<<フランスの学生運動>>


フランスの学生運動 
 20世紀のフランス学生運動の嚆矢は1968年5月で、これはナンテール大学(パリ第10大学)の3月22日運動から始まった。
 3月22日運動は毛沢東主義者、トロツキスト、アナーキストなどの極左によりなっていた。指導者はダニエル・コーン・ベンディット
アラン・ジェスマール1968年5月のそのほかの指導者はUNEFPSUジャック・ソヴァジェオ
 この運動は学生運動を越え数週間のゼネストをもたらし、国を分極化させた。
 5月〜6月の衝突で労働者2名、学生1名を含む4名の抗議者が死亡。
 これよりもっと長い学生ストライキが1976年に起こり3月から5月まで続いた。これは学制改革に伴うもので、この運動は主に
ドミニク・ロゼイを指導者としLCRに指導されたもので、そのほか将来の政治幹部ジャン・クリストフ・カンバデリOCI)、
ジュリアン・ドレイLCR)、ジャン・リュック・マノUEC)などが出現。
 1983年のピエール・モロワ政権の大学入試廃止に際し右派学生が5月にエリートの大学で2週間行動。
 1986年のシラク政権でのデヴァッケ計画に際し多くの学生が街頭に出た。この際学生マリク・ウセキーヌが警察の殴打で死亡。
 デヴァッケ計画ではリセ学生も反対行動を行ない、リセの運動(リセ:15−18歳)の嚆矢となった。
 CIP(職業参入契約)反対闘争に1994年から多くの学生が動員された。
 また1995年の予算制限で11−12月ストライキ発生。
 2002年の大統領選では国民戦線に対抗して学生が動員。

フランスの学生運動の歴史
 最初のAGE(学生一般組合、UNEFの地方組織)が1877年ナンシーで結成。
 1883年法により学生組織が公認される。
 1907年5月AGEを結集してフランス全国学生連合UnionUNEFが結成される。
 (当初はフランス学生一般組合全国連合UNAGEFという名称)
 第一次大戦後、健康予防、大学食堂など学生利益擁護に努力し、1929年法により公共制度となる。
 1933年UNEFはフランス学生サナトリウム開設。
 1936年UNEFが学生厚生事業最高会議(CNOUS、CROUSの前進)結成に参加。
 1939年共産主義学生連合UEC結成。
 1940年秋からUECの地下指導者フランソワ・レスキュールに率いられる。10月のポール・ランジェヴァン逮捕で即時解放のビラ配布。
 ポール・ランジェヴァン(磁気理論の物理学者)は共産党地下組織に参加していた。
 1945年法により大学評議会への学生参加実現(4%が学生)
 1946年グルノーブル憲章作成される。(第1章:学生は若き知的労働者である)
 1948年フランス学生全国互助MNEFがUNEFの支援で結成される。
 1950年代アルジェリア戦争でUNEFに内部抗争が起こり、政府との対立発生。
 majosは協力的グループでminosは左派で戦争反対派。
 1958−1961年アルジェリア戦争反対デモと衝突発生。
 1962年フランス学生国民連盟FederationFNEF結成(1950年代UNEF多数派majosでゴーリスト政権に協力的)。
  当初アルジェリア戦争のパルチザンが加わっていたが彼らはだんだん遠ざかりより右派の1960年結成の民族主義学生連合
 FENに参加。FENは1967年解散しヨーロッパ文明研究・学習グループGRECE(民族主義シンク・タンク)結成。
 1960年代UNEFへの政府の弾圧始まる。
 1964年フシェ改革でUNEFへの大学生事業会議への優越権が拒絶される。
 1965−1968年ベトナム戦争反対運動起こる。
 1968年5月でUNEFは学生と政府(FNEFにだけ恩恵を与える)から不信を受ける。
  統一社会党PSUのトロツキストなどがUNEF支配をめぐり闘争。
  エドガー・フォール計画(大学自治改革、国による解雇導入)、5月6日弾圧に対する全国ストライキ。
  UNEFはAGE(学生一般組合)majos排除。行動・批判的研究運動MARC(CFDT系)結成、右派が大学全国連合UNI結成。
 1970年MNEFに対する選択として地域学生互助協会SMER設立。
 1971年UNEFで党派闘争激しくなる。PSU派少数派となる。彼らはジャン・ピエール・シャシヌの指導で毛派の赤いユマニテ
 と手を組み執行部形成。他の2つのグループ、トロツキスト・ランベール派の革命的学生協力委員会CLERUECはUNEF革新
 となり、これは共和制度会議CIR(ミッテラン派)や社会主義者、急進主義者も含んでいた。
  臨時執行部が辞任し、ESU(統一社会主義学生)がUNEFから去る。他の2派分裂。
  UNEFの分裂で社会主義学生(SFIO)は統一・独立・民主を結成しこの過程から撤退。
  2派は別々の会議を開催、UNEF統一はCFDTとFO、国際共産主義者組織OCIから支持される。これはOCIの学生AJSだけからなり、
 ミッシェル・セラクが委員長となった。UNEF−革新はCGT、全国高等教育組合SNESup、共産党から支持された。
  こちらは主に共産主義者、ミッテラン派、シュヴェーヌマン派からなっていた。
  学生の動員は極度に政治的になり、特にベトナム戦争反対の傾向を帯びた。
 1975年COSEF(ミッテラン派、エディット・クレソン、−1978年)結成。フランス学生連絡委員会CLEF(無党派、独立派)結成。
 1976年学制改革に対し大ストライキ発生。自主学生集合Collectif etudiant autonomeCEA結成。
  組合活動運動MAS(−1980年)がMARC、PSU、ミッシェル・ロカールに近い社会主義学生により結成される。
 1977年LCRの学生によりMAS多数派が変わる。この組織は大学選挙ボイコットを主張。
  自主管理共産主義者委員会CCALCRPSU、1877−1982年)により自主管理組合傾向TSA(1979年MASのロカール派参加)
 が結成される。
 1980年MASとUNEF−USと(とCosef)がMNEFの支援でUNEF IDに統合。
 1982年UNEF IDが大学選挙参加決定。
  CFDTの支持で”自主管理組合のために”PSA結成。CLEFとFNEFがフランス全国学生同盟ConfederationCNEF に統合。
 1983年絶対自由主義学生調整CoordinationCLE結成。
 1986年デヴァッケ計画への反対運動。UNEF IDの多数派の指導権がトロツキストから社会党に移る。
 1989年学生一般組合連合Federation des associationsFAGE(無政治的、地域主義、自主管理)結成。
 1990年CFDTの支持でPSA解散。
 1993年大学行動形成Formation action universitaire (CNT−FAU)結成。
 1994年社会主義左翼(社会党の分派)と極左の連合でUNEF IDの多数派が変わる。
 1995年(1995年ストライキ)バルデ計画(奨学金を貸付に変更)に反対するデモとスト。ジュぺの社会保障改革計画反対の
 全国スト。大学占拠。
  UNEFはCNTと結んでUNEF IDと対抗し全国学生調整Coordinationをなんとか支配。
 1996年SUD(連帯組合連合Union syndicale Solidaires)学生がいくつかの大学で結成される。
  世俗・単一学生組合SEUL結成
 1999年SUD学生組合連合が連帯組合連合UYSの支持で結成される。
 2000年学生組合連合FSEFederation syndicale etudiante結成される。SEULFSEに加盟。
  MNEF解散しかわりに学生互助LMDE設立。
 2001年UNEF IDとUNEF−SE再統合。
  すでに地方のSUD学生にはUNEF IDに参加したものがいた。これはUNEF ID内トロツキストを強化、民主統一傾向TUDから
 全統合傾向TTEと名を変える。UNEFはCNESERとCNOUSで最大組織となる。
  NEF−SEのAGEの一部がこれを拒否しFSEに2001−2003年に参加。
  UNEFの組合傾向ジュリー・クドリに率いられ学生連合CeConfederation etudiante結成。
  組合傾向に近いAGEの多数とUNEFに結びつかない多くの組織が参加。改良主義を主張し、CEDTと結びついている。
  UNEFを社会党の支配下にあり、党内闘争に巻き込まれていると非難。
  FAC緑結成。
  11−12月LMD(教育体系リサンス、マスタ、ドクタ)−ECTS(単位認定制度)改革に対するストライキ。11月27日3万学生が街頭へ。
 2006年機会平等法(初期職業契約CPE導入)撤回のためのリセと大学生のデモと60の大学のストが2月〜4月に行われる。
  国境なき大学網結成される。(外国人学生差別と戦う組織を結集)
 2007年LRU法(大学の責任と自由に関する法)撤回運動が大学生とリセ学生により起こる。〜2009年
 2013年FSEとSUD学生が合同し学生連帯−闘争組合結成。

 フランスの学生組合組織系統図


フランスの学生組織 連合と組合〕

○フランス学生全国連合UNEF Union nationale des etudiants de France
  活動家は主に社会党、共産党、LCRに近いメンバー。

○学生一般組合連合FAGE Federation des associations generales etudiantes
  単科大学と地方学生連合、Grande Unefのmajosの分裂後継。
  1989年結成。UNEFに次ぐ組織。欧州学生連合ESU加盟。
  改良主義。
  2002年大統領選第2回投票でジャン・マリ・ル・パン反対投票を呼びかける。

○大学間全国連合UNI Union nationale inter-universitaire 
  1969年ゴーリスト青年UJPが結成。右翼学生組織、UMPに近い。
  2010年一部が学生運動MET結成。

○学生連合Ce Confederation etudiante
  2003年ジュリー・クドリー率いUNEFから分裂、CFDTないしロカール系。
  2008年バキ・ユスフが委員長となる。
  改良組合主義Syndicalisme reformisteを標榜。

○学生推進・防衛PDE Promotion et defense des etudiants
  単科大学(生物、法、管理、技術)連合、1994年FAGEから分裂。
  独立・無党派、非宗教的、非組合的、協力的を標榜。中道ないし協力的と見なされる。
  FAGEはPDEを本質的に反動的と見なす。

