< ミキス・テオドラキス 平和の人 > Gail Holstによる伝記

○ 内戦まで

 
ミキス・テオドラキスは1925年にキオス島で生まれた。
 彼は子ども時代をギリシャの田舎のいろいろな町で過ごした。
 そこでかれは民衆音楽とギリシャの伝統的教会音楽に親しむようになった。
 ペロポネソスのトリオポリスの町で、彼は10代を過ごし、最初の交響的音楽、ベートーベンの第九交響曲を聞き、
作曲家になる決心をした。
トリオポリスでの青年時代

 
 トリオポリスではテオドラキスはまた彼の生涯の自由への戦いを始めた。
 第二次世界大戦がはじまりトリオポリスはイタリアに占領された。
 17才の作曲家は3月25日(トルコからの独立に対するギリシャの戦いの記念日)
に革命的英雄コロコトロニスの像に花輪を置くことにより積極的抗議に参加した。
 彼は初めて逮捕され拷問されたが、なんとかアテネへ脱出した。

 アテネでは、作曲を学ぶため音楽学校に登録した。
 同時にかれはE.A.M.(ドイツの占領にたいする最大の抵抗組織)に参加した。
 残りの戦争期間中、レジスタンスに積極的に参加する一方、作曲の勉強を続けた。
 
 ギリシャ内戦(1945−1948)のあいだテオドラキスは政治的活動を続けた。
 彼は3年を身を隠すか、囚人キャンプで過ごした。
 何回も逮捕され厳しく拷問されたが音楽活動を続けるために戦った。
 彼の最初の交響曲は有名な囚人島のマクロニソスで作曲された。
 彼が民衆音楽と、レベチカとして知られるギリシャ流行音楽に関心を持つようになったのもこのころである。

 左翼の支持者は信念のゆえに拷問され、殺されるというマクロニソスの恐ろしい状況にもかかわらず、ここで
テオドラキスは内戦の敵対する両者の和解を成し遂げるという生涯の戦いを始めた。
 
○ パリ時代

 1954年、テオドラキスはアテネ音楽院を卒業し、パリへの奨学金を与えられた。
 彼はパリ音楽院に入り、作曲をオリヴィエ・メシアン、指揮をウジーヌ・ビゴーに学んだ。 
 彼の才能はすぐに認められた。
 彼は映画音楽とバレー音楽の委託を受けた。
 
1959年、ロンドンのアンチゴネ
でスベトラーナ・ベリオサヴァと
1959年には彼のバレー”アンチゴネ”はコベント・ガーデンで上演された。

  彼は古典的作曲家としての国際的スターの地位に毒されているように見えた。
 
 そのときである、ヤニス・リツォスという一人のギリシャの指導的詩人がエピタフィオス
という一連の詩をテオドラキスに送ったのは。
 これらの詩はストライキにおける若いタバコ労働者の死に鼓舞されたものであった。
 テオドラキスはこれらの詩をギリシャの流行音楽、民衆音楽、教会音楽の要素を利用し
一日で音楽に仕上げた。
 彼はまたギリシャに戻ってギリシャの困難な政治に没頭する決心をした。


○ 1960年代の行動主義と音楽

 1960年はテオドラキスにとって非常に多産な期間の始まりを示す。
 彼はギリシャの詩を音楽にし、洗練された流行歌の新しい波を創造することを始めた。
 他の若い作曲家たちは元気付けられて手本に続き、わくわくする新しいギリシャ音楽の波がはじまった。

ランブラキスト・ユースとともに
  1963年、グリゴリオス・ランブラキス(ギリシャ議会の社会主義者議員)が左翼、
そして疑いもなく警察の高官、軍、政府が入り組んだ状況のなかで殺された。
 そのときまで決して政党政治に積極的な役割をはたしたことはなかったけれども、
テオドラキスは選挙に立候補する決心をした。
 1964年、統一左翼党の議員に選ばれ、そしてまたランブラキス青年運動の
代表になった。
 彼は民主的権利、平和、軍縮の戦いを始めた。
 同時に、彼は文化的ルネッサンスをまきおこすことと、彼の党内に民主的改革を
起こすことを企てた。
 これらの年月に彼は人生におけるギリシャ人での生涯の人気の基礎を確立した。
 国会議員として、テオドラキスはマカリオス大司教と会ってキプロス問題の解決策を
探す方法を議論するためキプロスに旅した。
 1964年にテオドラキスは”死んだ兄弟の歌”という音楽劇の形での内戦を戦った両者
の間の友好関係樹立の夢をギリシャ公衆に提案した。
 依然として厳しい戦争の余波のなかで、彼の革命的仕事はすべての政党により攻撃された。

