オランダとドイツの共産主義左翼(1900−68)   フィリップ・ブリネ
   レーニンでもトロツキーでもスターリンでもなく
     すべての労働者は自分で考えねばならぬ

  校正も行っていないので間違いや問題が多いとおもうがとりあえず公開。
  とりあえず第2部まで、この時点でパンネクークは政治活動から撤退し、ホルテルは亡くなって、基本的にはこの運動は意味喪失している。
  なおオランダ・マルクス主義については以下も参照
    ・アントン・パンネクーク  ⇒アントン・パンネクークの人と思想(人間と思想と活動の詳しい論評)
                     →アントン・パンネクーク小伝(生涯・事績の概要)
    ・ヘンク・スネーフリート   ⇒ ヘンク・スネーフリート小伝
    ・ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト ⇒ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト小伝
    ・ヘルマン・ホルテル ⇒ヘルマン・ホルテル小伝
    ・フランク・ファン・デル・フース ⇒フランク・ファン・デル・フース小伝
    ・オランダ初期社会主義者群像


  <その1>


 1部:トリブーネ主義から共産主義へ(1900−18)
  1章:トリブーネ潮流の起源と形成
   オランダ史の短い輪郭
   労働者運動の開始
   ドメラ・ニューヴェンホイス、SDBとSDAP
   ドメラ・ニューヴェンホイスと評議会主義の出自
   SDAPの始まり・・3世代のマルクス主義者・・トルールストラと党の右派
   マルクス主義の最初の修正主義との闘争
   1903年運輸ストライキ
   トリブーネ運動の誕生
   デフェンテル臨時大会での分裂(1909年2月13−14日)
   1914年までのオランダにおけるSDPの活動
   SDPと植民地問題・・トルブーネ派とインドネシアのスネーフリート
   オランダ左翼とそのドイツ急進主義への影響
  2章:第2インターナショナルでのパンネクークとオランダ・マルクス主義
   オランダにおける急進マルクス主義の哲学的基礎
   プロレタリア革命へのイデオロギー的障害
   大衆ストライキからプロレタリア革命へ
   戦争か世界革命か?
  3章:オランダ・トリブーネ潮流と第1次大戦(1914−18)
   戦争に直面する社会民主とトリブーネ主義
   戦争に対するホルテルの政治的及び理論的闘争
   SDPとツィンメルヴァルト協議会
   SDPの発展:革命と日和見主義の間
   1917年のSDP:ロシア革命へのその態度
   1918年:革命と日和見主義の間。オランダ共産党の誕生

 2部:オランダ共産主義左派と世界革命(1919−27)
  4章:コミンテルンでのオランダ左派(1919−20)
   1919年のコミンテルンでの左派潮流
   ドイツ問題
   アムステルダム事務局(1919−20)
   転機の第2回大会:幼稚さそれとも共産主義の致命的な混乱
   共産主義左派のレーニンの本の共産主義における左翼小児病への議論
  5章:ホルテル、KAPDそして共産主義労働者インターナショナルの創設(1921−27)
   世界革命の後退・・1921年クロンシュタット悲劇と3月行動
   ホルテル、KAPDとKAI結成
   KAPDの分裂とその国際的結末

  −以下抄訳−

 3部:1927年から1940年のGIC
  国際共産主義者グループ(左翼共産主義から評議会共産主義へ)
   GICの起源
   GIC出版
   階級闘争への介入とGICの読者(観衆)
   GICの機能化:作業グループ
   GICの活動家
  6章:GICの誕生(1927−33)
   KAPDと衝突
   GICと評議会共産主義者の国際的再結集(1929−32)
   ヒトラーの権力掌握とその結果。 GICとドイツの状況
   オランダ評議会共産主義とファン・デル・ルッベ
  7章:新しい労働者運動へ?評議会共産主義バランス・シート(1933−35)
   1933年以降のドイツ評議会共産主義・・GICとの関係・・評議会主義者潮流の定義
   ボルシェヴィズムに関するテーゼの採用(1934)
   新労働者運動へ向かって?・・GICのテーゼ(1935)
   革命の経済版?基本原理
   反レーニン主義哲学?パンネクークの本:哲学者としてのレーニン
  8章:国家資本主義へ:ファシズム、反ファシズム、民主制、スターリン主義、人民戦線:不可避の戦争(1933−39)
   資本主義崩壊理論
   ファシズムと反ファシズム
   国家資本主義の問題
   階級闘争と人民戦線:新しい道
   不可避の戦争?・・戦争と戦争経済
  9章:オランダ国際共産主義者とスペインでの出来事(1936−37)
   オランダ評議会共産主義の分裂
   スペインでの出来事からのGICの教訓
   GICとアナーキスト潮流
   GICとスペインに関するパリ・国際協議会(1937年3月)

 4部:戦中・戦後の評議会共産主義
 10章:マルクス・レーニン・ルクセンブルク戦線から共産主義者同盟スパルタクスへ(1940−42)
   オランダ評議会共産主義と戦争
   パンネクークと戦争。労働者評議会
   RSAPからマルクス・レーニン・ルクセンブルク戦線・・戦争反対の第3戦線
   1941年2月のストライキとその政治的帰結
   USSR防衛の拒絶・・トロツキズムとの衝突
   MLL戦線指導部の処刑(1942年)
 11章:共産主義者同盟スパルタクスと評議会共産主義差潮流(1942−1968)
   共産主義者同盟の誕生(1942−45)
   1945−1947年の同盟
   共産主義者同盟の政治的バランス・シート
   ブリュッセル国際協議会(1947年5月25−26日)
   GICの位置への復帰
   オランダ評議会主義の斜陽
   70年代までの国際評議会共産主義者
  結論



 序言

  国際労働運動におけるホルテルとパンネクークの名声にもかかわらず、オランダの共産主義左翼はほとんど左翼潮流のなかで
 知られていない。
  これはまず第2インターナショナル内で、ついで共産主義インターナショナル、そして最後はその外部で起きた。

  この認識欠如は部分的にはそれが発展した地理的枠組み−小さなオランダ−に、そしてオランダ語は決して国際会話の言語
 ではなかったという事実に起因する。

  しかしオランダの潮流は第1次世界大戦以前の年月に栄光の時を有した。
  トリブーネ派SPD−その定期誌デ・トリブーネという名から−はそれらの稀有な潮流の一つであり、ロシアのボルシェヴィキと
 ブルガリアのテスニャキと同様に改良主義者と修正主義者を除いた党を分裂して形成するに至る。
  オランダ労働者大衆から孤立した小さな党、SPDは第2インターナショナルのなかで、とりわけ理論的水準で、革命的左翼に
 特に影響を有するグループを構成した。
  理論家というより大衆化者であるホルテルは最も翻訳されたマルクス主義著作家の一人である。
  より理論的深さでは、パンネクークはロシアの1905年の経験から発した、大衆ストライキに関する議論でカウツキーと容易に
 対抗できた。
  彼はローザ・ルクセンブルクに理論的厳格さで匹敵し、主要な著作”国家と革命”でのレーニンに影響した。
  パンネクークはブレーメン左派と密接な結びつきをもち、ローザ・ルクセンブルクがなしたような深い影響力をドイツ左派の
 急進主義に及ぼした。

  しかしオランダ潮流が国際左派共産主義潮流として出現したのは、とりわけ1917年以降、第3インターナショナルにおいてである。
  戦術問題で左派志向の第3インターナショナルのアムステルダム事務局上層で、15年間近く、ドイツ左派(KAPDと連合)の
 歴史とホルテルとパンネクークのオランダ共産主義左翼の歴史が一緒になるほどに完全に−引き続く分裂にもかかわらず−KPD
 の左派とそれは結びついた。そしてKPDからはドイツ労働大衆の最も急進的な党であるKAPDが出現した。
  一方でドイツ左派があり、もう一方でオランダ共産主義左翼があったのではなく、本当はホルテルを指導的政治人物とする
 ドイツ−オランダ共産主義左翼があったのである。

  共産主義インターナショナル(ロシアとドイツのコミンテルン)の歴史で、ドイツ−オランダ共産主義左翼はホルテルとパンネクーク
 の理論的指導性のもと、インターナショナルの指導部によって採用された労働組合と議会のテーゼへの国際的反対派に至った最初
 の左翼の潮流である。
  1919−1920年でのコミンテルンへの反対が反議会主義に限定された、イタリアのボルディガ潮流以上であり、ドイツ−オランダ
 潮流は深く、決定的経路でロシア・ボルシェヴィキの方向性を批判した唯一の潮流である。
  KAPDと、同じ方向性を守る他のグループ−英国とブルガリア−とともにホルテルとパンネクークのグループは1921年コミンテルン
 から排除された。

  ドイツ革命の斜陽の流れで生まれたドイツ−オランダ共産主義左翼は急速な衰退を蒙った。
  ホルテルと部分的にはKAPDの試みは不自然な別のインターナショナル、共産主義労働者インターナショナルKAI結成となり、
 悲惨にも失敗した。ドイツ−オランダ共産主義潮流と、最初の最も大きい組織であるKAPDは分解し、だいたい混乱に陥った。
  パンネクークは当時、政治活動から退き、この潮流の最も動的な要素であったホルテルは1927年の死まで孤立した。

  その急ぎすぎたコミンテルンからの撤退と、重い意気消失をもたらしたKAIの頓挫により、ドイツ−オランダ潮流は国際的水準では
 孤立し、終わりのない宗派闘争と民族的規模までの後退への下降を非難された。
  1925−1927年に他の反対派がコミンテルン内に出現した−KPDの超左翼分派とイタリア共産党のボルディガ派−時に、
 ドイツ−オランダ潮流は政治的、組織的に彼らの旗のもと再結集することは不可能であった。
  KPDの超左翼分派は急速に分解した。
  ボルディガ派潮流は、1926年に共産党とコミンテルンから追放され、彼らの路線に従って、ビランとプロメテオ周辺に、亡命の
 国際主義者グループを形成した。
  トロツキスト潮流は遅れて1928−1930年頃に分派ではなく反対派として形成され、その独自の政治的位置(組合主義、議会主義、
 社会主義国家としてのUSSRの防衛)はあまりにも左翼共産主義と異質で、左翼共産主義の影響を受けることはなかった。

  1927年まで西洋左翼共産主義として具現したKAPDとホルテルとともにドイツ−オランダ潮流によって思い出されるものはほとんどなかった。
  ベルリンのKAPDとホルテルのオランダのKAPNの漸次的衰退とともに、それは評議会共産主義者グループを形成し、ドイツとオランダ
 両者ともに段々オットー・リューレの反党組織理論に影響された。
  オランダのGIC(国際共産主義者グループ)は1927年にカンエ・メイエル、アペル、パンネクーク(革命的活動に戻った)周辺に形成され、
 漸次国際評議会主義者運動の主要な極に自己を形成していった。

  1933年以降の評議会共産主義者運動を最も具現しているのはオランダのGICである。
  始めはドイツの連合(KAU)の運動と結びつき、1933年のドイツでのナチズムの勝利に伴い、完全に地下潜行を余儀なくされた
 ドイツ評議会共産主義者運動の実践的、理論的作業を果たすという重い責任にGICは面した。
  USAのマティック周辺のグループはそれ自身はもちろん評議会共産主義者であるが、分散した勢力を再結集する仕事のためにはあまり
 にも遠く離れすぎていた。
  しかしこの意味ではGICの活動は否定的にみられ、その革命的組織の政治的機能の否定、その機能化における緩い連合主義に
 対するすべての集権主義の拒否、評議会共産主義者の国際組織の拒否、これらすべてが、それだけが理由ではないが、レーテ共産主義
 の国際運動の混乱に寄与した。
  GICの、ドイツにおける地下グループに生き続けたドイツ左翼の基本的立場(資本主義の衰退、政治組織の必要性)に対する反対は
 これらのグループとGICの間の決定的分裂をもたらした。
  1935年以降、コペンハーゲンの共同協議会の失敗とともに、もはやドイツ−オランダ評議会共産主義運動の存在を語ることはできない。
  オランダ共産主義左翼、GICに本質的な形態での、はオランダに撤退した。
  それはスペインでの戦争の際の孤立と、非常につかの間に、1937年、ベルギーとフランスのトロツキズムから分裂し、評議会共産主義
 に接近したグループとの結びつきを推進したときに始まった。

  明らかな組織的弱点と、別の観点から拒否したアナーキスト運動に不思議にも接近させた政治的曖昧さにもかかわらず、GICは依然
 としてマルクス主義革命的グループである。
  実際、それは単に学習あるいはマルクス論理的作業のためのグループであることに満足しないことによって依然として妥協しない
 マルクス主義者グループである。
  このグループにとって国際主義は世界革命の復活に、その希望が近づく将来に備える世界のプロレタリアートの主張に依然として
 忠実であることを意味する。
  革命グループにとって歴史的に不都合な時期に、世紀の真夜中に、それはプロレタリアートからますます孤立するという犠牲を払い、
 慎重に流れに抗して泳ぐことを選んだひとつの非常に稀有な組織である。
  GICはいつもファシズムに対して民主主義を支援することを拒否した。
  それはUSSR防衛と民族解放のすべての民族主義運動を拒絶した。
  1930年代の暗澹とし悲劇的な時期に全社会が不可避な戦争に向かって転回したときに1914年のレーニンのように絶え間なくすべての
 交戦国の革命的敗北主義を支持した。
  野蛮さに沈む、日常生活がひとつの経済的悲惨さ、戦争、大量テロである世界での、唯一の解決策として根気よくプロレタリア世界革命の
 必要性を防衛した。
  スペインでの市民戦争の時期に、GICはイタリアの共産主義左翼とともにスペイン共和国ブルジョアジーの打倒にためにスペインの労働者
 に軍事前線でなく階級前線で闘うことを呼び掛けた一つの稀有なグループであった。
  GICの国際主義的位置は、実際、ドイツ左翼共産主義者潮流から受け継いだ歴史的遺産であった。
  1930年代のオランダ共産主義者左翼(反ボルシェヴィズム、国際的政治組織の拒否)に特有なことで1920年代の革命的時期の
 真の、深いバランスシートを作成することができなかった。
  地下作業と戦争に反対する闘争に下手に備え、堅固な組織的枠組みを欠き、オランダ共産主義者左翼は1940年5月オランダで
 最初の砲火が発射されるとともに消滅した。
  1942年、GICの以前のメンバーの合流を促し、オランダ共産主義者左翼との政治的継続性を引き継いだのは実際、それはGICではなく、
 共産主義者同盟スパルタクス(重要なスネーフリート・グループからの分裂)であった。
  スパルタクスは1942年から1945年までの、世界戦争と両軍事陣営に反対して、継続的そして組織的活動を遂行した唯一のオランダ
 国際主義者グループであった。
  しかしそのドイツ共産主義者左翼(KAPD)の伝統との結びつきはわずかの間だけ復活され、共産主義者同盟は間もなく旧GICの
 評議会主義者の立場を採用した。
  連合主義と独立した作業グループとして組織され、しかしまた革命が出現しなかった戦後の時期により活気を失い、同盟は
 オランダ・プロレタリアートの一部とともに獲得したすべての影響を失った。
  数的に最も重要な1945年の革命的グループの共産主義者同盟はオランダに限定された評議会主義者宗派に変化していった。
  1970年代のその消滅とともにオランダ評議会主義者運動は実質消滅した。

  オランダとドイツ評議会共産主義と結びついた古い潮流として、評議会主義は存在を止めた。
  最早、歴史的評議会共産主義者潮流は今日存在しない。
  1970年代にスカンジナヴィアあるいは他の国々で出現した評議会主義者グループは出現するや否や消滅した。
  引き続き存在するかもしれない、あるいは将来学習サークルの形態で現れるかもしれない評議会主義者グループは実際、オランダ
 評議会共産主義の伝統よりアナーキズムにより近い。
  今日のオランダ共産主義者左翼についての知識の欠如はそれが展開した地理的枠組みだけで起因するのではない。
  60年近くの間、レーニンが左翼主義者と名付けた運動は忘却状態に陥った。
  非常に少数の労働者運動の歴史家が ドイツ−オランダ共産主義者左翼が、ボルディガ派左翼とともに、1920年のレーニンの
 ”共産主義における左翼小児病”の論争の標的になる名誉を持ったということを思い出させた。 
  一時は著名だったホルテルとパンネクークの名は今やわずか共産主義インターナショナルの歴史の稀有な専門家にだけしか
 知られていない。
  時々、レーニンの著作集の注記に不完全に言及され、これらの名は今や翻訳者の悪口の標的で、彼らは1921年以降の
 ドイツ−オランダ共産主義者左翼の理論家の活動には注意深く、沈黙を保つ。
  オランダ自体ではホルテルの名は前世紀末の偉大な詩人としてのみ思い出される。
  パンネクークの名は評論と天文学の専門的仕事についてのみ語られる。

