<<オランダ(ネーデルランド)の左翼>>
(
オランダ共産党) 1919−1991年
1907年、ヤン・コルネリス・セトンと
ダフィド・ウェインコープ、
ウィレム・ファン・ラフェスタインの3人組はデ・トリブーネを創設した。
この雑誌は彼らが参加する
社会民主労働党SDAPの指導部を批判した。
彼らは正統派マルクス主義の方向をとっており、プロレタリア革命を期待し、SDAPの指導部に反対した。
SDAPの指導部はより修正主義思想と議会主義、改良主義戦略を取っていた。
1908年の党会議でSDAP指導部は彼らがデ・トリブーネの発行停止することを、でなければ党の地位からおりることを要求した。
ヴァインコープとセトンは拒絶し、彼らと詩人
ヘルマン・ホルテルを含む支持者はSDAPの党籍を失った。
このような衝突はほとんどすべてのヨーロッパ社会主義政党で起ったがSDPは正統マルクス主義により設立された政党のひとつ
であった。
1909年、反対者は社会民主党SDPを設立した。数学者で哲学者の
ヘリット・マヌーリも参加。
党員は約400名であった。
1910年代にSDAPは新しく設立されたSDPとの闘争に大きな注意を使った。
第一次世界大戦への動員をSDAPは支持し、SDPが反対したことが両者の違いを拡大した。
1917年のロシア革命はほとんどのヨーロッパの党に革命派と改良主義派の葛藤をもたらし、これはすでにオランダでは起っていた.
ことであった。党は1917年の選挙に参加したが議席を得ることはできなかった。
1918年の選挙では2議席(100議席中)獲得した。ヴァインコープが党の指導権を握った。
SDPは
キリスト教社会主義者同盟(1議席)、
社会党(1議席)と革命的議会党を形成した。
1919年、キリスト教社会主義同盟の議員
ウィリー・クロイトはSDPに加わり、社会党の議員は革命的議会党を去った。
同年、SDPはコミンテルンに加盟した。コミンテルンによって党名をオランダ(ホランド)共産党CPHと変えられた。
1920年、著名な共産主義者、ホルテルと
パンネクークが離党した。かれらは評議会共産主義を擁護した。
このときは
ローラント・ホルストはとどまり、1927年にCPHを離党している。
1922年の選挙でCPHは2議席維持した。議席確保できなかった候補のひとりは
タン・マラカであった。
1925年の選挙の前にコミンテルンによって指導者がウェインコープから
ルイス・デ・ヴィセルに交代させられた。
これが重い党内分裂の原因だった。
ヤックェス・デ・カットは
共産主義者闘争宣伝クラブ同盟形成のため既に1924年、離党していた。
これらの衝突の背景はソ連でのスターリンとトロツキーの衝突にあった。
1925年、ウェインコープ、1927年には
ヘンク・スネーフィリートが党から去った。
スネーフリートは革命的社会主義者同盟を創設し、これは後に
革命的社会党RSPとなった。
1926年、全ロッテルダム支部は追放された。これらの追放者はウェインコープとともに別のオランダ共産党中央委員会を形成した。
これら3つすべて、RSP、CPH中央委員会、旧CPHはコミンテルン・オランダ支部のCPHの名で1929年の選挙に参加し、両CPHは
各1議席を得、RSPは議席確保ならなかった。
1930年、両CHPはコミンテルンにより統合させられた。
ゼーフェン・プロウィンシエン(7州)号の反乱のあと、オランダ領インド(インドネシア)の独立が1933年の選挙の重要な争点になった。
党はこの問題をよく利用し議席を倍増4議席とした。
これにはオランダ領インドからの最初の議員となったインドネシアの民族主義者ルスタム・エフェンディが含まれている。1937年の選挙
でも党は議席を維持することができた。
1935年、ネーデルランド共産党CPNと改名。
1940年、5月15日のドイツ侵入後すぐに地下組織の組織化を決定した。7月ナチ占領当局はCPHを禁止した。
党は非合法で存続しそれはずっと小さな組織であるRSAPとともにすでに1940年、ドイツ人居住者による反ユダヤ主義に反対して
いた唯一の戦争前からの組織であった。
党幹部は
ポール・デ・フロート、
ラウ・ヤンセン、ヤン・ディエテルスによって形成された。
1940年11月、党は
真実De Waarheidというレジスタンス新聞を発行した。
アントン・クヘマンスが編集者。
CPNとRSAPはオランダにおける最大の抵抗活動である、1941年の2月ストライキに参加した。
最初CPNはドイツ占領軍とオランジェ家を含む帝国主義に反対していたが、1941年2月のドイツのソ連攻撃でこれは変更された。
抵抗運動は新聞・パンフレット配布、サボタージュに焦点を置いた。
後者は
ヤン・ファン・ヒルセ、
ヘルベン・ワーグナーによって指導された。彼らは軍事委員会MCを設立し、鉄道、工場を攻撃した。
別のグループが
ダーン・ハウローゼによって率いられていた。
1943年4月、党幹部
ラウ・ヤンセンとヤン・ディエテルスが逮捕され、10月、
ワールスドルペルスファクテで処刑された。
デ・フルートが退き、ハウローゼの支持で
ヤン・ポストマが指導者となった。
ポストマは他の抵抗組織との統合を進め、軍事委員会は解散され、
ゲルベン・ワーグナールが新しく結成された
抵抗評議会に加わった。
抵抗評議会は非共産主義者によって設立されたがやがて共産党の組織と見なされるようになった。
1943年11月、
ポストマはナチス保安隊により逮捕され、ヴフトVught収容所に送られ1944年4月処刑された。
抵抗運動で党は約2千人の党員の命を失った。犠牲の最大の原因は戦争前のオランダ情報機関が共産主義者に関する情報を
破棄せず、ゲシュタポとの戦争前からの協力を継続し、地下共産党に侵入したためである。
抵抗運動でCPNを裏切ったその人物が戦後、新しく組織された情報機関BVDの核となった。
戦後、党の主導権は
ポール・デ・フロートの手になり、彼は組織を強固に支配した。
1945年、CPNは主にオランダでの抵抗運動での役割により
シェルメルホルン内閣で1閣僚席を提供された。
CPNは副首相を望んでいたのでそれを断った。
1946年、党は第2院で10議席、約10%獲得した。それはまた第1院で初めての議席(4)獲得でもあった。
選挙での勝利は第二次世界大戦での抵抗運動での党の役割に結びついていた。
次の時期は共産主義に対する大衆的人気の減少と内部分裂の勃興と他党とCPNとの組織的分離で特徴付けられる。
冷戦の勃興とともに党は大衆的人気を失い始めた。1948年のチェコスロヴァキアでの共産主義者のクーデタは
共産主義の大衆的人気を汚した。
1948年の選挙で2議席失った。1949年、フリジア人共産主義者グループが党の地位から除かれた。
彼らは社会主義者連合を創設した。しかし彼らはたいした役割を演ずることは出来なかった。
1952年の選挙で更に2議席失った。1956年は票は減ったが国会定員増で議席を増やした。
1956年、党はソ連のハンガリー介入を支持した。侵入のあとアムステルダムにある党本部は侵入反対の人々により攻撃された。
その間、デ・フルートの厳格な指導に対し内部不意一致が起った。
1958年、
橋グループが共産主義労働組合連合“統一労働センター”に対する役割についての衝突でCNPを去った。
橋グループの指導者は
ヘルベン・ワヘナール、ヘンク・ホルザクのような著名な抵抗運動の人物であった。
諜報機関は背後に分裂問題があると主張し、一方CNP指導部は反対者はCIAのために働く手先だと主張した。
橋グループは社会主義労働者党SWPを設立した。
1957年、
平和社会党PSPが設立され、これに社会主義連合、PvdA、その他の左翼独立派を含む以前のCPNのメンバーと
統一した。
1959年の選挙でCPNは3議席しか獲得できなかった。PSPは議席を得た。SWPは議席を獲得できなかった。
後に多くのSWPのメンバーがPSPに加わった。
1940―1950年代、党は組織的に他党から分離され、公務員になれず、TVやラジオに出演できなかった。
オランダ領インド(インドネシア)の脱植民地化にたいする党の明白な支持は議会での孤立を招いた。
その反NATO、反EECの立場により党は議会の外交、防衛、核エネルギー委員会から排除された。
オランダ諜報機関は党に注意した。
議会のすべての他党は深く反共でとりわけ社会民主PvdAがそうであった。
1963年の選挙で党は1議席増やし4議席となった。
展開する学生運動が党の重要な起動力だった。
1964年、中華人民共和国とソ連の国際的衝突がまたCPNを分裂させた。
オランダ(ネーデルランド)共産主義者統一運動というグループが離党した。
彼らはイデオロギー的、人物的衝突に基づいて何回かの激しい分裂を行った。
1971年、ひとつの小さなグループが
社会党を結成し、これは1990年代半ばに大きな政治的成功となった。
CPNはソ連と中国の対立についてはむしろあいまいな立場をとった。
1967年の選挙の前に
マルクス・バッカーがデ・フルートにとって代わりデ・フルートは名誉党員となった。選挙では1議席増やし
5議席となった。
党はプラハの春にたいする介入を非難した。1971年、更に1議席増やし6議席となり、1972年には更に7議席となった。
1977年の選挙では社民の
ホープ・デン・ウイルとキリスト教民主党の
ドリース・ファン・アクトの対立のあおりを受けて、多くの
CPN支持者が社民PvdAに投票したため2議席に減った。
1978年、新しい青年メンバーの圧力でデ・フルートは名誉党員の地位を失った。
1981年の選挙は米国の核兵器が主要争点であった。
キャンペーンを主導したグループ“核爆弾反対委員会”のなかで卓越したCPNは1議席増で報われた。
1982年、選挙の前に
マルクス・バッカーは
イナ・ブラウウェルのために退陣した。彼女とともに新しい若い世代、しばしば女性が
政治に参加した。彼女は3議席を維持できた。
CPNはフェミニズムやゲイの権利のような新左翼問題を強調することで政策を新しくしようとした。
この反動で労働者階級志向のメンバー(
フレ・メイスら)は共産主義者水平評議会を創設した。
彼らは民主集中制の垂直組織を破壊した異なった地域支部のメンバーでであったのでそう呼ばれた。
グループはCPNをその古いマルクス主義コースに戻すよう圧力をかけようとした。
1983年、彼らは離党し、
ネーデルランド共産主義者同盟VCNを結成した。
1986年、CPNとVCNは両者とも選挙に参加した。どちらも第2院に議席を得ることはできなかった。
CPNは依然として上院に2議席確保した。
党の最後の行為のひとつは党の指導部がドイツ民主共和国誕生50周年を囲むお祝いに出席することであった。
1989年、党は3つの他の小さな左翼政党と統合した。
すなわちPSP、
PPR、左翼キリスト教
EVPと緑左翼を形成した。
1991年、党は公式解散し、CPNの他の以前のメンバーはVCNに参加した。新路線に賛成しない人々は去り
NCPNを創設した。
NCPNは2006年地方選で7議席獲得。
CPNの古いマルクス主義派の緑左翼での影響はむしろ小さい。新世代が非常に目立っている。
イナ・ブラウヴェルは1994年の選挙を率い、党の上院議員の一人はCPNのメンバーであった。
以前の党の議長で新リベラル路線の形成に非常に影響のあった
ヘルマン・メイエルは1970年代にCPNに加わった、ゲイの
権利活動家のひとりである。
CPNは2度党名を変更している。最初社会民主党として設立された。1919年、コミンテルン支部としてのホランド共産党
Communistische Partij HollandCPHとなり1935年、ネーデルランド共産党Communistische
Partij van NederlandCPNとなった。
1920年代、トロツキーとスターリンの対立の影響でスネーフリートが離党し革命社会党を形成した。
1960年代、中国とソ連の対立に際し党は立場を選択しなかったが、オランダ共産主義統一運動と呼ばれる毛沢東主義者が
党から分裂した。
第二次大戦後1940年代後半、党は約5万人の党員をもっていた。1950年代後半には約1万人となった。
1970年代後半1万5千人台になり1980年代後半から再び減少し始め、1万人を切った。
〔ネーデルランド新共産党
