<<ベルギーの左翼>>


ベルギー共産党KPB(蘭語)/PCB(仏語))
 ベルギー労働党POB(階級闘争)内にジョセフ・ジャクモットの”被搾取者の友Amis de l'Exploite”という約300人の小さな
集団が生まれ、”被搾取者l'Exploite”という雑誌に結集した。
 一方、ジャクモットの共産党の数ヶ月前に、ヴァール・ヴァン・オヴェルストラエテンの約200名のベルギー共産党PCB
が生まれた。
 ヴァン・オヴェルストラエテンのグループは反サンジカリズム、反議会主義の左翼主義でソヴィエットの公式に固執した。
 ジャクモットの運動は異色の中央派で、社民と完全に決裂しようとは思っていなかった。
 当初PCBは少数派で2つのグループの統合が争点となり1921年、9月、ヴァール・ヴァン・オヴェルストラエテンに率いられる共産党と
ジョセフ・ジャクモットに率いられるベルギー共産党2つのグループが再統合し、約500人のメンバーとなった。
 ベルギー共産主義者はコミンテルンの方針に従い、積極的に労働組合運動に協力し、社会主義者の組合委員会内で活動した。
 1925年、ボルシェヴィズム化が始まった。
 1925年ジャクモットが国会議員となる。
 1927年、ソ連のトロツキー反対派に関する議論でヴァン・オヴェルストラエテンの周囲の多数派はトロツキストと連帯し追放された。
 (ヴァン・オヴェルストラエテンは政治から離れ画家となった。)
 1928年、追放で党員は1000人からまた500人になった。
 1930年代、PCBは大衆化に務め、極めて謙虚な発言をした。
 アキーユ・シャヴェシャルル・プリズニエのような知識人の支持を得、党の信用が増した。
 シャルル・プリズニエは1928年トロツキストとともに追放されやがてキリスト教に転じた。
 1932年12月、党員は3241名であった。
 この大衆化でナチズムに対する闘争で大きな役割を演ずることができるようになった。
 1935年4月、シャルルロワCharleroiの人民戦線会議で共産党は自由民主主義と民族独立の防衛のための反ファシスト戦線を
実現しなければならない(社民との協力)ことを認識した。
 コミンテルンの人民戦線戦術でジャクモットは労働党POBの独立組織のままでPCBの参加を提案し拒否された。
 マルク・ヴィレムスは共産主義者、社会主義者、トロツキストの青年組織の統一を提案しモスクワの犠牲となった。
 1936年10月、ジャクモットが死亡し、トロイカ体制がとられた。
 党は政府の妨害にも関わらず、スペイン共和国政府支援の主唱者となった。
 ベルギーの若い共産主義者や社会主義者は国際義勇軍に参加した。
 共産主義者ラウール・バリガンRaoul Baligandは国際義勇軍の司令官であった。彼は後にパルチザンの副隊長となる。(仏ウィキ)
 アルベルト・デ・コニンクはスペインで国際義勇軍で闘い後にパルチザンを指導。
 1925年、議会に進出。 1935年共産党は周辺化から脱し下院に9議席、上院に4議席もっていた。
 1938年は約8550人の党員をもっていた。 
 ソ連とドイツの不可侵条約は党内に大きな論争を巻き起こした。
 2つの世代が衝突した。 
 第3インターに支援されたトロツキストとの闘いを忘れられない人々と、ファシズムは単なるブルジョア政権の交代ではないことを
知っている人々と。第3インターはスターリンであり、それは彼らの党であり、彼らの国である。
 スペインに赴いた古参党員はソ連への忠誠にも関わらず、すばやく銃をもってファシストにたち向かった。
 1941年6月、ドイツがソ連に侵入し、議論は終わった。
 1941年3月、抵抗組織として独立戦線onafhankelijkheidsfront)が形成され種々の傾向のレジスタンスが結集された。
 ベルギー資料のおかげで、ゲシュタポは多くの共産主義者指導者と活動家を逮捕した。 
 ジュリアン・ラホやジャン・テルフヴェはそのような人々であった。
 1942年から党は地域的に組織された。1943年、多くの共産主義者活動家がゲシュパポにより逮捕された。
 1944年、復帰したベルギー政府により多くのレジスタンス・組織が武装解除あるいはドイツ一掃のため米英軍に編入された。

 戦後、党は強化され選挙で12,7%を得た。
 党は1946−1947年に社会主義者、自由主義者との連合政権に参加した。
 1947年、冷戦とマーシャルプランが始まり反共主義が起こり、PCBにとって厳しい状況となり始めた
 1950年、党議長、ジュリアン・ラホがレオポルド主義者により暗殺される。
 1963年、ジャック・グリッパに率いられる親中派が離党。
 (中国共産党の内部分裂と文化大革命のあと、グリッパは反毛派・親アルバニア派となる)
 1968年、プラハ介入を批判したが、ソ連支持は変わらなかった。
 学生運動の興隆が若干、党に有利に作用した。しかしむしろ社会主義労働者党(トロツキスト)やベルギー労働(者)党(毛派)の
勃興を招き、共産党と競合した。
 1967年4月から1968年の末まで共産党、フランデル社会主義者運動、フランデル民主主義者、学生運動指導者よりなる傘組織、
民主行動委員会があった。1968年末共産党は組織から離れた。学生はベルギー労働(者)党、フランデル民主主義者、フランデル
社会主義者運動、フランデル民主主義者、革命的労働者同盟の先駆の革命的社会主義者と結んだ。
 推進役はフランデル民主主義者指導者のアントーン・ローセンスであった。
 