  ドイツとオランダの両方の共産主義者左翼の存在の再発見が可能となったのはとりわけ68年5月以降の時期である。
  多くの国々で、USAからメキシコ、アルゼンチンそしてドイツ、フランス、イタリア、スカンジナヴィアで、ホルテルとパンネクークの再印刷が
 増加した。

  状況主義者と評議会主義者による1968年前後の労働者評議会への言及だけでなく、共産主義者左翼からの出自を主張するグループに
 よっても彼らに大きな重要性が付与された。
  これらのグループはしばしば学生抗議から生まれ、1920年代の共産主義左翼への新たな関心を示した。
  1960年代末と1970年代初めの、ヨーロッパ諸国での広大な社会運動の勃興で、多くの68年後活動家は、このほとんど知られていない
 歴史を学ぶことを促された。これは幾人かの稀有な労働運動の歴史家も同様であった。
  これらの活動家による議会主義と労働組合制度の拒否は、この歴史の筋道を再び取り上げることをもたらした。
  左翼政党、特にスターリン主義共産党の急進的批判は、ロシア、中国、ベトナム、キューバなどのような社会主義国家存在の神話が
 その強固さを失ったので、とりわけ可能であった。
  ポーランドの1970年、1976年、1980年のような、ロシア緩衝地帯の国家資本主義諸国の社会運動、すべての国々の国家資本主義の
 イデオロギー的、理論的批判は1920年代のドイツ(共産主義労働者党、KAPD)とオランダ共産主義者左翼の再発見への好都合な気運を
 作り出した。
  これらでも、GICとオランダ・スパルタクス同盟の歴史だけが知られないままだった。
  1920年代の時期だけについて、KAPDとドイツ連合主義運動の枠組み内で、幾人かの先駆者が最小限のホルテルとパンネクーク潮流の
 描画を提供した。
  そのひとつの例はハンス・マンフレッド・ボックとフリッツ・コールの本であるが、しかしこれはオランダ共産主義者左翼の起源について、
 ましてや、1930年代のその発展については真には関心を持っていない。
  フランスではパンネクークの著作物の出版、翻訳、抜粋、注解が評議会共産主義者セルジュ・ブリシャネールによってなされ、これは
 その指導的人々のひとりに限られているがオランダ左翼共産主義者の理論的及び政治的発展のより正確でより正しい思想をもたらした。
  オランダ自体では、ヘルマン・デ・リアフレのホルテルに関する必須の本で、オランダ左翼共産主義者潮流とトリブーネ派が一緒にできない
 ことが示された。
  SPDついでCPH内のホルテル・グループは、これら党の多数派への反対派として1916年以降、発展した。
  オランダ歴史家の研究はわずか1921年までで、そしてホルテルの政治的個性に限定されている。
  彼のドイツ連合主義Unionen運動とKAPDへの影響はわずかにしか扱われていない。
  評議会共産主義者カホ・ブレンデルの理論家としてのパンネクークについてのより政治的な本はオランダ共産主義者左翼の最も深い
 理論家の生涯に取り組まれた政治的そして理論的問題に中心が置かれている。
  国民的枠組み内(ドイツまたはオランダ)に限定されているという、これら研究の断片的性格のため、オランダ共産主義者左翼のグローバルな
 研究を行うことが必要である。ホルテルとパンネクークの個性に限定されない研究。
  1920年代の時期について、これが必要だったときオランダ左翼共産主義者は左翼共産主義者Linkskommunismus(*ドイツの運動として
 ということか)として研究され、その中心位置はドイツにあった。
  最後に、多くの文書が多くの言語で図書館に集められ、いくつかの国水準での、10年、もし20年でないとしても、以上前の詳細な研究の
 急速な陳腐化は、歴史的統合を必要とさせている。

  我々は我々の研究で出会う、困難さを隠せない。書誌がある程度のアイデアをもたらすだろう。
   ・多くの原資料がヨーロッパの多くの図書館に散らばっている、そのうちのいくつかは利用できないままか、閉鎖されている。  
   (著作時の東ヨーロッパのように、1991年まで)文書、雑誌、内部雑誌、パンフレットの塊は相当なものである。
  ・種々の言語で書かれた多量のページに目を通すことの必要性、オランダ語、ドイツ語、英語、デンマーク語、ブルガリア語さえ。
  ・上に述べた以外の比較的稀有な完全な仕事。部分的情報を非常に多くの本、パンフレットそしてフランスではしばしば近づけない雑誌、
  から引き出さないといけない。
  ・漸次消えていく1920年代の革命的時期からの主な関係者とその証言。ドイツ−オランダ共産主義左翼共産主義者潮流の最後の死は
  総体的にこの潮流の歴史的記憶の最も生き生きとした部分を消し去ってしまう。

  この最後の点に関し、我々は革命的活動家の証言から得られたすべてを隠すことはできない。
  活動家としてはたとえば、ヤン・アペル(元KAPD指導者、ついでGIC活動家)、真のプロレタリア革命家、B.A.シヘス(元GICメンバー)、
 両者とも死んだ、そしてまたカホ・ブレンデル、元GIC活動家で1998年までのオランダ評議会共産主義者グループ行為と思考
 Daad en Gedachteグループの元メンバー。

  我々は、彼らの発展、彼らの漸次の後退さえ強調して、特に、ドイツ−オランダ共産主義左翼潮流の理論的そして政治的位置、そしてGICと
 共産主義者同盟スパルタクスのそれを主張することを慎重に選んだ。
  これらの種々のグループの社会的歴史、彼らの組織的歴史、そして歴史的枠組みを無視しないで、これらの位置を評価することは重要であると
 我々には思われる。
  それらは、諸議論は結論からほど遠いが、ロシアとドイツの革命の衰退の間の、議論と思想の対決に富んだ全時期の反省である。
  その理論的及び政治的寄与、とりわけ1920年代での、とこの潮流は無視すべきでない適切な分析の担い手であることにより我々は
 このオランダ共産主義者潮流の歴史はその弱さにもかかわらず、死んだ歴史ではないと確信する。

  我々は我々の文章で左翼共産主義と評議会共産主義という言葉を注意して区別した。
  ドイツとオランダの1920年代の共産主義者左翼共産主義は共産主義インターナショナル内でロシア革命の領域に位置しており、
 革命党の必要性を認めていた。
  評議会共産主義という言葉、そして評議会主義はルーレとGICの潮流を定義するためにだけ真に使用されうる、これらはロシア革命を
 ブルジョア革命として拒絶し、そしてプロリタリアートにおけるいかなる活動家革命党の存在をも拒否した。
  この観点から、左翼共産主義はマルクス主義に属するが、評議会主義はアナーキストの考えに戻るために左翼共産主義を退ける。

  左翼主義あるいは超左翼としてのオランダ共産主義者左翼の定義は混乱を含み、しばしば幼児性と特徴づけられる時期から受け継いだ
 まずい意志を示すと我々は考える。
  左翼主義という言葉は歴史的にはトロツキストと毛沢東主義組織を定義し、これらは1968年5月の時期に生まれ、発展し、左翼党に対する
 あるいは党内の反対派潮流として現れた。
  彼らの反議会主義と反労働組合位置とロシアの国家資本主義非難で、左翼共産主義あるいは評議会共産主義が公式の左翼主義
 (社会民主とスターリン主義)に決定的に反対したたことはなかったのに、彼らは公然戦争状態だった。

  超(ウルトラ)左翼という言葉については、これはしばしば宗派主義と同じとされ、1925から1927年の間にKPDから歴史的に分裂した
 潮流だけを定義できる。左翼共産主義は決してできるだけ左であるという純粋な意志として現れたのではない。
  それを生み出したのは1917−1921年の時期の革命的出来事である。
  最後の出来事でその位置とその政治的行為を決定するのは革命的プロレタリアートの実践の評価である。

  1989−1991年のスターリン主義体制の崩壊でコミンテルンとその党の秘密文書の申し込みが可能となり、20年代初めの左翼主義
 潮流の真の重みのより詳細を述べることが可能となった。

 *英国の読者のための注記
  ドイツ語での労働組合Trade UnionはGewerkschaft、それでUnionは新しい種類の階級闘争組織class struggle organisation’
 (Klassenkampf-Organisation)。
  ドイツ語のUnion(Unionenは複数)は産業闘争組織を指し、ドイツの左翼急進主義Linksradikale、特にKAU、AAUDそしてAAUD-Eによると、
 革命的プロレタリアートの統一組織形態として予想された。
  ドイツのUnionen:将来の国際連合主義者Unionist運動の一部はアメリカのIWWのサンディカリスト連合(ワン・ビッグ・ユニオン)あるいは
 スペインのCNT変種と混同されるべきではない、もっともIWWとドイツのUnionenの間の思想と行動にはある種の相互富化が存在したが。


 1章:トリブーネ潮流の起源と形成


 信仰、資本主義、植民地帝国:黄金時代から凋落へ

  ネーデルランドはマルクス主義者に16世紀における最初のブルジョア革命として現れる。
  この封建主義に対する革命はオンショット織物工の反乱(1566)として始まるはずだった。
  その生誕は実際は複雑な歴史的要因の結果であった。
  7州の連合としてのネーデルランドの誕生はスペインとカトリック教会へのカルヴァン主義者の反乱と一致する。
  聖像破壊者暴徒がカトリック教会の絵画と彫像を破壊した騒乱Beeldenstormは低地の国々に広がった。
  その反動でフィリプ2世はアルバ公指揮するスペイン軍隊を送り、それで血なまぐさいテロルの政策をもたらした。
  それがスペインに対する80年戦争の始まりだった(1648年ウェストファリア平和まで)。
  オレンジ公ウィリアム・沈黙が国家所有者として、反乱の指導者の一人として、16年間、重要な役割を演じた。
  南部のカトリック州は彼らのハプスブルク帝国への忠誠を再確認した、ダッチ北部州(ホランド、ゼーランド、ユトレヒト、ヘルデルラント、
 オフェレイセル、ドレンテ、フリースラント、フローニンゲン)はフィリップ2世の絶対主義への強い抵抗を誓った。
  フィリップ2世は彼の帝国でのカルヴァン派の飛び領地とそしてまた洋上の危険な商業上の敵の受け入れを拒否。
  1581年、ユトレヒト(1579年反スペイン連合)連合内のダッチ州は独立を宣言。
  1588年、英国の艦隊は反乱者と提携しスペインの無敵艦隊を打ち破り、連合州共和国が設立された。
  ネーデルランドはブルジョアの17世紀の黄金時代で知られた。
  共和国形態のもと(デ・ウィッテ兄弟のもと、スピノザの時代)、アムステルダムがヨーロッパの金融センターであったネーデルランドは
 資本主義発展の強い動力のようであったのみならず、そこでは理性の兆候と信仰的寛容性のもと啓蒙思想の決定的な知的極であった。
  ポルトガルとスペインのユダヤ人はその国に定住し、彼らの信仰を行なうことができた。
  ダッチ共和国は南アフリカから西インド諸島(ブラジルと北アメリカ)、タスマニアからセイロンとインドネシア(東インド諸島)の遠くの植民地の
 おかげで、商業資本の形態で大発展した。
  植民地資本は、西インド会社WICと特に合同東インド会社VOCのダッチ資本の花形装飾(フリューロン)であった。
  合同東インド会社は1602年に協同資金会社として生まれ、喜望峰の東の貿易独占権が与えられた。
  17紳士として知られるようになる資本家理事会連合に指導され、VOCは戦争を行ない、平和を決定し、そしてついで地域を支配する
 権利を有し、これは武力による貿易の地位となった。

  18世紀、フランス王ルイ14世と英国商業権力によって行われた戦争の後、衰退を始めた。
  インドネシアの搾取に従事した、合同東インド会社の黄金時代は18世紀末で終えた。
  悲惨な(第4回)英蘭戦争の後、合同東インド会社は破産した。
  1795年ネーデルランドがフランス軍隊に占領され、そしてバタヴィア共和国が宣言された時、新政府はVOCを廃止した。
  1796年、イギリス軍はダッチ・セイロンの決定的征服を完成した。
  VOC地域、すなわちインドネシアはダッチ国家の財産となった。
  バタヴィア共和国は1806年、ナポレオンが7州をホランド王国に代えたときまで生き延びた。
  ホランド王国はルイ・ボナパルトに支配され、ついで1810年フランス帝国に併合された。
  1年後イギリス軍隊はジャワを占領し、イギリス東インド会社の名で独立した。
  しかしながらナポレオンの没落、そして1815年のウィーン会議後、オレンジ家のウィレム・フレディリックがウィレム1世として
 ネーデルランド王となった。(1830年まで現在のベルギーとルクセンブルクを含む)
  ネーデルランドは喜望峰の植民地を失なったが、ジャワへのダッチ権力権と独立性は再建できた。

  1824年ネーデルランド商業会社NHMが創設された。
  王ウィレム1世は彼自身の資本のおかげで、植民地、特にジャワの搾取の商業独占権を獲得した。
  強制労働と飢餓に反対する現地人の反抗(ジャワ、1825−1830年、スマトラ1837−1830年)とともに利益は増大、
 統治将軍ファン・デン・ボッシュは強制労働、いわゆる栽培制度を導入、これはジャワ農民に一定量の輸出用作物(コーヒー、砂糖、
 香料、インディゴ)の栽培を要求し、これらはNHMによって売られた。
  栽培制度は年39百万フローリンの非常な利益を国家にもたらした。
  しかし農民の米不足で、非常な貧困と大飢饉が1845−1850年頃、定着し、反乱が勃発。
  ダッチ遠征軍が諸島に展開した。最も重大な反乱は1873年の北スマトラのアチュ戦争で約30年間続いた。

  近代産業より植民地投機に投資する王に欺かれて、ダッチ・ブルジョアジーはその長い歴史にもかかわらず、依然として
 1870年まで経済と政治水準で2次的役割を演じた。

  商業ブルジョアジーの斜陽、その産業資本を発展させることの不可能性、その土地への投機的投資の追求、これらすべての要因が
 19世紀中のネーデルランドの経済的後進性を説明する。
  一方、ベルギーは、1830年のダッチ王国からの独立後、フランスとイギリスに独立を支えられ、産業ブームを経験したが、
 ネーデルランドは経済的停滞状態のままであった。外国貿易の重要性の拡大にもかかわらず、1850年代までネーデルランドでは
 一人当たりの経済成長は0に近かった。
  このようにして1847年には90%のダッチ国民生産は農業から生じた。
  75%の人々は町に住み、多くは永続的失業状態で過ごし、金持ちと教会の施しに頼った。
  1840年には、ハーレムの20000住民のうち8000は完全に実際状況を過少評価した人物像の貧乏人として登録された。
  この準プロレタリアートの肉体的劣化は非常なもので、最初の鉄道建設のために、ダッチ資本はイギリス労働力を呼ぶ必要があった。
  ネーデルランドにおける資本と労働のなかで社会主義理論家ヘンリエッテ・ローラント・ホルストは以下のように述べている。
  18世紀の第2半分以来、我々の国は衰退、ついで停滞、更に異常に鈍い、欠陥をもった発展状態に入った。
  数世代の間、我がプロレタリアートは肉体的、精神的に退廃した。
  エンゲルスは国家としての19世紀ホランドではブルジョアジーは過去の偉大さを仰ぎ、プロレタリアートは干上がったと分析。
  この意見は部分的に正しいと思われる。

  この相対的衰退は、マルクス主義者のあるものの間でのマルクス主義への初めの(そして短い)関心同様、ブルジョアジーが国家の
 支配のもと無為に過ごしたこの時期の間の”急進主義”という語を説明できる。
  この関心は最初の深刻な階級混乱とともに消失した。
  ロシアはリベラル・ブルジョアジーが弱く、ストルーヴェのような人物の地域版を生み出し、正統マルクス主義者は民族資本発展を
 目指した。
  これはネーデルランドではなかった。
  1850−1870年以降、ネーデルランドでの産業資本の力強い成長とともに、その政治的階級利益により意識的なブルジョアジーを
 発展させた。
  間もなく、1891年以降、フィリップス会社はその拡大の初期、電球の主要な国際的生産者のひとつとなった。

