コーカサスの歴史
[17] ポントス草原の人々
*参考 ⇒
北コーカサスの歴史の概要
*参考 ⇒
黒海・カスピ草原の歴史の概要
(2) アラン人とサビル
(2−1)
アラニア
アラニアはイラン系アラン人(プロト・オセティア人)の中世国家で北コーカサス、後のシルカシアと現在の北オセティア・アラニアに栄えた。
9世紀にハザールから独立し、1238−1239年のモンゴル侵攻による崩壊まで存続。首都はマガス。
アラン人はイラン語話者のサルマタイの支族でフンの侵入でヨーロッパとコーカサスの2つに分裂。
コーカサスのアランは北コーカサス平原の一部と大コーカサス山脈の丘陵、西はクバン川上流、東はダリアル峡谷を占領。
8世紀のビザンティン・アラブ戦争とハザール・アラブ戦争の間、アラニアは重要な緩衝国であった。
山岳地帯はウマル2世の軍によって侵攻され、722年、アラン・ハザール連合軍はアラブ将軍タビト・アル・ナフラニに敗れた。
ハザールはこの時期、アラニアに
スキマルといくつかの拠点を築いた。
728年、マスラマフ・イブン・アブド・アル・マリクがアランの門(ダリアル峡谷)から入り、アラン人の国を荒廃させた。
8年後にはマルワン・イブン・ムハンマドがアランの門を通り、アラニアの要塞を襲撃。
ケンブリッジ文書によるとアランはハザールのベニヤミン(9世紀末から10世紀初め)の唯一の提携者で、この時期、多くのアラン人が
ユダヤ教徒となった。
アラブの侵入にたいする一緒の抵抗の結果、コーカサスのアランはハザールの支配下に入った。
9世紀末にアラニアはハザールから独立、10世紀初期にアラニアはビザンティン帝国の影響下に入った。
恐らく彼らがキリスト教に転向したために。
ビザンティンは反ハザール外交をとり、920年代頃、アランをハザールとの戦争に巻き込んだ。
この戦争でアランは敗れ、王は捕獲された。アラニアは再びハザールと提携し、960年代のハザール崩壊まで維持した。
ハザールの崩壊のあと、アラン王はビザンティンと種々のジョージア支配者と、ペチェネグやキプチャクのような北方草原からの侵略に対する
ためにしばしば提携した。
1033年、アランとルスがシルヴァンを攻撃。
アランとジョージア人は恐らく、12−13世紀にヴァイナフとドヴァルのキリスト教化で協力し、ジョージア人布教師がアラニアで活動し、
近隣ムスリムに対し、ジョージア君主は頻繁にアラン人部隊を使用した。
アラン・ジョージア提携は1060年代に強化され、アランはムスリムのアッラーンを通過し、ガンジャを攻撃した。
提携は1187年に、頂点に達し、アラン公子ダヴィド・ソスランが、自身半分アラン人のジョージアの女王タマルと結婚。
中世アラン公女はまたビザンティンとルス・リューリク朝支配者と一度ならず結婚した。
1230年代末に3つのキリスト教勢力、アラニア、ジョージアとウラジミール・スーズダリ(ルス人のキエフ継承侯国)はモンゴルの侵攻にあった。
14世紀のティムールとの戦争はアラニアへの最後の一撃となり、多くの住民が殺された。
モンゴルとティムールの軍隊による殺戮あるいは奴隷化から生き残った人々は3つのグループに分解。
ひとつは中央コーカサスの丘陵と峡谷に撤退し、2つの主要なオセティア人グループ、
ディゴルと
イロンになった。
別のグループはキプチャク人と東ヨーロッパへ移動し、
ヤース人として15世紀までその言語と民族的一体性を維持した。
第3のグループはモンゴルに加わり、まもなく歴史から消えた。
650年頃
9−12世紀のアラニア
(2−2)
アラニヤ
北コーカサス丘陵の中世の国で、9世紀末から存在し、10世紀初めにハザールの支配から逃れ、1230年代、モンゴル侵攻で崩壊。
