ヘンリエッテ・ホフェルディネ・アンナ・スハルク(ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト)  主な著作

  社会主義者詩人、政治、歴史、哲学、文学批評分野の作家。通称イェットJet。
  1869年12月24日、南ホラント州ノールトウェイクで生まれ、1952年11月21日、アムステルダムで死亡。
  母はアンナ・イダ・ファン・デル・フーフェンで父はテドール・ウィレム・ファン・デル・スハルクで公証人。
  1896年1月16日、画像芸術家のリハルト・ニコラウス・ローラント・ホルストと結婚。子どもはなかった。

  教会には通っていなかったがリベラルなキリスト教を背景とする著名なブルジョア家庭で育った。
  幼少時、個人的教育を受け、その後、アルンヘムのオーステルウォルデ・ドイツ人女子寄宿学校に入るがなじめず、一次、神経症で帰宅し、
 治療を受ける。18才でリージュで教育を終え、家に戻り音楽、文学を自己学習。
  1892年6月のライデンのハルヘワテルの水害で父と妹を失う。
  妻のキティ・ファン・フローテンを通して詩人のアルベルト・フェルウェイ(1865−1937)と出会う。
  フェルウェイは一時、新案内編集に関わっていた。
  1892年4月、画家のヤン・トーロップと出会い、彼にソネットを書く。
  フェルウェイは彼女の詩作を励まし、1893年4月、新案内に6篇のソネット発表。
  1892年11月のハーグのヴェルレーヌ顕彰の夕べでリハルト・ローラント・ホルストと出会う。
  1893年1月、フェルウェイの家に来ていたヘルマン・ホルテルと出会う。彼は彼女にプラトン、ダンテ、スピノザを読むことを勧める。
  彼女はP.L.タクのクロニク周辺の進歩的知識人の中に入る。
  1896年1月。ローラント・ホルストと結婚しヘト・ホーイに居を定める。
  ホルテルが資本論を夫婦に持ってきて、非常に感銘する。
  ローラント・ホルストはカウツキーとプレハーノフの著作も読む。ドイツの新時代(ノイエ・ツァイト)も読んだ。
  1897年(27才)、彼女と夫、ホルテルは社会民主労働党SDAPに参加。まもなく新時代(ニーウェ・テイト)の編集者になる。
  新時代は前年にフランク・ファン・デル・フースが創刊。
  彼女は党執行部に入り、1900年パリの社会主義インターナショナル会議に参加。
  彼女と夫はウィリアム・モリスの影響を受ける。彼女は芸術と社会主義を結び付けようと考えた。
  彼女は高揚した気持ちをいくつかの詩で歌いあげた。
  1902年、オランダにおける資本と労働で19世紀のオランダ経済史を分析。
  女性問題では労働者階級の女性はブルジョア・フェミニズムの性の闘争より階級闘争に関心があると主張。
  この問題で党の同志M.W.H.ルトヘルス・ホイトセマと1903年に論争、ホイトセマは女子労働の分離保護は女性の経済的自由を制限
 すると主張し、党の多くは、ローラント・ホルスト同様に女性労働の規制を支持。
  ローラント・ホルストは党主流と同様にフェミニズムに反対の立場を取った。
  ローラント・ホルストは1914年、社会的発展と女性の解放で職業労働と主婦としての務めの間の不一致は社会主義による女性の解放に
 よってもたらされると主張。
  1915年、思い出の祭宴で女性運動の先駆者、メアリ・ウォルストンクラフトルイズ・ミッシェルカタリナ・ブレシコフスカヤを歌い上げた。

