コーカサスの歴史



[14] ウラルトゥとアルメニア

(1) ウラルトゥ

(1−1) ウラルトゥの歴史







 ウラルトゥは地理的地域として通常、アルメニア高地のヴァン湖中心に鉄器時代に栄えた王国に使用される。 
 王国の政治エリートの使用した筆記言語はウラルトゥ語と称され、楔形文字碑文でアルメニアと東トルコで見られる。
 王国時代にウラルトゥの人々によって話された言語は不明であるが王国形成前の初期にプロト・アルメニア語とウラルトゥ語が
接触した言語学的証拠がある。
 王国はBC9世紀中に興隆し、徐々に衰退し、BC6世紀初期にメディアによって征服された。その後、この地域には間もなく
アルメニアが出現。アルメニア人の初期の祖先はウラルトゥの人々と考えられる。

 ヘロドトスによるとマティエニとサスピレスとアラロディア人(アラロディオイ)はアケメネス朝帝国の第18サトラピで、
クセルクス1世の第2回ギリシャ遠征で特別部隊を形成した。アラロディア人はヴァン湖近くに住んでいたと考えられる。
 シャルマネセル1世はウルアトゥリの全地域を征服した遠征を記録している。

 ウラルトゥという名はアッシリア資料に由来する。
 シャルマネセル文献はウラルトゥを王国でなく地理的地域として使用し、ウラルトゥ内に含まれる8つの土地を名付けている。
 ウラルトゥは聖書のアララト、アッカド語のウラシュトゥとアルメニア語のアイララトと同根である。

 ヴァンの王国という名はウラルトゥの地名ビアイニリに由来する。

 BC6世紀のアルメニアの出現でこの地域の名は同時にアルメニアとウラルトゥの変化として言及された。
 ダリウス1世のベヒスタン碑文ではアッカド語ではウラルトゥ、古ペルシャ語ではアルミニヤ、エラム語ではハルミヌイアと呼ばれた。

<起源>
 アッシリアのシャルマネセル1世(BC1274−1245または1265−1235)の石碑(BC1274頃)にウルアルトゥリとして
ナイリ国家群の一つとして言及されている。
 ナイリはBC13−11世紀のアルメニア高地の小さな王国と種族国家の緩い連合でシャルマネセル1世によって征服された。
 ウルアルトゥリ自体はヴァン湖周辺領域にあった。
 ナイリ国家はアッシリアによるたびたびの攻撃と侵略で従属に陥った。
 特にトゥクルティ・ニヌルタTukulti-Ninurta1世(BC1240頃)、ティグラト・ピレセルTiglath-Pileser1世(BC1100頃)、
アシュル・ベル・カラAshur-bel-kala(BC1070頃)、アダド・ニラリAdad-nirari2世(BC900頃)、
トゥクルティ・ニヌルタ2世(BC890頃)、アシュルナシルパルAshurnasirpal2世(BC883−859)のもとで。
 ウラルトゥはBC9世紀にアッシリアの石碑にアッシリアの強力なライバルとして再出現し、北メソポタミアと北東シリアの南に
存在した。
 ナイリ国家と種族はアラムAramu王(BC860−843頃)のもとで統一王国となり、その首都アルザシュクンArzashkunは
アッシリアのシャルマネセルShalmaneser3世によって占領された。
 ウルアルトゥリの同時代には黒海南岸に沿って西にヒッタイトの資料で知られるカスカが存在していた。

<成長>
 中期アッシリア帝国はBC8世紀の前半の間、数十年停滞期に陥り、ウラルトゥの成長を助長した。
 短期間でウラルトゥは近東の最大で最も強力な国家となった。
 アラムの息子サルドゥリSarduri1世(BC832−620頃)は南からのアッシリアのシャルマネセル3世の攻撃の抵抗に成功し、
国家の軍事力を強化し、首都をトゥシュパTushpa(現代のヴァン)に移した。
 彼の息子、イスプイニIspuini(BC820−800頃)は近隣の国家ムサシルMusasirを付け加えた。
 ムサシルは後にウラルトゥ王国の重要な信仰センターとなった。(BC825年に神殿建設)
 イスプイニは今度はアッシリア王シャムシ・アダドShamshi-Adad5世(BC824−811)によって攻撃された。
 彼の後継者メヌアMenua(BC800−785頃)は王国を大きく拡大し、広範囲に石碑を残した。
 ウラルトゥはメヌアの息子アルギシュティArgishti1世(BC785−760頃)のもとで軍事力が頂点に達した。
 アルギシュティ1世はアラクス川とセヴァン湖に沿って領域を加え、シャルマネセル4世の彼への軍事行動を悩ませた。
 アルギシュティは多くの新しい都市を建設し、最も有名なのはBC782年のエレブニである。
 その盛期にはウラルトゥ王国は北はアラクス川とセヴァン湖を越えて、現在のアルメニアと現在のジョージアの南部を覆い、
ほとんど黒海沿岸まで、西はユーフラテス源、東は現在のタブリズ、ウルミア湖を越え、南はティグリス源まで拡大した。
 アッシリアのティグラト・ピレセル3世(在位:BC745−727)は彼の統治の最初の年(BC745)にウラルトゥを征服した。
 そこでアッシリアは騎手と乗馬用に調教された馬を見つけた。
 これはアッシリアの戦争用2輪車として馬具を取り付けたのと異なっていた。



