<<アントン(アントニー)・パンネクーク小伝>>

  主な他の情報源
   ジョン・ガーバーJohn Gerber氏の’アントン・パンネクークと労働者自己解放の社会主義を基礎としている。
   更にフィリップ・ブリネのオランダとドイツの共産主義左翼も参考にしている。
   BWSAの諸伝記、huygens ingの略伝
   パンネクークの自伝(思い出) 
   総合アーカイヴ

   個別事項の詳しい内容についてはアントン・パンネクークと労働者自己解放の社会主義あるいはオランダとドイツの共産主義左翼を参照。

 *パンネクークはパネクークが良いようである。


 ・生まれと育ち

  アントン・パンネクークは1873年1月2日、貧しく遅れた農業州のヘルダーランドにあるファーセンの小さな村でヨハネス・パンネクーク
 (1825−1916)とその妻、助産師のウィルヘルミア・ドロテア・ベインス(1842−1920)の4人の子どものうちの2番目として生まれた。
  (正確には3番目、一番上は幼少で死亡、長兄が死んだ年に次兄が生まれ同名をとっている、次兄はフレデリク・アドルフ(1869−1955)、
 妹はヨハンナ・ヘンドリカ(1876−1927)、ヘールトロイダ(1880−1971)の2人)
  父は農業環境から這い上がり、会計士のちに小鉄工場監督者となった、カルヴァン派から転じた自由思想の持主でリベラル党を支持していて、
 進歩的考えの人で、子供の教育には大きな努力を惜しまなかった。
  パンネクークは急性灰白髄炎で足が少々不自由であったが穏やかな少年時代で、孤独と知的活動への傾向をもっていた。

 ・天文学への関心 1883−1906

  ヘルダーラント州アペルドールンの高等市民学校HBSに入学し、5年間学び、1888年最終試験に合格。
  (逆算すると1883年、10才頃入学したことになる。)
  更に3年間(1888−1891)、古典言語を学びギリシャ語とラテン語の試験にも合格。この間自然史と天文学にも没頭。
  1891年、ライデン大学に入学し数学と物理学を学び、更に天文学を学び1895年に大学卒業し、測地監視所に入る。
  1897年、論文”琴座β星の光変動の研究”発表。
  1898年、ライデン天文台にはいる。
  1902年、H.G.ファン・デ・サンデ・バクホイゼンから”アルゴルの光変動の研究”で博士号取得。
  1906年、ドイツでドイツ社会民主党党学校講師になるために天文台辞職。しかしドイツでも天文学関係の学習は続けた。

  12歳の時(1885年)、パンネクークは自然、特に天文学と植物学に強い関心をもった。
  高校では科学教師のヤン・マルティヌス・スミットによって天文への関心を鼓舞され、アマチュア天文研究者となった。
  スミットの励ましで始めの計画の高校教師になるよりライデン大学で天文学の経歴を追い求めることを決心した。

  パンネクークは1891年ライデン大学に入る時にすでにライデン天文台所員エルンスト・ファン・デ・サンデ・バクホイゼン(1848−1918)と
 手紙のやりとりをしていた。パンネクークが1898年ライデン天文台にはいり、リベラル選挙連合に参加した時、同僚であったエルンストはリベラル
 の熱心な活動家であった。1899年パンネクークが社会民主となったときに最初にこれを告白したのも同僚のエルンストであった。
  パンネクークはライデン大でエルンストの兄、H.G.ファン・デ・サンデ・バクホイゼン(1838−1923)の指導を受け、彼はパンネクークの
 博士論文の指導教官でもあった。彼は1872−1908年のライデン天文台所長で、1903年にはパンネクークを擁護している。
  エルンストは兄をついで1908年、ライデン天文台所長となるが、1918年に死亡し、ウィレム・デ・シッテル(ド・ジッター)が後をついだ。
  ド・ジターは1916年にパンネクークをライデン大の天文学史の個人教師に誘い、1918年にはライデン天文台招聘を試みている。

 ・オランダの時代的背景

  オランダでは1881年社会民主同盟SDBが結成された。この組織はドメラ・ニューウェンホイス(1846−1919)が支配。
  SDBでは反議会主義のニューウェンホイスらとファン・デル・フース、ピーテル・イェーレス・トルールストラらが対立、1894年、後者らによって
 SDAPが結成される。ニューウェンホイスらは1893年全国労働書記局NASを結成し、アナルコ・サンディカリズムを追求。
  1896年、ファン・デル・フースによって新時代が創刊された。これは後にはファン・デル・フース、ホルテル、ローラント・ホルスト、パンネクーク、
 ピーテル・ウィーデイクフロレンティヌス・マリヌス・ウィバウトウィレム・ファン・ラフェステインが編集者となる。

 ・社会主義者となる 1899−

  1899年(26才)、パンネクークは社会主義者となる。

  1898年、彼はライデン天文台に入り、ライデン市民となるとリベラル党員となった。
  1899年1月、地域のリベラル・クラブの読書室で熱心な社会主義者のウィレム・ヘンドリク・デ・フラーフ(1873〜1959年)と出会い、
 デ・フラーフは彼を社会主義に誘った。
  6月、デ・フラーフは仮想平等社会を描いたエドワード・ベラミーの小説”平等”をパンネクークに与えた。
  これがパンネクークの政治的展開に画期をもたらした。ベラミーを読んで彼の見解は完全に変わり、社会主義者となる決心をした。
  しかし彼は当初は公の場で社会主義者としての確信を披歴することをためらった。
  しかしついに11月中頃リベラルが支援する教育法に関する集会で社会主義者の見解を支持することを表明。
  SDAPの立場支持を公表してから直ちにアムステルダムのヤン・フォルトイン(1855−1940、新聞で知っていた、古参SDAP)の
  本屋にいき、フォルトインと話し、昔の運動のことを聞き、SDAPのできる限りの文献、冊子、ドイツの本を求め、ファン・デル・フースらの新時代と
  ドイツの新時代の定期購読をした。当時、フォルトインから資本論も求めた。
  一度始まるとパンネクークの政治的展開は速く、目的意識的であった。
  デ・グラーフの指導で社会主義の古典を学習し、数週間でマルクス主義を十分に理解したと確信した。
  P.L.タクのデ・クロニークでの剰余価値に関するファン・デル・フースとピーテル・ウィーデイクの論争に見解を書き、ファン・デル・フースの注目を
 引き、マルクス主義経済の研究に誘われた。
  ファン・デル・フースとの協同によりパンネクークはオランダの指導的社会民主主義者と知り合い、マルクス主義理論家としての知的訓練を得た。

  彼の個人的生活には、パンネクークの革命的マルクス主義は入り込まなかった。
  彼は非常に快適で平穏な中産階級の家庭を好んだ。第2インターナショナルのほとんどの知識人同様に彼の文化的嗜好は保守的で
 古典的であった。彼は他の世紀末知識人と本質的に同じ音楽、芸術そして文学を好んだ。

 ・ライデンでの党活動 1899−1906

  パンネクークは理論活動にとどまるだけで満足でなく1899年からドイツへ出発する1906年までライデンでの社会主義運動に没入した。
  社会主義者への転換を宣言して間もなくパンネクークはデ・グラーフを誘いSDAPのライデン支部組織化を試みた。
  ライデンには党支部はなく、SDAPのマウプ・メンデルス(1868−1944)の助けで支部を創設。1900年、ロッテルダム大会の代表として
 参加 し、党の指導者や名前だけを知っている人物と知り合った。
  1900年にメンバーは13、1901年は21、1903年は29人であった。圧倒的多数は職人と商売人であった。
  常勤で天文学に関わっていたが、パンネクークは地域の党活動の全部門に彼の存在性を示しているように感じられた。
  時により、議長、書記、財政担当、地域週刊誌覚醒De Wekker編集、全国大会代表を務めた。
  柔和に話し、芝居がかった才能を欠き、彼は生き生きとした論争家や演説家ではなかった。
  パンネクークは労働者階級に社会主義意識を発展させるために種々の方法を工夫したが教育を特に重視した。
  パンネクークにとってライデンでの初期の社会主義活動は容易ではなかった。熱心な努力にもかかわらず、地域労働階級の急進化を進める
 ことはできなかった。一握りの知識人が支部を構成し、労働者から拒否または無視された。

 ・結婚 1903年(30才)

  1903年(30才)、3年の交際後、音楽家で教師のヨハンナ・マリア・ナッサウ・ノーロデウィーア(1871−1957)と結婚、2人の子ども(男と女、
  アントニー・ヨハネス(1905−2000)とアンナ(1909−2000))を持った。
  1900年頃知り合ったマルクス主義者グループにホルテルらとともに彼女がいて、彼女はすでにホルテルを知っており、また社会主義者としての
 信念を持っていた。

 ・SDAPでの内部闘争 1899−1903

  SDAPでは内部闘争がゆっくりと展開していた。最初の衝突の影は1899年初めで労働組合政策であった。
  直接の焦点はニューウェンホイス追従者のNASに結集するアナルコ・サンディカリストへの対応であった。
  トルールストラはSDAPと協力する労運動構築に関心があり、NASとのいかなる協力も反対、一方新時代グループはNASに好意的であった。
  次が農業問題で更に教育問題に及んでいった。トルールストラと党指導部に対し、セトン、ホルテル、ローラント・ホルスト、パンネクークらが対立。
  この対立は1903年のオランダ大衆ストライキの波で頂点に達した。このストライキの戦術でトルールストラ、ウィレム・フリーヘンらはスト収拾に
 動きNASと対立、政治的にはアナルコ・サンディカリストと社会主義者の間に永久の亀裂を生じさせた。
  SDAPは1905年、NASに対抗し自分たちの組合、オランダ労働組合連合NVVを結成した。

 ・1903年ストライキの余波 1903−1905

  1903年にはSDAPではスト対応をめぐってパンネクーク、ホルテル、ローラント・ホルストら新時代派はトルールストラらを攻撃した。
  1905年のロシア革命の結果、新時代派は更に急進化した。
  1905年の選挙では反ストライキ法と1903年抑圧の反革命党のコイペルにたいする選挙連合が形成され、党執行部の無原則的対応で対立。

  1903年のストライキへの関与の件で、パンネクークは首相のコイペルに召喚され、公務員としての行動を問いただされた。
  解雇はされなかったが、以降彼は党活動を自粛し、理論的活動だけに制限した。

 ・初期の理論活動 1899−1906

  社会主義者となってすぐにパンネクークは種々の評論に寄稿し始めた。
  パンネクークはファン・デル・フース、ホルテル、ローラント・ホルスト、ピーテル・ウィーデイクフロレンティヌス・マリヌス・ウィバウト
 ウィレム・ファン・ラフェステインらと新時代の編集にも参加した。

  投稿誌
   Het Sociaal Weekblad(アルノルト・ケルデイク) 1899年  
   De Kroniek(P.L.タク) 1900−1904年 
   De Nieuwe Tijd 1900−1921年
     カントの哲学とマルクス主義(1901年)、史的唯物論と宗教(1902年)、史的唯物論とトルーブ教授(1904年)、マルクス学習(1905年)など。
   Het Volk(SDAP) 1902−1907年
   De Wekker(SDAPライデン) 1902、1903年

  1903年からドイツ社会民主党機関誌ノイエ・ツァイトにも投稿を始めた。
    史的唯物論と宗教(1903−1904年)、階級意識と哲学(1904−1905年)、マルクス主義と目的論(1904−1905年)、社会主義とアナーキズム
   (1905−1906年) など

  モノグラフ
   1902年 J.ディーツゲンの哲学的仕事の位置と重要性
   1906年 宗教と社会主義
          倫理と社会主義

  マルクス主義ついての理論的探究の最初の主な作業はファン・デル・フースとの協力によるマルクス経済学の学習であった。
  しかし彼はマルクス経済学固有の決定論に不満で、人間の意識と物質的世界への行動との関係の分析のための科学的枠組みを発展させるために、
 1900年からマルクス主義の哲学的基礎の系統的学習に入り、マルクス主義とカント哲学の関係を調べ始め、カントからマルクスへの発展の歴史的
 重要性知るようになった。
  間もなくドイツの労働者哲学者のヨゼフ・ディーツゲン(1828−1888)の著作を発見し、これが彼の理論的発展に決定的転機となった。
  パンネクークを通じ、ディーツゲンはホルテルやヘンリエッタ・ローラント・ホルストへも影響を与えた。
  これらオランダ・マルクス主義者にはヘーゲルより、スピノザやディーツゲンが影響を与えることとなる。
  オランダ・マルクス主義者としてパンネク−ク、ホルテル、ヘンリエッテ・ローラント・ホルストの3人を代表に挙げられるが、ホルテル、ヘンリエッテ・
 ローラント・ホルスは詩人でブルジョア的気質を持ち、パンネクークは科学者でプチブル的生活態度で他の革命的マルクス主義者とその生き方に
 おいて顕著な違いがあった。特にパンネクークの人生には劇的な性格がなく、良きにつけ、悪しきにつけ感情というものが強く感じられず魅力に乏しい。
  現実から一歩引いて観念で知性だけで議論しているように感じられる。またヘンリエッテ・ローラント・ホルストは中途半端な人間であった。