 1960年代中期。米国は党員を11000と推定している。

 選挙では1946年、300099票、12.69%、23議席、1949年、376765票、7.49%、12議席と低下し、1950年、234541票、
4.57%、7議席、1954年、184108票、3,57%、4議席、1958年、100145票、1.89%、1議席まで低下。
 その後1961年、162238票、3.08%、5議席、1965年、236702票、4.57%、6議席と上昇するが、1968年、170625票、
3.30%、5議席となり、1971年、161517票、3.06%、5議席、1974年、166008票、3,16%、4議席、1977年、151421票、
2.72%、2議席、1978年、181921票、3.29%、4議席をピークに、1981年、138992票、2.30%、2議席となり、1985年、
KPB/PCBは国会議席を失った。(71695票、1.18%)。1987年、PCB51046票、0.83%。

 1985年最後の党議長で最後の党国会議員ルイス・ファン・ゲイトが議席を失う。
 1988年、KPB/PCBはフランデル共産党KPとワロニア共産党PC(ピエール・ボヴォワ)に分離した。
 選挙での後退で段々意見運動に傾斜し、ルド・モンメンらは別の政治のための委員会CAPに関係した。
 2007年、PC(ワロン)は19329票、0.29%。
 2009年KPフランデルは党を終焉させシンク・タンク結成を決定。フランデル地域の党勢力はワロニア共産党PCのブリュッセルの
連合組織に吸収され、事実上のベルギーでの党統一がなった。
 6月選挙に向けて社会党、エコロの左翼代替として共産党(ピエール・エイバン)、闘争社会党(アニヤ・デッシューマッカー)、革命的共産主義者同盟
セリーヌ・コドゥロン)、人道党(ジレ・スメッド)、別の政治のための委員会CAP(ローラン・バルタザール)、バイク革命
ヴェロルシオンVelorution、レギナルド・デ・ポテスタ・デ・ヴァレッフェ)の6つの急進左翼と労働組合活動家、独立組織により左翼連合が結成される。
 2010年左翼連合で0.33%。


ベルギー労働党BWP:蘭/POB:仏、1885−1940年) ベルギー社会党(BSP:蘭/PSB:仏、1945−1978年))
〔1978年からベルギー社会党PS(フランス語圏)、ベルギー社会党SP(フランデル、2001年から別の社会党)〕

 1840年代カール・マルクスのような亡命外国人の援助で多くの知識人や労働者により先駆的活動がなされた。
 1848年革命の興奮がベルギーにも伝わる。
 1850年代末国際労働者協会のような最初の大労働組合が結成される。
 1877年、フランドルの最初の社会党のフランドル社会主義者労働党VSPが結成される。
 ガンの労働者エドモンド・ヴァン・ベフェレンが綱領作成。
 1880年ブリュッセルの社会主義者グループが加わりベルギー社会党BSPとなる。
 1885年ワロン社会党と一緒になりベルギー労働党が設立された。セサール・デ・パエペが命名。
 政治的平等のために闘い、労働者の相互扶助・協力、文化・スポーツのための組織作りを行った。
 党の最初の主要な目標は普通選挙制であった。1893年男性の多数投票制が成立。
 1894年エミール・ヴァンデルヴェルデになるカレニヨン憲章採用。
 最初の選挙の成功はワロンのブリュッセルであった。最初の議員は1894年のデジレ・マロリー、その兄弟アルフレッド・デフイソー
アンリ・ロジェ、A・ブレネであった。
 エドワルド・アンセーレが最初のフランドル選出(リージュ)の国会議員となった。
 1900年比例代表制導入。
 1894年以来、議会に進出し、1916年始めて政府に参加。
 第一次大戦に際して彼らは国に忠実であったので1918年、カトリックとリベラルの国民連立政権に参加し1921年まで続いた。
 1918年6月ジョセフ・ウォテルカトリックゲルハルト・コーレマン3党連立政権で最初の社会主義者大臣となった。
 1918年11月エドワルド・アンセーレヴァンデルヴェルデカトリックレオン・ドラクロワ内閣(カトリック、リベラル、社会3党連立)に
入閣。ドラクロワ内閣で普通選挙制、所得税法、8時間労働、アルコール販売制限法が成立。
 1919年普通選挙制が実現しPOBは7議席4人の大臣を得た。1919年12月の第2次ドラクロワ内閣には更にジュール・デストレ
ジョセフ・ウォテルが更に入閣。
 1919年選挙の下院はBWPPOB36.62%、70議席(上院20議席)、カトリック35.19%、70議席(43議席)、リベラル17.65%、
34議席(30議席)。
 1921年ジョセフ・ジャクモットらはPOBを離党しベルギー共産党を結成し、数ヵ月後にヴァール・ヴァン・オヴェルストラエテンの共産党
と合同しベルギー共産党を結成した。
 アンリ・カルトン・ド・ヴィアール政権でも入閣するが1921年12月のジョルジュテュニス政権で閣外に出る。
 1925年、POBは議会第1党となりキリスト民主(カトリック)とプロスペ・プレ連立政権を形成したがこれは数ヶ月しか続かず、短い
アンリ・ジャスパール3党連立のあと、1927年11月の第2次・ジャスパール政権でPOBは1935年まで反対派に回った。
 1925年選挙の下院はBWPPOB39.84%、79議席(上院49議席)、カトリック37.42%、86議席(38議席)、リベラル14.65%、
23議席(13議席)。
 1932年選挙の下院はBWPPOB37.03%、73議席(上院39議席)、カトリック38.42%、79議席(42議席)、リベラル14.08%、
24議席(11議席)。
 危機と右翼政権に当面しPOBは攻撃的となり1933年ヘンリ・ド・マンの労働計画(混合経済)を基礎に活動し始めた。
 これは多くの点でマルクス主義と衝突していた。
 1935年、POBはポール・ヴァン・ゼーランド政権でリベラルとカトリックとの3党連立に戻り、ヘンリ・ド・マンスパーク
ヴァンデルヴェルデらが入閣。
 労働計画を実行できず党内緊張をもたらした。
 国際主義と改良主義の古い世代(エミール・ヴァンデルヴェルデ)が政権復帰の民族社会主義のポール・へンリ・スパーク
ヘンリ・ド・マンの抗議を受けた。問題は外務大臣のスパークにもあり、彼はスペイン戦争介入を拒否し、フランコ政権を承認した。
 1936年大ストライキ運動によりポール・ヴァン・ゼーラン政府は週40時間労働を主要産業に導入した。
 1938年5月ー1939年2月ポール・へンリ・スパークが初めて社会主義者首相となる。
 1939年2月のユベール・ピエルロ政権で閣外に去るが1940年の3次ピエルロ政権に復帰。
 1939年選挙はBSP/PSB29.44%、64議席(上院35議席)、カトリック30.38%、67議席(35議席)、リベラル17.18%、
33議席(16議席)、フランデル国民連合8.40%、17議席(8議席)、共産党4.65%、9議席、(3議席)、レックス4.25%、4議席(1議席)。
 1940年、ヘンリ・ド・マン(1938年のヴァンデルヴェルデの死より党首)により解散。彼はレオポルド3世との連携政治を推進。
 彼は協力者の幹部になった。多くの活動家は彼の勧告に従わずレジスタンスに入った。
 ワロン地区では占領中、急進的社会主義運動の再建と連邦制ベルギー国家が考えられた。
 地下の社会主義者は1945年4大支部で独立運動を選択した。
 相互主義、協力主義の労働組合組織FGTBは独立政治組織となりベルギー社会党PSBとなった。

