<<西欧のトロツキズム>>

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フィンランドのトロツキズム

 1963−1971年SKPのスロ・ヴァッカリSulo Vakkari が雑誌”階級闘争”を発行しエルネスト・マンデルと会っていた。
 1970年代初期若者グループが赤いグループPunikkiryhmat / Roda grupperを結成し、1974年革命的共産主義者VK(RK)となる。
 VK(RK)は再統一第4インターナショナルUSFI支持。
 最も著名なのはマリエラ・リンデンマルゲリタ・ジリアクス、彼女らは1974年マルクス主義フェミニストMF結成。MFの多くはSKDLの
女性メンバーであった。1970年代末MFはトロツキズムから離れていった。
 VK(RK)は学生運動勃興期、ベトナム戦争に反対したが戦争終焉でVK(RK)は1970年代後半斜陽し、ヘルシンキの中心メンバー
(ペッカ・ハーパコスキ、マリエラ・リンデンの弟セバシチャン)がスウェーデンに移り共産主義労働者同盟KAFに参加し分解。
 その他の地域では1980年代まで存在しミッシェル・ヴァルガ第4インター再建国際同盟の雑誌販売。
 1995年民主青年SDLNが左翼連合の青年組織化される際に共産主義者青年が結成されSKPy(SKP1997)のユハニ・ロヒコスキ
が指導者となる。SKPやトロツキストとの関係で1998年解散。これから1998年社会主義者同盟が結成され、これは数年後
国際社会主義者傾向に参加。
 2000年社会主義者同盟からマルクス主義労働者同盟が分裂、のちにマルクス主義労働者同盟の一部(ヤーリ・ペッカ・ライタマーら)
労働者インター委員会に参加し社会主義選択結成。社会主義選択は2002−2004年に活発であった。
 現在の主な活動的トロツキストは国際社会主義者傾向社会主義者同盟、とマルクス主義労働者同盟(ディミトリス・ミザラス、
第4インター再建調整委員会)。
 2004年地方選で社会主義者同盟はヘルシンキで共産主義者同盟(2000年共産主義者青年メンバー結成)、フィンランド共産党
(1997)と選挙連合、2000年地方選ではKTPと選挙連合、2007年議会選ではフィンランド共産党(1997)と選挙連合、あるいは
左翼連合のパーヴォ・アルヒンメエン(パーヴォ・アリヒンメキ?)Paavo Arhinmaenを支持。


ノルウェーのトロツキズム

 1928年オラフ・シェフロコンラド・ノルダール、ジャネット・オルセン(?)らが追放され、これにはトロツキーと似た考えのものいた。

 ノルウェーへの初期のトロツキズム運動の導入は主にドイツ亡命者によってなされた。
 なかでも重要な役割を果たしたのはヴァルター・ヘルドハインツ・エッペ)である。ヘルドは1934年ノルウェーに来住、
主にモット・ダグ・グループの知識人に接触した。彼はグループ創設者のエアリング・ファルクと親しくなった。
 1936年トロツキストとして共産党から追放されたジャネット・オルセンと雑誌10月(1937−1939年)を編集、10月グループ
を結成。これにはニルス・ダールらも投稿。
 10月グループにはヘルゲ・クロッグシグルド・ヘールアルヌルフ・オヴェルランドらが加わっていた。グループは国際的にはトロツキストと協力。
 ヘルドは1940年のナチスのノルウェー侵入でソ連経由で米国へ渡ろうとしてモスクワで逮捕処刑された。
 1936年ファルクモット・ダグ・グループから疎外されトロンド・ヘグナが指導者となり労働党に入った。
 ニルス・ダールもモット・ダグ・グループから追い出され労働党に加入。
 トロツキストは労働党特に労働者青年同盟AUFで左派となり戦中NKPに参加し、多くが1949−1950年のフルボトン事件に関連し追放された。
 この時期トロツキーに同情的グループはオラフ・シェフロ周辺グループであったが労働党左派らホーコン・メイヤーエルリング・オルセンのような
ナチス協力者が出現した。
 フィンランド戦争でフィンランドのトロツキストはトロツキーの路線に反対。ナチスの侵入でトロツキストは革命的敗北主義か
ナチスとの闘争かで混乱する。
 チェコスロヴァキア人アリオス・ノイラート、フランス人ダニエル・ゲラン、ウィリー・ブラント、ヴィルヘルム・ライヒなども1930年代
にオスロに滞在・亡命した。
 ドイツ占領でヘルゲ・クロッグシグルド・ヘールはスウェーデンに逃れオヴェルランドは逮捕・収容所送りとなったが生き延びた。
  
国際社会主義者IS〕
 ノルウェーのトロツキストは1968年前後の青年反乱で大した役割を演じなかった。
 戦後最初のトロツキストはAKP(ml)赤い青年Rの以前のメンバーが10月グループを結成(再建)。
 ISは1970年代の社会主義青年SU(SVの青年組織)の反対派に起源する。
 この反対派は2つのグループの連合で一方はイギリスのSWPの影響をうけており、他方はサンディカリスト傾向であった。
 このグループはSVの改良主義反対とNKP、AKPml反対で結びついていた。
 1980年代初期までに反対派はオスロ支部と機関紙青年社会主義者を支配。ベルゲン、トロントハイムでも支持者がいた。
 1981年SU指導部とSV(エリック・ソルハイム)は反対派排除を決めSUの解散再結成を行った。
 反対派は独自の組織労働者の力グループArbeidermaktgruppaAMG結成。これには10月グループの一部も参加。
 AMGには第4インター支持の小グループも参加。構成3派の和解が困難となり1985年大きな多数派が分裂、国際社会主義者
結成。少数はサンディカリスト連合(1977年再建)参加。
 1980−1990年代ISはある程度成長し反人種主義、反ネオナチス闘争やオスロの運輸部門の山猫ストに活発な役割
を果たした。2000年代初期ISは困難を経験、2001年には分裂でメンバーを失い、ATTAC組織結成でもメンバーを失った。
 2008年参加を決定。

 労働者の力グループの他のグループは赤色選挙連合RVに向かった。RV内のAMGは1990年代解散。
 革命同盟(1991年赤い青年RU、AKP(ml)などの旧メンバー結成)、AMG、IS旧メンバーは1999年同盟国際主義者FIN
結成、FINは2003年分裂しメンバーはRVやSVに参加。


スウェーデンのトロツキズム> 

 第4インターの社会党、第5インター同盟労働者の力労働者インター委員会社会主義正義党国際マルクス主義傾向
社会主義者などが存在。

 戦前はアメリカ帰りのペトルス・カールソンがトロツキズムを導入しようとしたが成功しなかった。
 これは共産党と社会民主主義者の中間のキルボムとフリッグの社会党が存在したことにも起因する。
 共産党はフリッグをトロツキストと批判したが彼はトロツキズム運動と組織的接触をしたことはない。
 しかし社会党の中から第2次大戦後トロツキズム運動が出現した。
 1940年左翼社会党が結成され、このグループからおもにストックホルムのメンバーが第4インターに接触し、1949年第4インター
支部となる革命的社会党が結成された。

革命的社会党(トロツキスト))
 1945年、エヴァルド・ヘグルンドとアントン・ニルソンらが左翼社会党VSPは親西側陣営の方向に滑り込んだとして分裂。 
 1949年、革命的社会主義者RSとして再建。スウェーデン最初の第4インター支部となる。翌年革命的社会党RSPとなる。
 間もなく第4インターはRSPに社会民主党SAPへの加入戦術を指示し、メンバーはこれに反対し、1953年解散。

社会党(トロツキスト)〕
 トロツキスト組織は1969年、革命的マルクス主義者として再組織。
 現SPは革命的マルクス主義者同盟RMFに起源がある。
 RMFは1969年、革命的マルクス主義者とクラルテ・グループ結成のボルシビキ・グループが統合してできた。
 RMFは1975年、共産主義労働者同盟KAFと名を変え、1982年、社会党と名を変えた。 
 1980年ボルシェビキ派が追放され社会主義同盟SF結成。
 国会選挙では1985年に最高の16247票を得ている。

 1989年追放されたグループが共産主義者同盟結成。これはアメリカのSWPの兄弟組織。
 1990年初期に小分裂があり開拓者潮流が形成された。
 1994年には小グループが第4インターの労働者の力第5インター同盟派)として分裂した。これに1996年社会主義正義党から
分裂したマルクス主義左翼が1988年参加。2001年労働者の力から社会主義選択Socialistiskt Alternativが分裂しこのグループは
左翼党や社会民主主義に関係する。
   YOU・TUBE

社会主義同盟SF)
 トロツキスト組織。1979年、共産主義労働者同盟KAFからボルシェビキ派が追放されて結成。
 第4インター統一書記局内のボルシェビキ派は1976年のボルシェビキ潮流の拡大として1978年に形成。
 SFはナウエル・モレノの国際労働者同盟の支部。
 1982年、SFに綱領潮流PTが参加、PTはKAF内分派として存在し、SFに参加するため離脱。
 PTはSF内の分派として存在。1985年一部はマルムベリエット労働者協会MAF結成し地方選挙に乗り出し、1988年国際グループ
連帯党(旧KFML)と統一社会主義者結成、1990年労働者名簿に参加し解散。
 PTは少数派を排除しSFを支配。
 排除されたの少数派は分裂したが1987年革命的社会主義者として再統合。
 革命的社会主義者は1990年労働者名簿参加、このの失敗で消滅。
 1988年の選挙ではSFはSPを支持しようとしたが、PTは社民党支持を提案し分裂して国際グループ結成。
 1990年、SFは労働者名簿Arbetarlistanに融合するがこの企てが失敗し、1993年、労働者名簿−選択を結成、
1994年、SPに再参加。

社会主義正義党
 1997年形成。トロツキスト。労働者インター委員会の支部。”労働者同盟−攻撃”から発展。指導者はペルオケ・ヴェステルルンド
 攻撃グループは1970−1980年代の社民党(と社会民主青年同盟)への加入戦術を行ったグループから発展。
 1992年社会主義グループが追放される。これはゼト・ヘグルンドの娘のグンヒルド・ヘグルンド(2007年死亡)が支持を
与えていた。
 社会主義正義党は2006年の選挙で1097票。地方議会に数議席確保。
 2009年欧州議会選挙は社会党と労働者イニシアチブとして独立候補擁立、2862票。


デンマークのトロツキズム> 

 デンマークのトロツキストの先駆者はマリー・ニールセンMarie Nielsenで個人的にトロツキーと関係を持ち、1929年DKPから
追放される。
 トロツキスト・グループ組織化の試みは1933年のヒットラー政権奪取でデンマークに逃れてきたドイツの左翼反対派のゲオルク・
ユンクラスGeorg Jungclasによる。彼はコペンハーゲンでドイツ人亡命者とデンマー−ク労働者に接触した。最初の重要な接触は
11月革命の講演のため1932年トロツキーをデンマークに招いたことのあるベルンハルト・ボッギルドBernhard Boggildであった。
 亡命者は通過的でデンマークには優秀なトロツキストはおらず亡命者は孤立。ユンクラスが接触した労働組合活動家にスヴェンド・
ヨハンソンがいた。ユンクラスはボッギルドをトロツキストにしようと試みた。トロツキズムに影響をうけた左翼社民は統一政権
の禁止の影響で1934年社会民主青年DSUを追放された。1930年代中期スヴェンド・ヨハンソンSvend Johansenに指導される
約20人の国際共産主義者(マルクス・レーニン主義)が存在した。DSUにポウル・モトPoul Moth,、タゲ・ラウTage Lau、オゲ・
キエルセAge Kjelsoらのグループが形成され約20人が社会主義労働青年SAUを結成し、雑誌”階級闘争”を発行。
 SAUは革命的青年組織国際局(ストックホルム・ビュロー)と接触。1935−1936年の雑誌”IKL国際青年情報”グループはイギリス
独立労働党支配のストックホルム・ビュローから撤退。イギリス独立労働党支持グループはSAUを解散し加入戦術によりDSUに参加、
レーニン主義労働者グループLAG結成。1936年ポウル・モトのグループがLAG参加、1937年LAGはノルウェー・トロツキストの
ジャネット・オルセンJeanette Olsen.と協力し小冊子第4インターナショナル発行。
 国際抗争の影響でモトのグループと亡命者中心の反モト・グループの抗争発生し更に1935年ボッギルドが自殺、1936年スヴェンド・
ヨハンソンが社民党に永久加入しグループは弱体化。
 1936年タゲ・ラウ、オゲ・キエルがスペインPOUMに参加、キエルはGPUの拷問に遭い辛うじてアナーキストに助けられる。
 ユンクラス周辺のグループはブランドラー派(ドイツ共産党右翼反対派共感グループ)等と関係。これらはモスクワ裁判に反対し
協力し1937年アルフレド・クルゼAlfred Kruse提案により社会主義協力活動を結成。トロツキストLAGは非トロツキストの
国際共産主義者グループIKを含んでいた。間もなく労働組合メンバーは社会主義協力活動から離れモト・グループは非協力的で
この組織は徐々に解散。モトはIKを国際共産党IKPとすることに成功、ユンクラスと他のグループはこれから離れる。
 ユンクラス・グループは1939年以前のDKUベルゲ・トロレBorge Trolle、組合活動家カルル・ハインリッヒ・ペテルセン
Carl Heinrich Petersenらと革命的社会主義者RS結成、モトのグループの多くは間もなくこれに参加し、IKPは失敗に終わる。
 RSはドイツ占領に対し抵抗闘争を行い1943年抵抗組織労働反対派を結成しかし1944年6月までにほとんどのトロツキストが
逮捕される。戦後1947年DKPの党路線不満グループとトロツキストが革命的共産主義者RK結成。
 RKは強制収容所経験の非公然活動重視グループと合法活動希望グループで分裂。もうひとつの問題は加入戦術でRKの半分
はこれを推進しやがて社民に同化。1948年にはモト周辺の少数グループが革命的共産主義者(第4インター)を称し、トロレの
グループはデンマーク国際共産主義者を組織。1949年RK(第4インター)は左翼社会主義青年VSUと合体し国際社会主義者IS
結成。デンマーク・トロツキストは1950年代独立労働党と協力したがやがで関係停滞。冷戦でほとんどトロツキスト運動壊滅。
 ISは1954年DKPに加入、モトらの少数が加入に反対しDKP、社民の外で活動。
 1955年ゲオルグ・モルトヴェドGeorg Moltved(ラルセンらの入閣に反対し1950年DKP追放)がマンデルによりFIに勧誘される。
 1956年のフルシチョフ秘密演説とハンガリー介入の結果デンマーク社会党Danmarks socialistiske Parti DSPが結成されこれに
旧DKPメンバーなどとISメンバーも参加。1959年のSF結成でDSP解散しDSP左派は革命的社会主義者RS結成。RSは徐々に
トロツキスト化を強めFI国際書記局のデンマーク支部となる。
 トロツキストはこの時期反帝国主義運動を強化、アルジェリア革命を支持、また核兵器反対運動左派活動家が結成した広範な
フォーラムで議会外運動の61グループ(SUF、DKU、DSU、RSなど参加)に参加、グループ61からは後に社会主義行動
SoaK Socialistisk Aktionが発生。RSとSoaKはベトナム反戦運動に大きな影響を与えた。
 1967年SFから左翼社会主義者VSが分裂しRSメンバーはVSに移った。SFの青年組織社会主義青年フォーラムSUFは
トロツキストが支配しVSに移った。1971年SUFはFIに加盟しRSは解散。1972年革命的社会主義者同盟RSF
Revolutionare Socialisters Forbundが結成される。これに不満なグループでVSで活動継続のグループはVS内で革命的社会主義者
グループ結成。
 SUFは1972年RSFと名を変え、マンデルにより承認され国際分析採用。マンデルは68年反乱が新世代前衛として結晶化したと
述べる。しかしやがてRSFはマンデルと意見相違となる。
 1981年RSFは社会主義労働者党SAPとなる。

社会主義労働者党SAP〕
 トロツキスト政党、再統一第4インター支部。1980年、革命的社会主義者同盟(1972−1980年)の後継として設立。
 赤−緑連合の共同設立者。
 1983−1988年書記のソレン・ソンデルガードは1994−2005年国会議員、2009年ヨーロッパ議会選挙で反EU人民運動
から当選。オレ・クラルップの病気で彼の代わりに2007年からヨーロッパ議会議員。
 反EU人民運動は1972年結成の政党横断組織。伝統的基盤は左翼と労働組合メンバーであるが無党派や非社会主義者メンバー
も存在。右派ヨーロッパ懐疑主義のデンマーク人民党とだけは距離を置いている。オレ・クラルップソレン・ソンデルガード
欧州統一左翼北欧緑左翼に参加。


<アイルランドのトロツキズム>

(革命的社会党 RSP) 1944−1947年
 最初のアイルランドの公然トロツキスト党、オブライエンとラーキンの反目によるアイルランド労働組合運動と労働党の分裂に
引き続き形成された。
 間もなく消滅、マット・メリガンが青年メンバーであった。

アイルランド労働者グループ
 アイルランド労働者連合に起源し種々のマルクス主義者グループを含む。アイルランド共和主義を背景とするものやゲリー・ローレス
シ−ル・エーレに参加。
 毛派とトロツキストに分裂。毛派はブリテン・アイルランド共産主義者組織となる。トロツキストはアイルランド労働者グループIWGとなる。
 1967年までにIWGはロンドンの亡命活動家を拠点とし活動に失敗、雑誌をショーン・マットガンマに渡す。
 他のメンバーではSWP指導者イーモン・マッカン人民民主マイケル・ファレルに影響を与えた。1960年代末までに存在停止。
 1976年に社会主義労働者運動から分裂したグループもアイルランド労働者グループを名乗る。
 
労働者共和国同盟LWR〕
 1968年アイルランド労働者グループによって結成。ICFI加盟。
 英国のアイルランド移住者を中心とするアイルランド労働者グループはブレンダン・クリフォードの毛派のアイルランド共産主義者組織ICと
ピーター・グラハム、ショーン・マットガンマ、ゲリー・ローレスのトロツキストに分裂。
 このグループはロンドンを拠点としているためアイルランドでは不活発。
 パディー・ヒーリー(元アイルランド教師連合議長)、キャロル・クルター、バジル・ミラー(学生活動家)などが主要人物。
 英国トロツキストの影響と国際組織加盟問題で分裂発生。
 1970年ICFI支持少数派が労働者前衛同盟として分裂。1972年のICFI分裂で労働者同盟となる。1978年解散。
 1972年革命的マルクス主義グループ分裂(USFI支持派)、1976年社会主義共和国運動となり1978年社会主義民主に参加。
 このグループではベティ・プルセル、アン・スピード(シン・フェイン)が著名。

 1971年社会主義労働連合結成でメンバー参加。パディー・ヒーリーらは労働党で活動。
 1970年代中期社会主義労働党に参加。
 パディー・ヒーリー、キャロル・クルターらが1987年フランス人ピエール・ランベールと衝突。キャロル・クルター、アレックス・ホワイト
(労働党)らはトロツキズムから離れる。パディー・ヒーリー、セアムス・ヒーリー(2000−2007年TD、2007年元同グループの労働党
フィル・プレンダーガストに敗北!落選後撤退)らは留まる。
 セアムス・ヒーリーは1985年南ティペラリで労働者失業者行動グループを結成し成功する。

社会主義労働者党SWP〕
 SWPは社会主義労働者運動SWMに起源する。
 社会主義労働者運動SWMは英国の国際社会主義者(今のSWP)の北アイルランド支持者が1971年結成。
 これらは以前は人民民主、ウォーターフォード社会主義運動、青年社会主義者のメンバーであった。
 多くのメンバーは新しい社会主義労働連合で活動していた。
 SWMの一部は分裂してアイルランド労働者グループを結成、のちに労働者の力となった。
 1977年にSLPが結成されるとSWMはこれに参加、分派社会主義労働者傾向を結成。
 1980年にSWMを一新するためにSLPを離脱。SWMは長い間労働者党のようなスターリニスト組織の影にかくれていたが1989年
の東欧陣営崩壊後成長。SWMはスタリニスト官僚の国家資本主義への革命としてこれを支持。トリニティー・カレッジやダブリン大などに
主要なグループを形成。
 1995年SWPとなる。1997年から国会や地方政府選挙に参加しているがほとんど成功を収めていない。
 2007年総選挙では”利益の前の人民連合”の旗で4人の候補(うち3人がSWP、リチャード・ボイド・バレットら)をたてた。
 ジャーナリストのイーモン・マッカンが著名、彼は2004年EU選挙で北アイルランド選挙区で社会主義環境連合ゴレッティ・ホーガン
として9127票、1.6%獲得。国際社会主義傾向所属。
 主な人物はブライアン・マニング(歴史家)、コノール・コスティック、キーラン・アレン(社会学者)、ジョン・デ・クルシー・アイルランド
ジム・ケリー(労働運動指導者)など。
 ロリー・ハールンはトリニティー・カレッジ学生連合の代表でアイルランド学生連合の副代表。

社会党〕 1996−
 1970年代から1980年代労働党に加入し、ミリタント労働を結成し、1989年アイルランド労働党から追放されたミリタント傾向
1996年結成した小トロツキストグループ。労働者インター委員会に所属。
 1996年北アイルランドフォーラム選挙ミリタント労働北アイルランド労働党ニュートンナビー労働党労働連合結成し
0.85%しか獲得できず。
 1997年、2002年ジョー・ヒギンズが国会議席確保。2007年選挙は0.64%で議席確保できず。
 他に市議としてミック・マーフィ(元学生運動活動家)、クレア・ダリー(元学生運動活動家)、ルート・コピンガーら。
 2009年欧州議会選挙でジョー・ヒギンズが当選。

社会主義労働党SLP)
 1977年、ATGWAのダブリン書記のマット・メリガンと国会議員ノエル・ブラウン、ジャーナリストのブライアン・トレンチらが結成。
 ノエル・ブラウンクラン・ナ・ポブラヒタフィアナ・フォール民族進歩民主、労働党、SLPと渡り歩いてきた。
 設立者は1975―1976年にフィアナ・ファイルとフィアナ・ゲールの既成政党によるアイルランド社会の文化的・経済的不毛と向かい合う
ことを目的とする進歩組織と個人の連合組織、左翼選択を樹立しようとした労働左翼連絡委員会の出身であった。
 1980年代初期まで民族主義色を強め、1981年ノエル・ブラウンが離脱。
 SLPは党内に分派形成を認めた。最も著名なのは社会主義労働者運動の周辺に形成された社会主義労働者傾向で1980年離脱、
アイルランド労働者グループ周辺に組織された行動のための労働者連合は1979年離脱、人民民主周辺の共和社会主義傾向も1979年
離脱。SLPは1982年解散。

社会主義環境連合
 デリー拠点のトロツキスト傾斜組織。過去にアイルランド共産党ニュートンナビー労働党北アイルランド労働党から1970年代独立)
の支援を受けていたが主にSWPで活動。2003年北アイルランド選挙でイーモン・マッカンらが立候補。
 2004年EU選挙ではイーモン・マッカンが1.6%、2007年北選挙は0.3%。

