ヘルマン・ホルテル小伝  WIKI ホイヘンス

  参考→オランダとドイツ共産主義左翼

  1864年11月26日、北ホラント州ウォルメルフェールで生まれ、1927年9月15日、ブリュッセルで死亡。
  父はシモン・ホルテルでメノナイト派宣教師で文学者、母はヨハンナ・カタリナ・ルフトで下宿所有者。
  1890年7月17日、ルイセ・カテリネ・クノープ・コープマンスと結婚、子供はなかった。
  父は1865−1870年に案内De Gidsにエッセー、旅話、文学評論を執筆していた。

  父が結核で死んだときにホルテルは6才で、病気の父しか思い出がなかった。彼には兄と妹がいた。
  家族は田舎のザーンダムからアムステルダムへ移った。
  母は下宿を経営して子どもを育て、教育した。
  メノナイト派と母に育てられたことが彼の社会参加と独立思考に軌跡を残した。
  ヘルマンは休日を祖父母とフリースランドのバルクで過ごした。祖父はそこのメノナイト派教会の牧師であった。
  五月はここで書かれ、この村に言及されている。
  父の文学研究(1871年)の束を見て、彼の詩への刺激となったであろう。
  父は優れた近代文学批評の才能を示した。
  母は収入が少なかったので子供を厳しく育てた。
  バルラエス・ギムナジウムに通い、1883年に卒業し、アムステルダム大で古典語を学習。
  アムステルダム学生団と討論共同体UNICAのメンバーとなり、クリケットに熱中。
  彼はムルタトゥリ(ダウエス・デッケル、1820−1887)の影響を受けた。
  間もなく、80年代人のサークルの詩人と知り合った。
  ホルテルが博士号(アイスキュロスについての論文)を得た年に”五月”が現れた。(アムステルダム、新案内、1889年)
  五月はウィレム・クロース(1859−1938)の影響のもと書かれた。この詩ではルイセ・カテリネ・クノープ・コープマンスへの愛が歌われた。
  彼女とは1886年に恋におちいった。
  自然主義的、印象主義的でしかし哲学的・神秘的な詩で新ロマン主義と象徴主義で霊感を受け、自然の喜びにあふれている。
  ホルテルはイギリス・ロマン派詩人ジョン・キーツ(1795−1821)に影響されている。
  1890年、一編のVerzenを出して、大きな精神的空白に陥った。
  1890年、ハーレムの貴族の娘、ルイセ・カテリネ・クノープ・コープマンスと結婚して、アメルスフォートの市立ギムナジウムで
 古典語教師となった。
  感受性が強く生徒や同僚に悩まされた。
  この危機の時期に、彼は母の手紙のおかげでかろうじて静かな仕事で生活が落ちつくことができた。
  彼は確固とした信念の探求に入った。ここで詩の考え方のはっきりした変化が生じた。
  これにより80年代人と絶縁が生じた。
  (19世紀末、80年代人の文学運動が起きた。彼らは19世紀に広がっていたとらえどころのない説教詩と絶縁した。
   1881年、文学サークルフラノールがアムステルダムで結成され、メンバーにはウィレム・クロース、アルベルト・フェルウェイ
 ロデウェイク・ファン・ディセル、フレデリク・ファン・エーデンヤコブス・ファン・ローイなどがいた。)

  この精神の危機は個人的発展の結果だけでなく、90年代初めにオランダの文化的前衛が通った革新の一部のでもあった。
  ホルテルはこの革新過程の開拓者を演じた。このようは革新は彼の感受的詩Verzenによって既に宣言されていた。
  ロデウェイク・ファン・デイセルとともに感受主義sensitivismeで、恍惚感と神秘的体験の詩的表現を追求した。
  このような視点で象徴主義への道をとった。
  1890年後、まもなく80年代人の幾人かがこのような転換を行った。彼らは哲学、難解な科学、すべての神秘主義に関心をもった。
  彼らは以前の時期の印象と無秩序の優先に対し、スピノザを純粋思考の手本とみた。
  約4年間、スピノザの教えに自然世界の絶対的真実を見つけることができたと確信した。
  1893年、教師をやめ、ブッセムに移動、H.P.ベルラーヘの建築した家に住んだ。おそらく義理の親の援助であろう。
  そこで彼は数年間、完全に文学と哲学に専念。
  1895年、スピノザのエティカ(倫理学)の翻訳を出版。
  1892−1896年にはスピノザ的詩が現れ、倫理的指針だけでなく、喜びと栄光が絶対性に仕える神秘的幻覚のために希求された。
  続く数年にオランダでの象徴主義的芸術観の転換が文化共同体の意識に起きた。これで記念芸術あるいは共同体芸術の理念が成長した。
  神秘主義と社会改革の結合がこれらの芸術観を特徴づける。
  もしすべての芸術分野が一緒になって総合理念を追い求めれば、ゴシックやバロックのような認識形式が現れ、それにより全社会はより高い
 水準に到達する。
  急進的個人主義から、極端な社会的希求への90年代半ばの折り返しはこのようにして完成した。

