ビクトル・ハラ 略伝 −−ビクトル・ハラの精神は永遠に−−
<おいたち> 1932−1938年
ビクトル・ハラ・マルティネス(Victor Jara Martinez)は幼年期に古チジャン(Chillan
viejo)、ロンケン(Lonquen)、サンチャゴの3個所を移動している。
これは当時のもっと良い生活を求めて村から大首都に移動した多くの田舎の家族
の生き方を象徴する。
マヌエル・ハラとアマンダ・マルティネスはニュブレ県のエル・モンテの出身で、
結婚して、古チジャン(チジャン・ビエホ)に居を定め、そこでビクトルは
1932年9月28日に、6人兄弟の4番目として生まれた。
(チジャンはマプチュ語で太陽の椅子を意味する1580年に建設された古い都市
で、ニュブレ県の県都、その南方にチジャン・ビエホがある。)
彼にはすでに3人の姉兄、マリア、ヘオルヒナ(コカ)、エドワルド(ラロ)がいた。
(更に弟の名としてロベルトが生まれる。)
1938年に家族は北に移動し、サンチャゴの南方、32kmに位置する田舎村の
ロンケンの大農園(ラティフンディオ)の一つに小作農民(インキリノ)として定住した。
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チジャンの東のアンデスの山々 |
<ロンケン> 1938−1944年
ロンケンはほとんどルイス・タグレ一族の所有地で、彼等は他の大農園所有主同様封建的な方法で領地を支配していた。
大農園で働く小作農民は小さな庭付きの長屋に住み、自家用の農地で食糧を栽培しながら農園の労役に従事しており、自家用
には最も不毛な土地が宛がわられた。
父マヌエルは文盲で小作人の仕事に不満で子供たちは家の手助けの足しとしか考えていなかった。
ビクトルは6、7歳の頃、父について畑仕事によくいったものだった。
母アマンダはチリ南部のニュブレ県のキリキナという小さな村の生まれでマプチェ・インディオの血がながれており、その気質を
ひいていた。
彼女は子供のころから冠婚葬祭や収穫祭のとき歌われる田舎の民謡に慣れ親しみその歌い手として人気者でありまた働きもの
であった。
農民は集団で収穫を行い、その後の宴会(祭り)でビクトルの母はギターを弾きながら歌う、ビクトルの幼い頃の母の思い出は
そんなものであった。
アマンダはチリの農家の多くがそうであったように一家の大黒柱であった。
両親の仲はよくなかった。
父は気難しく、一家を支える責任から逃れ、酒に溺れ、母と言い争って、あげくの果てに暴力をふるった。
アマンダは村の学校の先生を下宿人として置いており、その若い先生からビクトルはギターを教えてもらった、
母はいつも忙しくて教えてくれなかった。
家族は敬虔なキリスト教徒というわけではなかったが、むしろ迷信ないし魔術的意味から宗教とその儀式は受け入れ、なけなし
の金をだしていた。
父マヌエルは文盲であったが、アマンダは読み書きができマヌエルとは反対に子供たちにできるだけの教育を受けさせようと
考えていた。
子供たちはみんな学校にいれられてきちんと通わさせられた。
1940年、ビクトルは7歳で地域の学校に入る。
ビクトルはとてもできのよいこだった。
こどもたちにとってロンケンは父の問題はあったがとりあえず最低限の食べものと平穏な生活があった幸せな時代であった。
<サンチャゴのポブラシオン・ノガレス> 1944−1947年
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1944年サンチャゴ当時 |
13歳のマリアが家事の手伝い中に大火傷をし、サンチャゴの病院に一年近く入院することとなり、
さらに、アマンダはこどもをみごもっていた。
父マヌエルはあてにならず、アマンダはサンチャゴならなんとかなるだろうと思い家族は1944年
サンチャゴ郊外、中央駅周辺の貧しい地域の一つポブラシオン・ノガレス地区に引っ越した。
ビクトルは近くのカトリックの学校(ルイス・タグレ・リセ)に入った。
アマンダは2年間必死に働きマーケットに小さな飯屋台を開いた。
アマンダはポブラシオン・ノガレスでは歌わなかった。
家々にはラジオがあり、聞く音楽はボレロ・マンボ・ワルツであった。アマンダは忙しく、アマンダの
歌を求める人もいなかった。
ビクトルは近所の若者にギターをおしえてもらう機会を得た。
アマンダの働きで家族の生活は上向きになっていたが、マヌエルは家を出ていった。
