<<デンマークの左翼>>


〔デンマーク共産党DKP〕 Danmarks Kommunistiske Parti 党史 仏語デンマーク語  共産主義者

 1918年社会民主青年同盟SUFエルンスト・クリスチアンセンシグヴァルド・ヘルベルグヨハネス・エルヴィグら)と、
社会民主党左派のマリー・ニールセンMarie Nielsen らが急進労働者と社会主義労働者党 Socialistisk Arbejderparti を結成、
トゲル・トゲルセンThoger Thogersenが指導者となる。1919年党大会でマルティン・アンデルセン・ネクソ
Martin Andersen Nexoが指導者となる。
 1919年、社会主義労働者党が分裂、マリー・ニールセンの左派は労働組合至上主義(サンディカリズム)的労働組合反対派連合
FSに参加、アーゲ・ヨルゲンセンら多数派の右派は左翼社会党VSPを結成。1920年VSPはコミンテルンに加盟しデンマーク共産党
と名を変える。

 FSは1910年クリスチャン・クリステンセンChristian Christensenアンドレアス・フリッツネルらにより結成されクリスチャン・
クリステンセンChristian Christensenが綱領を起草、労働組合至上主義。1922年消滅。
 20世紀初期はデンマーク経済が好調であったが第1次大戦後の労働者環境の悪化でサンディカリズム運動が高揚、
 1919年にはFSメンバーは頂点に達した。ストとデモの波で1918年8月FSの指導者クリステンセンを含むFSと
社会主義労働者党の幹部は逮捕、2年近く投獄されその後FSはより急進的となった。しかしFSの宗派主義と指導者の
能力不足でFSは孤立・停滞化した。1920年クリステンセンは訪ソ、1921年多くのFSメンバーはDKPに参加。

 青年社会主義者は3年前にトルヴァルト・スタウニング率いる社会民主主義者と分裂していた。
 第1次世界大戦中スタウニングは入閣した。
 1919年に社会民主青年同盟SUFの指導的メンバーと他の2つのグループ、社会主義労働者党と独立社会民主主義者が
加わって左翼社会党VSPが結成された。 
 党は2000人のメンバーから出発した。3グループとも社会民主主義者から分裂した。

 DKPとFSの統合の努力が行われ、著名な作家マルティン・アンデルセン・ネクソとコミンテルンの努力で1921年春
デンマーク共産主義連合が結成される。DKPはコミンテルンに加盟し、FSはプロフィンテルンに加盟していた。
 1922年党内闘争に襲われ2派は分裂。(Monter街党:DKPとBlaagaards街党:FS)1923年共産主義インターの介入で統一。
 1924年激しい党内不一致で衰退し4分の3のメンバーを失う。
 分裂の原因は色々あるが、ひとつは右派は地方を拠点とし、左派は首都コペンハーゲンを拠点としていた、またコミンテルンの
介入はデンマークの事情を無視しまた最初は右派、1927年からは左派を支持した、そして一方は右派は改良主義傾向でSUFの
後継で多くはスウェーデン左派社会主義に属していた。他方はアナルコ・サンディカリズムと反軍国主義闘士の後継であった。
 結局、2派の指導者の性格の違いの重要さを無視できない。
 指導者がいなくなったのでリヒャルト・ゾルゲRichard Sorge(1941年ゾルゲ事件の中心人物)がデンマークに送られる。

 1920年、デンマーク共産党DKPは議会選挙では0.4%獲得。
 1924年選挙では0.5%獲得。社会民主主義者は14万のメンバーを持ち、初めてトルヴァルト・スタウニング政権を成立させる。
 1929年多くの労働組合を組織し共産主義者の方向に向かわせるが選挙では0.2%と後退。
 同年コミンテルンが介入し新指導部選出、ハインリッヒ・ヴィーネッケが党統一に努力する。

 1919−1923年のデンマーク左翼では右派は左派社会民主主義のエルンスト・クリスチアンセン、左派は労働組合主義の
トルゲル・トルゲルセン、リハルト・イエンセンアーゲ・ヨルゲンセンはその中間に位置した。
 1920年代中期トルゲル・トルゲルセンはリハルト・イエンセンと左翼反対派を構成、1927年トルゲルセンは指導者となる。
 エルンスト・クリスチアンセンら右派は1930年に社会民主党に移っていった。
 1930年代トルゲルセン−イエンセン・グループとラルセン−マルティン・ニールセン−アルネ・ムンヒ・ペテルセンが激しい闘争を
繰り広げ、トルゲルセン・グループは右翼反対派と批判される。
 マリー・ニールセンは統一で排除されたが1923年再参加、トロツキーを支持したとして1929年再び追放され、1932年
に戻ったがモスクワ裁判に反対し1936年また追放された。その後1951年の死までデンマークとノルウェーのトロツキストと提携。
 マリー・ニールセンは1920年小雑誌”デンマークに社会主義は熟しているか”で評議会運動に立脚した社会主義戦略を発表。

 モスクワのレーニン学校帰りのアクセル・ラルセンAksel Larsenが1932年に党の指導権を握る。
 マルティン・ニールセンMartin Nielsenとアルネ・ムンヒ・ペテルセンArne Munch-Petersenが補佐。
 ラルセンは貧しい労働者の家庭に育ち両親の影響で社民党に参加、1920年イースター危機が急進左翼のザーレ政権解職)
への党とLOの対応(王制と妥協)に失望し左翼社会党に参加。
 ラルセンはスターリンとトロツキーの闘争でトロツキーを一時支持したためその後コミンテルンから不信の目で見られ、
モスクワからも党内でも不人気であったが人材不足で党の指導者となった。
 1927年党会議でアルネ・ムンヒ・ペテルセンArne Munch-Petersenはトロツキー批判を行い、1928年デンマークのコミンテルン
代表となる。1929年モスクワのレーニン学校に送られ、コミンテルン幹部に認められる。
 アルネ・ムンヒ・ペテルセンは1919年マリー・ニールセンとトルゲル・トルゲルセンのロシア革命の熱狂的報告を友人の
モーゲン・フォグMogens Fogと聞きデンマーク共産主義青年DKUに参加した。1935年議席を失いDKPのコミンテルン代表となる。
 1937年トロツキストのスパイとして逮捕・投獄され、1940年結核で死亡。
 作家のエリアス・ブレッズドルフは1930年学生同盟に参加、共産主義を知り共産党に加盟、エリック・スミスらと共産主義学生グループ
を指導。1934年イギリスに旅行しトム・マン、モーリス・ドップ、バートランド・ラッセルらと知り合う。以降著作活動を行いながら反ファシズム
活動を行う。戦後共産党に再加盟するがすぐに離れ、英国で大学教師となり、反核武装運動CNDなどに参加。
 トルゲル・トルゲルセンは1931年モスクワに送られ1936年まで戻らなかった。
 リハルト・イエンセンがラルセンの反対派となった。彼はコミンテルンと密接に関係をもった。

 1932年、資本主義経済の国際危機による失業者対策闘争の成果により選挙で1.1%獲得しアクセル・ラルセンAksel Larsen
アルネ・ムンヒ・ペテルセンが初めて国会に選出される。
 1936年、クリスチャン・クリステンセンがスペイン戦争やモスクワ裁判等によりコミンテルンと衝突し離党。
 1937年、約200人のデンマーク共産主義者を含む計550人のデンマーク人がスペインで共和国側で戦い約220人が死亡。
 1939年、選挙で2.4%獲得。
 女優のルート・ベルラウは1930年、ソ連に旅行し帰ってきて共産党に加盟、またベルトルド・ブレヒトと一緒に仕事をした。
 党員は1930年には千人で1939年には8千人、日刊紙は1940年に約1万、週刊紙は1941年に1万8千。