 1945年、新党ベルギー社会党PSB設立。
 1945年2月ー8月のアキール・ヴァン・アッカーが共産党も含めた4党連立政権結成。共産党からエドガール・ラルマン
アルベール・マルトーが入閣。
 1946年選挙はBSPPSB31.6%、66議席(上院34議席)、CVPPSC(カトリック)42.5%、92議席(51議席)、
共産党12.7%、23議席(11議席)、LPPL(リベラル)8.9%、16議席(4議席)。
 1947年3月ー1949年8月ポール・へンリ・スパークが首相となり、CD&V(=CVP)、cDH(=PSC)と連立。
 1949年8月のガストン・アイスケンス政権で閣外に去る。
 1949年選挙はBSPPSB29.7%、66議席(上院33議席)、CVPPSC(カトリック)43.6%、105議席(54議席)、
共産党7.5%、12議席(5議席)、LPPL(リベラル)15.2%、29議席(14議席)。
 宮廷問題と左翼の圧力によるレオポルド3世の譲位のあと、1950年学校問題で大衝突tがあった。
 戦後左派政権は公立学校を増設したが、1950年政権を取った(ー1954年)キリスト社会党は私立助成を推進、
 1954年4月、社会主義者はアッキーレ・ヴァンアッカー首相でリベラルと政権復帰、公立学校推進。
 1954年選挙はBSPPSB37.3%、82議席(上院42議席)、CVPPSC41.1%、95議席(49議席)、
共産党3.6%、4議席(2議席)、LPPL(リベラル)12.9%、24議席(11議席)。
 しかしこの時期の社会的大成果にはほとんど疑問はない。戦後すぐの社会主義者主導の政権での社会保障などの経済・社会改革
が達成された。1950年代末、ワロン産業の危機で経済・社会問題に直面。
 1958年6月のアイスケンス3次政権で閣外へ。1961年4月のCD&Vテオ・ルフェーヴル内閣で戻る。
 1958年選挙はBSPPSB35.8%、80議席(上院40議席)、CVPPSC45.5%、104議席(53議席)、
共産党1.9%、2議席(1議席)、LPPL11.0%、20議席(10議席)。
 1961年選挙BSPPSB36.7%、84議席(上院45議席)、CVPPSC41.5%、96議席(47議席)、
共産党3.1%、5議席(1議席)、PVVPLP12.3%、20議席(17議席)。
 ベルギーでは一貫してカトリックが政治の中心位置を占め、リベラルは弱体である。
 1960年秋のキリスト・リベラル政権の単一法反対の大ストライキにはワロンの活動家はこれに連邦主義を加えた。
 大ストライキは共同体主義と言語の問題の大きさをあらわにした。
 共同体主義の緊張緩和の努力は1961−1965年に成果をみなかった。そこで1967年からワロン社会主義者は連邦制要求に向いた。
 書記局はフランデルとワロンで別々に開催されるようになった。
 1968年、ブリュッセルのフランドル(フラマン)活動家の一部は分裂し、赤いライオン(ローデ・ルーヴェン)を結成、PSB−BSP共同名簿
で出ていたフランドル社会主義者運動は1978年決定的に分裂。
 1966年ー1968年ヴァンデン・ボエイナンツ政権で閣外へ、1968年6月アイスケンス5次政権から入閣、1973年1月ー1974月4月
エドモンド・レブルトン首相、その後レオ・ティンデマンス政権で1977年6月まで閣外。
 1965年選挙BSPPSB28.3%、64議席(上院45議席)、CVPPSC34.5%、69議席(29議席)、
共産党4.6%、6議席(3議席)、PVVPLP21.6%、48議席(23議席)。
 1968年選挙BSPPSB28.0%、59議席(上院33議席)、CVPPSC31.7%、77議席(44議席)、
共産党3.2%、5議席(0議席)、PVVPLP20.9%、47議席(22議席)。
 1970年には社会主義者は憲法に共同体主義と地方主義を盛り込むのに寄与した。
 1970年代、党組織の連邦制構造に逆らえず、1971年のレオ・コラールの辞任のあとフラマンとワロンの共同議長制となる。
 (ヨス・ヴァン・アインデエドモン・ルビュルトン))
 1971年選挙CVP(フ)18.3%、40議席、PSC(ワ)6.2%、15議席、BSP(フ)11.8%、25議席、PSB(ワ)13.5%、25議席、
PVV(フ)7.4%、16議席、PLP(ワ)6.9%、11議席、PLP−PVV2.0%、4議席、人民連合VU11.1%、21議席、
フランコフォヌ民主戦線FDR(ワ)−ワロン同盟RW11.2%、24議席、KPB(フ)1.3%、1議席、PCB(ワ)、1.7%、4議席、
赤いライオン2.0%、4議席。