  1903年の鉄道ストライキでは初めの歓喜とそのあとの苦い思いを経験した。
  1906年の全国ストライキと社会民主では1905年のロシア革命の結果起きる大衆ストライキとヨーロッパ社会主義の関係を議論した。
  1910年、ロシアの最初の革命について詩を書いた。
  また青年運動にも関与し、1901年の青年組織ザーイール(種子)結成をホルテルらと支援。
  1907年シュトットガルトの社会主義インタナショナルでの青年問題決議で独立青年組織の重要性を訴えた。(青年の社会主義的教育
  ここでヘンドリク・ド・マンと出会った。ド・マンの民主主義の時期(1907年、ヘント)に序文を書いた。
  国際社会主義者会議ではローザ・ルクセンブルク、カール・リープクネヒト、クララ・ツェトキン、アレキサンドラ・コロンタイ、レオン・トロツキー
 などと知り合った。
  彼女はベルンシュタインの修正主義を拒否し、カウツキーの正統的主張を支持。
  SDAP内ではローラント・ホルスト、ホルテル、パンネクーク、ファン・デル・フースの批判は主にトルールストラに向けられた。
  しかしP.L.タクの配慮で論争は党内にとどまっていた。
  彼女は政治分野だけでなく、哲学と倫理でも活動した。
  1903年、オランダ教師同盟の雑誌伝達者(De Bode)にブルジョアとプロレタリア道徳についてを書いた。
  これは社会学者S.R.ステインメッツからの反論を招いた。
  彼女は、ホルテル、パンネクークとともにマルクスとエンゲルスの社会理論はヨゼフ・ディーツゲンによって哲学的に深化されると考えた。
  1910年、ディーツゲンの哲学とプロレタリアートへのその意義が書かれる。
  彼女はディーツゲンの哲学はスピノザの現代版として多方面に適用できると考えた。

  1909年のSDAP指導者トルールストラと雑誌デ・トリブーネ周辺のウェインコープらの正統的マルクス主義者の闘争によるウェインコープらの
 追放で結成された社会民主党SDPには参加しなかった。
  彼女は国際社会主義ビュローの統一回復の試みを支持し、カミーユ・ユイスマンの和解斡旋の申し出を喜んだが、ウェインコープが拒絶し、
 深く落胆した。
  SDAP幹部は残ったマルクス主義者を取り込もうと週刊小誌発行を提案、ウィバウトとローラント・ホルストは編集員を受諾。
  ローラント・ホルストはトルールストラと同意見であるわけではなく、選挙運動での修正主義者とマルクス主義戦術(1910年)を発表。
  SDAPの1910年大会では反対派となり、1911年の港湾・船員ストライキでスネーフリート側につき、一緒に離党。

  スネーフリートはSDPに参加、ローラント・ホルストはローザ・ルクセンブルクの助言にも拘わらず、党外にいた。
  失望と孤独の気持ちを詩に表現した。(森の中の婦人、1912年)
  トーマス・モアの悲劇を詩での悲劇(1912年)、ルソーの伝記をジャン・ジャック・ルソー、彼の人生と仕事の描画(1912年)として発表。
  1914年の第1次世界大戦勃発で、愛国主義に国際主義とプロレタリア階級の統一が破れたことに強い衝撃を受ける。
  いくつかの冊子で反軍国主義を主張。SDAPの公式的立場に反対し個人的兵役拒否を主張。
  1915年、ヨハン・フィスヘルルイス・デ・フィセルらとSDAP、SDPメンバーと革命的社会主義者連合RSVを結成。
  ウェインコープとその党SDPと異なり、彼女は1915年9月のツィンメルヴァルト協議会に参加、トロツキーとレーニンに会う。
  パンネクークと国際共産主義者評論の先駆の編集を行う。これは2号発刊、レーニン、カール・ラディック、ジェノヴィエフらが寄稿。
  結局、RSVは1916年、SDPに合流。彼女は雑誌トリブーネに大きく寄与。
  マリー・メンシングと革命的社会主義婦人連合の機関紙先駆で協力、婦人に戦争反対と革命闘争に参加を呼びかける。

