オランダのアナーキズム運動

[T] キリスト教アナーキズム

(1) 雑誌”平和”創刊とその運動開始

  1897年8月、トルストイの影響を受けた、ロデウェイク・ファン・ミーロップ(1876−1930)、フェリクス・オルト(1866−1959)、
 ダニエル・デ・クレルクJ.K.ファン・デル・フェールルイス・ベーラー(1867−1941)、ヤコブ・ファン・レース(1854−1928)らが
 キリスト・アナーキスト雑誌”Vrede(平和)”を創刊、愛の実践を論じた。

  1885年、ヤン・ストフェルとデ・クレルクがNederlandsche Bond voor Algemeen Kies- en Stemrecht (参政権運動)結成。
  1894年、オルトがNederlandsche Vegetariers Bond結成。(菜食主義)これには後にデ・クレルク、ファン・ミーロップが参加。
  ファン・レース、ファン・ミーロップは1897年Algemeene Nederlandsche Geheel-Onthoudersbond(GOB、禁酒運動)結成。
  1899年10月、ファン・レース、ファン・ミーロップはブラリクムに国際同胞団の共同村建設。
 これは1903年の鉄道ストライキの余波で終焉。
  1901年、オルト、ミーロップがエド・フィメンメンノ・ホイジンハJrと”純粋な生運動RLB”結成(倫理的生き方、禁欲主義)、この運動は
 1929年まで続く。
  1901年、デ・クレルクとF.W.ファン・エーデンが共同土地所有連合Vereeniging Gemeenschappelijk Grondbezit(GGB)結成。
  ファン・エーデンはソローを模した共同体ウォルデンをブッスムで1898−1907年開いた。

  1905年、雑誌”平和”に加え”平和雑誌”創刊、ファン・レース、オルト、ファン・ミーロップ、ベーラー、デ・クレルクはVrede運動を始め、
 国際同胞団の思想を広める。1907年、”平和雑誌”は”自由人(De Vrije Mensch)”と改名。
  1915年平和運動は自由人連合VMVとなる。1919年、雑誌”自由人”は資金難で廃刊となり、ファン・ミーロップ、ベーラー、オルトは
 キリスト社会主義者同盟BCSに参加。
  1920年、ファン・ミーロップ、ベーラーは宗教アナルコ共産主義者同盟BRAC結成参加。

(2) キリスト社会主義者同盟BCS結成

  アンケ・ファン・デル・フリース(エンカ)(1873−1939)はキリスト教学校で教師として経歴を開始、1897−1910年に月刊誌
 ”Ons Tijdschrift(我々の雑誌)”で作家として登場。1905年小説Het Komtで伝統的プロテスタントから社会主義への転換を示し、キリスト教
 サークルに騒動を起こす。
  1907年、ヤン・ヤンツェ(元キリスト民主党)、ダニエル・ファン・デル・ゼー(1880−1969)らとキリスト社会主義者同盟BCSを結成、
 機関紙”Opwaarts前進”。

  1902年、J.A.ブルインスJr.S.Kバッケル、S.ウィンケルらが主にフリースランド向けにキリスト社会主義週刊誌”Blijde-Wereld”創刊。
  Blijde-Wereldグループはエンカのグループや宗教社会主義者連合Religieus-Socialistisch Verbond(RSV)と協力するようになる。

  1909年、神学を学んだヨーン・ウィリアム・クロイト(1877−1943)、バルトロメウス・デ・リヒト(1883−1938)、アンネー・リンゼス・デ・ヨング
 (1883−1970)とクロイトの妻 トルース・ホヘルゼイルらがキリスト教社会雑誌”世界平和Wereldvrede”を創刊。
  4人は1910年、キリスト社会主義者同盟BCS参加。

  BCSは1912年以降、デ・リヒト、デ・ヨング、クロイトに率いられ初期から大きく変化、宗教アナーキストと伝統的キリスト教徒社会主義者に分裂。
  エンカは1912年SDAPに参加するが、1917年SDPに移り、更に同年、キリスト社会主義者同盟BCSに戻る。
  1917年、クララ・ヘルトルド・ウィッヒマン(1885−1922)がキリスト社会主義者同盟BCS参加。
  1917年、デ・リクト、ウィッヒマン、J.M.P.J.ヒーセン(1916年参加)、クリスティナ・ティメルらが国際反軍国主義連合(IAMV)参加。
  1919年、自由人は資金難で廃刊となり、ファン・ミーロップ、ベーラー、オルトはキリスト社会主義者同盟BCSに参加。
  キリスト社会主義者同盟ではデ・リヒト、デ・ヨング、ウィッヒマン、ヒーセン、ファン・ミーロップらのキリスト・アナーキストと正統派プロテスタントの
 エンカ・グループの対立が1919年頂点に達する。クロイトはボルシェヴィキに傾斜。

