<<ポルトガルの左翼>>


ポルトガル共産党PCP 歴史 歴史
 PCPは民主集中制を採用し、党を愛国主義で国際主義と規定している。

 1918年、第一次世界大戦が終わり、ポルトガルは大きな経済危機に陥った。これは部分的にはポルトガルの戦争への
軍事介入に起因する。これでインフレと失業が起こった。
 労働者は生活水準の低下に対し、ストライキの波で答え、8時間労働などいくつかの目的を達した。
 1919年、最初の労働組合連合が結成された。
 政治力の不足感とロシアのボルシェビキ革命の影響で1919年ポルトガル・マルクス主義者連合FMPが創設された。
 1921年3月コミンテルン支部としてポルトガル共産党が設立された。
 他のヨーロッパの共産党と異なり、PCPは社会民主党あるいは社会党の分裂から形成されたのではなく、アナルコ
サンディカリズム、革命的組合主義者グループ、労働運動の最も活動的な集団から形成された。
 1923年カルロス・ラテスが指導者に選ばれた。
 1926年5月の軍事クーデターにより、党は非合法となり秘密活動を余儀なくされた。
 1927年、党の主要事務所は閉鎖された。
 1929年、ベント・ゴンサルヴェスの下、党が再建され秘密細胞組織網が再組織された。
 1933年のサラザール独裁体制の確立後、党への圧迫が強まった。
 マルクス主義者とアナルコ・サンディカリストの思想闘争とコミンテルンとの衝突で1930年代末にあらたに斜陽化。
 1934年自由な労働組合の閉鎖に伴いいくつかの反乱・ストライキが発生、なかで最も有名なのはマリニャ・グランデの
ものでホセ・グレゴリオ、アントニオ・ゲッラらに指導者れた労働者が全市を支配、軍事介入で反乱終焉。
 1936年党の影響下、海軍でいくつかの船で反乱発生し10人が殺され60人がタッラファルに送られた。
 1936年のスペイン戦争開始で約1000名のポルトガル人が共和国側で闘った。
 1930年代末多くの党員が逮捕、拷問、処刑された。多くがケープ・ヴェルデ島のタラファル集中収容所に送られた。
 ベント・ゴンサルヴェスもそこに送られ死んだ。
 これで政府はPCPの終焉を宣言、第2次世界大戦でのドイツ勝利の確信とで1940年幾人かの共産主義者を解放。
 これにはアルヴァロ・クニャルミリタン・リベイロフリオ・フォガサが含まれていた。
 重要幹部の解放により40年代再組織化とよばれる1940年と1941年の主要な再組織化が行われた。
 一方で1938年、PCPはコミンテルンから追放された。理由は突然の党活動の停滞や金銭問題であり、それは内戦による
国内組織の弱さに起因した。
 1943年の党会議では独裁制の終焉を望むすべての人々の統一の必要性が言われた。
 それとともにポルトガル軍内部への党の影響強化の必要性が認識された。
 サラザール体制反対レジスタンスを助ける秘密幹部網と強固な秘密組織の確立が初めてできた。
 1943年最初の全国的民主化組織綱領の全国反ファシスト統一運動ベント・デ・ヘスス・カラサマリオ・ソアレス
ノルトンデ・マトスら)が結成された。
 1944年ドイツ支援により食料不足となりポルトガルの生活水準を圧迫し、このため党の影響でリスボン、ラバテホ、アレンテホ
でストライキが発生。
 1945年、第二次大戦の主要なファシスト体制の敗北により、西側に良い印象を与えるためサラザールは一定程度の民主化
を装うことを余儀なくされた。
 それで10月、民主的レジスタンスが公式化され民主統一運動MUDとよばれる綱領が形成された。
 MUDは最初穏健反対派により支配されていたが、間もなく強くPCPにより影響されるようになり、PCPはその青年グループ
を支配していた。青年指導者のなかの共産主義者にはオクタヴィオ・パトサルガド・ゼニャマリオ・ソアレスフリオ・ポマル
マリオ・サクラメントらが含まれていた。
 このため何回かの弾圧のあと1948年、MUDは非合法化された。
 1948年アルヴァロ・クニャルがソ連に行き、PCPと国際共産主義運動(ソ連・東欧陣営)との関係が再確立された。
 1951年大統領アントニオ・カルモナの死後、政府は段階的民主化を宣言、そこで党は他の反対派と選挙でルイ・ルイス・ゴメス
を支援したが、これは不適格とされ、支援者は逮捕されゴメスは襲撃され、結局クラヴェイロ・ロペスが競争者なしに大統領に選ばれた。
 1957年、第5回の最後の国外での党会議がキエフで開催され、初めて公式に植民地主義反対と、アンゴラのMPLA、
モザンビークのFRELIMO、ギニア・ビサウのPAIGC支持が宣言された。
 1958年大統領選では民主勢力とウンベルト・デルガドを支援し、ポルトでは2万人の集会が開催されたが、不正選挙でアメリコ・トマス
大統領となりウンベルト・デルガドは後に国際国家防衛警察PIDEにより暗殺された。
 1960年1月、10人のPCPメンバーがペニシェの重警備監獄からの脱出に成功した。
 この脱出により党の多くの指導者が自由になった。(ポルトガル政府はソ連潜水艦が脱出を支援したと主張)
 そのなかにはクニャルもおり、翌年ベント・ゴンサルヴェスの植民地収容所での死により彼は書記長に就任した。
 脱出者のハイメ・セラは秘密奇襲グループの武装革命軍ARAの組織化を助けた。
 ARAはPCPの軍事部門で1970年代、独裁制に対し何度かの軍事行動を行った。

