年労働者党結成、これも1927年モスクワにより解散させられた。
 1926−1927年コミンテルンが支持したアイルランド労働者同盟IWLに反対してアイルランド労働者党結成。
 共和主義者のシャルロット・デスパードマウド・ゴーンショーン・マクブライド母)らと旧共産党のロディー・コノリー、ジョージ・ポロックを含む。
 1927年2月コミンテルンは加盟を拒否し解散しIWL参加を要求、コノリーらは応じたがポロックは拒否、1927年秋まで崩壊。
 コノリーは1928年労働党に参加、1934年共和会議に参加。
 コノリーは1943年労働党から国会議員となり1971―1978年には党議長となる。

 共産党結成のため1929年革命的労働者グループが形成され、これにはコノリー・クラブ(1926年ロディー・コノリー設立)・メンバーが関係。
 他にベティ・シンクレアジム・グラルトン(1933年国外追放され米国移住)。
 1933年革命的労働者グループにより現在の共産党CPIが結成される。
 1933年6月新共産党CPIが結成会合が開かれジェームズ・ラーキン・Jrが議長、ショーン・ムレイが書記長となる。
 再建にはビル・ガノンらも参加。
 1933年3月極右により革命的労働者グループの本部コノリー・ハウスが襲撃される。これは1930年代のアイルランドの反共主義
を象徴する。

 党は1936−1939年のスペイン戦争のアイルランド志願者の中核となり多くのメンバーが死亡。

 1941年共和国の党が活動停止、北地区では北アイルランド共産党CPNIが活動継続。
 CPNIはその後斜陽したがアイルランド労働党は北アイルランドには存在しなかったので労働組合により左翼政治に大衆的影響を与え、
IRAを政治化しようとした。1960年末市民権協会NICRAにより頂点を迎えた。

 ベティ・シンクレアが1942−1945年の書記。CPNIは1945年北アイルランド総選挙で3名の候補で3.5%獲得。

 一方マイケル・オリオーダンらが1948年共和国でアイルランド労働者同盟の名で再建、1962年アイルランド労働者党と変更。
 アイルランド労働者党はアイルランド労働党に加入を行った。
 オリオーダンアイルランド労働者同盟、アイルランド労働者党、アイルランド共産党の指導者を長年勤めた。

 1970年2つの組織がアイルランド共産党として再統合。
 20世紀前半初期はアイルランドの権威的、厳格カトリック政治文化を変えることができなかった。
 1976年頃ユーロ共産主義者グループ、アイルランドマルクス主義者協会が分裂、これはマルクス主義フェミニズムを支持。
 また北アイルランドの2民族理論を否定。ほとんどのマルクス主義者協会メンバーは後に労働党に参加。

 1960年代から1980年代初めまで着実に成長、1980年代末ソ連の崩壊で衰退したが1990年代を生き残り、再建。
 強く新リベラル主義と欧州連合に反対、キューバとヴェネズエラを強く支持。

 選挙ではほとんど候補をたてず、成功したこともないが、労働組合運動には大きな影響をもっており、北アイルランド市民権協会
NICRAに活発に関係している。また多くの著名な労働党メンバーがかつて共産党員あるいはその青年組織(コノリー青年運動)
メンバーであった。労働党のデクラン・ブレーコノリー青年運動のメンバーであった、またコノリー青年運動マッジ・ダヴィソン
NICRAの活動家で1972年1月30日の血の日曜日のデモに参加。
 NICRAは1967年1月ベルファストで、共和クラブ(のち労働者党)、北アイルランド労働党アルスター自由党、社会正義委員会、
アイルランド共産党CPI、アイルランド労働組合会議により結成される。
 指導的メンバーはノエル・ハリス、コン・マクルスキー、デレク・オブライエン・ピータース(CPI)やウォルフェ・トーン協会メンバー、他の
活動家はベティ・シンクレアビリー・マクミレンパディ・デヴリンなど。

 NICRAデリー住宅行動委員会が1968年10月5日のデリー行進を組織、プロテスタントのデリー少年師弟団が介入宣言し、
北アイルランド政府が行進禁止、禁止に挑戦した行進を国王警察が襲撃、RTEがこれを放送。
 これによりクイーンズ大ベルファストのベルナデット・デヴリンらがより急進な人民民主結成。
 人民民主はマルティン・ルターのモントゴメリー行進を範にとり1969年1月ベルファス−デリー行進を強行。行進は道々で王党派の
襲撃を受け、バーントレットで大襲撃を受ける、公式IRAから臨時IRAが分裂しカトリック地域を防衛。
 英国政府は多くの人々を裁判なしで拘留、NICRAの1972年1月30日のデリーでの拘留反対行進で英軍により13名が殺され、
血の日曜日となる。


共和会議)  歴史  

 1934年左派共和主義者がIRAから去り、結成。
 ペダール・オドンネルフランク・ライアンジョージ・ギルモアなどの古参IRAが率いた。
 アイルランドの労働者共和国を目標としていた。

 1930−1931年にはIRAの著名メンバーのペダール・オドンネル、マイケル・フィリッツパトリック、ドナル・オコンノルらにより
労働者革命党WRPが結成されたが英国政府により1931年禁止。メンバーはシール・エーレ結成に関係。

 1931年9月IRAの共産主義傾斜メンバーによりシール・エーレ(自由アイルランド)が結成された。
 設立メンバーで著名なのは前のアン・ポブラヒタ(共和国)編集者でIRAの左派の指導的人物のペダール・オドンネル
 シール・エーレは労働者と労働農民の組織と規定。その他ジョージ・ギルモアフランク・ライアンダヴィド・フィッツジェラルド
ショーン・ハイエスショーン・マクブライド(1974年ノーベル平和賞受賞)、マイケル・フィリッツパトリック、シェイラ・ハンフレイズ
クマン・ナ・ムバン)など。ローマン・カトリック教会により共産主義的と否定されクマン・ナ・ゲール政権により禁止。

 1934年3月のIRA軍大会での社会主義者の提案拒絶によりフランク・ライアンペダール・オドンネルジョージ・ギルモアが辞任。
 社会主義によるアイルランド共和国を望むメンバーによる共和会議の4月集会で9月年会開催決定
 1934年の共和主義者大会で共和会議支持者とIRAメンバーが衝突、17000のうち会議支持者は約600―2000と推定された。
 IRA指導部は自分たち以外が旗をかかげるのを禁止した。
 一部急進派は資本主義打倒のためプロテスタント、カトリック、国教反対派の統一という標語を主張しIDA指導部から共産主義として
反対された。
 1934年9月の最初の年会で2つに分裂、一方は主要政党体制打破と共和国のための左翼共和派の統一戦線を主張、
オドンネルライアンギルモア、ボビー・エドワーズ)、反対派(マイケル・プライスロディー・コノリー、その妹ノラ・コノリー(のち
トロツキーと交流))は労働者共和国のための政党(労働者共和党)を主張。前者の決議がオドンネルとCPIの支持で通り、労働者共和国派
は会議から離脱。グループは斜陽に陥り、1936年事実上解散。
 会議メンバーはスペイン戦争でコノリー縦隊として共和国側で戦い最後の凱歌をあげた。
 1936年7月のスペイン戦争勃発時にナチス下のオリンピックに反対して開催された人民オリンピックでバルセロナにいた、
ペダール・オドンネルがアイルランドに戻り人民戦線政府支援の志願部隊結成に動いた。多くはIRAないし共和会議メンバーであった。
 旧IRAメンバーで1927年共産党に加わったビル・ガノンが募兵・組織化で重要な役割を果たした。
 フランコ側にはアイルランドの準ファシスト青シャツにより800のアイルランド部隊が送られていた。
 1930年代IRAと青シャツは街頭で抗争を行っていた。
 国際義勇軍にはマイケル・オリオーダンチャールズ・ドネリーピーター・オコンネルリアム・トゥミルソンベン・ムレーなどが参加。
 フランコを支持したカトリック下のアイルランドで国際義勇軍参加者は厳しい状況に置かれた。
 アイルランドのフォーク歌手クリス・ムーアは国際旅団で戦ったアイルランド人義勇兵のためヴィヴァ・ラ・キンタ・ブリゲードを捧げた。

