<<カナダの左翼>> トロツキスト  文庫


カナダ共産党CPC〕
 1921年5月28日、オンタリオ州ゲルフでの秘密会議で組織された。
 創設者の多くは、カナダ社会党ワン・ビッグ組合社会労働党世界産業労働者などのグループに属すか、その他
の社会主義者、マルクス主義者、労働党、クラブのメンバーであった。
 党はコミンテルンのカナダ支部として設立された。
 党は1920年代と1930年代は合法、非合法をいったりきたりした。
 最初非合法で1922年、公然組織としてカナダ労働(者)党WPCを創設した。
 1922―1924年、WPC/CPCの地域メンバーは資本家階級に対する統一戦線戦術としてカナダ労働党CLP
に加入した。
 CPCはCLP組織をいくつかの地域で支配するようになったが、CLPは効果的な全国組織にはならなかった。
 共産主義者は1928―1929年に、コミンテルンの政策転換に従いCLPから撤退した。
 1928年から1930年中に、党議長で党機関紙The Workerの編集員のモーリス・スペクターなどのトロツキー支持者
は追放された。
 スペクター排除の支持者のジャック・マクドナルド(1923−1929年書記長、スコットランド生まれ)は派閥主義として党総書記
から除かれ、結局党多数派の支持者とともに追放された。マクドナルドもトロツキストでスペクターとともにカナダ国際左翼反対派
を創設した。
 追放者にはウィリアム・モリアーティ(1921−1923年、イングランド生まれ、22歳で移民し農業労働者となる、カナダ社会党
参加)のようなブハーリンの支持者でジェイ・ラブストンの右翼反対派もいた。
 J.B.ソールスバーグ(ポーランド生まれ、11歳で両親と移民、労働シオニスト、ユダヤ人ティム・バックのスターリン主義者に対し、
フィンランド人、ウクライナ人、ユダヤ人による多数派形成)は最初右翼反対派を支持していたが、すぐに取り消し、党に残留できた。
 マクドナルドに代わってティム・バック(機械工、19歳のときイングランドから移民、トロントで労働運動・政治運動に関係)が
1929年、総書記となり、ソ連への忠誠路線をとり1962年までその地位を維持した。
 1931年、CPCの8人の指導者が刑法98条により逮捕された。
 1930年選挙は0.12%、4557票、1935年選挙は0.46%、27456票を獲得。
 党は存在しつづけたが絶えず権力の弾圧下にあり、全意志と目的のため1936年から地下組織となった。
 党は禁止されたが、労働者統一同盟救援キャンプ労働者連合、全国失業労働者連合などに加入しているグループは
オタワ行進on-to Ottawa Trekのような未熟練者、失業者の抗議行進とデモと運動の組織化に重要な役割を果たした。
 党員はまた産業組織会議で積極的に自動車部門の組合組織化を試みた。

 党はまた1500人をマッケンジー・パピノ大隊として動員しスペイン内戦で国際義勇軍として戦った。
 スペインに赴いたカナダ人共産主義指導者のなかには医師のノーマン・ベチューンがいた。
 彼は中国共産党との仕事でよく知られている。

 共産党は1941年のソ連侵攻までカナダが第二次世界大戦に参加するのに反対した。
 ナチスのソ連侵攻で方針を変更しカナダの戦争参加を支持した。
 1944年の徴兵危機の間、CPCはティム・バック委員会を設立し、国中で徴兵に対する国民投票で賛成するよう運動した。
 投票のあと委員会は主権共産主義者労働総戦争委員会と改名し、戦争のため全支持、戦争の間のノン・ストライキ誓約を
推進し産業生産を増大させた。

 党の最初の国会議員はドリーズ・ニールソンで、1940年、サスカチョンの西バトルフィールドで人民戦線の進歩統一から選出された。
 党は1941年禁止され、それからは1959年まで労働進歩党として立候補した。
 1940年の禁止でティム・バックサム・カー、チャールス・スミスらの指導者はニューヨークに逃げ、潜行した党はスチュワート・スミス
スタンリー・リアソンレスリー・モリスによって率いられた。
 1945年の選挙では多数の候補をたて2.13%、111892票と最高の成果を得た。
 1949年は0.56%、1953年は1.06%を獲得している。
 党員は種々のレベルで議員になっている。
 冷戦による反共意識の増加で苦境に直面した。
 1956年のフルシチョフのスターリンの犯罪暴露演説や、ソ連のハンガリー介入は大きな動揺を巻き起こした。ソ連旅行から帰国
したJ.B.ソールスバーグの彼がソ連で見た党支援による反ユダヤ主義の報告は党により拒絶され、彼は党幹部から排除された。
 結局、ほとんどのユダヤ人メンバーが統一ユダヤ人民オーダーを結成するにいたった。

 著名なメンバーを含むほとんどのメンバーが離党し、多くの元共産主義者が協同連邦党とその後継者、新民主党に参加した。
 自由党に参加した者もいる。
 1957年選挙は候補を多く立てられず0.12%と得票は激減した。
 米国は1960年代中期の党員を約3500と見積もっている。
 1962年の選挙に共産党として参加し6360票、0.08%を獲得、1958年の労働進歩党としての9763票、0.13%を下回った。
 以降は1974年の0.13%をピークにいつも0.1%をきっている。
 指導者がティム・バックからレスリー・モリス(英国移民、カナダ青年共産主義者同盟書記、−1964年)に代わった。
 1965年指導者がウィリアム・カシュタン(1909年生まれ、−1988年)に代わった。
 1968年のソ連のチェコスロバキア介入でも多くが離党した。
 ソ連の崩壊で他国の共産党同様に危機を迎え分裂が起った。そのような状況下で総書記のジョージ・ヘウィソン(党の第2世代、
父はスコットランド移民で協同連邦党設立者のち労働進歩党参加、1944年生まれ、1988−1992年)指導部、一部の一般党員は
革命展望の基礎としてのマルクス・レーニン主義を放棄し始めた。
 結局、党自体を清算するほうに向かい、それを社会民主主義に実質的に置き換えようとした。
 長引いた思想的、政治的混危機は2年以上に渡って幹部の間に混乱と無方向化を作り出し、独立派と統一戦線派に分極化した。
 結局、ヘウィソン率いる中央委員会多数派はマルクス・レーニン主義の放棄に投票した。
 ミゲル・フィゲロアエリザベス・ローリウィリアム・カシュタンらの正統主義少数派はこれに抵抗した。

