<<アントン(アントニー)・パンネクークの人と思想>>   その1

  オランダ人の”評議会共産主義者”でかつ天文学者であったアントニー(通称:アントン)・パンネクーク(パネクーク)の
 生涯と思想の紹介です。

  ジョン・ガーバーJohn Gerber氏の’アントン・パンネクークと労働者自己解放の社会主義、1873−1960’ に主として
 依拠している。
  パンネクークの人間と思想と時代背景が理解できる。

  なお参考のためウィキペディア等から補足を付け加え、引用のP-Hはパンネクークの’思い出’からのものである。
  G;はGerber氏の注記、S;はこのHP作成者のものである。
  不十分な点が多々あるが暫定公開。
  なお、関係者の小伝も紹介しているので参照してほしい。
  フィリップ・ブリネのオランダとドイツの共産主義左翼(1900−68)も部分的であるが紹介しているの参考になると思う。

  生涯・事績の概要は→アントン・パンネクーク小伝

  *部分は抄訳である。

 <目次>

  前書き

  第1章 社会主主義者誕生:パンネクークのマルクス主義の環境
   歴史的文脈:オランダにおける社会と社会民主
   理想との闘い:パンネクークのマルクス主義への転換 *
   一般活動家:パンネクークとライデンのSDAP *

  第2章 精神と現実:パンネクークの方法論 *
   パンネクークとディーツゲン:弁証法の識別 
   理論と社会発展:科学の階級基礎 
   新しい種類の社会的知識:パンネクークの史的唯物論の概念

  第3章 形成中のオランダ左翼マルクス主義:新時代左翼、1899−1906
   ロマン主義からマルクス主義へ:新時代グループの起源
   まず生活、次に理論:労働組合、農業と学校論争 *
   分裂の深化:1903年のオランダ大衆ストライキの波とその余波 *

  第4章 社会主義的洞察の大衆への橋渡し、1906−1909 *
   ベルリンの年々:SPDに対する理論的、宣伝的仕事
   攻勢中の妥協しないマルクス主義:トリブーネ派左翼

  第5章 意識と労働者の自己解放:1910年に先立つパンネクークの政治的思考
   意識と社会経済的現実:パンネクークのイデオロギー的ヘゲモニーの理論
   組織とイデオロギー的発展:パンネクークの革命的実践の概念
   道徳意識と社会転換:パンネクークのプロレタリア倫理学の概念

  第6章 実践での闘うマルクス主義、1910−1914
   マルクス主義中央との衝突:カウツキーに反対するパンネクーク
   機構に反対する活動家:ブレーメン左翼 *
   宗派それとも党?オランダSDP *

  第7章 大衆行動と革命:パンネクークの政治的思想、1910−1914
   革命と階級転換:パンネクークの大衆行動理論
   経済と社会発展:パンネクークの帝国主義論
   階級闘争と民族:パンネクークと民族問題

  第8章 戦争と革命、1914−1919
   戦争に反対する戦争:パンネクークとツィンメルヴァルト左派
   宗派から党へ:SDPと新国際主義 *
   流れに抗する活動家:ブレーメン左派とドイツ共産主義の形成 *
   労働する大衆の新しい社会主義:パンネクークの政治思考、1914−1919

  第9章 左翼共産主義選択 1920−1926
   攻勢の西欧マルクス主義:アムステルダム事務局
   新しい型の労働者階級組織:KAPDとAAUD *
   レーニンに反対するパンネクーク:左翼共産主義とコミンテルン
   デフェンテルとモスクワの間:CPHとコミンテルン *
   運動から宗派へ:斜陽の左翼共産主義 *

  第10章 形成中の新しい労働者運動:国際評議会共産主義、1927−1945 *
   左翼共産主義から評議会共産主義へ:GICとGCCの起源
   永久的危機:戦間期の評議会共産主義の理論的発展

  第11章 労働者評議会の世界:パンネクークと労働者評議会の理論
   自由への労働者の道:反乱と評議会組織
   組織と生産:評議会国家
   イデオロギーと社会現実:パンネクークのレーニンの哲学的批判

  第12章 革命と現実:戦後期の評議会思想
   希望ははるかに遠い:パンネクークと独立左翼のジレンマ
   マルクス再思考:パンネクークと革命理論と実践の再建
   果たされない約束:歴史的観点でのパンネクーク

  パンネクークのカストリアディスへの手紙



  前書

  アントン・パンネクーク(1873−1960)は最近まで社会主義思想の歴史で非常に無視され、そして知られていない
 人物である。
  パンネクークの部分的失墜は1920年代に始まり、後のほとんどの全失墜は、彼がマルクス主義思想で純粋に
 短命で無視できる傾向であるとみなされることを意味しない。
  反対に彼の仕事は革命的実践の理論としてそれまでマルクス主義で展開でなされてなかった最も完全で、一貫した、
 そして知的な試みの一つと見られ、そして彼が受けた無視は不運な歴史的出来事の共存の結果で、理由のある知的判断の
 結果ではないと考えられるべきである。
  パンネクークの長い人生と政治経歴は社会主義史の数期に広がった。
  彼の政治的成熟は社会民主の興隆と一致する;彼はその政治人生の最後の数年に、新左翼の最初の騒動を目撃した。
  彼の著作は両方の運動に影響を与えた。
  関係した年月の間、彼はオランダとドイツ社会主義運動の両方で活動した国際的人物であった。
  1914年に先立ち、ノイエ・ツァイトでカウツキーとの協力、SPD党学校での教授、そしてローザ・ルクセンブルクと共に
 ドイツ社会民主左派の指導者の一人としての出現。
  パンネクークはヨーロッパで社会民主運動の基本的弱点を理解し、その徐々の崩壊を予想した最初の一人であった。
  第1次大戦勃発に続き、彼は新しいインタナショナル形成を呼びかけた最初の人物で、後にツィンメルヴァルト反戦運動の
 主要人物となる。
  パンネクークはヨーロッパ共産主義の始めの形成で軸となる役割を演じ、コミンテルンの西ヨーロッパ事務局の指導者であったが、
 パンネクークは権威主義的共産主義と絶縁した最初の人物のなかにあった。
  1920年のドイツ左翼共産主義者KAPDの卓越した理論家として、パンネクークは代替的共産主義の西ヨーロッパ概念と
 レーニン主義あるいは正統派の力強い批判を主張し、それで’共産主義における左翼小児病’でレーニンの非難を受けた。
  1927年から彼の死の1960年まで、彼は準サンディカリズムの評議会共産主義運動の知的指導者として活動的であった。

  理論的水準では、パンネクークは、凡そ1900年から1930年に広がるヨーロッパ・マルクス主義発展の明確な時期内に位置した。
  彼はマルクス主義知識人の非常に有能な世代に属し、彼らの関心は政治的そして知的に弱体化した正統派の分解と新しい
 革命選択肢の探求で規定された。
  彼の大胆で一掃するような第2と第3インターナショナルの両方のマルクス主義の批判で、パンネクークはマルクス主義で
 鼓舞された政治運動の権威主義的傾向を−多分彼の世代のどんなマルクス主義者より明快に−把握し、革命的転換の新しい
 反官僚主義的モデルの発展に努めた。

  その時のマルクス主義内で、事実上無比な問題を課した彼の広範囲な理論的反省で、西洋マルクス主義伝統の他の思想家に
 よってなされた多くのもっとも本質的寄与を著しく先取りした。
  ルカーチ同様、彼は思想と意識の歴史的発展への中心性を明確に述べ、階級意識と階級組織の有機的結合を強調した。
  グラムシ同様、彼は実践哲学としてのマルクス主義の発展に努め、独立したプロレタリア・ヘゲモニーの展開によるブルジョア思想の
 支配との闘争の重要性を強調した。
  コルシュ同様、マルクス主義と形而上学との関係をはぎとることを、批判的方法としてのその重要性の強調を、必要ならマルクス主義
 運動それ自身の歴史的分析へのマルクス主義の歴史概念の使用を試みた。

  パンネクークの科学的業績も同様に大きい。
  現代天文物理の発展の開拓者として、パンネクークは15歳で銀河に魅せられた素人天文家として勉強を始めた。
  1891年、ライデン大学入学、1895年、天文学の勉強を終了し、測地監視所で測地学者となり、1898年、ライデン観測所(天文台)の
 観測員となった。
  (S;1897年、論文”琴座β星の光変動の研究”発表。)
  1902年、博士号を授与される。(アルゴル星の光変動の研究)
  間もなく星の分布と銀河系の構造の詳しい研究を始め、それは50年以上に渡った。
  彼の多くの発見には後にアソシエーションと呼ばれた初期星のグループがある。
  1906年、ドイツに行くため観測所を去り、彼はバビロニア天文学の長い勉強を始め、この件でいくつかの論文を発表した。
  第1次大戦勃発でホランドに戻り、天文学で空席がなく、高校等で教えることを余儀なくされた。
  1919年、ついにアムステルダム大に招かれ、1921年、現在は彼の名を冠する天文学研究所設立。
  ここでパンネクークは天文学で画期的仕事を始めた。
  この時期の間、彼は恒星大気のイオン化と線強度の研究を始めた最初の一人であった。
  彼はまた暗黒星雲の距離決定方法を発展させ、日食での太陽大気の研究のため近代的測光方法を採用した。
  彼の他の研究分野に加え、パンネクークはまた天文学の歴史に長期の関心をもち、これは彼の影響力のある仕事、天文学と
 社会の発展の相互作用を強調した、優れた、独創的研究’天文学の歴史’で頂点に達した。
  彼の多くの受賞の中で、王立天文協会の金メダルは彼の職業で最も名誉であった。
  1936年、300年記念でハーバード大が名誉博士号を授けるために72名の世界の最も顕著な科学者と学者を選んだ時に、
 パンネクークは天文学で受賞した4人のうちの一人であった。

  彼の幅広い思考の輪郭にもかかわらず、彼の人生の後半の数十年の社会理論化はしばしば時代と会わない、社会主義運動の
 初期の段階からの夢想的そしてユートピア的遺物のように見えた。
  レーニンの左翼小児病での判断に従うと、共産主義者と社会民主は同様に、彼を極端な急進主義と頑固な姿勢と考え非難した。
  最近まで多くの学問的な取り扱いが同様のパターンで続き、それは鍵となる文書への近づきがたいことによりしばしば強化された。
  肯定的に評価された時でも、パンネクークはしばしば脚注にしか値しなかった。
  しかし、学生と労働者の1960年代の対立の蘇生で、民主的参加と労働者自主管理の問題と反権威主義マルクス主義の探求への
 関心の更新が起き、パンネクークと彼の主な関心の再発見をもたらした。
  結果は、少なくとも8か国語での彼の著作の選集、復刻と翻訳の洪水と彼の仕事のいくつかの説明であった。
  一方、パンネクークに対する初期の見解への必要とされる訂正、この仕事の多くはその無批判的そして仲間的性格によって
 損なわれた。
  更に他のものは他の段階から孤立した彼の経歴の特殊な段階を掘り下げた。
  この新た生じた関心にも関わらず、理解されそして仲間意識から免れた、公開されたパンネクークの扱いは現れなかった。
  ある意味で、現在の研究の目標の一つはパンネクークの社会主義的そして民主的思考への寄与の理解的そして批判的解説で
 この隙間を埋めることである。
  しかし、同時にこの仕事はもっと多くを喚起する。
  わたしがまた、行なうと努めていることはパンネクークの理論的発展が起きた歴史的環境を再建することである。
  完全にパンネクークのマルクス主義を理解するためには、彼が関わった社会運動、彼がその考えに至った彼の関心、体験そして
 学習過程とこれらの考えを、試し、実行しようとした手段を形成した、知的そして政治的伝統を批判的に調査する必要がある。
  そのように研究して、パンネクークの政治経歴で、20世紀の前半の間の西ヨーロッパの革命的マルクス主義の可能性と限界を
 探求する特別な視野が得られる。
  特に、パンネクークの活動を考えると、理論が社会運動と大衆闘争に交差したとき、理論の役割についての複雑な問題が持ち上がる。
  したがって、この研究の基礎をなす目標の一つはパンネクークの理論的考えが社会現実に立脚している程度を、これらの考えが
 現実形成で演じる役割の程度を、彼が変えようと努力した現実によってそれらが究極的に制限された程度を調べることである。
  革命的と民主的の両方のマルクス主義を発展させるパンネクークの長い努力とこの作業で彼が出会った困難さを見ることで、
 なぜ革命的マルクス主義が1920年以降そのような形態をとったか、我々はもっとよく理解することができるかもしれない。


