<<フィンランドの左翼>


〔左翼同盟Vas〕 Vasemmistoliitto
 フィンランドの緑社会主義政党。北欧緑左翼連合のメンバー。
 左翼同盟は約10%の得票率を得ている。
 左翼同盟は1995―2003年のパーヴォ・リッポネン(社会民主党)内閣(虹連立)で3人の大臣をもった。
 左翼同盟は2007年は国会議員17名と欧州議会の議員1名。
 平等、自由、持続的発展を基本価値とする。

 1980年代末人民民主同盟で共産党と人民民主同盟と共産党内部抗争を解決する考えが出始めた。
 1988年大統領選での88運動結成がその手掛かりであった
 1990年4月、フィンランド人民民主同盟SKDL Suomen Kansan Demokraattinen Liitto、フィンランド女性民主同盟SNDL
フィンランド共産党SKP Suomen kommunistinen puolueの統合により生まれた。
 1990年に解散した民主選択DeVa Demokraattinen Vaihtoehtoからも多くの参加者があった。
 最初の議長はクラエス・アンデルッソン、書記マッティ・ヴィーアライネンMatti Viialainen(1953年生)。
 統合の宣言で平和と環境に加え、自由・平等・博愛というフランス革命の思想を世界に推進する必要を強調した。
 党の短い歴史は社会に関する異なった見解をもつ人々の党内論争で特徴付けられる。
 左翼同盟から社民党へ(SKDL最後の指導者レイホ・ケケレ)と新しく形成された共産党(統一)へ1990年代何回かの大規模な
脱党があった。
 1995年政権参加(パーヴォ・リッポネン)に反対したエスコ・ユハニ・テンニレミッコ・クオッパヴェイホ・プフホ左翼ブロック
形成したが1999年選挙で復帰。
 2005年、前の党書記でフィンランド労働組合中央組織SAKの副首脳のマッティ・ヴィーアライネンはフィンランドの二つの最大の
左翼政党である左翼同盟と社民党の統合を推進する組織左翼統一ヴィーアライネンティモ・ロッポラ、2006年社民党参加)を
形成した。
 これは党内に批判を巻き起こし、ヴィーアライネンは党を破壊しようとしていると非難された。
 2006年、党の指導者のスヴィ・アンネ・シーメスは辞職し、党の左派(タイストイストとされる、ヤーコ・ラークソJaakko Laaksoら)
との長い不和の結果、5月、マルッティ・コルホネンMartti Korhonen(1953年生)が新指導者に選ばれた。
 競争相手はパーヴォ・アルヒンメキなど、コルホネン273票、アルヒンメキ150票、その他145票。
 2009年議長がマルッティ・コルホネンから1976年生まれのパーヴォ・アルヒンメキに交代。
 議長選挙はメリヤ・キッロネンと争われ30対24でアルヒンメキの勝利。
 パーヴォ・アルヒンメキ赤・緑(エコ社会主義)路線で2001−2005年左翼青年議長。国際社会主義傾向の社会主義者同盟から
支持されている。
 その起源にもかかわらず、党は社会主義と共産主義思想の提携から“新左翼”と“緑社会主義”の連携へ変化しようとしている。
 党の政策はリベラリズム、社会正義、フェミニズム、環境を強調している。(第3左翼)
 1995年、310340票、11.2%、議員22名から2007年は244296票、8.8%、17名まで徐々に低下。
 2009年欧州議会選挙は5.9%と前回9.1%から大幅低下。
 2011年国会選挙は8.1%、14議席。
 国民連合ユルキ・カタイネン(1971年生)首班の社会民主党SDP、緑同盟、スウェーデン人民党SPP、キリスト民主との6党連立政権
に参加、2閣僚を入閣。アルヒンメキが文化・スポ−ツ相、メリヤ・キッロネン(1977年生)が運輸相。
 マルクス・ムスタイェルヴィユルキ・イルティアホが政府不信任投票をし、左翼同盟議会グループから離れ左派グループを結成。
 2014年、子供費用と社会保障削減に反対し2人の閣僚は辞任。
 2014年EU議会選で議席確保。
 2015年選挙は7.13%、12議席。
 2016年、1987年生まれのリ・アンデルソンが指導者となる。彼女はスウェーデン系フィンランド人。リンネ、マリン内閣で教育相。

 右翼の真フィンが2006年から進出し始め2009年欧州議会選挙はついに9.8%獲得、2011年は19.0%、39議席と34議席増。
 真フィンは福祉国家を支持し、欧州懐疑主義で以前の左派政党支持者を吸収している。

 2019年選挙は8.2%、16議席。

(フィンランド(スオミ)共産党SKP) Suomen kommunistinen puolue
 SKPは1918年秋モスクワで設立された。党の設立者は主にフィンランド内戦のあとロシアに逃げてきた赤であった。
 その多くはかつてフィンランド社会民主党の周りで活動していた。
 ユリヨ・シロラ(1876生−1936年没、1918−1920年指導者)、クッレルヴォ・マンネル(1880生−1939年没、
1920−1935年指導者)、ユッカ・レーフトサーリアドルフ・タイミタイヴォ・アンティカイネンエイノ・ラフヤアルヴォ・トゥオミネン
らが結成に参加。タイミラフヤはフィンランド系ロシア人でボルシェヴィキとしての活動経験があった。
 1920年ペトログラードで豪勢な生活をしていた内戦で亡命したSKPメンバー幹部らと他のメンバーに亀裂が生じSKP
幹部らが襲撃されるクーシネン・クラブ殺人が起こった。8名が死亡し10名が重傷。
 幹部のヴェイノ・ホキネンユッカ・ラフヤエイノ・ラフヤ弟)らが殺され、ヴィオット・エロランタエルヴィラ・エロランタ
殺人罪で処刑される。”殺人者反対派”の中心はペトログラード赤軍士官学校の生徒。

 1921年アルヴォ・トゥオミネン(1894生−1981年没)はクシーネン派となりマンネルに挑戦、1920−1940年代フィンランドでの
共産党の主導権を握った。しかし冬戦争時期から共産党から離れ後には社民党に移った。

 SKPは設立からフィンランドで禁止され(1944年まで)、そのため指導者はほとんどソ連にとどまりざるをえなかった。
 しかし1920年代に地下運動網を建設した当初から、党は種々の公然組織たとえばフィンランド社会主義労働党
などに重要な影響を与えた。
 共産党影響下の種々の公然組織が設立されそのたびごとに共産党との関係を理由に禁止され議員と活動家は
逮捕された。

 フィンランド社会主義労働党SSTPは1920年5月、共産主義者と社民党から分離した急進左派によって結成され
ヤーッコ・キヴィオットー・クシーネンニーロ・ヴェレッリヴェイノ・ヴオリオアルヴォ・トゥオミネンら)、1923年8月
まで活動、党からは立候補できなかったので、1922年2月、労働者中央選挙委員会が社会民主青年同盟フィンランド労働組合
社会民主女性同盟によって設立され、国会選挙で128121票、14、8%、27議席(女性6名)を獲得した。
 SSTPは1923年初期フィンランド労働党と名を変えるが禁止され議員と活動家は逮捕された。
 1924年1月には社会主義労働者小農選挙組織STPを設立、1930年夏政府により閉鎖される。
 この組織は1922年には27議席、128181票、14.8%、1924年18議席、91839票、10.4%、1927年20議席、
109939票、12.1%、1929年23議席、128164票、13.5%を獲得した。

 1920−1930年代フィンランド左派労働者グループが活動した。組織は1929年に結成されたが、すでにSKP結成前は
左派グループとして活動し、1920代中からSKPと対立。
 ニーロ・ヴェレッリ(1897生−1967年没)が率い、クスティ・クロ(1948−1966年SKDL指導者)、エイノ・ペッカラ(のち社会統一党)らが参加。
 彼らはソ連在住SKP指導者とコミンテルンを批判。

 1930年代後半はハンネス・メキネン(1901年生、1935−1937年)、ユッカ・レーフトサーリ(1937−1938年)らロシア在住者が指導者
となりともに1938年逮捕され収容所で死亡した。

 1929年、自作農の間から反共のラプア運動が発生し、共産党員や左翼にたいするテロを繰り広げ、共産党の完全非合法化を
要求した。スヴィンフフヴド内閣は全共産党議員を逮捕し、反共法を成立させた。その後もラプア運動のテロは拡大し元大統領の誘拐
をもはかるようになり、支持を失っていき、1932年、マンツァラで反乱を起こし鎮圧された。
 1930年代初期には共産主義者の公然活動は阻止され、SKPの労働運動への影響は減少した。
 党は数千人の秘密組織となったが、コミンテルンの政治路線をフィンランドに採用しようと努めた。
 1930年代、多くの党の指導者と活動家がスターリンによって粛清され、ソ連のSKPは荒廃した。
 (これにより内戦時、フィンランド社会主義労働者共和国の首相となり、1920−1935年の共産党議長であった、クッレルヴォ・
マンネル
も1939年、獄死した。)
 冬戦争(1939.11.30−1940.3.13、その間1939.12.1.ソ連が占領した北辺国境付近でのオットー・クシーネン
(1881生−1964年没)を首班とするフィンランド民主共和国設立)と継続戦争(1941.6.26.−1944.9.19、この戦争では
フィンランドは事実上ドイツ側にたってソ連と戦ったため、イギリスはフィンランドに宣戦布告している。)の間、共産主義者と疑われた
ものは投獄され、共産党の活動は停滞した。
 冬戦争のあとフィンランドはドイツとの軍事提携の方向に向かい、そのため左翼は7月、フィンランド・ソ連平和友好協会SNSを
設立し、35000人以上メンバーを擁し戦争準備に反対したが、翌月、親共産主義として禁止された。
 継続戦争のあと共産主義者は解放され、SKPは公然活動を始めた。
 党は急成長し数万人の党員を擁するようになった。
 SKPは西欧最大の共産党となり、共産主義者は政府高官になった。
 SKPはSKDLの名簿で選挙に参加した。
 アイモ・アールトネン(1906生−1987年没)が長期(1944−1945年、1948−1966年)に共産党を支配した。
 戦後アールトネンとともにインケリ・レフティセンヘルッタ・クーシネン(1904生−1974年没、オットー・クシーネンの娘)、
アイリ・メキネンらが党に影響力を持った。
 SKDLは多くの政府(1940年代と1960年代中)に参加し、主要な議会党の1つであった。SKPはいつもSKDLを支配していたが、
SKDLには多くの社会主義者もいた。
 1945の選挙では49議席で第1党(SKDL)となり多くの閣僚を出した。
 1948年4月、共産党のクーデタ未遂事件と保守派の新聞で宣伝される不可解な事件が起こった。
 その影響により7月の選挙は38議席となり閣外に去った。
 1966年の選挙で社民党は38から55議席となり、中央党(旧農民党)49議席、共産党41議席の連立(赤土連立政権)が成立。
 共産党はラファエル・パーシオ(1966−1968)、マウノ・コイビスト(1968−1970)政権に参加した。
 冷戦の時期がフィンランド共産主義者の黄金時代であった。
 1944−1979年の間のSKDLの支持は17−24%の範囲であった。

