ヘンク・スネーフリート小伝Henk Sneevliet (1883.5.13−1942.4.13)  文書 別伝記

  1883年5月13日にロッテルダムで生まれ、1942年4月13日にルースデンで死んでいる。
  父のアントニー・スネーフリートはタバコ製造業者で看守、母はヘンリカ・ヨハンナ・ウーテラ・マッケレンベルフ。
 正式名Hendricus Josephus Franciscus Marie Sneevliet(通称ヘンク)はオランダ人の共産主義者で
当時のオランダ領東インド(インドネシア)に渡り、アジア最初の共産党建設に関わり、また
マーリン馬林という偽名でコミンテルンの代表として中国共産党の設立にかかわったこと、
その後コミンテルンの方針に反対しトロツキーと反対派を形成したことなどで著名である。
 最後はオランダに侵略してきたナチスに対しレジスタンス運動を行い捕まり、同志たちとインター
ナショナルを歌いながら絞首刑台に向かったといわれる。

 彼は生涯にPioneer, Jacket Horner, Mander, Maring, Philipp, Sentot, H. Simonsといった偽名を
使用している。

 スネーフリートは1883年5月13日にロッテルダムのクロースヴァイクCrooswijk地区にタバコ製造
業者であったアントニー・スネーフリートを父、ヘンドリカ・マッケレンベルフを母として、貧しいカトリックの家庭に生まれた。
 母は彼を産んで3年後に結核で死んだ。
 彼の父は再婚しロッテルダムに住んでいたが、彼ははじめ父方の祖父により、後に二人のおばによりアムステルダムから南80kmに
位置する北プラバント州の州都デン・ボッシュ(スヘルトヘンボシュ)で育てられている。
 彼は外部の資金援助によりデン・ボッシュの高等市民学校hbsに通った。

 学校を卒業してから、1900年にオランダ鉄道で働き始め、鉄道労働組合NVと社会民主労働党SDAPのメンバーとなり、1903年の
鉄道ストライキに遭遇する。
 1906年からズボレ(アムステルダムの北東120km、オーファーアイセル州の州都)のSDAPの活動家となり、
1903年の敗北で弱体化した運動の立ち直りと拡大に寄与した。
 1907年の選挙で最初の社会民主主義者の市議会議員となった。
 同年、地方週刊誌社会民主 De Sociaal-Democraatを創刊し、編集者となる。
 その間ヘンリエッタ・ローラント・ホルストと出会う。彼女を通して新時代周辺のマルクス主義知識人と接触する。
 ヘンリエッタ・ローラント・ホルストは彼に一時大きな影響を与えた。
 彼女が宗教社会主義者となってからも二人は友人であった。
 SDAPではスネーフリートとローラント・ホルストは正統マルクス主義の立場をとった。
 スネーフリートの組織者、扇動家、編集者としての能力とその熱心な活動により、彼はNVに不可欠な存在となった。
 1909年、有給指導者と副議長に選出された。(オランダ労働組合同盟NVV議長のヤン・アウデヒーストと交代、NVVはSDAPと密接な
関係を持つ労働組合全国組織としてドメラ・ニューウェンホイス系のアナルコ・サンディカリズム全国労働者書記局NASに対抗して
ヘンリ・ポラックらが1906年結成。)
 1911年には議長になった。スネーフリートは急進派の一人であった。
 1911年にイングランドの国際船員ストライキが起こったときに、ロッテルダムではNVV加盟のいくつかの急進的な労働組合が参加し、
アムステルダムではNAS加盟の全国オランダ船員連合が参加。
 最初は良かったが、第2段階で最終的には敗北。
 NVVの圧力でSDAPは1912年4月大会で労働組合の闘争拡大禁止を決定。
 スネーフリートはスト参加者と連帯し、1912年にローラント・ホルストと共に党を去った。
 スネーフリートは社会民主党SDP(1909年ダビット・ワインコープ、ヘルマン・ホルテルらによって設立、1918年ホーランド共産党CPH
となり1919年コミンテルンに加盟しネーデルランド共産党CPNとなる。)に移る。
 このためNV幹部は彼を指導部から追い出そうとし、彼の地位は不安定となった。一方、SDPは彼に重要な役割を与えなかった。
 このことでスネーフリートは恐らくオランダ領東インド行きの気持ちを強くした。
 スネーフリートはインドネシアへ行く前(1913年2月)SDAPに復帰。