  1848年の立憲君主制の結果、リベラルのヨハン・ルドルフ・トルベッケ(1798−1872)は君主制といくつかの政権(1862−1866、
 1871−1872)で保守リベラル主義を調停する重要な役割を演じた。
  これらの保守はカルヴァン主義より他の宗教ブルジョアジー潮流により開かれていたが。
  ブルジョアジー政党は君主制を支配するのに十分なほど強固に組織されていなかった。
  1878年に最初の強固に組織されたブルジョア政党が生まれた。すなわちカルヴァン派政党のアブラハム・コイペルの反革命党(1837
 −1920)。
  より保守的でない、はじめは牧師ヘルマンJ.A.M.スハエプマン(1844−1903)率いるローマ・カトリック党も成長し、1901−1905年に
 コイペル率いるキリスト教連立政権で宗教教育と1903年の運輸ストライキに対する法と命令を守る役割を演じることができた。
  産業ブルジョアジーの党、リベラル連合は1885年3月に起き、いまだ弱く、1892年にはリベラル左派の急進連合が続いた。

 *ピョトル・ストルヴェ(1870−1943)は19世紀末にマルクス主義への情熱を発展させたロシア・リベラルのひとりで、彼はマルクス主義
 を封建制から産業資本主義への平和的移行の理論とのみ見なした。
  ツァーリの検閲で許され、励まされたので、合法マルクス主義として知られる彼のマルクス主義の内容は近代資本主義への弁明
 であった。
  ストルーヴェは間もなくリベラル・カデット党(立憲民主、KD)の指導者のひとりとなり、1917年の白色反革命の前線幹部となった。


 労働者運動の始まり

  第1次世界大戦の頃の国際労働者運動におけるネーデルランドの政治的重みは比較的弱体な国の産業発展と経済における農業の
 圧倒的支配の割合から明白である。

  労働者運動は始めは職人と小さな、職人型企業の労働者の運動で、重要な役割はたばこ労働者とダイヤモンド労働者(アムステルダム
 のユダヤ人プロレタリアートを形成)が演じた。
  ダッチ労働階級、正確に言えば、地方起源から来る、は19世紀中にはいまだ非常に小さかった。
  プロレタリアートは、ある程度まで、ユダヤ人かドイツ人であった。
  これが(部分的であるが)マルクス主義への非常な開放性を説明する。
  しかし数十年の間、遅れたネーデルランドの産業発展は、職人労働の古い特徴として生き続けさせ、アナーキズム選択の分野とした。

  1843年まで社会運動は非常に限られたままで、意識的目標をとることのできない騒乱の爆発の形態をとった。
  1847年のアムステルダムでの失業者のデモと、ハーグの飢餓行進はいまだ明確な労働階級意識の表現ではなく、発達し、集中した
 プロレタリアートの不在を示した。
  1848年革命の間、アムステルダムで起きたデモと略奪は真のルンペン・プロレタリアートの表現で、このような自暴自棄な行動は意識的で
 組織化されたプロレタリアートには無縁であった。

  ネーデルランドの最初のプロレタリア組織の形態は直ちに出現しつつある労働者運動の国際的性質として表現された。
  1847年ドイツ労働者が共産主義者クラブを創設、これはオランダ語を話すプロレタリアートで活動。
  1年後、ネーデルランドに数支部をもつ共産主義者同盟が非合法に印刷されたばかりの共産党宣言の第1版コピーをもたらした。
  しかし20年間、これらのマルクス主義運動の第1段階には後続がなかった、なぜなら、1870年代まで真の産業発展がなかったから。
  国際労働者協会IWMAの支部はアナーキストとサンディカリス思想(ホランド労働者同盟が1871年形成された。)の影響下のままであった。
  1872年、ハーグ会議で、ダッチ代表はバクーニンの位置と提携した。
  にもかかわらず、かれらのひとり、洋服仕立工のヘンドリク・ヘルハルト(1829−1886)がやがて社会民主運動の先駆者と創設者の
 ひとりとなった。

  最終的にダッチ社会主義運動が発展できるようになるのはフランスに対するプロシアの勝利のあとのドイツ資本の流入によって促進
 されて産業化が進んだためであった。
  優先条約がダッチ製造業者に1874年以降のインドネシア植民地からの輸入を許可したことがネーデルランド繊維産業の発展に
 決定的となり、ライデンやトウェンテのようにそこに多くのプロレタリアが集中した。

  1878年社会民主連合SDVがアムステルダムで形成されまもなく地域グループ(ハーグ、ロッテルダム、ハーレム)形成にいたり、
 これらは彼らの任務を階級闘争主導とみなした。
  1881年、これら労働者の再結集で連合は社会民主同盟SDBという名を取った。
  最初の書記はヘルハルトでかれはネーデルランドのIWMA支部の書記であった。
  (*BWSAによればIWMAの書記はブルノ・リーベルス


 ドメラ・ニーウェンホイス、SDBとSDAP

  ダッチ労働運動を開始した人物はフェルディナント・ドメラ・ニーウェンホイス(1846−1919)で元牧師で社会主義に転向。
  当時のドメラ・ニーウェンホイスはまだアナーキストでなく、普通選挙権の大キャンペーンを主導していた。
  彼の運動の活動は経済ストライキの主導と労働組合結成を助けることよりなっていた。
  1879年の週刊”すべての権利Recht voor Allen”創刊、これはSDBの機関紙となった、は労働者グループでの扇動を促進した。
  その活動は多様であった、工場と兵舎での小冊子配布、マルクス主義教程によるプロレタリアート教育、軍隊、教会、君主制、
 アルコール、階級裁判に反対するデモ。
  弾圧がすぐに若い労働者運動に降りかかってきた。
  ドメラ・ニーウェンホイスが逮捕されただけでなく、投獄1年が宣告された。
  史上初めて警察が武装し、衝突に備えて軍隊が支援可能であった。
  警官は彼らを解散させ、社会主義演説者を逮捕するために公共集会に出席する権利があった。

  彼自身をマルクスとエンゲルスの弟子と考えて、長い間、ドメラ・ニーウェンホイスは科学的社会主義理論家と手紙で通交を続けた。
  エンゲルスは同情的にネーデルランドの社会主義運動の発展を見守ったが、ドメラ・ニーウェンホイスをただちに革命家と考えることには
 かなり留保した。
  社会をひっくりかえすことは来る世界を夢見ることではありえない。反対に、既存社会秩序の不可避で不断の分解の科学的観念、
 過去が肉体化した政府に対する大衆の増加する憤り、他方で生産手段の肯定的発展、これらすべてが真のプロレタリア革命が勃発した
 ときに、即座の進歩(もちろん牧歌的でない)の仕方(すべての条件)が創造されるされることを保証する。

  ドメラ・ニーウェンホイスのネーデルランドにおける重要性は労働者階級の扇動者と組織者としての彼の活動だけでない。
  彼はマルクスの資本論の要約版を発行した最初の人物でもある。
  これにもかかわらず、彼は理論的なマルクス主義者からほど遠い。
  彼の数えきれない著作で社会ヒューマニズムと倫理的宗教性と創始者のキリスト性への執拗な愛着を結合した理論的折衷主義が
 明らかになる。
  無神論と自由思考の布教者、自由思考者のグループが初期のダッチとドイツ労働者運動で大きな追従者をもった、ドメラ・ニーウェンホイス
 は実際登場するダッチ労働階級内で予言者として現れた。
  深くキリスト性に刻印され、プロレタリアートはドメラ・ニーウェンホイスの黙示的な様式と彼の倫理的、ユートピア的、終末論的考えの
 折衷的混合を直ちに選んだ。
  ドメラ・ニーウェンホイスはキリスト教精神でまだ染まった発達したばかりのプロレタリアートのゆっくりし、混乱した出現を象徴した。

  それでも、1880年代にドメラ・ニーウェンホイスはSDB内の党の人間であった。SDBは1884年社会民主党という名を採用した。(?)
  ドイツ社会民主同様に、彼は出現しつつある労働者運動の革命的護民官として議会主義戦略の確固たる支持者であった。
  党は手工業労働者に非常に人気があった、(たこができたもの第一)メンバーの90%はプロレタリアだった。
  同じく気にの北部の小農にもかなり影響があった。
  1888から1891年の間、ドメラ・ニーウェンホイスは人民主義者、地域主義者、社会主義者の奇妙な混合物であるフリースランド
 人民党と提携し、フリースランドの小農により議会に選出された。
  3年間、彼は社会主義者下院議員として議会で改良を推進した。社会保障、植民地の独立、品物払い賃金と小児労働の廃止、
 失業反対の闘争、教会と国家の分離、土地、公共労働の国有化、など。
  SDBの扇動は労働者の間で非常に成功をみ、1893年までに党は6000の党員を有した。

  しかし1891年までに、ドメラ・ニーウェンホイスは議会主義を拒否し始め、1889年結成の第2インターナショナル内で唯一の
 反議会主義社会民主指導者となった。
  これで彼は非常にアナーキズムの位置に接近した。かれの発展は1890年代での階級闘争の高まりで説明される。
  ネーデルランドと他の国々の両者で組織労働者運動の数の上での成長が到来した。
  周期的恐慌の圧力のもと、これは失業の発展で表現され、騒動が発生。
  ネーデルランドでは労働者は警察と対決した、警察は暴漢集団がSDB支部を攻撃し焼き払うのを支援した。
  この終末的様相で、最後の闘争は近いという希望が起き、ドメラ・ニーウェンホイスとSDBの活動家は議会主義戦術に疑問を広げ、
 これが革命のための闘争と矛盾すると彼らに思わせた。

  議会主義への疑問のなげかけはダッチの党だけに限られなかった。
  1890年代はアナルコ・サンディカリスト反対派と国際社会民主内の反対派の両方の発展をみた。これはどんな種類の議会
 活動を拒絶した。
  ドイツ社会民主での議会グループの党支配と、これを促進した反対派グループの成長で新規加盟者の一部による党指導部への
 反抗が説明される。
  ドイツでは彼ら自身を青年(ユンゲン)と称し、この例はベルギー、スウェーデン、デンマークのような他の国々で引き続いき、彼らは
 多義的である反議会主義反乱の先頭にやがて立ち、それは議会指導部を腐敗させる改良主義グループを批判し、しかし、救世主的
 希望と行為による扇動の神秘性に育まれ徐々にアナーキスト的、反集権主義、個人主義グループに妥協した。
  ドイツとベルギーの例は特に重要である。

  ドイツでは1879年(ビスマルクの社会民主党を禁止する反社会主義者党の時期の中期)、ヨハン・モスト(後アメリカのアナーキズム
 の偉大な老人となる)、そして新聞自由に依拠した反対派のヴィルヘルム・ハッセルマン(1844−1916)周辺に形成を見た。
  この折衷主義的反対派はデューリンクとブランキの思想に鼓舞され、指導者の合法戦術に抗議し、陰謀的戦略を擁護した。
  議会でのおしゃべりの時期は終わった、そして行動の時期が始まろうとしていると考えられた。
  この反対派は1880年に排除され、すみやかにアナーキズムと行為による扇動に移行した。
  1885年には学生とベルリンのボヘミアン知識人周辺に基盤をもつ青年(ユンゲン)によって引き継がれた。
  マックス・シッペル(1859−1928)、コンラット・シュミット(1863−1932)、イグナス・アウアー(1846−1907)、後に
 ゲオルク・フォン・フォルマール(1850−1922)に率いられ、議会グループの独裁に反対し、1886年ベルリン地域選挙をボイコットした。
  プチ・ブルジョアと国家社会主義の社会民主党への影響を非難した。
  しかしとりわけ、集権組織の自治の形成、言い換えると独立グループによる置き換えを提案。そこでは集権原則が完全に傍らに
 やられる。
  1891年、最終的に分裂。ユンゲンは独立社会主義者連合を結成、アナーキスト同様に、労働者の個性化の思想を展開し、活発な
 反議会主義とともに純粋な階級闘争戦術を擁護した。
  手始めに、アナーキズムと対立し、多くの連合メンバーはグスタフ・ランダウアー(1870−1919)同様にこのグループに移った。
  1894年組織は分解し多くのその活動家はSPDに戻った。
  マックス・シッペル、ゲオルク・フォン・フォルマールなどのその指導者はまもなく修正主義の代弁者となった。
  たしかにドイツのユンゲンとドメラ・ニーウェンホイスのグループには類似性がある。
  イデオロギー的には、彼らは反集権主義と評議会共産主義の反政治形態を予示した。

  ベルギーでは1886年の全ヨーロッパに影響した経済危機で激しい労働者騒乱が起きた。
  全面ストライキが野火のようにとりわけフランス語会話地域(ワロニア)に自発的に広がった。
  激しい社会闘争の雰囲気で直接行動を求めるグループがベルギー労働者党(POB)内に形成された。
  1887年、アルフレド・デフィソーのグループがPOBを去り、共和社会党PSRを結成、これはユンゲンと異なり、普通選挙権に賛成して
 いたが、反乱的ストライキのチャンピオンと自称した。
  石油とダイナマイトによる少数暴力を叫び、彼らのイデオロギーはブランキズムで色づけられていた。
  この異端グループはボリナージュの鉱山労働者の間に基盤をもち、革命は門での雷鳴だと宣言した。
  綱領あるいは視野もなく、グループは1889年に解散、党に戻った。
  その消滅で、POB内での改良主義と選挙主義方向性へ開かれた道が残り、POBは普通選挙権の要求に焦点を合わせた選挙戦術の
 支持し、革命を押しのけた。この傾向は完全にセザール・ド・ペペ(1842−1890)に示される。”もしわれわれが普通選挙権を望めば、
 それは革命を避けることだ、なぜなら改良あるいは革命、普通選挙権あるいは全体的激変はベルギー人民が今日面している
 ジレンマである。”
  実際、時の労働者運動が直面していた問題は、直ちに革命の時期かどうか、あるいは反対に、組合内での労働者の組織化活動と
 選挙宣伝を意味する資本主義の成長の周期の始まりかということであった。
  この問題に関して、ドメラ・ニーウェンホイスとドイツのユンゲンは大きな社会運動に育まれ、社会民主から出現した真の改良主義
 グループに反対し、活発であったにもかかわらず、性急さを示した。

  直接行動という考えはSDB内で広い支持に出会った。
  修正主義グループの将来の指導者、ヨハン・スハペル(1868−1934)がSDBの1898大会で、党はお金を武器として取って置き、
 代表は大会の分科会の間の行き来を実行すべきだ、提案したことは非常に重要である。
  彼らの分裂直前、すべての将来のSDAPの修正主義指導者は極めて急進的態度をとっていた。
  ヘンリ・フベルト・ファン・コル(1852−1925)は依然としてドメラ・ニーウェンホイスの個人的友人で、反議会主義で激しい内戦だけ
 による革命に賛成する刺激的宣言を行った。
  1894年、ピーテル・イェレス・トルールストラ(1860−1930)は無条件に暴力に賛成と自己宣言した。
  すべてのこれらの刺激的宣言、とりわけスハペルので、SDBは1894年政府によって禁止されるに至った。
  党は社会主義者同盟と改名。

  しかしドメラ・ニーウェンホイスとSDBの急進主義は事実より口先のもので、社会民主の国際運動内での深まる孤立化を招いた。
  第2インターナショナルでは、ドメラ・ニーウェンホイスはだんだんアナーキストの考えのゼネラル・ストライキを主張した。
  1891年、戦争勃発事態での交戦国の労働者のゼネラル・ストライキの考えを擁護した
  彼の提案は資本主義を根元とする軍事主義を強調したヴィルヘルム・リープクネヒト(カールの父)の提案による賛成だけで拒絶された。
  彼のゼネラル・ストライキの主張は、革命への万能薬のように思われ、本質的意味は影が薄くなり、後に防衛と侵略戦争の区別を
 拒否され、マルクス主義左派に採用された。
  1893年のチューリッヒ会議でドメラ・ニーウェンホイスの軍事ストライキと婦人のストライキさえ伴う、ゼネラル・ストライキの提案は、
 実際は彼がアナーキズムを乗り越えたことを示した。
  会議で採択された決議はすべての軍事予算拒否と軍備縮小と常備軍廃止を要求した。
  社会民主インターナショナルはドメラ・ニーウェンホイスが批判したようなプチと中間ブルジョアの組織とほど遠いことを例証した。
  事実、チューリッヒ会議では政治的組織とプロレタリアートの政治活動を受け入れるマルクス主義者と、理論上ではなくても実践上、
 それを拒否するアナーキスト間にある分裂を示した。
  会議は、メンバー党、組合、あるいは組織は労働者組織と政治活動の必要性を認識すべきことをインターナショナルのメンバー条件
 とした。

