コーカサスの歴史



[13] アゼルバイジャンの南方地域

(3) アトロパテネとマンナエ

(3−1) アトロパテネ

 BC331年のアケメネス朝ダリウス3世とアレクサンダー大王のガウガメラの戦いで、アルバン人、サカセン人、カドゥシ人はアケメネスア朝軍の
アトロパテス軍で戦った。アレクサンダー勝利の戦い後、アケメネス朝は崩壊し、アトロパテスはアレクサンダーに忠誠を示した。
 アレクサンダーは彼をメディアの総督に指名した。
 アレキサンダー大王のBC323年の死後、征服地はディアドコイ(後継者)とバビロン会議で分割された。 
 以前のアケメネス朝のサトラッピーのメディアは2つの国家に分割された。大部分(南方):メディア・マグナはペイトン、小領域(北方)の
副サトラッピーのマティエネアトロパテスのもとメディア・アトロパテネとなった。
 アトロパテスは以前のアケメネス朝の全メディア統治者で、アレキサンダーの指定した後継代行者であるペルディカスの義理の父であった。
 まもなくアトロパテスはセレウコスへの忠誠を拒否し、メディア・アトロパテネは独立王国となった。
 セレウコス帝国のアンティオコス3世はBC223年、アトロパテネを攻撃し、勝利。アトロパテネの王アルタバザンはセレウコスに従属。
 BC180年、マグネシアの戦いでセレウコス朝はローマに敗北。それで、パルティアとアトロパテネは提携し、ローマに対した。
 BC38年のローマとパルティアの戦いでローマが勝利、BC36年、ローマはアトロパテネの都市フラアスパを攻撃したが、長い攻防の末、撤退。
 パルティアのアトロパテネ併合の試みに直面し、アトロパテネはローマに接近し始め、BC20年、アトロパテネの王位に就いた
アリオバルザン2世は約10年、ローマに住んだ。
 アトロパテス王朝は王国を数世紀支配、最初は独立していたが、ついでアルサケス朝へ従属。
 やがてアルサケス朝に併合され(アトゥルパタカンと呼ばれた)、ついでササン朝に渡った。
 639−643年、ラシドゥン(初期4代のカリフ)下のアラブがウマル(第2代カリフ)の治世までこの地域を支配。
 アラブ期にアトゥルパタカンがアゼルバイジャンとなった。

 アトロパテス(支配:BC320年代から)
 アルタバザネス(BC221−220):セレウコス朝アンティオコス3世と同時代。ダリウス2世の孫とされる。
 ミトリダテス1世(BC100−66):アルメニア王ティグラネス2世の娘と結婚。
 ダリウス1世(BC65年頃):ミトリダテスの縁者であったようである。彼の時にローマ将軍ポンペイウスの攻撃を受ける。
 アリオバルザネス1世(BC65−56):ミトリダテス1世の息子。
 アルタヴァスデス1世(BC56−31):アルメニア王アルタヴァスデス2世の敵であった。クレオパトラ7世とアントニウスと同時代。
  アリオバルザネス1世の息子。BC36年のアントニウスのパルティア遠征で攻撃されるが撃退。後にパルティアと対立しアントニウス
 と提携するが、BC30年にフラアテス4世に敗れ、捕らえられる。パルティアの内紛でアウグストゥスのもとに逃げ、小アルメニア王にされる。
 アシンナルス(BC30−20年代)
 アリオバルザネス2世(BC20年代−AD4)(アルメニア王):アルタヴァスデス1世の息子。2−4年にアウグストゥスによって大アルメニア王
 にされる。
 アルタヴァスデス2世(アルメニア王:3世)(4−6):アリオバルザネス2世の息子。不人気で6年に殺される。
  (英語ウィキペディアのアルタバヌスとの関係は矛盾。)

*アルサケス朝(パルティア)
 アルタバヌス(6−10)(2世:パルティア王):パルティア王フラアテス4世の孫(母系)。
 ヴォノネス2世(11?−51)(パルティア王):アルタバヌス2世の兄弟。息子はパコルス、ヴォロガセス1世(パルティア王)、
  ティリダテス1世(アルメニア王)。
 パコルス2世(51−78)(パルティア王):ヴォノネス2世の息子。72年、アラン人が侵攻。