 1961年、アフリカで植民地解放戦争が開始された。まずアンゴラから翌年、モザンビークとギニア・ビサウ。
 戦争はポルトガル社会の不安を推進し、サラザール体制の衰退をもたらした。

 1962年、学園危機が起こった。サラザール体制は学生の間に民主主義思想が広がるのを恐れ、ポルトガル学生総書記局を
含むいくつかの学生の集まりや組織を非合法化した。
 これらの組織のメンバーの多くは共産主義知識人活動家で彼らは迫害され、大学生活継続を禁止された。
 CPCの助力によりこれに学生はデモで応え、3月24日のリスボンでの学生デモで頂点に達した。
 デモは荒々しく警察により弾圧され、多くの負傷者が発生した。学生は即座にストライキで抗議した。

 1965年クニャルは勝利への道−民族・民主革命での党の役割を発表し民主運動に大きな影響を与えた。
 この時期までに中ソ衝突の影響で毛沢東派が離党。

 1974年4月25日、カーネーション革命が起こった。
 4月27日、政治犯は釈放された。
 4月30日、クニャルはパリからリスボンに戻り多くに人々に迎えられた。
 メー・デーは48年ぶりに祝われ、リスボンのFNATスタジアムに約50万人の人々がクニュアルと社会主義者マリオ・ソアレス
の演説を聴くために集まった。

