<アメリカ(米国)の学生運動>


アメリカの学生組織〕 歴史  NSFA  NSA

 国際学生連合に参加した学生によりアメリカ全国学生連合NSFAが1925年に結成され1941年頃まで存在。
 NSFAではエドワード・ムローらが活躍。NSFAの加盟大学は学生政府によって代表した。
 大不況時代の1930年代アメリカで学生運動が盛期を迎える。
 NSFAは平和問題で分裂。人種問題も抱えていた。

 US学生会議USSAが1943−1947年まで存在。これは個人参加組織でアメリカ学生連合ASU(1935−1941年)の跡を継いだ。
 メアリー・ルー・ロジャースが初代委員長。第2代アリス・ホートンは国際学生連合結成大会参加。

 NSFAは学生政府の連合として1925年結成。国際学生連合に参加。1930年エドワード・ムローが委員長となる。
 1926年の最初の完全協議会には200の学園が代表を送る。1933年まで参加は150校となる。第二次世界大戦中解散。

 1946年米国やその他37カ国の学生が国際学生連合結成のためプラハに集まった。
 プラハから戻った学生たちは学生組織の再出発の必要性を確信し、12月シカゴで計画集会を開催、全国継続委員会が設立され
テキサス大のジェームズ・スミスが委員長となる。翌年夏マディソンのウィスコンシン大でUS全国学生協会NSA結成大会を開催。
 351の大学から700を超える代表が参加。ビル・ウェルシュ(ベレア大)が初代委員長となる。クリフトン・ホワートン(ハーバード大)
が重要な役割を果たす。
 指導者の多くはリベラルで1947年学生民主行動SDAを結成した。そのほかキリスト教学生やカトリック学生が参加した。
 NSAは初期には学園周辺で、学生政府を強化にしながら、アメリカの学園の市民権高揚、高等教育入学拡大へ関心を
向けた。
 NSAの権利憲章はアメリカ学生運動の歴史の一里塚であった。学生は大学で成人として尊敬に値する。
 当初からあるものは協会は政治にかかわるのを避けるべきであるとし、あるものは加盟は学生に影響するいかなる問題に
接近する権利があり、全国問題を考える義務があることに満足していた。
 NSAは初期に政治的と非政治的活動の区別することは容易でないことを理解した。
 最初の会合で教育分離に反対を表明したときと、そして1948年アフリカ・アメリカ人のテド・ハリス(ラ・サル大)が委員長になったとき、
一部のメンバーが去っていった。
 1951年長い議論の後マッカーシズムを非難し、1953年南アフリカのアパルトヘイトを非難したが大学でしか反響はなかった。
 このような注意深いリベラル主義は左右から批判され、保守はNSAを共産主義者の前線と非難し、共産党はファシストと否定した。
 1950年代財政難に陥り、1951年は5人のスタフのうち3名を削った。
 冷戦が進行し、特に国際学連IUSが共産陣営についてから米国政府は学生政治に関心をもった。
 NSAは広い学生の声を含んでいたが、指導グループは一般的に穏健で、NSAと政府の関係は良好であった。
 アラード・ローウェンスタイン(1950−1951年第4代委員長、北カロライナ大)、ウィリアム・デンツァー(1951−1952年委員長、
ムスキンガム大)らが国際学生連合IUS対抗組織結成に動き、CIAから資金提供を受けた。
ローウェンスタインは自分は最後まで知らなかったと主張。)
 NSAは国際学生連合から分裂し、1950年国際学生協議会結成。
 このような文脈でCIAは1950年代初期NSAの国際事務局と働き始め、資金供与を始めた。
 10年以上NSA幹部とスタフはCIA役人と密接に活動し、一方で他のNSA幹部はひたすら国内問題だけに活動し、
闇に隠していた。
 1950年代末までにNSAは政治的により活動的になり、1959年コンスタンス・カリーを雇い、アトランタに市民権事務所
を開設。
 1960年初期南部に分離反対運動が広がったとき、カリーは活動家に資金と理論的支援を与え、学生非暴力調整委員会
SNCCが組織されたとき最初の白人執行部メンバーとなった。
 1960年の最盛期にはNSAに400以上の学校が加盟したが、財政の多くは国際活動に使用され、NSAはこの資金をいくつか
の資金源に頼ることができた。
 NSAは内外向けで2面の顔を持っていた。