  社会民主による政治活動の手段としての選挙参加の問題はSDBを分裂させた。
  1887年のダッチ構成での選挙制度改革で、男性の60%が選挙に参加でき、議会での議席獲得の可能性がより具体的現実となった。
  1893年のフローニンゲン党大会で、ドメラ・ニーウェンホイスは無条件のすべての選挙活動拒否決議を提案した。
  これはわずかな多数(賛成47、反対40、棄権14)で承認された。
  マルクス主義者フランク・ファン・デル・フース(1859−1939)はドメラ・ニーウェンホイスへの反対派を率い、党から追放された。
  トルールストラはそこでドイツ社会民主指導者の支援で、SDBと並行する、社会主義選挙協会の組織化のインシアチブをとり、
 大会決議を無視した。分裂は不可避となった。

  1894年、皮肉にも彼らの反対者によって12使徒として知られる、トルールストラ、ファン・デル・フース、スハペル、ファン・コールと
 フリーヘンを含むSDBの指導者と活動家のグループはドイツ社会民主の綱領を基礎に社会民主労働党SDAP結成のイニシアチブをとった。
  最初はSDAPは小さな宗派(セクト)のようであり、1894年には党員は100名以下で、1895年には600名、かろうじて250名が
 SDBから来た。
  長い間、党は政治化した労働者から少数の中間階級紳士率いるおかしな練習とみなされた。
  SDAPはもちろん、おもに中間階級の知識人から構成されていた。その選挙基盤は産業労働者でなく、彼らは依然としてSDBに忠実で、
 フリースラントの小農と農園労働者であった。
  SDB内の多くの労働者にとっては分裂は混乱と早計と思われた。
  少数派は多数派に彼らの位置を納得させることなく党を去り、最近の選挙登録者の拡大法採用のよる選挙参加だけのためそれを行なった
 ので分裂は混乱した。
  正統派マルクス主義者のファン・デル・フースの期待とともに、SDAP指導者は改良主義者とともに選挙に入り、選挙名簿準備は将来に
 悪い前兆となった。
  このことは彼らはつい最近SDB内で口先だけの極端主義のゲームを演じたばかりであったという事実にもかかわらずなされた。
  1895年、トルールストラは党集会で彼の狙いはとりわけ組織された労働者運動、独立した党としてブルジョアジーの党とともにその席を
 占めることのできる、を形成することであると宣言した。
  最終的に分裂は早計であった。SDBの成長する少数派、間もなく多数派となるは選挙戦略でうろついていた。
  1897年、2000の活動家の最大労働者党のSDBは候補を立て、町評議会で数議席、国会でも1議席獲得した。
  この新しい方向性は反選挙アナーキスト潮流との分離を刻印し、SDBの分離の存在を無意味にした。
  SDBは、去ってSDAPかリバータリアン潮流に参加する活動家の損失で徹底的に揺さぶられた。
  1900年解散を決定し、残りの200名の活動家はSDAPに参加し、第2インターナショナルの綱領を受け入れた。

  1894年以後社会主義者同盟として知られるSDBの発展は偶然ではなかった。
  それは1897年のドメラ・ニーウェンホイスとその支持者の撤退で容易になった。彼らはアナーキストを自称した。
  彼らは1896年組織された労働者運動を放棄し、ドメラ・ニーウェンホイスはインターナショナルのロンドン会議で次回会議からの
 アナーキストの排除が決定されたとき、会議から立ち去った。

  ドメラ・ニーウェンホイスの分裂は不毛であった。
  ヨーロッパ革命的サンディカリズムの未来の理論家の一人のクリスティアーン・コルネリッセン(1864−1943)とともに、彼は、
 新聞”自由社会主義者De Vrije Socialist”を創刊し、短期間存在した組織、自由社会主義者連合FVSを結成した。
  しかしネーデルランドでの社会主義者運動の形成とともに政治的アナーキズムによって演じられた役割は背景に消失していった。
  ダッチ・アナーキズムは経済闘争での強い影響とともに、ほとんど排他的にサンディカリストとなった。
  1893年コルネリッセンとSDBのイニシアチブで全国労働書記局NASは結成された。
  フランスのように、アナーキズムは組合に避難した。しかしコルネリッセンはドメラ・ニーウェンホイスと分裂し、ドメラ・ニーウェンホイスは
 依然組合活動に気が進まず、彼の影響でNASはだんだんアナルコ・サンディカリズムよりむしろ革命的サンディカリズムに転向していった。
  コルネリッセンはフランスに亡命し、1900年から以降CGTの革命的サンディカリスト派の理論家の一人となった。
  実際、NASはその限られたメンバーにもかかわらず、ダッチ労働者運動で重要な役割を演じた。
  それはその経済的形態での階級闘争の発展に必要な活動家態度を象徴化することとなる。
  これは社会民主組合のNVVと異なる。ネーデルランド労働組合連合NVVは1905年SDAPによりNASの影響に対抗するために結成され、
 しばしば労働者のストライキに反対し、妨害さえした。
  NASは大ストライキ、特に1903年の運輸産業でのゼネラル・ストライキで決定的役割をとった。
  徐々にNASは急進的マルクス主義者グループと接近し、ある時にはトリブーネ派の、ついで1920年には共産党の、そして1927−1940年
 にはスネーフリートのRSAPの組合組織のように見えた。


 ドメラ・ニューウェンホイスと評議会主義の出自

  フェルディナント・ドメラ・ニーウェンホイスのアナーキストの位置への発展は、彼がネーデルランドに出現する労働者運動の先駆者であり、
 組織者であるという事実を変えはしない。
  彼は、依然として、マルクス主義者とアナーキストが同じ組織に共存しえた時期の国際労働者運動に偉大な人物である。
  戦争の脅威に反対する活動で、彼は首尾一貫した理論で導かれた革命家より、より平和主義者で反軍国主義者であった。
  第1次世界戦争で連合国陣営(英、仏、露)で帝国主義戦争に従軍したクロポトキン、コルネリッセンあるいはジャン・グラーブのような
 アナーキスト指導者と異なり、ドメラ・ニーウェンホイスは依然として国際主義者であった。
  彼の1919年の葬式で10万のアムステルダム労働者が行列のあとに続き、ダッチ共産党の指導者の一人でコミンテルン執行部のメンバー
 のS.J.ルトヘルスが共産主義インターナショナルを公式に代表した。

  1920年代、ホルテルはドメラ・ニーウェンホイスに関する左翼マルクス主義者の位置を、彼の行動はまだ革命期でなく、依然として資本主義
 が発展し、それが崩壊しない、改良の時期という歴史的時期の段階から生じたものであると非常に明確に要約した。

  まさにネーデルランドで始まっている発展の時期に、彼はすでに革命を望んだ。
  彼の人生を通して、彼は依然として革命的アナーキズムに忠実で、そして生き、ロシア革命を理解し、称賛した。
  彼とマルクス主義者革命家の違いは、我々は革命期に革命的方法を支持し、一方、彼は早計にそれを望んだことにある。(ホルテル)

  それでも、ドメラ・ニーウェンホイスの貢献の限界を理解する必要がある。なぜなら、アナーキストと評議会潮流にとって、彼は始めから
 ブルジョア的と見なされた第2インターナショナルにとどまることの不可能性の象徴となった。
  このようにしてドメラ・ニーウェンホイスがドイツ社会民主と第2インターナショナルに行った批判を評価することが重要である。
  それらがエンゲルスのドイツ党の日和見主義批判と一致する場合は依然としてある程度正しい。
  1891年、エンゲルスは社会民主のエアフルト綱領案の批判を、日和見主義の危険性を強調して書いた。

  その日の切迫した利害への大きな基本的配慮を忘れること、後の結果にかかわらず一時の成功のため闘い、努力すること、
 現在のため、運動の未来を犠牲にすることは正直でなされるのかもしれない、しかしそれは日和見主義であり、それにとどまり、
 正直な日和見主義は多分もっとも危険である・・・(エンゲルス)

  社会主義者同盟から去る時の1897年にパリでフランス語で出版されたドメラ・ニーウェンホイスの本、”危険状態の社会主義”で彼は、
 1895年以降のフォルマルとベルンシュタインの修正主義理論に具体化する社会民主のいくつかの欠点を非難した。
  ドメラ・ニーウェンホイスの批判は以下のようであった。

  プチ・ブルジョア要素の党への浸透はそのプロレタリア性格を危険に陥れ、特に選挙の間にブルジョアジーへのイデオロギー的譲歩
 が現れる。
  革命を労働者運動により改良主義者が国家を乗っ取ることにすぎないと規定することで、国家社会主義理論が革命目標を変形させた。
  社会民主はまさに今日の社会を国家社会主義の線に沿って変えようと望む改良主義である。

  マルクス主義者と異なり、ドメラ・ニーウェンホイスは労働者は改良のための闘争を放棄すべきであるという結論にいたった。
  すべての改良は既存国家の問題の強化に奉仕する。
  彼はまた社会民主の発展は不可避にブルジョアジーへの統合化に至ると考えた
  社会民主の勝利は社会主義の敗北となるであろう。

  ドメラ・ニーウェンホイスのブルジョアという社会民主の非難はアナーキスによってだけでなく、評議会主義者によっても取り上げられるのは
 偶然ではない。評議会主義者は社会民主はブルジョアジーの進んだグループ内の最も一貫したグループと考えられるべきであり、と考えた。
 実際には、社会民主はブルジョア改良主義党にはならなかった。それは出発から一つの右派であった。

  歴史の光から見ると、ドメラ・ニーウェンホイスの批判の射程は依然限られている。
  彼はアナーキスト、信仰的、トルストイ的傾向さえ表している。
  これはダッチ労働者運動に非常に刻印され、第1次世界大戦まで生き残ることになる。
  これは平和主義と反軍国主義によって育まれた。
  階級暴力の必要性−プロレタリアートによる権力掌握の必要性−ブルジョア少数派へのプロレタリアート独裁を否定することで
 ドメラ・ニーウェンホイスは彼がホランドへの導入の手助けをしたマルクス主義と決定的に絶縁し、ある種のトルストイ主義に進化していった。
  アナーキスト・共産主義者は政治権力、いいかえると国家の廃止を要求した、なぜなら、彼らはひとつの階級または個人が他の階級
 あるいは個人を支配する権利を否定したから。
  トルストイはこれを非常に完全にいわれる以上のものはないと表現した。
  アナーキストや評議会主義者同様に、第2インターナショナルと社会民主党は始めからブルジョアであると主張するためにドメラ・ニーウェンホイス
 に立ち戻る人々はいくつかの歴史的に明白な事実を否定する。

  第2インターナショナルは、大産業集中の発展したプロレタリアートが教育され温和化され、依然として第1インターナショナルの時代には残って
 いて、そのなかでの個人主義的アナーキズムの重みを説明する職人的性格を後ろに置き去りにしたところである。
  ヨーロッパの内外で社会主義プロレタリアートが数的にも質的にも発展したのは、国際主義原則で労働者を教育し、1914年の完全な崩壊は
 当時予測することが困難であったこの第2インターナショナルによってであった。

  修正主義と日和見主義への抵抗が発展したのはインターナショナル内であった。
  それは1914年以前のインターナショナルでは依然としてマルクス主義者左翼がその中で発展し、右派と中央派と闘うことができることが継続
 していただからであった。
  ベーベルとカウツキーに具体化した初期の初歩的マルクス主義がルクセンブルク、パンネクークらによって豊かにされたのはインターナショナル
 内であった。
  すでに完全なブルジョア組織からプロレタリア傾向は出現することはできない。

  インターナショナルを民族支部の単なる集合にまで変化させて、土台が崩れかかっていたのを終焉させたのは連合主義であって、集権主義
 ではない。
  これが徐々にドイツとホランドのように党を支配するようになる議会グループのひどい力の発達の基盤であった。
  党の権力から独立するようになった議会グループの独裁はインターナショナルでの反集権主義連合主義の必然の結果である。
  実際、はじめから、圧力のないもとで、(党間の)関係は決して民族グループの独立性を侵さず、これら民族グループはそれぞれの国で
 採用されるべき戦術のもっともよい審判である、と1889年会議は宣言した。
  1907年、国際社会主義者事務所ISBの指導者カミーユ・ユイスマンスでさえ連合主義原則の全くの集権主義原則への置き換えを推奨した。
  実際、マルクス主義者左翼は議会と修正主義者指導者の意志に反対し、常に厳格な集権主義と各国支部のインタナショナルの規則の尊重と
 闘うことになる。
  すべての左翼(ボルシェヴィキ、ルクセンブルクのポーランドSDKPiL、トリブーネ左派、そして1912年からイタリア社会党内のボルディガ・
 グループ)は集権化したインターナショナルの原則、決議、決定の尊重と闘った。
  にもかかわらず、修正主義者の手で、集権主義は左派にたいする恐ろしい武器となるのは事実である。
  これはダッチ・トリブーネ派と1909年以降のローザ・ルクセンブルク周辺のドイツ左派の苦い経験となる。


 SDAPの始まり−マルクス主義者3世代−トルールストラと党右派

  ホルテルとパンネクークを含むダッチ左派の誰も、1909年の分裂後でさえ、そして遅く1920年でも、ダッチ社会民主をブルジョアと規定
 しなかった。
  1922年ホルテルは洞察力をもって マルクス主義と革命はSDAPの始めを支配したと見た:”・・・実際、始めは良かった。
  1890年代始めに、議会内外の両方で真の革命的宣伝が始動した。我々は公然と明確に言った:’我々は改良を望む、しかし君は
 革命的姿勢によってだけそれをやり通すであろう。資本主義の暴力的壊滅を常に狙うことで;なぜなら君たち自身いつも君たちの権利を
 守るから。’改良と革命を一緒に−それがスローガン。”(ホルテル)

  その初期、1890から1900年の間、SDAPは最良のマルクス主義者分子を引き付けた。
  知識人の全星座がブルジョアジーと絶縁し、革命的位置を基礎に党に参加した。
  彼らのダッチと国際革命運動両者への寄与は相当なものとなる。
  3世代のマルクス主義者がいる。あとの2世代はダッチ共産主義者左翼の形成の母体を提供する。
  これら連続する世代は良く知られたものをあげると、フランク・ファン・デル・フース、ヘルマン・ホルテル、ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト、
 アントン・パンネクーク、ダフィト・ウェインコープ、ヤン・セトン、ウィレム・ファン・ラフェステインの名で象徴される。
  これらのマルクス主義者左翼は芸術家、作家、そして科学者によって構成されるという特殊性をもつ。
  これらはホランドの文化史で小さくない重要性を、特に第2世代で有する。

  フランク・ファン・デル・フース(1859−1939)、ホランドにマルクス主義を紹介した最初のひとり、は非常に重要である。
  トルールストラをマルクス主義で訓練したのは彼で、結局ほとんど効果がなかったのは事実だが、より重要なのはホルテルと
 ローラント・ホルスト。
  彼の道程は特殊な様相を示す。パンネクークの言葉を使用すると、この精神と心の貴族は紳士の外見を示し、そこからすべての彼の
 環境が彼を分離しているように見える労働者運動のなかにさまよいはいった。
  職業が保険仲立ち人で作家で、彼はリベラル党員でブルジョア改革者から始めた。
  彼は文学批評を通してすこしづつ社会主義者運動の方へ来た。
  彼はホルテルもまた著名な人物であった、1880年代の文学運動(80年代人として知られる)の指導者の一人として頭角を現した。
  1885年、彼は芸術的週刊誌”新案内De Nieuwe Gids”を創刊。
  これはすべての保守主義からの文学と社会の解放のための反国教徒評論であった。
  1890年、彼はSDBに参加し、ドメラ・ニーウェンホイスの反対派の指導者、そしてまず内部闘争を行なうことなく、SDBから分裂して
 是が非でも社会民主党を結成しようとするグループの代表となった。
  彼の主なマルクス主義への寄与はマルクスの資本論の巻1の翻訳と、特に1893年の自己資金でのマルクス主義週刊誌”新時代
 De Nieuwe Tijd”の創刊で、これは1921年12月の彼の死までマルクス主義左翼の機関誌であった。
  1896年5月に、これはカウツキーのノイエ・ツァイト(新時代)をモデルとし、SDAPの週刊となった。
  編集者はファン・デル・フースとともに、ホルテル、ローラント・ホルストとピーテル・ウィーデイクで、ウィーデイクは後に編集書記となり、
 そしてこれをトリブーネ派の理論機関誌とした。