  1917年のロシア革命と1918年11月ドイツでの出来事でローラント・ホルストは再び希望を取り戻した。
  1918年11月のリープクネヒトとルクセンブルクの解放の際はローラント・ホルストはウェンコープとサルファティ通りの兵舎でデモを行った。
  兵士が発砲し殺傷が起こった。新聞は彼女をペトロルーズ(放火女、石油女、パリ・コミューンの際、石油の入った瓶で放火しまわったとい
 ううわさから)と呼んだ。
  1918年、SDPはオランダ共産党CPNと改名し共産主義者インターナショナルに参加。
  ルクセンブルクとリープクネヒトの暗殺は彼女に衝撃を与え、名誉に倒れた英雄(1919年)をささげた。
  革命的大衆行動(1919年)で中世農民蜂起、ブルジョア革命からチャーティスト運動、パリ・コミューン、ロシア革命までを研究した。
  彼女は社会主義の成功は経済より精神の変化にあると考えた。
  1921年、モスクワの第3回コミンテルン大会のためにペテル・アルマルイス・デ・フィセルとともにドイツ国境を歩いて非合法的に横断した。
  彼女はセバルト・ルトヘルスとそこで会った。またトロツキーと最後の会話をした。マキシム・ゴーリキーも訪問した。
  オランダに戻ってロシアへの食糧支援キャンペーンを行った。1921年にはロシア旅行の印象記を発表。
  別の女性協議会でコロンタイクループスカヤ、レーニンと会った。

  新時代ではSDPとSDAPメンバーが協力していたが、1916年、SDAPが社会主義者案内を創刊、SDPでは彼女だけが参加。
  1920年ホルテル、パンネクークはレーニンとロシア指導者と絶縁、ローラント・ホルストはトロツキーとの関係でボルシェヴィキを支持、
 これで彼女と二人は政治的に衝突。
  1921年、CPN幹部の編集介入により新時代終刊。
  1922年、共産主義者案内がローラント・ホルスト、ファン・ラフェスタイン、K.A.ファン・ランヘラ−トを編集者として創刊。
  1919年結成の革命的社会主義者知識人同盟BRSIで活動しロシア支持宣伝を行う(KOMPINRUS)。
  BRSIでヘレーン・アンケルスミット(SDAPからCPHに移行)と知り合う。
  1920年代CPNには幾多の抗争があった。
  彼女はNAS(全国労働者書記局)を支持、そこではスネーフリートが活動していた。
  ディルク・ストロイクヤック・エンヘルスヤクェス・カットなどの若い世代の共産主義者も知った。
  彼女は当初からウェインコープのグループと仲が良くなかった。
  ウェインコープが1924年コミンテルン執行部と衝突すると彼女はCPNを離れ反対派が結成した共産主義者闘争宣伝クラブ
 BKSP(1924−1927)に参加。
  BKSPの機関紙共産主義者の第1号に不誠実の兆候、共産主義者の特殊な闘争手段としての嘘、偽りに反対してを書いた。
  1925年には共産主義者と倫理を書いた。

  1925年、3人組が追放されると彼女は短期間CPNに復党。
  CPNとNASの機関紙階級闘争(ウェインコープの共産主義者案内に対抗)の編集部にも参加。
  彼女はロシア革命とレーニンを支持していたが、1927年のスターリンによるトロツキー排除と、コミンテルンの失敗で中国で蒋介石により
  多数の共産主義者が殺されると、彼女とスネーフリートは最終的にコミンテルンと党と絶縁。彼女は以降政党に参加せず。
  彼女は終始インドネシアの独立闘争に密接に関係。1927年9月のブリュッセルの反帝国主義、植民地抑圧同盟結成会議に参加。
  1927年のスイスでの、自由と平和のための国際女性連合協議会でモハメド・ハッタと会う。

