コーカサスの歴史
[17] ポントス草原の人々
(7) ルス国家の発展
(7−5) ウクライナの歴史
前史
BC1500年頃、ウクライナ地域に遊牧民族が出現、その一つがキンメリア(BC9−7世紀)。
BC7世紀に中央アジアから来たスキタイがキンメリアをウクライナ草原から追い出した。
同じ頃、黒海北部地域にギリシャ人が最初の植民地を築き始める。
スキタイが最初の集権国家をウクライナ地域に創った。
BC200年頃、スキタイがサルマタイによって追い出される。
青銅期に南西部は
ベログルドフ文化で特徴づけられた。
BC1千年後半からAD1千年前半のキエフ地域の北西は
ザルビンツィ文化が典型的である。
鉄器時代のキエフ地域は
チェルニャホフ文化で代表され、これは2から3世紀の変わり目から4から5世紀の変わり目に存在。
*チェルニャホフ文化→
ゴート
3世紀に、ゴートがウクライナ地域に移動、王国を築いた。
375年、ゴートはフンに破れ、フンはスラヴ民族のアント人とスクラヴェニ人と同盟し、西に移動。
フンはローマとその同盟者に何度か敗れ、急速に弱体化し分解。
フンの侵攻後、ウクライナ地域の支配はスラヴ民族のアント人とスクラヴェニ人に渡り、これはそれぞれ
ペンコフカ文化と
プラハ文化
によって代表される。
7世紀末に、プラハ文化はルカ・ライコヴェツ文化に置き換わり、これは9世紀末まで継続。
紀元1千年後半はウクライナ地域の一部はアヴァール・カガン国(
パンノニア・アヴァール)となり、後にこの地域のほとんどは
アヴァール・カガン国に従属(
サルトヴォ・マヤキ文化)。
紀元1千年後半のウクライナ地域のスラヴ族には
ポリャーネ、
ドレヴリャーネ、
セヴェリャーネ、
ブジャーネ、
チヴェルツィ、
ウリチ、
ヴォリニャーネ人、その他が含まれた。
チェルノレス文化(BC1025−700年の鉄器時代、農耕スキタイ)
ザルビンツィ文化(BC300-AD100年、初期スラヴ)
プシェヴォルスク文化(BC200−AD400年、ルギ、ヴァンダル、初期スラヴ等)
プラハ・コルチャク文化(6−7世紀、西部、スクラヴェニ人)、
ペンコフカ文化(5−7世紀、東部、アント人)
ククテニ・トリピッリャ文化領域
ドニエプル中流文化:
網目紋土器(Corded Ware)文化の東境分枝
ファチヤノヴォ文化:網目紋土器文化の地域変種
ポルタフカ文化:カタコンブ文化とともに、ヤムナ文化を継承、ヴォルガ中流地域に位置する。
*以下、
英語版
新石器時代晩期にBC4500−3000年頃に
ククテニ・トリピッリャ文化が栄えた。
ククテニ・トリピッリャ文化の鉄器時代人は西部に存在し、更に東方には
スレドニ・ストグ文化が存在、これらを
草原の初期黄銅時代
ヤムナ(クルガン)文化と
カタコンブ文化がBC3千年に継承。
鉄器時代に、これらにダキア人とキンメリア(
ノヴォチェルカススク文化)、スキタイ、サルマタイのような遊牧民が引き続いた。
BC750−250年にスキタイ王国が存在した。
BC7又は6世紀にギリシャ人がクリミアとウクライナの他の沿岸地域を植民化。
黒海北東岸にBC6世紀に存在した他の古代ギリシャ植民地とともに、ティラス、オルビア、ヘルモナサの植民地が6世紀まで、
ローマとビザンティン都市として存続した。
ダリウス1世のスキタイ遠征(BC513年)で、ダリウス軍はトラキア人と、小アジア帰還前に、事実上、現在のブルガリア、
ルーマニア、ウクライナの部分のような黒海に接するヨーロッパ部分を服従させた。
4世紀にゴートとフンによって侵攻、占領されるまで、文化的にギリシャのボスポラス王国が繁栄。
62−68年にローマ帝国が短期間併合、以降、ローマ従属国となり、1世紀中期にローマ軍が存在。
3世紀に250−375年頃、ゴートが彼らがオイウムと呼んだウクライナの地に到来、これは
チェルニャホフ文化に対応する。
東ゴートはこの地域に留まったが、370年以降、フンの影響下に入った。
東ゴート王国の北部は
キエフ文化で、2−5世紀にフンに侵略されるまで繁栄。
454年のネダオの戦いでのフンの撃破を支援し、東ゴートはローマによってパンノニア移住を許された。
フンとゴートの支配終焉による勢力の真空状態で、恐らくキエフ文化の残余から出現したスラヴ民族が、5世紀に
ウクライナのほとんどに拡大し始め、6世紀にはバルカンの方にまで拡大。
初期スラヴ人の起源については、確実ではないが、ポレシア近くで発生したと思われる。
5−6世紀にアント人連合がウクライナ地域に位置したと一般的に考えられている。
アント人はウクライナ人(白クロアチ、セヴェリャーネ、ポリャーネ、ドレヴリャーネ、ドゥレビ、ウリチ、チヴェルツィ)
の祖先であった。
ウクライナからのバルカン一帯への移動で、多くの南スラヴ民族が形成された。
北方への移動は、ほとんどイルメン湖に達し、イルメン・スラヴ(スロヴェーネ)、クリヴィチとラヂミチ、ロシア人の祖先
グループが出現。
602年のアヴァール襲撃と、アント人連合の崩壊の後に、これらのほとんどの人々は、紀元2千年初めまでに別々の部族
として生き残った。
初期中世
7世紀にはウクライナ地域は
パナゴリア(タマン半島)を首都とするブルガル人国家(古大ブルガリア)の中心となった。
7世紀末にほとんどのブルガル部族は種々の方向へ移動し、その国の残余は中央アジアからの半遊牧民のハザール人
によって吸収された。