 1960年代学生運動の波でNSAは活発な役割を果たした。
 多くの民主社会学生連合SDS創設者(トム・ハイデンら)がNSAを通して全国活動に参加した。
 SNCCとSDSはしばしばNSAの全国執行部の穏健性を批判したがNSAからの参加者、名声、全国交通網に頼った。
 同時に右翼のNSA批判が厳しくなった。
 1961年会議で新しく結成された自由青年アメリカ人ウィリアム・バックレイ)はNSAが極左に支配されているとして
権力掌握を試みた。
 1966年カリフォルニア下院議員は議会で、国務省がNSA委員長のベトナム旅行資金を提供していたことを認めたこと
を引用しNSAを攻撃し、アメリカの外交を破壊する急進組織を支援することを国務省がやめることを要求することを考えることを
議会に急き立てた。
 1960年代中期までに多くのNSA役員はCIAとの結びつきで動揺させられ、組織は当局から解き離れる手段を採り始めた。    
 1966年末までにCIAの資金提供はわずかなり、関係ほとんど崩壊した。
 フィル・サーバーン委員長の1967年、事実は雑誌により他の組織とCIAとの関係とともに暴露され(以前の委員長で当時の助言者
マイケル・ウッドが雑誌城壁に暴露)全国スキャンダルとなった。
 ハリー・ルーン(1954−1955年委員長)は1967年までCIAと結びついていた。
 このような醜聞の発覚からNSAはよみがえった。
 1967年会議はブラック・パワー運動支持を決議し、冷戦で結成された国際グループからNSAは撤退した。
 委員長選でサム・ブラウン敗北。
 (1950年NSAなどが結成した国際学生協議会は国際学連との競争に敗れ1969年崩壊)
 代表は学生パワーと大学改革への組織の参加を更新し、テレビがNSAを左翼急進主義と評したとき喝采した。
 同じ会議で米国政治史上最も特異な運動のひとつに乗り出した。以前の委員長で民主主義活動家アラード・ローウェンスタイン
はNSAを1968年大統領選でリンドン・ジョンソンが再指名されないための運動を主導するように説いた。
 この運動はユージン・マカーシーロバート・ケネディー(1968年暗殺)を候補とし、ついにジョンソンは撤退した。
 (民主党はヒュ−バート・ハンフリーが候補となり共和党リチャード・ニクソンに敗北)
 NSAは今や過去には余り目を向けていなかったメンバーに手を差し伸べ始めた。
 1969年会議でゲイの権利と有色活動家支援へ乗り出した。1971年には最初の女性委員長マーグ・タバンキンを選出。
 それまでの10年間NSAを導いてきたリベラル−左派連合の思想は暗殺、政府の野蛮行為、戦争継続によるNSAメンバーの
急進化で緊迫してきた。
 1970年代にはSNCCは消え去り、SDSは崩壊し、NSAは社会改革のためより急進的になった。
 1972年NSAの委員長は戦争犯罪裁判の基礎作業を据えることを期待し、米国の国際法違反の証拠集めのため北ベトナム
に行った。このような行動でNSAはニクソンの敵名簿にのることになり、活動家との分裂も惹き起こした。
 1971年合法的組織化への焦点化欠如に不満なカリフォルニアの学生が分裂。彼らは全国学生ロビーNSLを結成。
 NSAを取り巻く状況は保守化していた。1974年NSAは非政治活動のため別の財団を設立。
 1975年キャシー・ケリー委員長となる。
 この動きでNSAはよりロビー活動に参加するようになり、全国学生ロビーNSLとの協力が進んだ。
 1978年全国学生ロビーNSLと合同しUS学生協会USSAが結成される。
 全国第3世界学生連合(のちの全国有色人民学生連合NPCSC、1976年結成のUSSA内組織)で学園代表の多様性を保証
するため新指針が提案された。
 このあとUSSAは種々の問題で合法的勝利を勝ち取った。財政的に安定し、これで新たなサービス提供が可能となった。
 1980年代初期USSAは州学生協会に組織的支援を与え始め、1985年第1回学園指導者のための草の根週末組織化GROW
の共同主催者となった。
 1989年USSAは多様性指導部に踏み出した。大会ではUSSA執行部の半分に有色の人々が指名された。
 NPCSC代表の多様性で非急進グループの多数派が保証され、組織の高度な人種を横断する交通と組織化が可能となった。
 引き続く同様な改革で女性、レズビアン、ゲイ、バイセクシャルの幹部が保証された。


