<<フランスの左翼>


フランス共産党PCF  歴史 党大会

 1914年、第1世界大戦の開始でSFIO内に緊張がたかまり、左派は多数派が戦争支持により社会排外主義をとって
いると非難した。
 1920年のSFIO大会で左派(ボリス・スヴァリヌ、フェルナン・ロリオ、ピエール・モナット、アルフレド・ロスメールら)と
中央派(マルセル・カシャン、ルドヴィッチ・フロサールら)は第3インター加盟に賛成した。
 最初はSFIOをしのいでいたPCFは多くのメンバーを追放し(ボリス・スヴァリヌ、アルフレド・ロスメール、ピエール・モナット
アルベール・トラン、ルドヴィッチ・フロサール(1921−1923年総書記)など)数年で斜陽化した。
 議員はSFIOと急進党の左翼カルテルに反対した。
 1920年代PCFは多くの知識人、芸術家をひきつけた。
 1920年代はスターリンのもとSFIOを社会ファシストと否定し、協力を拒否した。
 党は右派、フロサールの中央派、トランらの左派に分裂、コミンテルンの圧力で中央派と左派の妥協がなり、ロリオ、ロスメール、
スヴァリヌ、トランらの左派が党を支配。
 1922年に党を追放されたアルベルト・マティエアンリ・セリエらが社会主義連邦連合を結成。
 1923年フリーメイソンのため党を去ったルドヴィッチ・フロサールが統一共産党結成。
 同年統一共産党と社会主義連邦連合は合同して共産主義者社会主義者連合結成、これは1927年共産主義社会党PSCとなる。
 1924年アルフレド・ロスメール、ボリス・スヴァリヌ、ピエール・モナットが左翼反対派として追放される。
 トラン、スザヌ・ジロールのジノヴィエヴ派が党を支配するようになる。
 しかしやがてトランは同盟者ジロール、ピエール・スマールと対立するようになる。
 ピエール・スマールが1924−1928年総書記となる。国会選挙で4.48%、26議席獲得。
 スマール、ジャック・ドリオ、モーリス・トレーズ、ガストン・モンムソージャン・クレメが党を支配。
 1925年ピエール・モナットはサンディカリストの雑誌プロレタリア革命を創設。
 1927年モーリス・パマグドゥレーヌ・マルクス(パの妻)がPCFから追放される。
 アンリ・バルベピエール・セロールが総書記となる。
 PCFはスターリン主義化をとり、1930年モーリス・トレーズ支配が確立し党内分派は禁止された。
 民主的共産主義者サークル(1930年ボリス・スヴァリヌ)、共産主義者同盟(1930−1934年の第4インター以前の旧左翼反対派
メンバー)、共産主義者連合(1933年共産主義者同盟から分裂、アンリ・シャゼ結成、評議会共産主義に傾斜)などのスターリン主義
反対の共産主義組織が結成される。
 民主的共産主義者サークルのメンバーはレイモンド・クノージョルジュ・バタイユピエール・カーンジャン・ジャック・スデイユ
シモーヌ・ヴェーユルシアン・ロラルネ・ルフェーブルなど。スターリンに追放されたダヴィド・チャザノフ、ヴィクトル・セルジュらを庇護。
 民主共産主義者サークルからジュリアン・コフィネルシアン・ロラロベール・ギウネフらの戦闘マルクス主義者(1933−1936年、)が分かれ、
SFIO内で時には戦闘社会主義者と提携。
 1927年ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、アンドレ・ブルトン、バンジャマン・ペレ、ピエール・ユニックらのシュール・レアリストが参加。
 1928年トロツキー−ジェノヴィエフのロシア反対派支持でアルベール・トラン、スザンヌ・ジロールが追放される。
 彼らはジノヴィエヴ派を結集してレーニン主義者統一を結成。これにはアンリ・シャゼマルク・シリック(1920年パレスチナ共産党結成)も参加。
 アルベール・トラン、マルク・シリックは1931年共産主義者同盟参加、スザンヌ・ジロールは1930年復党。
 1929年ルイ・セリエ(1923−1924年総書記)、ジャン・ガルシェリらが追放され労働者農民党結成、この党は1930年共産主義社会党と
合同してプロレタリア統一党となる。この党は1937年SFIOに統合。
 1934年ジャック・ドリオとモーリス・トレーズの権力闘争でトレーズ勝利しジャック・デュクロ、ブノワ・フラションウジャン・フリエ
(コミンテルン代表)らとの体制確立。
 シャルル・ベッテルハイムは1936年のソ連滞在で共産主義を放棄するようになった。
 1934年2月6日の極右の反乱で第2次左翼カルテルは倒れ、政権は保守のガストン・ドゥメルグに移った。
 これにより左翼全体がファシストの反乱が成功することを恐れた。
 コミンテルンの人民戦線戦術採用によりPCFとSFIOの協力が可能となり1936年の選挙で人民戦線が勝利し、
レオン・ブルム内閣が成立した。
 1936年共産主義者の統一労働総連合CGTU(1921年分裂)と労働総連合CGTが合同。
 アンドレ・フェラは1929年からスターリン路線に反対し始め、1934年秘密グループ何をなすべきか(ク・フェール)を結成、1936年
追放され、何をなすべきかグループはSFIOに参加した。
 経済政策とスペイン人民戦線問題でブルム内閣は衝突し倒壊し、1938年4月エドワール・ダラディエが後を継いだ。
 モロトフ・リッベントロプ協定と第2次世界大戦の勃発でPCFは禁止された。
 1940年協定反対で占領下でのドイツ協力賛成派の旧PCFメンバーがマルセル・ジトンジャン・マリ・クラマミュマルセル・カプロン
率いるフランス労働者農民党(1940−1944年)結成。
 1941年、ドイツがソ連に侵入するとPCFはフランスでのレジスタンスを展開した。
 PCFは反ファシスト勢力として信頼を得た。
 1944年までPCFは最大の影響を得、国の広い地域を支配した。
 党内にはドイツ撤退後、革命に乗り出すことを期待するものもいた。しかし指導部はスターリンの支持に従い、これに反対し
新しい人民戦線政権との協力を支持した。
 戦争中パブロ・ピカソ、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアールなど著名な人物が多く共産党に加入した。

 戦時期のレジスタンスでの努力により1944年のフランス解放で、他のレジスタンス・グループとともに、ド・ゴール内閣に
参加した。
 1945年10月の憲法制定議会選挙で586議席中159議席を得た。(26.2%で第1党)
 しかし1947年5月マーシャル計画を確保するためPCFはラマディエ政府から去らざるを得なかった。
 イタリア共産党は1970年代の歴史的妥協の試み以外に決して権力に戻ることはなったが、PCFも同様に強い政治勢力
であるにもかかわらず1981年のミッテランの勝利まで孤立していた。
 政権という責任から解き離れて、労働者階級の広範な不満に自由に通じ、またモスクワの命令のもと過激路線をとった。
 1940年代末サミール・アミンは党に参加したがやがてソ連マルクス主義に距離をおき毛派サークルに一時参加した。
 フランソワ・フュレは1947年共産党に参加し1959年に離党し、1960年統一社会党PSU結成に参加、1968年五月以降
エドガー・フォールの助言者となる。
 他に歴史家のミッシェル・ペロがアルジェリア戦争を期に1955年共産党に参加したが1958年離党。
 ジャン・ピエール・ヴェルナン青年共産主義者としてレジスタンスを戦い1969年まで共産党にいた。
 1950年代PCFはインドシナ戦争(1947−54)とアルジェリア戦争(1954−62)でフランス帝国主義を批判的に支持した。
 これにより急進左翼の信用を失ったが、本国フランスでの支持拡大につながった。
 1950年、トレーズ病気でモスクワに行き、後継者闘争起こる。ジャック・デュクロとオーギュスト・ルクールが2強。
 1952年、トレーズ不在でデュクロレオン・モヴェによりアンドレ・マルティシャルル・ティヨンが追放される。
 1954年、オーギュスト・ルクール、ジョルジュ・ガングアン、1956年ピエール・エルヴェ追放、ガングアン以外は1958年SFIO参加。
 オーギュスト・ルクールは1956年民族national民主共産主義者運動を結成し、これにエルヴェ、ガングアンも参加。
 1950年代後半は党指導部の親モスクワ路線に対する不満の出現(1953年スターリン死亡)により特徴付けられる。
 1950年代後期は毛沢東主義による大きな分裂があった。
 1956年のハンガリー革命に際し、エマニュエル・ル・ロワ・ラドゥリアンリ・ルフェーヴルアニー・クリジェルのような穏健な
知識人が離党した。
 脱スターリン主義化の過程でマルクスの人間主義的な面の回復(東欧ではプラクシス学派ブダペスト学派カラコフスキー学派
そしてエーリッヒ・フロム、ある種の西欧マルクス主義者など)が試みられたが構造主義者と呼ばれたルイ・アルチュセールはこれに
批判的であり、特にジョン・ルイスとの議論が有名である。
 ユーゴスラヴィアのプラクシス学派としてはガジョ・ペトロヴィッチ、ミハイロ・マルコヴィッチ、ミラン・カングルガ、ルディ・スペック、
プレドラグ・ブラニツキ、ダニロ・ペジョヴィッチなど、ブダペスト学派はルカーチを別格としてアグネス・ヘルレルギオルギ・マルクス
アンドレアス・ヘゲデーシュなど、ポーランド学派はアダム・シャフを周辺としてレゼク・カラコフスキーボグダン・シュチョドルスキー
マレク・フリッツハンドブロニスロフ・バルコタデウス・クロンスキーなど、プラハ学派はカレル・コシークイヴァン・スヴィタークなど。

 デニス・ベルジャーアルジェリア戦争でFLNを支持、共産主義者反対派としてフェリックス・ガダリ、ジェラール・スピッツァーらと
共産主義の道(1955−1965年)を結成し、PCFに加入。

 1958年、PCFは唯一ド・ゴール再登場と第5共和制に反対した。マキシム・ロダンソン離党。
 モーリス・トレーズの死(7月、黒海で航海中死亡)により1964年、ワルデック・ロシェが指導者になった。
 (イタリア共産党のトリアッティも1964年8月黒海沿岸都市ヤルタで休暇中死亡)
 ロシェもトレーズ同様労働者階級(職人)の出身であった。
 1960年代中、米国は党員26万人と推定している。
 1961年思考と様式の変化を求めたローラン・カサノヴァマルセル・セルヴァンモーリス・クリージェル・ヴァルリモンらが追放される。
 (セルヴァン・カサノヴァ事件
 1960年毛派が出現し、追放者たちは1964年フランス・マルクス・レーニン主義サークル連合を結成した。
 これは1967年、フランス・マルクスレーニン主義共産党となった。
 1965年の大統領選挙ではフランソワ・ミッテランを支持し、来る1967年の国会選挙のため左翼民主主義者・社会主義者連合
と協定を結んだ。
 1966年アラン・クリヴィーヌがトロツキズムにかかわり追放され革命的共産主義者青年同盟を結成する。
 1968年5月の学生反乱とストライキではPCFは全国ストは支持したが革命的学生運動には反対した。
 これらはトロツキスト、毛沢東主義者、アナーキストによって支配されていた。
 1968年8月のチェコスロヴァキアへのソ連介入を支持しPCFは多くの左翼から孤立した。
 しかしPCFは左翼的雰囲気と社会主義者たちの衝突で利益を得た。
 ロシェの病気によりやはり労働者階級出身のジャック・デュクロが1969年大統領選の候補となった。
 第1回では21.27%と労働者インター・フランス支部SFIOガストン・ドフェール(5.01%)に大差で3位につけた。
 1968年フィリップ・ロビリユが離党。(すでにセルヴァン・カサノヴァ事件の影響で中央委員会から追放されていた)
 1970年中央委員ロジェ・ガロディがローマ・カトリックとの和解の試みにより修正主義として追放された。
 後、ガロディはホロコースト否定主義者となり1998年有罪となった。
 他にシャルル・ティヨンらが追放される。
 1972年、ロシェの病気で技術者あがりのジョルジェ・マルシェが後を継いだ。
 マルシェは1970年から実質的に党を支配し、党を緩やかに自由化しながら、反対派、特に知識人を引き続き追放した。
 PCFはミッテランの新しい社会党PSと連合に入った。国会選挙のため1973年共同綱領に署名した。
 選挙での両党の差は縮小しPSの19%に対し、PCF21.5%となった。
 同年ソルジェニツィンの収容所列島が出版され党の印象悪化。
 1974年の大統領選挙(ミッテラン第2回49.19%でジスカール・デスタンに敗北)ではPCFはミッテランを支持した(第1回から候補ださず)。
 PSは1978年の国会選挙の敗北の責任でマルシェを批判した。1936年以来始めてPCFは左翼第1党の地位をPSに
譲った。
 1976年PCFはプロレタリア独裁を放棄しイタリア共産党のユーロコミュニズムに接近した。
 しかし依然モスクワに忠実であった。
 1978年、ソ連批判の著作を発表したニーナ及びジャン・ケアヤンは追放された。
 1979年、マルシェはアフガニスタン介入を支持した。
 1980年、ジャン・エランスタンが追放される。
 1981年大統領選挙ではマルシェが候補となりPSの右転回を批判した。
 第1回はミッテラン25%、マルシェ15%で第2回はPCFは支持者にミッテラン投票を呼びかけ51.76%でミッテランが
ジスカール・デスタンに勝利した。
 ミッテランのもとで1947年以来始めて政権に参加したが、結果的にこれはPCFをミッテランの改良主義政策に縛り付ける
こととなりPCFの穏健な支持者をPSに追いやることとなった。
 1984年、経済政策の変化に対し、PCFの閣僚が辞任したことが党の選挙での後退を加速した。
 1987年、ピエール・ジュカン追放。ジュカンは1988年大統領選でPSULCRSOS人種主義、毛沢東主義者などの支持を得る。
 1988年の大統領選挙でアンドレ・ラジョワニは6.7%しか獲得できなかった。
 1988年から1993年までPCFは社会党政権を争点により何度か支持した。
 1991年のソ連崩壊はPCFを危機に陥れたが他のヨーロッパの多くの党のように解散や党名変更を行わなかった。
 1994年、マルシェが引退し、労働者階級(職人)出身で専門職あがりのロベール・ユーが後を継いだ。
 ユーのもとで党は転換とよばれる過程に乗り出した。転換には党構造の完全な再組織化とレーニン主義教条からの移行が
含まれていたが結果的に斜陽のスピードを速めただけであった。
 複数左翼戦術により社会党のリオネル・ジョスパンのもとPCFは再び1997年から2002年まで政権に参加した。
 党は内部衝突により揺り動かされ、多くのグループが転換と社会主義者との共同政権に反対した。
 2001年、ユーは辞任し、初めて高等教育上がりのマリー・ジョルジュ・ビュフェ が指導者となった。
 2002年の大統領選挙で党は3.4%と初めてトロツキスト(アルレット・ラギエ、5.72%:LOとオリヴィエ・ブザンスノー、4.25%
:RCL)を下回った。
 大統領選で共産党の得票が低いのはPSの候補が確実に第2回投票に進める状況にないためPCF支持者で第1回投票から
SP候補へ投票する人が増えていることにも起因する。
 2002年大統領選では第1回でジョスパン16.2、シュヴェーヌマンMDC5.3%、ノエル・マメール緑5.2%、ユー3.4%、
クリスティアヌ・トビラPRG2.3%でジョスパンは3位で決戦に進めず、ル・パン(16.86%)が決戦へ進出。
 (ラギエ5.72%、ブザンスノー4.25%)
 ともあれPCFは1945年以降、1946年11月の28.3%を最高に低下し1958年に18.9%と底をうちそれからまた漸増し
1967年に第2回ピークの22.5%を記録し、1978年までほぼ20%台を維持していたが、1986年に9.78%と一気に
10%を切り、以降1997年までほぼ10%前後で2002年についに4.82%と大きく後退していったのである。