労働者の力
 1970年代社会主義労働者運動での分派から発展、1976年追放されアイルランド労働者グループを結成。
 これは第5インター同盟L%Iに加盟。
 2000年代までに雑誌階級闘争を廃止、英国の労働者の力の雑誌を配布。
 ダブリン、デリー、ゴールウェイなどで活動。臨時IRAを支持。
 労働者共和国同盟、社会主義民主、社会主義労働者運動を民族主義、中道主義と批判。今日まで継続IRA(1986年臨時IRA
から分裂)や真のIRA(1997年臨時IRAから分裂)を反英帝戦闘勢力として支持。
 2006年ほとんどのアイルランド人L5I支持者は英国の永続革命グループとともにL5Iから追放される。

人民民主PD〕
 1968年10月5日の王立アルスター警察の北アイルランド市民権協会NICRAのデリー行進襲撃のあと結成。
 NICRAより急進な北アイルランド政府の改革を要求。
 王立大ベルファスト学生のベルナデット・デヴリンマイケル・ファレルシリル・トマンらが結成に参加。
 PDは1960年代のクイーンズ大の労働クラブ(労働学生の先駆)と青年社会主義者連合を握った種々の左派学生メンバーから生まれた。
 1968年事件以来PDはますます急進化し多くのメンバーが毛沢東主義に向かった。
 1971年社会主義労働連合結成に参加。
 1970年代にダブリンを基礎とする社会主義共和国運動と合流しトロツキズムの立場に展開、1976年再統一第4インターのアイルランド
支部となる。
 1970年代中期アルスター王党派をファシストとしてアイルランド共和主義政府支持を要求するグループは離脱し左翼革命グループ結成。
 コノグループは1976年赤色共和党となり1978年消滅。
 1969−1974年ベルナデット・デヴリンがウェストミンスターから議席を確保。
 シン・フェインが選挙をボイコットしていた1980年代、ベルファスト市議会にフェルグス・オハレら2議席確保。
 PDは批判的に臨時IRAを支持。
 1979年のHブロック結成で70年代末から80年代初めに左傾化したシン・フェイン参加が議論となった。
 シン・フェインのボイコット終了でPDは政治危機に陥った。
 1982年から活動家はPDを離れシン・フェイン参加。
 1986年少数派はSF参加、多数派は小情宣グループとなる。
 1990年代初期マルクス主義綱領アイルランド委員会に着手、1996年これが終焉、社会主義民主となる。
 社会主義民主はベルファスト拠点の小グループ、2004年この都市の以前のSWPメンバーグループの国際社会主義者と合流。

社会主義労働連合
 1970年青年社会主義者を含む労働党メンバーにより社会主義労働行動グループが結成される。
 1971年結成会議には個人のほか人民民主、青年社会主義者、労働者共和国同盟、ウォターフォード社会主義運動が参加。
 ついで参加者・組織の多くは社会主義労働者運動革命的マルクス主義グループを結成。

シ−ル・エーレ) (1967−1975年)
 IRAメンバーとトロツキストからなる急進アイルランド共和組織。
 1967年青年社会主義者のピーター・グラハム、モリーン・キーガン、アイルランド労働者グループのゲリー・ローレス、前のIRAの
ダブリン旅団の司令官フランク・キーンらが結成。シ−ル・エーレは都市ゲリラを志向。労働者階級が武装闘争に中心と考える。
 1967−1970年に銀行強盗を実行。メンバーの死亡などにより1975年解散。


イギリスのトロツキスト

古いトロツキスト) 共産主義者同盟マルクス主義者グループミリタント・グループRSL労働者国際同盟WIL、RCP
 共産主義者同盟はブリテンの最初のトロツキストグループ。1932年CPGBの元メンバーが結成。
 CPGB内でハリー・ウィックスらがトロツキストのバルハム・グループを形成(後国際左翼反対派英国支部)、
1932年追放され共産主義者同盟を結成。1933年トロツキーによりILPに加入するよう指示されたが、指導部は拒否し、
デンジル・ディーン・ハーバーに率いられた小集団がILPでボルシェヴィキ・レーニン主義者分派を結成し、1934年、
マルクス主義者グループを形成、、これにシリル.L.R.ジェームズ南アフリカから移ってきたテッド・グラントらが参加。
 1936年、ILP党会議でグループは第4インター加盟を求め、拒否され追放される。ILPの外でグループはマルクス主義者同盟
と一緒に活動を始めた。
 共産主義者同盟は徐々に発展し、分裂を繰り返し1930年代後半労働党内にボルシェヴィキ・レーニン主義者が形成された。
 そこで共産主義者同盟は解散し、メンバーは労働党に入り、ハリー・ウィックスに率いられマルクス主義者同盟となる。
 ウィックスはマルクス主義者グループの指導者シリル.L.R.ジェームズと親密に活動し1938年両グループ(マルクス主義者
グループとマルクス主義者同盟)は革命的社会主義者同盟(1938)RSLとして合流。

 1935年、労働党に加入したマルクス主義者グループの以前の指導者デンジル・ディーン・ハーバーミリタント・グループ
を結成。これに1934年CPGBから分裂しトロツキストになったジョック・ハストン率いるパディントン・グループが加入。
 1937年、ラルフ・リーに率いられた南アフリカのトロツキスト・グループ(リー・グループ、チャーリー・ヴァン・ゲルデレンなど)が
ロンドンに現れ、ハストンがミリタント・グループに引き入れた。
 1937年、グラント、リー、ハストン、ゲリー・ヒーリーらが分裂して労働者国際同盟WILを結成。

 革命的社会党RSPは当初、国際社会主義労働党と名乗り、社会労働党SLPのスコットランドを基礎とする分派から出現し
1930年代初期にSLPから離れた。1937年ILPに接近したがトロツキストとして拒否された。
 1938年、ジェームズ・キャノンマックス・シャハトマンはロンドンにきて、4つのブリテン・トロツキスト・グループを
統合しようとした。RSLミリタント・グループ革命的社会党RSP、は合流して新革命的社会主義者同盟RSLを結成したが
労働者国際同盟WILは拒否した。新RSLは新第4インターのブリテン支部となった。彼らは労働党加入に関わったメンバーの
統一戦線としてミリタント労働同盟を維持し、ミリタントを発行した。

 WILは労働党、CPGB、ILP、マルクス主義者グループから補充し成長した。
 RSLと異なり、WILはトロツキーのプルレタリア軍事路線を採用。1941年以降、戦争支持、反ストライキのCPGBに反対。
 WILは労働組合に目を向け、労働党加入に優先させた。ILPメンバーやアナーキストと戦闘的労働者同盟を結成し、労働組合
の活動家を支援した。1943年までノッティンガムの軍需工場に労働者統制を受け入れさせた。
 1944年、第4インターはWILが効果的でFIの政策にRSLより近いと認め、分裂していたRSLとの統合を進め、革命的共産党
RCPが結成された。

 RSLは第2次世界大戦中、敗北主義を採用し、WILに平和主義と見なされた。準職場委員連合が1940年にこの立場を採用、
このため労働党は戦闘的労働者同盟を禁止した。
 RSLの路線はグループ内及びWILとの抗争を巻き起こした。
 1939年、RSLから革命的労働者同盟RWLが分裂した。これには間もなくアイザック・ドイッチャーが加わった。
 1940年、RWL多数派はWILに参加。他は1941年RSLに戻った。別の分裂により社会主義労働者グループが発生し、
これはILPに加わった。この一部が1942年にRSLから追放されたトロツキスト反対派に加わわり、このジョン・ローレンスに率い
られたグループはWILに合流した。
 1943年、平和主義をとる左派は追放された。
 1944年、第4インターの介入により結局RSLは左派と再統一しWILと新しい革命的共産党RCPを結成した。
 旧RSL左派は労働党加入戦術をとり1945年追放された。左派は1967年までに活動停止。
 
革命的共産党RCP) 1944−1949年
 1944年、第4インターの介入によりRSL(1938−1944)はWILと新しい革命的共産党RCPを結成した。
 デンジル・ディーン・ハーバージョン・ローレンスが指導した。
 新党は労働党への加入戦術を維持し、この分派はチャーリー・ヴァン・ゲルデレンに率いられ、ミリタントを機関紙として維持した。
 党は産業戦線に焦点を置いた、そこでは1941年以降、CPGBが超愛国主義に転換していた。
 RCPは警察の介入を受け指導者は逮捕された。
 この産業戦線を進めるためILPとアナーキストと一緒に戦闘的労働者同盟を組織した。

 1947年、党は労働党加入戦術問題で分裂した。ジョック・ハストンは反対し、ゲリー・ヒーリージョン・ローレンスは賛成し、
分派を形成した。労働党外での存在は困難だった。RCPのメンバーと影響は衰退し始めた。
 新しい東欧体制がRCP内に議論を巻き起こした。
 斜陽しても新しい方向は見つからず、労働党加入が議論となり、指導部は結局1950年、解散と労働党参加をきめた。
 インターはRCPにヒーリーの加入グループ”クラブ”参加を指示した。
 ハストンらは政治から身を引き、テッド・グラントらはヒーリーから排除された。トニー・クリフ周辺は追放された。
 クリフは雑誌社会主義評論の周囲に支持者を再結集し、グラントは革命的社会主義者同盟RSL(1957−1964年)を形成した。
 RSLは労働党に加入し、1964年雑誌ミリタントを発行しまもなくミリタント傾向となる。
 多くのRCPメンバーは1951年までトロツキズム運動から去った。
 クラブは1959年社会主義労働同盟SLLとして再構築された。SLLは1973年労働者革命党となる。

国際グループ
 1961年、RSLから分裂。(パット・ジョーダンケン・コーツ)1968年、国際マルクス主義者グループとなる。
 1985年、国際マルクス主義者グループから分裂、1987年、社会主義者グループ(1983年WSLから分裂)と合流し
国際社会主義者グループとなる。

(国際マルクス主義グループIMG) International Marxist Group 
 1968−1985年。再統一第4インター支部。1970年代は1000名、1983年は約700人のメンバー。
 パット・ジョーダンケン・コーツが結成した国際グループからIMGは出現した。
 彼らは1956年CPGBのノッチンガム大会で分裂した。彼らは1950年代短期間革命的社会主義者同盟(1957−1964年)
RSLのメンバーであった。
 彼らは1961年RSL指導部に反対し分裂し国際主義者グループを結成し、(RSL同様)第4インターに加盟。
 ISFIが再統一第4インターに代わりその統一書記局はRSLに国際主義者グループとの統一を提言した。
 1964年、しかし統合は受け入れられなかった。
 国際主義者グループは以前のSLLの一部(チャーリ・ヴァン・ゲルデレンら)と国際グループを結成。
 1965年FIはRSLをシンパ・グループに降格し、国際グループを同じ地位とした。
 RSLはFIを去りミリタント傾向となった。国際グループは労働党に加入した。
 1968年、国際グループは国際マルクス主義者グループIMGとなった。1969年、再統一第4インターブリテン支部となる。
 グループは学生運動と労働運動に注力し、組織的加入戦術は放棄するようになった。
 革命的共産主義者同盟が1969年、労働党加入を希望するIMGからの追放者とミリタント傾向の2つのグループからのメンバー
により結成された。
 1968年、パット・ジョーダンがインターナショナル(1969−1980)発行。IMGの種々の潮流が種々の新聞を発行。
 潜行していた加入が破られた。
 1968年、タリク・アリが黒い小人発行。この新聞の創造性・多様性は多くの人を惹きつけ、ジョン・レノンも友好的だった。
 RSLやSLLが活動しなかったベトナム連帯運動ラッセル法廷で活動しアーニー・テートが著名である。
 労働者統制研究所と革命的社会主義者学生戦線ではピーター・ゴーワンとマレー・スミスが活発であった。
 IMGはヴェトナム、キューバ、チェコスロヴァキア、南アフリカ、ボリヴィア、メキシコとの国際連帯運動を支援した。
 国内では1970年代、議会政治を拒絶した。
 1970年、黒い小人編集部がレーニン主義問題で分裂、赤いもぐら発行。IMGメンバーはニュー・レフト・レヴューの発行
にも参加。タリク・アリロビン・ブラックボーン、クインティン・ホアレらが編集に加わった。
 1973年、レッド・ウィークリーに代わる。
 1970年代いくつかの緩いグループが形成された。
 アラン・ジョーンズ、ブライアン・グローガンらの指導部、パット・ジョーダンタリク・アリニュー・レフト・レヴューの編集者の
IMG支持者の著名な少数派、米国SWP支持少数派、WSLに移行した小グループ。
 1976年、マルクス主義労働者合流。
 1977年社会主義者挑戦がレッド・ウィークリーにとってかわる。
 1979年総選挙では社会主義者統一を発議、当初SWPとの連合が提案されたが拒否され、準毛派のビッグ・フレーム
(1980年アナーキストが合流したが1983年解散)が参加した。
 1980年、トニー・ベンの運動がIMGを労働党に目を向けさせる。
 1981年、革命青年を結成、労働党青年社会主義者に加入。
 労働党加入の第2の波が訪れ、1982年USFIの小さなグループ社会主義行動同盟と統合し労働党に加入。
 1982年社会主義者同盟(あるいは社会主義行動)と改名し労働党に完全加入。
 ケン・リヴィングストンアーサー・スカージルのような人物とどう関係すべきかで異なった潮流発生。
 1984−1985年鉱山ストライキの敗北で3グループに分解。
 最大少数派が1985年、国際グループ結成。1987年社会主義者グループと統合国際社会主義者グループとなる。
 多数派はケン・リヴィングストンアーサー・スカージルを支持、社会主義行動として加入。
 1988年、第3派が共産主義者同盟結成。

国際社会主義者グループ
 1987年国際グループ社会主義者グループが結成。このグループは労働党内で活動、1990年代の労働党左派の後退の影響
を受け分裂を繰り返した。
 2009年社会主義者抵抗に合流。
 社会主義者抵抗は2002年社会主義連帯ネットワーク、国際社会主義者グループ、その他個人が結成。創設メンバーには
スコットランド社会党SSPの指導者(フランス・カランカトリオナ・グラント)を含む。

革命的共産主義者同盟
 1969年、労働党加入を希望する国際マルクス主義者グループIMGからの追放者とミリタント傾向の2つのグループからのメンバー
により結成された。同盟は労働党議員左派のトリビューン派と社会主義憲章を推進。
 1973年に右に移行、アル・リチャードソンらはグループから離れた。分裂が展開し右派は労働調整委員会に接近、少数派は
労働短信に関係。

社会主義行動
 1982年、国際マルクス主義者グループが労働党に加入し結成。公式には社会主義者同盟。
 1985年少数派が国際グループ(1985)結成、1987年、社会主義者グループと合流し国際社会主義者グループISGとなる。
 1988年別の少数派(開拓者傾向支持グループ)が共産主義者同盟結成。
 ISGは労働党内で活動しケン・リヴィングストンおよび議員グループ社会主義運動グループの支持者となった。
 全国中絶運動、核非武装運動人種主義反対全国会議、各種戦争反対運動などの各種運動に参加。
 ISGは1991年再統一第4インター派となったが、1995年社会主義行動が代わって再統一第4インター支部となった。
 
(ミリタント傾向MT) Militant tendency ミリタントの興隆
 1964年、労働党加入グループが結成。1975年、加入戦術が労働党により暴露される。
 1985年からの労働党の一連の動きでミリタントの労働党への影響は終わる。1991年、最終的に労働党を諦める。
 1997年社会党(イングランドとウェールズ)となる。

 テド・グラント、ジミー・ディーンピーター・ターフェらの革命的社会主義者同盟RSL(1957−1964年)は労働党に加入し、
1964年雑誌ミリタントを発行しミリタント傾向となった。
 1969−1972年にミリタント支持者は労働党青年社会主義者多数派となり始め1972年にはっきりと全国委員会多数派となった。
 1972年労働党全国大会でミリタント支持者のパット・ウォール、レイ・アップスが主要独占企業の公有化をを求める動議を提案し
3501000対2497000で通過。
 1983年総選挙でミリタント支持者テリー・フィールズリヴァプール・ブルードグリーンから当選。コンヴェントリー北東からは
デイヴ・ネリストが当選。これは1966年の国際社会主義者グループのシド・ビドウェル以来のことであった。
 1983年労働党全国執行委員会はミリタント編集部のピーター・ターフェ、テド・グラントら5名を追放、これは大労働組合の支援で
全国大会で5160000対1616000で承認された。
 1991年国会議員テリー・フィールズが労働党から追放される。同年のミリタント全国編集部会合で公然転換派が多数派となる。
 多数派はミリタント労働と称し、テド・グラント、アラン・ウッドの少数派は雑誌社会主義の訴えの周辺に結集。
 ミリタント労働は1997年社会党(イングランドとウェールズ)となる。

〔労働者革命党 (WRP)〕 Workers' Revolutionary Party
 トロツキスト、1970年代ないし1980年代初期結成。
 WRPは革命的共産党RCPのゲリー・ヒーリージョン・ローレンスの分派から成長。RCPは労働党への加入を主張し、
第4インター指導者もこれを議論した。多数派は1947年これを拒否、ヒーリーらの分派は分裂し労働党内でクラブとして活動。
 翌年RCP多数派はクラブ参加を決定。
 1948年、労働党左派組織結成のためクラブに労働党左派と労働組合指導者が参加し新聞社会主義展望を発行。
 1953年第4インター国際委員会ICFIが結成されクラブがブリテン支部に認められた。
 社会主義展望は1954年労働党によって禁止され、クラブは雑誌トリビューンを配布。
 ハンガリー革命でのCPGBに態度への幻滅した人々(ピーター・フライヤークリフ・スローターなど)と労働組合
ブライアン・ベハンなど)から補充されてグループは成長した。これにより1959年、独立の始めての公然組織として
社会主義労働者同盟SLLが結成された。彼らは依然労働党にとどまり、その青年組織青年社会主義者で活動し、
1964年解散されるまでその支配権を握った。
 1959年、フライヤーが去り、1960年、離脱者が連帯を結成、これはコルネリウス・カストリアディスに強く影響されていた。
 1963年、SLLの指導部は自分たちをブリテンの革命派であるべきと主張し、党結成を重要と考えた。
 日刊紙ワーカー・プレスを1970年代発行、メンバーの転向が増加し警察の浸透を恐れ始めた。
 この頃労働者革命党WRPとなる。
 世間の注目を浴びるようになり、党内外の不和が話題に上るようになった。
 その1例がカナダ人トロツキストのアーニー・テートの警察による攻撃事件である。
 労働党を去り、WRPはサダム・フセインやガダフィ大佐などのアラブ民族主義者グループ支援を主張した。
 1970年代中にメンバーが徐々に減少したがヴァネッサ・レドグラヴ(著名女優)などが加わった。
 アラン・ソーネット(CPGBから1966年SLL加入)が追放されたとき大きな分裂が起こり、労働者社会主義者同盟が結成された。
 1979年分裂により労働者党が結成された。
 1980年代初期新聞はWRPがガダフィから財政的支援を受けていると主張、またリビアやいくつかの中東政府から金を受け取って
いたといわれる。
 1980年代初期党はゲリー・ヒーリーとシェイラ・トレンスのグループWRP(ニュースライン)とクリフ・スローターのグループ
(ワーカーズ・プレス)に分裂した。
 1987年、シェイラ・トレンスは労働者国際同盟を結成し1997年、労働者行動となる。
 1986年、WRP多数派がICFIから分裂した時、ICFI支持派はWRPを離れ国際共産党を結成、1996年社会平等党SEPとなる。
 1986年、ヒーリーがWRPから追い出され、ヒーリーに忠実なICFIはWRP(ニュースライン)を追放し、彼はヴァネッサおよび
コリン・レドグラヴマルクス主義党(ー2004年)を結成した。1989年のヒーリ死後斜陽し、1900年、追放者が共産主義者同盟
を結成した。
 WRP(ワーカーズ・プレス)は分裂に苦しみ、1996年、社会主義運動となった。
 トレンスのWRPが現在はWRPとして存在している。

〔労働者自由連合AWL〕 Alliance for Workers' Liberty トロツキスト、 (1969年−)1993年−
 1966年、ショーン・マットガンマSean Matgamnaミリタント・傾向革命的社会主義者同盟RSLを内部志向と批判し、RSLから
追放され、労働者戦闘を結成、1969年、国際社会主義者IS(のちSWP)の申し出を受け入れ、分派トロツキスト傾向となる。
 しかしトロツキスト傾向はISと意見の相違があり、ISからの離脱を要求される。
 1976年、労働者の力(旧IS内左派分派)と統合し国際共産主義者同盟ICLとなる。小集団がマルクス主義者労働者グループ
を形成しのち国際マルクス主義者グループIMGと統合。労働者戦闘は労働者行動と名を変え、労働党内で活動を行い、
1978年、労働者勝利社会主義者運動SCVLを立ち上げる。
 これに労働党左派が関係し、SCVLの新聞社会主義者組織者を支援するが、数々の議論により労働党左派は社会主義者組織者
から撤退する。1979年まで機関紙・誌が廃止され、これが労働党への加入に影響する。
 1981年、ICLはアラン・ソーネット労働者社会主義同盟WSLと合流しこれは労働党に加盟。これはフォークランド戦争
で分裂。
 社会主義者組織連合が労働者勝利社会主義者運動から発展し、マットガンマの分派(WSL内)となる。
 グループは労働者学生全国組織NOLSで学生組織化を決め、社会主義学生を結成し、全学連内で運動。
 1990年社会主義者組織者が労働党により禁止され、これにより社会主義者組織連合が解散。
 1985年WSLが分裂、社会主義者グループが結成され、これは1992年、国際グループと合流国際社会主義者グループとなった。
 1992年、小集団が離脱し、国際社会主義者グループに参加。
 1993年、社会主義者組織者の編集者が労働者自由連合AWLに乗り出すがこれは徐々に労働党から焦点を移す。
 1998年、AWLは社会主義者連合設立を支援。後に社会主義者連合民主綱領を支援し、2005年、総選挙では
社会主義者緑統一連合の一部として候補を立てた。
 自由教育運動非商業教育を通じて英国全学連NUSに影響、2004−2006年カット・フレッチャーがNUS議長となるが、
間もなくグループを離れ右派組織へ移る。

赤党
 2004年、CPGB(準備中央委員会)労働者自由連合AWL、平和党の旧メンバーが結成。
 政治的にはCPGB(準備中央委員会)の赤色綱領の継続的要素がある。これは2004年CPGB(準備中央委員会)レスペクト−統一連合
の選挙支援に反対し社会主義者連合民主綱領に復帰させることを目的とする。これには勝利したが雑誌出版論争で多くのメンバーが去る。
 2005年、意見の相違により分裂、モーリス・ブリンストンの著作と連帯の影響で労働者自由連合に向かう者が発生。
 残ったメンバー(赤い星)は自分たちを絶対自由左翼の一部と考え、階級戦争アナーキスト連合
サレイ・アナーキスト・グループで活動する同志がおり、絶対自由マルクス主義を維持し、社会主義連合(準備)を通して伝統左翼とも関係。

連帯
 1960年社会主義労働同盟から追放されたグループが結成。コルネリウス・カストリアディス社会主義か野蛮かの影響を受ける。
 知識人指導者はクリス・パリスモーリス・ブリンストン)。
 メンバーは少なかったが出版活動で影響を与える。1960年代初期は平和運動の100委員会、1980年代初期はポーランド連帯運動などで
主要な役割を果たす。1981年まではロンドンのグループと全国的組織が存在、ロンドン・グループは1992年まで出版活動を行う。
 左翼共産主義者の世界革命国際共産主義者潮流)や準ボルディガ派の共産主義者労働者組織(1970年代中結成、革命党国際局所属)
にも影響を与える。