 コノリー・クラブが1938年ロンドンで出発したコノリー協会は多くの共和会議のロンドン・メンバーを含んでいた。
 機関紙アイルランドの自由が1939年発行されこれは1945年アイルランド民主主義者となった。
 1948−1988年の編集者C.デスモンド・グレーヴズ(歴史家、)が大きな影響を与えた。
 その他アンソニー・クフラン、同様な組織に1997年設立のウォルフェ・トーン協会がある。

シン・フェイン

 1900年アルトゥール・グリフィスらが民族主義・分離主義者の結集のため古クマン・ナ・ゲール結成。これがもとになり1905年
アルトゥール・グリフィスエドワード・マルティンジョン・スウィートマンらによりシン・フェイン党が結成された。
 1916年アイルランド共和同胞同盟(1858年ジェームズ・ステフェンスが結成)により組織されたイースター反乱(1916年
4月24−30日、パトリック・ピアス率いるアイルランド志願兵(1913年結成、のちIRA)にジェームズ・コノリーアイルランド市民軍
クマン・ナ・ムバン(女性同盟、1914年結成)が参加、ダブリンの主要拠点を占拠し、英国からのアイルランド共和国独立を宣言、
6日間の戦闘のあと指導者は処刑された)のあとこれはシン・フェインの反乱とされた。
 生き残った反乱指導者は集団でシン・フェインに参加、共和国宣揚の手段としようとした。その結果グリフィスのアングロ−アイリッシュ
2重王制支持の当初のメンバーとエイマン・デ・ヴァレラの共和国達成派が衝突。1917年グリフィスが指導者を退きヴァレラに代わった。
 シン・フェインは1917年の会議で初めて共和国確立を宣言、グリフィスはスカンジナヴィアのような君主制を支持。
 シン・フェインジョン・マクスウェルによる反乱指導者の処刑(パトリック・ピアストム・クラークトーマス・マクドナーら16名)への怒り
で後押しされた。シン・フェインジョン・レドモンドアイルランド議会党と闘った。
 1918年選挙結果はシン・フェインが46.9%、73議席、アイルランド連合主義党が25.3%、22議席、アイルランド議会党
21.7%、6議席など。
 1919年1月21日、第1回アイルランド議会ダイル)が開催され、不在のヴァレラグリフィスに代わりカハル・ブルー議長となり、
1916年の宣言を再確認しアイルランド独立を宣言アイルランド志願兵アイルランド共和国軍IRAとして再構成された。

 独立戦争は1月19日から衝突が始まり、議会は5月11日、議長のヴァレラが公式に交戦状態存在を承認。
 マイケル・コリンズが独立運動の中心人物であった。南での戦いは7月11日でほとんど終わったが北では1922年夏まで続いた。
 1921年5月選挙北アイルランドアルスター連合主義者党66.9%、40議席、シン・フェイン20.5%、6議席、
民族主義者党11.8%、6議席。(実際の投票は行われず)はシン・フェインが128議席中124議席。
 (共和国大統領はヴァレラ(1921.8.−1922.1.)、グリフィス(1922,1.−8.)、コスグレイヴ(1922.8.−12.))

 当初のIRAは1921年12月の英国アイルランド条約のあと1922年分裂、条約支持派はマイケル・コリンズのもと国民軍を結成。
 1922年6月選挙(南アイルランド)はマイケル・コリンズの親条約派45.3%、58議席、ヴァレラの反条約派28.1%、36議席
労働党13.3%、16議席など。

 英国アイルランド条約により英連邦自治領アイルランド自由国(1922−1937年)が成立。
 ジョン・オケリーらは1919年樹立のアイルランド共和国(英国政府とIRA独立戦争中存続)の継続を主張。

 1922年4月14日反条約派IRAエルニー・オマリートム・バリー)は臨時政府防衛のため行動を開始、コリンズ選挙の結果
まって行動しなかったが、6月28日コリンズは英国の協力でこれを攻撃、これにより28日ダブリンで戦闘勃発
 反対派はヴァレラカハル・ブルー(7月戦闘中死亡)ら、賛成派はコリンズ(8月戦闘中死亡)、グリフィスリチャード・ムルカーイなど。
 7−8月で自由国の攻撃は終わり反条約派の勝利の可能性はなくなった。このあと8ヶ月のゲリラ戦の後、1923年、4月リアム・リンチ
の死亡後、30日フランク・アイケンが戦闘停止を命令。

 1922年6月−1923年4月のアイルランド内戦(親条約派:国民軍と反条約共和派:IRA、のちのフィナ・ガイルフィアナ・フォール
のあと1923年親英国アイルランド条約派シン・フェイン国会議員TDクマン・ナ・ゲール(ゲール社会)結成。
 自由国の最初の首相はウィリアム・コスグレイヴ(1922.12.−1932.3.)

 1923年選挙ウィリアム・コスグレイヴクマン・ナ・ゲール38.9%、63議席、ヴァレラシン・フェイン26.1%、44議席、
トーマス・ジョンソン労働党12.4%、14議席など。反条約派シン・フェイン議会を棄権
 1925年北アイルランド選挙はアルスター連合主義党61.5%、32議席、民族主義者党19.2%、10議席など。

 1926年シン・フェインが小差で自由国家憲法受け入れを拒否しヴァレラが辞任、ジョン・オケリーシン・フェインの指導者となる。
 ヴァレラフィアナ・フォール(共和党)を結成し自由国での棄権主義を放棄。この党は1932年以来議会最大党で1932−
1948年、1951−1954年、1957−1973年、1977−1981年、1982年、1987−1994年1997−に政権獲得。
 1927年6月選挙はクマン・ナ・ゲール27.5%、47議席、フィアナ・フォール26.1%、44議席、労働党13.8%、22議席、
ジョン・オケリーシン・フェイン5議席。9月選挙はクマン・ナ・ゲール39.8%、61議席、フィアナ・フォール37.3%、57議席、
労働党13議席、ジェイムズ・ラーキンアイルランド労働同盟1議席、シン・フェイン0議席。シン・フェインは分裂により参加せず。
 1932年フィアナ・フォール44.5%、72議席、クマン・ナ・ゲール35.3%、56議席、労働党7.7%、7議席など。
 クマン・ナ・ゲールフィアナ・フォールを共産主義者と規定し、ヴァレラをスターリンになぞらえた。
 1932年3月首相のヴァレラ(1932.3.−1937.12.)がIRA禁止法を廃止。

 クマン・ナ・ゲール民族中央党(1932年農民党などが結成)、軍同志協会(1932年エオイン・オドゥフィ結成、通称青シャツ)と
合同し、1933年フィナ・ガイル(統一アイルランド党)結成。
 1937年フィアナ・フォール45.2%、68議席、フィナ・ガイル34.8%、48議席、労働党13議席など。