NCPN〕
1984年、CPN内反対派はネーデルランド共産主義者同盟VCNを形成した。
1992年のCPNの公式解散のあと、VCNは以前のCPNのメンバーとNCPNを設立した。
NCPNは
共産主義者と労働者党国際会議年会に参加している。
NCPNの拠点はフローニンゲンのレイダーランド。
流れを変えよ(労働党、緑左翼、社会党、
国際社会主義者、
社会主義選択政治、
全国学生連合LSVbなどが参加する左派グループ組織、
中心人物は元LSVb委員長の
レネ・ダネン)や
オランダ社会フォーラム(別のグローバル化運動のプラットホーム)などに参加。
1999年シェームダのグループが分裂し
統一共産党結成。
・
アントン・パンネクーク ⇒
アントン・パンネクークの人と思想(人間と思想と活動の詳しい論評)
→
アントン・パンネクーク小伝(生涯・事績の概要)
・
ヘンク・スネーフリート ⇒
ヘンク・スネーフリート小伝
・
ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト ⇒
ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト小伝
・
ヘルマン・ホルテル ⇒
ヘルマン・ホルテル小伝
・
フランク・ファン・デル・フース ⇒
フランク・ファン・デル・フース小伝
・
オランダ初期社会主義者群像
・
オランダとドイツの共産主義左翼
○
国際共産主義者グループGIC
歴史
1921年
ヘルマン・ホルテル(1927年死亡)がドイツの
KAPD兄弟組織のネーデルランド共産主義労働党KAPNを結成。
1922年KAPDの分裂によりKAPNも分裂、
パンネクークはベルリン・グループを支持、これは1927年に
カンネ・メイエルらと
国際共産主義者グループGICとなる。
ホルテル(1927年死亡)はエッセン・グループ(
カール・シュレーダー、
アルトゥール・ゴールドシュタイン)を支持し、1922年結成の
共産主義者労働者インターの指導的支持者となる。
他のKAPNはヴォルトフーリンク・ファン・ルテラーンとフリッツ・クニーフのもと1932年まで存続、1926年一部が国際共産主義者結成。
ヤン・アペルは1926年オランダに移ってきてGICで
カンネ・メイエルらと行動。
トロツキストの
カホ・ブレンデルは1934年GICに参加。
GICメンバーは
マルクス・レーニン・ルクセンブルクMLL戦線から1942年結成された
スパルタクスに参加。
パンネクークは1920年代に政治から退き、戦中は天文学に専念、戦後1946年著作を発表。
小評議会主義グループ
左翼労働者反対派(エドワルド・シラク、1932−1934年)メンバーの
マリウス・ファン・デル・ルッベは
1933年2月の
ドイツ国会議事堂放火の犯人として処刑される。
(
共産主義者闘争宣伝クラブ同盟BKSP)
BKSPは
ヤックェス・デ・カット、
ローラント・ホルストらによって
ウェインコープ指導のCPHから分裂し、1924年、結成。
1925年、
ヴァインコープがCPHの指導部から降り、大部分のBKSPメンバーは復党したが、カットはこれに反対。
1927年解散、カットはSDAPに参加。
(革命的社会主義者連合RSV)
1911年の港湾・船員ストライキでローラント・ホルストはSDAPの方針に反対し、スネーフリート側につき、一緒に離党。
1914年の第1次世界大戦勃発で、反軍国主義を主張し、SDAPの公式的立場に反対し、1915年、
ヨハン・フィスヘル、
ルイス・デ・フィセルらとSDAP、SDPメンバーと革命的社会主義者連合RSVを結成。
RSVは1916年、SDPに合流。
(
革命的社会党RSPと
革命的社会主義労働者党RSAP)
革命的社会党の先駆はスネーフリートに率いられて共産党CPHから出た革命的社会主義者連合RSVでもう1つは
アナルコサンディカリズムの労働組合である全国労働者書記局NASと密接に結びついた
社会党SPである。
1929年、以前の両者のメンバーは革命的社会党を創設した。
両党は改良主義の社民SDAPと権威主義、スターリン主義共産主義のCPHの両方に反対した。
創設を主導したのは著名な以前のCPHメンバーの
ヘンク・スネーフリートで彼はトロツキーの仲間であった。
1929年の選挙では議席を獲得できなかった。
1933年の選挙の前、スネーフリートはデ・ゼーフェン・プロヴィンシエン号の反乱を支持し逮捕された。
RSPは反乱をオランダ領インディーズ(インドネシア)の解放の一部とみた。
RSPは”独房から議会へ、スネーフリートを議会の公共検事にせよ、私は告発する”という大キャンペーンを揚げた。
これが功を奏し、スネーフリートは当選し、監獄から釈放された。
1933年に前年SDAPから分裂した
独立社会党OSPとの統合交渉が始まった。
しかし、1934年
革命的社会党は国際共産主義者同盟に参加、一方
独立社会党OSPはロンドン・ビュローに参加。
1935年、RSPと
独立社会党OSPは統合し、
革命的社会主義労働者党RSAPが形成された。
OSPはこれを次の選挙で議席を得る方法と見、RSPはその基盤を強化する方法と見なした。
OSPはメンバーが多かったが、RSPは議席をもっていた。
以前のRSPとOSPメンバー間の内部緊張により党の没落が始まった。
直接の原因はドイツ人左翼避難者のどっちと同盟を結ぶかであった。
フランク・ファン・デル・フースら以前のOSPのグループは1935年離党し、革命的社会主義者同盟を結成した。
1937年の選挙では議席確保できなかった。
この選挙のあと、党は政府からより敵対を受けるようになった。
NASやRSAPのメンバーは公職につくことができなくなり、RSAPの著名なメンバーはヒットラーのような友好国の首脳を
批判しているとして迫害を受けた。
何回かの反対派の追放で強固になったCPNもトロツキスト反革命集団と強いキャンペーンを行った。
1937年最終的にトロツキーとスネーフリートは意見衝突し、RSAPはトロツキーのインターと接触を絶った。
トロツキストはボルシェヴィキ・レーニン主義者グループとして分裂。
1938年の第4インター協議会には、
アブラハム・メニスト、
スタン・ポッペが参加。
1940年5月14日のドイツ占領のあと、RSAPは公式に解散した。
党は
マルクス・レーニン・ルクセンブルクMLL戦線という抵抗組織に名を変えた。
ドイツとソ連の戦争勃発でスネーフリートの運動は足並みが乱れた。MLL戦線はソ連防衛を拒否。
ウィレム・ドルマンとピエテル・ファン・トハルト(
マックス・ペルトゥス)はソ連無条件防衛であった。
スネーフリートの多数派はベルギーの
ゲオルゲス・フェレーケンの”流れに抗して”の同様の宣言によって強化された。
スネーフリート、
ウィレム・ドルマン、
アブラハム・メニストら
スタン・ポッペ以外の幹部は1942年逮捕・処刑された。
これにより組織は
革命的マルクス主義者委員会CRM(
マックス・ペルトゥス、
赤い10月発行)と
共産主義者同盟スパルタクス
(
スタン・ポッペ)に分裂。
(
独立社会党OSP)
1932年
ヤックェス・デ・カット、
ピート・シュミットの周辺がSDAPから分裂して結成。メンバー約7000。
1933年選挙で27000票、1議席獲得。
1934年の
ヨルダーン反乱(失業者反対運動デモと警察が衝突)でピート・シュミットは投獄、ヤックェス・デ・カットはベルギーへ逃亡、
これで幹部不在となる。
1935年
革命的社会党RSPと
革命的社会主義労働者党RSAP結成。
翌年旧
独立社会党OSPメンバーは革命的社会主義者同盟を結成。
(
共産主義者同盟スパルタクス)
歴史 独語
1942年のスネーフリートら幹部の処刑により
マルクス・レーニン・ルクセンブルクMLL戦線は崩壊し幹部唯一の生き残り
スタン・ポッペ(元OSP)のグループの共産主義者同盟スパルタクスが生まれた。多くはNAS活動家であった。
1944年にGICのメンバーと接触(カンネ・メイエル、ヤン・アペル、テオ・マッセン、ブルーン・ファン・アルバダ)
テオ・マッセン、ブルーン・ファン・アルバダがスパルタクス幹部に参加。
スパルタクスはMLL戦線、GIC、NAS活動家(トーン・ファン・デン・ベルク)、さらにはリバータリアン社会主義者運動のアナーキスト
の存在する組織となった。
1945年には数百の活動家と部数6千の日刊新聞をもっていた。
1945年スパルタクスは集中制党組織化に向かい分裂が発生。
既にNASのサンディカリズム傾向のトーン・ファン・デン・ベルクは1943年CPN、CRM、スパルタクスの一部が結成した統一組合連合
EVBに参加。
1946年には最終機関紙編集部Eind Redaktieのアナーキスト傾向と執行部が衝突、更にはCPN支持に向かうグループが離れ、
トロツキストのCRMと組んでCPN加入戦術に向かうグループも生じた。
1945年植民地問題で反帝国主義闘争委員会が結成されスパルタススは数ヶ月これに参加。
反帝国主義闘争委員会はCRM、左翼社会主義者火花
De Vonkとスパルタクスを結集した。
またホーランドに評議会グループの底辺社会主義Socialisme van onderopが結成された。
またスパルタクスに近い雑誌”労働者の意志”Arbeiderswilグループが結成され後に評議会社会主義者連合Vereniging
van
Radensocialistenとなった。このグループはアナーキズムに近い組織原則をもっていた。
パンネクークの思想がスパルタクスをつかみ始めた。パンネクークと
カンネ・メイエルの権威が拡大。
パンネクークは解放諸国はアメリカの後見により産業化すると考えた。脱植民地化はアメリカ資本によって支援される。
1945年EVBは統一連合センターEVCと名を変えメンバー20万とSDAPのNVVに匹敵。これで共産党は強化1946年選挙で
10.6%、10議席、5万の党員30万の新聞購読者となった。
EVCがCPNにより握られて1948年トーン・ファン・デン・ベルクは工場組織独立連合OVBを結成。
OVBは1948年には1万のメンバー。
1947年ブリュッセルの26回ヨーロッパ革命グループ国際協議会開催を発議。
これにはイタリアのボルディガ派国際共産党は除外、SPGP(代表送らず)、トゥリノ連合、フランスの国際主義者、フランス、ベルギーの
ボルディガ派グループ、アナルコ評議会主義のオランダの底辺社会主義を招待、その他ベルギー統一評議会社会主義、スイス階級闘争、
フランス・プロレタリア革命的共産主義者、フランス・アナーキスト連合。
1947年
カンネ・メイエル、
ベンヤミン.A.シヘスらが評議会共産主義グループGroup van Radencommunisten'結成。1948年消滅。
カンネ・メイエルはプロレタリアの革命性に懐疑的になりマルクス主義から離れる。
ベンヤミン.A.シヘスも同様。
1947年には完全にGICに逆戻りしたがテオ・マッセンだけが残る。
1952年から
カホ・ブレンデルが影響を強化。
ブレンデルは雑誌行為と思想の責任者となる。
スパルタクスは
社会主義か野蛮かの(現代資本主義)影響を受ける。更に
バーナム理論(経営者革命)を採用。
これらにより1964年、テオ・マッセン、
カホ・ブレンデル、ヤープ・メーレンカンプのGIC思想保持の”行為と思想”が分裂。
1950年代末まで共産主義者スパルタクス同盟がスパルタクス同盟となる。これは1980年消滅。
評議会主義の思想は1970年代
クラーク運動(住宅占拠)に引き継がれていく。
行為と思想は1968年学生反乱で第3世界論に近づく。
行為と思想は1975年テオ・マッセン死後
カホ・ブレンデル(1915−2007年)がほとんど個人的に維持。
(
革命的マルクス主義者委員会CRM)
NL RCP
1942年4月のスネーフリートら幹部の処刑により
マルクス・レーニン・ルクセンブルクMLL戦線は崩壊し
スタン・ポッペのグループの
共産主義者同盟スパルタクスが生まれたのに伴いピエテル・ファン・トハルト(
マックス・ペルトゥス)が
革命的マルクス主義者委員会
CRMを結成。若い活動家のほとんどと、MLL戦線の古いより行動的活動家がCRMに参加。