 1975年3月11日、軍の右派によるクーデターが左翼軍人によって鎮圧された。
 これによって革命過程の政治的左傾化が起こり、銀行、運輸、鉄鋼、鉱山、通信の主要経済部門が国有化された。
 これは共産党を支持し、臨時政府の最初の首相となった軍人ヴァスコ・ゴンサルヴェスの主導で行われた。
 共産党はこれらの変革と農業部門と土地の集産化を進める農業改革への完全な支持を主張した。
 PCPは多くの農民を協同組合に組織化し、党の強力な秘密組織と農民運動の支援によりこの過程を主導し南ポルトガルに
強固な支持基盤を確立した。
 引き続く選挙ではベジャ、エヴォラ、セットゥバルで投票の過半以上を獲得した。
 1975年の最初の民主選挙ではPCPは711935票、12.5%で30議席を獲得した。
 革命過程は夏には頂点に達し、左翼に影響されたヴァスコ・ゴンサルヴェスは社会主義者や右翼の攻撃を受け、8月には影響力
のある軍人(9グループ)がヴァスコ・ゴンサルヴェス軍隊運動反対文書をだした。PCPと穏健政党との緊張が続き、9月には
ヴァスコ・ゴンサルヴェスピニェイロ・デ・アゼヴェドに代えられた。
 軍内部の分裂は拡大し、11月25日、急進左派によるクーデターの試みは軍人右派により阻止された。
 この余波で党は他の勢力により攻撃されたが9グループのメロ・アントゥニス(後年社会党参加)はPCPのポルトガル民主化過程
での重要性を主張した。
 結局、憲法では党が望んだように、社会主義と階級のない社会へいくつかの言及がんされ、民主社会センターだけの唯一の
反対で承認された。
 1976年4月の選挙では14.6%、40議席を獲得。6月大統領選ではオクタヴィオ・パトを支援し7.5%で、軍穏健派の
ラメリョ・エアネスが当選。
 1976年の最初の地方選挙ポルトガル民主運動MDP/CDE、人民社会主義戦線FSPと提携し統一人民選挙戦線
18%を獲得し37市長を確保。
 1979年の選挙では党はポルトガル民主運動統一人民連合APUを形成し、1121374票、18.96%、47議席を獲得した。
 この選挙はフランシスコ・サ・カルネイロの中道・右派連合が勝利し、党が労働者階級の利益の反すると見なした政治を始めた。
 1980年の揺り戻し選挙でPCPは1000975票、17.0%、41議席に後退した。
 1982年地方選挙では統一人民連合APUで多くの自治体で主導権を勝ち得た。
 1980年のサ・カルネイロの突然の飛行機事故で政治fが不安定になる右派政権が崩壊した1983年の選挙ではAPUは
18.2%、44議席を獲得した。
 1986年、マリオ・ソアレスの驚異の上昇により彼は党の候補のサルガド・ゼンハを打ち破り大統領選挙の第2戦に残り、この
ため党は臨時会議を開催し、ソアレス支持を決め、彼は小差で勝利した。
 1987年の選挙では環境党緑PEV及び民主介入IDと統一民主連合CDUを組み685109票、12.2%、31議席と後退した。

 1980年代末、東欧社会主義陣営が分解し、党は党史上最大の危機に面した。
 多くの党員が去り、1990年5月の13回党会議で巨大な思想論争が起こった。
 代表の多数派は党の社会主義への革命的路線の継続すなわちレーニン主義思想の維持を決定した。
 それにより世界の他の多くの共産党と衝突した。
 党会議は、ソ連は失敗したが、歴史的に固有の経験、いくつかの社会変化、労働運動による達成が社会主義陣営に影響された
と主張した。

 1991年の選挙ではCDUは504583票、8.6%、17議席となった。
 1992年、クニャルに代わりカルロス・カルヴァリャスが書記長となった。
 1995年の選挙ではCDUは506157票、8.6%、15議席となった。この選挙で社会民主党右派政権が社会党政権に
とって代わられた。(アントニオ・グテレス政権1995−2002年)
 1999年の選挙ではCDUは487058票、9.0%、17議席となった。
 2002年の選挙は378640票、7.0%、12議席となった。
 2004年、金属労働者出身のヘロニモ・デ・ソウサが新書記長になった。
 2005年の選挙ではCDUは432009票、7.6%、14議席となった。
 2005年の地方選挙ではPCPは7自治体で自治体長を握り、308中32自治体で主導権を握った。
 その多くはアレンテジョとセトゥバルである。
 PCPによる地方自治は水源の私有化抑制、文化・教育資金、スポーツ助成、健康増進、政治参加の推進、汚職抑制で
特徴付けられる。
 連合での緑の存在によりリサイクルや水処理のような環境問題にも眼が注がれている。
 2009年EU選挙では統一民主連合CDU10.64%、2議席。
 2009年議会選挙はCDU7.9%、15議席。
 2011年大統領選はCDUはフェルナンド・ノブレ(共産党)で7.14%、同年選挙はCDU7.94%、16議席。
 2014年EU選挙はCDUで12.68%、3議席。
 2015年議会選挙はCDU8.27%、17議席。
 2019年EU選はCDUで6.88%、2議席。
 議会選は6.46%、12議席。

 PCPはEU議会では統一左翼・北欧緑左翼グループに属している。

武装革命軍ARA
 公式には1970年10月26日が最初の攻撃で1973年5月1日に停止。
 植民地でのゲリラ戦と国内での闘争を推進する目的で展開された。
 1964年、党は毛派によって武装闘争を放棄した修正主義という非難にさらされていた。
 組織結成は1966年、2人の指導者のモスクワとキューバ訪問により始められた。
 闘争はほとんど死者の伴わないものであった。
 アンゴラでの植民地軍施設爆破から始まり、米国文化施設破壊、軍施設攻撃(飛行機等28機破壊など)、通信電気設備破壊、
や軍物資運搬サボタージュ、NATO・将軍就任式典妨害などが主な活動であった。

