<<イタリアの学生運動>>


大学連合〕 UDU 
 
ESU参加。

 1994年3月結成集会、12月第1回大会がシエナで開催される。パヴィア、シエナ、ピサ、ローマ、フォッジャ、ラキラ、ミラノから参加。
  サピエンサ大のフランチェスコ・ピエッリが全国調整者、全国執行部はジャンマリア・ネルリ(シエナ)、ヴィンチェンツォ・サントーロ(ピサ)。
  CGILが財政援助。
 1995年秋、最初の全国セミナー、ジョルジョ・サルヴィニ技術大臣出席(ランベルト・ディニ内閣)。
 1996年5月ローマで全国調整会議、オリーヴが選挙で勝利し政府との対応検討。
  9月全国調整者にルッカ・ラニが選ばれる。
  10月教育大臣ルイジ・ベルリンゲル大学改革提案。UDUは学習権制度改革推進し、オリーヴ政権と奨学金倍増。
 1997年4月第2回全国大会をナポリで開催。全国調整者にルッカ・ラニ(シエナ)。
  10月16日、UDSと全国デモを全市で、ローマに多数結集。つづいてシエナのセミナーでベルリンゲルと議論。
 1998年3月UDS大会、PDSと青年左翼との関係が議論となる。UDSの政党への独立性が強調される。
  3月UDUのセミナーで学生ネットワークReteが議論となる。
 1998年5月UDUと集団collettiviの全国動員と集会、各グループの考え方は異なっていた。UDUは入学制限numero chiusoに反対。
  7月ロゼート・デッリ・アブルッツィ・キャンプ、ヨーロッパの進歩的学生連合(フランス、ドイツ、ルクセンブルク、スイス)が集まって
 共通綱領検討。行動学生Students-in-action運動(とサイト)生まれる。
  11月入学制限反対に2万の学生が動員される。UDUは大臣と議会へのFAX運動を組織。
  同月全国デモ、ローマではUDUとUDS(将来の権利のために行動)などが2万人動員。
  レミ・ボルドゥがESIBの名で談話、他のヨーロッパ学生組織の動員に参加。大臣請願のため座り込み、秘書が応対。
  12月第3回全国大会をポメッツィアで開催。約20の地域組織結集。全国委員長はボローニャのフランチェスコ・シノポリ。
  新大学・研究大臣オルテンシオ・ゼッキノ、共産主義再建党のファウスト・ベルティニッティPDSピエトロ・フォレナ出席。
 1999年3月、UDUが政府に要求した学生代表全国組織大学生全国評議会CNSUの最初の選挙。
  UDU−左翼学生として統一名簿、学生集団collettiviの名簿は共産主義青年(1995年結成の共産主義再建党の青年組織)が調整。
  フィレンツェの左翼学生が唯一選挙に参加せず抗議し選挙が取り消される。オルテンシオ・ゼッキノが改革案取り消す。
 2000年春、全国会議、CNSUについてに激しい議論。
 2000年5月、最初のCNSU投票。
  UDUと青年左翼左翼民主主義者の青年組織)との名簿代表交渉決裂。集団collettivi参加せず。UDUが”UDU名簿と独立連合
 associazioni”として参加。青年左翼SGは”左翼名簿と民主学生”として参加。しかし形式不備で北東の名簿(?)に加わる。
  両者とも約1万9千票であったが議席配分はSGに有利でUDU3議席に対しSG5議席、しかし学生多数派は大学学生(CLDS
共同と自由、カトリック派)と同盟。
  UDUが欧州学生連合ESIBの非公式メンバーとなる。
 2001年5月中道右派ベルルスコーニ勝利、レティツィア・モラッティが公教育・大学・研究大臣となる(−2007年)。
  7月UDUはUDSとジェノヴァで反G8デモ参加。
  10月トレヴィで第4回全国大会、レッチェのアンドレア・セッラが新調整者。
 2002年3月労働憲章18項(解雇規制廃止)に対するCGILのデモにUDUとUDS参加。
  5月大学改革についてCRUI議長で大学制度評価全国委員会のルチアーノ・モディナとボローニャ集会。
  11月UDUとUDSが支援する学生会議ヨーロッパ社会フォーラム開催、2003年3月の反GATTSヨーロッパ動員に乗り出す。