第1章 社会主主義者誕生 パンネクークのマルクス主義の環境

 ・歴史的文脈:オランダにおける社会と社会民主

  アントン・パンネクークが政治的に成熟するようになった環境は、初期の政治的関心と彼の考えの特徴の両方の形成に深く
 影響を与えた。
  この環境はあらゆる重要な次元の独立、大衆的基盤、階級意識、労働者階級運動の相対的不在で規定される。
  オランダ社会民主が足がかりを得るために闘った、オランダの社会経済発展、文脈のいくつかの特徴は他の西ヨーロッパと
 非常に異なる。
  オランダ経済それ自身の構造がネーデルランドで労働者階級の政治文化を形成した最も顕著な要因の一つであった。
  少なくとも20世紀の初めの10年まで、労働集約的農業が依然として経済の主要部門であった。
  石炭と鉱物資源が無く、ネーデルランドは重工業化の最初の段階の要素を欠いていた。
  他の西ヨーロッパと比べ産業化は比較的遅く到来し、19世紀の最後の数10年にインドネシアでの私的搾取の開始の効果と
 ドイツ経済成長の波及によって気運が起こった。
  後戻りできなくなってさえも、産業化と近代化の過程はゆっくりでしかなく、イギリス、ベルギー、ドイツからはるかに遅れた。
  17世紀の最後の1/4から始まった長い文化的、経済的斜陽に根差す強い伝統主義と無気力の精神に特徴づけられ、国での
 工場生産方法と技術的そして組織的革新の受容はゆっくりでしかなかった。
  20世紀になってしばらく、オランダ経済の非農業部門は依然として初期の商業と船舶の遺産に支配されていた。
  都市内では労働集約熟練職業と小規模小売り部門が支配的であった。
  これら労働者で非個人的賃金構造に従事する圧倒的多数は輸送部門に雇用されていた−主に鉄道、港湾労働者として。
  鉱物資源を欠き、ネーデルランドは西ヨーロッパではどこでも見られた鉱業、鉄と鉄鋼の複合体をおこすことができなかった。
  小さな生産単位からなる小さな工場組織が存在し、国中に広く分布した。
  トウェンテ地区の繊維工場複合体だけがこのパターンの例外であった。
  その結果、他の西ヨーロッパで共通な社会主義組織の基盤を形成する大きな社会的にむすびついた労働階級の集中は
 発展が遅かった。
  これら構造的特徴の影響はオランダ労働勢力の消極的そして活気を失った性格で更に強化された。
  産業化到来に先行する1世紀以上、経済の低発展性質と生存水準の貧弱な法体系が結びついて、多量の半貧困階級を
 生み出した。
  長く貧困とそしてパターナリズムの受動的恩恵に慣れ、オランダ労働者階級は、前産業的道の生活の崩壊も、革命的抵抗を
 鼓舞するのに役立つはずであった物質的環境の違いも体験しなかったので、彼らの悲惨さを現れつつある産業資本主義のせいに
 することに気が進まなかった、
  同じく階級意識的労働勢力の出現の大きな障害となったのはオランダ社会でのカトリックとカルヴァン派への歴史的分裂であった。
  単純な宗教分裂よりはるかに、この亀裂はオランダ社会のすべての階層に広がった長い歴史的裂けめとともに、分離した異なる
 亜文化に表現された。
  教会と政治組織の強固なネットワークに労働者を統合するその宗教的・文化的一体性は少なくともその社会的自己認識を決定する
 因子として社会階級と同様に重要であった。
  それで世紀の転機で競合する並行的労働組合運動がカトリックとカルヴァン派亜文化の両方で発展したのは驚くことではなかった。
  階級的一体化の明確な線を欠き、オランダ労働階級は彼らの階級利害を促進する独立組織を発展させるのが遅かった。
  労働組合運動は1860年代にまず現れたが、それらはしばしば弱く、不安定な組織で、オランダ労働階級の発展にほとんどインパクトを
 持たなかった。実際的国民労働連合は世紀の折り返し後まで発展しなかった。
  このような環境で社会主義はネーデルランドではゆっくりとそして苦労してしか定着しなかった。
  1869年に短期間、小さく無力な第1インターナショナルのオランダ支部が存在したが、1881年、3つの地域社会主義者クラブが
 参加して社会民主同盟(SDB)が結成されるまで全国的社会主義者組織は形成されなかった。
  その初めからSDBはカリスマ的で精力あふれた人物のドメラ・ニューウェンホイス(1846−1919)が支配。
  元ルーテル派牧師ドメラ・ニューウェンホイスは1870年代、フリースラント州−ネーデルランドで最も遅れ低開発だった州−で
 説教しながら貧者への共感を成長させた。
  1879年、教会を去り、社会主義新聞”すべてための権利”Recht voor Allenを創刊。
  ニューウェンホイスはマルクス(1818−1883)とエンゲルス(1820−1895)の両者と通信し、資本論の縮約版を訳したが、
 決してマルクス主義者ではなかった。
  始めは、彼は倫理的、ユートピア的そして終末論的性格の考えが結合した折衷的著作と演説の人道的社会改良家でしか
 なかった。
  SDBは、初期は普通選挙権運動のため戦闘的宣伝運動を行うことに専ら努力していた。
、 しかし、この戦術は権力の恐怖を引き起こしただけで、これは1886年のニューウェンホイスの逮捕と投獄で頂点に達した。
  選挙改革を達成するための努力に敗北し、政府による抑圧で弱体化し、SDBは議会戦術への関与を段々問題視し始めた。
  この雰囲気は、1888年、フリースランドから議会に選出されるが、ニューウェンホイス自身の議会での辛く孤立した経験で
 強化された。
  ブルジョア対抗者によって締め出され、ニューウェンホイスはアナーキズムに段々と接近し始めた。
  1891年の彼の敗北で議会主義を再考し、革命的行動だけが労働階級を解放できると宣言した。
  (WIKI:自身は立候補せずかわりに急進同盟ウィレム・トレーブが立候補)
  ニューウェンホイスは議会戦術への関与を再考したが、このなかでドイツ・モデルに基づいたマルクス主義党に好意をいだく
 新しい傾向がSDB内で出現し始めた。2人がこの運動形成に主要な役割を果たした:フランク・ファン・デル・フース(1859−1939)
 とピーテル・イェレス・トルールストラ(1860−1930)。
  貴族的気質の有能な文学的知識人、フランク・ファン・デル・フースはほとんど美学的感覚の社会理想主義によって動機づけられた。
  1880年代中のほとんどを、彼は社会改良家とリベラル党の有名なメンバーとして活動したが、1880年代末までに社会主義だけが
 オランダを再活力化できると確信するようになった。
  1890年、SDBに参加し系統的にドイツ・マルクス主義を学習し、ネーデルランドのマルクス主義社会主義の主導的知識人支持者
 としてたちまちに登場した。
  その数えきれない論文、翻訳と個人的接触で、ファン・デル・フースはほとんど一人でオランダの知識人と活動家の全世代へ、
 マルクス主義を紹介する任にあった。
  トルールストラはファン・デル・フースより理論的問題には知的ではなかったが代わりに扇動家と組織者としての優れた能力があった。
  トルールストラはフリースラントで若い弁護士として経歴を開始し、そこで貧しい農業労働者を守るために働き、徐々に社会主義に
 至った。
  トルールストラは社会主義者としてまずフリースランド人民党で活動し、この党は社会主義者、人民主義者と土地国有化支持者の
 奇妙な混合体と規定され、半分そして時には完全にブルジョアジーの運動であった。 トルールストラは始め人民党を社会民主党に
 転換させようとして失敗。
  1891年、SDBに参加し、ファン・デル・フースからマルクス主義理論を紹介される。
  1891年、SDBアムステルダム大会で、議会主義の問題でファン・デル・フース及びトルールストラはニューウェンホイスと始めて
 公然と衝突。
  激しく非難され、彼らはSDB内に親議会主義のマルクス主義者分派を形成。
  間もなく彼らの努力に対し組織的そして資金的支援がドイツ社会民主主義者からと、ヘンリ・ポラックとユダヤ人が主の全国
 オランダ・ダイヤモンド労働者連合ANDBからあった。ANDBは当時、国で最大でもっとも団結した労働組合であった。
  しかし、1893年のフローニンゲン大会は圧倒的にすべての選挙活動を放棄し、ファン・デル・フースを追放することで決定的転機が
 到来。
  こ時点で、主に論争はファン・デル・フースとトルールストラの間でおきた。トルールストラはあまりドイツ社会主義のモデルに関与せず、
 分裂は避けるべきと考えていた。
  しかしファン・デル・フースは完全な新しいマルクス主義党の形成を支持していて、いくつかの地域に組織化委員会を結成した。
  これらが1894年、社会民主労働党SDAPを結成。
  (S;創設者は、SDAPの12使徒と称され、他にトルールストラとヘンリ・ポラック、ヘンリ・ファン・コール、ヤン・スハペル、
 ヘンドリク・スピークマンなど。)
  綱領はファン・デル・フースによって起草され、1891年のドイツ・エアフルト綱領のほとんど複製であった。
  (S;1900年4月、機関紙人民Het Volkがトルールストラを編集者として発行される。)
  新路線の戦略と戦術画定の確立は別として、SDAPはオランダ労働者階級の小さな政治的に意識的部門にはほとんど直接的には
 影響をもたず、これらはSDBの直接行動戦術に固く関わったままであった。
  ほぼ4分の3がアムステルダムのメンバーからなるダイヤモンド加工労働者は別として、党はほとんど都市労働者に基盤を
 持たなかった。
  逆説的に、SDAPの主な組織基盤はフリースランドの田舎の小作農や土地なし労働者にあり、これらは1880年代の長引く経済危機で
 政治化していた。1899年末までSDAPは依然として主にフリースランドの運動と考えられていた。
  議会分派がいなくなり、SDBはアナルコ・サンディカリズムの方に展開し続けた。
  数年でニューウェンホイスとその支持者は−党組織を完全に軽蔑し−SDBを解散し、全国労働書記局NASに再結集、NASは1893年、
 SDBが全国労働組合連合として創設。NAS加盟組合内での扇動を通して彼らは直接産業活動政策の追求を試みた。
  次の20年間、彼らは主な戦闘的そして階級意識のあるオランダ労働階級部門そしてSDAPの主要な競争相手となり続けることとなった。

  (大月書店版 マルクス・エンゲルス全集によると
   第34−37巻 書簡集で
   1880年6月27日 マルクスから
   1881年2月22日 マルクスから
   1881年12月29日 エンゲルスから
   1883年4月11日 エンゲルスから
   1886年2月4日 エンゲルスから
   1887年1月11日 エンゲルスから
   1888年2月23日 エンゲルスから
   1890年4月9日 エンゲルスから
   1890年12月3日 エンゲルスから
  がニューウェンホイス宛の手紙として載せられている。)

  (WIKI:SDB 1869年第1インターナショナルの支部としてオランダ労働者同盟Nederlandsch Werklieden-Verbond(NWV)が
 結成される。
  1871年、プロテスタントとリベラルにより、第1インターナショナルの影響と闘うためベルナルト・ヘルトらが全国オランダ労働者連合
 ANWVを結成。
  何人かの著名な第1インターナショナルのメンバーが組織の急進化のためにANWVに参加。
  彼らは1878年、ウィレム・アンシングに指導されANWVから去り社会民主連合SDV結成。
  1881年、SDVと同様な地域社会主義者政党によって社会民主同盟SDBが結成される。
  1876年、オランダ労働者同盟パトリモニウム(父の遺産)が雇用者もメンバーとするキリスト教信者労働組織としてクラース・カテル
 により結成される。
  これは1886年以降は主に改革派(Gereformeerde)教会ネーデルランドGKN信徒からなる。
  1900年にはキリスト労働書記局がパトリモニウムによって創設され、更に1909年キリスト全国組合連合CNVがNVVに対抗して
 結成される。
  1903年、キリスト全国労働者同盟VNWBがネーデルランド改革派(Hervormde)教会NHKによって結成された。
  1925年、ローマ・カトリック労働者同盟RKWVがアドリアヌス・コルネリス・デ・ブロインらによって結成される。
  SDBは1893年、全国労働書記局NAS結成、SDAPは1906年、オランダ労働組合連合NVV結成。)

  (WIKI:De Vrije SDBは非合法活動を理由に禁止され、社会主義者同盟SBと改名。1896年、ニューウェンホイス率いる急進派は
  SBを去り、党組織なしで活動しNASに結合。1898年、自由社会主義者De Vrije Socialist創刊。SBは1900年、SDAPに参加。
  1919年、ニューウェンホイスが死亡しアナーキスト運動は重要性を喪失。自由社会主義者はヘルハルト・レインデルスが引き継ぐ。
   NASはハルム・コルテクが1918年社会党結成、1918年選挙で1議席獲得し、議会ではキリス教社会主義者同盟
  社会民主党と協力。)

  (S;オランダの政党政治の形成:
   1848年の憲法改革で下院の直接選挙が行われるようになり、1848年から総選挙と責任内閣制が始まる。
   選挙権は23才以上の男子で一定の納税者。有権者は当時23才以上男子の約11%、55728人。
   オランダでは1879年まで公式的政党は存在しなかった。
   リベラル、保守、保守リベラル、反革命に分かれ、1860年代末カトリック登場。
   1879年、カルヴァン派のアブラハム・カイパーが反革命党ARP結成。
    (ネーデルランド改革派教会から分裂し改革派教会ネーデルランド結成)
   リベラルは1848年以来有力な政治勢力で進歩派と中道派、保守派に分裂していたが、カトリックとプロテスタントの政党結成で
  1885年、すべてのリベラル政治クラブと幹部が統一しリベラル連合結成したがこれは前述のように3分派化していた。
   19世紀の間、カトリックはオランダでは少数派で不利益を被っていた。北ブラバントとリムブルクで比較的独立性を享受。
   1890年代までカトリックはリベラルと提携、1880年代末期リベラルの宗教学校資金援助拒否で1888年カトリックは反革命党と
  手を結ぶ。
   1888年選挙結果でARPがカトリックと提携し宗教政権形成、ARPのエネアス・マッケイが首相(1888−1891)となる。
   1904年、ローマ・カトリック幹部全国同盟が結成され、これは1926年、ロ−マ・カトリック国家党となる。
   1897年、保守プロテスタントのキリスト教歴史投票者同盟が結成される。
   1898年、反ARPの自由反革命党VARが結成される。1903年、VARはキリスト教歴史投票者同盟とキリスト教歴史党CHP結成。
   1908年CHPはフリースランド同盟キリスト教歴史連合CHU結成。
   1891年、宗教政党が多数派を失い、リベラルのファン・ティーンホーフェン政権成立し家主選挙権から読み書き可能者選挙権
  変更提案、これで各党分裂し提案は拒絶され倒閣、選挙では賛成派と反対派に分裂し、リベラル連合も分裂、保守派が離脱、
  1906年、自由リベラル同盟結成。
   リベラル連合主流と自由リベラル同盟その他小政党が1921年、リベラル国家党結成。
   1892年、リベラル連合のアムステルダム・グループが普通選挙権問題で分裂し急進同盟結成。
   1901年、進歩リベラル(自由思考民主政治クラブ)は急進同盟と自由思考民主同盟VDB結成。
   ARPはカイパー(1901−1905)、テオ・ヘームスケルク(1908−1913)、ヘンドリクス・コレイン(1925−1926)らが首相となる。
   リベラルは1918年の男性普通選挙権実施以降衰退し、、代わって社会民主が第2党に進出。1922年の女性普通選挙導入は宗教政党に
  有利に働いた。)