  1920年4月、デ・ヨング、ミーロップ、ベーラー、ウィッヒマンは宗教アナルコ共産主義者同盟BRAC結成、機関誌自由共産主義者。
  エンカ、ヤンツェらはキリスト教人民党CVP結成。キリスト社会主義者同盟は1921年4月解散し、クロイトはオランダ共産党CPN参加。
  デ・リヒトは1919年、キリスト社会主義者同盟と絶縁し、1924年、社会アナーキスト連合Sociaal-Anarchistisch Verbond結成参加。
  オルトはBRAC結成には参加せず、RLBに専念、1930年、ミーロップが死んでRLB解散。 

  BRACは1932年アナルコ・社会主義者同盟BASと改名、多くの宗教アナーキストは去る。デ・ヨングは1932年独立宗教共同体ORGを結成。

  CVPは選挙でうまくいかず、1924年キリスト社会党CSP、キリスト民主同盟と協力関係に入り、キリスト民主連合結成。

  BCSを去ったファン・デル・ゼーとベルフ・ファン・エイシンハ(1868−1920)は1912年、社会主義者連合Socialistisch Verbond結成参加
 (〜1914?)、1915年には宗教社会主義者連合Religieus-Socialistisch Verbond(RSV)結成、これにはSDAPのS.Kバッケル、エンカも参加。

  ウィレム・バニングはSDAP内の宗教社会主義者の代弁者として活躍し、Arbeiders Gemeenschap der WoodbrookersでBlijde Wereldグループや
 宗教社会主義者連合Religieus-Socialistisch Verbondと協力。AGWにはJ.A.エンヘルスも参加。


[U] 社会アナーキズム

  フェルディナンド・ドメラ・ニューウェンホイスはアナーキズムに傾斜し、社会民主同盟SDBは1893年分裂し、少数派はSDAPを結成。
  1893年、SDBは非合法活動を理由に禁止され、社会主義者同盟SBと改名。1896年ニューヴェンホイス率いる急進派はSBを去り、党組織なしで
 活動し、NASにむすびつく。1898年自由社会主義者De Vrije Socialist創刊。SBは1900年SDAPに参加。
  1919年、ニューウェンホイスが死亡し、自由社会主義者はヘルハルト・レインデルスが引き継ぐ。
  ニューウェンホイスはアナーキスト運動、政治的実践から離れ、1900年以降、声を聴くことは少なくなった。
  ニューウェンホイスはいかなる形態の組織も拒否し、地域の自由なグループだけを認めた。
  これに対し、多くのアナーキストはNAS、IAMV、De Dageraad(夜明け)、GOBなどに参加。

  以下、このニューウェンホイスと異なる運動路線をとったオランダの社会アナーキズムの概要。

(1) デ・アナーキストの発行

  J.C.H.P.メトヘフェル(1863−1933)は1885年SDBに参加。1888年ハーグのアナーキストが”デ・アナーキスト”発行。
  メトヘフェルはこれに協力、1892−1894年まで編集者となる。1985年にはベルナルト・レインドルプが編集者。
  1894年、SDBはSBとなり、これにメトヘフェル参加。期待に反しSBはアナーキストにならず、メトヘフェルは1896年(F.J.W.ドリオンと)、
 1899年”デ・アナーキスト”発行。ドリオンは個人主義志向で1906年自由リベラル同盟Bond van Vrije Liberalen参加。
  メトヘフェルはVereeniging Gemeenschappelijk Grondbezit (GGB).に参加。1909年新しいSBに参加。1912年にはSDAP参加。
  ヤン・ステリンハ(1870−1951)はメトヘフェルやヘンドリク・カスペルス(1869−1953)の社会アナーキストに反対。
  1896年An-Archieを発行。ステリンハはVrede(平和)に寄稿、また非暴力を批判し、ルイジ・ルケーニやレオン・チョルゴッシュに共感した。
  1902年米国移住。

(2) 社会主義者同盟SB

  (旧)SBからニューウェンホイスらが去っても、J.G.ホツェサムエル・ポトホイス、メトホフェルらは(旧)SBにとどまった。
  ホツェ、ポトホイスは1900年、SDAPに参加。

  G.L.ファン・デル・ズワーク(1858−1923)は旧SBに参加、1902年には共産主義者同盟結成を試みる。
  1908年、新しい社会主義者同盟SBに参加。
  ウィレム・ハフェルス(1865−1946)は旧SBに留まり、1902年、SDAP参加。1908年、新しい社会主義者同盟SB結成に参加。
  新しいSBは1913年消滅。ハフェルスはコルテクの社会党に参加。1896年以来De Dageraad参加。