 スネーフリートはオランダ領東インド(ほぼ現在のインドネシア)に1913年から1918年まで住んだ。
 まもなくスネーフリートはオランダ支配に対し闘う活動家となった。
 東ジャワの砂糖業界機関紙、スラバヤ貿易紙での仕事は長続きせず、スネーフリートはD.M.G.コッホの配慮で、スマラン商業連盟の
書記となり、そのかたわら電車・鉄道従業員組合VSTPを指導した。
 ここではセマウンなどの支援を受けた。
 インドネシアでは最初の大衆的運動のサレカット・イスラムが活動し、これは非一様的で前民族主義的組織であった。
 彼は(東)インド党(1913年禁止)を設立し独立運動を進めていたヨーロッパ人混血児のダウエス・デッケル(1879−1950)と知り合った。
 彼は1914年5月9日、同志アドルフ・バールスらと(東)インド社会民主同盟ISDV(インディーズ・・・・)を樹立した。
 機関紙自由の言葉はバールスが編集。
 ISDVではオランダ人と現地の人々が活動した。
 ISDVは始めは扇動クラブでしかなかったが、やがてアジア第2の共産党となる。
 VSTPはオランダ人とインドネシア人をメンバーとするユニークな組合であった。彼は労働組合の指導者としての経験によりまもなく
VSTPをより近代的で行動的な労働組合とすることができた。この労働組合は後にインドネシア共産主義運動の基礎となる。
 1920年、ISDVはインドネシア共産党PKIとなる。
 ISDVはVSTPとサリカット・イスラムのスマラン支部に特に強い影響を与え、そこいたセマウンとダルソノはスネーフリートに
強い影響を受けた。セマウンは後に初代インドネシア共産党PKI議長となる。
 ISDVは厳格な反資本主義であり、オランダ植民地支配体制と特権的インドネシア・エリートに反対して活動した。
 このことが保守的サークルと穏健なSDAPからISDVとスネーフリートに対する大きな反発を起こし、彼らは特に機関紙自由の言葉の
展開に反対した。
 スネーフリートとバールスはロシア革命の影響でツィンメルヴァルト左派に注目した。
 1916年3月、彼はSDAPを去り、ローラント・ホルストの革命的社会主義者連合RSVのSDP合流により、SDPに加わった。
 SDAPの指導者のピーテル・トルールストラPieter Jelles Troelstraは彼を引きとめようとした。
 スネーフリートとその周辺の急進的グループの熱心な活動で、穏健派も急進派と提携するようになり、ISDVのこれを恐れたグループ
は1917年9月、インド社会民主党を結成。
 孤立化をさけるためにISDVはインスリンデ(旧インド党)と協力。これにより公然の活動の基盤が与えられたが、インスリンデの批判を
やめることはなかった。
 彼はインスリンデのVSTPへの影響を断ち切ろうと努め、指導者の日和見主義的な運動と闘った。
 指導者たちはヨーロッパ人の特権の維持と民族主義的指導権を結びつくようとした。
 スネーフリートは多くのインドネシア人急進ジャーナリストの支持を獲得し、サレカット・イスラムのいくつかの地域にも影響を及ぼした。
 (セマラン、スラバヤ、バタヴィア)
 セマランではスネーフリートの熱心な教え子セマウンが全サレカット・イスラム支部を征服。
 スネーフリートとバールスはサレカットの臆病さと日和見主義に対し執拗な批判を行った。
 しかしイスラム指導者は大衆に対しインスリンデ運動指導者より強い立場を持っていた。
 1917年、決定的な対決が訪れた。
 スネーフリートは組合によりVSTPの扇動者としての職から解雇された。
 1917年のロシア革命の後、スネーフリートの急進主義はインドネシア人とオランダ兵士とりわけ海兵の間に強い支持を得、
そのためオランダ当局は神経質になった。
 ヨーロッパでの革命の影響はインドネシアでは1918年11月に頂点となり、船員と兵士が評議会を結成。
 スネーフリートとJ.A.ブラントステデル下級海兵同盟BvMMPに強い影響力を与えた。
 (J.A.ブラントステデルは家が貧しかったので13才で海軍に入り、訓練期間中、下級海兵同盟に参加、1909年SDAPに参加。
 1912年、インドネシアに来た。一旦オランダに戻ったが、1913年、スラバヤの海軍ビルの管理者となった。
 1914年海軍ビルはBvMMPの手に渡り、ブラントステデルはBvMMPの幹部となる。彼はISDVの左派となった。
 1918年ブラントステデルは急進派組織の兵士同盟結成に参加、機関紙”兵士・船員新聞”の編集者となる。
 1919年ブラントステデルはインドネシアから追放されオランダに戻る。)
 このためスネーフリートはインドネシア追放となり11月20日去った。ISDVは弾圧された。