 ・ドイツ行き(33才)  1906−1914年

  SDAP枠内でパンネクークの政治的発展は大きく進んだが、オランダ社会主義運動の時間を消費する論争、社会主義者の活動の主要な
 中心からの孤立にパンネクークはだんだん不満になってきた。国際的社会主義運動の中心のドイツに飛び込んでみたくなってきた。
  この目標は1906年新しく創設されたベルリンのSPD党中央学校の教師への申し出があって実現した。
  この申し出は主にカウツキーとパンネクークの間の個人的関係の成果であった。
  カウツキーは天文台の地位を上回る給与を確保し、結局、天文台での仕事に不満足だったこともあり、ドイツ社会民主主義への楽観的見込み
 から申し出を受け入れた。当時、1児の父であった。(1905年長男アントニー・ヨハネス誕生。)

 ・ドイツでの転機 1907−1908

  しかし党学校での仕事は1907年9月、突然終わった。警察が彼とルドルフ・ヒルファーディングがドイツ市民権をもたないことを理由に教える
 ことを禁止した。SPD執行部はパンネクークをローザ・ルクセンブルクに、ヒルファーディングをハインリッヒ・クノーに代えた。
  パンネクークは経済的窮地に陥ったが最終的にメーリンクの週間新聞への執筆の誘いで解決した。
  1908年2月、パンネクークは通信員としての文章を書きはじめ、これは第1次大戦の勃発まで続いた。
  小さな回覧紙や大きな新聞に書いて収入を得た。
  彼はそのほか通いあるいは旅するSPDの講師となり、これによってドイツじゅうの左派グループと関係を確立する機会を得た。

  新聞通信員としての文は主にブレーメン市民新聞(アルフレット・ヘンケ)、ライプツィッヒ人民新聞(フランツ・メーリンク)に載った。
  このころの投稿は他にドイツ語新聞ではベルン覚醒Berner Tagwacht(スイス社会民主、ロベルト・グリム)、光線(ユリアン・ボルハルト)など。 
  英語では国際社会主義者評論( International Socialist Review、シカゴ)と新評論(The New Review、ニューヨーク)
  そしてもちろんノイエ・ツァイト、オランダではデ・ニーウェ・テイト(De Nieuwe Tijd)とデ・トリブーネ(De Tribune)。 →総合アーカイヴ

 ・SDAPからのSDPの分裂  1905−1909

  SDAP内での対立は1905年から1906年と続き、1906年ユトレヒト党大会で急変し、1906年大会は新時代派の完敗となった。
  反対派はダフィド・ウェインコープ(1876−1941)、ウィレム・ファン・ラフェスタイン、ヤン・セトンの3人が中心であった。
  ユトレフト大会の敗北で3人は左派のマルクス主義週刊新聞を分離させる基礎的作業を始めた。
  この件は1907年のハーレム党大会での新時代派の大規模な降伏で緊急を要するようになった。
  新時代派の多くは分裂を望まず和解を模索した。1907年10月19日トリブーネの創刊号が出現。
  1909年2月、デフェンテル党大会で追放が承認された。1909年2月21日、トリブーネ派は新党結成を決定。
  新時代派は分裂し、パンネクーク、ホルテル、ウィーデイクが新党に属していた。
  一方、ローラント・ホルスト、ファン・デル・フース、ウィバウトがSDAPに属していた。
  ローラント・ホルストとウィバウトは国際社会主義事務局ISBに調停を依頼した。カミーユ・ユイスマンらの調停は失敗。

  SDAPでは1911年夏、アムステルダムとロッテルダムでの港湾労働者ストをめぐって執行部と残留マルクス主義者の間で対立が生じた。
  1912年、ヘンク・スネーフリートが離党、短期間SDP参加、1912年12月SDAPに再参加。ローラント・ホルストはしばらく党組織外へ。

 ・カウツキーとの対立 1910−1912

  トリブーネ派がSDAPからの追放に直面したときに、カウツキーがトリブーネ派支持を拒否したことでパンネクークを怒らした。
  1910年4月参政権法案に対するデモとストライキの問題でパンネクークはカウツキーと対立。
  ローザ・ルクセンブルクの参政権運動の強化を呼び掛ける文章を前進(フェアヴァルツ)と新時代の両方がこの文章の印刷を拒否した。
  彼女は一般党員に直接問題を提起するために2カ月のドイツ演説旅行を始めた。
  カウツキーはローザ・ルクセンブルクと左派を批判し、議会戦術への復帰を擁護した。
  ローザ・ルクセンブルクの求めで、1910年4月、パンネクークが議論に加わった。
  パンネクークは運動が直面している鍵となる争点は大衆の闘争への意志と党指導部がその意志を表現できないことの間の矛盾であると公然と
 宣言した。カウツキーの後退戦術に対し、パンネクークは大衆運動の激化を通しての資本主義国家の根幹の破壊を究極的に目的とする攻撃的戦略
 の必要性を再主張した。
  1912年7月にパンネクークの”大衆行動と革命”がカウツキーの大衆の行動(1911年)への返答として発表された。

 ・ブレーメン左派とパンネクーク 1910−1913

  パンネクークの公式的社会民主の理論と実践との衝突は1910年春、産業都市ブレーメンに移ったのに対応する。
  ハインリッヒ・シュルツ、ヴィルヘルム・ピークらにより1909年秋までにブレーメンは急進派拠点となった。
  左派は革命的闘争のための教育計画の組織化と教師の役割をパンネクークに依頼した。
  パンネクークに更にカール・ラデックヨハン・クニーフが参加。
  1910年秋の港湾労働者のストライキによりでパンネクークと組合幹部との対立は深まった。
  一般組合員の激しい戦闘性に対し組合幹部はストライキ終息に動いた。
  パンネクークは組合幹部の闘争にとった戦術の正当化に対し労働組合民主制で反論した。
  対立は1911年3月のパンネクークとドイツ労働組合指導者カール・レギーンとの論争で頂点に達した。
  一方ブレーメン左派は全国的党路線に影響を与えるように転じた。
  1912年9月のケムニッツ党大会ではパンネクークは左派の代弁者として出現した。
  1913年9月のイエーナ党大会ではパンネクークとブレーメンの代表、ローザ・ルクセンブルク、その他左派は党の軍事予算支持に反対し、
 大衆ストライキと他の攻撃的戦術使用を再主張。
  第一次世界大戦の前夜までにパンネクークとブレーメン左派はSPD多数派と明確に異なる路線に乗り出した。

 ・SDPの成長 1914−1918

  オランダでは第1次世界大戦がSDPに成長の機会をもたらした。
  1914年8月、SDP、NAS、国際反軍国主義者連合、いくつかのアナルコ・サンディカリスト(自由社会主義者)系組合により労働協力協会SAV
 が結成され、これは当初反労働法の提案と闘うのが目的であったが直ちに反戦行動に焦点を移した。
  この時期SDAPは軍事行動を完全に支持する立場をとった。
  SDPが展開した最も重要な提携はキリスト教社会主義者連合BCSとであった。
  BCSは1910年オランダ平和運動のひとつとして形成され、非常に重要な勢力に発展した。
  1915年末、SDPとBCSは春の選挙での提携に同意。

  ローラント・ホルストは主に親戦争動員政策に反対するSDAPの若い左派と1915年、革命的社会主義者協会RVS結成。
  これが1916年5月SDPに合流。
  1918年5月、SDPはオランダ(ホランド)共産党CPHと改名、これは西ヨーロッパで初めての共産党の名乗りであった。
  ロシア革命でパンネクークは熱狂的にレーニンとボルシヴィキを支持した。
  パンネクークやCPHはボルシェヴィキを主に自分たちの経験と伝統によって解釈し、これはボルシェヴィキの理論や実践となんの
 共通性もなかった。

 ・パンネクークとブレーメン左派 1915−1917

  戦争中、オランダにいたがパンネクークは著作と個人的接触、特にヨハン・クニーフを通してブレーメン左派に決定的影響を与えていた。
  ブレーメン左派はラデックを通してレーニンやボルシェヴィキとの関係を確立。
  パンネクークはドイツではユリアン・ボルハルトとその出版”光線”Lichtstrahlenと密接な関係を確立。
  光線にはパンネクーク、クニーフ、ラデックらが投稿。
  もっとも重要な結びつきはフリッツ・ヴォルフハイムハインリッヒ・ラウフェンベルク率いるハンブルクの左派とでこれらはクニーフの努力で
 パンネクーク派となった。
  しかしベルリンのスパルタクス・グループとは戦前の対立と戦術の違いから緊張していた。
  基本的な違いはスパルタクスはカウツキー、ベルンシュタイン、ハーゼらの中央派と積極的に衝突して新しい型の革命組織を作ろうという気が
 なかったことによる。ローザはラデックとパンネクークを信頼していなかった。
  1916年は反戦反対派の発展の転機となった。
  ブレーメン左派はパンネクークと相談し、1916年6月労働者政治Arbeiterpolitikを発刊。
  彼らはSPDは官僚制と労働貴族を基礎とし新しい社会帝国主義者党となり完全に資本主義制度に統合されたと主張。
  スパルタクスとは異なり、問題はSPDの改革ではなく、来る労働者権力期とを画期する先鋭な新しい路線を描くことであると感じた。
  クニーフとポール・フレーリッヒの編集のもと、パンネクークやラデックの寄与により労働者政治はドイツ革命的左派の主導的理論誌として出現。
  1916年秋からブレーメン左派は新党結成の基礎作業を始めた。
  1917年1月、左派と中央派のすべての反戦反対派がSPDから追放された。クニーフはスパルタクスとの統一のため努力したが相互不信で失敗。
  1917年4月のゴータでの反対派全国協議会の直前にブレーメン左派は戦術調整の左派幹部団を組織。
  ブレーメン・グループとそのハンブルク提携者はボルハルト・グループおよび諸都市のスパルタクス支持者は新党を支持、しかしスパルタクス
 多数派とドレスデン左派は反対。
  スパルタクス多数派は中央派と独立社会民主党USPD結成に参加。 

 ・ドイツ行き以降の理論活動 1906−1914

   パンネクークは1906年ドイツに行き、ドイツ社会民主党党学校講師となり、翌年、党学校講師を辞めざるを得なくなり、新聞通信員
  として生計をたてた。また1910年ブレーメンに移り、カウツキーと衝突するとともにブレーメン左派の中心的理論家となった。
   1914年開戦でオランダへ帰国した。

   その間、引き続き、オランダ、ドイツ双方の新時代に投稿を行っているがそのほか種々の定期誌・紙に投稿し、重要なモノグラフも
  発行している。主なものは以下である。

  定期誌

   ドイツ語
    ノイエ・ツァイト  1904−1913年
    ブレーメン市民新聞、ライプツィッヒ人民新聞  1908−1914年
    光線(ユリアン・ボルハルト)  1913−1916年、1918−1921年
   英語
    国際社会主義者評論(シカゴ)  1906−1916年
    新評論(ニューヨーク)  1913−1916年
   オランダ語
    De Nieuwe Tijd  1900−1921年
    De Tribune  1907−1918年

  論文
   独語
    1907年 労働者の闘争  ライプツィッヒ人民新聞    
    1909年 オランダ社会民主党の原則 (ホルテル、W.ファン・ラフェスタインとの共著)
           労働運動での戦術的違い
           マルクス主義とダーウィン主義
    1910年 プロレタリアートの権力手段Machtmittel
           ディーツゲン主義とマルクス主義 ブレーメン市民新聞
           労働組合Gewerkschaftliche民主制 ブレーメン市民新聞
    1911年 倫理家としてのマルクス ブレーメン市民新聞
           所有の廃止、国家と宗教
           大衆行動 ブレーメン市民新聞
    1912年 階級闘争と民族
          大衆の本能 ブレーメン市民新聞
    1913年 戦争と社会主義知識 ブレーメン市民新聞
           ドイツのサンディカリズム ブレーメン市民新聞
    1914年 党と大衆 ブレーメン市民新聞
           インターナショナルの崩壊 ブレーメン・タークヴァッハト(覚醒)、ノイエ・ツァイト