反搾取工場学生連合USAS 歴史
 1990年代中期に米国の衣服市場向けに生産する世界の搾取(苦汗、血汗・・・劣悪労働条件)工場が問題となる。
 学生は大学がこの制度に関係していることを知り北カロライナ大、ミシガン大、カリフォルニア・アーヴァン大などの学生が問題化。
 搾取のない学園運動思想が成長し、1997年夏最初の集まりが全国の学園活動家によって開催され運動が計画された。
 1998年30の学校の学生活動家がニューヨークで反搾取工場協議会の結集し反搾取工場学学生連合USASを結成。
 1年で米国とカナダの100以上の学園に広がり搾取問題がかつてないレベルまで意識高揚された。

学生・農場労働者連合 WWA
 2000年結成のイモカリー労働者連合CIW(農場で働くメキシコ、グァテマラ、マヤ民族移民労働者を主とする)と密接に協力
する全国学生ネットワーク。
 2005年全国タコ・ベルボイコット運動に勝利。2006年CIWのマクドナルドとの闘争に参加し、2007年勝利。

学生環境活動連合SEAC
 1988年春、北カロライナ大学生がグリーンピース・マガジンに学生環境主義者にネットワーク形成を呼びかけ、それ以来
学園での協議会や多くの作業でSEACは成長、米国とカナダで多くの高校、大学や地域グループが参加。
 最初の6年間はリサイクル計画を200以上の高校、大学で発足させた。
 1994年ピッツバーブ大とミシガン州に赤リス生息地でアパッチの神聖な土地でのグラハム山望遠鏡計画撤退を迫る。
 1992年ニューヨークSEACはケベック水力発電建設中止に120以上の学校を団結させる。
 1992年の地球サミットの前に世界ネットワーク共同創設者となる。
 2年間キャンペーンで2002年ステイプル社にリサイクル紙への移行を約束させる。
 