 1929年IRA支持のコールレ・ナ・ポブラヒタ (共和評議会、マリー・マクスウィニージョージ・プルンケットブライアン・オヒギンスら)
が将軍会議で結成され、シン・フェインクマン・ナ・ムバンIRA第2議会反条約派残存者やその他左翼共和派により構成され
シン・フェインIRAの違いを解消しようとしたが不成功。

 ブライアン・オヒギンスは1931−1933年指導者。
 マイケル・オフラナガンが1933−1935年の党首で、彼はカトリック司祭としてスペイン戦争で共和国側支持。

 1922年第2議会(1921.8.−1922.6月)でジョン・オケリージョージ・プルンケットブライアン・オヒギンス政権首脳7人
アイルランド共和国の権力をIRA軍協議会ショーン・ラッセル指揮下、1939年英国との宣戦布告)に委譲したとブライアン・オヒギンス
の新聞が1938年発表。
 これを根拠にIRAシン・フェインはアイルランド共和制と北アイルランドの国家の拒否と政治的棄権主義を正当化。

 1936年IRAメンバー(パディ・マクローガンアンディー・コーニー)によってクマン・ポブラヒタ・ナ・ヘーレン(アイルランド共和協会)
が結成され、ジョージ・プルンケットらが補欠選挙に立候補するも当選せず、1937年解散。

 1937年アイルランド憲法発効。
 初代首相(ティーショホ)はヴァレラ(1937.12.−1948.2.フィアナ・フォール

 1945年北アイルランド選挙アルスター連合主義党50.4%、33議席、労働党18.5%、2議席、民族主義党9.1%、9議席、
 連邦労働党7.8%、1議席、北アイルランド共産党、3.5%、0議席など

 1946年IRAの以前の指導者ショーン・マクブライドクマン・ナ・ポブラヒタ(共和家族)結成、1948年選挙で13.2%、10議席と
成功を収める。
 1948年の条約で1949年4月18日共和国宣言、アイルランド国王が大統領に置き換えられる。
 1948年アイルランド議会選挙フィアナ・フォール41.9%、67議席、フィナ・ガイル19.8%、31議席、労働党11.3%、14議席、
民族労働党5議席など。

 1949年北アイルランド選挙アルスター連合主義党62.7%、37議席、労働党7.1%、0議席、民族主義党26.8%、9議席、
北アイルランド共産党、0.2%など。

 マルガレト・ブックレーが1937−1950年の党首となる。この間シン・フェインIRAの支持をえられなかった。
 パディ・マクローガン(1950−1962年)が1954年選挙から参加、1957年選挙で5.3%、4議席、1961年選挙3.1%、0議席。

 1958年北アイルランド選挙労働党(北)15.8%、4議席、アイルランド労働党3.0%、0議席。
 1962年北アイルランド選挙労働党(北)25.4%、4議席、アイルランド労働党1.1%、1議席。

 1960年代党は左傾化、英国共産党コノリー協会と結びついた知識人世代の影響下、過去の宗教的政策と衝突。
 コノリー協会は英国のアイルランド人移民を基礎とし新聞アイルランド民主主義者によりベルファストの労働運動活動家に影響を与えた。

 1956−1962年のIRAの北アイルランドへのゲリラ戦(国境運動)の失敗で新世代指導者はアルスターのプロテスタント労働者と
反帝国人民戦線に向かう。
 1969年12月。公式IRA公式シン・フェインと結びつく)とショーン・マック・スティオファイン臨時IRAIRAが分裂。
 1970年1月臨時IRAの政治組織の臨時シン・フェインが結成されルイアリ・オブラダイー(1970−1983年)が党首となる。
 トマス・マック・ギオラ(1962−1988年)のシン・フェイン多数派はカザル・ゴルディング公式IRAと結びつき、公式シン・フェイン
となる。
 臨時派は1969年以前のIRAの原則を維持し、英国の北アイルランド支配とアイルランド共和国政権を非合法とし、IRA軍評議会を
全島アイルランド共和国の合法政権とした。これらほとんどの棄権主義者原則は1986年に放棄された。

 両IRAは北アイルランドでの軍事行動を進展させ1972年公式IRAが不明確な停戦を宣言したのちも臨時IRAは攻勢を続けた。
 2005年7月IRA軍評議会は武装運動終焉を宣言。

 1973年北アイルランド選挙アルスター連合主義党30.8%、24議席社会民主・労働党22.1%、19議席、民主連合主義党
10.8%、8議席、労働党(北)2.6%、1議席。

 公式シン・フェインは1974年分裂に見舞われ停戦不満派はアイルランド民族解放軍INRAとアイルランド共和社会党を結成。

 公式シン・フェインはマルクス・レーニン主義の方向へ展開し、臨時IRAに支持される暴力的共和主義伝統を批判。
 北アイルランド衝突に平和・民主・階級政策という標語を採用、カトリックとプロテスタントを統一した階級闘争で宗派政治を置き換え
ようとした。
 公式シン・フェインアイルランド・ラジオ・TVRTEに強い影響をもったとされる。
 1977年ショーン・ガーランドが総書記となる。
 1977年シン・フェイン労働者党、1982年労働者党となる。アイルランド共和国議会選挙では一定の影響をもったが、北アイルランド
ではほとんど影響をもたなかった。
 1981年選挙フィアナ・フォール45.3%、77議席、フィナ・ガイル36.5%、65議席、労働党9.9%、15議席、シン・フェイン
労働者党1.7%、1議席、反Hブロック1981年ハンガー・スト支援運動)3.1%、2議席。
 1982年2月シン・フェイン労働者党2.2%、3議席、11月シン・フェイン労働者党3.3%、2議席。

 1982年北アイルランド選挙は社会民主・労働党18.8%、14議席、シン・フェイン10.1%、5議席、労働者党2.7%など。

 1987年選挙では労働者党3.8%、4議席、シン・フェインゲリー・アダムス)1.2%、0議席など。
 1988年プロインサイス・デ・ロッサが党首をトマス・マック・ギオラから引き継ぐ。
 1989年選挙労働者党5.0%、7議席、シン・フェインゲリー・アダムス)1.8%、0議席など
 1992年ソ連崩壊でダイレ議員7名中6名が民主左翼結成、これは1997年アイルランド労働党に合同。

 分裂で労働者党はマルクス・レーニン主義的様相を強化、一方で共和的伝統を強調。1992年以来ダイレに議席をもたないが、
共和国と北アイルランドの全国および地方選挙には参加。

 臨時シン・フェインが現在はシン・フェインと呼ばれ、北アイルランドでは公式シン・フェインより成功を収めているが共和国では貧弱。

 1986年の(臨時)シン・フェインゲリー・アダムス、1983年−)の棄権主義放棄でこれに反対するルイアリ・オブラダイーらの
共和シン・フェインRSFが分裂。これは棄権主義を支持しているので議席をもたないが、地方選や2007年北アイルランド選に参加。

 1996年北アイルランド選挙社会民主・労働党21.36%、21議席、シン・フェイン15.47%、17議席、労働連合0.85%、2議席、
労働者党0.47%、民主左翼0.16%など。

 1997年選挙フィアナ・フォール第1優先39.3%、77議席、フィナ・ガイル27.9%、54議席、労働党10.4%、17議席、
民主左翼2.5%、4議席、緑党2.8%、2議席、シン・フェイン2.6%、1議席、社会党ジョー・ヒギンズ)0.7%、1議席など。
 2002年選挙は労働党10.8%、20議席、シン・フェイン6.5%、5議席、社会党ジョー・ヒギンズ)0.8%、1議席など。