ハザール人はカスピ海近くとコーカサスにハザール王国を築いた。
この王国は西カザフスタン、クリミアの一部、東ウクライナ、南ロシアとアゼルバイジャンを含んだ。
ハザール人はポントス・カスピ草原をうまく支配し、交易でのパクス・ハザリカ状態をもたらし、これはラダニ・ユダヤ人のような
グループを含む人々の安全な長距離交易を可能とし、遠く中国からタブリズまでの交易が行われ、更にヴォルガ・ブルガリア周辺の
交易網も存在した。
これらはヴァイキングなどの交易者をも引き付け、彼らはキエフ・ルスを築いた。
キエフ・ルス(862/882−1240)
一説には、キエフはハザールの時期にその一部として築かれた。
882年、キエフはヴァリヤーグ貴族オレグによってハザールから征服された。
オレグによって長いリューリク朝が始まった。
この時期、ウクライナに土着したスラヴ民族は、ポリャーネ、ドレヴリャーネ、セヴェリャーネ、ウリチ、チヴェルツィ、
白クロワチとドゥレビを含み、有利な交易路に在り、ポリャーネ人のキエフが強力なスラヴ人のキエフ・ルス(ルーシ)国家
の中心として、なかでも急速に繁栄した。
941年、キエフ公子はビザンティン帝国に侵攻したが破れた。
11世紀にキエフ・ルーシは地理的にヨーロッパで最大の国家で、他のヨーロッパで、特にモンゴル侵攻後はルーシ公国西部は、
ルテニアとして、知られるようになった。
キエフ・ルスは大ウラジーミルとヤロスラフ賢公の時代に頂点に達したが、キエフ・ルスは決して完全な集権国家ではなく、
多くのリューリク朝一員によって支配される公国の緩い集まりであった。
ウクライナは奥地、故国の意味で、通常、国境の土地と解釈され、12世紀に出現、16世紀には地図で出現。
この語はルーシ固有の土地、キエフ、チェルニゴフ、ペレヤスラヴ公国と同義であった。
大ルーシは全キエフ・ルースの全土地(スラヴだけでなく北東のウラル人も)に適用されて使用された。
スラヴ人故郷のルースの地域分割も出現、これにはベラルーシ、黒ルーシと北西と西ウクライナの赤ルーシも含まれた。
ルーシでのキリスト教の公式採用は988年に生じ、キエフ・ルーシのキリスト強化推進の中心は大ウラジーミル(1世)で、
彼は祖母のオリガの影響を受けた。
ヤロスラフ1世がロシア法典(ルースカヤ・プラウダ)を編集し始めた。
1322年、法皇ヨハネス22世がカファ(現在のフェオドシア)にディオケセ(主教区)を築いた。
ウラジーミル・モノマフの努力にもかかわらず、諸公の衝突でキエフ・ルーシは、12世紀始めに崩壊に至った。
キエフ地域ではハーリチとヴォリンが支配を拡大、北ではモスクワがスーズダリ公国に出現。
北西ではポロツク公国がベラルーシの独立を主張し始めた。
キエフは1169年、諸公の勢力争い中にウラジーミル公国によって掠奪され、後に、12世紀と13世紀にはポロヴィッツと
モンゴルによってそれぞれ襲撃された。
現在のウクライナのすべての公国はモンゴル従属を認めた(1239−1240)。
1240年、モンゴルはキエフを掠奪し、多くの人が他国に逃れた。
ガリツィアーヴォルイニア
現在ウクライナ地域のキエフ・ルーシの継承国家は
ハーリチ・ヴォリン公国であった。
大ウラジーミルが地域首都としてハーリチとヴォロディーミルを築いた。
この地域にはドゥレビ、ツィヴェルツィ、白クロワチが住み、始めはヴォリン(ヴォルイニア)とガリツィア(ハーリチ)は
別々の公国で、共にヤロスラフ賢公の子孫(ガリツィアはロスチスラフ系、ヴォルイニアは始めイーゴリ系やがてイジャスラス系)
が支配した。
ヤロスラフ・オスモミスル(1135−1187)の時に、ガリツィアは黒海まで拡大。
両国支配者は互いに相手を支配して拡大しようとし、最終的に
大ロマン(1197−1205)が統一を完成し、更に短期間
キエフまで拡大。
ロマンの死で混乱が起き、息子の
ダニエルが、1238年、再度、公位を獲得。
ダニエルはキエフを含む父の国を再建。ダニエルはモンゴル・ハンに貢納し、貢納徴収の任を負うバスカクに指名された。
1253年、彼は法皇の使節によって
ルス(ルテニア)王として戴冠された。
1254年のダニエルの死で、息子の
レヴが継承、これは首都をリヴィウに移動。
彼は父と異なり、西を向かず、モンゴルと接近。
1247−1276年、レヴはリトアニアのトライデニスと戦い、敗れ、黒ルテアニア(ネマン川上流)をリトアニアが併合。
1279年にはボヘミアのヴァーツラフ2世と提携し、ポーランドに侵攻し、クラコフ占領に失敗。
1280年、ハンガリーを破り、ザカルパチアの一部を併合。
1292年には分解したポーランドを破り、ルブリンとその周辺を併合。
1301年のレヴの死で衰退が始まる。息子のユーリ1世が継承したが、7年間だけ統治。
1302年、ルブリンをポーランドに失う。
1308−1323年はユーリの息子のアンドレイとレヴ2世が共同統治。
兄弟はリトアニアとモンゴル(黄金オルダ)に対し、ポーランドのヴワディスワフ1世とドイツ十字軍と提携。
しかし、依然、モンゴルに従属し、軍事遠征に参加。
1323年、モンゴルとの戦いで兄弟は死亡し、継承者はいなかった。
リューリク朝の終焉で、ヴォルイニアはリトアニア公子
リュバルタス支配に渡り、ガリツィアはボヤール(上層貴族)が支配。
ボヤールはユーリの孫、ポーランド公子ボレスラフ・ユーリ2世を王とする。ユーリは正教に転向したが、1340年、毒殺され、