 2002年国会選挙では4.82%(第2回3.26%)で第4位21議席(567議席中)となった。
 PS24.11%(第2回35.26%、140議席)、4.51%(3.19%、3議席)、RCL1.27%、LO1.2%という結果であった。
 1990年代正統主義反対派は1991年にPCF内グループとして共産主義者調整59−62Coordinationを結成。
 これは社民化不可避とする再建派とまだ救済できるとする再生派に分裂、再生派は少数派となり1999年共産主義活動家調整CMC
を結成、更にジョルジュ・アージュらと2004年フランス共産主義再生の極(柱)PRCF結成。 
 再建派の一部から2004年フランス革命的共産主義者連合URCが生まれた。
 1996年第29回会議でジャン・ジャック・カルマンの左翼共産主義者、テレーズ・ヒンツブルグの41共産主義者アピール、
ローラン・ペリカンアンリ・マルタンらの500アッピールが形成され、2000年マルティグ会議で左翼共産主義者は党に留まり、
ローラン・ペリカンは離党し共産主義者結成、同様にテレーズ・ヒンツブルグの41共産主義者アピールも離党、モーリス・キュキエルマン
周辺の共産主義者調整多数派も離党。
 2000年5月ジョルジュ・アージュらが共産主義者統一全国集合CNUC結成、彼らは党に残ったアンドレ・ゲラン、アンリ・マルティンが
結成した活発な赤に参加。これらのうち党残留派はジャン・クロード・ダングロに結集(共産主義者活動家調整CMC)。
 他のグループはアンリ・マルタンと共産主義者再生共同全国連合FNARC結成。
 これらから2004年フランス共産主義再生の極(柱)PRCF(ジョルジュ・アージュレオン・ランディニジョルジュ・ガスト)が結成される。
 共産主義者調整59−62は2007年アンリ・バルビュスグループなどとと共産主義者サークル結集を結成。

 2004年の地方選挙は地域によって異なる戦術がとられた。単独で闘った地域もあれば市民選択、選択MARSなどと一緒に
闘った地域もあった。
 同年、PCFはヨーロッパ左翼党の結成に参加した。
 2005年のEU憲法制定条約の国民投票には緑や右翼のユーロ懐疑主義とともに反対を推進し勝利した。
 2005年秋の暴動への国家緊急事態宣言に対しては緑とともに反対した。
 国民投票の結果PCFはPSの左(LCRなども含む)の反リベラル左翼の結集に向かった。
 2006年の第33回党会議では国民投票で反対した左翼グループの結成した反リベラル左翼・共同候補結集発議全国集合
CIUNによって具体化された反リベラル結集という戦術を承認した。CIUNにはLCRも関わっていた。
 PCFはビュフェを候補にしようとし、LCRはブザンスノーを候補にしようとし一致がみられなかった。
 2006年にはPCFは活動家数では3番目の党で13万4千人、うち党会議での参政権者は約9万9千人であった。
 2007年の大統領選挙では国民投票での左翼反対票を期待したが、1.94%しか獲得できなかった。
 (LCRのブザンスノー4.08%、LOのラギエ1.33%)
 パリ周辺の伝統的赤いベルトでも得票は低かった。
 2007年の国会選挙では第1回4.29%(第2回2.28%、15議席)であった。
 緑は3.25%(0.45%、4議席)、LCRとLOは3.41%であった。
 共産党は議会グループ結成に必要な20議席確保のため、緑や他の左翼議員と左翼民主・共和主義GDRを結成した。
 ロベール・ユーは2008年進歩新空間(シンク・タンク)を創設し、2009年には進歩統一運動を結成し独自に社会党と選挙で提携。
 2008年PCFは左翼党、統一左翼、その他左翼との共闘路線を決定。
 2009年EU議会選は左翼党、統一左翼(反資本主義新党から分裂)と左翼戦線結成。結果は6.3%、4議席。
 2010年改革派の多く(ルシアン・セーヴなど)が去り、ある者は社会選択・エコロジー連合FASEに参加(パトリク・ブラウエゼック、ジャクリヌ・フレイスなど)。
 2010年全国書記がピエール・ローラン(1984−1986年共産主義学生同盟指導者、元ユマニテ編集員、)に代わる。
 共産党は2012年左翼戦線FG大統領選候補に左翼党のジャン・リュック・メランションを59%の賛成で選出アンドレ・カセニュ
支持が36.8%。
 2012年大統領選結果はメランション11.10%で第4位。緑のエヴァ・ジョリは2.31%、反資本主義新党のフィリップ・プトゥは1.15%、
労働者闘争LOのナタリ・アルトーは0.56%であった。
 国会選挙ではFGは第1回6.91%で結局10議席。このうち7議席がPCF(ビュフェ、カセニュら)。
 2013年、ピエール・ロランが100%の支持で全国書記に選出。
 2014年地域選挙では左翼党は社会党に対立し左翼戦線名簿に参加、一方PCFには社会党と提携した地域もあった。
 これでメランションとピエール・ロランの間に軋轢発生。
 2015年統一左翼がPCFに合流。
 2017年大統領選でメランションは左翼戦線外で出馬を表明、メランションは2016年スペインのポデモスを真似て不屈のフランスを結成。
 メランションとPCFの共闘はうまくいかず結局、PCFが独自支持のかたちとなる。大統領選の第一回でメランションは19.6%で4位。
 社会党のブノア・アモンは6.4%、5位に沈む。
 2017年の国会選挙では不屈のフランスFIと共闘がならず、484候補をたて多くはPCF−左翼戦線名簿で1回目は2.72%で10名選出。
 (ビュフェ、カセニュ、ジャン・ポール・ルコク、エルザ・フォシヨンら、全体に高齢化していてフォシヨンが1981年生)
 ステファヌ・プはFI名簿、議会では海外県の議員5名の計16名で民主共和左翼グループGDRを構成。
 2018年の10月の党の戦略方針の投票で全国書記のピエール・ロランの案が38%、アンドレ・カセニェとファビアン・ルセルが42%となる。
 翌月の党大会でファビアン・ルセルが全国書記となる。ルセルは活動家の家族出身でジャーナリスト、2017年から国会議員。
 左翼戦線と別れることを決定。
 2019年EU選共和主義と社会主義と2.49%。

 PCFの潮流(2008年末〜)
  民主集中制では本来内部派閥は禁止されているが、1994年の28回会議で民主集中制が放棄されてから複数主義
 をとり、事実上、内部諸潮流が発生した。
  多くのグループが党外グループとの結集を訴えている。

   ビュフェ派:ビュフェ周囲の党内多数派、党の大転換を必要と考える。社会党からの自立と左翼党、LCR選択
     などや社会運動との連合求める。
   再建派:ピール・ザルカロジェ・マルテッリなど、社会エコロジー選択連合に参加。、
     統一共産主義者パトリック・ブラウエゼック)もこのグループに近い。
     党形式を越えた社会運動に根ざした組織、非党員や別の国際主義者、絶対自由主義者、LCR出身者などの再結集を目指す。
   旧ユー派:マリー・ピエール・ヴィユら、第34大会で再建派のジャック・ラリテルシアン・セーヴらと手を結ぶ。
     シンク・タンクの進歩新空間を創設。新政治勢力創設によらない党の転換を必要と考える。
   改革派:マルシェ路線派、改革革命行動が関係グループ、PSからの自立とPCFに平衡のとれた新左翼連合との連携を目指す。
     イヴ・ディミコリ、ニコラス・マルシャンなど。ポール・ボッカラの思想採用。
   正統派:改良主義転換に反対、正統派の再結集を志向。マルクス主義者に基礎をもつ前衛党再建、社会党と衝突。EU連合反対。
     アンドレ・ゲランジャン・クロード・ダングロなど、そのほか左翼共産主義者ジャン・ジャック・カルマン、共産主義行動連合の
     ジョルジュ・アージュ
   反撃(リポスト):トロツキストの国際マルクス主義傾向と結びついているがLCRやLOをセクト主義と批判。

 2008年10月第34回大会では参加者78779名、投票者39692名(50.4%)で
   新しい世界を望み日常に建設しよう−ビュッフェ派:60.9%
   PCFを生き返へさせよう、我々の時代の要求−アンドレ・ゲランジャン・ジャック・カルマンマリ・クリスティヌ・ビュリカン
  カロリーヌ・アンドレアニ:24.0%
   共産主義と結びつけPCFを強化しよう−リポスト:15.0%
 12月の全国評議会選挙では873名参加者、844名投票で
   ビュッフェ名簿67.7%、マリー・ピエール・ヴィユ名簿16.4%、アンドレ・ゲラン名簿10.3%、ニコラス・マルシャン名簿5.6%
 2006年2月第33回大会
   多数派63.4%、ニコラス・マルシャン、イヴ・ディミコリ11.4%、共産主義者を誇る(アンドレ・ゲラン、ジャン・ジャック・カルマン)
  13.3%、PCFを階級闘争の軌道に戻す8.2%、怒りと希望(マキシム・グルメッツ)3.7%。
 2003年2月会議準備
   ビュフェ・ユー・再建55.0%、ジャン・クロード・ダングロ正統派23.6%、マルシャン/ディミコリ21.4%
 2001年10月大統領候補
   ユー77.4%、マキシム・グルメッツ15.3%、フランソワーズ・ドゥシャン2.7%など。

・モーリス・トレーズ(生1900−1964年没)
 1930−1964年党総書記、1945−1947年公共機能大臣、1947年副大統領。
 12歳で鉱山労働者となり1919年SFIO参加、すぐに共産党に参加し何度か投獄される。
 1923年党書記となり、1930年総書記となりスターリンの支持で以降死までその職を保持。
 1939年の党禁止後徴兵されたがソ連に逃亡し、死刑宣告されるが、1944年ド・ゴールにより恩赦される。
 第二次世界大戦後、党を平和路線にし、パルチザンに武器投降させる。

ワルデック・ロシェ(生1905−1983年没)
 靴職人の子、兵役を終えてから園芸職に就く。1923年共産主義青年同盟に加盟、翌年共産党加盟。1931年モスクワの党学校に通う。
 党解散後アルジェリアで逮捕されるが、連合国により解放される。1943年ロンドンの共産主義者代表となる。
 1945年政治局員となる。

・ジャック・デュクロ(生1896−1975年没)
 1926年国会議員となり、1950−1953年トレーズの病気で臨時総書記となる。これで競争相手のアンドレ・マルティ排除。
 1940−1944年の占領期の地下党の責任者。
 12歳で見習いパティシエとなる。1915年第1次世界大戦で負傷し、ドイツ捕虜となる。
 1920年共産党参加、1926年中央委員となり、以降長らくトレーズを支持。
 1969年病気のロシェに代わり大統領候補となり21.27%(共産党候補として最高)獲得。

・ジョルジェ・マルシェ(生1920−1997年没)
 貧しいカトリックの家庭に生まれる。1940年のドイツ侵入直前にヴォワザンの飛行機モーター工場の機械工となる。
 1942年ドイツに働きに行く。(この件でシャルル・ティヨンから自発的に行ったと批判を受ける。)ナチス崩壊でフランスに戻ったと思われる。
 1946年から組合指導者となり、1947年党員となる。1956年中央委補充委員となり、1959年政治局員となる。


民主・社会主義左翼連合FGDS)
 1965年大統領選でミッテランを支援するフランス左翼での共産主義者との平衡をとるための非共産主義者・左翼集団。
  ギ・モレのSFIO社会党
  ルネ・ビレレスの急進党
  民主・社会主義抵抗運動ルネ・プルヴァン、1945−1964年、CIR合流)とミッテランの共和国制度会議CIR(1964−1971年)
  ジャン・ポプラン社会主義者グループ・クラブ連合UCGS(1967年PSUから結成)
  アラン・サヴァリ左翼革新クラブ連合(1966−1969年) 
 よりなる。1968年解散。

複数左翼
 PS、PCF、緑、左翼急進党PRG、市民運動MDCが結成した連合。共同綱領はなかった。
 シラク大統領、ジョスパン首相の左右共存で1997−2002年まで政権の座。
 PCFの指導者がマルシェからユーに、緑の指導者がアントニ・ヴェシュテルからドミニク・ヴォワネに代わることで可能となった。
 複数左翼形成のため5小党(社会急進党PRS、MDC、緑、レユニオン共産党連帯・エコロジー集中)が急進・市民・緑RCVを形成。