 1978年、フランス語圏の社会党PSとフラマンの社会党SPに分裂。

 1978年選挙CVP(フ)26.1%、57議席、PSC(ワ)10.1%、25議席、BSP(フ)12.4%、26議席、PSB(ワ)13.1%、32議席、
PVV(フ)10.4%、22議席、PRLW(ワ)6.9%、11議席、VU7.0%、14議席、FDRRW4.7%、11議席、RW2.3%、4議席、
KPBPCB、3.3%、4議席。

 1978−1981年の党首で1982−1985年のワロン議会議長のアンドレ・コールが1991年暗殺される。
 1981年12月ウィルフィリード・マルテンス5次政権でSP、PS閣外へ、マルテンス8次政権で1988年5月PS、SP復帰。

 1981年CVP19.3%、43議席、PVV12.9%、28議席、SP、12.4%、VU9.0%、20議席、PS、12.7%、35議席、
PLP8.6%、24議席、PSC7.2%、18議席、FDRRW4.2%、8議席、KPBPCB、2.3%、2議席、フランデルの利益VB
(反移民右翼)2.3%、2議席、Agalev(緑、フランデル)2.3%、2議席、ECOLO2.3%、2議席。
 1987年選挙CVP19.5%、42議席、PS15.6%、40議席、SP14.9%、32議席、PVV11.5%、25議席、PRL9.4%、23議席、
VU8.1%、16議席、PSC8.0%19議席、Agalev4.5%、6議席、ECOLO2.6%、3議席、VB1.9%、2議席、KPBPCB0.8%、
PvdAPTB0.7%、社会主義労働党SAP/POS0.5%、31446票。

 1991年選挙CVP16.8%、39議席、PS13.5%、35議席、SP12.0%、26議席、PVV12.0%、26議席、PRL8.1%、20議席、
VU5.9%、10議席、PSC7.7%18議席、Agalev4.9%、7議席、ECOLO5.1%、10議席、VB6.6%、12議席、PC0.1%、
PvdAPTB0.5%、社会主義労働党SAP/POS0.1%、5234票、国民戦線(極右)1.1%、1議席。

 1999−2007年はVLDギ・ヴェルフォフスタト首相での1次2次政権で紫連立を形成。(Agalev参加でとも)
 紫連立にはVLDPSSPPRLAgalevECOLOが参加。(2003年からはPRLAgalevECOLOのかわりに改革運動
 
 1999年はVLD(旧PVV)14.3%、23議席、CVP14.1%、22議席、PS10.2%、19議席、PRLFDF10.1%、18議席、
VB9.9%、15議席、SP9.5%、14議席、ECOLO7.4%、11議席、Agalev7.0%、9議席、PSC5.9%、10議席、
VU&ID5.8%、8議席、国民戦線1.5%、1議席、PC0.4%、労働(者)党0.5%。

 2007年12月イヴ・レテルム政権でSP閣外。
 2007年選挙CDV(旧CVP)新フラマン連合18.51%、30議席、改革運動(ワ)12.52%、23議席、VB11.99%、17議席、
公開VLD(リベラル、フ)11.99%、17議席、PS10.86%、20議席、別のSPスピリット10.26%、14議席、cdH6.06%、10議席、
ECOLO5.10%、8議席、緑3.98%、4議席、国民戦線1.97%、1議席。
 PSは改革運動に負けたがギ・ヴェルフォフスタト首相のオレンジ・青連立(リベラル、社会キリスト、PS)に参加。
 2010年選挙は新フレマン連合17.4%、PS(ワ)13.71%、キリスト民主(フ)10.85%、改革運動(ワ)9.28%、別のSP(フ)9.24%、
公開VLD(フ)8.64%、フレマンの利益7.76%、cdH(ワ)5.53%、ECOLO(ワ)4.80%、緑(フ)4.38%。
 キリスト民主とcdH改革運動公開VLDはリベラルの兄弟党