〔スコットランド社会党SSP〕 Scottish Socialist Party
 スコットランドの左翼政党で社会主義者の経済綱領とスコットランド独立を運動する。
 支部構造と支持者網または運動グループや党内の開かれた分派(プラット・フォーム)よりなる。
 
 SSPは1997年の選挙での連合の結果から新スコットランド政府の最初の選挙に単一党で参加するためスコットランドの
左翼連合組織であるスコットランド社会主義者連合(1996−1998、社会主義者グループが形成)から形成された。
 結果は思ったよりよく、全国会議招集者トミー・シェリダンTommy Sheridanがグラスゴーから選出された。
 更にスコットランドの社会主義労働者党SWPが参加し、また鉄道・海運・運輸労組RMTが党に加盟した。
 2003年には5議席増の6議席となった。
 2004年、トミー・シェリダンが個人的理由で代表convenerから辞任しコリン・フォックスに代わった。
 2006年、シェリダンは離党し連帯を結成すると宣言。
 2007年選挙では全議席を失い、得票率で社会主義労働党SLPの後塵を拝した。
 (連帯1.5%、SLP0.7%、SSP0.6%、2003年は6.7%)

 現在のプラット・フォームは共和共産主義者ネットワーク(1999年ー)、労働者統一プラットフォーム(1999年ー)、連帯傾向
(2006年ー、労働者自由連合支持者よりなる)、以前のプラット・フォームには国際社会主義者運動(1999−2006年)、
国際社会主義者(2001−2006年)、この2者は労働者インター委員会CWI英国支部から出現、スコットランド共和社会主義者
運動(1999−2006年、スコットランド共和社会党から出現)、社会主義労働者党SWPのスコットランド支持者(2003−2006年、
2006年連帯参加)、統一左翼(2006−2007年)。

〔社会主義労働SLP〕 Socialist Labour Party
 1996年、全国鉱員労組NUM指導者アーサー・スカージルArthur Scargillがトニー・ブレアの労働党の方針に反対して結成。
 著名な労働組合活動家のミック・リックスGMB執行委員)、ボブ・クロウRMT書記長)やCPGB(準備中央委員会)
革命的民主グループ(1980年代SWPから分裂)、共産主義労働者連合ACW、国際ボルシェヴィキ傾向(トロツキスト)、
経済・哲学科学評論グループ(元労働者革命党WRP、トロツキスト)などが参加。
 スカージルのそのような組織やトロツキストへの不信から彼らは追放された。
 スカージルは最初経済・哲学科学評論グループや第4インター支持者幹部を受け入れるつもりであった。
 2001年総選挙で0.2%、57288票(SSP0.3%、72516票、社会主義者連合0.2%、社会党0.0%、CPB0.0%)
 2005年もほぼ同様の結果。

〔社会党(イングランドとウェールズ)〕 Socialist Party
 労働者インタ−委員会に所属。
 以前のミリタント傾向MTでこれは1964年、労働党内で活動する、労働者と青年のマルクス主義者の声として結成された。
 1983−1987年にリヴァプール市議会の保守党政権にたいする闘争で主導的役割を果たした。
 1980年代ミリタント傾向は労働党議員テリー・フィールズデイヴ・ネリストパット・ウォールを支持。
 1980年代、労働党を去る前、MTは全ブリテン反人頭税連合を率い不払い運動を通し、サッチャーを打ち破った。
 これに関わったMTの労働党議員テリー・フィールズは追放された。
 1991年MT内で労働党内で活動しつづけるべきかどうかの議論が起こった。
 大部分は公然の転換を支持し、テド・グラントTed Grant周辺の少数派は分裂し労働党内にとどまり社会主義者の訴えを形成した。
 スコットランドではスコットランド・ミリタント・労働者の名でトミー・シェリダンが獄中立候補した。
 MTは1990年、労働党を去りミリタント・労働者を名乗った。1997年社会党に変えた。
 英国社会党の抗議によりイングランドとウェールズの社会党として知られるようになり、選挙では社会主義者選択と表現する。
 社会党は社会主義連合を結成したが2001年に去った。
 2005年選挙では単独で約9000票獲得。
 2005年新労働に代わる新広い左翼の選択肢の新労働者党運動に乗り出し、元労働党議員で市議会議員のデイヴ・ネリスト
議長となった。労働党議員ジョン・マクドネルも賛意を表した。
 2008年の新労働者党運動協議会議論フーラムにはボッブ・クローデイヴ・ネリスト、労働左派シメオン・アンドリュー、リスペクト
代表ロブ・ホウヴマンが参加。公共・商業サーヴィス組合PCS、公務員組合UNISON、大学組合UCUの労働組合幹部も多く署名。
 2009年EU選挙のため鉄道・海運・運輸全国組合RMTボッブ・クロー率いる”EUにノー、民主制にイエス”に参加。
 EUにノー、民主制にイエスには緑社会主義者連合、ブリテン共産党CPB、インド労働者協会、社会党(イングランドとウェールズ)、
社会主義抵抗(2002年社会主義連帯ネットワーク国際社会主義者グループが結成)、連帯が参加。
 結果は153256票、1%で11番目でアーサー・スカージルの社会主義労働党(173115票、1.1%)にも遅れをとった。
 他はスコットランド社会党10404票、19位、SPGP(英国社会党)4050票。
 
〔社会主義労働者党SWP〕 Socialist Workers Party
 革命的社会主義者の伝統に立つブリテンの極左の最大政党。
 1名の国会議員ジョージ・ギャロウェイGeorge Gallowayと少数の地方議員との選挙連合の尊敬(レスペクト)連合の一部である。
 スコットランドではSWPはスコットランド社会党SSPの綱領(プラットフォーム)としてあるがトミー・シェリダン.と新しい政治グループ
追求のため2006年分裂をきめた。その年の末にSWPは新選挙連合連帯のメンバーとなった。
 世界的には国際社会主義者傾向(トロツキスト).に参加している。学生組織は社会主義労働者学生協会

 社会主義労働者党の起源は1951年設立会議が開催された社会主義評論グループにある。
 このグループはトニー・クリフTony Cliff(ソ連=資本主義官僚国家説)の周辺にあり革命的共産党(1944−1949)を追放された。
 大衆化のため労働党で活動する立場をとっている。重要なのは青年労働同盟である。
 1962年社会主義評論グループは国際社会主義者ISグループとなった。
 核非武装運動と労働党内青年運動を通して新しい世代を獲得した。
 1968年のベトナム連帯運動で学生から多くのメンバーを得て組織は400人から1000人に拡大した。
 しかし多くの分裂に苦しんだ。
 1970年代初期工場支部設立に取り組み、1972年3月から1974年3月までに2351人から3310人に増え、多くの
手工業労働者が加入した。 トニー・クリフは1970−1974年を人生のもっともよき時代とのべた。
 1974年労働党が政権に戻り社会契約が導入され、また組合専従者が増え、労働組合活動家の戦闘性が低下した。
 工場支部は1974年の38から1976年は2ないし3になった。
 1975年永続革命が分裂。
 1977年、国際社会主義ISグループは社会主義労働者党と改名した。
 1970年代国民戦線NFが街頭で目立つようになった。1977年8月13日、地域の多くの黒人青年を含む数千の
反ファシストがNFの行進を阻止した。これにより反ナチ同盟ANLがSWPと労働左翼グループによって提案された。
 これは他のトロツキスト・グループと共産党の支持を受けた。
 ANLは1976年エリック・クランプトンの提案に応え反人種主義の大ロック・カーニヴァルを開催した。
 1976−1979年に組織危機発生。1982年までに宣伝戦術に転換、戦闘者運動設立放棄。女性組織女性の声も解散。
 1984−1985年鉱山ストライキに情宣活動注力。

 2001年、スコットランドでは社会主義労働者SWプラットフォームとしてスコットランド社会党SSPにメンバーが加わっている。
 これは連帯に受け継がれている。
 イングランドとウェールズでは社会主義者連合に関係し、レスペクトに引き継がれている。
 戦争を止めろ連合リンゼー・ジャーマン)を通して反戦運動に関係し、グローバル化レジスタンスにより反グローバル化運動にも
関わっている。
 2007年、SWPはレスペクトから離れ左翼選択結成。
 2007年、SWプラットフォームはSSPを去り労働者インター委員会メンバー、トミー・シェリダンローズマリー・バーンらと連帯結成。
 2006年指導者はアレックス・カリニコスリンゼー・ジャーマンクリス・ハーマンジョン・リー等。他著名人はマイケル・ラヴァレット
イアン・バーチャルなど。

社会主義者連合SA〕 
 1992−2005年に存在した左翼選挙連合。2005年再建。
 社会党(イングランドとウェールズ)、労働者自由連合独立労働ネットワーク(1998年、スコットランド議員MEPsケン・コーツ
Ken Coatesらが結成)、独立社会主義者が1992年から結成。
 1999年トロツキストグループ(SWP国際社会主義者グループISG、労働者の力)が参加し拡大。
 スコットランド社会党SSPとは兄弟関係にある。
 2001年、社会主義者連合のネットワークは一人1票の社会主義者連合という政党に転換。
 これは最大で統制の届いた民主集中制党(SWP)に組織を支配させることになった。
 2001年、社会党(イングランドとウェールズ)離脱、2003年、労働者の力離脱。
 2003年SWPはISGに支持されSAをジョージ・ギャロウェイ戦争を止めろ連合の他の人物との連合に入らせ、レスペクト連合
を結成。これに反対する少数派の多くは社会主義者連合民主綱領結成。
 2004年レスペクトの外の組織メンバーは社会党と緑社会主義者連合に参加し社会主義者緑統一連合結成。
 SAは2005年2月解散し11月再建し、レスペクト連合には参加しなかった。
 再建SAは2007年緑社会主義者連合と相互加盟。
 SAは現在新労働党運動(2005年11月、社会党を中心に組合活動家などが結成)を支援。
 参加組織はAWL英国共産党(準)PCC、民主労働党DLP、独立労働ネットワーク(2003年以前解散)、国際社会主義者グループ
ISG、国際社会主義者同盟ISL赤い行動(2001年離脱)、革命的民主グループ社会党(イングランドとウェールズ、2001年離脱)、
社会主義展望Socialist Perspectives 、社会主義連帯ネットワークSWP、労働者インターナショナル、労働者の力(2003年離脱)など。

緑社会主義者連合AGS〕
 2003年、リーズ左翼連合(旧労働党メンバー結成)、緑社会主義者ネットワーク(旧CPGBに起源)が統合し結成。
 リーズ左翼連合は以前旧社会主義者連合と関係があり、AGSの少数は2005年SWPによって解散するまで
社会主義者連合に関係があった。AGSは2005年社会主義者連合を再結成しようとした社会主義者連合民主綱領
支援を受けていた。
 AGSは2004年EU選挙にヨークシャーとハンバーで候補をたて、2005年総選挙では社会主義者緑統一連合と連合
し候補を立てた。

社会主義者緑統一連合
 2005年議会選挙のために結成された左翼の選挙連合。
 レスペクト統一連合がほとんど社会主義労働者党のものであったので衝突を避けるため結成された。
 社会党(イングランドとウェールズ)、緑社会主義者連合労働者自由連合社会主義統一ネットワーク民主社会主義連合
その候補は2005年には統一社会党のメンバー、これは1990年代有名なストを行ったリ旧ヴァプール造船所メンバー、
革命的民主グループ(1980年代SWPのロンドン、スコットランド支部結成)、国際社会主義者同盟が関係)が参加。
 多くは以前のSWP支配前の社会主義者連合に参加。
 緑社会主義者連合の影響で環境問題と持続可能な経済制度建設を優先。
 連合メンバーは緑党と対決して立候補するが、レスペクト連合SSPとは競合しない。
 2005年12000票以上獲得。

社会主義者連合民主綱領
 社会主義者連合SAの分派、1999−2005年にイングランドとウェールズに存在。
 SAを支配する社会主義労働者党に対抗のためSA内政治綱領として結成。
 労働者自由連合国際社会主義同盟赤党が支持。
 2004年地方選挙でに民主社会主義連合として候補をたて、のちに社会主義者緑統一連合に参加。
 SA解散後一方のグループは社会主義連合(準備)を他方は民主社会主義連合を結成。
 労働者自由連合はどちらの結成にも関係しなかったが、社会主義連合(準備)支持。

〔連帯(連帯−スコットランド社会主義運動)〕 Solidarity − Scotland's Socialist Movement
 2006年9月、トミー・シェリダンの勝手な行動の余波でスコットランド社会党SSPから分裂してSSPの6人のMEPsの
うちの2人が結成。以前のSSP綱領であった社会主義労働者党SWPと労働者インター委員会の支持を受ける。
 2007年スコットランド議会選挙では議席獲得できなかった(1.5%)がSSP(0.6%)より上回った。
 
〔レスペクト(レスペクト−統一連合)〕 Respect − The Unity Coalition
 2004年1月、イングランドとウェールズの政党としてロンドンで結成。
 メンバー組織は社会主義労働者党ブリテン・ムスリム連合・ブリテンムスリム評議会など。
 個人では労働党から追放された唯一議員ジョージ・ギャロウェイサルマ・ヤコーブなど。
 CPGB(準備中央委員会)ISG社会主義統一ネットワーク社会主義抵抗ブリテン革命的共産党(ML)なども支援。
 社会主義者連合解散までこれを支持。
 2004年EU議会選挙で1.7%獲得。
 2005年総選挙で21選挙区に候補を立て、ジョージ・ギャロウェイが当選。
 2007年分裂し、2008年選挙ではSWPに率いられた左翼名簿(左翼選択、ジョン・リースリンゼイ・ジャーマンなど)と
レスペクト革新ジョージ・ギャロウェイサルマ・ヤコーブなど)に分裂。


<ドイツのトロツキズム>

共産党左翼反対派
 KPDの左翼反対派(ボルシェヴィキ・レーニン主義)としての国際左翼反対派LO支部は1920年代終わりから1933年末まで
組織され、1933年ドイツ国際共産主義者IKDとなった。
 組織は公式には1930年3月、アントン・グリレヴィッツレーニン同盟少数派とクルト・ランダウウェディング反対派残存メンバーの統合
によって結成された。
 ファシストと闘うための社会民主主義者との統一戦線形成のためSPDの改革を目指した。
 この点で新党結成のウルバーンズらのレーニン同盟と異なった。
 左翼反対派はまず新聞”共産主義者”を発行、ついでクルト・ランダウのグループ(グループ火花)の分裂後、週刊
”永続革命”を1931年6月発行。発行は約5000部。左翼反対派の拠点はブルッフザル、オラニーンブルク、ディンスラーケンなど。
 著名な人物はエルヴィン・ハインツ・アッカークネヒト(1930年国際左翼反対派ILO国際書記となる)、ゲオルク・ユンククラス
オスカル・ヒッペアントン・グリレヴィッツヴァルター・ヘルト、ヘルムート・シュネーヴァイス、オスカル・ザイポルトマリア・バッケネカー
オットー・キリアンカール・ヤーンケ、ローマン・ヴェル(後GPU手先)。
 1932−1933年に600−1000人が約50のグループで活動。

 アントン・グリレヴィッツはプラハへ逃れ、1937年亡命指導部を形成できず、政治から退き、最終的に1941年キューバへ。

 エルヴィン・アッカークネヒト(オイゲン・バウアー)は1928年KPD内でローマン・ヴェル、オットー・シュスラー(1932年トロツキー個人秘書
となり1940年暗殺まで一緒)らとボルシェヴィキ統一グループを結成。1929年レーニン同盟参加。
 1930年KPD統一左翼反対派(後KPD左翼反対派)を結成、1932−1933年ベルリンでトロツキーの息子レフ・セドフの助手を務め、
国内指導部と国際左翼反対派の国際書記となる。
 ナチス政権掌握でドイツ国際共産主義者IKD国外委員会を指導、我々の声編集。ヤコブ・ヴァルヒャのSAPDと接触、結局提携失敗。
 トロツキーのルート・フィッシャー、アルカディ・マスロフのIKDとの統合提案にエルヴィン・アッカークネヒトは反対。
 1934年フランスの転換(フランス共産主義者同盟のSFIO加入)でアッカークネヒトはIKDを離れ、1935年SAPDに参加しヴァルター・ファビアン
ペテル・ブラッハシュタインと左翼反対派を結成。
 1937年SAPDから離れ”新しい道”グループを結成しロンドン・ビュローに参加。1941年米国に移住。

 グループ・フンケ(火花)は1931−1937年までドイツと亡命で存在。ランダウのグループはパリ、ついでスペイン戦争とともに
バルセロナに移り、POUMと活動。ランダウは1937年9月失踪、ソ連により拉致されたと思われる。

 国際左翼反対派は1938年第4インターナショナルとなる。

ドイツ国際共産主義者IKD(1933年)   トロツキスト1930) 1930−1945 LO
 
 ドイツ・トロツキズム運動はヒットラー政権掌握までは小運動でしかなかった。1932年には約700メンバーとされる。
 新聞”永続革命”が5000部程度発行されていた。ランダウ、ローマン・ヴェル、エルヴィン・アッカークネヒト、グリレヴィッツの文が載り
トロツキズムを示唆していた。永続革命は1933年2月ドイツでの発行を終えた。
 1933年3月パリで亡命新聞”我々の言葉”を発行。責任者はハインツ・エッペ(ヴァルター・ヘルド)。
 
 1933年ドイツでの最後の全国的協議会でエルヴィン・アッカークネヒト(オイゲン・バウアー)、オスカル・フィッシャーオットー・シュッスラー
ユリアン・サウレス、トロツキーのドイツ人秘書を勤め、最後はメキシコ同行)、エルヴィン・ヴォルフヨゼフ・ヴェーバーヤン・フランケル
ルドルフ・クレメントら8人の亡命委員会を選出。 

 1936年まで600−1000のメンバーが左翼反対派ないしIKDに所属したがゲシュタポにより粉砕され、ベルリン−シャルロッテンブルク、
ドレスデン、ライプツィッヒ、ルール、ハンブルクなどでグループが再組織化され、SAPDやレーニン同盟と協力。
 ブッヘンヴァルト収容所のIKDグループにはオーストリア、ポーランドからのメンバーやヴェルナー・ショレムらが含まれていた。
 ほぼすべての国内指導者(ハンス・ベルガーハインツ・ライデンドルフ)を含む多くのIKDメンバーがナチスにより殺された。

 KPDの崩壊でマリア・レーゼエリヒ・ヴォレンベルクカール・グロールらがIKDを支持。

 IKDは亡命し1933年プラハ、1941年ニューヨークで新聞”我々の言葉”を発行。

 1933年のSAPDとの提携は失敗。
 1934年、レーニン同盟を去ったルート・フィッシャーアルカディ・マズローの国際主義者グループが参加。
 1934年のフランスの転換でエルヴィン・アッカークネヒトの多数派は分裂しSAPDに参加。

 1937年ルート・フィッシャー、アルカディ・マスロフ支持者のヴァルター・ネッテルベックが分裂。
 ヨゼフ・ヴェーバーの後退理論(労働者と革命と反ファシズムへの悲観論、民主制の内実運動へ展開)の影響で1937年の亡命会議は分裂。
 ヨゼフ・ヴェーバーとオスカル・フィッシャーは1938年秘密会議で第4インター結成に賛成。

 ナチスの拡大で亡命グループはプラハからフランス、イギリスに亡命。
 我々の言葉編集部は1938年ニューヨークへ、コペンハーゲンのゲオルク・ユングクラスはナチスのデンマーク占領で秘密活動へ。
 ゲオルク・ユングクラスはデンマークの第4インター・グループを支援。ヴァルター・ヘルドハインツ・エッペ)はノルウェーでトロツキストを組織化。
 他のグループはスウェーデンへ。オランダ、ベルギー、フランス亡命グループはナチスの直接的脅威に陥る。一部はロンドンへ逃げ
ロンドンIKDに参加。パリIKDの多くが逮捕され収容所送りとなる。
 ヴェンツェル・コツレツキーはナチス下で抵抗運動を行い、後にメキシコに渡りトロツキー秘書となる。
 1941年ヨゼフ・ヴェーバーの影響で亡命IKDは路線転換。
 ヨゼフ・ヴェーバーの亡命IKDはニューヨークでトロツキズムから離れ1947年に雑誌”時勢の事”ディンゲ・デア・ツァイトを発行。
 アントワープには1935年からIKDに批判的なヨゼフ・ヴェーバーに近い亡命ドイツ人トロツキスト・グループの有力なグループ(フランツ・メイヤー
が存在し唯一の道を発行Der Einzige Weg。   

 戦後ドイツのグループはゲオルゲ・ユンククラスや国内生き残りのオスカル・ヒッペらが再建。
 ソ連占領地区では弾圧され、オスカル・ヒッペは1948年逮捕・投獄された。
 
 1951年、IKDは以前のKPDのメンバーとドイツ独立労働党を結成、これはユーゴスラヴィアの支援を受けたがすぐ消滅。
 IKDは1953年の第4インターの多数派の決定に従い、その国の社会民主主義および共産主義大衆政党で左派、革命グループ
形成のために加入活動を行う。
 主な人物はSPDのペータ・フォン・オルツェン、社会科学者のテオ・ピルカー、SPDのエーリッヒ・ゲルラッハコルシュ支持者)、
学者のヴォルフガング・アーベントロートヤコブ・モネタIGメタルの雑誌メタルの編集長となった。
 
 グループはアルジェリアやモロッコの植民地解放闘争で重要な役割を果たす。ゲオルゲ・ユンククラスは雑誌自由アルジェリアの
編集者となる。  
 1968年のヴェトナムのテト攻勢、パリ5月、プラハの春、学生運動展開、SDS急進化、青年の総体的急進化でドイツ・トロツキストは
公然組織として再形成され国際マルクス主義・グループ(第4インタードイツ支部)となる。

国際マルクス主義グループGIM〕
 ドイツ国際共産主義者IKD(KDPの左翼反対派:トロツキスト)は1950年代独立労働党UAPDに加入した。
 独立労働党は1950年、ドイツ共産党からチトーの支持者が分裂してできた。これは1952年禁止されトロツキストは
社会民主党に加入した。
 1969年第4インター支部の公然継続として国際マルクス主義グループGIMが結成された。
 第4インター支部はドイツ国際共産主義者IKDの社会民主党への加入戦術によりそれまで独立組織としては存在してなかった。
 GIMは1970年学生運動と青年急進化により社会主義ドイツ学生同盟SDSの分派(革命的共産主義者青年RKJ)として生き延びた。
 RKJは1972年に約400のメンバーとなった。
 著名なメンバーはヴィリー・ヴォッペ、彼はSEDに参加し後これを批判し独立労働党に参加。
 ゲオルク・ユンクラス(1902−1975年)はKPD左翼反対派の生き残り。
 
 GIMは1970年代初期議会外反対ルディ・ドゥチュケら)運動に巻き込まれた。
 GIMは1986年、ドイツ共産党マルクス・レーニン主義KPD/MLと統一社会党VSPを結成した。
 これに参加しない少数派は緑に参加。
 ドイツ統合によるPDSの出現でVSPの多くのメンバーはPDSに加入した。
 1993年、VSPは連帯展望連合VsPと名を変えた。
 VsPのトロツキストの一部は1994年分裂し革命的社会主義者同盟RSBを結成した。
 RSBはVsPと反対に左翼党に批判的で国際社会主義左翼とともに統一書記局派である。
 VsPにとどまったトロツキストは国際社会主義左翼ISLを結成した。2005年選挙でVsPは左翼党を支持した。
 主なメンバー経験者はヴィンフリート・ヴォルフ(民主社会党PDS)、アンドレア・フィッシャー(緑)、ハラルド・ヴォルフ(PDS)など。

