コーカサスの歴史



 [8] 外部勢力のジョージア支配

 (1) ローマ時代のジョージア

 ジョージア地域はBC1世紀からAD7世紀までローマの支配下にあった。この支配は時によって変化し、コーカサス地域の
コルキスとイベリアの王国に間欠的に行われた。これら王国はほぼ現代ジョージアの西と東部に対応する。

 ローマの征服はローマ共和国がアナトリアと黒海に拡大を始めた、BC2世紀末にコーカサスに達した。
 現在の西ジョージアにはコルキス王国があり、これは当時ローマの敵、ポントス王国支配下に入っていて、一方、更に東には
イベリア王国があった。
 BC65年のポンペイウスとルクッルスの遠征の結果、ポントス王国は完全に破壊され、コルキスを含め、すべてのその領域は
ローマ帝国に属州として編入された。一方、イベリアは侵攻を受け、従属国となった。
 このときからコルキスはローマ属州のラズィクムとなり、後に皇帝ネロは63年にポントス属州に編入し、引き続き、81年に
ドミティアヌスによってカッパドキアに編入された。
 同時にイベリアは従属国のままで、かなりの独立を享受し、低地は、激しい山岳民族の襲撃を頻繁に受け、保護と見返りに
ローマに名目的忠誠を捧げた。
 引き続く600年の南コーカサス史はローマとパルティアとササン朝のペルシャの間の戦いで刻印された。
 沿岸の主要な要塞はローマ人が占領したが、その支配はすこし緩かった。
 69年に、アニケトス下のポントスとコルキスの人々はローマに反乱し、失敗に終わった。1世紀初期にキリスト教が広がった。
 ラズ人のコルキス王国あローマ属州として詩はされ、一方、コーカサス・イベリアは自発的にローマ帝国の保護を受け入れた。
 ムツヘタで発見された石碑には1世紀のミフドラト(58−106)をカエサルの友人とローマを愛するイベリア人の王とある。
 皇帝ヴェスパシアヌスは75年にイベリア王のために古代ムツヘタのアルザニを要塞化した。
 2世紀に、イベリアは地域でその地位を強化、特にパルスマン2世クヴェリの治世に、ローマから完全独立を達成、以前失った地域を
衰退するアルメニアから再征服した。彼の治世にイベリイベリアとローマは提携した。
 パルスマン2世は皇帝マルクス・アウレニウスによってローマに招待され、イベリア王の騎馬像が名誉のためにマルス広場に
建てられた。
 3世紀に、ラズィ部族がほとんどのコルキスを支配するようになり、ラズィカ王国を築き、これは地域的にエグリシとして知られた。
 コルキスは東ローマとササン朝の競合の場で、これは542−562年のラズィク戦争で頂点に達した。
 更に3世紀初期に、ローマはコーカサス・アルバニアのアルメニアの支配権をササン朝ペルシャに認め、今のジョージアすべては
300年頃、アウレリウスとディオクレティアヌスのローマ支配下となった。
 ラズィクム属州はある程度の自治が与えられ、3世紀中期に完全独立し、ザン人、スヴァン人、アプシル人とサニギ人の
小侯国の地域に新しいラズィカ・エグリシ王国を形成した。この新しい南西コーカサスの国は250年以上、562年まで生き延び、
ユスティニアヌス1世の時に東ローマ帝国に吸収された。
 591年にビザンティンとローマはコーカサス・イベリア分割に合意、トビリシはペルシャ、ムツヘタはビザンティン支配に渡った。
 7世紀初めにローマとペルシャの休戦は崩壊。
 イベリア公子ステパノズ1世(590−627頃)は607年、イベリア地域統合のためペルシャ勢力参加を決心。
 しかし、628年のヘラクレイオスの攻勢でローマはペルシャに勝利、7世紀後半のアラブ侵攻まで、ローマはジョージアの西と東に
支配を確立。
 692年のローマとウマイヤ朝のセバストポリスの闘いの後、ローマの存在はジョージアから消え始めた。
 セバストポリス(実際はスフミ)は736年にアラブのマルワン2世が最終的に略奪破壊するまで西ジョージアのビザンティンの
最後の拠点となり続けた。



