<<スイスの左翼>>


スイス労働党(独:PdA、仏:PST、POP、伊:PC、レト・ロマン:PSdL)〕
 スイス労働党は1944年、非合法スイス共産党によって設立された。
 スイス共産党KPSは1918年設立された。
 ユレス・ウンベルト・ドロスは第1次世界大戦中社会党員で1919年モスクワに行き、マティアス・ラコシ、
オットー・クーシネンらとコミンテルン書記となり、トリアッティ、トレーズと西ヨーロッパのラテン諸国と南アメリカ担当となった。
 エルネスト・ポール・グラバーシャルル・ネーヌと衝突しコミンテルン支持側につき1921年スイス共産党結成。
 1931年ブハーリン主義者としてコミンテルンを解任される。スイスに戻りスイス共産党書記となり、1938−1939年
全国評議会に議席を確保。1942年共産党から追放される。スペインの国際旅団勧誘で投獄される。
 1946−1959年スイス社会党書記となる。

 ベルン、ヌーシャテル、ヴォー、ジュラでは労働者人民党POPを名乗る。
 ジュラでは社会党、緑と提携し州議会に議席を有する。


 年譜
 1918年、最初のスイス共産党(古共産主義者)がヤコブ・ヘルツォークらにより設立。
        アナルコ・サンディカリスト合流、11月12〜14日、スイス全国ゼネラル・ストライキ。
 1919年、モスクワの第1回コミンテルン会議にフリッツ・プラッテェン参加。
        SPS特別会議でコミンテルン加入可決(318対147)されるが直接投票で否決(14616対8722)。
 1920年、SPS特別会議でコミンテルン加入否決(直接投票だと25475対8777)。
        フランツ・ヴェルティに率いられるSP左派離党。
        社会主義青年組織(自由青年)が共産主義青年インターナショナル参加、スイス共産主義青年同盟となる。
 1921年、左翼社会主義者と古共産主義者の統合会議、メンバー約6000人、議長フランツ・ヴェルティ
        リディア・デュビ参加。マリノ・ボーデンマンが書記。
        労働組合(SMUV)から共産主義者排除される。
 KPSは主にドイツ語圏のチューリッヒ、シャフトハウゼン、バーゼルを拠点としシャフトハウゼンでは社民をしのぎ一時26%(1928年)の得票をえた。
 バーゼルでも一時社会党SPSを越え1929年には19.7%を獲得。
 1927年、党のボルシェヴィズム化(1924年頃から進行)、党員約3500人に。
 1929年党の急進化で右派路線をとっているとしてフランツ・ヴェルティ指導部が換えられる。
 1930年同様にシャフトハウゼンの労働者指導者ヴァルター・ブリンゴルフが追放される。
 ヴァルター・ブリンゴルフは共産党反対派KPO結成。
 1933年にはフリッツ・ブルップバッハーがアナーキスト的として追放されている。
 1935年、SPSとKPOとの交渉がうまくいかずKPOはSPに移っていった。
 ポール・タールマン率いるトロツキストは以前から離党しSPへの加入戦術を行っていた。
 KPSはSPSに人民戦線を提案しSPSの左派の支持を得るがSPSは中道との提携に進み、SPSのこの右派路線化でKPSは1939年、
全国レベルで2.6%を記録する。
 1936−1938年、700人以上のスイス人がスペインで国際義勇軍として闘う。オットー・ブルンネルは司令官として活動。
 1937年、ジュネーブとニューシャトル州(カントン)で禁止される。ジュネーヴ社会党指導者のレオン・ニコルはKPSメンバーを自派に受け入れる。
 1939年、レオン・ニコルは独ソ協定を支持し社会党から追放されスイス社会主義者連合FSS設立。これには1943年KPSの多数が参加。
 1920年代から1930年代には共産党は国会レベルでは約2%前後の得票(2〜3議席)で、1922年、1.8%、2議席から始まり、1939年には
2.6%、4議席を獲得。
 1939年、日刊紙”自由Freiheit”禁止