1942年6月ハーグの青年グループが小雑誌”赤い10月”発行。ロッテルダムでは夏、スタン・ポッペらが共産主義者同盟スパルタクス
を結成。ピエテル・ファン・トハルトらはMLL戦線幹部で唯一逮捕されなかったスタン・ポッペに疑心をもっていた。
1942年8月ピエテル・ファン・トハルトらがハーグで
革命的マルクス主義者委員会CRMを結成。
MLL戦線に加わっていた第4インター・グループ(ボルシェヴィキ・レーニン主義グループ)は創設に加わらなかった。
CRMは1944年に第4インター支部を宣言。
解放後革命的共産党RCPとなる。雑誌赤い10月は1946年からトリビューンとなる。
指導者は
サル・サンテン、ピエテル・ファン・トハルト、ヘルマン・ドレント。
1948年
サル・サンテンのもと選挙に参加、2224票、0.05%獲得。メンバーは約200。
1952年PvdAに加入し、社会主義展望Socialistisch Perspectief発行。(1964年まで存続)
1955年多くが
社会民主センターSociaal-Democratisch Centrum参加。1960年指導部と衝突し解散。
(火花
De Vonk)
1941年1月ハールレムで国際社会主義運動ISBが発行。
イェフ・ラスト、トム・ロット、エディー・ヴァインコープ、ディルク・シルプ、ニコ・ヴァイネンらが創設。
アントン・デ・コムも執筆。戦後は炎De Vlamとなる。(1945−1952年)
ISBはRSAPと結びついていた。
〔
社会主義選択政治〕
1970年代PSPの批判的メンバーは活動グループプロレタリア左翼を結成しトロツキズム化しようとした。
1971年大会で敗北し追放される。1973年共産主義者同盟プロレタリア左翼を結成。
1974年雑誌”国際主義”周辺と合流し国際共産主義者同盟結成し第4インター支部となる。
1980年代初期社会主義労働者党SAPとなる。2004年社会主義選択政治となる。
1981−1994年第2院選挙に参加し、1981年1814票、0.02%から1994年4347票、0.05%獲得。
攻撃、
国際社会主義者と社会党に参加。
(
社会民主同盟)
1860年代にオランダで社会主義運動が展開した。これは第一インターと労働組合によって支援されていた。
大部分の労働組合は穏健な全オランダ労働連合Algemeen Nederlandsch Werklieden
Verbond ANWVに結びついていた。
ANWVはプロテスタント(オランダは非常に宗教の社会的影響の強い国である)と自由主義者によって第一インターに対抗
するために1871年に設立された。幾人かの第一インターの人物たちはこれに参加し急進化させようとした。
1878年に彼らは
ウィレム・アンシングに率いられてANWVを去り、社会民主連合VereenigingSDVを結成した。
その支部はアムステルダム、ハーグ、ハーレム、ロッテルダムなどにあった。
1881年、SDVのメンバーと同様な地方の社会主義政党によって社会民主同盟BondSDBが結成された。
この組織はマルクス理論に依拠していた。
1882年、元ルーテル派牧師の
フェルディナンド・ドメラ・ニューウェンホイスNieuwenhuisが党の書記長に選ばれた。
彼は1887年までその地位を保持し、党の権力者となった。
彼らは”すべてのための正義”Recht voor Allenを発行した。
党は普通選挙のための連盟のメンバーであった。この組織は普通選挙運動のための主に自由主義者liberal
の組織であった。
1888年、この党は選挙に参加し、スホテルラントから第二院の議員に選ばれた。
1891年の選挙にはドメラは選挙にでなかった。穏健派は議会を通じての改良主義の継続を望み、ドメラに率いられたグループはアナーキズム
の傾向のグループと反議会主義を主張した。
1893年のフロニンゲンの会議で
ピーテル・ヨレス・トルールストラPieter Jelles Troelstraに率いられた少数派はドメラ、クリスチャン・
コルネセン
Christian Cornelissenに率いられたアナーキズム傾向の多数派と対立し、トルールストラは12使徒と呼ばれたグループを
形成した。
これは第一インターでの改良主義者と革命主義者、マルクス派とアナーキストとの対立を反映していた。
1893年、SDBは禁止され、社会主義同盟SBと改名した。
1894年、トルールストラらは社会民主労働党SDAPを結成した。
1896年、ドメラに率いられた急進派はSBを去り、党組織なしに活動を継続し、アナーキスト路線と直接行動を選択した。
彼らは自由Vrije 社会主義者という新聞を創刊し、1893年に設立されたアナルコサンディカリズム組合の
全国労働書記局
Nationaal ArbeidssecretariaatNASと結合した。
NASは労働組合はSDBの支部であるべきではないという考えの人々によって鉄道組合などの7つの組合により結成された。
1900年、SBはSDAPに加わり、SDAPは選挙で成功するようになる。
ドメラは1919年に死亡し、それによりオランダのアナーキズム運動は重要でなくなった。
・
オランダのアナーキズム運動
(
社会党)
1918年、NASの政治部門として設立、その創設者はニューウェンホイスの影響を受けていた。
1918年の選挙の敷居は低く1議席確保(NASの書記、
ハルム・コルテック)できたが、1922年は厳しくなり、議席確保できなかった。
またNASへのCPHの影響が拡大し始めた。1928年公式解散。1929年、多くのメンバーはRSPに参加。
(
キリスト教社会主義者同盟)
1907年結成、著名なのは
ウィリ・クロイトとアナルコ平和主義者の
バルトロムス・デ・リハト。
1918年選挙で
ヴィリ・クロイトが議席獲得。
キリスト教社会主義者同盟はSDP、
社会党と革命的議会党を形成した。
1919年、キリスト教社会主義同盟の議員
ウィリ・クロイトはSDP(CPN)に加わり、社会党の議員は革命的議会党を去った。
CPNに参加しなったメンバーはSDAPに参加したり後に1926年
キリスト教民主党結成参加。
〔緑左翼〕
1989年、
ネーデルランド共産党、
平和社会党、
急進党、
福音人民党の統合により形成された。
1989年と1994年の期待はずれの結果のあと1998年から2002年の間、党は特にうまくいった。
党の指導者
ポール・ローゼンメルレルは反対派のなかの第2党でしかないにもかかわらずメディア、仲間の政治家、学界から
非公式のコーク内閣反対派の指導者と見られていた。
2002年、
フェムケ・ハルセムが党の指導権を受け継いだ。彼女は寛容・自由・解放を党の鍵となる価値と強調した。
緑左翼は2007年には第2院に7議席、第1院に4議席、欧州議会に2議席持っている。
党は第4次バルケネンデ内閣の反対派である。党は100人以上の市議会議員をもち、20大都市自治体のうちの16に参加している。
党への投票者は大都市、とりわけ大学都市に集中している。
党はグローバル緑と
欧州緑党のメンバーである。
緑左翼は1989年ネーデルランド最大の左翼党である社民の
労働党より左の4党によって結成された。
創設者党は脱スターリン主義化した
ネーデルランド共産党CPN、平和運動からできた
平和社会党PSP、元進歩キリスト党の
緑の
急進党PPR、進歩キリスト教の
福音人民党である。これら4党は彼らの周縁性を指摘するためしばしば小左翼に分類される。
1972年の選挙でこれら諸党は150議席中16議席獲得した。
1977年の選挙ではわずか6議席しか残らなかった。このときからメンバーと投票者は密接な協力を議論し始めた。
1980年代からこのかた4党は市町村選挙での協力を始めた。
1984年、
PPR、CPN、
PSPは
緑進歩一致を形成しひとつになって欧州議会選挙に臨んだ。
彼らは1議席獲得し、これはPSPとPPRの間を巡った。4党の党員は反核エネルギーと反核兵器という共通の祖先に出会った。
PSP、CPN、PPRの80%以上のメンバーが1981年と1983年の2つの核兵器配置反対大衆抗議運動に参加した。
福音人民党は1981年設立の比較的新しい党で、大キリスト教民主の
キリスト教民主の訴えCDAから分裂した。
1982―1986年の間、議会で、この党は小左翼党(PSP、PPR、CPN)、PvdAそしてCDAの間でどこに位置するか悩んだ。
PPR、PSP、EVP間の密接な協力の増大とそれに伴った思想の変化で、諸党内に意見の相違がなかったわけではない。
革命的マルクス・レーニン主義から改良主義へのCPNの思想変化で分裂が発生し、1982年ネーデルランド共産主義者同盟が
創設された。1983年、PPRから深い緑が分裂しグリーンズを設立した。
1986年の選挙にはいるためにCPNとPPRはPSPと選挙連合を結成することを望んだ。
これはPSP内に危機を引き起こし、協力に反対する議会党議長フレド・ファン・デル・スペクが協力を支持する
アンドレ・ファン・エス
と交代させられた。ファン・デル・スペクはPSPを去り“社会主義と非武装”を創設した。
1986年、結局PSPは選挙連合を拒否した。
1986年の選挙ですべてのこれら4党は議席を減らした。CPNとEVPは議会から去り、PPRは2議席となり、PSPは1議席となった。
各党は別々に1990年の選挙に入る準備をし、選挙協力への圧力が増大した。
1989年、PPR、CPN、PSPは“虹”と呼ばれた統一名簿で欧州議会選挙に参加した。
これら4党以外の共感者が参加できるように連合緑左翼VGLが設立されることになった。
紆余曲折を経て、1990年11月24日、緑左翼が公式に設立された。
1989年の選挙はPPR、PSP、CPN、EVPが統一名簿で選挙に参加し、1986年の3議席から6議席に倍増した。
1989―1991年の時期統合が先に進んだ。
幹部会と緑左翼評議会が組織され、CPN、PSP、PPR各党の青年組織が統合された(DWARS)。
1990年、緑左翼の緑路線の穏健主義に対する反対派が形成された。
旧PSPのメンバーにより
PSP‘92が設立された。同年旧CPNメンバーがネーデルランド共産主義者同盟に参加し
新共産党が
創設された。
1991年の4党会議は公式に各党を解散することを決定した。
緑左翼は公式思想の定式化で大きな問題を抱えていた。1990年の企画は社会主義者と共産主義者との間の、更に以前のPPR
のリベラルとの違いで。
党は国内的に孤立してはいたが、緑左翼はオランダ議会で湾岸戦争に反対した唯一の党であった。
軍事介入の役割に関する党内議論は以前の組織のある部分の平和主義の立場と微妙な違いを起こした。
緑左翼は国連委任による限り平和維持使命を支持するだろう。
1994年の選挙で以前のMEPがグリーンズから選挙にでた。
1994年の選挙の前に党の指導部に対し党内候補者選が行われた。
選挙では1議席失い5議席となった。PvdAは大量に議席を失った。選挙後ブラウヴェルは議会を去った。
党の指導者には
ポール・ローセンメルレルがなった。
最大野党のCDAが反対党としての役割を十分に果たせなかったのでカリスマ的なローセンメルレルが
コーク内閣に対する反対派
の非公式指導者となった。
ポール・ローセンメルレルは政府提案を拒否するのではなく、対案をだすという新しい戦術をだした。
1998年の選挙では11議席獲得した。カリスマ的なローセンメルレルの役割が大きかった。
党は2002年選挙後の政権参加を考え始めた。
1999年コソヴォ戦争が党内を分裂させた。第2院の議会党はNATOのコソヴォ介入に賛成したが第1院では反対であった。
第2院党内以前のPSPメンバーのから介入に対する疑問の声が出された。軍事目標にたいする攻撃だけに限るという妥協がなされた。
この問題で
マルクス・バッカー(元CPN)、
ヨープ・フォクト(元PSP)ら著名な党設立者たちが離党した。
2001年、議会の党は9月11日後のアフガン介入を支持した。この介入は党内に大きな動揺を巻き起こした。
第2院党内以前のPSPメンバーのから介入に対する疑問の声が出された。
以前のPSPメンバーや青年組織DWARSに率いられる党内反対派の圧力で議会党は立場を変えた。
グリーンズのメンバーのままグリーンズのメンバーから緑左翼へ参加したものがいた。