最初の言及は1世紀で、始めアランはサルマタイ内の種族連合であった。
2世紀からアラニアという表現が現れる。3世紀中期までにアランはアオルシに代わって、サルマタイの東部分の主要な位置を占める。
372年にフンはヴォルガを渡り、ドン、黒海と北コーカサスのアランを破る。
この結果、かなりのアランは西ヨーロッパに向かった。
引き続く遊牧民の動きと戦争と侵攻で東ヨーロッパのアラン人の地域的統一が乱された。
多くのアラン人がクリミア、ドニエプル、ドン下流に住んだ。
6世紀以降、北アラニア草原がトルコ人ついでハザール人の支配に入った時も、コーカサスはアラン人の主要な居住地であった。
8−9世紀にはアランはハザールの提携者で、ハザール王ベニアミンはアランの支援でポロヴィッツ連合を破った。
10世紀初めまでにハザール・ハン国は引き続く戦争で弱体化し、ビザンティンはアラン人へ影響を及ぼすためにハザールと戦った。
916年にアラニアはビザンティンからキリスト教を採用。
10世紀のハザール・ハン国の崩壊でアラン人は領土を拡大、北はクマ川、東はダゲスタンのサリル王国、西は西シルカシアの
アディゲの国まで。
10世紀にブルガル人とハザールはペチェネグとオグーズに取って代わられ、これらは11世紀にはポロヴィッツに圧迫された。
12世紀中期にアラニヤ王フダンは娘のブルドゥハンをジョージア王ゲオルゲ3世にやり、この結婚でジョージア女王タマラが生まれ、
アラニア公子ダヴィド・ソスランが1189年、その2番目の夫で共同摂政となった。
1222年、モンゴルに、アラニア軍は敗北した。アラニヤはポロヴィッツと提携し、ポロヴィッツは裏切った。
独立国としてのアラニヤはモンゴル侵攻(1238−1239)後、存在停止。
1239年、モンゴルはマガスを占領。
グルジア王ゲオルゲ5世は従属国を統一し、アランと戦った。1326年(1320年?)、ゴリを占領、アランを追って、山岳に遠征、ダリヤル、
アラグヴィ、クサニ峡谷に達した。
1395年、トクタミッシュに勝利し、ティムールがアラン峡谷に入リ、荒廃させた。
1400年、ティムールは最後のアラニヤ遠征を行い、彼の軍隊は南北から侵攻、完全にアラニアを消し去った。
(2−3)
アラン人
アラン人は古代のイラン・遊牧民族。恐らく
マッサゲタイと関係し、現代歴史家は中国資料の中央アジアの
奄蔡とローマ資料の
アオルシと
結びつける。西方に移住し、ポントス草原の
サルマタイで優勢となり、ローマ資料では1世紀に言及される。
当時、彼らは黒海の北に住み、頻繁にパルティア帝国とローマ帝国のコーカサス地域に侵攻した。
215−250年に彼らのポントスでの勢力はゴート人によって破壊された。
375年頃のポントス草原でのゴートのフンへの敗北でアラン人は多くのゲルマン部族と西方へ移動した。
406年に
ヴァンダルと
スエビとともにライン川を渡り、オルレアンとヴァランスに移住。
409年頃、ヴァンダルとスエビに加わり、ピレネーを超えイベリア半島に入り、ルシタニアとカルタギネンシスに移住。
イベリアのアラン人は418年に西ゴートに敗北し、ついでハスディンギ・ヴァンダルに服従。
428年、ヴァンダルとアランはジブラルタル海峡から北アフリカに渡り、ヴァンダル王国を築き、これは6世紀にビザンティン皇帝
ユスティニアヌス1世に征服された。
フン支配下のアラン人は中世に北コーカサスで強力な王国を築き、これは13世紀のモンゴル侵攻で終焉した。
これらアラン人は現代オセティア(オセット)人の祖先といわれる。