  ディー・ノイエ・ツァイト投稿

    1906年 社会主義とアナーキズム 
           エネルギーと経済
           社会主義、共産主義とアナーキズムについて
           宗教の本質
    1907年 文学評論 1907
           エルンスト・ウンターマン、科学と革命
    1908年 社会民主の政治体系 1908
           (宇宙の発展)
          青年組織の問題
    1909年 理論的文化闘争
    1910年 ツガン・バラノフスキーのマルクス批判 
    1912年 大衆行動と革命 
           我々の現在の要求の本質
           マルクス主義理論と革命戦術
    1913年 危機の原因の理論
           ディーツゲンの仕事
           防衛問題(Deckungsfrage?)についての議論
           防衛問題と帝国主義

  英語
   国際社会主義評論(シカゴ)
    1907年 社会主義と宗教 
           ベルリンの社会民主党学校
    1908年 労働運動と社会主義 
    1909年 新中間階級 
    1910年 反乱のプロシア 
    1912年 ドイツの選挙 
    1913年 戦争に対する戦争 
    1914年 大ヨーロッパ戦争と社会主義 
           戦争とその結果
    1915年 戦争でのドイツ社会主義 
    1917年 第3インターナショナル 
   新評論(ニューヨーク・シティー)
    1913年 社会主義とアナーキズム 
           ルーズベルト 1913
           社会主義と労働組合主義
    1914年 インターナショナルの崩壊
    1915年 新しいインターナショナルに基づく戦争に対する新戦術
    1916年 第3インターナショナル(フォア・ボーテ第1号序文から)

  オランダ語
   1906年 宗教と社会主義
          労働運動での理論と原理 ニーウェ・テイト
          マルクス主義と修正主義
          実践での修正主義 ニーウェ・テイト
          将来国家の激変
   1908年 マルクス主義
   1909年 ダーウィン主義とマルクス主義
   1914年 戦争、その起源と闘争

 ・オランダ帰国(41才) 1914−1917

  戦争でオランダに戻ることを余儀なくされて、パンネクークは直ちに最高の挑戦の瞬間に武装解除した社会民主の重大な特徴の分析の辛い
 作業を開始した。
  パンネクークは社会主義者インターナショナルの失敗の分析の仕事を始めたが、一方で、個人的な生活の問題に直面させられた。
  個人的観点から、戦争の年月はパンネクークが経験するだろう最も困難な年月のひとつとなりそうであった。経済的不確定性と放浪。
  多くの他の人々と同様に、彼は戦争は短いことを期待し、数カ月以内でブレーメンの仕事に再び取り掛かることができることを計画した。
  戦争の最初の年の間、パンネクークは義理の兄弟とアルンヘムに住みジャーナリストとして生計を維持しようとした。
  彼の最初の仕事は英国新聞への文章書きであったがこれは続くなかった。。
  彼は次にニーウェ・アムステルダメルに外交について書くパート・タイムの仕事を見つけた。

  1915年春、戦争が長続きしそうで、そして天文学で空席がないと知り、パンネクークは高校で科学を教える仕事を承諾した。最初はヘルモント、
 後にその夏にホールンで(1915−1917)。これには1916年、ライデン大学での天文学の歴史の週に1度の無給の講義が追加され、これを、
 1906年以来この分野に周辺的にだけ接触を維持していた後での、天文学復職に利用することを望んだ。
  1917年には彼はブッスムの別の高校の勤め口に移った。ブッスムにはホルテルと何人かの他の左翼知識人が住んでいた。(1919年まで)
  これらの勤め口はいつも不安定であった;パンネクークは常に圧力を感じ、地域の報道に報告される公衆での会話またはいかなる種類の
 活動をも避けたと記している。

 ・ツィンメルヴァルト左派 1915−1916

  1914年以前は革命は覚悟した少数のグループが人生をささげるほとんど教義と夢であった。1919年までに革命的雰囲気がヨーロッパ中に
 広がった。
  1917年のボルシェヴィキ革命と1918年のドイツ革命は、とうとうパンネクークが過去12年間の彼の人生を捧げた世界規模のプロレタリア革命の
 始まりを刻印するように見えた。
  パンネクークは他のマルクス主義左派同様に戦争の勃発での社会民主の突然の民族主義への投降に不意をつかれた。

  インターナショナルの崩壊という題の主要な文章が広くドイツ語、英語、オランダ語、ロシア語で広まった。(1914年デ・ニーウェ・テイト
  パンネクークは戦争は社会民主の弱さと帝国主義の巨大な力の両方をはっきり示すという立場を取った。
  第2インターナショナルの民族主義への投降は成長する官僚装置による大衆からのイニシアチヴの横領に根差す運動の基本的精神の弱さによる
 と彼は感じた。

  国際社会主義運動内の左派再結集の動きが始まった。
  この再結集の過程のその主な刺激はレーニンとボルシェビズムに由来し、組織的基礎は後にツィンメルヴァルト運動として知られるように
 なるものにあった。
  レーニンの最初の左派再結集への進出は、1914年9月27日スイスのルガノでのイタリアとスイス社会主義者の協議会で到来した。
  ここで彼は諸民族間の帝国主義戦争を階級間の内乱に転化するための9月5日テーゼを提案した。
  この結集で、意見の主要な分裂は、主要な任務は戦争を社会主義革命の触媒に使用することと感じた革命家と、第1義的義務は戦争を
 終えさせることであると感じた平和主義者の間から出現した。
  レーニンの革命的再結集戦略の鍵となる要素はボルシェヴィズムとオランダSDPの提携の彼の願望で、彼はオランダSDPを最良の革命グループ
 の一つと見なした。
  更なる国際協議会がスイスのツィンメルヴァルトの山村で1915年9月5−8日、スイスのツィンメルヴァルトで開催され、完全で明確な少数派
 と多数派の社会主義者の別々の陣営への分裂と反戦少数派内の異なる左派潮流の全体的団結分離を刻印した。オランダからはヘンリエッテ・
 ローラント・ホルストだけが出席した。
  進行過程で、レーニンはもう一度、資本主義への直接的革命闘争と新しいインターナショナル形成を呼び掛ける決議案を提案した。
  レーニンの決議案なんとか代表の約1/3の支持を得たが、これは左派によってわずかな勝利と見なされた。
  もっと左派を勇気づけたのは将来の活動を調整するためのベルンでの国際社会主義者委員会の創設であった。
  この組織に影響を与え彼らの見解を広めるために左派は自身の調整事務局を設置。
  1915年秋からこの事務局はカール・ラデックのイニシアチヴで左派の別の国際出版を出すための基礎作業を築き始めた。
  国際評論は1916年1月、先駆(Vorbote)と言う名で実現した。
  パンネクークと他の人々の高い希望にかかわらず、フォアボーテ(先駆)はほとんどその初めの瞬間から一連の党派論争に悩まされた。
  パンネクークの序文の出現に続き、レーニンはパンネクークが評論を個人的機関に変え、ツィンメルヴァルト左派の代表としての責任を
 回避していると批判した。
  これらの違いに民族自決の問題に関するレーニンとラデックに間のより深い衝突が加わった。
  レーニンはラデックは彼に対し陰謀の疑いがあり、彼の支持者を編集部から取り除こうとしているとも感じた。
  レーニンはパンネクークとラデックの両者のカウツキー主義への闘争の彼らのやり方は正しくないした。
  トロツキーも、ロシアとオランダの極端主義者は彼ら自身のインターナショナルを築こうとしていると感じた。
  トロツキーは、出版を労働者の組織化と左派の幅広い運動の構築に使用する考えは、純粋にレーニン主義的空想であるとも感じた。
  部分的にはこれらの違いを解決することを左派ができなかったので先駆は第2号で発行を停止した。

 ・ドイツ革命とKPD結成 1917−1919

  1917年4月、ドイツ中で自発的ストライキの波が起き、これがブレーメン左派の新組織構造追求と一致した。
  1917年8月26日13名の代表がベルリンでドイツ国際社会主義者(Internationale Sozialisten Deutschlands)ISD結成会議を開催。
  1918年1月には全国ストライキの第2波が起きた。9月から10月にかけて戦局が悪化し隠しきれなくなった。
  1918年11月4日キール軍港で革命がはじまりドイツ中に広がった。
  最初はパンネクークやドイツ左派の予想の過程を経た。自発的大衆行動と大衆ストライキが労働者と兵士の評議会の形となった。
  しかし評議会の役割はロシアとドイツでは異なった。
  ドイツではSDPが直ちに評議会と政府の支配的勢力となり、古い国家の崩壊とプロレタリアの評議会の展開はロシアほど急ではなかった。
  ISD(11月末ドイツ国際共産主義者IKDと改名)は革命では限られた役割しか演じられなかったが、以前のSPD組織を支配しIKDはうまく
 革命的主導権を握った。パンネクークはIKDとの協力により中心的役割を演じた。
  11月から12月にかけてパンネクークの理論分析が労働者政治紙上に定期的に出現。
  しかしIKDとスパルタクスは統一できなかった。が反革命の危機がIKDとスパルタクスを統一に向かわせドイツ共産党KPDが結成される。
  12月30日から1月1日のベルリンの結成大会で新組織に関する両者の基本的違いは解決されなかった。
  スパルタクスは集権化された組織を望み、IKDは一種の精神的統一だけによる地域グループの緩い連合を要求した。 
  更に既存の労働組合連合内で活動するか新しい統一組織を結成するかという問題が関係していた。国家選挙参加は反対となった。
  KPDの最初の試練はいわゆるスパルタクス蜂起であった。
  ブレーメンでは1月10日ブレーメン社会主義共和国が宣言された。25日内相ノスケがブレーメン介入を宣言、蜂起は打倒された。
  6月、ルクセンブルクとリープクネヒトの死後、ポール・レヴィがKPDの指導権を握り、ブレーメンとハンブルクの組織を批判。
  レヴィはKPDの失敗の責任は左派にあり、集権化により党の権威を取り戻す事が必要と考えた。
  孤立化を避けるには議会戦術を採用し左派を排除することが必要と考え、USPDの80万メンバーを引き入れた。
  以前のIKDメンバーはパンネクークの考えを固執。
  1919年秋、ブレーメンとハンブルクで革命組織問題が再燃、全国協議会でも議論される。
  レヴィはラディックの理論的支援で左派の大規模な攻撃を開始。10月のハイデルベルク大会でレヴィは反対派排除に成功。