 2002年12月イタリア大学学長協議会CRUI会議で歴史的大量学長辞任、UDUが大学スト、占拠が広がる。フィレンツェ、カタンツァロ、
 カリアリ、シエナ、ペルージャ、アレッツォ。UDUによる大量動員、全大学閉鎖。しかし学長達は大臣と妥協。
 2003年1月UDU全国大会、新全国委員長ルッカ・ディニチェンツォ。
  2月戦争反対の国際デモ、UDUとUDSは大量動員。
  3月GATTSに反対するUDUとUDSのヨーロッパ動員。イラク戦争勃発で多くの大学が占拠される。
  10月パレルモでESIBのヨーロッパ会議。
 2004年1月レティツィア・モラッティの教師憲章stato giuridico議案disegno di leggeが学生の奨学金を削減し大学メンバーの自由な
 研究・教育を阻害するとしてサピエンサ大で全国集会で教師、研究者、学生動員。
  3月、CNSU全国選挙、左翼統一名簿大学生連合−学生左翼、6万票、全組織collegiで一番、12中UDUが4。
  4月、大学分野の全国デモ、教授、研究者、学生1万がローマの官庁へ行進、UDUはレティツィア・モラッティの大臣勧告大統領令
 DPCM修正を求める。
  2005年、フィレンツェの第6回全国会議でCGILや政党の青年組織あるいはUDUの社会運動の関わり方の問題で内部に亀裂発生。
  2005年、UDUと学生互助が学生ネットワークRete創設構成Commissione代表を構成する。代表にジュゼッペ・ベッキア。
  2005年秋、モラッティ法(大学研究員の期限付き契約職員化、私企業の国立大学出資自由化)が上下院で承認、学生と研究者の
 反対運動が起き、サピエンサ大の13学部占拠、しかし全国にはあまり広がらず。
  10月25日、15万学生が下院承認に抗議。運動の進め方でUDUに論争おきる。学生ネットワーク構成代表
 Commissione Costituente della Rete Studentesca内と特にUDSとUDUとの間に亀裂が生じる。
  2006年、学生ネットワーク計画難破、UDUは構成代表内での活動中止決定、UDS多数派とUDU少数派はネットワーク計画
 を独立構成を試みるが失敗。
  結局UDUがUDSとの関係絶つ。
  2007年、CNSU選挙でUDUに”左翼と民主”名簿と”左翼民主主義者DSとマルゲリータ”が生じ、左翼と民主は8名、後者は20名
 獲得。
  UDSが内部分裂し学生ネットーワークRete degli Studenti (Reds)誕生。
  UDUはRedsと距離を置くが、UDSは合体に動く。
  10月12日、政府教育政策(権利削減)に対し、全都市の高校、大学生が抗議デモ。
  RedsとUDSの再編成失敗。
  Redsは運動の学生Studentesche in Movimentoの理念のもとDSの青年組織左翼学生Studenti di Sinistraと合同、これで高校生
 ネットワークRete degli Studenti Mediが生まれる。
 2008年秋、異常な波。UDU指導部の運動指導能力に関して2005年以来の継続する内部闘争。
 2009年6月、第8回全国会議は政治文書採択できず。
 9月、UDU内部分裂、ローマ、ナポリ、バリ、シエナなどからなるLINK大学生調整Coordinamento Universitarioが誕生。
 LINKはより急進な立場と組織と運動の自立性を採用。
 2014年10月UDUは高校生ネットワーク(中等学生レーテ)と教育・大学・研究大臣のステファニア・ジャンニの改革(良き学校)への
反対活動を起こす。また両組織はCGILのレンツィ内閣の改革(労働促進)と労働法反対全国ストライキに参加。
 2017年 UDUと高校生ネットワークはジェンティロニ政府の学校・労働改革に対する対抗運動を始める。
  5月のローマでのCGILのデモに
  7月の革命キャンプ
  12月UDU、高校生ネットワークはCGILによるジェンティロニ政府による退職年齢上昇提案に反対する抗議活動に各地で参加。