<衰退と回復>
 BC714年、ウラルトゥ王国はキンメリアの侵入とサルゴン2世(在位:BC722−705)の遠征に非常に悩まされた。
 ムサシルの主要寺院は略奪され、ウラルトゥ王ルサRusa1世(統治:BC735−713)はウルミア湖畔で決定的に敗北し、
自殺した。
 ルサの息子アルギシュティ2世(BC714−685)はキンメリアへの立場を回復したがもはやアッシリアへの脅威でなく、
アッシリアの新しい王センナケリブとBC705年に和平を行った。
 これでウラルトゥは長い発展と繁栄の時期に入り、アルギシュティの息子ルサ2世(BC685−645)の統治を通して継続した。
 しかしルサ2世の後、キンメリアからの継続的攻撃とスキタイの侵入のもと弱体化した。
 その結果、アッシリアに従属するようになった。
 ルサ2世の息子、サルドゥリ3世(BC645−635)はアッシリア王アッシュルバニパルを彼の父と称した。

*ウラルトゥ・アッシリア戦争
 戦争はBC714年頃にアッシリア王サルゴン2世のウラルトゥ侵略で始まった。
 サルゴンはウラルトゥ深く多くの攻撃を行い、多くの勝利を得た。
 彼の死で、ウラルトゥ王アルギシュティ2世とルサ2世は多くの反撃に乗り出し成功し、失地を回復し、アッシリアから
一部領土を獲得。
 しかし彼らの後継者は何度かの敗北に苦しみ、ウラルトゥはアッシリアの従属国となった。
(背景)
 ウラルトゥはBC9世紀中に勢力が上昇し、1世紀内に後にアルメニア高地として知られる地域の多くを支配した。
 アッシリア王ティグラト・ピレセル3世はウラルトゥ王国の興隆を自分の国の安全の脅威の増大と考えた。
 アッシリア指導者は若い王国との直接対決でこの脅威を終わらせようと考えた。
(初期段階)
 BC714年、ウラルトゥはキンメリアの襲撃とサルゴン2世の遠征でひどく苦しんだ。サルゴン2世はムサシルの神殿を略奪し、
ウルミア湖の戦闘で、ウラルトゥのルサ1世はほとんど全面敗北。ルサ1世は恥で自殺した。
(ウラルトゥの反撃)
 BC706年のサルゴンの死でルサの後継者アルギシュティ2世は大規模な反撃に乗り出し、アッシリアを戦前の国境を越え、
深く、北西イランのアッシリア植民地まで追いやり、ムサシル、ウシュヌ、テペを含むウルミア湖周辺の主要な町と都市を再征服。
(アッシリアの勝利)
 アルギシュティ2世統治の初期の勝利の後、ウラルトゥはアルギシュティ2世の統治のその後と後継者ルサ2世に渡る長い平和と
経済的反映で特徴づけられる黄金時代を経験。
 しかしルサ3世は繰り返しアッシリアに敗北、これでウラルトゥはアッシリアの従属国となり、アッシリアの北方国境の緩衝国となる。
(余波)
 終戦後両国は長く持たなかった。アッシリアはBC627年以降一連の厳しい内戦に陥い、攻撃に曝されるままになる。
 BC612年、アッシリアの首都ニネヴェは以前の従属民、バビロニア、カルディア、メディア、ペルシア、スキタイ、キンメリアの
連合で包囲、破壊され、BC609年アッシリアは最終的に陥落。
 メディアとスキタイはついでウラルトゥに向かいBC590年頃破壊した。

<没落>
 ウラルトゥの碑銘によるとルサ2世の息子サルドゥリ3世に3人の王が続いた、エリメナ(BC635−620)、
彼の息子ルサ3世(BC620−609)。そしてその息子ルサ4世(BC609−590または585)。
 後にBC7世紀に(サルドゥリ3世の統治の間、またはその後)、ウラルトゥはスキタイとその同盟者メディアによって侵略された。
 BC612年、メディア王、キュアクサレスCyaxares大王(BC625−585)はバビロンのナボポラサールとスキタイと、
内戦で弱体したアッシリアを征服した。
 メディアはついで、BC585頃、ウラルトゥの首都ヴァンを占領し、ウラルトゥの主権は実質的に終焉。
 アルメニアの伝説では、メディアはアルメニアのオロンティドOrontid王朝創建を助けたという。
 この時期の多くのウラルトゥの廃墟は火事による破壊の証拠を示す。

 ウラルトゥはアケメネス朝でアルメニアのサトラッピとなり、後にアルメニア王国として独立。

 ウラルトゥには3つの主な神が存在し、その中心はハルディHaldiで神殿はアルディニArdini(ムサシル)にあった。
 ハルディは戦士の神で、王は戦争での勝利のためにこの神に祈った。その神殿は武器によって飾られた。
 彼はライオンに上に立つ、有翼あるいは無翼の男として描かれる。妻は豊穣の女神アルバニArubani。
 ある資料では、アルメニア民族の伝説的族長のハイクはハルディに由来するとする。
 他の重要な神はクメヌKumenu(クンマンヌ)のテイスパスTheispaとトゥシュパTushpaのシヴィニShiviniであった。
 テイスパスは天候の神、特に嵐と雷の神であった。牡牛の上に乗った稲妻の矢を持った男として描かれる。
 これはインド神話のインドラに対応する。時には戦争の神でもあった。彼の妻は女神フバHubaであった。
 シヴィニは太陽神で、跪いて太陽盤を頭上に掲げる男として描かれる。彼の妻はトゥシュプエアTushpueaと考えられる。
 有翼女性像がこの神と考えられる。
 他にはハルディの配偶神の女神バグヴァルティBagvarti、ウラルトゥでは一般的にアルバニがハルディの妻であるが、ムサシルでは
バグヴァルティを妻と言及する資料があるり、地域的である。
 その他は月の女神セラルディSelardi。

