<<オーストリアの学生運動>>
〔
オーストリア大学生団体OH〕
1945年臨時政府により設立され、1950年連邦法に規定された。
オーストリア学生団体は1919−1945年までドイツ学生団体に所属し1931年からナチス学生同盟により支配された。
西ドイツと異なり当初から選挙名簿が行われ少なからず政党志向のグループが支配。
OHは創設からOVP学生グループが支配、選挙ブロック、オーストリア学生連合OSU、1980年代から
行動共同体AG。
2005年から法改訂で私立大学はOHメンバーでなくなった。2007年からは工科大(応用科学大)が参加。
1952年に最初の授業料反対デモを行う。
1962年1週間ストライキ。
1996年、2000年、2002年、2004年学生の社会的利益喪失に反対するデモ。
委員長は1969年から1995年まではOSUとその後継のAGが確保。
1995年はGRAS、VSStO、KSV、
LSF、
FLO連合でVSStOのアグネス・ベルラコヴィッチが初めてOH委員長となる。
2001年からGRAS、VSStOが連合し委員長を確保。2007年には
FLOも参加しかし2008年崩壊。
2008−2009年はAGが確保するが2009−2012年はGRASが委員長確保。
2012−2014年はFLO、2014−2015年はGRAS、2015−2016年FLO、2016−VSStO
OH選挙結果
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行動共同体AG
オーストリア国民党系。
1980年代初め
オーストリア国民党OVP系オーストリア学生連合OSUとオーストリア学生フォーラムが合同し結成。
OSUは種々のカトリック保守の組織の選挙連合が起源。これらはすでにOHを支配していた。
2004年OH連邦代表への直接選挙放棄に反対しない数少ないグループであったが2005年選挙はVSStOが利益を得、
AGは大敗北。2007年はGRASとFLOの連合でFLOのハルトヴィッヒ・ブランドルが委員長となるが2008年崩壊しAGの
サミール・アル・モバイイェドが委員長となる。2009年は更に議席を増やす。
ヨーロッパ民主学生(キリスト民主、保守、リベラルの)に参加。
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緑・選択学生GRAS
緑党系。1993年のOH選挙から出現。
1995年学生議会の第2勢力となりVSStO、KSVおよび他の左派、左翼リベラルと多数派形成。
1997年この多数派は敗北、2001年GRASはアニタ・ヴァインベルガーを全国代表委員長にすることができた。
2003年には29%で最大グループとなりそれまでの支配グループACは第2位となった。
2005年は黒青政権(自由党FPO、OVP)の選挙制度改正にもかかわらず14議席。2007年は15議席でAGについで2位。
選挙後GRAS、VSStO、FLO3グループ連合結成するが2008年崩壊。(FLOがVSStOを社民党のいいなりと批判。)
2009年選挙でシグリッド・マウラーを委員長とする。
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オーストリア独立学生連合名簿FLO
1970年代ウィーン技術大の学生団体はOVPに近いOSUが支配、これに不満な無党派学生代表が独自の学生団体名簿結成。
1983年ウィーン技術大で初めて主委員会委員長を得る。
これが各大学に広がった。2005年選挙改正でFLOは全国的に強化された。
2007年には初めてハルトヴィッヒ・ブランドルがOH委員長となる。
2007年選挙では12大学が名簿参加、2009年は14大学。
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オーストリア社会主義学生連合VSStO
VSStOは1893年ウィーンで創設、創設指導者はマックス・アドラー。
以降各地に結成され1925年全国統一。オーストロ・ファシズムで禁止。
1945年再建しOH参加。1960年代第2半期まで唯一の非保守学生組織。
1980年代初め、クライスキーとフィルンベルクの大学改革(無料大学授業料)で選挙結果の頂点を経験。
SPOの斜陽とともに低下。1995−1997年に保守のOH支配を打ち破るが1997年はAGが多数派。
1995−1997年はVSStOの
アグネス・ベルラコヴィッチが初めてOH委員長、1969年からそれまではOSUとその後継のAGが確保。
2001年からGRASと連合。
選挙結果は1989年20.0%、1991年15.5%、1993年13.8%、1995年10.4%、1997年12.4%、1999年15.1%、
2001年21.5%、2003年20.4%、2005年23%、2007年16.95%、2009年14.28%。