左翼移行
 国際社会主義傾向所属のトロツキスト。起源は社会主義労働者グループSAGにあり、これは1970年代、
英国の国際社会主義者ISの支援によりフォルクハルト・モスラーらが結成。国際社会主義者傾向参加。
 1991年アンティファ運動を始める。このころメンバーは200前後。
 1993年一部がJusosに加入し始め雑誌左翼移行発行。これはトニー・クリフの承認を得ていたが、SAG幹部の容認を得ていなかった
ので内部に反対が起こり1994年亡命トルコ人グループらとノルベルト・ネルテが国際主義社会主義組織ISO結成。
 1990年代、左翼移行は成長したが2002年分裂が起こる。
 2007年には解散しディー・リンケ内部のマルクス21グループ結成。
 クリスティーヌ・ブホルツはリンケ全国委員会メンバー。
 
社会主義選択SAV〕
 1996年設立。2005年でメンバー400人。
 労働者インター委員会派トロツキスト。
 SAVは1973年の雑誌前進Voranに起源する。前進グループはJUSOS加入。1980年代初期50から250のメンバーに成長。
 ドイツ再武装やNATO活動や原発反対運動を行う。緑党には中間階級運動として両義的態度を示す。1990年ドイツ再統合でアンティファ運動
に入る。1994年前進グループはSPDから分裂し社会主義選択となる。2005年のWASG分裂でこれに参加。
 ルーシー・レドラーは2006年ベルリン州選挙でWASG名簿に入る(PDSと競合)。2007年リンケ結成で多くのSAVメンバーもリンケ参加。
 ルーシー・レドラーのリンケ参加は2006年選挙問題で紛争となっている。


<オランダのトロツキズム>

革命的マルクス主義者委員会CRM) NL  RCP
 1942年4月のスネーフリートら幹部の処刑によりマルクス・レーニン・ルクセンブルクMLL戦線は崩壊しスタン・ポッペのグループの
共産主義者同盟スパルタクスが生まれたのに伴いピエテル・ファン・トハルト(マックス・ペルトゥス)が革命的マルクス主義者委員会
CRMを結成。若い活動家のほとんどと、MLL戦線の古いより行動的活動家がCRMに参加。
 1942年6月ハーグの青年グループが小雑誌”赤い10月”発行。ロッテルダムでは夏、スタン・ポッペらが共産主義者同盟スパルタクス
を結成。ピエテル・ファン・トハルトらはMLL戦線幹部で唯一逮捕されなかったスタン・ポッペに疑心をもっていた。
 1942年8月ピエテル・ファン・トハルトらがハーグで革命的マルクス主義者委員会CRMを結成。
 MLL戦線に加わっていた第4インター・グループ(ボルシェヴィキ・レーニン主義グループ)は創設に加わらなかった。
 CRMは1944年に第4インター支部を宣言。
 解放後革命的共産党RCPとなる。雑誌赤い10月は1946年からトリビューンとなる。
 指導者はサル・サンテン、ピエテル・ファン・トハルト、ヘルマン・ドレント。
 1948年サル・サンテンのもと選挙に参加、2224票、0.05%獲得。メンバーは約200。
 1952年PvdAに加入し、社会主義展望Socialistisch Perspectief発行。(1964年まで存続)
 1955年多くが社会民主センターSociaal-Democratisch Centrum参加。1960年指導部と衝突し解散。

(火花De Vonk
 1941年1月ハールレムで国際社会主義運動ISBが発行。
 イェフ・ラスト、トム・ロット、エディー・ヴァインコープ、ディルク・シルプ、ニコ・ヴァイネンらが創設。
 アントン・デ・コムも執筆。戦後は炎De Vlamとなる。(1945−1952年)
 ISBはRSAPと結びついていた。

社会主義選択政治
 1970年代PSPの批判的メンバーは活動グループプロレタリア左翼を結成しトロツキズム化しようとした。
 1971年大会で敗北し追放される。1973年共産主義者同盟プロレタリア左翼を結成。
 1974年雑誌”国際主義”周辺と合流し国際共産主義者同盟結成し第4インター支部となる。
 1980年代初期社会主義労働者党SAPとなる。2004年社会主義選択政治となる。
 1981−1994年第2院選挙に参加し、1981年1814票、0.02%から1994年4347票、0.05%獲得。
 攻撃国際社会主義者と社会党に参加。

 2つのトロツキスト・グループがSPに加入戦術を行っている。攻撃労働者インター委員会、当初は労働党、1998年からSP)と
国際社会主義者IS(国際社会主義者潮流、1988年から活動)であるが、ISは追放された(依然として加入しているものもいる)が、攻撃は
力がないので容認されている。社会主義選択政治第4インター統一書記局、1972年PSPから分裂)のメンバーも党内で活動している。


ベルギーのトロツキズム

 トロツキー追放直前の1927年11月ベルギー共産党PCB中央委員会でトロツキー支持派は多数派であった(15対3)。
 1928年3月大会では少数派となった(34対74)。反対派はフランデルで12対10で多数派、ブリュッセル(フェレーキン)では7対20、シャルルロワ
(ルソイル)では15対44で少数派。
 コミンテルン使者のトリアッティとジュール・アンベール・ドロー−ズ出席で左翼反対派が追放される。
 追放者は共産党反対派グループ結成。機関紙共産主義者Le Communiste発行。
 主要メンバーはヴァール・ファン・オフェルストラエテン (1891−1981年)、レオン・ルソイルアデマール・アンノーゲオルゲス・フェレーケン
ルイス・ポルク。反対派と一緒にシャルル・プリズニエが追放される。プリズニエはPOBと提携し間もなくキリスト教に転じる。
 追放でPCBはメンバーの半分を失った。
 1929年国会選挙に反対派は5地域で参加、シャルルロワでは反対派2951票対PCB5140票、ブリュッセルは502対PCB10437、
ガン1347対2788、アンヴェール1047対2000であった。
 1930年パリの左翼反対派国際集会にはレオン・ルソイルアデマール・アンノーが参加。

 反対派多数派はトロツキーと衝突し1931年オフェルストラエテンアンノーらは国際主義者共産主義者同盟LCIを結成しシャルルロワのグループ
(ルソイルら)と別れる。オフェルストラエテンはやがて政治から離れ画家となる。アンノー指導のLCIはボルディガ派に接近。
 1937年LCIは評議会主義者(カンネ・メイエルら)に接近。1938年ボルディガ派が去り、アデマール・アンノーらだけが残り1939年LCI消滅。

 1931年シャルルロワのグループ(ルソイルら)は共産主義者の声La Voix Communisteを創刊。
 1932年シャルルロワ地域選挙で反対派は5名選出された(レオン・ルソイル、アレクサンドル・デ・ヴァエットら)。
 共産主義者反対派から国際主義者共産主義者同盟(ボルシェヴィキ・レーニン主義)となる。
 フランスの転換で共産主義者の声多数派はPOBへの加入賛成、フェレーケンは反対し、1935年雑誌スパルタクス発行。
 POB加入グループは1935年POBのワルテル・ドージュの社会主義者行動L'Action Socialisteと協力。
 1935年ポール・アンリ・スパークポール・ファン・ジーランド政府入閣でPOB左派の社会主義者行動は分裂。
 1935年ルイス・ポルク(アントワープのLCIグループ)がLCIから追放される。
 1936年社会主義者行動、フェレーケンのスパルタクス・グループが革命的社会党結成。ワルテル・ドージュが最初の書記となり1937年
フェレーケンと交代。
 1938年革命的社会党は第4インター結成協議会参加。
 1938年頃から革命的社会党は崩壊し、1940年革命的共産党としてアブラハム・レオンらにより再建され”レーニンの道”発行。
 1940年ワルテル・ドージュが政治活動から撤退。
 ベルギーのトロツキストはフランスのトロツキスト同様にレジスタンスをブルジョア的として消極的であった。
 しかしナチスにより多くの指導者を失った。特に1941年6月のナチスのソ連侵入前に多くが逮捕・殺された。
 このため第2次世界大戦でベルギーのトロツキストは大きな損失を蒙った。

 ゲオルゲス・フェレーケンは1934年トロツキーの加入戦術に反対。1935年スパルタクス・グループ結成、第4インターへの公開状に署名。
 1936年革命的社会党結成、スペイン革命とPOUM問題でトロツキーと意見相違しこれを去る。
 ついで”流れに抗して”グループ結成、あるいは第4インター・トロツキスト共産主義者グループと称する(1938−1945年)。スネーフリートに近く、
モリニエ・グループに接近。
 戦後はパブロ派(革命的マルクス主義者1964−1978年)。

 1946年革命的共産党とフェレーケングループは合同し労働者革命党Parti Revolutionnaire des Travailleursとなる。
 1950年トロツキストはエルネスト・マンデル・ピエール・クレーヴに率いられベルギー社会党に再加入。
 1954年エミール・ファン・ケーロンの指導で社会主義青年防衛を支配。

 ナチスの主な犠牲者 
 レオン・ルソイル(1892−1942年) 1926年PCB参加、1927年追放される。1942年ノイエンガンメ収容所で死亡。 
 ルイス・ポルクlouis Polk(1902−1945年) 
 アブラハム・レオンAbraham Leon(1918−1944年) 再建地下組織PCR書記、アウシュヴィッツで死亡。
 ルシアン・ルネリーLucien Lenery(1897−1942年) 反対派結成参加。リージュのフェレーキン派、ノイエンガンメ収容所で死亡。
 Marius Nopere 革命的社会党Parti socialiste Revolutionaire参加。1941年ノイエンガンメで死亡。

急進左翼
 1920年代、スターリンとトロツキーの衝突でPCB内の多数派はトロツキーを支持し追放され第4インターに結集した。
 1950年代、トロツキストの一部は加入戦術をとり、ベルギー社会党PSB(BSP)に入り込んだ。
 彼らはエルネスト・マンデルに率いられて週刊誌”左翼”の周りに結集した。
 1964年、PSBは党内幹部から左翼主義者の搾り出しを行った。
 そこでワロン労働党PWTと左翼社会主義連合UGSが結成された。
 一方、PCB内で毛沢東主義者が衝突し始め、1963年、自分たちの党を結成し、同じPCB(グリッパ)を名乗った。
 毛沢東主義者はいくつかのグループに分裂した。
 トロツキストとPWTとUGSの左翼カトリックは1970年労働者革命連合LRTを設立した。
 LRTは第4インターの支部となった。
 68年5月と文化革命の影響から数多くのマルクス・レーニン主義組織が生じた。
 1990年代世界は変わり、古い共産主義者の党は困難に陥った。極左は消えた。
 社会主義選択運動LSPMAS:、トロツキスト)がこの時期の主要なものである。
 現在の主な組織はトロツキストとして社会主義選択運動MAS国際労働委員会派)、革命的共産主義者同盟LCR(第4インター)、
などがある。


スイスのトロツキズム

 スイスは保守的で政府の弾圧が厳しく、左翼運動の成立しにくい国である。
 スペインの国際義勇軍参加も犯罪とされ投獄あるいは亡命せざるをえなかった

 1930年コミンテルンの社会ファシズム・革命的労働組合路線で社会民主との統一戦線路線支持グループがスイス共産党
から追放された。シャフトハウゼン州(カントン)のヴァルター・ブリンゴルフ、ヘルマン・エルブ、ポール・タールマンらで、
チューリッヒではモリッツ・マンデル、エルンスト・イリなど更にバーゼル、ドイツ語地域などの組織であった。
 IVKO(ブハーリンの国際共産主義反対派)のスイスKPOは当初ドイツのハインリッヒ・ブランドラーらのグループと結びついていた。
 ヴァルター・ブリンゴルフは1931年KPOとして全国評議会に選出されシャフトハウゼン市長となり1968年まで勤める。
 ナチス出現で社会党に戻り1935年KPOはSPと合流。1952年社会党委員長となる。
 共産党と社会党の統一交渉はうまくいかず共産党から徐々に社会党に移り1935年の完了。

 ポール・タールマンクララ・タールマンは1936年スペインでアナーキストのドゥラッティ部隊に参加しその後パリに移る。

 また1930年代サロモン・エーアリッヒSalomon Ehrlich とヴァルター・ネルツの2つの小さなトロツキスト・グループが存在。
 1933年スイスの最初のトロツキスト組織、スイス・マルクス主義行動MASがヴァルター・ネルツらにより結成されこれはチューリッヒ、
バーゼル、シャフハウゼンなどドイツ語圏に基礎を置いていた。KPOとの緊密な協力は行われなかった。
 1934年国際共産主義者同盟のヤン・フランケルの指導でMAS多数派はスイス社会党SPSに加入するが間もなく追放される。
 1938年の第4インター結成大会にはスイスのトロツキストは代表を送れず。
 ナチスのオーストリア侵入でスイスに逃れてきたヨゼフ・フレイがスイスのトロツキストに影響力を及ぼしMASと第4インターの関係が
かく乱される(フレイは1930年にトロツキーと衝突)。1939年内部抗争で解散。
 ネルツは1940年逮捕され獄中でマルクス主義から離れた。
 1943年国家危険宣伝の罪で13名のトロツキストが軍事法廷にたたされ4名が投獄される。

 戦後1945年スイス・マルクス主義行動MASが再結成された。
 またプロレタリア行動、スイス社会主義労働者青年SAJS、社会主義労働者協議会SAK、社会主義労働者同盟SABなどが結成された。
 1945年ハインリッヒ・ブーフビンダーが第4インター執行部に参加。


オーストリアのトロツキズム

 ヨゼフ・フレイは社会党から追放され1921年OKPに参加。
 OKPでは極左はエルンスト・ベッテルハイム(ハンガリー人、コミンテルン代理人)、フランツ・コリッショナー、右派はヨゼフ・ストラッサー
(ドイツのポール・レヴィ支持)でカール・トマンはこの間を揺れていた。更にスターリン支持派のヨハン・コプレニッヒがいた。
 これに対しカール・トマンはヨゼフ・フレイと協力、ヨゼフ・フレイはトロツキーを支持していた。結局カール・トマンは社会党に戻る。
 赤旗編集者のクルト・ランダウは反対派結集に勤め、トロツキー路線を支持。
 1926ー1927年にヨゼフ・フレイ、クルト・ランダウは追放され、オーストリア共産党反対派を結成し”労働者の声”発行(1933年禁止)。
 1928年クルト・ランダウはオーストリア共産党反対派から追放され雑誌新しい訴えDer neue Mahnruf周辺にマーンルフ・グループ結成。
 ランダウはトロツキーによりドイツで親トロツキー派結集を要請され1929年オーストリアを去る。
 1930年ヨゼフ・フレイはトロツキーと衝突し、1934年労働者階級解放闘争同盟を結成。(1934−1941年小冊子”労働者の力”発行)
 1934年ドルフス政権と社会主義者の間に小内戦が起こり、社会主義者敗北。既にトロツキストは地下組織化していた。
 共和国防衛同盟などからトロツキスト組織への移行者発生。(フランツ・ドレクサーら)
 フレイは1938年スイスに亡命し政治的空白が生じる。
 一方1930年初期社会民主主義者から分裂したボルシェヴィキ・レーニン主義グループ(唯一の道Der Einzige Weg発行)が第4インターに参加。
 彼らは社会党内で活動しこれは1934年革命的社会主義者RSとなる。
 またコミンテルンの人民戦線路線採用に刺激され1934年共産主義青年同盟KJVが社会主義労働者青年SAJとなりそこから革命的共産主義者
RK(ヨゼフ・ヒンデルスゲオルグ・ショイアーエルンスト・フェデルン、カール・フィッシャー)が発生。
 1937−1938年にプラハで唯一の道はRK、スイス・トロツキスト・グループ・マルクス主義行動、チェコ・スロヴァキア共産主義国際主義者との
共同機関誌となる。ナチス侵入でトロツキスト組織はほとんど壊滅。
 1939年これらの残党が地下組織プロレタリア革命PR結成し雑誌イスクラ発行。
 更に別のグループ”流れに抗して”(ゲーゲン・デン・シュトローム)が結成される。
 しかし指導者のヨゼフ・ヤコボヴィッツ、フランツ及びレオポルド・カッシャが逮捕・処刑され、他の数人のメンバーも長期投獄刑となる。
 また主として旧フレイ・グループからなるプロレタリア国際主義者PI(フランツ・モドリック)が出現”先駆者”発行1940年”前哨”となる。
 1937年、フレイは、ソ連と同盟した帝国主義諸国では、革命的敗北主義は最早適用できず、労働者は戦争を支持し武装してファシズムと闘わなければ
ならないという結合戦争戦術KKTを主張。これにフランツ・ドレクサー、フランツ・モドリック、ハンス・バブニクの多数派が反対し分裂したが、1943年再統一。
 エルンスト・フェデルンとカール・フィッシャーはブッヘンヴァルト(収容所)宣言署名者として知られる。
 PIとPR残党は合体しカール・リープクネヒト同盟(国際共産主義者)を結成し1945年1月からスパルタクス主義者を発行。
 RK亡命者のゲオルゲ・ショイアー、カール・フィッシャーは1938年の第4インター結成会議に参加し結成に反対
 1945年闘争同盟と流れに抗して残党がカール・リープクネヒト同盟に参加しオーストリア国際共産主義者IKOが結成される。
 1940年代トロツキストは社会党内で活動するが、社民左派は共産党に参加し活動家を獲得できなかった。
 ソ連占領でKPOとによるトロツキストへの脅威が起こり、1945年収容所からでてきたばかりのカール・フィッシャーはシベリアの収容所に連れて
行かれ1955年にやっと解放された。
 1950年代フレイ・グループは分裂し労働者の力を発行。流れに抗してグループも1948年分裂しオーストリア・プロレタリア統一を結成し
労働新聞Arbeiterblatt発行。プロレタリア統一はナタリア・トロツキー第4インター絶交を支持。
 1949年社会民主党加入で加入賛成の少数派が分裂したが1954年多数派も加入で回復。
 1960年代、第4インター分裂に呼応して分裂。
 雑誌インターナショナルを反パブロ派(多数派フランツ・ドレクサー、ハンス・バブニク、ハインリッヒ・トマス、)が握り、パブロ−マンデル派
(少数派:フランツ・モドリック)は1962年労働者闘争を発行、パブロ−マンデル派はドイツのグループと国際展望発行。
 パブロ−マンデル派は1960年代社会主義大学生連合で活動するが成功せず。
 1970年代統一書記局はスイスのグループをオーストリアに送り、再組織化を行う。1972年マルクス・レーニン主義学生からマルクス主義グループ
分裂に伴い革命的マルクス主義グループGRMが結成され、統一書記局支部となる。
 1975年GRMから国際共産主義者同盟IKLが分裂発生。IKLは労働者の立場ArbeiterInnenstandpunktASt、労働グループ・マルクス主義AGM、
革命組織イニシアチフェIRO、革命的共産主義者同盟RKLに分裂し、1990年代中期トロツキズムから離れる。
 GRMは1980年代中期労働者志向に失敗し緑環境色合いを強め、1986年社会主義選択SOALとなる。
 労働者インター委員会の影響で1981年社会主義青年に雑誌”前進”グループ発生し1992年追放され1996年社会主義攻撃前進SOVとなる。
 2001年社会主義左翼党SLPとなる。前進の伝統から社会主義青年内に火花グループ発生。
 SOVの残党から反ファシズム左翼が発生し、1998年から新聞”曙光”発行し、1999年から独立組織として活動。

社会主義選択SOAL〕
 統一書記局派のトロツキスト、1986年まで革命的マルクス主義グループGRM。
 1972年MLSからトロツキストが追放され結成。
 70年代オーストリアの急進左翼の強力な組織。高校ではKPOの共産主義学生同盟KSVを凌いぎ、反原発運動や反ネオナチ
の運動を展開した。
 1980年代中のGRM/SOALの衰退でメンバーやシンパは緑と選択名簿に流れていった。
 2004年の欧州議会選挙ではKPOと選挙連合左翼を結成したがエルネスト・キルヒヴェーガー・ハウスの土地売買問題*から
選挙連合から撤退した。
 1975年の選挙で1024票。
 *この土地はもともとKPOのものであったが急進左翼が占拠していた。これを財政難に陥ったKPOがネオナチス支持者の企業
 に売ろうとして大問題になった。

社会主義左翼党SLP〕
 トロツキスト組織、労働者インター委員会CWIのメンバー。
 1980年、社会主義青年同盟SJOの極左から社会主義攻撃的前進が出現し、2000年社会主義左翼党となる。
 2002年、国会選挙に参加し3906票、0.08%の結果。

選択名簿ALO)
 学生、左翼、基礎民主主義(直接民主主義)者、反核、第三世界、平和、女性運動や革命的マルクス主義グループなどにより
1982年設立。
 ALOの起源は国連の環境会議に並行する1979年の左翼運動選択フォーラムに起源する。
 1983年の選挙で65816票、1.4%で93798票、2.0%の統一緑(保守・ブルジョア)VGOに遅れをとり、大衆的意味を失う。
 ALOとVGOを結集する動きが起こり、これはALOを分裂させた。
 穏健派は市民選択政府BIPに集まった。(ヨハネス・フォッゲンフーバーフレーダ・マイスナー・ブラウロベルト・ユンク
クリストフ・コールハー
 対抗例は1986年の緑選択結集GRASでALOのウィーン左派(トロツキストのウィーン選択名簿ALW)が加わった。
 1986年の選挙にはGRASは緑選択民主名簿GALで参加しわずか6005票しかえられなかった。
 フレーダ・マイスナーのグループはVGOと一緒になり緑選択として成功を収めた。

左翼転換Linkswende〕
 ウィーンを重要拠点とするトロツキスト組織。国際社会主義傾向トニー・クリフ派)の所属。
 1997年設立。
 2000年の右翼ポピュラリズムのオーストリア自由党FPOの政権参加に対しこの黒青連合に対し大衆反対運動を形成し
急成長した。
 反グローバリズム、反資本主義の運動の勃興も左翼転換の成長に味方した。
 左翼転換は動員力が大きいことで知られている。