 2003年北アイルランド選挙シン・フェイン23.5%、24議席、社会民主・労働党17.0%、18議席、0.85%、2議席、社会主義環境
0.4%、労働者党0.3%など。

 2007年アイルランド議会選挙フィアナ・フォール第1優先41.56%、77議席、フィナ・ガイル27.37%、51議席、
労働党10.13%、20議席、緑党4.69%、6議席、シン・フェインゲリー・アダムス)6.94%、4議席(−1)、社会党ジョー・ヒギンズ
0.64%、0議席(−1)、労働者党ショーン・ガーランド)など。

 2007年北アイルランド議会選挙は民主連合主義党第1優先30.1%、36議席、シン・フェインゲリー・アダムス)26.2%、28議席、
社会民主・労働党15.2%、16議席、アルスター連合主義党14.9%、18議席、共和シン・フェイン0.4%(2522票)、
社会主義環境連合、0.3%、(2045票)、労働者党975票、社会党473票、北アイルランド労働党123票、(得票は候補者数にも
依存)など。

 2008年、ミック・フィネガン労働者党指導者となる。

 2011年選挙は9.9%、13議席と9議席増。

 2014年EU選は19.5%、3議席(フィナ・ガイルの22.28%、4議席に次ぐ)、欧州統一左翼・北欧緑左翼に参加。
 2016年選挙はフィナ・ガイル25.5%、49議席、フィアナ・フォール24.3%、44議席、シン・フェイン13.8%、23議席、労働党6.6%、7議席、
反緊縮連合−利益の前に人民3.9%、6議席、独立4変革1.5%、4議席、社会民主3.0%、3議席など。
 2020年選挙はシン・フェイン24.5%、37議席、フィアナ・フォール22.2%、37議席、フィナ・ガイル20.9%、35議席、緑7.1%、12議席、
労働党4.4%、6議席、社会民主2.9%、6議席、連帯−利益の前に人民2.6%、5議席。
 フィアナ・フォール、フィナ・ガイルと緑の連立政権成立。

 シン・フェインルイアリ・オブラダイー(1970−1983年)、ダイティ・オ・コネイルによりアイレ・ヌア(新アイルランド)路線がとられた。
 これは英国の北アイルランド撤退による全アイルランド共和国結成を描くものであった。
 1975年オブラダイー含むIRA軍協議会が英国軍敵視中断の公然終了を支持するという1975年真実が発覚。これは若い世代の
ゲリー・アダムスらの批判を受ける。1983年ゲリー・アダムス(1983年−)、マーティン・マクギネスらに指導部が交代。
 他にダニー・モリソンらがアイレ・ヌア路線批判。
 1981年アイレ・ヌアが拒絶される。1986年棄権主義放棄。1998年4月のベルファスト合意なる、アイルランド・ハンガースト
参加のゲリー・ケリーらがこれに関わる。
 北アイルランドではシン・フェインマーティン・マクギネスが2007年イアン・パイスレー政権の副首相となった。


労働者Workers党 

 IRAの1956−1962年の国境運動の失敗のあと、カザール・ゴールディングショーン・ゴーランドらはシン・フェイン
IRAを、伝統的共和主義(32県アイルランド共和国)から社会主義と市民権活動に重点を移し、軍事主義を放棄
していった。
 国会の権威を認める多数派と力によるアイルランド統一の少数派でシン・フェインは1970年分裂。
 IRAも臨時IRA公式IRAに分裂、公式IRAの政治グループは当初公式シン・フェインと称したが1977年
シン・フェイン労働党と名乗る。
 北アイルランドでは1981年まで共和クラブついで共和クラブ労働者党となる。1982年両者とも労働者党と名乗る。

 1972年5月公式IRAが永久戦闘停止を宣言し1970年代政治運動を展開。宗派主義を国民問題とし、北アイルランドでの労働者階級
の統一を優先。1977年イーゴハン・ハリス(その後徐々に右に移行、2003年イラク侵攻を強く支持、ネオコンは湾岸民主化に社民より
より多くのことをしたと宣言。)、イーモン・スムレンの”アイルランド産業革命”を政治文書に採用、現行の暴力は労働階級を階級闘争から
目を背けると宣言。
 1980年代テロリズムに反対、1981年ハンガー・ストライキにも反対。
 1974年停戦と組織問題でセアムス・コステロ共和社会党分裂。コステロは公式IRAからも追放される。非公然の民族解放軍
同時結成。コステロは伝統的共和主義軍事主義とマルクス主義志向政治路線を採用、1983年アイルランド政府により禁止される。

 1981年ジョー・シャーロックが議席を勝ち取り、1982年3人の議員がフィアナ・フォール少数政権を支持。
 1980年代成長し1987年4名、1989年7名、3.8%から5%となる。
 1989年にはダブリンでは11.4%と9.5%の労働党を凌ぐ。指導者のプロインシアス・デ・ロッサはEU議員に選出される。
 プロインシアス・デ・ロッサのあと1992年デス・ジェラティがUE議員となる。
 1980年代末まで伝統的共和主義と初期のスターリン主義を放棄。
 1992年デ・ロッサデス・ジェラティは活動家多数派と議員のほとんどの支持で党の変革をはかるが失敗し(61%支持)民主左翼結成。
 理由は市場経済受け入れと公式IRAが依然として武装し種々の犯罪に関係していること。
  党に残った議員トーマス・マック・ギオラは1992年議席を失い(党は0.7%)、1993年ダブリン市長となる。
 多くの一般党員は労働者党に残りマリアン・ドネリーが指導者となり、1994年トム・フレンチと交代。
 1998年ショーン・ガーランドと交代、2008年にはミック・フィネガンと交代。
 2014年マイケル・ドネリーと交代。
 2011年選挙は3056票、0.1%。
 2015年英選挙では5候補で2724票。
 2016年選挙は3242票。

民主左翼

 労働者党から分裂し1992ー1999年存在し労働党に合流。
 党の公式IRAとの結合を断ち切り、民主集中制組織を議会主義組織に変えようとして失敗。
 プロインシアス・デ・ロッサパット・ラビットイーモン・ギルモアパット・マカートンジョー・シャーロックエリック・ビルンが参加。
 1992年アイルランド選挙で2.8%、4議席、補欠選挙で2議席獲得。リッツ・マクマヌスカトリーン・リンチが新たに議席を得る。
 1994年のフィアナ・フォール労働党連立政権崩壊でフィナ・ガイル労働党と連立政権参加。
 1997年選挙は2.5%で6議席のうち2議席失い、1999年労働党と合流したが北アイルランドのメンバーは除外。
 労働党党首ルアイリ・キンが新党党首となる。2004年デ・ロッサがEU議員となる。
 2002年パット・ラビットリッツ・マクマヌスがそれぞれ労働党党首、副党首になる。
 2007年選挙後イーモン・ギルモアパット・ラビットに代わり労働党党首となる。 

社会主義者ネットワーク
 2001年旧労働者党メンバーが中心となってベルファストとダブリンを拠点に結成。
 マルクス主義の伝統にあるが民主集中制と前衛思想に反対し、レーニン主義とトロツキズムを拒否。
 2007年選挙にダブリン北西選挙区で立候補し505票獲得。

