オランダ初期社会主義者群像

*参考事項

〇 社会民主同盟SDB WIKI:SDB

   1869年、第1インターナショナルの支部としてオランダ労働者同盟NWVが結成される。
   1871年、プロテスタントとリベラルが第1インターナショナルの影響と闘うためベルナルト・ヘルトらが全国オランダ労働者連合
  ANWVを結成。
   何人かの著名な第1インターナショナルのメンバーが組織の急進化のためにANWVに参加。
   彼らは1878年、ウィレム・アンシング(1837−1900)に率いられANWVから去り社会民主連合SDV結成。
   1881年、SDVと同様な地域社会主義者政党によって社会民主同盟SDBが結成される。

〇 自由社会主義者 WIKI:De Vrije

   1893年、SDBは非合法活動を理由に禁止され、社会主義者同盟SBと改名。
   1896年ニューヴェンホイス率いる急進派はSBを去り、党組織なしで活動しNASに結合。
   1898年、自由社会主義者De Vrije Socialist創刊。SBは1900年SDAPに参加。
   1919年、ニューヴェンホイスが死亡し、アナーキスト運動は重要性を喪失。
   自由社会主義者はヘルハルト・レインデルスが引き継ぐ。
   NASはハルム・コルテクが1918年社会党結成、1918年選挙で1議席獲得し、議会ではキリス教社会主義者同盟
  社会民主党と協力。

*参考 ⇒オランダのアナーキズム運動

〇 自由思考と夜明け

   1854年、自由運動者によって”昼と夜兄弟によるジャワ内陸からの光と影像”という架空のジャワ内陸旅行語りが出版された。
   この話では人格的あるいは超自然的神の存在が否定されており、当時のオランダでは非常に危険なキリスト教への挑戦で、
  激しい非難を受けた。
   第2版をだすのは非常に危険であったが、アムステルダムのメーソン・ロッジ”ポスト・ヌブラ・ルクス”がF.Ch.フンストの主導で
  出版を引き受け、雑誌”夜明けのDe Dageraad”第1号が1855年10月発行された。
   1856年10月、自由思考者組織”夜明け(デ・ダーヘラート)”が編集者のF.Ch.フンスト(1823−1885)、R.C.メイイェル
  (1826−1904)らによりアムステルダムで結成された。44名が参加、メイイェルの意向で女性の参加も許された。
   一方、G.W.ファン・デル・フォー(1806−1902)は1855年光線De Lichtstraalをロッテルダムで結成、20名が参加。
   光線は1857年夜明けに合流。
   夜明けの性格はだんだんフリーメーソン的でなくなり、合理主義と自然科学に焦点を置き始めた。
   H.H.ホイスマン(1821−1873)が1859年から書記、1865年から議長となり、その影響でメンバーが増加。
   ムルタトゥリ(ダウセス・デッケル、1820−1887)はメンバーではなかったが、名声を博した。
   内部論争が起き、1867年12名の理神論者が脱退し、社会活動グループ”デ・フマニテイトを結成。他のメンバーは去り、
  夜明けの発行は中断。
   改革のため短期間(1873−1876)”自由研究Het Vrije Onderzoek”と改名。
   1875年、デ・フマニテイト”と共同宣言を出版。
   そこではオランダの信仰から自由なすべての人に世俗分離と教会でなく政府による貧者救援のための勢力に参加することを
  呼び掛けた。
   2つのかろうじて生き残った組織は和解し1878年、5名のデ・フマニテイトと11名の夜明けが合流、その後顕著に回復。
   ドメラ・ニューウェンホイスが加わり活発に活動。B.H.ヘルドも参加。
   1882年までにメンバーは357名に増加。
   1869年、夜明けのメンバー、ヘンドリク・ヘルハルドウィレム・アンシングH.H.ホイスマン(1821−1873)、
  P.H.A.シュレーデル(1836−1914)、P.J.ペニング(1843−1904)を中心に、第1インターナショナルのオランダ支部が
  結成される。

〇 すべての人のための正義(権利)(1879−1900)

   1879年3月、第1号がヤン・アントーン・フォルトイン(1855−1940)によって発行される。
   1879年には編集の責任はJ.A.コーヘンの協力でドメラ・ニューウェンホイスの手になる。
   1882年、クリスティアーン・コルネリッセン(1864−1942)が共同編集者となる。
   1884年、社会民主同盟SDBの機関紙となる。
   1886年、コルネリス・クロルが共同編集者となる。
   ドメラ・ニューウェンホイスは1890年から社会民主批判的になり、1898年編集者を退き、アナーキストの雑誌自由社会主義者
  を創刊。
   すべての人のための正義は党機関紙として1900年まで継続。 
   自由社会主義者は1919年のドメラ・ニューウェンホイスの死で、ゲルハルト・レインデルスが編集者となる。