 ウラルトゥ語はフリ(フルリ)・ウラルトゥ語族に属すると考えられる。
 ウラルトゥ語の例はアッシリアの楔形文字の借用で多数の碑文が存在し、ほとんどウラルトゥ語で書かれている。
 固有の象形文字の存在も主張されるが明確ではない。(ルウィ語に使用されたアナトリア象形文字)

王統(BC)
初期
 858−844   アラム 
  アッシリアのシャルマネセル3世の時代に生き、アッシリア帝国の脅威に対し、ナイリ種族を統一。
  彼の首都アルザシュクンはシャルマネセルによって占領された。
 844−834   ルティプリ
  ヴァン石碑がサルドゥリ1世の父と主張している以外は不明。
興隆
 834−828   サルドゥリ1世
  ルティプリの息子。首都をトゥシュパに移動。ヴァンの要塞を拡大。
 828−810   イシュプイニ
  父のサルドゥリ1世を継承。帝国を拡大し、マンナエの都市ムサシルを征服し信仰センターとする。
  アッシリア王シャムシ・アダド5世の攻撃を打ち破る。
 810−785   メヌア
  父のイシュプイニの晩年に共同統治。
  王国を大いに拡張、多くの石碑を残す。
  中央集権支配を組織、多くの都市の防御を固め、要塞を建設。運河、灌漑施設を発展させる。
 786−764   アルギシュティ1世
  メヌアの息子。先行者の始めた征服を継続。
  アッシリア王シャルマネセール4世と何度も決着のつかない衝突を行う。
  シリア北部を征服し、ウラルトゥをポスト・ヒッタイトの小アジアの最も強力な国とする。
  王国を北、ヴァン湖に拡大、ディアウエヒの多くとアララト峡谷を征服。
  BC782年、エレブニ要塞建設、BC776年アルギシュティクヒニリ要塞建設。
  アッシリアの将軍シャムシ・イルはこの時代、6回ウラルトゥに軍事遠征を行っている。(仏語)
 764−735   サルドゥリ2世
  アルギシュティ1世の息子。版図を最大拡大、ウラルトゥの絶頂期。アッシリアを含む近隣諸国に遠征。
  トゥシャプに大きな壁を立て自己を賛美する文を書いた。
 735−714   ルサ1世
  父のサルドゥリ2世の後を継ぐ。
  彼の父サルドゥリ2世は領土を南東アナトリアまで拡大、アッシリアが短期間弱体化していた時に、種々のアナトリア地域を
 アッシリアから再奪取。
  ルサ1世が王座を受け継ぎ、アッシリアはティグラト・ピルセル3世のもと勢力を再結集、ウラルトゥをたびたび侵略、
 これはウラルトゥに大きな負担となる。サルドゥリ2世のときに得た領土を失い、アッシリアに貢納を余儀なくされる。
  ティグラト・ピルセル3世の死後、シャルマネセル5世の統治の間、ウラルトゥは反抗的になるが、長続きせず。
  BC722年王位についたサルゴン2世はウラルトゥに敵意を抱き、BC715年、ウラルトゥ・アッシリア戦争が始まる。
  ウラルトゥの同盟者マンナエ王国を打ち破った後、アッシリアはウラルトゥを攻撃、ルサ1世は決定的に敗北。
  ウラルトゥは再度従属を余儀なくされ、多量の貢納を負担。ルサ1世は戦後自殺。
衰退
 714−680   アルギシュティ2世
  父ルサ1世の後を継ぐ。
  ウラルトゥ・アッシリア戦争でアッシリアを戦前の国境を越えアッシリア中心深くまで追い返し、ムシャシル、ウシュヌ、テペを
 含むウルミア湖周辺の都市を再奪取し、南はティグリス川の都市ニムルド地域まで征服。
  これら勝利でアッシリアは長い平和とティグリス北の地域の譲渡を余儀なくされる。
  その後のアルギシュティ2世の統治は長い平和と経済的反映の黄金時代となる。これは彼の息子ルサ2世と孫サルドゥリ3世の統治
 までもたらされた。 
 680−639   ルサ2世
  アルギシュティ2世の息子。
  複雑な要塞カルミル・ブルールを建設。碑文にクヮルリニとイルダルニの間の運河を建設したことが記念されている。
 *(ロシア語ウィキペディア):ルサは多くのウラルトゥ碑文を残し、達成した建築を語っている。また同時代のアッシリア王エサルハドンと
 アッシュルバニパルの資料に多くが語られている。
 639−635    サルドゥリ3世
  アルギシュティ2世は14年の統治の記録をヴァンの岩壁に掘られた小部屋に記録したが、サルドゥリ3世はヴァン要塞の宝門に
 記録した。
  ウラルトゥは当時、西方でヒッタイトと接触、東ではミンニまたはマンニ、南部はウルミア低地。
  勝利の記録がセヴァン湖岸、ギュムリとエルズルムにある。
 635−629    エリメナ
  ウラルトゥの末期についての情報はほとんどない。エリメナはアッシリア資料では言及されない。
  ウラルトゥ資料でルサがエリメナの息子と言及。
  露語ではサルドゥリ3世(639−625)→サルドゥリ4世(625−620)→エリメナ(620−605)→ルサ3世(605−595)
 →ルサ4世(595−585)の順。
  仏語ではエリメナはサルドゥリ4世の兄弟で、これを継承とする。
 629−590(615) ルサ3世
  エリメナの息子と呼ばれるが、彼の統治はほとんど不明。
  ルサ3世の時代、BC609年、メディアとバニロニアの猛攻でアッシリアが終焉。
敗北と破壊
 615−595   サルドゥリ4世
  ルサ3世の息子、統治についてはあまりわからない。
  王国は南、東、西からアッシリア勢力に、東はメディアによって北はスキタイによって侵略された。
 (露:首都をトゥシュパからテイシェバニに移した。)
 595−585   ルサ4世
  ルサ3世の息子。名前は多くの粘土板に記録されているが統治についてはほとんどわからない。