 1990年秋の会議ではヘウィソン・グループがなんとか中央委員会の支配を維持したが、1991年春まで
党員は徐々に修正主義政策とヘウィソン指導部の方向性に反対し始めた。
 1991年に主要地方大会が開催され、CPCの主要地方組織のブリティッシュ・コロンビアとオンタリオで
ヘウィソン派指導部が反対派により降ろされた。
 1991年8月、ヘウィソン・グループは7人の反対派主要メンバーを追放し、ヘウィソンが支配する中央執行部はオンタリオ地区
委員会を解散した。
 ほとんどの地方組織と委員会は除名に反対し、特別大会の開催を要求したが、開催されなかった。
 ヘウィソン・グループと反対派の交渉の結果、ヘウィソン・グループは党を去ることになった。ヘウィソン・グループは党の財産を
握り、持ち出した。
 1992年の大会で党の継続が合意され、ヘウィソン・グループの修正主義路線が否定され、党はマルクス・レーニン主義をとる
ことが確認され、ミゲル・フィゲロア(1953年モントリオール生まれ)が指導者に選出された。
 一新された党はせいぜい1000人と分裂まえより小さくなり、多くの財産も失った。
 1993年の連邦選挙では公式党として必要な50人の候補を擁立できなかった。
 登録が剥奪され、財産も差し押さえられたが最高裁判決によりひっくり返った。

 2005年、ケベック共産党PCQがアンドレ・パリゾーによって率いられるグループと分裂。
 パリゾーによって率いられるグループはCPCからの分離を決定したが、反対派はこれを拒絶し、パリゾーを追放。
 パリゾーはケベック民族主義を主張していると批判された。
 パリゾーのグループはケベックでは依然活発でPCQの名前の使用権問題は解決していない。

 2006年選挙は3022票、0.02%であった。
 2007年、第35回中央大会が開催され、オンタリオ、ブリティッシュ・コロンビア、ケベックなどから65人の代表が参加した。

 伝統的に共産党と労働進歩党は同盟組織である。労働進歩党は公式には共産党に附属していないが、大いにその
支配下にある。
 これらのグループは共産党結成まえの左翼労働運動と社会主義運動から発生し、種々の移民グループの間で政治的・文化的
活動をしていた。
 1920年代から1950年代まで党内の最大移民グループはフィンランド人、ウクライナ人、ユダヤ人で、それぞれカナダ・
フィンランド組織、統一ウクライナ・カナダ人連合、統一ユダヤ人民オーダーUJPOに組織されていた。
 1930年代から1940年代まで活発であったのはポーランド人民連合、セルビア人民運動、クロアチア文化連合、カルパソ・
ロシア協会であった。
 1948年、ウクライナ人、ロシア人、ポーランド人、スロヴァキア人、ブルガリア人、マケドニア人、ユーゴスラヴィア人、カルパソ・
ロシア人を文化連合として一つの傘組織の下に提携させるためカナダ・スラブ委員会が形成された。
 1965年、UJPOは党と衝突した。
 1960年代と1970年代のギリシャとポルトガル移民の左翼はギリシャ民主協会、ポルトガル民主協会を形成し、これは依然
として共産党と密接な関係にある。

 ノーマン・ベチューン

 ハーバート・ノーマン

労働進歩党LPP)
 1941年、カナダ共産党が禁止され、労働進歩党として再建された。
 1943年のモントリオールの補欠選挙でフレッド・ローズが当選したが1947年ソ連のスパイとされ有罪となり議会から追放された。
 1940年サスカチョンから進歩統一として当選したドリーズ・ニールソンは1945年、LPPとして立候補し落選した。
 オンタリオ議会で1943から1951および1955年にアルバート・マクロードジョセフソールズベリが議員となった。
 LPPはまた自由党労働候補(自由党の支援あるいは立候補した労働者候補)としてオンタリオ自由党に何名か指名された。
 党の指導者はティム・バックでその他の著名なメンバーはマーガレット・フェアリースチュワート・スミススタンリー・リアソン
(歴史家、ソルボンヌで学ぶ、”1837年カナダ民主制誕生”が主著、1971年離党)。
 LPPの最後の選挙は1959年でその後CPCとして活動。

カナダ共産党(マルクス・レーニン主義)〕Communist Party of Canada (Marxist-Leninist
 1963年、ハーディアル・ベインズはブリッティッシュ・コロンビア大で国際主義者を設立した。
 中ソ分裂でベインズはCPCとは反対に中国を支持した。
 国際主義者は当初、毛沢東主義学生グループであったが、1970年、カナダ共産党(マルクス・レーニン主義)
という名を採用した。
 中国・アルバニア分裂でCPC−MLはアルバニアについた。
 最近はCPC−MLは朝鮮民主主義人民共和国を支持する傾向にある。
 CPC−PLはソビエト陣営の崩壊後、より独立路線をとっている。
 ベインズは1990年代キューバを訪問し、キューバは修正主義であるという初期の視点を変更し、CPC−MLは強くキューバ
を支持するようになった。
 1974年の選挙に参加、0.17%を獲得、1980年まで0.1%台を獲得しているが、1993年0.04%となり以降0.1%を
きり、2006年は11163票、0.08%となっている。これは共産党を上回っている。
 2008年は8565票、0.06%、共産党は3572票、0.03%。
 2011年選挙は10046票、共産党は2920票。

カナダ革命的共産党
 2000年ケベックのモントリオールで結成された。マルクス・レーニン・毛沢東主義志向のグループ。
 1960−1980年代の労働組合運動、青年組織活動家が結成。
 メンバーの中心はフランス語使用ケベック人。