〇 ANWV 

   1869年、第1インターナショナルのオランダ支部としてオランダ労働者同盟NWVが結成された。
   これは社会主義者のクラブ(集まり)であった。
   1871年10月にはいくつかの労働組合によって全オランダ労働者同盟ANWVがアムステルダム、ロッテルダム、ユトレヒトで
  結成された。
   結成の中心となったのはトマス・デ・ロト(1840−1915、1866年、全オランダ活字工同盟結成、後に急進同盟参加)、
  J.Tスヘーペルス(1838−1882、1866年全オランダ活字工同盟参加、1869年、全労働者連合Hoop op Geregtigheid
  正義の希望結成)、B.H.ヘルト(1841−1914、家具製造者、1871年オランダ家具製造者同盟NMB結成、
  後に夜明けDe Dageraadに参加)らで主にリベラルであった。
   1874年には子供の労働禁止法を成立させた。
   1876年にはANWVは5500のメンバーで56組合に広がった。
   学校教育問題が論争となり保守キリスト教グループが分裂し、1876年クラース・カテルのもとオランダ労働者同盟パトリモニウム
  (法皇の遺産)を結成。これは明らかに経営者への協力組織であった。
   労働者De Werkmanは1869年、全オランダ活字工同盟の雑誌として出発し、ANWVと第1インターナショナルから投稿が
  あったが、1876年の第1インターナショナル解散でANWVは1877年、労働者の使者De Werkmansbodeを創刊。
   この編集にはB.H.ヘルトの他、ドメラ・ニューウェンホイスらが参加。
   1881年、社会民主同盟SDBが結成され、多くのメンバーが参加。
   1885年、ヘルトは第2院議員となり、リベラル連合に加わり1901年には自由民主連合結成。


*諸人物

〇 ウィレム・アンシング(1837−1900)

   父は金属細工人でアムステルダムの労働者街、カッテンブルフに居住。
   アンシングは16才で造船所の冶金工として働く。24才で17才の女性と結婚。
   1868年3月、自由思想組織の”夜明け”に参加。
   そこでは哲学あるいは倫理の問題の他に社会問題も議論された。
   そこでムルタトゥリが話すのを聞き、ヘンドリク・ヘルハルドが彼の共産主義者の見解を説明するのを聞いた。
   1868年冶金工組織トバル−カインを結成し議長となる。
   1869年4−5月の大船大工ストライキでは義援金を集める。
   8月、他の5人の労働者と第1インターナショナル支部を結成。彼は財政係となる。
   (ブルノ・リーベルス(1836−1900)が書記、P.J.ペニング(1843−1904)とその兄B.J.ペニングらが参加)
   1872年、トバル・カインという偽名でインターナショナルに期待するという冊子を書き、鍛冶の組合”すべてのための正義”を
  結成し、インターナショナルに参加。
   始めて社会民主という言葉を使用、またオラニエ派(総督派)と衝突。
   1872年6月の賃金論争で使用者は組合のインターナショナルからの離脱を要求し、議論の末、組合は離脱し、個人参加となる。
   1873年、オランダ北・南民主同盟を結成。
   これはすぐに消滅しインターナショナルの崩壊後(1874年頃)数年間アンシング周辺は静かになる。
   1876年、冶金工組合”不屈”を結成し全オランダ労働者同盟ANWVに加盟、B.H.ヘルドから急進過ぎると思われる。
   急進労働者を他の急進組織たとえば普通選挙などと結びつけようとする。彼はこれを混合連合Gemengde Vereenigingen結成によって
  果たそうとする
   1877年大会でアンシングとヘルトが対立。不屈の混合連合結成要求が24対12、棄権9で承認され、同時に綱領作成も
  承認される。
   彼はドメラ・ニューウェンホイスの影響を受ける。
   ドメラ・ニューウェンホイスは1878年普通選挙権について演説し、ANWVの政治組織転換も議論する。
   社会主義者と少数派社会リベラルの対立は続き結局7月社会民主連合SDVが結成される。
   ドイツではビスマルクによる社会主義者迫害が始まり、ドイツから労働者がオランダに逃れてきて、政治的に訓練された労働者が
  SDVに参加。
   1878年8月、創刊されたばかりのANWNの新聞”労働者の使命”De Werkmansbodeにオランダの社会民主党の綱領が載る。
   ドメラ・ニューウェンホイスは労働者の使命で社会主義について述べ、アンシングらのANWV大会での行為を擁護。
   1879年10月のハーグでのドメラ・ニューウェンホイスの別れの演説には以前の第1インターナショナルの多くのメンバーが
  参加。
   1週間後、SDVの集会でドメラ・ニューウェンホイスが発言、アンシングはドメラ・ニューウェンホイスを勝ち取ることに成功し、
  SDVは前進した。
   1881年4月、ほかの同様の組織が合同し社会民主同盟SDBが結成され、ヘンドリク・ヘルハルドが議長、アンシングが
  書記となる。
   1882年、アンシングは普通選挙権同盟結成に参加。
   景気後退のため1879年からアンシングの生活は苦しくなっていた。
   1881年、王立蒸気機械工場を失業、彼は鍛冶としての仕事で体を壊し、働くのは困難となっていた。妻が働きに出た。
   1887年の議会の工場と労働者の状況の調査員会で発言。
   1885年、再び元気を取り戻した。冶金工組合不屈が消滅し新しい社会主義者の組合を結成し、議長となった。
   1889年の社会主義者の集会で発言しこれが最後となった。
   冶金工の仕事のため盲目となり、貧困のなかで53才で死亡し、忘れられた。
   自由社会主義者だけが簡単に彼の死に言及。