フランス社会党PS 社会党の歴史
 1968年5月運動でFGDSは弱体化し、国民投票の敗北とド・ゴールからのフランス政治の別離でSFIOは1969年5月会議で社会党となる。
 1969年3月大統領選でのガストン・ドフェールとマンデス・フランス連合の敗北(ドフェール5.01%、ロカール3.6%)で党再建へ向かう。
 (ロカールとアラン・クリヴィーヌが5月運動を代表、アラン・クリヴィーヌ1.05%、ゴーリストの共和国のための連合のポンピドゥー44.47%、
キリスト民主のアラン・ポシェ23.31%、共産党のジャック・デュクロ21.27%でポンピドゥーとポシェの決戦、最終的にポンピドゥー勝利。)
 1969年7月、SFIO(新社会党、ギ・モレ、ピエール・モロワ、ガストン・ドフェール、シュヴェーヌマン)、親マンデスアラン・サヴァリ
率いる左翼革新クラブ連合ジャン・ポプラン社会主義者グループ・クラブ連合が合流した。
 ギ・モレの支持でアラン・サヴァリ(1969−1971年)が新書記になった。彼は共産主義者との思想的対話を提案した。
 2年後エピネ会議で親ミッテランの共和国制度会議が合流し社会主義者の統一なる。ミッテラン(1971−1981年第1書記)は共産主義者との
選挙綱領を提案し、サヴァリ−モレ連合を打ち破った。

 1970年フランス共産党と共同綱領に反対するエミール・ミュイェが元共産党のオーギュスト・ルクールらと民主社会党PDSを結成。

 1972年、”生活を変えよう”が綱領となり更にPCF、左翼急進党と共同綱領が署名された。
 1973年の選挙でPSは18.9%を獲得した。(PCF21.3%)
 1974年の大統領選ではミッテランが第2回で49.2%獲得した。
 1974年、ミッシェル・ロカールを含むPSUのメンバーがPSに参加した。彼らは左翼キリスト教と非マルクス主義者グループ
を代表していた。
 1977年、地方選挙でPSが上昇しPCFを不安にさせた。2党は共同綱領の更新に失敗し、マルシェはPSの右転を批判。
 1978年の選挙では左派連合は敗北した。(第1回得票は46.5%と45.2%であったが第2回は50.5%対49.2%で議席は287対200)
 1936年以来始めて社会主義者が共産主義者を凌いだ。
 1981年の大統領選ではミッテランが51.76%でジスカール・デスタンを打ち破った。
 ピエール・モロワ(1981−1984年)が首相となった。
 彼は議会を解散し多数派を獲得した。(第1回54.42%、第2回333議席(対158))
 リオネル・ジョスパン(1881−1988年)が第1書記となった。
 1984年、ミッテランとローラン・ファビウス (1984−1986年)は社会主義政策を放棄し共産主義者大臣は辞任した。
 PSは多数派の地位を失い、ミッテランは保守党のシラク政権(1986−1988年)と共存を余儀なくされた。
 それでも1988年、ミッテランは再選された。彼はロカールを首相にした。
 ピエール・モロワ(1988−1992年)が第1書記となった。
 ミッテランは内政を首相(ロカール:1988−1991年、エディット・クレソン:1991−1992年、ピエール・ベレゴヴォワ:
1992−1993年)に任せ外交と欧州再建に焦点を合わせた。

 ボリヴィアでゲヴァラのゲリラに参加しそのあとアジェンデのチリに渡った経験のあるレジス・ドブレがミッテランの外交
問題顧問となったが1988年辞任。

 1981年LCRの学生主要指導者ジュリアン・ドレイローランス・ロシニョールらがその周辺メンバーと社会党に移動。
 1986年、PCI学生活動家の多数が社会党に移る。ジャン・クリストフ・カンバデリ、マルク・ロザンブラ、フィリップ・ダリユラらがPCI
から社会党に移動。
 1995年にはLCRからジェラール・フィロッシュらが社会党参加。

 1990年のレンネ会議でミッテラン派はローラン・ファビウス(1992−1993年第1書記)とリオネル・ジョスパン(1995−1997年
第1書記)に分裂した。
 更にジャン・ピエール・シュヴェーヌマン率いる左派は湾岸戦争とマーストリヒト条約反対にし分裂、1993年、市民運動MDCを結成した。
 1993年の選挙でPSは1960年代のSFIOの水準に戻った。(第1回17.61%、第2回31.01%、53議席、1988年は260議席)
 ロカールが書記になった。1年後のEU選挙ではPSは14%しか獲得できなかった。
 アンリ・エマニュエッリ(1994−1995年)が書記となり大統領選候補はジョスパンがなったがシラクに敗北した。
(47.36%)
 PCF、左翼急進党MDC複数左翼を形成し1997年選挙で勝利し、ジョスパン(1997−2002年)は共存を行った。
 (第1回45.61%、第2回47.79%、577議席中320議席)
 シュヴェーヌマンの内閣からの辞任で連合は解消した。
 1997年、フランソワ・オランド(−2008年)が第1書記となった。
 2002年の大統領選では左派候補乱立でジョスパンは16.18%でル・ペンの16.86%に遅れをとり第2回に進めなかった。
 2ヵ月後複数左翼は国会議員選挙で敗北した。
 UMPUMPを中心とする大統領派は399議席、反対派は178議席で社会党は140議席。(共産党21議席)

 2004年のヨーロッパ憲法では社会党の59%は賛成したが、ローラン・ファビウスを含む、左派のアンリ・エマニュエッリ、
ジャン・リュック・メランションは反対にたった。
 2005年のル・マン会議では多数派は55%を得、ファビウス派(左派に連合)は20%、社会主義者新党グループ(左派政策推進)
は25%を獲得した。
 2007年の大統領選候補にはオランド、ファビウス、ドミニク・ストロス・カーン、ジャック・ラング、マルティヌ・オブリ、セゴレーヌ・ロワイヤル
らが候補として浮上した。
 2006年11月、ロワイヤル60%、カーン21%、ファビウス19%でロワイヤルが候補となった。
 2007年5月の大統領選は第1回25.87%、第2回46.94%でサルコジに敗北。
 2007年6月国会選挙では577議席中186議席。
 2009年EU議会選は16.48%、14議席(17議席減)と大敗、UMP29議席(12議席増)、欧州エコロジー14議席(8議席増)。

 2010年地方選挙は主に左翼急進党、MRC(共和主義・市民運動−シュヴェーヌマン派)と第1回から選挙連合を組み、ブルゴーニュ、
ブルターニュ、シャンパーニュ・アルデンヌ、ロレーヌ、下ノルマンディーでは第1回から共産党と選挙連合を組んだ。共産党は基本的に
左翼党と左翼戦線を結成、共産党が第1回から社会党と選挙連合を組んだ地域では左翼党はNPAと選挙連合を組み、共産党から分裂
参加もあった。ポワト・シャラントではロワイヤルがMoDemの候補をその名簿にいれた。
 左翼戦線は共産党、左翼党、統一左翼が結成し、これに選択、フランス労働者共産党、共和主義と社会主義、人民教育政治運動など
が場合により参加。左翼戦線はラングドック・ルシロン、リムザン、ペ・ド・ラ・ロワールで反資本主義新党NPAと選挙連合を組んだ。
 第1回投票はNPA−LOは662161票、3.40%(LOは最大1.6%前後を越えない)、国民戦線11.42%、極右(フランス党
共和主義民族運動同一性ブロック等)0.89%、民主運動MoDemグループ4.20%、欧州エコロジー12.18%、左翼戦線5.84%、
社会党グループ29.14%、大統領多数派(UMP、新中央NC)26.02%で投票率46.33%であった。

 党内は中道のMoDemフランソワ・バイルUDF後継)との連合強化のロワイヤル、複数左翼復帰のベルトラン・デラノエ
2005年以来の左派ファビウスに分裂している。

 ファビウス(ENS、Sciences Po等)、ジョスパン(ENA)、エマニュエッリ(Sciences Po)、オランド(Sciences Po、ENA)等とフランス
共産党と対照的にフランス社会党幹部はエリートたちである。

 仏版では2008年11月党大会以前には党内グループとして
  オランド周辺グループ 現代左翼ジャン・マリ・ボッケル)、社会主義者左翼(ジュリアン・ドレイ、ジャン・リュック・メランション)、
   新しい声ガエタン・ゴルス)、改革(マルティヌ・オブリ)、社会主義と民主主義ドミニク・ストロス・カーン)、ユートピア
   (アンドレ・ゴルツらの影響にあるPSと緑)など。
  社会主義者新党NPSグループ 社会主義者新党ブノワ・アモンヴァンサン・ペイロン)、社会主義者選択アンリ・エマニュエッリ
  左派結集グループ ローラン・ファビウス
 などがあげられている。

 フランソワ・フィロン政権にはベルナール・クッシュネル(社会党の各政権に閣僚参加、PCF、PS、PRGを渡り歩く、人道主義者)、
ジャン・ピエール・ジュイエロワイヤルに近い、種々の政権に関係、2008年11月市場金融庁に移り閣外へ)、エリック・ベソン
(2007年2月離党、サルコジ陣営に”左の柱”結成のため選挙運動参加、ロワイヤルと不仲)の3人の社会党メンバーが取り込まれた。
 サルコジはドミニク・ストロス・カーンをIMFに遠ざけた。

 2008年11月6日の党大会では6つの議案が競われた。

 ジェラール・コロンブの“希望の左翼、社会主義者の誇り”はロワイヤルの他、ヴァンサン・ペイヨンマニュエル・ヴァル
ジャン・ノエル・ゲリニマレク・ブティジャン・ルイ・ビアンコが支持。
 ドゥラノエの“光明Clarte、勇気、創造”はジョスパン、オランド、ロカール、エリザベト・ギグピエール・モスコヴィッチが支持。
 オブリの“フランス変革のための左翼変革”はファビウスアルノー・モンテブールジャック・ラングジャン・クリストフ・カンバデリ
ピエール・モロワマリリーズ・ルブランシュが支持。
 アモンの前進世界(モンド・ダヴァンス)はアンリ・エマニュエッリジャン・リュック・メランションマリー・ノエル・リエヌマン
マルク・ドレーズピエール・ラルチュール(2009年離党し欧州エコロジー参加)らの党左派が支持。
 エコロジーの極の“断固エコロジー社会党”はクリストフ・カレシュニコル・ブリック(上院)、グリーンピースのブリュノ・レベル
Netscouade(ロワイヤルのネット運動)創設者のベノワ・チューランらが支持。
 ユートピア運動フランク・ピュピュナの“社会主義者、別の国際主義者、エコロジスト“はミッシェル・マザラスが支持し別の国際主義者
に近く左翼急進党PCFLCR選択などの活動家も関係。

 結果はロワイヤル派(ジェラール・コロンブ)29.08%、ドゥラノエ派25.24%、オブリ派24.32%、アモン派18.52%、
エコロジーの極(柱)(クリストフ・カレシュ)1.59%、ユートピア運動(フランク・ピュピュナ)1.25%となった。
 投票数13万1860票で活動家の56.61%参加。

 ロワイヤルは中道MODEMとの連立強化を主張、パリ市長ベルトラン・デラノエジョスパンらに支援され複数左翼復帰を主張、
オブリ(リール市長、ジャック・デロール娘、35労働時間法推進)はローラン・ファビウスドミニク・ストロス・カーンらに支持され
ドゥラノエと同じ選挙戦略で、また欧州憲法の賛成・反対派の和解を主張。そして若い左翼のブノワ・アモン(欧州議会議員)。

 ドゥラノエは第1書記選不参加とオブリ支持を表明。
 第1書記選は11月20日の第1回投票ではセゴレーヌ・ロワイヤル42.9%、マルティヌ・オブリ34.5%、ブノワ・アモン、22.6%
となり、この結果アモンはオブリ支持を表明。
 21日の結果は42票差でオブリ50.02%、ロワイヤル49.98%でオブリが第1書記となった。

 党内グループとして

 ロワイヤル・グループ 
  光明(クレールclaire)路線 地方有力者集団(大都市市長、地方組織グループの指導者)が支持。
    ジェラール・コロンブ(リオン市長)、ヴァンサン・フェルテスジャン・ノエル・ゲリニマニュエル・ヴァルら。
  新しい声 ガエタン・ゴルスジャン・ルイ・ビアンコ
  社会主義者左翼 ジュリアン・ドレイ
  統一と再建 フレデリック・レヴェイエ
  未来の願望 ロワイヤル支持活動家グループ、弁護士ジャン・ピエール・ミニャール結成。
 オブリ・グループ サンドリーヌ・マドゥティエピエール・モロワアドリーヌ・アザンフランソワ・ラミなど
  改革 マルティーヌ・オブリ
  左翼結集 ローラン・ファビウス
  平等のための行動 ローラン・ファビウス代弁者のクロード・バルトローヌ率いる
  社会主義と民主 ドミニク・ストロス・カーンの代弁者のジャン・クリストフ・カンパデリ率いる
  今革新 アルノー・モントブール
 ドゥラノエ・グループ リオネル・ジョスパン、ミッシェル・ロカール、アルレム・デシールエリザベート・ギグーなど
  11月17日 フランソワ・オランド
  社会主義と民主主義 ピエール・モスコヴィッチ
 新社会党グループ
  社会主義者新党NPS ブノワ・アモン、アンリ・エマニュエッリ
  大望社会主義者  マリー・ノエル・リエヌマンポール・キレ
  欧州社会主義者革新 ジャック・ジェネル左翼党へ)
  民主と社会主義 ジェラール・フィロッシュ
  新左翼 ピエール・ラルチュール
  連合の矢Trait ジャン・リュック・メランション
  闘争者勢力 マルク・ドレーズ
   ジャン・リュック・メランションマルク・ドレーズはレイム会議後離党し左翼党結成。
 その他のグループ
  (ファビウス・グループ) マリー・ノエル・リエヌマンマリリーズ・ルブランシュクロード・バルトローヌなど
  ユートピア運動 レイム会議後離党し左翼党参加。
  エコロジーの極 クリストフ・カレシュジュヌヴィエーヴ・ゲイヤールなど