青年左翼
 2001年、トロントで結成。CPCに不満な青年メンバーが結成。
 青年共産主義者同盟YCLは1923年トロントでCPCの青年組織として結成(青年労働者同盟、禁制のため共産使用できず)。
 最初の書記長はレスリー・モリス、1928年までに40の学校に2000人のメンバーがいて後の指導者フレッド・ローズ
サム・カーなどがモントリオールで活動していた。
 1930年代の大不況で失業運動、平和、労働組合活動に関係。救援キャンプ労働者連合、のオタワ行進に積極的に参加。
 1936年、ジュネーヴで開催される世界青年会議のためカナダ青年会議CYCを結成、ピーク時40万人のメンバーとなる。
 スペイン戦争にマッケンジー・パピノ大隊組織のため大きな役割を果たし、1200人の青年が参加。
 1941年CPCとともに禁止され労働青年全国連合NFLYに転換。
 第2次世界大戦の終了でNFLYも拡大を始めるが冷戦で苦難に陥い、1968年YCLとして再建。
 1991年頃にCPCとソ連崩壊で解散状態、1994年に再建が試みられたが失敗し2000年頃トロントに赤い星青年集合結成、
やがて青年左翼となり党と分裂。
 2003年、ヴァンクーヴァーでYCL準備委員会結成。2007年再建される。

カナダ社会党) 文庫
 1904―1925年の社会党と1931年結成の社会党が存在。
 
 カナダの社会主義の起源はオンタリオ州で、1890年代勢力を持ち始めた。
 1872年、保守党により第1回カナダ議会で労働組合法が成立。
 ダニエル・ド・レオンの米国社会労働党SLPの支持者により1890年代初期、支部が西部地域ウィニペグとヴァンクーヴァーで
結成された。
 1898年、以前のSLPメンバーにより最初のカナダ社会主義連盟支部がモントリオールで開設、次の4年間で60以上の支部開設。
 中心はオンタリオとブリティッシュ・コロンビアBCでこれからオンタリオ(1903年)、マニトバ(1902年)、BC(1901年)の各社会党が
成長する。
 1900年、ブリティッシュ・コロンビア州選挙に最初の労働および社会主義候補が出る。
 この時期の社会主義は改良主義とキリスト教友愛主義でマルクス主義の影響はほとんどない。
 1902年、BC社会党メンバーが革命的社会党結成。改良主義と意見の不一致があった。1903年BC社会党と統合。
 1903年、いくつかの社会主義者、労働運動の出版物を統合し社会主義者と労働者政治新聞のウェスタン・クラリオン発行。
 1904年12月のブリティッシュ・コロンビア社会党第4回大会で全国社会党結成(ユージン・キングスレーら)。
 1905年多くの社会主義者組織が党結成を承認し、1905年2月、オンタリオ、マニトバ、BC社会党により党執行部が結成された。
 1911年、BCの右派メンバーがカナダ社会民主党SDP結成。
 1920年、BC労働連合連合労働党結成。カナダ社会民主党と社会党の一部が参加。
 1919年結成のワン・ビッグ組合が1922年までに大幅後退。
 1925年、社会党とウェスタン・クラリオンが解散し、多くの都市で小さな討論集団となる。
 1926年、連合労働党とカナダ労働党(BC支部)が一緒になり独立労働党となる。
 1931年、ウィニペグでカナダ社会党再建。1932年ヴァンクーヴァーの独立労働党がカナダ社会党(BC支部)となる。
 1932年、社会主義者(社会党など)、労働党などがCCF結成に参加。
 1935年、更に社会党とCCFの統合が行われ、数年間CCF内で組織を維持。
 1936年、SPC支持者がBCのCCFを支配し、穏健派がBC社会再建党を結成。
 BC社会再建党は大不況で自由党と政策に違いをだせず1937年消滅。

カナダ労働党独立労働党> 
 1870年代から1960年代までカナダには労働党あるいは独立労働党あるいは他の変種の名で候補を立てたグループが
多く存在した。これらは地方あるいは州単位のグループで、地域組合評議会や個別労働組合に支援されていた。
 1920年代に全国労働党結成の試みがあったが結局失敗した。
 1921年のCPC結成には多くの地域労働党やクラブが参加した。
 独立労働党と他の労働者グループは1932年のCCF結成を支援した。
 最初の労働議員はウィニペグ・労働党を結成したアーサー・ピュッティーで1900年のウィニペグ(マニトバ州)補欠選挙で
当選し、1900年連邦選挙でも議席を維持した。
 1900年代および1910年代には自由党から労働議員がでた。
 1920年代から1930年代にはマニトバ独立労働党ジェームズ・ウッズワースをはじめ何人かの労働議員が誕生、
これらのなかにはウッズワースをはじめジンジャー・グループに参加したものがいた。これらの多くはCCFに参加した。