  ヘルマン・ホルテル(1864−1927)はマルクス主義者の第2世代に属した。
  このカルヴァン派牧師の息子は、確かに彼の時代の偉大な詩人であった。
  アイスキュロスに関する論文を書いてから、明白な名声を彼の象徴主義で理想主義な詩”五月”(1889年)で得た。
  これは依然として彼の最も有名な詩であった。
  彼をある種の汎神論に至らせる精神的危機のあと、スピノザの倫理学に霊感を受け(これを彼がラテン語からオランダ語に翻訳)、
 ホルテルは彼の時代の文学運動と絶縁し、マルクスとカウツキーを学び始めた。
  1897年、彼はSDAPの熱狂的メンバーとなった。
  非常にダイナミックで目立った演説家で、ホルテルはとりわけマルクス主義をうまく一般化し、非常に多くの労働者の容易に近づける、
 非常にいききとした仕方で表現した。
  より理論的なパンネクークより、ホルテルはダッチ社会主義労働者のためマルクス主義を具体化した。
  彼の翻訳のおかげで、マルクスとカウツキーのいくつかの著作に、そして戦後はレーニンの国家と革命に近づけるようになった。
  今日、ホランドでは彼は政治的分野を忘れた文芸批評家によって五月の詩人として紹介されが、ホルテルはとりわけ確信した活動家で、
 革命的理想を決定的に勝ち取った。
  1889年、彼はブッセム支部を創設し、議長となって、組織化の才能を証明した。
  彼はすべての社会主義運動の活動に献身した、労働組合と選挙(彼は何度かSDAP、ついでSDPの候補だった)、党大会、ストライキ
 に介入で。
  党の宣伝者としては、ネーデルランド東部地域のトウェンテで繊維労働者にマルクス主義の教程を教えた。
  1914年以前、ホルテルは他の誰より、とりわけ扇動者、組織者、宣伝者として、党に仕えた。

  ホルテルより理論的だが、実践的でなかったアントン・パンネクーク(1873−1960)は今日にとってマルクス主義左翼の国際次元を
 具現している。
  彼は最も最後のダッチの彼の世代である。天文学を学んで、それで国際的名声を得て、−そのため彼のマルクス主義理論家としての
 1920〜1960年の間の活動は影が薄くなった−政治に参加した。

  *1903年、彼の姿勢はすでに急進的であった。ライデンの大労働者集会での介入で、労働者はすべての可能な手段で犯罪的法を
  阻止しなければならないということを要求する決議を提出し投票された。
   解雇の脅威のもと、彼は首相のコイペル(1901−1905)によって召喚され、彼はパンネクークの文章に注目した。
   マルクス主義と彼の文章についての一般的議論のあと、パンネクークはコイペルから”公務員は自由にその政治的意見を表せる”
  という同意を得るのに成功した。しかしかれは仕事を失ってまで法律と衝突にはいるつもりはなかった。
   これらの脅しはパンネクークが法とブルジョア国家に反対して絶えず書くことをやめさせることはできなかった。

  しかし、このリベラルなビジネスマンの息子にとって、最初の選択は社会主義ではなくブルジョア・リベラリズムであった。
  1899年に始め、彼が観測所で天文学者として働くライデンの選挙委員会メンバーとなった。
  ユートピア作家を多読し、しかしもっと重要なのは社会民主活動家と大いに議論し、パンネクークはブルジョア環境とのすべての接触を
 断った。
  1899年7月、SDAPの地域支部に加わり、すぐに議長、書記、財政係となる。彼は労働組合結成を手伝った。
  完全に活動家の活動に関り、すぐに責任者となり、1900年、ロッテルダムのSDAP大会の地区代表となった。
  支部は依然ほぼ知識人からなり、これらは1907年にはトリブーネ運動を形成する:マウリッツ・メンデルスJ.A.N.クヌッテル
 W.ファン・ラフェスタイン。
  ホルテルとローラント・ホルスト同様に、パンネクークはマルクス主義の訓練をファン・デル・フースから受けたがカウツキーからも受けた。
  フースは彼らにディーツゲンを紹介(?)。カウツキーは長く彼らの教師であった。
  科学と哲学的訓練のおかげで、厳格な精神と教師として大いに明晰さに恵まれ、パンネクークはすぐにホランドとドイツの両方で
 知的マルクス主義左翼の理論家の主要な一人となった。
  (オランダの)新時代に、そして1903年から(ドイツの)ノイエ・ツァイトに書き、パンネクークは第2インターナショナルのすべての
 主要な議論で中心だった、大衆ストライキ、国家の問題、民族問題について、戦争について。
  かれはしばしば、政治的思考の深さでローザ・ルクセンブルクに匹敵し、レーニンの国家と革命に影響を与えた。
  彼は出現しつつある修正主義と闘い始めた最初のマルクス主義者の一人であった。
  彼の”カントの哲学とマルクス主義”は1901年に出版され、修正主義者の核の新カント哲学を攻撃、これは社会主義を革命的闘争の武器
 から単なるブルジョア倫理に変えた。
  パンネクークは確かに組織者というより理論的で、彼の影響はとりわけ思想の分野で感じられる、彼はSDAPでの修正主義多数派に対する
 組織的闘争を決定的に重視するできなかった。
  にもかかわらずパンネクークは依然として活発な活動家であった。
  彼はSDAPの生活に完全に参加、大会に介入し、彼の地区支部のためリーフレットを書き、配布。
  パンネクークの純理論家としての名声はほとんど正確ではない、少なくとも1921年以前は。
  彼は本の虫ではなく、明晰な党宣伝者で、マルクス主義を支持し、信仰としてのカトリックに反対、社会主義者計画に関しリベラルに反対した。
  1903年の運輸ストライキのような大社会運動に倦まず活動し、労働者の大衆集会に入り込んだ。
  彼にとってプロレタリアの問題が天文学者としての仕事より重要となり、反動的コイペル政権からの生計の脅威を受けた。
  しかし本当に彼が国際的そして国際主義者活動家と理論家となるのはドイツでであった。

  ホランド外ではあまり知られていないが、詩人ヘンリエッテ・ファン・デル・スハルク(1869−1952)、芸術家のリハルト・ローラント・ホルスト
 (1869−1938)の妻は、ホルテルと同じ世代に属し、1897年、ホルテルとともにSDAPに参加。
  彼女はダッチ労働者運動の歴史と大衆ストライキの理論の発展に力強く貢献。
  公証人の娘で、社会主義者運動に参加するために彼女の中間階級環境と1880年代文学運動から離れるのに成功した。
  彼女は目立った社会主義者演説者であった。
  彼女は初期のインターナショナルの会議、最初は1900年のパリ、ついで1904年のアムステルダムで国際的聴取を得た。
  アムステルダムではゼネラルストライキに関する大会決議を提出する仕事を与えられた。
  ローザ・ルクセンブルクの友人だが彼女はローザの厳格さには程遠かった。
  彼女は政治決定と分裂の重大な瞬間での中央派的躊躇を、純な理想主義同様、あるいは彼女の信仰的初期との不完全な絶縁さえ
 具現化した。
  1927年以降労働者運動から離れたとき、彼女のもとのマルクス主義は速やかに宗教的社会主義運動に解消し、文学的および詩作
 活動に戻った。
  彼女の政治生活はマルクスとともに始まり、トルストイとガンジーで終わった。

  マルクス主義者の第3世代もまたファン・デル・フースによって訓練され、あまり知られていないが、トリブーネ運動形成で大きな重み
 を持った。
  SDAP内での修正主義との忍耐強い闘いを行わないでのその急いだ新組織結成と1914年以降のその頻繁な政治的及び理論的混乱で、
 マルクス主義左翼のイメージを傷つけ、すべてのマルクス主義左翼は同じ宗派的刷毛で汚された。
  最も目立つ人物は疑いもなくウェインコープ、ファン・ラフェステインとセトンで、彼らは最初のトリブーネ派の不可分の権威を、ついで1918年
 以降、共産主義者運動をその真の組織指導者として踏み固めた。

  ダフィト・ウェインコープ(1876−1941)はすばやくトルールストラへの反対の主導をとった。
  ユダヤ教指導者(ラビ)の息子で、文学で卒業、文学と学生運動をあきらめ社会主義者に加わった。
  1900年、SDAP参加後2年にパリの国際社会主義学生会議の代表であった。
  彼は理論家というより闘争家としてのダイナミックな個性をもち、すぐに頭角を現し、党の指導部に参加(1905年)、アムステルダムの
 戦闘的ユダヤ人プロレタリアートの強い支持を引き付けた。勇敢であったが、独裁的、宗派的、そしてちょっとした政治家であった。
  かれはパンネクークやホルテルからあまり良くは好かれず、ホルテルは戦中、彼を一種の急進化したトルールストラと見た。

  ウェインコープ同様、ウィレム・ファン・ラフェスタイン(1876−1970)は1898年、パンネクークと同じ支部のライデンでSDAPに参加。
  ファン・ラフェスタインは文学史家で後に図書館館長となり、ジャン・ジョレスをオランダ語に翻訳。
  ウェインコープ同様、彼はトリブーネ運動、ついで共産党の組織者。パンネクークにはドライで学者ぶっていると見られた。
  1925年までのすべての政治的変遷でウェインコープにつき従った。

  同じことはヤン・コルネリス・セトン(1875−1943)にも当てはまる。パンネクークによると単純ではっきりした信念の教師で、彼は
 社会主義教師組合の指導者でアムステルダム第3区の革命的支部の書記であった。
  たいした理論家ではなかったが、彼は、最初デ・トリブーネついでSDPそしてCPHの真の組織者と財政係であった。
  3人一緒に3人組を形成し、事実上の、若干あやしいとしても、トリブーネのついで1925年までのホランド共産主義者運動の
 指導部であった。
  1917年以降、この3人組はホルテルによって代表される共産主義者左翼の不倶戴天の敵であった。

  トリブーネ運動の始めの彼らの革命的確信にもかかわらず、この3人組は結局、そして戦中、日和見主義が明らかになる。
  急進的宗派主義と中央主義と定まらない実践の間の動揺はダッ・チマルクス主義左翼の国際的影響を弱めるのを助けた。
  外から見て、マルクス主義左翼は理論的および政治的総体を形成するように見えた。
  実際は、それは要素の総計以上で、この要素にはホルテルやパンネクークのような最も素晴らしく最も革命的な要素は事実上政治的
 意思決定の中心から離れていた。

  ダッチ左翼のドラマの初めにおいて、国際的に認められたマルクス主義理論家、ホルテルやパンネクーク、そしてローラント・ホルスト
 さえ、SDAPの組織的生涯にほとんど重みをもたなかった。
  こうであったから、彼らはルクセンブルクやレーニンと異なる。後者らは理論家としても組織者としても、ロシアとポーランドでの彼らの党の
 活動に指導を与えるに十分な政治的権威をもっていた。
  ウェインコープはSDAPとSDPで専従党員であったが、ホルテルもパンネクークも専従の職業革命家ではなかった。
  活動家としての彼の力強さにもにもかかわらず、ホルテルは常に、時には全身を傾ける詩人としての活動と党の宣伝者と演説家としての
 活動の間に引き裂かれていた。
  それゆえ、彼のときどきの切り捨てられた、気まぐれの行動で、彼は党大会から消えることがあった。
  パンネクークは疑いもない活動家であったが、天文学研究とマルクス主義理論家としての活動の両方に夢中であった。
  彼は活動的であったが組織の具体的問題で安らぎを感じることは決してなかった。
  彼はわずかに1906〜1914年のドイツにおいてだけ完全に社会主義者運動に専念していて、真の職業革命家であった。
  彼は修正主義者とマルクス主義者の最も重大な分裂の瞬間、ホランドに不在であった。

  労働者運動の発展のゆっくりしたこの時期、個性の重みは依然として大きかった。
  党指導者が修正主義者を自認し、党の政治生活をを衝突させるのにその組織的力を使用するほどに否定的なだけに。
  トルールストラがそうであった、彼はかつてフリージア人民党ついでSDBメンバーであった。
  彼は空いている時間はフリージアの詩人で、神秘学と心霊主義に興味があった。
  弁護士で典型的議会政治家で陰険な策略を取った。
  1897年以来、最初はフリースラントの遅れた農民により規則的に議会に再選され、彼は自己をプチ・ブルジョアの利益と同一視する
 傾向があった。
  彼はベルンシュタインに近く、結局、自己自身をブルジョア・リベラルと考え、1912年には今日の社会民主は1848年頃のリベラル党と同じ
 役割を演じるとまで宣言することができた。
  しかし、自国ではやりたいことがやれるように、彼は第2インターナショナルの大会では非常に狡猾でカウツキーの中央派に近いように
 見せかけた。
  彼は議会での議席確保とSDAPの支配の両方を深く気にし、左派からのどんな批判をも除くためにどんな策略でもやろうとする覚悟があり、
 マルクス主義反対派の追放さえ行った
  他はトルールストラより修正主義者であった。元植字工のウィレム・H.フリーヘン(1862−1947)、元塗装工ヨハン・H.スハペル(1868−
 1934)、そしてヘンリ・H.ファン・コル(1852−1925)は公然と社会主義への革命的道に反対で議会的道に賛成であると宣言した。
  すべてが議会メンバーであった。
  この改良主義者と修正主義右派はその大衆的基盤をSDAPに結びつくいくつかの組合にもった。
  改良主義者ヤン・アウデヘースト率いる輸送組合NVSTと、とりわけ1894年結成のヘンリ・ポラック(1868−1943)率いるダイヤモンド
 労働者総連合ANDB。ポラックは徐々に修正主義者に加わったが、積極的にトリブーネ派に同情的であった。

  新しく結成された党での修正主義指導者の重みは、更に曖昧な分裂の結果形成されたことによりマルクス主義左翼の再結集の
 深刻な障壁となった。

  週刊新時代(デ・ニーウェ・テイト)周辺に左派は結集。ファン・デル・フースの背後にはSDAPへの新参がいた。ホルテル、パンネクーク、
 ローラント・ホルスト、ファン・ラフェステイン、ピーテル・ウィーデイクそしてウィバウト、そしてまたウェインコープ、ヘンク・J.F.M.スネーフリート。
  しかしこれら左派は均質でなかく、1909年の分裂の決定的瞬間に分裂、そのうちの幾人かはSDAPを棄てた。この時点でウィバウトと
 ファン・デル・フースは降参。
  熱狂してSDAPに加わった若いマルクス主義者世代は党が実践で修正主義に転換するのをみるのは遅くなかった。
  早くも1901年に、彼らは足元に踏みつけられる革命的原則を守るための辛い闘争を始めた。
  彼らの闘争は、彼らの精神的主人のカール・カウツキーとともに、ホルテルとパンネクークが政治的結びつきを持っていた、そして友情の
 結びつきをもっていたような活動家にもなお一層妥協しなかった。
  彼らはカウツキーがドイツだけでなく、ダッチ党でも彼らを修正主義への闘争で支持することを望んだ。
  彼らはこの支援の連帯でひどく誤った。


 修正主義に対するマルクス主義の最初の闘争

  労働者運動の歴史でしばしばそうであるが、革命的原則を守る闘いは最初実践分野で行なわれる。
  ダッチ党での日和見主義への闘争は、歴史的後知恵では今日ほとんど重要に見えない、農民問題と学校問題の2つの問題周辺に中心が
 置かれた。