○フランス自由学生集合CELF
  1978年ジスカール・ディスタンに近いパトリック・ジェラールが結成。UDFに近かった。
  1990年初期まで存在。

○闘争組合主義Syndicalisme de lutte

 ・SUD学生
  連帯組合連合メンバーの闘争組合主義syndicalisme de lutte
  1996年結成。UNEF−SEやAL、LCRメンバーなどが結成。1999年連合結成。
  2002、2006、2008年CNECERはFSEと共同名簿。
  2013年1月FSEと統合し学生連帯結成。

 ・学生組合連合FSE Federation syndicale etudiante
  2000年UNEF-SEから分裂した闘争組合主義。極左に近い。
  CGT educ'action,、SUD教育、CNT-FTE 、Emancipation(解放)などとの結集に努力。
  2005年他の闘争組合主義(SUD学生、 TTE-UNEF、CNT-FAU活動家など)との結集を目指す。

 ・学生連帯
  2013年SUD学生とFSEが合同し結成。

Fac緑
  2003年G8反対で結成。
  2006年CNOUSで7名選出。


<学生参加公的組織>

○高等教育研究全国会議CNESER
 高等教育担当大臣によって設置された諮問組織。
 科学・文化・職業的公共施設を代表。学生代表も参加(11名)。
 
 学生代表の選出選挙結果

組織\年 1989 1991 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012 2013
UNEF - - - - - - 5 5 5 5 5 4 5
UNEF-ID 4 4 3 4 5 4 - - - - - - -
UNEF-SE 2 2 2 2 1 1 - - - - - - -
FAGE 2 2 3 3 3 3 3 2 3 2 2 3 4
UNI / MeT 2 2 2 1 1 2 2 2 1 2 1 1 1
PDE - - 1 1 1 1 1 2 1 1 2 2 1
CELF 1 1 - - - - - - - - - - -
Ce - - - - - - - 0 1 1 1 1 -



2008年選挙結果

○大学生・学生事業全国センターCNOUS
 国際学生受け入れ、学生の住居・食堂その他文化施設などの学生支援を行う公的組織。
 学生代表(8名)も参加。
 CROUSは地域センター。

 CNOS学生代表の選出選挙結果

組織\年 1989 1991 1994 1996 1998 2000 2002 2004 2006 2008 2010 2012
UNEF - - - - - - 4 5 2 4 4 4
UNEF-ID 3 3 2 3 4 5 - - - - - -
UNEF-SE 1 2 2 1 1 0 - - - - - -
FAGE 1 2 2 3 1 1 2 1 4 2 3 3
UNI -> MET 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 0 0
PDE - - - - 1 1 1 1 1 1 1 1
Ce - - - - - - - - 0 0 0 -
CELF 1 0 - - - - - - - - - -


フランス学生全国連合UNEF〕 →UNEFの歴史

 1907年学生一般組合AGF Association generale des etudiantsを結集してフランス学生一般組合associations全国連合UNAGEF
として結成される。
 1933年UNEFはフランス学生サナトリウム(結核療養施設)開設。
 1936年UNEFが学生厚生事業最高会議(CNOUS、CROUSの前進)結成に参加。
 1941年自由地域とアルジェのAGE代表がペタン支持を表明し他に受け入れられる。
 第二次大戦後UNEFの大勢の無政治性が批判されこの反省がグルノーブル憲章に反映される。
 1946年グルノーブル憲章作成される。(第1章:学生は若き知的労働者である)
 1948年フランス学生全国互助MNEFがUNEFの支援で結成される。
 1950年代内部抗争が発生し、UNEFは賛成も反対もしなかったがアルジェリア戦争で内部抗争が悪化。
 majosは協力傾向(グループ)で、一方minosは左翼で学生の軍役疑問派と1956年UNEFを戦争反対の立場にした。
 一部がフランス学生運動を結成したが長続きしなかった。
 政府は組合に無政治署名をさせようとし、その結果内部闘争発生。1962年フランス学生全国連盟FNEFが結成される。
 1968年5月でUNEFは学生と政府から不信を受ける。
 シュトラスブール、ナント、ナンテールでは状況主義者ギュイ・デボールラウール・ヴァネイジャンらが結成)とアナーキスト
レネ・リエゼル指導)との連合が学生一般会議assemblees generales d'etudiantsを支配。
 PSUのトロツキストなどがUNEF支配をめぐり闘争。1968年5月の大ストライキでUNEFは委員長がおらず、副委員長のPSU
ジャック・ソヴァジェオが率いた。
 1968年5月後は学生は政治論争で扇動され、学生組合運動は政治的直接介入を目指す組織・活動家によって無視された。
 PSUに近い学生はUNEF少数派となり、毛沢東主義者の赤いユマニテと連合しジャン・ピエール・カシヌにより指導部を構成。
 他の2派は一方がランベール派OCI国際主義共産主義者組織)のAJSにより、他方はUECにより率いられUNEF革新と称し、
CIR(ミッテラン派)の学生、急進主義者とカトリックを含んでいた。1971年1月臨時執行部は辞職し統一社会主義学生ESUは
UNEFを去る。
 他の2派は分裂。UNEFの分裂で社会主義学生(SFIOは)統一・独立・民主を結成しこの過程から撤退を決定。
 学生選挙への参加が議論となりUNEF革新は参加を決定、これがUNEF分裂の公式理由。


学生連帯UNEF−SE
 1971年のUNEFの分裂から2001年まで存在、1982年からUNEF−IDと区別するためSE(学生連帯Solidarite etudiante)と呼ぶ。
 1971−1982年まではUNEF革新Renouveau と呼ばれる。
 ランベール派トロツキスト支配のUNEF−US(のちUNEF−ID)に反対しUEC(PCF)、カトリック学生青年と1971年のミッテラン派、
CERES(PS少数派のシュヴェーヌマンに近かった、のちに共和主義と社会主義となり1987年UNEF−IDに復帰)などから構成。

 1980年代初期多数派のUNEFは1986年の学生運動(デヴァッケ計画反対運動)に失敗。当時の委員長はクサヴィエ・アキニーヌ
(1987−1988年)。組織は財政的、組織的に窮地に陥っていた。組織は大学で少数派で運動や選挙で非組合員に頼らざるを得ず、
幹部は結集戦術strategie du rassemblementを採用。(1987年11月)
 しかし共産主義者学生はこれをやめ(74回会議1989年?)全国執行部の多くのメンバーが辞任。
 学生運動の再起は1990年代までまたなければなかった。
 UNEFはジョスパン、ラング計画反対(1992年)の推進力となりついにCIP反対運動(1994年)を巻き起こした。当時の2つのUNEFの
委員長ボブ・アンジェイ(1992−1994年)とフィリップ・カンパンキ(1991−1994年)は共同戦線を結成。1980年当時2番目であった
組織は競争相手のUNEF−IDにほとんど匹敵するようになった。
 
 1989年UECに近いグループとUNEF学生組合としての自己認識をもつ独立派グループに内部分裂、この頃更にUNEF−IDから
UNEFにLCR、労働者闘争LO、アナーキストの絶対自由主義選択ALなどが移ってきた。
 1990−1992年には危機が乗り越えられた。1995年学生運動は組織に良い結果をもたらした。しかしこれは続かなかった。
 1996年マリー・ピエール・ヴィユ委員長(1994−1998年)のもとで衰退、1998年カリヌ・デルパ(−2001年)のもとで成長。
 組織は支配に固執する共産党系学生と反対派が対立、1997年会議後LCR活動家はUNEFを去り、多くはSUD、一部はUNEF−ID
に参加。ツールーズとアーセナルのグループはl’AGET-ASL(闘争組合主義選択)を結成。
 1998年アタリ報告とU3M(大学3千年計画)で学生運動がバイル改革反対放棄グループと改革反対運動支持少数派に分裂、
大会と全国集会は共産主義者とトロツキストが衝突、反対派は革命的左翼(1992年LCRから分裂)を含み、更にPCFあるいはUNEF
指導部に反対する共産主義者、、社会主義者なども反対派に加わった。
 1999年にはデルパ指導部によるUNEF−IDとの統一問題が起こった。大会は混乱し統一反対が多数派にも関わらず統一続行。
 地方組織AGEによる分裂が起こり、反対派から学生連帯やSEULが結成された。
 2000年のCROUS選挙結果は悲惨でCNOUSのためAGET-ASLとSEULとの統一が試みられたがSEULとは不成功。
 CNESERのためにはUNEF−IDとの統一がなされたが、1998年の結果はUNEF−ID単独より悪かった。
 これらの過程より地方組織によりFSE結成されこれにSEUL、l’AGET-ASLが参加。
 5月の全国集会で混乱のなか統一が支持された。解散会議の前にほとんどののAGEがUNEF−IDに参加。
 統合反対派のUNEF継続や新組織結成の試みは失敗に終わった。

 主な歴代委員長
  ギュイ・コノプニツキ(1971−1972年、1978年共産党と衝突)、ジャン・リュック・マノ(1979−1981年ユマニテ記者から1981
 年社会党、CFDTへ)、パトリス・ルクレール(1986−1987年、2007年共産党から離れる)、クサヴィエ・アクニーヌ(1987−1988
年)、オリヴィエ・メイエル(1988−1992年)、ロベール・アンジェイ(1992−1994年)、マリー・ピエール・ヴィユ(1994−1998年)、
カリーヌ・デルパ(1998−2001年)。


統一組合UNEF−US
 1971年にUNEF−革新Renouveau(1982年、学生連帯UNEF−SE、PCF系)と統一委員会UNEF−US(1980年、
独立・民主UNEF−ID、ランベール派トロツキストOCI系、後PS系)に分裂。2001年再統一。

 1968年以前は弱体で以降3つのグループに分裂。
 1967年、全国本部をPSUのメンバー(統一社会主義学生ESU)が握る(ジャック・ソヴァジェオ)。
 少数派は一方を共産党の共産主義学生連合UECが(革新派)、他方をランベール派トロツキスト、AJS(統一委員会)が指導していた。
 1970年にはESUは少数派になったが、トロツキストのAJSと組み委員長を確保。
 UECから1966年、トロツキストの革命的共産主義青年同盟JCR(アラン・クリヴィーヌ)と毛沢東主義者の
マルクス・レーニン主義共産主義青年連合UJCmlが追放される。