 1940年、共産党禁止。
 1941年、FSS禁止。FSSグループは国会から追放される。
 レオン・ニコルと当時のKPS指導者のユレス・ウンベルト・ドロスとのSPS合同の試みは失敗し、1944年、労働党設立。レオン・ニコル議長となる。
(ニコルは1939年、ソ連に旅行してからソ連・ドイツ協定を支持しスイス社会党を追放されスイス社会主連合を結成。これは1941年に解散させられる。)
 1945年、この頃党員2万人。
 1947年、国会選挙で5.1%、7議席獲得、以降1979年まで2%台(3〜5議席)を得ていたが、1983年、0.9%1議席に後退、以降1%前後の
得票率(1から3議席)となっている。
 1950年代はドイツ語圏で強かった。
 1950年、ストックホルム宣言に取り組み、26万の署名を集める。
 1951年、ユーゴ問題でオットー・ブルンネル追放。
 1952年、党を民族主義者、チトー派としてレオン・ニコルは離党。
 1956年以降脱スターリン主義化をとり、スターリン主義者は追放される。
 1959年、英国共産党に刺激された”スイスの社会主義の道”を承認。
 1964年、EU議会の欧州統一左翼、北欧緑左翼と連合する。(スイスはEUに加盟していなかったが)
 1969年、1968年の青年反乱によりPdA青年同盟解散。スイス進歩組織POCH、革命的マルクス主義同盟RML
(トロツキスト)、独立社会党PSAなどが設立される。これらは1990年代に消滅。
 1971年、女性参政権導入、ネリー・ヴィッキーが初めての女性国会議員となる。
 1970年代末からエコロジー思想が党内に入ってくる。
 1975年、カイザーアウグストの原発施設占拠。反原発、環境運動が起こる。
 1980年、チューリッヒ、ベルン、バーゼル、ローザンヌで学生反乱、
        PdA、POCH、PSAが就職保証を提案、署名不足(9万)で成立せず。
 1991年、マルクス主義を放棄。
 1993年、ジュネーブの選挙で連帯Sと左翼連合Aliance de Gaucheを組む。
 1995年、早期EU参加を主張。
 2007年の国会選挙では州により独自の名簿をとったり、連帯Sと同一名簿、あるいはフランス語圏では連帯S、選択名簿
と選挙連合”全左翼/左翼選択”を形成したりした。
 2007年全国評議会選挙で17218票、0.7%、1議席と1議席減。
 ヨゼフ・ツィスアディスは1991年からヴォーの全国評議会議員を務め、2010年選択左翼結成に参加、2011年選挙で落選
極左は唯一の議席を失う。2007年はマリアンヌ・ユーグナンが当選したがツィスアディスと交代。
 2015年連邦選挙ではヌーシャテルでデニス・ドゥ・ラ・ルシーユ(ロクル市長)が議席獲得。
 ヌーシャテルでは緑、ヴォーでは連帯Sと提携。
 2019年連邦選挙は連隊と協力し、労働党1議席、連帯(左翼と一緒)1議席獲得(ジュネーヴ、ステファニー・プレツィソ、本来はジョセリネ・ハレ
当選だが、辞退)。25427票。

(革命的マルクス主義同盟RML
 1969年、学生反乱のあとPdAからトロツキストの分裂により結成、学生を主に組織化。
 1980年、社会主義労働者党と名を変える。1987年には緑選択運動として活動。
 1990年解散し、メンバーは連帯S社会主義緑選択(ツーク州)、社会主義選択/連帯(バーゼル)などに参加。

(スイス進歩組織POCH
 1969年、学生を中心に結成。
 1977年、多くの女性が分裂して女性問題組織を結成。
 1987年、マルクス・レーニン主義から距離をとり、POCH緑となる。
 1970年代後期から1993年に多くの州組織が解散し、スイス緑の党に移る。
 1971年選挙で0.09%、1975年、0.99%、1979年、1.7%、2議席、1983年、2.23%、3議席。
 1987年、1,2%、3議席、1991年は緑連合の名簿に付属。
 1987年までは評議会では労働党グループ参加、1987年からは緑グループ参加。