 1960年代半ば、アールネ・サーリネン(1913生−2004年没)に率いられてSKPが党路線を近代化しようとしたときに、SKPの党内分裂が
始まった。少数派党幹部はこれを受け入れず、指導者を修正主義と非難した。
 マルクス・カイヌライネン(1922生)、ウルホ・ホキネンが反対派の中心人物。
 1968年党機関紙共産主義者編集長インケリ・レフティセンはチェコスロヴァキア介入を正当化した。
 これら正統マルクス・レーニン主義派はタイストイストとして知られる。1980年半ば、公式な分裂が起こった。
 1980年末には財政難で困難に陥り、SKPは1990年、破産し党員とSKDLのメンバーは左翼同盟結成に向かった。
 1982−1984年ヨウコ・カハノハ(1942生)、1984−1988年はアルヴォ・アールト(1932生)が指導者。ヘリエ・ケトラが最後の指導者。

(フィンランド人民民主同盟SKDL) Suomen Kansan Demokraattinen Liitto
 社民党の左翼を糾合する目的の政治組織。1944年、反共法が廃止されることにより設立され、1990年、左翼同盟に統合する
まで存在した。
 元社民党のカルル・ウィーキ(1883生―1946年没、最初の党首)、カイ・スンドストロム(1902生―1959年没、1944−1946年指導者、
ヤーコ・ケト(1884生―1947年没、1946−1947年指導者、後SYP)らが結成に参加。
 共産主義者はSKDL結成で重要な役割を果たした。
 当時、西欧で最も大きい左翼政党のひとつで、その主要なメンバーである共産党は鉄のカーテンの西側で最も大きい共産党の
一つであった。
 1958年の選挙で、最大の成果をあげ、約23%の得票と50議席を得、エドゥスクンタ(フィンランド国会)の最大党となった。
 SKDLに属したのは共産党SKP、フィンランド女性民主同盟(1944―1990)、社会統一党SYP(1946―1955)、社会主義
学生同盟(1965―)、フィンランド民主青年同盟SDNL(1967―1990)、学術社会主義者協会ASS(1944−1965年)である。
 SDPから分裂したマウノ・ペッカラの労働党、カルル・ウィーキのグループ、1973年には社会主義労働党が連合した。

 1944年11月ユホ・パーシキヴィ政権にユリヨ・レイノ(1897生―1961年没)が参加。
 1946年シルヴィ・キュッリッキ・キルピアトスヴィルタネンが社民党から移り最大政党となる。二人は社会統一党に参加。
 1946−1948年まではマウノ・ペッカラ(1890生―1973年没)が首相となり、SDP、中央党人民党と連立。
 1948−1966年クスティ・クロ(1887生―1952年没)が指導者。
 SKPの支持者はいつもSKDLの多数派で、そのため多くの人はこれを共産党の統括組織(傘組織)と見なした。
 SKDLの共産党員は1945年から上昇したが、1940年代には多くの左翼社会主義者や社民党員だった人たちが参加した。
 SKDLの非共産党、組織勢力は社会統一党SYPで、これは主に旧社民党員によって1946年に創設された。
 弱小で周縁化したSYPは1955年、SKDLを去ったが、SKDL内の多くの社会主義者は党の決定に従わず、SYP党員のまま、
SKDLにとどまった。
 1952年新聞自由の言葉(1940年カルル・ウィーキら6人組創設)編集員ラオウル・パルムグレンがチトー主義者として非難される。
 エレ・アレニウス(1925年生)が1967−1979年の指導者。彼は共産党の影響力減少に努力し社会主義者グループを率いた。
 1970年代初期、連合SKDL社会主義者委員会が結成されたが、組織にはならずゆるい同盟であった。
 1970年代以前は20%以上の得票、40議席以上で40万票から多いときで50万票台を得ていたが、1970年代から20%を
きり、1983年には15%をもきり、1983年には400930票、13.5%、27議席となり、1987年には270433票、9.4%、
16議席まで低下した。
 1966−1971年までラファエロ・パーシオマウノ・コイヴィスト政権参加。
 1975年、中央党マルッティ・ミエットゥネント政権参加。 カレヴィ・ソルサマウノ・コイヴィスト政権と1982年まで政権参加。
 カレヴィ・キヴィスト(1941年生)が1979−1985年指導者。1982年大統領選で11.0%、第4位、88運動として1988年は10.7%、
少数派(タイストイスト)はこれに反対しヨウコ・カハノハ(1942年生、1982−1984年共産党指導者、後民主選択)を候補とし1.4%。
 ヤーコ・ラークソ(1948年生)は共産主義者少数派として雑誌”報告”で理論活動を繰り広げた。
 レイホ・ケケレ(1943年生)が1988−1990年の最後の指導者。彼は後に社民党に移る。

(社会主義統一党SYP) Sosialistinen Yhtenaisyyspuolue
 SYPは1946年、共産党が支配するSKDLで活動する社会主義者によって結成された。
 創設者の多くは以前社民党員であった。SYPにはよく知られた多くの政治家がいたが決して大衆政党にはならなかった。
 1955年、党はSKDLから分裂したが間もなく消滅した。
 SYPの創設者は1941年の夏の継続戦争の前にSPDの議会グループから追放された、社会主義者6と呼ばれる人たちを
含んでいた。他の重要なグループは戦後SPDから分裂したヤーッコ・ケトの以前の平和反対派であった。
1946年夏、2人のSPD議会グループ(シュルヴィ・キュッリッキ・キルピら)がSYP/SKDLに加わった。
 マウノ・ペッカラも1946年から参加した。
SKDL内部で活動していた幾人か(カルル・ウィーキなど)の社会主義者は決してSYPには参加しなかった。
 1955年、議長のアトス・ウィルタネンが異常な党会議でSYPはSKDLから離脱することを決定した。
 多くの指導的メンバーやグループは会議を解散し、離党しSKDL内での活動を継続した。
 
〔フィンランド共産党(1997)〕 Suomen kommunistinen puolue 1985年組織、1986年SKP(統一)、1994年SKP、1997年登録 
 1980年代中にフィンランド共産党(統一)SKPyとして、以前の古いフィンランド共産党(1918―1990)の反対派が設立。
 党は1997年に公式登録された。1980年代、反対派と彼らが支配する組織がアルヴォ・アールトが指導するSKPに追放された
とき、SKPyは彼ら自身が真のSKPでアールトは不当に党を簒奪したとして公式登録しなかった。
 新SKPはメンバー3000人と主張している。

 1960年代半ば、アールネ・サーリネンに率いられて旧SKPが党路線を近代化しようとしたときに、旧SKPの党内分裂が
始まった。少数派党幹部はこれを受け入れず、指導者を修正主義と非難した。
 1960年代には分裂は起きず、1980年代中まで公式には統一されていた。
 1984年の20回党会議で、議長にアルヴォ・アールト(−1988年)が選ばれたとき事態は変化した。
 その後、SKPの中央委員会にタイストイストとして知られる反対派は参加しなくなった。
 1985年10月13日と1986年6月13日に反対派は追放された。
 反対派はこれを違法と見なし、争いを法廷にもちこんだ。1987年6月11日、裁判所はSKPの決定を違法とした。
 1987年6月12―14日の第21回党会議でSKPは再追放を行ったが、この1週間前新しく設立されたSKP(統一)は彼らの
第21回党会議を開いた。

 1986年4月26日、SKP組織の代表の集会が開かれ、中央委員会が選出された。新中央委員会の指導者はSKPの以前の
副議長のタイスト・シニサロ(1926生−2002年没)であった。彼はすでに1985年11月に設立されたSKP諸組織委員会を率いていた。
 書記長はヨウコ・カハノハ。他にウルホ・ホキネンエリッキスシルオトユリヨ・ハカネンマリア・リーサ・ロイティイエルヴィらが参加。
 彼らは統一はSKPのすべての勢力を集合させる強い意志を意味するとし、また将来新党を設立するあるいは再建することを
目指した。
 SKPyはゴルバチェフ時代のソ連とソ連共産党路線に深く関与し、ペレストロイカを支持したが、ゴルバチェフ時代の前にはゴルバ
チェフ主義を主張する人々を批判した。
 SKPyはSKPを反ソとし、フィンランド国民にできるだけソ連の肯定的描像示すと主張した。
 SKPが分裂したとき、ソ連の金銭的支援は停止され、SKPが扱う利益の上がる出版はSKPyに移った。
 しかしゴルバチェフのソ連共産党は両方の党と関係をもった。