 1971年、毛沢東主義者と連合した統一社会主義学生ESUが支配権を握っていたミッシェル・ロカールPSUに近いUNEF事務局
は少数派になり辞任せざるをえなくなった。 
 UNEFは2つのグループが対立した。
   統一組合派:トロツキスト・ランベール派の社会主義青年連合AJS系。
   革新派(学生連帯SE):PCF学生組織UEC系。
 統一組合US派はFOCFDTOCI、全国教育連合FENの支持をうけAJSのミッシェル・セラクを議長。
 革新派はCGTの支持をうけギ・コノプニツキを議長。
 2001年までUNEF−US(1980年からUNEF−ID)、UNEF革新(1982年からUNEF−SE)が並立。
 UNEF−USは1978年までランベール派だったが(1975−1978年委員長はランベール派デニス・シーフェール)、社会主義者
が現れた。
 1978年ミッテラン派のフランス学生組合組織委員会CosefがUNEF−USに参加し組合再建傾向TRSを結成。
 UNEF革新は共産主義学生のほかにミッテラン派(1971年)ないしCERES(シュヴェーヌマン派)、カトリック学生青年よりなっていた
が共同綱領の崩壊で共産主義学生とCERES少数派学生となった。
 UNEF−USの1978年からの委員長はジャン・クリストフ・カンバデリOCI)。
 1979年UNEF−USがUNEF革新のCERES学生の手にあったMNEFの指導部をとる。
 これはヤルタ学生と称される、それは1978年UNEF−USと連合した社会主義学生がMNEFの指導部をとり、UNEF−US
指導部をランベール派に任したから。UNEF−IDの結成でMNEFの1982年会議では新指導部は80%の賛成、UNEF革新による
19%の反対となる。
 1980年、UNEF−USはMAS(当初PSU系、のちLCRが支配)、LCRとUNEF−ID結成。

 歴代委員長
  ミッシェル・セラク(1971−1975年)
  デニス・シエフェール(1975−1978年)
  ジャン・クリストフ・カンパデリ(1978−1980年、UNEF−ID−1984年)

UNEF−USの傾向)

組合再建傾向TRS(UNEF−US、1978−1980年)
 組合再建傾向TRSはUNEF−USの旧グループ(tendance)、最初は大学民主−大学社会主義者傾向と呼ばれた。
 TRSは1978−1980年(UNEF−ID)まで存在。

 1978年小さな学生組合のミッテラン派のフランス学生組合組織委員会Cosefがランベール派に支配されるUNEF−USに参加。
 フランス学生組合組織委員会Cosefは結成してすぐに展開困難で既成の学生組合利用を決定し、共産主義者支配のUNEF革新より
多少目的が共通しているUNEF−USを選択、ミッテラン派の戦術は共産主義者の弱体化にあった。また内部競争相手の
シュヴェーヌマンのCERESの社会主義青年運動MJSはUNEF革新にいた。
 COSEF活動家はUNEF−USに入りTUD−USを結成。
 1977年からロカール派はMAS支配を失い、地方と全国の組織に分散していた。少数がUNEF−USに入りTUD−USに参加。
 1979年にロカール派は再結集を決定、MASの自主管理組合傾向に参加、一方でUNEF−US移植強化を決定。
 このロカール派の到来でTUD−USは組合再建傾向TRSとなった。
 1979年2月にはランベール派と社会主義者は権力responsabiliteを分かち合った。これはヤルタ学生と称される。
 ランベール派はUNEF−US支配を確保し組合統一を進めUNEF−IDが結成され、社会主義者は互助部門を握った。
 MNEFはUNEF革新のCERES活動家が率いていたがランベール派、ミッテラン派、CERESの話し合いでCERESの
セルジュ・ラゴ−シュは委員長譲り渡しを受け入れ、ミッテラン派のジャン・ミシェル・グロツと代わった。
 1980年非共産主義者組合左翼はUNEF−ID結集を決め、TRSはジャン・クリストフ・カンバデリグループと対峙した。
 そこでMAS内反対派の自主管理組合主義傾向TASとの結集が起こった。これはロカール派とCCAからなりロカール派が
結集を助けた。ミンテラン派はCCSへ疑心暗鬼であった。
 1980年5月妥協がなり全国ビュローはTRAでミッテラン派は3ポスト、TSAは4、UNEF−IDではミッテラン派は4でロカール派は
3でCCAは2であった。
 1980年ナンテール会議でランベール派のフィリップ・プランタジェネがLCR活動家との和解を発表、これでミッテラン派はロカール派
へ分裂を促した。ロカール派は躊躇しながら受け入れ、やがて組合統一傾向(plus傾向)が結成されることになる。
 ジャン・マリ・ル・ガン、パスカル・ボ、ミッシェル・グロツ、フィリップ・、ボネフォイ、カルロ・ピエロニがミッテラン派のデニ・ラプラニュが
ロカール派の中心。

フランス学生組合組織委員会Cosef
 1975−1978年まで活発であった、ミッテラン派の社会主義学生運動。
 1975年結成で社会主義青年の指導部のエディット・クレソンに近かった。
 社会党指導部にとってトロツキスト、共産主義者、PS少数派のシヴェーヌマン派とロカール派の手にあった組合組織に学生を配置
することが問題であった。
 Cosefは1976年のアリス・ソニエ・サイト(一般大学研究免状DEUG創設)改革反対運動で特に活発であった。
 CNESERで1議席獲得。1977年にはCROUSで4議席獲得。
 徐々に発展したが社会での社会主義思想の進歩にくらべ学生での展開は遅かった。組合統一のためこの組織の指導者は既存組織
移植を検討。3つの可能性があったがUNEF−USに参加し、大学民主−大学社会主義者傾向TUD−USを結成。


組合行動運動MAS
 1976−1980年に存在、1980年UNEF−ID結成に参加。
 1976年の大ストライキのあと第2周期の改良主義にに反対し批判的研究・行動運動MARC(1968年CFDTに支えられ結成、
ロカール系、ベルナール・レステルランら)主導で結成、CFDTに近く自主管理を志向。
 1977年会議でLCRが多数派をひっくり返した。それでMASはCFDTの支持を失い、ロカール派はUNEF革新やUNEF−US
地方組織に分散。
 1978−1979年、自主管理共産主義者委員会CCAがMASに自主管理組合主義傾向グループTSA結成、これにはUNEF−US
加わっていないPSU学生のロカール派やリバータリアン、無党派が参加。
 1980年学生組合統合に寄与しUNEF−USUNEF−ID結成に参加。
 MASの最初の総書記はPSU学生のアントワーヌ・ブールで、LCRに落ちてからは1977−1980年にジュリアン・ドレイ

MASの傾向)

自主管理共産主義者委員会CCA
 1977−1982年に存在。トロツキストと自主管理主義者中心。
 LCR(ロビ・モルデル、ジレ・カサノヴァ、ジェラール・デラアイエ、フランソワ・モルヴァン、フランシス・ポティら)系とPSU系、正確には
その旧パブロ派革命的マルクス主義者連合AMRからなる。1977年に労働者共産主義組織OCT(ディディエ・レシ、
ミッシェル・タウブマンら)が参加。

 革命的マルクス主義者連合は1964年結成、1977年PSUに参加し解散。ミッシェル・フィアン、ギルベール・マルキ、モーリス・ナジュマン
など。
 労働者共産主義組織OCTは1976年LCR分裂派(ゲバラ主義者)と旧PSU毛派の労働者・農民左翼が結成、1981年解散、解散で
一部はLCRに参加。メンバーはマルティーヌ・ビラール国会議員)、ジレ・ルメール(緑国会議員)、アラン・リピエッツ(緑)、
ギュスターヴ・マシアATTAC)など。
 
 CCAは1979年MASにTSA結成。1979年会議で20%獲得。UNEF−ID結成でミッテラン派、ロカール派と組合再建自主管理主義
組合主義傾向TSARA結成。
 しかし社会主義者の結集で自主管理主義者だけが残り弱体化、1982年会議では1.2%しか獲得できなかった。
 1984年には自主管理主義者は学生闘争−組合行動LEASを結成。
 リセではCCA活動家は1979年秋の闘争に出現、公共クラス評議会運動を主導、これを基礎にCET(?)の永続調整
coordination permanenteにならい、1979年のリセ全国会議に自主管理主義者組合のリセ永続調整、を結成、これにはOCT、LCRと
若いロカール派も活動していた。
 1981年パブロ派がAMRを再建しCCAから去る。1982年ロビ・モルデルらがLCRに戻る、旧OCTのディディエ・ロシもLCR参加。
 ジレ・カサノヴァは社会党。1990年代旧メンバーは社会党、市民運動(シュヴェーヌマン派)、赤緑選択AREVなどに参加。

自主管理組合主義傾向TSA
 1979年CCAがMASにTSA結成。これには自主管理主義者(PSU系学生と絶対自由主義者など)が参加。
 1979年会議で20%獲得。1979年には1977年に去ったロカール派が復帰。
 ロカール派のリシャール・ドラン、ジャン・フィリップ・ドラン、パスカル・オリーヴなどがいた。
 1980年のMASとUNEF−USによるUNEF−ID結成で反対派、TSAと組合再建傾向TRSUNEF−USの傾向)は結集、しかし共通
傾向は形成できなかった。ロカール派は弱かった、彼らは自主管理主義者と一緒で(CCA、ロカール派はTSAとTRSに存在)一方で
社会主義者と一緒(TRSのミッテラン派とロカール派)であった。ロカール派は両者の橋渡しをしようとし、また両者で引き裂かれた。
 1980年の全国ビュローはTSAが4に対しTRSが5であった。TSAではCCAとロカール派が半々であった。
 UNEF−ID結成でミテッラン派とロカール派は結集し共通の傾向組合統一傾向(plus傾向)を形成することになり、自主管理主義者は
自主管理組合主義組合再建傾向
TSARSに残る。しかしplus傾向の結成では結局ロカール派は分裂する。
 TSAはCCAではロビ・モルデル、フランソワ・ルグラン、カトリ−ヌ・アマイド、ジレ・カサノヴァが、ロカール派ではジャン・フィリップ、
リシャール・ドラン、パスカル・オリヴが率いた。