アラン人は東イラン語を話し、これはスキト・サルマタイ語に由来し、現代オセティア(オセット)語に発展した。
アラン(ギリシャ語:アラノイ)はアリアンのイラン方言に由来し、この語は現代オセティア語でアロンの形で維持されている。
初期のアラン人
1世紀にアラン人は中央アジアから西へ移動し、ドン川とカスピ海に間に住むサルマタイで主要な地位を占めた。
アラン人はヴォロガセス碑文で言及され、これによると、パルティア王ヴォロガセス1世は51か78年頃の彼の治世の11年目にアラニ王
クルクと戦ったと読める。ユダヤ人歴史家ヨセフスがこの碑文を補う。ヨセフスはユダヤ戦争でアゾフ海近くに住むアラン人(彼はスキタイ部族と
呼んでいる)がどのように略奪のため鉄の門を渡り、ヴォロガセス1世の二人の兄弟、メディア王
パコルスとアルメニア王
ティリダテスの軍を
破ったかについて報告している。
アラン人が
ヒルカニア(カスピ海南東地域)を通ってパルティアに侵攻したことから、当時多くのアラン人は依然、カスピ海の北東を根拠として
いたことがわかる。2世紀初期までに、アラン人は確固としてヴォルガ下流とクバンを支配していた。これらの土地は以前はアオルシとシラケスが
占領していて、明らかにこれらはアラン人に吸収され、分散したか絶えた。これららは最早同時期資料で言及されない。
アラン人の影響は更に西に広がり、ほとんどのサルマタイの世界を覆ったようで、サルマタイはそれまで比較的均質な文化を保持していた。
135年、アラン人はコーカサスを通って小アジアへ大規模な襲撃を行い、メディアとアルメニアを略奪した。彼らはやがてカッパドキアの総督
アッリアノスによって追い払われ、彼は詳細な報告を書いている。(アラン人との戦争)
215から250年に、ゴート人が南・東方向に拡大し、ポントス草原のアラン人支配を破った。しかし、アラン人はゴート文化に大きな影響を
与えたようで、ゴートは優れた騎手となりアラン的動物様式美術を採用した。
ゴートが草原に入ってから、多くのアラン人は東方、ドンに撤退したようで、そこで彼らはフンと接触したようである。
アンミアヌスはアラン人はどこかフンのようであるが、生活様式と習慣は、彼らほど野蛮ではないと書いた。
ヨルダネスはアラン人をフンと対照させ、アラン人は戦いではフンに匹敵するが、文明、作法、外見は彼らと異なる、と書いた。
4世紀のローマ史家
アンミアヌス・マルケリヌスはアラン人は公式的にはマッサゲタイと呼ばれると書いたが、ディオ・カッシウスは彼らは
マッサゲタイと書いた。学者はアラン人を中国資料の遊牧国家奄蔡と結びつける。中国の奄蔡はアオルシと同一視される。
アオルシはローマの記録、特にストラボンで言及され、ドン川とアラル海の間に住む強力なサルマタイ部族であった。
後に後漢書では草原の土地、奄蔡は
康居の従属国となり今は阿蘭聊として知られると言及されている。
3世紀の魏略では奄蔡は当時アラン人として知られ、最早、康居に従属していないと書いている。
中世アラニア
コーカサスの北の彼らの始めの居住地域に留まったアラン人は、ブルガル人、ギョクトゥルク(突厥)とハザールと接触し、衝突し、ハザールは
彼らのほとんどを平原から山岳地帯に追いやった。
10世紀の最初、の4分の1に、
総主教ニコラス1世ミスティコスの時にアラン人はビザンティン正教に転向。
アル・マスーディが932年に受洗したと書いているが短期間であったようである。
アラン人は集団的には13世紀にビザンティン派キリスト教徒と言及される。
コーカサスのアラン人は現代オセティア人の祖先で、その名はアラン人の姉妹部族アースに由来する。
(アル・マスーディはハザールの護衛としてアル・アルシイヤに言及し、ルスはアラン人をヤシと呼ぶ。)