 2010年ピエール・モスコヴィッチが準備したフランスのための新しいモデルを提案。これは経済的、社会的、環境的発展の新しいモデルのために
というタイトルで、フランスは産業投資の公共の柱を持たねばならないとしている。これは共産党や反資本主義新党には評判が良かったが、中道の
MODEMには評判が悪かった。
 2011年州選挙は第1回では社会党29.54%、共産党7.91%、左翼党1.01%、欧州エコロジー・緑8.22%、極左0.58%、UMP16.97%、
多数派・新中道3.20%、国民戦線15.06%など、第2回は社会党35.43%で820総議席、共産党は4.82%で116総議席、欧州エコロジー・緑
2.73%で27総議席、議会左派全体では50.23%で1213議席、UMPは20.00%で369総議席で議会右派全体では35.56%で753議席、
国民戦線は11.57%で2総議席。
 大統領候補選のためマルティヌ・オブリが第1書記を辞任しアルレム・デジールが臨時第1書記となる。(候補選挙後オブリ復帰)
 大統領候補選は第1回フランソワ・オランド39.17%、マルティヌ・オブリ30.42%、アルノ・モントブール17.19%、セゴレーヌ・ロワイヤル6.96%
マニュエル・ヴァル5.63%、この結果モントブールロワイヤルヴァルがオランドを支持、第2回はオランド56.57%、オブリ43.43%となる。
 2012年4月22日の大統領選挙第1回投票ではフランソワ・オランド28.63%、ニコラス・サルコジ27.18%、国民戦線マリ・ル・パン17.90%、
左翼戦線ジャン・リュク・メランション11.11%、民主運動フランソワ・バイル9.13%、緑エヴァ・ジョリ2.31%となる。
 トロツキストは反資本主義新党のフィリップ・プトゥが1.15%、労働者闘争LOのナタリ・アルトが0.56%。
 エヴァ・ジョリ、メランション、フィリップ・プトゥらは第2回投票でのオランド支持を呼びかけるが、ル・パン、ナタリ・アルトはどちらも支持せず。
 バイルは個人としてはオランドに投票する事を発表。
 第2回投票はオランド51.62%、サルコジ48.38%でオランドの勝利。
 オランドはジャンマルク・エローを首相に任命。
 第1次エロー内閣には欧州エコロジー・緑EELVからセシル・デュフロ、左翼急進党からクリスチャーヌ・トビラシルヴィア・ピネルなどが参加。
 特別問題担当大臣ministre delegueに韓国人里子のフルール・ペルランがなる。
 国会選挙は577議席に対し極左はLOは552選挙区、NPAは339選挙区、POIは106候補、左翼戦線は547選挙区に参加。
 一方社会党はEELV60、左翼急進党32、MRC9選挙区を支援。
 その結果第1回では極左0.98%、左翼戦線6.91%、社会党29.35%、左翼急進党1.65%、EELV5.46%、右派はUMP27.12%、
FN13.60%など。左派は46.77%(左翼戦線含む)、右派は34.07%(FN除く)。
 第2回(登録者の12.5%以上獲得者、ただし左派間では左派順位2位は左派1位当選のため2回目辞退する慣例)では社会党40.91%で
結局280議席獲得、EELV(欧州エコロジー緑)は3.60%、17議席、左翼急進党2.34%、12議席、MRC3議席、左翼戦線1.08%、10議席、
その他はUPM37.95%、194議席、国民戦線FNは3.66%、2議席。
 セゴレーヌ・ロワイヤルは落下傘選挙で社会党分裂選挙となり党から追放されて立ったオリヴィエ・ファロルニに敗北(62.97:37.03)。
 伝統的左派地盤のパ・ドゥ・カレー11区では国民戦線党首マリーヌ・ル・パンと左翼党ジャン・リュック・メランションが立候補し、第1回でル・パン
が42.22%、社会党フィリップ・クメル23.72%、メランション21.46%となり、第2回はクメル50.11%、ル・パン49.89%で辛勝(メランションは
左派勝利のため撤退)。
 国会選挙後の第2次エロー内閣も社会党、欧州エコロジー緑、左翼急進党の連立内閣。
 2012年党大会では、5つの議案が出る。
   変革成功のためフランス動員:デジール、ギョーム・バチュレが提案し、オブリ、ジャンマルク・エロー支持。67.87%。
   原理の疑問:ジュリエット・メアデル提案、ガエタン・ゴルス支持。5.13%。
   左翼維持:エマニュエル・モレル提案、ジェラール・フィロッシュ、マリ・ノエル・リエヌマン、ジェロム・ゲジユートピア運動支持。
          この提案はPS左派の前進世界を結集。13.28%。
   より遠く、より速く挑戦:ステファヌ・エッセル提案、ピエール・ラルチュル支持。ルーズヴェルト集合(2012年ピエール・ラルチュル創設)に依拠。
          11.78%。
   トゥルーズ、わが会議:コンスタンス・ブランシャール提案。社会と共鳴者に開かれたより革新的で民主的な党を主張。1.36%。

 第1書記選はデジール72.52%、エマニュエル・モレル27.48%でアルレム・デジールが第1書記となる。
 アルレム・デジールは1980年代、SOS人種主義の指導者。

 潮流
  デジール動議支持
   改革(オブリ)
   左翼結集(ローラン・ファビウス)
   左翼に答える(オランド派)
   社会主義と民主主義(ジャン・クリストフ・カンパデリ)
   左翼要望(ピエール・モスコヴィッチ)
   バラとレセダ(アルノ・モントブール)
   前進世界(アモン、エマニュエッリ)
  モレル動議支持
   アンビション社会主義者(マリー・ノエル・リエヌマン)
   民主と社会主義(ジェラール・フィロッシュ)
   左翼社会主義者(ジュリアン・ドレイ)
  エッセル支持
   新左翼(ピエール・ラルチュール
   ユートピア運動(緑と左翼急進党の存在)
  メアデル支持
   新しい声(ガエタン・ゴルス)
  ブランシャール支持

 2014年地方選は議会右派(中道含む)105840議席、左派72624議席、国民戦線1498議席、極右102議席、極左64議席。(仏語ウィキペディアによる)
 2014年地方選での左派の敗北のあとオランドは首相をマニュエル・ヴァルに代える。アルレム・デジールの入閣で第1書記はジャン・クリストフ・カンパデリ
と交代。ジャン・クリストフ・カンパデリはかつてランベール派トロツキストの中心的活動家。
 ヴァル内閣には欧州エコロジー緑は参加せず、セゴレーヌ・ロワイヤルが環境・持続発展・エネルギー相として入閣。
 ヴァル内閣信任に対しアンリ・エマヌエッリ、プリア・アミルシャイ、ジェロム・ゲジ、バルバラ・ロマニャンら11名の社会党議員と緑議員では6名が棄権、1名反対。
 第2次ヴァル内閣信任では32名の社会党議員が棄権。
 EU議会選は13.98%、13議席(1議席左翼急進党)で国民戦線24.86%、24議席、UMP20.81%、20議席の及ばず。中道の選択が9.94%、7議席、
緑が8.95%、6議席、左翼戦線が6.61%、6議席。極左ではLOが1.17%、NPAが0.39%。

 2015年ポワティエ会議での潮流は
   ジャン・クリストフ・カンパデリ動議
     クロード・バルトロヌ、ジャン・マルク・エローとヴァル内閣メンバー
     マルティヌ・オブリ
     ジェラール・コロン、クリストフ・カレシュ
   クリスチャン・ポル動議
     エマニュエル・モレル、マリノエル・リエヌマン、ジェロム・ゲジ、ジェラール・フィロシュ
     ブノワ・アモン、ギヨーム・バラ、プリア・アミルシャイ、バルバラ・ロマニャン
     オレリ・フィリペッティ
     リエム・ホアン・ゴク
   フローランス・オギエ動議
   カリーヌ・ゲルジェ動議
     ヴァレリ・ラボー、ヤン・ガル、アレクシス・バシュレー
結果は、ジャン・クリストフ・カンパデリ動議60.04%、クリスチャン・ポル動議28.46%、カリーヌ・ゲルジェ動議9.5%。
 第1書記選はカンパデリ70.07%、クリスチャン・ポル29.93%。

 ローラン・ボメル(旧シュヴェーヌマン派)、ブノワ・アモン、バルバラ・ロマニャン、ジェロム・ゲジ、オレリ・フィリペッティらの
フロンド(投石手)派がヴァル内閣の経済路線(社会リベラルとする)に反対し、2015年予算に39名の社会党議員が棄権。

 2017年1月大統領候補戦が行われ、これには民主エコロジスト連合UDE(2015年結成)、エコロジスト党PE(2016年結成)、
民主戦線FD(2014年結成)、左翼急進党FRGも参加。
 2回目投票でブノア・アモン58,7%、マニュエル・ヴァル41.3%でブノア・アモンが候補となる。
 離反者の元経済大臣のエマニュエル・マクロン陣営への参加でPSは弱体化。左からはメランションに追迫される。
 EELV候補のヤニック・ジャドはアモンのため大統領選撤退。
 結果は第一回投票6.36%で1位マクロン24.01%、2位マリヌ・ル・パン21.30%、3位フランソワ・フィヨン20.01%、4位メランション19.58%
に次ぐ5位。

 国家議員選挙ではわずか31議席(第一回7.44%)に後退。マクロンの共和国前進308(28.21%)、共和主義112(15.77)、民主運動42(4.12%)
不屈のフラン(スFI)17(11.03)、民主独立連合18(3.03%)、共産党10(2.72%)、国民戦線8(13.20%)。
 マニュエル・ヴァルは共和国前進グループに参加。
 2017年7月1日、ブノワ・アモンは選挙で落選し社会党を去り、7月1日運動(後:世代Generation−運動)を結成。
 パスカル・シェルキ、元青年社会主義者代表のロラ・スリナミ、MEPのイサベル・トマ、ギヨーム・バラがこれに参加。
 国会議員選敗北でジャン・クリストフ・カンパデリが辞任表明。
 上院選では38議席で共和主義66議席に次ぎ、中道連合UC26議席、共産党系13議席、急進系12議席、LREM11議席など。

 2018年4月党大会でオリヴィエ・フォールが党第一書記となる。
 多くの人物が共和国前進に加わる。
 10月には左派のマリ・ノエル・リエヌマンとエマニュエル・モレルが去り、メランションと結集のため共和・エコロジストと社会主義者プログラムのための選択
左翼共和主義者と社会主義者GRSに合流)結成。
 2018年9月時点で議会構成は(下院)577議席中、前進306、共和主義104、民主運動46、社会党系29、FI:17、GDR(共産党系)16など。
 2019年EU選は公共場PP(2018年発足)、新分配ND(2013年結成)、左翼急進党PRGと提携し、6.19%、5議席。
 選挙ではPPのラファエル・グリュックスマン(アンドレの息子)を首位に据えた。
 2020年、ジャン・イヴ・ル・ドリアンとオリヴィエ・デュソプト、ギレ・サヴァリらが旧社会党のマクロン支持派結集のため進歩領域TP形成。

(主な党内グループ)

・(社会主義者新党NPS)
 2002年にジュリアン・ドレイ(左翼社会主義者)、アルノ・モントブールヴァンサン・ペイヨン、ブノワ・アモン(新左翼)、
クリスチャン・ポールらが結成、2003年ディジョン党会議でデビュー、左派に位置し社会リベラルを批判、この会議後
ジュリアン・ドレイが去る、他の左翼社会主義者ジェラール・フィロッシュなど)は留まる。2005年のマン会議では多数派への
対抗議案提出。ジェラール・フィロッシュが社会主義者選択に移る。アンリ・エマニュエッリが合流。オランドは指導者を全国書記局
に受け入れる。アルノ・モントブール、クリスチャン・ポールらが今革新結成のため去る。ブノワ・アモンらの新左翼グループ留まる。
 ヴァンサン・ペイヨン、ブノワ・アモン、アンリ・エマニュエッリが社会主義者選択、新左翼との結集を確認。
 レーヌ大会(2008年)で解体、ヴァンサン・ペイヨンがロワイヤルを支持し、アモン、エマニュエッリは前進世界を結成。
 2012年大会は前進世界はデジール支持、一部モレル支持。

前進世界
 ブノワ・アモン、アンリ・エマニュエッリのほかジェラール・フィロシュの民主と社会主義、マリー・ノエル・リエヌマン
マルク・ドレーズ、ジャン・リュック・メランションらが参加し2008年レイム大会で結成。会議中マルク・ドレーズ、ジャン・リュック・メランショが
党を去る。
 2012年大会ではアルレム・デジール動議支持するがマリノエル・リエヌマン、エマニュエル・モレルが去り今左翼を結成。

今左翼
 前進世界の一部、ユートピア運動、ジェラール・フィロッシュらが結成。
 今左翼はヴァル内閣に反対し、フロンド派と呼ばれる。

今革新
 2005年アルノ・モントブールが結成。NPSの80%近くが参加したとされる。セゴレーヌ・ロワイヤルを支持。

・(社会主義と民主
 2001年旧ロカール派とジョスパン派を結集、2002年以来ドミニク・ストロス・カーンに近い。2008年、アルノ・モントブール今革新
と統合。社会リベラル主義(ブレア主義)を拒否、左翼保守主義に反対。シンク・タンクヨーロッパ左翼に近い。
 2008年今革新に合流。
 青年社会主義と民主主義青年社会主義者運動内グループ)が青年組織。

・(左翼社会主義者
 1998年、ジャン・リュック・メランションマリー・ノエル・リエヌマン、ジュリアン・ドレイらが結成。
 ロカール政権のジャン・マリ・ロシュジャン・ピエール・ソワソンらの中道政治家への開襟に反対して結成。
 2002年大統領選の余波で分解、ジャン・リュック・メランション、アンリ・エマニュエッリは新世界結成、残りの多くは社会主義者新党NPS結成。
 新世界は2004年EU憲法反対でこの後分裂しアンリ・エマニュエッリが社会主義者選択結成、2008年レイム会議では新世界は前進世界合流。

・(民主と社会主義
 1995年社会党に参加したジェラール・フィロッシュらのLCR来歴のグループに由来する、ジャン・リュック・メランションらの左翼社会主義者のグループ。
 2003年ディジョン会議に面し左翼社会主義者はNPS動議派と新世界動議派に分裂。
 NPS分裂で2005年ジェラール・フィロッシュのグループとマルク・ドレ(−ズ)のグループ合流しかし2007年大統領選で不和。
 レイム会議前にブノア・アモンの前進世界に合流。マルク・ドレ(−ズ)は離党し左翼党参加。

・(新左翼
 青年社会主義者運動の多数派、NPS系。マン会議(2005年)後NPSに解消。1993年ブノワ・アモンらが結成、
 ロカール派あるいは左翼キリストと評され、マルティヌ・オブリに近い。
 新左翼青年社会主義者選択への合流で左翼転換が派生、青年社会主義者運動の多数派となる。

・(社会主義者選択
 2005年ヨーロッパ憲法条約反対運動からアンリ・エマニュエッリジャン・ピエール・マスレマルク・ドレーズミッシェル・ヴェルニエ
ジェラール・フィロッシュらが結成。旧新世界(2002年、アンリ・エマニュエッリ、ジャン・リュック・メランションが左翼社会主義者から分裂)
、ジェラール・フィロッシュに従うNPSのグループも存在。
 2005年会議後アンリ・エマニュエッリのグロープとジェラール・フィロッシュのグループに分裂。
 2008年NPSのグループを再結集し前進世界参加。