 565年、ユスティニアヌス1世のラズィカ属州

 (2) アラブのジョージア支配

 アラブの最初のジョージア侵攻はペルシャ征服の間の642−645年に起きた。
 これは、間もなく大規模な侵攻となり、645年にトビリシが占領された。
 ステフェン2世はラシドゥン・カリフの宗主権を認めざるを得なかった。
 この地域はカリフ国の眼には周辺的であったが、アルミニヤ州が形成された。
 しかし、カリフ国は不安定で統治は進まなかった。
 681−682年にはアダルナセ2世による反乱があった。彼は殺され、グアラム2世が据えられた。
 イベリア支配のために、アラブはビザンチン帝国とハザールと争わなければならなかった。
 彼らは7世紀初め以来コーカシア史で役割を演じた。
 アラブとハザールは642−652年と722−737年にアラブ・ハザール戦争を行っていた。
 682年のジョージア反乱鎮圧にはハザールが協力した。アブハジアとラズィカにはアラブは到達していなかった。
 685年頃、アラブと皇帝ユスティニアヌス2世はイベリアとアルメニアの共同所有に同意した。
 しかし692年のセバストポリスの戦いでのアラブの勝利で均衡が崩れ、アラブはアルメニアを征服し、黒海まで到達し、697年頃、
ラズィカ王国が消滅、アラブに都合の良い新国家ができた。
 (セルギウスの治世、736年のアラブ侵攻をレオン1世がはねのけ、780年にはレオン2世がエグリス・アブハジア王国形成。)
 730年頃、ウマイヤ朝のジョージアへの政策が変わった。
 ハザールがモスルまで侵攻し敗北、コーカサスの従属緩衝国は侵攻を阻止できなかった。ビザンティン帝国は弱体化。
 732−733年、アルメニアとアゼルバイジャンの総督にハザールとの闘いとジョージア支配のためマルワン・イブン・ムハンマドが
任命された。
 彼はカルトリだけでなく、更に西半分、サムツヘからアブハジアへも侵攻した。
 マルワンはトビリシにエミールを確立した。737年にはハザールを攻撃。
 しかし、マルワンの死後、カリフ国は内紛に巻き込まれた。キリスト教コーカシア人はビザンチンの支援で独立を回復しようとしたが、
間もなく新しいカリフ国ができた。
 786年にはコーカサスのワリのフザイマ・イブン・ハジズが反乱を鎮圧。カヘティのアルチルはイスラム転向を拒否して処刑された。
 グアラミド朝とコスロイド朝が消滅しエミールに良い状況をもたらした。
 バグラティオニ朝がタオ・クラルジェティを支配し、エミール国の競争相手となった。
 809年、トビリシのエミールのイスマイル・イブン・シュアブがカリフ国からの独立を宣言。
 カリフ国は反逆に対し、ジョージア公子の支援を求めようとして、シュアブに対しバグラティオニを認めた。
 813年、アショト1世はイベリア、カルトリ侯国を復興し、カリフとビザンチン両方から認められた。
 ビザンティンは彼にクロパラテスの称号を与えた。
 (アルメニアでも884年に同じくバグラティド朝のアショト1世が同様にビザンティンとカリフから王と認められた。)
 833年からイシャク・イブン・イスマイルがジョージアの土地に支配を再獲得した。
 やがてエミールはカリフ国の宗主権を認めなくなり、アルメニア人も反乱し、カリフはコーカシアの反乱に対し、853年、
ブガ・アル・カビルの派遣隊をおくり、アッバース軍はトビリシを包囲し、焼き払い、エミールを処刑。
 多くのジョージア貴族が捕らえられ、処刑あるいは投獄された。
 トビリシのエミール国は廃止されなかったが、カリフはその勢力が強気なることを許さなかった。
 9世紀後半、バグラティオニの勢力は上昇し、カルフ国とビザンティンはこれに敵対しなかった。
 アルメニアはアショト1世の支援で886年、君主制を回復。
 914年、カリフ国の別の従臣、アゼルバイジャンのエミール(サジド朝)ユスフ・イブン・アビル・サジが最後のアラブの
コーカサス支配を試みた。
 サジド朝のジョージア侵攻は失敗だったがジョージアを荒らし、バグラティド朝はビンザンティンとの提携を回復した。
 以降アラブはジョージア史で重要な役割を演じなくなった。







 (3) イベリアのテマ 1001−1074年

 11世紀のビザンティンのジョージアの統治・軍事単位のテマ。
 皇帝バシレイオス2世がバグラト朝の領域の一部を併合した結果形成され、後に、11世紀にいくつかのアルメニア人王国に拡大。
 セルジュークの侵攻で1074年、存在停止。

 テマは皇帝バシレイオス2世(976−1025)がジョージア王のタオのダヴィド3世から相続した土地で形成。
 これらの地域、タオの向こう側のアルメニアとジョージアの境界地域は、979年にバルダス・スクレロスの反乱に対しての
バシレイオス2世への支援によりダヴィドに与えられた。
 しかし987年のバルダス・フォカスの反乱でのダヴィドのバシレイオス2世への支援拒否で、コンスタンティノプルのコーカサス
支配者への不信を引き起こした。
 反乱失敗後、ダヴィドはバシレイオス2世を遺産相続人にせざるを得なかった。
 1000年のダヴィドの死で、バシレイオス2世は相続財産をかき集め、継承者ジョージアのバグラト朝支配者バグラト3世に
新しい再編成を認めさせた。しかし、ゲオルゲ1世はダヴィドの継承への長くからの主張を受け継いた。
 バシレイオス2世はブルガリア遠征に心を奪われ、ゲオルゲは1014年、タオとファシアネへの侵攻の勢いがついた。
 ビザンティン・ジョージア戦争に敗れ、ゲオルゲは1022年、ビザンティン皇帝に更なる土地、コラ、アルタアンとジャヴァヘティを
手放さざるを得なかった。これらの地域はバシレイオス2世によって首都テオドシオポリス(エルズルム)とするイベリアのテマに
組織された。
 以降、イベリアのテマはカルディアのドゥカテ(総督府)と一緒に統治された。
 この結果、ジョージア国の政治的中心は多くのジョージア貴族と北へ移動し、一方、帝国はアルメニアとジョージア地域への
更なる拡張の拠点を確保した。
 1045年以降、以前のアニ王国を含む。
 1048年、セルジュークがイブラヒム・イナルのもと、この地域に最初の遠征を行う。
 1071年のマンジケルトの闘いの敗北で、テマの南東部分がセルジュークに併合される。
 1074年、ビザンティン総督のグレゴリオス・パクリアノスが公式にタオとカルスを含む部分をジョージア王ゲオルゲ2世に譲る。