アメリカ学生連合ASU) 1930年代 コーヘン 1930年代 

 大不況時代の1930年代の学生運動はアメリカ左翼の最も成功した政治運動の1つである。
 共産主義者、社会主義者学生の指導で1936年春から1939年春に頂点を迎え、約50万の学生を動員した。
 これは連邦政府による教育支援、青年への職業計画、強制予備役訓練部隊ROTC廃止、学園の自由、人種平等、集団交渉権
などを改革項目(アジェンダ)としていた。
 繁栄の1920年代は大学生は中間階層と富者が占め、保守共和党大統領候補を支持していた。
 大不況で労働市場は崩壊し、学生の財政状況も悪化し、1932−1933年には学生団体も消滅し始めた。
 1920年代には全学生左翼は社会主義者主導の産業民主同盟LIDに閉じ込められていた。これは約2千のメンバーで学生の
無関心ないし敵意により倫理低下していた。しかし不況でLIDが拡大しただけでなく1931年共産主義者主導の全国学生同盟NSLが出現。
 NSLはSLIDから共産主義青年同盟が主導で分裂
 不況前はLIDは教育と学習グループ結成に重点を置いていたが、NSLは扇動と集団学生抗議運動構築を強調した。
 この影響でLIDは産業民主主義学生同盟SLIDと名を変えた。
 NSLは1932年ケンタッキーのストライキに敗北した炭鉱地域支援を行い、警察の弾圧を受けたが学園に反響を巻き起こした。
 コロンビア大では学園支配を批判した学生新聞編集者リード・ハリス退学処分に対しストライキで言論の自由運動を主導し勝利した。
 1932年LIDと青年社会主義者同盟は社会主義者候補ノーマン・トーマスの全国学園運動を展開、これで全国の学園に学生急進主義
が組織的に広がった。
 ファシズムが拡大し世界戦争の危機により学生左翼は全国学園平和運動を展開、1932年NSL主導で学園反戦協議会が開催され
共産主義者のほかに社会主義者、平和主義者、リベラル学生活動家も共通の反戦綱領で学園動員、反ROTC運動に結集した。
 大人の左翼は宗派主義で敵対していたがNSLとSLIDは一緒に反戦運動を行っていた。
 1933年NSLはSLIDとの統合を提案し拒否されたが、1934年の最初の全国反戦ストライキを一緒に支援した。
 1935年NSLとSLIDはメソディスト青年全国評議会、神学校間運動、全国学生連合地域支部、学園YWCA、YMCAを説得して
共同支援で第2回反戦ストライキを決行し、約17万5千の学生がこれに参加。
 1935年これらの成功と世界ファシズムの危機で1935年NSLとSLIDはアメリカ学生連合ASUに統合。
 これで1936年の学園反戦ストライキには約50万が参加。ASUは間もなく約2万の最大学生活動家組織となった。
 不況の犠牲となっている青年支援運動のためフーヴァー時代の1930年代中期、アメリカ青年会議エレノア・ルーズヴェルト
が支援していた、1935−1941年)をロビー活動に利用。
 黒人古参共産主義者は1937年南方黒人青年会議を結成しジム・クロー(公共分離政策)と闘った。
 この時期ASUはジョセフ・ラッシュにより率いられた。1930年代青年共産主義同盟の指導者はジル・グリーン
 1930年代末には学生運動の統一は国際状況とコミンテルン路線の影響で崩壊。 ***ラッシュASUで修正
 リベラルと共産主義者はファシズムの脅威の前に孤立主義が無益と決断しASUは1937年孤立主義を放棄。
 一方、平和主義者、孤立主義者、トロツキスト、青年社会主義者同盟、LIDは反戦青年委員会YCAWを結成し孤立主義を擁護。
 1938年から1939年前半はASUの共産主義者とリベラル学生は反ファシズム人民戦線路線で一緒になっていて、共産党の
右傾化と内外政の親ルーズヴェルト化でこの時期の学生運動はむしろ拡大し、リベラルを惹き付けた。
 1939年8月のナチ・ソ連協定でASUの共産党支配の負の影響が明らかになり、続くコミンテルン路線で共産主義者は
ASUからリベラルを追い出し孤立主義を支持し戦闘的反ファシズム路線から撤退した。
 このこととソ連のフィンランド侵攻批判拒否により多くの学生が離れ、ASUと学生運動(NSFA)は1940−1941年に崩壊。
 1941年初め、NSFAはアメリカ青年会議から撤退、ASUの非共産主義者たちは1941年進歩行動学生同盟SLPAを結成。
 1943年に統一組織としてUS学生会議USSAが結成された。
 開戦により学園は軍事色一色になり、共産主義者は戦争支援であり、反戦青年委員会YCAWや青年社会主義者同盟の活動
の余地はなくなった。