党大会の歴史   詳しくはこちら

青年社会主義者運動
 1993年結成、初代議長ブノワ・アモン(1993−1995年)。
 1999年大会では新左翼(ブノワ・アモンらが結成の)周辺の多数派、社会主義左翼(ジュリアン・ドレイ、ジャン・リュック・メランション
  に近い)、複数(ジャン・クリストフ・カンバデリに近い)の3グループが議案提出。
 2005年大会は
  左翼選択・闘争世代(A) 2005年パリ大会の72%
   左翼転換ラジー・アマディ、旧新左翼)、青年社会主義者選択アンリ・エマニュエッリに近い)
  青年社会主義者の闘争(B) 15%
   改革主義者集中社会主義と民主主義ドミニク・ストロス・カーンに近い)
  未来左翼、希望再付与(C) 12%
   JUSTICE(セゴレーヌ・ロワイヤルフランソワ・レブスマンに近い)、社会主義者左翼(ジュリアン・ドレイに近い)、ERASME
    (オリヴィエ・フォレに近い)、ユートピアフランク・ピュピュナに近い)
  採決不参加
   平等青年社会主義者ローラン・ファビウスに近い)、民主と平等(ポプラン主義アラン・ヴィダリに近い)、連合の矢Trait
 2006年全国評議会でA、B支持のなかから改革青年社会主義者今革新に近い)出現。

 *労働者インターフランス支部SFIOの青年組織青年社会主義者は1905年のSFIO結成から遅れ1912年結成。
  1920年分裂多数派(75%)は共産主義者となる。青年社会主義者の組織崩壊。
  1920年代末、青年左翼知識人により赤い大砲Faucons rouges(社会主義インター系国際運動組織)が結成され、
 レオポルド・セダール・サンゴールクロード・レヴィ・ストロースジョルジュ・ポンピドーらが参加。
  1924年共和・社会主義大学行動同盟が結成される。
  1934年からのSFIOへのトロツキストの加入で1935年マルソー・ピヴェール周辺に革命的左翼が形成される。
  1938年SFIOは革命的左翼を解散させマルソー・ピヴェールを追放。彼らは農民・労働者社会党結成。
  解放後SFIO支配で青年社会主義者JS再建。JSは植民地戦争、特にインドシナ戦争に反対。
  1947年ルノー工場大ストライキ、JSはラマデェに反対。ステファヌ・ジュストが追放されPCI参加。
  ギ・モレが青年社会主義者解散。青年社会主義者は革命的民主結集(サルトル、ダヴィド・ルセ、1948年結成)に参加。
  1950年初めピエール・モロワレオ・ラグランジェ連合として再建。モロワはギ・モレに近くアルジェリア戦争に沈黙。
  ピヴェール派とブルム派が分裂、1958年独立社会党エドワール・デプル)結成に参加。
  1970年代初期ミッテランが青年社会主義者JSと学生社会主義者ES再結成を推進。1975年CERESにより率いられるJSに対し
 ミッテランはエディット・クレソンを送りこみ把握に努力。組織は兵士の権利情報SOS人種主義UNEF−IDリセ独立民主連合
 FIDL(1987年デヴァケ計画反対運動により結成、フランソワ・ドゥラピエールカリーヌ・セリエデルフィーヌ・バトが1988−1992年
 に委員長となる。)に展開。
  1992年ロカールはJSを独立化させ、青年社会主義者運動を創設。

学生運動経験活動家  詳しくはこちら
  旧ランベール派のジャン・クリストフ・カンバデリと旧LCRのジュリアン・ドレイが双璧である。

フランソワ・ミッテラン
 ミッテランは戦後、1946年6月国会選挙に左翼共和結集急進党民主・社会主義者レジスタンス連合UDSRなどが結成)
RGRの名簿で参加したが当選しなかった。これは3党連合(PCF、SFIO、MRPキリスト教民主)に反対した。
 1946年11月選挙で当選、UDSRのメンバーとなった。1947年、彼はラマディエ内閣に入閣した。
 彼は第4共和制で色々の内閣に参加している。
 1954年にはマンデス・フランス内閣で内相となった。1956年にはギ・モレ内閣入閣。
 1958年、ミッテランはドゴール復帰に共産党やマンデス・フランスらと反対した。
 1959年上院議員に選ばれ民主左翼グループに参加した。
 1962年、彼はPCFとSFIOの支援で国会に再当選した。彼はドゴール支配に挑戦するためPCFを含む左翼連合を支持した。
 1965年、小組織CIRを率いて大統領選で左翼の唯一の候補となった。彼は第1回で31.72%を獲得、MRPジャン・ルカニュエ
 の15.57%を上回った。(ドゴール44.65%)。第2回は45.510%であった。
 この結果、左翼民主・社会主義者連合FGDSの指導者となった。
 1969年はギ・モレはSFIOが支持することを拒否し、ガストン・ドフェールを候補とし、PCFはジャック・デュクロを候補とした。


現代左翼
 2007年9月、ジャン・マリ・ボッケル結成の中道左派政党。社会リベラルと称す。サルコジ支持連合の左派。
 2001年クラブとしてジャン・マリ・ボッケルが創設。マリ・ボッケルは2007年6月フランソワ・フィロン政権秘書官となるがもともとは
シュヴェーヌマンに近かった。大統領選ではロワイヤル支持。
 2009年EU選ではUMP名簿で2MEP獲得。

社会民主党PSD〕
 1970年フランス共産党と共同綱領に反対するエミール・ミュイェが元共産党のオーギュスト・ルクールらと民主社会党PDSを結成。
 1971年PDSは社会民主党PSDとなる。1972年エミール・ミュイェオーギュスト・ルクールが仲違いしルクールらがPSDを去る。
 1972年マクス・ルジュヌが総社会主義民主運動結成。
 1973年選挙で社会民主党PSDは急進党(ヴァロワ)などの中道結集の改革運動に参加。
 1973年社会民主党PSD分裂者が民主社会党PDS結成。
 1973年社会民主党PSD、総社会主義民主運動、民主社会党PDSがフランス社会主義民主運動結成。
 1974年大統領選でエミール・ミュイェが候補となり、176279票、0.69%獲得。
 1974年マクス・ルジュヌが委員長、エミール・ミュイェジョルジュ・ドネらが副委員長、シャルル・バウエルらが総書記となる。
 1978年選挙ではフランス民主運動UDFに参加、1982年社会民主党PSDとなる。1995年民主・社会中道CDSと民主勢力結成。
 民主勢力は1998年新UDFに参加。
 2007年UDF内の元PSD指導者アンドレ・サルティニらが民主共和社会サークル結成。


左翼党PG〕
 2008年11月7日の社会党レイム大会での議案で多数派を形成できず、ロワイヤルの中道連合派が多数派を形成する
とみた左派のジャン・リュク・メランションマルク・ドレーズらはただちに離党し、彼らはPCFから好意的に見られた。
 メランションは元はランベール派国際主義共産主義者組織OCIに参加、1977年社会党に入ってきた。
 12日ドイツの左翼(ディー・リンケ)にならって左翼党結成と結成会議の2009年2月7日開催を発表。
 メランションの社会共和主義のためにPRSとドレーズの闘争者勢力のほかに労働組合活動家クロード・ドゥボン、エリック・コケレルの
MARS共和主義左翼が新党結成に関与。地方議員からも意志表明があった。(パリ市ではアレクシス・コルビエール、ダニエル・シモネ)
 更に社会共和国のためにPRSガブリエル・アルマール、グラベル市長の元社会党のルネ・ルヴォル

 更に18日、PCFと現実のヨーロッパとリスボン条約正当化に反対し別の民主的社会的ヨーロッパのための左翼連合結成を
発表し、この連合はヨーロッパ憲法反対に参加したすべての政党に開かれておりオリヴィエ・ブザンソン反資本主義新党
シュヴェーヌマン共和主義・市民運動選択に参加するように訴えた。
 22日社会党第1書記選挙のあと、ユートピア運動を率いるフランク・ピュピュナ、またNPS派で社会党全国評議会メンバーの
ジャック・ジェネルが左翼党参加を発表。
 更にテルニエの下院議員・市長で多様左翼(独立左翼、もともは市民運動MDC)のジャック・デサラングルあるいはピエール・カラシュ
市民・共和主義運動MRCの上院議員のフランソワ・オタン(コペルニクス財団のクレマンティヌ・オタンのおじ)が参加。 (いずれも
シュヴェーヌマン派)

 以上の結果セナート(上院)はメランション、フランソワ・オタンとなり共産主義者・共和主義・市民に参加、国民議会(下院)では
ドレーズデサラングルとなり、左翼民主・共和主義に参加。(いずれもPCFを中心とする議員会派)
 11月29日の第1回会議はリンケオスカル・ラフォンテーヌが出席、更にPG以外ではピエール・ジョクス(社会党政権で大臣)、
議員マルティヌ・ビラールクレマンティヌ・オタンジャン・フランソワ・カーンらが出席。
 12月初めの会合には選択独立労働者党POI、統一集合全国調整CNCU、反資本主義新党NPA、MRC統一労働組合連合
FSU、SUDCGTCFTCが参加。

 左翼戦線の提案は最初、選択、CNCUからは好意的に受け入れられ、POI、NPAは留保、MRCは社会党との左翼戦線希望。
 しかし選択は留保、CNCUは社会エコロジー選択連合のメンバーのため消極的、POI、NPA、労働者闘争LOは非参加、LCRの
少数派統一Unirクリスチャン・ピケに率いられ分裂し新党統一左翼.を結成し、左翼戦線参加。
 結局EU選のための左翼戦線はフランス共産党、左翼党、統一左翼、旧MRC離脱者の共和と社会主義結集グループと
社会主義民主選択(1994年、共産党、社会党、市民運動、LCRなどの旧メンバー結成の進歩主義者選択会議の地域組織)のような
地域グループで構成された。
 2009年欧州議会選挙ではメランションが当選。7月マルティーヌ・ビラールが緑を去って左翼党参加を表明、約300の活動家が従う。
 党大会でエコロジー、社会主義、共和主義路線が表明される。
 2011年反資本主義新党第1回大会のあと反プレカリアート(不安定労働)闘争集合”呼び出しとつるはし”L'appel et la pioche
(2009年創設)の活動家レイラ・チャイビとマエル・ゴプフェルトがNPAを去り左翼党に参加
 2012年反資本主義新党NPAからミリアム・マルタン反資本主義左翼とともに左翼戦線に参加。

 結成政治組織は連合の矢Trait(メランショングループ)、闘争者勢力社会共和主義のためにMARS共和主義左翼
進歩左翼運動(サルトで活動する政治組織)。

 2012年大統領選はジャン・リュク・メランションが左翼線線の候補とし11.10%で4位につける。
 2014年地域選挙では左翼党は多くで左翼戦線名簿を望むがPCFは一部で社会党と提携。
 EU選はPCFと左翼戦線を組みメランションが当選。
 2014年メランション(マルティーヌ・ビラールと共同)が指導者(政治調整者)の地位をエリック・コクレル(LCR→MRC)に譲る。
 2016年スペインのポデモスや米国大統領選のバーニー・サンダースに刺激されてメランションは不屈のフランスFIを立ち上げる。
 2017年の大統領選ではメランションはPCFと正式提携はできいなかったが支持を受け、EELVの一部やアンサンブル、不屈社会主義者(リエム・ホアン・ゴク)
やその他極左の支持を受ける。結果19.58%で4位。
 議会選挙は不屈のフランスFIで17名(メランション、コクレルら)。このうち6名が運動の責任者で、9名が活動家、また3名がPCF、2名がDVGが支持。
 EU選挙に際しヨーロッパ左翼党から去り、今人民(スペインのポデモス、ポルトガルの左翼ブロック結成)に参加。
 今人民には更にスウェーデン左翼党、フィランド左翼連合、デンマーク赤緑連合が参加。
 選挙ではFIから立った。FIは左翼共和主義者と社会主義者GRSと提携。
 GRSは共和主義・市民運動MRCと共和・エコロジストと社会主義者プログラムのための選択が2019年結成。
 2019年EU選ではFIはマノン・オブリを主導者として6.31%、5議席獲得、うち1議席はGRS。
 (仏版ではFIとして、FI、PG、GRSとMRC)


左翼戦線
 2009年EU議会選挙のため結成。
 フランス共産党PCF、左翼党、統一左翼(反資本主義新党から分裂、クリスチャン・ピケ)、共和主義と社会主義(MRCから分裂)と
進歩主義者選択会議CAPが中心で結成。他にいくつかの地域政治連合が参加。候補の33.5%がPCF、23%が左翼党。
 結果は6.3%、4議席。
 2010年地方選挙では左翼戦線は11地域で97議席、共産党はそのうち66議席で左翼戦線外での31議席を足しても前回から83議席失う。
 左翼党は9地域で17議席、統一左翼はクリスチャン・ピケら7議席。それに対しNPAはリムザンで2議席獲得。(66+17+7+2でも97とならない)
 (共産党の項では前回185から今回96議席と共産党の議席に若干の食い違いがある。)
 この選挙では選択人民教育政治運動MPEP、フランス労働者共産党なども参加。

 2011年社会選択とエコロジー連合FASE、収束・選択フランス労働者共産党が参加。
 2012年大統領選は左翼党のジャン・リュク・メランションを候補とし11.10%で4位につける。
 緑のエヴァ・ジョリは2.31%、反資本主義新党のフィリップ・プトゥは1.15%、労働者闘争LOのナタリ・アルトーは0.56%であった。
 国会選挙は第1回6.91%で、結局10議席獲得。このうち7議席がPCF(ビュフェ、カセニュら)。FASE2議席(ジャクリヌ・フレスら、いずれも元PCF)
およびマルク・ドレーズ。議会ではその他5名(マルティニク独立主義者運動2名、レユニオン運動、ギアナ社会党など)と民主左翼・共和主義を結成、
 2012年の参加組織は 
  PCF
  左翼党PG
  統一左翼GU
  共和主義と社会主義
  FASE
  収束・選択
  フランス労働者共産党PCOF
  反資本主義左翼GA(2012年NPAから分裂)
  選択
 その他人民教育政治運動MPEP、選択・民主・社会主義ADS(1992年マルセル・リグらPCF離脱者結成)なども支持。