 ・KAPD結成 1918−1920

  ドイツ労働運動で戦中から出現し1918年11月以降自然発生的に急速に展開した工場委員会に起源をもつ新しい形の
 既存の社会主義者理論と関係ない産業組合主義が起こった。
  主に地域工場や職場に基礎を置くこの地域組織は既存の労働組合に不満で非集権化され、戦闘的戦術を採用した。
  イデオロギー上の違いからこれら地域組織の多くはサンディカリズムをモデルとするようになり、1919年末、ドイツ自由労働者連合FAUD
 を結成した。
  一方、別のグループは新しい形の工場組織である労働者連合Arbeiter-Unionenを結成。
  部分的にIWWををモデルとし、サンディカリストの工場組織とは共産主義者運動に属すことを好み、評議会制度を基礎に組織された
 未来国家を受け入れていることで異なっていた。
  これら地域労働者連合の全国組織化ではブレーメン左派が組織的、イデオロギー的に決定的役割を演じた。
  ブレーメン左派はこの組織は経済的闘争組織としてKPDと第3インターナショナルと連帯し評議会共和国確立へ向かうものとした。
  1920年2月、ハノーヴァーでドイツ総労働者連合AAUDが結成された。しかし大会では運動の使命と構造について分裂が生じた。
  一方はハンブルク左派のフリッツ・ヴォルフハイムハインリッヒ・ラウフェンベルク率いる連合派でサンディカリストに近い立場をとり
 AAUDは来るプロレタリアートの国家組織を代表すると主張。
  もう一方はブレーメンとベルリン・グループ率いる集権派で彼らはAAUDは新社会の組織的形態ではなくその役割を産業的扇動の装置
 と強調。集権派はAAUDは地域組合のネットワークになるのではなく、評議会にもとづく革命の触媒として活動すると主張。
  KPDでも反官僚主義的動きがあり1919年10月のハデルベルグ大会でポール・レヴィ指導部が左翼反対派を追放。
  10月のブレーメンでの追放された反対派の全国協議会で3つの意見が生じた。
  ヴォルフハイムとラウフェンベルクのハンブルク・グループは反対派の勢いで直ちの新党結成を支持、ドレスデンのオットー・リューレ周辺は
 党の形態の組織で過ごし、AAUD内での活動を支持。
  ブレーメンとベルリン組織率いる多数派はレヴィ指導部に対する断固たる闘争によりKPDは再蘇生できると感じた。
  これはパンネクークも同意見でレーニンと第3インターナショナルの支持が得られるという信念を前提していた。 
  ブレーメン協議会後、ヴォルフハイムとラウフェンベルクは運動を広範な基礎に据えるために協商国に対するドイツとソ連の共同戦線の
 民族ボルシェヴィズムを追求。これで左翼反対派の中心はブレーメンに移動し、彼らは孤立化。
  これらのできごとは共産主義者Der Kommunist上でのパンネクークとレヴィの議論に一致していた。
  パンネクークはあくまで反議会主義を貫き評議会制度に固執していた。
  レヴィは資本主義の攻勢的条件では議会主義戦術は革命的活動の最も先鋭な形態を示すと述べ、反対派を冒険主義者、プッチスト、ブランキスト、
 バクーニン主義者と批判、彼のハイデルベルクでの行動と第1インターナショナルでのマルクスのアナーキストの排除を対比した。
  これに対しパンネクークは新ブランキズムで応答した。 
  パンネクークはグスタフ・ノスケフリードリヒ・エーベルトの労働者評議会による革命的闘争なしによる平和的権力奪取は新プルードン主義で
 ラデックとレヴィの集権化し、訓練された革命的少数派による権力奪取こそ新ブランキズムを意味すると主張。
  1919年12月から1920年1月の出来事でブレーメン反対派はKPDとの再統一を考え始めた。
  3月11日ブレーメン支部はKPDに再参加。これで反対派の中心はカール・シュレーダー周辺のベルリン・グループに移行。
  ブレーメン反対派のKPD復帰22日後カップ一揆が発生。カール・レギーン指導の労働組合の全国ストライキで反革命は阻止された。
  このような状況でKPD指導部は動揺、反対派は新党結成の機が熟したと確信。
  シュレーダー・グループは1920年4月、ベルリンでドイツ共産主義労働者党KAPD結成。
  KAPDは伝統的意味での党でなく労働者階級をすべての形態の指導者による支配から開放する手段とされた。
  KAPDは革命的活動の直接の装置ではなく思想の触媒であるべきと強調。革命組織と行動の役割はAAUDに任された。
  1920年春までに彼らの考えは共産主義インターナショナルと対立するようになった。


 ・アムステルダム事務局 1919

  ヨーロッパ、マルクス主義の歴史の新しい時代が1919年3月の共産主義者インターナショナル結成とともに始まった。
  新しい国際革命的マルクス主義の本質についての彼の長年のパンネクークとの違いにもかかわらず、インターナショナルが形成されるずっと
 前からレーニンはパンネクークがオランダとベレーメンの左派両方に主導役割を抱いていたということを明確にした。
  1917年、新インターナショナル形成の可能性について書いたときに、レーニンは記した:’ポーランド社会民主内のボルシェヴィキ、オランダ、
 労働者政治(ブレーメン左派)、明日(ドマン、1916年、アンリ・ギルボー創刊)−これが十分な萌芽である。
  コミンテルンの存在の初期の月々の間に、重要な西の関与がロシアと西ヨーロッパの間の連絡の通常な方法の崩壊によって妨げられた。
  西ヨーロッパが関わる仕事はまず実践的関係で手を付けられ、1919年9月、ベルリンに西ヨーロッパ書記局、アムステルダムに西ヨーロッパ
 事務局創設が決定された。
  アムステルダム事務局組織のためにレーニンはモスクワ在住のセバルト・ユスティヌス・ルトヘルスを選んだ。
  ルトヘルスはレーニンによって3重の指示を与えられた:西ヨーロッパとアメリカの種々の共産主義者グループとの関係を確立すること、
 共産主義者宣伝センターを立ち上げること、そして国際協議会を組織すること。
  ルトヘルスはまたコミンテルン幹部よりパンネクーク、ホルテル、ローラント・ホルスト、ウェインコープとファン・ラフェスタインと仕事をすること
 を指示された。
  アムステルダム事務局はまず1920年1月、アムステルダムで国際協議会を開催する当面の目標で機能を始めた。
  アムステルダムで1920年2月3−6日に開催されたこの協議会は事務局の活動と事実上の西ヨーロッパインターナショナルとして働く最初の
 試みを高水準で印象付けた。
  オランダ代表が支配したが、協議会は代表とオブザーバーを少なくとの1ダースの国々から呼び寄せ、コミンテルンの以前の結成会議より多くの
 代表を集めた。
  協議会の組織化はまずく、警察によってすぐに解散させられたが、共産主義の特別な西ヨーロッパ的考えを初めて明確化することを試みた。
  協議会によって採択された宣言はプロレタリア組織の新しい原理としての労働者評議会の重要性を強調し、パンネクークによって起草された
 はっきりと議会主義と労働組合戦術を非難する一連のテーゼを含んでいた。
  彼の議会主義に関するテーゼで、パンネクークは−彼はほとんど即座に事務局の精神的指導者として出現し−彼が公然とコミンテルン政策を
 批判し:’モスクワ書記局によって据えられたこれらの主な路線はすべての実践的例で十分ではないことがわかった。国がこの条件にあるのか
 どうかは国際会議でなくその国の共産主義者の決定する事である。’と記した時にまた公然とインターナショナルの集権化構造に挑戦した。
  アムステルダム事務局の議会主義と労働組合主義への反感と構成諸党の独立性の強調はコミンテルン指導者とオランダ左派との間の見方の
 主要な違いの最初の公然の兆候であった。
  ルトヘルスがアムステルダムに向かう時に、彼はレーニンからのパンネクークへのモスクワでの専従理論家とコミンテルンのアドバイサーの
 地位の申し出を携えた。パンネクークはレーニンの申し出をコミンテルンへの資金依存は独立的科学的理論家としての彼の役割を損なうという
 理由で断っている。
  オランダは、彼らの側として、初め、ボルシェヴィキと共産主義者インターナショナルの両方が議会主義戦術を拒否したのは当然であると見なした。
  この仮定は、実際、翻訳で利用できるレーニンのいくつかの著作−特に国家と革命とそこでのパンネクークへの賛歌で−とコミンテルンの初期の
 公式文書で証明されたように見えた。
  彼らは事務局が採用すべき特定の政策または彼らが政策を遂行するに適当な機構についての考えをほとんど持たなかった;彼らの主な活動は
 しばしば黙示的革命的宣言を書くことに要約された。
  まさに始めから事務局の戦略はパンネクーク派として戦前の社会民主の戦術と組織との決定的衝突という信念を前提とした。
  この目標追求のためため事務局の仕事の大部分はヨーロッパ中の左翼共産主義革命の特定のグループとの団結の大胆な試みに捧げられた。
  ローラント・ホルストの盛んな旅を通して、フランスの第3インターナショナル委員会、シルヴィア・パンクハーストとイギリス労働者社会主義者連合
 そしてスイスとベルギーの社会主義者党との密接な結びつきが強化された。
  パンネクークが依然として密接に接触しているドイツ左翼反対派との最も密接な関係は留保された。
  ドイツはベルリン書記局の領分に割り当てられたが、事務局はKPDの内部闘争に左翼反対派側について積極的に介入し、そのためベルリン書記局
 から長く敵意を受けた。
  事務局の攻撃的戦闘性と独立的外観はそれがそれ自身の支局、全米臨時事務局を組織しようとする試みで非常にはっきりと再び例証された。
  全米臨時事務局は米国にルトヘルスの協力者、ルイス・フライナによって北と南アメリカでの革命活動の調整のため創設された。
  支局はしかし米国共産主義運動内のの分派抗争で紛糾し文書上の存在でしかなかった。
  事務局がまた書記局の任務を再評価し、アムステルダム事務局の支部に指名する決議案を通すことでベルリン書記局を格下げしよう策動とした時に、
 もっと大胆な手段が取られた。大胆な一撃で、事務局はモスクワによって構想され組織された支部を従わせようとした。
  これら計画、考えと政策はモスクワにとって、アムステルダム事務局は自分自身を将来のヨーロッパ革命の主要な革命センターの装置として考えていると
 考えられた。
  事務局の独立した革命的外観は部分的には共産主義の特殊西ヨーロッパ的考えの反映であったが、それはまたアムステルダムとモスクワの間の
 通信の欠如に非常に促進された。ルトヘルスがストックホルムを通して定期的連絡手段を確立し、事務局の政策と活動はモスクワに良く知られるようになり、
 コミンテルン指導部は状況を非常に当惑して考えた。
  事務局が新しく結成されたKAPDの言い分を取り上げ始めたとき、限界がきた。 コミンテルン指導部の応答はすばやく明白であった。
  4月30日ラジオ・モスクワは事務局の解散とその機能のベルリン書記局移譲の簡潔な声明を行った。

 ・レーニンとの対立  1920−1921

  レーニンの共産主義における左翼小児病(左翼共産主義−幼稚な無秩序、1920年7月独、英、仏語発行)の出現まで、左翼共産主義
 はコミンテルンによって非難されていなかった。
  このとき以前は西側世界にとってレーニン主義の本質とその重要性は確固とは確立していなかった。
  パンネクークと他の人々には、レーニンの名前は世界革命、非妥協的階級闘争、戦闘的反議会主義と結び付けられ続けた。
  彼はコミンテルンの他の人々からの反対に期待したが、パンネクークは依然として左翼共産主義は世界革命の防衛者、レーニンと確固とした
 提携をするだろうと信じた。
  コミンテルンの戦術に影響を与えることを期待し、パンネクークは1920年3月インターナショナルに宛てられた世界革命と共産主義者戦術という題の
 主要な小冊子を起草し、これはほとんどすぐさま左翼共産主義の基本的テキストとなった。

  高度資本主義国に対応する革命概念の規定を試み、パンネクークは東と西の間の革命的実践の形態を区別した。
  ドイツ革命はなぜ社会主義革命の発展するのに失敗したかという重大な問題を取り上げ、パンネクークは訊ねた:国家が強力で労働者が支配
 しているように見えるときどのようにして労働者が勝利できないようにすることが可能か。
  この敗北はブルジョアジーがその支配を再確立することを可能にする別の力の源泉を依然として保有していることを示したと彼は感じた:
  この隠された力はブルジョアジーのプロレタリアートへの精神的力である。

  パンネクークは更に、西ヨーロッパでの低い水準の労働者階級の意識と遅い進度の革命の展開が各国の共産主義者運動に存在する相対立する
 2つの戦術潮流:急進主義と日和見主義を生じさせると主張した。

  パンネクークの意識の急進化の強調で、彼は社会民主の無定形な大衆党形成とロシア・ボルシェヴィズムのエリート前衛党の両方を大衆の革命化
 の任務に不適当であるとして拒絶することになる:’革命は小さな急進的党によってなされないように大きな大衆党または異なる党の連合によって
 なされない。それは大衆から自然発生的に起きる;党によって駆り立てられた行為はときどきそれを引き起こす(めったにしかおきない)、しかし
 決定的力はどこか大衆の無意識の深くの心理学的要因と世界政治の大きな出来事にある。’
  パンネクークは、コミンテルンによって擁護された党組織の前衛モデルがある点で革命発展の主要な障壁となるかもしれない可能性を提起した。
  統一労働階級の積極的理解と介入なしに党が権力を掌握した状況で、この掌握が起きるのを可能とさせる大衆は同じく反動の支持者となり得る。
  しかし、より基本的に、大衆自身による社会と生産の支配を可能としない革命は反革命で有害で他の形態によって置き換えられなければならない。

  西ヨーロッパに対する戦術的選択を略述するのに、左翼共産主義とサンディカリズムの違いを強調するのに非常に骨折った。
  基本的分離点は彼らの社会の構造と上部構造への異なる態度にあると彼は主張した。
  サンディカリズムの基本的目的は労働組合官僚制と古い国家機関の急進的部門に基づいた政府、これは本質的に資本主義国家を元のままにしておく。
  サンディカリストはまた社会の知的及び文化的領域をブルジョアジーに任せておいて満足する。
  資本主義支配の物質的そして精神的要素の解消とプロレタリアートの精神的見方の革命化に失敗し、サンディカリスト国家は後の資本主義者
 再結集の条件を作り出す。