 1928−1931年に雑誌”モンデ”が発行され、ノルウェーのモット・ダグ、スウェーデンのクラルテと並行した左翼知識人グループ、
モンデ・グループMondegruppeが形成された。主要な人物はブロビ・ヨハンセンBroby Johansen、ハンス・キルクHans Kirk
エッベ・ネールガールドEbbe Neergaard、カルル・マッセンCarl Madsen、エリック・スミスErik Ib Smith(モスクワ裁判等でDKPを離れ
後に社会民主党で福祉国家思想の担い手となる)ら。
 モンデはマルクス主義の観点から文学・科学・経済・政治批評を行った。
 1931−1932年にDKPよりグループの雑誌”計画”と左派社会主義者グループの雑誌”前進”に分裂。モンデ出版社は
オットー・ゲルステッドOtto Gelsted、ネクソMartin Andersen Nexo、ハンス・シェルフィグHans Scherfigらの本を出版し続けた。
 1934年オットー・ゲルステッド、ハンス・キルクらと交流のあったボルゲ・ホウマンBorge Houmannがモンデ出版社の経営者となった。
 ホウマンは1927年DKPに参加、ファシズムと闘い、党の宣伝に努めた。戦後、土地と人民の編集長となった。
 社民党との協力に批判的で何度か党主流と衝突、1956年の党危機ではラルセン路線を支持したが離党せず以降著述に専念。

 1941年6月、ドイツによる占領によりスタウニング協力政権により禁止され、メンバーは逮捕された。
 同年11月、党は秘密雑誌”土地と人民”を発行し、戦争末期には12万部にまで達した。
 これよりDKPはKOPA(後BOPA)によりレジスタンスの組織化の主導的役割を果たす。
 デンマーク警察は5回もドイツの要求により共産主義者を逮捕した。
 国会議員のマルティン・ニールセン、作家ハンス・キルクを含む多くがホルセロド収容所に送られた。
 1942年、非合法共産党は国内でサボタージュ組織を組織化し始めた。
 これは主にスペイン内戦で義勇軍として闘った古参党員(ヴィリ・フグルサングら)により形成された。
 当初は武器が欠如しわずかにピストルとマッチが兵器でわずかに小範囲での行動しかなされなかった。
 1943年、1月25日、学生集団がアルコールを使用しドイツ軍施設を爆破した。
 これによりいままでそのエリート主義に対する偏見により共産主義者グループによって拒絶されていた学生たちが受け入れられた。
 これにより組織は共産主義者パルチザンKOPAから市民パルチザンBOPAと名を変えた。
 BOPAは1集団6−7人の5−6集団からなり、約300の戦闘集団があったと推定されている。
 集団は125−175人で1000回以上の作戦を遂行した。38名が死亡した。
 彼らは3−4ヶ月実践に加わってからスウェーデンに逃れる、あるいは逮捕された。
 BOPAの背後にはもっと多くの支援者がいた。彼らは偽造身分証明証を作成したり、武器、食料、隠れ家を提供した。
 彼らは工場、ドイツ軍施設を攻撃したり、武器を奪ったり逮捕された仲間の奪回を行ったりもした。
 1945年7月BOPAは解散した。
 1943年8月ドイツ軍隊がホルセロド収容所に移動したとき、デンマーク当局により243人の因人が放棄され、93人は脱出、
他の150人、男143人、女7人はシュトゥットホフ強制収容所に送られそのうち21名死亡。

 1943年結成の解放闘争のためのデンマーク自由評議会ではボルゲ・ホウマン、モーゲン・フォグらが重要な地位を占めた。

 1945年5月成立した社民党のヴィルヘルム・ブールを首相とする臨時連立政権には共産党からモーゲン・フォグMogens Fog
ら3名が参加した。
 DKPは1932年から1941年、1945年から1960年、1973年から1979年まで国会に議席を持っていた。
 国会議員選挙では1932年、17179票、1.1%、2議席と初めて1%台に乗せ議席獲得。
 1945年、255236票、12,5%、18議席1947年、141037票、7.0%、9議席、1950年、94532票、4.6%7議席、
1960年、72315票、1,1%、0議席。
 新聞”土地と人民”は1945年には最高6万部に達したが、1948年には2万7千部、1960年までに7千7百部にまで低下。
 戦後の党の主要人物はラルセン、モーゲン・フォグのほかイエスペルセン、イブ・ノルルンドIb Norlund、アルフレド・イエンセン、
Alfred Jensen、トルキド・ホルストThorkild Holst、マルティン・ニールセンMartin Nielsenなど。 
 1949年NATO加盟反対の最先頭で戦うが次第に冷戦で防御的立場を強いられる。
 1956年社民党政権が集団交渉に介入し全国ストライキが発生し党の地位が強化される。
 フルシチョフの秘密報告、ハンガリー事件、ユーゴ問題で党が揺れる。
 1958年強硬路線のクヌード・イエスペルセンKnud Jespersenと党議長アクセル・ラルセンAksel Larsenが対立、
クヌード・イエスペルセンが新議長となり、ラルセンは1959年、レジスタンス活動家モーゲン・フォグらと社会主義人民党結成。
 EC参加問題で党議長クヌード・イエスペルセン(1958−1977年議長、父はゲシュタポにより逮捕され収容所で死亡、本人も
1945年逮捕収容所送りとなる)の下、党勢は拡大し、1973年、110715票、3.6%、6議席となる。
 1975年、127837票、4,2%、7議席、1979年、58901票、1.9%、0議席、1981年、34625票、1.1%などとなっている。
 1960年代半ばに米国は党員を約5000人と推定している。
 クヌード・イエスペルセンの死亡により1977−1987年には労働組合活動家ヨルゲン・イエンセンJorgen Jensenが議長となる。

 1979年党から追放されたプレベン・ハンセンPreben Hansenは1986年共同進路Falles Kursを結成、社会主義者なども結集し
反EU参加運動を開始、ソ連、キューバ、リビア、更に朝鮮を支持。1987年選挙では2.2%、4議席獲得、共産党は0.9%、
1988年選挙で1.9%、0議席、共産党は0.8%となる。右翼政党繁栄党と協力し始め多くの党員の離散を招き2001年解散。

 オレ・ソーンは1981−1991年中執で市議を務め、国会議員候補ともなリ1989−1991年には赤−緑連合から立候補。
 1987年には強硬派の労働組合活動家ヤン・アンデルセンと共同党議長となった。1990年には強硬派と闘争となり党が分裂
したが翌年かれは離党し社会主義人民党に参加、1998年に国会議員に当選。

 1989年、共産党は左翼社会主義者VS、社会主義労働者党SAPと赤−緑連合を結成、1994年には104701票、6議席を
得ている。フランク・アーエン(1977−1982年共産主義学生指導者)、ブルーノ・イエルップ・ニールセンが議席確保。

 ソ連・東欧崩壊で1990−1991年に半分の党員を失う。オレ・ソーン社会主義人民党に参加、多くの古参党員は1987年
共産主義フォーラムを結成、これは後にデンマーク共産党KPiD)となる。

 DKPの現在の党員は200−300名と推定されている。
 2003年、ヘンリク・スタメル・ヘディンが議長となるまで1991年から集団指導体制をとった。
 1992年EU懐疑主義の6月運動を結成し1979−2008年EU議員となったイエンス・ペテル・ボンデJens-Peter Bonde
1975−1992年まで党員であった。

デンマーク共産党KPiD〕 Kommunistisk Parti i Danmark
 DKPから分裂して1990年設立。
 1990年、DKPはソ連及び旧東欧との関係の歴史的転換を行うとしたが、KPiDの設立者は反対した。
 KPiDの設立者はDKPのVSとSAPの統一名簿への統合にも反対した。
 KPiDはイデオロギー的にDKPより正統派と見なされている。
 最初共産主義者フォーラムという名で組織化されたが1993年デンマーク共産党KPiDに改名。
 国際的にはキューバと朝鮮民主主義人民共和国を支持している。
 指導者はベッティ・フリデンスビイェルグ・カールソン。