フランスのトロツキズム

(戦前のトロツキスト)
 1924年1924年アルフレド・ロスメールボリス・スヴァリヌピエール・モナット左翼反対派としてPCFから追放される。
 1924年モーリス・パピエール・モナットとロシア反対派を支持。1926年コミンテルンはロリオ−パ−デュノワを社民偏向と批判。
 1927年パは共産主義者反対派機関紙として流れに抗してContre Le Courantを発行。モーリス・パとマグドゥレーヌ・マルクス(パの妻)が
PCFから追放される。1929年パとトロツキーが衝突。1931年SFIOに戻る。
 1930年国際左翼反対派の最初の協議会の準備のためアルフレッド・ロスメルピエール・ナヴィーユピエール・フランク
(1905−1984年)はイスタンブールのトロツキーを訪問、フランスに戻り1930年、共産主義者同盟を結成(−1934年)。
 アルフレッド・ロスメル1867−1964年)は1929年ラ・ヴェリタ(他にルネ・ビネら)編集長となり、1930年フランス共産主義者同盟結成参加。
 しかしモーリス・ドマンジェレイモン・モリニエロスメルピエール・ナヴィーユに意見相違が生じ、ロスメルはモリニエについてトロツキーと
意見が合わず1930年同盟を去り、ヴェリテとの協力も絶つ。モスクワ裁判の時期にトロツキーとの関係修復するが組織の周辺に留まり、
1938年の第4インター結成協議会に自宅を貸したが会議には参加しなかった。1940年米国に出、1946年にフランスに戻る。
 1931年共産主義者同盟にアルベール・トランが参加。しかしモリニエと衝突しマルク・シリックらと追放されアルベール・トランは1934年SFIOに戻る。
 マルク・シリックは1933年左翼共産主義者アンリ・シャゼらと共産主義者連合結成。これにSFIO加入を好まなかった共産主義者同盟メンバー参加。
 共産主義者連合評議会共産主義に向かい、更にパリのボルディガ派を迎え、イタリア左派に次ぐ反スターリン派組織となる。1939年消滅。
 1934年の人民戦線運動の登場で共産主義者同盟多数派がトロツキーの助言に従いSFIOから離れたのに対し少数派のピエール・フランク
レイモン・モリニエ(1904−1994年)はSFIO内に留まり第4インター運動から追放され、レイモン・モリニエピエール・フランクらは国際主義者共産党
(1936−1943年、雑誌コミューン)を結成し、公式支部ジャン・ルーイヴァン・クエイポ国際主義者労働者党と対抗。
 国際主義者労働者党SFIOのトロツキスト活動家が1935年追放され1936年結成。
 第4インターにはは国際主義者労働者党とともに国際主義者共産党ピエール・ナヴィーユ(1928年PCF追放)のレーニン主義・ボルシェヴィキ・
グループが参加。
 国際主義者労働者党は1939年主要活動家が労働者農民社会党に参加し消滅。
 労働者・農民社会党PSOPは労働者インター・フランス支部SFIOからの革命的左翼の分裂により結成された(1938−1940)。
 これはロンドン・ビュローのメンバーである。
 革命的左翼は1935年マルソー・ピヴェール周辺が結成。革命的左翼の動議は1936年11%から1938年で21.5%と上昇。
 この党はトロツキストのほかにルクセンブルク主義者ルネ・ルフェーブル)も参加した。
 主なメンバーはマルセル・ピヴェールルシアン・エラールルネ・ルフェーブルダニエル・ゲラン(のちアナーキスト)、コレット・オドリー
 (ナチへの)協力主義者運動と国際主義者抵抗運動への加入で消えてしまう。
 1939年ピエール・ナヴィーユはトロツキズムと衝突。

 1944年国際主義者労働者党国際主義者共産主義者委員会10月グループ国際主義者共産党PCI結成。

 ダヴィド・コルネールは1939年バルタ・グループを結成、このグループ1950年代初め消えるがやがて1956年労働者の声を結成、
1968年労働者闘争を結成。

 1946年国際主義共産党OCIのカストリアディスルフォールグループが社会主義か野蛮グループを形成し、ランベール主義者の
ピエール・ブッセル(現在の労働者党)とPCIと分離。PCIは革命的共産主義者同盟LCRとなる。

 デニス・ベルジャーアルジェリア戦争でFLNを支持、共産主義者反対派としてフェリックス・ガダリ、ジェラール・スピッツァーらと
共産主義の道(1955−1965年)を結成し、PCFに加入。

労働者党PT Parti des travailleurs

国際主義共産党PCI
 国際主義共産党PCI(第4インター)が1944年、国際主義労働者党国際主義共産主義委員会(1943年結成)、
10月グループ(1930年代のアジ・プロップagit-propのテアトル・フランセのグループ)によって結成された。
 ピエール・フランクは第二次大戦終了後フランス・トロツキスト合同運動を始めPCIに参加。

 1945年、党会議は多数派:マルセル・ブライプトルMarcel Bleibtreu(書記長)、少数派:イヴァン・クレイポに分裂。
 1946年、ラルジュ(広大)傾向が党会議を奪取しイヴァン・クレイポが書記長。
 1947年、エトロワット(偏狭)傾向が多数派になる。ピエール・フランクPierre Frank、ジャック・グランブラ(プリヴァス)、
ピエール・ブッセル(ランベール)、マルセル・ファーヴル(ブライブトル)。
 国家資本主義マルセル・ペネティエ)離脱。
 1945年ダヴィッド・ルセーが離脱し1948年サルトトルと革命的民主集合RDR結成。
 1947年、社会主義か野蛮か(クロード・ルフォールClaude Lefort、コルネリウス・カストリアデスCornelius Castoriadis)グループ
が離党し評議会主義となった。
 1952年、少数派がピエール・フランクの多数派により排除される。ピエール・ランベール周辺のマルセル・ブライブトル、
マルセル・ギベラン、ミッシェル・ルケンヌ、ピエール・ブルエステファン・ジュストら)、この分裂で1965年国際主義者共産主義組織
が結成される。
 PCIはピエール・フランクとエルネスト・マンデルErnest Mandelに支配され、第4インター国際書記局を支持し、1963年、
再統一第4インター支部となり、これは1968年解散した。(1968年6月12日の解散
 パブロ派(ミッシェル・ラプティス:パブロ)は1965年分裂し1969年革命的マルクス主義者連合AMR創設、1975年PSU合流。

 1952年後PCIは主に知識人の約200人の活動家で1956年PCFから共産主義者の声(フェリックス・ガダリ等)の活動家が参加。
 共産主義青年連合UECにも入り込み1966年アラン・クリヴィーヌ周辺に革命的共産主義者青年同盟JCR結成。
 JCRは1968年PCIとともに解散。

 解散したとPCIとJCRは1969年合流し共産主義者同盟となった。これは1973年、極右”新秩序”の集会襲撃により新秩序と一緒に
禁止され、1974年革命的共産主義者同盟LCRとして再建された。

国際主義共産主義者組織OCI
 ピエール・ブッセル(ランベール)らはスターリニスト党への加入戦術を拒否し、1953年第4インター国際委員会、ついで分裂で
1972年第4インター再建組織委員会結成に参加。
 1955年少数派マルセル・ブライブトル、ミッシェル・ルケンヌらアンドレ・マルティとの結集を志向し排除される。このグループは
のちに統一社会党参加。
 1961年OCIが革命的学生連絡委員会CLER結成。
 1954−1962年にアルジェリア独立戦争でメッサリ・ハジアルジェリア民族運動MNAを支持する。
 1965年、国際主義共産主義者組織OCI結成。1968年解散させられる。1970年解散取り消される。学生組織革命的学生連合
FERも再建。
 1968年以降労働組合の労働者勢力FO、フランス学生全国連合UNEFついでUNEF−IDに非常な影響を与える。
 1968年CLERが革命的学生連合FERとなる。

国際主義共産党PCI

 1980年UNEF-IDから生まれたLCR分裂の国際主義共産主義者同盟LCI(ダニエル・グリュックスタン)と統一。
 1981年国際主義共産党PCIとなる。
 1983年、ミッテラン政権の経済政策の転換によりPSとPCFの活動家がPCIへ接近してきた。
 1984年EU議会選でマルク・ゴクランのPCI名簿は0.9%獲得。
 ステファン・ジュストらが追放される。
 PCIは1985年、社会党や共産党に失望した活動家を集め労働者党運動MPPTを結成した。
 1986年、400の活動家が分裂、社会主義者結集Convergences を結成し社会党に参加。
 この影響でUNEF-IDの多数派がPCIから社会党に移る。
 主な人物はジャン・クリストフ・カンパデリ、マルク・ロザンブラ、フリップ・ダリユラ、フィリップ・カンパンキなど。
 1988年大統領選でピエール・ブッセルが0.38%獲得。
 1989年ピエール・ブルエらが追放される。EU議会選をマルク・ゴクラン率い0.6%獲得。
 1991年アンドレ・ランジェヴァンらが追放される。
 1992年ペドロ・カラスケドらが追放される。PCIは労働者党の内部潮流となる。

労働者党
 1991年労働者党運動MPPTがUASのアナルコサンディカリストと連合し労働者党結成される。
 1992年、PCIがPTの国際共産主義者潮流となる。
 1997年、PTとPCFの正統派がマーストリヒト条約破棄の全国委員会結成。
 2002年大統領選で書記長のダニエル・グリュックシュタンDaniel Glucksteinが0.5%獲得。
 2007年大統領選でジェラール・シヴァルディ支持、0.34%。

 党内には国際主義共産主義者党PCIから生じた国際共産主義者潮流(トロツキスト)、元PS・市民運動の社会主義者潮流、
共産主義者潮流、アナルコ・サンディカリズム潮流(アレクサンドル・エベールなど)などがある。
 多数派はトロツキストだが党はLOやLCRのような厳密なトロツキズムではない。
 PTの前身のOCIは1980年代まで加入戦術をとっており、リオネル・ジョスパン(1965年)はこの組織と関係があった。
 その他社会党の著名な指導者の旧ランベール派としては、ジャン・リュック・メランション(1969年参加1977年社会党)、ダヴィド
ダニエルのアスリーヌ兄弟、ジャン・クリストフ・カンパデリなど。
 
○独立労働者党
 2008年労働者党解散し独立労働者党Parti ouvrier independantとなる。

・社会主義か野蛮か Socialisme ou barbarie
 1946年PCIのカストリアディスルフォール・グループが社会主義か野蛮かグループ結成。
 1948年社会主義か野蛮かはPCIとトロツキズムから離れ、米国のジェームズ−ドゥナウエフスカヤ・グループに近い立場をとる。
 1951年戦前の共産主義者連合を含む国際左翼共産主義者フランス・グループの非ボルディガ派が参加。
 カストリアディスアントン・パンネクークと論争を行う。
 1951年カストリアディスルフォールが衝突、1958年ルフォールアンリ・シモンのグループが労働者連絡情報・グループ結成。
 1960年カストリアディス(マルクス主義放棄)反対派はジャン・フランソワ・リオタールピエール・スユリの周囲に結集、1963年
分裂し、労働者の力Pouvoir Ouvrier結成し1969年解散。社会主義か野蛮かは1967年自動的に解散。

革命的共産主義者同盟LCR) Ligue communiste revolutionnaire
 共産主義者同盟が1973年に禁止された後、1974年に樹立。再統一第4インター派
 主な代弁者はアラン・クリヴィーヌAlain Krivine、ロセリーヌ、ヴァシェッタ、オリヴィエ・ブザンスノーOlivier Besancenot
 LCRの活動家は公然と”市民支援のための金融取引課税連合”ATTACや労働組合連帯統一民主SUDで活動している。

 フランスのトロツキストは1968年以前、主に国際主義共産主義者党PCI(第4インター)と革命的共産主義者青年同盟として
存在していた。PCIはPCFへの加入戦術をめぐって1953年、ランベルテイストが分裂した。(後に労働者党PT)
 トロツキストは共産主義学生連合に加入して活動し、反対派を形成した。これは1966年大統領選でミッテラン支持を拒否して
分裂し革命的共産主義者青年同盟JCRを結成。
 1969年、JCR(クリヴィーヌ、ベンサイド、アンリ・ウェーベル)はPCI(ピエール・フランク)と合流し共産主義者同盟LC結成。
 1969年大統領選挙でアラン・クリヴィーヌ1.06%獲得。
 LCは1973年、極右”新秩序”の集会襲撃により新秩序と一緒に禁止され、1974年革命的共産主義者同盟LCRとして
再建された。この行動はLCRの支持を拡大したが同時に革命戦略と暴力の役割が議論となり、左翼主義から左翼連合へと
転換した。
 LCRはダニエル・ベンサイドイヴ・サレスらに(彼らはある種のテロ行動を支持していた)支えられ左翼主義から徐々に
離れていった。
 新しい勢力はLCRを社会運動の方向へ向け、これはOCIとの再結集を予測させるようになっていった。
 古い指導者(クリヴィーヌ、ベンサイド等)は周縁化していった。
 1972年、PSUの革命的国際主義マルクス主義傾向TMRIのグループがロカールグループ解散にともないLCR参加。
 (ジャン・マリー・ヴァンサンデニス・ベルジャー、クリスチャン・ルカット、ジャック・ケルゴア
 1975年、ボルシェヴィキ・レーニン主義グループが選挙主義組織を拒否し労働連合を結成し極左に近づいていった。
 1976年、LCRの学生が組合行動運動MAS(ロカール派学生組合)に参加。
 1977年、MASでLCRが多数派となる。
 1979年、EU選挙でLO−LCR統一名簿”欧州社会主義合衆国のために”が3.08%でLOのラギエが議員になる。
 同年、トロツキスト・レーニン主義傾向(ダニエル・グリュックシュタン)が分裂、組織の25%を占める離脱者は
国際主義共産主義者同盟LCIを結成し1980年、OCIと合流。
 1980年、MASがフランス全国学生連合・独立・民主UNEF-ID(−2001)結成に参加。
 1981年、LCRの小グル−プ(労働組合運動MAS)が離脱しPSで疑問社会主義者を形成。
 疑問社会主義者はUNEF-IDの統一労働組合派を支配し、1984年SOS人種主義を設立。
 参加者はジュリアン・ドレイアルレム・デシールイサベル・トマスローランス・ロシニョールなど。
 1983年、ファビウス政権で政治環境が変化し、1986年シラク政権が成立した。
 これによりすべての極左運動が衰退した。(逆に国民戦線が拡大)
 1988年、大統領選ではPSUと元PCFのピエール・ジュカンを支持したが失敗だった。
 同年、社会主義、エコロジー、自主管理のための新左翼が分裂結成。
 1992年、青年革命的共産主義者からの追放者が革命的左翼結成。
 1994年、民主と革命(ジェラール・フィロッシュ)の活動家が分裂し、PSの左翼反対派に加わった。
 LCRは複数左翼に参加しなかった。
 1999年のEU選挙でLCRはLOと連合を組み5議席獲得、2000年議会でLCR/LO議員はトビン税に賛成せず批判を受ける。
 2000年LOから分裂した労働者の声が合流。
 2001年、旧労働者の声革命的民主派結成。
 2002年の大統領選(1974年以降始めて)ではブザンスノーが4.25%、2007年は4.1%獲得。
 2002年にはLOやPTと異なり、第2回では反ル・ペン、事実上のシラク支持を行った。
 同年、前進派結成。
 2003年と2004年の地方選挙とEU選挙ではLOと複数左翼に対する左派として統一名簿を形成、地方選挙では良い結果が
得られたが政治的には成果は得られなかった。
 EU選挙では1.06%、0議席に後退。
 底辺社会主義合流。
 EU憲法国民投票ではコペルニクス財団を通しノン左派に参加。
 この反対運動はLCR内に苦悶を生じた、LCRはブザンスノーを2007年大統領選候補としたが反リベラル統一候補推進意見
も存在した。
 2007年大統領選挙のあとLCRは反資本主義新党の結成を発表。
 2008年1月大会では社会党の社会リベラリズムに対し厳しく自立する反資本主義新党の多数派とCPF、社会党少数派、PRSなどの
反リベラル左翼よりなる反リベラル、革命連合派あるいは反リベラル集合派が存在し、少数派には社会党からの独立優先を疑問視
するものもいた。

 LCRは数多くの小トロツキスト組織をひきつけている。それは革命的マルクス主義者連合(1969−1974、PSU参加)、
 労働者の声(1997−2000、LO派生、LCR合流)、労働者の力(1963−1969、社会主義か野蛮派生)、
 社会主義インター(1984−2002、LCR合流)、底辺社会主義(1997社会主義インター派生、2003LCR合流)、
 革命的左翼(1992、LCR派生、CWI支部)、国際革命的共産主義者グループ(2002、PTメンバー結成、反資本主義新党参加)、
  その他にはランベルティスト(労働者党内トロツキスト)たとえばラ・コミューヌシュテファン・ジュストの流れの
 国際主義者共産主義者委員会(2006ー)、LCR派生フランス・トロツキスト同盟、LCRと関係のある共産党内のリポスト
 テド・グラント潮流のル・ミリタン(2004−、PS、PCF、CGT、FSUメンバーが参加、活動は1997年から)など。

反資本主義新党NPA Nouveau Parti anticapitaliste
 2009年2月初め結成大会開催。参加組織はLCR、その青年組織JCR革命的左翼(1992年LCRから分裂)、コミューン・グループ
(1992年労働者党から分裂)、国際主義者革命的共産主義者グループ(2002年労働者党から分裂)赤い広場集合
collectif Carre Rouge(1995年元PCI活動家結成、フランソワ・シェスネら)など。
 労働者闘争LOの炎Etincelle(1996年−)はオブザーヴァー。
 NPAは左翼党とフランス共産党にEU選のための連合結成を提案したがこの両党はすでに左翼戦線結成を提案していたため拒否。
 NPAは2009年3月初めに左翼戦線参加拒否。
 LCR少数派の統一Unirクリスチャン・ピケに率いられ分裂し新党統一左翼Gauche unitaire.を結成、左翼戦線参加。
 全国大会動議は3.7%でしかなかった。
 分裂反対の統一グループは2009年5月NPAで収束・選択を結成。
 2009年EU議会選は4.8%、0議席。

労働者闘争LO Lutte Ouvriere
 通常は共産主義者連合の名のトロツキスト。1973年からアルレット・ラギエArlette Yvonne Laguiller が代弁者で、大統領選にも
ラギエがでているが、ロベール・バルシアが創設者で中央指導者。
 LOは国際主義者共産主義者連合UCIのメンバー。
 LOは労働の場での活動を強調し、他の左翼グループのように労働の場以外での闘争を重視しない。
 別の国際化運動のような最近の現象に批判的である。LOの厳格な規律と秘密主義には批判がある。
 
 起源は1939年、ダヴィド・コルネルDavid Korner(バルタ)によって設立された小さなトロツキストグループで、戦争中、工場で展開
し、1947年のルノーでのストライキをアナルコ・サンディカリストと共に支援した。
 グループはこの努力を消費し1952年崩壊した。
 トロツキストグループの再生の企図の結果,、1956年、ロベール・バルシアとルノー工場の活動家のピエール・ボワによって
労働者の声が結成された。
 68年5月の学生反乱支援により禁止され、労働者闘争となった。
 1970年にはLOはLCと統合の議論を開始したが、成功しなかった。
 1976年に再び議論が進行した。2つの組織は選挙や運動で一緒になった。
 LOは選挙での立候補に努力し、ラギエは大統領候補としてよく知られるようになった。
 1974年、ラギエは大統領選初めての女性候補となり、2.33%獲得。(クリヴィーヌは0.33%と低下。)
 LOのもうひとつの大きな公然活動は1971年からの年祭りである。 →Fete Lutte Ouvriere
 1970年代に2回の分裂があった。1974年労働者連合が結成された。これは極左になり1977年消滅し、活動家は
労働者自主管理の潮流となっていった。
 別のグループは共産主義者闘士を結成し、これは社会主義インターとなり、1990年消滅した。
 1990年代、選挙の結果がよく(1995年大統領選5.3%)新労働者党結成が話題となり、2001年、労働者の声
結成され、間もなくLCRに合流した。
 しかし2007年には大統領選1.33%と2002年の5.72%から急落した。
 ナタリー・アルトーがラギエ(1940年生まれ)に代わり2009年EU選候補となる。
 LOは何度か選挙でLCRと手を組んでいる。たとえば1979年、1999年のEU選、2004年地方選、この選挙では4.58%で
2002年の両者の合計10%より低かった。
 LOはすでに1971年にはPSU、1995年にはPCFと連合している。2008年にはPCF、PSを中心にLCR、緑、MRC、PT、PRG
などと協力、186中69が統一候補で79議席うち65が統一候補、ちなみに2001年は単独で33議席。
 2009年EU議会選挙は1.2%。

 
<スペインのトロツキズム>

(統一マルクス主義労働者党POUM) Partido Obrero de Unificacion Marxista
 トロツキストのスペイン左翼共産主義者ICEと労働者・農民ブロックBOCの統合により1935年に生まれた。
 ICEはトロツキスト起源の党であるが1935年以前にトロツキーと決裂した。アンドレウ・ニンAndres Ninとフアン・アンドラーデによって
指導されていた。ニンと党の多数派はトロツキーのPSOEに加入して左派を形成し、党をボルシェビキ化するという指示に対し、
スペインの種々のマルクス主義党を統合し統一革命的マルクス主義党の結成を主張した。
 グランディソ・ムニスの少数派がPSOEに加入。
 BOCはホアキン・マウリンJoaquin Maurinに指導されるカタロニアの共産主義者の党であった。
 マウリンはカタラン・バレアール共産主義連合の指導者であった。PCEの地域連合はこれから分裂していた。
 ICEの活動家は約500人でBOCは5000人であったが統合は対等で、ニンとマウリンが指導者になった。
 主要な組織はカタロニアとヴァレンシアであった。ここではPCEとその代理組織より優勢であった。
 両者はスターリンとコミンテルンの人民戦線戦術時代は危機にあった。
 しかし両者は共和主義行動マヌエル・アサーニャのスペイン人民戦線に参加した。
 POUMは人民戦線政府で急進政策を主張し穏健派の抵抗を受けた。
 POUMはCNTとともに内戦を闘った。
 POUMは内戦を同時に革命と考え、カタロニアで革命を進めた。
 内戦中POUMと影響力を強め勢力を拡大する共産党は対立を深めた。
 1937年5月、バルセロナで共産党勢力とアナーキストの間で武装衝突がおこりPOUMはアナーキスト側についた。
 これによりニンは逮捕、殺害され、共産主義者はPOUMの非合法化と指導者およびメンバーの逮捕を進めPOUMは
一掃されていく。
 ラルゴ・カバレリョはソ連の要求に抵抗したが、5月事件の影響で辞任しあとをついだフアン・ネグリンは優柔でPOUMの
運命は尽きた。
 敗戦により人民戦線側の諸党メンバーは亡命するか、国内で逮捕・投獄された。あるいは地下活動を行った。
 フランス亡命者の多くは強制収用所行きがまっていた。
 第2次世界大戦が終わって、POUMは徐々に分裂していった。
 カタロニアのグループはPSUCの分派とカタロニアの民族主義者と社会主義者の党としてカタロニア社会主義運動MSCを結成。
 冷戦期に歴史的活動家たちがPOUMを去り、社会民主主義の党を宣言し、帝国主義ソ連と対決していった。これらの多くはPSOE
に加わっていった。
 このためPOUMは国内のメンバーは減少し、亡命者の党になっていった。
 マウリンは1946年出獄しついで米国に亡命し、内戦中のPCEとPOUMの両方を批判した。

 1970年、68年主義の文脈と第3世代社会主義運動の出現で多くの若い反フランコ活動家がPOUMの歴史的役割を再評価し始めた。
 フランコの死後、若い反フランコ活動家によりPOUMは革命的マルクス主義党として再建されようとした。
 スペイン全国で極左諸党の政治連合の結成をめざした。
 1977年の最初の自由選挙で革命的共産主義者同盟LCR共産主義者行動共産主義左翼組織の連合として労働者統一戦線
FUT
が結成され41208票、0.23%獲得。
 1980年代にPOUMは活動放棄。

(人民解放戦線FLP) Frente de Liberacion Popular
 1958−1963年の秘密反フランコ・グループ。既成左翼が抑圧されて行動困難だったので、学生を中心に結成された。
 1962年に弾圧があり約100人の活動家が逮捕された。FLPはフランスやイタリアの左翼社会主義者や新左翼、第三世界運動
に影響をうけた。フリオ・セロン・アユソを中心にイェスス・イバニェスマヌエル・ヴァスケス・モンタルバンミケル・ロカ
ホセ・ルイス・レアル・マルドナド(後民主中道連合)、ヴィセンテ・アルベロ・シッラハイメ・パストル(後LCR)、ホセ・ラモン・レカルデ(後PSOE)など。