(独立社会党)
 1969年、ティチーノticino州で設立。1988年まで存在。
 1988年−1992年は統一社会党PSUPartito Socialista Unitario。

連帯S
 1992年、ジュネーブで設立。ジュネーヴ、ヴォー、ヌーシャテルなどローマン系が拠点。
 メンバーは1968年の後継のトロツキストの社会主義労働者党とマルクス・レーニン主義の”共産主義のために”からきている。
 1993年の選挙でPdAと左翼連合結成。
 2003年の選挙で0.5%で1議席獲得(200中、ピエール・ヴァネク)。
 2005年のカントン選挙(ジュネーヴ)ではPdTと独立6.8%、連帯S6.7%でどちらも7%制限を越えられず大評議会に議席確保ならず。
 2005年の左翼連合の崩壊後、2006年全左翼がジュネーヴでスイス労働党、連帯S、選択名簿により結成される。
 2007年連邦選挙は0.4%。
 2008年にはカントン(ヴォー、ヌーシャテル)や市レベル(ローザンヌ)で議席確保。
 ヨーロッパ反資本主義左翼に参加。
 2019年選挙で1議席。(ジュネーヴ、ステファニー・プレツィソ

選択名簿AL〕
 1990年からゆるい左翼活動家の連合としてチューリッヒに存在。
 2007年、チューリッヒでは政治連合となる。
 ALはPdA、連帯Sと密接に活動。選挙連合として全左翼/左翼選択
 2007年連邦選挙は0.2%。

左翼連合
 ジュネーブで1993年から2006年まで存在。
 独立集団、PdA、連帯Sが結成。
 連帯Sが抜けたり入ったりしながら2006年、全左翼・ジュネーブとして再結集。

選択左翼(仏:左翼
 2010年結成。フランス語圏ではスイス労働党、連帯S、ジュネーブ共産党(2002年結成)から参加。
 2007年選出のスイス労働党のジョセフ・ジスアディスが唯一の議員。2011年、0.9%で議席を失う。
 他にシャフトハウゼンのフロリアン・ケラー、旧ジュラ・ベルノワ社会党代表のフレデリック・シャルピエが参加。

スイスのトロツキスト

 スイスは保守的で政府の弾圧が厳しく、左翼運動の成立しにくい国である。
 スペインの国際義勇軍参加も犯罪とされ投獄あるいは亡命せざるをえなかった

 1930年コミンテルンの社会ファシズム・革命的労働組合路線で社会民主との統一戦線路線支持グループがスイス共産党
から追放された。シャフトハウゼン州(カントン)のヴァルター・ブリンゴルフ、ヘルマン・エルブ、ポール・タールマンらで、
チューリッヒではモリッツ・マンデル、エルンスト・イリなど更にバーゼル、ドイツ語地域などの組織であった。
 IVKO(ブハーリンの国際共産主義反対派)のスイスKPOは当初ドイツのハインリッヒ・ブランドラーらのグループと結びついていた。
 ヴァルター・ブリンゴルフは1931年KPOとして全国評議会に選出されシャフトハウゼン市長となり1968年まで勤める。
 ナチス出現で社会党に戻り1935年KPOはSPと合流。1952年社会党委員長となる。
 共産党と社会党の統一交渉はうまくいかず共産党から徐々に社会党に移り1935年の完了。