〔統一名簿−赤緑〕 Enhedslisten - De Rod-Gronne

 党は1989年、左翼社会主義者VS、共産党DKP、社会主義労働者党SAPの3党の選挙連合として結成された。
 DKPは1988年全国大会で広範な左翼グループ連合結成を決定した。
 当初はDKP、、VS、SAP、人道主義者、共同進路、その他の進歩グループの社会主義・緑連合として出発するはずだった。
 1991年、共産主義労働者党KAPが参加した。1年前にはKAPはDKPにより拒否された。
 連合はそれより個人参加により独立党として発展した。設立党は連合内で公式発言はしない。
 現メンバーの多数は過去に設立党に入っていない。
 党は社会主義青年戦線SUFと密接に協力している。
 1990年は54038票、1.7%で議席は確保できなかったが、1994年には104701票、3.1%で6議席獲得した。
 その後、徐々に低下し2001年には82685票、2.4%、4議席となった。2005年には114123票、3.4%、6議席に回復した。
 2007年の選挙の前、党は自分をムスリムで社会主義者と考えるアスマー・アブドルハミドを名簿に載せた。
 彼女はヘジャブを被り、男性と手を握らない。彼女の政治的と宗教に対する言明は批判の対象となった。
 この問題でペルニッレ・ロセンクランツ・テイルが党を離れ社会民主に参加。
 結果は74674票、2.2%で4議席となった。
 元左翼社会主義者のペル・クラウセン、共産主義者新聞土地と人民の元編集員フランク・アーエン、元共産主義学生書記で
弁護士のリネ・バルフォド、2002−2003年の高校生連合副委員長のヨハンネ・シュミット・ニールセン(1984年生)が議員となる。
 2009年EU選では候補を立てず、EU反対人民運動を支持、これは1議席獲得。
 2009年始めての代弁者にヨハンネ・シュミット・ニールセンがなる。
 ヨハンネ・シュミット・ニールセンは若い頃(1997年)から反グルーバリズム、フェミニズム、福祉問題で活動し名をはせた。
 2011年選挙ヨハンネ・シュミット・ニールセンがマスコミに露出したことにより6.7%、12議席と8議席増を勝ち取る。
 ヨハンネ・シュミット・ニールセンは47002票の個人票を得、全国的にもラース・ロッケ・ラスムセンの56285に次ぎ第2位であった。
 党は若者から強い支持を受けている。
 トルニング・シュミット政権支持だが予算では2回賛成し、2回反対。
 2015年選挙では7.8%、14議席。
 党員は1992年1082名、1995年1189名、2000年1945名、2005年3739名、2010年5111名、2012年9385名。
 ペルニッレ・スキッペル(1984年生、SAP出身、元左翼青年同盟活動家)、スティネ・ブリクス(1982年生)らがニールセンとともに党を担う。
 2019年、EU選に初めて参加、1議席獲得。国会選挙では6.9%、13議席。


〔左翼社会主義者VS〕 Venstresocialisterne
 1967年、社会主義人民党から分裂(プレベン・ヴィルヒエルムハンネ・レイントフトら)。
 ハンネ・レイントフトは社民党のペル・ヘッケルフトのやりかたが受け入れがたかった。
 ハンネ・レイントフトは1970年共産党へうつる。
 1984年国際社会主義者国際社会主義者傾向参加)が分裂。
 1989年から共産党、社会主義労働者党SAPと赤−緑連合を結成。
 非教条的革命的、マルクス主義を基礎とすると称する。
 1968年の選挙で57184票、2.0%、4議席を獲得。1971年には45979票で1,6%も0議席、1975年に63579票、2.1%
で4議席、以降1979年最高の116047票、3.7%、6議席、1987年には46141票、1.4%と前回の半分近くになり議席を失う。

共産主義者同盟KF)
 1973年、左翼社会主義者VS内部の”レーニン主義分派”が設立。
 1977年、レーニン主義路線を強く主張する”共産主義者同盟−政治”が分裂。
 1980年、KFは分解し、メンバーはVSに参加した。

国際社会主義者
 1984年左翼社会主義者から分裂。
 1985年同様傾向の革命的社会主義者Revolutionare Socialisterが左翼社会主義者から追放される。
 2006年集団的に赤緑連合に参加するが組織は維持。
 2015年赤緑連合から去る。


デンマークのトロツキズム> WW2
 デンマークのトロツキストの先駆者はマリー・ニールセンMarie Nielsenで個人的にトロツキーと関係を持ち、1929年DKPから
追放される。
 トロツキスト・グループ組織化の試みは1933年のヒットラー政権奪取でデンマークに逃れてきたドイツの左翼反対派のゲオルク・
ユンクラスGeorg Jungclasによる。彼はコペンハーゲンでドイツ人亡命者とデンマー−ク労働者に接触した。最初の重要な接触は
11月革命の講演のため1932年トロツキーをデンマークに招いたことのあるベルンハルト・ボッギルドBernhard Boggildであった。
 亡命者は通過的でデンマークには優秀なトロツキストはおらず亡命者は孤立。ユンクラスが接触した労働組合活動家にスヴェンド・
ヨハンソンがいた。ユンクラスはボッギルドをトロツキストにしようと試みた。トロツキズムに影響をうけた左翼社民は統一政権
の禁止の影響で1934年社会民主青年DSUを追放された。1930年代中期スヴェンド・ヨハンソンSvend Johansenに指導される
約20人の国際共産主義者(マルクス・レーニン主義)が存在した。DSUにポウル・モトPoul Moth,、タゲ・ラウTage Lau、オゲ・
キエルセAge Kjelsoらのグループが形成され約20人が社会主義労働青年SAUを結成し、雑誌”階級闘争”を発行。
 SAUは革命的青年組織国際局(ストックホルム・ビュロー)と接触。1935−1936年の雑誌”IKL国際青年情報”グループはイギリス
独立労働党支配のストックホルム・ビュローから撤退。イギリス独立労働党支持グループはSAUを解散し加入戦術によりDSUに参加、
レーニン主義労働者グループLAG結成。1936年ポウル・モトのグループがLAG参加、1937年LAGはノルウェー・トロツキストの
ジャネット・オルセンJeanette Olsen.と協力し小冊子第4インターナショナル発行。
 国際抗争の影響でモトのグループと亡命者中心の反モト・グループの抗争発生し更に1935年ボッギルドが自殺、1936年スヴェンド・
ヨハンソンが社民党に永久加入しグループは弱体化。
 1936年タゲ・ラウ、オゲ・キエルがスペインPOUMに参加、キエルはGPUの拷問に遭い辛うじてアナーキストに助けられる。
 ユンクラス周辺のグループはブランドラー派(ドイツ共産党右翼反対派共感グループ)等と関係。これらはモスクワ裁判に反対し
協力し1937年アルフレド・クルゼAlfred Kruse提案により社会主義協力活動を結成。トロツキストLAGは非トロツキストの
国際共産主義者グループIKを含んでいた。間もなく労働組合メンバーは社会主義協力活動から離れモト・グループは非協力的で
この組織は徐々に解散。モトはIKを国際共産党IKPとすることに成功、ユンクラスと他のグループはこれから離れる。
 ユンクラス・グループは1939年以前のDKUベルゲ・トロレBorge Trolle、組合活動家カルル・ハインリッヒ・ペテルセン
Carl Heinrich Petersenらと革命的社会主義者RS結成、モトのグループの多くは間もなくこれに参加し、IKPは失敗に終わる。
 RSはドイツ占領に対し抵抗闘争を行い1943年抵抗組織労働反対派を結成しかし1944年6月までにほとんどのトロツキストが
逮捕される。戦後1947年DKPの党路線不満グループとトロツキストが革命的共産主義者RK結成。
 RKは強制収容所経験の非公然活動重視グループと合法活動希望グループで分裂。もうひとつの問題は加入戦術でRKの半分
はこれを推進しやがて社民に同化。1948年にはモト周辺の少数グループが革命的共産主義者(第4インター)を称し、トロレの
グループはデンマーク国際共産主義者を組織。1949年RK(第4インター)は左翼社会主義青年VSUと合体し国際社会主義者IS
結成。デンマーク・トロツキストは1950年代独立労働党と協力したがやがで関係停滞。冷戦でほとんどトロツキスト運動壊滅。
 ISは1954年DKPに加入、モトらの少数が加入に反対しDKP、社民の外で活動。
 1955年ゲオルグ・モルトヴェドGeorg Moltved(ラルセンらの入閣に反対し1950年DKP追放)がマンデルによりFIに勧誘される。
 1956年のフルシチョフ秘密演説とハンガリー介入の結果デンマーク社会党Danmarks socialistiske Parti DSPが結成されこれに
旧DKPメンバーなどとISメンバーも参加。1959年のSF結成でDSP解散しDSP左派は革命的社会主義者RS結成。RSは徐々に
トロツキスト化を強めFI国際書記局のデンマーク支部となる。
 トロツキストはこの時期反帝国主義運動を強化、アルジェリア革命を支持、また核兵器反対運動左派活動家が結成した広範な
フォーラムで議会外運動の61グループ(SUF、DKU、DSU、RSなど参加)に参加、グループ61からは後に社会主義行動
SoaK Socialistisk Aktionが発生。RSとSoaKはベトナム反戦運動に大きな影響を与えた。
 1967年SFから左翼社会主義者VSが分裂しRSメンバーはVSに移った。SFの青年組織社会主義青年フォーラムSUFは
トロツキストが支配しVSに移った。1971年SUFはFIに加盟しRSは解散。1972年革命的社会主義者同盟RSF
Revolutionare Socialisters Forbundが結成される。これに不満なグループでVSで活動継続のグループはVS内で革命的社会主義者
グループ結成。
 SUFは1972年RSFと名を変え、マンデルにより承認され国際分析採用。マンデルは68年反乱が新世代前衛として結晶化したと
述べる。しかしやがてRSFはマンデルと意見相違となる。
 1981年RSFは社会主義労働者党SAPとなる。