左翼ブロックBE〕
 1999結成。人民民主連合UDP(毛派)、革命的社会党PSR(トロツキスト、1978年国際主義共産主義者同盟(1973年結成)と
労働者革命党(1975年結成)が合同、USFI所属)、政治21の連合から発展。更にいくつかの小グループが参加。
 構成集団はそれぞれの自立性をもつ緩い組織。
 あるいは旧MRPPフェルナンド・ロサスなどのように個人も参加。
 また炸裂/左翼革命戦線FER国際労働者同盟、1974年から活動しているグループによって2000年にトロツキスト左翼革命戦線FER
学生運動来歴の炸裂Rupturaグループが結成)は2007年大会で独立派と議案Cで15%獲得、BE青年2007年会議では議案Bで33%獲得、
これはBE内で社会主義闘争潮流形成。
 政治21はマニフェスト(宣言)、PSRは闘争、UDPは共同体(コムーナ)を発行し党から雑誌周辺のグループに解消しつつある。
 2007年大会ではPSR、UDP、政治21支持のフランシスコ・ロウサン議案が77.5%、テオドシオ・アルコビア議案5%、社会主義闘争と
組合主義者支持のホアン・デルガド議案15%、新左翼支持のパウロ・シルヴィア議案2.5%。

 当初フランシスコ・ロウサンが代弁者となり2005年調整者となる。
 1999年の選挙で2.44%、2002年、2.75%、3議席、2005年,6.5%に上昇し8議席獲得。2009年は9.85%、16議席へ上昇。
 2004年EU議会選は5.1%で1議席(ミゲル・ポルタス
 2006年大統領選はフランシスコ・ロウサンが5.3%、
 2009年EU議会選挙では10.7%、3議席獲得。(得票数は増えなかったが投票率低下が利した。)
 2011年大統領選は社会党のアヌエル・アレグレ(社会党)を支持。(19.74%)
 同年国会選は5.19%、8議席と後退。
 同年EU議員のルイ・タヴァレスが党を離れ、欧州議会では欧州統一左翼−北欧緑左翼から緑−欧州自由連合に移り、
2013年新党”自由livre−自由liberdade、左翼、欧州、エコロジー”結成に参加。
 炸裂/左翼革命戦線FERが去り選択社会主義者運動結成。
 2012年調整者がフランシスコ・ロウサンからホアン・セメドカタリナ・マルティンスに交代。
 2014年EU選挙は4.56%で1議席。
 フォーラム・マニフェスト(旧政治21)が去り自由/前進の時に参加。
 2015年議会選挙は10.22%、19議席。アントニオ・コスタ内閣を支持。
 2016年、カタリナ・マルティンスが唯一の調整者となる。
 2019年EU選は9.82%、2議席。
 議会選は9.67%、19議席。

 ヨーロッパ左翼に参加しヨーロッパ反資本主義左翼の創設メンバー。

自由/前進の時
 2014年ルイ・タヴァレスらが結成のエコ社会主義政党。2014年EU選で2.18%。
 2015年議会選はフォーラム・マニフェスト、共産主義者再建(2003年結成)なども参加したが0.72%で議席獲得ならず。

選択社会主義者運動
 2011年炸裂/左翼革命戦線FERが左翼ブロックから離れ結成。
 2014年EU選で0.38%。


人民民主連合UDP〕
 マルクス・レーニン主義党再建支援委員会(1974年カーネーション革命前に設立)、マルクス・レーニン主義革命的統一(1971年
出現、短期間トロツキストに接近)、マルクス・レーニン主義革命的共産主義委員会CCRML(1970年CM−LPから分裂)
の毛派3グループの共通大衆組織として1974年設立。
 1976年の選挙で1議席獲得(アカシオ・バレイロス、旧CCRML後社会党へ)、1979年はマリオ・トメが議席確保、1983年は当初
選挙連合を組む予定であった毛派のポルトガル共産党(再建)の分裂のため革命社会党と提携、結果は悲惨。
 そのあと1991年までPCPと選挙連合、その結果1991−1995年までマリオ・トメが議員となる。