<参考> アルギシュティ1世とサルドゥリ2世の北方遠征(ルネ・グルセのアルメニア史)

 エティウヒ
  イシュプイニとメヌアは既にエティウヒ(エティウニ、ウテルヘ)に遠征。
  アルギシュティ1世はエティウヒとウルアニの国の都市ダラニへの勝利に言及。
 エティウニ
  アルギシュティ1世はエティウニの王ウドゥリを破りアルギシュティキニの町を築いた。
  BC750年頃、サルドゥリ2世はこの国に遠征した。

 アルギシュティ1世(BC786−764)
  彼の治世に、ハルディ信仰はウラルトゥの主要な神であり続けた。
  またムサシルの神テチェバとアルディニがウラルトゥによって採用された。
  軍事遠征を13年間行った。
  北方で、現在のサルカムシュ(カルス県)を征服、ディアウエヒ(ヴァナンドまたはカルス地域)の王イトゥプルチを退位させ、
 アフリアニ(アニ地域)、エティウニの国(アニとエレヴァンの間)、ここではウドゥリ王を破り、アルギスティキニ
 (アルギシュティヒニリ)の都市を築いた。
  シラク地域(アイララト県)のエリアキ王国、イチュクグル王国(アレキサンドロポル地域)とキエクニの国(Ixtamani 湖の北)に
 遠征。
  南方ではアッシリア摂政サンム・ラマト、後にシャルマネセル4世のフブシュキア遠征に直面。(BC785−774)
  アルギシュティはマンナエを6年間攻撃、そこではアザ王はアッシリアと提携、最終的に王を捕獲し、BC780か779年に
 マンナエは従属国となった。
  彼はまたフパXupa(ソフェネ)とハティKhati(マラティヤ−カルケミシュ)に侵攻。

 サルドゥリ2世(BC764−753)
  彼はサルドゥリクルダの都市を築いた。
  彼の遠征は北東では、ドグバヤズト(セヴァン湖西)の北方地域のトゥリク(セヴァン湖南西)の王シナリビ、
 ウリクキ(ヴァン湖西)の王ムリヌ、そしてザガル地域ではアルグキウの王。
  エティウニ(エリアキ南)、アイアララトとエリアキ(アラクセスの北、チュルドゥル湖とセヴァン湖の間)にもまた遠征した。
  北方ではチュルドゥル湖地域のマカルトゥの国(チュルドゥル湖南西)、北西ではコルカ(クルハ)種族の支配する地域に到達。
  南方はアッシリアに向かい、マンナエに戻った。
  南西ではトゥメイチュキTumeichki(トミサ)とカウリ(ガウレク、ハルプルトとマラティヤの間)を従属させた。
  ハテ(ハティ)に戻り、ヒラルアダ(ヒラルワダ)の王を破り、その首都に入った。
  首都を占領したクンムフの王クシュタショイから貢納を得てた。
  グルグム王とサマルの王国(ジンジルリ)を服従させた。
  新しいアッシリア王ティグラトピルセル3世がウラルトゥに服従する国境地域に対し攻撃し始めた。
  アレッポの北、アルパドを攻撃。
  サルドゥリは提携するクンムフ、メリタルキ(マラティヤ)そしてグルグムと出陣したが、ユーウラテス岸のルムカラで
 ティグラトピルセル3世に敗れる。
  ディヤル・バクル、ボフタン、バトマン、ハルプルトとクンムフ地域はアッシリアに渡る。
  BC736年、アッシリア王はウッリバの国(サスン)を服従させ、翌年ウラルトゥに侵攻、抵抗するトゥシュパを苦しめた。
  アッシリアはフブシュキア、ムサシルとマンナエを支配しようとしたが成功せず、これらは依然ウラルトゥに忠誠だった。
  彼はBC753年頃死亡し、ルサ1世が継承。


 比定は確定的ではない。




 筆記資料
  アッシリアはBC13世紀から8世紀
  BC7世紀のバビロニア年代記
  ヒッタイト象形文字文献に短い言及
  ウラルトゥ碑文、主にアッシリアから借用された楔形文字