アルメニア地理誌はアシュティゴルという名を最も西に位置するアラン人に使用し、これはディゴルとして残り、依然オセティア人の西分枝に使用
される。
他のアラン人の一部はフンの支配下に留まった。その西分枝は中世末期まで草原周辺に広がったが、モンゴルによってコーカサスに追われ、
オセティア人として留まっている。9−12世紀に、彼らは部族連合網を形成しやがてキリスト教のアラニア王国に発展した。
ほとんどのアラン人は1239−1277年にモンゴル帝国に服従した。彼らはモンゴルのヨーロッパと南宋朝侵攻と黄金オルダ(ジョチ・ウルス)の
ママイのルス諸侯との
クリコヴォの戦い(1380)に参加した。
1253年、フランシスコ派修道士ルブルクのウィリアムは中アジアの多くにヨーロッパ人に言及。3万のアラン人が大都の元宮廷で宮廷警備兵を
形成したことが知られている。マルコ・ポーロは後に元朝での彼らの役割について報告している。
これらアラン人はモンゴル氏族
アスト部形成に寄与したといわれる。
ポーランドとリトアニアではアラン人は
オストヤ氏族の一部であった。
アラン人とクマン人(キプチャク)に対し、モンゴルは分断・征服戦術を使用し、クマンとアランの提携を阻止し、アラン人を破ってから、クマンを
攻撃した。アラン人はモンゴル軍に募兵され右翼アラン衛兵部隊を形成した。
一部のアラン人は北(
バルシル拔塞)に移住し、ヴォルガ・ブルガルと
ブルタスと混合し、やがて
ヴォルガ・タタールとなった。
アランのグループのラシはルーマニアの北東プルト川近くの町
ラシを築いたようである。
アラン人の子孫はロシアの自治共和国とジョージアに住み、北東イラン語に属するオセティア語を話し、
スキト・サルマティア語方言連続体
の唯一の残余である。現代オセティア人は2つの主要方言、ディゴルとイロンを有する。ディゴルは北オセティアの西部で話され、イロンは残りの
オセティアで話される。オセティア第3分枝の
ヤースはハンガリーで話された。
アランの移動
<参考>
アヴァール(コーカサス)
アヴァール(アヴァール語:マグラルラル、アワラル;”山岳民”)は北東コーカサス原住民族グループでロシアのダゲスタン共和国に住む
いくつかの民族グループの主要なもの。19世紀ロシア歴史家によるとアヴァール人の隣人は通常、タヴリン人と呼ぶ。
ある歴史家によるとアヴァール人はカスピ海の南東、ホラサンで発生し、コーカサスへ移住した。
この地理的起源は明らかに彼らを
スバルトゥのフリ人と結びつける。
ヨーロッパ史での初期の言及はプリスコスで、彼は463年にサラグル、ウログ(オグール?)とウノグル(オノグル)の混合使節がビザンチン
との提携を求めたと報告。使節は、461年にアヴァールの圧力の結果、彼らはサビルによって追い払われたと主張した。
コーカシア・アヴァールがどのようにして暗黒時代の初期の偽のアヴァール(パンノニア・アヴァール)と関係するのかは明確ではないが、
567年、アラン人王サロシウスの仲介で、ギョクトルコがビザンチン王に、ギョクトルコの覇権下に入った東の真のアヴァールに敵対する、
偽のアヴァールであるパンノニアのアヴァールとを区別することを求めたことが知られている。
現代アラブ・百科事典はマジャールがこの地域で発生したと述べている。
アヴァールのコーカサス侵攻で、アヴァールが支配する王朝がダゲスタン高地の中世キリスト教国のサリルに形成された。
7世紀のカリフ国に対するハザール戦争で、アヴァールはハザールに味方した。スラカトが729−730年頃の彼らのカガンと言及され、