ボヤールの
ドミトリ・デトコがガリツィアを支配。
デトコはリュバルタスと共にポーランドと戦うが、結局、ポーランドの領主権を受け入れ、デトコの死後、1349年、ポーランド王
カジミェシュ3世がガリツィアを併合。(ガリツィアと西ヴォルイニア。リトアニアはキエフと東ヴォルイニアを支配)
ポーランドとリトアニア支配
1370年までのポーランド拡大
1635年
ポーランド王国
14世紀に、ポーランドとリトアニアは黄金オルダと戦い、ウクライナ地域のほとんどはポーランドとリトアニア支配下に
入った。北と、北西はリトアニア、南西はポーランド支配下に入った。
詳しくは、赤ルテニア、ヴォルイニアの一部とポドリアはポーランドの一部となり、ポーランド王はルテニアの主と相続人の称号を
採用した。
リトアニア支配者は青水の戦い(1362/1363年)によって、ポロツク、ヴォルイニア、チェルニゴフとキエフを支配、ルスの
支配者の称号を採用。
1470年代のオスマンによる征服まで、ジェノヴァがクリミア沿岸に植民都市を持った。
この時期、ウクライナとウクライナ人は比較的繁栄と自治を享受し、正教を実行し、公式言語はルテニア語で、これは古ウクライナ語
または古ベラルーシ語とも呼ばれた。
やがて、ポーランドが南西地域を支配し、ポーランドとリトアニアの合同(1385年のクレヴォ合同から1569年のルブリン合同
まで何度か合同)で、ポーランド人、ドイツ人、リトアニア人とユダヤ人がこの地域に移住し、ウクライナ人はリトアニア人と共有して
いた権力の地位から追われ、ウクライナ人はより中央ウクライナに追いやられた。
1490年、ポーランド人によるウクライナ人圧迫の増加で、ペトロ・ムハ率いる反乱が起き、これにはモルダヴィア人(ルーマニア人)
に加え、初期コサックとフツル人(カルパチアに住むウクライナ人亜グループ)が参加。
ムハの反乱はモルダヴィア公子シュテファン3世によって支援された。
15世紀の黄金オルダの衰退で、クリミア・ハン国が形成され、ウクライナの黒海沿岸と南部草原を占領した。
18世紀末まで、クリミア・ハン国はオスマン帝国と中東と、大量の奴隷貿易を行った。
クリミア・ハン国は1774年まで、オスマン帝国に従属し、1783年、ロシア帝国に併合された。
ポーランド・リトアニア共和国
1569年のルブリン連合(ポーランド・リトアニア同君連合)と、ポーランド・リトアニア共和国の形成後、ウクライナは
ポーランド支配下に入り、ポーランド王国王冠領の一部となった。共和国形成で直ぐに、植民努力により大きな復興を
見た。多くの新しい都市と村が築かれ、ハーリチとヴォリンのような他のウクライナ地域との結びつきが非常に拡大した。
ほとんどのウクライナ貴族はポーランド化し、カトリックに転向したが、ほとんどのルテニア語話者農民は東方正教会に
留まり、社会的緊張が生じた。
農奴への強制から逃れようとするルテニア農民はコサックとして知られるようになり、その戦闘精神は名声を得た。
一部のコサックは共和国によって、タタールから南東国境を護る兵士として登録され(登録コサック)たり、あるいは海外遠征に
参加した。コサック部隊は共和国とロシア帝国の戦争でも活躍した。コサックの軍事的有効性にもかかわらず、貴族が支配する
共和国は彼らにいかなる自治を与えることも拒否し、代わりに、ほとんどのコサック住民を農奴にしようとした。
これで、多くのコサックの反乱が起きた。
コサック期
1648年、フメルニツキーの反乱が起き、荒廃(大洪水)として知られる時期が始まり、共和国の基礎と安定性を掘り崩した。
生じたコサック国家、コサック・ヘトマン国は、通常、ウクライナの先駆と見なされ、南のタタールを支配するオスマン・トルコ、
共和国、東のモスコヴィ帝国との3面軍事・外交的対立に出会った。
ザポロジュ軍団は共和国から去るために、1654年に、ロシアと保護条約を模索、これはペレヤスラフ条約として知られる。
共和国はコサック国と妥協しようと、1658年、ハディアチュ条約を締結、しかし、13年間の絶え間ない戦闘の後、この協定は
1667年のポーランド・ロシアのアンドルソヴォ条約で棚上げされ、この条約でウクライナは共和国とロシアで分割された。
ロシアの下で、始めは、コサックはヘトマン国で公式的自治を獲得した。
一時、彼らはまたザポロジアで半独立共和制とロシア国境のスロボダ・ウクライナでの植民も維持した。
1686年、キエフ主教区はモスクワ主教管区に併合された。
ロシア帝国とオーストリア・ハンガリー
引き続く数十年に、ツァーリの中央ウクライナへの支配は徐々に’保護’に取って代わった。
散発するコサックの反乱は今や、ロシア当局を目標とした。
1772年、1793年と1795年のポーランド分割後、ウクライナの極西はオーストリア支配下に入り(
ガリツィア・
ロドメリア王国、1772−1918年)他はロシア帝国の一部を形成した。
露土戦争の結果、オスマン帝国支配は南・中央ウクライナから退き、一方、ハンガリーの
ザカルパチア地域支配は続いた。
17−18世紀
右岸ウクライナは、1793年まで共和国に属し、左岸ウクライナは、1667年のアンドルソヴォ条約でロシア帝国に編入されたが、
キエフとブラツーラフは、1681年のトルコによる占領まで、ヘトマンのペドロ・ドロシェンコ支配下に入った。
しかし、1699年のカルロッツ条約で、これらの土地は共和国に戻った。