 ウラルトゥの国の名前
  ウラルトゥUrartu:アッシリアの資料から、BC8世紀から使用。アッシリアとバビロニアの碑文、変形はウラトゥリUratri。
  ビアイニリBiainili:自称とウラルトゥ種族の連合が最初に起こったこの国の内部の地域の名前。
  ヴァン王国:学者が使用。
  ナイリの国:ナイリはウラルトゥ地域に住んでいた種族グループの初期アッシリア名。BC13−11世紀に生じた。
        フリ人とする学者もいる。
  アララト:聖書文献で使用。アッカド語ではウラシュトゥ、アルメニア語ではアイララト
  アラロドの国:ヘロドトスはウラルトゥ人をアラロディアの名で言及。
  ハルディア:古代歴史家によって言及されたハルダエフKhaldaevとウラルトゥを同一視する歴史家もいる。


対応するアッシリア王 
中期アッシリア(部分)
 BC1380−1353 エリバ・アダド1世

 BC1263−1234 シャルマネセル1世
  彼の登位に際し、ウルアドリ(おそらくウラルトゥ)が反乱し、この地域に遠征。
 BC1233−1197 トゥクルティ・ニヌルタ1世
  彼が支配した地域にはスバルトゥアルズィナイリが挙げられている。
 BC1115−1076 ティグラト・ピレセル1世
  BC1112年、ムシュキに遠征、ついでコンマゲネと東カッパドキアを凌駕し、マラティアの北東のスバルトゥからヒッタイトを
 追い払った。
  引き続きヴァン湖の南の山岳地帯に侵入しついで西へ転進しマラティア(メリド)を征服。
 BC1074−1056 アシュル・ベル・カラ
  彼は最初の年に北のウラルトゥに遠征。
 BC934−912 アシュル・ダン2世
  失ったアッシリアの土地を取り戻した。山岳地域に沿った北方地域への遠征を主に行った。

新アッシリア
 BC912−891 アダド・ニラリ2世
  新アッシリアの最初の王。アラム人を征服し、新ヒッタイト諸国とフリ人を征服。バビロニアを破った。
 BC891−884 トゥクルティ・ニヌルタ2世
  ナイリのウラルトゥ人に軍隊派遣。
 BC884−859 アシュル・ナシル・パル2世
  ナイリまで征服。
 BC859−824 シャルマネセル3世
  カルカルの戦い。BC853年、シリアの諸王(12王?)との戦争。
  BC832年、ウラルトゥに軍事遠征。 
 BC824−811 シャマシ・アダド5世
  登位に際し継承を巡って内紛(BC827−822)が起き、この際、ウラルトゥ王イシュプイニがウルミア湖周辺に侵攻し、
 ギルザンなどを併合。
  BC822年にナイリに遠征、BC821年にはイシュプイニと戦い要塞や都市を破壊。
  彼はメディアやマンナエにも遠征。
 BC811−783 アダド・ニラリ3世
  BC802−801年頃、メヌアがマンナエを支配、アダド・ニラリは彼とヴァン湖の南、フブシュキアで何度か戦う。
 BC783−773 シャルマネセール4世 父アダド・ニラリ3世
  記録はほとんどないが、数回、ウラルトゥ遠征をおこなったとされる。
 BC772−755 アシュル・ダン3世 父アダド・ニラリ3世
  宮廷の混乱と疫病で困難な時代。
 BC755−745 アシュル・ニラリ5世 父アダド・ニラリ3世
  サルドゥリ2世に敗れる。
 BC745−727 ティグラト・ピレセル3世 父アダド・ニラリ3世を呼称するが不明。
  近東の多くの地域を従属させた。ウラルトゥ、ナイリも従属。
 BC727−722 シャルメネセール5世
 BC722−705 サルゴン2世 
  BC714年、ウルルトゥに侵攻、ルサ1世と戦う。ウラルトゥ・アッシリア戦争の開始。
 BC705−681 センナケリブ
  バビロンとユダ軍事遠征で有名。
 BC681−669 エサルハドン
  BC673年、ルサ2世のウラルトゥを攻撃。
 BC669−631、627 アシュルバニパル
  ウラルトゥ含む広大な地域を従属させる。
 BC631−627 アシュル・エティル・イラニ
  アシュルバニパルの死後、提携していたスキタイ、キンメリア、メディア、ペルシアが反乱を起こし、アッシリアは衰退に向かう。
 BC626 シン・シュム・リシル
  簒奪王。
 BC627−612 シン・シャル・イシュクン
  カルデア、バビロニア、メディア、ペリシア、スキタイ、キンメリアの脅威に晒される。
  BC616年、ナボポラサルがメディア王キュアクサレスと提携。
 BC612−608 アシュル・ウバリット2世
  アッシリア最後の王。


(1−2) アッシリアとウラルトゥの緩衝国

 アッシリアとウラルトゥの間には西から東へスブリアSubria(アッシリア名、ウラルトゥではクルメリ)、クメKumme
ウックUkku、フブシュキアHubushkia、ギルザヌGilzanu、ムサシルMusasir(Ardini)といった小国の緩衝国があった。
 クメはヴァン湖の南方、ウックはクメの東、ギルザヌはウルミア湖の南または西岸、ムサシルはギルザヌの南、フブスキアは
ムサシルの西に位置し、西からスブリア、クメ、ウック、フブシュキア、ムサシルと並び、フブスキア、ムサシルの北にギルザヌが
位置した。
 ムサシル東方にはウルミア湖を挟んでジキルトゥがあり、その南方にはマンナエが位置した。