 ・理想との闘い パンネクークのマルクス主義への転換

  マルクスの社会主義は19世紀の後半の間、オランダ労働者階級にほとんど訴えなかったが、オランダ知識人の全世代に
 長い刻印をもたらし、そのなかにはアントン・パンネクークもいた。
  アントン・パンネクークは1873年1月2日、貧しく遅れた農業州のヘルダーランドにあるファーセンの小さな村でヨハネス・パンネクークと
 その妻ウィルヘルミア・ドロテア・ベインスの4人の子どものうちの2番目として生まれた。
  パンネクークは郊外環境で比較的幸福な幼少時代を送った。
  他の多くのマルクス主義知識人と同様、下層中間階級から上昇した家族の出身であった。
  勤勉と自己研修で、彼の父は農業環境から這い上がり小工場監督となった。
  父親はカルヴァン派から転じた自由思想の持主で、リベラル党を支持していて、進歩的考えの人で、子供の教育には大きな努力を惜し
 まなかった。
  家族から、パンネクークは強い勤労倫理と職業への真剣な献身を受け継いだ。
  パンネクークは急性灰白髄炎で足が不自由であったが、穏やかな少年時代で、孤独と知的活動への傾向をもたらした。
  12歳の時、パンネクークは自然、特に天文学と植物学に強い関心をもった。
  高校では科学教師のヤン・マルティヌス・スミットによって天文への関心を鼓舞され、アマチュア天文研究者となった。
  スミットの励ましで、始めの計画の高校教師になるよりライデン大学で天文学の経歴を追い求めることを決心した。
  若いパンネクークからは控えめで、感受的で、むしろ内向的性格で、科学にすぐれ、語学と自己学習訓練の多量の課題も素早くこなす
 複合的描像が現れる。彼が世界を見た時、彼は統一と構造だけを見た。
  1903年(30才)、音楽家で教師のヨハンナ・マリア・ナッサウ・ノーロデウィーアと結婚、2人の子ども(女と男)を持った。
  彼女はパンネクークと出会うまえに社会主義者としての信念を持った。彼女を通してパンネクークは文学と芸術サークルに入った。
  (P-H:1900年頃知り合ったマルクス主義者グループにホルテルらとともに将来の妻(通称アンナ)がいて彼女はすでにホルテルを
 知っていた。)

  彼の個人的生活では、パンネクークの革命的マルクス主義は決してブルジョア社会に対する関与に入り込まなかった。
  彼は非常に快適で平穏な中産階級の家庭を好んだ。第2インターナショナルのほとんどの知識人同様に彼の文化的嗜好は保守的で
 古典的であった。彼は他の世紀末知識人と本質的に同じ音楽、芸術そして文学を好んだ。

  *G;パンネクークは彼の思い出の一節で彼の人生スタイルを覗かせている。
   ローラント・ホルストがホテル・フランクフルト・ホフ(後に彼女は私に語った、そこは窓に素晴らしい花があるから)を推奨してくれた
  のを思い出す。
   しかし2日後、私はそこを去った。なぜならそこは非常に高価で非常に上品だから。
   そこで私は同志が推奨してくれた大衆のホテルに行ったがそこはあまりに粗末で質素すぎた。最後に商売旅行者向けの駅裏の
  ホテルの一つにいき、そこで私が探しているものをみつけた。(思い出は1944年に書かれた。)

  26才(1899)までのパンネクークは中産階級の規範と期待に従っていた。当時、彼にとって将来は確実で優れた科学者的経歴を
 保証しているように見えた。
  彼の政治的活動は、リベラル党員と学生討論協会の議長としてのものであった。
  しかし、パンネクークはニューウェンホイスの友人であった、高校教師スミットによって左翼思想をも紹介された。
  パンネクークは、知的彷徨の末に社会主義者としての確信に到達したが、転換は、労働者の境遇の困難さへの個人的接触による
 ものではなかった。
  1899年1月、地域のリベラル・クラブの読書室で熱心な社会主義者のウィレム・ヘンドリク・デ・フラーフ(1873〜1959年)と
 出会い、デ・フラーフは彼を社会主義の議論に誘った。
  間もなくデ・フラーフはパンネクークに、この問題に関する数冊の本を与えた。
  これで、初めて社会問題を知的につかみ始めた。
  4月、兄とルイ・ブランの本をもとにユートピア共同体の計画を描いて、間もなく彼は理想主義者とユートピア思想家の教義に
 引き入れられた。
  トルストイ、クロポトキン、老子、トマス・ア・ケンピス、年長のアーノルド・トインビー、ペルシアのバハーイー教徒・・・。
  これらは訴えるところがあったが、誰にも完全には満足させられなかった。それで運命により社会民主主義のほうへ駆られていると
 確信した。
  パンネクークの社会民主に対する主要な不満は、それが党派性と党派的憎悪を促進するという点にあった。

  6月、デ・フラーフは仮想平等社会を描いたエドワード・ベラミーの小説”平等”をパンネクークに与えた。
  これがパンネクークの政治的展開に画期をもたらした。
  ベラミーは階級支配の基本原因は、支配階級の偽りの教育の支配の継続と、大衆側の階級意識の欠如にあると主張。
  彼はそれゆえ革命運動の最初の仕事は、大衆への知識の普及により古い秩序の教義を攻撃することであると感じていた。
  ベラミーを読んで彼の見解は完全に変わった。始めて社会民主が望み、述べることを理解した。
  しかし、彼は当初は公の場で社会主義者としての確信を披歴することをためらった。
  しかし、ついに、11月中頃、リベラルが支援する教育法に関する集会で社会主義者の見解を支持することを表明。
  (P-H:SDAPの立場支持を公表してから直ちにアムステルダムのヤン・フォルトイン(1855−1940、新聞で知っていた、古参SDAP)
 の本屋にいき、フォルトインと話し、昔の運動のことをきき、SDAPのできる限りの文献、冊子、ドイツの本を求め、ファン・デル・フースらの
 新時代とドイツの新時代の定期購読をした。当時、フォルトインから資本論も求めた。)
  一度始まるとパンネクークの政治的展開は速く、目的意識的であった。
  デ・フラーフの指導で、社会主義の古典を学習し、数週間でマルクス主義を十分に理解したと確信した。
  数か月後、P.L.タクの左翼評論誌”デ・クロニーク”での、剰余価値に関するファン・デル・フースとタクの論争に見解を書き、
 ファン・デル・フースの注目を引き、マルクス主義経済の研究に誘われた。
  ファン・デル・フースとの協同により、パンネクークはオランダの指導的社会民主主義者と知り合い、マルクス主義理論家としての
 知的訓練を得た。
  (P-H:ファン・デル・フースと論争していたのはピーテル・ウィーデイク(1867−1938)、彼はフースは1巻はしか読んでおらず
  搾取については1巻だけで十分だが、価値の資本家間への分配では2、3巻も必要と述べている。)

  *S;パンネクークは1891年、ライデン大学に入る時にすでにライデン天文台所員エルンスト・ファン・デ・サンデ・バクホイゼン
  (1848−1918)と手紙のやりとりをしていた。パンネクークが1898年ライデン天文台にはいり、リベラル選挙連合に参加した時、
  同僚であったエルンストはリベラルの熱心な活動家であった。1899年パンネクークが社会民主となったときに、最初にこれを告
  白したのも同僚のエルンストであった。
   パンネクークはライデン大でエルンストの兄、H.G.ファン・デ・サンデ・バクホイゼン(1838−1923)の指導を受け、彼はパンネクーク
  の博士論文の指導教官でもあった。
   彼は1872−1908年のライデン天文台所長で1903年にはパンネクークを擁護している。(以上主にP-H)

   エルンストは兄をついで1908年、ライデン天文台所長となるが、カプトインはド・ジターを望んだ。エルンストが1918年に死亡し
  ウィレム・デ・シッテル(ド・ジッター、ド・ジッター宇宙モデルで著名)が後をついだ(1918−1934年)。
   ド・ジターは1916年にパンネクークをライデン大の天文学史の個人教師に誘い、1918年にはライデン天文台招聘を試みている。
   その後、所長の地位はエイナール・ヘルツスプルング(ヘルツスプラング・ラッセル図、1934−1945)、ヤン・オールト(オールトの雲、
  1945−1970)と著名人がついだ。
   またパンネクークは高校教師時代(第1次世界大戦の間)、アインシュタインの参加したコロキアムに出席し彼と会っている。


 ・一般活動家 パンネクークとライデンのSDAP 

  パンネクークは知的道程で社会主義に到達したが、理論活動にとどまるだけで満足でなく、1899年からドイツへ出発する1906年
 までライデンでの社会主義運動に没入した。
  (P-H:ライデンには党支部はなく、SDAPのマウプ・メンデルス(1868−1944)の助けで支部を創設。
   1900年、ロッテルダム大会の代表として参加 し、党の指導者や名前だけを知っている人物と知り合った。)
  社会主義者への転換を宣言して、間もなくパンネクークはデ・フラーフを誘いSDAPのライデン支部組織化を試みたが、1900年に
 メンバーは13、1901年は21、1903年は29人であった。圧倒的多数は職人と商売人であった。

  *G;選挙では1902年に3825票のうち150票獲得。

  ライデンは人口5万5千の地味な産業都市で、中世以来の繊維センターであったが、産業基盤は時代に遅れ衰退していて、
 労働勢力はダッチ標準でも貧しく、意気喪失していた。このような条件が反映した。
  常勤で天文学に関わっていたが、パンネクークは地域の党活動の全部門に彼の存在性を示しているように感じられた。
  時により、議長、書記、財政担当、地域週刊誌覚醒De Wekker編集、全国大会代表を務めた。
  パンネクークは1900年2月、地域の党の議長に選ばれ、ライデンのSDAPは労働者階級を政治化するために普通選挙同盟を
 創設した。
  1か月後、党は地域労働組合、政治的・文化的・経済的活動を調整する運営委員会を作った。
  この委員会はライデンで労働組合運動を構築し、繊維と金属労働者の地域ストライキに対する支援活動を組織する活きた役割を
 果たした。
  柔和に話し、芝居がかった才能を欠き、彼は生き生きとした論争家や演説家ではなかった。
  パンネクークは労働者階級に社会主義意識を発展させるために種々の方法を工夫したが、教育を特に重視した。
  1899年秋から教育的仕事を開始した。これは図書室と文化センターによって付加された。
  階級意識と道徳発展の主な障壁の一つと感じ闘争を助けるために、パンネクークはまたアルコール乱用反対キャンペーンも始めた。
  パンネクークにとってライデンでの初期の社会主義活動は容易ではなかった。熱心な努力にもかかわらず、地域労働階級の急進化を
 進めることはできなかった。一握りの知識人が支部を構成し、労働者から拒否または無視された。
  当時のライデンの状況の分析でパンネクークは書いた:’未来は労働者に属すが、彼らのほとんどは未だそれを知らない’。


第2章 精神と現実 パンネクークの方法論

 ・パンネクークとディーツゲン 弁証法の識別

  パンネクークのライデンでの初期の年月は、またダッチ・マルクス主義の著名な理論家としての急速な出現と一致する。
  1899年、マルクス主義者になってまもなく、パンネクークは人間社会転換の方法としてのマルクス主義の性質についての長い
 理論的探究を始めた。
  最初の主な作業はファン・デル・フースとの協力によるマルクス経済学の学習であった。
  しかし、彼はマルクス経済学固有の決定論に不満で、人間の意識と物質的世界への行動との関係の分析のための科学的枠組みを
 発展させるために、1900年からマルクス主義の哲学的基礎の系統的学習に入り、マルクス主義とカント哲学の関係を調べ始めた。
  (P-H:ヘラルド・ホランド(1854−1922)からカントの講義を受けたが長続きはしなかった、彼の紹介でカントに関する本を求め、
  カントからマルクスへの発展の歴史的重要性知るようになった。そしてディーツゲンを発見。)
  間もなくドイツの労働者哲学者のヨゼフ・ディーツゲン(1828−1888)の著作を発見した。
  これが彼の理論的発展に決定的転機となった。
  (P-H::。ホルテルは彼の影響でディーツゲンに熱中、作家のコルネリエ・ホイヘンスも党では有名であった。彼女はすでにダーウィンと
  マルクスについて書いていて、こんどはディーツゲンに関心を持った。)