・自主管理組合主義組合再建傾向TSARA
 MASとUNEF−USによるUNEF−ID結成で両組織の反対派、TSAと組合再建傾向TRSUNEF−USの傾向)は共同した。
 全国ビュローはミッテラン派3、ロカール派2、CCA2となった。CCAはジレ・カサノヴァ、ロビ・モルデル、ミッテラン派は
ジャン・マリ・ル・ガン、パスカル・ボ、ミッシェル・グロツ、ロカール派はリシャール、ジャン・フィリップのドラン兄弟、フィロップ・グラッサン
(MAS)らが率いた。このグループは代議員mandatの26%の支持を得たが共同傾向は結成しなかった。協力は長続きせず、ミッテラン派
とロカール派の社会主義者連合は分裂し、組合統一傾向(plus傾向)結成。ロカール派はミッテラン派とジャン・クリストフ・カンバデリ
圧力でCCAから離れ、CCAは自主管理組合主義組合再建傾向を結成。1982年会議では代議員の1,5%の支持を得た。
 1984年会議では学生闘争−組合行動LEASとminoを構成。1986年にminoはLEASと名乗る。

・批判的研究・行動運動MARC
 1968年12月学生運動活動家がBASEやMARC200のような多数の地方グループ結成。
 1970年これらがMARCの結集。MARCはCFDTの支援を受ける。彼らはCROUS、CNESER、大学評議会conseils universitaires、
MNEFなどの学生選挙に参加。
 運動はナンテール、シャンスポ(パリ政治研究所)、ナント、グルノーブルなどの大学で活発であった。
 彼らは1973年学生デモに積極的に参加。MARCの多くの活動家responsableは1974年社会主義の基礎に参加。
 これはPSUの指導者が社会党に参加する前哨となった。
 1976年MAS結成で解散。活動家にはベルナール・レステルランジャック・サルヴァトールなど。
 社会主義の基礎はミッテランの大統領選の良い結果の余波で社会党とこれに近いグループによって結成された。
 これにはPSUのロカール、ロベール・シャピュイやCFDTのジャック・シェレクその他新生活(1974年カトリック系結成)、
社会主義の目標(1965年カトリック系結成)、地方自治体行動グループなどのメンバーが参加。
 社会党結成でこれに合流、労働運動活動家は社会カトリック組織(労働者JOC、学生JEC等)に参加。

独立・民主UNEF−ID
 1980−2001年存在、1980年Unef−統一組合、組合行動運動MASCosefが結成。
 2001年Unef−SEと統合しUnef再建。
 
 1980年Unef−USとMASが統合しUNEF−ID結成、ジャン・クリストフ・カンバデリが委員長となる。
 1981年社会党政権がフォール法(1968年、ドゴール派政権による、自治から外部介入へ、)廃止に向かう、UNEF−IDが大学
選挙参加表明、UNEF−USとMASによるボイコットの終わり。
 1982年UNEF−IDがMNEFに参加。その結果1979年以来のUNEF革新の学生相互組織をとる。
 右翼台頭(1978年結成で親ジスカールディスタンのCELFと1968年ドゴール派結成のUNI)に刺激される。
 1983年サヴァリ法(高等教育の公共サーヴィス)が採用されUNEF−IDはこれを歓迎。
 1984年UNEF−IDの委員長がジャン・クリストフ・カンバデリからマルク・ロザンブラになる。1986年マルク・ロザンブラから
フィリップ・ダリユラPCI)となる。
 1986年、PCI活動家の多数が社会党に移る。ジャン・クリストフ・カンバデリ、マルク・ロザンブラ、フィリップ・ダリユラがPCIから
社会党に移動。ベンジャミン・ストラリエム・ホアン・ゴクらはアンリ・エマニュエッリ(社会党)に加わる。いくつかのAGEがこれを拒否。
 UNEF−IDが急速に中心学生組合となる。
 保守政権がサヴァリ法からデヴァッケ計画への移行発表。
 UNEF−IDUNEF−SE、自主管理組合主義のためにPSAがスト呼びかけ。反対運動が捲き起こり、学生マリク・ウスキーヌ死亡、
アラン・デヴァッケ辞任、改革計画撤回。
 イサベル・トマス(PSの疑問社会主義者)が副委員長として活躍。
 UNEF−SE同様に高等教育全体会議etats generauxに参加。
 運動の結果UNEF−IDの評判がよくなり、1987年のCROUS選挙で第1位組織となる。 
 フィリップ・ダリユラは偉大なUNEF再建を目指したがCERESなどの拒否で力強い統一は形成できなかった。
 1988年委員長がフィリップ・ダリユラ(1986−1988年)からクリストフ・ボルジェとなる。
 1989−1993年組織改革を行う。70年代の制度的反対から現実的、改良主義的組合運動を推進、多数派が社会党に移行し、組合
活動に専念、独立的になろうとした。
 湾岸戦争で組織が揺さぶられる。最終的にブッシでもなくサダムでもなくを路線として採用。
 1991年UNEF−SE以外、UNEF−IDFAGECELFUNIが学生社会計画に署名。UNEF−USは国保証の銀行融資に反対。
 委員長フィリップ・カンパンキとなる。
 1990年代UNEF−IDは反人種主義と国民戦線反対運動に関わる。これにはSOS人種主義が関係した。
 1990年代初頭、学生選挙でFAGEとついでPDEと競合し始める。
 1992年ジョスパン教育相が教育改革提案。UNEF−IDは全体的に肯定的であったが、独立派やUNEF−USは反対、UNEF−ID
ジレンマに陥る。運動に直面しフィリップ・カンパンキは急進化し反対に回る。ジャック・ラングが大臣となり計画中止。
 1993年UNEF−IDに危機が加速し多数派の左派はエマニュエル・パラディ、ダヴィド・ルセ、プリア・アミルシャイに率いられ分裂し
独立行動傾向結成。
 
 1993年会議はなんとか分裂回避されたが、反対派は独立・民主傾向に結集。
 1993年学生住宅援助65%削減計画で学生組合と政府に軋轢増加し、1994年バラデュール政権の職業参入契約CIP導入提案で
リセ学生と大学生の大デモとなる。1ヶ月の動員のあと政府は計画撤回。
 CNESER選挙FAGEに遅れをとる。
 1994年会議で反対派組合未来傾向TASとロカール派の再建傾向が手を組み多数派を形成(TAS51%、再建15%)し、多数派が
ジャン・クリストフ・カンバデリ周辺グループから)ひっくり返り、プリア・アミルシャイが委員長となる。指導部は社会主義左翼に近かった。
 1995年も紛争ジュッペ計画反対など)が起こり左派は運動を急進化させようとしたが不成功でSEULが結成される。
 1998年MNEFに醜聞で危機発生、オリヴィエ・スピタキス(ランベール派)が批判を受ける。この批判がUNEF−IDにも及び
委員長がプリア・アミルシャイからカリーヌ・セレに変わる。
 1999年UNEF−IDUNEF−USMNEFの選挙に共同名簿作成を決定、これはプリア・アミルシャイUNEF−SE委員長の
カリーヌ・デルパによって進められた。これは40%を獲得。
 2000年、財政危機のMNEFに対処するためUNEF−IDUNEF−SEFAGEによりMNEFが解散され新しく学生互助互LMDE
が結成される。
 2000年UNEFが再統一の意志公表、CNRSER選挙で共通名簿を取る。
 2001年UNEF−IDUNEF−USの少数派が統合、UNEFが結成される。UNEF−USの多数派のAGEは再統合に反対し消えた。
 2001年委員長がヤシール・フィシュタリに代わる。


全国大会の足取り)

1980年大会
  UNEF−ID結成で旧MASとUNEF−USの反対派、TSAと組合再建傾向TRSUNEF−USの傾向)は
 組合再建自主管理組合主義傾向TSARS結成。
  UNEF−USの旧指導部が59%を獲得、ジャン・クリストフ・カンバデリUNEF−ID最初の委員長となる。
  組合再建自主管理組合主義傾向TSARSが26%、旧MASの全国ビュローの系の学生闘争−組合行動LEASが15%。
  しかしTSARSから社会主義者が去り、組合統一傾向(plus傾向)を結成し自主管理共産主義者委員会CCAの急進自主管理
 主義者だけがTSARSに残る。
  1981年LEASの主要指導者ジュリアン・ドレイがその周辺メンバーとplus傾向に参加。その前にかれらはLCRから社会党に
 移っていた。
 
1982年大会
  多数派が56%、plus傾向30%、LEAS12.5%、TSARS1.5%。
  MNEFではUNEF−ID80.42%に対し、UNEF革新19.04%で内訳はplus傾向209代表、多数派103、LEAS36、TSARS9。
  UNEF−US期にランベール派がMNEFの指導権を社会主義者に渡すことを受け入れる。UNEF−IDカンバデリもこれを承認。

1984年大会 
  plus傾向が多数派に参加、多数派91%、LEASとTSARSが結集しMinoとなる。
  二人のUNEF−ID創設者、カンバデリドレイが学生組合を去り、カンバデリに代わり副委員長のマルク・ロザンブラが委員長
 となる。1986年マルク・ロザンブラがUNEF−IDを去り周辺のフリップ・ダリユラに代わる。ダリユラは国際主義者共産党PCIから
 社会党に移る。これはカンバデリらにより内密に組織され約400人の活動家が彼らに続いた。PCI活動家の一部はこれを拒否。

1987年大会 
  フリップ・ダリユラUNEF−SECERESシュヴェーヌマン派を引き入れUNEF−IDに大UNEF再建を試みる。
  多数派の社会主義者が67%獲得、これには4グループ存在、フリップ・ダリユラ率いる旧PCIが最大、それにplus傾向後継では
 ロカール派、ミッテラン派後継のナンテール派、ヴィルタヌーズSOS人種主義ジュリアン・ドレイの周辺)。
  多数派は2反対派に直面、PCIに結びつくUNEF防衛傾向TDUが17%、LEAS16%。
  反対派はデヴァッケ計画反対闘争で成長。1986年の闘争を象徴するエマニュエル・パラディ、ダヴィド・アスリーヌらが全国ビュロー
 に参加。
  1988年委員長がフリップ・ダリユラからクリストフ・ボルジェに代わる。
  1989年フリップ・ダリユラに近いイサベル・マルタンがロカール派やCERESの支援で社会党のアンリ・エマニュエッリ派結成を
 試みるが失敗。
 