マリアは看護婦になり結婚した。
他の家族は駅近くのシカゴ・チコに移った。
犯罪者の巣のようなこの地域の雰囲気から逃れる文化的な場所は教会であった。
後にキリスト教民主党に結集する若い行動的カトリックがそこでは活動していた。
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1949年ノガレスのサッカー・チームで |
ビクトルはこのグループに入り、音楽や宗教に親しんだ。
ビクトルは母の意向により商業学校に通うようになっていた。
他の兄弟は学業を放棄していた。ラロは16歳で父となり、コカは身ごもって
自殺を企てたりし、彼等は地域の悪党の仲間になっていた。
<アマンダの死> 1947−1953年
1947年3月、アマンダはマーケットで事故で死んだ。ビクトルは15才
だった。
家族は仲たがいし、兄弟はばらばらになった。
ビクトルは以後、困ったときはポブラシオン・ノガレスの小学校で出会った
友人とその家族の世話になる。
友人の家族はビクトルが困ったときに寝場所と食事を与えてくれた。
彼は仕事をしながらなんとか自力で生きていこうと努力した。
親しくしていた教会の神父の口添えでビクトルは冬、サンチャゴ南部の小さな
町サン・ベルナルドのリデムプトリスト(贖罪派)修道会の神学校に入った。
ここではグレゴリア音楽を覚えた。しかし彼には神学校の禁欲主義があわず2年後の1952年3月学校を出た。
すぐに彼は兵役招集を受け、サン・ベルナルドの歩兵学校に入った。
彼にとって兵役は決して悪いものではなかった。とりあえずのモラトリアムであり、衣食住の心配はなかった。
週末の休暇には仲間と一緒にバーや女郎屋にも出かけた。
1953年3月12日、ビクトルはきわめて優秀な成績で兵役を終了した。
ビクトルはどこへもいくところがなかった。彼を暖かく受け入れてくれたのはポブラシオン・ノガレスの友人とその家族であった。
<演劇へ> 1953−
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クンクメンのメンバーと |
1965年
彼は職にありつき、会計士試験のための勉強を始めた。
しかし音楽に未練があり、1953年21才でチリ大学合唱団のオーディションに応募し
採用され劇場で歌い始めた。
1954年末に仕事をやめチリ南部へ合唱団の友人と民謡採集の調査旅行
に出た。
彼は自己のルーツに目覚めはじめていた。
劇場では新たな眼が広がり始めた。マイム(無言芝居)に興味をもち、1956年
ミモス・デ・ノイスワンデルの一座に加わる。
1956年3月、その友人のすすめでチリ大学の演劇学校を受験し、3年の演劇
コースに入学許可され奨学金も得られるようになった。
これにより1956年から1962年チリ大学演劇科で演劇を後に演出を学ぶようになる。
演劇学校の多くの学生は裕福な家庭の出であり、ビクトルのような生い立ちの
学生は例外だった。
後にチリの演劇の発展に重要な役割をはたす学生がたくさんいた。
ろくでもない坊ちゃんや、金持ち婦人がいた、彼等・彼女らは恋をもて遊んだ。政治運動にはいるものもいた。
ビクトルは彼に気があった女性から念願のギターを買ってもらった。
演劇学校でジョーン・ターナーはムーブメント(動作)の授業をうけもっていた。
ジョーン・ターナーはイギリス人であったがバレーの道に入り、1953年チリの踊り手パトリシオ・ブンステルと結婚し、
1954年にチリに来ていた。
チリでは国立サンチャゴバレエ団に所属し、演劇学校でも教えていた。
1959年パトリシオはネルーダの詩をもとに有名な<カラウカン>を作ったがジョーンとの結婚は破綻し、1960年、
ジョーンには生まれたばかりのマヌエラが残された。
ビクトルは夏の休暇にニュブレ州のエル・カルメンという村で農民の生活様式に親しんだ。
1957年 ビクトルは演劇学校2年生のときカフェでビオレッタ・パラと出合った。
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1960年ロランド・アラルコン(クンクメン創設者)とダンス |
(マルゴット・ロヨラ、ガブリエラ・ピサロ、エクトル・パベスなどとも)
ビオレッタはイサベルとアンヘルをつれて国中を民謡収集に歩いていた。
ビクトルは特にアンヘルと親しくなった。
同じころビクトルはカフェでマプチェ語でさらさら流れる川を意味するクンクメン