続いてアブ・ムスリムの時代にアンドゥニク・ヌツァル、ついでドゥグリ・ヌツァル。(ヌツァルはアヴァールのハンの称号)
アラブが優勢になってからサリルは部分的政治的翳りに苦しみ、9世紀になんとかこの地域に影響をもった。
ハザールの弱体化に直面し、近隣のキリスト教国のジョージアとアラニアに友好的になった。
12世紀初期に、サリルは分解し、アヴァール・ハーン国に継承された。
モンゴル侵攻はアヴァール地域に影響しなかったようで、黄金オルダ(金帳汗国)と提携しアヴァール・ハーン国は繁栄した。
15世紀に黄金オルダが衰退し、カジ・クムフ・シャムハル国が勃興した。アヴァールはこれと競争できずに編入された。
16世紀以降、ペルシャとオスマンが全コーカサスの勢力を強化し始め、分割し、それ自身の地域の支配を強化した。
16世紀末までに、いまや東ジョージア、ダゲスタン、今のアゼルバイジャンとアルメニアはサファヴィー朝支配下にあり、西ジョージアは
オスマン・トルコ宗主権に入った。
オスマン・サファヴィー戦争(1578−1590)の間に短期間、ダゲスタンはオスマンが獲得したが、ダゲスタンと多くのアヴァール住民は
数世紀に渡ってペルシャ支配に留まった。
18世紀初期に短期間コーカサスを失ったが、18世紀初期にサファヴィー朝の放棄あとロシア・ペルシャ戦争(1722−1723)のあとに
ペルシャは18世紀初期にアフシャール朝のナーデル・シャーのコーカシア(1734−1735)とダゲスタン遠征(1741−1743)で
再びコーカサスに支配を確立した。この時期、ダゲスタン遠征でアヴァールはナーデル・シャー軍隊を敗走させ、その地位が向上した。
1801年、ハーン国は自発的にロシアに服従した。
参考 ⇒
アヴァールとサリル
<参考>
パンノニア・アヴァール
パンノニア・アヴァールとはルス年代記でオブリ、ビザンティン資料では偽のアヴァールなどと呼ばれ、パンノニア平原に6世紀に、
アヴァール可汗国を築いた人々である。
パニウムのプリスコス(5世紀末)によると、463年頃、サラーグル、オノグールとオグールがサビールに攻撃され、サビールは
アヴァールに攻撃された。アヴァールは海から来た人食いグリフィンから逃げる人々によって追い払われていた。
このアヴァールはユスティニアノス(527−565)の時に出現したアヴァールとは異なると言われる。
6世紀のメナンドルスは565年と568年の突厥のコンスタンティノープルへの使節について書いている。
突厥は彼らが従臣または奴隷と見なしているアヴァールとビザンティンが提携したことを怒っていた。
557年、アヴァ−ルがコンスタンティノープルへ恐らく北コーカサスから使節を送り、金と交換に服従することを提案。
やがて、彼らはクトリグルやサビールなどの遊牧民を併合し、アントを破った。
562年までにアヴァールはダニューブ下流平原と黒海北の草原を支配した。
アヴァールは良い牧草地を求めて更にダニューブ川を渡ることになる。
(2−4)
サビル
サビル(サヴィル)はコーカサス北部、初めは5世紀晩期にクバン地域の黒海東岸に住んだ遊牧民。
フンとも言及される。サビルは400年代末あるいは500年代初期に南コーカサスに侵入。
ビザンティン・ササン朝戦争の間に、両者の傭兵として働いた。
463年、プリスクスはサビルがサラグル、オグールとオノグルを恐らく現在のカザフスタンで攻撃したと言及。
これは内アジアでパンノニア・アヴァール(ロシア年代記:オブリ、ビザンチン:偽アヴァール)によって彼らが攻撃された結果であった。
504年と515年に彼らはコーカサスを急襲、これはジルギビス率いるフンがサビルと考えられる。