(3) 自由愛好共産主義者連合Federatie van Vrijheidlievende Communisten

 ・B.D.G.C.レインドルプ(1870−1950)
  1889年、SDBベフェルウェイク支部参加。
  アナーキズムの影響を受けJ.C.H.P.メトヘフェルと知り合う。
  このためSDBから追放される。
  1894年から1896年にかけてDe Anarchistの編集に参加。
  1897年から1899年にはAn-archieを編集。
  1898年、SB参加。1898年末SDAP参加。1905年頃SDAPに居心地の悪さを感じ社会アナーキストとなる。
  1907年、アムステルダムの国際アナーキスト会議参加。
  カプトイン・モイスケン(1855−1920、結婚して1880年英国に行き、著名人と会い、作家として登場、やがてデ・クロニクや新案内に寄稿、
 1908年帰国、ベルラーヘ、ニーウェンホイス、デ。リクト、ウィッヒマン、レインドルプらと親交、De Dageraadメンバーとなる。)の影響を受ける。
  1908年、ゼーランドの雑誌De Toekomst編集。これでニーウェンホイスに批判される。
  1907年から De Dageraadと結びついたDe Vrije Gedachte発行。
  BRACと機関誌自由共産主義者De Vrije Communistに参加。
  1922−1926年、アナーキスト雑誌”警告Alarm” 、1927−1928年、その後続誌”新文化De Nieuwe Cultuur”発行。
  モイスケン(1920年)とウィッヒマン(1921年)の死で孤独となる。

 ・イザク・サムソン(1872−1928)
  SDB参加。
  1904年、 Internationale Anti-Militaristische Vereeniging (IAMV)メンバーとなる。
  1905年4月、自由愛好共産主義者連合Federatie van Vrijheidlievende Communisten結成参加。
  これは1907年、自由愛好共産主義者地域連合Landelijke Federatie van Vrijheidlievende Communistenとなり、1909年解散。
  1905年、サムソンはP.M.ウィンク、コルネリッセンと機関誌自由共産主義者編集。
  連合は1907年国際アナーキスト会議をアムステルダムで組織。サムソンはこれに参加。
  1909年、新しく1908年に結成されたSBに参加。

 ・P.M.ウィンク(1875−1924)
  1900年De Toekomstをアドリアヌス・ファン・エメネスから受け継ぐ、1902年編集者を辞める。
  1902年1月結成のKommunistenbon共産主義者同盟に参加、デ・コムニスト共同編集者となる。 
  Vereeniging Gemeenschappelijk Grondbezit (OGB)やInternationale Anti-Militaristische Vereeniging (IAMV)で活動。
  1905年、Federatie van Vrijheidlievende Communisten結成参加でDe Toekomst から撤退、機関誌Vrije Communistにイザク・サムソン
 クリスティアン・G・コルネリッセンアドリアヌス・ファン・エメネスと編集。(後に土地と自由Grond en Vrijheid)
  1907年運動から去り自由民主となる。

 ・G.L.デ・ランヘ(1869−1940)
  1897−1898年社会主義者同盟SB参加、1898年これはNi Dieu Ni Maitreとなる。
  1896年、ファン・デル・フェールの週刊誌”未来De Toekomst”の協力を始める。(1893年ゼーラントと西ブラバントのためにファン・デル・フェール
 発行開始。)1898年編集長となり1902年からP.M.ウィンク、ヤン・ホフと3人組で編集。コルネリッセンの協力でDe Toekomstの発行は上昇。
  1902年、南方グループ連合Federatie van Zuidelijke Groepen(De Toekomstとブラバントのグループを基礎)結成。
  1905年、これはLandelijke Federatie van Vrijheidlievende Communistenとなるがニーウェンホイスと対抗したためミッデルブルク・グループ
 はすぐに去る。
  1915年、Landelijke Federatie van Revolutionaire Socialisten in Nederland結成。De Toekomstが機関誌となりデ・ランヘが編集。
  1916年、工場監督となり運動から撤退。

 ・ヨハン・ヤコブ・ロデウェイク(1871−1942)
  1905年、Federatie van Vrijheidlievende Communisten結成に参加、書記となる。
  1907年、アムステルダムの国際アナーキスト会議で重要な役割を果たす。
  1911年、Landelijk Comite van de Federatie van Sociaal-Anarchisten結成でも書記となる。
  Federatie van Vrijheidlievende Communistenの機関誌De Vrije Communistの編集部参加。
  Landelijke Federatie van Revolutionaire Socialistenの機関誌De Toekomst編集員。
  これは1919年、Landelijke Federatie van Sociaal-Anarchisten in Nederlandとなる。
  1914年、NASと結びついたVolksdagblad創刊に参加、これは1915年、Het Volksbladとなる。
  1916年、Het VolksbladはDe Tribuneに合流。
  20年代初め社会アナーキストの組織崩壊、De Toekomst解散。(キッツ、ポストマ参照)
  社会アナーキストがFederatie van Sociaal-Anarchistenの新しい機関誌となるが長続きせず。