1989年大会 
  例外事として教育大臣のジョスパンが会議の冒頭で紹介されTDUにより野次られる。
  多数派70%、しかし社会党の党内派閥が持ち込まれ軟弱化、多数派の多数派であるジョスパン派(カンパネリ派)、ロカール派
 (後の未来傾向)、ミッテラン派(ナンテール派)、シュヴェーヌマン派(CERES)、ヴィルタヌーズが存在。
  LEASは多数派を去ったポプラン派と連合しTEMASとなり17.2%、TDU11.9%。
  1990−1991年TEMAS、TDU、ヴィルタヌーズポプラン派、CERESメンバーが湾岸戦争に反対し危機が生じる。
  少数が介入賛成。多数派の多数は分裂。反対派以外は曖昧。結局UNEF−IDはブッシュでもなくサダムでもなくをスローガンとする。

1991年大会 
  多数派は68.9%で団結していたが、社会党の党内派閥が持ち込まれる。UNEF−IDの社会党青年組織化傾向が言われる。
  多数派は未来傾向をあてにできた。組合転換が提起される。特に1989年からプラグマティズムと改良主義が話題となる。
  一方では転換で独立が主張される。1989年から反対派が拡大した。 TEMASとTDUが停滞し始め同じ傾向に結集し、驚いたことに
 これににCERESポプラン派が参加、UNEF−IDに公式参加したファビウス派(ローラン・ファビウス)もこれを見習い、
 独立による統一傾向TUPIが結成され21.2%獲得。
  多数派からはヴィレタヌーズも離反し、飛躍か凋落か傾向TSOD結成し9.9%獲得。
  反対派は組合の価値を損なうとして転換に反対で一致。独立による統一傾向TUPIは会議後も存続。
  1991年委員長がクリストフ・ボルジェからフィリップ・カンパンキに代わる。
  1990年代UNEF−IDは反人種主義、特に反国民戦線闘争に関わる。
  湾岸戦争で1992年UNEF−IDが揺さぶられる。左派は独立派とUNEF−SEが始めた反対運動参加を指導部に要求。
  多数派は分裂。公式見解を避ける。

1993年大会 
  1990年代はじめから明らかになった危機が1993年1月爆発、多数派の左翼が総書記エマニュエル・パラディ、と会計の
 ダヴィッド・ルセに率いられ分裂し、独立行動傾向結成。彼らは多数派は現代化で組合と左派の価値を希薄化させと批判し、これが
 選挙での後退の原因とし組合運動の再注力を提起し、これにすべての反対派が結集しついに多数派となる。
  地方大会後2対抗組織の衝突が懸念された。
  この会議の投票結果は公表されてないが未来傾向の支持で多数派が辛うじて多数となったと思われる。
  反対派は独立民主傾向TIDを結成し全国ビュローでの地位確保に努める。
  交渉の結果多数派が全国ビュローで優位をとり、委員長を維持し未来傾向が総書記を確保。
  反対派は全国ビュローで前進、会計と副委員長(エマニュエル・パラディ)確保。未来傾向が損をし、ロカール派は多数派に批判的
 に再建傾向を結成。論争は解決できず内部問題で困難な時代となる。
  1994年フィリップ・カンパンキがUNEF−IDの名で学生とリセの組合(UNEF-ID,、UNEF-SE,、リセ民主独立連合FILD 、リセ全国連合
 UNL)と地方学生組織を結集した青年学生連合CJSConfederation de la jeunesse scolariteを提案。UNEF-SE,が参加せず反対で失敗。
  
1994年大会 
  1994年に多数派弱体化し、委員長のフィリップ・カンパンキが辞任を発表。
  TIDDEMOSのファビウス派の支持で組合未来傾向TASとなり再建傾向と連合。
  青年学生連合のための傾向TPCJSは最早多数派でなくなる。
  TASが51%、その連合相手の再建傾向が15%、旧多数派のTPCJSが33%となる。
  プリア・アミルシャイが委員長となる。彼は社会主義左翼(1998年メランションドレイらが結成)で、TAS、再建傾向のロカール派、
 その他の多数派を結集し、TPCJSのジョスパン派に対抗していた。
  1996年2つの新傾向出現。LCRに近い組合行動学生闘争グループsensibiliteが多数派から離れ民主統一傾向TUD結成。
  TUDは1995年の急進派運動と結びつき、より闘争的組合主義を提起。
  ついで再建傾向のより改良主義的グループが組合選択グループsensibilite結成。このグループは再建傾向指導部の左翼的言辞を
 批判し傾向路線転換を試みたが失敗し1997年組合選択のための傾向TPAS結成。

1997年大会 
  多数派79%、反対派は2派となりTUD11%、TPAS10%。
  1998年危機に陥ったMNEF救援にプリア・アミルシャイが赴き、委員長がカリーヌ・ザイレに代わる。
  1999年MNEF選挙でUNEF−IDUNEF−SEが共同名簿をとる。統合への第一歩。

 1999年大会
  満場一致で統合が提案される。課題はUNEF−SE以外にSUD学生FAGEが参加するかどうか。
  1997年以来勢力は変化なし。カリーヌ・ザイレの多数派78.5%、SUDとの結集を望むTUDが11.5%、FAGEに門を開く
 TPASが10%。
  学生連合confederation etudiante,のための傾向の後継が5年の孤立のあと組合全国指導部に復帰。多数派内グループになろうと
 したが結局諦め互助傾向結成。
  2000年2つのUNEFが統一意志発表、CNESER選挙で共同名簿形成。
  UNEF−SEのAGE多数派がUNEF−IDとの連合に反対で統一会議延期。
  LMDE選挙のためカリーヌ・ザイレが2001年委員長を辞任しヤシール・フィシュタリと代わる。
  2001年6月24日UNEF−IDUNEF−SE統合。

 歴代委員長
  ジャン・クリストフ・カンバデリ(1978年旧UNEF−US−1984年)、1951年生、ナンテール、ジュシユ大、AJS(OCI
  マルク・ロザンブラ(1984−1986年)
  フィリップ・ダリユラ (1986−1988年)、OCI
  クリストフ・ボルジェ(1988−1981年)、1963年生、
  フィリップ・カンパンキ(1991−1994年)
  プリア・アミルシャイ(1994−1998年)、1972年イラン生、1977年フランス移住、トルビアック大(パリ第1)、独立行動傾向
  カリーヌ・セレ(1998−2001年)、パリ第1、TSOD、TID
  ヤシール・フィシュタリ(2001年、統合後2001−2005年)、1978年生、パリ第6大(マリー・キュリー)、

UNEF−IDの傾向)

組合統一傾向(plus傾向)  
  1980年出現のIDのグループ。PSに近いフランス学生組合組織委員会Cosefの後継組織。
  Cosefは1975−1978年まで活発であった、1975年結成の社会主義学生運動(ミッテラン派)。
  トロツキスト、共産主義者、シュヴェーヌマン派(CERES)とロカール派のPS少数派の手にあった組合syndicale組織に
 PSの影響を及ぼすことを目的に結成。
  学生運動の拡大でCosefの展開は困難で既存組織の統一が考えられた。
  MASは少数派であった、ロカール派はLCRに握られていた、UNEF再建派は共産主義者の影響にあった。
  残ったのはランベール派のUNEF−USであった。この指導者は非共産主義左翼との連合を受け入れた。
  党内の対抗主のシュヴェーヌマンのCERESはUNEF再建派にいた。
  1978年、CosefはUNEF−USに参加し、大学民主ー大学社会主義者傾向TUD−USを結成した。
  1977年、ロカール派はMASの支配を失い、種々の組織に分散した。少数のグループがUNEF−USに戻り、
 TUD−USに参加した。
  1979年、ロカール派は再建のためMASの自主管理組合傾向TSAに参加し、同時にUNEF−US移植を強化した。
  ロカール派の参加でTUD−USは組合再建傾向TRSとなった。
  MASのTSA(ロカール派とCCA活動家)とUNEF−USのTRS(ミッテラン派とロカール派)は統合して
 自主管理主義組合再建傾向傾向TSARSを結成したが長続きしなかった。
  ミッテラン派の圧力で社会主義者は自分達の傾向を結成。TSARSには自主管理主義者だけが残った。
  1980年、TRSはUNEF−ID内の非共産主義者グループの再結集を決めた。
  結集はMAS内反対派のTSAを軸にされた。これはロカール派とCCAに分かれていた。
  この結集はロカール派に対しミッテラン派に優位に進められて社会主義者が連合した。
  しかしロカール派とミッテラン派の合同は分裂し組合統一傾向(PLUSグループ)が形成された。
  
  1979年、ランベール派と社会主義者が協力し(ヤルタ学生)、1980年UNEF−ID結成。
  再建派のCERES活動家がフランス全国学生互助組織MNEFを握ったが、ランベール派、ミッテラン派、CERESの話し合いで
 ミッテラン派へ渡された。交換にランベール派はUNEF−IDを握った。
  1982年MNEF会議でplus傾向209代表、ランベール派103、LCRは36で自主管理主義者9に対しUNEF革新は66。

  1981年、LCRの学生部門責任者で旧MAS議長のジュリアン・ドレイローランス・ロシニョールがトロツキスト組織からPS
 (組合統一傾向PLUS)に移り、ジャン・マリ・ル・ガンに歓迎される。
  彼の仲間は学生闘争・組合行動LEASを去りPLUSグループに移った。
  1982年会議ではPLUSグループは30%で、全国派は60%であった。
  副委員長などの指導部を確保し、アラン・バウエルなどが全国ビュローに参加。
  1984年、PLUSグループは指導部に参加し多数派は90%となった。
  イサベル・トマスらの新しい幹部の時代となった。
  1986年ジャンクリストフ・カンバデリOCI(1981年国際主義共産党PCIとなる)を去り、PSに移った。
  トロツキストはいなくなった。多くの社会主義者が展開できるようになった。

  plus傾向内グループ
 
   ミッテラン派
    ミッテラン派は当初から傾向内に存在し小さな集団であったが強力であった。ジャン・マリ・ル・ガンパスカル・ボ
   カルロス・ピエロニらに率いられ、1979年からMNEF(ジャン・ミシュエル・ゴルツ)を確保。1981年ジュリアン・ドレイ
   ヴィルタヌーズを受け入れ。