 2014年の参加組織はPCF、PG、社会選択とエコロジー連合、共和主義と社会主義、収束・選択、PCOF、GA、選択など。これらの多くのは2013年、
アンサンブルに参加。
 アンサンブルは選択、収束・選択、社会選択・エコロジー連合、GAと個人活動家が発足させる。
 2014年、統一左翼は左翼戦線参加を中止。
 2016年メランションは提携を放棄し、不屈のフランス結成。PCFも2018年去った。

[世代S]
 社会党のブノア・アモンが2017年、党を去り結成。2019年EU選は3.27%。


労働者インター・フランス支部SFIO
 1871年3月のパリ・コミューンの失敗のあとフランス社会主義は厳しく弱体化した。指導者は殺されるか追放された。

 ジュール・ゲードは1878年、マルクスの理論によりフランス社会主義労働者党連合FPTSFを結成。
 1880年FPTSFはマルクス、ジュ−ル・ゲードポール・ラファルグによる綱領を採用。
 1881年の選挙の敗北で幹部のゲード派と活動家多数派で具体的社会主義改良を支持するポール・ブルスのグループに分裂。
 1882年ゲード派は労働者党結成。これは1893年フランス労働者党POFとなる。
 1882年FPTSFはフランス社会主義労働者連合FTSFとなりこれはポール・ブルス派の社会主義改良の党となった。

 ポール・ブルース率いるFTSFは漸進的改良を擁護したのでポシビリスト(可能主義者)とされ、POFはマルクス主義を推進した。
 一方、ルイ・オーギュスト・ブランキの後継者は1881年、エドワール・ヴァイヤン率いる中央革命委員会CRCを結成、1898年
これは革命的社会党PSRとなる。
 1889年カール・マルクスの影響のもと第2インターナショナルが結成される。
 1890年、FTSFの選挙主義に不満な全国ストライキ派、ジャン・アルマヌ革命的社会主義労働者党POSRを結成した。
 1890年、ブルジョア政権への関与をめぐって社会主義運動の間で議論が起こった。
 ゲードはブルジョアジーの内紛に関わるべきでないという意見で一方ジャン・ジョレスは共和主義を守る立場から関与すべき
という意見であった。
 1892年は5傾向に分裂、ポシビリスト(ポール・ブルス)、アルマヌ派(POSR)、独立社会主義者ジャン・ジョレス
アレクサンドル・ミルラン)、ゲード派(POFジュール・ゲードポール・ラファルグ)、ブランキスト(PSRエドワール・ヴァイヤン)。
 1901年には左派:ヴァイヤンゲード、右派:ジョレスブルスの2派対立。

 1897年POSRからアルチュール・グルシエらの革命的共産主義者連合ACRが分裂。
 1901年エドワール・ヴァイヤンPSR、ACR、ジュール・ゲードポール・ラファルグPOFフランス(の)社会党PSdFを結成。
 一方、ジャン・ジョレス独立社会主義者ポール・ブルス率いるFTSF、ジャン・アルマヌのPOSRが合流し1902年、
フランス(人)社会党PSFを結成した。

 1905年、第2インターナショナルの圧力により両者は合流し労働者インターナショナルフランス支部SFIOとなった。
 これはリベラルの急進党と労働組合を支配する革命的サンディカリストの間に割って入り、労働総連合CGTは独立を
宣言し、政治的目標と職業的目標を区別しなかった。
 1906年の選挙で9.95%を獲得以降徐々に上昇し、1919年21.22%と最高となり、以降1936年まで20%前後を獲得。
 1914年、ジョレスが右翼により暗殺された。
 第1次大戦の間、政府参加をめぐって社会主義者は厳しい分裂に苦しんだ。
 アメデ・デュノワジャン・ロンゲピエール・モナットアルフレッド・ロスメルボリス・スヴァリヌらが少数平和主義派を構成。
 SFIOは参戦を支持し入閣した。
 1919年、ボルシェビキに恐怖する中産階級により社会党は選挙で大敗した。
 右派の一部(フレデリク・ブリュネ)が分裂しフランス社会党結成、マルソー・ピヴェールがこれに加わっていた。
 この党は1935年社会共和党(1905年の社会主義者統合を拒否した独立社会主義者が1911−1934年に種々の形態で結成、
SFIOと急進党の中間に位置。)、ジャン・ジョレス連合・フランス社会党と合流し共和社会主義者連合結成。
 1920年SFIO多数派は第3インター(コミンテルン)参加を受け入れた。
 ボリス・スヴァリヌルドヴィッチ・フロサールらはコミンテルン・フランス支部SFICを結成した。
 レオン・ブルムAndre Leon Blum、マルセル・サンバ、アルベール・トマスらはSFIOにとどまった。
 この大会では左派:(フェルナン・ロリオ、スヴァリヌ、シャルル・ラポポール)とこの同盟派(マルセル・カシャンフロサール)と
17条、21条保留の中央派:ジャン・ロンゲポール・フォール、第3インターによる党支配拒否の右派:ゲード右派と再建右派
レオン・ブルム)に分裂。
 参加賛成3028、反対1022、棄権327であった。
 1921年、SFICは元SFIOの多数派を再結集した。
 1921年、共産主義者は統一労働総連合CGTUを結成した。これは1936年CGTと統合し、社会民主主義者は1947年、
労働者の力CGT−FOを結成した。
 1921年SFICは10万9千のメンバーに対しSFIOは1923年5万5千であった。
 1924年と1932年、SFIOは急進党と左翼カルテルを結成。
 1924年選挙では得票率は劣っていたが獲得議席で上回わりエドワール・エリオット内閣成立(1924−1926年)、社会主義者は入閣
せず、1926年崩壊。1928年は右派勝利、1932年は左派多数派形成できず急進党は穏健派と連合し政権安定せず。
 1933年、SFIOはPCFより重要な党となったが、ブルムと新社会主義者マルセル・デアら)の衝突のほかに多くの潮流があった。
 マルソー・ピヴェールジャン・ジロンスキーの左派の戦闘社会主義者戦闘マルクス主義者ジュリアン・コフィネルシアン・ロラ)。
 極左の社会主義行動は1933年追放され革命的社会主義者行動委員会として活動。
 1930年にロベール・マルジョランジョルジュ・アルベルティニの建設的革命が出現。これは新社会主義者に近かった。
 1933年党内右派はマルセル・デアピエール・ルノーデルに率いられ新社会主義運動を形成し追放される。
 これらはジャン・ジョレス連合・フランス社会党を結成し、左派ピヴェール派と中央派ブルム派に敵対。
 この党にはポール・ラマディエが参加。ジャン・ジョレス連合・フランス社会党は1935年社会共和党フランス社会党(1919年分裂)
と合同し共和社会主義者連合結成し、1936年人民戦線に参加。この党は解放後再建されなかった。多くはSFIOに戻ったが、一部は
共和左翼連合(結集)に参加。

 1934年、トロツキーはSFIOへの加入(フランスの転換)を提案した。
 共産主義者同盟の意見は分裂したが、加入し党内でボルシェヴィキ・レーニン主義グループGBLを結成した。
 1935年のSFIO会議でトロツキストは統一戦線の急進党の参加する人民戦線への転換に反対した。
 1936年、PCFの閣外支持で初めての社会主義者首相のブルムの人民戦線内閣(1936.6.4.−1937.6.22.)
が成立した。
 全国ストライキが社会主義者の勝利を喝采し、マルソー・ピヴェールはすべてが可能だと叫んだ。
 トロツキストはGBLのSFIOとの衝突を支持し1936年、約600人を党から引き剥がした。
 経済政策とスペイン人民戦線問題でブルム内閣は衝突し倒壊した。
 1935年、ピヴェールはジロンスキーと意見が相違し(革命か反ファシズムか)革命的左翼を結成し、1938年、ピヴェールは分裂して
労働者農民社会党PSOPを結成した。
 アナーキストのダニエル・ゲランが加わった。この党には穏健マルクス主義者とともに、トロツキスト、ルクセンブルク主義者
ルネ・ルフェーヴルら)が参加した。
 倫理低下した左翼はばらばらになり1940年の軍事敗北後の第3共和制崩壊に抵抗できなかった。
 多くのSFIOメンバーははヴィシー80に参加、ヴィシー体制に参加した。少数がナチへ協力主義をとり、レジスタンスに
参加したものもいた。
 ピエール・フールコーフェリックス・グアンブリュトゥス・ネットワーク(社会主義者行動委員会の軍事部門)を結成し、
これにガストン・ドフェールダニエル・メイエルが参加した。
 マルセル・デアと一部の新社会主義者はヴィシー体制に参加した。1920−1940年の書記長のポール・フォール
これを承認した。彼は1944年の党再建で追放された。彼は1945年民主社会党を結成した。この党は1954年までに消滅。
 1940年、ダニエル・メイエルは社会主義者行動委員会を結成した。
 1945年、SFIO支持者は33万6千、PCFは79万1千であった。
 1944年のフランス解放後の労働者党と非共産主義者レジスタンスとの連合の企画は社会主義者とキリスト教民主主義者との
ライシテ問題と新体制組織に関するド・ゴールとの衝突で失敗した。
 SFIOが再登場しドゴール指導の下、PCF、人民共和主義運動MRP(キリスト教民主主義者)との3党連合に参加した。
 1945年の選挙では23.45%を獲得。(PCF26.23%、MRP23.91%)
 1946年11月の選挙はPCF28.3%、MRP26.0%、SFIO17.9%となり、MRPは3党体制からの分離を決定し、
1947年、第4共和制でヴァンサン・オリオールが大統領となり、ポール・ラマディエが首相となった。
 連合体制は冷戦により1947年分裂した。社会主義者ポール・ラマディエ内閣から共産主義者大臣は追放された。
 共産主義者がCGTの支配権を握り、1948年社会主義者は労働者の力FOを結成した。これはCIAに支援され、以前の
CGTの書記長レオン・ジュオーが率いた。彼は3年後ノーベル平和賞を受賞した。
 ブルムの支援にもかかわらず、ダニエル・メイエルギ・モレに敗北した。
 1946年、ギ・モレが書記長になった。
 共産主義者とゴーリストに反対するため中道左右による第3勢力連合(SFIO、民主・社会主義レジスタンス連合UDSR、急進党
MRP等、1951年農民・独立派全国センターCNIP参加)が1947−1951年に形成された。
 1947年トロツキストの加入戦術を理由にアンドレ・エッセ率いる社会主義者青年(約2万)がイヴ・デシェゼル率いる革命的社会主義者行動
とともに追放され革命的民主結集結成に参加。
 1951年、SFIOは政権から離れた。
 1954年のディエン・ビエン・フーの敗北でマンデス・フランスが首相となった。
 1956年選挙では急進党マンデス・フランス共和主義戦線に参加した。(SFIO14.93%。PCF25.36%)
 ギ・モレが首相となったが1958年5月13日危機後、彼はド・ゴールの復帰と第5共和制確立を支持した。
 ギ・モレ(内相フランソワ・ミッテラン)のアルジェリア政策とド・ゴール復帰支持でSFIOは分裂した。
 エドワール・デプルアラン・サヴァリダニエル・メイエルマルソー・ピヴェールピエール・ベレゴヴォワらが反対を表明。
 1958年、独立社会党エドワール・デプルにより結成された。マンデス・フランスが参加し、1960年、社会主義者左翼連合
共産主義トリビューンと合流し、統一社会党PSUが結成された。
 マンデス・フランスは急進党を左派に据えるよう努力し、植民地戦争に反対した。
 SFIOは1960年代最低の得票を得た。第4共和制での指導者の矛盾した諸政策により不信をかった。
 1962年、12.5%に下がった。
 青年と知識人はPSUを支持し、労働者はPCFを代弁者とみなした。
 ド・ゴールは政党の支援なしで国民の支持をつなぎ、SFIOは反ド・ゴール中道右派と共産主義者との再和解の間を揺らいだ。
 1964年、ミッテランは共和国制度会議CIRを結成。
 この時期、数多くの左翼政治クラブが誕生した。ジャン・ムーラン・クラブ、新生活ジャック・デロール)など
 1965年、SFIOは大統領選でフランソワ・ミッテランを支持し、SFIOは急進党と民主・社会主義左翼連合FGDSを結成。
 FGDSはミッテランを大統領候補とし、PCFとPSUの支持を受けた。
 これは1968年5月に分裂し、6月の選挙で敗北した。
 1969年大統領選ではSFIOはガストン・ドフェールを立て、5%しか得られなかった。
 1ヶ月後SFIOは左翼革新クラブ連合と合流し社会党となりアラン・サヴァリが指導者となった。


共和国制度会議CIR)
 1964年、左翼共和主義者と社会主義者の流れの政治クラブを連合しミッテランが結成。

左翼革新クラブ連合UCRG)
 1966年、アラン・サヴァリの社会主義・民主会議とピエール・ベレゴヴォワとマンデス・フランスの現代社会主義クラブを統合。
 両者はPSUの穏健派。社会主義・左翼民主連合に参加し、社会党合流。
 1960年代フランス左翼の活動的クラブ運動の例。


労働者農民社会党PSOP)
 SFIOを追放されたマルソー・ピヴェール革命的左翼が1938年結成。
 マルソー・ピヴェールジャン・ジロンスキーとSFIOで戦闘社会主義者を形成していてが1935年革命的左翼結成。
 革命的左翼の動議はSFIOで1936年2月11%、1937年7月16.5%、1938年6月21.5%獲得。
 PSOPは国際革命的マルクス主義者センター(ロンドン・ビュロー)参加。
 この党には旧POIのイヴァン・クレポなどのトロツキストやルネ・ルフェーヴルなどのルクセンブルク主義者も参加。
 1940年ペタン政権によって解散される。
 その他ダニエル・ゲランコレット・オドリミッシェル・コリネなどが参加。

プロレタリア統一党PUP)
 1930年労働者農民党共産主義社会党が合同して結成。ルイ・セリエ(1929年PCF追放)が総書記となる。
 これは国際革命的マルクス主義者センター(ロンドン・ビュロー)参加。1936年人民戦線参加。1937年SFIOに合流。

 労働者農民党は1929年ルイ・セリエ、ジャン・ガルシェリらがPCFを追放されて結成。
 1923年(または1924年)統一共産党(1923年ルドヴィッチ・オスカル・フロサールがPCFを去り結成)と社会主義者連盟連合(1922年
PCFを追放されたラウル・ヴェルフイユピエール・ブリゾンアルベール・マティエアンリ・セイエらが結成)が合流して共産主義社会主義者連合を
結成し、これにポール・ルイがPCFを追放されて参加、1927年共産主義社会党となる。