  ホランドのような国では農民問題の重要性はあきらかであった。
  商業資本の植民地への投資は地方での古い社会構造に伴われた。
  畜産部門は別として、発展を始めているが、ダッチ農業は依然として同じく退歩した多量の農民とともにトルールストラの領地の特に
 フリースラントでは退歩したままであった。農民とともに多量の土地なし農場労働者が農民、地主、農場主によって雇われていた。
  かなりの割合のSDAPの候補を議会に送った農民票を引き付けるために、1901年修正が党綱領に提案された。
  土地の社会主義化による既存体制の廃止、それゆ私有財産制の廃止の代わりに、新綱領は借地農場契約を規制した。
  社会主義綱領の観点から更に悪いのは、農業労働者に向けられた箇所である。
  彼らの闘争を工場の労働者の闘争と結びつけることと、残りのレタリアートとの彼らの共通利益を強調することをする代わりに、
 綱領は彼らを農民自由土地所有者に転換することを提案。
  ”2項.彼らの独立存在保証のため土地なし労働者のために固定価格での土地と農業用具の支給”

  トルールストラの主導で乗り出されたこれらのスローガンははっきりとした改良主義で資本主義社会の廃止でなく改良を提案。
  党左派は”これら2つのスローガン社会主義方向への社会の発展と矛盾する”と指摘。

  しかし1905年のハーグ大会では左派の圧力のもと、当時農業問題で左翼的位置を保持したカウツキーの支援でこれら2点は
 党の農業綱領から削除された。
  ”これはマルクス主義の最初の衝突でそしてその最初の勝利であった。しかしまた唯一の勝利であった。”

  改良主義への闘争はもちろん始まったばかりで、そしてダッチ議会での宗教学校へ交付金付与に関する議論で新段階に入った。
  明白なイデオロギー的理由で、俗人統治者は国が宗教を基盤とする学校を財政的に支援することを望んだ。
  リベラル・ブルジョアジーのこの策略に反対するマルクス主義者の闘争は同時代のフランス急進と社会主義者の反教権主義と全く
 共通点はない。
  ルクセンブルクが記しているように、後者は眼をそらすためのもので、”労働大衆を社会問題からそらし、階級闘争を消耗させる、
 ひとつの最も有効な手段”。

  ネーデルランドの種々の信仰宗派に与えられる支援は本質的に階級闘争の興隆により、これは権力にあるブルジョアジーからの
 イデオロギー反応を引き起こす。
  当時の労働者運動の古典的理由に従い、左翼は”プロレタリア階級闘争の高揚とともに、リベラルはいつでもどこでも、信仰を資本主義の
 必要な城壁とみなし、そして少しづつ宗教学校への抵抗を放棄する”、と指摘。
  週刊新時代周辺に結集したマルクス主義者の修正主義者が宗教学校への国家支援に国会で公然と賛成投票するのみての驚きを
 想像したまえ。
  更に悪いことに、社会主義者のフローニンゲン大会(1902年)では宗教イデオロギーの支配に対する全マルクス主義闘争をはっきりと
 放棄した。
  歴史的理由で、信仰がカトリック主義、カルヴァン主義、そしてユダヤ教の3重形態で重くのしかかった国ではこれは本当の降伏である。
  大会は”ネーデルランドの労働階級の主要な部分は子供への宗教教育を要求し、これに反対することを望ましくないと考える、なぜなら宗教的
 そして非宗教的資本家の両方に反対する労働階級の経済的統一を神学的理由で破壊するのは社会民主ではないから”と記す。

  ここで使用された議論−信仰と非信仰労働者の統一−は既存のイデオロギー的、経済的秩序の受け入れを前提としている。
  このように、”この決議で、党は改良主義への最初の道を取った、これは革命的綱領との絶縁を意味し、教会と国家に分離の要求はもちろん、
 宗教学校への国家資金援助を意味しない。”
  ダッチ左翼は世俗学校を美化するつもりはない、その中立的装いはそれを放棄していると書かれていることは興味深い。
  マルクス主義者の観点から間違っていて、それは宗教と世俗学校の間の選択という位置には基づいていない。
  その目標は断固として階級闘争の領域に立つことであり、これは、どんな口実でも、ブルジョアのどんな自由思考者グループとのどんな
 協力をも拒否することを意味する。
  マルクス主義者の党の修正主義への方向付けへの疑惑は労働者の闘争の心に基づいることが証明される。


 1903年運輸ストライキ

  このストライキは第1次大戦以前のダッチ労働階級の最も重要な運動であった。
  これはプロレタリアートに深い痕跡を残し、彼らは社会民主に裏切られたと感じ、その最も戦闘的グループはなお一層革命的
 サンディカリズムに転じていった。
  1903年以降、、マルクス主義者と修正主義者の間の分裂は引き戻す可能性のないほど進行した。
  この意味では1903年ストライキは革命的運動としてのトリブーネ運動の真の始まりを刻印した。

  運輸ストライキは最初の真っ先の今日、想像し難い搾取状態への抗議であった。
  鉄道員の生活状態は19世紀の間の資本の原始的蓄積期に匹敵した。
  1900年には、彼らは4日の休日で年361日働いた。
  更に、異なる組合間への分裂により、団体主義(コーポラティズム)の強い感情が統一闘争の可能性を小さくした。
  機械工、運転手、鉄道労働者のすべてが各自の組合の持っていた。
  他の闘争への参加がなくても、各組合がストライキを始めることができた。
  組合の各自の組合の特殊性の慎重な防護のため、資格の違いに加えて、労働者の大衆統一に対する障壁が形成された。

  これらの状態に反対する山猫ストライキが1903年1月31日、労働組合でなく、鉄道員の一般組合員(ランク・アンド・ファイル)
 から始まった。
  大衆ストライキとして出現し、すべての運輸組合に影響下だけでなく、国中に広がった。
  出発は大衆ストライキで、特殊な要求に基づいていなかったが、ストライキを行ったアムステルダム港湾労働者への連帯であった。
  運輸労働者は労働を続けることでスト破りとなるのを拒否し、更に雇用者が鉄道で商品を移動させるのを阻止した。
  この連帯運動は大衆ストライキに特徴的で、ついで雪玉のように大きくなり、パン職人、鉄道車両技術者が支持した。
  しかし、運動はダッチプロレタリアートの他の部門へ広げることには成功しなかったが、その独創性は、たとえそこにそのメンバーが
 加わっていたとしても、輸送組合とSDAPに指名されたのではない、一般組合員により選出されたストライキ委員会結成にあることは
 疑う余地はない。

  すべてのこれらの特徴は大衆ストライキは単なる組合、経済ストライキであることをやめ、徐々に国家との直接の対決を通して政治的と
 なることを意味する。
  2月6日、ダッチ政府の戦争大臣の命令は軍隊動員を表明、また内部でカトリックとプロテスタント組合が活動する組織がスト破りの
 再結集のためつくられた。
  このブルジョアの攻勢は2月25日ストライキに対する法の適用で頂点に達し、ストライキ参加者は投獄の脅威に直面し、政府はストライキ
 破壊のため軍隊輸送会社を設立した。
  すべての脅威と政府の処置より更に悪いことに、ストライキは内側からトルールストラのSDAPにより土台を崩された。
  2月20日、6万のストライキ参加者を代表する集会で、これはストライキ委員会と異なり、公開の場で開催されず、トルールストラは種々の
 政治及び組合組織からなる防衛委員会の結成を提案。
  この委員会はSDAP修正主義者フリーヘン、運輸ボスJ.アウデヘースト、NAS、そしてアナーキストのニーウェンホイス追従者で構成
 されたが、アナーキストは参加を拒否。
  その方向性は政府の処置に反対して提案された行為を損なうことが証明された。
  フリーヘンは宗教(カルヴァン派、ルーテル派、カトリック)アブラハム・コイペル政権はまだ命令をだしていないからストライキを要求できない
 と宣言。
  実際、この防衛委員会の姿勢は、種々の組織そして特にSDAPにより自己宣言され、すぐに消極的であることが明らかとなった。
  委員会はニーウェンホイスのリバータリアン支持者と社会民主の間の対立で無力化しただけでなく、トルールストラが委員会を発案し
 ながら、メンバーでない、そのトルールストラの圧倒する重みは、委員会が闘争外部の組織のままであることを意味した。

  アナーキストの冒険主義への闘争という口実を利用し、トルールストラは政治ストライキに反対した。
  彼は、もし労働者が恥ずべき法に反応して政治ストライキを決定すると、議会で悪くなるだけだと主張。
  これは防衛委員会あるいは党権威になんら委ねることなく社会民主週刊に書かれた。
  この無規律な行為は修正主義者指導者が、労働者あるいは党活動家に説明可能だと考えていなかったことのはっきりした証拠であった。
  それはより良いブルジョアジーとの調停に入るために独立して行なわれた。
  パンネクークのペンにより、左派は激しくこの行動を批判したが、この行動は長い一連の闘争の裏切りの始まりであった。
  あなたのだらしなく、優柔不断な行為は有産階級と政府に奉仕するだけだと、パンネクークはトルールストラに対して書いた。

  この裏切りは4月に第2輸送ストライキの間に公然化した。
  政府は公共輸送でのすべての停止を禁止する、反ストライキ法賛成投票を行った。
  精力的姿勢の採用の代わりに、アウデヘーストのような委員会の社会民主指導者はホランド中のすべての労働者を含むゼネラル・
 ストライキ反対に至った。
  しかも、アムステルダムでははしけ、冶金工、道路労働者、海兵、そして技術者のすべてと、手工業労働者が同情からストライキに参加した、
 1月と2月より階級闘争にとってより好ましい社会状況を作りながら、正にストライキが勃発したその瞬間に。

  4月8日一般組合員の圧力でゼネラル・ストライキが招集された。
  その最初の弱点は鉄道労働者集会が秘密に開催された、それ故、他の産業の労働者に閉ざされたという事実にある。
  軍隊によるストライキを展開させるはずの駅と線路の占領により、ゼネラル・ストライキ化は失敗した。
  闘争を拡大する運動は自発的であったが、ユトレヒトとアムステルダムでは、技術者と石工が連帯運動に参加。
  軍隊の存在、あるいは新法による、扇動者は5年、スト参加者は2年の投獄の脅威も、1月以来、闘争の喜びを経験したストライキ労働者
 の情熱を冷ますのに十分ではなかった。

  労働者の勢いと情熱は闘争を指導すると主張する防衛委員会の社会民主指導者の取った決定により破壊された。
  4月9日、フリーヘンはストライキ運動停止の決定を強制した。
  運輸労働者の怒りと不信に直面し委員会は消え去った。
  大衆集会で労働者はフリーヘンを彼は裏切ったの叫びでこき下ろした。左派でさえ演説を阻止された。
  労働者はマルクス主義者と修正主義者の違いを区別できなく、ローラント・ホルストの演説はストライキという叫びに出会った。
  修正主義者指導者の姿勢はこのようにダッチ労働者階級による長く続くマルクス主義派を含む全社会民主の拒否を引き起こし、
 アナルコ・サンディカリズムに利益をもたらした。

  1903年運輸ストライキは純粋のダッチ起源ではなく、ヨーロッパ階級闘争の転回点を刻印した。
  それは自発的大衆ストライキとして起こり、ブルジョアジーを政治的に押し戻すことができる意識的力となり、労働者に疑問の余地のない
 勝利の感情を与えた。しかしその敗北はゼネラル・ストライキを推進した組合と党の敗北であった。

  このストライキは、政治的及び経済的ストライキの結合により刻印された全歴史的時期に入り、1905年のロシア革命運動で頂点に達する。
  ローザ・ルクセンブルクが強調したように、プロレタリアートの政治活動の発展とともに、革命的状況だけに大衆ストライキの重要性の完全な
 大きさと広がりが出現する。

  ローザ・ルクセンブルクが、修正主義者との論争で、パンネクーク以外の誰よりも、良く論証した闘争の同質性、即ち、世紀の折り返しで
 ホーランドを含むヨーロッパ中とアメリカ大陸までも広がる同一で同時に存在する現象であるということを例証した。

  アメリカの同志によると、1900年のペンシルヴァニア鉱山労働者の大衆ストライキは社会主義思想の普及の点で10年の宣伝以上であった。
  1902年のフランス鉱山労働者のそれ。更に1902年、技術者の闘争に連帯してストライキがバルセロナの全生産設備を麻痺させた。
  (バルセロナのすべての生産労働者の闘う金属労働者の支援のゼネラルストライキ:marxists.org
  更に1902年スウェーデンの普通選挙権のための大衆ストライキ、同様に同年のベルギー、また20万以上の東ガリシア中の農場労働者が
 労働組合結成権防衛のためストライキをした。1903年1月と4月のダッチ鉄道員による2つの大衆ストライキ、1904年ハンガリーの鉄道労働者
 による大衆ストライキ、1904年サルディニアでの大虐殺に対する抗議のイタリアでのストライキとデモ、1905年1月ルール鉱山労働者の
 大衆ストライキ、1905年10月プラハとその周辺地域(10万以上の労働者)でのガリシア地域議会普通選挙権のためのデモを伴うストライキ、
  (ガリシア地域議会⇒ボヘミア議会選挙の、190 10月デモと大衆ストライキ、レンブルク(?)でのガリシア議会選挙での普通選挙権のための
   *ここの部分は誤りがあると思われbourrinetも.marxists.orgも意味不明。)
  1905年11月オーストリア中での帝国議会の普通選挙のための大衆ストライキとデモ、1905年再度イタリア農場労働者、そしてやはり
 1905年イタリア鉄道労働者の大衆ストライキ....(ローザ・ルクセンブルク)

  国家との政治的対決に備えて、大衆ストライキは革命の問題を提出する。
  それは、ホルテルが1903年ストライキ後強調したように、労働大衆の革命的エネルギーとプロレタリアの本能を証明しただけでなく、
 世紀の折り返し点での全状況を深く変えた。我々は と考える各々の理由がある。
  我々はいまや闘争のための時期に乗り出した、そこでは危機に瀕しているのは国家権力と制度である、
  闘いはすべての種類の困難によって数十年続くだろう、その長さはいまだ予測できない、しかしそれは非常におそらく、たとい西ヨーロッパの
 労働者の権力掌握がなくても、短期に階級勢力との均衡でプロレタリアートに有利な基本的変化の先駆けとなるだろう。(ローザ・ルクセンブルク)

  カウツキーによる彼の本”権力への道”でのこれらの論評は、ダッチ左翼によって、カウツキーとトルールストラやフリーヘンのような彼の
 ネーデルランドでの支持者に対して取り上げられたのであった。
  1901年ストライキはもちろん改良か革命かという問題を提出し、不可避的にSDAP内で党の精神だけでなく、更に差し迫った闘争を
 裏切っていた改良主義者との対決をもたらした。


 SDAP内のマルクス主義者反対派(1903−1907)

  党内反対派は、トルールストラとフリーヘン指導部の妨害によるストライキの敗北の結果は労働運動にとって悲惨であったので、一層
 活発となる。
  ストライキ行動で約4000労働者が解雇された。NASのメンバーは闘争とフリーヘンに対する反対で活発な位置にあったにもかかわらず、
 1903年の8000から1904年の6000に落ち込んだ。
  トルールストラのSDAPは今や反逆という世評で、やはりメンバーの大きな落ち込みに苦しんだ。
  1902年末の6500から1903年の5600。
  対照的に、引き潮の兆候、ストライキの終わりには信仰を基盤とする組合の急成長で意気喪失さえ見られた。
  政治的には最も戦闘的組合運動、SDAPの経済組織となりえたはずのNASはドメラ・ニーウェンホイスのアナーキスト立場に近づいた。
  メンバーの低下はトリブーネ運動の出現まで続き、これがますます影響した。
  対照的に1905年SDAPに結びついた社会主義者組合は彼ら自身の中央組合連合NVV(ネーデルランド労働組合連合)を結成。
  ヘンリ・ポラックの改良主義のダイヤモンド労働者連合に強く影響され、それは急速に国の主要な組合連合となった。
  出発直後、NVVは建築産業での闘争拡大支援を拒否し、翌年、ストライキ労働者との連帯を控え避ける同じ姿勢を採用。

  党での改良主義の発展と労働者党としての弱体化に直面して、マルクス主義者はまず穏健な姿勢をとった。
  党の指導権を征服するために断固とした分派を形成するのをためらったばかりではなく、トルールストラに対する攻撃に極端に
 注意深かった。
  トルールストラは積極的にストライキを裏切ったが、彼らは依然として反逆を語ることを躊躇した。
  1903年の末のSDAPの第9回大会で運輸ストライキのバランス・シートが議論されたとき、ホルテルは控えめな言葉で話した。
  このストライキだけでなく、他の重要な事項でも彼はトルールストラの指導部の反対者であると主張しながら、指導部の裏切りをはなす
 ことを躊躇した:当然、裏切りの問題はなく、トルールストラの政治概念の弱さといつもの動揺の問題がある。