2002年の選挙は政治環境の変化で特徴付けられる。
右翼政治評論家のピム・フォルトインが政界に入った。移民制限の要求と反既成体制を叫んだ。
彼の批判は第2次コーク内閣に向けられたものだが、ローセンメルレルは彼の発言に反対することのできた人物のひとりであった。
選挙の数日前、フォルトインが動物権活動家によって殺害された。選挙の直前、緑左翼の議員と候補が死んだ。選挙の前後、
ローセンメルレルと家族に深刻な脅迫がなされた。
緑左翼は1998年より得票数を増やしたが、1議席減らした。(660692票、6.95%、10議席)
2003年の選挙の前にローセンメルレルは引き続く彼の生命と家族への脅迫を理由に議会を去った。
彼のあとを
フェムケ・ハルセマが継いだ。彼女は議席を守れず2議席減らした。(495802票、5.14%、8議席)
2003年、緑左翼はほとんど満場一致でイラク戦争に反対した。戦争反対の抗議運動に参加した。
2003年、ハルセマは出産のあと党綱領の議論を始めた。彼女は個人の自由、寛容、自己実現、解放を強調した。
2006年選挙では第2院で4.6%、7議席獲得、地方選では5.9%、401議席獲得。
2009年欧州議会選挙は3議席獲得。
2010年選挙は6.7%で10議席獲得(+3)。
2010年12月、ハルセマの政治からの引退に伴い
ヨランデ・サップが指導者となる。
2012年9月総選挙で社会党、労働党、緑左翼3党が始めて選挙提携を行う。
結果は2.3%で4議席と6議席減。
指導者がブラム・ヴァン・オィエック(元政党急進)と交代。
2014年EU選は6.9%、2議席。
2015年上院選は4議席で1議席減。
指導者が
イェッセ・クラヴェル(元青年キリスト教全国労働組合CNV議長)と交代。
2017年総選挙では9.1%、14議席。
2019年EU選は10.90%、4議席。
(
PPR政党急進)
1967年の選挙のあと、プロテスタントの
反革命党ARP、
キリスト教歴史連合CHU、
カトリック人民党KVPと保守リベラル
自由と民主人民党VVDが中道右派政権を形成しそうになり、KVPとARPの進歩勢力はCHUとVVDを除いてPvdAとの
中道左派政権の形成を望んだ。ARPとKVPの反対派はより進歩的な政党を模索した。
1968年、KVP、ARP、CHUの指導者は3党はもっと協力しあうことを宣言した。
1974年、キリスト教民主連合である
キリスト教民主の訴えCDAが形成されることとなる。
これによりKVP内の急進派の希望は閉ざされた。
1968年、KVPからの分裂によりPPRが形成され、ARPからの参加もあった。
PPRはPvdA、
D66、PSPと
進歩の一致PAKを形成した。
1971年はPvdA、D66、PPRは前回の44議席から52議席となった。1972年には56議席となったが政権はとれなかった。
1977年にPPRは7から3議席となり、PvdAはCDAと連立交渉に入り全国レベルの協力は崩壊した。
1983年深い緑グループが分裂し
緑結成。
1984年EU選では
緑進歩一致が結成され1989年
緑左翼が結成された。
(
EVP福音人民党)
EVPは
キリスト教民主の訴えCDAのメンバーと反革命党を離党したグループの福音進歩党により1981年に形成された。
両グループはCDAの形成とその保守路線に反対した。
(
平和社会党PSP)
1955年から政治的無戸籍集団が形成された。
集団は主に労働党PvdAと共産党CPNの以前のメンバーからなっていた。
彼らはインドネシア独立への軍事介入と労働党のNATO支持のため労働党を離党した。
彼らの多くは労働党に統合した社会民主労働党あるいは
キリスト教民主連合の正統マルク主義派を背景としていた。
共産党のメンバーはCPNのスターリン主義路線のため離党した。
これらの政治的ホームレスのあるものはずっと政党のメンバーでなかった、一方あるものは戦前の革命的社会党のような
政党のメンバーであった。
これらは政治的には種々なグループであった。進歩的キリスト教、左翼社会主義者、正統マルクス主義者、反スターリン主義トロツキスト、
左翼共産主義者、リベラル平和主義者、アナーキスト。これらの多くは平和運動を発展させる活動家であった。
冷戦が起こり、1956年の仏、英、イスラエルのスエズ介入、ソ連のハンガリ介入はこれらのグループを東西両陣営へ懐疑的にした。
彼らは共産主義と資本主義との第3の道へ向いていた。
1956年、このグループはPvdAの名簿搭載を打診したがPvdAはこれを拒絶した。
彼らは自分たちの党を必要と感じ、1957年PSPが結成された。
これに1950年にPvdAから分離しこなったグループの
社会主義者連合(旧SDAPの一部:
古SDAPと
世界政府進歩党(
ベラミー党
メンバー結成)が結成)が加わった。
1958年
ヘンツ・ホルツァックら3名の共産党国会議員が離党し橋グループ結成するが1966年PSP参加。
1959年選挙で第2院の2議席獲得した。
初期は党は勃興する冷戦への反対、特に核兵器配置への議会内外の行動で知られるようになった。
キューバ社会主義革命と南アフリカのアパルトヘイトは党内のすべての暴力に反対するグループと抑圧的暴力に反対し解放の
ための暴力を支持するグループの間に議論を巻き起こした。
1961年、党はその原則的平和主義を捨て、暴力の最小化を擁護した。植民地主義に対する議会外活動ももっと重要になった。
党はニューギニアとアルジェリア独立を支持した。
1963年の選挙を党は特にうまく実行した。議席が倍増し4議席となった。
学生運動の展開の影響が大きかった。RSPは
プロヴォ(1960年代中期のオランダの対抗文化運動、非暴力的餌で権力から暴力
を挑発することに焦点をあてる)を受け入れた唯一の政党だった。
1960年代中期、ベトナム戦争が重要問題になった。PSPは米国介入反対に深く関わった。
1966年のベアトリクスの結婚で君主制が争点となった。PSPはこの機会を利用し共和制支持の声を上げた。
この年SWPのCPN反対派がPSPに加わった。1967年の選挙で4議席を守った。
1970年代は穏健派と急進派の内部衝突で特徴付けられる。
この最も大きな理由はPvdA内部の急進化であった。彼らは左派党だけとの多数派内閣生成を望んだ。
このため彼らは新左翼リベラルの
民主主義者66と進歩キリスト教の
PPRと進歩の一致を形成した。
PSPもこの話し合いに参加したが決裂した。PSPの多数派はこの連合を平和主義でも社会主義でもないと考えた。
1971年の選挙は2議席となった。党首がかわり新党首の
ブラム・ファン・デル・レークは環境を重要争点とした。
1972年の選挙も2議席であった。党の指導者はすべての議会外の抗議集団を抱擁しようとした。
環境、土地・住宅占拠(
スコッティング)、学生、女性運動にPSPは関わった。
穏健派と急進派の両方が党を去った。1974年まで
エリク・メイヘル(後緑左翼から1996年社会党へ)率いられたトロキスト集団
(プロレタリア左翼)が党内で活動した。
1974年、それらのほとんどのメンバーが離党し後に
社会主義選択政治を結成した。
1975年、進歩的協力と称する穏健派が離党しPvdAに加わった。
1977年は1議席となった。この選挙は社民首相の
ヨープ・デン・オイルとキリスト教民主の
ドリ−ス・ファン・アクトの
闘いとなり多くの左翼支持者がデン・オイルを支持した。
1980年第初期、米国の核兵器配置が重要争点となった。PSPは核兵器に反対する国民運動の組織に関わった。
1981年の選挙では3議席獲得した。1982年の選挙でも3議席維持した。
1980年代、党はPPRとより協力した。PPRはPvdAとCPNと衝突した。協力は主に地方・州選挙で行われた。
1984年、PPR,CPN、PSPは”緑進歩一致”を形成し欧州議会選挙に臨み1議席獲得した。
→以降、緑左翼の項へ
(
プロヴォ(挑発)運動)
1960年代中期のオランダの対抗文化運動で、非暴力の餌で権力の暴力反応を挑発させることに焦点を置いた。
これは
ノゼム運動(スナック・バーでジーンズにロック、米国のビートニク、英国のテディ・ボーイと関係)のあとを継ぎ、
ヒッピー運動
がそのあとに続いた。
1965年5月に
ロベルト・ジャスペル・グルートフェルト、
ロエル・ファン・ドインらにより結成され1967年5月に公式解散。
1965年には平和主義者の反空爆運動周辺の青年小グループが参加。
ベアトリクス王女の結婚式で演じた騒動で有名になる。政治的部分がアムステルダム議会に議席を持ち、
白計画という運動を展開。
1966年に建設労働者がデモで殺され警察との緊張は頂点に達した。
プロヴォはまたベトナム反戦運動にも参加、警察と衝突。これらの結果アムステルダム警察署長と市長が辞任し、
プロヴォも解散。メンバーの一部はヒッピー運動(
カバウテル運動、1969−1974年)や後に緑党に参加。
ロエル・ファン・ドインは
カバウテル運動から
PPR、
緑、
緑左翼と移った。
(
カバウテル運動)
カバウテルはオランダ民話の小人の妖精。
カバウテル運動はプロヴォ運動のあとを引き継ぎ、1969−1974年に
ロベルト・ジャスペル・グルートフェルト、
ロエル・ファン・ドイン
らにより行われた抗議運動。消費主義、自然や環境崩壊の批判に運動の焦点を置いた。
1970年2月オレンジ自由国を立ち上げ、これは影の内閣をもち住居占拠なども行った。
1970年アムステルダムでカバウテル党は5議席確保。
〔動物党〕
2002年
マリアンヌ・ティーメが結成。
2003年総選挙では0.5%。
2004年EU選では3.2%。
2006年総選挙では1.8%、2議席。
2010年総選挙では1.3%、2議席。
2012年総選挙では1.9%、2議席。
2014年EU選では4.2%、1議席。
2015年上院選では2議席。
2017年総選挙では3.1%、5議席。
2019年EU選は4.02%、1議席。
〔
緑〕
1983年マルテン・ビールマンが結成。党結成はフランス語圏ベルギーの緑政党エコロに支援された。
ドイツの緑は緑進歩一致を支援。
1984年EU選は1.3%で4%を越えることができなかった。
1986年選挙は0.2%。1998年まで国会選に参加するも1998年以降は参加せず。
2014年EU選は0.23%。
〔社会党〕
社会党は1971年、毛沢東主義者の党としてネーデルランド共産党マルクス・レーニン主義KPN/MLとして結成された。
KPN/MLは
ネーデルランド共産主義統一運動(マルクス・レーニン主義)KEN(ml)からの分裂により
ダーン・モンヘらに
より形成された。最初の議長は
ハンス・ファン・ホートがなった。
KEN(ml)分裂を起こした争点は階級闘争での知識人の役割についての議論であった。
KPN/MLの創設者たちは組織が学生や知識人により支配されるのを好まなかった。
1972年、KPN/MLは社会党と名を変えた。
SPは地域政党のネットワークを建設し始めた。市民に助言し、地域活動集団を起こす一般従事者事務所をもった。
これにがバラバラの労働組合、環境組織、借家人協会などのフロント組織内に展開していった。
1977年から第2院選に挑戦し、1994年、初めて
ヤン・マライニッセンら2名選出された。
1986年
モンヘが死亡、
マライニッセンが党を主導。
1991年、党は公式にマルクス・レーニン主義を捨てた。実際はそれ以前にこの路線は取られていなかった。
1994年の議会選挙標語は“反対に投票を”であった。
1990年代、主要な左翼政党であるPvdAが中道に移動し、SPと
緑左翼が左翼投票者にとって存在可能な選択となった。
1998年の選挙では
紫政権への反対が報いられ5議席獲得した。
1999年のEU議会選挙で
エリック・メイヘル(1996年緑左翼から移る、1960年代初めは労働党ついで1963年PSP)がMEPとなった。
2002年の選挙では左翼でSPだけが議席を増やし、9議席と倍増以上になった。(560447票、5.90%)
この結果は2003年の選挙でも維持された(609723票、6.32%)。2004年のEU議会選挙では2議席となった。
2004年、
アリ・ラズラクが
ヤン・マライニッセンと衝突し1人分派を結成。
2005年のEU憲法の国民投票では議会の左派政党で唯一反対した。