民主社会学生連合SDS  
 SDSは産業民主同盟LIDとして知られる社会主義教育組織の青年部分の産業民主主義学生同盟SLIDから発展、
SLIDは当初大学連合社会主義者協会という名で、ジェームズ・ストークス、ジャック・ロンドンノーマン・トーマスアプトン・シンクレア
クラレンス・ダローフロレンス・ケリーらが1905年結成し、1921年に改名。
 1950年代末以降LIDはトロツキストのマックス・シャハトマンによって支配されていた。
 (1950年代CIAと関係し現在はUSA社会民主のネオコンと結びついている)
 1959年、アリエー・ネイアーは学生部分を活発化させるためSDSと名を変える。
 LIDの指導部は学園の雰囲気を理解していなかった。
 1960年、第1回集会でアラン・ハーバーが議長となる。
 1962年の最初の大会でポート・ヒュートン宣言がミシガン大学生新聞の編集者だったトム・ハイデンにより作成された。
 ポート・ヒュートン宣言は国際平和達成に失敗した米国政治体制と冷戦外交、核脅威、軍拡競争を批判、国内問題では人種差別、
経済不平等、大企業、労働組合、政党を批判し、2党体制の改編、市民への社会決定に寄与する力付与、労働者の経営参加、
公的部門の拡大と政府による福祉を主張、そのための方法として非暴力市民不服従と参加民主主義をを支持した。
 宣言は戦後の左翼路線とも衝突していた。また反共主義を民主主義の障害と拒絶していた。
 大会には共産主義進歩青年組織委員会がオブザーバーとして招待されていたが、青年社会主義同盟YPSL(社会党青年組織)は
これを拒否、しかしSDSの多くは受け入れを支持した。
 LIDのトロツキストのアーヴィング・ホーウェマイケル・ハリントンらにはポート・ヒュートン宣言、特にソ連の扱いに不満でハイデンと
衝突した。
 ハイデンは1968年、シカゴの民主党全国大会を取り巻く抗議で主要な役割を演じ、シカゴ7人として逮捕された。

 1962−1663年の議長はトム・ハイデン(ジェーン・フォンダ前夫)、副議長はポール・ブース。全国書記はジム・モンソニ。
 9支部1000人のメンバーがいた。ニューヨークの全国事務所にはジム・モンソニが無給で組織化活動をしていた。
 最初は組織は力量がなく、活動は市民権運動の方を向き、学生非暴力調整委員会SNCCがSDSを鼓舞するのに重要な役割を
果たした。
 1963年の大会には32の単科大、総合大学から200の代表が参加。
 1963−1964年はハーヴァード大のトッド・ギトリンが議長、ボストン大リー・ウェッブが全国書記、副議長にポール・ブース。
 SDSは白人失業青年を経済研究行動企画ERAPという綱領で組織化しようとし”ゲットーへ”運動を始めたが失敗、しかしこれは
多の若い青年理想主義者をSDSにひきつけた。
 1964年夏の大会では学園志向グループとERAP支持者に分裂。
 ポール・ポターが議長、シマー・カレッジのクラーク・キッシンジャーが全国書記に選ばれた。
 10月UCバークレーでSNCC活動家マリオ・サヴィオのバークレイの自由演説運動FSMが展開、学生と警察の衝突が起こった。
 1965年2月リンドン・ジョンソンはベトナム戦争を拡大、徴兵が学生にとって現実的となってきた。
 全国のSDSの学園支部は戦争反対デモを展開、全国事務所は4月17日の戦争反対ワシントン行進を組織。
 多くの平和グループと主導的人物の支持でかなりの収入と5月末まで52支部ができた。
 行進呼びかけは共産主義者にもなされ、これはLIDと他の古い左翼組織との大きな緊張をもたらした。
 最初の戦争反対ティーチ・イン(演説集会)がミシガン大で開催されまもなく全国に広がった。
 ワシントンDCのデモ行進には2万5千人が参加し、SDSは多くの米国学園での主導的反戦学生グループとなった。
 1965年夏の大会はカール・オグルズビーを議長、ジェフ・シェロを副議長に選出。
 大会はSDS憲章からの反共産主義者排除項目の除去が投票にかけられ、いかなる全国綱領も拒否され、支部の地域的自発性
信頼が強化された。
 全国的にはSDSは学生の重要問題として徴兵が取り上げられ続けた。大学では学生の評価rankiを徴兵に利用し始めた。
 5月シカゴ大管理棟が3日間の座り込みに占拠された。評価抗議と座り込みは多くの他の大学に広がった。
 1966年夏の大会ではニック・イーグルソンが議長、カール・ダヴィドソンが副議長、グレグ・カルヴァートが全国書記に選ばれた。
 この大会で毛沢東主義の進歩労働党PLメンバーが出現。
 SDSはそれまでほとんどすべて反共産主義者であったが、赤呼ばわりをもてあそぶ行動を取り入れることを拒否していた。
 PLは間もなく労働者学生連合WSAを組織化し始めた。
 大会では地域支部の学園問題の取り組みに向けて転換がなされた。
 この年10月アフリカ系アメリカ人毛沢東主義者の黒豹党ヒューイ・ニュートンボビー・シールにより結成された。
 