 戦後は1949−1954年、1958−1961年(ガストン・エイスキンス)、1966−1968年(ヴァンデン・ボエイナンツ)、1974−1977年
レオ・ティンデマンス)、1981−1988年(ウィルフィリード・マルテンス)に反対派となる。
 一方、アキール・ヴァン・アッカー(1945−1946年、1954−1958年、紫)、カミーユ・ユイスマン(1946−1947年、紫)、
ポール・へンリ・スパーク(1946年、1947−1949年)、エドモンド・レブルトン(1973−1974年)が首相となっている。
 ローマン・赤連立テオ・ルフェーヴル(1961−1965年)、ピエール・ハルメル(1965−1966年)、ガストン・エイスキンス5次
6次、(1968−1973年)、レオ・ティンデマス2次(1977−1978年)、ポール・ヴァンデン・ボイナンス2次政権(1978−1979年)、
ウィルフィリード・マルテンス(1979−1981年、1988−1992年)、マルク・エイスケンス(1981年)ジャン・リュック・ドエヌ(1992−
1999年)。

社会党PS(フランス語圏)
 1978年最初の党首にアンドレ・コールがなる、1981年にギュイ・スピタエルスに交代、1980年フィリップ・ビュスカンが跡を継ぐ。
1999年にはエリオ・ディ・ルポが党首となる。
 党や党員は数々の賄賂、犯罪に関係する。(、アグスタ事件(軍ヘリコプターに関わる賄賂事件、コール暗殺の原因)、)
 2002年ディ・ルポは’左翼の柱’結成を呼びかけ、エコロとの左翼結集の結実する。
 新指導部と現代化の努力で2003年選挙や特に2003年地域選挙でよい結果となり、フランス語圏の最大党となり、連邦政権の相手は
改革運動MR(そのフラマン党はVLDとSPA)による紫連立、フランス語圏とワロン地区ではcdHと統治、ブリュッセル首都地区では
PS−cDH−エコロ政権形成。
 2005〜2006年いくつかの醜聞が発生し、2007年連邦選挙で史上最悪の大敗するがギ・ヴェルフォフス政権参加。
 2009年の地区選挙でも後退するが2007年連邦選挙よりは改善、フランス語圏とワロン地区で最大党を確保、cDH、エコロとオリーヴ(オリヴィエ)
連立政権を形成。2010年連邦選挙では大きく回復し13.7%、26議席と6議席増で新フロマン連合につぐ第2党となる。
 社会主義者家族は議会で第1党となり2010−2011年のベルギー政治危機のあとエリオ・ディ・ルポが首相となる。(PS、CD&V、MR、
SP、公開VLD、CDH)
 組閣は困難を極め、541日の交渉の末、2011年12月、エリオ・ディ・ルポ(PS)政権成立。
 社民、キリスト民主、リベラルの6党参加するが、新フランドル連合、緑(公開VLDが拒否)が参加せず、オランダ語圏では多数派とならない。
 ディ・ルポは公然ゲイでヨーロッパではアイスランドのヨハンナ・シグルザルドッティル(レズ)につぐ2番目の公然同性愛首相。
 2014年選挙は単独で11.67%、23議席で新フランドル連合の20.26%、33議席に続く。
 改革運動のシャルル・ミシェルによる新フランドル連合(33/150)、改革運動(20)、公開フランドル自由と民主(14)、
キリスト民主フランドル(18)の連立政権成立。

社会党SP(フラマン)
 1981−1987年の反対期に新路線を発表(突破口宣言)。
 1999−2007年はVLDギ・ヴェルフォフスタト首相で紫連立を形成。
 2001年、別の社会党(副題:社会進歩選択)と名乗る。
 2003年の選挙で、スピリットと連合し大成功14.9%、23議席の9議席増、2007年選挙では10.26%、14議席。
 2010年選挙は9.24%、13議席。スピリットとの連合は解消、その中心人物ベール・アンシオは社会党参加。
 スピリットは2008年フロマン進歩、更に社会リベラル党となり2009年緑に吸収。
 2014年選挙は8.83%、13議席。


 オランダ語圏の環境政党。当初の党名はAgalev(Anders Gaan Leven”別の生き方を行く”の省略から)。
 2003年選挙敗北で緑Groenとなる。
 Agalevはイエズス会士ルク・ヴェルスタイレンによって始められた。Agalevは進歩的カトリックと環境主義が結びついていた。
 1973年から小グループとして始まり1974,1976年は既成政党の候補を支持したがこれらの候補は約束を守らなかった。
 1977年地域選挙で独自名簿形成したが選出されなかった。
 1979年政党結成か政治から離れたままかの論争が起きる。全国的新党結成にのりだしEU選挙で2.3%獲得、0議席。
 1981年選挙で4%確保し下院2議席、上院1議席獲得。エコロは下院2議席、上院3議席をワロン地区で獲得。
 1982年公式に政党Agalev結成。
 1985年4議席に増加、1987年は6議席、1991年は下院7議席となる。このころから他党との協力関係を始める。
 1995年ベルギーを揺らした政治醜聞反対運動を行うも5議席となる。
 1999年選挙は選挙直前にダイオキシン問題が起こり、Agalevは選挙に大成功で9議席獲得。
 Agalevはヒー・フェルホフスタット(フランデル・リベラル民主、1999−2008年)政権(VLDPRLSPPS、Agalev、Ecolo)に参加。
 マフダ・アエルヴートが副首相、エディ・バウトマンスが開発協力大臣となる。(虹連立
 2003年選挙は大敗で2.6%で0議席。フランドルでは地域多数派を2004年まで占める。2003年緑となる。
 ヴェラ・ドゥエが最初の党指導者となる。
 SPとSpiritとのカルテル形成を拒否、多くが党を去り、2004年地域選挙でフランデル議会の半数を失う。
 2007年総選挙で4議席に回復、上院2議席。2009年小党社会リベラル(2001年VU分裂し結成、2008年Spiritとなる)と合同。
 2014年下院選挙は5.32%、6議席。