<参考> アトロパテネ

 始めはアトロパテネ地域は古代マンナエ国地域で、これはメディアに占領され、その住民(グティ、ルルビ、後にスキタイ)は完全にイラン化した。
 ペルシャによるメディア占領後、アケメネス朝のメディア・サトラップの一部であった。
 BC331年にアレクサンダー大王による占領までサトラップのアトロパテスがメディアを支配、彼はアレクサンダーを王と認め、その地位を維持。
 アレクサンダーの遺産の第1回分割(BC323)で彼は退位させられた。(マケドニア人ピトンに代えられた)
 しかし、小さな国の北部を維持、メディア・アトロパテネまたは小メディアとして知られるようになった。やがてメディアは使用されなくなった。
 セレウコス朝時代、メディア・アトロパテネは独立国として存在、アトロパテスの子孫が支配したが名目的にセレウコス朝に従属。
 BC3世紀の歴史のほとんどは不明で、BC222−220までに、古代ギリシャ歴史家ポリビウスが、アラクス川の南だけでなく北の広大な
地域の所有者でセレウコス王アンティオコス3世への反抗的メディアのサトラプの提携者としてアトロパテネのアルタバザンを言及。
 BC200年頃、アトロパテネは領土拡大の頂点に達した。2世紀初めにアトロパテネはアルメニア王アルタシェス1世に敗れ、パイタカラン、
ヴァスプラカンとファヴニティダを奪われた。やがて、80−60年代を除いて、アトロパテネはパルティア王国に従属するようになった。
 BC1世紀にパルティアに勝利したアルメニア王ティグラネス2世に属した。ダリウス王がアトロパテネを支配。ダリウスはローマとの戦いで
ティグラネスに従属していたとされる。
 BC36年に、ローマのアントニウスがアルメニア王アルタヴァズド(ティグラネスの息子)と提携しアトロパテネに侵攻したが敗れた。
 翌年、メディアのアルタヴァズド王はパルティアとアルメニアのアルタヴァズド(アルタヴァスデス)に対し、アントニウスと提携した。
 アリオバルザンの時代にローマのアウグストゥスは彼にアルメニア王位を与えた。しかし、彼は2年(BC4−2)しか支配できず、アルメニアで
反乱が起きた。アリオバルザンの死後、ローマはアルメニア王位はアリオバラザンの息子アルタヴァズド2世(アルメニア王として3世)に渡した。
 AD1世紀初めにパルティア王アルタバン2世は息子をアトロパテネ王にした。以降、王はアルサキド朝(パルティア)から来た。
 アルサキド朝の倒壊でアトロパテネはササン朝の一部となった。
 628年、皇帝ヘラクレイオスのビザンティン軍が首都ガンザクを占領。
 7世紀中期(639−643年の間)にアトロパテネはアラブ・カリフ国に征服される。
 以降、いくつかのカリフ国に従属する中世王朝の核となる:サラリド、サジド(879−929)、ラワディド(1092−1140)。
 1092−1140念はセルジューク帝国の一部。その崩壊でアトロパテネ地域ににイルデギズ朝が形成される。
 12世紀にはホラズム帝国の一部、ついで、モンゴルに征服され、イル・ハン国の一部となる。
 1335−1432年、ジャライル朝が支配。

 アトロパト
 不明
 アルタヴァズド1世(アルタバザネス)
 不明
 ミトラダト(ミトリダテス)
 ダリイ(ダレイオス)
 アリオバルザン1世(アリオバルザネス)
 アルタヴァズド(アルタヴァスデス)
 パルティア王が直接支配
 アリオバルザン2世(アリオバルザネス)

アルサキド朝
 アルタバン2世(アルタバノス)
 ヴォノン2世(ヴォノネス)
 パコル(パコロス)




(3−2) マンナエ人

 BC10−7世紀に現在の北西イラン、ウルミア湖南に住んでいた古代の人々。
 当時、ムサシルズィキルタなどの他のアッシリア帝国とウラルトゥ帝国の間の小緩衝国と同様に両大国の隣にあった。
 聖書ではミンニと称された。マンナエ人は少なくとも支配者はフリ語を話していたと思われる。