  この議論で現れたように、彼のコミンテルンのロシア指導部との違いは深く、実質的イデオロギー的分裂を示していたが、にもかかわらず、
 パンネクークはロシア革命の世界転換的重要性を依然として深く信じ続けた。
  彼は、ロシア革命はロシア大衆の精神的そして物質的エネルギーに点火し、彼らが新しい社会を築き維持することを可能にしたと感じた。
  パンネクークはロシア革命がヨーロッパ革命への触媒と西洋資本主義へのより大きなアジア反乱の開幕となることを依然として固く信じた。
  この評価でパンネクークはロシア革命のプロレタリア的性格の軽視と民族解放運動としてのその重要性を強調するようになった。

  ロシア革命に続く年月に特徴的な熱い楽観主義の調子でパンネクークは世界的規模のプラレタリア革命の偉大な救世主的ヴィジョンを育んだ。

  ’ドイツ革命が決定的転回をとりロシア革命と結びついた時、革命的大衆闘争が英国とアメリカで勃発した時、反乱がインドで燃え上がった時、
 共産主義がその境界をラインとインド洋へ前進させた時、その時、世界革命は次の強力な局面に入るだろう・・・なぜなら、西ヨーロッパと海岸諸党は
 陸地の大ロシア−アジア複合体から突き出た半島にすぎない。
  資本に対する共通の闘争は全世界のプロレタリア大衆を統一するだろう。
  そして最終的に、困難な闘争の終わりに、ヨーロッパの労働者は深く消耗して自由の明るい朝日に立って、彼らは東のアジアの解放された人々を
 歓迎し、そして新しい人間の首都のモスクワで握手するだろう。’(世界革命と共産主義戦術

  パンネクークがこのような議論を進める一方で、レーニンはコミンテルンの第2回会議の準備のために、彼自身の左翼共産主義者批判の
 戦略的分析を進めていて、これは彼の有名な著作、共産主義における左翼小児病の形態をとった。
  レーニンは彼の出発点に西での革命の遅い進み方は国際共産主義運動にとって後退期を必要とするという仮定をとった。
  このような新しい条件では、共産主義者は大衆がいるところはどこでも−最も反動的組織でも働き行動することによって労働者に階級意識を
 注ぎ込むことを学ばなければならない。労働組合と議会へがレーニンの左翼小児病の治療法であった。
  労働組合と議会での活動の拒否はその反動的指導者の影響の元に労働者を置き去りにすることをだけを意味するだろうと彼は主張した。
  共産主義者は大衆組織で共産主義的活動を行なうために種々の口実を利用する義務がある。
  レーニンはまたブルジョアジーの間のあらゆる不和をうまく利用し、一時的提携を築くためにあらゆる機会を利用することの重要性を強調した。
  彼の論争を通して、レーニンは特に絶対的集権化と最も厳格な規律が勝利への基本的条件であると強調して、繰り返しボルシェヴィキの経験を
 革命の普遍的モデルへ一般化することを試みた。
  しばしば辛辣な言葉で、レーニンはオランダとドイツの左派を戦術的繊細さの欠如で激しく非難した。
  レーニンは特に頑固で特に愚かとしてパンネクークの理論的著作を選び出した。
  オランダの立場は非合法が不必要な国で生まれた不幸から生じたと記した後で、レーニンはトリブーネ派はサークル以上には決してなることが
 できず、大衆の党ではなく、知識人と知性主義の最悪の様相をまねる少数の労働者のグループであると結論した。

  パンネクークはレーニンの議論と非難に世界革命と共産主義者戦術の後続稿で短い後記で応答し、そこで彼は簡単明瞭に、レーニンの公式化の
 重要性はその独創性や内容でなく、それをしたのがレーニンであるという事実にあると書いた。
  真の任務は他の議論でレーニンの議論に反対することではなく、彼の政策が生じた歴史的環境を理解するこであるとパンネクークは感じた。
  レーニンの議会主義と労働組合の伝統的戦術の擁護は民族国家と第3インターナショナルの革命的役割としてのソ連の役割の間の矛盾に根ざすと
 彼は主張した。
  この矛盾の分析で、パンネクークはソ連の経済再建の差し迫った必要性を指摘し、それは資本主義世界との暫定協定を基礎にしてのみ実現されうる
 と彼は感じた。そのような順応で求められるのは急進的共産主義革命でなくソ連のために進んで介入する柔軟な西洋労働階級である。
  この状況の論理で、ソ連が政治的に必要とすることが西洋の共産主義者戦術を決定する鍵の要因とますますなるだろうということが語られ、そして
 コミンテルンはそれによってソ連が西ヨーロッパの政治に介入する手段となるだろうとパンネクークは感じた。
  パンネクークはまた潜在的にソ連が革命の反動的障害となるかもしれずそして多分−労働階級の意気喪失でー更に反革命の勝利のための力を解き放つ
 かもしれないと述べた。
  これらの言及でパンネクークはロシア革命とヨーロッパで期待されたものとの同一視を公然と問題にした最初の共産主義者として出現した。

  レーニンへの返答の主要な仕事はホルテルに任され、彼は有名なすべてのオランダ・マルクス主義者からの’同志レーニンへの公開状
 (1921年3〜6月、パンクハーストの労働者の恐れ者知らずWorkers' Dreadnought)で答えた。
  ホルテルはレーニンとの密接な関係を享受し、−戦中スイスで個人的に彼を知り−、決して彼と論争に巻き込まれるようになることはないだろうと
 思われた。
  パンネクーク同様、ホルテルも西と東の共産主義の間の違いの周辺に議論を築いた。
  しかし西での革命の遅い歩みをブルジョア・イデオロギーの支配に帰したパンネクークと異なり、ホルテルはプロレタリアの主な障害は資本主義の
 強大な物質的力であると主張した。
  労働者が農民と提携するロシアと異なり、西の労働者は提携者がなく一人で闘うことを余儀なくされている。
  このような見解をもとにホルテルは確固としたマルクス主義原則、党の集権化、鉄の規律(レーニンとコミンテルンが支持したのとは異なる型)の
 重要性を強調した。
  パンネクークとホルテルによって推進された本質的戦術目標はオランダとドイツに左派にとどめられなかった。
  1920年の春までに力強い左翼共産主義者の、急速に団結するレーニン主義共産主義者への挑戦がヨーロッパ中を覆った。
  それは1920年のコミンテルンへの最も手ごわい挑戦を示したが、左翼共産主義は決してまとまった構成ではなく、分派グループ、党、広く分散した
 立場を含む雑誌のより緩い連合であった。
  彼らは西ヨーロッパへのロシアのモデル化の拒否だけでなく、共通の反官僚制的衝動と非妥協的革命的活動の強調で結びついていた。
  アムステルダム事務局の解散後、左翼共産主義の国際的中心は別の最近設立されたウィーンのコミンテルン事務局とその雑誌共産主義に移った。
  ゲオルク・ルカーチの編集で共産主義は左翼共産主義者の緩いネットワークための主な討論の場となった。
  後に”歴史と階級意識”として編集されるルカーチの著作とともに、やパンネクーク、ホルテル、ローラント・ホルスト、シルヴィア・パンクハースト
 その他の大勢の投稿が発行された。
  パンネクーク同様に、ルカーチは大衆の自発性の理論家で、階級意識を歴史の推進力とプロレタリアートの自己解放の決定的要因と見た。
  もちろん、ルカーチのマルクス主義への接近は部分的にパンネクークの体系的学習で形成され、彼はそれを1918年にマルクス主義者
 になる直前に行った。

  左翼共産主義の他の大きな中心はイタリアから出現し、そこではアマデオ・ボルディガ率いる反議会主義共産主義者が大きな政治勢力を
 代表していた。
  ボルディガの反議会主義立場はパンネクークの理論的著作に強く影響された、これは彼の出版イル・ソヴィエトに定期的に出現したが、彼は
 サンディカリスト偏向として評議会組織を拒否し、訓練されたレーニン主義型党を支持した。
  (*パンネクークはイル・ソヴィエトにもかなり登載されていたようだが内容は確認できない。)
  更に左翼共産主義の別の主要な理論的中心が、英国のシルヴィア・パンクハーストの社会主義労働者連合SWFとその出版労働者の恐れ者知らず
 Workers' Dreadnoughtとして出現した。
  左翼共産主義者傾向はスイス(ヴァルター・ブリンゴルフ)とオーストリア共産党(クルト・ランダウ)にも見られ、両者とも断固、議会主義に
 反対していた。
  ロシア内でも労働者反対派アレクサンデル・シュリャプニコフら)が官僚制プロレタリア組織を強い批判を展開し、KAPDと密接な関係を維持した。
  1920年4月のKAPD結成で左翼共産主義者とコミンテルンは大きな対立の段階に進んだ。
  レーニン戦術への反対にもかかわらず、KAPDは第3インターナショナルの目標に依然深くかかわっていた。
  結成後まもなくKAPDはヤン・アペルやオットー・リューレらをモスクワに送り、レーニンとコミンテルンの他の指導者との話し合いを行った。
  長い議論のあと、リューレは会議の前夜、突然、KAPDは会議に参加しないし、第3インターナショナルに参加もしないと告げた。
  KAPDが第2回会議に欠席しても左翼共産主義者が提起した主要な争点が公表されるのは妨げられなかった。
  ボルディガとオランダ代表団による左翼共産主義者の活発な擁護にもかかわらず、会議で結局、議会主義、労働組合主義、集権党組織支持
 決議案は承認された。
  第2回会議の結果、第3インターナショナルとの将来の関係についてKAPD内では活発な議論が展開された。
  少数派の立場がオットー・リューレによって取られ、コミンテルンとのいかなる形態の協力も拒否した。
  KAPDの多数派の気持ちは疑いもなくホルテルが第3インターナショナル内で革命的反対派を組織する意図を発表した時、彼にによって表現された。
  依然としてレーニンにコミンテルン戦術の誤った本質を納得させることを希望して、ホルテルはKAPD指導者カール・シュレーダー、フリッツ・ラシュ
 とともにコミンテルン執行部との更なる議論のためにモスクワへ旅した。
  レーニンは個人的にホルテルと会ったが、彼の忠告に依然として無関心であった。
  この話し合いの結果は執行部による、彼らがKPDとの再統合に努力するという条件での顧問的地位でのシンパ党としてのKAPDの臨時加盟許可
 決定であった。
  KAPDはこの決着について真剣に留保したが、彼らは第3インターナショナル内で革命的反対派を構築するという期待でそれを受け入れた。
  KAPDは1921年5月に最初に革命的反対派の組織化の任務に取り組み、更にアペル、アレクサンダー・シュヴァブ、フリッツ・メイヤーからなる
 他の代表を来るコミンテルンの第3回会議の代表の間に支援を構築するためにモスクワに送った。
  多くの国々の左翼傾斜代表との会話が催されたが、KAPDは会議のためにまとまりのある反対派分派を組織することができなかった。
  このとき、執行部は統合か、追放直面の最終宣言をだし、KAPDはこれを直ちに拒否し、9月に公式にコミンテルンから追放された。
  1920年と1921年初期を通して、パンネクークとホルテルの両者は慎重にレーニンのいかなる個人的攻撃も控え、ロシアは新共産主義社会
 を開始したと固く信じたままであった。
  ソヴィエト権力の着実な侵食を両者とも気づかずまたは無視し、ロシア革命と第3インターナショナルに反対する人々と自分たちの区別に
 非常に苦労した。
  KAPD内では最初のロシア革命批判はオットー・リューレから来て、彼はが1920年6月ロシアから戻り、反革命党独裁が権力を握ったと
 主張し始めた。
  第2回と第3回コミンテルン会議の間に、ソ連と西ヨーロッパ両方の状況は劇的に変化した。
  1920年にはソヴィエト・ロシアの事実上外部世界から孤立し、その指導者は西における革命が差し迫っていると依然信じていた。
  1921年までに多くの国々との貿易、外交関係が確立し、もしロシア指導部がヨーロッパの革命が可能であると依然信じていても、
 彼らは最早差し迫っているとは考えなかった。ロシア内では変化した様相は新経済政策NEPとして知られる経済的後退の表現に見られた。