社会主義労働者党SAP〕
 トロツキスト政党、再統一第4インター支部。1980年、革命的社会主義者同盟(1972−1980年)の後継として設立。
 赤−緑連合の共同設立者。
 1983−1988年書記のソレン・ソンデルガードは1994−2005年国会議員、2009年ヨーロッパ議会選挙で反EU人民運動
から当選。オレ・クラルップの病気で彼の代わりに2007年からヨーロッパ議会議員。
 反EU人民運動は1972年結成の政党横断組織。伝統的基盤は左翼と労働組合メンバーであるが無党派や非社会主義者メンバー
も存在。右派ヨーロッパ懐疑主義のデンマーク人民党とだけは距離を置いている。オレ・クラルップソレン・ソンデルガード
欧州統一左翼北欧緑左翼に参加。

(ブレキング通りギャング)Blekingegadebanden
 1970年代から1980年代に活動した共産主義者グループでデンマークで強盗行為を行いその金をパレスチナ解放人民
戦線に送金。
 グループは共産主義労働サークルKAK、共産主義青年同盟KUF、共産主義労働グループKAの中心メンバー。1972年

 1963年DKPは中ソ対立でモスクワについた。ゴットフレド・アッペルGotfred Appel は非公式に毛沢東思想の党内への
影響化のため共産主義労働サークルKAKを結成し党から追放され出版印刷会社を設立、新聞共産主義オリエンテリング
を発行、会社は毛沢東語録の出版で成功。同年KAKを党とする。
 1966年KAKはベトナム委員会結成。
 1966ー1967年共産主義オリエンテリングでゴットフレド・アッペルは豊かな国は第3世界の搾取で儲けており貧しい市民
でも資本家から買収されており第3世界の解放によりその富の源泉がかれるまで共産主義革命に参加しないとし、西側の
共産主義者はまず第3世界の解放を支援すべきという理論を展開。
 1967年DKPの青年グループ(デンマーク共産主義青年DKU)から毛派離脱。
 1967年、イエンス・ホルゲル・イエンセンがKAK参加。
 1968年、青年組織共産主義青年同盟KUF設立、新聞は青年共産主義者。
 1968年4月27日、KUFがベトナム戦争反対デモでの激しい行動を主導。
 1969年5月5日、KUFがジョン・ウエインの映画グリーン・ベレーデモに反対し激しいデモを行う。
 1969年、中国大使館はゴットフレド・アッペルと学生反乱で意見相違となり(アッペルはこれをブルジョア内部抗争とする)出版
契約取り消す。同年青年共産主義者がPFLP支持の主張を開始。
 1969年10月KUFメンバーが最初の西側の人間としてヨルダンのPFLP訓練所に2名参加。しかし2人は行動前に逃亡。
 1970年にはイエンス・ホルゲル・イエンセンらがヨルダンのPFLP訓練所に参加、同時期にはドイツ赤軍メンバーも参加。
 同年ゴットフレド・アッペルとウッラ・ハウトンもヨルダンのPFLP訓練所訪問。以降PFLPと関係をもつ。
 9月、KUFが世界銀行サミット反対の激しいデモを行う。
 1970年ゴットフレド・アッペルと妻ウッラ・ハウトンが国外へ、それによりKUFの過激行動おさまる。
 1972年7月、カナダの解放支援運動に影響され古着等を第3世界解放運動支援グループ運営の難民キャンプに送るアフリカへ衣服を
慈善財団設立し最初の船荷はアンゴラのMPLAに送られる。
 1972年12月22日から1973年1月10日の間KUFが国立警備貯蔵所を襲い銃器を奪う。
 1975年12月9日、1976年9月2日に強盗行為を行う。
 1977−1978年ウッラ・ハウトンが激しいフェミニズムを指導、女性KAK、KUFメンバーを友人と隔離させ自己批判と殴ることを強制、
これでほとんどの活動が休止状態となる。
 1978年KAK集会でウッラ・ハウトンとゴットフレド・アッペルが追放され、KAK分裂しゴットフレド・アッペルのKAKに対し多数派は
共産主義労働グループKA結成。KAは集団指導体制をとり、活発なギャングメンバーから構成される。
 1980年下見中イエンス・ホルゲル・イエンセン事故死。
 1981年7月すべてのKAメンバーがレバノンのPFLPを訪れる。
 1982年から輸送途中の金を主に強盗行為を働く。1987年11月3日最後の強盗行為、警官が殺される。
 1984−1988年に盗難兵器がPFLPに渡る。
 1988年4月13日、メンバーが警察に逮捕される。1988年5月2日多量の隠匿兵器が発見される。

共産主義労働者党KAP)
 1976年Benito Scocozza らが創設、1994年、解散。毛派。メンバーは赤−緑連合に入った。
 以前の指導者ペテル・ヨルゲンセンは公務員組合の書記で、以前の首相アンケル・ヨルゲンソンの息子。
 共産主義者同盟マルクス・レーニン主義KFMLは1968年結成されKAP結成で解散。