  1923年、NASの赤色労働組合インターナショナルRVI参加でこれに反対し、NASを去った人々がNederlandsch Syndicalistisch Vakverbond結成、
 これは国際労働者協会に参加。
  彼は健康悪化でこの過程に関係しなかったが運動に幻滅する。
  数年後、社会アナーキスト連合Sociaal-Anarchistisch Verbondに関係するが以降アナーキストあるいはサンディカリストに関係しなかった。

 ・ハルム・コルテクJr.(1872−1946)
  ロイトイェス・ティエルクにより指導される。
  彼は議会主義とこの反対派の対立で反対派を支持。
  1900年、すべての前の自由Recht voor Allen編集に参加。
  Vereeniging Gemeenschappelijk Grondbezit (GGB).参加。
  1907年、NAS書記となる。NAS週刊機関誌De Arbeid編集に参加するが急進アナーキストと対立し去る。
  1918年までDe Telegraaf編集。
  戦争末期に革命的社会主義者委員会Revolutionair Socialistisch Comite議長となり、社会党結成し、1918年下院議員となる。
  彼は議会活動が必要であるという見解に転換。
  1919年、クリスティナ・ティメルのパートナーになる。
  1931年、正義と自由Recht en Vrijheid党結成。

  *NASとRVIと共産党が対立、スネーフリートらは1927年離党し、ハーグとロッテルダムで別々に革命的社会主義者委員会RSC結成、
   同時にNASはRVIから去る。1928年、地域の委員会は革命的社会主義者連合RSV結成、ルル・ステインホイス、BKSP、社会党の
   旧メンバーと1929年革命社会党結成。

(4) Federatie van Revolutionaire SocialistenとFederatie van Sociaal-Anarchisten

 ・G.L.デ・ランヘヨハン・ヤコブ・ロデウェイク
  (上述)
  Federatie van Vrijheidlievende Communisten→Federatie van Revolutionaire Socialisten→Federatie van Sociaal-Anarchisten
 という変遷がうかがえる。

 ・ベルナルドゥス・ランシンクJr(1884−1945)
  NAS議長として1916年、共同労働者連合宣伝委員会Agitatiecomite der Samenwerkende Arbeidersvereenigingen から出現した
 革命社会主義者委員会RSC内急進派と衝突。
  NASの社会アナーキストと1915年12月Landelijke Federatie van Revolutionaire Socialisten (FRS)結成。(機関誌De Toekomst)
  FRS内で議会活動を主張するが受けれられず、コルテクと1918年2月社会党結成。
  1924年6月Nederlandsch Syndicalistisch Vakverbond (NSV)結成参加、書記となり機関誌デ・サンディカリスト編集員となる。
  NSV結成で社会党と絶縁。NSVはIAAに参加。1927年NASはRVIから去り、ランシンクは復帰を考えるが、多数派は反対。
  1929年、NSV多数派がデ・ヨングの影響で急進的反議会主義を採用し、ランシンクはデ・サンディカリスト編集員を辞め、NAS参加。
  革命的社会党に参加。1934年NASから追放される。1935年SDAP参加。

 ・ヘンドリク・カスペルス(1869−1953)
  1895年、De Anarchist編集員、1896年、De Arbeider編集参加。
   Vereeniging Gemeenschappelijk Grondbezit (GGB)に参加、フローニンゲン地域労働書記局(PAS)参加。
  第1次大戦中、Internationale Anti-Militaristische Vereeniging (IAMV)参加。
  1915年、社会アナーキストsociaal-anarchistenの連合federatie結成参加、SDPのIAMVと社会アナーキストへの影響に対抗。
  1924年、社会アナーキスト連合Sociaal-Anarchistisch Verbond(SAV)が結成され、デ・リヒトとデ・ヨングとカスペルス指導で
 自由社会De Vrije Samenlevingが発行され、半年後”De Arbeider”となる。
  戦後、Nederlandse Bond van Vrije Socialisten に参加、 機関誌”底辺社会主義Socialisme van Onderop”。