  これら変化で、パンネクークは1921年5月、ロシア革命の再評価に着手し始めた。
  パンネクークの分析は、初めはロシの共産主義は具体的経済関係ではなく、ボルシェヴィキの教育、保健、住宅の改善と大衆の文化
 水準の向上の追求という一般的政策に具体化した精神的現実であるという確信に刻印された。
  パンネクークは同時にロシアの混乱した経済状況では、クロンシュタット反乱として起きたような労働者と農民の間の新しい階級闘争の客観的
 基礎を提供するされるとも感じた。
  弱体化し意気喪失した労働階級も原子化した農民もそれ自身権力を遂行できないから、そのような闘争からのもっともありそうな結果は
 新しい官僚制の彼ら自身での権力行使であろう。
  西での革命的攻勢だけがロシア革命の再活性化にたいする精神的刺激をもたらすことができる。
  1921年7月までにパンネクークは2カ月前に可能性として示唆したことが今や現実になったと主張する用意が完全できた:ソヴィエト・ロシアは
 農民のための官僚制エリート支配に堕落した。
  革命以降ロシアで起きたことはプロレタリアートによる権力掌握でなく、資本主義支配者から、ある形態の労働者統制によって資本家が
 抑制されているだけの生産体制の、党独裁支配の政府への変化である。
  これら変化は部分的に西洋資本によるソ連への拡大する浸透にまで部分的にたどられ、これは西洋資本家をソヴィエト官僚制に影響を与える
 地位に置かせたとパンネクークは感じた。
  この全過程はソヴィエト外交政策の西への和解の方向への移動とこの政策のコミンテルン戦術への拡大で最も良く例示された。
  ソヴィエト指導部の見方からは、西での革命的攻勢はソヴィエト経済再建を危うくする破壊と経済的混乱もたらすだけであろう。

  パンネク−クのボルシェヴィキへの敵意はコミンテルンからのKAPDの追放の後、更にもっと断言されるようになった。
  1921年11月までに、彼は、ソヴィエト体制は抑圧的そして反革命的官僚制に変化し、プロレタリアートは新しい隷属状態に陥ったという
 劇的結論に達した:’工場で労働者は国家官吏と監督の指示のもとにわずかな賃金のために働く。彼らは彼らの労働を集団的決定するだろうか?
  否、彼らは政府の権威によって上から監督され指示される。
  パンネクークは、彼がロシアでの共産主義者の教義は増大する官僚制のブルジョア的機能を覆い隠すために採用された正当化イデオロギーに
 すぎないと考えていることを明確にさせた。
  この立場でパンネクークは完全な資本主義復帰の最初の歩みはすでに取られたと結論するに至った;ほかは不可避的必然性から続くだろう。
  彼は分析を拡大して第3インターナショナルは第2インターナショナルの政策と戦術に客観的に一致する点に到達したと主張した。
  彼らの装うイデオロギー的違いに関わらず、社会民主と共産主義の両方は労働階級を資本主義社会に統合する機構として同じ機能的役割を演じた。
  このような新しい現実に直面して、パンネクークは’我々が最近学んだものでいまほど学ぶ必要のあるものはない’とだけ結論できた。

 ・CPHの分裂 1916−1921

  パンネクークの伝統的党組織へのつのる失望はCPH内で初期に生じた党内論争で更に強くなった。
  CPHでは初期から党内論争が起こっていた。ドイツと異なりオランダでは政治的原則より個人の性格の問題が大きかった。
  1916年春、戦争めぐる問題で論争が起こった。ファン・ラフェスタインらは親協商国(反ドイツ)の立場を取っていた。
  更にウェインコープ、ファン・ラフェスタイン、セトンの3人組の党運営が問題にされた。
  論争ではホルテルが激しく批判したが、パンネクークは政治的関係の個人化の増加を嫌い、天文学への関与の増加のため、ホルテルと異なり
 直接的参加は避け、ローラント・ホルストも関りを避けた。パンネクーク、ホルテル、ローラント・ホルストの一般党員からの孤立で指導部の立場は
 強化された。
  1920年8月のコミンテルン第2回大会でウェインコープはKAPDを擁護し、インターナショナルのロシア支配強化を批判し、CPHは執行部から
 除かれる。コミンテルン第2回大会後3人組は党をコミンテルン政策に整列させ始めた。3人組は党をボルシェヴィキ路線に沿って集権化させようとした。
  1921年末、ホルテルがモスクワから戻り、新党結成の動きを宣伝し始めた。
  パンネクークはオランダでは戦争と資本主義社会の危機によっても古い考え方が変化していないので新しい型の労働者階級組織結成の
 機は熟していないと注意した。
  更に党内にとどまるのは党の分裂は戦術問題でなく3人組の党支配とモスクワの影響増加という技術的問題であるという点にあった。
  離党は左傾党員からの分離とCPHが戦術を将来の革命的発展にさせる可能性を妨げる。
  しかしルテラーンとホルテルはこの戦術を拒否、新党結成の準備を始めた。
  1921年9月、オランダ共産主義労働者党KAPNが結成される。しかしドイツのような社会的基盤と動力学を欠いていた。
  1921年末で党員は200より少なかった。パンネクークは参加しなったが、ホルテルは全面的に支援した。
  これらの出来事中独立して維持された新時代は左派の手中にあった。
  パンネクークのKAPD支持とつのるソ連への敵意的評価はCPH指導部にとって当惑の原因で、すでに緊張したコミンテルンとの関係を脅かした。
  このような状況で3人組は新時代を党の支配におこうとした。
  この時点でローラント・ホルストが離反した。彼女は転換し、パンネクークをロシアの反動的攻撃に参加していると批判し始めた。
  9月、ファン・ラフェスタインは新時代は党の直接支配下に置かれ、ローラント・ホルストは一人で編集すると宣言した。
  パンネクークは党を去り、新時代の編集部にはとどまった。パンネクークは独立性を失うより新時代の廃刊を選択し、12月20日発行停止。
  CPHはファン・ラフェスタインとローラント・ホルストを編集者に共産主義的案内De Communistisclie Gidsを創刊。

  ローラント・ホルストは1925年までCPHにとどまった、部分的には彼女のトロツキーとの長い友情のため。彼女は国際トロツキスト反対派の
 著名なメンバーとなり共産主義者闘争宣伝クラブ同盟の形成を助けた。
  1926−1927年の短期のCPH復帰のあとキリスト社会主義者となり1952年の死までそのままであった。
  3人組は若い活動家の新しいグループとの権力闘争に敗れ、CPHを去り、CPH中央委員会を結成(1926年)、これは一時、公式共産党より
 大きかった。
  ファン・ラフェスタインは1927年政治から撤退、両党は1930年6月再合同、これでセトンは政治から去った。ウェインコープだけが残り1938年に
 執行部復帰。

  新時代の廃刊でオランダ左翼は1/4世紀の理論的創造性と革新性を閉じた。
  パンネクークにとってはこれらの出来事は国際共産主義運動との最終的絶縁を刻印した。

  [逸話]
  パンネクークの思い出
   ローラント・ホルストがホテル・フランクフルト・ホフ(後に彼女は私に語った、そこは窓に素晴らしい花があるから)を推奨してくれたのを思い出す。
   しかし2日後、私はそこを去った。なぜならそこは非常に高価で非常に上品だから。
   そこで私は同志が推奨してくれた大衆のホテルに行ったがそこはあまりに粗末で質素すぎた。最後に商売旅行者向けの駅裏のホテルの一つ
  にいき、そこで私が探しているものをみつけた。

  ホルテルの逸話
   繊維産業都市のエンスヘデに宣伝訪問をするよう招待されて、ホルテルは、列車から降りて、彼に会いに来た労働者ファン・ヘット・レーフェ
  外で待たせて、コーヒーを飲むためによく知られた喫茶店に静かに向かった。
   1920年以降彼はCPHの指導者となった。(G.J.M.ファン・ヘット・レーフェ、わが赤き年、1982年)

 ・1915−1921年のパンネクークの著作活動

  独語

  1915年 行為としてのマルクス主義 光線
         社会主義とな何か 光線
         リベラルと帝国主義マルクス主義 光線
  1916年 帝国主義とプロレタリアートの任務 フォア・ボーテ
  1918年 獲物の分配(モスクワ) もとは1906年、ライプツィッヒ人民新聞
         新しい任務 労働者政治
         社会主義と社会主義的統治 労働者政治
         ボルシェヴィズムと民主制 労働者政治
         新しい世界 労働者政治
  1919年 闘争の結果 労働者政治
         国際共産主義 労働者政治
         ウィルソンのプログラム
  1920年 社会民主と共産主義
         新しいブランキズム
         世界革命と共産主義者戦術
  1921年 第3インターナショナルの西ヨーロッパ政治
         マルクス主義と観念論 プロレタリア

  光線(ユリアン・ボルハルト)  1913−1916年、1918−1921年
  労働者政治(ヨハン・クニーフ) 1917−1919年
  共産主義者インターナショナル 1919年 新世界
  共産主義者(KPD機関紙)  1918−1920年
  インターナショナルDie Internationale 1919年
  共産主義者労働者新聞(KAPD) 1920、1927、1929年
  先駆(ローラント・ホルストとパンネクーク、2号だけ) 1916年 序言
  共産主義(共産主義インターナショナル) 1920年
  行動(フランツ・プフェムフェルト) 1921年
  プロレタリア(KAPD)  1921−
    マルクス主義と観念論、ソヴィエト・ロシアと西ヨーロッパ共産主義、反動に抗して

  国際社会主義者評論(シカゴ)  1906−1916年
    戦中のドイツ共産主義
    第3インターナショナル 1917 (1916年、フォア・ボーテ)
  新評論(ニューヨーク)  1913−1916年
    第3インターナショナル 1916
  階級闘争
   戦争終了後 1917
  労働者の恐れ者もの知らず
   ドイツ革命−第1段階 1919
   アイルランド共産主義者政策 1922
  呼びかけCall
   世界危機 1920
   社会化 1920
  共産主義者インターナショナル
   新しい世界 1919
  共産主義者インターナショナル・アムステルダム臨時事務局
   ドイツ共産党における差異 1920年

 ・天文学と大学への復帰 1918年ー

  1918年、ウィレム・デ・シッテル(ド・ジター)がライデン天文台所長になると、組織改革を目指し、ヘルツスプラングとパンネ−クークを副所長に
 しようとしたが、ハンガリー革命の影響で、議会での過熱した討論のあとのルイ・デ・ベーレンブルック保守政権が彼がその地位をボルシェヴィキ
 扇動指揮に使用するという理由でライデン天文台副所長指名を阻止したことがあった。
  間もなく市立で国の支配をうけないのでパンネクークはアムステルダム大の数学と天文学の講師に任命された。(45才)
  1921年には大学は彼に天文学研究所を創設する資金を与えた。
  1925年には準教授となり、1932年に教授となった。(59才)

  1926年スマトラの日食観測の天文派遣隊に参加する許可を得るために共産主義宣伝活動に従事しないという宣言書に署名を要求された。
  1927年にはラップランッドで日食観測を行う。
  1929年、カナダのヴィクトリアのドミニオン天文観測所で6か月間観測を行う。
  1935年、ハーヴァードの夏季学校で天文学を講義する。翌年名誉教授号を受ける。
  1942年、定年1年前に何人かの反ドイツ派教授とドイツの占領により解雇される。
  戦後短期間教授に戻ったが、1946年、完全に退職。(73才)