 UDUとRDSMは革命キャンプというヴァカンスを開催。

学生政治組織

学習権のための調整名簿CLDS
 カトリック運動組織共同と自由によって1995年結成された学生運動グループ。独立無党派と称している。
 このグループは1990年代、北イタリア、特にロンバルデア大、エミリア大から生まれた。ミラノが拠点。
 2007年CNSU選挙ではUDU47780票に対しCLDS47606票(投票数168899票)であるが選挙区の関係でCLDSが30中10の
多数派で委員長を握る。
 旧CLDS委員長でCNSU幹部だったロレンツォ・マラゴラが2006年地方選挙で強いイタリア名簿でミラノ市議となった。

大学生行動
 国民連合の青年組織青年行動に近い大学生運動組織。
 1996年右派大学生組織国民連合大学戦線FUAN(1950年結成のイタリア社会運動の学生組織)の解散で結成。40以上の組織が
あり主要大には存在。
 国民連合との関係をはっきりさせるため大学連合と称している場合もある。

自由学生
 1999年結成

大学生左翼
 左派の種々のグループ。 
 ボローニャ大、ミラノ大、ナポリ第2大、フィレンツェ大などに存在。

学生ブロック
 極右学生組織。2006年ネオファシストのカサポウオンドにより学生組織として結成される。
 2008年10月29日、ナヴォナ広場の乱闘を惹き起こす。

*学生連合UDS 
 1994年結成の無党派、反ファシスト、独立の学生組合。ヨーロッパ学生連合組織局OBESSU加盟。
 3万人参加。左翼グループ。高校生組織。
 2006年から財政的・組織的にCGILから完全独立。
 2000年から2004−2207年を除いてCLDSが委員長。
 2007年内部分裂で高校生ネットワークが誕生 Rete degli Studenti (ReDS) 。これはCGILの支援を受ける。
 再統合は失敗し、ReDSと左翼学生(民主党系)は合同し高校生ネットワークRete degli Studenti Mediが生まれる

〔大学生全国評議会CNSU
 大学・研究大臣とイタリア大学学長協議会の諮問組織。大学生から博士課程までの学生から28名選出。
 1997年創設。2001−2004年はCLDSのトマス・アガス、2004−2007年はUDUのサルヴァトーレ・ムラトーレ、2007年からは
CLDSのディエゴ・チェッリが委員長。
Liste (iscritti ai corsi di laurea e laurea specialistica) % 2013 % 2010 % 2007  % 2004  2010
議席
2013議席
UDU, 全国学生レーテと提携名簿 31,9% 28,6% (32,4% con RUI) 26,9% 34,7% 10 (+1 di RUI) 10 ( -1)
大学生行動と自由学生 24,6% 27,4% 24,9% 21,3% 8 6 ( -2)
CLDS 18,8% 24,1% 26,8% 25,0% 8 5 ( -3)
LINK - Studenti indipendenti e liste collegate 12,9% - 4 ( +4)
La Confederazione, UniLab-Svolta studenti
   Svolta(工科大学生連合)
10,7% 7,1% 7,9% 7,4% 1 3 ( +2)
Unicentro - 4,7% 9,2% 4,2% 0 -
学生ブロック - 1,9% - - 0 -
Movimento giovani padani - - - 2,5% - -
Altre liste 1,2% 2,4% 4,2% 5,0% 0 0
Totale voti validi 100% 28


イタリア大学代表全国連合UNURI)  PDF 概要
  1948−1968年のイタリアの大学生代表組織。 

  1946年5月、ローマで大学全国会議が開催される。
  これにはカトリック、戦線派(社会主義者と共産主義者)、ゴルアルディア(伝統派)の3つのグループが存在した。
  カトリックは学生を大学そのものとし、戦線派は知的労働者とした。彼らはゴリアルディアのエリート精神を批判した。
  ゴルアルディアは学生は教授とともにあって教授に反対すべきでないとした。
  1948年12月のペルジャの会議でカトリックのアゴスティノ・グレッジが委員長となる。
  1949年4月、UNURIが結成される。
  イタリア・ゴルアルディカ連合Ugiに表現されるゴルディア派とIntesaに表現されるカトリックによる連合により反戦線派路線が
 取られこれが約10年間続いた。1949年の大学の選挙ではカトリック42%、ゴルディア40%、Cudi14%、右翼4%であった。
  1950年ゴルアルディアの一部の半秘密グループはMSI派のFuanを結成。  
  1952年のUGIのフローレンス大会は分裂の傾向を示した。
  委員長のフランコ・ロッチェラは政治を強調した。他は政治を拒絶した。
  1953年には分裂はもっとはっきりしてきた。
  1957年CudiがUgiに合流。
  Ugiの左傾化でリベラルと反戦線派は1958年Agiを結成。
  1963年、Ugiは共産主義者と社会主義者の手に落ちた。
  1964年のUNURI新指導部はIntesaとUgiにより構成された。
  1964年、初めてUNURI評議会に共産主義者のクラウディオ・ペトルッチオ(共産主義者青年連合書記、Ugi副委員長)が加わる。
  ファシズムの崩壊で自然に生まれた学生代表制度の危機は60年代中の危機に入った。これは大学制度改革の学生運動誕生
 と一致する。
  1968年末UNURIは解散。