2006年の地方選挙は大成功で倍増以上の成果を得た。これは立候補が増えたこともあるが、右派第二次
バルケネンデ内閣の
福祉改革によるところが大きい。
国会選挙では16議席ふやし(150議席中)25議席で第3党になった。
他はCDA(
キリスト教民主の訴え)2608573票、26.5%、41議席、労働党PvdA2085077票、21.2%、33議席、SP1630803票、
16.6%、25議席、自由と民主人民党1443312票、14.7%、22議席、緑左翼453054、4.6%、7議席であった。
2007年の州選挙の結果、第1院の議席を4から11議席にした。議会指導者は
アグネス・カント(2008−2010年、1967年生)。
2007年、第1院議員
ドゥズギュン・イルディリムが追放され一人で
連帯結成。
他に
アニヤ・メーレンベルトなど。
2010年地方選挙敗北を受けて党首が
エミレ・ルーメルに交代。
2010年総選挙は9.8%、15議席と10議席の大幅減で右翼の自由党が+9議席の24議席。
2012年総選挙は9.7%、15議席。自由党はー9議席の15議席(10.1%)と後退。
2014年EU選は9.6%、2議席。動物党が4.2%、1議席でこの2党がEU議会では
ヨーロッパ統一左翼北欧緑左翼に参加。
2015年上院選は9議席で1議席増。
2017年総選挙9.1%、14議席。
党首が
リリアン・マライニッセン(ヤン・マライニッセンの娘)に交代。
2019年EU選は3.37%。
2つのトロツキスト・グループがSPに加入戦術を行っている。
攻撃(
労働者インター委員会、当初は労働党、1998年からSP)と
国際社会主義者IS(
国際社会主義者潮流)であるが、ISは追放された(依然として加入しているものもいる)が、攻撃は力がないので
容認されている。
社会主義選択政治(
第4インター統一書記局、1972年PSPから分裂)のメンバーも党内で活動している。
現在のメンバーは宗教社会主義者、フェミニズム、
別の国際主義者、労働組合、革命的社会主義、
住居占拠運動活動など種々。
EU議会では
ヨーロッパ統一左翼北欧緑左翼のメンバー。
(
ネーデルランド共産主義者統一運動)
この組織は1964年CPNの親中国派分派として出発し、最初
マルクス・レーニン主義センターMLCと称した。
1964年末、MLCの中心人物(
ダーン・モンヘと
ニコ・シュレフェル)がCPNから追放された。
MLCは親中国派分派のひとつでもう一方はCPNを革命党の変えることはまだ可能だと主張し統合はならなかった。
1965年、MLCはネーデルランド・マルクス・レーニン主義センターMLCNと名を変えた。
この時期ピエテル・ボエヴェが参加、ボエヴェはMLCNの国際書記となる。ボエヴェはスパイがばれて追放される。
1970年、MLCNは
ネーデルランド共産主義統一運動(マルクス・レーニン主義KEN(ml)に名を変えた。
この時期まで組織は拡大し、急進学生をひきつけ始めた。多くはPSPとその学生集団から来た。
青年同盟マルクス・レーニン主義ユース、学生組織マルクス・レーニン主義同盟を形成した。
KEN(ml)は全国ベトナム委員会を組織した。他のKEN(ml)の大衆組織は借家・家探し人同盟と労働者の力であった。
1971年末、知識人の階級闘争における役割の問題で組織が分裂した。
多数派は労働者階級路線を支持し、離党し
モンヘらは
ネーデルランド共産党(マルクス・レーニン主義)KPN(ml)を結成した。
このあと残留者たちは分裂を繰り返し、1977年、追放者の一部はマルクス・レーニン主義集団
赤い夜明けを形成した。
後の緑左翼の指導者ローセンメルレルは赤い夜明けの出身である。
1977年、KEN(ml)は公式登録し、2722票獲得している。1985年頃解散。
(
ネーデルランド・マルクス・レーン主義同盟(ネーデルランド・マルクス・レーニン主義党)MLPN)
ネーデルランド・マルクス・レーニン主義党はオランダ情報機関によってでっち上げられた親中国派共産党。
1968年から1990年代初期まで存在。中心人物のピエテル・ボエヴェは以前MLCNの書記であった。
ボエヴェはスパイ行為がばれて追放され1968年、ネーデルランド・マルクス・レーン主義同盟を設立。
翌年
ネーデルランド・マルクス・レーニン主義党MLPNと変える。
1989年、ベルリンの壁崩壊とともに必要なくなり解散。
ポエヴァは1955年、モスクワの学生会議出席のあとからオランダ情報機関に所属。
(
社会民主労働党SDAP)
アナーキストと改良主義者の衝突のあと
社会民主同盟メンバーにより
社会民主労働党SDAPが結成された。
1893年、
社会民主同盟党協議会で多数派は選挙参加阻止のため票決を行った。
ピーテル・イェレス・トルールストラらの少数派はこれを
阻止しようとし、後に新党を結成しようと離党した。トルールストラはブルジョア勢力とみられSDBと社会主義運動統一を破壊したので
新党結成は社会主義運動内で議論となった。アナーキストがSDBを完全支配し、主な社会民主主義者はトルールストラ・グループに参加。
彼らは12使徒と呼ばれるグループを結成。彼らはほとんどアムステルダムやロッテルダムなどの大都市やフリージアン、フロニンゲンなど
の地域から来ており、教師、牧師、弁護士などの高等教育者のようなブルジョアであった。
1894年ツヴォレで党が結成され、綱領は
エルフルト綱領の翻訳であった。SDAPはドイツSDPの支援を受けた。
1894年
第2インターがSDAPをオランダの党と認めた。
1897年選挙で2院に2議席獲得、トルールストラが議会党の議長になった。議会では
ニコラース・ピエルソンの
自由派多数派政権の
社会立法を支持した。この時期、党はオランダの主要な社会主義者党となり
ヘルマン・ホルテル、
ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト、
ヘルマン・ハイエルマンスなどの作家・詩人を引き付けた。
1901年選挙でSDAPは6議席となり、
自由派は多数派の地位を失った。
キリスト教勢力、プロテスタントの
反革命党とカトリックの
カトリック総同盟は社会主義者を無視した。
選挙の勝利で社会主義の柱が興隆し始めた。
1903年港湾部門で大ストライキ発生し、連帯から鉄道部門などでもストライキが発生、使用者は銃撃で対応した。
社会主義と労働運動の長年の抑圧で大きな反乱となった。
ストライキ者は再雇用や賃金支払い労働組合承認を求め使用者は受けれた。
アブラハム・コイペルの宗教内閣は厳しい罰でストライキを終焉させようと望んだ。
当初SDAPはストを支持したが政府の対応でトルールストラらの穏健派はスト反対に転じた。
ストライキは社会主義者連合と宗教連合と社会民主主義SDAPとアナーキストの他の組織との協力を終えさせた。
しかしこれで労働組合は統一しSDAPと共に活動する準備ができた。
1905年
オランダ労働組合同盟がヘンリ・ポラックにより結成された。
改良主義者とマルクス主義者の衝突は内外で激しくなり、マルクス主義者は勝利した。(新聞人民を握る。)
1905年選挙でSDAPは重要な勝利を得(7議席)、普通選挙に賛成の自由派支持を決定し
デ・メーステルの少数政権を支持
した。SDAPの多数のメンバーは続けざまに穏健派を非難するマルクス主義者の行動にいらだち、トルールストラは反撃した。
マルクス主義者議長
ピーテル・ロドヴェイク・タクは辞任し
ウィレム・フリーヘンが議長となり、タクは新聞人民の支配も失った。
1907年、
ダフィド・ウェインコープ周辺のマルクス主義者は雑誌デ・トリブーネを創設しSDAPの改良主義指導者を攻撃。
1909年トルールストラらは
ウェインコープらを追放。彼らは
社会民主党を結成。
1909年選挙でSDAPは7議席維持したが自由連合が宗教諸党に敗北、SDAPは普通選挙のための議会外運動の焦点を置く。
ストライキをNVVが避けたため請願行進を展開したが禁止される。
1913年選挙でSDAPは15議席となり、自由派政権から入閣を求められたが拒否するが地方では参加。
第1次世界大戦でSDAPはオランダの政策の武装中立を支持、1915年政府支持を撤回。
戦中の同盟国のオランダの港封鎖により食料不足で主要都市で暴動発生しSDAPは政府の暴動取り締まりを支持、多くの
抗議者はSDAPに怒り
SDPに支持変更。
政治制度改革が俎上に上り、自由派内閣により憲法改正が準備されたが、宗教政党が宗教学校への公営学校同等の資金援助と
普通選挙権の女性非拡大を条件とする。SDAPはこれに反対、女性への被選挙権付与と女性参政権を憲法問題から除くことで妥協。
1919年左派自由派政権で女性参政権が実現1922年選挙で実施。
1918年選挙でSDAPは100中22議席となり、4議席は共産党含む他の左翼政党、しかし宗教政党が勝利。
1918年ドイツで革命がおこりトルールストラはオランダにも波及すると考え政府の辞職を要求するが辞職せず革命波及を阻止。
オランダ人の多くはこれを支持。(トルールストラの間違い)
トルールストラの間違い、1913年の連立政権参加躊躇、宗教政党の選挙での強さによりSDPは1939年まで政権に参加できなかった。
1919年、多くの社会主義者の要求(普通選挙権、8時間労働、国家年金)が制度化された。
党は革命から労働者階級の地位改善に焦点を移行し始めた。
非共和的になり1936年には女王の王子出生に祝福電報を送った。
このような穏健主義に対し、
ヤックェス・デ・カットらが1932年に分裂し
独立社会党を結成したがトロツキストの
革命的社会党との
合流に失敗し分裂した3000人のうちの多くが戻った。
1933年のデ・ゼーフェン・プロヴィンシエン号の反乱ではSDAP指導者は反乱は支持しないが動機は理解できると発言。
この出来事で時の政権は兵士がSDAPメンバーになるのを禁止した。
1939年、第2次世界大戦の始まりでプロテスタント政治家
ディルク・デ・ヘールの国民政権参加を問われた、参加した。
ドイツ侵攻でこの政権はロンドン亡命政権となった。1940年占領軍によりSDAPは禁止された。
多くのSDAPメンバーが
レジスタンスに関係した。
戦後
ブレイクスルー(打開)と呼ばれる柱政治制度の変化の感覚が広がった。このためSDAPは左派自由派自由民主同盟VDB、
キリスト民主連合CDUと統合した。それに個人としてカトリック抵抗運動、
キリスト歴史連合、
反革命党からも参加した。
〔労働党PvdA〕
1946年2月、社会民主労働党SDAP、左派リベラル
自由民主同盟VDB、
キリスト民主連合CDUの統合により設立された。
それに個人としてカトリック
抵抗運動、プロテスタント
キリスト歴史連合、
反革命党ARPからも参加した。
VDBは1901年結成の自由思考民主同盟が起源、柱組織をもたず2院では戦前5−11議席を獲得して、
自由liberal連合などと同盟。
1905−1907年の
デ・メーステル政権参加、1913−1918年の
ピエトル・ファン・デア・リンデン内閣支持。
CDUは1926年、キリスト教小政党が合同し結成。
カール・バルトの思想に依拠。1−2議席で常に反対派。
キリスト歴史連合CHUは
反革命党ARPから1890年代分裂したグループが1908年結成。
ピエトル・ファン・デア・リンデン内閣以外は
政権支持。
反革命党は1879年結成。11−27議席獲得、1888−1890年
エネアス・マッケイ内閣、1901−1905年、
アブラハム・コイペル内閣、1908−1913年、
テオ・ヘームスケルク内閣、1933−1939年
ヘンドリクス・コライン内閣、1940−
1945年
ピエトル・ゲルブランディ内閣設立。1918−1932年も政権参加。
PvdAの創設者は柱状社会の歴史と手を切り、広範囲な国民正統を作りたかった。
党は社会主義者の理想とリベラル、宗教、ヒューマニスト思想を結合した。しかし柱状社会を打ち破れなかった。
そのかわり、新党がSDAPがもっていた他の社会主義組織との密接な関係を更新した。
1946年選挙はKVP30.8%、32議席、PvdA28.3%、29議席、ARP12.9%、13議席、CPN10.6%、10議席、CHU7.8%、
8議席、