   ヴィルタヌーズ派Villetaneuse(パリ第13大派)
    ジュリアン・ドレイローランス・ロシニョールアルレム・デシールらはLCRを去り社会党に移った。同時に彼らはLEASから
   Plus傾向に移った。ヴィルタヌーズを拠点にAGEの周辺に結束しヴィルタヌーズ派と名乗った。
   1982年から多くののヴィルタヌーズ派UNEF−IDの全国ビュローに参加(ディディエ・フランソワ、アルノルド・スタシネ、
   ベルナール・ピニェロル、ローランス・ロシニョール)。1984年にジュリアン・ドレイの世代からイサベル・トマスの新しい指導者
   が到来。この時期はSOS人種主義が結成されドレイ派が積極的に参加。

   ナンテール派
    UNEF−IDが結成されて間もなく別の小さな集団が傾向内に形成されパリ第10ナンテールを中心としたためナンテール派と
   称される。このグループはナンテールの旧社会主義青年運動MJSのジョエル・カレイラス、フィリップ・ギナールの周囲に構成された。
    多数派はジャン・ポプランの思想に拠っている。1983年クレール・デュフール、ジャック・ラヴィネ参加。

   ロカール派
    ジャン・フリップ・ドラン、エマニュエル・ド・ポニカンらが傾向の創設者となる。1980年以前はMASUNEF−US両方に存在。
    1982年と1984年にアラン・バウエルマニュエル・ヴァル、ステファヌ・フクらの青年ロカール派が全国ビュローに参加しグループ
   が刷新される。未来傾向の遠祖。

LEASとTEMAS
 LCRに近いMASの全国ビュローとOCIに近いUNEF−USの統合交渉は難航した。MASの全国ビュローは学生闘争−組合行動LEAS
を結成し、統合会議ではUNEF−USの全国ビュロー、 自主管理組合主義組合再建傾向TSARSと3傾向が出現。
 TSARSはすぐに分解。LCR系活動家はLEASに存在、1980年UNEF−ID統合会議はLCRに良くなかった、彼らはMASの指導権を
失いUNEF−IDでは第3位グループであった。UNEF−USの全国ビュローは59%、TSARSは26%でLEASは15%であった。
 LEASはジュリアン・ドレイ、ローランス・ロシニュール、ピエール・ライマンらが率いた。
 1982年頃ジュリアン・ドレイのグループは組合統一傾向TPUSに参加。1982年会議ではLEASは12.5%しか得られなかった。

 1984年UNEF−ID会議は分極化し、plus傾向は多数派に加わり、LEASはTSARSの自主管理主義者と共同戦線を形成、反対派は
Minoと称された。(50−60年代のminosを例として)しかしMinoは9%しか獲得できなかった。1982年にはLEAS12,5%に対し、
TSARSは1.5%であった。連合は困難になり自主管理主義者は離れ、LCR周辺の活動家は1986年に旧称LEASを再び名乗った。
 1986年頃LEASとポプラン派は組合行動のための学生傾向TEMASを結成。1987年会議では16%獲得。ダヴィド・アスリーヌ
TEMASに参加か?

平等のための組合主義 
  ロカール派に起源し未来傾向、再建傾向、SEPE、平等傾向、社会転換傾向と変遷。
  UNEF全国多数派傾向支持グループ、最初lUNEF-IDに出現ついでUNEFに参加。

  1980年代未来傾向はロカール派の組合版として出現、しかし活動家は徐々にロカールから離れる。
  1993−1994年の再建Reconstruireはこの自立意志に対応。この運動は社会主義青年運動MJS(1993年ブノア・アモン
 結成)と出会い新左翼となる。新左翼は組合闘争に強く関わり、再建、SEPE、平等傾向、社会転換傾向、平等のための組合主義
 と関係を持つようになる。

  未来傾向Tendance avenirUNEF-ID結成のplus傾向のロカール派に起源する。1980年代末の出現から指導部に忠実な連合
 者であった。これは1991年会議でのクリストフ・ボルゲの改良主義から組合主義への転換で確認された。
  1993年の会議での多数派の勝利は未来傾向の支持なしにはありえなかった。未来傾向はフィリップ・カンパンキを支持。
  ダヴィド・ルセが会計となる。しかし指導部と不和となり多数派を解消し再建傾向を結成、1994年プリア・アミルシャイ
 民主・独立傾向と連合、多数派がひっくり返った。
  再建傾向は平等のための一緒グループSEPE Sensibilite ensemble pour l'egaliteとなり1994年多数派となり、
 UNEFの幹部の席を獲得。(ミカエル・ダアンついでミカエル・デラフォスが副委員長となる)
  1996年SEPEは危機を迎える。改良主義派がSEPE内で組合選択として独立、1997年この戦術は崩壊し組合選択傾向TPAS
 となる。TPASは2001年互助傾向TSEと合流し組合傾向となり、2003年UNEFから分裂し学生連合Ce結成。
  2000年SEPEはカリーヌ・セレ率いる多数派を去り平等傾向となる。これでミカエル・デラフォスが副委員長辞任。
  平等傾向は2003年(?)社会転換傾向となり多数派の指導部に加わり、互助組織でも活動、2003年ミカエル・デラフォス
 LMDEの委員長となる。2005年全国多数派との連合を決定し平等のための組合主義グループとなり、2008年全国多数派と合流。
  
・独立による統一傾向TUPI
  1991年大会で出現、指導部をひっくり返すため反対派が結成。
  TUPIはクリストフ・ボルジェの多数派が社会党のジョスパン指導部に従属しすぎると批判。
  TUPIはLCRランベール派PCI)、CERES(シュヴェーヌマン派)、ポプラン派、ファビウス派を結集。
  PCIは1986年の分裂で停滞しつつあり、CERESは重要なグループであった、ポプラン派は少数で、ファビウス派は公式に
 UNEF-IDに加わったばかりで、LCRは古くから存在し、強固であった。TUPIは飛躍か凋落か傾向TSODにも接触したが拒否された。
  多数派68.9%に対し少数派の多数派のTUPI21.2%、SOD9.9%となる。
  しかしTUPIのグループには意見の違いが大きく1991年の湾岸戦争では意見の一致が見られなかった。
  1991年にLCRはミッテランはクルド人民の殺人者というスローガンを叫び、ファビウス派は無言でその場を去り、傾向外のロカール派
 が大統領を擁護。
  LCRが統一傾向から去り組合左翼傾向PGSを結成。これでTUPIは終わり、ランベール派は急速にUNEF-IDから消えた。
  1993年多数派が衝突し独立行動傾向が結成され、これを受けて反対派は独立・民主傾向TIDに結集、これは強固な一致で行われた。
  TIDにはCERESや組合左翼傾向PGSが入ったが、DEMOSのファビウス派は多数派に初めて参加。

ヴィルタヌーズと飛躍か凋落か傾向TSOD
  1981−1991年はグループsensibilite(ヴィルタヌーズ)、1991−1994年は飛躍か凋落か傾向。
  1981年ジュリアン・ドレイがLEASからplus傾向に移り、周辺のローランス・ロシニョールアルレム・デシールらも追従。
  これに伴いLCRから社会党に移り疑問社会主義者グループを結成。
  このグループはUNEF-IDではジュリアン・ドレイがAGE指導者のヴィルタヌーズに繋がる活動家の中心であった。
  アルレム・デシールが指導者のパリ12大学クレテイユやパリ第1のトルビアックなどでも主導権を握っていた。
  1982−1983年新参者はplus傾向幹部となった。それにより1980年大会26%から1982年30%となる。
  1980年に社会主義者はTSARSに参加、1982年別離。1984年ジュリアン・ドレイアルレム・デシールは学生組合を去り、
 SOS人種主義を結成。ヴィルタヌーズのAGE指導者アーノルド・スタシネとイサベル・トーマスが相次いでUNEF-IDに到来。
  この時期plus傾向はUNEF-ID指導部参加を決定。1986年UNEF-ID指導者ジャン・クリストフ・カンバデリが社会党と提携。
  疑問社会主義者グループ・メンバーはUNEF-ID指導部グループを形成。彼らは少数であったが傾向に影響を及ぼした。
  イサベル・トーマスはヴィルタヌーズを存続させた。彼女はレミ・スクテルスキー、タイマ・サマン、アデライデ・ピアッツィなどと組織を
 動かした。1986年のデヴァッケ計画反対運動ではヴィルタヌーズ大学が最初にストライキを始めイサベル・トーマスが名を上げた。
  シラク政権反対の学生勝利でヴィルタヌーズ・グループに新地平が開けた。
  1987年イサベル・トーマスが社会党政治局に入り、学生組合運動を去った。ヴィルタヌーズ・グループはフレデリック・オカール、
 パスカル・シェルキらが新しい指導者となった。
  LCRが急進反対派となりポポラン派とTEMASを結成。彼らは疑問社会主義者の後継の社会主義者新学校NESと提携しようとした。
  パスカル・シェルキはカンバデリ派よりLCR活動家に一致点を多く見出した。
  1989年大会でヴィルタヌーズ・グループは拡大。1990年末にヴィルタヌーズ・グループの多数派での地位は困難となった。
  湾岸戦争での多数派の曖昧な運動や特に学生社会計画PSE署名を批判。グループは飛躍か凋落か傾向となった。
  NESメンバーはクリストフ・ボルジェの組合運動の改良主義転換を批判。UNEF-IDの学生選挙での後退を大衆支持不足とし、
  いつも街頭抗議行動に走り、社会主義者政権と通じている組合文化の多数派の現代化に反対。
  要するに彼らによれば良心を持ち飛躍しなければ、支持者を失い凋落する。
  NES学生の独立意志によりLCRに関心を寄せ、TSODのTUPI統合を提案。しかしヴィルタヌーズ・グループは拒否。
  1991年大会でTSODは9.9%獲得、リセ独立民主連合FIDLの以前の委員長フランソワ・ドゥラピエールカリーヌ・ザイレの到来で
 彼らは刷新された。
  1992年ジョスパン改革反対運動参加。多数派は交渉に傾きストライキ参加グループの不信を買う。TSODは多数派より左に位置。
  1993年UNEF-ID内で状況が急速に変化、総書記エマニュエル・パラディ、会計ダヴィド・ルセが反対派を基礎に新傾向
 独立・行動I&A結成。I&AやTIDにはヴィルタヌーズの方針と一致する部分があった。。
  NESは多数派をひっくり返すため闘う。1933年大会の分裂のあと1994年大会でTIDが多数派をひっくり返す。
  急速にI&Aとドレイ派(NESグループ)は共通グループいわゆるmajo majoを結成、これは多数派の多数派となる。
  旧TSOD幹部は全国ビュローの高職を占める。カリーヌ・ザイレは副委員長から1998年委員長に、フレデリック・オカールは
  統制委員会la commission de controle委員長から1999年MNEF総書記になる。
  2002年NES後継の社会主義左翼が衝突。LMDE委員長のカリーヌ・ザイレら少数の学生活動家はジュリアン・ドレイと社会党
 多数派動議支持、2005年アンリ・エマニュエルの新世界参加し、社会主義者新党に統合。
  UNEFの最後のドレイ派は困難に陥り、2003年分裂し共和子供enfants連合FEDER結成。
  FEDERは2006年学生連合Ceに参加。