  1895年頃から近代芸術家と知識人は種々な社会哲学によって魅了されるようになった。
  最も重要なインスピレーションの源泉はローマ・カトリック、芸術と社会に関するリヒャルト・ワグナーの理論、ジョン・ラスキンとウィリアム・モリス
 のイギリス・ユートピア社会主義そして世紀の変わり目にカール・カウツキーとフランツ・メーリンクのドイツ社会主義。
  ホルテルは正統マルクス主義を付け加えたが、これはドイツ労働運動を通じてオランダに流れ込んだ。
  彼はそうすることを、彼の義理のいとこ、フランク・ファン・デル・フースによって鼓舞された。
  (ファン・デル・フースの母はホルテルの妻の父親の姉)
  ファン・デル・フースは90年代オランダの数少ないマルクス主義専門家の一人であった。
  特にマルクスの革命理論は彼にとって啓示であった。
  これによって彼はスピノザの教えより自己自身と自然、人間性に大きな確実性をみつけた。
  彼は近い将来、人類は天上の幸福を地上にもたらすことができるというカウツキーによって一般化された予言によって魅了された。
  1890年の危機後、彼は彼自身の性格の柔和さと優しさを抑え込んだ。彼は厳しい人生路を選択した。
  彼は彼自身を高水準の目標にささげるために、英雄主義的、闘争的になることを望んだ。
  社会主義者党ではこの人生の態度は自分自身のものになると彼は考えた。
  ここで、知識人と詩人として、展開し、輝き、大きな生きた共同体に属しているように感じる機会を見つけた。
  1897年、社会民主労働党SDAPのメンバーとなり、1年後に新時代De Nieuwe Tijdの編集者になった。
  新時代はファン・デル・フースが創刊したオランダの社会民主の科学的月刊誌。
  1897−1900年に書いた最も重要な文章はオランダにおける1880年文学運動批判だろう。
  そこでは80年代人運動をブルジョア運動でその限界があったとした。
  その時以来、労働運動の真ん中で、情熱的な党の親分であった。彼はほとんどの時間をそれに使った。
  当時は無給が当然であった。
  ギムナジアムでの授業をやめた後からは、1895年初めの彼の妻の金持ちの母の死亡まで、自宅での貧弱なサンドイッチでなんとか
 暮らした。妻の母の遺産相続で以来夫婦は遺産からの収入で生活できるようになった。
  新時代は始めのころは主にホルテルの資金援助を頼りにしていた。
  H.P.ベルラーヘの建築したブッスムの家は禁酒、禁煙で彼らは主に菜食であった。

  ホルテル自身は本来理論家でなく、生涯、師となる人との接触に努めた。
  90年代半ばまではウィレム・クロース(1859−1938)、アルベルト・フェルウェイ(1865−1937)、ロデウェイク・ファン・デイセルらで、
 社会主義者、後に共産主義者としてはカール・カウツキー、1910年頃はアントン・パンネクークの生徒であった。 
  労働運動ではホルテルは主として宣伝者あるいは扇動家としての横顔を持っていた。
  党の会議では熟練した演説者でパンフレットは広く読まれ、党紙の勤勉なジャーナリストであった。
  彼の小冊子史的唯物論(1908年)はよく読まれほとんどのヨーロッパ諸国語に翻訳された。
  党の労働者にはホルテルは同志というよりは礼儀正しい教師だった。彼はいつもきちんとした服装で、テニス、クリケット、登山、セーリング
 といった貴族的趣味をもっており、そのためプロレタリアの党員の間にいかりをもたらしていた。
  党の統治の責任を負うよりは教育的仕事と扇動がむいていた。
  対立する問題で、決定する前には他人の議論をよく聞いたが、一旦決心すると誰も彼を説得することはできなかった。
  彼は先鋭な衝突、党との完全なん絶縁も辞さなかった。
  教条的マルクス主義者として彼は党指導部とよく衝突した。
  1901−1906年に彼は新時代グループの主導者として活動。
  党の左派が党指導部を攻撃するときはよく先陣を切り、少数反対派の立場で発言した。
  彼の主な対抗相手はトルールストラであった。
  1908年、ホルテルはマルクス主義週刊誌デ・トリブーネ周辺に結集した左翼反対派に参加。
  1909年のデフェンテル党大会後まもなく、彼はこのグループと一緒にSDAPを離党した。
  ほとんど2年間、この分裂した社会民主党SDPの指導部で活動した。
  SDPはロシア革命後ネーデルランド共産党CPNと改名。
  1910年末から党生活から数年間退き、詩作に完全に専念した。