(革命的共産主義者同盟LCR) Liga Comunista Revolucionaria
 1971年、人民解放戦線FLPの跡をついでカタロニアのトロツキスト・グループが設立。
 1973年バスク祖国と自由ETAの分裂グループと合流、1991年共産主義者運動と合流し選択左翼結成、これはマドリドでは解放
カタルニア、ヴァレンシアでは反乱、アンダルシアでは選択行動、ヴァスクではズティク、ナヴァラではバットザーレなどという名をとる。
 1995年LCRの旧メンバーはエコ社会主義者選択空間を形成し統一左翼IUに合流。2007年IUから離脱。
 2003年選択空間に結びついていた著名活動家(フリオ・セティエン、オスカル・マトゥテ、コンチャ・デンチェ)がグループを放棄し、
選択空間としてIUの多数派に合流。
 選択空間Espacio Alternativo欧州反資本主義左翼に参加、2008年反資本主義左翼Izquierda Anticapitalistaと改名。

 共産主義者運動は1967年ETAの分裂グループが元で、1970年代種々のグループと合流し1976年共産主義者運動となる。
 1979年共産主義左翼組織が合流。
 共産主義左翼組織は1974年設立。FLPのカタロニア版であるカタロニア労働戦線を引き継ぐ、これはキリスト教労働者グループが
中心となっていた。
 共産主義者行動は1964年、人民解放戦線から追放されたトロツキストによりの国外部門としてベルギー、ドイツ、フランスの活動家
カルロス・センプルン)が結成。1976年カタロニアのグループがPOUMに参加。1978年革命的共産主義者同盟に合流。

〔労働者革命党PRT〕 Partido Revolucionario de los Trabajadores
 トロツキストLIT−QI派
 1994年労働者社会党内の真の社会主義者グループと革命的労働者党建設グループ(国際主義社会主義労働者党分裂)が結成。
 1999年、分裂し、多数派はPRTを名乗り、少数派は国際主義者闘争LIとなり、両者ともLI−QI派に属している。
 PRTは解散をきめ、2001年、革命的左翼IRに接近した。革命的左翼IRは1998年結成され国際労働者委員会CIOに属していた。
 両者は統合し2002年、PRT−革命的左翼を組織した。
 2004年PRT−IRはIUとの連合を放棄。
 2007年、分裂した赤い潮流の一部を引き入れた。

 労働者社会党1979年革命的社会主義者同盟活動家と革命的共産主義者同盟のナウエル・モレノ派(ドロテア・ナヴァッロ)が
結成。1985年から国際労働者同盟参加。選挙では革命的労働者党(1974年結成、アニバル・ラモス、左翼連合と選択EUiAに吸収)と
連合したりしていた。1993年2分裂。

国際主義社会主義労働者党POSI
 1948年消滅した旧第4インター活動家によってフランスの国際共産主義者同盟とそのスペイン委員会が結成された。
 これはスペインのトロツキスト組織結成のためスペイン共産党、スペイン社会主義青年(PSOE青年組織)、POUM、無所属のスペイン
移住・亡命者との連合・対話を行った。1976年第4インター組織OCI結成の最初の協議会開催され、第4インター再建組織委員会所属。
 PSOE、UGT、CNTなどの非共産主義者伝統的左翼により第2回協議会が1977年開催され革命的共産主義者同盟の一部も参加。
 改良主義を拒否し1977年選挙を棄権。1978年憲法国民投票は反対を要求し、人民社会主義革命党(ETAの非合法政党)、愛国労働者革命党
(ヴァスク政党)、カタロニア諸国民族解放社会党、POUMなどと憲法反対委員会結成。
 1977年PSOEのバリェカスのフェリペ・ゴンサレス反対派がバリェカス独立社会主義者グループ結成。このグループは他の社会主義者と1978年
社会主義者グループ労働調整COASを結成。指導者は旧PSOEのホセ・サルガス、リカルド・ガリッド(UGT)など。
 1979年PSOEが分裂、COAS活動家は新党結成。1980年POSIが結成される。PSOEを追放された活動家、OCI活動家、カタロニアのPOUM
再建派などが参加。1980年POSI、共産主義者同盟、革命的共産主義者同盟から追放されたグループが合同。
 1986年選挙は21853票、0.11%、2008年選挙は7386票、0.03%獲得。


<ポルトガルのトロツキズム>

国際主義共産主義者同盟LCI

 1969年コインブラで学園危機発生。フランシスコ・サルド、ホアン・カブラル・フェルナンデスが左派学生に新潮流形成、エルネスト・マンデル
の著作を翻訳したり、フランスの共産主義者同盟に接触したりする。
 1971年カブラル・フェルナンデスらがフランスでOCIやLCRに接触し、LCRとの関係確立を決める。
 1972年共産主義者行動グループがリスボン(カブラル・フェルナンデス)、ポルト(フランシスコ・サルド)、コインブラで結成される。
 1973年ミカエル・ロヴィらの出席のもと、ホアン・カブラル・フェルナンデスらリスボン、ポルト、コインブラの共産主義者行動グループが
国際主義共産主義者同盟LCI結成。1974年第4インター会議にカブラル・フェルナンデス出席。LCIに分裂発生。
 1975年5選挙区で11000票獲得。フランシスコ・ヴァレ率いる多数派が社会主義左翼運動MES、プロレタリア革命党−革命旅団PRP-BR、
革命行動連合同盟LUAR、人民社会主義者戦線FSP、ポルトガル民主運動−選挙民主委員会MDP−CDEとともに9グループに反対し
臨時政府支持のため革命的統一戦線FUR Frente Unido Revolucionario結成。少数派は”団結した兵士は勝利する”SUVを結成
(フェッレイラ・フェルナンデス、マヌエル・レセンデ、ホセ・カルヴァリョ、エイトルデ・ソウサら)。
 FURは1976年大統領選でオステロ・サライヴァ・デ・カルヴァリョを支持。
 LCIは1978年労働者革命党PRT(1975年結成、ホセ・シントラ)や伝統的トロツキスト(ルイス・ズザルテ)と合同し革命的社会党PSR結成。 

社会主義統一労働者党POUS
 1976年、カルメリンダ・ペレイラ、アイレス・ロドリゲスらが社会党から分裂したトロツキスト政党。ランベール派
 1979年選挙に参加、12713票、1980年はPOUS/PSTで83095票、1.4%、0.2%獲得、2005年は5535票、0.1%。

・労働者社会党PST Partido Socialista dos Trabalhadores
  トロツキスト、1980年設立、1981年解散。

革命的社会党PSR
 1978年、国際主義共産主義者同盟LCI(1973年設立、1975年選挙で0.3%)、労働者革命党PRT(1975年設立)の2つの
小さなトロツキスト組織(両者とも再統一第4インター派)が結成。指導者はフランソワ・ロウサン

左翼ブロックBE〕
 1999結成。人民民主連合UDP(毛派)、革命的社会党PSR(トロツキスト、1978年国際主義共産主義者同盟(1973年結成)と
労働者革命党(1975年結成)が合同、USFI)、政治21の連合から発展。更にいくつかの小グループが参加。
 構成集団はそれぞれの自立性をもつ緩い組織。
 あるいは旧MRPPフェルナンド・ロサスなどのように個人も参加。
 また炸裂/左翼革命戦線FER国際労働者同盟、1974年から活動しているグループによって2000年にトロツキスト
左翼革命戦線FERと学生運動来歴の炸裂Rupturaグループが結成)は2007年大会で独立派と議案Cで15%獲得、BE青年2007年
会議では議案Bで33%獲得、BE内で社会主義闘争潮流形成。
 政治21はマニフェスト(宣言)、PSRは闘争、UDPは共同体(コムーナ)を発行し党から雑誌周辺のグループに解消しつつある。
 2007年大会ではPSR、UDP、政治21支持のフランソワ・ロウサン議案が77.5%、テオドシオ・アルコビア議案5%、社会主義闘争と
組合主義者支持のホアン・デルガド議案15%。

 1999年の選挙で2.44%、2002年、2.75%、3議席、2005年,6.5%に上昇し8議席獲得。2009年は9.85%、16議席へ上昇。
 2004年EU議会選は5.1%で1議席(ミゲル・ポルタス
 2006年大統領選はフランソワ・ロウサンが5.3%、
 2009年EU議会選挙では10.7%、3議席獲得。(得票数は増えなかったが投票率低下が利した。)
 ヨーロッパ左翼に参加しヨーロッパ反資本主義左翼の創設メンバー。


<イタリアのトロツキズム>

戦前のトロツキスト) 

 イタリアにはアナルコ・サンディカリズム傾向のボルディガ派が存在。彼はロシア革命を支持し、1918年PSI大会で棄権主義を主張。
 アマデオ・ボルディガ(1889−1970年)は1921年共産党結成で中心的人物となり、多数派を形成。コミンテルン・メンバーともなったが
特に政治領域での統一戦線戦術に反対。
 ボルディガはPCIでもコミンテルンでも左翼反対派となった。
 1925年コミンテルンで批判を受け、1926年イタリア共産党PCdIでグラムシ−トリアッティ連合に支配権を奪われる。
 ボルディガはトロツキーを支持し1930年PCIから追放される。これでボルディガは1943年まで政治活動から離れる。

 PCdI指導者のトリアッティはスターリンについていた。モスクワの選択はPCdIに重くのしかかり、ルイジ・ロンゴ路線とピエトロ・トレッソ路線
が衝突した。
 ピエトロ・トレッソ(ブラスコ、1983−1943年)にはアルフォンソ・レオネッティ(1895−1985年)、パオロ・ラヴァッツォリ(1894−1940年)が
付いていた(3人グループ)。
 トレッソはトリアッティ、ルッジェロ・グリエコのPCdIのスターリン派の主要な反対派であった。
 トレッソはトロツキー支持でアルフォンソ・レオネッティ、パオロ・ラヴァッツォッリはより穏健であった。イグナツィオ・シロネは3人に近いと
みられていた。
 1930年、路線転換(社会ファシズム論)に反対しテレザ・レッキア(1899−1935年)、マリオ・バヴァッサーノとともに3人は追放された。
 間もなくイグナツィオ・シロネ(1930年スイス移住)も追放された。(1929年にはタスカが追放されていた。)
 1930年ピエトロ・トレッソはアルフォンソ・レオネッティ、パオロ・ラヴァッツォッリとイタリア新反対派NOIを結成し、国際左翼反対派に参加し
彼らはフランスに渡る。
 パリでトレッソはヴェリタに協力し、フランス共産主義者同盟に参加。1930年代レオネッティは国際書記局のメンバーであった。
 トレッソはピエール・ナヴィーユとともに1933年ロンドン・ビュローのパリ協議会に参加。ここではトロツキストにより第4インター結成が
強く主張された。
 トレッソは1934年イタリアで新聞ヴェリタ発行。人民戦線路線でフランスとイタリアのトロツキストはSFIOあるいは社会党への加入が問題
となりトレッソは社会党に参加。1938年トレッソは第4インター結成に参加。
 トレッソはフランスでマキに参加し恐らくスターリン主義者により暗殺された(1943年)。

 1933年レッキア、バヴァッサーノは新インターナショナル結成の展望で不和となりNOIと分裂しイタリア共産主義左翼に近い共産主義者連合
Union Communiste結成。
 ラヴァッツォッリは正義と自由に参加し、1934年イタリア社会党に参加しトロツキズムから離れる。(トレッソも1934年社会党参加)
 レオネッティはバヴァッサアーノ、テレザ・レッキアと第4インター反対のユダヤ・グループに参加。
 
 ニコラ・ディ・バルトォメオ(フォスコ、1902−1946年)はPCI結成に参加し、ムッソリーニ政権で1922−1926年投獄され、釈放されてフランスに
渡りボルディガ派に参加し、1928年PCIから追放される。しかしボルディガ派からも追放され1930年新イタリア反対派NOIに参加。

 共産党に対する見方でNOIは分裂、1933年トレッソ、バルトロメオらがNOIから追放される。これは国際書記局により取り消されたがNOIは解散。
 バルトロメオはモリニエ・フランク・グループに付いていた。彼らは1935年トロツキーと衝突。
 バルトロメオは1936年フランスから追放されスペインに渡り、POUMに参加。彼はモリニエ、ランダウ、ニンらと協力。

 バルトロメオはスペイン戦争後フランスで逮捕、ヴィシー政権により収容所に送られた。フランス降伏でムッソリーニ政権に渡された。
 1943年バルトロメオはトロツキスト残党を結集、これは南イタリア、ナポリを拠点とすし、バルトロメオは社会党で活動し影響を与えていた。
 バルトロメオはやがて米国のマックス・シャハトマン派やイギリスのチャールズ・ヴァン・ゲルデレンらと接触。
 チャールズ・ヴァン・ゲルデレンはイタリアでトロツキストの獲得活動を行っていた。

 1943年南イタリアに連合国が到着し、いささかかの自由のなかで共産党内にボルディガ派に接近するグループが生じ、PCIから追放され1944年
種々の反対グループ統一のためイタリア共産主義者・社会主義者左派グループが結成され、これにはフランチェスコ・マルカフォルトゥナート・ラ・カメラ
ロメオ・マンガーノらが加わった。
 ローマではイタリア共産主義者運動ローマ赤旗、ローマのトロツキスト系パリチザン部隊)からも参加者(オテロ・テルツァーニ)があった。
 1945年ナポリで左派会議が組織され、赤旗カルロ・アンドレオーニプロレタリア統一運動(1943年結成同年プロレタリア統一社会党となる)が
少数派として参加。北の解放でグループは国際主義者共産党PCInt(1943年オノラート・ダメンらが結成)に接近し、1945年多数派はPCInt参加を
決定し、少数派は社会党や共産党に戻ったり、リベロ・ヴィロッネらはトロツキストとなった。
 合流したPCIntは政治的限界を暴露し、社会的混乱で主導権は共産党や反動(キリスト民主、ネオファシスト)に移っていった。

 共産党プリア連合(ボルディガ派)のロメオ・マンガーノらにより解放された南イタリアで1945年共産主義労働党POCが結成され、バルトロメオの
グループと統合しPOC(ボルデェヴィキ・レーニン主義)となり第4インターナショナルFI支部となる。
 これに元イタリア共産主義者・社会主義者左派グループのリベロ・ヴィロッネが参加。バルトロメオのもとPOCはトロツキズムを取ったが、1946年
バルトロメオの死亡でロメオ・マンガーノが指導者となり加入戦術を拒否しボルディガ主義に近づき、第4インター路線に反対。
 1948年POCはFIから追放される。
 POCは分裂し、FI支持少数派はリベロ・ヴィロッネ、ドメニコ・セドゥラらで1949年イタリア労働者社会党から来た青年グループ(リヴィオ・マイタン)と
革命的共産主義者グループGCRを結成し、1951年FI支部となる。
 POCは1950年代初め消滅し、メンバーはボルディガ派に参加。
 革命的共産主義者グループGCRには行動党(レオーネ・イラーチ、ブルノ・オルシニ)、ミラノの共産党活動家(フランコ・ヴィッラーニ)なども参加。
 マイタンは1943年社会党に参加し、社会主義イニシアチヴ・グループに加わっていた。1946年ジュゼッペ・サラガットのイタリア労働者社会党参加。
 1950年代のFIの衝突でマイタンはマンデル、フランクと統一書記局派の中心となる。
 1953年FIでパブロによる転換が起こったが、GCRは加入戦術を取らなかった。
 加入戦術を試みたのはリベロ・ヴィロッネとファウスト・モンファルコン(ラド)。ファウスト・モンファルコンはプロレタリア統一社会党に参加。
 1960年代末学生反乱で共産党や社会主義諸党、マニフェスト・グループからトロツキスト移行者発生。1970年代幹部は学生から生じた。
 GCRは1979年革命的共産主義者同盟LCRと名を変える。

〔戦後のトロツキスト

 1945−1948年、共産主義労働党POCを共産党活動家が結成。
 1948年、POC、社会主義青年連合、行動党、共産党に属する活動家が雑誌”第4インターナショナル”発行。
 1949年発生グループが1950年に革命的共産主義者グループGCRとなり、雑誌”赤旗”発行。
 GCRは共産党と少数は社会党に加入。
 1960年代GCRは共産主義青年連合プロレタリア統一社会党に加入。
 1960年代後半これらからの労働者前衛AOや共産主義前衛などその他地方小グループ発生。
 1972年GCRはイル・マニフェストの選挙名簿に載る。
 1976年GCRはプロレタリア民主DPに参加。
 1979年革命的共産主義者同盟・第4インターナショナルLCRを名乗る。1980年LCR独自名簿で選挙参加。
 1983−1987年LCRはプロレタリア民主DP名簿。
 1991年プロレタリア民主はPRC合流。第4インター・グループは赤旗と呼ばれる。
 統一書記局と不仲なトロツキストにはマルコ・フェランドフランチェスコ・リッチのグループがおり、他の統一書記局不参加のグループ
として鎌・金槌がいる。
 1998年赤旗活動家はPRCのプロディ政権参加を支持し党内多数派に参加。
 2001年大会でベルティノッティの議案をリヴィオ・マイタンルイジ・マラバルバが支持しマラバルバがセナート・グループ指導者となる。
 赤旗活動家はPRC各分野で重要な役割を果たす。赤旗はエッレErreとなりトロツキスト以外にも公開される。
 2003年ベルティノッティはオリーヴと新しい協定を結び赤旗と不仲となる。
 2005年大会で第4インター・グループは批判左翼として出現し議案は6.5%獲得。
 マルコ・フェランドは選挙名簿から除外され離党し2006年7月労働者共産党結成、フランチェスコ・リッチのグループは既に離党して
いて、2007年1月共産主義選択党結成。
 2007年1月批判左翼党内で独立。フランコ・トゥリリアットが議会でアフガニスタン派兵反対で追放され12月批判左翼は分裂。

 鎌・金槌国際マルクス主義者傾向、労働者共産党は第4インター再建調整委員会、共産主義選択党は国際労働者同盟

革命的共産主義者グループGCR
 GCRの機関紙赤旗は19950−2002年発行。
 GCRは主にシルヴェリオ・コルヴィシエリらのイタリア共産青年同盟FGCIメンバーとシルヴィオ・パオリッキ、アウグスト・イッルミナティ
らのPCI中央委員会メンバーからなり1966年党から追放された。
 1968年学生抗議で400人以上の活動家に成長したがGCRは危機に入り始めた。
 コルヴィシエリ、イッルミナティ、ルイジ・ヴィンチフランコ・ルッソパオロ・フロレス・ダルカイスなどの組織の指導者が多くの青年と
学生指導者から出現した。
 多くは(ルイジ・ヴィンチ、コルヴィシエリなど)労働者前衛に参加、他は(フランコ・ルッソパオロ・フロレス・ダルカイスなど)革命的
共産主義者中核、共産主義者、共産主義万歳、共産主義前衛などの小グループに分散。
 1969年のPCIからの最終的分裂後にGCRは極左議会外運動の周辺に留まるのを終えた。
 リヴィオ・マイタン指導グループに種々の反対派からの分裂グループが参加。
 1975年ナポリにロベルト・マッサリ率いる小さなグループ革命的社会主義者同盟が生まれた。
 同年共産主義者同盟となりGCRで革命的マルクス主義者傾向となる。
 モレノ・パスキネッリなどのウンブリアの若い活動家は第4インター集合Collettivoついでウンブリア・レーニン・ボルシェヴィキ・グループ
結成。
 1976年GCRは選挙連合プロレタリア民主DPに参加。1989年GCRはDPに解消。
 シルヴィオ・パオリッキとミラノの組織の活動家の中核はフランコ・グリソリア、フェルナンド・ヴィセンティン、マルコ・フェランドに指導され、
ミラノとジェノヴァで活発なレーニン・ボルシェヴィキ・グループと革命的労働者同盟結成。
 このグループは後に1979年第4インター革命的共産主義者同盟LCRと名を変えたGCRに吸収される。
 この時期、多数派はマイタン・ペリグリニ、ジュリオ・サヴェッリ、新メンバーのエレットラ・デイアナフランコ・トゥリリアット
ルイジ・マラバルバなど、左派少数派はマルコ・フェランド、フランコ・グリソリアなどから構成された。
 1989年LCRはDPに合流、エレットラ・デイアナ、ロベルト・フィレンツェ、フランシスコ・グリソル、フランコ・トゥリリアット、セルジョ・ダミア
が党全国指導部に参加。1991年旧LCRはDPからPRCに合流。
 旧マイタンとトゥリリアット多数派は赤旗Bandiera Rossaグループ、フェランドとグリソル旧少数派は提案Propostaと呼ばれる。
 1998年PRC大会で赤旗は多数派支持。
 1999年フェランドとグリソルの提案は革命的マルクス主義連合AMR共産主義計画となりナポリ左派(ルイジ・イッツォら)、鎌・金槌(
クラウディオ・ベロッティ、アッレサンドロ・ジャルディエロ)など種々のグループを含んでいた。
 このためフェランド・グループは提案から共産主義計画と呼ばれるようになった。
 2001年からイッツォのグループと小グループ鎌・金槌はグループに参加しなくなった。
 2002年PRC大会では鎌・金槌と提案は同じ議案を支持し11%、2005年は別々でベロッティ(鎌・金槌)1.7%、提案6.5%となった。
 2004年マイタンの死で赤旗は批判左翼となる。トロツキスト運動派はエッレERREと称され(マラバラバ、カンナヴォ、トゥリリアット)、
旧LCRグループの第4インターナショナル連合はこれら。
 一方、提案は共産主義計画(フェランド、グリソリア)となる。エレットラ・デイアナは議員となり、再建党の多数派に参加(ベルティノッティ
と社会選択)。
 共産主義計画は3分解し2006年共産主義選択党、多数派は労働者共産党(フェランド、グリソリア)、残留は反潮流(再建党残留)となる。

赤旗連合)  
 批判左翼のメンバーのグループ。トロツキストで第4インター統一書記局USFIに加盟。
 批判左翼は共産主義再建党内のトロツキスト分派に起源し、これは2007年に分裂し独立した党になった。
 指導者はサルヴァトーレ・カンナヴォで2006−2008年の下院議員で同時期上院にはフランコ・トゥリリアットがいた。
 プロディ第2次内閣には一貫して反対。
 もともとは1940年代のリヴィオ・マイタン率いる革命的共産主義者グループGCRに発し、マイタンは2004年の死まで
GCRとその後継組織とUSFIの幹部であった。
 1968年共産主義青年同盟への加入戦術で多くのメンバーを失い、革命的共産主義者同盟LCRと改名。
 一部が離れ競争相手のトロツキストグループを形成したが学生を勧誘し分派活動をする。1970年代種々の選挙連合に参加。
 多くの極左が1975年プロレタリア民主DPを形成したときにそれに参加。
 PRCが結成されたとき以前のLCRメンバーはプロレタリア民主を解散して合流を主張。
 PRC内トロツキストは2007年、分裂してサルヴァトーレ・カンナヴォフランコ・トゥリリアットルイジ・マラバルタらが批判左翼結成。
 再建党内ではエッレ(Erre)と称し、週刊誌批判左翼を発行。
 2008年選挙ではカメラ0.46%(167673)、セナート0.42%(136396)。