 1970年代晩期、より伝統的なマルクス・レーニン主義を支持する人々が反対派の指導者を批判し始めるにつれて、SKPの
反対派は分裂し始めた。SKPyが公式党として登録しないと決定したとき、これに抗議し登録を要求した人々がいた。
 彼らはSKPyは最早、統一が現実的でないのに統一というスローガンを固執していると考えた。
 1988年初め、平和と社会主義のために―共産主義労働者党KTPが設立された。
 創設者はSKPyを修正主義と批判しゴルバチェフを支持した。
 1990年春左翼同盟が設立されSKPyとその選挙組織Devaも参加した。
 左翼同盟の多くの人々はSKPyのメンバーが党に来ることを好まず、SKPyのメンバーは左翼同盟選挙名簿に参加できない
ことが決定されたがメンバーになることはできた。
 2重党籍問題で多くのSKPyメンバーは左翼同盟を去ったがまた一方多くのSKPyメンバーが左翼同盟で積極的に活動している。

 1993年のSKPyの党会議で新党の公式登録が方向づけられた。SKP(統一)から統一が除かれた。(SKPy→SKP)
 新SKPは左翼同盟内にとどまりたかったが、これは不可能だった。
 1994年春、党は分派した。しかし1997年まで“再登録”はなされなかった。
 破産に陥った旧党の負債の責任を引き受けなかったので混乱があった。

 SKPは公式登録されなかったので、支持者は選挙組織として民主的選択Devaを設立した。
 排除に反対したSKDLの議員はSKDLから追放され、議会グループDevaを結成した。
 Devaは民主連合勢力を引き付けると考えられた。
 社会主義労働者党STPはDevaには加わらなかったがDeva名簿にメンバーが載った。
 SKPyの若い支持者とDevaは革命的青年同盟を設立した。
 SKDLの社会主義学生同盟も加わった。Devaは女優のクリスティーナ・ハルコラ(1945年生)によって率いられた。
 1987年の議会選挙でDevaは4.3%、4議席を獲得した。
 1988年大統領選でヨウコ・カハノハ(1942年生)は2%獲得。
 1990年、左翼連合の設立でDevaは閉鎖されメンバーは新党に参加した。
 この党は1999―2007年の国会選挙での寄与は2万票前後、0.7%前後。
 1989−1990年はエスコ・ユハニ・テンニレ(1947年生)、ユリヨ・ハカネン(1952年生)が1990年からの指導者で1978−1980年まで彼は
社会主義学生同盟指導者。

 2009年欧州議会選挙は8089票、0.5%。
 2011年選挙は1575票。
 2013年指導者がユハ・ペッカ・ヴェイセネンに代わる。
 2012年地方選挙は0.4%、11174票。
 2015年選挙は0.25%、7529票。

〔平和と社会主義のために―共産主義労働者党KTP〕 Rauhan ja Sosialismin Puolesta - Kommunistinen Tyovaenpuolue
 独立マルクス・レーニン主義者党の存在確保のため1988年設立。
 フィンランドの共産主義運動は1980年代半ばに内部闘争で分裂した。
 SKPから追放された人たちは共産党(統一)SKPyを結成した。
 しかしこれはすぐ異なる集団に分裂した。
 SKPyはマルクス・レーニン主義の原則からはるかに離れようとしていると考える部分(マルクス・カイヌライネン、1975−1979年
SKDL国会議員)、は1988年、KTPをを設立した。
 1987年秋、新しい登録された共産党を樹立する最終決定がなされた。
 この計画に取り残されたマルクス・レーニン主義者は1986年のSKPyの党会議以来無視されていると感じた。
 2002年、KTPは共産党との連合の可能性の問題で分裂した。
 中央委員会は新しい選挙のための党“フィンランドの変革のための勢力MVS”への参加を拒否した。
 MVSは明らかに右派が参加しようとしていた。
 KTPのヘルシンキ地域組織がMVS加入を決め、その組織をKTPは追放した。多くの党のメンバーが去った。
 追放された人々は最初“共産主義者”、後に共産主義者同盟を結成した。KTPはこれらとの接触をさけた。

 2004年の地方選挙でトゥルカとライシオの組織が極右人種主義のフィンランド人民青白SKSと選挙連合を結び、世間の
話題となった。党指導部はこれを非難した。
 この連合の背後にいた人物はすべての党の責任部署から追放され後に共産主義者同盟に加わった。

 KTPの創設者は以前のSKP反対派の支持者でマルクス・レーニン主義のブルジネフ主義伝統から来た。
 しかし旧ソ連批判は初めから党のイデオロギーに含まれていた。たとえば1998年、KTPは1970年代と1980年代の間の
時代特質でなされた評価は最早現実的あるいは正しくないと告げていた。
 しかしKTPのマルクス・レーニン主義者はユーロコミュニズムからはるかに隔たっていた。
 党の指導者はスターリンを引用し、伝統的レーニン主義の修辞が求められた。

 節操のない連合に埋没しない独立共産党の存在がいつもKTPの政治的争点の1つであった。
 KTPは厳しくEUに反対した。
 KTPは強く朝鮮民主主義人民共和国とその指導者を支持した。
 党は金正日の著作を出版し、多くのメンバーは主体思想学習協会に参加した。
 KTPは小党で現在のメンバーは約200名である。
 国会議員選挙では1991年の0.2%から2007年には0.1%を切った。
 KTPはロシア共産主義労働者党―革命的共産党やスウェーデン共産党SKP、デンマーク共産党KPiD、ノルウェー共産党NKP
と友誼関係にある。
 2015年選挙は1100票。

共産主義者同盟
 2002年、平和と社会主義のために―共産主義労働者党KTPを追放されたハンヌ・ハリユレイホ・カタラヤンタペッカ・ティアイネン
ら共産主義者が設立。
 新しい選挙連合党であるフィンランドの変革のための勢力MVSへの参加をめぐり多数派による反対決定を支持しない
少数派が追放された。
 両組織の不一致点は少なく、両者とも伝統的政党マルクス・レーニン主義に固執し、反帝国主義の砦として朝鮮民主主義人民
共和国を支持している。しかしKTPは以前の仲間を修正主義裏切り者として協力を拒否している。
 MVSは成功せず、2003年の総選挙では同盟はSKP(1997)などのいくつかの組織と協力した。
 2004年の地方選挙では左翼同盟からたった候補が市議会議員になっている。
 2006年共産主義者同盟フィンランド労働者党に参加。

フィンランド労働者党STP〕
 2006年に1999年に登録された選択グループVEV Vaihtoehtovaenを基礎にユハニ・タンスキ(1947生)らが結成。
 幹部は主に共産主義者同盟からきている。
 党の目標は北欧福祉国家のためのエコ社会主義戦線展開。
 2007年選挙では全選挙区に候補を立て0.06%(1764票)。
 2011年選挙は1857票。
 2015年選挙は984票。

 VEVは1999年EU選のためEU選択情報センターVEU(1991年EU反対グループ結成、1996年EU選で2.1%獲得)
 のウッラ・クロツァー、元緑同盟のユハニ・タンスキ(共産主義者ではなく社会主義者と自称)らが結成。
 VEVは2002年フィンランド変革勢力MVS創設しユハニ・タンスキは書記となる。

 ユハニ・タンスキは1969年タンペレ・マルクス・レーニン主義グループ結成。
 1973年マルクス・レーニン主義者グループ結成。1970年代末はフィンランド・アルバニア・クラブ指導者。
 1980年代は共産主義者であったが1990年代は緑運動にかかわり1999年VEV結成し最初の書記となる。

社会主義労働者党STP)
 労働者小自作農社会民主同盟TPSLから分裂して1973年にアーレ・シモネンらにより設立された。STPはTPSLの社民党
への復帰を認めないグループによって出現した。STPはSKDLと選挙連合をもったがほとんど成功しなかった。
 1985−1986年、SKPが分裂したときSTPはSKPyが設立した民主的選択に参加した。
 民主選択は1986年共産党とSKDLから追放された人々が結成。
 フィンランド共産党(統一)、革命的青年同盟社会主義労働者党、社会主義学生同盟よりなっていた。
 1987年選挙で4.3%獲得。1990年解散し多くのメンバーは左翼連合に参加。

労働者小自作農社会民主同盟TPSL)
 1959年設立、1973年消滅。
 社民党が戦犯として服役していたヴァイノ・タンネルを指導者として選んだときエミル・スコグアーレ・シモネンらが社民党
内部から分裂。SDPの綱領を維持し、SDPは自分たちの綱領に従っていないと批判した。
 SDPはタンネルとヴェイノ・レスキネンのもとで階級政党から国民政党に変化しようとした。
 タンネルの対ソ姿勢も問題であった。社民党はソ連協調をとるケッコネンに対立した。
 TPSLは主に労働組合から支持を受けていた。(指導者のヴィフトリ・ランタネンは1954−1960年のフィンランド労働組合連合の指導者)
 1962−1963年農民党のアフティ・カリヤライネン政権に参加。
 1963年、社民党はケッコネンとソ連協調に路線を変更した。これにより不一致の主要な点は解消された。
 スコグ派は社民党に戻り、TPSLはより親ソ的になり、やがて大衆支持を失い、1973年、解党。
 1959年の結党時は13ないし15名の議員がいたが、1962年の選挙ではわずか2名(100396票、4.3%)となった。
 1966年の選挙ではSKDLと連合を組み2,6%(61274票)の得票ながら7議席を獲得した。
 しかし1970年以降は議席を失った。