  1903年のエンスヘデ大会ではマルクス主義者の新時代が望んだ有益な効果はなかった。
  トルールストラは人民の編集を諦めて、タクと交代しなければならなかったけれど、ホルテルは
  共通の外部の敵に対し、党の団結と統一の名で手を握らなければならなかった。
  トルールストラはなんとかホルテルと彼の仲間は彼を政治的でなく個人的に攻撃しているということを広めることができた。
  彼を指導部の責任から取り除こうと望んでいる連中がいると不満をいいながら、信用の問題を持ち上げた。
  党の反対派の方向性に最も責任ある分子の一人として現れないで、犠牲者を装い、それで全体として党の信頼を得た。
  このようにして修正主義者指導部は原則の現実の問題と階級闘争の戦術の議論を避けた。
  完全に孤立していたが、マルクス主義少数派は降伏せず、断固とした闘争を続けた。
  1905〜1907年まで、マルクス主義者グループは修正主義者による強力な対抗攻撃に直面した。


 a)ハーグ(1905年)からユトレヒト(1906年)大会へ

  党の真の指導部であった議会グループはブルジョアジーとの協力に更に進んだ。
  1905年州政府の選挙の間、修正主義者は運輸ストライキを潰したアブラハム・コイペルの反革命党政府に対し、リベラル支援の
 問題を取り上げた。
  他の党の左派同様に左派は選挙過程の間、財産を基にした選挙権に反対し、普通選挙権を支持する立場をとったリベラル候補支援
 を拒否しなかった
  1905年ハーグ大会のこの意味の決議を採用:党は選挙において差し迫った普通選挙権導入賛成に立つ候補だけを支援すると宣言する。

  しかし、マルクス主義者にとってはこの戦術の転換と一時の支援の原則化に問題がなかったわけではない。
  トルールストラが望んだのと反対に、たとい彼らが反聖職主義だとしても、どんな種類のリベラルにでも労働者に投票を呼びかけるのは
 全く問題にならない。
  階級の立場から、闘いは特別な資本主義政党でなく、資本主義全体に対してである。
  プチ・ブルジョアと小農要素と混ざるのを避けるため、労働者は自分の真の本質を明確に知らなければならない。
  パンネクーク、ホルテル、ファン・ラフェスタインが1909年の分裂の説明のためにドイツ社会民主出版に配布した小冊子”SDOの結成”で
 書いたように、どんな場合でも、党は労働者に彼らの敵は議会の右側同様、左側にもいることを示さないといけない。

  しかし大会決議を尊重しないで、党指導部、議会グループ、社会主義者日刊人民は、社会主義者有権者が彼らの好むまま、自由のどんな
 リベラル候補にでも自由に投票するままにした。
  労働者運動内での古典的な立場を堅持しながら、マルクス主義者は労働大衆から孤立した。
  この問題でトルールストラはできる限りを演じた。

  しかしながら党内に反応があった。1903年の出来事にもかかわらず、党は修正主義に屈服するには程遠かった。
  依然としてプロレタリアによるトルールストラの議会グループへの反応が可能であった。
  1905年のハーグ大会は、疑いもなく、ロシアで起こった革命的出来事の圧力のもとにあり、党の新指導委員会を指名し、ホルテルを含む、
 多数のマルクス主義者から今回は構成された。
  そして反対派は新委員会とトルールストラの議会グループの間で拡大した。
  議会グループは新リベラル政府を改良の道を進ませるために、支持することを望んだ。
  新時代周辺に基礎を置く指導委員会にとって、これは問題外であった。
  真の争点は、政府がリベラルあるいはあるいは宗教であってもストライキ権の制限に反対する扇動を展開することであった。
  更にまた、労働者の扇動を非難する立場をとることでトルールストラは党の規律を破った。
  1906年3月9日、ブルジョア議員の前で労働者によって取られ、党によって支持された活動を公然と否定した、彼は指導委員会メンバー
 であるという事実にもかかわらず。

  この衝突は労働者運動に現実の問題を提出した。組織の政策を決定するのは議会グループか党によって選出された指導委員会か。
  これは、党はブルジョアジーと政策協力を行う無統制の議会グループに仕えるのかあるいは議会グループの行動はしっかりと大会で
 取られた決定によって統制されるべきかかどうかという問題であった。
  この影響と意思決定の衝突はホランド特有の問題ではなかった。
  ローザ・ルクセンブルクは議会指導部と闘わなければならなかった。この党の真の指導権の問題は革命的性格維持の問題であった。
  1905年以降、ロシアではボルシェヴィキが国会に議員をもった時、議会グループはしっかりと中央委員会によって統制され、
  1914年8月戦争予算に反対投票したのが少ない例の一つであるのは偶然ではない。

  トルールストラと指導委員会のこの対立は真に基底にある問題、改良か革命か、を提出するようになる。
  ユトレヒト大会(1906年4月15−17日)の前に彼が出したパンフレットで、トルールストラは新党指導部をいつものように
 彼が個人攻撃をされたように装って新マルクス主義者中央は教条的で独断であると攻撃した。
  ホルテル・グループによる迫害の無実の犠牲者を演じながら、彼はしかし、SDAPは国民党であるべきで国際主義党であるべき
 でないという、彼の思考の根底に真にあるものを隠すことができなかった。
  党は大小のブルジョアジーと妥協しなければならない、
  プロレタリアートの中に存在する、宗教的そして部分的にはプロレタリアートのプチ・ブルジョア的性格、プチ・ブルジョア偏見を
 考慮しなければならないだけでなく、彼ら自身のなかのブルジョアグループ反対派を利用しなければならない。
  この改良主義的方向性をより受け入れやすくするために、トルールストラは反知性的デマに訴えることを躊躇しなかった。
  マルクス主義者は超幼稚で党を宣伝クラブに変えようと望んでいる。マルクス主義者の夢想は堅固な議会の現実と向き合わ
 なければならない。
  夢のプロレタリアートに依拠すると、党は現実の労働者の頭上を浮遊するだろう、議会と地域評議会でその存在と活動の始め
 以来したように、一体、我々の人民の現実生活により深く浸透するだろうか?

  このようにトルールストラにとって、プロレタリアートのためのて唯一可能な生活は、更に彼は慎重にプロレタリアートを他の人民層と
 混合させて、階級闘争でなく議会で行なわれた。

  彼の目標、党を純粋に議会のダッチ国民党にすること、を遂行するために、トルールストラはマルクス主義者指導部を取り除くことだけを
 提案した。党の再組織で全権力は議会グループに与えられ、これはその時まで規則により指導委員会にたった2代表しかいなかった。
  活動家によって選出された党委員会執行部は議会グループの執行部によって置き換えられることになった。
  議会グループの執行部は彼よれば公式にでなく実質的に議会と実際的政治で党を代表する。
  目的は実は真の修正主義者グループの本当の独裁を確立することである。
  左派からすべての批判の自由を奪い取るために、修正主義者グループはすべての党機関を指揮することだけを望んでいる。

  トルールストラ、フリーヘンとスハペルによって活動家の間に行われた巧みなキャンペーンで彼らは修正主義でなく彼らの人格批判の
 魔女狩りの犠牲として装うことができた。
  彼らは非常にうまく行ったので、ユトレヒト大会で採用された決議は議論の自由と党での批判の制限を提案した。
  脅威のもと、党の統一が必要であることを考慮し、大会は、我々の党に疑いもなく重要である、批判の自由の乱用を非難し、
 すべての同志に品位と党の統一を尊重するような制限内に批判を保つ必要性を課した。


 b)新修正主義コース(1906−1907)

  この決議は彼らを恐怖に陥れることを目標とし、もし可能ならば修正主義に降伏させる、マルクス主義者の頭にぶら下がった
 本当のダマスカスの剣で、疑いもなくあるうる。
  大会後、トルールストラは公然とホルテルをおどすことができた。 36p下
  もしホルテルがもう一度ブルジョア民主主義との和解を語るのなら、この主張のトゲは革命によって除去されるだろう。
  この修正主義者の勝利の宣言は党のマルクス主義綱領の修正の方法を明確にさせた。
  綱領修正委員会は党機能の規則を軽蔑して形成された。委員会の指名を決定する党委員会は綱領修正決定の権限をもった
 唯一の機関である大会での委任なしになされた。
  委員会は修正主義者の影響のもと、党参加のマルクス主義的条件の変更を提案したに過ぎない。
  党はマルクスの制度を基礎にしたのに、参加のためには基礎をなす唯物論哲学の受け入れを必要としなかった。
  このようにして門戸は非マルクス主義者、宗教そしてブルジョア分子にさえ開かれた。

  1907年のハーレム大会は修正主義の勝利を確認しただけであった。
  少数のマルクス主義者がその埋め合わせをするために委員を務めたが彼らの意見をいうことができただけであった。
  大会はマルクス主義者と修正主義者の中央に位置する宣言を出した。
  綱領は正統マルクス主義でも修正主義でも2つの傾向の間の妥協でもないでありうる。
  ホルテル、パンネクーク、ローラント・ホルストに代表されるマルクス主義はただ単に私的な意見の問題でしかありえなかった。

  この大会で蒙ったマルクス主義の敗北はパンネクークもファン・デアフースも彼らの党指導部に反対するパンフレットを配布
 できないほどであった。
  満場一致で採択された大会結語はユトレヒト大会で採択されたものより強いものであった。
  批判の権利は党の統一の名で停止された。党民主制は彼らが単なる個人的けんかとみなしたことを終えさせることを望む
 メンバーの非常な多数の同意により公然と足元に踏みつけられた。

  マルクス主義者は非常な少数で、選択は降伏と闘争の間で、彼らは党の古いマルクス主義者の姿勢と闘うことを選択した。
  彼らはこのようにして彼ら自身の評論デ・トリブーネ(護民官)を創刊、これはマルクス主義者グループの名となった。


 トリブーネ主義者運動の誕生

  1907年10月、急進的マルクス主義者は彼ら自身の社会民主週刊を発行。
  デ・トリブーネの管理はトリブーネ組織の将来の指導者、ウェインコープ、セトンとファン・ラフェスタインで彼らは第3アムステルダム
 支部の無条件支持をえた。この支部は党で最も革命的なもののひとつで、パンネクーク(ライデン支部)とホルテル(ブッスム支部)が
 定期的に寄稿した。
  彼らはすべて将来の革命の希望の奮い立たされていた。資本主義の全般的危機とはまだ分析されたいなかった経済危機の始まり
 により歴史的にはそれはいまだかつて最も有利な時期であった。

  彼らの姿勢はすでに反議会主義的で、労働者はどんな議会または国民的幻影も凍結して国際的闘争で結びつくべきである。
  目標は事実、まず第一に投票権と社会転換の領域でブルジョア民主主義の不誠実な策略の現実の意味を明らかにし、第二
 労働者に国際的立場と海外の階級闘争の真の意味の思考をもたらすことである。

  この政治路線は将来のボルディガグループのものに、ブルジョア民主制への政治的そして理論的闘争と国際主義の断言の宣言で
 非常に接近していることは記するに値する。
  しかし、本質的違いは、時期と結びつき、マルクス主義者の修正主義者に対する組織された闘争は反対派の形態での理論的論評
 周辺に起こるのが見られるという事実である。
  非常に後には労働者運動で、党内反対派でなく組織的分派形成が徐々に必要となる。
  ボルシェヴィキは彼らはこれを行うのが遅すぎたが、これを理解した最初である。

  トリブーネ派は彼らが多数派であるアムステルダムのような支部は別として、組織的活動が極めて困難であることを知るようになろう
 ことは明白であった。
  修正主義者によって中央機関から追い出され、彼らは彼らの闘争は本質的に理論的なものと思った。
  1907〜1909年のマルクス主義者トリブーネ派の理論的寄与は国際共産主義者左翼の構成で更に非常に重要で決定的であった。

  しかし、修正主義との闘いで妥協をしなかったデ・トリブーネの出版による政治的闘争は極めてすみやかに強化されすぐに党での分裂
 の問題をもたらした。
  反マルクス主義者による魔女狩りが始まった。
  ロッテルダムではトルールストラのデ・トリブーネ禁止の提案を拒否したアルンハイム大会(1908年4月19−21日)の直後、
  修正主義者主導者は地域出版からマルクス主義者編集者を解雇した。
  このあと、他のマルクス主義者地域出版の禁止の過程が広がった。
  党に公然の危機があった。それは議会とブルジョア政党の前でマルクス主義者に対するトルールストラの公での介入と速度を増した。


 時期の問題と危機

  トリブーネ派との対決は1908年にトルールストラが議会である立場を取った時におきた。
  即ち、彼はマルクス主義の枠組み内で理論的方法で労働者に資本主義の発展を理解させる必要性を公に否定した。
  階級闘争に抽象的論理的理論は必要ないと彼は主張。
  とうとう、彼は革命を必要としないで、そしてそれゆえ平和的に自動的方法で資本主義自身社会主義になるだろうという考えを擁護した。
  それは社会主義は最早、危機という客体的条件の存在とプロレタリアートの意識の成熟によって決定されないというにも等しかった。
  それは単なる宗教的信仰となった。
  デ・トリブーネはこれらの断言に非常に激しくそして痛烈な仕方で党の修正主義の象徴のトルールストラに答えた。
  社会民主の実践的政治家はまた理論を理解しなければならない、彼はそれを知り、それを守ることができなければならない。
  ブルジョアジーにとってはそれは多分非常に重い任務であるが、労働者階級は少なからない指導者に要求する。
  この知識、この社会主義科学は確かに非常にしばしば労働者にとって理解するのがブルジョアジーからより来る者より容易である。
  労働者は社会主義が何であるか彼自身の生活から直ちに理解できるが、ブルジョアジーはまず最初に理論を理解しないとならない。
  たとえば、トルールストラにとって明確でなかったこと、階級間の経済格差は常に拡大するに違いない、もし階級間の格差が深化しない
 のならば、そのときは我々の社会主義は信仰に解消する、まぎれもなく、消極的な希望となる。
  労働者はすでに十分に希望と信念をだまし取られている。彼らはそのために社会主義を必要としない。
  教会はまた彼らがすべてが天国ではよくなと信じるのを支援し、そして良きリベラルと民主主義者は間もなく良くなるだろうことを望んだ。

  しかし修正主義のトリブーネ派による批判で最も重要なのは世界危機への資本主義の歴史的過程の理論的確認であった。
  この点で、ダッチ左翼は、ずっとあとのパンネクークを例外として、1913年に表現されたローザ・ルクセンブルクの位置と結びついた。
  いわゆるマルクスの予言は の意味では完全に実現されている。
  近代資本主義の発展期はますます短くなり、一般的に強力な生産から弱体な生産への変化のchからとしての危機は依然として
 持続しそして、資本主義の発展とともにより長引き、拡大し、かつて地域的にに限られた災難はだんだん世界的規模の破局となった。

  SDAPの多数はこれらのトルールストラの修正主義理論への攻撃を単に個人的とと考えた。
  このあと修正主義者はトルールストラが演説している公の集会でのデ・トリブーネの販売を禁止。
  このように労働者運動の歴史で非常に深刻な行為を犯しながらそして労働者党での批判の自由に反対した。
  これはマルクス主義立場の排除の過程の始まりだった。過程は1909年に続く年月に過酷に加速する。


 プロレタリア道徳の問題でのホルテル対トルールストラ(1908年12月)