緑党

 1981年ダブリンで教師のクリストファー・フェットがアイルランドエコロジー党として結成。
 1983年緑連合、1987年緑党となる。
 1982年総選挙に7名で0.2%獲得。1989年総選挙で初めてロジャー・ガーランドが議席獲得。
 1994年EU議会選挙では7.2%、2議席獲得。(パトリシア・マッケンナヌアラ・アーン
 1997年総選挙は2.8%、2議席。ダブリンでロジャー・ガーランドのほかジョン・ゴームレイが議席獲得。
 2001年トレヴァー・サージャントが最初の指導者となる。
 2002年総選挙で3.8%、6議席獲得。
 2007年フィアナ・フォール進歩民主(保守)との連立政権参加。
 2007年党首選はジョン・ゴームレイパトリシア・マッケンナで478対263でジョン・ゴームレイ勝利。
 パトリシア・マッケンナフィアナ・フォールと緑の政権計画に反対。
 政権参加でマッケンナのほか、ブロウェン・マハーらが離党。
 緑党の政権撤退による2011年選挙では1.8%、0議席と敗北。
 同選挙には政権参加反対派がフィス・ヌアを結成して選挙参加するが5人で938票。
 2014年EU選は4.9%、0議席。
 2016年選挙は2.7%、2議席。
 2020年選挙は7.1%、12議席。フィアナ・フォール、フィナ・ガイルとの連立政権。

労働Labour党 

 1912年、ジェームズ・コノリージェームズ・ラーキンウィリアム・オブライエンがアイルランド労働組合会議(1894年結成)の政治部門
として、アイルランド労働党を結成。これは1914年議会法でのダブリン議会で労働者を代表する予定であったが、1913年の
ダブリン・ロックアウトでの労働組合の敗北で労働運動が弱体化し、更に1914年のラーキンの移民と、1916年のコノリー処刑で党は
更に損害を受けた。
 1913年のダブリン・ロックアウトで労働運動の非公式軍事組織のアイリッシュ市民軍ICAが形成され、ICA1916年反乱に参加。
 これによりコノリーは英国銃分隊により処刑された。
 英国労働党がすでにアイルランドで組織されていたが労働党全国執行委員会NECはアイルランド労働党が全アイルランド
での組織権を持つことに同意。ベルファストの労働組合主義者はこれを拒否し、1892年結成(−1924年)の英国労働党加盟
ベルファスト労働党が新党の外に存在していた。ベルファスト労働党は後に北アイルランド労働党(1924−1987年)の中核となった。
 ICAピーダー・オドンネル共和会議(1934年結成)で復活したが、1935年分裂し、多くはアイルランド労働党に参加。

 ラーキン不在の間ウィリアム・オブライエン運輸総労働組合の中心人物となり、労働党に大きな影響を振るった。オブライエン
アイルランド労動組合会議も支配。労働党はトーマス・ジョンソンに率いられ、ダニエル・シーハン(独立労働議員)のアイルランド土地
労働協会
(1890年代初期結成)のような組織の後継としてアイルランド憲法制度対する国民投票の形態をとることができるように
1918年総選挙参加しようとした。アイルランド労働党は参加せず(シン・フェインアイルランド議会党の十字砲火を浴びることを危惧)
ベルファスト労働党が参加。結果はシン・フェインが46.9%、73議席、アイルランド連合主義党が25.3%、22議席、アイルランド議会党
21.7%、6議席、ベルファスト労働党1.2%など。1921年選挙にも参加せずその結果独立闘争の活発な時期に議会(ダール)の外にいた。
 その間、古IRAと英国政府間でアイルランド独立戦争(1919・1.−1921.7.)が起こった。
 英国アイルランド条約(1921.12.6.)は党を分断した。あるメンバーは不正規軍とアイルランド内戦(1922。6.28.−
1923.5.24.)に参加。オブライエンジョンソンはメンバーに条約を支持するよう促した。
 1922年選挙では128議席中16議席獲得。この年多くのストライキがあり、1923年選挙では14議席となった。
 1927年にフィアナ・フォール(共和党)が議席をもつまで、労働党がクマン・ナ・ゲール(ゲール社会、親条約派シン・フェイン結成)政権に
対する主要な反対政党であった。
 トーマス・ジョンソンが1922−1927年指導者、1927−1932年はトーマス・オコンネル
 1923年ラーキンがアイルランドに戻る。彼は党の主導権を握ろうとしてオブライエンに拒否され9月、党の急進派とアイルランド労働者同盟
を結成。1924年ラーキンは第5回コミンテルン会議に参加し、執行委員となる。

 1932年労働党(トーマス・オコンネル)はエイモン・デ・ヴァレラの最初のフィアナ・フォール政権を支持、この政権は社会改革綱領を提案した。
 1943年選挙では15.7%、17議席でフィアナ・フォール41.9%、66議席、フィナ・ガイル(統一アイルランド党、1933年結成)
23.1%、32議席につぐ第3党。
 ラーキンオブライエンの不仲は継続し1940年代労働党とアイルランド労動組合会議の分裂を惹き起こした。
 1944年オブライエンは6名の議員と民族労働党を結成、ジェームズ・エヴェレットが指導者となった。
 1944年選挙はウィリアム・ノートン労働党8議席、全国労働党4議席となった。
 1948年選挙は労働党11.3%、14議席、民族労働党5議席。
 1947年ラーキンが死亡し1950年両党は統合した。
 労働党は1948−1951年1954−1957年の政党間inter-party政権(第1党フィアナ・フォール以外の政党連立、首相ジョン・コステロ
に参加、ウィリアム・ノートンが副首相(ターナステ)となる。

 この時期党は北アイルランド労働党以来1948年にパディ・デヴリンがベルファストでアイルランド労働党を再建し、北アイルランド
選挙に候補をたて議員を持ったが、1964年ゲリー・フィットが離党し共和労働党を結成してから選挙に参加していない。
 1960年ブレンダン・コリッシュが新指導者となる。彼は党に社会主義的政策を導入した。
 1973−1977年に労働党はフィナ・ガイルと連立政権樹立(首相リアム・コスグレイヴ)、コリッシュが副首相となる。
 1977年選挙で連立敗北。フランク・クルスキーが党首となる。
 1981−1987年に労働党はフィナ・ガイルと連立政権(首相ガレット・フィッツジェラルド)に参加、経済不調による社会サービス削減で
不評を買う。
 1987年はディック・スプリングのもと6.4%、12議席と4議席減で急進的なトマス・マック・ギオラ労働者党の3.8%、4議席
に脅かされる。
 1980年代、党は左派と右派が対立、エメット・スタッグらの急進派は主要政党の両中道右派との連立に反対。
 1989年新聞ミリタント周辺のグループが追放されジョー・ヒギンスらは社会党結成。
 1990年マリー・ロビンソンが大統領となる。彼女は1985年英国アイルルランド協定に反対し党を追放されていた。
 彼女は女性最初の大統領でフィアナ・フォール以外で2人目であった。