独立行動傾向I&A
 1990年代のUNEF-IDの傾向で最初少数派、後に多数派。
 多数派カンバデリ派は当時思想転換していた。彼らはPCIのメンバーで改良主義に滑り込んでいた。
 1987年カンバデリ派はデヴァッケ計画反対運動で左派と論争に直面。
 1991年多数派は転換路線を採用、これで左派は未来傾向との連合を強化。転換は改良主義と共同統治か攻勢かという議論の時代
 をもたらすこととなった。多数派の左派は分裂か留まるかで揺れた。
 1992年ジョスパン改革計画反対運動は独立派とUNEF−SEに支配されUNEF-IDは困難に陥った。
 UNEF-ID指導部はスツライキに反対で交渉に傾いた。多数派の左派は委員長不信となった。
 運動後委員長派と左派の関係は緊張した。
 1993年1月ダヴィド・ルセ、プリア・アミルシャイ、エマニュエル・チュミアチャー、シルヴィー・レミらが独立行動傾向I&A結成。
 彼らはUNEF-IDが学生から離れ社会党と密着しすぎ社会党政権と闘わないことを問題とし、そのためUNEF-IDが後退しFAGEなど
が成長しているとし、独立と組合運動への注力を主張、またUNEF−SEとの統合を示唆した。またMNEFの商業主義も批判。
 傾向結成はパリ第6ジュシユ、パリ第10ナンテール、トゥールーズ、グレノーブルなどを含む大AGEの支持を受けた。
 1993年大会開催は困難に陥った。
 委員長カンパンキ忠誠派は青年学生連合confederation de la jeunesse scolarisee 傾向とロカール派の未来傾向に結集。
 反対派はTIAに率いられ、SOS人種主義TSODLCR系組合左翼傾向PGS、旧CERES系シュヴェーヌマン派を結集、
統一傾向の独立・民主傾向TID結成となった。大会では多数派とTIDは決着がつかなかった。分裂回避のため妥協がなされた。
 反対派は半分より若干すくない全国ビュローを確保、統制委員会は半々となった。TIAは従来ポスト確保。
 未来傾向が多数派の態度に失望しUNEF-ID革新を主張し、指導部と分裂し再建傾向を結成し若干の躊躇ののちTIDと連合、
1994年大会で多数派がひっくり返った。TIAが新多数派の鍵となるポストを確保、プリア・アミルシャイが委員長となり、ダヴィド・ルセ
が会計、再建傾向のオリヴィエ・ダロナが総書記となった
 1995年大ストライキ(ジュッペ計画による社会保障後退にたいする1995年秋の社会運動、公共運輸大ストなど)の結果の学生選挙
での回復、政府による学生政策などは新しい路線の勝利とされた。
 1998年委員長がプリア・アミルシャイからカリーヌ・セレに代わり、新世代到来で1993年の旧傾向の多くがmajo majo(多数派
tendanceの多数グループsensibilite)に合流し独立・行動I&Aの固有存在性がだんだん消滅するようになった。
 政治的にはI&Aと結ぶ社会主義左翼が分裂し社会主義選択は徐々にジュリアン・ドレイついでジャン・リュック・メランション追従を
拒否。

DEMOS
 組合志向orientation多数派のための学生民主ついで組合志向多数派のための学生定義Definitionは全国多数派内グループ。
 別の国際化主義者altermondialiste、種々の政治党派、非登録者(無戸籍)の結集グループ。
 多数派と選択choixの柔軟性の大きさで異なり、平等のための組合主義とは共和主義と世俗分離主義(ライシテ)伝統で異なる。
 彼らは国際化主義者に繋がる新しい戦闘性に深く根ざした文化的流儀で区別される。彼らは普遍的分配(最低保障)確立を支持。

 1980年代中期ルーアンのUNEF-IDに最初のファビウス派活動家が参加。クリストフ・ブイヨンに率いられAGEのロカール派指導者
を批判。1990年ファビウス派青年組織(青年社会主義者平等)に連合しこのグループは全国的にUNEF-ID参加を決定。
 これはローラン・ファビウスとニコラス・ラヴァイユの助言者のジャン・マルセル・ビシャによってなされ、ステファヌ・ニサンが分散した
活動家の結集の任を帯び、組織は組合志向多数派のための学生民主と名乗った。この時期UNEF-IDは社会党の党内闘争で刻印
される。UNEF-ID多数派はジョスパンを支持しており別の領域でフアビウスとジョスパンの競争をすることが課題であった。
 DEMOS活動家は多数派に籍を置こうと考えた。MNEFのファビウス派とクリストフ・ボルジェのおかげで交渉が開かれた。
 しかしボルジェは内部均衡がひっくり返るのを恐れDEMOSへの全国ビュロー・ポストを拒否。そこでDEMOSはCERES学生の
方に向いた。
 しかしこの時期CERESはジョスパンに結びついたカンパデリ派を非難し始め他の反対派とTUPIを結成。そこでファビウス派は
TUPIに参加、1991年大会で公式にUNEF-ID参加。これでステファヌ・ニサンが全国ビュローに入った。
 1990−1993年で拡大し、メンバーはファビウス派から遠ざかり政治より組合の仕事に注力した。ポプラン派を引き入れた。
 1993年独立行動傾向が分裂しUNEF-IDが分極化。DEMOSはフィリップ・カンパンキのグループと多数派を支持。
 しかし大会では多数派と反対派の決着がつかず、UNEF-IDは危機に陥る。結局ファビウス派はどちらにもつかず周辺化。
 アルノルド・シャンプルミエ・トリガノの指導でUNEF-IDのファビウス派は攻撃的路線を採用したが、MJSのファビウス派の一部と
MNEFのDEMOS活動家の反対を受ける。
 1994年DEMOSは組合未来傾向に具体化した反対派に参加し多数派をひっくり返す。DEMOSは大会で6−7%を持っていた。
 DEMOSはプリア・アミルシャイの全国ビュローに参加、アルノルド・シャンプルミエ・トリガノが副委員長となった。
 1997−1999年にアルノルド・シャンプルミエ・トリガノ、ピエール・カタンらDEMOS指導者が卒業、幹部を欠き斜陽。
 2001年DEMOSは全国ビュローに再びポストを得る。
 グループは拡大し、別の国際化主義者、非登録者(無戸籍)の結集グループに門を開いた。
 2003年アルノルド・シャンプルミエ・トリガノとピエール・カタンが雑誌TOCを創刊し幹部勧誘を促進した。
 ファビウス派と同一視されないためDEMOSの一部は率直反ファビウス・グループSVALFを名乗る。
 ジャン・バプティスト・プレヴォスは2003年頃からDEMOSと距離を取り、種々の全国ポストに就き、ついに2007年委員長となる。
 2007年DEMOSは指導者間の衝突で危機を経験。

独立・民主傾向TID 
 1993年多数派が分裂、左派はエマニュエル・パラディとダヴィド・ルセに率いられ独立行動傾向I&Aを結成。やがてこの周囲に
反対派(TSOD、PGS、シュヴェーヌマン派)が連合。これが統合し独立・民主傾向TIDという名をとる。
 大会では緊張がまし分裂の危機に至ったが、誰も分裂を望まず種々の努力で分裂は回避された。
 TIDが全国ビュローに15ポストを得、多数派は17を取り、統制委員会は折半した。一方TIDは従来のポストは維持した。
 (投票結果は公表されなかったが多数派53%と噂された)
 会議後ロカール派は多数派非難に聞こえる新傾向−再建傾向結成を発表。これはDEMOSを結成したファビウス派に叩かれた。
 1994年にTIDと再建傾向の妥協が進められた。カンパンキ派は何もしなかった。カンパンキ派の幹部の一部は失望して組合を去り
Animafac(1996年結成の学生連合associationネットワーク)などに参加した。
 TIDはDEMOSの支持を受け組合未来傾向TASとなった。1994年大会はTASが多数派で51%、旧多数派は33%、再建傾向
15%。プリア・アミルシャイが委員長となった。
 UNEF-IDの選挙での回復とバイル大臣での社会・教育改革は彼らの運動の成果とされた。
 TASは2007年全国多数派傾向となった。
 再建傾向との提携は強化されこれは全国多数派に平等のための一緒グループとして統合、ついで平等のための組合主義
グループとなった。DEMOSグループは多数派内にいるが弱体である。CERESは全国多数派で独立を模索しやがてUNEF-IDから
消えた。
 トロツキストのPGSとの提携は長続きせず、一部はTID参加に抵抗。学生闘争!組合行動!LEASグループがともかく日を見た。
 しかし1996年多数派を去り他と民主・統一傾向を結成。
 TSODは複雑でmajo majo(多数派の多数派)となったが、1990年代末に独立行動傾向I&A起源の活動家と区別できなくなった。
社会主義左翼の分解後の事は複雑で、影響は組合指導部とドレイ派に及んだ。カリーヌ・セレ率いるドレイ派は周辺化し、
共和子供enfants連合FEDER結成。
 このようにmajo majoは独立・民主傾向TIDの後継とはいいがたい部分がある。
 思想的には社会主義選択と関係しているが組合運動の独立、組合運動統一、学生互助主義に立っている。