  1908年の間、デ・トリブーネはマルクス主義の大衆化へのホルテルの主要な貢献集:”労働者へ説明された史的唯物論”を
 出版。1903年ストライキを例にとり、ホルテルは階級闘争は既存秩序の支持者によって擁護された一般道徳を否定する真正の
 階級道徳を生み出すことを示した。
  ホルテルによって擁護されたどんな宗教道徳の基礎をも掘り崩す唯物論概念は議会でカルヴァン派代表デ・サフォルニン・ローマン
 によって11月19から20日に激しく攻撃された。
  民族の統一を守るため、彼は社会民主を階級間に戦争をあおりたてることと、このように労働者階級をマルクス主義に夢中にさせる
 ことを望んでいると非難した。
  ブルジョア概念の代表者による攻撃に面したホルテルとブロックを作る代わりに、トルールストラはホルテルへの非難に乗り出した
  彼はホルテルを党を代表しておらずそしてマルクス主義の単なる戯画と表現した。
  彼にとって道徳は社会関係によって決められず、プロレタリアートとブルジョアジーに等しく当てはまるものであった。
  これを擁護するために彼はマルクスが第2インターナショナルの規則に使用したあいまいな概念:権利、義務、正義、を利用した。
  しかし、トルールストラは故意に人類に共通な価値と、彼が普遍的とする、公認の道徳を混同することにより、階級闘争の道徳−共通の
 利益と勝利をめざす活動により導かれる−を怪物に変えた。
  ホルテルの唯物主義は野蛮の見通しを破壊し終えさせることの純粋な訴えであった。
  彼によると、ホルテルは例えば、労働者がおぼれている資本家の息子を助けるのに反対するようなものである。
  トルールストラのこの議論についてのデマ彼が味方しているはデ・サフォルミン・ローマンのと同じであった。

  ホルテルは彼のやり方で、猛烈にデ・サフォルミン・ローマン同様にトルールストラにも闘争での必要性のために出版したパンフレット
 に書いて速やかに反論した。
  政治的孤立の時期の後、彼は党との闘争に乗り出した。
  ホルテルは先鋭に、実際に彼が言っていることの本質で、ブルジョア陣営を選んだトルールストラ個人に焦点をあてた。
  彼はまたトルールストラが第2インターナショナルの規則の曖昧な言葉を使用してマルクスの真の思考を裏切ったことを示した。
 数年後に出版されたマルクスとエンゲルスの間の通信によりホルテルの議論が勝ち誇って立証された。
  1884年11月4日の手紙で、プルードン主義者と妥協を強いられたとマルクスは説明した。
  規則の前文に真実、道徳と正義同様に義務と権利という語を含む2節を含むことを強いられた。
  しかし害を与えることができないような方法でそれらを置いた。

  同時に、ホルテルはプロレタリアートの道徳は人間感情にいかなる関心もなく資本家個人を攻撃することを意味するという非難に
 猛烈に反論した。
  プロレタリアートの道徳は本質的に経済的範疇としてのそして各人の総和ではないブルジョア階級に対してその利益を守ろうとする
 闘う道徳である。
  それは階級のない社会に廃棄することを、そこに階級社会から全体として開放された人間性の道徳である真の道徳、をもたらして
 目指す道徳である。
  この論争のあと、分裂は不可避であった。それは党からどんな批判的マルクス主義グループをも取り除くためにトルールストラの望んだ
 ことであった。
  12月3日のフリーヘンへの手紙で彼はと書いた。分裂がある。唯一の頼りは分裂であり得る。


 デフェンテル臨時大会での分裂(1909年2月13−14日)

  トリブーネ派と彼らの週刊を除くために、修正主義者指導者は臨時大会でデ・トリブーネを抑え込む問題を検討する党員投票を
 提案した。
  党委員会は躊躇し、そのような特別な手段に反対さえした。
  トルールストラは委員会首脳を乗り越え党員投票で大会招集に必要な2/3票を獲得。
  このようにしてSDAPの大多数が修正主義者とともに退廃していることが明らかになった。一般党員は指導部よ更に修正主義であった。

  更に、新時代から来、そしてデ・トリブーネと協力したマルクス主義者分子はトルールストラに降参した。
  1月31日に開催された協議会に間、これには主要なトリブーネ派編集者は招待さえされなかったが、ローラント・ホルストとウィバウトは
 SDAP日刊紙人民Het Volkに付加される将来の週刊紙Het Weekbladを運営するために彼らの定期誌の編集部から去る用意があると宣言した。
  新出版はどんなマルクス主義者の修正主義批判もないだろう。
  闘争で彼らの同志と連帯する活動の代わりに彼らは忠誠な党同志の共通作業に賛成であると表明し、トルールストラに忠誠を誓った。
  右派とマルクス主義者左派とのあいだの和解の中央派姿勢に避難しようと試み、平和マルクス主義者と称した。
  ホランドのマルクス主義運動で、ローラント・ホルストはいつもこの姿勢をとった。
  トリブーネ派はこの降伏に対して直ちにローラント・ホルストを批判した。
  これは修正主義者が望んでいる分裂をもっとはっきりさせる姿勢であった。

  その部分では、マルクス主義者少数派は最後の結論まで党内で闘うには同質からほど遠いのは本当であった。
  少数派の真の組織首脳を構成するウェインコープ、ファン・ラフェステインそしてセトンはデ・トリブーネを維持し続けるためにすでに大会前に
 分裂を決心していた。
  ホルテルは他方、公式的には編集部メンバーではなく、より注意深かった。
  彼は3人組のこの性急さを信用せず、分裂に参加したくなかった。
  彼はウェインコープが彼の姿勢を和らげることと、もし彼らがデフェンテル大会でのこのできごとを阻止するのに失敗しても、デ・トリブーネの
 禁止を受け入れる犠牲によってさえトリブーネ派が党にとどまることを望んだ。
  大会終了2日後の2月16日のカウツキーへの手紙で、彼は自分のの姿勢を以下のように要約した。
  私はデ・トリブーネの編集部に対しずっと言ってきた、
  我々は他を我々に引き寄せるためにできることすべてをなさなければならない、 しかしもしこれが失敗したら、最後まで戦いそしてすべての
 我々の努力が失敗したあとで、そしたら我々は従わざるを得ない
  実際、デフェンテルの臨時退大会でトリブーネ派は2日間、極度に困難な状況で激しく闘った。
  デ・トリブーネの教授という皮肉な言い方で、一貫して反知性的デマをしばしば使用するトルールストラによってしばしば遮られ、
 しばしば大会の不可解な笑いに出会いながら、彼らは攻撃的であった。
  彼らは党の革命的本質、ホルテルの句による党の塩を維持するために闘った。
  日和見主義のマルクス主義的批判の自由はなかった、
  ドイツSDPのような大きな党に存在する批判の自由は革命意識の覚醒の可能性の抑圧の自由を意味した
  他の誰よりもホルテルは大会でトリブーネ派の革命的信念を示すことができた。
  決定的時期が始まった。ドイツでのぼんやりと現れる戦争と革命の時期、これはホランドを動揺に引き込むだろう。
  国際的に時期は非常に重要である。国際的戦争が迫っていた。
  そのときドイツプロレタリアートは反乱するだろう、そしてホランドはその色合いを選択しなければならない。
  それで党に我々の闘争の革命側に最初にそして真っ先に身を投じる人物がいることを党は喜ぶべきである。

  SDAPが急速に沈むのを知り、ホルテルはデ・トリブーネ周辺への革命的再結集の訴えを鳴らしながら、大会の終わりに結論づけた。
  デ・トリブーネ周辺の我々に来て参加せよ。船を沈むままにさせるな。
  この訴えはしかしながら分裂と新党結成への招待ではなかった、なぜならトリブーネ派はそこでどんな発展の可能性も失うと思わなかった
 から。我々の党での勢力は拡大できる、我々の党外での勢力は決して大きくならない。

  しかし党内にとどまるこの戦いは失敗。ファン・デルフースのような修正主義者の古い敵は、トリブーネ派の排除には反対したが、
 にもかかわらずデ・トリブーネ禁止に投票した。
  平和マルクス主義者は中立主義となり、革命性を放棄した。党の統一の名で分裂は不可避となった。

  大会はデ・トリブーネを禁止し、主にローラント・ホルストが運営する週刊で置きかえることを、委任209、反対88、棄権15で圧倒的に決めた。
  しかし特に、デ・トリブーネの3編集者、ウェインコープ、ファン・ラフェスタインそしてセトンを党から追い出した。
  修正主義者の見解では党の多数のトリブーネ派シンパと指導者を分離するため組織の頭を切り取る必要がある。

  この策略は失敗した。トリブーネ派のこれら代弁者の排除の衝撃の後、活動家は立ち直って支部に戻り、3編集者との連帯を表明。
  非常にすみやかに、それまで非公式グープであったのが組織されたグループとなった。
  大会直後、 トリブーネ派が分裂前に予想していたこの可能性の証明で、永続的組織委員会がトリブーネ派の再結集のため形成された。
  ホルテルを含む新時代グループ・メンバーは委員会参加を止めた。
  6週間の疑問と躊躇のあとホルテルはついに心から追放されたトリブーネ派と働くことに身を投じる決心をした。
  ホルテルは純粋に自発性に依拠して第2党を結成することに対し警告した。

  実際、3月13日のSDAPの党の党員投票の出版ではデフェンデルでの決定を是認し、排除された人々が第2党を結成するよう追い込んでいた。
  3712対1340で、SDAPはデ・トリブーネの全編集部の追放を確認した。

  その間、3月10日、排除のこの決定的知らせが知られる前、ホルテルとウェインコープはブルッセルに行った。
  かれらはベルギーの首都に置かれていた国際社会主義者事務局ISBの3人のメンバー、カミーユ・ユイスマン、エミール・・ヴァンデルヴェルデ、
 エドワルト・アンセーレ、すべて中央派か右派に属していることが知られていた、に会った。
  会合の目的はダッチ問題の解決。彼らの恐れとは反対に、ホルテルとウェインコープはISBから多大な理解を得た。

  デンフェルで決定し追放に憤然として、SDAP内でのマルクス主義の自由な表現として排除メンバーの再統合の獲得を試みた。
  事務局の書記のユイスマンはSDAPから以下のような決定をえるため仲裁者としてホランドに出かけた。
   デフェンテルの追放の取り消し
   ヘンリエッタ・ロラント・ホルスト運営の新週刊紙の編集者の一人の受け入れ
   マルクス主義者少数派の批判権の再確認
  これらすべての点の関して、SDAP指導機関は3月15日出されたユイスマンの意見に動揺したように見える。
  しかし前の日、アムステルダムで、トリブーネ派の党の結成大会が開催され、SDP(社会民主党)という名が採用された。
  このようにして結成はISBとSDAPとの交渉の結果さえまたないでそのメンバーによって決定された。
  SDAPは3月10日以降の議論を知りながら、3月13日の追放を確認した。

  SDPはこのようにして極度の混乱状況で生まれた。
  9支部に分かれた419名のメンバーの小さな党であった。
  その綱領は修正主義者が改訂する前の1906年の前の古い党のものであった。

  ウェインコープは組織能力により大会で党議長(プレジデント)に指名された。
  ホルテルはSDP指導部メンバーとなった。
  しかし彼の組織的重みは弱すぎて大胆な政策家のウェインコープのような人物にさえ対抗できなかった。
  ウェインコープは彼のグループの生贄にどんな統一の可能性も犠牲にささげる覚悟ができていた。
  そのような政策はマルクス主義者グループと決定的分裂を望んでいたSDAPの修正主義者多数派にはもちろん都合がよかった。

  このようなすべての理由で、ISBの分裂を終わらせる努力は失敗した。
  結成大会後1週間の3月21日の緊急招集された臨時大会多数派はSDAPに戻るというユイスマンの提案を拒否。
  ホルテルは少数のSDAPの保守派とともに賛成だった。
  彼はウェインコープの姿勢を特に信頼できないと判断し、彼を限りなく自説に固執すると内密で非難した。
  彼は非常に落胆し、SDPを去ろうとさえ考えた。しかしISBとSDAPのトルブーネ活動家の再統合の条件の拒絶により、
 彼は新党の活動に完全に関わることを決心した。

  ウェインコープの曖昧な態度にも関わらず、3月21日大会では実際は古い党への再統合の門戸は開かれたままであった。
  大会決議では多数派の単一党維持の希望が表された。
  大会はそれ故トリブーネ派が彼らのマルクス主義的批判とSDAP内での活動を維持する条件を提出した。
  大会はホランドに単一の社会民主党が存在することを希望し、党委員会に統一のため、SDP解散に全力をあげる指示する。
  できるだけ早く
  党員投票によりSDAPが3編集者の追放を取り消す。
  SDAPは明確に公式化した決議で、公然と、あらゆる形態で、文章または口頭で、綱領に具現した原理を主張しそして批判を
 表す、すべてのそのメンバーあるいはメンバーのいかなるグループの自由をも確認する。

  ISBとSDAPによる実際、最後通告に見えるこれら条件の拒絶、この条件はインターナショナルでの新しい状況を生み出した、
 今や同じ国に2つの社会主義者党があり、両方とも第2インターナショナルのメンバーを主張する。
  この状況はインターナショナルにとって例外的であった。
  ロシアの場合の過程があった。この場合、社会主義革命党、ユダヤ同盟そしてRSDLP(ロシア社会民主労働党)はすべてインターナショナル
 のメンバーであった。しかしRSDLP内で、ボルシェヴィキとメンシェヴィキの分裂後、1912年のプラハ分裂まで2つの分派と両派外の両者とも
 同じロシア社会民主労働党メンバーのままであった。

  彼らの党がインターナショナルの党であることはそれはSDPのマルクス主義者活動家にとって非常に明白であった。
  分裂は地域的なもので、インターナショナルそれ自身の分裂でなかった。
  インターナショナルは依然として世界のプロレタリアートの生きた本体で、トルールストラのSDAPの破綻は決して第2インターナショナル
 の破綻ではなかたことは彼らにとって明らかであった。
  SDPにとって、ボルシェヴィキは、モデルの党は依然ドイツ社会民主で、依然としてそれに密接に結びついていた。
  SDP指導部のメンバーとして、ホルテルは少なくとも1911年カウツキーの中央主義と絶縁するまで、カウツキーとの定期的通信を維持した。
  パンネクークは1906年ドイツに移動し、ベルリンの党学校で教え始め、SDAPの分裂以来、SDPのブレーメン支部のメンバーであった。

  SDPは早速、インターナショナルの支部になるために、国際社会主義者事務局ISBの接近した。
  ホルテルとウェインコープは、インターナショナルに述べた際に作成された報告を基に、ISBに分裂の理由を説明することを任された。
  インターナショナルの正式支部として受け入れてもらうという要望はポール・ジンガー(ドイツSPD)とフランス人エドゥアール・ヴェイヤン
 代表される左派とオーストリア人ヴィクトル・アドラーを代弁者とする右派の衝突をもたらした。
  SDPのインターナショナルへの加入許可はわずかな多数で拒絶された。
  アドラーの許可反対の決議は16票、ジンガーの賛成決議は11票(1909年11月7日)。
  事実上、ISBの多数派による修正主義支援のおかげで、この投票によりSDPは国際労働者運動から排除された。

  しかしSDPはボルシェヴィキ左派から無条件に支持された。
  レーニンはISB会合の前にホルテルに接触し、憤慨してブリュッセル事務局の決定を非難した。
  彼は修正主義者に分裂の責任があることを疑わなかった。
  ISBは公式主義的立場を取り、そしてあきらかに日和見主義者を支持することで、マルクス主義者に分裂の責任があるようにした。
  彼は無条件のトリブーネ派のデ・トリブーネの禁止受け入れ拒否支持を行った。
  彼ら同様に、彼はローラント・ホルストの中立主義を非難した。
  彼女は悲しいことに和解の痛ましい精神を示した。

  これはSDPとボルシェヴィキのますますの密接な協力活動の始まりであった。
  SDPが最終的に1910年インターナショナルの完全支部をして受け入れられたのは部分的にロシア左派のおかげであった。
  SDAPに対し、1委任、7反対で、1910年のコペンハーゲン、1912年のバーゼルの国際会議参加が可能となった。

  修正主義者の策略は別として、SDPはこのようにして国際労働者運動に加わった。
  それは国際左翼とともに、しかしとりわけドイツ左派と、革命的原則の擁護のため闘うことであった。
  しかし、一時的にホランドのマルクス主義者グループは分裂によって弱体化した。
  多くのトリブーネ派は党を再征服するか、あるいは少なくとも労働者の多数を勝ち取るためにSDAP内で最後まで戦うことができない
 ことが明らかとなった。
  かれらの急いだ分裂は、トリブーネ派指導者がスネーフリート、ローラント・ホルスト、ファン・デル・フースのような、依然としてマルクス主義者
 であるが、待って様子を見る姿勢の中立派である分子を一緒に連れてくることができなかったこと意味した。
  そういっても、小さなトリブーネ派党は疑いもなく、明確な、そして革命的分子の再結集の極であった。



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