 ・1920年代のドイツの評議会共産主義運動

  1920年以降のドイツの経済環境安定化による評議会運動の引き潮でKAPDの基礎の構造的弱さが複合化された。
  創建大会でヴォルフハイムとラウフェンブルクの民族ボルシェヴィキとの衝突で多くのイデオロギー的論争が起きた。
  これは1920年8月の第2回大会での彼らの追放で最終的解決となった。
  最も問題となったのは革命組織の問題で、オットー・リューレとフランツ・プフェムフェルトはいかなる形態でも集権化党構造に反対した。
  1921年10月、リューレらはAAUD-統一組織AAUD-E(AAUE)を結成。
  リューレが去ってもKAPDでの党内抗争はやまず、コミンテルンから追放されてすぐに新左翼共産主義者インターナショナルを結成すべきか
 どうかで議論が展開。
  新インターナショナルの支持者はホルテルで組織的にカール・シュレーダーによって支持されていた。
  党多数派はこのような動きに反対していたが、シュレーダーは1921年7月末KAPDが第4インターの基礎作業のための国際情報局を
 立ち上げる策動をした。
  ローザ・ルクセンブルクの蓄積理論に基づき、シュレーダー・グループは資本主義はみかけの安定にかかわらず死期に入っているという理論を
 とった。
  そして労働者階級は依然として改良主義者の影響下にあり、KAPDは労働者を獲得するため、強固な革命的原則を維持する必要があると主張。
  シュレーダーの独裁的やりかたに対し1922年3月ベルリン支部は彼を追放、これに対しシュレーダーと支持者は自分たちのKAPD、いわゆる
 エッセン・グループ結成、多数派はベルリン・グループと呼ばれる。
  しかしエッセン・グループにはホルテル、ベルンハルト・ライヘンバッハアルトゥール・ゴールドシュタインらの著名人がいた。
  エッセン・グループは共産主義労働者インターナショナルKAIを結成。
  KAIではオランダのKAPN、ブルガリア共産主義労働者党だけが唯一活発な加盟党であった。
  ホルテルと異なり、パンネクークはベルリン派支持ではあったが宗派主義に幻滅し、どちらにも味方しなかった。
  1923年には20000の支持者が1933年のヒットラーの政権掌握時には数百でしかなかった。
  最も著名であったKAPD-ベルリン・グループは多くの理論的指導者を奪われ、実りのない教条的反乱の訴えを発するだけの活動に
 封じ込められた。
  唯一の組織的成功は1927年KPDのカール・コルシュ率いる頑固左翼Entschiedene Linkeとの結びつきを展開したときであった。
  エッセン・グループの分解はもっと急速であった。
  1923年ライプツィッヒに拠点を置くグループが党は文学サークルによって支配されているとして評議会共産主義者同盟結成。
  すでに彼らの主張はAAUD-Eに近かったので多くの同盟メンバーは1924年AAUD-Eに参加。
  更なる危機は1925年エッセン・グループの主な指導者の、シュレーダー、ゴールドシュタイン、ライフェンバッハのSPD再参加によって到来。
  彼らは評議会運動の再興はありえないと主張。1927年にはホルテルが死亡し、エッセン・グループは最後の理論家を失い、1929年までに
 自分自身の新聞を発行できなくなった。
  1923年中、アナルコ・サンディカリストのFAUDとの合同問題一連ので離脱、追放が起きた。
  1925年オットー・リューレが政治的反動の趨勢は強固として去る。
  2年後AAUD-EはKPDから追放された左派グループ、輸送労働者産業組合と合流、左翼共産主義者組織スパルタクス同盟SLOを結成。
  しかし1931年までにSLOはAAUD-ベルリンとドイツ共産主義労働者連合KAUDを結成、メンバーは343名。
  (AAUの一部とAAU-Eのフランクフルト・ブレスラウアー・グループとKAPDが結成、活動は文書化されておらず、活動家ほとんどわからない、
  当時オランダ在住のヤン・アペルが結成参加、ヤン・アペルはGIK結成に関係していた。1933年のヒトラー政権掌握後消滅。
  1933年以降メンバーは赤い戦闘者共産主義レーテ連合に参加)

 ・オランダ評議会主義者(GIC)との協力

  ある意味ではパンネクークの政治経歴は1921年以降の非レーニン主義的革命的左翼の終末で終わった。
  公衆的出来事への確認できる影響を有するどんな社会運動にも再び参加することはできなかった。
  しかし1921−1927年の短い期間を除き革命的理論家として仕事から引退することはなく、休むことなく死ぬまで執筆した。
  彼の政治的視野は実質的に変わらなかったが、1920年以後の革命的潮流の引き潮でパンネクークは深い幻滅を体験し、そのため政治的活動を
 ほとんど個人的接触に限定した。
  1921年の新時代の廃刊で彼はこれで天文学に完全に注力できるので自分にとっては不都合ではないと感じた。
  パンネクークの政治活動関与からの撤退はほとんど50代の彼の天文学での常勤経歴にもたらす困難にも動機づけられていた。

  1927年にホルテルが死亡、ローラント・ホルストも宗教に入り込んでパンネクークの前から去り、彼は孤立に陥った。
  ホルテルもローラント・ホルストも、文学者にありがちな、もともと精神的危機に陥りやすい性格であった。
  パンネクークの場合、非常に精神的に安定し、私生活もプチブル的に堅実で、科学の仕事もそれを後押ししていた。
  ホルテルとローラント・ホルストの生活態度は非常にブルジョア的であった。

  パンネクークが天文学研究所に没頭している間にオランダ評議会共産主義として後に出現する基礎が徐々に敷かれた。
  思想を実践に移す能力は欠いていたが、評議会共産主義は戦間期にソヴィエト・レーニン主義へのイデオロギー的挑戦となった。

  左翼共産主義から評議会共産主義への移行は初期の段階では以前のKAPN指導者ヘンク・カンネ・メイエルによって推進された。
  メイエルはロシア革命の衝撃で1918年CPHに参加、直ちに反対派の支持者となった。
  1921年KAPNが結成されるとメイエルは執行委員に選ばれその新聞の編集者になった。
  1924年メイエルたちはルテラーンの指導と増大する宗派主義に反対し党を去った。メイエルは小さな非公式討論グループを組織。
  1925年以前のKAPD指導者ヤン・アペルがオランダに来て、このグループに参加。
  1927年このグループは公式的に国際共産主義者グループGICとなった。

  このような展開で、パンネクークは6年間の政治的沈黙を破り、”原則と戦術”(1927年、GIC出版資料)という文章で資本主義安定期で広がる
 条件での非レーニン主義的革命的左派の役割を規定しようと務めた。
  革命的発展への見込みの分析で左派の議会主義と労働組合戦術への反対の修正の努力と、死の危機理論から戦術を引き出そうとする試み
 の両方を攻撃した。
  日和見主義戦術と区別されるのはその短期的目標の強調と、その現在を越えるいかなるものも考慮できないところである。
  日和見主義は繁栄期に栄え、革命期には様相は完全に変化し、労働者ははっきりと革命的選択を言えるように転ずる。
  1819−1921年の教訓を保存する手段としてのKAPDとAAUDの重要性へ賛辞を払いながら、1918年に始まった資本主義の新段階への
 新鮮な理論的接近を展開できるまでこれらの組織が宗派主義の泥沼に落ちり続けるだろうとパンネクークは感じた。 

  *パンネクークは、彼の言葉で、党に属さないで、KAPDでの議論に個人的に対応するのと同様に、天文学の彼の仕事に専念するために
  労働者運動から撤退した。この考えはボルディガと同じで、彼は15年間革命運動から撤退した。しかし、パンネクークは活動家活動からの
  撤退を理論づけた:”私は、党形態と党に属するという考えは、大部分、労働者運動の古い社会主義者期の遺物で、それは一方で、
  ある観点で不可避であるが、全体的に有害であると考える。こういう理由で私は[KAPN]の外に留まる。”
  [KAPNの書記への手紙、1927年3月12日] 第11章

  GICの最初の展望は共産主義生産と分配の基本原理として出版された。これは1930年に公式出版された。
  基本原理はヤン・アペルが1923−1925年に投獄中に書かれた文書から発展している。
  アペルの基本的関心はロシアとドイツの革命経験から生じる2つの鍵となる疑問を解く理論的輪郭を提供することであった。
  すなわち、どんな経済条件が搾取廃止のために必要か、プロレタリアートの一度勝ち取った権力の維持はどんな政治・経済的条件で可能か。
  手稿はカンネ・メイエルによって修正されグループに提示され数年間議論され、修正された。
  基本原理は労働者の自己活動性と自己組織はそれ自身ではプロレタリアの解放をもたらさないことを前提としている。
  解放は生産における資本−労働の関係の廃止と労働過程の完全な脱商品化によって実現、維持される。
  ロシア革命が示すように私的所有を抑制するだけでは十分ではない。
  1929年までパンネクークと組織には公式な接触はなかったが、カンネ・メイエルがパンネクークを訪問して、基本原理の紹介を書いてくれるよう
 要請。パンネクークは基本原理は少しユートピア的で非現実的と断った。
  GICは長期的展望に立った理論活動中心であったために反対派はマルクス主義の修道院の修道士と評した。
  GICの仕事は講演会、文献配布、出版などの教育・宣伝活動に焦点が置かれた。

  オランダではGICは他の非レーニン主義左翼組織への彼らの考え普及に従事した。
  1932年までGIC以外に3つのそのような組織があった。
  KAPN、KAPNから分裂した評議会共産主義者グループ、NASからの派生した左翼労働者反対派。
  1932年11月、GICはこれら組織の統合を議論する協議会を組織したが共同綱領の合意にいたらなかった。
  ヒットラーの権力掌握までGICはまたドイツ左翼共産主義者運動の残余とも関係を維持していた。
  メイエルとアペルはドイツ左翼共産主義の出版に頻繁に貢献し、彼らの協議会に出席した。
  イングランド、フランス、デンマーク、ハンガリー、米国の左派グループとの関係も促進した。
  GICの主導で1935年6月コペンハーゲンでこれらグループの国際協議会が開催された。
  ここではオランダとドイツ代表で理論か実践かで議論が展開した。
  GICの国際的接触で最も重要だったのはアメリカのポール・マティック周辺のグループであった。
  KAPDメンバーであったマティックは1926年米国に移民。
  マティックは1934年レーニン主義傾向のプロレタリア党追放者と米国労働者党結成した。これは評議会共産主義者GCCグループと改名した。 
  GCCは直接的にGICをモデルとし理論及び宣伝グループと見なされた。
  その理論誌国際評議会通信(後に生きたマルクス主義と新しいエッセー)にはマティックの他にパンネクークとカール・コルシュからの
 定期的投稿があった。(コルシュは1936年から米国在住、他にダニエル・ゲランヴィクトル・セルジュ、オットー・リューレ)
  パンネクークが喜んでGICとGCCと協力したのは2つの組織がプロレタリアの自己教育のモデルを表しているという信念を前提としていた。
  しかし国際評議会通信が出てすぐにマティックの出版が知性主義だと批判。
  国際評議会通信から生きたマルクス主義に置き換えたときにも同様に批判した。
  この決定は出版の機能を労働者の自己教育から抽象理論へ移行させ、労働者によって知識人が彼らを精神的に支配する試みと思われる
 だろうとパンネクークは感じた。
  GICとGCCの両者の政治的発展にパンネクークは準公式的理論家、資金支援者として鍵となる役割を演じたが日々の運動の活動からは
 慎重に遠ざかっていた。
  パンネクークはこれを知識人に支配される運動は自己解放という基本的任務を否定すると正当化した。
  しかしこの外部の理論家という役割はしばしば両グループとの関係の緊張をもたらした。
  パンネクークは理論は濃縮した形態の体験を表し、社会主義運動内での理論的、実践的活動の寿命を基礎に人がそれを他者のより、より良く、
 明確であると見ても不思議ではないと応答。
  このような言い分でパンネクークは自分の著作は物質世界が労働者の精神を変える諸力の一部であると主張。

 **パンネクークのGIC周辺での行動に関してヘンク・カンネ・メイエルによる極めて面白く重要な証言がある。
   パンネクークはいつも心をこめて我々の側で、再び作業に参加した・・・・パンネクークは純粋な理論家で;彼は闘士ではないと我々は見た。
   彼は分析と結論をもたらした;彼は決してそれを徹底的に追求しようとしなかった。
   彼は決して組織の生活に参加しなかった。彼にはそのための時間がなかった。
   我々の一人が彼がそのような快適な立場に留まっていることを、我々の任務が彼に科学を持ち込んだ時に彼が科学者であることを非難した。
   彼は分析を行い、我々は彼について言い争いをした。彼は極めて温和な男で、決して横柄な態度を示さず、彼の判断について絶対的には
  確信していないかどうかについて見解を示さなかった。
   我々はしばしば言った:パンネクークは言う:’そうかもしれない、しかしそれは全く違うかもしれない’。実際、我々はこのようにして、全く前進
  しなかった、なぜなら何が起ころうとも我々は決定しなければならない、しかししばしばそれが正しいという確信が全くなくても。
   これが純粋理論家と闘士の全くの違いであった。(カンネ・メイエルからポール・マティックへの手紙、1930年頃) 
       →オランダとドイツの共産主義左翼(1900−68)、フィリップ・ブリネ