組合選択傾向TPAS
 1994年ロカール派の再建傾向は多数派転覆に参加し、プリア・アミルシャイの指導部と提携した。しかし一部活動家は自分達の傾向
の路線に失望した。彼らによれば改良主義から離れすぎていた。1996年傾向内にローラン・ベレイユ、グレゴリ・マルタン、
エルマン・コルヴらが組合選択再建グループ結成。1997年決定的に傾向と衝突し組合選択(のために)傾向TPASとなる。
 トゥルーズ会議(1999年)でエルマン・コルヴからジュリー・クドリに指導者が代わる。
 互助傾向TSEの結成後、両者の交渉が始まり組合傾向TSとして合流。これはジュリー・クドリと旧TSEのセバシュチャン・クデールに
率いられた。合流拒否したTSEメンバーは学生連合のために傾向TPCDEを結成。
 TPASはローラン・ベトレイユ、グレゴリー・マルタン、ジュリー・クドリーに率いられ、パリ第5、アンジェ、ラ・ロッシェル、ナント、リモージュ
などのAGEで多数派。1997年大会10%、1999年大会10%、2001年大会7%。

互助傾向TSE
  TSEは1994年にひっくり返されたUNEF-IDの旧指導部の青年学生連合のための傾向TPCJSの後継。
 1990年代末TPCJSは全国多数派に参加、互助グループとなる。2000年多数派連合終わり、互助活動家は指導部lequipe dirigeante
を去り、互助傾向となる。TPASと関係をもち、分裂を招く。セバスチャン・クドルのグループはTPAS支持、組合傾向結成し
ジュリー・クドリーらが率いる。他方はパトリス・ロケが学生連合のための傾向(後の組合再建傾向TRS)を結成。
 2003年の組合傾向のUNEF分裂による学生連合Ce結成で分裂反対派は組合再建傾向TRSを結成、TRSは2007年大会で
6.8%獲得。TRSは社会党のドミニク・ストラス・カーン社会主義と民主に近い。

組合傾向
  2001年大会で組合選択傾向TPASと互助傾向の一部が結成。10%獲得。
  2003年UNEF指導部と衝突し分裂し学生連合Ce結成。
  

 統一社会党PSU、ロカール派、ランベール派、革命的共産主義者同盟LCR、CERES(シュヴェーヌマン派)、ポプラン派、社会党内
グループ等についてはフランスの左翼を参照。


○再統合後の歴史
 2001年、UNEF−IDUNEF−SEが合流。UNEF−SEの統合反対派は一部がFSE結成、他方がUNEF組合抵抗を結成し
たがこれは間もなく消滅。
 SUD学生のいくつかの地方組合とLCR率いるUNEF−SEのAGEは統合会議の前にUNEF−IDに参加。これはUNEF−ID
トロツキストを強化し統一・民主傾向TUDから皆一緒傾向TTEとなった。
 統合でCNESERとCNOUSで第1組織となったがUNEF−ID時代から前進はなかった。
 2003年組合傾向ジュリー・クドリに率いられ学生連合Ce結成。
 2005年レイムの第75回会議では社会転換全国多数派が83.0%、皆一緒傾向TTE10.0%、組合再建傾向TRS7.0%で
ブリュノ・ジュヤールが委員長。
 2006年初期雇用契約CPE反対運動。10−11月違法登録料反対運動に乗り出す。
 2007年皆一緒傾向TTE多数派分裂グループと民主・統一UNEF(のための)傾向TUUD結成。
 80回会議では百年記念で旧メンバーのジョスパンクレマンティヌ・オタンイサベル・トマスらが出席、また大統領選候補として
マリ・ジョルジュ・ビュフェオリヴィエ・ブザンスノードミニク・ヴォウィネセゴレヌ・ロワイヤルが平等に紹介された。
 2008年平等(のための)組合主義グループが全国多数派の残りと合流。

 歴代委員長
  ヤシール・フィシュタリ(2001−2005年)
  ブリュノ・ジュヤール(2005−2007年)
  ジャン・バプティスト・プレヴォス(2007年−)


(統合UNEFの傾向)

皆一緒傾向TTE
  主にLCRあるいはその青年組織JCRに近いメンバーよりなる。
  旧UNEF−IDの民主統一傾向活動家とUNEF−SE反対派のSUD学生が結成し、2001年のUNEF−ID大会で出現。
  2007年全国多数派傾向を去ったいくつかのAGEと民主統一UNEF傾向TUUD結成。
  2006年UNEF全国集会はパリ第1(トルバイック)、パリ第7(ジュシユ)、パリ第8(サン・デニ)、パリ第10(ナンテール)
 のAGEのTTEに繋がる38人の活動家を他のUNEF活動家への暴力を理由に排除。
  排除された活動家とこれに連帯する活動家はUNEF統一と民主のための集合Collectif結成。
  2001年大会7.5%、2003年大会9%、2005年大会10%獲得。

全国多数派傾向TMN
  2001年統合以来の多数派で1994年のUNEF−ID多数派の独立・民主傾向TIDの流れ。
  多くのメンバーは社会党の社会主義者新党に繋がる。
  2007年大会では80%獲得、指導者はUNEF委員長のバプティスト・プレヴォス
  多数派の多数派majo majoは一部は独立・民主傾向TID、一部はUNEF−SEの旧指導部。
  少数派はDEMOS

民主統一UNEF傾向TUUD
  2007年大会で出現、皆一緒傾向TTE、全国多数派傾向TMNの一部、UNEF民主統一のための集合Collectifs CUUDが合流。
  TMNの一部はTMN指導部があまりに社会党の特に社会主義者新党NPSに従属しすぎると批判、2005年の社会転換傾向TTSと
 TMNの結集不満派はCPE反対運動で集結、2007年ついにTMNから離脱。
  2007年大会でCUUDメンバー復帰を提案。
  この大会でTMNを去った活動家は独立・組合UNEFのためにグループとなる。
  2007年大会13%、2009年大会15.1%獲得。
  メンバーの大部分は反資本主義新党と共産党、無党派も多い。

組合再建傾向TRS 


UNEFの人物像>   詳しくはこちら
 学生運動引退後の行動はいかに、日本の新左翼(トロツキスト)と異なり、1970−1980年代学生運動で活躍した活動家は多くが、
社会党に参加し社会党で活躍している。なかでもランベール派はついにジョスパンを首相に就けることに成功。


学生・青年政治組織

○革命的共産主義者青年JCR
  1979年LCRの青年組織として結成。
  1986年UNEF-IDで5%を構成、86年運動のあと6倍以上になる。1990年平等Egaliteと別のことAutre Choseに分裂。
  多数派は革命的左翼結成。他派RED結成、1994年合同。
  JCR活動家はUNEFSUD学生に加わり、UNEFでは民主統一UNEF傾向TUUDに参加。
  2006年CPE反対運動のあと全国多数派傾向TMNのJCRは皆一緒傾向TTEと民主統一UNEF傾向TUUD結成。
  皆一緒傾向TTEは旧UNEF-IDの民主統一傾向、UNEF-SE,の反対派、SUD 学生(のLCR系メンバー)が結成。
  TTEは2001年UNEF会議で7.5%、2003年、9%、2005年、10%獲得。

○共産主義者学生連合UEC
  1939年に結成され戦後解散し、1956年再建。
  1966年UECを追放されたアラン・クリヴィーヌらが革命的共産主義者青年結成。
  ロベール・リナールベニー・レヴィらはマルクス・レーニン主義青年連合(毛派)結成。

○真の学生組合のための集合CVSE Comite pour un vrai syndicat etudiant
  労働者党PT系組織で2004年結成、2007年に活動家の多くはPTの革命的青年連合AJR(2006年結成)に参加。

○UMPキャンパス UMP Campus 

○極右
   1949年結成の若い国民Jeune Nation起源の学生により1960年民族主義学生連合FEN(1967年解散)が結成される。
   FENのメンバーは1964年結成のオクシダンや1963年結成の欧州行動、1969年結成の欧州文明研究学習グループに参加。
   1968年、パリ第2大学で旧オクシダン指導者により防衛連合グルプGUDが結成される。1981年ミッテラン勝利で公式には解散し、
  民族主義者再建を結成。これは1984年解散し主要メンバーは国民戦線参加。
   GUDはその名声により公式解散後も運動は1980−1990年代まで種々のグループ(革命的民族主義運動第3の声
   青年国民戦線共和民族運動など)により継続。これはジスカール・デスタンやバラデュールの選挙運動に参加。
   1998年若い抵抗抵抗サークル連合急進統一結成に参加。これは2002年分裂解散。

   1990年国民戦線が学生革新Renouveau etudiant結成、これは1991−1994年CROUSに議席確保。
   多くがブリュノ・メグレ(1999年共和民族運動結成)陣営に参加し2000年解散。

   1990年代後期UNIから追放されたグループが右翼学生全国連合UNED結成。1998年頃消滅。
   2004年右翼学生結集REDが出現。2009年3月解散。

○宗教組織

 ・キリスト学生青年
  1929年結成。1960年代UNEFに大きな影響を与える。アルジェリア戦争反対の立場をとる。
  1968年5月の影響でメンバーとカトリック教権体制が衝突、1980年代再建。

 ・フランス・ユダヤ学生連合
  1944年結成。アルジェリア戦争で組織が引き裂かれる、1968年5月で幹部はイスラエル帰国(アリヤ)を決定、他は極左に参加。
  1980年代社会党陣営に加わりSOS人種主義運動結成。1995年以来UNEF−ID支持。
  2007年ベルナール・アンリ・レヴィエンリコ・マシアス、大レビレネ・サミュエル・シラが参加し全国会議開催。

 ・フランス・ムスリム学生
  1989年結成、1996年現在の名をとる。2002年からCROUSに選出されるようになる。


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