 1990年党はジム・ケニー民主社会党と合同、1992年、デクラン・ブリーの独立社会党と合同。
 1992年選挙は第1優先投票で19.3%と1989年の9.5%から9.9%増、33議席、18議席増。
 1993年フィアナ・フォールアルバート・レイノルズ連立政権結成し、ディック・スプリングが副首相となる。
 最高裁議長任命で政府は論争に陥り、党はレイノルズ支持をやめ、選挙なしで初めて連立政権交代。
 1994年と1997年フィナ・ガイル民主左翼虹連立(首相ジョン・ブルトン、副首相ディック・スプリング)を結成。
 1997年選挙は10.4%、17議席と15議席減、大統領選ではアディ・ロシュ緑党民主左翼と一緒に立て7%以下、
5人中4番目と失敗。党首がルアイリ・キンに交代。1999年民主左翼と合同。
 2002年選挙は合同による21議席から20議席、10.8%と不成績で初の党員直接選で旧民主左翼パット・ラビットが党首となる。
 2004年EU選でダブリンから旧民主左翼プロインシアス・デ・ロッサが議席維持、同日の地方選では史上始めた100以上の州議席
を勝ち取り、ダブリン市とゴールウェイ市で最大党となる
 2004年地方選の前にパット・ラビットフィナ・ガイルの党首エンダ・ケニーと相互乗り入れ協定を支持、党内には反対もあったが多数
は賛成、労働青年同盟運輸総労組からは組織的反対があった。
 2007年選挙は第1優先投票は10.13%、20議席、フィナ・ガイル、労働党、緑党は絶対多数派とならず、フィアナ・フォール緑党
進歩民主が連立政権形成。パット・ラビットは党首を辞任、イーモン・ギルモアが党首となる。
 2011年選挙では19.4%、36議席となりフィナ・ガイルは19議席増70議席、フィアナ・フォールはー58議席減18議席と大敗。
 フィナ・ガイルと連立政権形成、これにはトミー・ブルーガンジョアンナ・タフィが反対。
 2014年EU選は5.3%で議席失う。
 2016年選挙は6.6%、7議席と大敗。ブレンダン・ホウリンが党首となる。

北アイルランド労働党NILP)

 1924−1987年まで存在。
 1913年英国労働党アイルランド労働党にアイルランドの組織権を与えたが、これはベルファストの労働組合活動家には不人気で、
彼らはプロテスタント傾向で広く連合主義者であった。
 1921年5月のアイルランド分離(北東6県と他の26県の分離、自治領北アイルランド議会アイルランド自由国となる)で
ベルファスト労働党(1892年結成英国労働党加盟)グループ等がNILP結成。
 1942年連合主義者ハリー・ミジレー連邦労働党結成。
 1943年ジャック・ベアティーが唯一の議員となった。
 1949年のアイルランド共和国結成で党は英国との連合支持。これではっきりと斜陽化しアイルランド労働党が北アイルランドでの
組織化を試みた。
 1950年代から持ち直し、1960年末には10万の支持を得るようになった。
 アイルランド問題の開始とともに社会民主・労働党北アイルランド同盟党民主連合党などの出現で後退を示した。
 1971年ブライアアン・ファウルクナーが党議員のダイヴィド・ブリークレーを大臣に任命したが翌年政権倒壊。
 1973年の州の将来についての国民投票では英国残留を運動。
 1987年党の残党は1985年旧SDLPのパディ・デヴリンが結成した北アイルランド労働党アルスター自由党統一労働党
労働87グループを結成し北アイルランドでの英国労働党組織化を運動。これはニュートンナビー労働党も支援。

社会民主・労働党SDLP〕

 北アイルランド問題(1960年代末から1990年代早期の北アイルランド民族主義者と連合主義者の間の30年の暴力紛争)の間の
北アイルランドでの主要な民族主義政党であるが、IRAが停戦してから競争相手のシン・フェインに地位を譲る。
 社会民主主義で社会主義インター加盟、欧州社会主義者党のメンバー。

 1970年 6名のストーモントMPと1名のセナター、つまり旧共和労働党の国会議員(、アイルランド労働党の断片)、民族民主主義者(北)、
北アイルランド労働党メンバー、独立民族主義者などが結成。ゲリー・フィットが党首、他にパディ・デヴリン等が参加。
 当初は民族党の棄権主義を拒否し、ストーモント(北アイルランド国会)体制での市民権闘争を模索。すぐに改革不能とみて撤退。
 3年後に復帰、1974年ブライアン・ファウルクナー権力共有政権ゲリー・フィットらが副首相などで参加。
 1976年党会議でデヴリンイヴァン・クーパーセアムス・マロンとこれを警察に甘いとするフィットオースティン・キュリー
ジョン・ヒューム(1998年ノーベル平和賞)が対立、デヴリンの動議153対111で敗北。
 デヴリンはカトリックとプロテスタントの統一を考えていた。1978年デヴリン統一労働党結成、1987年NILP残党と労働’87結成。
 1980年フィットからヒュームに指導者交代し、フィット離党。デヴリン同様フィットはSDLPは社会主義勢力でなくなったと考えた。
 デヴリンフィットらはヒュームは民族主義者であって社会民主主義者でないと考えていた。

 SDLPには社会民主主義路線支持者と臨時IRAの準軍事路線に反対し市民権運動と平和的統一を支持する立憲主義民族主義者
統一政治運動を主張するものがいた。
 またSDLPは合意原則を採用していた。シン・フェインがこれを冷笑している間はその意義があったが、1998年ベルファスト合意後、
この合意原則は多くの人に受け入れられた。
 1980年代ヒュームらはアイルランド共和国と英国の共同支配を支持し、これは諸政党とも一緒であったが、サッチャーによって拒絶
された。この反動で1981年ハンガーストライキが起こり、1985年サッチャーとガレット・フィッツジェラルドにより英国・アイルランド協定
が結ばれた。
 協定後ヒュームらはポスト民族主義政党を標榜した。ダーカンは党を共和主義とした。
 1998年ベルファスト協定が結ばれジョン・ヒュームデイヴィド・トリンブルとノーベル平和賞受賞。
 1999年セアムス・マロンが指導者となり、2001年、マロンヒュームが引退、マーク・ダーカンと交代。
 1999年からアルスター連合主義者党民主連合主義者党シン・フェインとのデイヴィド・トリンブル(1998−2002年)の
権力共有政権マロンダーカンが副首相として参加。
 最近は他政党(フィアナ・フォールフィナ・ガイルアイルランド労働党)との合同が噂されている。
 北アイルランド議会選挙では
 1973年SDLP22.1%、19議席、NILP2.6%、1議席。
 1975年SDLP23.7%、17議席、共和クラブマック・ギオラ)2.2%、NILPデイヴィド・ブリークリー)1.4%、
 1982年SDLP18.8%、14議席、シン・フェイン10.1%、5議席、労働者党2.7%。
 1996年SDLP21.36%、21議席、シン・フェイン15.47%、17議席、
 2003年シン・フェイン23.5%、24議席、SDLP17.0%、18議席、2007年シン・フェイン28議席、SDLP16議席。
 2011年シン・フェイン29議席、SDLP14議席、2016年シン・フェイン28議席、SDLP12議席。
 2010年連合王国選挙はシン・フェイン171942票、5議席、SDLP110970票、3議席。
 2015年連合王国選挙はシン・フェイン4議席、SDLP3議席。
 2017年連合王国選挙はシン・フェイン7議席、SDLP0議席。

[社会民主]
 2015年、スティーヴン・ドネリー、キャサリン・マーフィ(元労働者党、民主左翼)、ロイシン・ショータル(元労働党)の3議員が結成。
 2016年選挙では3名当選するが、まもなくスティーヴン・ドネリーが離党、フィナ・ガイルに参加。
 2020年選挙は2.9%、6議席。

[独立4変革]
 2014年結成。2016年選挙でミック・ワラス、クレア・ダリ(元社会党)、ジョーン・コリンズ(元社会党)4名当選。
 まもなくそのうちのトミー・ブルガン(元労働党が離党。
 2019年EU選ではミック・ワラス、クレア・ダリがMEPとなる。

民主社会党
 1972年ジム・ケニー労働党から離党して結成。労働党左派の立場で北アイルランドに関する民族主義傾向に反対し、世俗主義
の立場で産児制限、離婚、中絶などの問題に対するカトリックの関与に反対。
 英国・アイルランド共産主義者組織BICOを惹き付け、1982年アイルランド社会党(1971年)が参加。
 1990年労働党に合流。多くの旧BICOメンバーは1992年の民主左翼結成でこれに参加。