フィンランドの変革のための勢力MVS)
 2003年の国会選挙のため選挙連合として形成された。これは2002年に極右から民族主義者、強硬共産主義者の6つ(
VEV、自由フィンランド同盟、EU反対人民戦線、フィンランド・ノーEU、KTPのヘルシンキ支部:共産主義者同盟)のユーロ
懐疑主義(EU統合拡大に反対する思想)組織によって設立され、フィンランドのEUからの離脱を提唱している。
 初期に真フィンとKTPが撤退。
 2003年の選挙で11485票、0.4%を得ている。この組織は選挙のあと沈黙。

(フィンランド10代同盟) Suomen Teiniliitto 第2級学校(高校)学生全国連合Union of the Secondary School Students  SLL  
 当初、若い大学生、学生、生徒の組織として1939年マンネルヘイムの誕生日にフィンランド学校教科書朋友地域同盟として設立、
1944年には10代同盟となった。この組織は神、祖国、仕事、義務を宣言していた。
 この組織の主要な任務は戦争努力支援であったが、1960代初期性格が代わり、政治化した。
 フィンランドのベビーブームは1947年ピークに達し、これらのベビーブーム世代が社会にはいるようになって十分な仕事がなく
社会問題が発生、多くがスウェーデンに移住した。1970年代には若者の運動は頂点に達し、これらベビーブーム世代の10代同盟は
共産主義者に主導され反乱を始めた。タイスト主義の影響にある急進派はソ連参加をさえ要求した。
 1980年代初期には大衆的でなくなり資金問題で解散した。
 主な活動家はエリッキ・トゥオミオヤエスコ・アホ(中央党)、ベン・ツュスコヴィチ国民連合党)、キンモ・サシ(リッポネン内閣大臣)、
サトゥ・ハッシ緑党、元タイスト主義)、ラウリ・イハライネンSAK議長)、エルッキ・リーカネンフィンランド銀行総支配人)、
マッティ・ヴィーアライネン(左翼同盟)など。

タイスト主義者Taistolaisuus
 タイスト主義者Taistolaisuusは1970−1980年代フィンランド共産主義運動での親ソ連派グループの共産党内反対派で名称は
指導者のタイスト・シニサロTaisto Sinisaloから来ている。1985年に共産党(統一派)結成
 タイスト主義者は文化分野での闘争にもかかわり、顕著な役割を果たした。ラブ・レコード(1966年設立)でアジト・プロップ
アウリッキ・オスカネン、クリスティーナ・ハルコラKristiina Halkolaカイサ・コルホネンなどが活躍した。1072年文化労働者連合KTL
を結成し、KTLの活動家は1986年に民主選択Demokraattinen Vaihtoehtoを結成し、クリスティーナ・ハルコラを指導者とする。
 カイサ・コルホネンは夫のカイ・キュデニウスCOM劇場を設立、左翼的演劇、歌が演じられた。

 主な元タイスト主義者サトゥ・ハッシ緑同盟MEP)、ヤーコ・ラークソ(左翼連合)、エスコ・ユハニ・テンニラ(左翼連合)、
ビヨルン・ヴァフルロース(保険会社サンポ・グループCEO)、ニルス・トルヴァルズスウェーデン人民党

社会主義学生同盟SOL)
 社会主義学生同盟SOLは1965年SKDLの学生組織として結成、当初の主要なメンバーは学術社会主義者協会ASS。
 初期はSKDLのエレ・アレニウスに近かった。
 1960年代末ASSの指導部は毛沢東主義者アナーキストが占拠。
 1971年分裂、SKP反対派(タイスト派)がわずかに多数派となりSKDL/SKP多数派がSOLの支配を失う。
 1974年SKDL/SKPは人民民主学生組織KOJ結成。KOJは1981年SOLに再統合。
 1986年DeVa設立に参加、SOLの活動は1990年停止。

社会民主学生
 1963年結成の社会民主党の学生組織。

(青年組織)

革命的青年同盟VKN 
 1985年SKPがSDNL多数派となり1987年少数派がVKN結成。Devaの組織となる。1990年解散。
左翼青年同盟
  1944年民主青年同盟SDNLとして結成され1998年までSDNLと称す、1990年事実上SKDLの青年組織となる。
  現在は事実上左翼連合の青年組織。2001−2205年パーヴォ・アリヒンメキが指導者。1952−1955年マルクス・カイヌライネン
フィンランド社会民主青年同盟SSN(1906−1923年)
 社会民主党に近い左派グループが結成し、SSTPと共産主義者の統一を志向、1923年解散、1923年社会主義青年同盟SNL結成。
 SNLはSSTPやその後継STPを支持、多くはSKPと関係。当局の弾圧により活動困難となる。メンバーの多くがSKNLに参加。
共産主義青年同盟SKNL(1925−1936年)
 禁止されていたため地下組織として存在。
 1920年代初期は公然活動としてSSNやSNLで活動していたが秘密細胞組織が結成されていた。
 1925年SKNL結成。1927年選挙で社会主義労働者小農選挙組織のため活動し青年活動家トイヴォ・ラトゥヴァを国会に送り込む。
 1928年初期SKPの組織者ヤルマリ・ラシが逮捕され党の情報が明らかになり数十人の党員が逮捕され組織が後退する。
 SKNL幹部のヤーコ・キヴィヴェイノ・ヴオリオらが逮捕される。1929年にはSKNL組織者マッティ・ダハルが逮捕され情報が漏れ
活動家が逮捕される。同年KKPとSKNLデモ隊と警察が衝突SKLN幹部が逮捕される。
 1930年中期には人民戦線結成に向かいSKNLは社会民主社会民主労働者青年同盟STLの内部での活動に向かう。
 1944年には民主青年同盟SDNLが結成される。

社会主義青年同盟
 1921年社民党青年組織として結成される。最初は社会民主労働者青年同盟STL、1950年から社会民主青年同盟と称す。
 1959年多数派は労働者小自作農社会民主同盟TPSLの青年組織となる。社会民主党支持者は社会民主青年結成。
 1970年代は4万のメンバーで現在は1万を越える程度。

(毛沢東主義者)
 フィンランドの毛沢東主義者としてはマルクス・レーニン主義者グループ(マッティ・プオラッカ、セッポ・マリネンら)が1973年に
結成、それまではヘルシンキで1960年代末に活動。主に青年・学生。1979年にはほとんどのメンバーが解散。

フィンランドのトロツキスト
 1963−1971年SKPのスロ・ヴァッカリSulo Vakkari が雑誌”階級闘争”を発行しエルネスト・マンデルと会っていた。
 1970年代初期若者グループが赤いグループPunikkiryhmat / Roda grupperを結成し、1974年革命的共産主義者VK(RK)となる。
 VK(RK)は再統一第4インターナショナルUSFI支持。
 最も著名なのはマリエラ・リンデン(1950年生)、マルゲリタ・ジリアクス、彼女らは1974年マルクス主義フェミニストMF結成。
 MFの多くはSKDLの女性メンバーであった。1970年代末MFはトロツキズムから離れていった。
 VK(RK)は学生運動勃興期、ベトナム戦争に反対したが戦争終焉でVK(RK)は1970年代後半斜陽し、ヘルシンキの中心メンバー
(ペッカ・ハーパコスキ、マリエラ・リンデンの弟セバシチャン)がスウェーデンに移り共産主義労働者同盟KAFに参加し分解。
 その他の地域では1980年代まで存在しミッシェル・ヴァルガ第4インター再建国際同盟の雑誌販売。
 1995年民主青年SDLNが左翼連合の青年組織化される際に共産主義者青年が結成されSKPy(SKP1997)のユハニ・ロヒコスキ
が指導者となる。SKPやトロツキストとの関係で1998年解散。これから1998年社会主義者同盟が結成され、これは数年後
国際社会主義者傾向に参加。
 2000年社会主義者同盟からマルクス主義労働者同盟が分裂、のちにマルクス主義労働者同盟の一部(ヤーリ・ペッカ・ライタマーら)
労働者インター委員会に参加し社会主義選択結成。社会主義選択は2002−2004年に活発であった。
 現在の主な活動的トロツキストは国際社会主義者傾向社会主義者同盟、とマルクス主義労働者同盟(ディミトリス・ミザラス、
第4インター再建調整委員会)。
 2004年地方選で社会主義者同盟はヘルシンキで共産主義者同盟(2000年共産主義者青年メンバー結成)、フィンランド共産党
(1997)と選挙連合、2000年地方選ではKTPと選挙連合、2007年議会選ではフィンランド共産党(1997)と選挙連合、あるいは
左翼同盟のパーヴォ・アルヒンメキを支持。


緑同盟
 1987年結成され翌年政党登録。政治活動は1980年代初期から始められた。1995年国家レベルの政権参加の欧州初の緑党。
 党は大衆運動として結成されそのため同盟を名乗る。運動には政党結成への抵抗があった。
 1983年選挙で2名当選(カッレ・コンコレヴィッレ・コムシ)、1987年4名、1991年10名となる。
 1995年200議席中9議席でパーヴォ・リッポネンの社会民主党政権に参加しペッカ・ハーヴィストが環境・発展支援大臣となる。
 1999年には7.3%、11議席となる。2002年新原発建設に抗議し政権離脱。
 2003年、8.0%、14議席、2007年、8.5%、15議席。
 2007年、中央党のマッティ・ヴァンハネンの政権に国民連合、人民党の4党連立政権参加。
 アンニ・シンネメキ(労働)、トゥイハ・ブラクス(公正)が入閣。
 2009年EU選12.4%でサトゥ・ハッシ(元タイスト主義者)、ヘイディ・ハウタラがMEPとなる。
 2011年選挙は7.2%、10議席。
 ユルキ・カタイネン(国民連合党)6党連立政権参加、
 2015年選挙は8.53%、15議席。
 2019年選挙は11.5%、20議席。指導者はマリア・オヒサロ(1985年生)でリンネ、マリン内閣で内相。