のメンバーと知り合った。
彼等は集団で民謡を演奏することを考えていた。
クンクメンは1957年最初のアルバムを出した。このアルバムにビクトルは
ニュブレで採取したSe me ha escapado un suspiroという愛の歌を入れた。
1958年ビオレッタはビクトルのためにクリスマス聖歌の様式で二つの曲
を書き、この曲はクンクメンのアルバム<チリのクリスマス>に入った。
そしてビクトルはクンクメンの正式メンバーになった。
1958年は大統領選挙の年であった。左翼連合のアジェンデがアレサンドリ
と戦った。
ビクトルは学生運動に深く入り込むようになっていた。
ビクトルはフォークダンス(クエカ)も覚えた。
1959年この踊りと歌で彼等はリサイタルを行った。
彼は芝居の演出をし、それがきっかけで芝居の演出に興味を持った。
彼は劇団をつくり、夏ブエノス・アイレス、モンテビデオに公演にでかけた。
更にラテンアメリカ縦断(アルゼンチン、ウルグアイ、ベネズエラ )の長期公演を行い、バチスタ独裁打倒後のキューバ
にも滞在した。
1960年彼は演出コースの学生として再入学した。
ビクトルはクンクメンの芸術監督をしており、グループは1961年の6月から4〜5ヶ月の長期ヨーロッパ演奏旅行に
でかけた。(オランダ、フランス、ソ連、チェコスロバキア、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア )
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ビオレッタ・パラ |
1961年クンクメンと
モスクワ |
パリ |
プラハ |
ジョーンとビクトル |
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1962年アニマス・デ・ディア・クラーロを演出 |
1961年ジョーンと結婚。
ビクトルの眼の前に現れたジョーンは結婚に失敗し赤ん坊と一緒の年上の病気
(1953年バレーの練習中に舞台から落ち背中に怪我の後遺症)持ちの30女であった。
1962年ビクトルは卒業と同時にチリ大学演劇研究所(ITUCH)の専任演出家となる。
(9年間)。
1961年最初の曲Paloma, Quiero Contarteを作曲。
1964年ビクトルはウルグアイの国際演劇フェスティバルに参加し他のラテン・アメリカ
の演劇を見る。
このウルグアイの旅でビクトルはアジェンデと初めて出会う。
この場でビクトルはアジェンデとウルグアイのアタウアルパの称賛を得る。
1965年ビクトルは年間最優秀演出家としてラ・レモリエンダとラ・マーニャに対し二つ
の重要な賞を得る。
(1964−1967チリ大学演劇科の教師となる。)
(1963−1968ニュニョア民俗文化研究所でフォルクローレを指導。)
一方、1962年ヨーロッパから帰ってすぐビクトルはクンクメンと民謡アルバム<チリの
音楽地理>を作り、そのなかにビクトル自身のPaloma, Quiero ContarteとCancion
Del
Mineroが入った。
クンクメンは伝統的歌や踊りを調査研究して演奏することにうちこんできた。
一方ビクトルは民謡を民衆の歌として現代に通じる生きた表現にしようと考えていた。
このビクトルの考えと現代的変化を否定する考えは激しい論争となった。
1962年一杯でビクトルはクンクメンを離れる。
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1962年、30歳 |
やがてラテン・アメリカにも国際音楽産業の波が押し寄せてきた。
歌手は名前をアメリカ風にし、ヤンキースタイルをとらなければ放送には受け入れられなかった。
アルゼンチンのペロンが伝統的音楽の放送を義務付けこれが成功し、この波がチリにも浸透し、これ
が少なからずキリスト教民主党の政治プログラムに適合し受け入れられた。
これらは貧困や革命臭のない着飾ったフォークであった。
一方左翼のデモの一部となり、アジェンデの選挙キャンペーンや集会で聞かれる非商業的フォーク
があった。
1964年アンヘル・パラは大統領選挙のためわざわざヨーロッパから帰国した。
ビクトルはアジェンデのため歌を歌いながらアンヘルと旧交を暖めた。
<歌の世界へ> 1965−1970年