 ・コルネリス・キッツ(1873−1955)
  1909−1940年までNAS幹部。
  第1次大戦始めFederatie van Sociaal-Anarchistenで活動、機関誌De Toekomst編集員。
  A.L.コンスタンゼの影響で多くのアナーキストは労働組合に反対、キッツとポストマは少数派。
  キッツとポストマはすぐに編集員を辞める。
  1916年結成の革命的社会主義者委員会RSCにFederatie van Sociaal-Anarchisten参加。
  1920年CPN参加。キッツはNASのRVI参加(1923年)を支持。少数派はNSV結成(1923−1940)。
  キッツはNAS議長となるがスネーフリートが戻ってきて交代。
  1925年、ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト、スネーフリートの共産党からの分裂(Revolutionair Arbeiders Comite革命的労働者委員会RAC)
 で一緒に行動。ウェインコープらが党指導部から降ろされ自分の党を結成、これでRACの多くは復党。
  (*RAC:1924年5月、デ・カットは執行部からはずされ、グループは共産主義者闘争宣伝クラブ連合結成BKSP結成、7月、ヘンリエッテ・ローラント・
 ホルスト参加。1925年5月、NASのNVVへの合流指示を拒否してスネーフリート、バウマンはRAC結成。RACはすぐにBKSP合流。
  コミンテルンは3人組を執行部から交代させたため、ヘンリエッテ・ローラント・ホルストとスネーフリートらは共産党へ戻る。
  デ・カットらは復党拒否、RACは1925年7月選挙で12655票(0.41%)で選挙後解散、BKSPは1927年まで存続、デ・カットはSDAPへ)
  1927年、コミンテルンがNASのNVVへの合流を指示し、これでNASがRVIとの関係を断つ。(CPNとNASも絶縁)
  これでNSVと合同が交渉されるが失敗。)
  キッツはRSP、RSAPに参加。

 ・ヤン・ポストマ(1895−1944)
  戦争の姿勢に衝撃を受け、1915年SDAPから離れ、Federatie van Sociaal-Anarchistenに参加。
  社会アナーキスト青年組織Sociaal-Anarchistische Jeugd Organisatie (SAJO)と関係。
  SAJO多数派はヨハン・デ・ハースA.L.コンスタンセの影響を受ける、彼らはボルシェヴィズム、ソ連と労働組合に反対。
  ダニエル・ハウローゼらの少数がポストマの労働組合路線を支持。
  10月革命の影響で社会アナーキストの多くがCPNへ。アナーキズムとサンディカリズムの政治的衰退がはじまった。
  ポストマは共産主義者闘争宣伝クラブ同盟BKSPに参加。ウェインコープのCPN指導部が辞任させられ、スネーフリート、バウマン、ポストマ、
 ハウローゼらがCPN参加要求。デ・カットは反対。
  ポストマは1925−1929年のCPNの急進路線に反対。NVVメンバーのエド・フィメンポール・デ・フルートの発行する統一Eenheidに協力。

 ・エンヘルベルトゥス・バウマン
  1910年、ロッテルダムの地域労働書記局(PAS)創設に寄与。
  1914年、SAV(1916年以降はRSC)で活動。
  1916年、輸送労働者連合(NAS)議長となる。
  1920年にはCPN参加。
  1923年、NASはRVI参加。1924年CPNはNASのNVVへの合流を主張。
  1926年、NASはCPNとRVIと絶縁。
  1928年、Revolutionair Socialistisch Verbond (RSV)に参加、これは19129年RSPとなる。バウマンは両方の結成参加。
  1935年、RSPはOSPとRSAP結成。1940年NAS消滅。
  1945年、PvdAで社会民主センター結成参加。

  フィリップ・ブリネはオランダとドイツの共産主義左翼(第3章 ダッチ・トリブーネ派と第1次世界大戦(1914−1918))で
 革命的社会主義者連合Federatie van Revolutionaire Socialisten(FRS)は1915年12月結成としている。

  ロン・ブロムはSAVに参加したのをFederatie van Revolutionaire Socialisten (FRS) としている。

 *ロン・ブロムのDe oude Socialistische Partij van Harm Kolthekでは
  Federatie van Revolutionaire Socialistenの中心となったのはベルナルドゥス・ランシンクJrエンヘルベルトゥス・バウマンコルネリス・キッツ
 ダニエル・ハウローゼら。(*ダニエル・ハウローゼA.L.コンスタンセヨハン・デ・ハースらとともにSociaal Anarchistische Jeugd Organisaties
 (SAJO)参加。)
  20年代初め社会アナーキストの組織は崩壊し、De Toekomst(ヨハン・ヤコブ・ロデウェイクとJohan Scheuter編集)は消失。
  De Sociaal-AnarchistがFederatie van Sociaal-Anarchistenの新しい機関誌となるが発行は長く続かなかった。
  ヤン・ポストマダニエル・ハウローゼはCPNに参加。
  1920年にLandelijke Federatie van Sociaal Anarchistenに参加したのはバウマン、キッツ、ロデウェイク(書記)など。

(5) Sociaal Anarchistisch VerbondとNederlandsch Syndicalistisch Vakverbond

 ・アルベルト・アンドりース・デ・ヨング(1891−1970)
  国際反軍国主義連合IAMVに参加。
  1924年、社会アナーキスト連合Sociaal Anarchistisch Verbond結成参加。
  1936−1940年、Nederlandsch Syndicalistisch Vakverbond(NSV)書記。 
  1946年、底辺社会主義Socialisme van onderop!編集者。