 (4) ビザンティン・ジョージア戦争

 ビザンティンの統合はバルダス・スクレイロスの976年の反乱以降、深刻な脅威に陥った。
 タオのダヴィド3世はバシレイオス2世を支援し、パンカレイアの闘いで勝利し、彼はこれで報酬として東・小アジア地域の
一代の支配を与えられた。
 しかし、987年のバルダス・ポカスの反乱でのバシレイオスヘの支援拒否で不信を買い、ダヴィド3世は彼の広大な所有地を
バシレイオスに相続せざるを得なかった。
 1001年、ダヴィドが死んだときに、バシレイオスは彼の遺産をイベリアのテマとした。
 (これは1074年のセルジューク侵攻で存在停止。)
 翌年、グルゲンが遺産を奪い取るため進軍したが失敗し、バグラト3世は新体制を認めざるを得なかった。
 しかしこれにもかかわらず、バグラト3世は1008年にジョージアを統一。

 ゲオルゲ1世はダヴィド時代のジョージアの継承の回復のため1015−1016年、遠征に乗り出し、タオを占領。 
 彼はまたエジプトのフィーティマ朝カリフのアル・ハキムと提携し、これでバシレイオスは苦しい状況となり、すぐにジョージアへの
攻勢はできなかった。 
 ビザンティンはブルガール帝国との戦争をしていたが、1018年、ブルガリアを征服すると、アル・ハキムはもはや生きておらず、
バシレイオスは軍隊をジョージアに向けた。1021年、バシレイオスはジョージアとその提携者、アルメニアを攻撃、パシアネを
取り戻し、タオの国境から内ジョージアに追い出した。
 シリムニの闘いで皇帝は勝利、ゲオルゲは自分の王国に撤退。
 1022年、バシレイオスは最後の闘いの乗り出し、スヴィンダクスの闘いで勝利。
 ゲオルゲはタオ、パシアネ、コラ、アルタアンとジャヴァヘティを渡し、息子のバグラトをバシレイオスの人質とした。

 バグラト4世が王位についてすぐにコンスタンティノス8世はクラルジェティのグルゲンの息子ジョージアのバグラト朝公子
デメトレのために、重要な都市要塞アルタヌジ占領のために派兵した。
 グルゲンはバグラティド4世の祖父バグラティド3世により王位を追われていた。
 幾人かのジョージア貴族がビザンティンについたが、バグラトに忠誠な従臣が戦いをやめさせた。
 ビザンティンは国境を越え、クルデカリを包囲したが、占領に失敗し、シャヴシェティまで後退、地域の主教が防衛組織に成功し、
ビザンティンの戦術を変更させた。
 皇帝はついで亡命ジョージア公子、アナコピアのデメトリウスを正統な王位継承者として力で王位を奪おうとして送ったが、
 1028年、コンスタンティノスが死亡し、ビザンチン侵攻は流産した。
 1030年、女王マリアムは新皇帝ロマノス3世を訪問し、和平を交渉し、1032年、息子にクレパラテスの称号を取り戻した。
 マリアムはまた彼のビザンティンの王女ヘレナを妻としてもたらした。
 1033年、宮廷は別の宮廷紛争に直面、今度は異母兄弟でアラニアのアルダの息子アナコピアのデメトリウスであった。
 バグラトの母マリアムのデメトリウスの忠誠を勝ち取る試みは無駄であった。
 アルダはバグラトに脅威を感じ、ビザンティンに行き、ロマノス3世から息子にマジストロスの称号を得た。
 ジョージア年代記によるとバグラトは敵の統一軍を破りアナコピアを包囲し、要塞監視の軍隊を置いた。
 1038年、クルデカリの公子リパリティド一族のルパリト4世はトビリシ占領の瀬戸際にあった。
 彼の勢力拡大を恐れたジョージア貴族は王を説得してトビリシと和平させた。
 これでリパリトはバグラトの敵となり、報復のたっめ国外勢力と提携し始めた。1039年、彼はアナコピアのデメトリウスに
支援を誓い、デメトリウスはジョージアにビザンティン軍隊と戻った。
 今回は彼はジョージアで最も強力な貴族のリパリティド一族のルパリト4世(クルデカリの公子)に支援されていた。
 リパリト4世とビザンティンは王室軍に非常な成功を享受し、特に主要であるサシレティの闘いで勝利し、バグラトは
西ジョージア高地に避難せざるを得なかったが、1042年、デメトリウスが不意に死亡。
 アルダとデメトリウスに息子ダヴィドはアラニアに逃亡。
 リパリトは戦い続け、この地域のビザンチンの影響の主要な獲得者となった。
 バグラトは皇帝コンスタンティノス9世に訴え、その結果、リパリトは領域の半分を取り、ジョージア王の従臣となった。
 このようにしてトリアレティ、アルグヴェティ、下と上のイベリアの伯爵、ジョージアの公子・長官のリパリトは1045−
1048年に王国で最も強力な人物となった。
 1048年のセルジュークのアナトリア遠征で、ビザンチン側で戦っていたリパリトはカペトロウの戦いで捕虜となり、
これを利用してバグラトは東の領土に戻った。しかしリパリトが戻り、王の幸運はすぐにひっくり返った。
 バグラトはコンスタンティノプルに逃げ、3年間留められた。バグラトのいない間(1050−1053)、リパリトは事実上
ジョージアの支配者で、彼はバグラトの息子ゲオルゲを王にし、自分は摂政と称した。
 バグラトが戻ると、リパリトはバグラトと戦い、1060年、バグラトの支持者はリパリトを降伏させ、バグラトはリパリトを
修道院に送った。
 セルジューク・トルコは1040年代、大王国を築き、この脅威でジョージアとビザンチンは強力を模索、バグラトの娘マリアが
ビザンチンの共同皇帝ミカエル7世と結婚。
 バシレイオス2世への領土の喪失は別としてジョージア王は独立を維持しほとんどのジョージアの土地を統一し、単一国家とした。
 帝国に渡された多くの領域は1070−1080年代にセルジューク・トルコよって占領されるが、イベリアのテマは南東部は
セルジュークが併合し、カルスとタオの支配は1074年、ビザンティン総督グレゴリ・パコウリアノスによってゲオルゲ2世に譲られ、
帝国東限を任された。