530年の東ローマ帝国とのサタラの戦いでペルシャ軍に参加、531年はペルシャ軍に参加してシリア、キリキアで戦う。
ラズィク戦争(541−562)の間に、548年、アランとともにラズィクのグバゼス2世と提携し、ペルシャからペトラを征服。
ビザンチン・ササン朝戦争(572−591)では572−573年にサビルはササン朝軍に混じり、ニシビス近くでローマ軍に敗れる。
578年にはサビルとアラブがペルシャ側でレサエナとコンスタンティア付近を襲撃。
アルメニアとアラビアの資料では彼らを北コーカサス、ラク人、アラン人、フィラン、マスカト、サヒブ(サリル)そしてハザールの都市
サマンデル近くに置く。
6世紀末までに、パンノニア・アヴァールのヨーロッパ到来で北コーカサスでのサビル連合は終焉。
彼らはハザールとブルガル連合に吸収された。
(2−5)
サヴィル
サヴィル(スヴァル)は2世紀から西カスピに住んだ遊牧民族。
6世紀初めに北コーカサスに移住し、そこで短期間主導的軍事勢力となった。
6世紀中期にアヴァールがササン朝に敗れ、その結果、サヴィルは南コーカサスに再移住。
フンの王国がダゲスタンに7世紀と8世紀初めに存在し、サヴィル連合の断片と結びつけられる。
後にサヴィル(スヴァル)はヴォルガ中流地域で知られ、ヴォルガ・ブルガルの一部となった。
サヴィルの子孫がスラヴ化し、セヴェリャーネ族になったという学者もいる。
サヴィルによってシベリアという名が発生したようである。
サヴィルの最初の言及はクラウディオス・プトレマイオスで、彼はこれらをサルマティア人の名簿でリペアン山脈近くのアオルシ
(通常‘奄蔡’とされる)の後に置いた。
サヴィルの言語・民族的起源が議論となっている。イラン人説、サモエード説、トルコ説、トルコ・ウグル説、ウグル説などがある。
サヴィルという自称はビザンティン資料から知られ、ペルシャとアラビア資料ではサヴァル。
6世紀のすべてのビザンティンとペルシャ歴史家がこの人々に言及している。
サヴィルはフンとともに中央アジアから西シベリアに来たと思われる。
シベリアのスヴァル
スヴァルの最初の居住地はアルタイとウラルの間の西シベリア地域であった。
コーカサスのスヴァル
ストラボンの地理誌(紀元1世紀)によると、北の低ヴォルガから南のコーカサス山脈、西のドン川から東のウラル山脈への種族の
居住は以下のようである。
北のサルマタイ人、ついで遊牧スキタイ、ついでアオルシとシラケス(ヘレニス化したサルマタイ)で、これはコーカサス山脈に
住んだ。
2世紀後半にスヴァルは最初にクラウディウス・プトレマイオスに記録され、コーカサスでアオルシとパギリテの背後。
6世紀にサヴィルはペルシャ・ビザンティン戦争に参加、ペルシャ、東ローマ、ウグル種族、アヴァール、アルメニアとアランの関係に
巻き込まれた。
ビザンティンとある程度ササン朝は、彼らの襲撃を被り、同時に傭兵として彼らを使用しようとした。
521年、皇帝ユスティヌス1世はサヴィルの指導者ジリグドをペルシャと戦わせようとしたが、彼はイランから贈り物を受け、イラン側に
行き、ビザンティンを攻撃した。ユスティヌス1世はイランが野蛮人と提携しないように和平し、ペルシャはサヴィル軍を粉砕した。
527年、サヴィルはイラン国境近くに位置し、指導者ボラフの未亡人ボアリクはビザンチンと提携した。
他の二人の種族指導者はイランに仕えることに合意した。衝突で指導者の一人グロムが殺され、別のティラニスは捕獲され
戦利品としてコンスタンティノプルへ送られた。
6世紀のビザンティンのステフェンはサピル/サヴィルはコルキスとペルシャの間のアカムピス川に住むと書いた。