共産主義計画
 革命的マルクス主義者連合−共産主義計画はPRC内のマルコ・フェランドとフランコ・グリソルのトロツキスト・グループ。
 ほぼAMR提案Propostaの継続組織でこれは国際トロツキスト反対派では最大そして第4インター再建調整委員会では第2の組織。
 2006年選挙でフェランドがPRCの候補となりこれで分裂、フランチェスコ・リッチの少数派はこれに反対。
 PRCはプロディ第2次政権に参加し、アフガニスタン派兵でフランチェスコ・リッチのグループが離党し共産主義選択党結成、ついで
フェランドのグループが離党し労働者共産党結成。

 共産主義計画でPRC離党しなかったグループが2006年12月反潮流結成。2008年Cpnでエルネスト議案支持。
   マルコ・ヴェルッジョ、アリ・ガデリ、ブルノ・マンガナロ。

批判左翼
 もともとはPRC内のトロツキストで2007年12月分裂し独立政党となる。2006−2008年までカメラにサルヴァトーレ・カンナヴォ
セナートにはフランコ・トゥリリアットがいた。二人ともプロディ第2次内閣には一貫して反対。トゥリリアットは2007年の政権危機の原因
をつくり、PRCから追放された。
 2008年選挙は独自名簿でカメラ0.5%獲得。
 国際的にはケン・ローチノーム・チョムスキーリチャード・ストールマンハワード・ジンミッシェル・オンフレイダニエル・ベンサイド
などの支持を得た。
 2009年EU選には参加せず。
 PRC内ではエッレErreと呼ばれ、他にルイジ・マラバルバ、リディア・チリッロ、フラヴィア・ダンゲリなど。週刊誌批判左翼発行。
 2005年大会で議案が6.5%獲得。2006年の共産主義者青年の会議では10.5%獲得。(ベルティノッティ派62.8%、共産主義者
16.6%、鎌・金槌7.0%、共産主義計画の共産主義統一連合3.1%)

鎌・金槌
  国際マルクス主義者傾向
  1986年雑誌発行。このグループは1989年学生運動(Pantera)でリセとミラノ工科大の学生組合運動展開で大きな役割を果たす。
  ソ連・東欧崩壊で衰退を見た。PCI解散で他のトロツキストがプロレタリア民主で活動したのに対しPRCで活動。
  雑誌赤旗などでマルコ・フェランドとリヴィオ・マイタン周辺に結集しガラヴィニ、コスッタついでベルティニッティ、コスッタ多数派と対抗。
  スペインの同傾向グループの学生組合運動体験から刺激され1995年公共学校防衛委員会を結成し1990年代青年運動で大きな
 影響をもつ。
  共産主義者党分裂で党内に留まり、マイタン派はベルティノッティ多数派に参加。
  1999年フェランドは”提案Proposta”結成、他はナポリ左派と鎌・金槌結成、提案は共産主義計画に比重を移す。
  2002年共産主義青年で7%、2005年も7%、PRCでは独自提案で1.7%、2008年PRC提案では3.2%。


ギリシャのトロツキズム

 初期トロツキスト(国際左翼反対派)は文庫Archeioマルクス主義組織パンデリス・プリオプロス(スパルタクス)グループなど。

 フラギスコス・ツラティは1919年秘密グループの共産主義連合を社会主義労働党内に結成し、理論に重きを置いたが
1921年初期解散。
 文庫Archeioマルクス主義は1922−1923年にギリシャ社会主義労働党の反対派として出現し、1923年フラギスコス・ツラティを
指導者としてマルクス主義文庫が発行される。指導者はやがてデメトリウス・ヨトプロスに変わる。
 ヨトプロスはNo.2にゲオルゲ・ヴィツォリス(コメディアン)を指名。
 1927年ヨトプロスパンデリス・プリオプロスとKKEから追放される。
 デメトリウス・ヨトプロス国際左翼反対派ILOと接触し1929年国際主義共産主義者連合EKDと名を変える。
更にギリシャ・マルクス(ボルシェヴィキ)・レーニン主義共産主義組織文庫マルクス主義KOMLEAと名を変え、1931年にILO
組織となる。
 ヨトプロスはILO書記局メンバーとなりウィッテと称しNo.2となる。文庫マルクス主義組織はメンバー2000人と称しILOの
最大組織であった。彼らは労働組合運動で活動し、共産党支配の統一労働総連合や改良主義組合に入っていた。
 サロニカでは労働組合や失業労働者運動や農民の間でも活動。
 文庫マルクス主義者やトロツキーは1982年ギリシャは革命的状況にあると判断。
 しかし1931年のサロニカの選挙では共産党の2300票の対し、590票しか獲得できず。これはボルシェヴィキ革命の威光にもよる。
 マケドニア問題(トロツキーはマケドニア独立の可能性を認める)、更にフランスの転換(社会党加入戦術)でトロツキーと衝突し、
1934年KOMLEAは分裂しゲオルゲ・ヴィツォリス、ルカス・カルリアフティスのグループは引き続きトロツキーと一緒に行動。
 デメトリウス・ヨトプロスに忠実なグループはギリシャ文庫マルクス主義共産党KAKEを、ヴィツォリスらはボルシェヴィキを結成。
 文庫マルクス主義者は1934年トロツキズム運動から撤退し国際右翼反対派ロンドン・ビュローに参加。
 1936年メタクサスの独裁でヨトプロスはパリに逃れる。1938年のパリの革命的社会主義者会議に参加。
 ギリシャ文庫マルクス主義共産党KAKEは1947年ギリシャ文庫マルクス主義党AKEとなる。
 1950年代KAKEは解散し、ヨトプロスは1950−1960年代右傾化し、旧トロツキストらと反共主義サークルに参加。
 ヨトプロスの息子アレクサンドロス・ヨトプロスは11月17日のメンバー。

 パンデリス・プリオプロスは1927年KKEから追放され、このグループは1928年反対派(スパルタクス・グループ、1928年から
雑誌スパルタクス発行)を結成し、国際左翼反対派に加わった。スパルタクス・グループは文庫マルクス主義者を宗派主義として
これに参加しなかった。文庫マルクス主義者は1932年スパルタクス・グループは75名といっている。
 トロツキーによって文庫マルクス主義が受け入れられ、プリオプロスのグループは文庫マルクス主義から分裂したミカリス・ラプティス
(ミッシェル・パブロ)らとともに批判を受け、トロツキスト運動から追放された。

 1930年ミカリス・ラプティス、クリストス・スラスのグループ(宗派主義者)は文庫マルクス主義から分裂し共産主義者統一グループ
KEO結成、これは主に学生よりなっていた。
 1932年アギス・スティナスが共産党から追放されKEOと一緒になりKKEレーニン主義反対派LAKKEと名乗る。1934年ラプティス
スパルタクスとギリシャ国際主義共産主義者組織OKDEを結成した。プリオプロスとラプティスはILOのクルト・ランダウ(ドイツのILO)、
レイモン・モリニエ(フランスのPCI結成者)と関係していた。

 一方ボルシェヴィキも分裂、ヴィツォリスとアギス・スティナスギリシャ国際主義共産主義連合KDEE結成、他のグループは
新しい道ルカス・カルリアフティス、サッコス・パパドプロス)を結成。
 1937年新しい道(クリストス・アナスタシアデス)はOKDE(プリオプロスラプティス)と統一OKDE
ギリシャ・国際主義共産主義者統一組織(EOKDE)を結成。

 1938年ギリシャ・国際主義共産主義者統一組織EOKDE(スパルタクス)は第4インター結成大会に参加。
 1939年KDEEとEOKDEは第4インターに参加、ゲオルゲ・ヴィツォスリとミカリス・ラプティスが代表として参加。

 1945年KDEEはギリシャ国際主義共産党DKKEとなり、更にギリシャ国際主義革命党DEKEとなる。(wiki文庫マルクス主義者
 トロツキストの統一は第2次世界大戦後にしか達成されなかった。

 スティナのギリシャ国際主義革命党DEKE、EOKDEから結成されたアナスタシアデスのギリシャ国際主義共産党KKDE、KKDEから
多数派により結成されたカルリアフティスの革命的国際主義者EDKEの3グループがドイツ占領期に存在

 ミカリス・ラプティス(ミッシェル・パブロ)はメタクシス独裁でフランスに亡命し、以降人生の大部分をフランスで過ごす。
 パンデリス・プリオプロスは1939年メタクシス独裁下で逮捕されギリシャに侵攻してきたイタリア軍の手に落ち、1943年、100人以上
の活動家とともにイタリア占領軍により処刑される。処刑の際、兵士に対し反ファシスト抵抗者に対しそのような犯罪を犯すべきでない
と演説し、兵士は処刑を拒否し、警察が処刑を行った。
 ゲオルゲ・ヴィツォリスはメタクシス独裁で(有名な俳優だったおかげで)フランスに亡命し、ドイツ占領でレジスタンスに参加、1954年
フランスで死亡。
 
 アンドレアス・パパンドレウ(後のPASOK指導者)はアテネ大学時代1938年トロツキスト(デモステネス・ヴルツキス率いる13グループ
というEOKDEに近いグループ、これにはコルネリウス・カストリアディスも参加)として逮捕され、父親の力でアメリカに逃亡。

 トロツキストはメタクシス独裁、イタリア、ドイツ占領更には内戦ではスターリン主義者の犠牲となった。
 メタクシスやファシストよりスターリン主義者に殺されたトロツキストのほうが多かった。(共産党系の政敵暗殺組織、人民闘争保護
組織OPLAによるトロツキスト犠牲者は600あるいは800名ともいわれる。)

 (以下ルカス
 1942年多くのトロツキストが監獄を脱出し、活動を始めた。このとき3グループが出現。
 ルカス・カルリアフティスのギリシャ労働者国際主義者党EDKE。
 アギス・スティナスの労働者戦線。
 クリストス・アナスタシアデス(1910−1987年)のギリシャ共産主義者国際主義者党KKDE。
 パブロは当初レジスタンスは反動的としたが1944年に転換し進歩的とした。
 カルリアフティススティナスはレジスタンス参加に反対、アナスタシアデスはパブロを支持したが積極的活動はしなかった。

 (以下KDKE1946−1967(Gr)
 1945年3月スティナスのギリシャ国際主義革命党DEKE以外がギリシャ革命的国際主義党EDKE結成。
 9月、EDKE、DEKE(スティナス)、コスタ・カロツェリ率いるテッサロニキのギリシャ国際主義共産党地域委員会PEDKKE及び
赤旗グループが統一会議創設組織委員会を結成。
 アナスタシアデス、カルリアフティス、スティナスの3派の事前交渉ではスティナスがソ連を批判。

 国際書記局の命令で1946年7月統一会議が開催され、シェリー・マンガン、パブロも参加し、ギリシャ共産主義者国際主義党KDKE
が結成される。、カルリアフティス派は16代表、アギス・スティナス派は10代表、クリストス・アナスタシアデス派は8代表を派遣。
 中央委員会は多数派カルリアフティス5、左派スティナス3、少数派アナスタシアデス3。
 カルリアフティスは統合で総書記となるがやがて内戦で他のメンバーと疎遠となる。
 スティナスとアナスタシアデスが多数派となる。しかしスティナスは国家資本主義説で1947年、スティナスはKDKEから離れる。
(1948年第4インター会議ではカストリアディス(1945年パリ移住)がグループを代表して発言、しかしカストリディアスのグループ
(社会主義か野蛮か)とは間もなく衝突。)
 再びカルリアフティス派が多数派となる。当初から国際書記局のパブロとマンデルはアナスタシアデス派と結びカルリアフティス派は
やがてヒーリー派となる。
 1953年の第4インター分裂で国際書記局のパブロに忠実なアナスタシアデスがギリシャ支部を率いた。
 1958年カルリアフティスの少数派がパブロ派と分裂、1963年労働者前衛(他にスクラヴォス)を結成し1964年ヒーリー・ランベール派
国際委員会支部となる。
 1972年スクラヴォスのグループが国際委員会の組織となり、カルリアフティスは追放される。独裁の終焉でカルリアフティスのグループは
国際委員会派と統一書記局派に奪われる。
 
 (以下アレキサンダー
 第2次世界大戦後、ギリシャのトロツキストが4つのグループに分裂して出現。
 ギリシャ国際主義労働者党EDKE、ギリシャ国際主義革命党DEKE、マケドニア地域独立組織(PEDKKEか?)、社会党(不詳)
からの分裂グループ。
 
 第4インターヨーロッパ書記局はギリシャのトロツキストの統一に着手。
 シェリー・マンガン、パブロらを派遣し1946年統一しギリシャ国際主義者共産党KDKEが結成される。 
 1977年国際主義者共産党KDKEは他のトロツキスト・グループとギリシャ国際主義共産主義者組織OKDEを結成し統一書記局
に参加継続。

 1965年パブロのグループが統一書記局と衝突し”社会主義へ”となり、このグループは一時アンドレウ・パパンドレウのPASOK
で活動し、パブロはアンドレウ・パパンドレウの助言者となる。1982年のPASOKの選挙の勝利で衝突。
 このグループは1982年のポーランド連帯を支援。

 1963年の統一書記局参加拒否したM.バストスのグループが1966年再組織化された国際委員会第3回会議に参加。
 1970年代の国際委員会から分裂したランベール・ヒーリー派のグループも存在し、1980年代中の第4インター再建組織委員会
(ランベール派)に代表を送っている。
 1970−1980年のモレノ派分裂で社会主義者同盟と社会主義者グループが発生。
 1979年の同格委員会世界協議会にはランベール派とモレノ派が参加。
 ヒーリー派も存在。
 1967年ポサダス派の革命的共産党が結成される。(週刊誌共産主義者闘争発行、間もなく消滅か)
 1979年のトロツキスト運動最悪期には13グループが存在しうち2グループがPASOK内で活動、他の7グループは200人以下
のメンバーといわれる。

〔現代のトロツキスト〕

社会主義国際主義者運動CWI PASOKから追放された1970年代発生のトロツキスト。

労働者革命党EEK(トロツキスト、CRFI派)、1985年労働者国際同盟の後継として結成。
 (指導者サヴァス・ミカエルはカルリアフティスの労働者前衛から分裂し当初は労働者国際同盟を名乗り国際委員会派)

ギリシャ国際主義共産主義者組織−スパルタクスOKDE 
  歴史的OKDE、EOKDE、KDKEの後継組織。独裁の崩壊でアナスタシアデスのKDKEから改名。
  2007年選挙は統一反資本主義左翼に参加。

社会労働者党SEK
 国際社会主義者傾向IST加盟、ブリテン社会労働者党につぐIST第2の組織。
 1967年の軍事クーデタでロンドン亡命した学生から発生。毛沢東主義に影響され社会主義化革命組織OSEを組織。
 ロンドンでトニー・クリフ国際社会主義者と関係をもちISTと関係する。その後ギリシャに戻り関係は喪失。
 1989年代初期OSEは再度ISTと関係、組織拡大し1997年、SEKとなる。2001年少数派が国際主義者労働者左翼DEA結成。
 2004年から反資本主義連合として0.1%前後獲得、2007年はギリシャ・スパルタクス共産主義国際主義者組織(OKDEスパルタクス) 
再統一第4インター、トロツキスト)、左翼再建ARAN、左翼反資本主義グループ統一反資本主義左翼を結成し0.15%獲得。


<カナダのトロツキズム>

社会主義行動同盟League for Socialist Action (Canada)
 カナダ・トロツキスト運動は1920年代末のCPC内左派モーリス・スペクターに起源する。
 スペクターは1928年コミンテルンへ派遣され彼とジェームズ・キャノンはトロツキーの国際左翼反対派と出会う。
 スペクターはトロツキー支持者となり1928年追放され1932年カナダ国際左翼反対派を結成し、これに中央書記局を追放された
ジャック・マクドナルドが参加。1930年代分裂、合体を繰り返し、1934年カナダ労働者党WPCとなる。
 1937年WPC多数派は協同連邦党CCFに参加。まもなくCCFを追放されCCFでの活動に反対したグループと統合し、1939年
社会労働同盟SWLを結成。第2次大戦後SWLは分解し、1946年にロス・ドーソンのもと第4インター支部として革命的労働者党
RWPとして再建。1952年RWPは公然活動をやめCCFに加入し始める。1953年、トロツキストの国際委員会ICFIと国際書記局
ISFIの分裂で多数派はキャノン派(ICFI)を支持、少数派はパブロ派(ISFI)を支持。1955年トロントの社会主義教育同盟SELと
ヴァンクーヴァーの社会主義情報センターSICが結成される。1961年これが合体し社会主義行動同盟LSA結成される。
 1968−1972年までLSAはワッフルに関係する。ワッフルのNDPからの追放後もLSAはNDPのとどまる。
 1970年代初期ICFIとISFIが統合した統一書記局USFIが分裂。学生運動活動家を主力とするマンデル支持派は革命的共産主義者
傾向となり、LSAを去り革命的マルクス主義者グループRMGに参加。
 LSAの少数派となったロス・ドーソン派は1974年社会主義者同盟を結成。
 1977年、RMG支持者とそのケベック分派は革命的労働者同盟RWLを結成し、USFI支部となる。

国際社会主義者
 国際社会主義傾向トニー・クリフ派)に参加。ワッフルに起源する。
 1972年、ヨーク大グループが左派シャハトマン主義の米国国際社会主義者と接触。1974年のワッフル崩壊後、1975年
独立社会主義者ISを組織、1976年、国際社会主義者ISと名称変更。
 1994年、新社会主義者グループが分裂。
 1980年代女性闘争に深く関与。1999年以降の反資本主義運動にも参加。反戦運組織化にも関係。
 1980年代中期学生運動に方向転換しオタワの学生に大きな影響を与える。

新社会主義者グループ
 1996年国際社会主義者内の政治的再方向化分派PRF(デイヴィド・マクナリー)が結成。やがて社会主義挑戦のメンバーが参加。
 ケベック独立を支持しケベックの左翼社会主義者と兄弟関係。
 2003年分裂により自治と連帯結成される。

革命的マルクス主義者グループRMG
 RMGは1973年トロント大の古いもぐらOld Moleグループとかつてワッフルで、いまだ新民主党にとどまっているマルクス主義者
グループの赤いサークルの統合により結成。引き続き社会主義行動同盟から革命的共産主義者傾向が分裂しRMGに参加。
 RMGは第4インター統一書記局マンデルタリク・アリグループを支持し、米国社会労働党グループに反対。

共産主義者同盟
 1977年、革命的労働者同盟RWLとして社会主義行動同盟LSA、革命的マルクス主義者グループRMG及びそのケベックの
片割れの革命的マルクス主義者グループGMRの統合により設立。
 トロツキスト党のRWLは第4インター統一書記局USFI派であった。グループは米国社会労働党とカストロのキューバを支持し、
トロツキストから離れた。RWLは新路線を支持しないメンバーを追放し、これらの多くは社会主義挑戦左翼社会主義者を結成した。
 1980年代晩期RWLはUSFIを離れSWP周辺を基礎とする新しい開拓者傾向の部分となった。
 1990年、共産主義者同盟と名を代える。

社会主義挑戦
 1980年代初期RWLのトロツキズムからの離脱により結成。最初ばらばらであったグループが社会主義行動連合としてまとまり
1988年ケベックの左翼社会主義者と合流し社会主義挑戦となる。
 1980年代にRWLがUSFIを離れてからUSFI支部となる。
 1994年、バリー・ウェイスレダー社会主義挑戦を追放されて社会主義行動を結成し新民主党社会主義者幹部と連携。
 1996年新社会主義者グループ結成でこれに参加、1999年独立組織を解散。左翼社会主義者自体は存続。

左翼社会主義者
 ケベックの社会民主党PDSが合流した連帯ケベック内トロツキスト分派。
 1983年、RWLを追放されたトロツキストが結成。2002年統一進歩勢力UFP参加。2006年UFPと市民オプションが合流し
連帯ケベック結成。


米国のトロツキズムト

 1928年、トロツキストとしてUSA共産党を追放されたジェームズ・キャノンマックス・シャハトマンマルティン・エイバーンらが
アメリカ共産主義者同盟CLA結成。
 1934年、CLAはアブラハム・マストのアメリカ労働者党American Workers Partyと合流しUS労働者党
Workers Party of the United States結成。
 アメリカ労働者党の多数はトロツキズムに合流したがルイス・ブデンズ、アーノルド・ジョンソンらは共産党に参加。
 アメリカ労働者党は1933年進歩労働会議(1929年アブラハム・マスト結成)の活動家が結成。
 この党は1934年のトレドのオート・ライト(ハネウェル)・ストライキ主導で有名。これは1934年のアメリカ共産主義者同盟
ミネアポリス運転手ストライキ、1934年の共産党のウェストコースト・ロングショア・ストライキと共に1930年代の産業組合運動を
勃興させる契機となった。
 この党は数百人を越えることはなかったが、ジェームズ・バーナムシドニー・フックジェームズ・ローティヴィクター.F.クレヴァートン
などの旧共産党知識人をひきつけた。
 US労働者党は1936年、アメリカ社会党に参加。
 しかし1937年追放により1938年社会主義労働者党SWPSocialist Workers Partyを結成。この党は第4インター創設に参加。
 SWPの良く知られた指導者は以前のIWWメンバーで国際労働防衛首脳のジェームズ・キャノンマックス・シャハトマンであった。
 そのほかファレル・ドブスエヴィリン・リードなど。
 1940年、トロツキーのソ連労働者国家説支持のジェームス・キャノンの多数派とマックス・シャハトマンの少数派に分裂した。
 シャハトマン派のジェームズ・バーナムはソ連は堕落しているのでいかなる防衛する価値もないとした。
 1939−1940年にSWPでシリル・ジェームズラーヤ・ドゥナエフスカヤ(ウクライナ生まれのユダヤ移民でメキシコでトロツキーの
秘書となりやがてトロツキーと意見相違しソ連=国家資本主義説にたつ。)が出会う。
 社会主義労働者党SWP内で党内論争があり、1940年ソ連のフィンランド侵入の反対するシャハトマン、ジェームズ、ドゥナエフスカヤ
らと青年社会主義者同盟の多数派が分裂して労働者党WPWorkers Party第3陣営トロツキズム)結成。
 労働者党WPにはシャハトマンを指導者としてハル・ドラッパーシリル・ジェームズマルティン・エイバーンジョセフ・カーター
ジュリアス・ジャコブソンなどが参加。WPは第3陣営(両帝国主義陣営にたいし革命的敗北主義をとる)論をとる。
 WPは間もなくソ連を官僚制集産主義としてワシトンでもなくモスクワでもなくを標語とする。
 フィリップ・セルズニックは1937年頃労働者党に加わりバーナムやデューイの影響のもとシャーマン派(セルズニック偽名)を結成、
これにはゲルトルード・ヒンメルファルブシーモア・リプセット、マーヴィン・メイヤース、ピーター・ロッシ、マーティン・ダイアモンド、
ハーバート・ガーフィンケル、ジェレミア・カプラン、アーヴィング・クリストルが参加。
 セルズニックはアーヴィング・ホーウェらのマルクス主義が労働者党の公式理論という考えに反対した。
 シャーマン派はシャハトマン派をキャノン派と同じ官僚制組織を採用していると批判。シャーマン派はやがて社会党に移った。
 1960年代のバークレイの言論の自由運動でセルズニックはこれを支持しリプセットとバリケードをはさんで相対した。

 1940年ジャン・ヴァン・ハイエノート(1932年フランス共産主義者同盟参加しトロツキーの秘書となる)は第4インター書記となったが、
SWPと衝突し辞任。彼はフェリックス・モローアルバート・ゴールドマンに支持されていた。これらは党正統派の危機理論に反対、
分派を形成。ジャン・ヴァン・ハイエノートは1947年SWPを追放され翌年マルクス主義を放棄。