 (5) ジョージア−セルジューク戦争

 1048−1213年にジョージア王国とセルジューク帝国の間で起こった戦争。
 この後にコーカサスに11世紀のトルコ人の決定的侵攻が生じる。

 1048−1049年にイブラヒム・イナル下のセルジューク・トルコ人がビザンティンのイベリア国境地域に始めて侵攻。
 皇帝コンスタンティノス9世はジョージア王バグラト4世との戦いで支援したクルデカリのリパリト4世に支援を要請。
 ビザンティン側で戦ったリパリトはカペトロンの戦い(1048年)で捕獲された。これを利用しバグラトはその領土を奪った。
 11世紀後半にはセルジューク・トルコの本格的侵攻が起きた。
 セルジューク・トルコは1040年代末までにほとんどの中央アジアとペルシャを含む広大な帝国建設に成功。
 セルジュークは1060年代初めてジョージアに出現、アルプ・アルスランはジョージア王国の南西とカヘティを襲撃。
 1071年にはマンジケルトでビザンティン軍を決定的に破っている。
 セルジュークの脅威はジョージアとビザンティンの接近を促進、バグラトの娘マリアがビザンティン共同皇帝ミカエル7世と結婚。
 1068年、アルプ・アルスランはトビリシのエミールとロリとカヘティの王を伴いバグラトに対し再度進軍。
 カルトリとアルグヴェティは占領され略奪された。バグラトの宿敵アッラーンのシャダート朝はトビリシとルスタヴィ要塞で報われた。
 アルプ・アルスランが戻るとバグラトは1068年にカルトリを再確保。
 シャッダート朝のアル・ファドル・イブン・ムハンマドが襲撃し、バグラトはこれを破る。
 逃走途中でファドルは地域領主の捕虜となる。バグラトはファドルから賠償を取る。

 バグラトはマンジケルトの戦いの翌年(1072年)に死亡。息子のゲオルゲ2世が継承、彼はビザンティンからカエサルの称号を
与えられ、カルス要塞を授けられ、帝国東限を任される。
 ビザンティンはアナトリアから撤退し、ジョージアは更にセルジュークとの直接接触を強いられる。
 1070年代、ジョージアは2度、マリク・シャーの攻撃されるがゲオルゲ2世はまだ敗走させることができた。
 1076年、マリク・シャーはジョージアに侵攻し多くの居住地を廃墟と化した。
 1079年以降ジョージアは年貢によって高価な和平を強いられた。
 トルコ人は季節的にジョージアに侵攻、南の拠点要塞を占領。
 ゲオルゲ2世はセルジュークの支援でカヘティ王国に遠征。
 カヘティ王アグサルタン1世はスルタンに服従し、イスラムに転向、ジョージアの願望に対するセルジュークの保護を勝ち取った。
 ゲオルゲ2世の変わり気と政治的無能とセルジュークの軛でジョージア王国は深い危機に陥り、これは1088年の大地震で
頂点に達した。
 これでゲオルゲ2世は1089年、16歳の息子のダヴィド4世に譲位。

 ダヴィド4世は成人すると批判的な封建領主を抑え、権力を集権化、セルジューク軍に対抗できる軍隊を組織。
 1099年にはセルジュークへの貢納を拒否できるようになった。
 1104年に、彼の支援者のカヘティの貴族がセルジュークに忠実なカヘティ・ヘレティ王アグサルタン2世(1102−1104)
を捕らえ、ダヴィドはジョージアの残りの地域を統一。
 カヘティ併合後に、1105年、エルツヒの戦いでセルジュークを敗走させ、1110−1118年にサムシュヴィルデ、
ルスタヴィ、ギシとロリの重要な要塞を確保。
 1118−1120年には軍制改革を行い、また多くのキプチャク人を北の草原からジョージア国境地域に移住させ、彼らから
常備兵(モナスパ)を形成。
 キプチャクとの提携のためハンの娘とも結婚。1120年にはシルヴァンに入り、カバラを奪った。
 1120−1121年の冬にはジョージア兵はコーカサスに至る東と南西のセルジューク居住地攻撃に成功。
 これに対しスルタン・マフムド・イブン・ムハンマド(1118−1131年頃)はジョージアに聖戦を宣言。
 1121年、ダヴィドはディドゴリの戦いでセルジュークを敗走させ、多くの捕虜を得、1122年、トビリシも確保。
 1123年にダヴィドの軍はセルジュークの南コージアの最後の拠点ドマニシを解放。
 1124年にはシルヴァンを征服し、アルメニアのアニをムスリム・エミール(シャッダード朝)から奪う。