 *1923年のNASのRode Vakbondsinternationale(RVI:赤色労働組合インターナショナル)参加問題で国際労働者協会IWA支持派がNSV結成。
  NSVは国際労働者協会IWA参加。NASは1925年RVI参加。
  1927年、CPNとRVIがNASのNVVへの合流を指示したのでこれに反対し、RVIから去り、CPNとも絶縁。
  これでNASとNSVの統合交渉が行われたが失敗。


(6) Mokerグループ

 ・P.A.コーエイマン(1891−1975)
  若くしてSDAPに参加するも1918年CPNに参加。
  1920年CPNを去り、レーン・ファン・デル・リンデとハーグの社会アナーキスト・グループ結成。
  1921年、Leen van der Linden、ヨハン・デ・ハースとマヨール・ヘルスペイク宅の爆弾攻撃に参加。
  1931年、A.L.コンスタンセとAlarmグループ全国連合結成。機関誌Alarmは1932−1933年と1937−1939年に出現。
  1934年、階級闘争を拒否し、社会の推進力はプロレタリアートでなく生産力または技術と考えるようになる。

 ・A.L.コンスタンセ(1899−1985)
  Kweekelingen Geheelonthoudersbond (KGOB)メンバーとなる。
  1919年Sociaal-Anarchistische Jeugd Organisatie (SAJO).参加。
  SAJO内の社会アナーキストと個人主義アナーキストの闘争で後者に加わる。
  De Opstandeling(Jo de Haas、1920)、Alarm, Anarchist monthly magazine(1922−1926)、 Revolt.(1926−1928)、
 などに関与。

 ・ヨハン・デ・ハース(1897−1945)
  1918年、社会アナーキスト青年組織(SAJO)に参加。
  1921年、マヨール・ヘルスペイク宅を爆弾攻撃に参加。
  彼はDe Vrije Socialist (1919〜)、Morgenrood(1920)、De Opstandeling (1920−1921)、Alarm(1922−1924)、
 De Wapens Neder (1923〜)、De Moker (1924−1926)、De Vrijdenker(1924〜)、 (from 1924)、De Arbeider(1924〜)、
 Soldatenalmanak(1925〜)、Revolt(1926−1927)、Anarchist Yearbook(〜1926)、De Branding(1925−1926)、De Ploeger
 (1927)、Liberation(1933−1936)などに書いた。