 1917年カナダ労働組合会議TLCの発議でカナダ労働党CLPが設立され、これはカナダ版英国労働党を目的としていた。
 これは思想的にカナダ社会党よりアーサー・ピュッティーウィニペグ・労働党に近かった。
 CLPは1917年選挙に多くの候補を支持したが誰も当選しなかった。
 TLCはサミュエル・ゴンパース米国労働連合路線に接近し非政党路線を採用しCLPははとんど放棄された。
 1920−1926年にBC、マニトバ、アルバータ、オンタリオ、ケベックで州政党が結成された。
 1920年、BC労働連合連合労働党結成。カナダ社会民主党と社会党の一部が参加。
 1906−1909年の間カナダ労働党BC支部が存在し1926年、連合労働党とカナダ労働党(BC支部)が一緒になり
独立労働党となる。1932年ヴァンクーヴァーの独立労働党がカナダ社会党(BC支部)となる。
 マニトバでは1918年自治dominion労働党DLP支部結成、これは以前の以下のような政党より社会主義的であった。
 たとえば1896年結成のウィニペグ労働党これは1906年独立労働党吸収、これは1910年にマニトバ労働党、1912−1915年
労働代表委員会、このメンバーはDLPへ参加。DLPはカナダ労働党に参加し州では独立組織として存在しなくなった。
 アルバータでは1920年DLP結成され1930年代まで存在し、カナダ労働党と連合。
 サスカチョンでは1931年メイジャー・コールドウェルによりILPが結成され、1932年カナダ統一農民farmers党支部と農民・労働
グループ結成し1934年CCFとなる。
 オンタリオ労働党は1922年ジェームズ・シンプソンのILPが結成。
 1921年、ジェームズ・シンプソンがカナダ労働党CLPを再建。これは全国の各種労働党の傘組織を目指していた。
 これは連合労働党、オンタリオ労働党、自治労働党や他の地域労働評議会と連合結成に成功。
 1922−1924年にカナダ労働者workers党CWP(CPC合法組織)の州支部もCLPに参加した。
 これは決して強固な中央組織ではなく、全国レベルの候補の選出されなかった。
 1929年共産主義者が撤退してからはほとんど全国的に存在停止となった。アルバータでは1935年からCCFと連合し、
1942年まで存在した。

ジンジャー・グループ
 進歩党と労働議員の社会主義者分派。1924年斜陽の進歩党幹部内の結成されアルバータ及びオンタリオの統一農民党議員
により構成された。後に労働議員のジェームズ・ウッズワース等や独立議員、進歩党議員等が参加。
 1932年のCCF結成に関係し、ジェームズ・ウッズワースは指導者となった。

協同連邦党(協同共和国連合)CCF)
 1932年、アルバータ州のカルガリーで社会主義者、農民、協同組合活動家、労働者グループと社会再建連盟によって
結成された。
 CCFは大恐慌の苦境を経済改革と公的協力によって軽減することを目的としていた。党の多くの最初の議員メンバーは以前の
進歩党左派のジンジャー・グループ労働議員であった。
 ジェームズ・ウッズワースが党の指導者に選ばれた。ウッズワースは1921年以来独立労働党議員でジンジャー・グループ
のメンバーであった。
 1933年党綱領としてレギナ・宣言(主要産業の公有化と福祉国家の建設を目標)が採用された。
 1935年の最初の選挙で7名が下院に選出され1940年には8名選出されたが第2次世界大戦で党は分裂した。
 ウッズワースは非妥協な平和主義者で多くの戦争支持者の戦争努力を混乱させた。
 1942年のウッズワースの死後メイジャー・コールドウェルが新指導者に選ばれ党を戦争支持にした。
 1945年選挙で28名15.6%獲得した。
 1944年、サスカチョンCCFトミー・ダグラスを首相として北米最初の社会主義政権を形成した。
 ダグラスはサスカチョンに一般医療保険を導入し、これは間もなく他の州で採用されレスター・ピアソン(1963−1968年)の
自由(リベラル)党により全国的に制度化された。
 連邦では冷戦の間、CCFは共産主義者、独裁よりであると批判された。
 1956年この批判に答えるためにレギナ宣言をより穏健なウィニペグ宣言に代えた。
 しかし1958年の選挙はわずか8議席しか獲得できなかった。

社会再建連盟LSR)
 大恐慌への対応としてカナダ社会主義者知識人によって1931年形成された急進社会経済改革と政治教育を支持する研究組織。
 フランシス・スコットフランク・アンダーヒルグラハム・スプライエリック・ハヴロックユージーヌ・フォルセイらが指導的メンバー。
 LSRは資本主義に批判的で、民主社会主義改革と計画経済を支持した。
 グループは決して公式的には政党に参加しなかったが、ウッズワースを名誉代表として1932年のCCFの創設とレギナ宣言策定
に関係した。1942年、多くのメンバーがCCFに政治的活動の場を移し解散。


新民主党NDP〕
 人民主義者(ポピュラリスト)、農業主義者(アグラリアン)、民主社会主義者に起源をもつ。
 今日、非政府組織、組織労働者と関係をもつ。
 世俗分離主義で、複数主義であるが、キリスト教左翼社会福音(ゴスペル)運動、特にカナダ連合教会と長い関係がある。
 しかし連邦党はゲイの権利、平和、環境保護を支持する新左翼との関係を含む幅広さがある。
 州新民主党はマニトバ(1999−2009年、ガーリー・ドアー)、ブリティッシュ・コロンビア(1991−1996年、マイケル・ハーコート)、
オンタリオ(1990−1995年、ロバート・レイ)、サスカチョン(1991−2001年、ロイ・ラマノフ等)、ユーコン(1996−2000年、
ピアス・マクドナルド)、ノヴァ・スコティア(2009−、ダレル・デクスター)で政権を担当。
 サスカチョンでは1944年にCCFとして政権を最初に担当。トミー・ダグラスの威光もあり1964−1971年を除き、2007年まで政権維持。