  ディーツゲンの研究を通し、パンネクークは鍵となる哲学的、科学的概念を発展させ、自分自身のマルクス主義を構築させた。
  これを若干修正、改善してずっと維持し続けた。

  パンネクーク同様、ディーツゲン(1828−1888)はほとんど無視された理論家であるが、一時、広く知られ、尊敬された。
  ディーツゲンはヨーロッパと米国において社会主義運動で活動し、第1インターナショナルのハーグ大会(1872年)ではマルクスが
 我々の哲学者と紹介。
  ディーツゲンの著作は情熱にあふれているが系統性に欠け、文章も下手で知識人の無関心にあったが、20世紀初頭の20年には
 一般活動家に受け入れられた。
  ディーツゲンは自分を科学の哲学者と考え、予想と支配を目的とする世界の包括的見方を得るための演繹的方法を発展させようとした。

  ディーツゲンの主な目標は、思考と現実の2元論の橋渡しで、この仕事はドイツ古典哲学、ことにフォイエルバッハから受け継いだ
 ものでディーツゲンは彼に初め学び、交わった。
  ディーツゲンは非帰納的性格を基礎とするヘーゲル体系の大部分を拒絶した。
  最も一般的水準では、ディーツゲンは以下を確立しようとした:
  (1)客観的現実と自然と社会過程両方の統一;
  (2)これらの過程について得られたすべての知識の相対的そして仮説的妥当性;と
  (3)人間活動(特に思考活動)と自然と社会環境の統一とそれを調整する要因としてのその重要性。
  この出発点から、ディーツゲンは彼の体系を5つの主要な線で展開させた:知識と認識の理論;哲学とその解体の理論;科学と
 その形成の理論;プロレタリア論理の理論;実践的倫理の理論。
  ディーツゲンの哲学に最も独自な特徴は、理解の科学的、唯物論的理論を発展させようと試みたことである。
  人間の思考過程は、自然と社会過程同様に科学的分析と精緻化で理解できると感じた。
  政治的立場から、ディーツゲンは 彼の理解の理論を、精神と物質の連続的転換の積極的要素とプロレタリアの自己解放の不可欠な
 知的道具と予想した。
  1869年、彼の主著となる”人間の頭脳労働の本質”を出版し、認識の帰納理論の定式化に務めた。  
  彼は、カント学派の2元論と思考世界からの物質世界の分離の批判から始め、物質と非物質のすべてのことの統一性と動的相互
 連関を主張。
  ディーツゲンの考えでは、世界は継続的形成、衝突、相互作用の過程と見られる。
  彼の視野からは、すべての形態の自然と人間現象は、その各部分が他の部分との関係の結果としてだけ説明されうる、多様で
 重なり合う関係との循環的因果関係の複雑な体系に組織化された。
  これがディーツゲンの理解の理論に意味するのは、現実世界は無限の連続的に変化する多くの感覚感知可能属性からなり、
 その相互依存で統合された全体性に一体化される。
  人間精神は、環境との相互作用で感覚感知の特殊な組み合わせの精神概念への一般化を試みると彼は感じた。
  思考の概念はそれゆえ、世界の他のすべて同様、多くの異なる部分から構成される。
  それは、考える頭脳と頭脳が考える客体との間の関係から生じ、思考過程の結果同様、客体の結果である。
  概念的思考形成の鍵となる要素は、精神が種々の思考の対象の一般的属性から特殊属性を引き出し異なる体系の分類することを
 試みる過程であると、ディーツゲンは主張。
  ディーツゲンによると、感覚は限りのない現象の流れを受容し、人間思考の機関として、精神の役割はその部分を区別し命名する
 ことでこのデータを理解することである。
  この分離と分類過程で実際に起きるのは同じ特徴を基礎に特殊な型の単位の構築で、これはつぎに名前付けされる。 

  概念化行為だけによって全体から分離するのは抽象化、精神行為である。
  ディーツゲンは、同時に、断固としてこれら概念化は観念論的意味での純粋な精神的構成体でなく、実際 客観的に存在する
 内的現実の受容から引き出された抽象であると主張した。
  精神は想像による再構築と同様には内部世界を構築できない。
  人間行動に対するこの意味を引き出そうとして、ディーツゲンは概念化は、それによって世界が見られそして作用する正確な
 カテゴリーを規定すると主張した。
  ディーツゲンによって述べられた過程で、これら出来事をえり分け、それらを区別し、一般化し、その結論を基に行動するために、
 彼らの精神を利用することで、世界は、個人が構成部分を演じる出来事の連続的な流れとして見られる。
  ディーツゲンはこの分類と抽象化過程を思考の特別な対象の識別と違いを考える方法で弁証法的と考えた。
  弁証法的過程として、すべての事は、同時に他の事の部分を形成し、そして同時に異なる名前あるいは記述を必要とする他の事に
 変えると、思考で認識される。
  ディーツゲンにとって、弁証法は必ずしも絶対的反対または矛盾を意味しない。
  彼の見解では、矛盾は思考の特殊な対象の構成部分の分離によってのみ存在する。この精神行為がなければ矛盾もありえない。
  精神は単にそれらを構築し分類と体系化過程の一部として等置するだけである。
  ディーツゲンはそれをどんな形態の知識も絶対的と見なされえず、さらなる経験を基に修正すべき現実対象の試行的近似としてのみ
 見なされるという公理として扱った。
  世界の一部として、すべての事実は部分的事実であった。真実と間違いは互いに弁証法的に流れ込む:真実はある条件だけで確かで、
 ある条件で間違いは真実かもしれない。
  ディーツゲンの見解では、完全な真実は不完全な認識を基礎にしてだけ真実でありえる。
  思考と物質的世界の関係の定義で、ディーツゲンは精神と物質の間の厳密な区別のようなものはないと繰り返し強調した。
  彼の見解では、それは2つの異なることを区別するための単なる名前で、なぜなら名前は事と等しくない現象からの抽象化であるから。
  ディーツゲンにとって、強調されるべき点は、精神と物質は精神の分類によって人為的に分離された2つの鍵となる自然の様相を表し、
 2つの言葉を覆うように展開する名前がないだけであるからであった。
  ディーツゲンは、この分析を彼が機械的唯物論−物質は小さな粒子からなり、思考はこれら粒子の運動の結果であるという見解−と
 名付けたものの批判に拡大した。
  そのような狭い唯物論の概念は、全く問題の本質の誤解であると、彼は主張した。
  それは、世界の部分は別々には存在せず、部分が結合した全体としてだけ存在するという事実を考慮するのに失敗している。
  触れることのできる材料という意味の物質は自然の他の現象より重要だとみなされるべき優先権をすこしも持たない。
  世界から一つの部分を分離し、他のすべての部分の基礎にすることは、独立存在を本質的に抽象的なものにすることであると、
 ディーツゲンは感じた。
  現象自体の完全な世界だけが−全体性での世界−別々の、それ自身の独立した存在を有する。
  ディーツゲンは、しかしながら、彼の仮説は原子の運動に基づいた世界の科学的説明を除外しないということを明確にさせた。
  現代物理学の理論過程を広く予想する一節で、彼は記した:原子は集団である。
  最も小さい部分として我々の思考でのみ存在し、これで非常に化学に役立つ。
  意識は触れることができず、精神的なことだけであり、その有用性からは価値は落ちず、更に高める。

  ディーツゲンの体系はマルクス同様に労働の社会分裂を基礎に世界の理解と転換を目指したが、彼の理論の政治的、社会的意味を
 理解することはできなかった。
  このためマルクスとディーツゲンとの関係を確立する仕事がパンネクークに降りかかってきた。 
  ディーツゲンの理解の理論は、マルクス主義だけでなく自然科学の哲学的基礎として役立つ可能性があると彼は感じた。
  ディーツゲンの著作の熱心な学習の後、パンネクークはディーツゲンの教義を理論と社会運動の実践に統合する長い努力に
 乗り出した。
  パンネクークは1901年、カントの哲学とマルクス主義を発表し、ここでディーツゲンのプロレタリア哲学と新カント派の修正主義哲学を
 対置した。
  (S;更に1912年、J.ディーツゲンの哲学的仕事の位置と重要性を書いた。)
  ディーツゲンについての初期の熟考では、パンネクークの思考を2つの目標が支配した。
  一方で、彼は哲学と社会主義思想の歴史でのディーツゲンの立場を確立し、プロレタリア解放のための彼の弁証法の実践的意味を
 示そうとした。
  他方、形而上学的イデオロギーへの対抗重みとしての確固とした方法論的基礎をマルクス主義に与えようとした。
  パンネクークによれば、マルクスは生産の社会的過程の本質と社会発展への基本的その意味を精緻化しただけで、本当には
 人間精神の問題に関心をもっておらず、人間精神はその内容が物質的世界由来することを示しただけである。
  人間精神の正確な内容が何で、物質的世界との真の関係はなんであるかという問題は依然未解決である。
  マルクス理論でのこの隙間は、ブルジョア思考によって及ぼされた伝統の影響と結びついていて、反マルクス主義と修正主義同様の
 マルクス主義の誤った理解の主な理由の一つであったとパンネクークは感じた。
  ディーツゲンは人間精神を彼の特別の研究主題とし、人間意識の過程の正確な内容を示すことを試みることにより、この隙間を
 埋めることへ大きな寄与をした。
  こういう理由で、ディーツゲンの理解の理論は[マルクスの]社会と人間の理論の本質的基礎を構成するとパンネクークは主張した。
  ディーツゲンは、哲学から人間精神の科学を築くことにより、マルクスが歴史になしたように、哲学を自然科学の地位に高めた。
  これにより、ディーツゲンはマルクスとエンゲルスに次ぐ社会主義科学の創設者の第3番目に位置する。

  パンネクークは、更にプロレタリア哲学の発展を以下のように説明。
  第一過程はカントから始まる。カントの哲学はブルジョア思想の純粋な表現で近代社会主義哲学の先駆。
  生産、競争そして搾取の自由はすべて18世紀末と19世紀初めの資本主義発展の心臓部であった。
  カントの自由と自由意志の強調は興隆するブルジョアジーの要求と熱望に対応した。
  フランス合理主義者の機械的唯物論へ挑戦することで、カントはまた運命、自由と意志の修正形態への障害を取り除くことで宗教信仰
 への堅固な基礎を提供した。
  感覚的体験と人間精神の組織に焦点をあてたが、カントはいかなるプロレタリア哲学にも必要な要素である理解と人間問題の
 科学的理論への最初の価値ある寄与を行った。
  第二過程はヘーゲル。ヘーゲルの思考はフランス革命後発展したブルジョア社会とブルジョア哲学への反動の結果。
  ヘーゲル哲学の真の重要性は人間精神とその作動方法の優れた理論を与えたという事実にある。
  主に弁証法の発展からなるカントからヘーゲルの理想主義哲学体系はディーツゲンのプロレタリア哲学の不可欠な先駆者である。
  マルクスがアダム・スミスの仕事を完成させたようにディ−ツゲンはカントの仕事を完成させた。


 ・理論と社会発展:科学の階級基礎

  更なるディーツゲンの研究で、真のマルクス主義への科学的基礎を確立するのに役立つことを望み、パンネクークはマルクス主義と
 科学の関係の問いかけを始めた。
  出発点は社会発展での科学の役割の詳細な検討。パンネクークは彼の探求を2水準に向けた。
   すなわち;方法、意味の探索と科学的知識の背後にある研究の対象の検討;及び人間社会と精神活動の起源と位置の分析。
  出発点にディーツゲンの理解の理論をとり、科学思考は体系化、概念化、実践の過程で特徴づけられるとパンネクークは主張した。
  この立場から、科学の目標は存在する関係を予測し、変え、制御することを可能とするような方法で人に説明する知識をみつける
 ことである。
  事実は科学の基礎であるが事実だけでは科学とならない。科学は事実の一般概念へと、将来の出来事の計算と予測に適した
 世界構造内規則への体系化である。
  後のロイ・バスカーとその他の科学的実在論と多くの類似点をもつ概念で、科学の基礎は人間社会生活の実践的活動に見いだされると
 パンネクークは主張した。
  社会発展の一般的過程の要素として、科学は事実と知識への抽象的衝動からでなくむしろ社会的必要からの自発的実践から生じる。
  科学は社会から生じ、−他の社会的活動のように−部分的に独立的にそして部分的に社会の構造全体の要素として発展した
 くの社会活動のなかのひとつでしかない。
  原始的社会は理論的知識の種々の形態によって特徴づけられ、言葉の真の意味での科学は文字の発明とともに、文明のより
 高度の段階でだけ生じることができる。文字は概念の間の関係を確立することで実践的知識を科学的知識へ転換できる。
  文字によって、概念はそれ自身の独立的存在を獲得し、それで概念は取り扱われ、蓄積し、比較しそして互いに結びつけることが
 できるようなる。
  パンネクークによって概念化されたように、科学は人間思考活動の特殊形態であるだけでなく、一般社会と特定時期の経済過程の
 構成部分である。
  社会発展の枠組み内で、科学は物質的道具につぐ精神的道具で、それ自身生産力であり、技術の基礎をなし、それで生産装置の
 本質的部分である。

  *G;パンネクークはほかで技術概念を精緻化した。
   ’社会の基礎−生産力−は主に技術によって形成される、原始的社会では自然条件が主要な役割を演ずるが。・・・
   技術は機械、工場、炭鉱そして鉄道のような物質的要因だけでなく、それを作る能力とこの技術を生み出す科学も含む。
   自然科学、我々の自然力の知識、それを使用し、それで計算する能力もまた生産の要因と考えられる。
   技術は物質的要因だけでなく、強く精神的要素にも依存する。’(史的唯物論、デ・ニーウェ・テイト、1919年)