  1918年頃JGOBは1600人以上のメンバーで雑誌Jonge Strijd は14000部に達した。
  Herman Schuurman、Herman Groenendaal、Joop van der Eijnde、妹Joop van de Wetering、Mientje Pardon、Michiel Gaarkeuken
 らがいてこれらの名前はのちにMokerで出現。
  JGBにはRLBの影響があり、Felix Ortt、Lodewijk van Mierop、Jacob van ReesらがJGOBの集会の定期的講師であった。
  JGOBは倫理的運動であったが急進的グループが1920年、自由青年連合Vrije Jeugd Verbond(VJV)結成。
  JGOBは政治的に中立であったが、戦争で反軍国主義や兵役拒否が議論となり、ロシア革命とドイツの革命的雰囲気が影響。
  VJVは1923年、社会アナーキスト青年組織Sociaal Anarchistische Jeugd Organisaties (SAJO)から来たグループで強化された。
  SAJOは1916年アムステルダムで発生し、ハーレム、ベフェルウェイク、デルフトに、1919年、ロッテルダム、ハーグ、ザーンダムに広がった。
  ロシア革命後発展や労働組合の議論で新しい共産主義ロシア支持グループは共産主義者青年組織De ZaaierやNASに移った。
  SAJOはボルシェヴィキ反対派だけとなった。
  SAJOは短期間 De Opstandeling を発行しA.L.コンスタンセが編集。
  SAJOは解散し、メンバーはVJVや雑誌ALARM (1922−1926)周辺のグループを形成。
  VJVに加わったグループはアナーキズムの影響を受け、ALARMグループやMokerグループ(1923年発行)が形成された。
  1920年フローニンゲンのアナーキスト雑誌De ArbeiderがVJVの原則を発表、独立青年組織の統一を主張。
  VJVは軍役反対と軍役拒否を主張し始めた。
  1921年、ヘルマン・フルネンダールがハンガー・ストライキを行い、連帯の集会、デモ、ストライキが起きた。
  秋に P.A.コーエイマン、Leen van der Linden、Cornelis Eekhof (overigens geen VJV-leden) 、Jo de Haas(SAJO)がマヨール・
 ヘルスペイク宅を爆弾攻撃。
  1年後Herman SchuurmanがDe ArbeiderでVJVの原則を説明。VJVは青年の解放に焦点を置く。
  1921年以降VJVはHerman Schuurman がJoop van der Eijnde、Piet Vijlbriefと編集でVrije Jeugd 発行。
  帝国主義、軍国主義、君主制、国家、ファシズムとアルコールを資本主義の直接的結果として反対の立場を取った。
  1923年末にはVJV内に2つの雑誌をもつグループ発生。1923年12月、De Mokerを急進的アナーキストが発行。
  1924年2月から穏健なDe Kreet der Jongerenがハーレムとフローニンゲンのグループによって発行された。
  De Moker編集は1923年からJac. Handsome、Rinus van den Brink、Herman Schuurmanで始まった。
  1924−1928年に少なくとも500のメンバー。
  1925年、De MokerとDe Kreetの代わりに、共同誌De Branding発行、しかし協力はうまくいかず、急進グループ、特にアムステルダム
 のグループが反対、1926年De Moker再出現。
  穏健派はVJVを去りVerbond van Opstandige Jeugd (VvOJ)結成。これではハーレム(Wim Koppen、Odo Witsen)とフローニンゲンのグループ
 が重要な役割を果たした。
  De Mokerグループはほとんど固定した組織をもたず、編集部の3か月ごとの集会を開催。それと集会とペンタコスタ動員を組織する全国行動
 委員会があった。相互討論誌としてDe Pookがあった。
  資金難でDe Mokerが発行できなくなり運動も終焉。
  Moker青年は20代末で若者の到来はなかった。
  20年代末アナーキストと反軍国主義思想は魅力を失った。
  第1次世界大戦の恐怖は消え去り、革命の期待は去った。1920年代の繁栄から恐慌の時代に入り、生存が中心課題となり国家への
 依存が拡大。
  これらが原因でアナーキズム運動が衰退し、アナーキスト青年運動は消滅。
  北の若者は30年代初めまで宣伝活動を継続し、その後、一部はPiet Koojman周辺の新しいAlarm運動に参加。
  彼らは雑誌De Arbeider周辺のグループとNoordelijk Propaganda Comiteと密接に協力。
  Mokerメンバーの一部は共産党に参加、あるものは運動から撤退、なかには国家社会主義運動NSBに参加したものもいた。
  しかし多くはIAMV、NSV、アナーキスト出版連合VAU(Vereeniging Anarchistische Uitgeverij)、FIS(Fonds Internationale Solidariteit)、
 Bevrijding編集などに参加、30年代の新しいALARM運動に参加したものもいる。(Bart de Haan、Roel Drenth、Joop Richter)
  これではPiet Koojmanが重要な役割を果たした。
  あるものは非合法誌De Vonk、戦後はその継続のDe Vlamに関係。
  またSocialisme van Onderop、Recht voor Allenを創刊に参加。
  あるいはNico Reket、Joop de Roos、Theo Harsmanらは1952年、Federatie van Vrije Socialisten結成参加。


(7) 戦後

  戦前のNSVのメンバーの一部が1945年中頃、ルドルフ・ロッカー協会Rudolf Rocker Stichting結成。
  機関誌”底辺社会主義Socialisme van onderop”発行。
  これから1946年、オランダ自由社会主義者同盟De Nederlandse Bond van Vrije Socialisten (NBVS)が出現。
  戦前の自由社会主義周辺のグループが1945年自由社会主義者連合 Vrije Socialisten Vereniging(VSV)結成。
  自由社会主義は依然ヘルハルト・レインデルスの手にあった。
  NBVSとVSVが1952年合流し、オランダ・アナーキスト連合Federatie van Anarchisten in Nederland(FAN)結成。
  機関誌Recht voor alien。合流には主導権を奪われることを恐れたヘルハルト・レインデルスが反対していた。
  合同による運動強化は実現しなかった。少数が自由社会主義に忠実なままであった。
  FANは1954年Federatie van Vrije Socialisten in den Niederlandenとなる。
  解放でフローニンゲンではルドルフ・ロッカー協会が結成されたが、北部ではアナーキスト思想はあまり関心がもたれず、
 北部地域自由社会主義Noorder Gewest Vrije Socialisten (NGVS)が結成された。NGSVは始めルドルフ・ロッカー協会の
 副組織と考えられ、メンバーは底辺社会主義を購読した。
  FAN反対派が1953年 Vrijheid 発行したが1956年消滅、以降De Vrije Socialistを購読。


 ・BOT, Lambertus Johannes(1897−1988)
  1917年、Internationale Anti-Militaristische Vereeniging (IAMV)参加。
  1921年、Internationaal Anti-Militaristisch Bureau tegen Oorlog en Reactie(IAMB)結成。
  1929年、NSVに参加。
  1945年結成の Rudolf Rocker Stichtingの書記となり、1946年、Nederlandse Bond van Vrije Socialisten(NBVS)議長
 となる。1947−1949年、NBVS機関誌 Socialisme van onderop!編集者となる。
  再建されたNSVに参加。
  50年代、平和運動De Derde Wegで活動。
  1956年、平和社会党参加。
  1973年、政党急進参加。