ヨルダネスはフン連合の核を形成する種族について書いた。アルツィアギラミとサヴィラミでこれらの居住地は別々であった。
イランとビザンティンの絶え間ない戦争でサヴィルは両者側を行ったり来たりし、6世紀の30年代に2つのサヴィル連合、
イラン傾向とビザンティン傾向が形成された。
453年のアッティラの死で、コーカサスではフン連合は独立した種族に分裂、サヴィル連合が支配。
オノグル国が解体し、サヴィルが率いる軍事・政治連合が取って代わった。これにはフンとブルガルもまた含まれた。
それゆえにダゲスタンのフンは当時サヴィル種族の一部であった。
463年、サヴィル連合はサラグルとその提携者を攻撃。今度はサラグルがアカツィルの土地を侵攻。
5世紀後半にサヴィルはカスピ海の沿ったクマ地域に移住。
5世紀末から6世紀初めのサヴィルの近隣は、アウガル、ブルガル、クルタルガル、アヴァール、ハザール、ディルマルと他の種族。
528−531年の遠征でサヴィルはイラン軍に仕える。
531年、サヴィルはビザンティンの領土アルメニア、ユーフラテスとキリキアを攻撃。
イラン・ビザンチンのラズィク戦争(550−556)でサヴィルは重要な役割をした。ラズの支配者グバクはサヴィルとアランを雇い
ペルシャに挑戦したが、金を払えず、提携者はイラン側にいった。
ビザンティン皇帝ユスティニアヌス1世が要求された金を払い、サヴィルはビザンティンとラゥィカのペトラを攻撃。
554−555年の遠征でサヴィルはビザンティン側で戦い、ペルシャ軍を破った。
6世紀中期、サヴィルはカスピ回廊のチョラ、後のデルベントを支配。
6世紀の間、サヴィルは北コーカサスと小アジアを自由に移動していた。
562年、ホスロー1世はサヴィルを破り、一部をコーカサス・アルバニアに移し、他はダゲスタンに戻った。
6世紀末にローマはサヴィルとアルバニア人をクラ川に移住させた。
7−8世紀に他のサヴィルは北ダゲスタンのクマ川下流域に住んだ、彼らはハザールに従いフンとして知られた。
682年、サヴィル指導者のアルプ・イリトヴェルがキリスト教を受容。
中世歴史家はコーカサスのサヴィル、アランとブルガリア人やその他をフンと呼んだ。
658年、西トルコ・ハーン国は最終的に崩壊。同時に、ダゲスタンの北東丘陵にサヴィルはヴァラチャンを首都とする王国を形成。
アルメニアはフンの王国と呼び続け、アラブ年代記はジダンと呼んだ。
5世紀中期から7世紀末まで、サヴィルは東コーカサスの支配的地位を占めた。
ハザール・ハーン国は始めからカスピ草原でスヴァル、ブルガールとハザール自体を含んだが、ハザールはその中で少数であった。
7世紀末までに東コーカサスで、ハザールは彼らの状況を左右し始めた。フン・サヴィルの国は彼らの勢力下に入った。
ハザールはスヴァルとブルガルに貢納を課した。スヴァルの国はハザール連合となり、首都はセメンデル。
8世紀中期にデルベントはアラブの手に入った。ハザールはデルベントを攻撃したが成功しなかった。
9世紀後半、イブン・フルダーズベはスヴァル王国をデルベントの北にあるとした。
863年、北コーカサス、ドン内に住むスヴァルの一部はアラブ侵攻の影響でヴォルガを中部ヴォルガ領域まで登り、そこで10世紀に
ヴォルガ・ブルガリアの一部となり、スヴァルの都市を築いた。
(2−6)
ゴート
ヨルダネスのゲティカ(551年頃)によるとゴートはスカンザと呼ばれる島で発生し、そこから海路、ベリグ王のもと、
ゴティスカンザと呼ばれる地域に移住。
ゴティスカンザは
ヴィエルバルク文化地域に置かれ、この文化は1世紀にヴィストゥラ川(ポーランド)下流に出現し、