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1965年ラ・レモリエンダ |
1966年ペーニャ・デ・ロス・パラで |
ペーニャ・デ・ロス・パラで |
1965年、アンヘルは姉のイサベルとペーニャ・デ・ロス・パラ(パラ家のクラブ)を開店した。
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最初のアルバム”ビクトル・ハラ” |
そこでは簡単な食事をしながらフォークを聞くことができた。
学生を中心に作家・知識人・芸術家・政治家たちが常連だった。
イサベルとアンヘルは他のラテン・アメリカの歌や楽器を紹介した。
ビクトルはやがてここで歌うようになった。(1966−1970年ソロで出演。)
フォルクローレの商業的ブームはすぐに崩壊した。彼等は”インターナショナル”なスタイルに
変身をはかった。
ビクトルとアンヘルは商業的ブームの崩壊は本物のフォルクローレには関係ないことだと断言した。
ペーニャ・デ・ロス・パラにでるようになってビクトルは初めてシングル・レコードをだした。
La CocineritaとEl Cigarreitoである。この曲で彼はペーニャ・デ・ロス・パラ以外でも有名になった。
次にPaloma, quiero contarteとLa Beataをだした。La Beataはちょっとした騒動をもたらした。
彼は父親になってCancion de cuna para nino vagoをつくった。これは子守り歌であり、ポブラシオン・
ノガレスような地域のこどもたちへの愛情の歌でもある。
(1964年アマンダ生まれる。)
かれはまたEl Lazoのようなロンケンの農民の歌、Angelita huenumanのようなその他の地域の貧しい庶民の歌
も作った。
1960年代中頃は働く人、特に婦人はエドアルド・フレイを支持していた。しかしやがて限界が顕れた。
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1966年 |
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1967年メーデーで |
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1967年キラパジュンとのアルバム |
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1967年アルバム”デシデ・ロンケン・
アスタ・シエンプレ |
この時期ビクトルの歌は個人的なものから社会的なもの、民衆への愛情に基づいたもの
になり、社会の不正の告発と変革への意志の歌であり、その意味でいまだ間接的では
あったが政治的であった。
ジョーンはビクトルの政治との係わり合いを警戒していた。彼女は以前にも共産党員と結婚
していたから。
ペーニャ・デ・ロス・パラは左翼の集まる場所であった。
右翼の弾圧が他のラテン・アメリカ諸国を襲ったときここはブラジル、ウルグアイ、アルゼン
チンの歌手の避難場所であった。
ビオレッタはGracias A La Vidaを作り、数ヶ月後1967年2月5日自殺した。
ビクトルはビオレッタが生きていたときは彼女が人民の芸術家だとわからなかった、批判
もした。
死んで彼女が民衆のなかに生きていることを知った。
Gracias A La Vidaはラテンアメリカはもちろんのこと世界中の歌い手に歌われ続けた。
ペーニャ・デ・ロス・パラの手本は各地に広がりいたるところにペーニャができた。
大多数は大学生の学生連盟のものであった。ビクトルはあちこちのペーニャに招待された。
なかでも重要な役割を果たしたのが工科大学のペーニャであった。
1966年冬、ビクトルはパルパライソのペーニャでキラパジュンと出合った。
1969年までの3年間ビクトルは芸術監督として彼等と一緒に仕事をした。
彼等は民俗楽器とその奏法などで伝統的民衆音楽の新たな表現の可能性を切り開こうと
努力していた。
男性的な声とヒゲと黒いポンチョという劇的、視覚的風采によって強調された男らしさ。
彼等は無名だったので主に学生連盟のペーニャに押しかけて出演させてもらった。
このようなペーニャ通いのなかでインティ・イジマニと出合った。
彼等は工科大の学生でキラパジュンより一年遅れて結成された。
彼等の音楽の特色はケーナ、サンポーニャ、チャランゴをつかった高原音楽にあった。
