コーカサスの歴史



[18] 黒海の北岸と東岸

参考 ⇒黒海・カスピ草原の歴史の概要


(1) マエオタエシンディ

 ストラボンによるとマエオティス湿地に沿ってマエオタエ、シンディ、ダンダリイ、トレアタエ、アグリ、アレヒ、タルペテス、
オビディアケニ、シタケニ、アスプルギアニ、ドスヒそしてその他が住む。
 これらはBC1千年にアゾフ海の東と南東岸に住んだマエオタエ種族である。
 これらではシンディが最も資料がある。
 BC4世紀にシンディはシンディケ王国を形成しており、ヘカタイオス王とその妻ティルガタオが支配。
 ボスポラス王国のサティロス1世とシンディケ王国は問題を起こした。そののち息子のオクタマサデスが支配、彼はヘカタイオスと
抗争中にボスポラス王国のレウコン1世によって攻撃され、破れスキティアに逃げた。(ラブリタイの戦い、BC380年頃)
 スパルトコス1世のボスポラス拡大戦争(BC438−355)の間にシンディはボスポラス王国によって征服された。
 シンディはサルマティアによって紀元1世紀に吸収された。
 アナパのほかにヘルモナサ、ゴルギピアとアボラセの都市が同じ種族に属した。
 アナパはゴルギピア植民地としてBC6世紀にポントス・ギリシャ人によって作られた。

 マエオタエ種族はBC4−3世紀にボスポラス王国に吸収された。
 大ソヴィエト百科事典によるとこれらはアディゲ人であるという。
 ストラボンによるとポントスとボスポラスの王ポレモン1世はアウグストゥスの治世にアスプルギアニを攻撃したが、打ち破られ、
生きたまま殺された。

参考 ⇒ゴルギピア




ヤズィギ(ヤジゲス):古代サルマタイ族の一つで、BC200年頃、中央アジアから今のウクライナの草原に移動。



 皇帝ハドリアヌス(117−138年)の頃

<参考> トレアタエ

 トレアタエはアジアのサルマティアのマエオタエの1種族で、ストラボンによると、マエオティス湿地に沿ってマエオタエ、シンディ、
ダンダリイ、トレアタエ、アグリ、アレヒ、タルペテス、オビディアケニ、シタケニ、アスプルギアニ、ドスヒそしてその他が住む。






<参考> タマン半島

 現在のロシアのクラスノダル・クライにある半島で、北はアゾフ海、西はケルチ海峡、南は黒海に接する。

 古代には黒海ギリシャ人のヘルモナサとファナゴリア植民地が半島にあり、後にトムタラカンがあった。
 マエオタエとシンディが古代から住んだ。古典期にはボスポラン王国領となり、その住民にはサルマティア人、ギリシャ人、
ポントスからのアナトリア人とユダヤ人が含まれた。
 4世紀にこの地域はフンの手に落ちた。後に、大ブルガリアの首都となり、そして、7世紀中期にハザールの手に落ちた。
 969年頃のハザール・カガン国の崩壊で、ダヴィドという名の支配者のハザールのユダヤ人後継国の一部を形成。
 1100年頃、キプチャクの手に落ちる前に、980年代末までに、ほとんどキエフ・ルスとロシア人トムタラカン侯国の
領土となった。
 ウラジミール1世の息子ムスティスラフ・ウラジミロヴィッチが支配。12世紀初めまでにこのロシア人侯国は終焉。
 後には、半島には主にチェルケス部族が住んだ。
 1239年にモンゴルがこの地域を占領し、1419年、クリミア・ガザリアとともにジェノヴァ領となった。
 15世紀のほとんどを、ジェノヴァのユダヤ人シメオネ・デ・グイツォルフィの創建したグイツォルフィ家がガザリアのために
半島を支配した。
 ユダヤ人のこの地域の支配については、南ロシアに生き残ったハザール・ユダヤの関係が論議となっている。
 1483年、クリミア・ハン国がタマン半島を占領、あるいは1783年、オスマン帝国の手に落ちる。
 1787−1792年の露土戦争で、ロシアがオスマンからこの地域を譲り受け、1828年に完全にロシアに渡る。
(*1788年、エカチェリーナ2世がザポロジュ・コサックにケルチまたはタマン半島移住を命ずる。
 1792年、コサックがタマン沿岸に上陸。)
 その後、人口はまばらであった。最大居住地はコサック村タマンで、現代のテムリュクが引き継いだ。
 タマンは1792年、アントン・ゴロヴァティ率いるザポロジュ・コサックによって、彼らの居住地と黒海コサック軍団の最初の
駐留地として、築かれた。
 テムリュクには、16世紀末のカダルダ公子テムリュク・イダロヴィッチとロシアが提携したときに、新テムリュク要塞が築かれた。
 1570年、クリミア・ハンに渡り、アディスと改名。1774年、要塞はロシアのものとなり、旧テムリュク要塞が築かれた。
 1794−1842年には、居住地はテムリュクの町として知られた。(以前のトルコ要塞)
 1842ー1860年、テムリュクスカヤの村が存在し、1860年に廃止され、テムリュクの町が築かれた。