(以前の学生組織)
・イタリア民主大学センターCudi
  共産主義者と社会主義者、左翼戦線派。
  1957年Ugi合流
・イタリア・ゴリアルディカ(大学生)連合Ugi
  1946年2月、イタリア独立ゴリアルディカ連合FIGAとして結成される。
  世俗派、急進、リベラル、共和主義者、反戦線派。
・Intesa
  キリスト民主、FUCIのなかの政治活動グループ
  イタリア・カトリック大学連合FUCIは1896年ロモロ・ムッリが創設。ファシスト体制でも存続。
・イタリア・ゴルアルディア協会Agi(独立ゴルディア協会)
   1958年、世俗派の一部とリベラルがUgiから分離。
民族行動大学戦線Fuan
   1950年結成、1996年解散、イタリア社会運動の青年組織から結成。

*UGI活動家
  リノ・ジャンヌッツィPSI、強いイタリア)、フランコ・ロッチェラ急進党創設に参加)、マルコ・パンネラ急進党、UGI、UNURI委員長経験)、
 マッシーモ・テオドリ(急進党)、ヴィンチェンツォ・バルザモ(PSI)、ファブリツィオ・チキトPSI、強いイタリア)、
 ベニト・クラクシ1956年UNURI副委員長、Cudi、PSI)、ジャンニ・ディ・ミケリス(PSI、2007年PSI)、クラウディオ・シニョリレ(PSI)、
 ヴァルド・スピニ(UGI委員長、PSI、民主左翼SD)、ジャン・マリオ・カッツァニガ(PSI、PCI、PDS)、
 アルド・ブランディラリイタリア共産主義者連合ML)、ジュリエット・キエサ(PCI)、パオロ・フロレス・ダルカイス(PCI)、レナト・ニコリニ(PCI)、
 アキッレ・オケット(PCI)、クラウディオ・ペトルッチオリ(PCI)、フランコ・ピペルノ(労働者の力PO)、フランコ・ルソ(CPI)など。

*Intesa活動家
  アゴスティノ・グレッティ(DC)、シルヴァノ・バセッティ(継続闘争LC)、マルコ・ボアト(LC)、マリオ・カパンナ(DPその他)
 ルイジ・コヴァッタ(PSI、イタリアの約束)など。
  60年代後半から70年代にかけてのイタリアの急進的学生運動、新左翼はそれまで体制派であったカトリック学生を中心として生じた。

*AGI活動家
  ラファエロ・モレリ(PLI自由党)、クラウディオ・マルテリ(PSI)  アントニオ・デル・ペンニオ(共和主義)など。

Fuan活動家
  マッシーモ・アンデルソン(イタリア社会運動MSI)、パオロ・ボルセリーノ(判事、マフィアに暗殺される)、ギド・ロ・ポント(MSI)、
 フランチェスコ・ペトロニオ(MSI)など。