 1967年大会では組織体制の転換がなされ、議長・副議長が廃止、全国書記局、教育書記局内部組織化書記局に置き換えられた。
 徴兵への強い決議、軍隊内での抵抗が可決されベトナム即時撤退要求がなされた。更に男性優越主義に対し女性解放決議がなされた。
 秋には反戦行動が拡大、10月17日、ウィスコンシン大マディソン・キャンパスで大学の戦争加担とダウ求人活動許可反対への大規模な
抗議運動が発生、これに警察が介入し多数の負傷・逮捕者発生。大衆が集まり学生ストで数日大学は閉鎖。
 10月21日のペンタゴン行進は10万の学生が参加、数百が逮捕・負傷した。徴兵事務所の夜間襲撃が広がった。
 この頃ヒッピー運動が展開し始めた。
 1968年春全国SDS活動家は10日の抵抗と称する学園活動を指導し、行進、座り込み、ティーチ・インが行われ4月26日の一日
ストライキで頂点の達し、100万の学生授業放棄し、米国史上最大のストライキとなったがニューヨークの全国メディアにはほとんど
無視された。これらはコロンビア大での出来事に注目した。
 コロンビア大では管理棟等が占拠されバリケードのなかに革命コミューンが創られた。警察の導入に対し、学生は授業ボイコットを行った。
 コロンビア学生反乱でのSDS議長のマーク・ラッドのようなSDS活動家のマスメディア登場によりSDSは数年間米国の政治地図で著名
となった。1968−1969年にSDSの支部メンバーは劇的に増加した。
 サンフランシスコのSDSはWSAとライヴァルのジョー・ヒル幹部(コーカス)に率いられ、サンフランシスコ州カレッジの第三世界学生ストで
主要な役割を演じた。
 テキサスのオースチンのSDSメンバーはサンアンオトニオの1969年4月の大衆デモ(キングス・リヴァー行進)に参加、警察の
ボビー・フィリップス殺害抗議を呼びかけた。
 1969年夏の大会には青年社会主義者連合(トロツキスト、SWPから成長)、ウォブリーズスパルタクス主義者(トロツキスト)、
マルクス主義者、毛沢東主義者など種々の党派が出現した。
 マーク・ラッドバーナーダイン・ドーンジョン・ジャコブらと革命的青年運動RYMグループによって書かれた”君たちはどっちに風が
吹くか知るのに気象予報係を必要としない”という新左翼ノートが提出された。これは30年代の古い左翼の言葉で書かれ、SDS多数派
には受け入れられなかった。
 大会は労働者学生連合WSAと革命的青年運動RYMの分裂で混乱に陥った。
 RYMと提携グループは進歩労働党とWSAを追放しようとし、ブラック・パンサー(黒豹)は進歩労働党を攻撃し、一方で性主義に傾斜。
 RYMは約500で大会から退場し、SDS−RYMとSDS−WSAに分裂。
 秋には多くのSDS地方組織が分裂、解体した。以降全国大会は開催されなくなった。
 SDS−RYMは分裂し分散、1970年には事実上解散しSDS−WSAだけが活動継続。
 革命的青年運動RYMはSDSの労働者学生連合WSA(進歩労働党SDS内分派)反対派で、1969年分裂し多数派は
ウェザーマンとなる。
 ウェザーマンは1969年10月8日、”戦争を国内へ”の標語でシカゴ7人に刺激されシカゴで”激怒rageの日”を起こしたが失敗した。
 ウェザーマンは1970年、戦争宣言を行い、爆弾闘争等を始める。
 他の主要グループは毛派系で新共産主義運動として知られ、1975年USA革命共産党1977年共産党(ML)
マイケル・クロンスキー)、1985年自由の道社会主義者組織結成。