(2) ボスポロス王国




 ボスポロス王国は東クリミアとクリミア・ボスポロスの沿岸のタマン半島に位置した古代国家で、ギリシャ語を採用した
ヘレニズム国家。
 BC1−2世紀は新たに黄金時代となり、63−68年はネロ支配下のローマ属州となった。
 2世紀末にサウロマテス2世はスキタイに重大な敗北をし、クリミアの全地域をスキタイに併合された。

 全地域にギリシャの都市が点在していた。
 西にはパンティカパエム(ケルチ)、この地域の最も重要な都市、ニムファエムとミルメキオン、東にはファナゴリア(第2の都市)、
ケポイ、ヘルモナサ、ポントス・シンディクスとゴルギッピア。
 これら植民市は始め、BC7−6世紀にミレトス人が居住。

クリミア・ボスポロスの王
アルカエアナクティダエ朝
 シケリアのディオドロスによるとこの地域はBC480−438年の間、アルカエアナクティダエと呼ばれる王統によって
支配されていた。
 恐らく支配一族はスパルトクス(BC438−431)という僭主によって簒奪された。
 スパルトクスは家族名から伝統的にトラキア人と見なされるが、現代歴史家はこの地域に典型的なように、グレコ・スキタイ子孫
であろうと見なされる。

スパルトキドイ朝
 スパルトクスはBC110年頃まで続いたスパルトキドイ朝を創建。
 スパルトキドイ朝は多くの碑文を残し、これによると、この王朝は初期にはアルコンと称し、シンディやマエオタエのような
小原住民の王を支配した。
 スパルトクスの後継者サティルス(BC431−387)は王国にニムファエムを付け加え、テオドシアを攻撃した。
 この港は不凍港であった。サティルスの息子レウコン(BC387−347)はやがて町を占領。
 彼の後を息子のスパルトクス2世とパエリサデスが共同で継承。スパルトクスは342年死亡、パエリサデスが310年まで
ひとりで統治。
 パエリサデスの死後、彼の息子サティルスとエウメルスの間に内部抗争があり、BC310年、タティス川の戦いでサティルスが
エウメルスを破るがサティルスは戦いで殺され、エウメルスが王位に就く。
 エウメルスをスパルトクス3世(BC303−283)が継ぐ。そのあとをパエリサデス2世がつぐ。
 パエリサデス4世(BC150−125)の時、すでにスキタイの脅威のもとにあった。
 スパルトキド朝の最後の王、パエリサデス5世(BC125−109)のとき、スキタイとの関係拡大。
 彼はスキタイの攻撃に戦いきれず、ポントスのミトリダテス6世の将軍ディオファントゥスに支援を頼み、王国を任した。
 BC108年、ディオファントゥスはパラクス支配下のスキタイを攻撃し破った。
 パラクスとその父スキルルスはミトリダテス6世と戦争していた。
 パエリサデス5世はポントスのミトリダテス6世に王国を譲った。パエリサデス5世は彼に反乱したスキタイ人サウマクスによって
殺された。
 パラクスは資料によってわかる最後のスキタイ王。