 ダヴィドの息子デメトリウス1世が登位すると、隣のムスリム支配者たちはジョージアをあらゆる方面から攻撃。
 セルジューク・スルタンはシルヴァンシャー支配奪還のため戦った。
 デメトリウスは娘ルスダンの夫、マヌチフル2世にシルヴァンを支配させていた。(1129または1130年)
 1130年、アフラトのスルタン、シャー・アルメンソクメン2世がジョージアを攻撃。デメトリウスはアニを放棄せざるを
得なかった。
 1139年、デメトリウスはガンジャを攻撃、しかし数年しか確保できなかった。
 アニのシャッダード朝とエルズルムのサルトゥク朝で対立が生じ、シャダードはデメトリウスと提携しようとした。
 1153−1154年にサルトゥク朝はアニに進軍、これに対しデメトリウスはサルトゥクを破り、エミールを捕獲。
 エミールは賠償金を払った。

 1156年に息子のゲオルゲ3世が継承、彼はその年にシャー・アルメンへの遠征に成功。
 1156年、アニのキリスト教徒がシャダード朝に蜂起、ゲオルゲに服従を申し入れ、ゲオルゲは1161年に将軍の
イヴァネ・オルベリを支配者とする。
 これに対し、アフラトの支配者シャー・アルメンのソクメン2世、ディヤルバクル(アルトゥク朝)、エルズルム(サルトゥク朝)、
その他が提携したがジョージア軍に敗れる。
 1161年にはエルズルムを破り、エミールを捕獲し賠償をとる。これでジョージア軍はドヴィンに進み、1162年に一時的に占領。
 アダルバガン(アゼルバイジャン)のイルデギズ朝率いるムスリム連合が1163年にジョージアに遠征、これにシャー・アルメン、
マラガーの支配者なども参加。
 ジョージア軍は敗れ敵はガギ要塞を奪い、ゲガルクニク地域まで侵攻、更にアニに移動。
 1166年にゲオルゲ3世はアッラーンに進軍、ガンジャまでを占領し、荒廃させる。
 ゲオルゲとイルデギズ朝との戦いは果てしなく見え、両者は和平、アニを返還。しかし1174年に再奪取、イヴァネ・オルベリに
支配させる。
 1177年にゲオルゲはオルベリ家の反乱に直面。ゲオルゲはこれを粉砕し、イヴァネを殺し、残りの一族を追い払った。
 ザカリア(ムハルグルゼリ)家のサルギス1世をアニの総督に指名。

 1178年、ゲオルゲは娘のタマルを継承者とした。
 タマルは権力を強化し、ダヴィド・ソスラン(アラン人公子のタマルの夫)、ムハルグルゼリ家、トレリ家などの貴族の支援を得た。
 1190年代初期にジョージアはイルデギズ朝とシルヴァンシャーの内紛に介入し、対立する公子を支援し、シルヴァンを
貢納国にした。
 イルデギズ朝のアブ・バクルは1195年、シャムコルの戦いで、ダヴィド・ソスランに破れ、首都はジョージア保護下となった。
 二人のアルメニア人将軍、ザカレとイヴァネ・ムハルグルゼリ率いるタマルの軍はアララト平原へ向かい要塞と都市を制圧した。
 これに対し、蘇ったルム・セルジュークのスルタン、スレイマンシャー2世は従属するエミールと提携しジョージアに進軍したが、
1203年頃に、バシアンの戦いでダヴィド・ソスランに攻撃され敗走。
 これで1203−1205年にドヴィンを占領、アフラトシャー(シャー・アルメン)領に入り、サルトク朝の従臣、カルスのエミール、
アフラトシャーとエルズルムとエルジンジャン(メングジェク朝)のエミールを服従させた。
 エルズルムが服従を拒否し、ダヴィド・ソスランは1206年、カルスとアラクセス川沿いの他の要塞と拠点を占領。
 カルスのエミールはアフラトシャーの支援を求めたが支援されず、アフラトシャーは1207年、アイユーブ朝によって占領された。
 1209年、ムハルグルゼ兄弟はムスリム領主のアニ攻撃の報復にアルダビルを襲撃(イルデギズ朝への懲罰遠征)。
 兄弟は軍を率いてタマルの領土、従属地域中を行進、ナフチヴァンとジュルファから北西イランのマランド、タブリズとカズヴィン。
 タマルを継承したゲオルゲ4世は1220年、十字軍を支援しようと準備したが、モンゴルのジョージア接近で実現しなかった。
 1221−1222年にモンゴルの最初のジョージア遠征があった。
 ゲオルゲ4世は1223年、彼らに対する戦いで死亡、姉妹のルスダンはモンゴルに対するために絶望的な提携を行い、彼女と娘は
エルズルム(ギアス・アディン)とルム・スルタン国(カイホスロー2世)のセルジューク公子と結婚。






 (6) モンゴルのジョージア侵攻と支配

 (6−1) モンゴルのジョージア侵入 

(概要)

 13世紀を通してモンゴルによって、ジョージア、アルメニアと多くのコーカサスは数度の大規模な侵攻に巻き込まれた。

 1220年にモンゴルはコーカサスに初めて出現、スブタイとジェベはホラズムのムハンマド2世を追っていた。
 一連の襲撃でゲオレグ4世の指揮するジョージアとアルメニア軍を破り、その後、スブタイとジェベは北のルスへ向かった。