ほとんどのウクライナは、エカチェリーナ2世のもとで、ロシア支配下となり、1793年、ポーランド第2回分割で、右岸ウクライナは
ロシアに併合された。
ウクライナ作家と知識人は民族主義精神に鼓舞された。ロシア化政策と汎スラヴ主義で多くのウクライナ知識人が西ウクライナ
に脱出。
一方、オーストリア帝国下のウクライナ人の運命は異なった。
ハーリチを支配するほとんどのエリートはオーストリアかポーランド起源で、ルテニア人はほとんど例外なく、小作人であった。
19世紀には、親露感情がスラヴ住民に共通して起こったが、東ウクライナでのロシアによる迫害から逃げるウクライナ
知識人の大量脱出とオーストリア当局の干渉は、親ウクライナ感情により取って代わった運動を引き起こし、これはロシア帝国に
入り込んだ。
ロシア革命後のウクライナ
クリミア、クバンとドン・コサックの土地の一部を含むウクライナは、1917年の2月革命以降、ロシアから自由になろうとした。
1917−1921年のウクライナ独立戦争で、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国が生まれ(1919年ウクライナ人民共和国と
西ウクライナ人民共和国の合同)、これは急速にソ連に包含された。
1917年のロシア革命後、ウクライナ支配を巡っての戦い(ウクライナ独立戦争)が、民族主義者、アナーキスト、ボルシェヴィキ、
白軍や更にドイツ、オーストリア・ハンガリー軍、更にはルーマニアやフランス軍によって行われた。
これは1917年2月から1921年11月まで続き、結局、ウクライナはボルシェヴィキ、ウクライナSSR、ポーランド、ルーマニア、
チェコスロヴァキアに分割された。
1917年の2月革命の結果、まず民族主義者(
中央ラーダ)によって、5月に独立、11月にキエフで
ウクライナ人民共和国UNRが
宣言された。
一方、ボルシェヴィキは12月に、ハリコフでウクライナ人民共和国を立ち上げた。
1918年1月、中央ラーダのUPRはロシアとの関係を断ち、独立を宣言。
ボルシェヴィキが優勢に立ち、中央ラーダは同盟軍(独、墺、土)と休戦(
ブレスト・リトフスク条約)。
これによる、ドイツ軍の支援で、今度はボルシェヴィキが劣勢となる。
しかし、同盟軍の西部戦線での敗北で、ドイツ軍はウクライナから撤退。
同盟軍の崩壊で、東ガリツィアのウクライナ人が
西ウクライナ人民共和国WUNRを宣言し、UNRと統一しようとしたが、結局、
WUNR軍は再生ポーランド共和国軍に破れ、1919年のパリ講和会議で、東ガリツィアはポーランドのものとなる。
一方で、ドイツ軍の敗北で、フランスなどの干渉軍はウクライナの黒海沿岸地域に侵攻したが、親ボルシェヴィキ側に敗北。
ボルシェヴィキは、1919年初期にほとんどのウクライナ東部と中央部を支配し、ウクライナSSRに再編。
1921年のポーランドとの
リガ条約で、赤軍はウクライナのほとんどを支配。
1922年、ベラルーシSSR、ザカフカースSFSR、ウクライナSSRがソ連USSRに参加。
第二次大戦中、ドイツが占領地域を、
ウクライナ帝国コミッサリアートを置いて支配(1941−1944年)。
1939年のモロトフ・リッベントロップ協定と第二次大戦のソ連勝利でガリツィア、ヴォリン(ヴォリニ)、南ベッサラビア、
北ブコヴィナ、ザカルパティアが加わる。
露語
1199年、ロマン・ムスチスラヴィッチがハーリチとヴォリン公国を統一、1239年、その子孫が最終的にハーリチ・ヴォリン公国を
確立した。
バトゥの侵攻(1237−1241)と、1299年の破壊でキエフは荒廃した。
11世紀以降、古ルス諸公国の南の地域にはポロヴィッツの遊牧野営があった。
13世紀前半に、これらの土地は黄金オルダの一部となった。
すでに13世紀後半に、個々の公国の状況には違いがあり、これがそれらの将来の運命を決定することになる。
ウクライナの土地−キエフ、ペレヤスラフ、チェルニゴフとハーリチ・ヴォリンの状況はほとんど、モンゴル侵攻以前の
出来事によって決まった。
40年戦争(1205−1245)でその勢力はほとんど消耗した。
国境のキエフ、ペレヤスラフとチルニゴフ・セヴェレスクの土地は容易にバトゥの餌食となった。
これら公国は近隣に比べ発展の度合いが遅れた。公国のエリートはモンゴルに脅され堕落し、都市生活は衰退し、
引き続き、公国の土地の分解が激しくなった。
対照的に、ハーリチ・ヴリン公子分枝は、1205−1245年の戦い(統一戦争、ヴォリンとチェルニゴフ、ハンガリーなどと)に
勝利し、強国の基礎を築き、これは安定して次の世紀に存在した。
中世末期のウクライナ
リトアニアと共和国の一部として
リトアニア大公国は長い間、キエフ、チェルニゴフ、ヴォリンとハーリチを併合していた。
ゲディミナス(1316−1341)の下で、リトアニア大公国は拡大(ミンスク、オルシャ、ブレスト、ピンスク、トロフが
加わる)した。
1323年、ハーリチのロマン・ムスチスラヴィッチの最後の正統継嗣のアンドレイとレフ2世が死亡し、継承権はポーランド王
ユーリー2世ボレスラフに渡った。
1325年、ゲディミナスがイルピン川でロシア公子スヴャトスラフ軍を破り、キエフを保護下に置く。
1340年、ボレスラフは毒殺され、ボヤールはリュバルタス・ゲディミノヴィッチを招いた。彼は受洗した。