〇 ヘンドリク・ヘルハルト(1829−1886)

   彼の父、ヘンドリク・ヘルハルドは洋服仕立て職人で、彼の家系は代々そうであった。
   彼は6人の子供のうちの4番目であった。彼も父から仕事を教えられた。
   父の死後、1848年デルフトの改革派孤児院で教育を終えた。
   1815年22才で孤児院を出て短期間アムステルダムの洋服仕立屋で働き、経験のため諸所を移動し、やがてフランスに
  渡った。
   1853年イタリアに渡り、間もなくスイスで旅は終わった。そこでスサンナ・ステーリと知り合い、1858年結婚。
   1861年、家族とともにオランダに戻った。短期間デルフトに住み10月にアムステルダムに移り、そのご生涯そこに住むことに
  なった。
   1866年、10月、夜明けのメンバーとなる。議長のH.H.ホイスマン(1821−1873)が彼に大きな影響を与える。
   彼から聖書批判や社会主義を教えられた。
   1869年4月、船大工がストライキに入り、6月後半、労働者がストライキに入った時、他の夜明けのメンバー
  (H.H.ホイスマンら)と第1インターナショナルのオランダ支部結成のイニシアチブをとり、幹部に加わった。
   (1871年にはクラース・リスが参加。)
   1870年1月、労働者De Werkmanに一連の未来という題の文を書いたが、彼の考えは、漸進的参政権を主張する
  穏健なものであった。
   1870年12月、仕立て工協会進歩と同胞を結成したが、オランダ労働者の多くはインタナショナルを支持せずメンバーは
  少なかった。
   1872年、全国オランダ労働者連合ANWVが結成され、ヘルハルトは参加を提案したが、協会は不参加を決定。
   彼の言語力によりインターナショナルで重要な役割を果たし、諸外国との接触を行った。
   1872年のハーグでのマルクスとバクーニンの対立では、彼は両者の協力を擁護した。
   バクニーン支持者がジュラ連合を結成するとこれと接触を行った。このアナーキスト連合が1973年、ヨーロッパ仕立て工連合を
  結成すると進歩と同胞もこれに参加。1973年インターナショナルのANWV参加呼びかけで12月進歩と同胞も参加。
   やがて彼は急進派の中心人物となる。
   1878年、重い病にかかる。
   1882年、社会民主同盟SDB議長となる。
   1883年、全国選挙投票権協会BAKS幹部となる。
   1886年、死亡。

〇 ピーテル・ウィーデイク(1867−1938)