 トロツキーのフランスの転換による戦術としての加入に反対したヒューゴ・イーラーHugo Oehlerは分裂し1935年革命的労働者同盟
RWLを結成。これにはトム・スタムやシドニー・レンズらも加わった。
 イーラーはレーニン主義同盟などいくつかの小グループを追放。
 1937年グループはトロツキズムを放棄、イーラーとスタムはトロツキーについて意見の相違により分裂しイーラーが多数派となり、
スタムは同名の組織を結成した。
 スペイン戦争ではRWLはPOUMを支持、イーラーはスペインに渡りPOUMが抑圧されるのを見て、米国で体験を出版。
 トロツキーの第4インターに対し別の国際組織を結成。第2次世界大戦勃発で没落。1950年代初期消滅。
 レンズは後にロバート・ラフォレットの創設した週刊誌進歩に編集員になったり、1980年には市民党のイリノイの上院候補になったり
している。

 SWPは米国の第2世界大戦参加に反対し、苦難を蒙る。
 戦争が終わりSWPと第4インターは第1次世界大戦後と同様の革命の波を期待し、ユーゴスラヴィア、アルバニア、朝鮮、中国を含む
国々が実際に社会主義になったがすべてスターリン主義党に指導されていた。

 終戦で第4インターの再組織化も起こり、これにSWPが大きな役割を果たす。これでSPWとWPの統合の動きが起こる。
1943年から社会主義労働者党SWPではフェリックス・モローアルバート・ゴールドマンジェームズ・ファレル
ジーン・ヴァン・ハイエノートらがWPとの合流を主張、話し合いは失敗しゴールドマンファレルらは1946年労働者党WPに参加。
 1948年ゴールドマンファレルはマーシャルプランを支持し資本主義だけがスターリン主義を打ち破るとして、社会党に参加。
 (後にジェームズ・ファレルはCIAの資金援助を受けた1950年樹立の反共団体文化自由会議に参加、これにはフランツ・ボルケノ
カール・ヤスパースジョン・デューイ、ジェームズ・バーナム、バートランド・ラッセル、シドニー・フック、ヒュー・トレヴァー・ローパー
イグナシオ・シロンアーサー・シュレジンジャー・ジュニアレイモン・アロンベネディクト・クローチェなどが参加)
 この頃アーヴィング・ホーウェマイケル・ハリントンがWPに参加。

 ジェームズとドゥナエフスカヤは労働者党WP内で国家資本主義の学習グループを結成し間もなくグレイス・リー・ボッグスが参加。
 このグループはSWPの理論に近く、シャハトマン同様官僚制集産社会説をとるWP多数派に対しジョンソン・フォレスト派(偽名から)を
結成、1947年労働者党WPから社会主義労働者党SWPに戻る。しかし彼らはの思想はSWPの正統トロツキズムから離れ、ジェームズ
とドゥナエフスカヤは1951年までには前衛党思想を捨てトロツキストからも離れ通信出版委員会を結成、
 1955年にはジェームズとドゥナエフスカヤも分裂しドゥナエフスカヤは自分自身の組織ニュース・手紙委員会を結成しマルクス主義
ヒューマニスト思想を展開。ニュース・手紙委員会は2008年オルガ・ドマンスキーらからマルクス主義・ヒュ−マニズム委員会
ピーター・ヒューディスら)が分裂。
 1956年にはジェームズ、グレイス・リー・ボッグスコリネリウス・カストリアディスはハンガリ動乱に際し、”現実に面して”を著作、
 1962年、グレイス・リー・ボッグスジェームズ・ボッグスライマン・パインシリル・ジェームズと第三世界問題で分裂。
 ジェームズ支持のマルティン・グレイバーマンらの小グループは現実に面してという名で活動するが1970年解散。

 戦後の短い労働者反乱の波は1950年代には保守化に席を譲る。

 SWP内のパブロ第4インター国際書記局派)支持のコクラン派が1954年追放されバート・コクランハリー・ブレイヴァーマン
ポール・ジーゲルらがアメリカ社会主義者連合結成。これは1959年解散。
 ブレイヴァーマンは1937年からトロツキズム運動に参加、SWP結成によりこれに参加。
 1959年、SWPからサム・マーシーが分裂労働者国際党WWP結成。
 労働者国際党WWPはSWPの反対した1948年のワラス進歩党、中国の文化革命と1956年ソ連のハンガリー介入を支持し。
 この党は黒豹党ウェザーマン地下組織を支持。
 2001年樹立の反戦・反人種主義の反帝国主義組織ANSWERはこの党の強い影響下にある(後PSL)。
 この党は大統領選でグロリア・ラ・リヴァ(1992年)、モニカ・ムーアヘッド(1996、2000年)、2004年はジョン・パーカー
(ヴァーモントの自由連合党が支持)らをたて、2008年は緑党シンシア・ムキニー支持。
 2004年労働者国際党WWPから社会主義・解放党PSL分裂。PSLはキューバ、チャベス支持で中国には批判的。
 PSLは2008年大統領選でグロリア・ラ・リヴァ支持、彼女は以前WWPから副大統領あるいは大統領候補となっていた。
 グロリア・ラ・リヴァは1994年カリフィルニア州知事選72774票、0.9%獲得、キューバ支持者。

 SWPは1950年代から1960年代までその思想を硬く保持し古臭くなり、1948年をピークに1960年代には後退し始める。
 1959年のキューバ革命で政治路線を変えキューバ革命を支持し青年が加入し始める。
 この時期指導者マリー・ワイスは社会党に加わったシャハトマン派の若者を勝ち取る。しかしかれらは学生運動から離れ党内文化が
変わり始まる。

 1948−1960年までファレル・ドップスがSWPの大統領候補となり、1953年にキャノンから全国書記を引き継ぐ。
 1960年ファレル・ドップスジョセフ・ハンセンはキューバに行き、カストロとゲバラの支持者となる。

 1960年代初期にSWPは第4インター国際書記局に再加盟し、キューバ革命に無批判的になり、ティム・ウォールフォース
ジェームズ・ロバートソンらはSWP内で少数派の革命的潮流を形成。彼らはパブロ主義への降伏を拒否し、第4インター統一書記局
USFI参加に反対。彼らはカストロ政権を批判。
 リンドン・ラルシュは1949年にSWPに参加し、1964年には革命的潮流その後とスパルタクス同盟と関係。
 ラルシュは1969年に労働委員会全国幹部を結成、これは当初トロツキスト思想の影響を受けた、新左翼組織であったが、ラルシュは
他の新左翼はマクジョージ・ブンディフォード財団政策研究所ヘルベルト・マルクーゼに支配されているとしてこれらに反対、
1970年代中期には右傾化したといわれる。
 この組織は1972年米国労働党を結成、1976年大統領選にラルシュをたてる。1979年夏まで民主党に参加し解散。

 ジェームズ・ロバートソンは1962年SWPから離れスパルタクス・グループ、1966年にスパルタクス同盟国際共産主義者同盟
を結成。これからは国際ボルシェビキ傾向が派生。1974年国際スパルタクス傾向を結成し1989年国際共産主義者同盟となる。
 1964年、ティム・ウォールフォースらはSWPを追放され第4インターアメリカ委員会を結成、ICFIの支部となり、SWPはISFIに参加。
 ICFIは1960年代に拡大し1966年労働者同盟となる。ティム・ウォールフォースはその後アメリカ民主社会主義者に参加。
 前記余波で1965年SWPのシアトル支部が分裂、クララ・フレイザーリチャード・フレイザーらが自由社会党結成。
 マリー・ワイスとムラ・タナー・ワイスも同様に離脱。1978年マリー・ワイスが自由社会党指導者となる。

 1972年ファレル・ドッブスがSWPの全国書記を退任しジャック・バーネスが跡を継ぐ。
 バーネスのSWPは1980年代永続革命論を捨て再統一第4インターからも撤退、開拓者潮流となる。

 1983年SWPから追放された永続革命論者が社会主義者行動結成、これから1985年には社会主義者統一が分裂、1992年
には社会主義者組織者グループ分裂、2001年には社会主義労働者組織が分裂。

 1986年労働戦闘者のち社会主義選択が樹立された。これは労働者インター委員会の所属。
 社会主義選択は1996、2000、2004年の大統領選でラルフ・ネーダーを支持。
 2004年の大統領選ではほとんどの左翼グループはブッシュ以外のだれでもよいという立場で結果的にジョン・ケリーを支持、
他のトロツキスト組織はネーダーが移民に対し右派的立場をとっていることを批判。

 1995年第4インター国際委員会ICFI加盟の諸党が社会主義平等党SEPを結成。
 これは2004年大統領選にビル・ヴァン・オーケンを擁立。
 1996年、ジャン・ノーデン、マージョリー・スタンバーグがスパルタクス同盟から追放され、第4インター同盟の国際主義者グループ
を結成。

 一方労働者党WPは1949年独立社会主義者同盟ISLと名を変る。アーヴィング・ホーウェマイケル・ハリントンの右派が分裂し
週刊ディサントに参加。これは1954年ニューヨーク知識人(ダニエル・ベル、シドニー・フック)により設立された。
 これにはルイス・コーザーヘンリー・パッチャーメイヤー・シャピロなどが含まれていた。
 これは社会民主主義を支持していたが、冷戦で反共主義になり、1960年代、1970年代には第3世界革命論、民族解放論と新左翼
の文化に懐疑的になったが、リベラル外交政策と特に労働と市民権問題で社会的平等主義に関係し、新保守主義運動とは一線を画した。
 著名な投稿者はハンナ・アレント、ギュンター・グラス、ユルゲン・ハーバーマス、ノーマン・メイラー、エーリッヒ・フロムなど。

 1957年ISLはノーマン・トーマスの社会党に参加し翌年解散。
 ハル・ドラッパーらはこれに反対し1964年、バークレーで独立社会主義者クラブ結成し自由演説運動で活動、ニューヨークでは
シー・ランディーらが活動、SDSで活動するが毛沢東グループの前に小グループでしかなかった。
 1969年独立社会主義者クラブ国際社会主義者ISとなる。
 1971年ハル・ドラッパー周辺が離脱、1973年シー・ランディーとロン・ターバー周辺の革命的潮流が革命的社会主義者同盟RSL結成。
 1976年RSLからランディー、ウォルター・ダールらの革命党同盟が分裂。1975年には革命的マルクス主義委員会が分裂しこれは
後に社会党に合流。
 RSLは反人種主義・反KKK運動で知られ、またゲイの先駆運動にも積極的で1970年代末期のゲイの社会主義集合体赤旗連合
の少数派からメンバーを取り込んだ。赤旗連合多数派はスパルタクス同盟に参加した。
 RSLはその他種々のゲイ組織に関係したが、RSLの主要なゲイ幹部はエイズで死亡し、1980年代には役割を終えた。
 RSL残留組はアナーキズムに移っていった。RSLは1989年解散。
 
 また国際社会主義者ISからは1977年英国SWPに近い国際社会主義者組織が分裂。また別のグループが労働者の力として分裂、
1986年までに労働者の力、社会主義者統一(1985年SWPから分裂)と国際社会主義者ISは合流し連帯結成。
 連帯緑党や労働党(1996年)Labor Partyと接近。
 1990年代にSWPから追放された第4インター潮流(1983年追放、再統一第4インター支持派)と社会主義行動(1993年)の
一部が連帯に合流。2002年トロツキスト同盟(1991年革命的労働者同盟RWLから分裂)が連帯に合流。

 1958年、マックス・シャハトマン独立社会主義者同盟メンバーは社会党幹部に受入れられる。
 1960年代社会党で最も強力な存在はシャハトマンとマイケル・ハリントンのグループで社会党を自分たちの候補をもつ独立第3党
として維持する一方民主党内の圧力グループとして行動する平行戦略に同意していた。
 ハリントンは1950年代初期ドロシー・デイカトリック労働者運動に関わっていたがやがて宗教に幻滅し、シャハトマン
独立社会主義者同盟に参加、やがて彼らと共に社会党に入ってきた。
 党は3派に分裂し、デイヴィド・マクレイノルズに率いられるデブス・グループは伝統的な独立政党立場の最も強固な左派で、
マイケル・ハリントンの中央派連合グループは民主党内で民主党の左傾化を期待していた。
 シャハトマンの右派統一グループは民主党の反共・偉大な社会派のリンドン・ジャクソンヘンリー・ジャクソングループの強い
支持者であった。
 この分裂はヴェトナム戦争と新左翼に対する考えに反映し、シャハトマンはヴェトナム戦争賛成、新左翼不信で、ハリントンは
ヴェトナム戦争反対、新左翼懐疑で、デブス・グループは戦争反対、新左翼許容であった。
 シャハトマンはベトナム戦争、キューバ介入(ビッグス湾侵攻)を断固支持した。
 一方でシャハトマン・グループは自己版マルクス正統主義で民主集中制支持で、他の2派は折衷的であった。
 1968年民主党大会ではデブス・グループは外で抗議運動を行い、他の2派は大会代表団にいた。
 1972年大統領選ではデブス・グループはベンジャミン・スポックを支持し、連合グループはジョージ・マクガヴァン指名を支援し、
統一派はヘンリー・ジャクソンを支援し、ジャクソンが撤退するとマクガヴァンとニクソンに対し中立となった。
 デブス・グループ(デイヴィッド・マクレイノルズ)は1972年分裂し民主社会主義連合UDSを結成した。
 
 1973年、他のすべてのグループが社会党名を放棄し、民主社会主義連合UDSが社会党USAとなりフランク・ザイドラー
(ルター派信者)が指導者となった。
 マイケル・ハリントンアーヴィング・ホーウェ民主社会主義者組織委員会のちにアメリカ民主社会主義者となり、民主党内左派
支持活動をしている。

 シャハトマンは1972年11月死亡し、グループ(ペン・ケンベルら)は社会民主USASocial Democrats USAとなり、政治組織というより
シンク・タンクに発展し、多くのメンバーは後に民主党と共和党政府の官僚となった。
 シャハトマンは反既成共産主義が度をこし、シャハトマンの周囲では多くが新保守主義(当初はマイケル・ハリントンがそう呼ばれた)に
移行した。古くはアーヴィング・クリストルアメリカの新保守主義の創設者とみなされる)、ナサン・グレイザーからジーン・カークパトリック
ジョシュア・ムラヴィッチペン・ケンベルカール・ガーシュマン(レーガンの発議で1983年設立の全国民主基金代表)、
マックス・グリーン(アメリカ企業研究所)などが青年人民社会主義同盟の指導者で右翼シンク・タンクに参加した。
 同じくトロツキストから新保守主義になった人物には1983年レーガンにより大統領自由勲章を授与されたジェイムズ・バーナム
(経営者革命で所有と経営の分離を主張)がいる。
 (新左翼から新保守主義になったのはデイヴィド・ホロヴィッツなど。)
 これらの多くは20世紀中期にニューヨーク知識人として知られていた。


オーストラリアのトロツキズム> 

 1932年ジャック・シルヴェスター(失業労働者運動全国書記)、ジョーイ・ボックスホール(グレーブ失業委員会指導者)が共産党
から追放され、シドニー大哲学教授のジョン・アンダーソンも共産党と衝突。
 1933年シルヴェスターボックスホールアンダーソンらが労働者workers Party党結成、ジョーイ・ボックスホールが最初の書記となり、
月刊誌ミリタント発行。1934年ニック・オリグラステド・トリップ(モスクワ・レーニン学校参加)が共産党から追放されて参加。
 更にこの周辺にはエスモンデ・ヒギンズジャック・カヴァナフ(1934年共産党から追放され1940年共産主義者同盟参加)、
ジャックとエドナ・ライアンがいた。
 初期メンバーにはそのほか1932年に青年共産主義者同盟から追放されたローリー・ショートイッシー・ワイナーがいた。
 クイーンズランドの共産党州書記のディニー・ラヴグローヴが1933年共産党から追放され1935年レーニン主義者同盟
結成、後に労働党に移り反共主義者(民主労働党)となった。レーニン主義者同盟とトロツキズムの関係については議論が分かれる。
 1937年ジルバート・ローパーが参加。
 そのほかジェームズ・ノーミングトン・ローリングス(、ファシズム・戦争反対運動活動家、スターリン・ヒットラー協定後参加)、ギド・バラッキ
(1939年共産党から追放)などがトロツキズム運動に参加。ギド・バラッキは1960年代までニック・オリグラスグループ支持。
 1937年ジョン・アンダーソンテド・トリップが分裂し、テド・トリップは革命的民主同盟を結成、これは独立共産主義者同盟と改名。
 ジョン・アンダーソンは米国のバーナム−シャハトマンらと近い考え方を抱き、マルクス主義を放棄しリバータリアンとなり、テド・トリップ
1940年トロツキズム放棄。
 独立共産主義者同盟は1938年労働者党と合同。
 1938年労働者workers Party党が共産主義者同盟となる、1939年第4インター加盟。ニック・オリグラスが委員長、ジルバート・ローパー
(長く共産党指導者で1937年参加)が書記となる。
 ジョン・ウィシャートが1939年第4インター加盟に反対して分裂、革命的労働者党ついで革命的労働者同盟結成。
 ジル・ローパーローリー・ショート(1948年トロツキズムから離れ右傾化)とオリグラスの3人が共産主義者同盟の中心人物であった。

 1940年非合法化、これにより共産主義者同盟が労働党に加入して、ジョン・ウィシャート・グループと決定的に衝突、革命的労働者党が
数年唯一のトロツキスト組織となる。労働党に加入グループは労働社会主義者グループと称し、社会主義者を発行。
 これはほとんど成功を収めず労働党に埋没。革命的労働者党は1947年解散。
 トロツキスト組織は1940年代末までほとんど崩壊、1965年以前オーストラリアのトロツキストは50人を越えることはなかった。
 1940年代バルマイン鉄鋼労働者組合にニック・オリグラスローリー・ショートらが影響を確保したが内部抗争に敗北し共産党に主導権を渡す。
 1951年ローリー・ショートがカトリック活動運動の助けで共産党を追い出し鉄鋼労働者の指導者となる。
 
 戦争末期アナトル・カーガンが参加。
 1953年の国際トロツキスト運動の分裂でオリグラスはパブロを支持
 1963年には統一書記局に参加し、パブロの分裂でオーストラリアのトロツキストも分裂、多数派はパブロ(国際革命的マルクス主義者傾向
に随行。
 統一書記局支持の少数派ボブ・ゴールドイアン・マクダガルらはシドニーで1960年代初期に核非武装運動に関わりこれが1965年
ベトナム行動運動となった。1965年社会主義展望発行。彼らは第3世界書店を創設し運動の中心とした。
 両グループとも労働党に加入していた。
 ボブ・ゴールドイアン・マクダガルはベトナム行動運動で若い活動家を獲得。ジョンとジムのパーシー兄弟はシドニー大学労働クラブに
参加していた。
 1969年ボブ・ゴールドジム・パーシーらは国際マルクス主義者同盟IML結成。
 1970年にボブ・ゴールドジム・パーシーが分裂ジム・パーシーらは社会主義青年連合結成。
 ボブ・ゴールドらは労働党の社会主義左翼に参加していた。ニック・オリグラスは1960年代初期ライヒハルト議会に労働党から選出された。

民主社会主義展望DSP〕
 1967年、シドニー大学の社会主義クラブとベトナム行動運動からSCREW(労働者階級革命解放シドニー委員会)が結成
され、間もなくレジスタンスジム・パーシー)と改名、1970年全国会議が創設され社会主義青年連合と名称変更。
 (10年後再びレジスタンスに戻る。)
 1972年、社会主義青年連合のメンバーが社会主義労働者同盟SWLを結成、さらに1976年社会主義労働党SWPとなる。
 これは米国SWP影響下再統一第4インターに加盟。
 1984−1985年に核非武装党に関係する。これによりトロツキストを嫌う部分が核非武装党から分裂。
 1986年、SWPはトロツキズムと衝突し、第4インターから離脱、永久革命論から第三世界論に変わる。
 1989年、民主社会党ジム・パーシー)と改名。
 1990年、レジスタンスはDSPと週刊緑・左翼を発行。ドイツでの緑党の興隆によりエコ社会主義を志向する。
 1998年、連邦選挙に民主社会主義選挙連盟の一部として参加、
 2001年、国際社会主義組織他6組織(労働者自由自由社会党)と社会主義連合結成。
 2003年、DSPは最初のそして唯一の社会主義連合加盟組織となり内部分派を形成し民主社会主義展望と改名する。
 2008年、少数派が分裂し他のグループと合流し革命的社会党を結成。
 SWPとDSPは連邦選挙に参加しているがほとんど成果はなく、時々労働党への加入戦術も行っているがこれもほとんど
成功していない。2004年で社会主義連合が14155票。

国際社会主義組織〕 
 国際社会主義傾向トニー・クリフ派)のトロツキスト。
 シドニー、メルボルン、ブリズベイン、パースなどに組織がある。
 メルボルンの警鐘tocsinグループはテド・トリップ主宰のヴィクトリア労働大学周辺や旧毛派などが存在し、一部はヒーリー派を結成し、
他は1971年、マルクス主義労働者グループを結成、1972年、米国の影響(トム・オリンカン)を受けたグループが社会主義労働者行動
グループSwaggies結成。
 1975年、国際社会主義者となる。当初トロツキストで民族主義に反対、1980年代国際社会主義傾向となる。
 1985年、社会主義行動が分裂、
 1990年、社会主義行動と合流し国際社会主義組織となる。
 1995年、学生を中心とする社会主義選択ミック・アームストロングサンドラ・ブラッドワースジル・スパロー)が分裂。
 2001年、社会主義連合に参加するが2007年離脱。
 2003年、連帯(イアン・リントル)が分裂、一部社会主義選択のシドニー・メンバー参加。
 2003年からオーストリアのイラク占領参加に反対する反戦運動を展開。
 2008年、社会主義行動グループ(社会主義選択からブリズベインのグループが分裂)、連帯と統合し連帯結成。
 ブリズベインのジョー・ペターソン政権で権利行進を活発に展開。
 人種主義ワン・ネーション党の勃興に対し反人種主義行動を行う。
 メルボルン大、シドニー大、ブリストルのグリフィス大に焦点を置いている。

社会平等党
 第4インター国際委員会派、1972年、社会主義労働同盟として結成。
 シドニー、メルボルン、ニューカースル、パースに組織。

社会主義選択
 1995年国際社会主義組織から分裂結成。
 NUSで勢力があり、イラク、アフガニスタン戦争反対運動などで勢力拡大し極左で最大グループとなる。
 米国国際社会主義者組織、ギリシャ国際主義者労働者左翼、ニュージーランド国際社会主義者組織、フランス国際社会主義などの
国際社会主義傾向ISTの一部と結びついている。
 著名な活動家はミック・アームストロングサンドラ・ブラッドワース(歴史家)、ジル・スパロー(歴史家)、トム・オリンカン(旧米国
国際社会主義者メンバー)、リズ・ロス(歴史家)、トム・ブランブル(歴史家)、リック・クーン(経済学者)、アズラン・マクレナン(芸術家)など。

オーストラリア社会党〕 HP
 労働者インター委員会所属のトロツキスト。
 1985年労働党内の小グループとして始まり1990年代初め労働党から離れる。当初ミリタントついでミリタント社会主義者組織。
 2004年ステファン・ジョリーがヤッラ市議会議員となる。

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