[V] 自由社会主義者

 ・ヘルハルト・レインデルス(1876−1950)
  レインデルスは配管工で、自由社会主義者De Vrije Socialistの影響を受け、1900年頃アナーキストの幹部に参加。
  1903年の鉄道ストライキで防衛委員会に参加、J.アウデヘースト、W.H.フリーヘンと対立。
  1903−1904年には人民紙Het Volksdagbladに寄稿。また週刊小冊子のNaar de Vrijheid(自由のために)を編集。これは1923年まで存在。 
  1904年6月のアムステルダムの国際反軍国主義会議に参加し、国際反軍国主義協会IAMV結成に加わる。
  レインデルスは組織自体には反対ではなかったが永続的組織には反対。
  IAMV参加者(アナーキスト)は1905年、Federatie van Vrijheidlievende Communistenに結集、これにドメラ・ニーウェンホイスと
 自由社会主義者は反対。
  1913年、赤い映画館De Roode Bioscoopを創設し、この指導者となる。
  戦争でIAMV共同労働者連合SAVを結成し、これは革命的社会主義者委員会RSCとなる。
  1917年、RSCが分裂、レインデルスはDe Sociaal-Anarchistische Actie社会アナーキスト行動SAAを結成。
  1919年、ドメラ・ニーウェンホイスの死で自由社会主義者(1898−)の編集を握る。
  1921年、投票義務に対し、民主主義を嘲笑するためにアムステルダム市選挙でガラクタ党(Rapaille Partij)結成、2名当選。これに関わった。
  (1927年には同じく投票義務に反対する反投票義務党 Anti-Stemdwangpartij がPieter Wilhelm Oversteegenによって結成された。)
  1940年のドイツ占領でも自由社会主義者は禁止されなかった。
  戦後、自由社会主義者と底辺社会主義Socialisme van Onder Op!との合流の試みは失敗。

 ・クリスティアヌス・ヘラルドゥス・コルネリッセン(1964−1942)
  奨学金により生地の国立の教員養成学校に入る。卒業後一時臨時教師をとなり、ミッデルブルフで教師となる。
  生育環境のカトリック信仰から離れる。
  ミッデルブルフで普通選挙投票権のためのゼーラント宣伝クラブに参加、機関紙”人民の声De Volksstem”を編集。
  人民の声はコルネリッセンも創刊に関わり1889年5月発刊。”光と真実Licht en Waarheid”として継続。
  1891年、M.W.F.トレブに対しカール・マルクスの急進批判を書く。
  ”すべてのための正義Recht voor Allen”に偽名クレメンスとして書く。
  SDB幹部となりまた”すべてのための正義”の共同編集者となる。
  議会派と反議会派の論争でニーウェンホイス側にたつ。
  彼はまた徐々に個人主義に傾斜するニーウェンホイスに批判的になる。
  1891年ブリュッセル、1893年チューリッヒ、1896年ロンドンの国際会議に参加。
  NAS結成で一時幹部となる、社会主義者同盟SBにも参加するが1898年5月フランスに去る。
  初めのころはG.L.ファン・デル・ズワークなどと連絡していた。
  1905−1907年はDe Vrije Communistの編集参加。(始めはサムソン、エメネス、ウィンク、のちにロデウェイク、レインドルプと)
  Federatie van Vrijheidlievende Communisten(1905年:メンバー5名、1907−1908年:26名)の機関誌。
  雑誌Grond en Vrijheid(1906−1907年)に一連のFederatieの原則宣言を書き、右派議会主義改良主義派と左派組織解消派を批判。
  1908年以降はオランダの労働運動に関わらなくなる。

 ・サムエル・ウォルフ・コルトフ(1854−1932)
  SDBに参加しニーウェンホイスの支持者となる。
  SDBの禁止で1894年12月、社会主義者同盟SB結成。
  1898年、ニーウェンホイスに従いSBから去る。ニーウェンホイスを助け、新しい雑誌自由社会主義De Vrije Socialist編集に協力。
  1896−1910年に雑誌Ontwakingに投稿。1905年からNASの雑誌De Arbeidで働く。
  1910年、Federatie van Sociaal-Anarchisten議長のティエルク・ロイティエスと論争。
  (*ロイティエスの項では1909年末、アナーキスト運動の全国連合結成を試みたとある。)
  1919年のニーウェンホイスの死で自由社会主義を支配するが、1920年以降関与しなくなった。
  人生末期には古い闘士と接触しなくなった。





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