 彼らの王国はウルミア湖の東と南に位置していた。
 スキタイとアッシリアへの幾度かの敗北の後、マンナイ住民の残りはマティエニとして知られるイランの人々に吸収され、この地域は
マティエネとして知られるようになった。ついでBC609年頃メディアに併合された。
 マンナエ王国はBC850年頃から繁栄し始めた。マンナエ人は主に定住民で灌漑を行い、牛と馬を飼育していた。
 別の首都は要塞化したイズィルトゥ(ズィルタ)。
 BC820年代までに拡大し、グティ人以来の最初の大国家となり、それからこの地域をメディアそしてペルシャが支配した。
 BC800年頃、ウラルトゥはアッシリアと土地を争うようになり、ウラルトゥはマンナエに数か所の要塞を築いた。
 ウラルトゥとアッシリアの衝突の間にBC750−730年頃、マンナエは支配拡大に機会を得た。
 マンナエ王国はイランズ(BC725−720頃)の治世期に絶頂期に達した。
 BC716年、アッシリアのサルゴン2世はマンナエを攻撃。
 マンナエではイランズの息子、支配者アザがウラルトゥの支援でウルスヌによって退位させられた。
 サルゴンはイズィルトを占領しパルスアに軍隊を駐留させた。
 キンメリアがBC714年に初めて年代記に出現、彼らはアッシリアがウラルトゥを破るのを手伝った。
 ウルルトゥはアッシリアに服従し、アッシリアと一緒にキンメリアを破り、彼らを肥沃な三日月地帯から追い出した。
 705年までにキンメリアは再びサルゴンに反乱し、彼は殺されたが、キンメリアを追い払った。
 679年までに彼らはマンナエの東と西に移住した。
 マンナエはBC676年にアッシリアのエサルハドンに反乱したことが記録されている。
 彼らはアッシリアとその植民地パルスアシュとの間の馬の交易を妨害した。
 BC650年代まで支配したアーシェリ王は、アッシリアに貢納しながらマンナエの領域を拡大し続けた。
 しかしBC660年頃、マンナエはアッシリアに圧倒的な敗北を被り、その結果、内部反乱が勃発し、アーシェリの死まで続いた。
 またBC7世紀にマンナエは前進するスキタイに敗北し、スキタイはすでにウラルトゥを襲撃していたが、アッシリアに追い返された。
 この敗北はマンナエ王国の更なる分解に寄与した。
 アーシェリの後継者ウアリはアッシリアと提携し、イラン人メディアとアッシリア側にたった。
 メディアとペルシャはアッシリアに支配されていたが、この地域を300年に渡って支配した新アッシリア帝国はBC627年のアシュルバニパル
の死後の内戦により分解、衰退し始めた。
 アッシリアの騒乱でメディアが古代イランの主要勢力となった。
 BC616年頃のカブリンの戦いでアッシリアとマンナエ人勢力はナボポラサールの軍隊に敗北した。これでマンナエへの境界が開かれ、
BC615−611年の間にマンナエはメディアの支配に落ちた。





<参考> マティエネ

 マティエネは北西イランの以前のマンナエ王国の土地にあった王国。
 ストラボン、ヘロドトス、ポリビウスと大プリニウスがマルティアネ、マティアネ、マティエネンなどの名で言及し、メディアの北西に位置した地域
を意味した。マティエネはミタンニと関係すると思われる。
 マンナエ人は恐らくフリ・ウラルトゥ語を話し、BC8−7世紀にスキタイ・キンメリア人によって征服された。
 マティエネは結局BC609年にメディアによって征服された。
 マティエネはペルシャの征服までメディア帝国のサトラピとなり、アケメネス朝ではサスオエリ、アラロディア人(ウラルトゥ人の残余)とともに
18サトラピとなった。

 マティエネの土地は北はアルメニア、東はメディア、南はスシアナ、西はアッシリアに囲まれていた。
 主な都市はヴァン湖周辺のマティアティ。
 ヘロドトスはキンメリア人はマティアニから生じ、黒海南岸に沿って西へアナトリアに移動したという。
 ヘロドトスはまた後に、メディア時代に、フリギア人からの川を渡った、北西カッパドキアのハリス川の東岸に沿ったにマティエネと呼ばれる
第2の都市があったという。


(3−3) マンナエ

 BC10−7世紀に近東のウルミア湖の南と東(現代北西イラン)に存在した古代国家。
 中心は現在のマハバド。
 最初の知られたウルミア湖周辺の住民はBC3千年第2半期の家畜飼育種族のグティ人。
 BC3千年末からウルミア湖南東にルルビ人が居住。
 ウルミア湖領域を代表する更に大きな民族的要素はフリ種族。
 BC1千年始めからウルミア湖周辺領域はザムアとして知られるようになり、これはおそらくルルビ種族のひとつの名から。
 この地域の住民は種々の程度の種族の連合で、後にマンナエ人として知られるようになった。