 1950年代の中ソ分裂の影響で1963年共産党を離れたメンバーが共産主義労働サークルKAK Kommunistisk Arbejdskreds
結成。KAK内に意見相違が発生し、多数派は堕落理論を採用。これに不満なグループは1965−1966年にKAKを離れ政治的
ホームレス化。
 文化大革命や、学生反乱によりSFからVSが結成されKFML結成の雰囲気が助長される。
 初期のKAKメンバーの一部はVSやSUFに参加。SUFはトロツキストと毛派グループに分裂。1938年毛派は多数派トロツキスト
の策動で分裂状況となる。1968年これらグループはコペンハーゲンで共産主義者同盟マルクス・レーニン主義KFML結成。
 1970年KFMLは内部抗争に陥いる。スターリン評価が問題となり少数派はスターリン批判を受け入れなかった。
 スターリン批判派は新しいKFMLを結成、コペンハーゲン地域のメンバーだけが残った。これに1971年青年組織Kumlが合同。
 1972年コペンハーゲンで住居占拠闘争類似の運動が起こり毛派志向の流れが展開、住宅組織マルクス・レーニン主義BOmlが
結成される。BOmlはKFMLの政治的指導を受け入れる。1973年BOmlはマルクス・レーニン主義統一同盟MLEとなる。
 数年間KFMLとMLEは競争し、ノルウェーの労働者共産党AKPmlやスウェーデンのSKPの認知を競う。
 1974年MLEは分裂、約半数がKFMLに参加、1975年MLEは解散しメンバーはほとんどKFMLに参加。
 メンバーは反EEC人民運動に参加。1975年コペンハーゲンの造船所闘争で重要な役割を果たし労働運動に影響をもつ。
 1976年共産主義労働者党KAPとなる。1978年中国共産党支持不満派がデンマーク共産党MLDKPml結成。
 KAPは選挙では成功できなかった。1979年は1万3千票で0.4%、1981年は約4千票。1980年代党内混乱と斜陽が生じる。
 1989年赤−緑連合に参加、1994年解散。

共産主義労働者同盟ML) Kommunistisk Arbejderforbund marxister-leninister
 1973−1983年に存在。多くはKFMLから来ている。コペンハーゲンの小グループ(ヨルゲン・ラルセンJorgen Larsen)と
オルフス、ホルセンス、オデンセの共産主義労働者グループ(ヨーン・マクス・ペデルセンJohn Max Pedersen の二つのグループ
の結びつきによる。

〔赤い母RODE MOR
 1969年に結成された(−1978年)文化集団。政治的・プロレタリア的芸術創造を目的とし音楽とグラフィックのグループが協力した。
 約10年間に渡り、ポスター、芸術作品、本、パンフレット、展示会、レコード、ロック・サーカスなどを生み出した。
 2002年に再出現。

REBEL
 左翼社会主義者青年同盟VSUの解散を受けて1992年に結成、メンバーはVSUのほかBz(住居占拠)運動社会主義労働者党
旧共産主義青年同盟からも参加。その後斜陽により2001年赤−緑連合の青年ネットワークに参加し社会主義青年戦線SUFを結成。
 1996年独立青年社会主義者の解散でメンバーはREBELに合流。


青年反乱
 オランダのプロヴォ運動がイエンス・ヨルゲン・オルセンヨルゲン・ナシュらによって導入され、ハシシ喫煙、空き地、空き家などを
占拠するSlumstormer活動などが行われた。また教育施設等の占拠も行われた。これらはロック音楽活動と結びつくことが多かった。
 主な出来事。
 1967年3月プロヴォがアマリーンボー宮殿広場で赤い爆弾を燃やし逮捕される。
 1968年4月コペンハーゲン大、心理学研究所が占拠される。
 1969年2月映画学校が占拠される。3月文化省が占拠される。
 1969年5月レネ・アルダー・ペテルセンビヨルン・ノルガードとボルセンでヌード・ハプニングを行う。
 1970年7月フルストルップでの新協会によるテュ・キャンプ(ウッドストックに刺激された祭り)
 1970年7月文化省階段で、クラウス・リフビエルグらがハシシ喫煙。
 1970年代から1980年代初期空き地、空き家などを占拠するSlumstormerが活動(後のBZ運動:スコッティング)。
 1970年9月世界銀行例会への大デモ。
 1971年9月クリスティアナが占拠されヤコブ・ルドヴィヒセンが自由空間宣言。
 1972年5月キム・ラルセン(ロック・グループ・ガソリンメンバー)らがSlumstormerとして逮捕される。


〔デンマーク社会主義人民党〕 Socialistisk FolkepartiSF
 1959年、前の共産党指導者アクセル・ラルセンAksel Larsenにより設立された。(英語版ウィキペディアではCIAが関与)
 ラルセンは1956年のソ連のハンガリー介入を批判して地位を下ろされた。
 ラレセンとSFはは米国志向の社会民主主義とソ連志向の共産主義との間の第3の道を模索した。
 DKPのかなりの部分がSFに参加した。
 1960年の選挙でSFは7議席獲得し(149440票、6.1%)、DKPはすべての議席を失った。
 1960年代SFは平和運動と核兵器と原子力に反対する運動に巻き込まれた。
 それは議会と草の根運動を結びつけることにより”2足で歩く”のを求めた。
 1966年の選挙で社会民主党とSFは一緒で多数派になった。SFは倍増し20議席になった(304437票、10.9%)。
 社会民主党少数派政府が形成され、SFが支持した。(赤い内閣
 協力は1年しか続かず、党内には大きな衝突が起こった。
 1967年、左翼社会主義者VSがSFから分裂した。1968年の選挙では11議席(174553票、6.1%)となり、VSは4議席
を獲得した。
 1969年、党議長がラルセンからシグルド・オマンに変わる。
 1971年の選挙ではVSの議席を奪い取り、17議席(262756票、9.1%)になった。
 1972年、党はデンマークのEEC加盟に対する国民投票キャンペーンを主導した。
 国民投票は僅差で加盟賛成となった。しかし反対運動はSFの党員と支持者を元気付けた。
 1973年の地滑り選挙の結果、6議席失い再び11議席(183522票、6.0%)となった。
 1974年議長がゲルト・ペテルセンGert Petersenに代わる。
 ゲルト・ペテルセンは党を共産主義と社会民主主義の間に位置づけ人民社会主義Folkesocialismeを公式化した。
 (ノルウェー社会主義人民党Sosialistisk Folkeparti、スウェーデン左翼党Vansterpartietが同様の傾向)
 しかしペテルセンは1977年ナチスとの過去の関係を暴露された。
 1975年の選挙でSFは2議席失い、VSは再び議席を得た。
 1977年にはそれまでの最低の7議席(120357票、3.9%)となった。
 1970年代SFは路線を変更し始め、環境と性差別問題に注力し始めた。
 1979年、SFは4議席増やし11議席(187284票、5.9%)となり、DKPは6議席失ない。0議席となった。
 1981年の選挙では21議席を獲得した。
 1986年の単一EC条項の国民投票ではSFは社民党、社会リベラル党(急進左翼)とECに反対した。
 投票は僅差の賛成であった。
 その結果、1987年の選挙では27議席(490176票、14.6%)と過去最高となった。
 しかし1990までに15議席(268759票、8.3%)まで減少した。
 1982年から1993年まで社民党、SF、社会リベラル党は議会多数派であったが、保守党ポール・シュルテルによる自由党
との連立政権が続いた。
 SFの平和及び環境運動と結びついて、このためSFは安全保障選択と環境政治に力を注ぐこととなった。
 1991年議長がホルゲル・ニールセンHolger Nielsenに代わる。
 1992年のマーストリヒト条約の国民投票でSFは反対運動を展開した。
 デンマーク国民は条約に反対した。
 1993年、SFは国会で他党と歴史的妥協を行った。SFはエジンバラ協定でなされたデンマーク人に対する譲歩を受け入れ、
第2回投票で賛成した。
 1991年の党会議でSFは新しい行動と原則の綱領を採用し、新しい時代へという標語で古い反EU路線から別れを告げた。
 1994年、SFは2議席失い、13議席(242398票、7.3%)となり、DKPとVSを含む緑赤連合は6議席で議会に入った。
 同年、党のEU議員(MEP)マルグレテ・アウケン(牧師)は党に相談しないで、北欧緑左翼からヨーロッパ緑の席に座ることを決めた。
 1998年のアムステルダム条約の国民投票では再び反対運動を行ったが成功しなかった。
 1993年から2001年までポール・ニルップ・ラスムッセンの社民党、社会リベラル党の少数政府を支持した。
 1995年青年組織社会主義人民党青年同盟SUFの左派が分裂し独立青年社会主義者を結成、これには
ペルミッレ・ロセンクランツ・テイル(SUFメンバーでなかった)らが参加。
 2000年のユーロの国民投票でSFは反対した。
 2005年の党議長選挙では左派路線のヴィリ・ソヴンダルVilly Sovndalが当選した。
 2006年の党内投票では66%の党員がEU憲法に賛成運動をすべきだとした。
 これは歴史的転換であった。
 2005年の選挙まで党は11議席(201047票、6.0%)まで減少したが、2007年の選挙で23議席(450975票、13.0%)
の第4党になった。
 2008年始めてラスムッセン内閣予算に賛成。
 2009年EU議会選は15.6%となり1議席増で新たにエミリー・トゥルネン(1984年生、2008−2009年社会主義人民党青年同盟
全国委員長)が最年少MEPとなる。
 2011年選挙は9.2%、16議席と7議席減らしたが、社会民主党、急進左翼との3党連立で政権初参加。
 2012年ヴィリ・ソヴンダルが党首を辞任し、党首選で多くの党指導者の支持を受けたアストリド・クラグを破りアネット・ヴィルヘルムセンが
党首となる。
 2014年党はゴールドマン・サックスの国有会社株の売却で連立を去る。アネット・ヴィルヘルムセが党首を辞任し、ピア・オルセン・ディールに交代。
 2015年選挙は4.2%、7議席。
 2019年、EU選では13.2%、2議席。国会選挙では7.7%、14議席。