*libcom.orgから
 大学での学生運動の要旨
  1948−1968年までUGI(PCI、PSI活動家)とIntesa(カトリック)はUNURIに参加。
  1963年、UNURIは政府と補助金の交渉を行う。
  これらの組織の精神は政治的・文化的エリートの世界から出ていた。
  代表組織(OORR、不明)の1964−1965年の選挙は学生の間で保守的意見が支配的であることを示している。
  UGIは約17%でIntesaの半分以下、ファシストより少なかった。
  しかし変化の兆候があった。
  1960−1963年のストライキの間、多くの学生がデモに参加。
  1963年、イタリアの大学のすべての建築学部が占拠された。
  特にギ法案(大学制度改革)反対への動員は全国的で多くの参加者がありついに1965年4月で頂点に達した。
  1967年、政府への反対は、45日間のミラノ工科大建築学部の占拠に至った。
  主な決定はUNURIでよりむしろ学生集会でなされた。教師の参加で政治・教育争点を検討する代表が設立された。
  政府は譲歩した。
  しかしピサの学生の行動はUGIに危機をもたらし、政府にたいする反対を急進化させた。
  1967年2月、ピサでの大学幹部の協議会をピサの学生が粉砕し、警察と衝突した。
  この事件の間、行動の決定はすべて公開学生集会で行われ、公式学生団体は無視された。
  彼らの学生運動にたいする理論化−ピサ・テーゼは主要な宣言の一つとなった。
  市場経済の計画資本主義への変化はより高度な技術労働者を必要とし、それ故、学生は最早特権階級ではなく
 将来の技術労働者であり、客観的に労働者階級の一員である。問題は学生に彼らの現実的階級的立場を
 知らしめることである。これは学生賃金に対する闘争でなされる。この闘争は共通の敵、資本主義と国家への
 学生と労働者の共同闘争をもたらす。
  これは異端の共産主義者と社会主義者に強く訴えた。
  1967年5月のUGI協議会ではピサ・テーゼがPSIUPとPCI左派からなる反対派の基礎となった。
  かろうじて指導部が勝利したが、成長する急進化に答えられなかった事で1968年末までUGI、Intesa、
 UNURIなどすべての組織は公式に解散した。
  新しい学生運動は共産主義者異端の形態をとった。
  たとえばピサでは労働者主義理論が支配的で産業問題に積極的に関わり、労働組合を通さないで労働者と結合しようとした。
  このアプローチ法は学生自身の当面する課題を不明確にする傾向があり、学生問題に向かったのは学生運動が大衆形態を
 とってからであった。
  1967年冬から1968年第1四半期に学生の大学での扇動は全国的になった。
  11月、トレント、トリノ、ジェノヴァ大とミラノ・カトリック大が占拠された。
  12月、運動は南に広がりナポリ大が占拠された。
  1968年1月、36大学が占拠された。
  多くは議会で論議中のギ法案に反対であったが、ロサナ・ロサナンダイル・マニフェスト派)は「法案が生み出された論理、
 これを生み出した政治、学問、社会機構に学生は反対である」と書いた。
  1968年3月のミラノの学生運動協議会でマウロ・ロスタニョ(LO)は「新しい型の大衆社会闘争は新しい型の社会制度の本質を
 明らかにした、これは行動の独立領域を破壊し、集権化し、堅固な計画的支配に従属させがちである」と進行中の衝突の本質を敷衍
 した。
  学生運動は急進化し、1968年3月20日、ローマで学生と警察の激しい衝突が起きる。
  ヴァレ・ジュリア(ジュリア渓谷)の闘いが学生運動の転機であった。
  5月25日、ミラノのカトリック大を学生は追い出され、再占拠を試み、マリオ・カパンナが警察に最終通告を行う。
  ピーノ・マッシは暴力La violenzaを歌う。

 学生の力

 大学占拠  参考

  1963年、種々の建築学部占拠。
  1964年、ピサのサピンサ広場占拠。
  1966年、トレント大占拠。
  1967年、トレント大社会学部占拠でほとんど66−67年度麻痺。
        2月、ピサ大学生サピエンサ広場占拠。
        11月、ミラノ・カトリック大占拠。トリノでカンパナ広場占拠。
         ジェノヴァ、パヴィア、フィレンツェ、ナポリ、パドヴァに広がる。  

イタリアの主な大学>
  2010年で63国立大学に176万学生。
  
  サピエンサ・ローマ大:ローマ法皇の1303年設立のカトリック大。
  聖心(サクロ・クオレ)カトリック大(ミラノ)

  トリノ工科大(ポリテクニコ)
  ミラノ工科大
  ピサ高等(ノルマレ)師範(スペリオレ)学校(スクオレ)