 大規模なモンゴルのコーカサスと東アナトリア襲撃は1236年に始まり、ジョージア王国、ルーム・セルジューク国、
トレビゾンド帝国が征服され、キリキア・アルメニア王国と他の十字軍国家は自発的にモンゴル従属を受け入れ、
暗殺者集団は除去された。
モンゴルはドゥルズケティア(現代のチェチェン共和国)へ侵攻したが継続的抵抗を受けた。

 1259年のモンケ・ハーンの死後、モンゴル帝国は内戦に陥り、ベルケの金帳汗国とフラグのイルハーン国は1264年の
フビライの登場までコーカサスで互いに侵攻を繰り返した。(ベルケ・フラグ戦争)

 モンゴルのコーカサス支配は1330年代まで続いた。大アルメニアは1220−1344年までモンゴルの支配にあった。

(最初の攻撃) *モンゴルのジョージア侵入の記述に矛盾があるので他を引用。

最初の出会いは1221年2月、ジョージアに偵察を行っていたモンゴル軍がジョージア王ゲオルゲ4世軍と衝突。
 3月、モンゴルはアゼルバイジャンに戻りマラーゲを攻略し住民を虐殺。
 1221年末、モンゴルは再びジョージアへ向かい、トビリシ近くでのバルダヴ(現在のバルダ)での戦いでモンゴルが決定的勝利。
 (以上カルカ川の戦い)
 その後モンゴルはカスピ海方向に向かい、途中、マラガ、ハマダン、ナヒチェヴァンやその他現在のアゼルバイジャンの都市を攻撃。
 更に北に向かいアラン、クマンを攻撃。(以上仏語モンゴルのジョージア侵入)

 自分の帝国を破壊された、ムハンマド2世紀の息子、ジャラルディン・ミンブルヌは1225年、イルデギズド朝を倒し、
1226年、ジョージアを攻撃し、ガルニの戦いで破り、トビリシを占領、キリスト教徒の虐殺を行った。
 (以上ジャラルディン・ミンブルヌ)

(第2回攻撃)

 モンゴルの第2回のコーカサス侵攻はチョルマグンのジャラルディン・ミンブルヌ追跡に対する1231年の派遣。
 この間、ジャラルディン・ミンブルヌは暗殺され、ジャラレディン・ミングブルヌの1231年の死後、チョルマグンはペルシャを
攻撃した後、1236年、アルメニアとジョージアに目を向けた。
 ジョージア王国征服は1238年に完了し、モンゴルはアルメニアの王国の南方領土を攻撃、これは翌年セルジューク下へ。
 モンゴルは北コーカサス(現代のチェチェンとイングーシで西はアラニア、北東はシムシル、北はドゥルジュケティアを含む)を、
1237年に征服し始めたが地域住民の流血の抵抗を受けた。

 1243年のキョセ・ダーの戦いのあとバイジュのモンゴルはアナトリアを占領し、ルーム・セルジューク・スルタン国と
トレビゾンド帝国はモンゴルに従属。


 ジンギス・カンの遠征


 (6−2) モンゴルのジョージア支配




 モンゴルはグルジスタンのヴィライェット(州)を作り、これにはジョージアと全南コーカサスを含んだ。
 これを彼らはジョージア君主によって、間接支配した。君主はハーンによって承認された。
 1245年のルスダンの死で空位時代が始まり、モンゴルはコーカサスを8つのトゥメン(万戸)に分割。
 モンゴルはジョージア貴族を2つの競争党派に分け各々が王位候補を支持した。
 これはダヴィド7世ウルとダヴィド6世ナリンであった。
 1247年、グユク・ハーンは両者を各々、王国の西と東の部分の共同統治者とした。トゥメン制度は廃止された。
 1256年、ジョージアはイル・ハーン国の支配下に置かれた。
 1259−1260年、ジョージア貴族はダヴィド6世ナリンに率いられ、モンゴルに立ち上がり、イメレティをモンゴル支配の
東ジョージアから切り離すことに成功。
 ダヴィド7世ウルは従兄弟の反乱に加わろうとしてゴリ近くで敗れ再度モンゴル支配に服従。
 1261年始め、コーカサスはイル・ハーン国と金帳汗国の衝突の舞台となった。
 貴族は王へ立ち上がるを励まされ、1266年、サムツヘのサルギスがアバカ・ハーンによって保護を与えられ、独立。
 デメトリウス2世はアルグン・ハーンへの反乱に失敗し、処刑された。
 西ジョージアはイル・ハーン国からの危うい独立を維持したが、東ジョージアは重い貢納と不安定な政治状況に悩まされた。
 ダヴィド3世(1292−1310)の長い反乱もジョージア解放に至らず、懲罰遠征を招いた。
 イル・ハーン国のペルシャでの徐々な解体でジョージアへの影響は弱まった。
 ゲオルゲ5世のもと、モンゴル王子チョバンの支援で短い統合と復興があった。内部の敵を除去し、イメレティを征服。
 1320年代恐らく内部抗争のため、すべてのモンゴル軍隊がジョージアから撤退。
 ゲオルゲ5世と仲の良かったモンゴル王子チョバンが1327年、アブ・サイド・ハーンによって処刑された。
 そのあとクトルグシャーの息子イクバルシャーがモンゴルのジョージア統治者に指名された。
 1330−1331年、ゲオルゲ5世はイメレティを併合。
 1334年、ジャライールのシャイフ・ハサンがアブ・サイドによってジョージア統治者に指名された。
 ティムールの前にジョージアの多くはモンゴルのジャライル朝とチョバン朝下にあった。