自由党freiheitPvdF6.4%、6議席。
1948年はKVP31.0%、32議席、PvdA25.6%、27議席、ARP13.2%、13議席、CPN7.7%、8議席、CHU9.1%、9議席など。
1948年、以前のVDBの指導者
ピエテル・アウドに率いられたリベラル・メンバーが離党した。彼らはPvdAの社会主義路線に
満足できず、リベラル保守の
自由党と中道右派の
自由と民主人民党VVDを形成した。
1946―1958年の間、PvdAは
カトリック人民党KVP及び、
VVD、
ARP、
CHUの結合体と連立政権を構成した。
KVPとPvdAは政府の多数派であった。1948年からこれらの内閣はPvdAの
ヴィレム・ドレースを首相とした。(
ローマン赤連立)
彼の指導のもとオランダは戦争から回復し、福祉国家を建設し、インドネシアは独立した。
1958年の内閣危機のあと、PvdAは
VVDにとって代わられた。1965年までPvdAは反対派であった。
選挙でのPvdAの支持は傾き始めた。
1952年、PvdA29.0%、30議席(KVP28,7%、30議席)、1956年、PvdA32.6%、34+50議席、KVP31.6%、33+49議席、
1959年、PvdA30.4%、48議席、KVP31.6%、49議席、1963年、KVP31.9%、50議席、PvdA28.0%43議席。
1965年、
KVP、
ARP、
CHU、
VVDでの衝突で政権継続が不可能となった。3信仰政党はPvdAの方を向き始めた。
PvdAとKVP、ARPによる政権(
カルス内閣1965−1966年)ができたが、長く続かなかった。
若い世代がPvdAの支配権を獲得しようとしていた。彼らは女性解放、環境保護、第3世界発展のような新社会運動の方を
向き反議会戦略をとった。彼らは
新左翼(1965−、1966年”赤についての10”出版)と呼ばれ
ヤン・ナゲル、
ブラム・ペペル、
ハン・ランメルス、
アンドレ・ファン・デル・ラウ、
ヤン・プロンク、
イレーネ・ヴォリンク、ハンス・ファン・デン・ドゥールなどがメンバー
であった。彼らの勝利でカルス内閣が倒壊しKVPおよびプロテスタント同盟者との連立が不可能となった。
中道派の古参集団は1970年、離党しドレースの息子らは
民主社会主義者70を結成した。
新左翼の下、PdvAは進歩多数派政権を形成しようと左派リベラルの
民主66と
PPRと連合した。(進歩の一致PAK)
1967年、KVP26.5%、42議席、PvdA23.5%37議席、1971年、PvdA24.6%、39議席、KVP21.8%、35議席、
1972年、PvdA27.4%、43議席、KVP17.7%、27議席、VVD、14.4%、22議席、ARP8.8%、14議席CPN4.8%、7議席。
1971年、1972年の選挙でPvdAとKVPはその連合と多数派を獲得できなかった。両者は協力せざるを得なくなった。
PvdAの
ヨープ・デン・オイルが
PPR、
民主66のほか
ARP、
KVPの一部から支持を得て少数派内閣を形成した。
内閣は急進的に政権、社会、経済を改革しようとしたが経済後退と直面し、人と思想の衝突に溢れた。
首相のデン・オイルと副首相のKVPの
ファン・アフトの関係が悪くなり、1977年の選挙の前、内閣は倒れた。
1977年の選挙はPvdA33.8%、53議席、CDA31.9%、49議席、VVD17.9%、28議席、D66は5.4%、8議席。
1977年の選挙はPvdAの勝利であったが、デン・オイルと
ファン・アフトの関係が悪く中道左派政権形成は不可能であった。
長い交渉の結果、
CDA(1980年
KVP、
ARP、
CHU合同)と
VVDの連立政権が成立し、PvdAは反対派となる。
1981年選挙でCDA−VVDが多数派から落ち、第1党CDAはPvdA、
D66が
ファン・アフト政権形成。
1981年の選挙はPvdA28.3%、44議席、CDA30.8%、48議席、VVD17.3%、26議席、D66は11.1%、17議席。
ヨープ・デン・オイルと
ファン・アフトが衝突し政権倒壊、1982年選挙でCDA−VVDが多数派となる。
1982年の選挙はPvdA30.4%、47議席、CDA29.3%、45議席、VVD23.1%、36議席、D66は4.3%、6議席。
1986年
ヨープ・デン・オイルが政治を去り、
オランダ労働運動連合(1976年結成の社会民主主義の
オランダ労働組合同盟
とカトリックの
オランダ・カトリック労働同盟の連合組織、他はプロテスタントの
キリスト全国労働同盟)指導者であった
ウィム・コークが1986年、跡を継ぐ。
1989年選挙後PvdAはCDAの
ルード・ルッベルス(
サッチャー主義者と見なされた。)政権参加。
1986年の選挙はPvdA33.3%、52議席、CDA34.6%、54議席、VVD17.4%、27議席、D66は6.1%、9議席。
1989年の選挙はPvdA31.9%、49議席、CDA35.3%、54議席、VVD14.6%、22議席、D66は7.9%、12議席、
緑左翼4.1%、6議席。
PvdAは前の
ルッベルス政権の公営企業の私有化や福祉国家改革を含む主要経済改革を受け入れ新内閣でもこの政策継続。
この内閣は労働組合からの強い抗議を受け、PvdA内部で大きな政治衝突を見る。
1994年選挙でPvdA、CDA連合は多数派を失うが、PvdAが最大党となる。
1994年の選挙はPvdA23.9%、37議席、CDA22.2%、34議席、VVD19.9%、31議席、D66は15.4%、24議席、
緑左翼3.4%、5議席、社会党1.3%、2議席。
コークが右派リベラルVVDと左派リベラルD66と連立政権(
紫政権、1918年以来政権参加のキリスト教民主が参加せず)形成。
この政権の政策は
ポルダー・モデル(オランダ・モデル)として
第3の道の例として
クリントンと
ブレアから歓迎された。
内閣は経済改革を継続したがこれと道徳問題と政治改革に関する進歩的外観を結びつけた。
コークは人気のある首相となった。1998年選挙ではD66の犠牲でPvdAとCDAが議席を増やした。
1998年の選挙はPvdA28.9%、45議席、CDA18.3%、29議席、VVD24.6%、38議席、D66は8.9%、14議席、
緑左翼7.2%、11議席、社会党3.5%、5議席。
コークは2001年
アド・メルケルトにあとを託し政治を去った。しかし
ピム・フォルトイン(ゲイの極右)の政治的興隆できれらの期待
を不満にさせられた。2002年選挙で45から23議席に大敗。これは
フォルトインが持ち上げた移民と同化問題の影響が大きかった。
2002年の選挙はPvdA15.1%、23議席、CDA27.9%、43議席、ピム・フォルトイン名簿17.0%、26議席、VVD15.4%、
24議席、D66は5.1%、7議席、緑左翼7.0%、10議席、社会党5.9%、9議席。
メルケルトは指導者を辞任し
イェルチェ・ファン・ニューヴェンホ−フェンに代わった。
CDAとVVdが
ピム・フォルトイン名簿と政権を形成したがすぐに倒れた。
PvdAでは党員投票で、
ニーウェンホ−フェン、
クラース・デ・フリース、
ヤウケデ・フリースに対し
ワウテル・ボスが60%を獲得し
指導者に選ばれた。
ワウテル・ボスは党組織の民主化と思想的再方向化を行った。
2003年選挙ではほとんどの議席を取り戻し、CDAと小差の第2党となった。
2003年の選挙結果はPvdA27.3%、42議席、CDA28.6%、44議席、VVD17.9%、28議席、D66は4.1%、6議席、
緑左翼5.1%、8議席、社会党6.3%、9議席、ピム・フォルトイン名簿5.7%、8議席。
ワウテル・ボスとCDA指導者の
ヤン・ペテル・バルケンデとの不仲でCDA−PvdA連立形成は無理であった。
PvdAを除いたCDA、VVD、D66が連立した。
2006年地方選挙はPvdAは期待どうりよかったが国会議員選挙は良くなく、9議席減らし33議席となった。
失った多くは
社会党に流れた。PvdAは左派陣営から距離を置いた。
2006年の選挙結果はPvdA21.2%、33議席、CDA26.5%、41議席、VVD14.7%、22議席、社会党16.6%、25議席、
緑左翼4.6%、7議席、
自由党5.9%、9議席。
PvdAは
第4次バルケネンデ内閣(CDA、
キリスト連合CU、PvdA)に参加し
ヴァウテル・ボスは財務大臣となった。
2007年党全執行部は退陣した。
2010年党首が
ワウテル・ボスから
ヨブ・コーエンに移動。
アフガニスタン問題で政権離脱し政権崩壊。
これに伴う選挙はPvdA19.6%、30議席、CDA13.7%、21議席、VVD20.4%、31議席、社会党9.9%、15議席、
緑左翼6.6%、10議席、
自由党15.5%、24議席、D66は6.9%、10議席(+7)。
PvdAは東北部のフローニンゲン(左派の拠点地域)、ドレンテが地盤。
2012年
ヨブ・コーエンの党首辞任にともなう
党首選で
ディーデリク・サムソムが54%を獲得し、
ロナルド・プラステルク(31.6%)らを敗る。
ルッテ政権倒壊に伴う2012年9月下院選ではPvdAは38議席でVVDの41議席に及ばず。
VDD26.6%、PvdA24.8%、自由党10.1%、社会党9.7%、CDA8.5%、D66:8.0%、CU3.1%、緑左翼2.3%、
改革派政党2.1%、動物党1.9%(2議席)など。
第2次ルッテ政権でVDDと大連立、ロデウェイク・アッシェルが副首相となる。
2014年EU選は9.4%、3議席。
2015年上院選は8議席で6議席減。
2016年党首選でロデウェイク・アッシェルが54.5%でディーデリク・サムソムを破る。
2017年総選挙は5.7%、9議席で大敗(第7党)、緑左翼9.1%、14議席、社会党9.1%、14議席にも後れをとる。
2019年EU選は19.01%、3議席と復調。
歴史的にPvdAは
CDA、
PPR、
KVP、
ARP、
CHU、
CU、
D66、
VVDと政権協力してきた。
1971−1977年までD66、PPRと同盟、1977−1989年はD66と密接に同盟、2003年からはD66との関係悪化。
第2、3次バルケネンデ内閣(2003−)の間、社会党、
緑左翼はPvdAとの協力を呼びかけたが
ヴァウテル・ボスは拒否。
オランダ労働組合同盟NVVは1976年、カトリックの
オランダ・カトリック労働同盟NVK(当時40万、教会のNVV、CNV参加禁止
により1925年結成)と統合し
オランダ労働運動連合FNVを結成、FNVは120万で組織労働者の約60%、
キリスト全国労働同盟
CNV(1909年結成)は1973年交渉から離脱、36万の組織。
〔
民主(主義者)66 D66〕
1966年
ハンス・ファン・ミエルロらが結成。
1967年初めての総選挙で4.5%、7議席で第7党。
1972年選挙後、デン・ウイル(PvdA)政権に参加(PvdA、PPR、D66、KVP、ARP)
1972−1974年に党員が劇的に減少し(6000から300)解散の危機に会う。
1981年選挙で11.1%、17議席でファン・アフト(CDA)政権(
CDA、PvdA、D66)に参加。
1982年選挙は4.3%、6議席。
1994年選挙で15.4%、24議席でコーク(PvdA)政権(PvdA、
VVD、D66・・紫連立)成立。
2003年バルケネンデ(CDA)政権(CDA、VVD、D66)に参加し、2006年選挙は2.0%、3議席まで低下。
2017年選挙で12.2%、19議席で第三次マーク・ルッテ政権参加(VDD、CDA、D66、CU)
2019年EU選は7.09%、2議席。
*
オランダの宗教政党
オランダは他の大陸中南欧地域と同じく宗教政党の影響力が大きいが、しかし宗教政党がカトリック・プロテスタント更に左右に分裂し、
更に、社民進出で世俗主義と宗派主義の分裂が生じた。
当初はカトリックはプロテスタントに抑圧され宗派の自由のためリベラルと提携していたが、リベラル更に労働者勢力が世俗性
(宗教からの自由)を推進し始めると、宗教支配体制維持のためカトリックとプロテスタントは同盟し始めることとなる。