 ポール・タールマンクララ・タールマンは1936年スペインでアナーキストのドゥラッティ部隊に参加しその後パリに移る。

 また1930年代サロモン・エーアリッヒSalomon Ehrlich とヴァルター・ネルツの2つの小さなトロツキスト・グループが存在。
 1933年スイスの最初のトロツキスト組織、スイス・マルクス主義行動MASがヴァルター・ネルツらにより結成されこれはチューリッヒ、
バーゼル、シャフハウゼンなどドイツ語圏に基礎を置いていた。KPOとの緊密な協力は行われなかった。
 1934年国際共産主義者同盟のヤン・フランケルの指導でMAS多数派はスイス社会党SPSに加入するが間もなく追放される。
 1938年の第4インター結成大会にはスイスのトロツキストは代表を送れず。
 ナチスのオーストリア侵入でスイスに逃れてきたヨゼフ・フレイがスイスのトロツキストに影響力を及ぼしMASと第4インターの関係が
かく乱される(フレイは1930年にトロツキーと衝突)。1939年内部抗争で解散。
 ネルツは1940年逮捕され獄中でマルクス主義から離れた。
 1943年国家危険宣伝の罪で13名のトロツキストが軍事法廷にたたされ4名が投獄される。

 戦後1945年スイス・マルクス主義行動MASが再結成された。
 またプロレタリア行動、スイス社会主義労働者青年SAJS、社会主義労働者協議会SAK、社会主義労働者同盟SABなどが結成された。
 1945年ハインリッヒ・ブーフビンダーが第4インター執行部に参加。