彼の勢力はヴォリンに限定され、首都はルツクであった。
1344−1345年、ポーランド王カジミエシュ3世の遠征で、ハーリチは徐々にポーランド支配下に入った。
1387年、ポーランドは最終的にハーリチとコルムを占領。
この頃、モンゴルとの戦いと国内問題で弱体化し、ルスの土地はゲディミノヴィッチ朝の関心を引いた。
1362年、リトアニア公子アルギルダスの下で、キエフ公国はリトアニア大公国に加わった。
アルギルダスは青水の戦いで黄金オルダを破る
徐々に、チョールナヤ(黒)ルーシ、ベーラヤ(白)ルーシ、チェルニゴフとノヴゴロド・セヴェルスク公国が
リトアニア・ゲディミノヴィッチ朝支配下に入った。
これはルス住民が多数派で、リトアニア権力は抑圧的でなく、西ロシア語が使用され、正教が主要信仰であった。
1359年以降、ブコヴィナはモルドヴァ公国に渡り、ザカルパチアは13世紀後半にハンガリー王国に渡った。
このようにして、13−14世紀にウクライナの土地は近隣国家、リトアニア大公国、ポーランド王国、モヅドヴァ公国と
ハンガリー王国の一部となった。
地域のシュラフタは統一の戦いで、ケーストゥティス、ヴィタウタス、シュヴィトリガイラを支持した。
十字軍とモスクワ公国への戦いと内紛のために、リトアニアはポーランド王国との提携に入った。
1385年、クレヴォ連合が形成された。これでポーランド人とカトリックの影響がリトアニア大公国で増加、スラヴ正教徒ルス貴族は
徐々に権力を失う。
1381−1384、1389−1392、1432−1439年にリトアニアで内紛が起きた。
1456年、ヴォリン公国が、1470年、キエフ公国が終焉。
1569年のルブリン合同で、ヴォリン、ポドラシエ、ポドリア、ブラスチラフとキエフ地域がポーランド支配下に入る。
1596年、ブレスト合同(正教教会のカトリックとの)でルス貴族の一部がカトリックに転向。
近代
16世紀にロシア国家は積極的膨張の段階に入った。
ベルゴロドが1596年に、荒野の北に建設され、その周辺に要塞線ベルゴロド線が形成された。
この要塞線の南にスロボダ・ウクライナが形成され始め、モスクワ政府は移住者に便宜を約束。
移住者のかなりは共和国のコサック住民で、彼らは抑圧から逃げた。
1591−1638年に一連のコサック農民反乱がおきた。
1648年、ウクライナ・コサックがポーランド人マグナートの激しくなる抑圧により反乱を起こした。
反乱は以前の登録コサック中隊長ボフダン・フメルニツキーが率いた。
イスラーム3世ゲライのクリミア・ハン国に支援されて初めは成功した。
ヘトマンのフメルニツキーはポーランド王のヤン2世と休戦した。
1648年12月、コサックは勝利してキエフに入場。
しかし、1651年、ベレステチコの戦いでポーランド軍にコサックは敗れ、やがてリトアニアがキエフ占領。
コサックはロシアに支援を求めざるを得なかった。
1654年、ザポロジュ・コサックによるペレヤスラフ・ラーダで、反乱軍支配地域のロシア保護化が決定された。
ロシア軍の反乱コサック支援で、ロシアーポーランド戦争(1654−1667)が起き、1667年のアンドルソヴォ休戦で
ドニエプル東岸(左岸ウクライナ)はロシアに渡され、西(右岸ウクライナ)は共和国に留まった。
これは1686年の和平条約で確認された。
フメルニツキーの死後、ヘトマン国はすべてが権威を認める指導者がいなくなり、長老たちは権力を求めて紛争を始めた。
1657−1687年には、ウクライナ地域は地域的一体性を喪失し、内戦の縁にあった。
1672−1676年のポーランド・トルコ戦争で、ポドリアはオスマン帝国支配下に入った。
1678年、トルコ軍はロシア支配下の沿ドニエプル・ウクライナ国境に侵攻、チギリンを攻略。
1682年の和平条約で、ドニエプルに沿ったロシアとトルコの国境が確定。
キエフとその周辺はロシア領のままで、ドニエプルと南ブグ川の間は非住地帯となった。
ザポロジェ(ザポリジア)はトルコの影響領域と認められた。
トルコ支配は、1699年のカロヴィッツ条約まで続いた。
アンドルソヴォ休戦以降の時期は、右岸ウクライナは依然コサック・ヘトマンが支配。
1700−1721年の大北方戦争(スウェーデンと北ヨーロッパ諸国)の時、ヘトマンのイヴァン・マゼパは
長い躊躇の後に、この機会を利用してロシア支配から逃れようと決心。この決定は一部のコサック長老が支持。
マゼパ率いる一部のコサックが、ポルタヴァの戦いに加わったが、スウェーデンは敗北し、マゼパは彼に忠実な
コサックとトルコに逃亡。
ピョートル1世はヘトマン国の首都とザポリジア・シーチの破壊と住民絶滅を命じた。
共和国分割
1772−1795年の共和国のロシア、オーストリアとプロシアの分割で、ハーリチはハプスブルク領に、右岸ウクライナは
ロシア領となった。
1772年、リヴィウがオーストリア帝国のハーリチ・ロドメリア王国の首都となった。
1768−1774年の露土戦争まで、ドニエプル下流の土地、アゾフ海、クリミアは依然クリミア・ハン国支配下にあった。
これらの地域は、1774年のキュチュク・カイナルジ条約でロシアに渡り、以降、東スラヴ人とセルブ人、ギリシア人、ドイツ人、
ユダヤ人が住み始めた。彼らはロシア政府によって移住が認められた。
新しい土地が南部に築かれた。イェカチェリノスラフ、ニコラエフ、ヘルソン、オデッサ、ノヴォロシースク、セヴァストポル、