1966年(1967年)最初のソロアルバム、ビクトル・ハラが出る。
(1968年には2枚目のCanciones Focloricas de Americaを Quilapayunと一緒に出す。)
1967年のはじめビクトルはEl Aparecidoを作った。
明示はされてないが明らかにゲバラに捧げたものであった。
ゲバラはキューバをはなれていた。数ヵ月後にボリビアで殺された。
この歌は共産党から批判を受けた。
同じ頃キラパジュンのために編曲したEl Soldadoは予言めいた歌である。
一方でラ・マーニャやラ・レモリエンダの成功でビクトルは演劇演出家として1968年イギリス
の演劇見学の招待を受けた。
ラ・レモリエンダはアメリカの西海岸やニューヨークのスペイン語圏で大成功を収めた。
ビクトルはUCLAやバークレーで学生たちとの交流を深めた。
ベトナム戦争への徴兵反対運動が盛り上がっているときだった。
娘アマンダは糖尿病だった。
彼はイギリス滞在中にTe recuerdo Amandaを創る。母と娘の姿が入り混じる歌である。
1969年のQuien mato a Carmencitaはアメリカの文化的侵略を批判したものである。
1967年からチリで大学改革運動起った。チリでは工科大でもチリ大でも改革のリーダーは
共産党員であった。
ビクトルやキラパジュン、インティ・イジマニも改革運動に加わった。
このなかで機動隊との衝突でうまれたのがMobil Oil Specialである。
1969年ころから彼等は労働組合とかかわるようになった。
1969年3月9日プエルト・モントの大虐殺が起る。
荒地を占拠していた農民家族が警官隊に襲撃されたのである。
大きな抗議運動が起りビクトルはPreguntas por Puerto Monttを歌う。
やがてビクトルは共産主義者、破壊分子という攻撃(暴力も含め)を受けるようになる。
1969年なかばチリではツパマロスを手本にした極左MIRが暴力的運動を展開し始めた。
学生たちは政治運動の中心であった。すべての政党が青年部を強化した。
また歌の運動が重要視された。
青年共産同盟はレコード会社DICAPを設立した。
最初のアルバムはキラパジュンのPor Vietnum、2枚目がビクトルのPongo en tus manos abiertasであった。
Pongo en tus manos abiertasはチリ労働運動の創始者ルイス・エミリオに捧げられた。
1969年このようななかでカトリック大学の後援で新しいチリの歌フェスティバルが開催された。
イサベル、アンヘル、インティ・イジマニらが参加し、ビクトルはキラパジュンとPlegaria
a un labradorを歌い、
賞はビクトルとリチャルド・ロハスが分けた。
またベトナムのための国際青年祭で歌うために招かれてフィンランドのヘルシンキに旅し、そのあとアルゼンチン
とウルグアイに旅した。
この時期でもビクトルは演出の仕事を続けていた。
1969年ニュニョア民俗文化研究所は反動的新市長により閉鎖された。
このころニューヨークのオープン・シアターで生まれたベトナム戦争についての集団創作芝居<ベトロック>を
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1969年ベトロックのポスター |
ジョーンを振付師として演出した。
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1969年キラパジュンとヌエバ・カンシオン祭 |
1969年アマンダ、マヌエラと |
<アジェンデとともに> 1970−1973年
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1969年アルバム |
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1971年インティ・イジマニと |
1970年ビクトルは37歳で創作の絶頂に達していた。
この年は大統領選挙の年だった。
ビクトルは社会変革実現のため精一杯のことをする決心だった。
広範な左翼・人民連合は社会党のサルバドール・アジェンデを統一候補として激しい選挙戦が
戦われた。
右翼は分裂した。
選挙戦は右翼や警察の激しい攻撃にあった。
このなかでの若き犠牲者ミゲル・アンヘル・アギレラのためにビクトルはEl