  CPNと絶縁した後で彼女は統一への道を書き、社会主義労働運動は深い危機にあると分析。
  ヘンドリク・ド・マンの影響を受け初める。
  社会民主は選挙の成功を基礎とし、共産主義は石化した教義主義に捉えられていると彼女は考えた。
  新しい社会主義の道の思考は運動を究極目標と思想を結合することで出現する。
  これはユートピアと科学的社会主義の統合で可能となる。
  社会経済的要因の重要性を無視をしないが精神力の重要性を認識するようになった。
  すでに1899年の社会主義と文学で80年代運動を検討しているが、1924年、共産主義案内に”史的唯物論と芸術”が出現。
  これは”ドラマ的芸術の革新のための条件”で精緻化される。
  史的唯物論と芸術の問題は彼女の選集、人生と美、美学と倫理的話題に関する描画(1925年)で議論された。
  1928年からこの問題で彼女は精神的危機に陥る。
  1928年、ペンテコステ(聖霊降臨祭)にド・マンが社会主義原理とマルクス主義を批判的に検討するためにハッペンハイムで開催した
 協議会に(パウル・ティリッヒ、マルティン・ブーバー、アドルフ・ローヴェ、エドワルド・ハイマンらが参加)彼から招待され参加し、
 社会主義的神学者レオンハルト・ラガツを知る。
  1929年10月、ラガツの招待でカソハでのスイス宗教社会主義者の集会に参加、精神の地位の変化と新しい社会主義者の任務について
 話す。
  彼女は彼から強く感銘を受け、彼の本、キリストからマルクス、マルクスからキリストのオランダ語版に序言を書く。
  ここでキリスト教信仰を告白し、社会主義の精神的革新はキリスト教信仰と社会主義の結びつきの回復にあると述べる。

  CPNとの絶縁以来、スネーフリートとNASを支援する”階級闘争”、1929年から”新しい道”の編集者は継続した。
  1930年、編集部の多数派がヤック・エンヘルスとの協力をやめるように要求したときに、編集から撤退。彼女の心境の変化も告白。
  1932年、オランダにおける資本と労働の第2巻をエンヘルスの協力で完成。

  政治的には1930年代、ローラント・ホルストは宗教アナルコー共産主義者同盟BRAC(1920−1932)、国際反軍国主義連合IAMVと
 サンディカリストに関係。
  彼女の議会制民主主義、社会民主の役割、労働組合と特にベルギーでのこれらの協力の評価でこれらグループと異なった。
  彼女はスターリン体制を非常に嫌ったが、必要な時はロシアから手を引けの活動に参加。
  BRAC機関紙”解放のために”に1928−1940年に多くを書いた。
  ウィレム・バニングの宗教社会主義週刊誌時代と任務(1932−1996)に1932−1940年に多数書いた。
  1930年代彼女の影響はキリスト社会主義者、若者、特に学生の間に広がった。
  彼女の暴力に関する考えは人生で劇的に変化。
  1921年、BRCの当時の機関紙自由共産主義者でアナルコ・社会主義者のクララ・ウィッヒマンの平和主義と論争。
  しかし、増大する平和主義信念に従って、ガンジーの反植民地闘争方法としての市民的不服従−非暴力的抵抗−の効果はますます
 彼女に訴えるものがあった。
  1930年暴力に関する青年平和行動協議会でヨハン・ファルコフと社会主義のための闘争での非暴力について論争。
 (ファルコフは暴力が社会進歩を支援し実践的にそれに役立つならという条件で支持、道徳は階級関係で決まると主張、ファルコフはCPNに
 参加、1930年代中、SDAPに移行)、彼女は暴力を完全否定したわけではないが原則として否定、可能な限り裂けるべきと考えた。
  1933年、彼女はゼーフェン・プロフィンシエン号反乱の船員と扇動により投獄されたスネーフリートの恩赦を支持した。
  1934年2月のオーストリア社会民主労働者の血の敗北で、彼女は解放の序言で、労働者が不利な状況で自由に対する闘争のため無抵抗
 を拒否し、血を流し、命を捧げ闘ったことを称賛した。
  1934年7月のアムステルダムの失業者騒動での死傷者発生に際し、詩”赤い7月”を書いた。
  1937年のスペイン戦争では躊躇せず共和国軍側を支持した。