 スブリア、クメ、ウック、ムサシルの推定地

クンムフ
 ネオ・ヒッタイト王国で、北はメリド(カンマヌ)、西はグルグム、南はカルケミシュ、東はアッシリア位置した。
 BC709年までにアッシリアが併合。

カンマヌ
 ルウィ語を話すネオ・ヒッタイト王国でクンムフの北に位置する。その中心都市はメリド
 東にアッシリア、北東にウラルトゥが位置した。
 マラティヤ平原にあり、タウルス山脈の北、ユーフラテスの西にBC2000年末にキズワトナから形成された。
 メリドは鉄器時代のイスワの中心地域であった。
 メリドはBC712年アッシリア王サルゴン2世によって略奪された。同時にキンメリアとスキタイのアナトリア侵攻でこの都市は
衰退した。





(1−3) アラロディア人Alarodian

 ヘロドトスが言及する古代人で、ヴァン湖近くに住んでいたと考えられる。
 マシスティウスはペルシャ人騎兵司令官でギリシャへの第2回侵攻で、クセルクスのサスペリア人とアラロディア人分隊を指揮した。
 ストラボンによるとアラロディア人は古代カリベスChalybesで、後にカルダエイChaldaeiと呼ばれた。
 第18サトラピはアラロディア人、マティエニサスピレス



(2) アルメニア前史

(2−1) アルメ

 アルメ(ウルメ、アルマニなど)はBC13−11世紀のサスン山脈ヴァン湖の南西の南西アルメニア高地の
ルウィ・フリ政治体(王国)。
 15−12世紀に北西アルメニア高地にあったハヤサ王国とともにBC18−16世紀にアルメニア高地の西にあった
アルマタナの後継。

 ヒッタイトの脅威に直面し、ハヤサ王国がアッズィの住民と提携したときに、アルメはシュプリア国との国家連合を形成。
 学者はアルメという名をアルメニアという名と結びつける。
 アルメ・シュブリアとメリド・カンマヌ国は疑いもなくアルメニア民族形成の核でアルメニアの国家出現に重要な役割を演じた。

 アッシリア人にはアルメはシュブリアと同一視された。アルメの中心はネヘリア(ナイリ?)の都市でティグリス上流の峡谷に
位置した。アッシリアの資料はシュブリアの中心をウップム(ウッブム)の都市をクルメリKulmeri(アッシリア:クッリメリKullimeri)
の都市とともにウルメの中心と考えた。
 BC13世紀までアルメ・シュブリアの住民はウラルトゥ人に近いフリ種族を構成し、ルウィ人と混合した。

 BC13−12世紀にムシュキ種族(トラキア・フリギア種族)はヒッタイト帝国崩壊後、アルメニア高地の諸国に浸透し始め、
またアルメ・シュブリアにも入った。
 BC13隻以降のアルメニア高地諸国の主な危険はアッシリアとなった。
 北メソポタミアを要塞化し、アッシリアは奴隷と家畜を求め、山岳地帯に侵攻し始めた。
 アルメ攻撃の碑文は13世紀に遡り、シャルマネセル1世のアルメとウルアルトリの国への遠征に言及している。
 碑文はBC1256年のシャルマネセル1世のアルメとの厳しい戦いに言及。
 アッシリアは海の民に属するトラキア・フリギア人をムシュキと一緒のアルメ・ウルミア人を混同し、ムシュキまたはウルミア人と
呼んでいる。
 アッシア年代記によるとムシュキは地域住民と提携しアッシリアに戦争をしかけた。
 BC9世紀の初めにアッシリア碑文はムシュキとウルミの種族(ウルミア人)を同じ地域の農耕種族と言及している。
 12世紀にはアルメの国はすでにウルミの名でティグラトピルセル1世碑文と言及されている。
 ティグラトピルセル1世(BC1115−1077)碑文はウルミア人とハッティ勢力のアルズィの諸国の侵攻と50年前のムシュキ
によるプルルムツィ占領を報告。
 BC12世紀からシャムシ・アダト2世によって載せられたナイリ諸国の名簿にアルメの名が再び登場。
 アッシュルナシルパル1世碑文では彼がトゥシュヘのシュプリア、ニルバとウルメの国から貢納を受けたことが述べられている。
 アルメ・シュプリアのようなメソポタミアの北に位置する諸国は彼らの強力化を利用し、BC10世紀に再び侵攻に乗り出した
アッシリアを反撃したことが知られている。
 ムシュキとともにアルメ・シュブリアと他のアルメニア高地の人々とナイリはBC9世紀にウラルトゥの勢力下に入った。
 エサルハドンはBC674年にシュブリアに遠征し、服従させた。
 アッシリア王はウップム、クッリメリとその他のシュブリアの要塞を奪った。
 アルメ・シュブリアの王は退位させられ、BC673年から約30年間アッシリア王エサルハドンに征服された。
 アルメ・シュブリア、メリド・カンマヌ、アルズィと他のアルメニア高地の諸国は再び独立した。
 現在ではアルメニア国家の始まりはウラルトゥとアッシリアの崩壊期に遡るだけでなくもっと深く、その原初はアルメ・シュブリア王国
であることが認められている。
 アルメニア高地のフリ人、ウラルトゥ人とルウィ人国家はアルメニア国家の核と考えられ、そしてこれらの諸国はアルメニア人に近い
民族グループによって形成されたのではないが、そしてその子孫はアルメニア人形成に加わったが、彼らはアルメニア人と別の言語を
話していた。