選択
 2013年、ウッフェ・エルバックらが急進左翼(社会リベラル党)から分裂。緑政策採用。
 2015年選挙では4.8%、9議席獲得。
 2019年国会選では3.0%、5議席。


〔デンマーク社会民主党〕 Socialdemokraterne 歴史 社民 講座
 党は1871年、ルイス・ピオLouis Pio(1841−1894)、ハラルド・ブリックス(1842−1881)、ポール・ゲレフ(1842−1928)
により第1インターの支部として結成された。
 ピオは機関紙としていとこのブリックスと社会主義者(後にDet fri Aktueltとなる)を創設。
 ブリックスは社会主義の知識はなくただピオに従っただけであった。
 ピオは民話を勉強し、民話を通して社会主義に関心をもった。
 ピオは1871年ジュネーヴの第一インターナショナルのドイツ語話者支部の通信員となる。
 ゲレフは1864年学校教師としての教育を終了し教師と出版者として働いた。1871年ブリックスと知り合い、これでピオと知り合った。
 1871−1872年の冬と1872年の5月に党員は左官職人の労働時間制限のストライキを組織し、ピオブリックスゲレフ
らは仲間と逮捕され投獄され、支部は禁止された。
 1872年Socialisternes MarchUlrich Peter OverbyChristian Joseph Rasmussenにより作詞・作曲される。
 1876年ゴータ綱領に範をとったギムレ綱領が作成される。
 1877年、指導部に危機が発生し、ピオゲレフが賄賂をつかまされ移民した。
 1876年会議には6千の代表が参加したが1877年には2千2百しか参加しなかった。
 1878年新党社会民主同盟Socialdemokratisk Forbundが結成された。
 ピオらに代わってカルル・アンデルセンCarl Christian Andersen、ペテル・ホルムPeter Holm、クリステン・ホルドゥムChristen Hordum
らが新しく運動を担った。
 (1965年デンマーク社会民主Socialdemokratiet i Danmark、2002年社会民主主義者Socialdemokraterne。)
 クリステン・ホルドゥムChresten Hordum(1846−1911)が1880−1882年指導者となった。
 1882年ペテル・クヌードセンPeter Knudsen(1848−1910)が党議長となった。(−1910年)
 1884年までにクリステン・ホルドゥムとペテル・ホルムが国会議員となったが3年後には失った。
 1890年には票は倍増し3議席となった。
 1889年代には労働組合運動は強化され、協同組合が出現した。

 同年ロンドンでエンゲルスと知り合ったゲルソン・トリエルGerson Trierと世界を渡り歩いたニコライ・ペテルセンNicolaj Petersen
が週刊労働を発行し、党内の革命的反対派を形成したが2643対391で反対派7名は追放された。
 1890年彼らは革命的社会主義労働者党Det Revolutionare Socialistiske Arbejderparti(−1893年)を結成した。

 1890年代党の中心となったのはペテル・クヌードセン、フレデリック・ボルグビエルグペテル・サブロエ

 1898年、デンマーク労働組合連合LOが結成された。これに対する資本家団体も結成された。
 1899年労資紛争により雇用者とLOとの間に社会共同性に基づく相互交渉制度(9月協定)が確立し1960年までこれが続いた。

 1901年、ゲルソン・トリエル(1918年死亡)とニコライ・ペテルセン(1907年トリエルと別離、1911年自殺を図り数年後死亡)が
12年ぶりに党に復帰、反対派を結成し、雑誌社会主義を基礎に社会民主議論クラブと社会主義青年同盟を出発させヴィッゴ・
クリステンセンViggo Christensen、クリスチャン・クリステンセンChristian Christensenなどの支持を得る。
 1906年社会主義青年同盟(1904−1908年)が分裂、社会民主党から独立しクリスチャン・クリステンセンが指導。
 同盟内社会民主主義者は社会民主青年同盟SUF(1906−1921年)を結成。
 1916年スタウニングの入閣でゲルソン・トリエルは離党し、スイス亡命中のレーニンにより歓迎された。
 同じ入閣反対のマリー・ニールセンはとどまった。

 ペテル・クヌードセンは急進派を追放し、改良主義路線をとり、左翼と協力し保守党ヤコブ・エストルップ政権を倒した(1894年)。
 彼の現実路線はトルヴァルド・スタウニングThorvald Stauning(1910−1939年党首)に引き継がれた。
 1916年、急進左翼カルル・ザーレ政権にトルヴァルド・スタウニングが入閣し、1924−1926年にトルヴァルド・スタウニング
が最初の社会民主主義者首相となり、再度1929−1942年の死まで首相を勤めた。
 スタウニングはニナ・バングを世界最初の女性大臣に任命した。
 1924−1926年は少数政権、1929年には急進左翼党と連立政権を組み急進左翼ペテル・ムンクが外相(−1940年)となる。
 1920年以前の社会民主青年同盟SUFが共産党に移行したためデンマーク社会民主青年DSUが結成される。
 1924年、国会選挙で社会民主主義者は36.6%で最大党となった。1935年には46%となった。
 1934年スタウニングによる綱領人民のデンマーク(労働者階級から中間階層、市民も視野に含めた)が採択される。
 1940年4月からドイツ軍はデンマークに入り始め、1940−1943年に保護政権となる。
 クリスチャン10世とスタウニング政権は軍にドイツ軍との戦闘を中止させた。
 ドイツ占領下でヴィルヘルム・ブールが1942年5月から1942年11月まで統一政権を樹立、ヒトラーの不評をかい辞任。
 解放後の1945年5月から1945年11月にも統一政権。エリク・スカヴェニウス(非政党)が占領下で1942−1943年あとを継ぐ。
 ドイツ占領でデンマークの政権と国王は国内にとどまりドイツに協力。
 このため協力政治家は国民に不評でアクセル・ラルセン(DKP、収容所送り)、ハンス・ヘドフトハンス・ハンセン
(1955−1960年首相)、クヌード・クリステンセン(左翼党、1945−1947年首相)、ヨーン・クリステンセン(保守党、ロンドン在住)
らの著名なレジスタンス闘士を入閣させざるを得なかった。
 1945年31歳のイエンス・オットー・クラーグJens Otto Kragが草案した産業の国家統制を主張する新綱領明日のデンマーク
提案される。