  この観点からの接近で、科学は社会的に生み出された動機と目的への応答を示し、社会的に刺激された質問と説明の方法に基づく。
  より大きな抽象形態の一部として、科学は常にその主題、その法則、その形而上学的命題、包摂する価値において特定の時期を
 反映する。
  各時期に発展する新しい科学的事実は、新しい技術とそれらから生じる新しい社会関係の両方にとって、重要で不可欠な精神的力の
 源泉を代表する。
  その結果、科学意識の特定の形態または考えの構造の出現は、その時期の社会的衝突から分離できない:’新しく興隆する
 支配階級は特殊階級的立場を通して、その利益に奉仕する新しい事実を理解できる。これら新しい事実はそれで衰退する社会秩序の
 支配者に対する強力な武器となる。
  この支配者は、新しい学説に関心がなくまた理解もせず、脅威としてだけみなす[・・・]。それで自然科学とともにブルジョアジーが
 興隆する;そしてまたプロレタリアートの科学である政治科学とともに。
  パンネクークは、そこで新しい見方が古い見方に対置され、そして同時にそれらから展開する、激しい精神闘争の過程を伴う、
 科学意識の新しい形態の出現を公理的に取り扱った。
  19世紀の自然科学の発展は、たとえば出現するブルジョアジーの成長する歴史的自己理解の表現と産業膨張の不可欠な前提条件を
 表す。
  資本主義の技術的要求の刺激のもと自然科学の発展は人間精神の勝利行進となった。
  自然は初めに人間精神による法則発見を通して、ついで我々の主対象、商品生産へ奉仕での、人間意志への、自然の既知の諸力の
 物質的従属を通して支配された。
  彼はこのような理由で、自然科学は資本主義の精神的基礎と考えられる、と感じた。

  科学の階級起源を強調するが、どんな階級も自分たち自身の特殊な科学的考えを維持するという見解は拒否する。
  パンネクークにとって強調されるべき点はある形態の科学は階級闘争の対象と武器でありえ、階級は、直接的にその生活条を
 向上させる事実の研究と普及にだけ関心があるということであった。科学思想はそれゆえ無階級的であり階級規定的である。
  このように、19世紀の自然科学はその対象と関心を基にブルジョア的といえるが、その認識的達成で客観的であった。
  自然科学的客観性はブルジョアジーの階級利益の対応し強力な社会規範を示す。
  しかし、同じ支配階級にとってマルクスの資本主義発展の教えは彼らの利益への脅威を示し、自己保存のためにそれへの闘争を
 強いられ、その正当性を無視する。他方、プロレタリアートにとってはマルクス主義の科学的正当性の信念で闘争への大きな力をもたらし、
 こういう理由で、マルクス主義は自己保存の規範とみることができる。
  両形態の科学はそれゆえ、それら各々の階級の枠組み内では客観性をめざしている。
  物理的科学にとって、これはプロレタリア科学によって置き換えるべきブルジョア科学のようなものがありえないことを意味する。
  特別なプロレタリア科学の問題は歴史的意識の形態とは全くことなるものの一つであると彼は感じた。

  マルクス主義者の科学の批判は、階級によって決定されるイデオロギー的解釈と階級によって決定される科学の実践的利用に
 向けられるべきであるとパンネクークは主張した。
  自然科学の方法論は、マルクス主義を批判し改善するために使用できない。真の任務はマルクス主義を資本主義社会における
 科学の役割批判に使用することである。
  仮想的社会主義未来の科学と技術はすべて先行科学と社会達成にだけ基礎づけられる。
  科学的客観性の原則には社会責任原則が付け加えられるであろう。

 ・新しい種類の社会的知識 パンネクークの史的唯物論の概念

  パンネクークによるマルクスとディーツゲンの統合は、第2インターナショナルの理論的色合いで、特異なマルクス主義概念の展開の
 知的手段をもたらした。
  ディーツゲンに、彼は第2インターナショナルに広がった機械的マルクス主義への主要な批判的着想と知的対抗重心を見出した。
  彼自身のマルクス主義概念の理論化に際し、パンネクークの直接の目的は、社会の基礎に適用できる知識と転換の理論を展開する
 ことであった。
  これを達成するために、彼はマルクス主義に科学的唯物論と人類意識の意志的諸特性を調和させる新しい一元論的外観を組み入れた。
  (これらの作業は主に、史的唯物論と宗教(1903−1904年)、史的唯物論とトルーブ教授(1904年)、階級意識と哲学(1904−
 1905年)や唯物論と史的唯物論(1942年)などでなされた。)
  最も基本的水準では、’歴史は人間の行為と活動でしかない、しかしこれらは意志によらねばならない;マルクス主義はこの意志の起源に
 近づかなければならない。’(トルーブ教授)
  最初はマルクスの構想では、マルクスの歴史の唯物論的概念は自然科学の方法によって研究されるべき人間の知覚資料の証拠に
 もとづいた反形而上学的理論を意味した。
  しかし、後のマルクスの著作は徐々に実証主義傾向を反映、まずエンゲルスの反デューリンクそしてのちには彼の精神的後継者、
 カール・カウツキー、はマルクスによって前進させられた史的唯物論を自然科学の拡大と考えるところまで一般化した。
  第2インターナショナルと第3インターナショナルの両者を規定するこの方法論の核心は、自然と人類社会の運動、発展の一般法則を
 支配する最高科学としての弁証法概念であった。
  この方法論によりマルク主義はますます社会、歴史、自然の発展のすべての普遍的に当てはまる、宇宙論、総合科学的統合体に
 変化した。

  パンネクークはマルクス主義の主体主義的、能動的要素を取り戻すことによりマルクス主義の機械主義的、決定論的形態に挑戦した。
  広い歴史的言葉ではマルクス主義(パンネクークはまたは精神科学、社会科学、史的唯物論を交互に使用)は社会発展の新しい段階の
 理論的表現と新しい優勢階級の精神文化のひとつの様相の両方であった。
  マルクスとエンゲルスはブルジョア思考を乗り越えた最初の人物だが、しかしマルクスの思想は直接ブルジョアの知的教義から生じている。
  たとえばマルクスの経済理論はリカードとアダム・スミスのようなブルジョア経済学者の仕事を基礎とし、哲学的教義はほとんど
 ブルジョアジーの革命的哲学の継続である。(階級意識と哲学)

  真の科学としてのマルクス主義は、ディーツゲンが彼の識別の弁証法で与えた人間精神の科学に基づくことによってのみ可能である。
  パンネクークは、弁証法は運動の法則でもなければ、特別な科学理論でもなく、精神によって構築された概念形態にのみ表現される
 単なる現実理解の方法であると主張。予測の基礎がこの知識の特性にある。
  マルクス主義にとって、これは社会的予測は厳密に資本主義の本質と発展の知識に基づかなければならないことを意味する。

  *G;パンネクークは弁証法的思考方法はその相対的性格を通してだけ真実をもたらすと主張した:’弁証法的思考は
  それが有限は無限を説明できなく、また静的世界は動的世界を説明できないことを;すべての概念は新しい概念に、
  あるいはその反対にさえ発展しなければならないことを考慮する限り現実の対応する。’(唯物論と唯物史観、1942年、ニュー・エッセー)

  1904年初め、パンネクークは、エンゲルスの唯物論的弁証法の3法則を拒否し、真のマルクス的弁証法の枠組みを発展させたのは
 エンゲルスよりディーツゲンであると主張。(史的唯物論と宗教)
  社会と自然の基本的差異から、パンネクークはマルクス主義と物理理論の間にいかなる直接的関係の排除:’精神科学は自然科学と
 異なる、その方法、科学の観念だけでなく対象でも。
  理論は自然の法則または宇宙の神秘をあばくために機能するのではなく、革命的労働者運動の発展のための新しい水準の歴史意識を
 もたらすために機能する。
  また、パンネクークはマルクス主義は、物質的唯物論とは決して考えられるべきではないと主張した。
  物質的唯物論と史的唯物論を区別するのはその概念的焦点である。
  史的唯物論にとって、物質は感覚が築いた現象からの精神による本質的に抽象、概念である。
  方法論的立場からは、これは下記を意味する:史的唯物論は科学、概念、物質、自然法則、力は自然によって形成されるが、
 まず第一に人間の精神活動の結果であると見る。ブルジョア唯物論は、他方、自然科学の観点からこれらすべてを自然に属し、これは
 科学によってだけ発見され明るみにされると見る。(唯物論と史的唯物論)
  パンネクークはマルクス主義が物理的唯物論と同一視されるようになった事実をマルクスの教義の基本的誤解とした。
  マルクスが最も批判的であったのは、物質と精神の分裂ではなく、現実と空想の分裂であった、と彼は感じた。

  マルクス主義の科学的性格を更に調べるために、パンネクークはマルクス主義での法則と予言の性質の特別な研究に移動した。
  パンネクークはすべての科学は異なる度合いの確実性に基づく教義と仮説からなるという立場をとった。
  すべての科学的真理はそれゆえ相対的である;それはその時点での最善の真実と考えられ、継続的発展過程の部分である。
  これは原始的体験を基礎とし、完全な確実性とともに最終的事実とみられる教条的事実と対照的である。
  これを基礎に、社会科学に対し、法則と予測の間のより仮説的因果的さえ存在するのは当然であると、パンネクークは感じた。
  社会関係の非常な複雑さによって、社会の法則は非常に認識し難く、正確な定式形態にできない。
  更なるうえに本質的にそれは未来でなく、未来に対する我々の期待を示すといえるだろう。
  以前の思想家は暗闇で手探りしていたが、今は発展のいくつかの道筋が発見されたのはすでに偉大なことである。
  (哲学者としてのレーニン)

  パンネクークは、1901年にマルクスの理論またはその基礎的方法が完全に正しいかどうかはほとんど関係なく、自然科学が
 間違った方法でずっと重要な発見をしてきたように、実践で結果を生み出すと主張した。
  一組の絶対的教義と予言として、マルクス主義の敗北の半分は人の腕にかかっている。(1953年マクシミリアン・リュベルへ)

  パンネクークの見解では、マルクス主義は、科学が反映し説明しようとする社会発展と革命活動で、それ自身の主題、方法論的概念と
 方法の理解を必要とする科学であった。
  マルクスの理論とこれが基礎とする社会実践は、社会革命過程の外にあるのではなく、常に転換、発展そして逆行の過程を経る。
  広い歴史的意味では、マルクスの思想それ自体が大きな意味をもつのではなく、これらの思想が興隆する解明的労働者階級運動の
 イデオロギーの最初の体系的定式化を表すという事実である。
  この理論は、支配的な条件に対抗する、実際に存在する社会運動から発生し、この運動がその固有の可能性を実現するのを助ける
 ことが期待された。

  認識的意味では、マルクス主義の科学的範疇はプロレタリアートとともに生じ、プロレタリアートによって理解される、なぜなら
 プロレタリアートは社会の内部法則を発見することに関心があり、社会を偏見なく見れる唯一の階級だからと、パンネクークは感じた。
  パンネクークはマルクス主義がすべての他の過去の理論的そして科学的体系的と異なるのは、科学的意識の最初の本物の
 一般的形態を表すという事実であると、主張した。
  ブルジョアジーにとって科学は知識人によって使用されるべき抽象思想と概念の体系を表し、史的唯物論は労働者自身の生活体験の
 構成部分を表す。

  パンネクークの科学とマルクス主義の概念の適用の最も持続した努力は、ダーウィン主義問題の扱いに見ることができる。
  マルクスとダーウィンの関係はエンゲルスによって承認され、カウツキーはまずダーウィンの発展論的教義で社会主義に到達。
  パンネクークは、第2インターナショナルの多くのマルクス主義者と異なり、ダーウィン主義とマルクス主義教義の統合に反対した。
  パンネクークはまず1912年、マルクス主義とダーウィン主義を書きこの問題に体系的に近づいた。
  彼の直接的実践的目的は、まず資本主義の知的正当化にダーウィン主義を使用しようとしたブルジョア・ダーウィン主義者と、他方、
 社会主義の不可避性の自然的証拠とみる正統派マルクス主義者と闘うことであった。
  パンネクークの分析の基礎は、初期の自然と社会科学の区別で略述された。
  ダーウィン主義同様マルクス主義の科学的重要さは一方は有機的世界の領域についての、他方は社会領域の発展の理論から
 来ることにある。
  これはマルクス主義とダーウィン主義は完全に互いに独立して各々の領域に留まるべきことを意味する。

  ダーウィン主義は封建主義の残余とプロレタリアートへの両方への闘争でブルジョアジーの道具として機能した。
  正統キリスト教ドグマの全基礎を崩すことで、ダーウィン理論はブルジョア支配の敵の主なイデオロギー的支えを破壊した。
  しか、しダーウィン主義は、同じくブルジョアジーにとってプロレタリアートへの武器として都合よく働いた。
  不平等への科学的証拠を提供するように見え、闘争は不可避であると教えることで、ダーウィン主義は平等と協力という社会主義者の
 教義への対抗重心として奉仕した。
  マルクスとダーウィンが真に共有するのは、古い堅固な不動の世界的見方を粉砕することであったと、パンネクークは感じた。
  それゆえ、社会主義者にとって、ダーウィン主義の真の重要性は、何らかの方法で教義を直接ダーウィン主義と関連付けるより、
 史的唯物論理解の前提条件を示すという事実にある。