   フロート・スヘルメルで1867年2月27日誕生、1938年9月26日にアムステルダムで死亡、父は大工。
   幼いころに両親を失い、(2才で父を亡くし、数年後母も死亡)ベ−ムステルの農民の養親に育てられた。
   母方はメノナイト派で主にこちらの影響を受けた。
   1881年、ハーレム幼年学校kweekschoolに入ったが、結核療養でダヴォスのサナトリウムに3年間滞在。
   そこでムルタトゥリ(ダウエス・デッケル)とハインリッヒ・ハイネを知り、著作を始める。
   病気から回復し、オランダへ戻り教師と、ジャーナリストとして働きやがて薬学を勉強。
   この時期、ファン・デル・フースの支援で、マウリッツ兄弟と1891年、社会主義学生連合SDSVを結成。
   科学性を求めてダーウィン、マルクス、ポワンカレなどを学んだ。
   当時のウィーデイクはマルクス主義者ではなく、イギリス(フェビアン)流社会主義を支持していた。
   卒業後、薬剤師の仕事をするがすぐにやめ、著作を始め、ジャーナリストと政治に足場を築く。
   1892年、社会民主同盟SDBに参加、1894年、アムステルダムのグループに参加。
     (ヘンリ・ポラック、フランク・ファン・デル・フースら)
   更に、1894年、議会主義派の社会民主労働党SDAPに参加し、1902−1913年は新時代編集者。
   ここで農業問題、学校教育問題、経済危機問題等でマルクス主義者のための闘争指針を執筆。
   ファン・デル・フースは彼を開かれた精神だが破壊的と称した。
   ヘラルド・ホラントフレデリク・ファン・エーデンと論争。C.G.コルネリッセンとも論争を行った。
   M.W.F.トルーブとの価値論争にも参加。
   マルクス主義者とトルールストラの運動論論争でも新時代の中立性を維持。
   1909年、J.W.アルバルダ、ポラック、Th.ファン・デル・ウェルデンらとの和解の試みの失敗で、1909−1915年は
  社会民主党SDPに参加。しかし、彼は2党を一つの運動にしようと務めた。
   しかし、SDPでは居心地が悪く、SDAPに戻り、1932年には独立社会党OSPに参加。
   彼の先鋭さで、多くは政治的というよりむしろ個人的に孤立化した。またより政治的で多くの人を批判した。
   ヘンリエッタ・ローラント・ホルストを彼は純粋な革命主義でないと批判、ホルテルには武装中立支持を批判、W.A.ボンヘル
  穏健派で宗派主義であると、F.M.ウィバウトは1918年入閣派となったことを批判。
   1917年には党機関紙でSDAPを批判。1918年には革命騒動でのトルールストラの行動(トルールストラの間違い)を辛辣に
  批判。
   しかし晩年の20年はだんだん党から離れるようになった。
   1930年以降、新しい道に文章を書く。
   1937年、ダウエス・デッケルの伝記を表す。

〇 フロレンティヌス・マリヌス・M.ウィバウト(1859−1936) 

   ゼーラント生まれで、家族はローマ・カトリック。
   12才でロルドゥックの寄宿学校に入る。兄の死で説教師になろうと考えた。
   14才でアムステルダムの商業学校に入る。ムルタトゥリに強い印象を受ける。
   卒業でゼーランドに戻り、1877年、ミッデルブルクの木材貿易会社に入る。ここでロシアからバルカンへの旅行を行う。
   やがて共同監督者となる。
   1880年頃ウィバウトはミッデルブルクに住み、作家として評価されるようになる。
   1885年、マティルダ・ベルデニス・ファン・ベルレコムと結婚。
   1887年、友人のカロルス・マテス・ゲイセンとゴータでのムルタトゥリの葬式にオランダ人として唯一参加。
   また、急進的ジャーナリストのP.L.タクと(1883年)とその仲間で新時代編集者のフランク・ファン・デル・フースと知り合う。
   両者は1891年、ウィバウトがフェビアン協会のエッセーの翻訳での公衆に登場する際、役割を演じた。
   この翻訳はファン・デル・フースが依頼し、ウィバウトはこれを社会主義を仕事とする運命と思い引き受けた。
   彼は英国のフェビアン協会のメンバーになった。
   1892年、M.W.F.トルブの招待で社会週刊紙に英国労働組合について書いた。
   1894年末、タクがデ・クロニクを発行すると、ウィバウトは熱心に社会経済問題について取り上げた。
   彼はマルクスよりむしろジョン・スチュアート・ミルの経験主義の影響を受けていた。
   またトルールストラフリーヘンと知り合った。
   1897年秋、ウィバウトはやっと(1908−1935、SDAPの婦人活動で重きをなす)とSDAP参加を決意、それまで
  フェビアン協会支持に傾いていて躊躇していた。
   (タクは1899年まで参加しなかった。)
   1896年のロンドンの国際会議(第4回第2インター)に参加し報告。
   ヘンリエッテ・ローラント・ホルストと知り合う。
   デルフトの学生のJ.W.アルバルダと手紙のやり取りをし、アルバルダは1899年SDAPに参加。
   1899年のレーワルデンの第1回党大会に参加し、消費組合について話し、翌年から関係。
   1900年、人民(ヘット・フォルク)創設に際し運営委員会に参加。
   1900年、1904年と第2インター会議に参加。
   1904年まではミッデルブルクの会社で働く。
   1901年のユトレフト大会での農業問題ではホルテル支持に傾く。
   1903年の大ストライキでは他のマルクス主義者と異なり政治ストライキに反対。
   1913年、新時代に資本主義の新しい発展を書き、銀行による企業支配の傾向を論ずる。
   1904年夏、アムステルダムのウェースペルザイデのP.L.タクに近い党の建物に移る。木材会社とは1914年まで関係。
   1905年のハーグ党大会で2院議員となったP.L.タクと交代しマルクス主義者が多数派の党執行部となる。
   1906年ユトレフト党大会はトルールストにより打ちのめされ、マルクス主義者とともにウィバウトも執行部から撤退。
   しかし1907年ハーレム大会では和解に賛成。
   1907年、アムステルダム市政に参加、彼の市政での政治経歴が始まる。
   タクの要請で社会民主機関紙基礎自治 De Gemeenteの編集に参加(1906年から既にデ・クロニクの共同編集者)
   1908年党執行部参加、以降1935年まで継続。
   1909年デフェンテル党大会でマルクス主義者陣営は分裂。
   ウィバウトはヘンリエッタ・ホーラント・ホルストとついでファン・デル・フースとヘット・ウィークブラットHet Weekbladを
  編集するが失敗。
   以降市政に専念。SDAPのアムステルダム議員は徐々に増加。しかし彼は反与党の立場をとっていた。
   1913年の入閣問題ではSDAPは入閣せず。(ウィバウトは入閣反対?)
   しかし1914年、ウィバウトは55才で公営住宅と労働問題の助役wethouderとなる。
   (半年後にフリーヘンが公共事業の助役となる。)
   更の政府よりとなり参戦体制を支持。
   1915年にはローラント・ホルストのツィンメアルヴァルト宣言参加の誘いを拒否。
   1916年には新時代を去り、社会主義案内に参加。
   1917年のアムステルダムのジャガイモ騒動では人々に死傷者が出て、トリブーネから責任を問われる。
   ローラント・ホルストがトリブーネ編集部に参加すると彼女と絶交。
   1918年のアルンヘム党大会では入閣路線を歩む。
   戦争中、彼は多くの国際協議会に参加。1917年ストックホルム、1920年夏のジュネーヴ、ここにはウェッブ夫妻も参加。
   1922年、上院議員となり、SDPAの会派議長となる。
   1928年、アムステルダム大から名誉博士号を受ける。
   1931年まで市政に関わる。また1935年まで党幹部として活動。
   1932年の分裂(独立社会党)の際にも和解の役目を務めた。
   更に社会主義労働者インターナショナル執行部、上院議員を務める。