 SDS−WSAは人種主義との闘争と労働者の闘争とストライキ支持に焦点を置き全国活動を継続、1969年GEストライキ、1970年
郵便労働者スト支援。
 1972年にはマイアミの民主党全国大会でジョージ・マクガヴァンの候補撤退に抗議デモを行う。
 SDSと進歩労働党はアーサー・ジェンセンウィリアム・ショックレイリチャード・ハーンスタインの人種差別思想に抗議。
 1973年にはSDSと進歩労働党は学術人種主義に反対する大会を組織。これから人種反対委員会が結成され、1974年SDSは解散し
人種反対委員会に参加。
 RYMやウェザーマンとは異なりSDS−WSAは爆弾闘争とテロリズムに強く反対。
 トム・ハイデンなど初期SDSの少数が民主党に参加。
 
 SDSは2006年復活した。
 2006年初めポール・ビュール率いる旧SDSのメンバー(アラン・ハーバー)やシンパと新世代の学生がSDSを再建。
 これには2010年で全米で130を越える支部が所属。
 2006年にポール・ビュール、トーマス・グッド、ブルース・ルビンシュタインらが民主社会運動結成。
 2006年指導部はエリオット・アダムス平和のための古参兵)、バート・ガースコフ(緑党)、トム・ハイデンノーム・チョムスキーバーナーダイン・ドーン
ビル・フレッチャーJr、ロビン・ケリーマイケル・クロンスキーエセルバート・ミラーチャーリーン・ミッチェルマーク・ラッドハワード・ジンら。
 2007年SDSの資金形成のためMDS法人創設、マニング・マラブルが議長。ポール・ビュール、ジュディス・マリーナ、ジェス・ザールが副議長。
 チャーリーン・ミッチェルバーバラ・エーレンライヒバート・ガースコフマーク・ラッドらが指導部。
 非出席者ではエリオット・アダムスアンジェラ・デーヴィスイマニュエル・ワレンシュタインコーネル・ウエストハワード・ジントム・ハイデン
ノーム・チョムスキーバーナーダイン・ドーンバーバラ・エプシュタインタリク・アリビル・フレッチャーJr、ロビン・ケリーマイケル・クロンスキー
エセルバート・ミラーエリザベス・マルティネススタンレイ・アルノウイッツデイヴィド・バーサミアンらが指導部。

 トーマス・グッドは2004年、新左翼ノートNLNを再建。NLNにはSDS古参のバーナーダイン・ドーン(元ウエザー地下指導者)、
 ビル・エイヤーズウエザー地下共同結成)、ポール・ビューレポール・ラッドらや新SDSのパット・コートらが寄稿。旧ウエザー地下メンバー
 に近すぎるという批判がある。

革命的青年運動RYM
 進歩労働党労働者学生連合に反対したSDS内分派。進歩労働党黒豹党やベトナム民族解放戦線批判を問題とした。
 RYMは分裂によりバーナーダイン・ドーンデイヴィド・ギルバートマーク・ラッドら(RYMT)がウェザーマン結成。
 RYMの他のグループは毛派系(RYMU)でウェザーマンの米国での即時の軍事闘争を拒否し革命的前衛党結成を支持。
 RYMUは種々の革命的組織・集合を結成しこれらは新共産主義者路線として知られた。
 RYMUで最大のグループは1975年結成の湾地域革命連合ですぐに他のグループとUSA革命共産党結成。
 1977年共産党(ML)が結成される。1985年これら組織の縮小・崩壊で革命的労働者本部プロレタリア統一同盟革命的統一組織
後にアミルカル・カブラルポール・ロブソン集合が自由の道社会主義者組織結成。