先行する
プシェヴォルスク文化(ポーランド、BC3世紀からAD5世紀)と置き換わった。
ヴィエルバルク文化の住民はゴートやルギイのようなゲルマン人と通常、考えられる。
ヨルダネスによると、ゴートはゴティスカンザに住んですぐにウルメルギ(ルギイ)の土地を奪ったと言う。
ヨルダネスによるとゴティスカンザに住んで間もなく、ゴートは隣のヴァンダルを破った。
ゴートは通常、1世紀のギリシャ・ローマ資料の
グトネスと結びつけられる。
150年頃のプトレマイオスの地理学によると、グトネスはサルマティアのヴィストゥラの東、
ヴェネティと
フェンニの間に
住んだ。
2世紀始め、ヴィエルバルク文化は南東、黒海方向に広がり、この時期、ヴィエルバルク文化は
プシェヴォルスク文化の
人々を追い払い、部分的に吸収したと考えられる。これはゴートの移動と結びつけられる。
ヨルダネスによると、ゴートはスキティアの一部の
オイウム(ほぼ現代ウクライナ)に入り、そこで、
フィリメル王のもとで、
スパリを破った。
3世紀初期には西スキティアには遊牧サルマタイが住んでいた。それ以前には、
バスタルナエが住んでいた。
3世紀中期までに、ヴィエルバルク文化はスキティアの
チェルニャホフ文化(2−5世紀)形成に寄与した。
この一様な文化は西はダニューブから東はドンまで広がった。
これはゴートと他のゲルマン・グループに支配され、更に、イラン、ダキア、ローマと恐らくスラヴ要素も含む。
3世紀にゴートのローマ帝国領域襲撃が始まった。
最初のローマ帝国侵攻は238年のイストロス襲撃と考えられる。ゴートは最初スキタイと呼ばれた。
古代の著者はゴートとグトネスを同一視しない。
黒海草原でゴートは急速にサルマタイから遊牧習慣を採用した。
早くても240年代からゴートはローマ軍に募兵されローマ・ペルシャ戦争に参加。
250年代には海路のゴートによるローマ領の襲撃が始まった。
3世紀末までにドニエステル川で分離されるゴートの2大主要グループのテルヴィンギとグレウトゥンギが出現。
ゲピードがゴートの北西に住んでいた。
ヨルダネスによると3世紀末にゲピードがブルグンドを破り、ついで、ゴートを攻撃したが、ゴートが勝利。
332年、コンスタンティヌス1世はゴートの攻撃からの防衛と国境強化のためにサルマタイをダニューブ北岸に
移住させた。
グレウトゥンギとテルヴィンギは4世紀にローマ化された。
4世紀にグレウトゥンギの王エルマナリクは多くの好戦的部族を征服し大きく膨張した。
バルチック海から黒海に広がるポントス草原の広い地域を東はウラル山脈まで支配地を拡大し、バルティック・フィン、
スラヴ(アンテスなど)、ロクソラニ、アラン、フン、サルマタイと恐らくアエスティまでその支配は覆ったようである。
375年頃、フンがゴートの東のアラン人を襲い、ついで、フンはアランとともにゴートの領域に侵攻した。
エルマナエリクの自殺で、グレウトゥンギは徐々にフン支配に陥った。
フンはテルヴィンギを攻撃し、アタナリクは山岳に避難。
フンの侵攻でゴートの2大グループ、西ゴートと東ゴートが出現。
西ゴートはバルティ家に率いられ、テルヴィンギの子孫と言い、ローマ領内に住み、東ゴートは
アマリ家に率いられ、
グレウトゥンギの子孫と言い、フンの従臣となった。
彼らはアランとともにフンに加わり、バルカンのローマ領内に徐々に移動した。
黒海周辺、特にクリミア半島に留まったゴートは
クリミア・ゴートとして知られた。
*参考 ⇒
クリミア・ゴート
ヴィエウルバルク文化の膨張
皇帝ハドリアヌス(117−138年)の頃
ゴートの移動
ゴートのローマ帝国領襲撃
450年頃のフン