チョバン朝 1335−1357
 チョバン一族はイル・ハーン国に仕え、その崩壊後、その支配地域を占領。
 チョバンはアゼルバイジャンを基礎に、アラン、小アジアとメソポタミアの一部と西中央ペルシャを支配し、一方、ジャライル朝が
バグダードを占拠。
 1357年、金帳汗国がチョバンの領域を侵攻し、タブリズを占領しチョバン朝は倒される。

ジャライル朝 1335−1432
 イル・ハーン国の崩壊後、イラクと西ペルシャを支配。
 ティムールの征服とカラ・コユンルの反乱で崩壊するまで約50年、続いた。
 ティムールの1405年の死後、短い復興の試みが南イラクとフジスタンであった。
 最終的にカラ・コユンルによって1432年、消滅させられた。


 (7) ティムールのジョージア侵攻

 ジョージアは1386−1403年の間にティムールによって数回、悲惨な侵攻を受けた。
 ティムールの広大な帝国は、その盛時に中央アジアからアナトリアまで広がった。
 これら衝突はティムールと金帳国の最後の王でイスラム世界支配のティムールの最大の競争相手トクタミシュとの戦争に密接に
結びついていた。ティムールは公然と彼の侵攻を非ムスリム地域へのジハードと宣言した。
 彼はジョージアの一部に侵攻できたが、彼は決して、ジョージアをムスリム国にしようとも、更にジョージアをキリスト教国とも
考えなかった。
 最初の8回の侵攻で、ティムールはジョージア首都トビリシを略奪し、バグラト5世を1386年に捕獲した。
 バグラトの息子で継承者のゲオルゲ7世は激しく抵抗し、彼の治世の(1395−1405)多くをティムールの侵攻と戦うことに
費やした。
ティムールは個人的にはほとんどのこれら侵攻を抵抗するジョージア君主を征服するために行った。
 彼はジョージアに確固たる支配を確立できなかったが、ジョージアはいままで受けたことのない打撃に苦しんだ。
 そのときまでにゲオルゲ7世はティムールの和平を受け入れ、貢納に同意せざるを得ず、彼は略奪された都市、地方と砕かれた
君主制の主人に過ぎなかった。

 ティムールのコーカサスへの最初の出現はトクタミシュが、1385年にコーカシアの土地を経由してきたイランに入り込んだことへの
応答であった。これが2つのイスラム君主の間の明白な敵意の勃発を画期した。
 ティムールは出現しつつある帝国とトクタミシュのハーン国の西境界にある小さな辺境諸国への大規模な侵攻に乗り出すことで
応答した。
 アゼルバイジャンとカルスを征服してから、ティムールはジョージアに進んだ。
 彼の治世の公式歴史、ザファルナマはジョージア遠征をジハードと表現している。
 カルスから出発し1386年、最南の侯国サムツヘを攻撃し、そこからバグラト5世が要塞化したトビリシに進んだ。
 都市は1386年11月21日に陥落し、バグラト5世は捕獲され、脅されてイスラム教に転向した。
 バグラトは約1万2千の兵を与えられ、ジョージア支配を再確立し、バグラトの息子で共同統治者のゲオルゲ7世が父が
ティムール宮廷で不在の間、統治した。
 老王はゲオルゲと秘密交渉に入り、ゲオルゲはバグラトのイスラム人警護者を待ち伏せし、父を逃がした。
 1387年春、ティムールは待ち伏せと脱走に応酬するためにジョージアに戻った。
 バグラトとゲオルゲはなんとか国境地域の市民を山脈と森林に避難させ、防衛を組織した。
 トクタミシュはイランに再出現し、ティムールを一時的に撤退させた。
 しかし金帳国が敗れるや、ティムールは戻ってジョージアを再び攻撃した。
 1394年、彼は4将軍をサムツヘに派遣し、イスラム法ガーザを適用させた。
 同年、ティムール自身がアラグヴィ峡谷の山岳ジョージア人共同体を懲罰し、トクタミシュの攻撃を聞いて、トビリシを経由して
シェキに戻った。
 1395年、ジョージア人はシェキのシディ・アリと提携し、ティムールの息子、ミラン・シャーの侵攻軍を破り、
ジャライル朝王子タヒルを捕獲した。
 1399年、この出来事でティムールは戻り、一般住民に報復を行った。彼はシェキを占領し、隣のカヘティを荒らした。
 1400年、春、ティムールは戻ってジョージア国に徹底した破壊を行った。
 彼はゲオルゲ7世にタヒルを渡すことを要求した。ゲオルゲ7世は拒否し、下カルトリのサギム川でティムールと遭遇し、敗北し、
厳しく追われ、国深く撤退した。
 ティムールはジョージア首都トビリシを破壊し、そこに駐留兵を残し、ゲオルゲが依拠したゴリを襲撃した。
 王は西へ逃げ、敵が入り込めない西ジョージアの森林に逃げた。
 ティムール軍は地域を移動し、血なまぐさい遠征が数か月続いた。
 1401年、ティムールはコーカサスに再度侵攻。ゲオルゲは和平せざるをえなかった。
 ティムールはオスマン朝との衝突を準備していて、明らかに状況を凍結したかった。
 ティムールは兵の供給とムスリムへの特権付与を条件に和平した。
 オスマンがアンカラの戦い(1402年)で敗れると、ティムールは1402年、エルズルムに戻り、ジョージア王が勝利のお祝いに
来ないことに対して罰することを決めた。
 ゲオルゲ7世の兄弟、コンスタンティネは当時、兄と仲が悪く、王の反抗的従臣、サムツヘ公子イワネ・ジャケリと贈り物をもって
到着した。
 ゲオルゲは贈り物をしたが、ティムールは拒否し、ゲオルゲ自身が現れた。
 そのうちに、ティムールは難攻不落の要塞ビルトヴィシを襲撃し、1403年占領。ティムールはジョージア国境地域に派兵し、
ゲオルゲ7世はアブハジアまで撤退した。
 ウラマーとムフティ(イスラム法学者)がジョージア王に慈悲を与えることができるとしたときにティムールは軍を止めた。
 ゲオルゲ7世は巨額の貢納をした。ティムールはトビリシを経由し、途中、僧院と教会を破壊し、1401年初期、
ベイラゲン(アゼルバイジャン)に行った。
 ベイラゲンからトレビゾンドまでのすべての地域はティムールによって孫のハリル・ミルザに与えられた。
 ティムールは最後にコーカサスを去り、中央アジアに向かい、そこで1405年2月19日に死んだ。