〇 ヘンリ・ポラック(1868−1943)

   宝石加工者の息子としてアムステルダムで生まれ、ユダヤ人幼年学校を卒業してから、13才で宝石加工技術を習得。
   1887−1890年にロンドンで働く。
   この間、英語を習得し、妻のエミリ・ネイケルクと知り合い、共産党宣言を知る。
   更にイギリスの労働組合制度を知る。
   アムステルダムに戻りアンドリース・ファン・ウェゼルの作業所で働く。
   1890年 22才で社会民主同盟SDBに参加。
   ここで仲間のブラム・ローポイト、ヘルマン・コイペル、A.S.デ・レフィタを知ったばかりでなく、パトロンのフランク・ファン・
  デル・フースとも知り合う。
   ファン・デル・フースはデ・レフィタ、ヨスの弟ブラム・ローポイット、ポラックの精神的指導者となる。
   ファン・デル・フースとの結びつきで彼らはニューウェンホイスとの論争に巻き込まれる。
   1892年、デ・レフィタ、ヨス・ロープイット、コイペルと事実上のオランダダイヤモンド労働者連合NDVを結成。
   組合員は多くなかったが、雑誌ダイヤモンド労働者 De Diamantbewerkerを通じてユダヤ人ダイヤモンド労働者に影響を与える。
   1893年、ポラックはトルールスストラ、ファン・デル・フースとともに新時代の編集者となる。
   1894年、彼とトルールスストラはファン・デル・フースと激しい論争をしながら、協力して社会民主労働党SDAP結成。
   1894年11月のストライキのあと全オランダダイヤモンド労働者同盟ANDBが結成されるポラックが中心人物となる。
   ANDBはポラックにより穏健な組合となる。ダイヤモンド労働者は比較的高賃金で経済的協力ができた。
   1903年、ダイヤモンド労働者世界連合が結成され、1940年までポラックが議長となる。
   1898年、ポラックは党執行部メンバーとなり、全国労働書記局NASより実践的な労働組合中央組織結成を示唆する。
   1900年、雑誌”人民”の運営委員会に参加。
   1901年、P.L.タクと協力し”夜明け”を創刊。
   この間ウェッブ夫妻の英国労働組合史などの翻訳を行う。
   1902年、最初のアムステルダム市議員となる。
   1906年、オランダ労働組合連合NVVを結成し、議長となる。
   1913年上院議員となり労働運動から実質的に引退。
   彼はだんだん耳が聞こえなくなる。
   1900年前後には彼はANDB内外のアナーキストやサンディカリストに激しく批判される。
   1906年にはNASと激しく抗争。
   1909年デフンテェル党大会でのマルクス主義者への批判で不快となり、NVV議長を辞任。
   1920年以降、彼はますますユダヤ人ダイヤモンド労働者の擁護に傾いた。
   ポラックはパレスチナでのユダヤ人国家建設を支持した。