  科学一般と同様にマルクス主義の目標は実践での説明であった;教義はこの目的の手段に過ぎなかった。
  マルクスの目標は社会組織についての教義を述べることでなく、行動の前段としての社会的出来事を明らかにすることであったと、
 パンネクークは主張した。

  マルクス主義に能動的そして意識的次元を回復するという、パンネクークの初期の努力は正統マルクス主義の機械論的そして
 運命論的傾向の先端的そして洞察的初期の批判を表す。
  多分、1914年以前のどんなマルクス主義理論家よりも、パンネクークはマルクス主義正統性の失敗を認識し、真の科学的そして
 変革的マルクス主義が実現されうる条件の確立に着手した。
  しかし同時に、この努力はあいまいさと、彼の洞察の多くの矛盾する性質によってさえひどく弱められた。
  たとば、どのようにして社会に関する科学的知識が得られ、社会主義運動に適用されるべきか明記する試みで、パンネクークは
 依然として高度に一般的であった。
  多くの場合、彼がマルクス主義の主な要素を分析するのに用いた、言葉、概念そして概念は非常に漠然であるか、その実践的効果は
 しばしば陳腐な水準になるほど明白な適用に欠いていた。

  彼のマルクス主義を変革の理論として生き返らせる試みは、結局もがいていた。


第3章 形成中のオランダ左翼マルクス主義  新時代左翼 1899−1906

 ・ロマン主義からマルクス主義へ 新時代グループの起源

  ヨーロッパの他の場所の社会主義運動同様、SDAPは世紀の変わり目に続く年月に、マルクス主義と修正主義の政治分化の急速な
 過程を体験し、この衝突の環境と性質は、特殊オランダ的形態をとった。
  初期の段階は、この闘争の歴史は大部分、党の理論評論誌”新時代”(デ・ニーウェ・テイト)周辺に集中した知識人の小さなサークルの
 歴史であった。このグループの起源はホランドの最も著名な知識人のグループの急進化をもたらしたオランダ知識人生活の一連の発展に
 直接たどることができる。
  19世紀の終わりの数十年は、初期のオランダ社会主義運動にとって困難な時代であったが、オランダ文化と知的生活にとって
 ルネッサンスの時期を刻印した。拡大する産業発展の勢いと一致する一般的楽観主義の支配的感覚は大きな知的発酵を生み出し、
 すべての領域での文化的再興を推進した:文学、芸術、音楽、建築、科学そして哲学。
  この文脈で、1880年代(1880−1894)に非公式に80年代人と呼ばれるオランダ文化を革新し、18世紀のそれと比較できる位置に
 回復しようとする若い詩人、作家、文学批評、芸術家のグループが展開された。
  80年代人の始めのオランダ社会批判は、ロマン主義と個人主義に基礎を置いたが、1890年以降の文学サークルでのマルクス主義
 運動出現の源泉となった。
  80年代人運動は、始め特殊な形態をとり、1885年フランク・ファン・デル・フースとウィレム・クロース、フレデリク・ファン・エーデンら
 数人のリベラルな知識人が文学評論誌”新案内De Nieuwe Gids”を創刊した。
  その方向性は偶像破壊的で、新案内はオランダ社会と知的生活の新しくそして因習にとらわれないすべてに接触した。
  その最初の関心は文学問題であったが、新案内は同時に芸術、政治そ科学の問題に強い知的自問に焦点を当てるよう努めた。
  ファン・デル・フースの編集のもと、新案内はオランダ知識人の世代にとっての本質的評価基準となり、後に発展しオランダ・マルクス主義
 に広がる重要なテーマを紹介した。
  1880年代末中、新案内の政治的焦点は、ファン・デル・フースと、その協力者でジャーナリストのピーテル・ロドウェイク・タク(1848−
 1907)の発展する考えを反映し、着実に左に移行していった。
  この移行は、当時のオランダ社会の社会勢力のより大きな相互関係と密接に結びついていた。
  1880年代中期に始まり、長引く経済危機は、広範囲な失業と貧困を発生させ、これは一連の広く知られた議会審議で公共の関心を
 受けた。
  国中で、社会主義者は多くの公共集会やデモを開催し、そこでの痛烈な批判は社会の経済構造を狙い定めていた。
  これらは、ドメラ・ニーウェンホイスの偉大な公共演説の年でもあった。彼は絶え間なく、オランダ人民に新しい生活を始めるよう
 呼び掛けた。
  ファン・デル・フースと多くの他の若いオランダ知識人にとって、これら出来事はオランダ社会の体系的社会批判の彼らの最初の
 提示を示した。
  これら出来事で、ファン・デル・フースは政治的発展を進め、労働者階級へ同情的な短い政治的そして社会的エッセイを発行すること
 から、芸術と社会的関与の統一を正当化する美学的理論の展開を試みることへ移行した。
  1889年、ファン・デル・フースはマルクス主義と文学に関する長い論争を始めた。これは次第に社会主義の利益対個人主義への議論に
 展開した。
  この結果、80年代人は間もなく、2つの敵対的グループに分裂した。一方は個人主義と神秘主義に重心を置き、非政治的へ(クロース)、
 他方はマルクス主義へ。
  (新案内では1890年初頭、更にクロースとエーデン間でも対立が生じ1893年クロースは編集から撤退。)
  1890年代中期に結晶化した若いマルクス主義作家グループから間もなく2人の人物が著名になった。
  ヘルマン・ホルテル(1889年詩”五月”出版)とヘンリエッテ・ローラント・ホルスト。
  ホルテル(1864−1927)はカルヴァン派牧師の息子で1890年代のオランダ語の最も重要な詩人であった。
  ホルテルにとって、彼の社会主義への移動は絶え間ない人生の意味の探求から生じた。
  マルクス主義者になる前に、彼の考えに支配的影響したのはスピノザの哲学的著作で、彼はそこでの肉体的と形而上学的力の
 相関性と統一の強調に引き付けられた。
  多くの他のオランダ知識人同様に、ホルテルは最初、社会主義にファン・デル・フースのエッセイによって触れた。
  (S;ホルテルの妻はファン・デル・フースの母の弟の娘)
  ホルテルの社会主義受容は、労働者階級だけが新しい文化的、道徳的秩序を創造できるという確信にあった。
  ファン・デル・フースの奨めで、ホルテルはカウツキーの熱心な学習により資本論を系統的に学習し始めた。
  カウツキーとは後に友人と熱心な称賛者となった。
  彼の詩の様に、ホルテルの社会主義は、厳しい道徳的理想主義と行動への情熱的参加が結びついた統一への探求の印象を
 生み出した。
  一方で、彼の初期の詩は性本能説的インスピレーションと超越的な美の夢想が結合し、彼の後のマルクス主義的詩は社会主義世界が
 人類の最終目標として描かれた人類と宇宙の統一を祝う抒情主義の方へ移動した。
  彼の詩と政治を統一していたのは、詩は時代の情動的そして精神的生活の表現として時代の闘争から呼び起こされた感覚の表現で
 あるべきであるという、彼の信念であった。
  ホルテルは詩は将来の流れに参加するために労働者階級と合体する義務があると感じた。
  精力的な演説者と社会の下積みの人々の情熱的擁護者として、ホルテルは多くのオランダ労働者にとってマルクス主義社会主義を
 具現するようになった。
  オランダ・マルクス主義の理論的発展で、ホルテルはパンネクークに対し2番目の役割しか演じなかった。
  その異なる考えとやりかたで、二人は一緒に、決定的にオランダ左派マルクス主義の性格を形作ったが、ホルテルより、気質の違いで
 パンネクーク以上の人物を想像することは困難であろう。
  パンネクークの個性は穏やかで分析的であるが、ホルテルは深く対立する要素の不安定な混合物で:優しさと柔軟さが気まぐれな気質、
 衝動性と競合し、沈黙と反省の長い時期のあとに活力のみなぎりが続いた。
  30年近くに渡っての密接な友情と政治的協力で、パンネクークとホルテルは見事に互いに補足しあい、パンネクークはしばしば
 困難な理論的問題に専心し、しばしば実践的応用の詳細を無視したが、ホルテルはしばしば彼の精力を実践的問題と組織と宣伝の
 問題に向けた。
  パンネクークの政治的洞察に、ホルテルは限りない信頼を置いた。
  ホルテル同様、ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト(1869−1952)も情熱と広範囲な知的関心をもった才能ある詩人で作家で、
 彼女は主に倫理的、審美的動機から社会主義に至った。
  名士の起源で、彼女は多様な才能で、後に一世代近く、オランダ文学の長老となった。
  彼女の輝く、繊細な精神と行動への無限の情熱の下には神秘主義の底流があり、これは彼女の詩にだけ浮上し、これでしばしば、
 彼女は現実のマルクス主義の論争を自分自身との闘争とした。
  ファン・デル・フースの評論に影響されたが、彼女の社会主義は主にホルテルとの友情で発展した。
  1893年にホルテルに会って間もなく、彼の奨めで、スピノザとダンテの体系的学習に没頭し、これが文学と政治活動の両方の
 インスピレーションの主な源泉として役立った。
  ホルテルがファン・デル・フースと資本論の学習を始めた時、彼女も参加した。
  同じく、彼女の社会主義への影響の重要な源泉は、ウィリアム・モリスから来て、彼を、彼女の夫は知っていて、彼女はモリスの著作を
 翻訳し始めた。
  モリスから彼女は、人類の友情と創造的労働の達成を基礎に組織された世界の未来像を得た。
  ローラント・ホルストにとって、社会主義は理想と社会的現実の再統一、思想、思索、行動と人生が社会の新しい組織原理によって
 個人の存在に統一される新しい時代の到来を意味した。
  1897年4月、ファン・デル・フースに急き立てられホルテルとローラント・ホルストの両者はアルンヘム大会でSDAPに参加。
  ほとんどすぐさま、彼らの活動の焦点は党の理論的評論誌”新時代(デ・ニーウ・テイト)”になった。
  新時代(デ・ニーウ・テイト)は前年、ファン・デル・フースが創刊し、”新時代(ノイエ・ツァイト)”とオランダの同じものを意図した
 ものであった。
  次の数年間、編集はファン・デル・フース、ホルテル、ローラント・ホルスト含めてパンネクーク、エッセイストで薬剤師の
 ピーテル・ウィーデイク(偽名J.サクス、1867−1938)、名士ビジネスマンでジャーナリストのフロレンティヌス・マリヌス・ウィバウト
 (1859−1936)、歴史家ウィレム・ファン・ラフェステイン(1876−1970)まで拡大された。
  個人的資金に頼っていたため(主にファン・デル・フース)、新時代は党の支配外にあり、始めから、批判的、独立的、論争的精神で、
 オランダ・マルクス主義に特有な性格をもたらすのに役立った。
  新時代グループは初期は知的には依然としてドイツ・マルクス主義、特にカウツキーの仕事に依存していた。
  しかし、世紀の変わり目には、より独立的外観が新時代グループに現れ始め、マルクス主義の強調は経済から心理的・文化的因子に
 移っていった。
  イデオロギー的には新時代グループは、始め彼らの社会主義への転換を鼓舞した倫理的、主観的観念論から去り始めた。
  産業資本主義での人類精神の堕落に対する代替の彼らの研究で、新時代派は、人生の基本的転換から生まれた合理的社会主義
 共同体の視点により動機付けられた。
  彼らの未来像は新しい世界での新しい人間を約束し、各人が即時的利益を乗り越え、社会と自分自身内に新しい道徳、文化と
 知的秩序を求めることを呼びかけた。
  この新しい社会の基礎は労働階級の連帯、自己積極性と階級闘争から生じる革命的エネルギーのもとにあると彼らは感じた。
  彼らの主観的観念論を革命的マルクス主義で統合するのを助けるために、新時代グループはヨゼフ・ディーツゲンの哲学的著作を
 評価した。
  これには彼らは種々の解釈を与えた。
  たとえば、パンネクークはディーツゲン体系の方法論的そして科学的面を強調し、一方、ホルテルとローラント・ホルストは彼らが
 ディーツゲンが社会主義に与えたと感じた崇高で、準宗教的なそして夢想的な基礎に引かれた。
  パンネクークは後にディーツゲンについてのまさにこの強調で、オランダ・マルクス主義者が機械主義と改良主義に堕落するのを
 阻止されたと言っている。

  *G;パンネクーク以外にディーツゲンを扱った他の人々の研究には以下のようなものがある。
     ヘルマン・ホルテル:マルクスと決定論、デ・ニーウェ・テイト、1904年
                  史的唯物論;労働者への説明、1908年
     ローラント・ホルスト:ヨゼフ・ディーツゲンの哲学;プロレタリアートへの意味の一般的説明(ドイツ語)、1910年

  ほとんどの編集員は、マルクス主義思想のすべての領域に精通していたが、やがて限られた形態での専門化が発展し、哲学と科学は
 パンネクークによって扱われ;理論はパンネクーク、ホルテルとローラント・ホルスト;経済はファン・デル・フース、ウィーデイクとヴィバウト;
 倫理学はホルテルとローラント・ホルスト、社会学はローラント・ホルストによって取り扱われた。
  この諸人格と諸思想の複雑な交錯から、新時代派は批判的マルクス主義思想の指針として出現し、カウツキーの新時代と豊かさと
 多様さで競い合った。
  20世紀の最初の20年の間、このマルクス主義の学派は、数えきれない、文章、本、パンフレット、演説と政治的接触を通して、
 ホランドの境界をはるかに越えて広がって、ヨーロッパ社会民主に影響を与えた。
  SDAPでの出来事が新時代派の政治的発展を前進させ、この豊かな理論的問いかけがますます革命的マルクス主義の統一理論の
 基礎を形成した。