 アルメの国は地域連合をもたらし、これはムシュキ王国、パフフヴ(パッフブ)の国、ツフメ、テガラマ、メリド・カンマヌ、イスワ
シュプリアアルシェ(アルズィ)、プルルムツと他の諸国を含んだ。
 連合はウラルトゥの弱体化(BC6世紀)を利用し、その政治的遺産を奪った。
 アルメとムシュキの両者の混合は非常に重要な要因で、ウラルトゥの南に、始め地域連合として、ウラルトゥ・フリ亜層に
支配的言語を形成した。


(2−2) アルマタナ

 楔形文字で知られる国あるいは地域で、ナイリ(ウルミア人)の仮想的祖郷とされる。
 名前はアルマ神(ヒッタイトとルウィ人の月神)に結びついている。

 ヒッタイトのトゥドハリヤ3世はアルマタナの国との戦争に失敗し、アルマタナは国境を南西方向に広げた。
 アルマタナの国の戦士はキズワトナ王国の国境に達した。
 トゥドハリア3世の息子のスッピリリウマ1世はアルマタナを攻撃したが、結果は不明。
 アルマタナはミタンニと提携し、ミタンニはエジプトと提携したことによりヒッタイトの状況は悪化し、ヒッタイトは戦争で弱体化し、
地域を失ったが、どんな状況でも、エジプトとの衝突は望まなかった。


(2−3) アルマヌム

 アルマヌムはアッカドとエブラ楔形文字資料で言及される国。政治史は主にアッカド資料から知られる。
アッカド資料
 良く知られたアッカド人王ナラム・シンの楔形文字資料によると、彼はこの国が彼に反乱したと言及。
 アルマヌムは北のどこかであるが、はっきりしたことはわからない。
 ナラム・シンは厳しい敗北を経験した、彼はアルマヌヌ(ヒッタイト文献ではウリヴァンダ近く)を含む70王連合の3度、軍隊を
送ったが、ひとりも生きて戻らなかった。ウリヴァンダは現在のディアルバクル地域である。
 同時にナラム・シンの敵はウムマンマンダ(マンダ軍)と言われる。この言葉は後にヴァンとウルミア湖地域の北東諸国の住民を
言及するのに使用される。
 別の碑文では彼は、神は自分にアルマヌムとエブラ−銀の山脈と上の海、を与えたと述べている。
 タウルス山脈はエブラの北方領土の一部であった。上の海がアルマヌムの属すると考えるのは論理的である。
 上の海は明らかにヴァン湖である。
 またある楔形文字資料ではナラム・シンはシムルムを征服し、これは北メソポタミアに位置する、シムルムとアルミの支配者を
捕獲した。これはシムルムがアッカドとアルマヌムの間にあることを意味する。
 ナラム・シンはアルマヌムとエブラの征服者とも自称している。
 他の碑文から判断すると、ナラム・シンは完全にエブラとアルマヌムを破壊し、その最後の王イッビ・ザキルのエブラ王国を破壊した。
エブラ資料
 エブラのアッカド時代での破壊は考古学的に確認されている。
 アルマヌムはエブラ文献ではこの名で言及されていないが、これはおそらくしばしば言及されるアルミと同一視される。
 アルミは都市エブラードゥルの方向にあると言及される。ドゥルはウルスの後ろ、イリディとハランの前である。
 これによるとアルマヌムは現在のウルファ地域にあると考えられる。
 エブラ資料のアルミはいつもアルメニア高地かこれに非常に近い都市の領域に出現する。
 エブラ宮殿文庫の軍隊の名は半世紀後のアッシリアの交易文書に出現するインド・ヨーロッパ人アナトリア人の個人名に似ている。

 位置については、北シリア説、ザグロス山脈のアンマン・アカラスリと同一視説、最も最古のアルメニア説などがある。


(2−4) アルミ(シリア)

 アルミは北シリアに位置するBC3世紀末の重要な青銅器時代の都市王国である。
 アルミについての知識はエブラ銘盤から来る。これはアレッポとタル・バジと同一視されている。
エブラとの関係
 アルミはエブラ文献でもっともしばしば言及される都市。アルミはエブラの従属王国であった。
 アルミは交易の中心ででエブラへの交易の中継基地であった。
 しかし、両都市の関係は複雑であった。いつも平和的というわけではなかった。
 エブラ文献は両王国での贈り物の交換と戦争に言及している。
 エブラとアルミの関係はエブラとマリとの関係より劣らず複雑である。
 エブラはナガルとキシュと通婚しているがアルミとは証明されない。
 その最後の時代に、エブラはナガルキシュと提携し、大軍事遠征をアルミに行い占領した。
没落
 エブラの破壊後、アルミへの言及はない。
 アッカドのナラム・シンはアルマヌムとイブ・ラを征服し、アルマヌムの王を捕獲したと述べている。
 アルマヌムをアルミと同一視する学者がいるが、これが事実ならこの出来事はBC2240年頃に遡る。
 ともかく、エブラとアルミ含む全北シリアはナラム・シン時代にはアッカド帝国の支配にあったことは明白である。
アルマヌムとアルミ
 ナラム・シンはアルマナム攻防、その壁の破壊、その王リド・アダドの捕獲について長い描写を行っている。
 ナラム・シンは彼が略奪したエブラはアルマンの土地の境界の都市であることをはっきりさせており、一方、エブラ銘盤のアルミは
エブラに従属しており、シリアのエブラはナラム・シンの治世にずっと以前のBC2290年に焼き払われた。