〇 ウィレム・フリーヘン(1862−1947)

   フルペン生まれ。
   学問は、初級学校に入っただけであとは生地での活字印刷の訓練を受けただけであった。
   しかし18才でリエージュに行きドイツ語とフランス語を習得。
   1883年、ベルギー人のエドワルト・アンセーレの演説を聞き、アムステルダムで社会民主同盟SDBに参加。
   翌年リンブルフに戻り、マースリヒトで普通選挙投票権同盟支部創設。
   更にニューウェンホイスの”すべてのための権利”にも書いた。
   印刷工場の火事でリンブルフを去り、ハーグでSDBの指導的役割を演じるようになる。
   フリーヘンはニューウェンホイスの信頼を得る。
   1890年からマースリヒトの人民護民官De Volkstribuunの参加。
   1893年からのSDBの反議会主義の波ではニューウェンホイスに反対してファン・デルフース、トルールストラに加わるのを
  躊躇。
   1894年のSDAP結成ではH.H.ファン・コル、ヤン・スハペルらと12使徒となる。
   1897年までマースリヒトで扇動を行い、党機関紙の編集のためアムステルダムに移動。
   1899年末から数年、党上層部の小サイクルでの個人的確執で家族とパリにうつる。
   内外党雑誌の通信員として働き、1900年の社会主義インター会議にも参加。
   ジャン・ジョレスが登場してきたフランス運動と接触する。
   1902年2月、オランダに戻り、新党紙人民Het Volk の編集者となる。
   1903年のストライキで防衛委員会の党代表となる。
   ストライキの失敗でフリーヘンはニューウェンホイスから激しく攻撃される。
   党内では修正主義者と称されるようになる。
   彼は党内で重要な地位に就くようになる。
   1907年、党内融和に努めていたP.L.タクが死亡し、1909年のデフンテェル大会で党は分裂。
   F.M.ウィバウトとともに党執行部多数派に属し、分裂阻止に努力したがトリブーネ派とトルールストラとの対立でこれが
  不可能となる。
   1909年、第2院議員(アムステルダム4区)となる。以前彼はアムステルダム市議会に参加。
   1913年自由民主同盟のボス・ディルクのSDAP入閣要請を拒否。
   1914年ウィバウトとともにアムステルダム市助役となる。
   彼は党執行部で重要な役割を演じ続けながら、1917年、1919年の国際会議に参加。
   彼は親ドイツのトルールストラに親協商国姿勢を批判される。
   1922年に1917年の上院から第2院議員となる。
   アムステルダムの助役を終え、ハーグに移り、そこで1927年市議会メンバーとなる。
   1926年まで党議長で、トルールストラを次いでJ.W.アルバルダが1925年議会指導者となっても党で重きをなした。
   30年代まで党内右派として主導的地位を占めた。
   政府代表としてのジュネーブの国際非武装協議会では1933年の7州号抑圧のやり方の非難を受けた。
   1937年、議員から引退。
   1916年の創刊から1938年の廃刊まで社会主義者案内De Socialistische Gids編集部メンバー
   1947年の労働党PvdA結成で演説。

〇 J.W.アルバルダ(1877−1957)

   アルバルダはレーワルデンのリベラルな中流階級の家庭で育った。
   若くして両親を失ったが高校を卒業後、デルフトの工科大で学ぶ。
   Th.ファン・デル・ウェルデンらと社会民主宣伝クラブに参加。党参加の問題では当初、党の階級闘争的性格を嫌っていた。
   1899年に22才でSDAPに参加。党では左派となりマルクス主義の側を選択。
   1905年、ハーグ大会ではホルテル、パンネクーク周辺の仲間としてG.W.サンネスらとともにトルールストラの敵意を受ける。
   卒業後1903年から高校教師となる。
   1913年、エンスヘデから下院議員となり、1939年まで務める。
   1915年にはハーグ市評議員となり、1927年まで務め、1917−1923年までは財政担当参事となる。
   1916−1919年は南ホランド州議会に参加。
   1913年の入閣問題では反対派となる。
   1923年には、SDAP代表として社会主義者労働者インターナショナルに参加し、1930−1939年には執行部メンバー。
   1932年には、ヤックェス・デ・カットと対立、彼らは独立社会党を結成。
   1939年8月、デ・ヘール政権に参加、入閣。(CHUARPRKSPVDBと)
   1940年ドイツによる占領でロンドンで亡命政権に属す。
   1945−1952年は国家評議会に参加。