スイス社会党〕 社会党PSS(、伊) 社会民主党SPS(独) 党史
 スイスでの社会主義思想はドイツ人労働者によって1830年代に紹介されている。
 1838年、教育による自由を標語とする民主主義的愛国的組織グリュティ協会がジュネーブで教育労働者により結成される。
 1864年、ジャン・フィリップ・ベッカーが社会主義インター・スイス支部結成。
 1870年、グリュティ協会の支援によりチューリッヒで短期間存続のスイス社会党がヘルマン・グロイリッヒにより結成される。
 1873年、オルテンで社会党、グリュティ協会、労働組合活動家が最初のスイス労働者会議を開催、これは1880年
スイス・労働組合連合SGBとなる。
 (対抗組織は1870年資本家組織の商工業連盟、1884年小資本家の営業連盟、1897年農民同盟結成)
 しかし社会党は続かなかった。
 1888年、ベルンの10月21日のスイス労働者協議会でスイス社会党結成が決定される。
 ベルナー・アルベルト・ステェックが綱領作成、ベルンのアレクサンダー・ライヘルが議長となる。
 (各勢力の全国政党化は1894年、自由民主党、1912年保守人民党、1917年農民党
 1890年、ヤコブ・フォゲルサンガー(チューリッヒ)が全国評議会(国会)にはじめて選ばれる。
 1891年労働権を発案、1893年52387名の署名で1984年国民投票で308289対75880で敗北。
 (国民投票はスイスでは保守派の反対手段に利用される傾向があった。)
 1904年、アーローの会議でチューリッヒ州弁護士オットー・ラング(1898−1901年党首)の書いたマルクス主義綱領を採用する。
 1906年党大会で軍の問題が中心議題となり、ストライキへの軍の動員反対と軍事予算削減要求承認。
 1911年、18人の社会主義者が全国評議会に選ばれ始めて議会グループを構成。
 1912年、ヌーシャテルの会議で女性投票権獲得のため最大限の努力をすることを決定。
 SGBと労働者教育センターSABZ設立。
 1913年全国評議会への比例代表制導入を提案、1918年国民投票で承認。(1910年には否決。)
 1914年には連邦議会に17名の議員をもつ。
 第1次世界大戦の間、スイス社会党はマルクス主義の影響を強く受け革命による社会主義達成を評価する。
 1917年、スイスに逃れていて左派活動家に影響を与えていたレーニンがロベルト・グリムとプラッテンの援助で帰国。
 レーニンは1914―1917年の間スイスに避難し、彼の友人プラッテン率いる左派と密接な関係をもつ。
 グリムは1915年ツィンメルヴァルト会議、1916年キンタール大会実現に努力する。
 1917年社会党は軍事予算と戦争協力を拒否。
 同年PSSは自由民主党連邦評議員アルトゥール・ホフマンを説得してドイツと革命ロシアの間で別々に和平を推進を
試み、スイス世論によりアルトゥール・ホフマンが辞任させられる。
 1918年、PSSとスイス労働組合連合USSによって結成されたロベルト・グリム指導のオルテン行動委員会ウルリッヒ・ヴィレ
将軍の市民労働動員令に対し全国ストライキにより撤廃要求と9項目要求をだすが軍隊動員により敗北。
 1917年11月17日、戦時下で不満の高まった労働者がチューリッヒでデモを挙行し軍隊と衝突。
 連邦政府は1918年初頭、労働不足解消のため強制労働令を発布、これに反発してロベルト・グリムが党と労働組合左派を
結集し、2月4日オルテン委員会を結成を成し連邦政府と交渉を行った。7月22日、政令撤廃と11項目要求を提出するが
拒否される。
 11月7日以降のロシア革命記念集会が軍隊の動員により弾圧され、オルテン委員会は9項目要求を発表し12−13日の
全国ストを決行。
 9項目要求は比例代表制による即時再選挙、婦人参政権(選挙、被選挙権)、一般労働義務制導入、48時間労働、軍の人民組織化、
生活物資確保、老人・弱者社会保障、輸出入国家独占、有償による国有化。
 比例代表制は10月13日国民投票で既に可決されていた。
 2万5千人参加のストは政府の軍隊を圧力とした拒否により成果なく終わった。
 1919年エルンスト・ラインハルトが党首となる。(1935年まで)
 ラインハルトは当初左派であったが、ヒットラーの権力獲得以降妥協的となり、1935年新綱領実現。
 1919年、全国評議会Conseil nationalへの比例制導入によりPSS議員が20から41名になる。
PSSの中央本部がチューリッヒからベルンに移る。
 1919−1925年党首はエルネスト・ポール・グラバー
 1920年、党は資本主義から社会主義への過渡としてプロレタリア独裁を含む新綱領採用。
 1921年、中間派のグリムの反対で第3インター加入の21条件が拒否される。約5千名の党左派が離党し共産党設立。