○ エコロ
 フランス語圏の環境政党。1980年結成。
 1976年大地の友がナムールで環境と自治のため戦う地域名簿として結成される。
 1977年総選挙でワロン−環境名簿で参加。アンヴェール(フランデル)、ブリュッセルでも参加。
 1978年総選挙もワロン、ブリュッセル、フランデルで候補を立てる。
 1979年EU選挙で欧州エコロジーとして5.14%%獲得。
 1980年エコロ結成。1981年選挙で2.3%、2議席獲得。
 1982年地域選挙でリエジュで多数派入り(1983−1988年)
 1984年EU選挙でフランス語圏で13.02%で1議席(1議席減、Agalevはオランダ語圏で10.73%で1議席維持)
 1985年左でもなく右でもなく宣言採用(ポール・ラノワ派)。リベラル、社会キリスト除外連合を拒否。
 左派分裂し選択左翼緑結成VEGA。オリヴィエ・デルーズも党を去るがVEGAには不参加。
 1999年選挙に大成功7.35%で11議席獲得、副首相にイサベル・ドュラン、その他オリヴィエ・デルーズ入閣。
 2003年選挙は3.06%で4議席に後退。2004年EU選挙はフランス語圏で9.84%で2議席減の1議席となる。
 2005年EU憲法には党は賛成したが幾人かの議員は反対。
 2006年地域選挙後イサベル・ドュランは社会党SPとの提携を拒否。アンリ・シモンがSPに移る。
 2007年選挙は5.1%、8議席と回復。
 2009年地域選挙ではブルッセル17.94%、ワロン18.54%とフランス語圏で第3党になる。EU議会選挙は8.55%。
 改革運動MRとPSへの主導権をとるため民主人道センターCDHと交渉、ブルッセルと、ワロンでCDH、PS、エコロ連立。
 選択左翼緑結成VEGAには哲学者イサベル・スタンジェールなどが関係、選挙ではうまくいかず2009年左翼連合に参加。
 2014年選挙は3.30%、6議席。

ベルギーのトロツキスト  1928分裂  

 トロツキー追放直前の1927年11月ベルギー共産党PCB中央委員会でトロツキー支持派は多数派であった(15対3)。
 1928年3月大会では少数派となった(34対74)。反対派はフランデルで12対10で多数派、ブリュッセル(フェレーキン)では7対20、シャルルロワ
(ルソイル)では15対44で少数派。
 コミンテルン使者のトリアッティとジュール・アンベール・ドロー−ズ出席で左翼反対派が追放される。
 追放者は共産党反対派グループ結成し、機関紙共産主義者Le Communiste発行。
 主要メンバーはヴァール・ファン・オフェルストラエテン (1891−1981年)、レオン・ルソイルアデマール・エノーゲオルゲス・フェレーケン
ルイス・ポルク。反対派と一緒にシャルル・プリズニエが追放される。プリズニエはPOBと提携し間もなくキリスト教に転じる。
 追放でPCBはメンバーの半分を失った。
 1929年国会選挙に反対派は5地域で参加、シャルルロワでは反対派2951票対PCB5140票、ブリュッセルは502対PCB10437、
ガン1347対2788、アンヴェール1047対2000であった。
 1930年パリの左翼反対派国際集会にはレオン・ルソイルアデマール・エノーが参加。

 反対派多数派はトロツキーと衝突し1931年オフェルストラエテンエノーらは国際主義者共産主義者同盟LCIを結成しシャルルロワのグループ
(ルソイルら)と別れる。オフェルストラエテンはやがて政治から離れ画家となる。エノー指導のLCIはボルディガ派に接近。
 1937年LCIは評議会主義者(カンネ・メイエルら)に接近。1938年ボルディガ派が去り、アデマール・エノーらだけが残り1939年LCI消滅。

 1931年シャルルロワのグループ(ルソイルら)は共産主義者の声La Voix Communisteを創刊。
 ゲオルゲス・フェレーケンのグループがシャルルロワのグループに参加。
 1932年シャルルロワ地域選挙で反対派は5名選出された(レオン・ルソイル、アレクサンドル・デ・ヴァエットら)。
 共産主義者反対派から国際主義者共産主義者同盟(ボルシェヴィキ・レーニン主義)となる。
 フランスの転換で共産主義者の声多数派はPOBへの加入賛成、フェレーケンは反対し、1935年雑誌スパルタクス発行。
 POB加入グループは1935年POBのワルテル・ドージュの社会主義者行動L'Action Socialisteと協力。
 1935年ポール・アンリ・スパークポール・ファン・ジーランド政府入閣でPOB左派の社会主義者行動は分裂。
 1935年ルイス・ポルク(アントワープのLCIグループ)がLCIから追放される。
 1936年社会主義者行動、フェレーケンのスパルタクス・グループが革命的社会党結成。ワルテル・ドージュが最初の書記となり1937年
フェレーケンと交代。
 1938年革命的社会党(レオン・レソイル)は第4インター結成協議会参加。
 1938年頃から革命的社会党は崩壊し、1940年革命的共産党としてアブラハム・レオンらにより再建され”レーニンの道”発行。
 1940年ワルテル・ドージュが政治活動から撤退。
 ベルギーのトロツキストはフランスのトロツキスト同様にレジスタンスをブルジョア的として消極的であった。
 しかしナチスにより多くの指導者を失った。特に1941年6月のナチスのソ連侵入前に多くが逮捕・殺された。
 このため第2次世界大戦でベルギーのトロツキストは大きな損失を蒙った。