〇 ウィレム・ファン・ラフェスタイン(1876−1970)

   父はたばこ製造業者で、高校を出てから更にライデンとアムステルダムのギムナジアで学んだ。
   1898年には、SDAPのロッテルダム支部に参加。
   1900年には、ウェインコープとパリの国際社会主義学生会議に参加。
   1906年には、16から17世紀初めのアムステルダムの経済と社会的発展で博士号を取得。
   1907年、ウェインコープ、セトンと3人組を形成しデ・トリブーネを発行。
   1909年には、3人組は社会民主党結成、これは1918年ネーデルラント共産党CPNとなる。
   1918年には、下院議員となる。翌年にはロッテルダム市評議員となる。
   1922年には、第4回コミンテルン会議のの党代表となる。
   1920年代、党分裂の危機が訪れ、3人組は党の指導的地位から撤退し、彼はウェインコープと異なり党(運動からも)
  から去る。
   1927年、ロッテルダム市図書館館長となり、以降これに専念。

〇 ヤクェス・デ・カット(1897−1988)

   デ・カットはリベラルなユダヤ人環境で育った。高校を出てハーレムでPTT(郵便・電信・電話)に入り、1916年、
  オスカー・ワイルドの著作に影響され社会主義者となる。ローザ・ルクセンブルクの影響を受け共産主義に関心を持つ。
   共産主義インターナショナル結成後共産党に入る。間もなく執行部の日和見主義でこれと対立。
   1923年党から追放されるがコミンテルンによって取り消される。
   ソ連に旅し、その状況に失望し、1924年党を去り、ヘンリエッテ・ローラント・ホルストと共産主義者闘争宣伝クラブBKSP
  結成、機関誌デ・コムニストの編集員となる。
   1920年代はコミンテルンとソ連の独裁的性格を批判したが、1928年スターリンの計画政策を支持、しかし1933年、
  スターリンの政策は失敗したとして、さらにヒトラーへの姿勢を批判、2年後、ツァーリズムとスターリン主義を発行。
   BKSPの解散で1928年SDAPに参加、左派に加わり、反対派のデ・ソシアリスト編集に加わる。
   1931年、党指導部、ヤン・アウデヒーストウィレム・バニング、エマヌエル・ブークマン、反対派のP.J.スミットらと討論誌
  社会民主を創刊。
   しかし協力は1か月で終焉、スミットと、1932年1月、デ・ファケル(たいまつ)を創刊。
   編集にはフランク・ファン・デル・フースも参加。
   デ・カットらは行動か分裂かでJ.W.アルバルダとアウデヒーストを批判し、提案を受け入れないと党を去ることを告げるが、カットは
  追放される。
   1932年党大会後反対派は分裂し独立社会党OSPを結成。これにはファン・デル・フース、スミット、サロモン・タス、
  バレント・ルテラーン、スタン・ポッペ、ルロフ・ステンホイス、エド・フィメンらが参加。
   2年後デ・カットは1934年のアムステルダムのヨルダーン騒乱の対応でスミットと対立し党を去る。
   1933年には、ゼーフェン・プロフィンシエン号反乱時の扇動で、デ・カットは3か月投獄される。
   1934年7月のヨルダーン騒乱では感情主義を批判。スミットは闘争拡大を主張。
   彼はサロモン・タスと逮捕を免れるため一時国外へ、スミットの逮捕で執行部に戻る。
   彼らは政治かロマン主義かを発表。しかし11月には党から追放される。
   1934年10月にはタスとデ・ニーウェ・ケルンを創刊。
   デ・カットはCPN時代トロツキーを一部支持するが批判も持っていた。
   1924年のレーニン死後トロツキーを支持、OSPは1932年、左翼社会主義者インターナショナル・ビュローに参加、
  1933年のインターナショナル・ビュロー会議に参加。
   OSPではトロツキーの影響が拡大し、トロツキーの要望でヘン・クスネーフリートのRSPとの協力を進める。
   デ・カットとスネーフリートはヘンリエッテ・ローラント・ホルストと関係がよく、ローラント・ホルストはまたトロツキーと
  関係がよかった。
   トロツキーはOSPとRSPの統合を進めようとしていたが、やがてカットはトロツキーに疑惑を抱くようになる。
   1935年以降反共産主義となり、ニーチェ、ソレルやヘンドリク(ヘンリ)・ドマンの影響を受けるようになる。
   1940年、ロンドンへ逃亡、さらにインドネシアへ、そこで日本の収容所で生き残った。
   1945年にはインドネシア共和国宣言を支持。
   1946年、オランダに戻り、PvDAに参加、著名人となる。党では左派として影響力は限られた。1970年に党から去る。