アレクサンドロフスク、マリウポルなど。
1764年、エカチェリーナ2世がヘトマン国を廃止、1775年、ザポリジア・シーチを破壊。
18世紀末から19世紀初めまでウクライナは主に農業地域であった。
民族運動
18世紀末からウクライナ民族運動が誕生、最初は文化的、1840年代からは政治的運動もまた起きた。
現代ウクライナ民族が形成され始めった。
民族覚醒にとって、タラス・シェフチェンコの作品が非常に重要である。
彼は詩人で思想家、芸術家であるが、文学遺産で特に詩が重要。
ツァーリ政府の圧迫で、1870年代から民族運動の中心はハーリチに移動。
19世紀末から、政党が出現、その一部は独立ウクライナ国家要求を提出。
1917年のロシア革命が独立国家形成の推進力となった。
1876年、出版でのウクライナ語使用が厳しく制限された。
以降、ウクライナ文学出版はロシアからオーストリア・ハンガリーに移動し、そこはウクライナ作家の避難場所となった。
19世紀末までに、ハーリチはウクライナ・ピエモント(イタリア統一運動になぞらえて)と呼ばれ始めた。
1830年代、スラヴ派運動がハーリチに到来、特に若者に支持された。
19世紀末に、オーストリアはモスクワ派圧迫キャンペーンに乗り出した。
ハーリチからのウクライナ分離主義思想のロシア浸透を恐れ、1909年、ロシアはカルパチア・ルシン人援助の基金を決定。
1910年、オーストリアはブコヴィナのすべてのロシア派施設を閉鎖。
第一次大戦時、ハーリチと沿カルパチアのオーストリア・ハンガリー当局は、ロシアに同情的なルテニア人住民を圧迫した。
ハーリチでウクライナ人シーチ銃兵隊が結成され、オーストリア軍側で戦った。
1914−1915年、ハーリチはロシア軍によって占領された。
()内は現国名(赤線:現国境)
1600年頃のクリミア・ハン国とオスマン領(赤)
ウクライナの歴史的地域
ウクライナSSR(1922−1954)の領域拡大 1939年の
モロトフ・リッベントロップ協定(黄)と第二次大戦の結果
ピンク破線:
ウクライナ人民共和国(1917−1921)
緑破線:
西ウクライナ人民共和国(1918−1919)
*参考 →
ウクライナ・コサック
12世紀のポロツク公国と現在のベラルーシ共和国(薄緑線)
(7−6)
ポロツク公国と
ベラルーシの歴史
*ベラルーシ
862年、ポロツクは原初年代記でムロムとベロオーゼロ(ベロゼロスク)とともにノヴゴロド・ルス領域の都市として初めて言及。
始めは、ポロツクはキエフの代官でなく、地域王朝が統治。これはクリヴィチの民族連合の政治的発展による。
2度目の言及は、980年で、支配者はヴァリヤーグのログヴォロド。年代記では、彼は海外から来たという。
972年のキエフ公子スヴャトスラフの死後、その息子のノヴゴロドのウラジーミルとキエフ公子ヤロポルクの間で権力闘争が起きた。
ウラジーミルはログヴォロドの娘ログネダに求婚したが断られ、ポロツクはヤロポルクと提携。これでウラジーミルは都市を奪い、
ログヴォロド一族を殺し、ログネダを親の面前で強姦したという。ログネダは妻にされ、地域王朝は途絶えた。
988年、ウラジーミルはキリスト教に転向し、ビザンティン皇帝の娘アンナ・ポルフィロゲネタと結婚し、以前のすべての妻を離婚。
ログネダは修道院に入り、アナスタシアと改名し、息子のイジャスラフとポロツクに戻った。これで公国は年小系リューリク朝分枝で
地域王朝を回復。1001年、イジャスラフを息子のブリャチスラフが継承。次の2世紀はイジャスラフの子孫がポロツクを支配。
他のすべてのキエフ・ルスの土地はヤロスラフ賢公の子孫が支配。
中世ポロツクの黄金期はブリャチスラフの息子フセスラフ(1044−1101)。この時期のキエフの内戦を利用し独立を維持。
10世紀末後、ポロツクは、現在のラトヴィアとリトアニアの祖先の西隣の土地の植民地化に成功。ここは13世紀初期に、
ドイツ騎士団によって奪われる。リトアニア人は始めはドイツ騎士団との戦いで、キエフ・ルス諸公国と提携したが、
1183年、従属を拒否し独立。
1044−1066年の間にポロツクの聖ソフィア聖堂がフセスラフによって建造された。(ノヴゴロドとキエフの同名の教会が競合)
1063年のネミガ川の戦いでフセスラフはヤロスラフの息子達に敗れた。
1101年のフセスラフの死後、公国は息子達に分割、
ミンスク公国、
ヴィテプスク公国、ドルツク公国、ゲルツィケ公国
(レティガル人)とクケイノス公国(リヴォニア)。
これらはポロツク支配を争い、ヴィテプスクが勝利。
短期間、隣のスモレンスク公国も一部の土地を争った。
*フセスラフは生前にも息子達に分割し、息子たちの間で更に再編され、公国は分解、最初は6の、更に多くの分領公国が生じた。
(ミンスク(1101)、ヴィテプスク(1101)、ドルツク(1101)、
イジャスラフ(10世紀末)、
ロゴイスク(イジャスラフから分離)、
ストレジェフ(1159年)と
ゴロデン公国(1159年))
リガ要塞がリヴォニア帯剣騎士団の軍事拠点となった。
1209年、ドイツ十字軍がゲルツィケとクケイノスを征服。
*1222年、スモレンスクのムスチスラフがポロツクを占領し、甥を据えるが、1232年頃、ヴィテプスク系のブリャチスラフが再び
戻る。彼の娘が、リトアニア公子と結婚し、ブリャチスラフの死後、リトアニア公がポロツクを継承(1248年頃)。