 ゲオルゲス・フェレーケンは1934年トロツキーの加入戦術に反対。1935年スパルタクス・グループ結成、第4インターへの公開状に署名。
 1936年革命的社会党結成、スペイン革命とPOUM問題でトロツキーと意見相違しこれを去る。
 ついで”流れに抗して”グループ結成、あるいは第4インター・トロツキスト共産主義者グループと称する(1938−1945年)。スネーフリートに近く、
モリニエ・グループに接近。
 戦後はパブロ派(革命的マルクス主義者1964−1978年)。

 1946年革命的共産党とフェレーケングループは合同し労働者革命党Parti Revolutionnaire des Travailleursとなる。
 1950年トロツキストはエルネスト・マンデル、ピエール・クレーヴに率いられベルギー社会党に再加入。
 1954年エミール・ファン・ケーロンの指導で社会主義青年防衛を支配。

 ナチスの主な犠牲者 
 レオン・ルソイル(1892−1942年) 1926年PCB参加、1927年追放される。1942年ノイエンガンメ収容所で死亡。 
 ルイス・ポルクlouis Polk(1902−1945年) 
 アブラハム・レオンAbraham Leon(1918−1944年) 再建地下組織PCR書記、アウシュヴィッツで死亡。
 ルシアン・ルネリーLucien Lenery(1897−1942年) 反対派結成参加。リージュのフェレーキン派、ノイエンガンメ収容所で死亡。
 Marius Nopere 革命的社会党Parti socialiste Revolutionaire参加。1941年ノイエンガンメで死亡。

急進左翼
 1920年代、スターリンとトロツキーの衝突でPCB内の多数派はトロツキーを支持し追放され第4インターに結集した。
 1950年代、トロツキストの一部は加入戦術をとり、ベルギー社会党PSB(BSP)に入り込んだ。
 彼らはエルネスト・マンデルに率いられて週刊誌”左翼”の周りに結集した。
 1964年、PSBは党内幹部から左翼主義者の搾り出しを行った。
 そこでワロン労働党PWTと左翼社会主義連合UGSが結成された。
 一方、PCB内で毛沢東主義者が衝突し始め、1963年、自分たちの党を結成し、同じPCB(グリッパ)を名乗った。
 毛沢東主義者はいくつかのグループに分裂した。
 トロツキストとPWTとUGSの左翼カトリックは1970年労働者革命連合LRTを設立した。
 LRTは第4インターの支部となった。
 68年5月と文化革命の影響から数多くのマルクス・レーニン主義組織が生じた。
 1990年代世界は変わり、古い共産主義者の党は困難に陥った。極左は消えた。
 社会主義選択運動LSPMAS:、トロツキスト)がこの時期の主要なものである。
 現在の主な組織はトロツキストとして社会主義選択運動MAS国際労働委員会派)、革命的共産主義者同盟LCR(第4インター)、
ML派としてベルギー労働(者)党マルクス・レーニン主義ブロックなどがある。

アブラハム・レオン
 1918−1944年、アウシュビッツで死亡。
 ベルギーのトロツキスト。ワルシャワ生まれのユダヤ人。

ベルギー労働(者)党PvdAPTB)(毛派)〕
 1960年代末の急進学生運動のなかからルーベン・カトリック大の学生を中心に発生。
 毛沢東主義や中南米のゲリラなどから影響をうけ、反植民地主義、反新植民地主義の国際闘争にちからをいれている。
 1974−1985年は反米帝、反社会帝国主義・ソ連を基調としている。
 1979年最初の党会議を開催、議長ルード・マルテンス。コンゴ民主共和国大統領となるローラン・カビラが参席。
 マルテンスはカビラに近く、アフリカ問題の著作を著している。親ソ、親中、親アルバニア、親キューバの統一を提案したりした。
 2003年アラブイスラム勢力と選挙連合を組んでいるが結果がよくなかったのでアラブ・ヨーロッパ同盟ムスリム民主党結成。
 1985年から選挙に参加、46034票、0.76%で1980年代は4万6千票前後0.7%台で、1990年代は3万票台、0.5%前後を
確保し、2003年、20824票、0.17%、2007年、56167票、0.84%となっている。
 最近は共産党が目立たなくなったのでベルギー労働者党がベルギーの最大の共産主義者党となっている。
 2008年指導者がルード・マルテンスからペテル・メルテンスに交代。
 メルテンスは毛沢東主義、スターリン主義を放棄。
 党改革が行われ、セクト主義と別れを告げ、市民の具体的要求への接近路線を採用。
 2010年選挙はPTB0.61%、PvdA0.78%獲得、協同部分も含め両者計で1.54%。
 2012年地方選挙でメルテンスがアントワープ(アントウェルペン)市議に選ばれる。
 2014年選挙はPVDA+1,76%、PTB−GO1.97%、両者で3.72%で2議席獲得と成功を収め、ワロン議会では2議席、
ブルッセル議会では4議席獲得。