Alma llena de banderas
を書いた。
また人民連合の行進歌Venceremosにも詩を作った(現在歌われているものはビクトルの詩ではない)。
アジェンデは36.3%で第1位、アレサンドリ(国民党)34.9%、トミッチ(キリスト教民主党)27.8%。
軍の最高司令官シュナイダー将軍は民主的手続きを支持する声明をだした。
勝者が過半数に達しないため議会工作がはじまった。
経済的圧迫も始まった。
この騒ぎのなかビクトルはベルリンの国際芸術フェスティバルに招待され、更にチェコ・スロバキア、
コロンビア、ベネズエラ、ペルーに招待されていた。
ブエノス・アイレスでは第一回ラテンアメリカ演劇会議に出席した。
キリスト教民主党内で左派が優勢になりアジェンデが勝った。
シュナイダー将軍が暗殺された。後任のプラッツ将軍はシュナイダー将軍の宣言に従うことを宣言し、民主的に
選出されたアジェンデ大統領への忠誠を誓った。
1971年4月ビクトルはホー・チ・ミンとベトナム民衆に捧げるアルバムEl
Direcho De Vivir En PazをDICAPからだした。
夏休みには多くの学生が取り入れの手伝いや文盲追放のため農村にでかけた。
幼児への無料ミルク支給も始まった。働く人のための質素な休日キャンプ場もできた。
反対派は引きこもっているように見えた。
ビクトルはこのような楽天的雰囲気でAbre la ventanaやキリスト教民主党を皮肉ったNi
chicha ni limonaを作った。
1971年から73年9月まで彼は国営テレビの番組の合間に流れる音楽を提供した。
チリ大学を辞していたビクトルはチリ工科大に採用され大学の大衆文化普及計画に協力することになった。
工科大とDICAPの間でその後の3年間ビクトルは仕事の基盤をもった。
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1971年ペーニャ・デ・ロス・パラで |
1971年第4回ヌエバ・カンシオン祭り
アンヘル、イサベルと |
1972年家族と |
政治的には反対派の巻き返しが進んでいた。
アジェンデ政権の間は、以前のどの政権よりましてあり余る自由があり、そして右翼はそのあり余る自由を、
自由を危機に陥れるため行使した。
これに対しチリの歌の運動の芸術家はアジェンデのチリを代表し国の文化使節として反人民連合の宣伝に対抗
するキャンペーンのため世界を駆け巡った。
キラパジュンとイサベルはヨーロッパへ長期公演にでかけた。
インティは亡命中のモミオに反撃するためエクアドルで公演した。
1971年11月ビクトルはラテンアメリカへ国の文化使節として長期演奏旅行に出た。
コンサートでラジオ・テレビで、労働組合で大学で歌いチリについて語った。
メキシコ、コスタリカ、コロンビア、ベネズエラ、ペルー、アルゼンチンと回った。
ビクトルが外国にいる間にフィデル・カストロが1ヶ月間チリを訪問した。
反対派は怒り、反撃を決心した。
1972年始め家族でキューバを訪問し、更にソ連にも入った。
人民連合は右からだけでなく左からも攻撃を受けていた。
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労働者街で子どもたちと |
MIRが社会党やMAPUに影響を与え始め、党と政府に反対を組織していた。
ビクトルは政府支持と団結を呼びかけた。
ビクトルは反対派との挑発にのる対決は避けるべきだ、反対派を暴力的に抑圧すべきでは
ないと考えていた。
彼の頭上に極左の怒りがふりかかってきた。
1972年ビクトルは女性たちのグループと仕事をした。当時チリには女性のグループはほ
とんどなかった。
アルバムPoblacionは彼女たちやイサベルを加え貧民街の歴史を歌ったものである。
このアルバムでは演劇の手法が取り入れられた。
さまざまな混乱のなかプラッツ将軍が入閣した。危機は遠のいたかのようにみえた。
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1972年アルバム
ポブラシオン |
1973年は国会議員選挙の年であった。
このなかでの若き犠牲者ロベルト・アマウダのための歌がQuando voy al trabajoである。
ネルーダは病身の身をおして対立・内戦の危機を警告し、芸術家・知識人へ民衆への働きかけ