 オランダに戻って、スネーフリートはCPHの指導部により少し疎んぜられた。彼らは東インドでの彼の戦術を批判した。
 そのため彼はより多くの時間を労働運動に費やし、1920年の運送ストライキの組織化を助けた。
 同年彼はモスクワの第2回コミンテルンの会議にマーリンとしてインドネシア共産党PKI(ISDVの後継組織)の代表として出席した。
 ここでは始めて民族植民地問題が議論された。
 彼はレーニンの目に留まり、中国共産党結成を手助けするためにコミンテルンの代表として中国に派遣され、1921年7月の第1回
中国共産党会議に出席した。
 彼が中国に着いたときには政治状況は混沌としていた。共産主義者は地域軍人の勢力に依存していた。
 彼は小さくて非均質的な共産党が信頼できず、南の民族主義者との協力を好んだ。
 彼は労働組合運動をより信頼し、9月に上海で労働書記局創設の協力した。
 12月には蒋介石を桂林にソ連と国民党の協力のために訪れたが成果は何もなかった。
 スネーフリフトは党に好感を受けず、国民党と孫文との協力を議論した。孫文とは個人的関係を持った。
 中国共産党はできるだけ独立することを望んだ。
 陳独秀の共産党はスネーフリートにコミンテルンの権威で強制され、国民党に入党し始めた。
 コミンテルン執行部は始め彼の路線を支持していたようにみえたが後に路線を転換しこれを彼は支持できなかった。
 国共合作はその当時は合理的と思われる理由があったが、数年後蒋介石が後を継ぐと、非常にまずくなった。
 スネーフリートはソ連の路線硬化と個人的環境により孤立化し、モスクワ滞在(1923年末−1924年3月)は見通しが良くなかった。
 1924年、レーニンが死亡し、トロイカ体制が成立しスターリンがやがて権力を握る。
 スネーフリートは中国に戻ることはなかった。スターリンはロシア人でないスネーフリートを信用しなかったという説がある。
 1924年、スネーフリートはオランダに戻る。
 中国に関しては関係できなくなったが、インドネシアとの接触は船員が伝達の役割を果たしたので容易であった。
 1924年コミンテルンの支援でアムステルダムにPKI事務所設立され、セマウンとISDV/PKI古参のピーテル・ベルフスマ、ブラントステデル
が就任。スネーフリートとセマウンが機関紙パンドゥ・メラPandoe Merah(赤い案内)の編集者となる。
 植民地当局による厳しい追及による孤立化を避けるために、スネーフリートと他の以前のオランダ人ISDVは党とサレカット・イスラムの
内外での協力を支持した。しかしPKIはすでに1923年に関係を断っていた。
 オランダでセマウンは接触の独占はよりオランダ人の干渉を除去する機会と捉えたが、これによりPKIの孤立は国際的にはっきりした。
 スネーフリートは最後までインドネシアに関心を持ち続けた。
 スネーフリートはM.N.ロイから1924年と1926年(インドネシア問題)に手紙をもらっている。
 彼は迫害・逮捕された共産主義者支援活動を組織し、Boven-Digoel収容所の古参同志との接触を維持し続けた。
 1933年、デ・ゼーヴェン・プロヴィンシェンの反乱への連帯行動により5ヶ月投獄されている。