ミトリダテス6世
 ミトリダテス6世はBC63年、ローマの将軍ポンペイウスに敗れ、クリミアに逃げローマ再攻撃を計画した。
 しかし彼の長男でクリミア・ボスポロスの摂政マハレスは父の支援を好まず、そのためミトリダテス6世は息子を殺し、自分が
王位に就いた。
 BC63年、最年少の息子ファルナセス2世が父に反乱し、ミトリダテス6世は自殺した。
 ポントスの西半分のほとんどと、シノペを含む沿岸のギリシャ都市はローマ属州のビテュニアとポントスとなり、内陸と東岸は
独立従属国となった。
 ボスポラス王国はファルナセス2世のもとローマの提携、友好国として独立したままとなった。
(ビテュニアはBC74年、ローマの属州、ポントスはBC63年、ビテュニア併合)


  ミトリダテス6世前のポントス王国(濃い紫)とミトリダテス6世のポントス王国(淡い紫)

ローマ従属王国

 ミトリダテス6世の死後、ファルナセス2世(BC63−47)はポンペイウスに歎願し、ついで、カエサルの内戦(BC49−45)の
間に支配を拡大しようとしたが、カエサルに敗れ、後に義理の息子のアサンドロスに殺された。
 ファルナセス2世の死の前に、アサンドロスはファルナセス2世の娘ディナミスと結婚。
 アサンドロスとディナミスはカエサルがディナミスの父方の叔父(ポントスのミトリダテス6世の息子)、ミトリダテス1世
ボスポルスにボスポラス王国に戦争宣言を命令し、王とするまで統治君主であった。
 彼は教育のためペルガモンに送られ、後にトロクミ族(ガラティア族の1種)の支配者となりゼラの戦いでカエサルを救援し、
ボスポラス王にされた。
 アサンドロスとディナミスはカエサルの提携者(ミトリダテス1世)に敗れ、亡命した。
 しかしBC44年のカエサル死後、オクタヴィアヌスによってボスポラン王国はアサンドロスとディナミスに戻った。
 アサンドロスはアルコンとして後には王として死のBC17年まで支配。
 ディナミスはローマ人僭主スクリボニウスと結婚を余儀なくされたが、ローマのアグリッパが介入し、ポレモンを王にした。
 ポレモンはBC16年、ディナミスと結婚し、ディナミスはBC14年死亡。ポレモンは死のBC8世紀まで王として支配。
 ポレモンの死後、ディナミスとアサンドロスの息子アスプルグス(BC8−AD38)があとを継いだ。
 アスプルグスはトラキア公女ゲパエピュリスと結婚、ミトリダテス(3世)とコティス1世を儲けた。
 アスプルグスのボスポラス王国はローマの守備隊に保護されるローマ帝国の依存国であった。
 アスプルグスの王朝は341年まで若干の中断を除いた続いた。
 ボスポラス王国はクリミアの東半分とタマン半島を覆い、マエオティア湿地の東岸に沿って北東のドン河口のタナイスまで
広がった。
 62年に皇帝ネロはコティス1世を退位させた。
 ボスポラス王国は63−68年、ローマ州、下モエシアに編入されたが、皇帝ガルバがコティス1世の息子レスクポリス1世に
戻した。

 3−4世紀の民族大移動で地域種族の勢力均衡が乱された。
 342年、ゴート王、エルマナリックはボスポラス王国を征服し、最後の王、レスクポリス6世を殺した。

 フンの侵入の数世紀後、ボスポロスの都市は、ビザンティンのもと、ブルガリアの保護で復興を享受。
 古代ギリシャ都市ファナゴリアは632−665年、古大ブルガリアの首都であった。


<参考> ローマ時代のクリミア

 クリミア半島はBC47年からAD340年まで部分的にローマ帝国支配下にあった。
 ローマ支配下のこの地域は主にボスポロス帝国と一致する。
 ネロの下では、62−68年に、短期間、ローマの下モレシア属州に属した。
 ローマは3世紀中期にタウリカへの影響を喪失し、半島の実質的部分はゴートに落ちた。
 しかし、340年代まで、名目的に王国は生き残った。
 東ローマ帝国が後にユステュニアノス1世のもとでクリミアを再獲得。
 ビザンティン帝国は半島部を中世晩期まで支配。

 ローマはクリミア半島(タウリカ)をBC1世紀に支配し始めた。
 最初の浸透地域は主に東クリミア(ボスポロス王国)と西部のギリシャ都市ケルソネソスで、
内部は名目的であった。