 1956年、それまでの2つの主要な労働会議の統合によりカナダ労働会議CLCが誕生した。
 これによりCLCと協同連邦党CCFとの間で組織労働者と政治的左翼の連合の話し合いが持たれた。
 その結果1961年、NDPが創設され、長い間サスカチョンのCCF州知事(1944−1961年)であったトミー・ダグラス
(1904年スコットランド生まれ、洗礼派牧師、1961―1971年)が初代指導者に選ばれた。
 (1960年、NDPが公式登録される前にウォールター・ピットマンが新党の名で補欠選挙で当選していた。)
 党への組織労働者の影響は党大会に反映し、役員選挙での労働者票は25%まで達した。
 1956年、CCFが採用したウィニペグ宣言(ケインズ経済と混合経済が基調)が1983年まで党の基本宣言として具体化された。
 1962年の最初の選挙では13.57%、19議席を獲得、1958年のCCF9.51%、8議席を上回った。
 1965年には17.91%、21議席、1972年には17.83%、31議席を獲得した。
 チャールズ・テイラー(哲学者、コミュニタリアン)は1960年代、ケベックのマウント・ロイヤルでNDPの連邦選挙候補となった。
 チャールズ・テイラージャック・レイトンのトロント大での指導教授でもあった
 1963−1968年の自由党のレスター・ピアソン少数政権を支持し、一般医療保険年金計画学生奨学金、新国旗をもたらした。
 ピアソン政権では40時間労働、2週間休暇、新最低賃金が採用された。
 ピアソンは外務大臣時代、マッカーシズムの攻撃に会っていたハーバート・ノーマンを擁護した。
 デイヴィド・ルイス(1971―1975)の指導のもと、NDPは連立に入らずピエール・トルドーの自由党少数政権を1972―1974年
の間支えた。
 これにより年金指標や王立企業カナダ石油の設立などいくつかの社会的進歩的提案の通過に成功した。
 1974年、NDPは進歩保守党と不信任決議を通過させ選挙にもちこんだ。
 しかしその結果、NDPの犠牲でトルドー自由党の多数派政権を生み出すこととなった。
 NDPは15.44%、16議席と15議席減らし、ルイスも議席を失い指導者を辞任した。自由党は141議席と32議席ふやした。
 エド・ブロードベント(1975―1989)の指導の下、NDPは1979―1980年のジョー・クラーク少数派政権の批判的役割を演じ、
ジョン・クロスビーの予算の不信任動議で進歩保守党政権を倒閣させ、選挙を余儀なくさせトルドー自由党を政権に復帰させた。
 1979年の選挙は17.85%、26議席と議席を増やした。進歩保守党は136議席増加、自由党は114議席に減少した。
 1984年選挙ではカナダ歴史上最多211議席を進歩保守党が獲得し、NDPは1972年より1議席少ない30議席を得た。
 自由党は激減し40議席になった。
 1987年の補欠選挙で3議席獲得、2議席は保守からで1議席は維持、これでオードリー・マクローリンが下院議員となった。
 1988年選挙でNDPは43議席(20.38%)を記録。自由党が自由貿易反対の恩恵をもっとも受け、政権交代の受け皿として出現した。
 進歩保守党の自由党の慣性への攻撃と、NDPと自由党への票の分裂のおかげで進歩保守党は再び多数派を確保できた。
 進歩保守党169議席(43.02%)、自由党83議席(31.92%)
 1989年、ブロードベントが連邦指導者から降りた。
 指導者選出党会議は主にBC州知事のデイヴ・バレットとオードリー・マクローリンで争われ、難渋の末、マクローリン(−1995)が
最初のカナダの女性政党指導者となった。
 マクローリンはケベックでの支持拡大に努力したが成功せず、1989年ケベック新民主党は主権主義綱領の採用により連邦党と
関係を断った。
 1990年の補欠選挙でケベックでNDPの名でフィル・エドモンストンが当選した。
 1993年、6.88%、9議席と激減した。これにはオンタリオとブリティッシュ・コロンビアの新民主党州政府の不人気が影響した。
 オンタリオでは10議席全て失い、ブリティッシュ・コロンビアでは19から17議席減らした。
 NDPは進歩保守党の崩壊の影響も間接的に受けた。進歩保守党は2議席に激減した。
 1988年の経験からNDPの支持者は進歩保守党を敗北させるため自由党へ投票した。NDPの伝統的西部中心部は思想的違い
にもかかわらずカナダ改革党へ移った。
 1979年から2004年までの国会議員であった、スヴェン・ロビンソンは1988年カナダの国会議員として始めてゲイを公然化した。
 ロビンソンは1995年指導者選挙に出馬、最初の投票で655票を獲得、アレクサ・マクドナウの566票、ローン・ナイストロムの514票を
上回ったがマクドナウのため撤退した。
 ロビンソンは1994年スウ・ロドリゲスの自殺幇助に関わった。また国歌での神という表現を批判し、積極的人権活動家としてもしられていた。
 アレクサ・マクドナウ(−2003年)が指導者となり、マクドナウのもと1997年、11.05%、21議席と回復した。
 これは自由党(174から155議席に低下)の失業保険の改訂が影響した。
 マクドナウは政治的色合いの中道化、トニー・ブレア第3の道へ党を移動させようとしているとみなされた。
 労働組合指導者は支持に乗り気がせず、NDPとの分裂さえほのめかし、彼女の辞職の要求もあった。
 2人の議員が他党(自由と進歩保守)へ移った。
 2000年、新民主党は医療の問題を争点にしたが大幅に支持を失い8.51%、13議席となった。
 自由党は経済情勢を有効に利用し、またカナダ人連合(改革党の後継)の結成により自由党が敗北しないよう多くの支持者が
自由党へ向かった。(自由党172議席、40.85%、カナダ人連合66議席、25.49%、ケベック・ブロック38議席、10.72%)
 2001年の党組織の大規模な改革を行い、左へ方向転換した。
 2003年、ジャック・レイトンビル・ブライキーを53.5%で破って指導者に選ばれた。
 2004年、15.7%、19議席、サスカチョンで初めて小差で新しい保守党(進歩保守とカナダ人連合が2003年合同)に敗北。
 自由党によって何人かの著名なメンバーが引っ張られた。
 自由党は135議席で少数派政権で、新民主党と合わせて154議席で新民主党はこの立場を健康管理の民営化との闘い、
京都プロトコルの義務遂行、選挙改革などのため利用した。
 2005年11月、自由党と新民主党の話し合い不成立で不信任が通った。
 2006年選挙は、17.5%、29議席と10議席増やした。補助金不正問題で自由党は103議席と敗北し、保守党が124議席で
少数政権となった。
 2008年10月選挙で8.1%、37議席で女性12名となる。保守党143議席と19議席増、自由党77議席と26議席減。
 保守党政権に対し、そのときどきの内容により反対、賛成、修正という態度をとっている。
 2011年選挙では30.62%、102議席と大躍進、18.91%、34議席と凋落した自由党を凌ぎ第2党となる。
 特にケベックでは2008年の1議席から75議席中58議席獲得(42.87%)、ケベック・ブロックは49議席から4議席となる。
 またケベックではミレヌ・フリーマン(1989年生)、シャルメヌ・ボルグ(1991年生)、ラウリン・リュウ(1990年生、中国系)、
マシュー・デュベ(1989年生)、ジェミー・ニコルス(1971年生)ら5名のマギル大学生が当選、それとともにアン・ミン・トゥ・クァク(1982年生)、
ホワン・マイ(1973年生)のベトナム系も当選。
 2012年ジャック・レイトンの死亡によりトマス・マルケアが新党首になる。
 2015年選挙は自由党の地すべり的勝利の影響で19.71%、44議席と後退、ジャスティン・トルドー(ピエール・トルドーの息子)の
自由党は39.47%、184議席。保守党は31.89%、99議席。
 2017年、ジャクミート・シンが党首となる。
 2019年選挙は15.98%、24議席。