 1945年選挙後、左翼クヌード・クリステンセンが首相となる。南シュレスヴィッヒ併合問題で1947年辞任。
 ハンス・ヘドフトHans Hedtoftが1947−1950年と1953−1955年首相となる。累進税を導入。1949年スカンジナヴィア
防衛同盟結成に失敗しNATO参加。
 ケインズ思想をもとに福祉国家建設が進められる。
 左翼エリク・エリクセンが1950−1953年保守党と連立。
 ハンス・クリスチャン・ハンセンが1955−1960年政権に就く。急進左翼、正義党と連立。(カンプマン政権でも連立)
 ヴィッゴ・カンプマン(1960−1962年)のあとイエンス・オットー・クラーグ 1962−1968年、1971−1972年が政権に就く。
 彼はEEC参加を推進、1972年国民投票が可決されたが国民が分裂し辞任。
 1966−1968年のSF支持の政権(赤い内閣)で反共・親米のペル・ヘッケルフトが重要な役割を果たし、SFの掘り崩しを目標と
し、彼はSFを分裂させることに成功したがその結果社民党は政権を失った。ペル・ヘッケルフトはベトナム戦争も支持した。
 1968−1971年急進左翼ヒルマール・バウンスガールドが首相、保守党、左翼と連立。
 アンケル・ヨルゲセン1972−1973年、1975−1982年、左翼党ポール・ハルトリングが1973−1975年。
 1982−1993年、保守党のポウル・シュリュテル左翼キリスト民主と連立。シンク・タンクCEPOS(自由経済擁護)設立。
 1993−2001年のポール・ニルップ・ラスムッセンが民営化推進。急進左翼と連立。

 2001年からは左翼アンデルス・フォグ・ラスムセンが保守党と連立、人民党支持で連立政権。
 選挙敗北で党首モーゲンス・リュッケトフトに交代。
 2005年選挙の敗北でモーゲンス・リュッケトフト辞任し、中央派のヘレ・トルニング・シュミットとやや左派のフランク・イエンセン
が争いヘレ・トルニング・シュミット(53%獲得)が新党首となる。彼女は以前のイギリス労働党党首ネイル・キノックの息子
スティーヴン・キノックと結婚。2007年選挙では2議席減となったが党首交代にはならなかった。
 2007年選挙、左翼、26.2%、46議席、社会民主25.5%、45議席、人民党13.9%、25議席、SF13.0%23議席、
保守、10.4%、18議席、急進左翼5.1%、9議席、新連合2.8%、5議席、赤・緑連合2.2%、4議席、キリスト民主0.9%。

 2011年選挙は28.4%、44議席と1議席減となるが、赤連合(連立結成党+統一名簿)が多数派を獲得し、急進左翼
社会主義人民党との3党連立政権成立し、ヘレ・トルニング・シュミットが初のデンマーク女性首相となる。
 2014年社会主義人民党が連立から去るが政権は支持。
 2015年選挙は26.3%、47議席。しかし左派連合は右派連合に敗北、ヘレ・トルニング・シュミットは首相と党首辞任。
 メッテ・フレデリクセンが党首となる。
 2019年EU選は21.5%、3議席で26.6%、4議席の人民党についで第2位、国会選は25.9%、48議席で第1位、
以下、左翼23.4%、43議席、人民党8.7%、16議席、社会主義人民党7.7%、14議席、赤緑連合6.9%、13議席、
保守6.6%、12議席、選択3.0%、5議席、新右翼2.4%、4議席、リベラル連合2.3%、4議席。
 メッテ・フレデリクセンがデンマーク史上最も若い首相となる。少数単独政権。

 デンマーク労働組合連合LOは産業労働者中心で134万のメンバー。デンマークの労働市場は法規制よりも労資自治が中心。

・トルヴァルド・スタウニングThorvald Stauning 1873年生−1942年死亡
 タバコ選別労働者として組合活動を行い1896−1908年タバコ選別労働組合の指導者となり、1906年国会議員となる。
 1910年社民党党首となる。1916−1920年ザーレ内閣の無任所大臣となる。1924年少数政権樹立。

・ハンス・ヘドフトHans Hedtoft 1903年生−1955年死亡
 幼くして父を失い、学校を出てリトグラフを学び間もなく政治に関心をもち16歳でアールフス徒弟協会議長となり、ついで新しく
結成された社会民主青年同盟に参加。1920年全国書記、1927年議長となる。この時期ドイツの社会民主党学校で学ぶ。
 1929年コペンハーゲンの社民党助手となる。1935年国会議員となり、1939年スタウニングの跡を継いで党首となる。
 1941年ドイツ占領で職を辞し、1945年復帰。1939−1966年党首。

・イエンス・オットー・クラーグJens Otto Krag1914年生−1978年死亡
 1930年社会民主青年同盟に参加、1930年代コペンハーゲンに移りコペンハーゲン大で経済学を学ぶ。
 戦中デンマーク供給指揮者と労働組合の経済問題助言者となる。
 1947年国会議員となり。大臣となる。デンマーク軍強化と1949年NATO加盟を推進。1962−1972年党首

・アンケル・ヨルゲセンAnker Jorgensen 1922年生
 1950年労働組合メンバーとなり1968−1972年労働組合連合SiDを率い1964年国会議員となる。1972−1987年党首。

・ポール・ニルップ・ラスムッセンPoul Nyrup Rasmussen 1943年生
 労働者の家庭に生まれ、1971年コペンハーゲン大で経済学位を得る。学生時代社会民主学生同盟Frit Forumで活動。
 1992−2002年党首。

<左翼・デンマーク自由党Venstre, Liberal Party of Denmarkとデンマ−ク・急進左翼Det Radikale Venstre

 左翼・デンマーク自由は1870年結成。戦後主に保守党を相手に1950−1953年(エリク・エリクセン)、1968−1971年
(急進左翼党ヒルマール・バウンスガールド)、1978−1979年(社会民主)、1982−1993年は保守党ポウル・シュリュテルと、
2001年からはアンデルス・フォグ・ラスムセンが政権に就く。1973−1975年はポール・ハルトリングが首相。

 急進左翼は1905結成、左翼の流れを汲む、主に社会民主と連立、1968−1971年にヒルマール・バウンスガールド
左翼党と連立。
 中道とされるが社会リベラルと公式には英語で称され、伝統的英語用法では急進リベラルとなる。
 リベラル・インターナショナル欧州リベラル民主・改革党のメンバー。
 急進左翼は英国のリベラル民主、オランダのD66、ルクセンブルクの民主党などと社会リベラルの代表とされる。
 そのほかオーストリア・社会リベラルイタリア急進主義者マルコ・パンネッラ)、ベルギー・ヴィヴァン、ドイツ・リベラル民主LD、
ベルギー社会リベラル、オランダ社会リベラル、ポルトガルリベラル社会運動などが部分的にせよこの傾向の政党である。
 思想的源泉はジョン・メイナード・ケインズウィリアム・ベヴァリッジなど英国の福祉国家建設に影響のあった人物たち。
  古典的リベラリズム(ロバート・ノジックルードヴィッヒ・フォン・ミーゼスフリードリッヒ・ハイエク)の否定的自由と放任主義に対し
 個人の積極的自由への国家の役割を認める、
  保守リベラルは経済的自由を権利の中心に置くが、社会リベラルは広い民主的権利を支持する傾向がある。