〔フィンランド社会民主党〕 Suomen Sosialidemokraattinen Puolue

創生期

 1895年雑誌”労働”がアタミ・ヘルマンニ・カルヴォネンによって創設され、これにはロベルト・ウルシン(1854生−1936年没)、
ヴィルホ・ヴィルタらが加わっていた。労働は後に社会民主党のの新聞となり1918年まで続いた。
 1899年、ロベルト・ウルシンカルル・ヘルステンらによりフィンランド労働党が結成され、1903年社会民主党となる。
 フォルッサ綱領で教会と国家の分離を要求。この綱領は1952年まで継続。
 党は1900年代初期から住み込み(テナント)農業労働者、被雇用者、労働者問題改善と表現の自由、8時間労働を要求。
 1906年の普通選挙制までは主に議会外運動が主であった。
 1903年フォルッサ綱領を決定、これはほとんどドイツ社会民主党のエルフルト綱領を引き写したものであった。
 普通選挙制、8時間労働、最低賃金、普通義務教育などが含まれていた。これは1952年になって改訂された。
 1903−1905年指導者はターヴィ・タイニオ(1854生−1936年没、内戦で逮捕されるがすぐ釈放され1918−1926年まで党書記)。
 1905年、社会民主主義者は10月30日から11月6日に全国ストライキを組織、ヨハン・コック(1861生−1915年没)が赤衛隊を結成。
 イリヨ・マケリンYrjo Makelin(1875生−1923年没)の赤宣言でフィンランド上院の解散と普通選挙制、検閲廃止、政治的自由が要求された。
 マケリンはタンペレで1900年から人民の雑誌などの出版活動をしていた。これにはユリヨ・シロラ(1876生−1936年没)も参加。
 ヴァルパス・ハンニネン(1873生−1937年没)は急進派を代表し雑誌労働の編集をしており、フィンランドの初期労働運動指導者であった。
 レオ・メシェリンが11月宣言を発表、フィンランド国会と州の廃止と現代的議会創設を要求。
 ロシア皇帝ニコラス2世は議会改革を承認、フィンランドのすべての政治勢力は改革と1907年の最初の選挙を決定。
 1906年穏健派のユーホ・カリが地位を落ち、オットー・クーシネンOtto Wille Kuusinenが指導者となった。
 ユーホ・カリ(1868生−1921年没)は1905−1907年に上院(Senate)で経済部門を担当していた。
 1907年フィンランド労働組合(−1930年)が結成される。(フィンランド全使用者協会も結成される。)

 1907年の普通選挙制ではSDP37.03%、80議席、フィンランド党27.34%、59議席、青年フィンランド党13.65%、26議席、
人民党12.60%、24議席、農民同盟5,75%、9議席、キリスト労働同盟1.55%、2議席。
 党はそれ以降得票と議席が増加し、1916年47.29%、103議席にまで達し、議会で絶対多数を獲得。これがフィンランドで
唯一の絶対多数派政権であった。
 フィンランドの女性はヨーロッパで最初に議会投票権をもった。しかし地方制度は1917年に普通選挙制導入。
 1918年まで上院(Senate)制で、1917年、SDPのオスカリ・トコイが上院(Senate)議長(首相相当)となった。
 1907−1917年までは右派フィンランド党が第2党で、1907年の59議席から1917年32議席と議席をへらした。
 1918年フィンランド党は君主主義者国民連合党と共和派国民進歩党に分裂。
 1906−1909年ヴァルパス・ヘンニネンが指導者、彼は内戦で1920−1924年投獄される。
 1911−1913年はオットー・クーシネン(1881生−1964年没)、1909−1911年、1913−1917年、1926−1930年は
マッティ・パーシヴオリ(1866生−1937年没)が指導者。

共和国初期

 独立最初の首相(上院議長)には国民連合党ペフル・スヴィンフフヴドがなった。彼は11月首相となり、12月6日独立宣言した。
 
 1917年選挙はSDP44.79%、92議席、右派連合30.17%、61議席、農民党12.38%、26議席、人民党10.90%、21議席。
 SDPは1917年選挙で絶対多数を失い、1918年反乱が始まり内戦に突入。
 クッレルヴォ・マンネルKullervo Manner赤衛隊の指導者となり1918年初期フィンランド社会主義労働者共和国を樹立。
 その他オットー・クーシネンユリヨ・シロラらが参加。
 しかしドイツ帝国軍の介入でグスタフ・マンネルヘイム率いる白衛軍に敗北。

 1918年、フィンランド党ユホ・パーシキヴィ最初の首相となった。
 パーシキヴィはロシア帝国内での自治派で、上院でのSDPとの連合反対派であった。首相になってからはドイツ王子フリードリッヒ・
カールのもと立憲君主制の努力をしていたが大戦でのドイツ敗北で実現しなかった。
 彼は当初ラプア運動を支持したがこの運動は過激になりすぎ、支持者から見放された。
 
 この内戦で多くの党指導者は殺され、投獄あるいは国外逃亡した。更に党はフィンランド議会右派多数派の視点からは正統性と
尊厳を失った。
 しかし党への政治的支援は依然強く1919年の選挙で党はヴァイノ・タンネルVaino Tanner(1881生−1966年没、1918−1926年、
1957−1963年)により再建され200議席中80議席を獲得。
 選挙はSDP37.98%、80議席、農民党19.70%、42議席、国民連合党15.71%、28議席、国民進歩党12.81%、26議席。

 亡命社会民主主義者は1918年モスクワでフィンランド共産党を結成。共産党は1945年まで禁止されたが、労働者階級
の支援は次の選挙から社会民主主義者と共産主義者に分裂した。

 タンネルはSDPがフィンランドで政権を取れる党になるよう努力しその結果SDPは愛国的でほとんど左翼的でなくなり、北欧の
兄弟党とやや孤立した。

 1920年代共産主義者のフィンランド社会主義労働党SSTPが国会選挙でSPDの議席を奪ったが1930年代にはSSTPが
禁止され議席は戻ってきた。フィンランド労働組合SAJがSSTPを支持。
 1922年選挙ではSDP25.06%、53議席、農民党20.27%、45議席、国民連合党18.15%、35議席、社会労働党SSTP
14.81%、27議席、人民党12.41%、25議席、国民進歩党9.21%、15議席。

 党は1930ー1939年に徐々に66議席から85議席に上昇。

 国民進歩党カーロ・ストフルベルグが1919−1925年に最初の大統領となった。
 国民連合党ラウリ・イングマンが1918−1919年、1924−1925年の首相となった。
 国民連合党ユホ・ヴェンノラが1919−1920年、1921−1922年の首相となった。

 農民同盟のラウリ・レランデルが1925−1931年の大統領。
 農民同盟キュオスティ・カッリオは1922−1924年、1925−1926年、1929−1930年、1936−1937年の4度首相となり、
1937−1940年大統領となった。
 彼は1923年SKPを抑圧したが、ラプア運動には手をかさなかった。

 ペフル・スヴィンフフヴドは1930−1931首相となり、1931−1937年の大統領の間、敵意からSDPを政権参加から排除した。
 1929年、自作農の間から反共のラプア運動Lapuan liikeが発生し、共産党員や左翼にたいするテロを繰り広げ、共産党の完全
非合法化を要求した。スヴィンフフヴド内閣は全共産党議員を逮捕し、反共法を成立させた。その後もラプア運動のテロは拡大し
元大統領の誘拐をもはかるようになり、支持を失っていき、1932年、マンツァラで反乱を起こし鎮圧された。

 ラプア運動により1930年フィンランド労働組合SAJが解散させられる。
 共産主義者は1931年赤色組合を結成。コミンテルン路線により1934年解散。
 社会民主主義者と左翼社会主義者は1930年フィンランド労働組合連合SAK結成(−1969年)、
 これは国際労働組合連盟に加盟。1930年代末には組合員約1万5千。

 国民進歩党アイモ・カハンデルが1922年、1924年、1937−1939年の首相。農民同盟、SDP参加の赤土連立政権樹立。
 国民進歩党トヴィオ・ミカエル・キヴィメキが1932−1936年の首相。
 
 1926年の短期間を除き、SDPは内閣から排除され1937年の農民同盟キュオスティ・カッリオ大統領(1937−1940年)で
やっと政権参加。
 ヴェイノ・タンネルは1926−1927年首相となり、農民党と連立で1937−1942年まで大臣を務めたが、戦後ソ連の圧力で辞任。
 1926−1927年ミーナ・シッランペーが最初の女性大臣となった。
 継続戦争(1941年6月ー1944年9月)中冬戦争精神を作り上げ国民統一に努力した。
 継続戦争終了後戦犯として投獄された。獄中でも米国の支援でSDPの分派の事実上の指導者となった。

 カールロ・ハルヴァラが1930−1942年の党議長となった。そのあとのヴェイロ・サロヴァーラが1942−1944年、
 オンニ・ヒルトゥニンが1944−1946年党議長となった。

 1940年、カルル・ウィーキKarl H. Wiik(1883生−1946年没)がSDPから追放され、社会主義議会グループを結成。
 6名の議員よりなり6人組と呼ばれた。親ソ的で継続戦争が始まると逮捕された。釈放後SKDLを結成した。
 ヤーコ・ケト(1884生−1947年没)は平和反対派を結成。