政治21
 PCPまたはポルトガル民主運動・民主選挙委員会MDP/CDEの以前のメンバーが設立。
 PCPの反対派により1992年設立された左翼綱領ホセ・バロス・モウラミゲル・ポルタスホセ・ロルジェ・レトリアダニエル・オルヴィエラ
ホアキン・ピナ・モウラマリオ・リノホセ・マルガリャンエスら)がPSと地方選挙で協定したとき反対派(ダニエル・オルヴィエラ、、ミゲル・ポルタスら)
はMDP/CDEに参加するため政治21を結成。左翼綱領多数派は1994年社会党に参加。
 政治21は左翼ブロックでフォーラム・マニフェスト潮流を形成、ダニエル・オルヴィエラは指導部の支配を批判し2013年左翼ブロックを離れ、
フォーラム・マニフェストは2014年左翼ブロックからはなれ自由/前進の時に参加。

民主統一運動MUD)
 1945年設立されたサラザール体制での反対派の準合法の民主組織綱領(プラットフォーム)。
 第二次大戦でのファシスト体制の敗北により、西側に良い印象を与えるためサラザールは一定程度の民主化
を装うことを余儀なくされた。MUDのその1つであった。
 反対派グループはすでに1943年全国反ファシスト統一運動を組織していた。
 MUDは最初穏健派によって支配されていたが間もなくPCPが組織内の主要勢力となった。
 MUDのポルトガル社会への影響力はつよくなるにつれて、1948年非合法化。

ポルトガル民主運動MDP)
 1969年、非民主的で操作された議会選挙での選挙連合として設立。
 1979年、PCPと統一人民選挙戦線結成(後に統一人民連合)−1985年まで。
 1979年19.7%から1985年15.6%と徐々に低下。
 1987年PCPととの不一致により連合は解消され後にMDPは解散。
 一部のメンバーは民主介入を結成し、他のグループは政治21を結成しこれは左翼ブロックに参加。

環境党緑PEV〕
 1982年、エコロジストにより設立。最初地域組織を設立しそれ以来成長を続けている。
 全国拡大により1987年から統一民主連合CDUと選挙名簿を統合し2議席を持っている。
 PCPとの接近には批判もある。