戦後は更に体制危機回避のため社民も含めた多極共存型の異質・協調型民主制と称される調整的資本主義による資本主義体制維持
のため福祉国家に向けて宗教政党と社民の協調が始まる。
(
ローマ・カトリック国家党RKSP)
カトリック政党。1904年
一般同盟ABとして結成され1946年
カトリック人民党KVPとなる。
19世紀のオランダではカトリックは少数派で北方地域の北ブラバンド、リンブルグで多数派となって独立的状態を維持していた。
カトリック・スペインに対する独立闘争以来のプロテスタント主義と民族主義の混合体制で1848年までオランダではローマ・カトリック教会教権
体制は禁止されていた。1890年代までのカトリックの同盟者は信仰の自由を擁護する
リベラルであった。
カトリックは内部では経済(コーポラティズムとブルジョア志向)と普通選挙制をめぐり進歩派と保守派に分裂。
1880年代末リベラルが信仰、宗教教育の財政支援を拒否したためカトリック議会グループはプロテスタントの反革命党ARPとの同盟に転換。
1904年地域カトリック幹部と議会派の連合として一般同盟結成。
1908年からARP、CHUとの連立政権に参加、1918年最大党となりARP、CHUと連立で初めて政権獲得。
1922年労働者志向で社会保守の
ローマ・カトリック人民党が分裂。これは1933年カトリック民主同盟と
カトリック民主党を結成し、
1937年
ローマ・カトリック国家党に合同。
1926年プロテスタントのCHUと不和となり幹部のゆるい同盟からより強固な
ローマ・カトリック国家党RKSPを結成。
1920−1930年代は最大党としてプロテスタントのARP、CHUと提携したが党は主要な政治的地位からは排除された。
わずかに1929−1933年に首相を確保。1939年にRKSP、CHU、VDB、ADAPの連立政権が成立し20年以上続いた
宗教3党連立体制は終焉。
(
リベラルは1918年の大敗以降衰退、1894年社会民主労働党結成の影響を受ける。リベラルは1891−1894年、1897−1901年
(
ニコラース・ピエルソン)、1905−1908年、1913−1918年(
コルト・ヴァン・デア・リンデン)に政権獲得。)
戦後(1945年)RKSPは
カトリック人民党KVPとなる。
1948年インドネシア独立と社民協力反対グループが
カトリック国民党KNPを結成したがカトリック教会の圧力で1955年再統合。
1958−1965年にKVPは最盛期を迎える。1965−1980年は後退時期となる。1967年選挙で8議席失う。
選挙運動中KVP、ARP、CHUとの提携継続を宣言し、PvdAとの協力に消極的となる。
これが
ルート・ルッベルス、
ヨ・カルス、
エリク・ユルヘンス、
ヤック・アールデンら青年、KVP左派支持者の反乱を招く。
1968年
ヤック・アールデン、
パウル・ヤンセン、
アニー・ケッセル、
ハンリー・ヴァン・ドムらの急進派(アールデン派)は
政党急進PPRを結成。
ルート・ルッベルス、
ヨ・カルスは党内にとどまる。
1972年党をリベラルと考える正統派が分裂し
ローマ・カトリック党RKPNを結成し、1974年1議席獲得するが1977年には失う。
1970年代KVPは党存続のためドイツ・キリスト民主同盟のような広範なキリスト民主政党思想を考える。
1974年CDA連合結成される。
(
反革命党ARP)
反革命議会グループは1840年代から存在し、オランダ改革教会内の正統派で教会内部のリベラル派やオランダ政界のリベラル
に反対。スローガンは神、オランダ、オレンジ(オラニエ)家で彼らの教義ではカトリックとユダヤ人は2級市民。
彼らは公教育を重要争点とした。この点で社会・政治改革に反対していたが世俗主義をとることのあった保守とも不和。
1879年
アブラハム・コイペルにより正統プロテスタント社会から分離するかたちでARPが結成された。
カイパーは1892年リベラルな”オランダ人改革教会(オランダ改革派)Hervormde
Kerk”に対し”オランダの改革教会Gerformeerde Kerken”を結成。
ARPは公教育と宗教教育の財政的対等を目標とし、リベラルとカトリックの提携を打破し、カトリックとプロテスタントの提携を目指した。
(カイパーはオランダのプロテスタントに新路線を敷き、カトリックとの協力、選挙権拡大を進めた。)
1888年ARPは31.4%を獲得し宗教内閣形成。1891年は宗教政党が多数派を失いリベラル政権成立し実質的男性普通選挙制導入が
が提案され、これを支持する多数派と反対派が1894年分裂、更に強固な党にも反対するグループが1898年
自由反革命党を結成、
これは1897年結成の
キリスト歴史投票者同盟(1890年代結成の反カトリック提携派の一つ)と1903年
キリスト歴史党となり1908年、
フリーズ同盟(1898年結成)と
キリスト歴史連合CHUとなる。
以降宗教政党とリベラル間で宗教教育と普通選挙制が争点となる。
1917年の憲法改正では女性選挙権と比例代表制と引き換えに宗教教育への対等財政支出が獲得される。
普通選挙制(女性選挙権)とカトリック提携に反対するグループが
改革派政党SGPを1918年結成。
ARPの選挙基盤が変化し、ARPを支持する下層プロテスタントと、CHU支持の中間階層プロテスタントとの差異は消滅し始め、
オランダ人改革教会(CHU)とオランダの改革教会(ARP)の差異がより重要となる。
1933年にはRKSP、CHU、ARP、
リベラル国家党LSP(後の
自由民主人民党VVD)、
自由思考民主同盟VDB(
D66等に関係)の
広範な連立政権樹立。
戦後ARPは脱植民地化に反対、社民とカトリックは脱植民地化に賛成で孤立。
1944年、オランダ改革教会が分裂し、生じた
リベラル化教会グループ(宗派多様性に反対、正統派)により1948年
改革政治同盟GPV結成される。
1952年社民ド・フリースのPvdA、KVP、ARP、CHU連立政権成立。
1971年選挙では宗教3政党は議席を減らし、左翼キリスト政党
政党急進PRRとの競争に直面。
VVD、宗教連合は多数派を落ちたが、
民主社会主義者70が救いの手を差し伸べた。
1973年KVP、ARP、CHUにより連合
キリスト民主の訴えCDAが結成される。 1977年選挙で統一名簿形成。
選挙後CDA、VVD連立が結成されこれに不満なARPのPvdA提携派はCDAを去り1981年
福音人民党結成。
1975年CDA結成反対グループ(カトリックとプロテスタント合同反対の正統派)が
改革派政治連合RPFを結成。
1998年からRPFとGPVは議会で協力を始め、2000年
キリスト連合結成。
(
キリスト歴史連合CHU)
オランダ改革派教会から分裂して改革派教会を設立した正統派改革派プロテスタントによって1879年ARPが結成された。
この政党は宗教学校への平等資金援助と普通選挙権とプロテスタント道徳を支持していた。
主要戦術は宗教党と非宗教党の対置であり、このためリベラルとカトリックの協力を打破しカトリックとプロテスタントの提携を目指していた。
更に強い中央集権政党の最初のものであった。この党には多くの保守も参加した。
1891年選挙で勝利したリベラルは選挙権の拡大を提案、これをARPが支持し、ARPの中核と保守に緊張が生じた。
保守はカトリックに反対し、カトリックとの提携を解消し、プロテスタント間、他の保守との提携を望んだ。
彼らは選挙権拡大に反対し、王権神授説を支持した。彼らは強固な党則の強固な組織に反対した。
教会と国家の関する意見の違いは領域主権支持のARPと神権政治支持の保守との理論論争を起こした。
このためアレクサンダー・デ・ローマン率いる保守派が離党した。グループはオランダ改革派教会のメンバーで多くは貴族的背景をもっていた。
彼らは1894年自由反革命名簿で選挙に参加、1897年には他のARPから分裂したオランダ改革派に率いられるキリスト歴史投票者同盟が
議席獲得。1898年には自由反革命派は別の政党自由反革命党VARを結成。1901年選挙は宗教政党が勝利し
コイペルが政権樹立。
またオランダ改革派率いる別のARPから分裂政党のフリーズ同盟も議席獲得。
1903年VARはキリスト歴史投票者同盟と合同しキリスト歴史党を結成、1908年キリスト歴史党はフリーズ同盟と合同しキリスト歴史連合CHU
を結成。
1908−1913年はCHUはARPと一般同盟の少数宗教政権を支持。1913−1918年はリベラルの超然内閣が形成された。
これは女性普通選挙権と宗教学校の平等財政支援を結合した憲法改革を目指していた。
女性普通選挙権での最初の選挙の1918年選挙はRKSP25→30、SDAP15→22、ARP11→13、CHU10→7、リベラル37→14で
リベラルが大敗し、宗教政党が勝利。女性は宗教に捕らわれていた。RKSPの
ライス・デ・ベーレンブルックが宗教連立政権樹立。
1921年女性選挙権、カトリック・プロテスタント提携反対の反カトリック、神権政治の
オランダ改革派改革派国家党HGSが分裂。
この党は他のプロテスタント党から孤立し、1937年選挙に失敗し戦後はプロテスタント連合を結成するが1946年選挙失敗でクラブ化。
1925年
改革派政党SGPがCHUが支持している聖座のオランダ代表撤去を提案し、これを自由思考民主同盟と社会民主労働党が支持し、
これを契機に政権崩壊し超然内閣成立。
1930年代
ピート・リーフティンクら党の青年層が
カール・バルト思想を基に経済への国家介入展開を主張。
戦後CHUの著名な政治家はオランダ政治の柱化終焉を望んだ。あるものはARPとの統一を望み
ピート・リーフティンクらは労働党に参加。
1945−1948年にKVPは宗教政党との協力を拒否し労働党との協力に賛成し、CHUは周辺化。著名な進歩的CHUメンバーはCHUを去り
労働党に参加。1948年選挙後には共産党とインドネシア独立に反対するARPを除くKVP、PvdA、CHU、VVDの広範な政権成立。
1960年代にはARPはより進歩的になり、CHUは依然保守的なままで両党間に差異が拡大。1972年選挙結果によりCHUが排除された、
ARP、KVP支持のPvdP政権成立。選挙の不成功によりKVP、ARP、CHUの統合が進められる。1974年CDA連合が結成され、1977年選挙は
CDAで闘われる。CDAではよく組織されたKVP、ARPがより強固な潮流を占めている。
(
キリスト民主連合CDU)
1929年、小キリスト左派政党、
キリスト社会党、
キリスト民主党、
キリスト社会主義者同盟により結成される。
1929と1937年には1議席、1937と1946年には2議席確保。
平和主義により 改革派教会から分裂した修復連合Hersteld Verbandの改革派教会という小さなグループと結びついている。
党は
カール・バルトの思想の影響を受けている。
1941年ナチスにより禁止されるが解放後復興、1946年労働党に合流。1950年代多くの旧メンバーはPvdAの右傾化に反対し、
平和社会党PSPに参加。
キリスト民主党はARP左派の
アンドリース・スタールマンが1905年結成。
キリスト社会党は1907年CHU元メンバーが結成。
キリスト民主党、
キリスト社会党は階級衝突を否定する改良主義政党。
キリスト社会主義者同盟は1907年に結成されたマルクス主義を基礎とするキリスト教政党。中心指導者の
ヴィリー・クロイトは1919年
共産党参加。
〔
改革派政党SGP〕
1918年ARPの女性選挙権反対派が結成。1920年代ローマ教会の聖座への代表廃止を主張。
戦中、中心メンバーの
ヘリット・ヘルステンがナチスに協力。
1984年EU選挙はGPV、RPFと協力。
2005年女性の党参加禁止がEU条約あるいは憲法違反と問題化する。最高裁は政治哲学を優先。2006年禁止解除。
(
改革派政治同盟GPV)
1944年
アブラハム・コイペルのキリスト教の多様性説反対する正統派プロテスタントが改革派教会から離脱。
1948年解放改革派教会支持グループがARPから去り、GPV結成。
教会のメンバー即党のメンバーで、教条性により党は孤立。
1970年代、KVPとの提携派が民族福音同盟を結成して分裂。このグループは1975年
改革派政治連合RPF結成。