社会党) 1971−1988年
 1971年旧公式シン・フェインメンバーがダブリンで結成。CPIに対する強硬路線ML主義の選択肢と自称。
 1970年代民族問題について同じ路線の英国・アイルランド共産主義者組織BICO、ジム・ケニー民主社会党と交渉が進み、
民主社会党に合流。


社会党〕 1996−
 1970年代から1980年代労働党に加入し、ミリタント労働を結成し、1989年アイルランド労働党から追放されたミリタント傾向
1996年結成した小トロツキストグループ。労働者インター委員会に所属。
 1996年北アイルランドフォーラム選挙ミリタント労働北アイルランド労働党ニュートンナビー労働党労働連合結成し
0.85%しか獲得できず。
 1997年、2002年ジョー・ヒギンズが国会議席確保。2007年選挙は0.64%で議席確保できず。
 他に市議としてミック・マーフィ(元学生運動活動家)、クレア・ダリ(元学生運動活動家)、ルス・コピンガーら。
 2009年欧州議会選挙でジョー・ヒギンズが当選。
 2011年選挙では利益の前に人民連合(2005年社会主義労働者党が結成)、労働者失業者行動グループ(クロンメル拠点に1985年結成)
および旧労働党メンバー(デクラン・ブレーら)と選挙連合の統一左翼連合を結成し、2.7%、ダブリン地域を中心に5議席獲得。
 ジョー・ヒギンズら社会党2名、利益の前の人民連合2名、労働者失業者行動グループ1名。
 統一左翼連合は社会主義民主(第4インター)の支持も受けた。
 2014年EU選は1.8%で議席失う。反緊縮連合AAA結成。
 2016年選挙はAAA−PBPでルス・コピンガーポール・マーフィ再選、ミック・バリーも当選。
 2017年、AAAは連帯となる。
 2019年、ポール・マーフィがライズRISE結成。


統一左翼
 2013年社会党議員のクレア・ダリーと利益の前に人民連合のジョーン・コリンズが結成。

英国・アイルランド共産主義者組織BICO〕
 アイルランド大衆のために公式共産主義者組織に反対するロンドン在住アイルランド人により主に構成された
アイルランド共産主義者グループが1965年分裂。毛派はアイルランド共産主義者組織ICO、のちに英国・アイルランド共産主義者
組織
となる。指導者はブレンダン・クリフォード。
 ゲリー・ローレス率いる広範なトロツキスト・グループはアイルランド労働者グループとなった。
 ゲリー・ローレスらはシ−ル・エーレ(1967−1975年)に関係した。
 アイルランド労働者グループは1968年労働者共和国同盟を結成。
 他のアイルランド共産主義者グループのメンバーとしてSWPイーモン・マッカン人民民主マイケル・ファレル

 北アイルランド危機ではICOは当初プロテスタントの攻撃からカトリック地域防衛に参加。また2民族論を採用。
 1974年ブリテン諸島共産主義者組織COBI分裂。
 BICOは1970年代アイルランド社会党と協力を始めた。1972年一部が民主社会党に参加。
 以降COBIは定見のない策動を行っている。

アイルランド労働者グループ
 アイルランド労働者連合に起源し種々のマルクス主義者グループを含む。アイルランド共和主義を背景とするものやゲリー・ローレス
シ−ル・エーレに参加。
 毛派とトロツキストに分裂。毛派はブリテン・アイルランド共産主義者組織となる。トロツキストはアイルランド労働者グループIWGとなる。
 1967年までにIWGはロンドンの亡命活動家を拠点とし活動に失敗、雑誌をショーン・マットガンマに渡す。
 他のメンバーではSWP指導者イーモン・マッカン人民民主マイケル・ファレルに影響を与えた。1960年代末までに存在停止。
 1976年に社会主義労働者運動から分裂したグループもアイルランド労働者グループを名乗る。

労働者共和国同盟LWR〕
 1968年アイルランド労働者グループによって結成。ICFI加盟。
 英国のアイルランド移住者を中心とするアイルランド労働者グループはブレンダン・クリフォードの毛派のアイルランド共産主義者組織ICと
ピーター・グラハム、ショーン・マットガンマ、ゲリー・ローレスのトロツキストに分裂。
 このグループはロンドンを拠点としているためアイルランドでは不活発。
 パディー・ヒーリー(元アイルランド教師連合議長)、キャロル・クルター、バジル・ミラー(学生活動家)などが主要人物。
 英国トロツキストの影響と国際組織加盟問題で分裂発生。
 1970年ICFI支持少数派が労働者前衛同盟として分裂。1972年のICFI分裂で労働者同盟となる。1978年解散。
 1972年革命的マルクス主義グループ分裂(USFI支持派)、1976年社会主義共和国運動となり1978年社会主義民主に参加。
 このグループではベティ・プルセル、アン・スピード(シン・フェイン)が著名。

 1971年社会主義労働連合結成でメンバー参加。パディー・ヒーリーらは労働党で活動。
 1970年代中期社会主義労働党に参加。
 パディー・ヒーリー、キャロル・クルターらが1987年フランス人ピエール・ランベールと衝突。キャロル・クルター、アレックス・ホワイト
(労働党)らはトロツキズムから離れる。パディー・ヒーリー、セアムス・ヒーリー(2000−2007年TD、2007年元同グループの労働党
フィル・プレンダーガストに敗北!落選後撤退)らは留まる。
 セアムス・ヒーリーは1985年南ティペラリで労働者失業者行動グループを結成し成功する。

(革命的社会党 RSP) 1944−1947年 <アイルランドのトロツキスト
 最初のアイルランドの公然トロツキスト党、オブライエンとラーキンの反目によるアイルランド労働組合運動と労働党の分裂に
引き続き形成された。
 間もなく消滅、マット・メリガンが青年メンバーであった。

 1941年までに第4インターに加入していないが2つの小さなトロツキスト・グループが存在。
 一方はベルファストで共和社会党内に、もう一方はダブリンでアイルランド労働党内に。
 しかし1943年までに労働党内のトロツキストは厳しい状況におかれ党から撤退し北アイルランドのトロツキストと革命的社会党RSPを
結成し1944年ありうは1946年に第4インター支部として認められる。RSPは約80名から出発。
 これはソ連評価をめぐり分裂し1947年に消滅。結局トロツキスト組織の再建は1965年のアイルランド労働者グループ結成による。

社会主義労働党SLP)
 1977年、ATGWAのダブリン書記のマット・メリガンと国会議員ノエル・ブラウン、ジャーナリストのブライアン・トレンチらが結成。
 ノエル・ブラウンクラン・ナ・ポブラヒタフィアナ・フォール民族進歩民主、労働党、SLPと渡り歩いてきた。
 設立者は1975―1976年にフィアナ・ファイルとフィアナ・ゲールの既成政党によるアイルランド社会の文化的・経済的不毛と向かい合う
ことを目的とする進歩組織と個人の連合組織、左翼選択を樹立しようとした労働左翼連絡委員会の出身であった。
 1980年代初期まで民族主義色を強め、1981年ノエル・ブラウンが離脱。
 SLPは党内に分派形成を認めた。最も著名なのは社会主義労働者運動の周辺に形成された社会主義労働者傾向で1980年離脱、
アイルランド労働者グループ周辺に組織された行動のための労働者連合は1979年離脱、人民民主周辺の共和社会主義傾向も1979年
離脱。SLPは1982年解散。