○ 軍事独裁政権時代(1967−74)

 テオドラキスのギリシャ社会における分裂をなくすための音楽的、政治的企ては1967年にギリシャの支配権を
握った軍事独裁政権によって中断された。
 新体制の最初の行為の一つはテオドラキスの仕事を禁止することであった。
 直接の標的であるこはわかっていたので彼は地下に潜行し、体制に抵抗の訴えを発した。
 間もなく彼は抵抗組織(愛国戦線)の代表に選ばれた。
 身を隠しながら、そしてのちには投獄されながら、彼は作曲を続けた。
 1968年、テオドラキスはペロポネソスの孤立した村で拘束下に置かれた
 そこからでさえ外部世界に抵抗のメッセージと楽譜をこっそり持ち出すことができた。
 かれはまたギリシャ詩の作品にもとづいた一連の歌曲集を作曲した。
 テオドラキスは再びオロポスの囚人キャンプに移され、そこで彼の健康は非常に悪化し始めた。
オロポスの集中キャンプ

 彼の釈放を確かなものにするため多くの国で著名な人々により委員会が結成された。
 ベルリンの芸術家アカデミーの21名のメンバーはギリシャ内務大臣に請願を送った。
 それに署名したのは Igor Stravinsky, Boris Blacher, Pierre Boulez, Luigi Dallapiccola,
Johann Nepomuk David, Paul Dessau, Wolfgang Fortner, Hans Werner Henze,
Giselher Klebe,、Ernst Krenek, Rolf Liebermann, Ernst Pepping, Bernd Alois Zimmermann
などである。.
 米国では彼の解放のための委員会にはLeonard Bernstein, Arthur Miller, Edward Albee,
Harry Belafonte, Arthur Schlesinger jr.,.のような人がいた。
 ソ連の委員会はDmitri Shostakovitchによって指導された。

 彼の釈放のための国際的圧力は高まり、1970年に彼はパリへ向かうことを許された。

 テオドラキスは直ちに、ギリシャに民主主義を復活する努力のため、世界に旅し、演奏会、報道発表会と政治指導者
及び他の分野の人々との会合を開催し始めた。
 同時に彼は分裂した左翼政党の統一を試み、そしてすべての抵抗勢力の協同を促した。
 彼の演奏会で、彼は多くの抑圧された人々(それらにはクルド人、チリ人、パレスチナ人がいた)に彼らの訴えを
発表させる機会を提供した。
 
 1972年彼はイスラエルに1ヶ月旅した。
 彼はこの地域での平和の努力を援助するための企画としてイスラエル大統領のアラファト氏へのメッセージを携えて
ベイルートも訪問した。
 彼の仕事”マウトハウゼン”はイアコボス・カンバネリス(ギリシャ人で集中キャンプに拘束されていた。)の詩に
基ずいている。
 カンバネリスはイスラエルで非常に名声を博した。
 同時にパレスチナ人の要求にこたえて彼らの故国に対する合法的戦いを表現する賛歌を作曲した。
 ずいぶんあとにイスラエルとパレスチナの指導者たちがスカンジナビアで最初に会ったとき、彼らはテオドラキスに
平和への戦いの彼の寄与を評価して、式典に出席しないかたずねたばかりでなく、この二つの曲を上演しないか
とまでたずねた。
 
 ギリシャ人の民主主義回復への努力に対して示された、スカンジナビアの人々の偉大な連帯は、テオドラキスに
すべてのスカンジナビアの国々の人々に対する非常な親近感をもたらした。
 彼の作品の多くの演奏会がスカンジナビアの演者によって開催された。
パブロ・ネルーダとともに