 1924年 労働時間延長(48時間→54時間)を目指したシュルトヘス法が国民投票で否決。
 1926年、PSSが労働者社会主義者インターに加入。
 SGMと軍事主義に対して闘う委員会と全国評議会結成と、将来の全軍事予算放棄を決定。
 1927年、PSS女性会議が妊婦保険導入を要求。
 1929年、党大会で連邦評議会入閣要求、候補は選挙で落選。
 1931年、全国評議会選挙でPSSが第1党となる。
 労働者共同体スポーツ・文化同盟ASASK創設。
 1932年11月9日のジュネーブでの反ファシズム労働者デモで13人死亡63人負傷。
 1933年、共産党との統一戦線拒否、レオン・ニコルによりジュネーブで最初の州多数派政権成立。
 1935年、新綱領でプロレタリア独裁を放棄、国民自衛を再確認、会議で スイス国民の人間的生活保障のためスイス資本主義
の経済・社会転換を発表。これにより党の孤立が打破される。
 1935年、SPSとKPOとの交渉がうまくいかずKPOはSPに移っていった。
 1937−1952年党首はハンス・オプレヒト
 オプレヒトはラインハル、グリムの階級闘争派の反対派で、ヒットラーの権力掌握で党内に影響力を増し、アンドレアス・ガディエント
中道左派と協力し、更に新綱領実現に努力していた。
 1939年、レオン・ニコルがドイツ・ソ連協定支持により追放され、スイス社会主義連合結成。
 1940年、ヴァルター・ブリンゴルフカール・バルトらと国民抵抗行動結成に参加。
 1942年、1930年代のファシズム危機の経験から新スイス建設活動と戦争に対応できる新綱領採用。
 1943年選挙勝利194議席中56議席、下院の最も重要なグループとなる、エルンスト・ノブスが入閣。
(連邦評議会conseil federal―1951年)
 1944年、旧共産主義者、PSS分裂グループ、独立左翼が労働党結成。
 1947年、16万1千署名の経済改革と労働権のSP発案全州で否決。
 憲法の国民総保険条項l'AVSが国民により承認される。1918年のストの要求が実現。
 1949年、エルンスト・ノブスが最初の連邦議長presidentとなる。1944―1951年の間財務大臣。
 1953年、マックス・ヴェーバー(1951―)が連邦財政改革を拒否され連邦評議会を去り、党は反対派になる。
 1953年、ヴァルター・ブリンゴルフが党首となる。
 1959年、新綱領採用、プロレタリア独裁を放棄し民主主義を基礎とする社会主義改革を確認。国民防衛を再確認。
 連邦評議会で魔術公式確立。
 1965年、エンマ・カンマヒャーEmma Kammacherがジュネーブ大評議会議長になる。最初の女性社会主義者州政権議長。
 1965年と1970年、ハンス・ペータ・チュディが大統領となる。
 1971年、68年運動からスイス進歩組織POCHが結成される。婦人参政権国民投票で可決。
 1972年、 PdT提案の単一社会保険を拒否し3本柱制を支持。
 1973年、連邦評議会で公式候補のアルトゥール・シュミットが敗れ、ウィリー・リチャードが選出される。
 1974年、スイスJUSOが党の青年組織となる。
 1975年、バーゼルの全国評議会議員ヘルムート・フーバヒャーが党議長となる。
 ピエール・グラベールが連邦議長(−1978年)となる。
 1978年、中央委員会と連邦評議会のウィリー・リチャードの意志に反して党会議で反原発発議支持。
 1979年、西スイスが党内左派イヴェルドングループを結成し自主管理と資本主義廃棄を目指す。
 1981年、JUSOが軍隊廃棄の国民発議を決定。知識人が自主管理を基礎とした党綱領を作成し党幹部、党会議で拒否される。
 1982年、新綱領採用。
 1983年、連邦評議会でPSS公式候補リリアン・ウフテンハーゲンが同じPSSのオットー・スティッヒに敗北。
 政権参加が問題となり、1984年党大会で撤退反対決定。
 リリアン・ウフテンハーゲンは1971年最初の女性国民評議会員となり、最初の女性連邦評議会候補であった。
 1986年、党会議で原発廃止の国民発議決定。
 1987年、希望選択をもたらす環境保護を標語に選挙戦に望み敗北、ブルジョア・ブロックが安定化。
 1990年、EC統合推進を公式化。1991年、EEC参加交渉早期開始を要求。1992年 EEC参加に向けてEEE参加支持。
 1991年、武器輸出禁止、軍事予算半減と平和政策推進の国民発議に乗り出す。
 1992年、GSOAとF/A−18戦闘機購入反対発議支持。
 1993 連邦評議会でレネ・フェルベールの退任に伴い政府ブルジョア多数派は党公式候補のクリスチアンヌ・ブルンネルの代わりに
フランソワ・マセイを選出、そのあとPSS第2連邦評議会員として労働組合連合USS書記ルート・ドレフュスが選出される。
 クリスチアンヌ・ブルンネルは社会保障と労働権問題に熱心であった。2000−2004年党首。