社会主義労働者党SWP〕

 SWPは社会主義労働者運動SWMに起源する。
 社会主義労働者運動SWMは英国の国際社会主義者(今のSWP)の北アイルランド支持者が1971年結成。
 これらは以前は人民民主、ウォーターフォード社会主義運動、青年社会主義者のメンバーであった。
 多くのメンバーは新しい社会主義労働連合で活動していた。
 SWMの一部は分裂してアイルランド労働者グループを結成、のちに労働者の力となった。
 1977年にSLPが結成されるとSWMはこれに参加、分派社会主義労働者傾向を結成。
 1980年にSWMを一新するためにSLPを離脱。SWMは長い間労働者党のようなスターリニスト組織の影にかくれていたが1989年
の東欧陣営崩壊後成長。SWMはスタリニスト官僚の国家資本主義への革命としてこれを支持。トリニティー・カレッジやダブリン大などに
主要なグループを形成。
 1995年SWPとなる。1997年から国会や地方政府選挙に参加しているがほとんど成功を収めていない。
 2007年総選挙では”利益の前の人民連合”の旗で4人の候補(うち3人がSWP、リチャード・ボイド・バレットら)をたてた。
 ジャーナリストのイーモン・マッカンが著名、彼は2004年EU選挙で北アイルランド選挙区で社会主義環境連合ゴレッティ・ホーガン
として9127票、1.6%獲得。国際社会主義傾向所属。
 主な人物はブライアン・マニング(歴史家)、コノール・コスティック、キーラン・アレン(社会学者)、ジョン・デ・クルシー・アイルランド
ジム・ケリー(労働運動指導者)など。
 ロリー・ハールンはトリニティー・カレッジ学生連合の代表でアイルランド学生連合の副代表。
 2011年選挙では利益の前に人民連合統一左翼連合の連合で利益の前に人民1.0%、2議席、統一左翼連合1.2%、2議席、労働者・失業者行動
グループ0.4%、1議席(シームス・ヒーリー)。SWPはリチャード・ボイド・バレットが統一左翼連合で当選
 2016年選挙はAAA−PBPで6議席、リチャード・ボイド・バレットらが当選。

反緊縮連合AAA−利益の前に人民PBP
 2015年、AAAとPBPにより結成。
 AAAは2014年発足(社会党結成)、PBP連合は2005年SWPが結成。
 2011年選挙でPBP−統一左翼連合(2011年社会党、労働者失業者行動グループげ結成)でジョーン・コリンズら2議席獲得。
 2013年ジョーン・コリンズはクレア・ダリーと統一左翼結成。
 2016年選挙で6議席獲得。(連帯3、PBP3)
 リチャード・ボイド・バレット(SWP)、ルス・コピンガー(社会党)、ポール・マーフィ(社会党)、ミック・バリー(1989年労働党から追放)など。
 2017年からAAAは連帯となる。2019年、ポール・マーフィがライズRISE結成。
 2020年選挙では2.6%、5議席。

社会主義環境連合
 デリー拠点のトロツキスト傾斜組織。過去にアイルランド共産党ニュートンナビー労働党北アイルランド労働党から1970年代独立)
の支援を受けていたが主にSWPで活動。2003年北アイルランド選挙でイーモン・マッカンらが立候補。
 2004年EU選挙ではイーモン・マッカンが1.6%、2007年北選挙は0.3%。

労働者の力
 1970年代社会主義労働者運動での分派から発展、1976年追放されアイルランド労働者グループを結成。
 これは第5インター同盟L5Iに加盟。
 2000年代までに雑誌階級闘争を廃止、英国の労働者の力の雑誌を配布。
 ダブリン、デリー、ゴールウェイなどで活動。臨時IRAを支持。
 労働者共和国同盟、社会主義民主、社会主義労働者運動を民族主義、中道主義と批判。今日まで継続IRA(1986年臨時IRA
から分裂)や真のIRA(1997年臨時IRAから分裂)を反英帝戦闘勢力として支持。
 2006年ほとんどのアイルランド人L5I支持者は英国の永続革命グループとともにL5Iから追放される。

人民民主PD〕
 1968年10月5日の王立アルスター警察の北アイルランド市民権協会NICRAのデリー行進襲撃のあと結成。
 NICRAより急進な北アイルランド政府の改革を要求。
 王立大ベルファスト学生のベルナデット・デヴリンマイケル・ファレルシリル・トマンらが結成に参加。
 PDは1960年代のクイーンズ大の労働クラブ(労働学生の先駆)と青年社会主義者連合を握った種々の左派学生メンバーから生まれた。
 1968年事件以来PDはますます急進化し多くのメンバーが毛沢東主義に向かった。
 1971年社会主義労働連合結成に参加。
 1970年代にダブリンを基礎とする社会主義共和国運動と合流しトロツキズムの立場に展開、1976年再統一第4インターのアイルランド
支部となる。
 1970年代中期アルスター王党派をファシストとしてアイルランド共和主義政府支持を要求するグループは離脱し左翼革命グループ結成。
 コノグループは1976年赤色共和党となり1978年消滅。
 1969−1974年ベルナデット・デヴリンがウェストミンスターから議席を確保。
 シン・フェインが選挙をボイコットしていた1980年代、ベルファスト市議会にフェルグス・オハレら2議席確保。
 PDは批判的に臨時IRAを支持。
 1979年のHブロック結成で70年代末から80年代初めに左傾化したシン・フェイン参加が議論となった。
 シン・フェインのボイコット終了でPDは政治危機に陥った。
 1982年から活動家はPDを離れシン・フェイン参加。
 1986年少数派はSF参加、多数派は小情宣グループとなる。
 1990年代初期マルクス主義綱領アイルランド委員会に着手、1996年これが終焉、社会主義民主となる。
 社会主義民主はベルファスト拠点の小グループ、2004年この都市の以前のSWPメンバーグループの国際社会主義者と合流。

社会主義労働連合
 1970年青年社会主義者を含む労働党メンバーにより社会主義労働行動グループが結成される。
 1971年結成会議には個人のほか人民民主、青年社会主義者、労働者共和国同盟、ウォターフォード社会主義運動が参加。
 ついで参加者・組織の多くは社会主義労働者運動革命的マルクス主義グループを結成。

シ−ル・エーレ) (1967−1975年)
 IRAメンバーとトロツキストからなる急進アイルランド共和組織。
 1967年青年社会主義者のピーター・グラハム、モリーン・キーガン、アイルランド労働者グループのゲリー・ローレス、前のIRAの
ダブリン旅団の司令官フランク・キーンらが結成。シ−ル・エーレは都市ゲリラを志向。労働者階級が武装闘争に中心と考える。
 1967−1970年に銀行強盗を実行。メンバーの死亡などにより1975年解散。

アイルランド共和社会党
 1974年12月以前の公式共和運動、独立社会主義者、労働組合活動家などがシン・フェインと公式IRA指導者セアムス・コステロ
率いられ結成。同日アイルランド民族解放軍を非公然に結成。アイルランド共和社会主義運動と称する。
 コステロ公式IRA公式シン・フェインから追放される。1977年コステロが暗殺される。ついで3名のメンバーが暗殺される。
 1981年のハンガー・ストライキで3名のメンバー死亡。1981年ゲリー・ケリーとショーン・フリンが人民民主と共同でベルファスト市議
当選。1982年のドロッピン・ウェル爆撃に関与。ベルファスト合意平和過程に反対。

[シーラ]
 反対派アイルランド共和主義者が2016年結成。



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