新社会主義者
 1920−1930年のフランス、ベルギーに出現した国家と技術者による計画による建設的革命を目指すグループ。
 ベルギーのアンリ・ド・マンが提唱し、マルセル・デアフランス社会党・ジャンジョレス連合(1933−1935年)に受け入れられた。
 計画主義は社会主義・急進党(1901−1972年)のマンデス・フランスらにも影響を与えた。
 1934年からの情勢でマルセル・デアの党は消滅したが後マルセル・デア人民民族連合を結成してナチスと協力。
 新社会主義者とファシストとの関係が問題となっている。

 1919年、右派の一部(フレデリク・ブリュネ)が分裂しフランス社会党結成、マルソー・ピヴェールがこれに加わっていた。
 この党は1935年社会共和党ジャン・ジョレス・フランス連合社会党と合流し共和社会主義者連合結成。

 社会共和党は1905年の社会主義者統合を拒否した独立社会主義者が1911−1934年に種々の形態で結成、SFIOと急進党の中間に位置。
 ジャン・ジョレス・フランス連合社会党新社会主義者が1933年SFIOから追放されて結成。ピエール・ルノーデルマルセル・デアアドリアン・マルケ
グスタヴ・フエウマンらが指導者でポール・ラマディエも参加。
 共和社会主義者連合は1935年、フランス社会党ジャン・ジョレス・フランス連合社会党社会共和党が合同して結成、SFIOの右に位置する。
 1936年人民戦線に参加、1940年頂点に達する。解放後は再建されず。ポール・ラマディエジョセフ・ポール・ボンクールら多くはSFIOに復帰、
マクス・イマンス左翼共和結集に参加。


統一社会党PSU
 1960−1990年に存在したキリス教左翼、トロツキスト、社会主義者、アナーキスト、急進主義者、共産主義者の結集組織。
 PSUはアルジェリア戦争とドゴールの権力掌握の2つの反対運動から生まれた。
 1958年には選挙カルテル民主勢力連合がド・ゴール復帰反対の非共産主義者左翼結集のために、多くの政治組織、組合運動家(主にCFTC、FO、
全国教育連合FEN)、個人により結成。マンデス・フランスエドワール・デプルロベール・ヴェルディエモリス・ラクロワ青年共和主義)、ジル・マルティネ
左翼社会主義者連合)、知識人ではモーリス・メルロ・ポンティローラン・シュヴァルツ、そのほかダニエル・メイエル、フランソワ・ミッテランらが参加。
 90候補で0.95%獲得、全員落選。同年大統領選ではアルベール・シャトレを候補として8.46%獲得。
 PSUは1960年エドワール・デプル、ミッシェル・ロカールアラン・サヴァリらによって結成された。
 PSUは独立社会党PSA(ダニエル・メイエル、エドワール・デプル、マンデス・フランスら)、左翼社会主義者連合UGS、共産主義トリビューン周辺の
統合によって生まれた。これらの3つのグループは1958年から密接に結びついていた。
 更に旧ピヴェール派(旧労働者農民社会党PSOP活動家、コレット・オドリなど、ピヴェールは1958年死亡)、急進党を追放されたマンデス派の
民主行動センターCADメンバーも参加。
 1960年政治局は旧PSAがエドワール・デプル、アラン・サヴァリ、シャルル・エルニュ(親マンデス)、ロベール・ヴェルディエら5名、
旧UGSがクロード・ブルデ、ジル・マルティネら5名、旧共産主義トリビューンがジャン・ポプラン
 55人の全国政治委員会は旧独立社会党PSAが25名、旧UGSが25名、旧共産主義トリビューン系5名。
 またイヴァン・クレポピエール・ナヴィーユイヴ・デシェゼルら6名のトロツキストをもつこととなる。
 創設大会には旧PSAが2万、旧UGSが1万参加したとされる。
 書記長にはジル・マルティネ、ミッシェル・ロカール、アラン・サヴァリ、シャルル・エルニュに支持されエドワール・デプルがなった。ベレゴヴォワ
少数派となる。
 1963年党大会ではランベール派が動議をだしたがほとんど支持を得られなかった、一方旧PCIのマルセル・ペネティエと結んだマルセル・ブライプトルは
10%獲得、ベレゴヴォワが中心のマンデス派が多数派となる。デプルロカール路線確立。
 1965年の大統領選には候補をたてなかった。選挙運動はしなかったがミッテランを支持した。
 1967年選挙ではギ・デッソンマンデス・フランスら4議席獲得。しかし、PCFとFGDSの間でどこに位置すべきか路線問題が発生。
 マンデス派やベレゴヴォワジル・マルティネジャン・ポプランはFGDSとの連合賛成で多数派は反対。 
 アラン・サヴァリは左翼革新クラブ連合UCRGを結成して離党。これにはベレゴヴォワも参加。
 ジャン・ポプランは離党して社会主義者グループ・クラブ連合UCGS結成。(これには旧ピヴェール派のコレット・オドリが参加)
 最初の転換がおこりロカールらの路線からフランス全国学生連合UNEFへ支配が移った。
 学生統一社会主義者ESU(PSU学生組織)がUNEFの支配権をにぎりジャック・ソヴァジェオが議長となった。
 ESUはトロツキスト・ランベール派の革命的青年連合AJSAssociation de ja jeunesse revolutionnaireと提携した。
 他の既成政党と異なりPSFは1968年5月学生反乱を支持した。
 1969年大統領選にミッシェル・ロカールをたて3.61%獲得。
 1970年代初期、学生運動出身者が流入し、初期のメンバーが離れ初期の党からの変質が起こった。
 1971年党会議ではロカール派は53%、トロツキスト14%、PCMLFと結ぶ毛派が12%の代議員獲得。
 1972年PSU−PCMLFの2重加盟禁止で、エマヌエル・トレイらが離党。1971年リリー大会では運動主義者が20%、72年トゥルーズでは16%となる。
 彼らはマルク・ウルゴンアラン・リピエッツグスタフ・マシアらの労働者・農民左翼(1976年革命と合流し労働者共産主義者組織結成、革命は1971年
LCRクリスチャン・ピケらが結成。)周辺に結集。
 1972年、ロカールがグループを解散し、周辺はLCR、革命、労働者農民左翼のちのOCTPCMLF(毛派)、労働者共産主義組織(毛派)等に移っていった。
 ジャック・コルゲアジャン・マリ・ヴァンサンはLCR参加。
 同年ジル・マルティネも去る。
 1974年大統領選で党左派はLipのCFDTのシャルル・ピアジェを支持、しかしロカールは多数派を得てミッテランを支持。
 PSUの多数派は社会党との統合を拒絶したが、ロカール、ロベール・シャピュイジャン・ル・ガレックが社会党に参加。
 共産主義者の声創設者のデニス・ベルジャーらがLCRに移る。
 一方でパブロ派の革命的マルクス主義者連合AMRが参加。
 1976年ESUは組合行動運動MAS結成に参加。
 1977年党大会はミッシェル・ムセルの左翼共同名簿派とLCRの交差点グループ(ロビ・モルデール)あるいはOCT(運動主義者潮流)連合のAMR中心の
少数派が競合。AMRはPSUを去り交差点carrefourグループと自主管理共産主義者委員会CCA結成。
 1981年大統領選はユゲット・ブシャルドーで1.1%獲得。
 1983年ブシャルドーはモロワ政権に参加し、これで党内闘争が起こり、反対派が多数派となりジャン・ピエール・ルメールらは選択左翼連合に参加。
 1988年大統領選はピエール・ジュカンを支持。(他にLCRなど支持、2.1%)
 1989年、PSUは分裂し、ジュカン支持派は新左翼と合流し、赤と緑選択結成、その他の多くは緑に参加、緑にはすでに旧労働者・農民左翼から多くの
参加者があった。

 PSUに関わった主な人物はジャック・ソヴァジェオUNEF活動家、レンヌ美術学校教授)、セルジュ・ドゥパキアラン・ジェイスマール(ESU指導者、
パリ市議会議員)、シャルル・ピアジェシャルル・エルニュピエール・ベレゴヴォワ(ミッテランのもと1992−1993年首相)、ジャック・デロール
ユゲット・ブシャルドー(1979−1981年全国書記)、ジル・ルメールの2003−2005年全国書記)、アルレット・ラギエアラン・バディウ
アラン・リピエッツ(後に)など。

 共産主義トリビューンはジャン・ポプランを中心とするPCF離党者よりなる。
 彼らは1956年のソ連のハンガリー介入による党内衝突で離党した。フランソワ・フュレセルジュ・マレも参加。

 独立社会党左翼社会主義者連合はSFIOギ・モレ政権のアルジェリア戦争とSFIOのド・ゴール政権復帰支持に反対して
離党した。

 独立社会党は1958年、SFIOから離党したダニエル・メイエルエドワール・デプルアラン・サヴァリらが結成。
 この党にはレイモン・バディユロベール・ヴェルディエアンドレ・フィリップシャルル・リュシーマンデス・フランスらも参加。
 マンデス・フランス民主勢力連合に参加し急進党から追放され、民主行動センターCADを結成し参加。

 左翼社会主義者連合UGSはキリスト教左派とマルクス主義者起源。1957年、ジレ・マルティネによりSFIOからの分離者、
青年共和主義JR(1912−、社会カトリック)、進歩連合多数派、人民解放運動MLPにより結成。
 これにはオプセルヴァトゥールジレ・マルティネら設立)周辺の新左翼(トロツキストや1947年の青年社会主義者JSの社会党からの追放者が結成)、
キリスト教労働総連合CFTE少数派も参加。
 オプセルヴァトゥール創設者のカトリック人道主義者クロード・ブルデ、哲学者エドガール・モランらも参加。
 トロツキストではイヴァン・クライポピエール・ナヴィーユ、マルセル・ブライプトル、イヴ・デシェゼルらが参加。

 青年社会主義者は解放後国際主義共産党PCIの加入戦術を受け、イヴァン・クレイポに近いアンドレ・エッセル指導で1947年ギ・モレのSFIOから
追放され、サルトルの革命的民主結集(1948年結成)に参加。ピヴェール派とブルム派は独立社会党に参加。

 革命的民主結集は1947年、ダヴィド・ルセ、ジョルジュ・アルトマン、ジャン・ポール・サルトルらによって結成された。
 政党というより運動を目指し、2重加盟を認め、共産党のスターリン主義とSFIOの改良主義を拒否し、民主的・革命的社会主義を擁護。
 しかし大した成果は得られず、サルトルは共産党に接近し、イヴァン・クレポはガダルーペに行き、翌年解散。
 PCIの加入戦術でSFIOから追放されたアンドレ・エッセ社会主義者青年イヴ・デシェゼルのSFIOの革命的社会主義者行動が結成に参加。
 旧トロツキストのピエール・ナヴィーユジェラール・ロ−ゼンタールフレッド・ゼルレルジャン・ルーらや、アンドレ・ブルトンベンジャミン・ペレらも参加。
 ユベール・ブヴ・メリが新聞ル・モンドで支持。

 進歩連合UPは1950年、進歩共和主義連合URPと統一unitaire社会党PSU(1948年結成)、進歩キリスト連合UCP(1947−1951)、
あるいは青年共和主義の一部などが結成。多数派はUGSついでPSU結成に参加。少数派は1992年まで残存。
 1979年ロベール・シャンベイロンがEU議会選挙で共産党名簿で最後の議員となる。
 進歩共和主義連合は1944年全国解放運動MLNが結成され、1945年MLN多数派は民主・社会主義抵抗運動連合フランソワ・ミッテランら、
1964年ミッテラン共和制度会議CIRと合流。)を結成、PCFに近い少数派は急進(社会)党(1901−1971)左派と進歩共和主義連合URP結成。

 青年共和主義は1912年結成のキリスト社会運動。エマニュエル・ムニエの運動の人格主義社会主義を支持し、人民民主党に反対。
 1936年人民戦線支持。戦後MRPと左翼政党の間に埋没、CFTC少数派形成。
 1957年、人民解放運動MLP、新左翼(1954年イヴァン・クライポらが結成)と合同し左翼社会主義者連合結成。

 新左翼は1954年進歩連合の一部、独立左翼行動センターCAGI(1953−1954年、ブルデ、クロード・エスティエルシアン・リウら)、
青年共和主義の統合で結成。
 イヴァン・クレイポジレ・マルティネクロード・ブルデピエール・ナヴィーユイヴ・デシェゼルらが参加。

 統一unitaire社会党はPCF、人民共和主義運動MRP、SFIOの3党体制崩壊から生まれた。
 戦闘社会主義者ジャン・ジロンスキー(1947年共産党へ)、マルソー・ピヴェール率いるSFIOの旧左派グループで戦後再建され、PCFと共同歩調をとり、
1947年SFIOから追放され、1948年ピエール・スティッベアンドレ・マルティ・カプグラクロード・エスティエールエリ・ブロンクールらが
統一unitaire社会党結成参加。
 これには元レジスタンスのジャン・ギニュベールマルセル・フリエジャン・モーリス・エルマンらが参加。更にジレ・マルティネと彼の雑誌(これには
シャルル・ベッテルハイムも協力)に協力していた旧トロツキストのピエール・ナヴィーユらも参加。またSFIOのCGT主義者も参加。

 労働者共産主義組織は労働者・農民左翼と革命が合同し1976年結成、最初の党大会から分裂し、1981年解散、一部は1984年結成の選択左翼連合
FGA参加。後にの幹部になるものがいた。主な旧メンバーはマルティーヌ・ビラールジル・ルメールアラン・リピエッツグスタフ・マシアクリスチャン・ピケ

 選択左翼連合FGAはPSU(ジャン・ピエール・ルメール)のモロワ政権参加反対グループが1984年結成、これはLCR系、パブロ派モリス・ナジュマン)、
革命的共産党PCR(1981年PCR−ML改名、これは1974年PCMLFの秘密組織赤色戦線が分離結成。)、旧OCTなどのメンバー(パトリック・プティジャン
や旧PCFのフィリップ・ザリフィアンらが結集。FGAは同年結成の緑と協力、1984−1985年に多くの自主管理共産主義者委員会CCA(旧パブロ派など)
メンバー参加。1996−1987年LCRのT3から参加者あり。(フレデリク・ブラン等)、またPSUの自主管理左翼やアラン・ビールの反潮流グループが参加。
 1987年FGAは緑の呼びかけた虹に参加しようとして候補のアントニ・ヴェシュテルに拒否され、1988年大統領選はPSUやLCR支持のピエール・ジュカン支持。
 1988年ジュカン委員会と新左翼結成、これにはLCRからシルヴィア・ザッピが参加。
 1989年EU議会選は緑支持、これにより以降多くがジルベール・マルキスらのAREV結成路線に反対し緑に参加(フレディリック・ブラン、ピエール・ジュカン等)。