 スイスでは国民投票が頻繁に行われるが一般的に保守的な結果となる。

 2003年PSSが第2党になる。
 全国評議会は人民党26.6%、55議席、PSS23.4%、52議席、FDP17.3%、36議席、民主人民党14.4%、28議席、
緑党7.4%、13議席、・・・労働党0.7%、2議席、連帯S0.5%、1議席、選択名簿0.6%、1議席。
 2004年、ハンス・ユルグ・フェーアが党首となる。
 2007年選挙で敗北、―9議席の43議席となる。
 全国評議会(州選挙区、人口比例定数)は人民党29.0%、62議席、PSS19.5%、43議席、FDP15.6%、31議席、
民主人民党14.6%、31議席、緑党9.6%、20議席、・・・労働党0.7%、連帯S0.4%、選択名簿0.2%。
 諸州評議会(各州2議席選出)は民主人民党15議席、FDP14議席、PSS9議席、人民党8議席。

 社会民主党SPは1963年までは26―27%、以降1983年までほぼ23―25%で1983年までは46―55議席、
1955年得票率ピーク27.0%、53議席、1987年、18.4%、42議席に低下、以降また徐々に戻し2003年23.3%、52議席。
2007年、19.5%、43議席。2011年は18.7%、46議席。
 2008年、クリスティアン・レヴラトが党首となる。
 2011年は全国評議会では18.7%、46議席、人民党26.6%、54議席、FDP15.1%、30議席、民主人民党12.3%、28議席。
 2015年は社会民主党18.8%、43議席、人民党29.4%、65議席、FDP−リベラル(2009年合同)16.4%、33議席、民主人民
12.1%、28議席、緑7.1%、11議席、緑リベラル4.6%、7議席、保守民主4.1%、7議席など。
 2019年全国は社会民主党16.84%、39議席、人民党25.6%、53議席、FDPリベラル15.1%、29議席、民主人民11.4%、25議席など。
 諸州は

緑党GPS〕
 1971年ニューシャトルで環境人民連合結成、1979年ダニエル・ブレラスが国民評議会メンバーに選出される。1983年全国連合結成、
左派は緑選択結成。1990年緑選択から連合移行者発生し連合が事実上の全国緑党となり1993年緑党と変更。
 1980年代はキュウリ(環境主)とメロン(外は緑、中は赤、社会問題主)の2グループが存在し競合。
 キュウリは連合、メロンは緑選択結成。
 1992年の欧州経済領域投票でドイツ語圏の多数派はこれに反対し、フランス語圏は賛成。投票後の議論で緑の多数派はEU加盟主張。
  1979年、0.6%、1議席、1987年、4.9%、9議席、1991年、6.1%、14議席、1995―1999年は5%、2003年、
7.4%、13議席、2007年、9.6%、20議席。
 1986年からは評議会で労働党グループから独立、ペテル・シュミットを代表とする。
 2004年チューリッヒで緑自由が分裂、2007年評議会選挙で2議席獲得、キリスト民主グループ(民主人民党、
福音人民党)に参加。
 2011年選挙は8.4%、15議席と5議席減。一方、緑自由は5.4%、12議席と大幅増。
 2015年選挙は緑7.1%、11議席、緑自由4.6%、7議席。
 2019年選挙は13.2%、28議席。緑自由は7.8%、16議席。

キリスト社会党〕 社会党は通常は本来社会主義者党socialist partyであるがこの党はsocial party。
 穏健なキリスト左派で社会民主主義と環境に関与する。1997年結成。CVPの分派。
 ヴァレ、フライブルク、オプヴァルデン、ジュラなどが拠点。
 2011年全国評議会で1議席(オプヴァルデン)。
 2013年中道左派−PCSを名乗る。
 2015年も1議席(オプヴァルデン)。


〔青年反乱〕

グローブス騒動
 1968年チューリッヒであった若者抗議者と警察の闘争。衝突の原因はデパート予定地への自治青年センター建設要求。
 青年の騒乱はチューリッヒで1967年4月のローリング・ストーンズ公演と1968年5月のオエリコンのジミー・ヘンドリクスの
コンサートでのものが前奏としてあり、これは警察が鎮圧。
 グローブス騒動の直接の原因は1968年6月29日の市議会の自治青年センター建設否決への抗議デモ。
 約2000人の群集が集まり警察と衝突。デモ参加者19名、警察・消防22名負傷、169名逮捕うち20歳以下55名。