社会党PS〕
 ポルトガル社会主義行動(ソアレスらが1964年設立。1973年解散、1972年社会主義インター参加)の活動家によって1973年
ドイツで設立。
 1975年の憲法制定議会選挙(37.1%)、1976年の共和国選挙で勝利、1979年の選挙で民主連合に敗北。
 1975年選挙は社会党PS37.9%、116議席、PSD26.4%、81議席、PCP12.5%、30議席、CDS7.6%、16議席など。
 1976年選挙はPS34.9%、107議席、PSD24.4%、73議席、PCP14.4%、40議席、CDS16.0%、42議席など。
 1979年選挙は民主連合42.5%、121議席、PS27.3%、74議席、統一人民連合APU18.8%、47議席など。
 マリオ・ソアレスが1973−1986年の指導者となる。マリオ・ソアレスは1976−1978年首相。
 1978−1979年は社会民主党のカルロス・ピントが組閣。
 社会党に近いカトリック左派のマリア・ピンタシルゴが1979−1980年首相として、社会福祉制度現代化、一般社会保険、健康管理、
教育、労働法改訂を行った。
 1980年は選挙連合の共和主義・社会主義戦線FRSを社会民主独立連合と民主社会主義統一左翼(1978年結成、1986年社会党
合流)と結成。26.65%獲得。
 1980年選挙は民主連合44.9%、126議席、PS26.6%、71議席、APU26.6%、41議席など。
 1981−1983年は社会民主党のフランシスコ・バルセマンオが首相となる。(1986−1996年大統領)
 1983年、モタ・ピント社会民主党中道ブロック結成。
 1983年選挙はPS36.1%、101議席、PSD27.2%、75議席、APU18.1%、44議席、CDS12.6%、30議席など。
 マリオ・ソアレスが1976−1978年に続き1983−1985年の首相となる。
 1985年、中道ブロックが分解しアルメイダ・サントス(1986年)の社会党はアニヴァル・シルヴァ社会民主党に敗北。
 1985年選挙はPSD29.9%、88議席、PS20.8%、57議席、PRD17.9%、45議席、APU15.5%、38議席、CDS10.0%、
22議席など。
 アニヴァル・シルヴァは1985−1995年の首相となる。
 1987年、ヴィクトル・コンスタンシオ(1986−1989年)、1991年、ヨルヘ・サンピオ(1989−1992年)がいずれも社会民主党に敗北。
 ヨルヘ・サンピオは1996−2006年大統領。
 1987年選挙はPSD50.2%、148議席、PS22.2%、60議席、統一民主連合CDU12.1%、31議席など。
 1991年選挙はPSD50.6%、135議席、PS29.1%、72議席、CDU8.6%、17議席など。
 1992年アントニオ・グテレス(1992−2002年)が議長となる。
 1995年多数派獲得、1999年も勝利、アントニオ・グテレスが1995−2002年首相。
 1995年選挙はPS43.8%、104議席、PSD34.1%、79議席、CDS/PP9.0%、22議席、CDU8.6%、21議席など。
 1999年選挙はPS44.0%、115議席、PSD32.3%、81議席、CDU9.0%、17議席など。
 2002年フェッロ・ロドリゲス(2002−2004年)が総書記となる。社会民主党に敗北。
 2002年選挙はPSD40.2%、105議席、PS37.8%、96議席、CDS/PP8.7%、14議席、CDU6.9%、12議席、
左翼ブロック2.7%、3議席など。
 社会民主党ホセ・バロッソが2002−2004年、ペドロ・ロペスが2004−2005年首相
 2004年醜聞でホセ・ソクラテス(2004−)に代わる。
 2005年の選挙ホセ・ソクラテスは地滑り勝利を得、2005年から首相となる。
 2005年選挙はPS45.0%、121議席、PSD28.8%、75議席、CDU7.6%、14議席、CDS/PP7.3%、12議席、
左翼ブロック6.4%、8議席など。
 2009年選挙はPS36.56%、96議席、PSD29.09%、78議席、CDU7.88%、15議席、CDS/PP10.45%、21議席、
左翼ブロック9.85%、16議席と左右に議席を奪われる。
 EU選は26.53%と18%減。
 2011年大統領選は社会民主党等支持のカヴァコ・シルヴァ52.95%に対し社会党、左翼ブロック等支持のアヌエル・アレグレ(社会党)
19.74%となる。
 財政危機に伴う同年国会選挙は28.05%、73議席と大幅後退、PSDは38.63%、105議席、CDS/PP(人民党)11.74%、24議席、
CDU7.94%、16議席、左翼ブロック5.19%、8議席。
 総書記はアントニオ・ホセ・セグロに代わる。対抗馬はフランシスコ・アシスで32%。
 2014年EU選はPS31.46%、8議席、PSDと人民党(ポルトガル連合)27.71%、7議席、地球党7.15%、2議席など。
 首相候補選でアントニオ・ホセ・セグロはアントニオ・コスタ(リスボン市長)に31.54%対67.77%で破れ、指導者も交代。
 2015年議会選は32.38%、85議席でPSD−PP連合(ポルトガル前へ)36.83%、99議席に及ばず。
 11月にペドロ・パソス・コエーリョ内閣が信任動議で否認、倒閣し、アントニオ・コスタが首相となる。
 2019年EU選は33.38%、9議席。
 議会選は36.65%、106議席、社会民主党27.90%、77議席、左翼ブロック9.67%、19議席、CDU6.46%、12議席、
CDS−人民党4.25%、5議席、人民・動物・自然3.28%、4議席。

 マリオ・ソアレス、1976−1978年、1983−1985年首相、1986−1996年大統領。
 アントニオ・グテレス、1995−2002年首相。
 ホセ・ソクラテス、2005−2011年首相。
 ヨルヘ・サンピオ、1996−2006年大統領。
 アントニオ・コスタ、2015− 首相

労働党
 2009年結成。

社会主義左翼運動MES
 1974年ヨルジェ・サンパイオら労働組合活動家、進歩的カトリック、その他大学組織の知識人党が結成。MESの初期の活動家の多くは1969年の
選挙民主委員会参加。1969年選挙では共産主義者とポルトガル社会主義行動民主統一選挙委員会に分裂、選挙民主委員会は共産党に近かった。
 1975年選挙では57695票獲得。ヨルジェ・サンパイオエドワルド・フェッロ・ロドリゲスら多くは後に社会党参加。