 保守党(保守人民党)は1915年結成、それ以前は右翼党1881年結成、1982−1993年ポール・シュリュテル左翼と連立。
 キリスト民主はポルノ制限、中絶解禁に反対し1970年結成、1982−1988年左翼党、保守党 1993−1994年、社会民主、
急進左翼と連立。


首相

1945年      ヴィルヘルム・ブール(社民) 社民、保守人民党、左翼、急進左翼、共産党、統一、自由デンマーク
1945−1947年 クヌド・クリステンセン(左翼)  左翼
1947−1950年 ハンス・ヘドフト(社民) 社民
1950−1953年 エリク・エリクセン(左翼)  左翼、保守人民党
1953−1955年 ハンス・ヘドフト(社民) 社民
1955−1957年 ハンス・クリスチャンセン・ハンセン(社民) 社民
1957−1960年 ハンス・クリスチャンセン・ハンセン(社民) 社民、急進左翼、正義党
1960年       ヴィッゴ・カンプマン(社民) 社民、急進左翼、正義党
1960−1962年 ヴィッゴ・カンプマン(社民) 社民、急進左翼
1962−1964年 イエンス・アト・クラーウ(社民) 社民、急進左翼
1964−1968年 イエンス・アト・クラーウ(社民) 社民
1968−1971年 ヒルマー・バウンスゴー(急進左翼) 急進左翼、保守人民、左翼
1971−1972年 イエンス・アト・クラーウ(社民) 社民
1972−1973年 アンゲ・イエグンセン(社民) 社民
1973−1975年 パウル・ハートレング(左翼)  左翼
1975−1978年 アンゲ・イエグンセン(社民) 社民、左翼
1978−1982年 アンゲ・イエグンセン(社民) 社民
1982−1988年 パウル・スリュタ(保守人民) 保守人民、左翼、中央民主、キリスト民主
1988−1990年 パウル・スリュタ(保守人民) 保守人民、左翼、急進左翼
1990−1993年 パウル・スリュタ(保守人民) 保守人民、左翼
1993−1994年 パウル・ニュオブ・ラスムセン(社民) 社民、急進左翼、中央民主、キリスト民主
1994−1996年 パウル・ニュオブ・ラスムセン(社民) 社民、急進左翼、中央民主
1996−2001年 パウル・ニュオブ・ラスムセン(社民) 社民、急進左翼
2001−2009年 アナス・フォー・ラスムセン(左翼)  左翼、保守人民党
2009−2011年 ラース・ロッケ・ラスムセン(左翼)  左翼、保守人民党
2011−2015年 ヘレ・トルニング・シュミット(社民) 社民、急進左翼(社会リベラル)、社会主義人民
2015−2019年 ラース・ロッケ・ラスムセン(左翼) 左翼(人民党、リベラル連合、保守が支持)
2019−      メッテ・フレデリクセン(社民)


右翼
保守 リベラル 左翼(リベラル キ民主 中央民主 正義 急進左翼 社民 社会主義人民 左派
1939年 1.8(3 17.8(26 18.2(30 0.5 2.0(3 9.5(14 42.9(64 2.4(4
1943年 2.1(3 21.0(31 18.7(13 2.2(3 1.6(2 8.7(13 44.5(66
1945年 18.2(26 23.4(38 3.1(4 1.9(3 8.1(11 32.8(48 12.5(18
1947年 12.4(17 27.6(49 1.2 4.5(6 6.9(10 40.0(57 6.8(9
1950年 17.8(27 21.3(32 8.2(12 8.2(12 39.6(59 4.6(7
1953年 17.3(26 22.1(33 5.6(9 8.6(13 40.4(60 4.8(7
1953年 16.8(30 23.1(42 2.0 3.5(6 7.8(14 41.3(74 4.3(8
1957年 16.6(30 25.1(45 2.3 5.3(9 7.8(14 39.4(70 3.1(6
1960年 17.9(32 3.3(6 21.1(38 2.2独 2.2 5.8(11 42.1(76 6.1(11 1.1
1964年 20.1(36 2.5(5 20.8(38 2.5(5独 1.3 5.3(10 41.9(76 5.8(10 1.2
1966年 18.7(34 1.6 19.3(35 2.5(4 0.7 7.3(13 38.2(69 10.9(20 0.8
1968年   20.4(37   18.6(34   1.3(0 0.7 15.0(27 34.2(62 6.1(11 3.0
1971年   16.7(31   15.6(30 1.9(0   1.7 9.1(17 37.3(70 9.1(17 3.0(0
1973年   9.2(16 15.9(28 12.3(22 4.0(7 7.8(14 2.9(5 11.2(20 25.6(46 6.0(11 5.1(6
1975年   5.5(10 13.6(24 23.3(42 5.3(9 2.2(4 1.8 7.1(13 29.9(53 5.0(9 6.3(11
1977年   8.5(15 14.6(26 12.0(21 3.4(6 6.4(116 3.3(6 3.6(6 37.0(65 3.9(7 6.4(12
1979年   12.5(22 11.0(20 12.5(22 2.6(5 3.2(6 2.6(5 5.4(10 38.3(68 5.9(11 5.6(6
1981年   14.5(26 8.9(16 11.3(20 2.3(4 8.3(15 1.4 5.1(9 32.9(59 11.3(21 3.8(5
1984年   23.4(42 3.6(6 12.1(22 2.7(5 4.6(8 1.5 5.5(10 31.6(56 11.5(21 3.4(5
1987年   20.8(38 4.8(9 10.5(19 2.4(4 4.8(9 0.5 6.2(11 29.3(54 14.6(27 4.5(4
1988年   19.3(35 9.0(16 11.8(22 2.0(4 4.7(9 5.6(10 29.8(55 13.0(24 3.3
1990年   16.0(30 6.4(12 15.8(29 2.3(4 5.1(9 3.5(7 37.4(69 8.3(15 3.5
1994年 15.0(27 6.4(11 23.3(42 1.9(0 2.8(5 4.6(8 34.6 7.3(13 3.1(6
1998年 (人民党)
7.4(13
8.9(16 2.4(4 24.0(42 2.5(4 4.3(8 3.9(7 35.9(63 7.6(13 2.7(5
2001年 12.0(22 9.1(16 0.6(0 31.2(56 2.3(4 1.8(0 5.2(9 29.1(52 6.4(12 2.4(4
2005年 13.2(24 10.3(18   29.0(52 1.7(0 1.0 9.2(17 25.9(47 6.0(11 3.4(6
2007年 13.96(25 10.4(18   26.2(46 0.9(0 自由連合
2.8(5*
5.1(9 25.5(45 13.0(23 2.2(4
2011年 12.3(22 4.9(8   26.7(47 0.8(0 5.0(9   9.5(17 24.8(44 9.2(16 6.7(12
2015年 21.1(37 3.4(6 19.5(34 0.8(0 7.5(13 選択
4.8(9
4.6(8 26.3(47 4.2(7 7.8(14
2019年 8.7(16)
2.4(4:新右翼
6.6(12 23.4(43 1.7(0 2.3(4 3.0(5 8.6(16 25.9(48 8.7(16 6.9(13
 左派は1966年までは共産党、1968年からは共産党と左翼社会主義者、1987年からは共同進路追加、1990年は共同進路と
赤緑連合、1994年からは赤緑連合


   ⇒ ヨーロッパの左翼
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