  ローラント・ホルストは文学により、人物の伝記分野で自己の思想を示した。
  1920年には軍事的暴力として具体化する人物を描いた。ガリバルディとイタリア自由運動。
  後には非暴力に移行し、1930年、トルストイ、1947年、ガンジー。
  その他、ギド・ゲゼル(1931年)、グスタフ・ランダウエル(1931年)、クララ・ウィッヒマン(1937年)、ロマン・ローラン(1948年)など。
  ローラント・ホルストと夫は体が弱かったので、第1次大戦後、ズンデルトのボイセ・ヘイデの彼女の母の所有する家に引っ込んだ。
  ボイセ・ヘイデにアンホラ・ヘーフェを立て夫婦で住んだ。そこには数多くの客が来た。
  詩人で夫の甥のアドリアーン・ローラント・ホルスト、歴史家のヨハン・ホイジンハ、作家のアルトゥール・ファン・スヘンデル、画家の
 ハルレー・トーロップ、作家のトップ・ネフ、作家のディルク・コステル、詩人のハルムト・ストイフェリング、フランドル詩人のアキレス・ムッシェ
  フランドルの民族主義説教師シリエル・フェルスヘフェ
  歌手のイナ・サントハヘンス・ワレルが定期的に訪れ歌った。彼女は夫の友達であった。
  リハルト・ローラント・ホルストは視覚芸術国家アカデミーに関係し、1926−1934年は監督者。
  30年代終わりは彼女は健康問題なかでも腎臓病に悩んだ。
  1938年、リハルトが死亡し、ますますボイセ・ヘイデに引っ込んだ。
  ドイツによる占領の年々、彼女は抵抗の詩を書いた:、”オランダ・ユダヤ人とその友へ”と”こちらに来なさい、私の小さなユダヤ人少年”
 (1941年)。ヘンク・スネーフリートの処刑後には、詳細な”思い出に”を詩の形態で。
  彼女の信仰生活は深まったが、ローマ・カトリック側からの招き入れは失敗に終わった。
  戦後、ローラント・ホルストは非合法誌火花(デ・フォンク、共産主義者レジスタンス小冊子)の後継の(デ・フラーム)の編集員となった。
  このような開かれた左翼社会主義者の環境でヨーロッパのことを考えた。
  社会主義への移行(1945年)で将来像を考えた。
  影から光へ、オランダは復興への闘いに勝利できるか?(1946年)では資本主義は第2次世界大戦の結果を克服できないと確信し、
 社会主義への信念は揺るがなかった。
  炎のキャンプで若い人を対象に社会主義の将来という題で演説、主要な生産手段の社会化と巨大財産相続の廃絶を主張した。
  1945年9月に結成されたピート・メールテンス主導の全国行動委員会に参加、これは戦犯処刑に反対し、国民多数に反対される。
  彼女はインドネシア人民の民族独立闘争に関与し、植民地戦争に反対した。
  1947年6月18日のオランダ・インドネシア協会の大衆集会でインドネシアへの船出を拒否した兵士を称賛した。
  1947年、アムステルダム大は彼女に名誉博士号を授与。
  1949年、彼女の人生の思い出、”炎は燃え続ける”が出版される。
  1952年11月28日、アムステルダムで死亡。83才目前。