 オランダでは1924年5月、急進的ナショナルセンターである全国労働者書記局NAS(1983−1940、1905年SDAP支持の
オランダ労働組合連合NVVが分裂し少数派となる。その後NASはフランスのCGTの影響を受けサンジカリズムの傾向を帯びる。)
の議長に選ばれた。彼はこの地位を1940年まで保持する。
 NASの共産党系では、彼はCPN内反対派で、1925年コミンテルンの支援でワインコープらの古参指導部は追放された。
 CPNの焦点はNVVと赤色労働組合インターナショナル支援にあり、NASとCPNの関係は悪化していた。
 引き続く共産主義者のNASへの圧力で、組織員が減少し、これはスネーフリートに受け入れがたく、1927年、NASの共産主義者グループ
と共にCPNから去り、RVIとコミンテルンとのすべての関係を断った。
 第2インターナショナルから第3インターナショナルへの再編成、再結集でスネーフリートは数年間、トロツキーの影響を受けた。
 1929年、革命的社会党RSP(1929−1935)を結成し議長となった。
 RSPはNASと接近した。
 RSPはトロツキーとその仲間、左翼社会主義反対派グループと接触し、パリ、後にロンドン・ビュロー(1932−1940)に結びついた。
 スネーフリートは社会民主と関係を断ち切れないグループに不信感をもっていたが、トロツキーの労働組合運動の方向性とNASとの
結びつき批判も拒否した。
 彼はトロツキストの少しでも彼らが中間派と見なしたものへ反対する態度を拒否した。
 彼にとっては現実の労働運動へ接触の必要性が政治原則の急進的実行より優越した。
 1932年にSDAP反対派により結成され、ジャック・デカットとピート・シュミットにより率いられていたOSPとの接触が行われた。
 1932年7月、反ファシズム・戦争委員会(Antifo)が結成され、NAS、アナーキスト、反軍国主義組織が参加。
  RSPは1934年、トロツキーの国際共産主義者同盟、OSP及びドイツの社会主義労働党と4者宣言に署名した。
 宣言は新しい革命的社会主義諸党のインターナショナルを結成を目指していた。
 1935年、RSPは独立社会党OSPと一緒になり革命的社会主義労働党RSAP(1935−1940)となった。
 結局RSAPはトロキストと別れ、一時、イギリスの独立労働党、スペインの統一マルクス主義労働党POUMと
革命的社会主義連合国際局(ロンドン・ビュロー)の一部となった。
 1930年代はスネーフリートと彼の党は国内問題に集中し、失業者運動の組織化にある程度成功し、またファシズムの勃興と戦って
いた。
 1933年、投獄の身にありながらスネーフリートは第2院(下院)のメンバーに選ばれた。
 この小党の活動の中心は小さな職業組合連合(全国労働書記局1893−1940)NASにあり、そのためRSAPはトロツキーの
第4インターと決別した。
 国内外の政治状況の悪化とスターリニスト、社民との絶え間ない抗争、政府の干渉が重圧となった。
 彼らは砦が破壊されていくように感じた。
 戦争の数年前はRSAPの若干の再回復がみられ、党員が増加、1939年地方選挙で成功した。
 スネーフリートはアムステルダム市議会に参加、北ホランド州メンバーに再選。
 1937年、スネーフリートはスターリニストによって逮捕されていたPOUMの指導者の救出のためスペインに向かった。
 POUMのアンドレス・ニンは1937年6月に暗殺されている。
 9月にビクトル・セルジュと元ゲー・ペー・ウーのイグナス・ライスと接触する。ライスは暗殺される。→ヴィクトル・セルジュの著作
 POUMのニンもスネーフリート同様必ずしもトロツキーとは合わなかった。彼らのなかに見られるサンジカリズムの影響が関係
しているだろう。
 1938年、この年結成された第4インターナショナルと絶縁、今まで述べた種々の要因とカタロニアのPOUM支援が決定的要因。
 スネーフリートは国際的結集に継続して努力した。
 1938年9月、RSAPはマルソー・ピヴェール社会主義労働者農民党(1938−1940)PSOPと反戦のために国際労働者戦線を
結成し、これには間もなくハインリッヒ・ブランドラージョルジュ・フェレーケンのグループが参加。
 1940年5月10日、ドイツが侵入するとスネーフリートは直ちにRSAP(14日)を解散し、数ヵ月後、レジスタンス組織(参考)の
マルクス・レーニン・ルクセンブルク戦線
(MLLフロント)をウィレム・ドルマンアブラハム・メニスト(1896−1942)らと結成した。
 雑誌”スパルタクス”そして”社会民主への手紙”がスネーフリートによって編集された。
 スパルタクスはナチ占領下での最初の非合法誌で約5000配布。
 スネーフリートはマックス・シャハトンマンの第3陣営の彼ら版の第3戦線を主張した。
 彼らの戦線は他に対し明確であった。NASは1940年までに消滅し、SDAPは抵抗は無意味として解散。共産党はヒットラー・スターリン
協定が有効である限り、できるだけ合法的にとどまろうとした。
 この組織は大いに社会主義と反ナチズムの宣伝に努め、1941年2月のストライキにかかわった。
 この月、オランダ・ファシストがアムステルダムでユダヤ人自衛グループとの闘争で殺された。引き続く抵抗に対し、ナチスはユダヤ人街
を閉鎖し、ユダヤ人を連れ出した。これに対しCPNのピート・ナクウィレム・クラーンが抗議のストライキを呼びかけた。
 火花De Vonk(デ・フォンク)グループ( イェフ・ラストらの国際社会主義運動ISBが1941年1月ハールレムで発行。)と協力もした。
  ソ連支援問題で内部論争が発生。
 スネーフリートは連合国とファシストの間と同様にドイツとロシアの戦争は同じ帝国主義間戦争とし、これに対しドルマンはトロツキーの
ソ連支持を擁護。
 よく知られた共産主義者だったのでスネーフリートはレジスタンス活動を始める前に地下に潜行しなければならなかった。
 2年間はなんとかナチスの手からのがれることができたが、1942年3月6日、北ブラバント州のベルヘン・オプ・ゾームの隠れ家で
彼の妻と捕まった。ドルマン、メニストらも3月、別々に捕まった。
 (まずハーレムのコル・ヘリツェンが裏切りで2月24日に逮捕、拷問された。26日、アルクマール地区指導者のヤン・エデルが逮捕された。
 翌日、ウィテフェーンが娘とオテルレークで。)
 ドイツは彼と彼の同志7人に死刑を宣告した。
 彼とヤン・エデル(1905−)、ヤン・クスラーグ、メニスト、ドルマン、ヤン・シュリーフェル(1906−)、レイン・ウィテフェーン(1893−)の
MLLフロントのメンバーは1942年4月13日、アメルスフォールト収容所の外で処刑された。
 コル・ヘリツェンはアムステルダムの監房で殺された。
 彼らはインターナショナルを歌いながら死に赴いたといわれている。
 妻はラーフェンスブリュック強制収容所に送られたが、生き残った。
 C.J.H.(スタン)ポッペだけが逮捕を免れた。
 ヘンリエッテ・ローラント・ホルストはヘンク・スネーフリートの処刑後に、詳細な”思い出にIn memoriam”を詩の形態で書いた。
 グループの残党は革命的マルクス主義者員会と共産主義者同盟スパルタクスに分裂。