 新民主党社会主義者幹部Caucus
  新民主党内の左派グループ、新民主党主流が右に移動し第2自由党になる危険性があるとし、ブレア流第3の道に反対。
  1998年トロントでバリー・ウェイスレダーRWLトロツキスト)、ショーン・カイン、ジョージ・ハータド、ジョー・フレクサー(元シオニスト、
 後イスラエルからカナダ移住、RWL参加、後CPC参加、後社会主義行動参加、トロツキストとしてNDP加入)らが結成。
  間もなくオンタリオ、アルバータ、BC、マニトバ、ケベック、ノヴァ・スコティアに支部結成。
  反帝国主義で米国政府の多くの行動を批判、NATOとNORADからのカナダ撤退主張、キューバ革命、ケベック独立支持、
 シオニズム反対。1960−1970年代のワッフル後継を主張。
  2001年マクドナウに対しマーセル・ハッチで指導者選挙に挑戦120対765票。2003年はベヴ・メスロで1.1%。
  代弁者はジョン・クラークタレク・ファター(パキスタン生まれ、ムスリム)、アリ・マラー、ピーター・コルモス
  トロツキスト組織の社会主義行動と強い関係があり、加入戦術とみられている。

 新政治発議Initiative
 新民主党主流が右に移動し第2自由党になる危険性があると考えるが社会主義者幹部ほど左ではない。
 労働運動より反グローバリズム、フェミニズム、ゲイ権利、環境問題を主張。
 2001年結成。2003年、NDP指導者選挙でのジャック・レイトンの勝利で目的を達したとし、2004年解散。
 ジュディー・レベック(元RWL、フェミニスト)、スヴェン・ロビンソン(ゲイ権利活動家)、ジム・スタンフォード、リビー・デイビス
などが参加。

 ワッフル(カナダ独立社会主義運動)
 1969年、学園急進主義、フェミニズム、カナダ民族主義(主として反米)、左翼民族主義の産物としてロバート・ワクサー
(オンタリオ工科大)と息子のジェームズ(ヨーク大)、メル・ワトキンス(トロント大)ら大学教授を指導者として結成。
 1971年、NDP指導者選挙にジェームズ・ラクサーでルイスに挑戦し3分の1を獲得。
 このためワッフルは新民主党から追放され1972年カナダ独立者社会主義者運動となる。
 1974年の選挙に失敗し、ワトキンスら主要人物は撤退し後NDP再参加。
 一部は1976年国際社会主義者となる。
 デスモンド・モートン(歴史学者)、デイヴィド・ルイスらがこれに対抗。

社会主義計画Socialist Project.〕
 左翼再建の呼びかけの応えた700の活動家が2000年秋トロントで会合。
 反資本主義、社会主義、国際主義。エコロジー、民主主義、階級政策、反抑圧、(民族)自立、教育された積極主義、建設能力を基本原理
 レオ・パニッチサム・ギンディンヴィヴェク・チッバーマイケル・レボヴィッツデイヴィド・ハーヴェイグレゴリー・アルボ
ハーマン・ローゼンフェルトらが参加。 

ケベック連帯
 2006年統一進歩勢力UFPと公民オプション(フランソワーズ・ダヴィド)が結成。
 ケベック連帯はケベック主権を支持。環境主義、左翼、民主、フェミニズム、別の国際主義、ケベック多様主義を標榜。
 フランソワーズ・ダヴィドアミール・ハディールが代表。
 内部にはコレクティブ(集合、集団)が存在、、これにはケベック共産党、ケベック共産党−カナダ共産党(カナダ共産党のケベック組織)、
左翼社会主義者(1983年RWLから分裂、再統一第4インター)、国際マルクス主義者傾向(リポスト、2009年参加)、社会主義選択労働者インター委員会
2009年旧ケベック共産党メンバーにより社会党運動として結成、ケベック連帯から公式には認知されていない)、国際社会主義者国際社会主義者傾向
連帯総書記ブノア・ルノーが指導)、批判的大衆Masse critique、友好的に減少Decroissance conviviale(2009年始め登場)などが含まれる。

 2007年ケベック選挙では3.36%獲得。2008年ケベック選挙でアミール・ハディールが議席獲得。

 統一進歩勢力UFPは2002−2006年存在。2002年進歩選択集合(1996年結成)、社会民主党(旧ケベック新民主党)、ケベック共産党
(2005年カナダ共産党からアンドレ・パリゾーが分裂)、ケベックの国際社会主義者が結成。2003年からアミール・ハディール(イラン生まれ)が代表。
 2003年選挙で1.06%。

 公民Citoyenneオプションは2004年ケベック女性連合の元指導者フランソワーズ・ダヴィド(フェミニスト)が結成、左翼、フェミニズム、環境主義、
別の国際主義を標榜。