参加を呼びかけた。
しかしながら危機は増幅されていった。
このなかでビクトルは農民に生まれフランコの牢獄で死んだ詩人ミゲル・エルナンデスの詩から
Vientos del puebloを作った。
6月末ビクトルは国立文化研究所に招かれペルーを訪問した。
ペルーではマチュ・ピチュの遺跡を訪れた。
7月始め軍事クーデターが起った。これは失敗した。ビクトルはペルーでこの知らせを聞いた。
軍の反対派の将軍たちは夫人をつかってクーデターに立ちはだかるプラッツ将軍の攻撃を始めた。
ビクトルは死を予感していたかのようである(とジョーンには思えた)。
遺書にも等しい歌Manifestoが作られた。
経済的苦境にもかかわらず政治的にはアジェンデは優勢だった。
反対派の社会混乱による攻勢に対し、アジェンデは選挙で国民の支持を確認しようと考えた。
選挙での勝利が無理と判断した、米CIAやチリ反動は選挙前のクーデタを決意した。
アジェンデに国民的政治的正統性を与えるわけにはいけない。
そして1973年9月11日がきた。
この日からビクトル・ハラは伝説の世界に入り込む・・・・・・・・
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1972年労働者街で |
マチュピチュで |
1973年アルバム
マニフェスト |
*この略伝の当初の目的はビデオ伝記の理解を目的とし、特に比較的紹介されてないビクトル・ハラの原点、
精神の根底をなすと思える幼少期について簡単に説明することであった。
しかしウェブ・サイトを調べるうちにビクトルの生年月日、生地が一定してないことに気づき、改めてジョーンの
本で確認をした。しかしこの疑問はジョーンの本でも解消されなかった。この点については別に詳しく述べるが
ともあれ、このページの内容は基本的にジョーンの本によっており、おいたちの部分は主にウェブ・サイトに
よっている。
ビクトル・ハラの最後
クーデタの当日(9月11日)、ビクトルは工科大で行われる内戦とファシズムの恐怖に関する特別な
展示会のオープニングで歌う予定で、そこではアジェンデが演説する予定であった。
(この場でアジェンデは国民投票の実施を発表する予定であった。これは事前にピノチェトに
告げられていた。クーデタはこの公表の前に実行する必要があった。)
しかしラジオが軍の不穏な動きを伝え、労働連合は緊急事態を発し、労働者に労働の場に集合する
よう要請していた。
ビクトルは労働連合の要請にしたがい、自分の職場である工科大に急いだ。
しかし工科大は人民連合の拠点として軍により目のつけられていた場所であった。
ビクトルの遺体は市の死体収容所でアルバイトで働いていた若い共産主義青年同盟員によって
発見されジョーンに連絡され、9月18日確認された。
ビクトルの目は厳しく、挑むかのように見開かれていた。
彼の手は折られたかのように不自然な角度で腕からぶら下がっていた。
ビクトルの遺体はほぼ2日間死体収容所に置かれていた。
ジョーンが伝え聞いたビクトルの最後の様子は以下のようである。
工科大には当日の朝、約6000人の学生と教師がいた。外は危険なため学内にいた人々は学内に
一晩とどまった。
その間ビクトルは歌ったりして人々を元気付けた。外では一晩中銃音が続いた。
翌朝戦車による攻撃が始まった。戦車が突入し、その場にいた人は暴力的に連れ回され
まずチリスタジアムに収容された。
ビクトルは軍人に認められると手荒い扱いを受けた。
14日にはビクトルたちは国立競技場に連れて行かれた。
そこでビクトルは最後の詩を書き、それは多くの仲間により書き写され外に持ち出された。
そしてそこでビクトルは正気を逸した凶暴な軍人により歌えるなら歌ってみろと罵倒され、
これに対し暴行で疲弊した体に鞭打ってスタジアムに響く大きな声でVENCEREMOSを歌い、
叩きのめされたのであった。
ビクトルの遺体は一度外に放置され、これは16日早朝近くの労働者街のビクトルを見知っていた
人により確認されている。
ビクトルは23日の41歳の誕生日を目の前にして恐らく15日に殺害されたのであった。
キラパジュン、インティ・イジマニ、パラ姉弟はチリの文化使節として外国に出ていて難を免れ、
長い亡命生活を余儀なくされている。
ビクトル・ハラの歌をはじめヌエバ・カンシオンは人々の心を鼓舞するものとして禁止された。
このような事態を歓迎した日本の作家がいた。曽野綾子である!