 ・20年代以降の理論活動 1921−

  パンネクークは1921年以降も主に偽名(ドイツ語ではK.Horner、英語ではJ.Harper)でいくつかの雑誌に政治的文章を投稿している。
    プロレタリア(KAPD) 1921年、1927年
     1927年 原則と戦術
    共産主義労働者新聞 1927年、1929年
    評議会通信(GIC) 1934−1936年
     1934年 資本主義の崩壊
     1936年 党と階級闘争
            共産主義と宗教
            国家資本主義と独裁
    Persmateriaal van de groep(en) van Internationale Communisten(PIC、GIC出版資料) 1927−1936年
     1930年頃 労働者、議会と共産主義
     1937年 共産主義と宗教

    国際評議会通信統一労働者党ポール・マティック、シカゴ)  1935−1936年
     1935年 知識人
     1936年 労働組合主義
            労働者評議会
            階級の力
            共産党について
            ファシズムの役割
            党と労働階級
            国家資本主義と独裁
    生きているマルクス主義(国際評議会通信の後継、ポール・マティック、シカゴ) 1938−1940年
     1938年 組織問題についての一般的論評
     1940年 なぜ過去の革命運動は失敗したのか
    ニュー・エッセー(生きているマルクス主義の後継、ポール・マティック、シカゴ) 1942年
     1942年 唯物論と唯物史観 (1919年改訂英訳版)


   1927年 さようならヘルマン・ホルテル
   1933年 個人的行為 (PIC) ファン・デル・ルッベの国会放火の批判
          闘争手段としての破壊 (PIC)
   1937年 マルクス主義哲学における社会と精神
   1938年 哲学者としてのレーニン
   1942年 唯物論と唯物史観

  KAPDの月刊誌’プロレタリア’第1巻(1920−1921)、第4号(2月−3月)は特集号で”オランダ・マルクス学派”という題で
    党、階級そして大衆;ヘルマン・ホルテル
    マルクス主義と観念論;アントン・パンネクーク
    フランス共産党における急進派の出現;ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト
   が掲載された。”オランダ・マルクス学派”という呼称と、そのなかにこの3人がでていることは注目に値する。

   パンネクークは1935年と1936年にハーバード大天文台を訪問している。
   1935年はハーロー・シャープレーが夏季学校に招待、1936年は300年記念の名誉博士号授与。
   フィリップ・ブリネはオランダとドイツの共産主義左翼で1935年の訪米でポール・マティックとの関係ができたと推定している。

   また1937年にはフランツ・ボルケナウがパンネクークを訪問している。
   更にベルギーのヘンリ・ド・マン周辺のグループから接触され、ベルギーを訪問したりしている。ヘンリ・ド・マンとも会っているが厳しい
  議論は避けている。
   当時のベルギー社会主義学生同盟の議長イェフ・レンスの招きで1932年12月、国際学習週間の講師となって’独裁と民主制’という題で
  講演、その他は
   ヘンリ(ヘンドリク)・ド・マン(民主主義と社会化)
   マックス・アドラー(政治的民主主義と社会民主主義)、
   ピート・ヴェルメイレン(ボルシェヴィキのプロレタリア民主制)
  など。

 ・戦後のパンネクーク

  戦後期の間の多くの人々と同様に、パンネクークはますます米国とソ連の間に出現しつつある緊張に注目した。
  パンネクークの戦後状況の分析は、東と西の両方での発展はますます全体主義的目標とともに集権化した国家資本主義政治体系への
 最終的収束に至るという彼の信念に軸が置かれていた:’どこでも政府は全体主義的性格を呈し、生産を主導しようとし、労働階級への統一
 権力を形成しようと党と労働組合と提携する。’(パンネクークからアンテ・チリガ1946年12月25日
  同時に、パンネクークはソ連への彼の姿勢を顕著に硬化させた。まず、彼は西の労働者にとってソ連流国家資本主義は危険な後戻りとなる
 だろう、なぜなら独立的労働階級活動の可能性がより厳しく制限されるからと主張しようとした。
  そのような見方でパンネクークはますます彼の希望を−少なくとも私的には−将来のパックス・アメリカーナに託すようになった:’私はますます
 評議会という手段を通して起こるだろう新しい革命闘争はアメリカ資本主義が世界規模でその支配権を確立したあとで来るだろうし、だけで来る
 ことができるという事実を意識する。’(パンネクークからカンネ・メイエル、1946年9月23日))
  パンネクークの過激な悲観主義的雰囲気は、2つの国家資本主義権力ブロックの間での敵対で第3次世界大戦はほとんど不可避であるという
 彼の信念に最も明確に明らかであった。
  このような状況で、彼は労働階級は−恐怖と資本主義秩序への取り除けない拘束で無力化され−行動するのに完全に無力となるだろうと感じた:
  ’我々は労働階級はその現在の弱さで革命的対抗行動でそれを挫折させることで第3次世界戦争を阻止できるだろうということを期待できない;
  しかし荒廃の後その自由な世界建築の選択の前に立つか、あるいは統一した世界資本主義のもと深い隷従に陥るだろう。’
  (パンネクークからF.A.リドレー、1947年4月7日)

  パンネクークは最後の彼の履歴での主要な知的企画、人類史の全過程を通しての精神的考えの発展と役割の研究彼の未完成の’文明の将来’
 に乗り出した。4年の熱心な知的活動と約800ページの草稿にもかかわらず、パンネクークは彼が当初予想したもののわずか断片をなんとか完成
 させただけであった。1954年末に、彼の著作への関心の欠如に落胆し、パンネクークは企画を完全に放棄し、カンネ・メイエルに書いた:
  ’このようなものを読もうとする人はおらず、出版されることさえ全くありそうにない。我々が過去数年に書いたすべてのものは未だ完全に未販売で
 読まれていない。’(パンネクークからカンネ・メイエル、1954年12月、12日)

  ホランドでは以前のGICは今は部分的にスパルタクス・共産主義者同盟として再結集したが1946年末、KAPDのような党を結成するか、
 工場組織の国際的連合federationを組織するかの問題で危機が生じた。
  1946年中期に議論は解決できないことが明らかになった時、メイエル、アペルと連合の他の支持者らは組織を去り、自分たちの雑誌”炎
 De Vlam”を創刊した。
  しかし戦前のGICと対照的にどのグループも理論文献の重要な部分をだすことはできなかった。
  一方、工場組織の国際的連合の考えを支持し、パンネクークは両グループの宗派主義に反対し、自分の姿勢を’個人的反対でない客観的批判’
 と定義した。
  ドイツでは評議会共産主義の復活にとって状況はもっと悪く、以前のKAPD活動家アルフレド・ヴァイラント周辺の小サークルが活動しているだけ
 であった。米国ではポール・マティックはGCCまたは彼の出版ニュー・エッセーの復活の努力を全くせずに、経済理論活動に専念し始めた。
  マティックは疑いもなく戦後評議会共産主義の孤立化に囚われ、書いた:’現在、ニューヨークでは私がなにか協力できるひとりの人もいない。’

  戦前の評議会共産主義者運動は崩壊したが、パンネクークは独立左翼知識人とグループのネットワークを通して彼の思想を広め続けた。
  彼のもっとも頻繁な接触はドイツで、そこでは定期的に独立左翼出版、人民と時代Volk und Zeit(バイゼル・ヴィルヘルム編集)、火花Funken、
 新開始Neues Beginnenに書いた。
  イギリスでは依然として独立労働党指導者F.A.リドレー英国社会党のグループと雑誌左翼Leftと密接に接触した。
  フランスでは社会主義か野蛮かグループとサンディカリストのプロレタリア革命(1947年、ロベール・リュゾンらが再刊)と結びつきが維持された。
  米国ではドワイト・マクドナルドとその雑誌政治と、彼がマクドナルドの祝賀文批判を書くまで良い関係であった。
  パンネクークが唯一独立左翼グループから評議会共産主義に転換できたのはオーストラリアのジェイムズ・ドーソン周辺のグループ。
 1946年末パンネクークと通交し、評議会共産主義に移行し、彼の雑誌を労働者評議会南方支持者Southern Advocate for Workers' Councils
 と改名。この雑誌はパンネクークのほかに、マティック、コルシュからの寄稿があった。

  1941年のドイツ占領当局によるアムステルダム大解職に伴い、パンネクークは直ちに労働者評議会の理論化の専念を始め、1942年に完成し、
 1944年、1947年と大幅追加。パンネクークは別々のオランダ語、ドイツ語そして英語版を準備し、オランダ語版だけが1946年に出版、ドイツ語では
 出版できず、英語版も、結局、大部分の資金を個人的に提供せざるを得なかった。

  パンネクークの数少ない評議会共産主義の理論の深化と発展の機会のひとつが、1953−1954年のフランスの社会主義か野蛮か
 グループとの論争の間に到来した。

  またパンネクークはアナーキストを評価するようになり、文章をアナーキストの評論の”反論Retort”(1948年、ニューヨーク)、サンディカリストの
 出版産業労働者(1948年、IWW)とフランスのプロレタリア革命ロベール・ルゾン)に寄稿した。

  革命は最早いますぐの歴史的日程にはなく、パンネクークは彼の最後の年月の間、彼の仕事を主に未来の世代への評議会共産主義の遺産で
 最も重要なことの一つを維持することと見た。

  ’私がより若い世代の案内として本当に有益であり得るかむしろ疑問である。世界はあまりに早く発展し、彼らは全く違う環境と体験から、
  初期に我々が獲得したと全く違う教義を獲得するだろう。多くの困難な闘争を通して我々が我々の教義を獲得したように彼らもまた同じことを
  しなければならないだろう、そして我々ができる最大のことは、彼らが彼ら自身の判断を形成できるようにすべてのことに多様な可能性を
  見ることを助けることである。彼ら自身の頭脳を使用することを彼らの教えることが伝えることができる最良の教義である。それがまた現在の
 労働者運動にうまく適用できる教義である。’ (パンネクークからシヘスへ、1953年1月21日)

  1942年、定年1年前に何人かの反ドイツ派教授とドイツの占領により解雇、戦後短期間教授に戻ったが、1946年、完全に退職。
  1954年、娘のいるヴァーヘニンゲンに移る。
  1960年4月28日ヘルダーラント州ヴァーヘニンゲンで死亡。(87才)

  戦後の著作

  火花(フリッツ・ラム
   労働者レーテについて 1952年
   社会主義での労働 1954年
   労働と大衆 1955年
  労働者評議会の南方支持者
   資本主義に対する労働階級の闘争のテーゼ 1947年
   社会主義理論の危機 1947年
  政治(ニューヨーク、ドワイト・マクドナルド)
   労働者階級の失敗 1946年
  西洋社会主義者(ボストン)
   公有と共有 1947年
   ストライキ 1948年
  左翼(ロンドン、)
   社会主義理論の危機 1947年
   議会主義についてのいくつかの論評 1949年
   人民の民主制 1950年
   平等についての論評 1950年
  産業労働者(シカゴ)
   マルクス主義について 1948年
  反撃(ニューヨーク)
   科学者の反乱 1948年

  プロレタリア革命
   ホルテルの政治 1952年

  社会主義か野蛮か
   アントン・パンネクークの手紙   *参考 パンネクークからカストリアディスへの手紙(和訳)

  パンネクークの主な著作(英文)

  1944年 人類発生論:人間の起源についての研究
  1946年 労働者階級の失敗 (政治)
  1947年 労働者評議会 P. Aartsz
  1947年 社会主義理論の危機”オランダの国際共産主義者グループ” (左翼)
  1947年 信仰
  1947年 公有と共有 (西洋社会主義者)
  1947年 労働者階級の反資本主義闘争に関するテーゼ (労働者評議会の南方支持者)
  1948年 ストライキ (西洋社会主義者)
  1948年 科学者の反乱 (反撃)
  1948年 マルクス主義とは何か (産業労働者)
  1949年 議会主義に関する論評 (左翼)
  1950年 平等に関する論評 (左翼)
  1950年 人民民主制 (左翼)
  1952年 労働者評議会に関する手紙
  1952年 ホルテルの政治学 (プロレタリア革命)
  1953年 社会主義か野蛮かへの手紙


  年代比較
ラブリオーラ メーリンク カウツキー プレハーノフ
1843−1904 1846−1919 1854−1938 1856−1918
レーニン ローザ・ルクセンブルク アントン・パンネクーク 堺利彦
1870−1924 1871−1919 1873−1960 1871−1933
ヒルファーディング トロツキー オットー・バウアー 山川均 河上肇
1877−1941 1879−1940 1881−1938 1880−1958 1879−1946
コルシュ ルカーチ アマデオ・ボルディガ アントニオ・グラムシ ブハーリン
1886−1961 1885−1971 1889−1970 1891−1937 1888−1938



inserted by FC2 system