 彼の”アキシオン・エスティ”(ノーベル賞受賞詩人オディッセウス・エリティス の詩による
作品) ”カント・ヘネラル”(別のノーベル賞受賞者パブロ・ネルーダの詩による)のような
作品は多くの合唱団の演奏曲目になった。
 スエーデンではテオドラキスは首相のオロフ・パルメと個人的友情で結びつけられた。
 パルメが暗殺されたとき、彼の質素な葬式で彼の願いによりたったひとつの音楽、
テオドラキスの”自由への賛歌”が演奏されたことは彼らしい。
 
 独裁に対する国民抵抗評議会の結成の企てに失敗してテオドラキスは独裁を倒す
唯一の希望は前の保守派の指導者コンスタンチン・カラマンリスを大統領とする
国民政府を形成することだと結論した。
 この解決策は彼が提案したときは不可能に思えたが、のちに実現した。
 国内問題、国際的抗議、とりわけキプロスでの悲劇による圧力により軍事体制はカラマンリスにパリから戻るよう請い、
1974年に権力を彼に渡した。

○ 独裁後のギリシャ

 テオドラキスは英雄としてギリシャに帰還し、空港では一万人の人々が彼に会おうと集まった。
ギリシャへの帰国

 彼は人々でいっぱいになったスタジアムで初めての演奏会を開いた。彼らの多くは彼の
古い歌と独裁時に作曲された歌を聞き涙を流した。
 政治的にはテオドラキスにとって困難な時期であった。
 左翼からは右翼に転向したとみなされ攻撃された。
 実際、彼は新しい民主主義の脆弱性を認識し、それを維持しようと切望した。
 同時に彼は全努力を左翼政党の統一に注いだ。

 1967年にテオドラキスは文化と平和に対する運動を形成し、ギリシャを旅し、演奏会を
催し、討論を開催した。
 多くの若者が彼らの政治的傾向にかかわりなくこの運動に組織された。
 しかしこれは長続きしなかった。

 1977年にはテオドラキスはクレタで”文化と社会主義”という表題で会議を組織し、これにはフランソワ・ミッテラン、
ロジェ・ガロディのような国際的人物が参加した。

 テオドラキスと左翼政党とりわけギリシャ共産党との意見の違いは大きくなり、1980年代に彼の諸勢力に和解を
もたらすという努力は挫折し、彼は交響的音楽の作曲に専心した。

○ 1980年代と90年代

 1983年にテオドラキスはレーニン平和賞を授与された。
 彼は交響曲と合唱曲の作曲と演奏会開催をとりわけ海外で続けた。
 彼は最初のオペラ”コスタス・カリオタキス-ディオニュソスの変身”を仕上げ、これはアテネ・オペラハウスで上演された。

 チェルノブイルの原子炉事故のあと、テオドラキスは原子力エネルギーの利用に反対するため演奏会を開きながら
ヨーロッパ旅行を行なった。

 他の国々のなかで、とりわけトルコを訪問した。
 トルコは民主主義と人権の抑圧について多くの問題に直面していた。
 彼は作家、詩人、音楽家、知識人と積極的議論を行った。
 
 成果は彼が長い間望んでいたものであった。
 ギリシャ−トルコ友好のための二つに委員会が形成された。
 ひとつはギリシャで彼が中心となったもので、もう一つはトルコでよく知られた知識人と芸術家が参加したものである。
 トルコでの彼の演奏会の間、聴衆のなかの若者の多くがトルコとギリシャの旗を振り、両国間の敵対を終わらせる
ことを要求した。
 キプロスでは二つの委員会は一緒に”グリーンライン”で示威行動を組織した。
ズルフ・リバネリとともに

 ギリシャとトルコの間の理解を促進するための彼の企てに対してPASOK政府が
しばしば攻撃したにもかかわらず、テオドラキスは1988年、ギリシャ首相のトルコの
相手に対するメッセージを運ぶことに同意した。
 彼はまたギリシャ−トルコ間の関係の問題を議論するため多くの国際的指導者と
会った。

 その後のPASOKの支配中、彼が彼の回りで見た退廃に深く心配して、テオドラキス
は保守派と左翼政党はPASOKを打ち倒すために結びつくことを提案した。
 最初は戦後のギリシャ政治で内戦の二つの敵対する側はツァネタキスのもとで政府
を形成するのに協力した。
テオドラキスは保守党のギリシャの政治生活を改革するという約束を支持した。
 そして党の議員が左翼テロリストグループにより暗殺されたとき、保守派のミツォタキス
首相に支援を申しでた。
 彼は1989年に議員に選ばれ新しい内閣の大臣になった。