〇 ピート・スミット(1896−1952)

   アルンヘムの高校を出て、一時事務員として働いたあとユトレヒト大とロンドン大で学ぶ。
   1918年に結婚し、1919年からインドネシアやバンコクのオランダ当局で働く。その後インドネシアで新聞編集に携わり、
  通信員として中国、日本、カナダ、オーストリア、英国を旅する。その後、ロンドンでジャーナリストと翻訳の仕事をする。
   英国で労働運動に、特に独立労働党に印象づけられる。
   オランダに戻り1924−1928年、NVVで働く。SDAPの活動家となり、社会主義労働者(第2)インターナショナルと接触。
   イギリス労働党をモデルとするようになる。彼はSDAP左派に参加。
   1924年12月反帝国主義同盟オランダ支部代表となり、1927年9月、ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト、
  エド・フィメンらと機関誌として権利と自由を創刊するが資金欠如で1928年、終止。
   (*反帝国主義同盟結成は1927年2月とされる。)
   これら活動で指導部から不信を持たれる。ウィレム・ドレースは彼を共産主義者と考える。
   1926年2月雑誌’統一’が出現、スミットとフィメンが編集。
   スミットはファシズムの勃興に対し、社会主義者と共産主義者の協力と、またNVVとNASの合同の促進しようとする。
   SDAPとNVVの否定的姿勢で翌年編集から撤退。
   1928年、SDAP大会で反帝国主義同盟と統一周辺の行動が批判され、彼はそれらからおりることを余儀なくされる。
   1928年10月、反対派のデ・ソシアリストが出現し、スミットは編集長となる。
   ここでスミットは非武装とインドネシア即時独立を主張。
   1930年大会で執行部入りするがヘンリ・ポラックの攻撃を受け、孤立。1931年、SDAPは左派集会を禁止。
   デ・ソシアリストは廃刊となり、10月、デ・ソシアル・デモクラートに置き換わる。スミットは編集に参加するが影響を失う。
   いくつかの問題が重なり、12月、スミットは編集と執行部から撤退。
   1932年1月、スミットはフランク・ファン・デル・フース、後にヤクェス・デ・カットも加わりたいまつ発行。
   独立社会党(独立労働党ILPとの結びつきを示した)を結成し、8月フィメンから代表を受け継ぐ。
   1932年5月、ベルリンの左派社会党協議会に参加、国際労働者共同体IAG、のちに左翼社会党国際事務局を結成。
   事務所はロンドンに置かれ通称ロンドン・ビュロー。1934年1月、スミットが書記となる。
   1933年8月、IAGはパリで国際会議を開催、スミットとデ・カットはOSPを、スネーフリートはRSPを代表。
   スミットとスネーフリートは第4インターナショナル結成を呼び掛ける4者宣言の署名。
   この協議会でスミットとデ・カットはトロツキーと会う。
   スミットは1935年10月パリでアムステルダム事務局の名で協議会を開催、トロツキストも招待するが参加せず。
   トロツキーは第4インターナショナル結成は性急とする。
   1934年政府の生活支援切り下げ決定で7月4日、アムステルダムのヨルダーン地区で騒乱が起き、スミットは抵抗拡大を
  呼び掛け、6か月の投獄となる。このスミットの行動をデ・カットは軽率と批判。
   スミットの入獄中、OSPは弱体化、1935年RSAPと合同し、スミットは代表となる。
   1935年4月、スミットとスネーフリートは北ホランド州議会に選出される。
   スミットは同年、アムステルダム市評議会に選出される。
   党内でスミットの左派的立場は徐々に苦しくなり、地方政治に関心移す。1936年8月党代表を辞任。
   1936年、RSAPから追放される。州議会と市評議会から降り、SDAPに戻る。
   1939年、SDAPで市評議会に復帰、1941年のドイツによる解散まで留まった。
   1941年、スミットはネーデルランド連合に参加。連合は12月ドイツによって禁止される。
   終戦後、国連準備のためのオランダ代表となりロンドンに渡り、1946年スミットは労働党員となる。
   以降国連の仕事にかかわる。


  サロモン・デ・ヴォルフ


  ヤコブ・ファン・ヘルデレン



*参考

・アントン・パンネクーク  ⇒アントン・パンネクークの人と思想(人間と思想と活動の詳しい論評)
                  →アントン・パンネクーク小伝(生涯・事績の概要)
ヘンク・スネーフリート   ⇒ ヘンク・スネーフリート小伝
ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト ⇒ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト小伝
ヘルマン・ホルテル ⇒ヘルマン・ホルテル小伝
フランク・ファン・デル・フース ⇒フランク・ファン・デル・フース小伝
オランダのアナーキズム運動




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