 ・まず生活、次に理論  労働組合、農業と学校論争

  SDAPでは内部闘争がゆっくり展開、1901年春、公然化。
  新時代周辺のマルクス主義知識人は印刷技術者ウィレム・フリーヘン、技術者ヘンリ・ファン・コールヤン・スハペルらの改良主義者
 と直面。
  彼らはドイツの改良主義者と異なり、理論にはほとんど関心がなかったが、フリーヘンだけがベルンシュタイン支持を公言。
  多数派の心情は名ばかりの党首トルールストラの周辺にあり、トルールストラはカウツキーの支持者と称していた。
  トルールストラは党を議会で大きくすることに主関心があった。
  トルールストラはオランダの産業労働者階級の弱さを知っており、非プロレタリア分子に訴えようとしていた。
  トルールストラは党内闘争では通常、修正主義者と手を組んだ。
  最初の衝突の影は1899年初めで、労働組合政策であった。
  直接の焦点は、ニューウェンホイス追従者のNASに結集するアナルコ・サンディカリストへの対応であった。
  1890年代末までに、ヘンリ・ポラック率いるANDBは、NASのイデオロギー的、組織的挑戦者として展開、ポラックはイギリス労働組合を
 モデルとしていた。強制組合費、専従者、豊かな財政、権力集中指導部、訓練された一般組合員の重要性を強調。
  労働組合の型の議論で、新時代グループと党指導部は分かれた。
  トルールストラはSDAPと協力する労運動構築に関心があり、NASとのいかなる協力も反対、一方、新時代グループはNASに
 好意的であった。
  トルールストラはANDBをモデルとする労働組合連合を提案、ホルテルはNASへの財政支援を提案。
  しかし、SDAPでは労働組合問題より、農業問題がもっと先鋭で、党に亀裂を巻き起こした。
  トルールストラの要求で、党の綱領では市有地を小自作農に賃貸して、小自作農が賃労働者をそこで働かせることを許可していたが、
 ホルテルはこれはマルクス主義からの逸脱と批判した。トルールストラとホルテルの論争は過熱した。
  論争は更に教育問題に及んでいった。
  トルールストラは、1901年、反革命党がSDAPの支持者に近寄ってきたときに、宗教教育への国家援助支持を提案した。 
  社会民主教育連合SDOVの新時代グループに近いヤン・セトンらはSDAPにいかなるかたちの国家の宗教教育への譲歩の反対を
 要求した。
  トルールストラはこれに強く反発、一方、ホルテルとローラント・ホルストはこれに賛意の意志を表明した。
  1902年の前3カ月は新聞”人民”上で論争は過熱した。
  トルールストラと党指導部に対し、セトン、ホルテル、ローラント・ホルスト、ピーテル・ウィーデイクら。
  これに対し、パンネクークとファン・デル・フースは中立的であった。
  結局、農業問題同様結論は妥協的なもので、党の政策にはほとんど影響をあたえず、主に党指導部と新時代派の個人的関係に影響を
 及ぼしただけであった。


 ・分裂の深化 1903年のオランダ大衆ストライキの波とその余波

  1903年はオランダにおける大衆ストライキの波で画期され、左翼の転換期となった。
  パンネクークは以前は党派闘争を避けるよう努めたが、今や反対派の主要な代弁者となった。
  ストライキは、アムルテルダムで船舶会社が非組合員労働者を雇い賃金削減を強化しようとしたのに対する自然発生的作業停止で
 始まった。
  使用者は交渉を拒否し、ストライキ労働者を解雇。NASはこれに対し連続ストライキで応答、これでストライキは事実上港での2週間の
 全国ストライキとなった。
  ストライキはアムステルダムの鉄道労働者に広がり、ハーグでの1月の鉄道労働者の集会でSDAP指導部の強い反対にもかかわらず、
 全国運輸ストライキ要求が承認された。
  オランダ中の他のNAS組合が、どんな全国ストライキ運動にでも参加する意思を示し、危機は新局面に到達。
  鉄道企業と船舶会社は降伏し、ストライキが勝利した。新時代グループはこれを称賛した。
  しかしストライキの勝利はすぐさま雇用者の反撃にあった。
  カイパー政権は鉄道労働者と公的部門の反ストライキ法案を提出。
  SDAP、NAS、その他の独立組合はこれを阻止する抵抗委員会を組織化。
  抵抗委員会は全国ストライキ宣言の問題で分裂、アナルコ・サンディカリストは賛成、社会主義者と非NAS組合は躊躇。
  妥協戦術が採用され、状況にあって鉄道と港湾労働者のストライキを許し、ストライキの成功に必要なら全国ストライキに広げるという
 ものであった。
  トルールストラ、ウィレム・フリーヘン、鉄道組合指導者ヤン・アウデヒーストの反対にもかかわらず、抵抗組織化委員会は鉄道と
 港湾労働者のストライキを宣言。
  政府はこれに対し、軍隊を動員し、参加者をアムステルダム市街に追い出した。
  抵抗委員会はストラキに際し、大した努力もせず、ストライキへの支援も小さかった。
  にもかかわらず、抵抗委員会は全国ストライキを宣言。いくつかの組合が従ったが雇用者は十分な労働者を確保し、操業が
 続けられた。
  このため、多くのアナルコ・サンディカリスト労働者の反対にもかかわらず、抵抗委員会はストライキを中止せざるを得なかった。
  4月、全国ストライキの失敗はオランダ労働者階級に大きな負の結果をもたらした。
  労働組合の闘争能力は、以来十年に渡り破壊され、多くの活動的鉄道労働者が解雇された。
  政治的にはアナルコ・サンディカリストと社会主義者の間に永久の亀裂を生じさせた。
  SDAPは1905年、オランダ労働組合連合NVVを結成した。
  このストライキの波は、パンネクークと新時代グループに消し難い2つの遺産を残した。
  社会主義者の戦術の装置としての”大衆政治ストライキの正統性”と、社会主義への転換への鍵の役割としての組織より”大衆の
 優越性”。
  パンネクークは、1903年のストライキの波のような行動から、新しい運動と新しい政治的自覚の水準が展開したと述べた。
  SDAP内部では、4月ストライキの失敗はトルールストラの指導性への新たな攻撃と、全国ストライキに関する長い理論闘争を
 引き起こした。
  トルールストラは、当初ウィレム・フリーヘン、ヤン・アウデヒーストと異なり、全国ストライキに対し、新時代派と同様の熱狂をもって
 いたが、やがて突然、転換し、差し迫るストライキに攻撃を始めた。
  パンネクークはトルールストラを激しく攻撃した。パンネクークはトルールストラの攻撃にホルテルとローラント・ホルストを誘った。
  新時代派はトルールストラを”人民”の編集者から除こうとし、1903年、編集者はP.L.タクと交代。 
  ”人民”はSDAP一般党員に考えを広める唯一の媒体であった。
  全国ストライキの正統性はもっと基本的問題であった。
  1903年、抵抗委員会で議論が起こった時には、ローラント・ホルストが政治的ストライキ戦術を公式化した。
  彼女は、全国ストライキと社会民主に関する理論的作業の考えを拡大した。これはヨーロッパ中に回覧された。
  1903年5月大会で、ホルテルがSDAPの将来の全国ストライキへの参加を要求したときは、新時代派はP.L.タクの全国ストライキは
 曖昧に認め、普通選挙権の目標がより望ましいという提案に妥協せざるを得なかった。
  新時代派は社会民主の戦術として、大衆政治ストライキが使用される条件を決める、1904年大会のためにパンネクークに提案を
 起草させた。
  パンネクークは大衆政治ストライキを、新しい闘争形態と位置付けたが、それ自体を戦術的手段として使用することを擁護するまでは
 至らなかった。
  全国ストライキはある限られた目標を遂行するまたは労働者への反動的攻撃に抵抗するのに有効でありうる、他の戦術への必要で
 有用な補足と論じた。
  同時に、大衆ストライキの使用は、ほとんどどんな場合も資本主義国家との対決に至るので、最大の注意をもって使用されるべき非常に
 危険な手段であると警告した。
  アナルコ・サンディカリズムにより批判的な、この提案の修正版が党執行部に受け入れられ、1904年大会で紹介された。  
  フリーヘン率いる右派と激しいやりあいの後に、小差で主にトルールストラ派の支持で承認された。
  1905年のロシア革命の結果、新時代派は更に急進化した。
  新時代派は、革命の時代は近づいており、党の使命はマルクス主義的意味の階級闘争を注入し、オランダ労働者階級を革命的危機に
 備えさせることであると確信した。
  1905年の選挙では、反ストライキ法と1903年抑圧の反革命党のコイペルに対する選挙連合が形成され、これへの対応が
 問題となった。
  SDAPは、パンネクークとトルールストラの提携案で、第2次投票では普通選挙賛成の候補を除き、一括してすべての反コイペル派を
 支持する戦術を拒絶。
  しかし2次投票での反コイペル連合勝利の見込みが強まると、党執行部と人民編集部は、党大会の解釈を、個人が自由に各自の意識で
 投票してよいとした。
  この一方的決定は、左からの鋭い反応を引き起こした。パンネクークが攻撃の先頭に立った。
  党指導部は決選投票を一般党員に対し、資本主義と社会主義の対立としてでなく、コイペル体制に対する闘争として提示し、そのため
 労働者の政治意識を弱体化させ党の鍛錬を破壊し、党の組織解体の精神と政治的堕落を推進した批判した。
  問題なのはコイペル政権ではなく、 ロシア革命の成長から発展するであろう、革命的参政権闘争のための労働者階級の思想的準備
 である。
  1906年大会は新時代派の完敗となった。特別委員会は、新時代派は批判の自由を誤用し党の統一を破壊したと、有罪宣告された。
  激しい論争の後、報告は圧倒的に承認された。新時代派はすべての党活動家の拒否に直面した。
  新時代派は、オランダの社会と経済発展の体系的及び実証的分析を試みるより、普遍的有効性の一般的、抽象的言葉と説明で
 議論した。
  新時代派は、彼らの見解を行動に移す、大衆的追従者あるいは草の根幹部の育成ができなかった。

  (*S;ストライキへの関与の件で、パンネクークは首相のコイペルに召喚され、公務員としての行動を問いただされた。 P-H:思い出
   解雇はされなかったが、以降彼は党活動を自粛し、理論的活動だけに制限した。 huygensあるいはBWSA

  (*1903年、彼の姿勢はすでに急進的であった。ライデンの大労働者集会での介入で、労働者はすべての可能な手段で犯罪的法を
  阻止しなければならないということを要求する決議を提出し投票された。
   解雇の脅威のもと、彼は首相のコイペル(1901−1905)によって召喚され、彼はパンネクークの文章に注目した。
   マルクス主義と彼の文章についての一般的議論のあと、パンネクークはコイペルから”公務員は自由にその政治的意見を表せる”
  という同意を得るのに成功した。しかしかれは仕事を失ってまで法律と衝突にはいるつもりはなかった。
   これらの脅しはパンネクークが法とブルジョア国家に反対して絶えず書くことをやめさせることはできなかった。)
   →オランダとドイツの共産主義左翼

  (*S;SDAPの政治的前進
   SDAPは1894年、365票、0/100議席、1897年、12312票、3議席、1901年、36981票、7議席、1905年、
  65561票、7議席、1909年、82855票、7議席、1913年、142185票、17議席、総投票数768708票。
   1913年、独立リベラルのピーテル・コルト・ファン・デル・リンデンがSDAPの支持でリベラルとキリスト教歴史連合の連立政権を
  結成し、1917年、普通選挙権と比例代表制導入。8時間労働と公私両学校への平等資金援助も導入されオランダ社会の柱状化をもたらす。
   1917年は全国同盟25議席、リベラル連合22議席、SDAP15議席、ARP11議席、歴史連合10議席、自由リベラル同盟10議席、
  VDB5議席など。
   1918年選挙は普通選挙制で全国同盟30.0%、30議席(+5)、SDAP(296145票)22.0%、22議席(+7)、
  反革命党13.4%、13議席(+2)、キリスト教歴史連合6.5%、7議席(−3)、リベラル連合6.2%、6議席(−16)、
  自由思考民主同盟VDB5.3%、5議席(−3)、自由リベラル同盟3.8%、4議席(−6)、社会民主党(31043票)2.3%、2議席など。
   普通選挙制で全国同盟とSDAP増加。リベラル大幅減。総投票数は1344209票。
   1922年、女性参政権下で全国同盟29.9%、32議席、SDAP(567769票)19.4%、20議席、ARP13.7%、16議席、
  歴史連合10.9%、11議席、リベラル国党9.3%、10議席、VDB4.6%5議席、共産党53664票、1.8%、2議席など。
   総投票数2929569票、宗教政党が微増。
   1939年、2名初入閣。
   1913年は、3名入閣の誘いを拒否、フース、トルールストラ、ウィバウト賛成、フリーヘン、ヤン・スハペルら反対)