1993年GPVが公式に非解放改革派教会メンバーに門戸開放。これでGPVとRPFの協力が始まる。
1999年上院の議会党が合同、2001年下院も合同。2003年公式にGPVは解散し
キリスト教徒連合CUに合流。
・カトリック
一般同盟(1904−1926年)、ローマ・カトリック・人民党(1922−1933年)、ローマ・カトリック国家党(1926−1945年)
カトリック民主党(1933−1939年)、カトリック人民党(1945−1977年)、
カトリック民族党(1948−1955年)、
ローマ・カトリック党(1972−1981年)、
カトリック政党(1995−1998年)
・
改革派Gereformeerd
ARP(1879−1980年)、キリスト民主党(1905−1925年)、
政治改革派党SGP(1918−)、改革派政治同盟GPV(1948−2003年)、
改革派政治連合RPF(1975−2001年)、
キリスト教徒連合(2001−)
・
オランダ改革派Hervormde
自由反革命党(1898−1903年)、キリスト歴史投票者同盟(1897−1902年)、
フリーズ同盟(1898−1908年)、
キリスト歴史党(1903−1908年)、キリスト歴史連合(1908−1980年)
・プロテスタント
キリスト社会主義者同盟(1907−1919年)、キリスト社会党(1907−1926年)、キリスト民主連合(1926−1946年)、
オランダ改革派改革派国家党(1933−1939年)、福音人民党1980−1991年)
オランダのリベラル(保守)
1800年代中期から1800年代末までリベラルはオランダの主要政治勢力。
1900年初期リベラルは進歩リベラルと保守リベラルに分裂。
オランダ王国初期(1814−1848年)は君主主義者が支配、1848年革命で力の均衡がリベラルに有利に動いた。
オランダでの革命阻止のためウィリアム2世はリベラルのライデン大学の法律教授のヨハン・ルドルフ・トルベッケに新憲法草案を委嘱。
新憲法は責任内閣により王権を抑制し、議会に法修正権を与える。
1848年新憲法が採用され、1849年トルベッケが首相となる。トルベッケはリベラルとして1872年まで3度首相となる。
リベラルは大学、メディア、経済も支配。リベラルは政党を結成せず、緩やかな議会グループと地方ではリベラルは党員集会を組織。
リベラルは柱を形成せず、政治的にはカトリックと提携、リベラルはカトリックに信仰の自由を与えた。
1800年代末社会主義者、プロテスタント、カトリックが政党を結成し始めた。これにより1885年
リベラル連合が結成され、1893年最初の
分裂で進歩リベラルの
急進同盟が結成される。1906年保守リベラルが分裂し
自由リベラル同盟が結成される。
争点は参政権で普通選挙権を導入するかどうかであった。
急進同盟は1901年旧リベラル連合の他の進歩グループと
自由思考民主同盟VDB結成。
進歩リベラルは普通選挙権支持で保守リベラルは不支持であった。
進歩リベラルは児童労働禁止などの政府による経済介入にも賛成であった。
2回選挙制度のためカトリック・プロテスタント連合の第2回での勝利を阻止するためにリベラルは協力が要求され、時には社民も参加。
これにより1900年代初期は(1901−1918年)
自由思考民主同盟、
リベラル連合、
自由リベラル同盟の連合
集中が結成される。
これらを結びつけた争点は普通選挙権と宗教学校への平等融資であった。
1905−1908年はSDAP支持でテオ・デ・メーステル政権、1913−1918年はピエテル・コルト・ファン・デル・リンデンの超然内閣
が形成された。
1921年
自由リベラル同盟と
リベラル連合が
リベラル国家党形成。
1917年男性普通選挙権が比例投票制度と宗教学校への平等融資とともに導入された。がこの普通選挙権はリベラルの地位を
弱体化させた。
1917年の37議席から1918年には14議席となった。普通選挙権でSDAPと宗教政党が利益を受けた。
ARP11、SDAP15、RKBK(カトリック)25、CHU10→SDAP22、RKBK30、ARP13、CHU7
リベラルは柱構造を形成しなかったので支持者は
国家社会主義運動などの新政党の影響を受けやすかった。
1933年
ヘンドリクス・コライン政権にリベラルは
宗教政党と参加し、予算削減、軍隊増強に協力し以前関係のよかった社会主義者と
不和となる。
ドイツ進入後の1941年
リベラル国家党、
自由思考民主同盟は解散させられ、1946年の解放で
リベラル国家党は
自由党となり、
1948年
自由民主人民党となる。
1946年
自由思考民主同盟VDBはSDAP、CDUと統合してPvdA結成。しかし1948年PvdAの社会民主路線に不満な
旧VBDメンバーはPvdAの保守リベラルと
自由民主人民党に参加。
政権
ルイス・ベール(KVP)政権 1946−1948年、PvdA、
KVP(カトリック)
ドレース(PvdA)政権 1948−1952年、PvdA、
KVP、
VVD(保守・リベラル)、
CHU(プロテスタント)
ドレース(PvdA)政権 1952−1958年、PvdA、
KVP、
ARP(プロテスタント)、
CHU
ルイス・ベール(KVP)政権 1958−1959年、
KVP、
ARP、
CHU
デ・カイ(KVP)政権 1959−1963年
KVP、
ARP、
CHU、
VVD
マライネン(KVP)政権 1963−1965年、
KVP、
ARP、
CHU、
VVD
カルス(KVP)政権 1965−1966年、
KVP、
ARP、PvdA
ザイルストラ(ARP)政権 1966−1967年、
KVP、
ARP
デ・ヨンク(KVP)政権 1967−1971年、
KVP、
ARP、
CHU、
VVD
ビーシュウェル(ARP政権) 1971−1972年、
KVP、
ARP、
CHU、
VVD、
民主社会主義者70
ビーシュヴェル(ARP政権) 1972−1973年、
KVP、
ARP、
CHU、
VVD
デン・ウイル(PvdA)政権 1973−1977年、PvdA、PPR、D66、KVP、ARP
ヴァン・アフト(CDA)政権 1977−1981年、
CDA、
VVD
ヴァン・アフト(CDA)政権 1981−1982年、
CDA、PvdA、D66
ヴァン・アフト(CDA)政権 1982−1983年
CDA、D66
ルッベルス(CDA)政権 1982−1989年、
CDA、
VVD
ルッベルス(CDA)政権 1989−1994年、
CDA、PvdA
コーク(PvdA)政権 1994−2002年、PvdA、
VVD、D66 (紫連立)
バルケネンデ(CDA)政権 2002年、CDA、VVD、
LPF(ピム・フォルトイン名簿)
バルケネンデ(CDA)政権 2003−2006年、CDA、VVD、D66
バルケネンデ(CDA)政権 2006−2007年、CDA、VVD
バルケネンデ(CDA)政権 2007−2010年、CDA、PvdA、CU
マーク・ルッテ(VVD)政権 2010−2012年 VVD、CDA、(PVV支持)
マーク・ルッテ(VVD)政権 2012−2017年 VVD、PvdA
マーク・ルッテ政権 2017− VDD、CDA、D66、CU
議会での政党色合い勢力変遷
|
PVV
(右翼) |
VVD
(保守) |
右派プロテスタント |
CHU |
ARP |
CDA
(KVP) |
民主66
(リベラル) |
労働党 |
緑左翼 |
社会党
(共産党) |
1937年 |
4.2(4 |
9.8(10 |
1.9(2 |
7.5(6 |
16.4(17 |
29.8(31 |
|
21.9(23 |
|
3.4(3 |
1946年 |
|
6.4(6 |
2.1(2 |
7.8(8 |
12.9(13 |
30.8(32 |
|
28.3(29 |
|
10.6(10 |
1948年 |
1.3(1 |
7.9(8 |
2.3(2 |
9.1(9 |
13.2(13 |
31.0(32 |
|
25.6(27 |
|
7.7(8 |
1952年 |
2.7(2 |
8.8(9 |
2.4(2 |
8.9(9 |
11.3(12 |
28.7(30 |
|
29.0(30 |
|
6.2(6 |
1956年 |
|
8.8(13 |
2.3(3 |
8.4(13 |
9.9(15 |
31.6(49 |
|
32.6(50 |
|
4.7(7 |
1959年 |
*BP |
12.2(19 |
2.2(3 |
8.1(12 |
9.4(14 |
31.6(49 |
|
30.4(48 |
1.8(2 |
2.4(3 |
1963年 |
2.1(3 |
10.3(16 |
3.0(4(3 |
8.6(13 |
8.7(13 |
31.9(50 |
|
28.0(43 |
3.0(4 |
2.8(4 |
1967年 |
4.8(7 |
10.7(17 |
2.9(4 |
8.1(12 |
9.9(15 |
26.5(42 |
4.5(7 |
23.5(37 |
2.9(4 |
3.6(5 |
1971年 |
1.1(1 |
10.4(16 |
4.0(6 |
6.3(10 |
8.6(13 |
21.8(35 |
6.8(11 |
24.6(39 |
3.2(4 |
3.9(6 |
1972年 |
1.9(3 |
14.4(22 |
4.0(5 |
4.5(7 |
8.8(14 |
17.7(27 |
4.2(6 |
27.4(43 |
6.2(9 |
4.8(7 |
1977年 |
0.8(1 |
17.9(28 |
3.7(4 |
|
|
31.9(49 |
5.4(8 |
33.8(53 |
2.6(4 |
1.7(2 |
1981年 |
|
17.3(26 |
4.0(6 |
|
|
30.8(40 |
11.1(17 |
28.3(44 |
4.1(6 |
2.1(3 |
1982年 |
|
23.1(36 |
4.2(3 |
|
|
29.3(45 |
4.3(6 |
30.4(47 |
4.8(5 |
1.8(3 |
1986年 |
|
17.4(27 |
3.9(5 |
|
|
34.6(54 |
6.1(9 |
33.3(52 |
2.5(3 |
|
1989年 |
|
14.6(22 |
4.1(6 |
|
|
35.3(54 |
7.9(12 |
31.9(49 |
4.1(6 |
|
1994年 |
|
19.9(31 |
4.7(7 |
|
|
22.2(34 |
15.4(24 |
23.9(37 |
3.4(5 |
1.3(2 |
1998年 |
|
24.6(38 |
5.2(6 |
|
|
18.3(29 |
8.9(14 |
28.9(45 |
7.2(11 |
3.5(5 |
2002年 |
17.0(26 |
15.4(24 |
4.2(6 |
|
|
27.9(43 |
5.1(7 |
15.1(23 |
7.0(10 |
5.9(9 |
2003年 |
5.7(8 |
17.9(28 |
3.8(5 |
|
|
28.6(44 |
4.1(6 |
27.3(42 |
5.1(8 |
6.3(9 |
2006年 |
5.9(9 |
14.7(22 |
5.6(8 |
|
|
26.5(41 |
2.0(3 |
21.2(33 |
4.6(7 |
16.6(25 |
2010年 |
15.5(24 |
20.5(31 |
4.9(7 |
|
|
13.6(21 |
7.0(10 |
19.6(30 |
6.7(10 |
9.8(15 |
2012年 |
10.1(15 |
26.6(41 |
5.2(8 |
|
|
8.5(13 |
8.0(12 |
24.8(38 |
2.3(4 |
9.7(15 |
2017年 |
13.1(20 |
21.3(33 |
5.5(8 |
|
|
12.4(19 |
12.2(19 |
5.7(9 |
9.1(14 |
9.1(14 |
*社会党の項は1982年までは共産党。
**緑左翼の項は1967年までは平和社会党、1971年から平和社会党と急進、1982年は福音人民党追加、1989年から緑左翼。
右派プロテスタントは
キリスト教徒連合CU(社会キリスト)と
改革派政党SGP(CUより右より)
⇒
ヨーロッパの左翼