  社会主義の詩としてホルテルは心に思い上がった目標を持った。
  彼は完全に新しい形態の芸術、社会主義的詩を基礎づけ、オランダ文学を未踏の極みに据えようと望んだ。
  SDAP期の詩は編集”詩Verzen”(1903年)に見られる。
  彼の詩への希求心はともすれば生活感がなく月並みに見える詩をもたらした。
  1912年の詩パンでは自然と人間の統合を描いた。それは労働階級の覚醒と革命、プロレタリアートの解放で到来する。
  47才で再び精神の危機が到来。1911年春、海に面したベルヘンに引っ込み、詩作に専念。
  7月パンの最後の章を執筆。心臓病に会う。以降肉体的病気にも悩まされる。
  1911年以来彼は妻以外に2人の女友達を持った。アダ・プリンスイェニー・クリンゲ・ドーレンボス
  彼の妻が第1次大戦の途中に死んだときに、彼は二人と愛人関係をもった。
  彼は余生をクリンゲ・ドーレンボスとともにしたことをプリンスには黙っていた。
  ホルテルの葬式でこの2重生活が明らかになった。

  ロシア革命に鼓舞されて、1917年にホルテルは再び政治的に活発になった。
  世界大戦の終わりまでに1年間スイスで過ごし、そこでボルシェヴィキ派の故国を離れたロシア革命家グループと接触した。
  彼の小冊子世界革命(1918)ではオランダのSDPの指導部の路線が批判されている。
  SDAP指導者同様にSDP指導部も日和見主義的であると彼は考えた。
  彼の攻撃は3人組、ダフィド・ワインコープ、ウィレム・ファン・ラフェストイン、ヤン・セトンに向けられた。彼らは一貫して協商国(英・仏・露)の
 勝利を望んでいた。
  マルクス主義からは両方の崩壊を望むべきであった。
  この国際主義を防衛するために、1918年ホルテルはスイスからデ・トリブネで党指導部に厳しい攻撃を行った。
  これは不可避にトリブーネ派党組織との絶縁を招いた。(1919年)
  彼の急進主義で彼とレーニン及びロシア共産主義者との関係は悪くなった。
  レーニンの共産主義における左翼小児病(1920年)に対し、ホルテルは偉大なレーニンへの公開の手紙(1920年、ベルリン)で答えた。
  レーニンの厳しい党規律と共産党への権力集中路線に対しホルテルは底辺民主主義の原則を擁護した。
  1917年に形成された労兵評議会の支配力維持を擁護した。
  ホルテルは”すべての権力を評議会へ”という標語に固執し、それから選挙と労働組合参加に反対した。
  ドイツの共産主義者運動内で、彼の扇動は左翼共産主義者、評議会共産主義者のドイツ共産主義労働者党KAPDの分離に大きく寄与した。
  1920年4月の結成時にKAPDは約40000の党員がおりこれはドイツの共産主義者の半分以上であった。
  1921から1922年には彼は定期的にベルリンに滞在しKAPDに関わった。
  この時期かれはドイツ語の出版物で評議会共産主義の称揚に務めた。(例えば1921年のプロレタリアートの階級闘争組織
  1922年KAPDはベルリン・グループとエッセン・グループに分裂、ホルテルはエッセン・グループに参加。
  エッセン・グループは共産主義労働者インターナショナルKAIを結成。

  ホルテルの思想はだんだん近づきがたくなった。
  彼の晩年に出版された詩集”労働者評議会”(ブッセム、1931年)では空しい未来の音楽がかなでられている。
  彼の晩年は病気と貧困で画期される。それ以上にほとんどの友人、党の仲間から疎外された。
  彼の心理的不安定性はだんだん激しくなった。
  ホルテルは1927年9月、彼の愛したスイスからブリュッセルのホテルへ戻る途中に狭心症で死亡。
  ヤン・ロメインアニー・ロメイン・ヘルスホール我々の文明の遺産(14〜19世紀に偉人伝、1938−1940年)で最後に登場。
  ここで、五月は80年代運動の最大の作品とみなされている。


  主な著作  詳細
   1897年 オランダの1880年代文学運動批判  
   1902年 ベルギーの全国ストライキ
   1905年 社会民主とアナーキズム
   1906年 実践での修正主義
   1908年 史的唯物論
   1912年 社会民主の結成
   1914年 帝国主義、世界戦争と社会民主
   1918年 世界革命
   1919年 オランダ共産党の日和見主義
   1920年 同志レーニンへの公開の手紙
   1920年 階級モラル
   1921年 全国労働者同盟
   1921年 五月運動の教訓
   1921年 モスクワのインターナショナル 
   1922年 プロレタリアート階級闘争の組織

   定期雑誌
    トリブーネ 1908−1921

    プロレタリア 1920−1922
    共産主義労働者新聞 1920−1922
    闘争(エッセン・グループ) 1923

    労働者の恐れ者知らず 1920−1924


 オランダの左翼
 フランク・ファン・デル・フース小伝
 アントン・パンネクークの人と思想(人間と思想と活動の詳しい論評)
 アントン・パンネクーク小伝
 ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト小伝
 オランダ初期社会主義者群像
 オランダとドイツの共産主義左翼


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