第4章 社会主義的洞察の大衆への橋渡し  1906−1909

 ・ベルリンの年々 SPDに対する理論的、宣伝的仕事

  SDAP枠内で、パンネクークの政治的発展は大きく進んだが、オランダ社会主義運動の時間を消費する論争、社会主義者の活動の
 主要な中心からの孤立にパンネクークはだんだん不満になってきた。
  国際的社会主義運動の中心のドイツに飛び込んでみたくなってきた。そこでは理論的能力がもっと有効に使用されるだろう。
  この目標は、1906年新しく創設されたベルリンのSPD党中央学校の教師への申し出があって実現した。
  この申し出は、主にカウツキーとパンネクークの間の個人的関係の成果であった。
  パンネクークとカウツキーの最初の出会いは1900年、彼がカウツキーのアムステルダムでの講演に参加したときであった。
  1年後、パンネクークがカウツキーにSPD文庫にあるマルクスとディーツゲンの通交資料について問い合わせを書き、マルクス主義理論
 に対するディーツゲンの重要性について議論を始めたとき、規則的接触ができあがった。
  カウツキーはパンネクークへノイエ・ツァイトに何か書かないか尋ねた。
  この関係は、種々の理論的仕事での密な連絡と協力によって深化した。
  カウツキーを通して、パンネクークはドイツ人の他の活動家と知り合い、フランツ・メーリンクはライプツィッヒ人民新聞に投稿することを
 勧めた。
  パンネクークは最初、党学校教師の申し出に躊躇した。
  これは成功した知識人の快適な生活への彼の好みと、革命的マルクス主義者としての活動の人生上の衝突によるものであった。
  彼は観測所(天文台)の地位をあきらめることを躊躇していた。
  カウツキーは観測所の地位を上回る給与を確保し、結局、観測所での仕事に不満足(時代遅れの子午線観測)だったこともあり、
 ドイツ社会民主主義への楽観的見込みから、申し出を受け入れた。
  パンネクークは党学校の性格と社会主義運動の知的発展についてカウツキー、メーリンク、ベーベルとやりとりした。
  パンネクークはライデンでの一般的マルクス主義教育の経験から、概念的過程にもとづいた指導を構築することを要求した。
  洗脳の大衆的形態に陥らないためには、理論的教育は自己教育とはっきりした実践的目標をもった現実性を明確化する活動的過程に
 ならなければならない。
  資本主義の物質的および観念的要素の正しい理解がなければ、外部的、直接的要因だけが考慮されると、戦術は確立された伝統や
 表面的経験主義に支配される。
  パンネクークは1906年11月、ベルリンに到着し、一旦カウツキーの自宅に客として滞在し、12月、”史的唯物論と社会理論”という題で
 教育課程を始めた。
  しかし、仕事は1907年9月、突然終わった。警察が彼とルドルフ・ヒルファーディングがドイツ市民権をもたないことを理由に教えることを
 禁止した。SPD執行部は、パンネクークをローザ・ルクセンブルクに、ヒルファーディングをハインリッヒ・クノーに代えた。
  パンネクークは経済的窮地に陥ったが、最終的にメーリンクの週間新聞への執筆の誘いで解決した。
  1908年2月、パンネクークは通信員としての文章を書きはじめ、これは第1次大戦の勃発まで続いた。
  小さな回覧紙や大きな新聞に書いて収入を得た。
  第1次大戦の勃発時、26の新聞に書き、これには個人のものもあり、レーニンのものもあった。
  彼は、その他、通いあるいは旅するSPDの講師となり、これによって、ドイツじゅうの左派グループと関係を確立する機会を得た。

  *S;新聞通信員としての文は主にブレーメン市民新聞(アルフレット・ヘンケ)、ライプツィッヒ人民新聞(フランツ・メーリンク)に載った。
   この頃の投稿は、他にドイツ語新聞ではベルン覚醒Berner Tagwacht(スイスのロベルト・グリム)、光線(ユリアン・ボルハルト)など。 
   英語では国際社会主義者評論( International Socialist Review、シカゴ)と新評論(The New Review、ニューヨーク)
   そしてもちろんノイエ・ツァイト、オランダではデ・ニーウェ・テイト(De Nieuwe Tijd)とデ・トリブーネ(De Tribune)。
    →総合アーカイヴ


 ・攻勢中の妥協しないマルクス主義 トリブーネ派左翼

  ドイツでの長い滞在中でも、パンネクークはオランダ左翼反対派の理論家として著名な役割を演じた。
  1906年のSDAPのユトレヒト党大会での、左派への非難は指導部との溝が深まったことを証明した。
  新時代派がその影響を党指導部と出版から失う見込みに直面し、オランダ左派は徐々に新時代派の伝統的知的チャンネルを
 乗り越え、党内に彼らの見解を広める手段を展開させる必要性を認識し始めた。
  この実現は、新しいより戦闘的な左翼反対派の出現の最初のきっかけで証明された。
  このグループは週間新聞”デ・トリブーネ(護民官)”の周辺に結集した。
  新時代派は、依然として活発な反対派で、主要な理論分析の中心として機能したが、トリブーネ左派は着実にその位置をSDAP内の
 革命的左派の駆動力とし始めた。
  ダフィド・ウェインコープ(1876−1941)、ウィレム・ファン・ラフェスタイン、ヤン・セトンの3人が中心であった。
  ダフィド・ウェインコープはアムステルダムの首席ラビの息子で若くしてドメラ・ニューウェンホイスの演説に出席し社会主義者となった。
  学生社会主義運動で活動し、1898年SDAPに参加、着実に著名になった。
  セトン(1875−1943)は教師であった。セトンは3人の中で最も戦闘的で非妥協的であった。
  2人と異なり、ファン・ラフェスタイン(1876−1970)は学者で、理論家の気質で、オランダで博士号を得た最初のマルクス主義者
 であった。SDAPのライデン支部に1899年参加し、すぐにパンネクークの友人及び弟子となった。
  ユトレフト大会の敗北で、3人は左派のマルクス主義週刊新聞を分離させる基礎的作業を始めた。
  この考えは、新時代は小さな知的聴衆のためのものになったと感じる多くの反対派の長い関心事であった。
  この件は、1907年のハーレム党大会での新時代派の大規模な降伏で、緊急を要するようになった。
  新時代派の多くは分裂を望まず和解を模索した。
  しかし、パンネクークとホルテル同様に、3人にとって、降伏の決定は深い失望であった。
  結論は、左派は党の一般党員と党外の労働者の両方の動員を試みるしかないということであった。
  パンネクークの意見は、この努力を助けるために新聞の創刊はいまや絶対必要であるということであった。
  1907年7月まで、資金支援は確保された(多くはホルテルから)。発刊は秋に設定された。
  パンネクークは定期的にベルリンから手紙を書くことに同意した。
  (パンネクークは1907−1918年にトリブーネに投稿している。)
  しかし、この時期までにグループは党の3つの支部の支援を得たに過ぎない。
  セトンのアムステルダム3区、ホルテルのブセム、パンネクークのライデン。
  1907年10月19日、トリブーネの創刊号が出現。トリブーネは最初の宣言で国際性志向を宣言。
  編集者は新時代が決してなさなかった、戦闘的マルクス主義者政策のための闘いを、直接一般党員と労働者階級にもたらすことの
 重要性を強調した。
  ウェインコープとセトンは、労働組合と党との接触により党の各地の支部の支援者の組織化を始めた。
  トリブーネ派の出現はオランダにおける経済危機の時期に一致しており、党指導部へのはっきりした反乱は大きな可能性があると
 感じた。
  初期の数カ月でトリブーネ派は幅広い色合いの人々、左派と関係ないようなヘンリ・ポラック、ヨせフ・ロープイットアドルフ・デ・レフィタ
 フロレンティヌス・マリヌス・ウィバウトなどから支援を受けた。
  党指導部に対する長期的闘争で、トリブーネ派は、ドイツSPDをマルクス主義政策のモデルとして受け入れ、基本的イデオロギー的
 概念をカウツキーの正統的マルクス主義に従って公式化した。
  同時に彼らの革命的活動家実践は、依然として伝統的なものに強く根差していた。
  12月、パンネクークは、トルールストラの社会民主は徐々に議会制民主主義と妥協がつくという理論に対し、階級闘争を基礎とした
 戦術から展開されたものではなく、党に公然とブルジョア政治制度への統合を準備させるものだと返答した。
  ウェインコープはこの批判を党のゆっくりした党員増加は郊外地域での活発な扇動過程追求の失敗の直接的結果と論ずることによって
 拡大した。
  トリブーネ派は同様の批判をSDAP支配のNVVに属する労働組合にも採用した。
  ウェインコープはロシアの労働組合の激しい戦闘性とNVV組合の受動性を比較した。
  セトンは、SDAPは積極的に労働組合運動での改良主義を強化していると論じた。
  組合官僚制の成長、組合出版物での社会主義意識の欠如、8時間労働から10時間労働への支援転換、参政権への消極的態度
 などがセトンによって改良主義政策に起因するとされた。
  トリブーネ派はまた、自発的ストライキ活動を支援・励まし、これによってNVV指導部としばしば衝突した。
  トリブーネ派の戦術の鍵は、戦闘的参政権闘争はオランダ労働者階級の急進化の触媒として働くだろうという信念であった。
  1908年、パンネクークは参政権問題について、プロシアの参政権デモを報じながら理論的焦点を置き始めた。  
  デモは、パンネクークにドイツ国家権力は崩壊しつつあり、労働者階級が強化されつつあることを確信させた。
  彼は参政権運動は、大きな逆らい難い古い秩序を一掃する社会主義者の戦闘性の波を覚醒させる可能性があると熱く信じた。
  一方、オランダでは、トリブーネ派はSDAPがリベラルが支配する普通選挙委員会から撤退し、プロシアの運動をモデルとした独立した
 階級基礎の扇動運動を行うことを要求することに焦点を集中させた。
  始めは党指導部はトリブーネを無視していたが、1908年3月、ローラント・ホルストがヨーロッパ社会民主の歴史を、1892年以前の
 活動家の資本主義との闘争で特徴付けられる英雄期、1892−1903年の資本主義経済成長期での修正主義と改良主義の高潮期、
 階級の両極化をもたらす1903年から始まるゆっくり展開する世界危機期にわけ、1903年の経験もロシア革命の間接的な影響も
 SDAP内の反社会主義的傾向の発展を妨げるほど強くないと述べた。
  これに対し、党指導部はトリブーネの攻撃に乗り出した。
  トリブネーネ派と指導部の間で、新聞”トリブーネ”や”人民”上や党組織での非難・攻撃が行われ、トルールストラは党指導部と諮って、
 トリブーネ派の行動を抑制しようとした。
  1908年4月、アルンヘム大会は、トリブーネとSDAPの関係が主要な問題であった。執行部提案が通ったが、新聞発刊を直接批判は
 していなかった。
  大会後抗争は続いた。
  トルブーネ派は地域での地位強化を図った。 
  トルールストラはトリブーネ派が党外にでることを望んだ。
  ファン・ラフェスタインはベルリンに行き、パンネクークの助けで、カウツキーとローザ・ルクセンブルクの支援を求めたが彼らは中立的で
 あった。
  執行部により、トリブーネ派の行動は批判され、ホルテルはトリブーネ派を擁護した。
  スハペル、フリーヘンはトリブーネ派の追放を検討する特別党大会招集を執行部で提案し、4対3で敗北、辞任。
  激論の末、党大会での投票を求めることで妥協。
  トリブーネ派と結びつかないマルクス主義者は、党の統一とトリブーネ派に対するいかなる行為にも反対する宣言を作成、1909年1月、
 人民上に、48名の著名なマルクス主義者の署名で発表された。
  トルールストラは、トリブーネに代わる”人民”を補う週刊誌の発行を提案し、執行部は承認し、ローラント・ホルストとウィバウトが
 編集者を承諾。
  しかし、2月7日、トリブーネは自派の集会を開催、追放を覚悟して、トリブーネを維持することを決定。
  1909年2月、デフェンテル党大会で追放が承認された。大会では290対88、党員投票では3712対1340。
  大会ではホルテルが、トルールストラを党をローマカトリック教会に変えたと批判、ウェインコープは労働者とともにプロレタリア党結成する
 ことを宣言。
  この間のできごとで、トリブーネ周辺と新時代周辺のマルクス主義者には深い分裂が生じた。
  ファン・デル・フースがトリブーネ派を積極的に支援しなかったのは、分裂で彼の生涯の仕事と党での地位が破壊され、ウェインコープへの
 周辺化への恐れであった。
  ウェインコープは、我々純粋なマルクス主義者は、1907年から分裂を望んでいたが(ファン・デル・フース、ウィバウト、ウィーデイクらの)
 新時代周辺の平和マルクス主義者は反対したと述べた。
  また、ウェインコープは、新時代派は労働者の理解できない仕方で、知識人や扇動家の言葉で語るが、我々は労働者が理解できる
 言葉で語ると述べた。
  ローラント・ホルストはこの問題で悩んだ。
  トリブーネ派に共感的であったが、労働者組織から切り離されることへの恐れと、ウェインコープとファン・ラフェステインへの個人的反感を
 もっていた。
  ホルテルは曖昧であったが、なにより党内外のマルクス主義者の分裂による力の低下を恐れていた。
  パンネクークもホルテルと同様で、マルクス主義者の分裂を避けようとした。彼はトリブーネ派と新時代派の両方に批判を向けた。
  1909年2月21日、トリブーネ派は新党結成を決定。



             その1 その2 その3             


*参考
アントン・パンネクーク小伝
フランク・ファン・デル・フース小伝
ヘルマン・ホルテル小伝
ヘンリエッテ・ローラント・ホルスト小伝
ヘンク・スネーフリート小伝
オランダ初期社会主義群像
オランダとドイツの共産主義左翼
オランダのアナーキズム





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