ミンスク公国は1242年、ヴィテプスク公国は1320年、リトアニア併合。
ポロツク公国はモンゴル侵攻は免れたが、リトアニアが強力となり、1240年、リトアニア大公領となる。
1504年からヴォイヴォド領(県)となる。1569年からはポーランド・リトアニア共和国。
1772年の共和国の第1回分割でかなりの部分がロシア領となる。
*
露語
13世紀にリトアニア公子ミンダウガスが、バルトと東スラヴの一部を支配下に統一し、リトアニア大公国が形成された。
1392年からポロツク公国は総督が支配するリトアニア内の統治単位となる。
14世紀後半にリトアニア大公国は版図が頂点に達し、国境は、北から南はバルチック海から黒海、
西から東はブレスト地域からスモレンスク地域に広がる。
大公国の世俗と商売言語は西ロシア筆記語(古ベラルーシ語、古ウクライナ語)であった。
13世紀中期から現代ベラルーシに相当する地域の国家構造に基本的変化が起きた。
ポロツク公国の土地はリトアニア大公国に含まれた。
その主要な理由は、十字軍、ハーリチ・ヴォリン公国、タタール・モンゴルに対してポロツクとリトアニアの土地の間で
政治・軍事・経済的提携を行うためであった。
1307年、ポロツクが、1320年、ヴィテプスクが自治を条件にリトアニア大公国の一部となった。
1508年多くのヴィオヴォド領が出現。ブレスト、ヴィテブスク、ムスチスラフ、ノヴォグロデク(ナヴァフルダク)とポロツク。
1517−1525年にフランツィスク・スカリナが東スラヴ人で最初の出版活動を行う。
15世紀末にリトアニア大公国は一連の戦争の結果、ロシアに多くの土地を譲渡する。
1500−1503年のヴェドロシャの戦いが鍵となる戦いであった。
1514年のヴァシリー3世の第3回スモレンスク侵攻で非常に困難な状況に陥った。
ベラルーシの土地の運命は、14世紀末のリトアニア貴族のカトリック転向に非常に影響された。
1385年、ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)がポーランド王になる(クレヴォ連合)ことを条件にリトアニア住民を
カトリック典礼で洗礼させることに同意。
これでリトアニア大公国でカトリックと正教徒住民で緊張が起きた。
1413年のゴロデル特権で、優勢なカトリック貴族が特権を確保。
大公シュヴィトリガイラが正教徒のボヤールや公子達を支援し始め、リトアニア大公国は1432−1438年の
内戦に至った。
1432年、シュヴィトリガイラがポロツクに逃げ、ベラルーシの公子やボヤールは彼をロシア大公に据えた。
リトアニア大公国は短期間分裂し、ポロツクが一時、ベラルーシ国家の首都となった。
リトアニア大公国のカトリック指導者たちは妥協し、正教徒封建領主はいくつかの経済的・政治的権利でカトリックと対等になった。
カジミエシュ4世のもとで、ノヴォグロデク、ポロツク、ヴィテプスク、スモレンスク等の自治が認められた。
彼の死後、モスクヴィー国は古代ルス(キエフ)の土地の統一のための戦争を始めた。
この戦争で、15−16世紀にリトアニア大公国の東スラブ人の土地の一部がモスクヴィー国に併合された。
この戦争の敗北後、リトアニア大公国の政治指導者は正教徒封建領主の政治からの排除を行った。
16世紀中期までにリトアニア大公国の政治制度が最終的に形付けられた。
国家言語は西ロシア語であった。
大公は評議会とともに最高法廷を形成した。
15世紀に大公の助言機関としてラーダが形成され、15世紀末から16世紀初めに国家最高機関となった。
15世紀から地域封建領主の代表が評議会に招かれ、セイムが形成された。
1413年、大公国はヴィルナとトゥロク・ヴォイヴォダに2分割。
16世紀初めにポロツク、ノヴォグルドク、スモレンスクとポドラシエ・ヴォイヴォダが形成された。
1565−1566年に、ブレス、ミンスク、ムスチスラフの一部がウエズドに分割された。
ベラルーシのシュラフタがセイム参加権を得、代表が選出された。
1558−1583年のリヴォニア戦争(*)がリトアニア大公国に大きな影響を与えた。
*ロシアの、現在のエストニアとラトヴィア支配をめぐる侵攻に対し、ポーランドとリトアニア更にはスウェーデンが参戦。
結局、ロシアは占領地域を失い、リヴォニアとポロツクはポーランド・リトアニアへ、スウェーデンは北リヴォニアとエストニアを確保。
リヴォニア戦争で、リトアニア大公国は、1561年、リトヴィア騎士団を支持。
1563年、イヴァン4世がポロツクを奪う。首都ヴィリナを脅威に晒されたリトアニアは、ポーランド王国に向いたが、条件は
実質的に大公国の解体をもたらすものであった。
ポーランドはリトアニア大公国のかなりの部分を併合(現代ウクライナ地域)し、リトアニアは国家存亡の瀬戸際に立った。
1569年、両国はルブリン合同し、共和国形成。
ステファン・バトリが、1575年、王となり、ポロツクと他のリトアニアの都市を取り戻し、更にプスコフを包囲したが攻略に失敗、
1582年、戦争が終わった。
16世紀中期にリトアニア大公国は宗教改革の影響を受けた。
1596年のブレスト宗教合同で共和国の正教徒教会は法皇に従わさせられた。
これで地域正教徒住民に不満が起き、統一派とスラヴ正教派が血なまぐさい衝突を引き起こし、これは全西ロシアを巻き込んだ。
中央と東ウクライナと異なり、17世紀のリトアニア共和国のスラヴ正教徒の抵抗は打ち砕かれ、カトリックと統一派教会が