労働者学生連合WSA
 進歩労働党率いる民主社会学生連合のグループ。
 WSAはSDSが望むように労働者階級の運動を築きあげるには学園内外で学生が労働t者闘争に参加することであると主張。
 他の左翼の革命は進歩的民族主義と人民反乱の結合から生じるという主張を拒否。
 1969年のシカゴでのSDS大会での分裂で1400中約900がWSAで他の500は革命的青年運動RYMでこれらは去り種々の
グループを結成。SDSは分裂し短期間、SDS−RYMとSDS−WSAが存在。SDS−RYMは1969年末から1970年初めに
崩壊しSDS活動家はSDS−WSAだけとなった。
 1973年人種反対委員会が結成され、1974年SDSは解散し人種反対委員会に参加。
 1996年まで人種反対委員会は進歩労働党が率いていた。

革命的学生旅団
 1974年結成、先行者はアッティカ旅団でこれは1969年のSDS分裂にさかのぼる。アッティカ旅団は1972年革命連合により
結成された。1974年にアッティカ旅団は革命的学生旅団RSBと名を変えた。結成会議には80大学から450名参加。
 革命連合は1975年革命的共産党RCPとなる。
 1977年のRCPの分裂でRSBの多くがRCPから去り、RCPから出現した革命的労働者本部に参加。これは1985年
自由の道社会主義者組織結成に参加。RSBは1980年進歩学生ネットワークに参加。

学生非暴力調整委員会SNCC
 1960年南部キリスト教指導者協議会SCLCの指揮者のエラ・ベーカーによるショー大学での学生集会で出現。
 1960年代のアメリカ人市民権運動の主要組織。SCLC、有色人民向上全国委員会NAACPなどと密接に結びつきながら青年組織
として独自の立場を模索した。
 SNCCは座り込み、自由乗車で主要な役割、1963年のワシントン行進ミシシッピ自由の夏ミシシッピ自由民主党で主導的役割
を果たす。
 ジェームズ・フォーマンジョン・ルイスロバート・モーゼスらが中心人物で、1960年代後期、ストークリー・カーマイケルらにより
ブラック・パワーに焦点を置き、そしてベトナム戦争に抗議した。
 1967年カーマイケルはSNCCを去り黒豹党に参加した。
 1965年初期にフォーマンはいつまで非暴力でいられるかはわからいと述べたが1969年SNCCは学生全国調整委員会と名を変えた。
 SNCCは1970年代初期に消滅した。
 歴史家のハワード・ジンストートン・リンドなどもSNCCに関係した。

 南部学生組織委員会 SSOC
 1960年代米国北部の学生活動家集団でアフリカ系米国人市民権、ベトナム戦争反対、労働者権利、フェミニズムなどの政治・社会問題に
焦点を当てた。

 北部学生運動 NSM
 1961年、ピーター・J・カントリーマンがイェール大学で創設したアメリカ市民権運動組織。
 ニューイングランド学生キリスト教徒運動が形成した作業委員会から成長した。
 1962年最初の大会、北部市民権に関する大学間協議会が1962年4月サラ・ローレンス単科大で開催された。
 カントリーマンはNSMの仕事を主にアフリカ系アメリカ人単科大学のための本蒐集とSNCCのための資金調達の仕事で始めた。
 それから彼は北東諸都市の中心街の青年の教育プログラム組織化に転じた。
 1963年までにNCMは50の単科大学、総合大学からの2200の学生が3500の子供を支援したと報告された。
 NCMは志願者を南部の座り込みに送り、北部の借家人ストライキを組織化するなど直接行動抗議を鼓舞した。



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