60年代
 1966年1月24日、トレントで最初の大学占拠。教育課程変更案に反対し占拠は10月にも繰り返される。
 占拠は年中に流血で終わり、北、中央イタリアに大きな反響を起こす。
 これに影響され、1967年11月15日、ミラノ聖心カトリック大学とトリノ工科大学建築学部が占拠されただちに警察が排除。
 ミラノは授業料を倍増、建築学部は校舎移転を決めていた。
 最初の指導者はミラノの指導者はマリオ・カパンナとペロ、トリノはルイジ・ボッビオ(LC)とギド・ヴィアレ(LC)、トレントはクルチオ。
 3日後、3万の学生がミラノで大司教までデモ行進。警察が激しく弾圧、パドヴァの急(Celere)戦闘として記憶される。
 68年5月、ボッコーニ大(ミラノ)以外のすべての大学占拠。
 同月、抗議は大学を越えて広がり、ジョ・ポモドロアルナルド・ポモドロエルネスト・トレカーニジャンニ・ドヴァを含む
数百の芸術家が文化制度と公共の場の自主管理を要求しトリエンナーレ広場を15日間占拠。
 
 やがて労働者にも影響が広がり、9月トリノのフィアットで紛争が起き、実りなく、2万5千の労働者解雇。やがて全市に影響が
拡大。12月21日調停がなり多くの労働者の要求が実現する。これがやがて労働者憲章(1970年5月)へと実る。

*右翼学生の動向
 抗議の始めのころは右翼大学生は運動の先頭にいた。
 5月1日のジュリア渓谷(Valle)の戦闘は68年5月を代表する学生と警察の衝突で、左右学生が一緒の最後の行動。
 5月16日、MSI幹部は党の秩序が失われるのを恐れ方針変更。
 MSI派FUANの反抗議路線に従うのに反対の右派学生の一部はローマとメシナで欧州学生運動を発足、1969年3月
ジョヴァンニ・ダヴォリに率いられメシナで占拠に参加、1970年にはカラブリアのレッジオの反乱(カラブリアの首都変更決定
にともなう叛乱、ンドランゲタに支援されたMSI若者が叛乱を乗っ取る)でバリケードの中にいた。

 *FUANカラベラ(サピエンサ大FUAN)ゴルディアカ・プリムラ(サピエンサ大右派学生)、民族前衛(MISから分裂)などの
 右翼学生が左翼学生と一緒に法学部占拠に参加し更にジュリア渓谷(Valle)の戦闘にも参加。


学生運動> 
 イタリアの学生運動は特にミラノ大を中心に1968−1976年に活発に展開された。
 その指導者はマリオ・カパンナで理論家はサルヴァトーレ・トスカーノであった。

 1968年3月、学生運動はミラノ大で学生運動が社会、特に労働運動に関わるべきかの議論をし、労働運動の近くでしかし中に
入らず、労働運動に吸収されず独立して運動を行うこととなった。
 1971年1月のミラノ大での集会ではサルヴァトーレ・トスカーノに支援されたマリオ・カパンナの労働運動と関わる改良主義傾向
とジョセフ・サラチーノのリベラル運動から議論がでた。2潮流は分裂しルディ・ドゥチュケの制度を通る行進の影響を受けた
ジョセフ・サラチーノのグループは棄権を選択し、結果は棄権445、賛成220反対1となった。
 1973年1月ミラノのボッコーニ大の前での警察と極左の衝突で学生活動家ロベルト・フランチェスキが銃撃で死亡。
 2月、カパンナ、ファビオ・グッチーニ、ジュゼッペ・リヴェラーニがミラノ大学長攻撃で逮捕される。
 1974年スターリンをめぐる議論でカパンナ、ファビオ・グッチーニ、ジュゼッペ・リヴェラーニは幹部を降り、ルカ・カフェイラトスカーノ
は幹部に留まった。
 1974年長い内部論議のあと、約300の幹部グループは学生運動から去り、ミラノ反ファシュスト調整Coordinamento委員会は
独立組織となった。
 1975年4月16日ネオ・ファシストのアントニオ・ブラッジオンによりミラノのカヴール広場で学生活動家クラウディオ・ヴァラッリが
殺される。引き続く抗議行動で17日反ファシスト委員会活動家の大学教授チベッキ・ジャンニノが警察車でひき殺される。18日
フィレンツェで共産党活動家ロドルフォ・ボッシが私服刑事により銃殺される。
 1976年2月危機と議論の時期のあと、学生運動は社会主義労働運動となりサルヴァトーレ・トスカーノが最初の書記となった。
 これは党への転換、議会政治への接近、議会外運動の放棄の第1歩であった。この転換でこの運動は1981年プロレタリア統一党
と議会への道を完成する。
 この運動はかなり強固な組織を形成しデモでの参加者の防衛を行い極右と頻繁に衝突、労働者前衛とも衝突を繰り返した。
 主なメンバーはマリオ・カパンナルカ・カフェイラセルジョ・カフェラティ民主党)、ジュゼッペ・リヴェラーニジーノ・ストラーダ
(戦争被災者医療救援活動家)、サルヴァトーレ・トスカーノなど。