ベラルーシ中に激しく広がった。
リトアニア貴族は大部分、ポーランド化され、文化・言語・宗教的断絶が社会の上層と下層で生じた。
1696年、西ロシア筆記言語は最終的に公的に使用されなくなくなり、ポーランド語が取って代わった。
17世紀のベラルーシの文化活動は、非常に反宗教改革の影響を受け、これはイェズス会によって行われた。
17世紀のベラルーシ地域は絶え間ない争いで疲弊し、人口移動が起きた。
1648年のボフダン・フメルニツキーの反乱でも人口減少が生じた。
1632−1634年と1654−1667年のロシアとポーランドの戦争はウクライナ同様にベラルーシの北東と南部に
大きな影響を与えた。
1700−1721年の大北方戦争(スウェーデンとロシアを中心としそれぞれの同盟国が参加)でベラルーシの土地は
荒廃した。
18世紀には激しい農民反乱がおきた。
マグナートの無能と貴族の身勝手で、ブルジョア民主改革実行の条件が熟成された。
1764年、スタニスワフ2世アウグストがポーランド王となり政治改革を行うとしたが失敗。
貴族は共和国が直面している混迷に直面しなかった。
1768年、セイムは共和国の信仰の自由と宗教の平等、農奴の死罪禁止を決定。
これで、バール連合結成が促された。
反動的マグナート(領主大貴族)とシュラフタ(地主貴族)が一緒となり武装反乱を引き起こした。
エカチェリーナ2世の僕、スタニスワフ2世アウグストはロシアに支援を求めた。
反乱は鎮圧されたが、これは国家秩序の崩壊を招いただけであった。
1772年、ロシア、オーストリア、プロシアの間で、第1回共和国分割が、1793年、第2回分割が行われた。
1795年の第3回ポーランド分割でポーランドとリトアニアの連合は終焉。
第1回の分割でヴィテプスクとポロツクが、第2回でミンスクが、第3回で、国境はブレストに達した。
ロシアが獲得したベラルーシ地域はパーヴェル1世のもと、1796年、で
ベラルーシ・グベルニアに含まれ、
第一次大戦でのドイツ占領まで維持された。
(1802年、ヴィテプスクとモギレフ・グベルニヤに分割。)
1812年の愛国戦争(ナポレオンとの戦い)ではベラルーシ地域も戦場となった。
1830年、ポーランド化した、この地域のシュラフタは、11月蜂起に参加し、これでこの地域の非ポーランド化が生じた。
1839年、ポロツク会議で、1596年のブレスト合同が破棄され、ベラルーシとロシアの教会の統一が認められた。
これで、正教徒住民にザパードナ(西)・ルーシ主義が勢力を拡大、ベラルーシは西ロシアとされ、ベラルーシ人は3ロシア人
(大ロシア、小ロシア、ベラルーシ)の一つとされた。
1863−1864年、ポーランド王国と
北西部で1月蜂起(共和国回復)が起きたが、北西部では、
カストゥーシュ・カリノフスキ
の指揮する反乱は小作農には支持されなかった。
1911年、ゼムストヴォ(地方統治制度)が
西部グベルニア(ヴィテプスク、ヴォリン、キエフ、ミンスク、モギレフ、ポドルスク)に
採用された。
ロシア革命後のベラルーシ
第一次大戦で、ロシアは西部戦線でドイツに劣勢で、ほとんどのグロドノとヴィリナを失っていた。
2月革命後、ベラルーシで独立問題の議論が始まり、社会主義者、キリスト教民主主義者、ユダヤ人などのグループが、
1917年末に国民評議会を結成。ボルシェヴィキとドイツはこれと対立。
ドイツがミンスクを占領し、ボルシェヴィキとの
ブレスト・リトフスク条約(1918年)で、ロシアはベラルーシのかなりと
ウクライナのほとんどを放棄。
国民評議会は
ベラルーシ人民共和国BNR(BPR)樹立を宣言。これはモギリョフ、ミンスク、グロドノ、ヴィリナ、ヴィテプスク、
スモレンスクなどの広範な地域を領土と主張した。
一方で、ボルシェヴィキはヴィリナ、ヴィテプスク、モギリョフ、ミンスクで西オブラスチを形成。
ドイツの敗北で、ベラルーシとウクライナに力の真空状態が生じた。
1919年、ドイツ軍撤退で赤軍がスモレンスクで
SSRベラルーシを宣言し、SSRBはBPRと取って代わる。BPRは亡命。
1か月後に、これは解散され、スモレンスク、ヴィテプススク、モギリョフはロシアSFSRに併合され、残りは
リトアニア・ベラルーシSSRを形成。
同年、ポーランド・ソ連戦争が起き、ポーランド軍によってほとんどを失い、崩壊。
1920年、
ベラルーシSSRが復活。
1921年の
リガ条約で西ベラルーシがポーランド領となり、東ベラルーシ(ゴメル、ヴィテプスク、スモレンスクの一部)は
ロシアSFSRに属し、残りがベラルーシSSRとなる。
1924年、ヴィテプスク、スモレンスク、ゴメル・グベルニアがBSSRに移行、領土は倍以上となる。
1939年、
ポーランド東部を赤軍が占領し、BSSRに西ベラルーシ、USSRに西ウクライナが分割譲渡。
1941年、ナチス・ドイツがソ連に侵攻、ベラルーシは悲惨な状態となる。
第二次大戦中、ナチスはべラルーシに傀儡政権(中央ラーダ)を樹立しようとした。
すべてのベラルーシは1944年、8月末までに解放された。
1945年8月、BSSRとポーランドの新国境確定。
BPRの主張範囲、赤線は現在のベラルーシ
リトアニア・ベラルーシSSR(青線)
リガ条約での国境
モロトフ・リッベントロップ協定
1939年11月−1940年11月 1946年以降 緑はポーランドへ