  年譜

  1869年12月24日 テドール・ウィレム・ファン・デル・スハルクの2番目の子として生まれる。
        (長男は1868年1月)
  1884年10月 オーステルウォルデ寄宿学校へ行く。孤独により疲弊し療養のため一時アムステルダムに戻る。
  1888年10月 リージュへ向かい、未亡人のペンションで過ごす。
  1889年春、短期間両親とブリュッセルで過ごし、ノールトウェイクに戻る。
  1890年春、アルベルト・フェルウェイとキティ・ファン・フローテンがノールトウェイクのフィラ・ノファに滞在、家族と親しく接触。
  1891年12月10日、アブラハム・ケーネン死亡、記念の2篇のソネットを献辞。
  1892年3〜4月 フェルウェイのためにソネットを書く。
  1892年4月 ヤン・トーロプのカトウェイクのアトリエを父と友人と訪れ、深く感銘しソネットを書く。
  1892年 最初の出版、トロープが印刷(アントウェルペン)。
  1892年6月29日 父と妹がハルヘワーテルの洪水で死亡。
  1892年7月、詩がアルベルトフェルウェイに評価される。彼はヘルマン・ホルテルとアメルスフォールトに滞在。
  1892年11月、ハーグのヴェルレーヌの夕べで若い画家リハルト・ローラント・ホルストと出会う。
  1893年1月末、スケートでノールトウェイクに来てフェルウェイに家に滞在していたヘルマン・ホルテルと知り合う。
  1893年2月初め、フェルウェイの家でリハルト・ローラント・ホルストを紹介される。友人となり、やがて結婚。
  1893年6月、新案内にデビュー、ソネット発表。同じ号でJ.H.レオポルドもデビュー。
  1895年夏、ヒルフェルスムに移動。
  1896年1月 詩集発行、リハルト・ローラント・ホルストが印刷。
  1896年1月16日、ヒルフェルスムでヘンリエッテ・ファン・デル・スカルクとR.N.ローラント・ホルストが結婚。
    リヴィエラとイタリアへの新婚旅行のあとスコーノールト郊外のスフラーフェラントに居を構える。
  1897年4月、アルンヘムにSDAP大会でヘルマン・ホルテルとともに招かれ、党員となる。
  1898年2月、ヘンリエッテ・ローラント・ホルストHRHとヘルマン・ホルテルが編集者となった新案内配送。
  1900年、 パリの国際社会主義者会議にHRH参加。
  1903年1月4月、鉄道ストライキ、政府による厳しい反撃。
  1903年5月、ラーレンのベルラーヘが建築した家に移る。
  1904年8月、アムステルダムの国際社会主義者会議参加、ロシア代表団と接触。
  1907年8月、シュトゥットガルトの社会主義インターナショナル大会で演説。最初のトロツキーとの出会い。
  1908年冬、夫と1カ月間ロンドン滞在。
  1909年2月、デンフェルでの臨時党大会でデ・トリブーネ周辺のホルテル含む約500名がSDAPから去り、
    3月SDP結成。HRHとウィバウトが新しいSDAP週刊紙の編集員となる。
  1911年1月21日、最初の論争、後にSDAPに別れを告げる。
  1914年4月24日、母が死亡し、ズンデルト近くのボイセ・ヘイドの半分を相続。
  1915年5月2日、革命的社会主義者同盟RSV結成。
  1915年9月、ツィンメルヴァルト会議にオランダ人としてはHRHだけが参加。トロツキーとの2回目の出会い。
  1916年5月、RSVとSDP合同。1918年11月、SDPは共産党となる。
  1919年4月、ボイセ・ヘイドへ移る。夫がアムステルダムの視覚芸術国家アカデミー教授となる。
  1921年6−7月、モスクワ旅行、コミンテルン会議参加、トロツキーと3回目の接触。
  1922年、新時代廃刊で共産主義者案内創刊、HRHが編集者となる。
  1924年5月、HRHがCPHに別れ、しかしワインコープ、ファン・ラフェスタインの排除で1925年6月復帰。
  1927年11月16日、CPHとの最終的絶縁。宗教社会主義者となる。スネーフリートと協力。
  1931年、ヘントの言語・文学王立フランデル・アカデミーの名誉外国人メンバーとなる。
  1937−1938年、病に苦しむ。
  1938年12月31日、夫が死亡。
  1947年5月20日、アムステルダム大から名誉博士号を受ける。
  1947年10月、転落で背骨を折り、長期入院。
  1949年1月31日、アムステルダムのファン・エーゲン通りに移動。
  1952年11月21日、アムステルダムで死亡。

   著作


 オランダの左翼
 フランク・ファン・デル・フース小伝
 アントン・パンネクーク小伝
 アントン・パンネクークの人と思想(人間と思想と活動の詳しい論評)
 ヘルマン・ホルテル小伝
 ヘンク・スネーフリート小伝
 オランダ初期社会主義者群像


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