 ケベック新民主党は1989年連邦党から離脱し、1994年社会民主党と改名。新民主党のケベック支部が1990年再建され、主に連邦政治に関係。

緑党
 1983年トレヴァー・ハンコックを指導者として結成。1984年連邦選挙に60名擁立し0.21%獲得。
 1997年ジム・ハリス、ラッシェル・スモールらと争い52%の支持でジョーン・ルソー(2003年新民主党へ)が指導者となる。
 1997年連邦選挙では79名で0.43%、2000年は111名で0.81%。
 2003年ジム・ハリス(元進歩保守党)がジョーン・モーガンらを破り指導者となる。
 2004年連邦選挙で全選挙区308候補で4.29%、2006年も4.48%。
 2006年党首選でエリザベス・メイが65%でデイヴィド・チェルヌシェンコジム・ファノンらを破る。
 2008年リベラル党議員のブレア・ウィルソンが緑党参加。2008年連邦選挙は6.78%、議席0.
 2011年連邦選挙でエリザベス・メイが初議席獲得。
 2015年選挙は3.45%で1議席。
 2019年は6.55%、3議席。

政権
 1930−1935年 リチャード・ケネット保守
 1935−1940年 マッケンジー・キングリベラル
 1940−1945年 マッケンジー・キング(リベラル)
 1945−1949年 マッケンジー・キング(リベラル)
 1949−1953年 ルイ・サン・ローラン(リベラル)
 1953−1957年 ルイ・サン・ローラン(リベラル)
 1957−1958年 ジョン・ディーフェンバッカー進歩保守党
 1958−1962年 ジョン・ディーフェンバッカー進歩保守党
 1962−1963年 ジョン・ディーフェンバッカー進歩保守党
 1963−1965年 レスター・ピアソン(リベラル)
 1965−1968年 レスター・ピアソン(リベラル)
 1968−1972年 ピエール・トルドー(リベラル)
 1972−1974年 ピエール・トルドー(リベラル)
 1974−1979年 ピエール・トルドー(リベラル)
 1979−1980年 ジョー・クラーク進歩保守党
 1980−1984年 ピエール・トルドー(リベラル)
 1984−1988年 ブライアン・マルルーニー進歩保守党) 
 1988−1993年 ブライアン・マルルーニー進歩保守党
 1993−1997年 ジャン・クレティエン(リベラル)
 1997−2000年 ジャン・クレティエン(リベラル)
 2000−2004年 ジャン・クレティエン(リベラル)
 2004−2006年 ポール・マーティン(リベラル)
 2006−2008年 スティーヴン・ハーパー保守党
 2008−2015年 スティーヴン・ハーパー(保守党)
 2015−      ジャスティン・トルドー(リベラル)


議会勢力の変遷
保守 進歩保守 リベラル ケベック・ブロック 新民主
1935年 4.10(17 29.84(39 44.68(173     9.31(7
1940年 1.00(7 29.24(36 51.32(179     8.42(8
1945年 4.05(13 27.62(66 39.78(118     15.55(28
1949年 2.31 29.65(41 49.15(191     13.42(13
1953年 5.40(15 31.02(51 48.43(169     11.28(23
1957年 6.5(19 38.5(112 40.5(105     10.6(25
1958年 2.59 53.66(208 33.40(48     9.51(8
1962年 11.61(30 37.22(116 36.97(99     13.57(19
1963年 11.92(24 32.72(95 41.52(128     13.24(17
1965年 8.32(14 32.41(97 40.18(131     17.91(21
1968年 4.43(14 31.56(72 45.37(154     16.96(22
1972年 7.55(15 35.02(107 38.42(109     17.83(31
1974年 5.06(11 35.46(95 43.15(141     15.44(16
1979年 4.61(6 35.89(136 40.11(114     17.88(26
1980年 1.70(5 32.45(103 44.34(147     19.77(32
1984年   50.03(211 28.02(40     18.81(30
1988年 2.09 43.02(169 31.92(83     20.38(43
1993年 18.69(52 16.04(2 41.24(177 13.52(54   6.88(9
1997年 19.35(60 18.84(20 38.46(155 10.67(44 0.43 11.05(21
2000年 25.49(66 12.19(12 40.85(172 10.72(38 0.81 8.51(13
2004年 29.63(99   36.73(135 12.39(54 4.29 15.68(19
2006年 36.27(124   30.27(103 10.48(51 4.48 17.48(29
2008年 37.65(143   26.26(77 9.98(49 6.78(1 18.18(37
2011年 39.62(167 18.91(34 6.05(4 3.91(1 30.62(102
2015年 31.89(99 39.47(184 4.66(10 3.45(1 19.71(44
2019年 34.34(121 33.12(157 7.63(32 6.55(3 15.98(24


<トロツキスト> 1930年代

社会主義行動同盟League for Socialist Action (Canada)
 カナダ・トロツキスト運動は1920年代末のCPC内左派モーリス・スペクターに起源する。
 スペクターは1928年コミンテルンへ派遣され彼とジェームズ・キャノンはトロツキーの国際左翼反対派と出会う。
 スペクターはトロツキー支持者となり1928年追放され1932年カナダ国際左翼反対派を結成し、これに中央書記局を追放された
ジャック・マクドナルドが参加。1930年代分裂、合体を繰り返し、1934年カナダ労働者党WPCとなる。
 1937年WPC多数派は協同連邦党CCFに参加。まもなくCCFを追放されCCFでの活動に反対したグループと統合し、1939年
社会労働同盟SWLを結成。第2次大戦後SWLは分解し、1946年にロス・ドーソンのもと第4インター支部として革命的労働者党
RWPとして再建。1952年RWPは公然活動をやめCCFに加入し始める。1953年、トロツキストの国際委員会ICFIと国際書記局
ISFIの分裂で多数派はキャノン派(ICFI)を支持、少数派はパブロ派(ISFI)を支持。1955年トロントの社会主義教育同盟SELと
ヴァンクーヴァーの社会主義情報センターSICが結成される。1961年これが合体し社会主義行動同盟LSA結成される。
 1968−1972年までLSAはワッフルに関係する。ワッフルのNDPからの追放後もLSAはNDPのとどまる。
 1970年代初期ICFIとISFIが統合した統一書記局USFIが分裂。学生運動活動家を主力とするマンデル支持派は革命的共産主義者
傾向となり、LSAを去り革命的マルクス主義者グループRMGに参加。
 LSAの少数派となったロス・ドーソン派は1974年社会主義者同盟を結成。
 1977年、RMG支持者とそのケベック分派は革命的労働者同盟RWLを結成し、USFI支部となる。