 彼はアムネスティ・インターナショナルの賛助のもと人権とキプロス問題解決のため演奏会を開催しながらヨーロッパを
旅した。
 保守政府の大臣として彼は文化と国家問題を担当した。
 彼はもう一度トルコを訪問した、そこでは左翼政党の二人の指導者が公判中だった。
 彼は公判に出席し彼らの自由獲得のために戦っていたトルコ民主主義者に加わった。
 彼はギリシャ人少数派の権利の擁護と両国間の関係改善のためアルバニアも訪問した。

 この間、テオドラキスは世界の指導者、哲学者、科学者、芸術家の参加のもと、平和、ポスト産業社会、
そして第三世界の問題を議論するためデルフィでの汎ヨーロッパ会合をも提案した。
 彼はデルフィでの会合を”精神のオリンピック”と考え、そこではすべてのヨーロッパの国々とやがてはその他の国々も
彼らの固有の場所を持ち、そしてそこで毎年、詩、音楽、演劇等のコンテストが組織されると考えた。
 これはテオドラキスの夢のひとつにいまだとどまっている。
 1988年に彼は実際ドイツで著名なヨーロッパの作家、哲学者、法律家、政治家、芸術家、の出席による会合を組織し、
そこではヨーロッパ地域内の文化と社会的問題が議論されはしたが。

 平和のための文化運動が設立され、研究集会が引き続き、これらはテオドラキスの考えに鼓舞されたものである。
 
 
1999年アテネでのコソボの平和
のための演奏会
テオドラキスはまたトルコで大量虐殺に直面していたクルド人救援のための知識人と芸術家の委員会を設立した。
 同じ時期に彼はアラファトに手紙を送り、パレスチナ人が巻き込まれていると思われる
テロリストの行動を非難し、パレスチナ人の戦いの非暴力的方法を訴えた。
 彼はまたマンデラ・ネルソン解放と南アフリカの平和のための委員会の一員であった。

 1993年、テオドラキスはギリシャラジオ局の交響楽団と合唱団の運営を引き継いだ。
 彼らと旅し、彼は米国上院から彼の文化と人間性に対する功績にたいし栄誉を受けた。

 1994年、彼は”国境なき物理学者”グループにより鼓舞され、ヨーロッパを旅した。
 彼は彼の旅を”国境なき音楽”と呼んだ。
 彼の三番目のオペラ”エレクトラ”の国際的初演は1995年にルクセングルクで
行われた。
 ギリシャとマケドニア共和国との間に和解をもたらすための企てとしてテオドラキスは
1997年にスコピエで演奏会を行った。

 同じ年、彼はトルコの作曲家ズルフ・リバネリとともにヨーロッパの旅を始めた。しかし旅は彼の病でさえぎられた。
 にもかかわらず二人の作曲家の”Together”と呼ばれたCDは発売されヨーロッパじゅうに供給された。

 1998年テオドラキスは国際人権擁護委員会100回記念を祝う演奏会を開いた。

 1999年テオドラキスは国連との協議なしに行われたNATOのセルビア爆撃にたいする抗議の訴えを起こした。

 彼はまたベオグラードで演奏会を行い、コソボで平和回復のための討議を行うためミロセビッチと会った。
 続いて起こったトルコとギリシャの悲惨な地震にたいし、彼とリバネリはギリシャとイスタンブールで地震の犠牲者の
ために演奏会を開いた。

 テオドラキスのオペラ”アンチゴネ”の国際初演はアテネコンサートホールで1999年10月に行われた。
 このペラで彼は古典悲劇に基づいた三部作を完成した。
 言うまでもないが、彼のオペラは人々の争いという永遠の邪悪と平和と和解の必要性を強調している。


【著者】
 
  テオドラキスと著者
著者Gail Holst-Warhaft はオーストラリアのメルボルンで生まれている。
 作家、音楽家、翻訳家であり、コーネル大学比較及び古典文学の
教授である。
 彼女は1975年と1978年にギリシャでテオドラキスと一緒に演奏を
行っている。
 彼女にはテオドラキスとギリシャ文学に関する多くの著作があり、
テオドラキスの詩の英訳もしている。
 



























ミキス・テオドラキス




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