 国民進歩党リスト・リュティが1939−1940年首相、1940−1944年大統領となり彼は1940年モスクワ平和協定を結んだ。
 国民進歩党ヨハン・ウィルヘルム・ランゲルが1941−1943年の首相。  
 国民連合党エドウィン・リンコミエスが1943−1944年の首相
 フィンランドは冬戦争(1939年11月30日ー1940年3月13日)と継続戦争(1941年6月ー1944年9月)でソ連と闘った。
 継続戦争ではナチスの支援を受け、1941年英国の宣戦布告を受け、第2次世界大戦の敗北国となった。
 1945年11月戦犯裁判が始まり1946年2月、8名が10年から2年の刑を受けた。タンネルは5,5年を宣告された。

戦後の苦闘期

 SDPは1937年以来、1957−1966年、1991−1995年以外ほとんど政権に参加。
 エミル・スコグ(1897生−1981年没)が1946−1957年党議長を努めた。
 1944−1946年、カルル・マンネルヘイムが終戦に向けた大統領となった。対ソ休戦。ラップランド戦争でドイツ軍を追放。
 1944−1947年まで英ソの占領管理委員会がヘルシンキに設立される。
 ソ連は戦争責任者の追求を要求。1947年パリ平和条約成立。
 国民連合党ユホ・パーシキヴィが1944−1946年首相となり、1946−1956年大統領となった。
 ユホ・パーシキヴィJuho Kusti PaasikiviはSDP、人民民主同盟連立政権結成。
 かれの目標はソ連との関係改善で1948年フィンランド・ソヴィエト協定締結。
 1945年選挙で共産主義者が勝利し1946−1948年まではSKDLのマウノ・ペッカラMauno Pekkalaが首相となり、SDP、
中央党人民党と連立、しかし1948年で交代しSDP、農民同盟連立政権が195年まで形成。
 1945年選挙はSDP25.08%、50議席、人民民主同盟23.47%、49議席、農民同盟21.35%、49議席、国民連合党
15.04%、28議席、人民党7.90%、14議席、国民進歩党5.17%、9議席。
 1947年のマーシャル計画には参加せず。1948年4月、共産党のクーデタ未遂事件で共産党閣僚ユリヨ・レイノ追放される。
 1948年選挙はSDP26.32%、54議席、人民民主同盟19.98%、38議席、農民同盟24.24%、56議席、国民連合党
17.04%、33議席、人民党7.34%、13議席、国民進歩党3.91%、5議席。

 1950年代、党は反ソ的で、ウルホ・ケッコネンは中立政策をとりソ連と良好な関係を築き、彼と農民同盟の勢力は増大した。
 SDPのカルル・ファーゲルホルムKarl-August Fagerholmは1948−1950年、1956−1957年、1958年首相。
 彼はNATO参加を試みたりGATT(1949年)に参加したりして共産主義者やソ連から疑惑で見られた。
 ファーゲルホルム(1901生−1984年没)は保守や農民同盟の保守派の支援を仰いだ。

 農民同盟(1965年中央党)ウルホ・ケッコネンUrho Kekkonenは1950−1953年、1954−1956年首相、1956−1982年
まで大統領を努めた。 

 1952年にはオリンピック開催。1952年結成の北欧理事会には1955年参加。同年国連加盟。
 1958年選挙SDP23.16%、48議席、人民民主同盟23.12%、50議席、農民同盟(1965年中央党)23.06%、48議席、
国民連合党15.28%、29議席、人民党5.90%、8議席。
 1958年SPDのカルル・ファーゲルホルムの連立政権樹立。党が戦犯となったヴェイノ・タンネルVaino Tannerを1957−1963年
の党議長としたため1958年(霜夜危機)、1961年(覚書危機)でソ連が内政干渉。ファーゲルホルム内閣は倒れ、1962年の
反ケッコネン結集(ホンカ同盟)も不成立。
 党書記長カールロ・ピツィンギン(1923年生、1962−1968年)はヴェイノ・レスキネン派で党多数派レキスネン派はケッコネンを支持。
 1961年ヨーロッパ自由貿易連合参加
 1959年タンネルの党議長選出により以前の党議長エミル・スコグ周辺が労働者小自作農社会民主同盟TPSL結成。

 1950年代中期のエミル・スコグヴェイノ・レスキネン(1917生−1972年没)の対立のなかで、インフレによる賃金低下で
1956年フィンランド労働組合連合SAKは全国ストライキを行いSAKメンバー27万を上回る45万が参加。労働者小自作農社会民主同盟TPSL
支配に対し社民が分裂し、1960年フィンランド労働組合(−1969年)結成。1966年にはフィンランド労働組合連合SAKは25組織、
26万でフィンランド労働組合は18組織、10万7千であった。1969年フィンランド労働組合中央組織に合同。

 1962年選挙はSDP38議席、19.50%で22.95%、53議席の農民党、22.02%、47議席の人民民主同盟に続く
第3党に落ちる。
 1963年タンネルが党から離れ、ラファエロ・パーシオはケッコネンと和解。

福祉の党

 1967年からラファエロ・パーシオカレヴィ・ソルサマウノ・コイヴィストパーヴォ・リッポネンらがSDP政権時代を築いていった。
 1966年選挙SDP27.23%、55議席、人民民主同盟21.20%、41議席、中央党21.23%、49議席、国民連合党
13.79%、26議席、人民党5.69%、11議席。
 SDPは大勝し党勢が拡大、戦友社会主義者ウント・ヴァリヨネンヴァイノ・レスキネンら戦中の反共愛国者)は少数派と
なりパーヴォ・リッポネンエルッキ・トゥオミオヤなどの新しく若い人材が参加してきた。
 戦友社会主義者は1960年中期までSDPに強い影響を与えた。
 1970年、ヴェイノ・レスキネンが外務大臣となり外交からのSDP排除が終わった。
 1966年選挙でSDP、共産主義者連立政権が成立、保守は以降20年以上(1991年まで)反対派となる。
 ラファエロ・パーシオは1966−1968年、1972年のSDPの首相、中央党、人民民主同盟と連立。(人民戦線内閣)
 パーシオコイヴィスト政権は人民戦線(SDP、中央党、TPSL、SKDL)を基礎とした政権となった。
 SDPはケッコネンにかわって東欧と西欧の橋渡しはを演ずることとなる。
 1971年党内スターリン批判問題で人民民主同盟閣僚引き上げ。
 1975年選挙SDP24.86%、54議席、人民民主同盟18.89%、40議席、中央党17.76%、39議席、国民連合党
18.37%、35議席など。
 1975年、中央党マルッティ・ミエットゥネント政権(1961−1962年、1975−1977年首相)に人民民主同盟参加。
 1970年、週40時間労働となる。
 1970年代に10代同盟が急進化。
 1982年ケッコネンの25年間の大統領終わる。あとをSDPのコイヴィストが継ぎ、SDP政権を強固にした。
 1982年3党連立崩壊しSDP、中央党連立となる。
 マウノ・コイヴィストはSPDの1968−1970年、1979−1982年の首相、1982−1994年に最初のSPD大統領。
 彼は1955年結成の若い経済学者グループであるO−グループ(マクロ経済と数学的手法重視)に参加していた。
 コイヴィストは多数派レキスネン派を支持、ホンカ同盟に反対。

 カレヴィ・ソルサはSPDの1972−1975年、1977−1979年、1982−1983年、1983−1987年の首相。
 ソルサの4度の政権でフィンランドは福祉国家となった。
 1986年フィンランドはEFTAの完全メンバーとなり1989年にはヨーロッパ評議会メンバーとなる。

 1987年、国民連合とSDPが連立、1991年まで続くが、1991年選挙結果でエスコ・アホ政権成立、1995年まで続く。
 1987年はSDP24.14%、56議席、国民連合23.12%、53議席、中央党17.62%、40議席、人民民主同盟9.39%、16議席。
 エスコ・アホは1991−1995年の中央党の首相で国民連合キリスト民主人民党と連立。
 1991−1993年、フィンランド景気大きく後退。

 マルッティ・アフティサーリMartti Ahtisaariは1994−2000年のSDP支援大統領、元外交官、2008年ノーベル平和賞受賞。
 1994年EC参加国民投票が57%で可決、1995年加盟。
 1995年はSDP28.25%、63議席、中央党19.85%、44議席、国民連合17.85%、39議席、左翼同盟11.16%、22議席、
緑連合6.52%、9議席など。
 1995年、中央党敗北でSDP政権へ。

 パーヴォ・リッポネンは1995−2003年の首相、1995年に5党虹連合結成、1999年までは国民連合ペッカ・ハーヴィスト
が入閣、1999−2003年は左翼同盟からも入閣(スヴィ・アンネ・シーメスマルティ・コルホネン)。
 リッポネン10代同盟高校生全国連合)活動家であった。
 SDP出身のタルヤ・ハロネンは2000年から現在までの大統領。彼女は1969−1970年の全国学生連合SYLの全国書記。