 (8) トゥルクメンのジョージア侵攻




 ティムールのひどい侵攻とその後のジョージア王国の弱体化に、更にすぐに新しい脅威に直面した。
 1405年のティムールの死は彼の帝国の終焉の始まりを刻印し、従属民の恐怖と血によってのみ統一された。
 トゥルコマン、特にカラ・コユンル種族が最初にほとんどのペルシャとマウェランナフルを支配するティムールの息子シャー・ルフに
反乱した。
 カラ・コユンル支配者のカラ・ユスフはシャー・ルフを破りバグダードを占領し(1393年)、ティムール朝を西ペルシャから
追い出した。
(*1406年のナフチヴァンの戦いで、カラ・ユスフがティムール帝国軍を決定的に破る。)
 彼らは中東に新しい覇権を確立した。彼らはジョージア人の一時的弱体化を利用しその攻撃に乗り出し、それで明らかにジョージアの
ゲオルゲ7世が殺された(1407年頃)。コンスタンティネ1世は更なる侵攻を恐れ、シルヴァンシャーのイブラヒム1世と提携し、
トルコマンの侵攻に対抗し、チャラガンの戦い(1412年)に参加し、彼は敗れ、捕虜となった。
 捕虜になってコンスタンティネ1世は非常に高慢に振る舞い、カラ・ユスフは彼と、彼の異母兄弟と300人のジョージア人貴族を
処刑させた(1412年)。
 アレクサンデル1世は彼の衰退する王国を強化、回復しようと努めたが、絶え間ないトゥルコマンの侵攻に直面した。
 ムスリム抑圧の示唆に対し、彼らは1416年に活気に満ちた地域の重要な都市アハルツィヘを略奪した。
 アレクサンデルは1431年にジョージア国境確保に重要なロリをトゥルコマンから征服した。
 1434/1435年頃、アレクサンデルはアルメニア公子オルベリ家のベシュケン2世を促してシウニア(シュニク)の
カラ・コユンル氏族一員を攻撃させ、その勝利に対し、従臣としてロリを与えた。
 1440年、アレクサンデルはジャハン・シャーへの貢納を拒否した。ジャハン・シャーは2万の軍隊でジョージアの侵攻し、
サムシュヴィルデの都市を破壊し、首都トビリシを略奪した。
 彼は多くのキリスト教徒を殺し、ジョージアに重い賠償を課し、タブリズに戻った。
 1444年に彼は2回目のジョージア遠征に乗り出した。
 彼の軍隊はアレクサンデルの後継者ヴァフタング4世とアハルツィヘで出会い、戦いは決着がつかず、ジャハン・シャーは
タブリズに戻った。
 内外の戦いの結果、統一ジョージア王国は1466年以降、存在を止め、いくつかの政治単位の分裂した。
 カラ・ユンル種族連合はアク・コユンルによって破壊され、アク・コユンルの種族員は別の連合を形成し、これは多くの点で
その先行者と同じであった。
 アク・コユンルは当然、ジョージア人の分解を利用した。ジョージアは1466年に、少なくとも2回、ウズン・ハサンによって
攻撃された。1472年と恐らく1476−1477年。
 当時の一時的なほとんどのジョージアの支配者のバグラト6世は、トビリシを敵に放棄して、侵攻者と和平せざるを得なかった。
 ジョージアが首都を取り戻すことができたのはウズン・ハサンの死(1478年)後であった。
 1488年冬に、ハリル・ベイ率いるアク・コユンルがジョージア首都トビリシを攻撃し、長い包囲のあと、1489年2月、
都市を占領した。
 別の王位僭称者イメレティのアレクサンデル2世は、アク・コユンルのカルトリ侵攻を利用してイメレティの支配を確保した。
 首都占領は長く続かず、コンスタンティネ2世は彼らを追い返すことができたが、それはジョージア人に高くついた。
 サファヴィー朝創建者イスマイル1世が1502年に、ジョージア人と提携し、同年、決定的にアク・コユンルを破り、
彼らの国を破壊し、彼らの侵攻を終えさせた。



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