国際社会主義者
 国際社会主義傾向トニー・クリフ派)に参加。ワッフルに起源する。
 1972年、ヨーク大グループが左派シャハトマン主義の米国国際社会主義者と接触。1974年のワッフル崩壊後、1975年
独立社会主義者ISを組織、1976年、国際社会主義者ISと名称変更。
 1994年、新社会主義者グループが分裂。
 1980年代女性闘争に深く関与。1999年以降の反資本主義運動にも参加。反戦運組織化にも関係。
 1980年代中期学生運動に方向転換しオタワの学生に大きな影響を与える。

新社会主義者グループ
 1996年国際社会主義者内の政治的再方向化分派PRF(デイヴィド・マクナリー)が結成。やがて社会主義挑戦のメンバーが参加。
 ケベック独立を支持しケベックの左翼社会主義者と兄弟関係。
 2003年分裂により自治と連帯結成される。

革命的マルクス主義者グループRMG
 RMGは1973年トロント大の古いもぐらOld Moleグループとかつてワッフルで、いまだ新民主党にとどまっているマルクス主義者
グループの赤いサークルの統合により結成。引き続き社会主義行動同盟から革命的共産主義者傾向が分裂しRMGに参加。
 RMGは第4インター統一書記局マンデルタリク・アリグループを支持し、米国社会労働党グループに反対。

共産主義者同盟
 1977年、革命的労働者同盟RWLとして社会主義行動同盟LSA、革命的マルクス主義者グループRMG及びそのケベックの
片割れの革命的マルクス主義者グループGMRの統合により設立。
 トロツキスト党のRWLは第4インター統一書記局USFI派であった。グループは米国社会労働党とカストロのキューバを支持し、
トロツキストから離れた。RWLは新路線を支持しないメンバーを追放し、これらの多くは社会主義挑戦左翼社会主義者を結成した。
 1980年代晩期RWLはUSFIを離れSWP周辺を基礎とする新しい開拓者傾向の部分となった。
 1990年、共産主義者同盟と名を代える。

社会主義挑戦
 1980年代初期RWLのトロツキズムからの離脱により結成。最初ばらばらであったグループが社会主義行動連合としてまとまり
1988年ケベックの左翼社会主義者と合流し社会主義挑戦となる。
 1980年代にRWLがUSFIを離れてからUSFI支部となる。
 1994年、バリー・ウェイスレダー社会主義挑戦を追放されて社会主義行動を結成し新民主党社会主義者幹部と連携。
 1996年新社会主義者グループ結成でこれに参加、1999年独立組織を解散。左翼社会主義者自体は存続。

左翼社会主義者
 ケベックの社会民主党PDSが合流した連帯ケベック内トロツキスト分派。
 1983年、RWLを追放されたトロツキストが結成。2002年統一進歩勢力UFP参加。2006年UFPと公民オプションフランソワーズ・ダヴィド
が合流しケベック連帯結成。


ケベック・解放戦線
 1963−1970年活動(以降も活動はある)。160以上の暴力事件に関係、8人殺害、1969年モントリオール取引所を爆破し27人負傷。
 1970年10月危機を惹き起こす。(英国貿易使節ジェームズ・クロス、ケベック副首相ピエール・ラポルトを誘拐、ラポルトは殺害される)


<労働組合>

カナダ労働会議CLC Canadian Labour Congress〕

 1956年カナダ職業・労働会議TLCとカナダ労働会議CCLの統合により結成。
 冷戦と反共主義の勃興により米国でのCIOからの左派追放とAFL−CIO結成に伴いカナダでもTLCとCCLが合同した。

 TLCは1883年結成。1900年まで最初の全国組織となる。20世紀にIWWなどの左派の挑戦を受ける。
 1919年ウィニペグ・ストライキワン・ビッグ組合が1919年分裂、これは1922年多くのメンバー喪失し1956年CLCと統合。
 大不況で共産主義者支配の労働者統一同盟(1929−1936年)が結成される。コミンテルンの路線転換で多くはCIO参加。
 1935年自動車・鉄鋼・ゴムの未熟練労働者組織化を望む組合が分裂し産業組織会議CIO結成。
 CIOの産業別組合主義とTLC(とAFL)の職業別組合主義が競合。

 CCLは1939年産業組織会議CIO支持者がアメリカ労働連合AFLの要求でTLTから追放され全カナダ労働会議(1926年結成)との
交渉で1940年TLT対抗の組織として結成、創設指導者はすべて協同連邦党CCFのメンバー。

 TLC指導者Percy Bongoughは積極的にリベラルを支持したが1953年大会でのリベラルのR.K. Gervinと保守のA.F. MacArthurの
クロード・ジョドインへの敗北でTLCとCCLの政治的違いが縮小した。クロード・ジョドインはもともとはリベラルであったがリベラル指導部
と衝突し独立派となった。
 1950年代初期までにCCL指導部は10年のCCF派とリベラル・共産主義者連合の闘争の結果CCF支持者の手に落ちた。
 これによりTLCとCCLの統合が進んだ。

 公共部門に成長により1963年、独立組織カナダ公務員組合(57万)が結成される。
 1960年代末から1970年代初めの法改正で地方公務員が組合に参加できるようになりCLC加盟組織に参加。
 1990年代教師、看護婦組合がCLCに加盟。
 静かな革命の結果分離主義となったケベックの労働組合(1957年結成の労資協調のケベック労働組合連合が約50万で
組織労働者の44%、1921年結成の全国組合連合が30万で第2番目組織)の多くが不参加、そのほかカナダキリスト労働連合
(1952年結成、約4万)がCLC外にある。


   ⇒ ヨーロッパの左翼
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