 2003年選挙は中央党24.69%、55議席、国民連合18.55%、40議席、SDP24.47%、53議席、左翼同盟9.93%、19議席、
緑連合8.01%、14議席など。SDPは中央党に後塵を拝し第2党に滑り落ちる。
 国民連合を排除した中央党、SDP、人民党連立政権成立。(赤土連立)
 中央党の女性最初の首相アンネリ・イェーッティーンメキAnneli Jaatteenmakiは機密漏洩問題で2ヶ月持たずマッティ・ヴァンハネン
Matti Vanhanenがあとを継いだ。
 2005年党首がパーヴォ・リッポネンからエーロ・ヘイネルオマ(1955年生)に代わる。彼は左派のエルッキ・トゥオミオヤ(1946年生)らを破る。
 2007年には21.44%、45議席で23.11%、51議席の中央党、22.26%、50議席の国民連合に続く第3党となった。
 SDPは記録的大敗で、国民連合が大勝利。中央党のマッティ・ヴァンハネンが政権維持。国民連合、緑党、人民党が政権参加。
 2008年から党首はユッタ・ユルピライネンJutta Urpilainen(1975年生、最初の女性党首)となる。
 エリッキ・トゥオミオヤを第2回に218対132で破る。エリッキ・トゥオミオヤは左派とされATTACメンバー。
 2009年欧州議会選挙は17.5%。
 2011年選挙は19.1%、42議席。国民連合ユルキ・カタイネン(1971年生)首班の中央党を除く左翼同盟、緑同盟、スウェーデン人民党SPP、
キリスト民主との6党連立政権に参加。
 2012年大統領選で党の候補パーヴォ・リッポネンは6.7%の第5位で真フィンの9.4%にも及ばず。
 左翼同盟のアルヘンメキが6位5.48%、緑のペッカ・ハーヴェストが2位18.76%で国民連合のサウリ・ニーニステと決戦投票。
 2014年の党首選でユルピライネンは257対243でアンティ・リンネ(2002年から労働組合指導者)に敗れる。
 2015年選挙では16.51%、34議席と8議席減。
 フィン(旧真フィン)参加の右翼・中道政権成立。
 2019年選挙は17.7%、40議席と若干回復するも、フィン党が17.5%、39議席で第2党に、中央党は13.8%、31議席で第4党に陥落。
 アンティ・リンネが中央党、緑同盟、左翼同盟、スウェーデン人民党との連立政権形成。
 アンティ・リンネは郵便ストライキへの対応で批判を受け、辞職、首相サンナ・マリン(34才)が継承。(アンティ・リンドマンを破って継承。)

 社民党支持母体のフィンランド労働組合中央組織は運輸・産業労働者(約58万)を中心とし、公私サービス労働者(約45万)よりなり
100万を超え、人口の約5分の1からなる最大労組、そのほか定期給(サラリー)労働者よりなる65万の給与雇用者連合STTK(1946年結成)、
高等教育者の約45万の学術専門組合連合AKAVA(1950年結成)、26万で若者中心(小規模雇用主含む)の全国失業者基金YTK
(1991年結成)がある。(2009年現在)


 党は戦前には1922年の25.06%が最低、戦後は1945年、25.08%、1958年、23.12%、1962年、19.50%と低得票
を記録、それ以外は25−27%で1970年から25%を切ることが多くなったが1995年には28.3%を記録。
 50議席をきったのは1958年の48議席、1962年の38議席、1991年の48議席、2007年の45議席。

・ラファエロ・パーシオ Kustaa Rafael Paasio1903生−1980年死亡。
 1942年社会民主的新聞編集長となる。1948年国会議員となり、社民党と関係。1963−1975年党議長。
 1966年中央党、SKDLと連立政権樹立。

・マウノ・コイヴィスト Mauno Henrik Koivisto
 1925年生まれ、大工の子、16歳から戦争に参加(冬戦争)、戦後大工となり社民党参加。1949年共産主義者の労働運動と
対決。その後大学教育を受ける。1957年銀行員となり、1968年フィンランド銀行幹部議長となる。
 1960年代、党と共産主義者、ケッコネンとの関係改善に努力。パーシオ政権で財務大臣。パーシオが党内で不人気となりコイヴィスト
が首相となる。1970年代ケッコネンと不仲となるがSKDLの支持で危機を乗り越える。
 社会主義についてはベルンシュタインを例に挙げ重要なのは目標でなく運動と述べる。
 大統領時代は目立たなくケッコネンのように権力的指導性は発揮しなかった。外交ではソ連崩壊まではケッコネン路線を維持。
 1990年のドイツ統一で武力制限を定めたパリ条約を一方的に破棄。ソ連崩壊後EU参加を支持。

・カレヴィ・ソルサ Taisto Kalevi Sorsa 1930年生−2004年死亡。
 1948年社民党活動家となる。政界に登場するまえは出版編集者として務める。政界歴の前には1959−1965年パリの
UNESCOで働く。1965−1969年はフィンランドのUNESCO委員会。パーシオとの関係で1969年から党の重要地位につく。
 ソルサの時代にフィンランドは福祉国家として前進し、経済成長を遂げた。また西側との関係を強めた。
 エルッキ・トゥオミオヤラッセ・レフティネンマッティ・アフデが彼の反対派となる。

・パーヴォ・リッポネン Paavo Tapio Lipponen
 1941年生まれ、1959年、1年間、ドイツ、米国で学ぶ。1963−1965年学生新聞編集員となる。1965−1967年フィンランド放送
のフリー・レポーターとなる。1971年ヘルシンキ大で修士を得る(国際政治学)。1967−1979年に党職につく。
 1972−1982年コイヴィスト首相の秘書となる。1983−1987年、1991−2007年国会議員となる。1993年党議長となる。


政権変遷
 1944−1945年 ユホ・パーシキヴィ 社民、農民同盟、国民進歩党、スウェーデン人民党、人民民主同盟
 1945−1946年 ユホ・パーシキヴ(国民連合党) 国民連合党、社民、農民同盟、国民進歩党、スウェーデン人民党、人民民主同盟
 1946−1948年 マウノ・ペッカラ(人民民主同盟) 社民、農民同盟、スウェーデン人民党、人民民主同盟
 1948−1950年 カルル・ファゲルホルム(社民党) 社民党
 1950−1951年 ウルホ・ケッコネン(農民同盟) 農民同盟、国民進歩党、スウェーデン人民党
 1951年 ウルホ・ケッコネン(農民同盟) 農民同盟、国民進歩党、スウェーデン人民党、社民党
 1951−1953年 ウルホケッコネン(農民同盟) 農民同盟、スウェーデン人民党、社民党
 1953年 ウルホ・ケッコネン(農民同盟) 農民同盟、スウェーデン人民党
 1953−1954年 サカリ・トゥオミオヤ リベラル同盟、スウェーデン人民党、国民連合党、人民党
 1954年 ラルフ・トルングレン(スウェーデン人民党) スウェーデン人民党、農民同盟、社民党
 1954−1956年 ウルホ・ケッコネン(農民同盟) 農民同盟、社民党
 1956−1967年 カルル・ファゲルホルム(社民党) スウェーデン人民党、農民同盟、社民党
 1957年 ヴィエノ・スクスセライネン(農民同盟) 農民同盟、人民党、スウェーデン人民党、労働者小自作農社会民主同盟
 1957−1958年 ライネル・フォン・フィエアント 
 1958年 レイノ・クースコスキ
 1958−1959年 カルル・ファゲルホルム(社民党) 農民同盟、人民党、スウェーデン人民党、社民党、国民連合党
 1959−1961年 ヴィエノ・スクスセライネン(農民同盟) 農民同盟、スウェーデン人民党
 1961−1962年 マルティ・ミエットゥネン(農民同盟) 農民同盟
 1962−1963年 アフティ・カリヤライネン(農民同盟) 農民同盟、人民党、スウェーデン人民党、国民連合党、労働者小自作農社会民主同盟
 1963−1964年 レイノ・レフト
 1964−1966年 ヨハネス・ヴィロライネン(中央党) 中央党、スウェーデン人民党、国民連合党、人民党
 1966−1968年 ラファエル・パーシオ(社民党) 中央党、社民党、人民民主同盟、労働者小自作農社会民主同盟
 1968−1970年 マウノ・コイヴィスト(社民党) 中央党、社民党、スウェーデン人民党、人民民主同盟、労働者小自作農社会民主同盟
 1970年 テウヴォ・アウラ 
 1970−1971年 アフティ・カリヤライネン(中央党) 中央党、社民党、スウェーデン人民党、人民民主同盟、リベラル
 1971−1972年  テウヴォ・アウラ
 1972年 ラファエル・パーシオ(社民党) 社民党
 1972−1975年 カレヴィ・ソルサ(社民党) 中央党、社民党、スウェーデン人民党、リベラル
 1975年 ケイヨ・リーナマー
 1975−1976年 マルティ・ミエットゥネン(中央党) 中央党、社民党、スウェーデン人民党、人民民主同盟、リベラル
 1976−1977年 マルティ・ミエットゥネン(中央党) 中央党、スウェーデン人民党、、リベラル
 1977−1979年 カレヴィ・ソルサ(社民党) 中央党、社民党、スウェーデン人民党、人民民主同盟、リベラル
 1979−1982年 マウノ・コイヴィスト(社民党) 中央党、社民党、スウェーデン人民党、人民民主同盟
 1981−1982年 エイノ・ウーシタロ(中央党) ?
 1982−1983年  カレヴィ・ソルサ(社民党) 中央党、社民党、スウェーデン人民党、人民民主同盟、リベラル
 1983−1987年  カレヴィ・ソルサ(社民党) 中央党、社民党、スウェーデン人民党、田園党
 1987−1991年 ハッリ・ホルケリ(国民連合党) 国民連合党、社民党、スウェーデン人民党、田園党、
 1991−1995年 エスコ・アホ(中央党) 中央党、国民連合党、キリスト民主、スウェーデン人民党
 1995−1999年 パーヴォ・リッポネン(社民党) 社民党、国民連合党、緑同盟
 1999−2003年 パーヴォ・リッポネン(社民党) 社民党、国民連合党、緑同盟、スウェーデン人民党、左翼同盟
 2003年 アンネリ・イェーテェーンメキ(中央党)  中央党、社民党、スウェーデン人民党
 2003−2007年 マッティ・ヴァンハネン(中央党) 中央党、社民党、スウェーデン人民党
 2003−2010年 マッティ・ヴァンハネン(中央党) 中央党、国民連合党、緑同盟、スウェーデン人民党
 2010−2011年 マリ・キヴィニエミ(中央党) 中央党、国民連合党、緑同盟、スウェーデン人民党
 2011−2014年 ユルキ・カタイネン(国民連合党) 国民連合党、社民党、緑同盟、スウェーデン人民党、左翼同盟、キリスト民主
 2014−2015年 アレクサンデル・ストゥブ(国民連合党) 国民連合党、社民党、緑同盟、スウェーデン人民党、キリスト民主
 2015−2019年 ユハ・シピラ(中央党) 中央党、国民連合党、フィン
 2019−      アンティ・リンネ(社民党) 社民党、中央党、緑同盟、左翼同盟、スウェーデン人民党
 2019−      サンナ・マリン(社民党) 社民党、中央党、緑同盟、左翼同盟、スウェーデン人民党