(2−5) アルマニ

 アルマニまたはアルマヌムはアッカドのサルゴンとその孫のナラム・シンによってイブラからビト・ナニブに広がると言及される
古代王国で、その位置は非常に論争となっていて、のちのアッシリア碑文に言及され続けた。
位置
 シリア説:アルマニはイブラとともに、サルゴンの地理的条約で言及された。これで一部の歴史家はイブラをシリアのエブラ、
アルマニをシリアのアルミと同一視した。
 メソポタミア説:ナラム・シンは彼が略奪した(BC2240年頃)イブラはアルマニの土地の境界都市で、一方、エラブ銘盤の
アルミはエブラに従属。
 アルマニはサルゴンの条約で、西に位置するシリアのエブラと対照的に、アッシリアとバビロニアに位置する、または東に隣接する
地域と言及される。後のアダド・ニラリ1世はアルマニをアッシリアとバビロンの間の境界のティグリスの東に位置すると言及。
 アッカドのアルマニとシリアのアルミの同一視に反対の歴史家は、アルマニを(アッカドのイブラとともに)北イラクのハムリン山脈の
北に置く。
 タル・バジTall Baziの位置がアルマヌムの位置に示唆される。

歴史
 サルゴンによってはじめてアルマニの土地が言及された。ナラム・シンはこの都市への勝利と破壊を誇った。
 彼は碑文で彼の攻防とアルマニ王の捕獲の詳細を述べた。
 アルマニは後にナラム・シンに反乱した諸都市のひとつとして言及された。
 中世アッシリアとカッシート期に、アルマニの土地はティグリスの東に位置すると言及された。
 シャルマネセル3世はハルマン征服に言及するがハルマンとアッカドのアルマニ(アルマン)の同一視は疑わしい。


<参考> テガラマ

 テガラマは青銅期のアナトリアの都市。
 この都市は宮殿、カルム(交易拠点)とアッシリアの居留役所を含む。
 交易において重要で、錫、繊維、羊毛、奴隷とワインを含んだ。
 この都市は古アッシリア帝国とヒッタイト帝国の間に人が住んだ。
 トゥドハリヤ3世の治世初期にイスワによって略奪された。
 ヒッタイト王スッピルリウウマ1世のミタンニへの勝利遠征の間に、カルケミシュの攻撃と占領前に、彼はテガラマに留まりその軍勢を
観閲した。
 正確な位置は議論されている。南東アナトリア、中央アナトリア、歴史的に移動などの諸説がある。
 聖書のトガルマフ(ゴメルの息子、ヤペテの孫)と結びつけられることがある。


(2−6) アッズィ(アッツィ)

 ヒッタイトによって課せられた脅威に直面し、BC15−12世紀に、ハヤスの人々と種族連合を形成した古代の人々。
 アッズィ種族はアルメニア高地の北西に住んだ。アッズィ王国はまた黒海に出入りし、沿岸に要塞を持った。
 古代アッズィ・ハヤス王国を基礎に小アルメニア王国が形成された。
 今は、アルメニアの国家の始まりはウラルトゥとアッシリアの崩壊の時期に遡るのではなく、更に深い。
 アルメニア高地地域のフリ人、ウラルトゥ人またはルウィ人国家がアルメニア国家の核と考えられ、これら国々は
アルメニア人に近い民族によってのみ形成されたのではなく、アルメニア人と別の言語を話す人々の子孫もアルメニア人に加わった。
 アッズィ・ハヤスの指導者(王)の子孫が古代西アルメニアのナハラル氏族アイゼナカンである可能性がもっともある。
 アッズィの国は古代ルウィ人のツフメ(スフマ)の誕生場所であった。
 北はカスカ種族と境し、北西はハリブ(ハリベス)種族と境する。
 ツフメの人々が北西アルメニアのアルメニア種族の祖先で、ハリベスがカルトヴェリ種族の祖先で、カスカが多くの北コーカサス種族の
祖先であるという仮説がある。
 カルトヴェリの人々はアルメニア人をソメヒと呼び(?)、一部の北コーカサスの人々はアルメニア人とその国をツィアムフと呼ぶ。
 この説は聖書のアルメニア人と多くのコーカサスの人々がトガルマに由来するという説に反響する。


*参考 ⇒ハヤサ・アズィ


<参考> ソムヒティ

 ソムヒティは、中世と近代初期ジョージア歴史資料が一方で、アルメニアを、他方で、デベドとフラミの峡谷に沿うアルメニア・
ジョージア境界地域を呼ぶ、あいまいな地理的用語。
 18世紀にアルメニアのジョージア人の呼び名としては、ソムヒティはほぼソムヘティ置き換えられたが、しばらく、現在は
アルメニアのロリとジョージアのクヴェモ・カルトリに分割された国境地域を指し続けた。この入り組んだ土地は19世紀ヨーロッパ
資料ではときどきジョージア・アルメニアと呼ばれた。
  民族的に混合したソムヒティの民衆はジョージア人にソムヒタリとして知られ、アルメニア人は一般にジョージア人をソメヒと呼ぶ。
 (*ロシア語のアッズィの説明と逆。)
 ソムヒティ(ソムヘティ)は現代学者によってアッシリアとウラルトゥの記録でユーフラテス上流の沿って位置づけられた古代の土地
スフミまたはソフミに由来すると推定される。



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