 スネーフリートは4回結婚をしている。
 彼は1906年1月に最初の結婚をし、1908年1月に離婚し、1909年7月に教師であったエンヘルベルタ・ヨハンナ・ブラウエルと結婚し、
2人の息子を儲けている(2人はそれぞれ1932年、1937年に自殺→ヴィクトル・セルジュの著作に言及がある。やや謎めいている)。
 この結婚は1924年11月に解消され、1926年10月にモスクワで出会ったロシア人の子持ちのシマ・リウォウナ・チョルコフスキーと
結婚、この結婚も1928年6月に解消され、1931年8月にやはり子持ちのウィルヘルミナ・ヘンドリカ・ドラーイエルと結婚している。
 スネーフリートは北ホーランド州フェルセンのドリーホイスdriehuisのベステルフェルト教会墓地に最後の妻と一緒に葬られている。
 アムステルダムには彼を記念してヘンク・スネーフリート通りがあり、同名の地下鉄駅がある。

 オランダのウィルヘルミナ女王はスネーフリートの未亡人、ドラーイエルに対しスネーフリートの死に対する哀悼の意をあらわす手紙を
送った。(1946年8月3日)  ・・・彼は我が親愛なる祖国の自由のためにその命を捧げた・・・



 オランダ初期社会主義者群像

 ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト小伝

 オランダとドイツの共産主義左翼

墓碑銘




inserted by FC2 system