1995−1997年はGRAS、
LSF、
FLO、KSVと連合。2001年からはGRASと連合、2007年はこれにFLO参加。
アンドレア・マウツ(2003−2004年OH委員長)、
バルバラ・ブラハ(2006−2007年OH委員長)、
シルヴィア・クバ(2005−
2007年VSStO委員長)。
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共産主義学生連合verband KSV
KSVは民主学生連合Vereinigung の後継として1972年に結成。
1970年11月民主学生連合からすべてのユーロ・コミュニズム活動家が追放され
マルクス・レーニン主義学生MLSと改名。
1971年12月追放された正統派オーストリア共産党支持者が共産主義学生グループ結成し、1972年10月KSVと改名。
政治的にはKSVはシュタイアーマルク(スティリア)KPOに近い。
2007年OH選挙は2.24%。
2006年KSVは分裂、ウィーンのKSVの一部はKSV左翼名簿KSV−LiLi結成。
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マルクス・レーニン主義学生MLS
1972年トロツキストの追放で
革命的マルクス主義グループ結成。
MLSは毛派志向を維持。1972年一部がウィーン共産主義者同盟結成。これから1976年
オーストリア共産主義者同盟が結成
される。MLSは学生が活発で後に政治・文化分野で重要な役割を果たす人物が出た。
ロベルト・シンデル、
リーンダー・カイザー、
コンラット・ポール・リースマン、
エリフリーデ・イェネリクなど。
OH選挙は1974年4.9%、1975年3.9%、1977年3.1%。
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自由主義学生リングRFS
1952年結成、初代委員長は
ノルベルト・ブルガー(極右政治家)
RFSはオーストリア・ドイツ民族主義運動の学生団体(ブルシェンシャフト)の伝統に近い関係にあった。
ドイツ民族主義と極右の学術的基盤の影響で1950−1960年代はRFSは第2勢力であった。
最初のOH選挙から1974年までRSFは中央委員会の第2勢力。
1965年3月
タラス・ボロダイケヴィッチ(旧ナチス・メンバー、大学教授)の反ユダヤ主義発言に対する旧レジスタンス・メンバーと
労働組合による抗議デモにRFSが衝突、その際その場にいた
エルンスト・キルヒヴェーガー(67歳、収容所経験者)がRFS
のギュンター・キュメル(24歳アマチュア・ボクサー)に襲撃され死亡、キュメルは過剰防衛で10ヶ月投獄になった。
ブルシェンシャフトとRFSは一緒に無学者は出て行け、ユダヤ人は出て行け、アウシュヴィッツに映えあれと叫んでいた。
1968年運動の民主化の過程と授業料無料化による大学開放で1972年からRFSの重要性が失われる。
1950年代にはOHで30%台であった得票率が60年代には7%、1997年には5%以下。
右翼との密接な関係は1970年代も維持。
1983年FPOは自分達の学生組織リベラル学生連合創設。そのためRFSは1985年選挙に参加できず。
1987年は2%、1989年RFSはネオナチスに近いという理由でFPOにより解散させられた。そのかわり自由学生イニシアチフェFSIが
ハイデ・シュミットの指示で結成された。FSIは一桁台の低い値しか確保できなかった。
1994年FSIはオーストリアのEU参加に曖昧だったのでRFSが再建される。1995年FSIとRFSが自由学生名簿で3.9%確保。
この結果FSIはRFSに合流。
RFSは大学の大衆化を否定し授業料を支持し、選抜手続きの向上を要求。 OHの利益便宜志向を擁護し一般政治志向に反対。
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オーストリア青年リベラルJuLis(以前はリベラル学生・学生フォーラムLSF)
1993年
ヨルク・ハイダーの
自由党が右翼ポピュラリズム路線を強化したため
リベラルフォーラムが分裂し、その結果
リベラル学生フォーラムが結成された。
1995年OH選挙に参加(1993年はまだ穏健派統一緑学生が存在)、1999年から減少傾向で2005年わずか1議席、
2009年には0となり、FPOに近いRFSに追い越された。
2009年JuLisオーストリア青年リベラルと改名。
2012年新オーストリアとリベラルフォーラムNEOSがリベラル政党として結成されJUNOSとなる。
OH選挙は1995年8.8%、6議席、1997年10.4%、7議席、1999年9.9%、4議席、2001年5.3%、2議席、2003年3.4%
1議席、2003年3.4%、1議席、2005年3.9%、2007年2.27%、2009年1.7%。