 政党色合い勢力変遷
右翼
国民連合 キ民主 中央党 農民分裂 スウェ人民 リベラル 緑同盟
社民党 左翼同盟 左翼分裂
1936年 8.34(14 10.36(20    22.41(53    11.20(21 6.28(7   38.59(83    
1939年 6.65(8 13.58(25    22.86(56    9.61(18 4.81(6   39.77(85    
1945年   15.04(28    21.35(49    7.90(14 5.17(9   25.08(50 23.47(49  
1948年   17.04(33    24.24(56    7.34(13 3.91(5   26.32(54 19.98(38  
1951年   14.57(28    23.26(51    7.20(14 5.68(10   26.52(53 21.58(43  
1954年   12.80(24    24.10(53    6.76(12 7.88(13   26.25(54 21.57(43 TPSL 
1958年   15.28(29    23.06(48    6.50(13 5.90(8   23.12(48 23.16(50 1.75(3
1962年   15.06(32    22.95(53 2.16(0 6.11(13 6.34(13   19.50(38 22.02(47 4.36(2
1966年   13.79(26 0.45 21.23(49 1.03(1 5.69(11 6.47(9   27.23(55 21.20(41 2.59(7
1970年   18.05(37 1.13(1 17.12(36 10.49(18 5.34(11 5.95(8   23.43(52 16.58(36 1.40(0
1972年   17.59(34 2.53(4 16.41(35 9.16(18 5.06(9 5.16(7   25.78(55 17.02(37 0.99(0
1975年   18.37(35 3.29(9 17.63(39 3.59(2 4.66(9 4.35(9   24.86(54 18.89(40  
1979年   21.65(47 4.77(9 17.29(35 4.58(7 4,23(9 3.68(4   23.89(52 17.90(35  
1983年   22.12(44 3.03(3 17.63(38 9.69(17 4.61(10   1.47(2 26.71(57 13.46(26 *民主選択 
1987年   23.12(53 2.58(5 17.62(40 6.32(9 5.30(12   4.03(4 24.14(56 9.39(16 4.24(4
1991年   19.31(40 3.05(8 24.83(55 4.85(7 5.48(11   6.82(10 22.12(48 10.08(19  
1995年   17.89(39 2.96(7 19.85(44   5.14(11   6.52(9 28.25(63 11.16(22  
1999年 0.99(1 21.03(46 4.17(10 22.40(48   5.12(11   7.27(11 22.86(51 10.88(20  
2003年 1.57(3 18.55(40 5.34(7 24.69(55   4.61(8   8.01(14 24.47(53 9.93(19  
2007年 4.06(5 22.3(50 4.86(7 23.10(51   4.57(9   8.46(15 21.40(45 8.82(17  
2011年 19.1(39 20.4(44 4.0(6 15.8(35 4.3(9 7.3(10 19.1(42 8.1(14
2015年 17.65(38 18.20(37 3.54(5 21.10(49 4.88(9 8.53(15 16.51(34 7.13(12
2019年 17.5(39 17.0(38 3.9(5 13.8(31 4.5(9 11.5(20 17.7(40 8.2(16


<フィンランド内戦>
 〔前史〕
 フィンランドは国家形成に遅れ、北欧三国が王国を形成した時代には部族集団の時代であった。
 国家形成によりスウェーデンは東方へ進出していくが、これによりフィンランド人はスウェーデンに従属
するようになる。(13世紀はじめ)
 17世紀末、スウェーデンは北欧の大国となる。その緒を開いたグスタフ2世の軍隊には精鋭部隊として
フィンランド人が参加していた。
 長いスウェーデン支配でフィンランド人は文化的にスウェーデンの強い影響を受けるようになった。
 一方、北方ではロシアが盛隆し、ピョートル1世はペテロブルクを建設する。
 ナポレオンの登場が北欧にも影響を及ぼし、ロシアはスウェーデンからフィンランドを奪い、1809年、
フィンランド人(身分議会)はロシア皇帝への忠誠を誓った。 
 当初は寛容だった統治もウィーン体制成立から厳しくなった。1809年以降身分議会は開催されなくなった。
 このようななかでフィンランド人の民族的自覚が目覚め始めた。1835年カレワラが発行される。
 フィンランド人の文化的自立はスウェーデンの影響からの自立であった。
 19世紀後半から、ロシア皇帝アレクサンドル2世はフィンランドを立憲君主国として統治し、それまで長いあいだ
閉ざされていた議会の開催と改革を行った。
 19世紀末、国際対立の深まりとドイツの脅威により、ロシアのフィンランド支配が再強化された。 
 20世紀初頭からフィンランド人の抵抗が始まった。
 1905年10月、ロシアが騒然とした情勢となり、これによりフィンランドも騒然とした状態となる。
 ロシア皇帝の懐柔策にたいし、ブルジョア勢力は満足したが、労働者階級は満足せず、労働者とブルジョア出身者が
中心の学生が対立する。 
 1907年第1回国会選挙が行われ、社民党が200議席中80議席を得て第1党となった。
 社民党は産業労働者のほかに農業労働者、小作農の支持を得た。
 1908年からロシア皇帝の反撃が始まる。1910年3月、フィンランドの自治が実質的に奪われる。
 1914年の第1次世界大戦開始によりロシアはドイツの東方進出を恐れ、フィンランドの軍事強化をはかり、一方フィンランドには
ドイツと提携する勢力が発生し、後者は学生を主とする青年をドイツで軍人訓練させ、これら兵士はドイツにより大陸戦線で利用された。
 彼らは内戦で白衛軍の中核となる。
内戦
 1917年、ロシア2月革命でロシアによる旧支配体制は崩壊し、やがてロシアにおけるブルジョアジーとボルシェビキの対立を反映して
フィンランドもブルジョア勢力と労働者勢力が対立し始めた。
 1916年の選挙で103議席を獲得していた社民党は1917年10月の選挙では92議席に落ち、勢力関係は逆転した。
 学生を中心に”白衛隊”が結成され労働運動に暴力的に介入し始め、これに対抗して労働者側も自衛組織”赤衛隊”を結成した。
 ロシア10月革命により、フィンランドでも11月8日、社民党と労働組合連合代表により革命中央評議会が結成され、13日ゼネストに
突入した。しかし革命中央評議会はそれ以上進まず、11月19日ゼネストは解除された。
 ゼネストによりブルジョア勢力は結束し、革命は起こらなかった。12月6日、ブルジョア勢力主導で独立が宣言された。
 ブルジョア政権の支持者は自作農、地主や高等教育を受けた人々、官吏・学生であった。
 ソビエトは12月31日、独立を承認した。
 ブルジョア勢力は政権獲得後、反革命の道を進む。社会民主党も急進化が進み、両者の対立が進行する。
 1918年1月19日、ヴィープリで白衛隊と赤衛隊が衝突し、これにロシア将校であったマンネルハイムが配下の白衛隊で介入した。
 赤衛隊はアリ・アールトネンが率いた。
 これにより社民党は権力掌握を決定し、27日から28日にかけて赤衛軍は首都を制圧、革命政権が樹立された。

 革命政権は南部および西南部を掌握し、スヴィンフフヴド政権はマンネルハイムの支配するヴァーサに拠り、中部、北部農村地帯を
支配した。
 革命政権は労働者を中心に小作農や農業労働者の支持もあった。
 白衛隊の主力は自作農・地主であり、これに官吏・学生などが参加していた。
 白衛隊は戦闘経験をもつドイツ軍経験者士官をもち、義勇兵からの赤衛軍は軍事技術上劣勢だった。
 マンネルハイムの白衛隊には旧ロシア軍経験者や1300のドイツ軍経験者(イェーガリ)がいた。
 更に4月3日、ゴルツ将軍のドイツ・バルト師団9500名がフィンランドに入った。
 これにより大勢は決し、26日、マンネルらの革命政権首脳は最後の拠点ヴィープリからペトログラードへ落ち延びた。
 ソビエト・ロシアの革命政権への支援は自らの政権の不安定さのためほとんど行われず、影響もなかった。
 (ドイツとのブレスト・リストフスク条約で撤兵を義務づけられ、義勇兵として残ったのは1000名程度とされる。当初フィンランド
周辺には多数のロシア兵がいたがこれは精鋭の赤軍兵とは異なりドイツ軍に敗北し望郷の念にかられた敗残兵の集団であった。
レーニンは赤軍を送ろうとしたができなかった。敗残兵集団は赤衛軍の手助けにはならなかった。)
 一方スウェーデンからは約1100名(うち200が士官)が義勇兵として白衛隊側に参加し、タムペレで闘っている。
 赤の死者は2万7千といわれ、そのうち戦闘で死んだのは約5千、大部分は後の処刑や収容所での死であった。
 一方、白の死者は約5千で戦闘での死者は約3400とされる。


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