 古代クリミアはケルソネソス・タウリカとして知られ、ケルソネソスを始めとして多くのギリシャ人が植民。
 BC114年、ボスポロス帝国はスキタイからの保護のためポントス王、ミトリダテス6世の支配権を認めた。
 主なローマ人居住地はハラフで、60−65年頃、カストルム(軍事拠点野営地)として築かれ、ケルソネソスに
ローマ海軍基地があった。

 ティベリウス・ユリウス・アスプルグス(BC8-AD38)はボスポルス王系統の築き、これは、一時の中断を含み、341年まで続いた。

 67年に皇帝ネロは黒海北岸からコーカサスまでの征服準備をしたが、その死で中止。
 彼はタウリカをローマ直接支配にし、ハラフ・カストルムを築いた。
 また属州の下モエシアをティラス、オルビアとタウリカまで拡大。

 タウリカはローマの主導権で2世紀に、小麦、衣服、葡萄酒と奴隷の大交易で比較的に黄金期を享受した。

 この地域は、250年に、一時的に、ゴートによって征服された。
 タウリカの最後のローマ帝国従属王は342年死亡のティベリウス・ユリウス・レスクポリス6世。
 ボスポルス王国の残余は最終的に375/376年のフン侵攻で一掃された。

 ビザンティン帝国は皇帝ユスティニアヌス1世の下(527−565)でこの地域の再支配を確立した。
 6世紀に、恐らく、ユスティニアヌス1世治世末期に、タウリカはケルソネソス属州となり、これはボスポルスとクリミア南岸を含んだ。

 ほとんどのローマ・クリミアは7世紀末にハザール支配に落ちた。

 8世紀中期に抵抗的なクリミア・ゴートはハザールによって制圧され、その都市ドロスは占領された。
 690年に既に、ハザール支配者はケルソネソスに居住していたが、都市は名目的にビザンティン帝国に従属した。
 ビザンティン皇帝は13世紀まで、クリミア半島(ケルソン・テマ)の南岸を支配、ついで支配は、その継承国家のひとつ、
トレビゾンド帝国に渡った。クリミアを基礎とする別の派生国家のテオドロ公国は、14世紀から1475年まで続き、
オスマン帝国によって征服された。


<参考> テマ・ケルソーノス(クリマタ)

 公式的には830年代初期に築かれ、黒海交易の重要な中心であった。
 ケルソン都市の980年代の破壊にもかかわらず、テマは復興し、繁栄し、1204年のビザンティン帝国分解語後、
トレビゾンド帝国の一部となるまで続いた。

 この地域はローマ下にあり、後にビザンティン帝国が8世紀初期まで支配したが以降、ハザールが支配。
 ビザンティンの権威は皇帝テオフィロス(829−842)によって再確立。

 属州はビザンティンとハザールの関係で重要な役割を演じ、ペチェネグとルスによるハザール・カガン国の崩壊後、
軍事活動よりビザンティン外交の中心であった。

 ビザンティンの当地の軍事力の弱さの為、945年と971年のビザンティンとルスの条約で、ルスはヴォルガ・ブルガルから
防衛を引き受けた。

 ケルソンはキエフのウラジーミルによる988/989年のロマノス2世の娘アンナについての論争による破壊は別として、
9−11世紀に黒海交易の中心として繁栄。都市は急速に復興した。
 11世紀初期にテマはクリミア東部に拡大したが、11世紀末期に再度クマンに失った。
 12世紀にはケルソンにはほとんど全く知られていない。
 ケルソンと属州は1204年の第4次十字軍によるビザンティン帝国の崩壊まで支配が続いき、ついでトレビゾンド帝国に
ペラテイア(海外領)として渡った。

 トレビゾンドのペラテイア支配は弱体で、ほとんど始めから、アレクシウス1世の122年の死まで、ジェノヴァとタタールの
圧迫を蒙った。
 この年、セルジューク・トルコがペラテイア沿岸を侵攻し、トレビゾンドからセルジュークが保持するシノペへのクリミア交易を行なうために
スダク要塞を築いた。
 以降、後にテオドロ侯国を築くトレビゾンド有力者ガブラス一族がこの地域を支配。



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