(豹Pantera
 パンテーラ(豹)はルベルティ(社会党)の大学改革に反対する学生運動で1989年12月6日のパレルモ大学、特に文学・哲学部
の占拠から始まり1990年春にいくつかの大学に広がった。
 20日、1万の学生のデモが行われ、同様のガロニ改革計画に反対する高校生の学校占拠が始まった。
 パレルモの動員は他の大学に注目されローマのサピエンサ大学に波及。間もなく多くの都市の大学で集会・討論が始まった。
 改革では特に私大で研究への民間融資と企業の大学運営参加が可能となり文系の価値低下をもたらした。また大学の意思決定
から学生が遠ざけられた。
 ほとんどの大学集会で占拠が決定され、無党派、民主的、非暴力、反ファシストが表明された。
 12月27日夜、ローマで豹が目撃され、実りのない豹探しが始まった。このとき”豹はわれれである”という標語が広告業者により生み
出されサピエンサ大学の反乱学生に贈られた。
 2月1日、パレルモで多くの学生が参加し最初の運動の全国大会が開催された。
 運動を大学の教師、事務員、助手等に広げることが提案された。内部通信にファックスが利用された。これについでインターネットが
利用された。
 共産党とプロレタリア民主を除く政党の青年組織(占拠反対派)の要求にあった修正が発表された。
 共産主義青年連合周辺の穏健派はこれに敏感であった。
 社会センター自主管理に近い強硬派は修正も拒否した。しかしナポリの例が大衆運動としてのパンテーラの終焉を刻印した。
 いたるところで力は低下した。フローレンス大会で運動は分裂、やがて学生連合UDS Unionedegli studentiが生れる(1994年)。
 1990年4月9日、パレルモの建築学科で127日後に最後の占拠解除が行われた。

異常な波
 中道右派政権でのマリアステラ・ジェルミニの法改正(大学民営化などの教育制度)、ジュリオ・トレモンティによる労災医療費削減等
社会経済政策に反対する2008年秋の学生運動。
 ベルルスコーニは抗議を一掃するため高校、大学へ秩序力(秩序警察:第3警察)forze dell'ordine を送り込むと発言。
 大統領のフランチェスコ・コシガは10月23日ニュース・インタビューで秩序力は彼らに温情を持つな、皆、病院に送り込め!と発言。
 
 10月6日フィレンツェ工科大で特別学生集会のあと科学施設占拠で学生動員の始まり。
 8日ピサ大で占拠、14日、15日とサピエンサ大、ナポリ・フェデリコ2世大で学内外デモ。
 16日サピエンサ大で無届デモが街頭に出、経済・財務省で抗議後ターミナル駅で線路占拠
 17日基礎組合sindacalismo di baseの全国ストで隊列から離れた数千の学生が警察(カルビニエリ)線を突破、教育省で集会
 以降29日の法承認までパレルモ、トリノ、ミラノ、ボローニャ、ベニス、ナポリ各地で大学内外でデモ・占拠が行われる。
 29日は更に多くでデモが発生。

 このなかでジェルミニ法承認の日10月29日のローマのナヴォナ広場で座り込みしていた左派学生がムッソーリニ賛辞のスローガン
を叫び行進していた少数の極右学生ブロックによりチェーンで襲撃される。
 そのあとサピエンサ大から500のヘルメットを被った学生が反ファシスト・スローガンを叫びベラ・チャオを歌いながら行進し、ヘルメット
を被り三色旗の棒を持つファシスト学生と衝突し、警察が介入し多数逮捕された。

    
  2008.10.29.ローマでのファシスト学生との衝突
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