オペラハウス騒動
 1980−1982年のスイスの青年騒動は1980年5月のオペラ・ハウス前での数百人の青年の騒動が引き金となった。
 1980年5月チューリッヒ市議会はオペラハウス再建に巨額の資金を認める一方で自治青年センター要求は拒否。
 これで運動と警察の暴力のスパイラル化が起こった。
 既に1960年代末(グローブス騒動)と1979年のジミー・クリフのコンサートで騒動は起こっていた。
 バーゼル、ベルン、ローザンヌでも暴力的抗議が起こっていた。
 バーゼルでは1980−1982年と1986−1989年に活発であった。
 1980年代運動は尋常でない方法(ヌード・デモ)、だじゃれ標語などで闘われた。

<スイス議会>

・政権(連邦評議会
 スイスは1848年内戦の結果急進主義者が支配し、カトリック保守が反対派を形成、1891年から急進派が保守と連合
(CVPジョセフ・ゼンプを連邦評議会に受け入れ)その後FDP−CVP連合は左から社会民主党、右から人民党の挑戦を受け、
1919年CVPが2人目を確保、1929年BGB(現SVP)が1人目確保、1943年SPはエルネスト・ノブスを入れる。
 1959年選挙後から魔術公式が確立、FDP2名、CVP2名、SP2名、SVP1名となり(全7名)2003年まで続き、
2003年選挙結果でSVPが1名追加要求しクリストフ・ブロッシャーがCVPのルート・メッツラーと交代しCVP1名、SVP2名になる。
 2007選挙後SVPがクリストフ・ブロッシャーの右派と穏健派に分裂、CVP、SP、緑支持のエヴィリン・ヴィドマー・シュルンプ
クリストフ・ブロッシャーを破り、ブロッシャー再選されないという珍例を生じ、穏健派2名が選出されこのSVP2名(サムエル・シュミット、
エヴィリン・ヴィドマー・シュルンプ)はSVPから分裂したBDPに移る。

自由民主党FDP
 1848年内戦勝利のリベラル・プロテスタントが起源。古典的リベラル政党。
 1894年リベラル運動グループが結成の政党、当初はカトリックに対し左派であったが、SPの登場で右へ移行。
 国家の社会・経済介入反対、福祉国家拒否、自由経済、社会政策ではしばしば進歩的。

 1987年まではほぼ22―24%、52―47議席であったが、1979年、24.1%、51議席をピーク(議席は1983年53議席)に
徐々に低下、1991年には21.0、44議席、2003年には17.3%、36議席まで低下、2003年選挙後自由(リベラル)党LPS
(1913年結成、ほぼ2―3%得票、3―10議席)と連合し、2005年急進・自由連合結成。2007年、15.8%、31議席。

キリスト民主人民党CVP
 1848年カトリック保守として結成、1970年キリスト民主党となる
 1848年のリベラル・スイス州の反対派が起源。1912年保守人民党として結成。
 1970年民主人民党となる。
 1960年代FDPと中道に位置したが、両極化しつつある現在の立場が問われている。

 1950―1960年代をピーク、22%以上、45―48議席確保、1970年代は20%台で、44―46議席、1987年19.7%、
42議席と20%をきり、以降低下傾向を示し、2003年には14.4%、28議席まで急低下。 2007年、14.5%、31議席。

人民党SVP
 1917年、農民党結成、1929年同様の小政党が合同、1936年、農民、商人、市民の党と名称変更。1971年、
地域民主諸党と統合し人民党となる。伝統的にドイツ人地域で強い。
 1990年代新自由主義路線へ方向転換、極右の支持を吸収。2003年以降はCVPを食う。
 右派政党、最近の上昇は排外的主張によるところが大きい。
 2007年選挙後、極右民主、(1991年には極右自由党)を実質的吸収。
 2008年穏健派がBDP保守民主党として人民党から分裂。

 1951年、12.6、23議席から1975年、9.9%、21議席を除き、以降1991年までほぼ11―12%、21―25議席、
1995年、14.9%、29議席から急上昇2003年には26.6%、55議席、 2007年、28.9%、62議席。


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