 マンナエ自身は記録を残しておらず、主にアッシリアとウラルトゥのこれらの国への勝利を誇る記録から知られる。
 最初はアッシリア王シャルマネサル3世がBC843年頃、マンナエを侵略し首都イズィルトゥを破壊した。
 翌年マンナエに貢納させた。
 その後継者シャマシ・アダド5世はマンナエとメディアとの戦争に言及。
 同時にマンナエは北からウラルトゥの侵略を受け始め、ウラルトゥ王イシュプイニ(BC824−805)は彼の軍勢を誇っている。
 イシュプイニの息子、メヌア(BC805−785)もマンナエへの勝利を誇っている。
 彼の後継者アルギシュティ1世、その次の王サルドゥリ2世も同様である。
 これは一時的にアッシリアが弱体化し、ウラルトゥが頂点にあった時期である。
 ティグラト・ピルセル3世(BC744−722)でアッシリアは再び強化され、マンナエへの影響を巡ってウラルトゥと抗争に入った。
 ルサ1世とアッシリアのサルゴン2世(BC722−705)の間でマンナエへの影響を巡って戦いにはいった。
 BC719年頃、ウラルトゥはズィキルトの公子ミタティとウィシュディシュ(ウルミア湖の東の高地)のバグダティと提携し、アッシリアと提携する
マンナエの王イランズと対抗。
 イランズを継いだアザはバグダティに殺され、そのあとを継いだウルスンはルサと提携。
 サルゴン2世は報復にむごい仕方でバグダティを殺した。サルゴン2世はルサとミタティに対しウルスンと提携。
 BC714年のウラルトゥの敗北でマンナエは領土を拡大。
 BC7世紀初めまでにマンナエとアッシリアの提携関係は崩壊、マンナエはスキタイと提携しアッシリアへ遠征。
 アッシリア王アサルハドンはマンナエとスキタイへの勝利を記録した。これが近東でのスキタイへの最初の言及。
 アシュルバニパルのBC660年頃、マンナエ王アーシェリはいくつかのアッシリアの要塞を占領した。
 アシュルバニパルは反撃し、マンナエを従属させた。
 アーシェリの後継者ウアッリはメディアとバビロニアの脅威に直面したアッシリアを支援。
 BC616年頃、アッシリアとマンナエ軍はカブリンの戦いでバビロニアに敗北。
 アッシリアの崩壊でメディアはBC600年頃、マンナエを征服。
 以降数世紀、マンナエはメディアの領域となり、小メディアあるいはアトロパテネと呼ばれる。

マンナエ王
 イランズ(BC737−718頃)→アザ(BC718−716頃)→ウッルスヌ(BC716−680頃)→アーシェリ(BC680−650頃)
ウアッリ(BC650−630頃)


<参考> メディア

 BC678年、デイオケスがメディアのメディア種族を統一し最初のイラン人帝国となる。
 彼の孫のキュアクサレスが古代イランのすべてのイラン人種族をなんとか統一しその帝国を大勢力とする。
 キュアクサレスが死亡し、息子のアステュアゲスが継承、これは最後のメディア帝国王であった。

 BC553年、ペルシャのキュロス大王が祖父のメディア王アステュアゲスに反乱、彼はBC550年に決定的に勝利、アステュアゲスは、これに
不満な貴族に捕獲され、キュロスに渡される。メディア人はペルシャ人に従属。
 ペルシャ支配下でメディアは2つのサトラピに分割、南はエクバナとラガエで大メディアと呼ばれ第11サトラピ、北のマティアネ地区はザグロスと
アッシリアとともにアラロディア人とサスピル人と統一され、第18サトラピとなる。
 コーカシア・アルバニアがアケメネス・ペルシャに編入され、メディアのサトラピ指揮下に入る。
 ペルシャ帝国の衰退でカウドゥシイと他の山岳種族が独立し、東アルメニアが特別なサトラピとなり、アッシリアはメディアと統一されたようで、
クセノフォンのアナバシスではいつもアッシリアでメディアを意味した。

 BC330年のアレクサンダーの侵攻後、彼はダリウス3世の以前の将軍のアトロパテスをBC328年にサトラプに任命。
 アッリアノスによると帝国分割で南メディアはマケドニア人ペイトンに与えられたが、北は重要でなかったのでアトロパテスに
残された。
 南メディアはついでアンティゴノスそれからセレウコス1世に渡ったが、アトロパテスは独立王国を創建、アトロパテネと名付けられた。
 南メディアは1世紀半の間、セレウコス帝国の州であった。


参考 ⇒メディア人



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