革命的共産主義者同盟(社会主義労働者党)(SAP/LCR)〕
 労働者革命連合LRT/RALは1971年5月、リエージュで結成。
 1984−2006年までは社会主義労働者党POS/SAPと名乗っていた。
 創設者はワロン労働党PWT、左翼社会主義者連合UGSを含む社会主義労働者連合CSTからなっていた。
 LRTは第4インターのベルギー支部であった。
 1970年代、ベルギーで最も活動的なマルクス主義組織となった。
 トロツキストは山猫ストも演じた。LRTは学生と労働者を結びつけることを目標とした。
 68年以降のリセと学生を最も動員する組織となった。
 しかし何度かの分裂を経験している。
 1973年、ブリュッセルのグループが国際マルクス主義者グループGMIを結成。
 68年5月から10年後、68世代活動家問題も大きな失望のもととなっている。
 たとえばかつてのLRT活動家のフランク・バンデンブラウケの例である。
 彼は現在別の社会党SP.A(フロマン)の議員でフロマン政府労働・教育・訓練大臣となっている。
 多くの活動家は革命的活動家であることをやめている。そこで党は労働者へ向かう方針を採用した。
 1984年、社会主義労働者党POS/SAPと名を変えた。
 1991年、共産党などと選挙連合形成。
 2005年、革命的共産主義者同盟LCRとフランス語圏で名を変えた。(フラマンは社会主義労働者党SAP)
 2005年以来別の左翼(もう1つの左翼)を提唱。これは連帯、エコロジー、フェミニズム、自治を標語としている。
 2006年フランス語圏で別の左翼UAGを結成、ヨーロッパ左翼にオブザーバ参加。
 2010年選挙は左翼連合参加。
 2014年選挙はワロンとブリュッセルはPTB、PC(共産党)などとPTB−GO!に参加、フランドルではPVDA+名簿に参加。

闘争社会党PSL
 起源は社会党にある。すでに1974年にトロツキスト組織VONKエリク・デ・ブルイン赤い別の社会党メンバー)が形成されている。
 社会党の右傾化や加入戦術の不成功により党内分派が形成され、一部は1992年、戦闘的左翼を形成。
 このグループは1999年に社会主義選択運動MASとなり2008年闘争社会党(左翼社会党となる。
 2006年から別の政治のための委員会CAPに関係する。
 国際労働委員会CIO派に属する。

マルクス・レーニン主義ブロック
 2003年設立。このグループに関わっている1つの潮流はジャック・グリッパのグループである。
 もうひとつは共産主義戦闘者細胞(1984−1985年にNATO基地攻撃を行ったドイツ赤軍と関係したグループ)である。
 毛沢東、エンベル・ホッジャ、アビマエル・グズマン(ペルーのセンデロ・ルミノッソ設立者)などの思想を取り入れている。

別の政治のための委員会CAP
 2005年末、公式には2006年10月設立。
 提案者は社会党−別SPAの元議員(ジェフ・スレークス、ロデ・ヴァン・ウトリヴェ)やベルギー労働総連合AVBB/FGTBの議長
ジョルジュ・デビュンヌ)。
 彼らは2005年はじめ、EU憲法の国民投票を政府に要求した。
 2005年末の年金改革問題は国民が大反対したにもかかわらず国家議員のほとんどが賛成した。
 これによりFGTBとSPAとの関係が悪化した。
 また極右の台頭に対しても国民の声を代表する政党が必要で、それによって民主主義の危機が解消されると主張。
 フランス語地域では、革命的共産主義者同盟LCRなどにより別の左翼UAGが結成された。
 10月にCAPとUAGにより全国会議が共催され社民(PS, SP.a)や環境主義(Ecolo, Groen!). )に満足しないほとんどの急進左翼:
左翼社会党LSP/MAS(または闘争社会党、労働者インター委員会、1992年結成)、ベルギー共産党、革命的共産主義者同盟SAP
(トロツキスト)などが参加したがマルクス・レーニン主義ブロック(教条的マルクス・レーニンないし毛沢東主義)とPTB(毛派)は参加しなかった。
 LCR中心のフランス語地域の別の左翼UAGとMASが主力のフランス語圏CAPメンバーによりCAPのワロンとブリュッセル委員会に関して論争
が起きる。フランス語地域にはUAGが結成されていた。UAGとCAPの路線が異なりUAGは全国レベル統一に反対。
 2006年MASはUAGを去ることを決める。MASが主力のフランス語圏CAPメンバーがワロンとブリュッセルの委員会結成に乗り出す。
 2007年の連邦選挙で上下院とも約0.3%獲得。これは2004年のEU選でのMAS/LSPの得票数と大差なかった。フランス語圏では若干
増えたが、オランダ語圏では減った。
 これにはGroen!は参加拒否され、PTBは参加しなかった。
 UAGはPSEcoloの左への投票をよびかけるがCAPをふくんでいるようには思えなかった。
 この選挙に際し労働組合運動活動家ロベルト・ドラツィオがCAPに参加。

 ラフ・フェルベケ、ジェフ・スレークス、ジョルジュ・デビュンヌらはフランス語圏CAPを支持し、ロデ・ヴァン・ウトリヴェらが反対。
 フランス語圏CAPはロベルト・ドラツィオのCAPとなる。

 2010年6月選挙に向けて社会党、エコロの左翼代替として共産党(ピエール・エイバン)、闘争社会党(アニヤ・デッシューマッカー)、
革命的共産主義者同盟(セリーヌ・コドゥロン)、人道党(ジレ・スメッド)、別の政治のための委員会CAP(ローラン・バルタザール)、バイク革命
ヴェロルシオンVelorution、レギナルド・デ・ポテスタ・デ・ヴァレッフェ)の6つの急進左翼と労働組合活動家、独立組織により左翼連合が結成される
 結果は0.33%獲得。


   ⇒ ヨーロッパの左翼
 
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