社会民主党PSD〕
 社会民主党を名乗っているがどんな意味でも社会民主主義ではなく中道右派の保守党。
 最初の指導者でフランシスコ・サ・カルネイロはサラザール体制下の政治家。
 カーネーション革命後の1974−1979年の連合政権に参加。
 1979年民主社会センターのちの人民党民主連合として勝利、サ・カルネイロが首相になる。1980年航空機事故で死亡。
 フランシスコ・バルセマンオが1981−1983年首相となる。
 1983年、民主連合解散し敗北、第1党社会党と中道ブロック結成するも党内反対多く、1985年分解。
 1985年選挙勝利でアニヴァル・シルヴァが1985−1995年の首相。
 1995年、1999年敗北、2002年復帰、人民党と連立政権。ホセ・バロッソが2002−2004年、ペドロ・ロペスが2004−2005年首相。
 2005年、ペドロ・サンタナ・ロペスで大敗。2006年大統領選で支援のアニヴァル・シルヴァが独立のマヌエル・アレグレに勝利。
 2009年議会選29.11%、EU選は31.71%、81議席。
 2011年議会選38.7%、108議席。PSD−CDS・PP連立政権結成、ペドロ・パソス・コエーリョが首相。
 2015年議会選は36.83%、99議席で社会党32.38%85議席に勝利。
 しかし11月にペドロ・パソス・コエーリョ内閣が信任動議で否認、倒閣し、社会党アントニオ・コスタが首相となる。
 2019年EU選は21.94%、6議席。議会選は27.90%、77議席。

<トロツキスト>

国際主義共産主義者同盟LCI 歴史 歴史
 1969年コインブラで学園危機発生。フランシスコ・サルド、ホアン・カブラル・フェルナンデスが左派学生に新潮流形成、エルネスト・マンデル
の著作を翻訳したり、フランスの共産主義者同盟に接触したりする。
 1971年カブラル・フェルナンデスらがフランスでOCIやLCRに接触し、LCRとの関係確立を決める。
 1972年共産主義者行動グループがリスボン(カブラル・フェルナンデス)、ポルト(フランシスコ・サルド)、コインブラで結成される。
 1973年ミカエル・ロヴィらの出席のもと、ホアン・カブラル・フェルナンデスらリスボン、ポルト、コインブラの共産主義者行動グループが
国際主義共産主義者同盟LCI結成。1974年第4インター会議にカブラル・フェルナンデス出席。LCIに分裂発生。
 1975年5選挙区で11000票獲得。フランシスコ・ヴァレ率いる多数派が社会主義左翼運動MES、プロレタリア革命党−革命旅団PRP-BR、
革命行動連合同盟LUAR、人民社会主義者戦線FSP、ポルトガル民主運動−選挙民主委員会MDP−CDEとともに9グループに反対し
臨時政府支持のため革命的統一戦線FUR Frente Unido Revolucionario結成。少数派は”団結した兵士は勝利する”SUVを結成
(フェッレイラ・フェルナンデス、マヌエル・レセンデ、ホセ・カルヴァリョ、エイトルデ・ソウサら)。
 FURは1976年大統領選でオステロ・サライヴァ・デ・カルヴァリョを支持。
 LCIは1978年労働者革命党PRT(1975年結成、ホセ・シントラ)や伝統的トロツキスト(ルイス・ズザルテ)と合同し革命的社会党PSR結成。 

 プロレタリア革命党−革命旅団PRP-BR
 1973年結成、1976年解散のゲヴァラの影響を受けた組織。全国解放愛国戦線の分裂で結成。カタエーノ体制で革命旅団として武装闘争を行う。
 1974−1975年の大陸作戦司令官COPCON(軍内組織、サライヴァ・デ・カルヴァリョが指導者)に影響を与えた。
 1975年革命的統一戦線FUR参加、また団結した兵士は勝利するSUVにも参加。革命過程(1974−1975年)でいくつかの爆弾攻撃を行った。
 1976年選挙後分裂し労働者統一組織が結成され、後に人民統一勢力として合法化され大統領選でサライヴァ・デ・カルヴァリョ支持。
 一部はサライヴァ・デ・カルヴァリョらが率いる1980−1987年の極左テロリスト組織4月25日人民勢力に参加。

 革命行動連合同盟LUAR
 パルマ・イナシオらがポルトガル銀行を襲撃したあとで1967年パリで結成。元メンバーのカミロ・モルタガ、エミヂオ・ゲッレイロは社会民主党、
フェルナンド・ペレイラ・マルケスは社会党参加。

 人民社会主義者戦線FSP
 1974年結成。1976年には統一人民選挙戦線に参加。間もなく社会党に参加。2000年には法廷で消滅を宣言される。

社会主義統一労働者党POUS
 1976年、カルメリンダ・ペレイラ、アイレス・ロドリゲスらが社会党から分裂したトロツキスト政党。ランベール派
 1979年選挙に参加、12713票、1980年はPOUS/PSTで83095票、1.4%、0.2%獲得、2005年は5535票、0.1%。
 2009年国会選は0.08%、EU選は0.15%。
 2011年国会選は0.08%。

・労働者社会党PST Partido Socialista dos Trabalhadores
  トロツキスト、1980年設立、1981年解散。

革命的社会党PSR
 1978年、国際主義共産主義者同盟LCI(1973年設立、1975年選挙で0.3%)、労働者革命党PRT(1975年設立)の2つの
小さなトロツキスト組織(両者とも再統一第4インター派)が結成。指導者はフランソワ・ロウサン

毛沢東主義者等

ポルトガル労働者共産党PCTP/プロレタリア党再組織化運動MRPP
 1970年設立の毛派の政党。アルナルド・マトスフェルナンド・ロサスらが結成。
 当初はMRPPで1976年PCTPに改名、その後PCTP/MRPPと称している。
 1974−1975年に非常に活発でこの時期のメンバーにはホセ・バロッソ(1980年社会民主党参加、2002−2004年、
人民党と連立政権首相)がいる。
 1974−1975年にPCPからCIAの手先と批判されたがそれはMRPPが社会党と一緒になってPCPに対立したからという。
 1976年から選挙に参加、0.7%獲得、2005年の選挙では48186票、0.8%。ほぼこの程度の得票を維持。
 2009年EU議会選挙は1.2%、43135票、国会選は0.93%。
 2011年大統領選は社会党のアヌエル・アレグレ支持、同年国会選は1.13%。
 2014年EU選は1.67%獲得。
 2015年議会選は1.11%獲得。

革命的共産主義委員会MLCCRML
 1970年、ポルトガル最初の毛派組織ポルトガル・マルクス・レーニン主義委員会CM−LP(1964年PCP指導者設立)から分裂。
 1974年中国情勢の変化で解消、同年メンバーは人民民主連合UDPに参加、親中国、後親アルバニア派。

人民統一党PUP
 1974年、ポルトガル共産党(ML)のメンバーが設立。
 1975年、CM−LPを名乗る。
 1976年、ポルトガル・マルクス・レーニン主義共産主義組織OCMLP共産党再建組織ML(1975年
フランシスコ・マルティンス・ロドリゲスに率いられ結成)と合流しポルトガル共産党(再建)PCP(R)結成。
 PCP(R)は中国・アルバニア衝突でアルバニアにつく。
 ブラジル共産党がPCP(R)に強い影響をもっている。
 PCP(R)は1992年、民主・進歩共産主義者と改名、1995年に人民民主連合に合流。

共産主義選挙戦線(ML)
 1974年、ポルトガル・マルクス・レーニン主義共産主義組織OCMLPが結成。1975年選挙で0.5%獲得。
 OCMLPは1973年、2つの小グループが統合し結成。
 OCMLPは1975年マルクス・レーニン主義委員会(人民統一党)、共産党再建組織MLと統合してポルトガル共産党(再建)
PCP(R)結成。

ポルトガル・マルクス・レーニン主義委員会CM−LP
 1964年、PCP幹部フランシスコ・マルティンス・ロドリゲスに率いられ結成。
 1973年、一部がOCMLPに合流。
 1970年、別のグループがポルトガル共産党(ML)結成。
 1975年、PUPが再びCM−LPを名乗る。


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