社会主義学習・研究・教育センターCERES
 1971年の社会党、エピネ会議のあとジャン・ピエール・シュヴェーヌマンジョルジュ・サールピエール・ジュドニディディエ・モシャヌ
アラン・ゴメスらにより結成されたグループ。
 もともとは1966年にとジャン・ピエール・シュヴェーヌマンピエール・ジュドニディディエ・モシャヌアラン・ゴメスより創設された。
 CERESは社会民主主義者の左派で他のヨーロッパの社会民主党にはないフランス独自のものであった。
 CERESはマルクスの理論を採用した。
 CERESの社会主義化論は統一戦略による左翼連合(選挙連合)、大衆運動と左翼政府の相互作用、大衆に階級意識を自覚
させる労働運動の組織化からなる。
 CERESはPSUではなかった。PSUはSFIO、PSの外部にあり、PSUは権力批判でなく力の論理を採用した。
 PSUは1980、1990年代、2000年にPSの左派と連合した。
 CERESの活動家は数ヵ月後SFIOに加盟し、ジョルジュ・サールが加わった。1971年、社会党結成に参加。
 1986年、社会主義と共和主義となり、1991年、湾岸戦争の後、マーストリヒト条約国民投票の前、1993年市民運動MDC
結成のため社会党を去る。2003年、MDCは共和主義と市民の運動MRCとなる。

 1970年代はじめにはCERESの学生は68年5月の影響を強くうけ、パトリス・フィネルを指導者とし独立グループを形成した。
 ミッテラン派は共産主義学生運動UECと結んだがCERESはPSUやその学生組織の統一社会主義学生ESUを選んだ。
 1971年からESUは組合運動syndicalismeと学生互助組織に展開した。
 1972年、CERESはフランス全国学生互助組織MNEFの議長を握った。
 この時期は内部分裂期であり、多数派は社会主義者の左翼連合戦術をとり共産主義者が指導するUNEF再建に参加した。
 少数派は自主管理派と関係を維持し批判的行動・研究運動MARCに加盟した。
 CERESは国際主義共産主義者組織OCIの影響を受けるようになった。
 この学生組織UNEF−USはCERESがMNEFを支配するのに反対し、1978年、ミッテラン派がUNEF−USに参加すると、
ミッテラン派(すでに社会主義青年運動MJSでCERESをしのいでいた)がMNEFの支配をにぎることにランベール派は同意した。
 CERES学生はUNEF−革新を退却しUNEF−USに移った。1982年UNEF−IDが結成され、CERESは単なる1潮流になった。
 1986年、PSがUNEF−ID多数派になった。
 1987年、CERESはUNEF−IDに再参加し、多数派シンパになったが活動家とうまくいかず、種々のかく乱を行った。
 1990年代中にCERESは学生運動から消えた。

第2左翼
 第2左翼は1977年ナント会議でミッシェル・ロカールによって展開されたフランス左翼の批判的政治文化で、フランス革命の
ジャコバン遺産とフランス・マルクス主義の上に樹立された第1左翼に反対する。
 とりわけ政治分野での理論での一方的なイデオロギーと悪化する官僚制の欠如と実践では政治行動での連合と労働組合の活用に
おいて区別される。
 これはカトリック・社会改良主義、社会民主主義、トロツキズムの要素からなるPSUの伝統を受け継ぐ。
 第2左翼は全体主義(1956年ハンガリー危機)、植民地主義の崩壊(アルジェ戦争)から生まれた。
 まずPCFからそして第1左翼(SFIOのギュイ・モレ)から批判された。
 第2左翼は1958年の第5共和制に挑戦する。
 主要人物はミッシェル・ロカール、アラン・サヴァリー、エドワール・デプロー、ピエール・マンデス・フランス(社会主義者時代)、
ジャン・ポプラン、ジル・マルティネ(共産主義者時代)、CFDTエドモン・マリー、知識人ではフランソワ・フュレー、セルジュ・マレ、
ジャック・ジュイヤールピエール・ロザンヴァロンなどである。
 第2左翼という名称は1970年代末からであるが実際は1954―1956年に生まれた。
 スターリンの死後、過去の植民地主義に近いSFIOと全体主義体制のPCFの大政党の分裂グループから生まれた。
 このグループはアルジェリア戦争反対の多数派であった。
 (以下PSUの説明と重複する部分は省略)
 労働運動ではキリスト労働連合CFTCの脱宗教主義として顕れた。ウジーヌ・デカンプのキリスト教左派はCGTの独占を拒否する
ものとして1964年民主労働連合CFDTを生んだ。PSUはCFDTとともに経済原理に自主管理を採用した。
 CFDTはセルジュ・マレの新労働者階級に出会った。
 PSUは1960年代中期はフランス左翼では労働者思想で多くの問題で進歩的でこれは後にミッテランの社会党に取り入れられた。
(たとえば脱集中制)

 PSUの労働者の割合は19%にすぎずその多数派は組合加盟員でCFDTだがFOCGT組合員もいた。
 1968年5月末にPSUの53%はマルクス主義者でそのうち3%が毛沢東主義、1%トロツキズム、1%ルクセンブルグ主義、1%
絶対自由マルクス主義、20%は世俗分離人道主義、18%は民主社会主義、7%がキリスト教であった。
 右派は伝統的共産主義で代表され、中央派は社会民主、現代主義、社会カトリック(ミッシェル・ロカール)、左派はトロツキストと
ML派(マルク・ウルゴン)。マンデス・フランスがPSUの調停的人物で党と第5共和制の緩衝となっていた。

 1968年5月の衝撃でアンドレ・ゴルツ、セルジュ・マレらは従来の労働者の物質的不満・現実的抑圧を基にする革命に対し、
中間階層や学生といった知識人の観念的不満を基礎とする革命論を展開した。
 ヘルベルト・マルクーゼはフロイトの性の精神分析論を利用し、欲求的不満の抑圧からの解放を基礎とする革命論を展開した。
 これらの理論は新左翼から影響を受け、またこれに影響を与えた。
 セルジュ・マレは1956年までPCFに参加、共産主義トリビューンTribune du communisme参加のため離党。1973年の死亡までPSU参加。
 マレは1973年に死亡したためその後大した理論的発展を見ることなく忘れられようとしている。一方ゴルツは1980年代から周囲の
左翼と別れを告げ、1983年には西ドイツへのパーシングU配備反対運動を拒絶するようにまでなった。

 第2左翼の活躍の舞台はミッシェル・ロカールを中心とする政治分野のほかにCFDTUNEFであったが、1968年5月の影響を
特に受けた。1968年5月は絶対自由主義(ダニエル・コーン・ベンディット)、左翼主義の潮流とともに第2左翼が運動に寄与。
 デモにはUNEFJCRとPSUが参加、CFDTはストと自主管理を試みた。

 1968年5月の熱が冷めた以降の第2左翼の政治的歴史はミッシェル・ロカールの軌跡である。
 UNEFには大きな関係をもったが、UNEFが極左の演舞台となるに従い、PSU本体から見捨てられ1971年に撤退。
 CFDTには1970年代トロツキストや毛沢東主義者が加入。1974年には社会主義の土台として活動家はミッテランの社会党参加。
 CFDTは当初自主管理社会主義であったが、1980年代には国家を通さない労資交渉による契約主義による労働者防衛思想となり、
これはニコル・ノタで特異な改良主義となり、1988年結成の連帯労働組合連合SUDに一部が合流。

 *共和国はグローバル化を超えられるか(平凡社新書)で三浦信孝は第1左翼の代表はシュヴェーヌマンで第2左翼とはアメリカ的リベラル
左翼でその代表は社会党右派のロカールと書いている。

 現在の第2左翼
 非常に拡散しており、政治分野では社会党の少数派、左派では成長のための成長を否定するユートピア派(フランク・ピュピュナ
の影響下の社会党や緑)、右派では現代社会主義者、時にはリベラルとして存在、組合運動では勢力があり、給与生活者ではCFDT、
学生では学生連合、連合associatif運動ではピエール・ロザンヴァロンの共和国思想、ヨーロッパ救援運動。
 PSUの公式後継組織は極左自主管理主義の選択。フランスの政治光景では緑が第2左翼の思想を結集、あとは社会党の幾人かの
個人やヨーロッパ左翼など。たとえばドミニク・ストロスカーン(PS)、ザキ・ライディドミニク・メダなど。
 2007年8月、今日の第2左翼の大御所、フランソワ・ケレクCFDT)、ジュリ・クドリー学生連合)、ミッシェル・ロカール、
ジャン・ダニエル(ベンサイド)らが集まってPSのフランス左翼再建を展望。


ヨーロッパ・エコロジー
 エコロジストのフランス政治登場は1970年代からである。
 1974年、ルネ・デュモン(この人物は戦前からの農業問題専門家であるが、ペタン政権側でナチスを引用しながらコーポラティズム
農業を擁護した人物であった。)がエコロジストとして大統領選で1.32%獲得。
 以降エコロジストは1977年、地方選挙、1978年国会選挙(エコロジー78)、1979年EU議会選挙(欧州エコロジー)、1981年
大統領選では”今日のエコロジー”候補としてブリス・ラロンド(PSU、UNEF、グリーンピース活動家、1988年、ロカールに招請され
入閣、1990年、ミッテランの支援で政党エコロジー世代結成、その後右翼に転向、左翼の緑加入を批判)
 1984年、エコロジスト党(エコロジー政治運動MEP)とエコロジスト連合(1982年結成)の統合で緑運動が生まれた。
 1988年、大統領選でアントニ・ヴェシュテルを候補に3.8%獲得。
 1994年、緑が非提携路線と手を切って左派に移行(イヴ・コシェ)し、アントニ・ヴェシュテルは緑を去った。
 彼は独立エコロジスト運動を創設した。
 1997−2001年書記長のジャン・リュック・ベンナミアス民主運動に移った。
 1995年大統領選ではドミニク・ヴォワネが3.8%獲得。ヴォワネはPSとPCFのジョスパン内閣に参加した。
 1999年EU議会選挙で緑の名簿でダニエル・コーン・ベンディット(ドイツ緑で、ベンディットは極左から現実主義に見事転回
していた)が当選した。
 2002年、ノエル・マメールが5.25%獲得。国会選挙では4.51%で6から3議席に後退。
 2002年、ジル・ルメールが全国書記になる。かれの在任中は党内抗争の時期であった。2005年ヤン・ヴェールリング
(2007年民主運動へ)に交代。
 2005年、欧州憲法国民投票で賛成運動。
 2006年、全国書記がセシル・デュフロ(1975年生)に交代。
 2007年、大統領選はイヴ・コシェらが争ったがでヴォワネが候補となり1.57%、国会選挙では社会主義者との選挙協力を行わなかったが
緑の3候補にPSは対立候補を立てなかった。緑は現在4議席でPCFと左翼民主・共和主義を結成。
 2009年欧州議会選挙はダニエル・コーン・ベンディットらの主導のもと欧州エコロジーとして地域連合と連帯人民ジョゼ・ボヴェ
ヤニック・ジャド(元フランス・グリーン・ピース指導者)、エヴァ・ジョリ(元司法官)、ジャン・ポール・ペセ(元LCR、ジャーナリスト)などを結集。
 16.3%、15議席獲得。
 マルティーヌ・ビラールはこの動きに緑を去って左翼党参加を表明。
 2010年地域選挙でジュリアン・バイユ黒い金曜日)が参加。
 党名を欧州エコロジー緑EELVと名乗る。
 2012年、大統領選エヴァ・ジョリで2.31%で6位。
 ジャンマルク・エロー政権でセシル・ドゥフロが地域平等・住宅大臣となる。
 国会選挙は社会党と協力で第1回5.46%で17議席。
 2014年マニュエル・ヴァル政権から離脱。これで党内に亀裂が生じる。
 EU選は8.95%、6議席。
 2015−2016年についに右派が分裂。
 ジャン・ヴァンサン・プラセとフランソワ・ドゥ・リュギは地域選挙での左翼戦線との提携に反対しエコロジスト党結成。
 民主戦線、エコロジスト党、エコロジー世代は民主主義者・エコロジスト連合UDEを結成。
 ステファン・ガティニョン、バルバラ・ポンピリ、ジャン・ポール・ベセ、パスカル・デゥラン、エマニュエル・コス、デニス・ボパンらが相次いでEELV
を去る。
 2012年には社会党と選挙協力で17議席確保、(ブルトニュ民主連合のポール・モラックが会派参加)フランソワ・ドゥ・リュギとバルバラ・ポンピリが
議会グループの共同代表となる。
 2015年マニュエル・ヴァル政権から離脱により党内が社会党との協力維持派と距離を置く派の分裂、協力派(ノエル・マメール、ドゥフロら)が執行部と
代表の新たな選出を要求。フランソワ・ドゥ・リュギとバルバラ・ポンピリの離党後、結局バルバラ・ポンピリとドゥフロが共同代表となる。
 2016年1月フランソワ・ドゥ・リュギら8議員が社会党提携グループ結成。うち2名だけEELV所属。
 5月フランソワ・ドゥ・リュギの共同代表交代に際し、フランソワ・ドゥ・リュギらを除く6名が議会で社会党グループ(新左翼グループ)に参加。
 エコロジスト・グループは10名で法的に議会会派形成(15議席)ができなくなった。
 前記6名中1名がEELV所属、10名中8名がEELV所属、ノエル・マメールら2名は2013年に離党。
 この時点でEELV9名、エコロジスト党3名、エコロジー世代と民主戦線1名、その他(マメール、ポンピリ、ボパンら)4名。
 6月の臨時大会でダヴィド・コルマンが全国書記となる。
 大統領候補戦では社会党の組織したものに参加せず独自の候補戦を行う。
 第1回はヤニック・ジャド35.61%、ミシェル・リヴァシ30.16%、セシル・ドゥフロ24.41%で2回目ジャド54.25%、リヴァシ45.75%。
 結局ヤニック・ジャドは社会党のブノア・アモンを支持し大統領選から撤退。議会選でこの見返りを受けた・
 議会選はエリック・アロゼだけが当選、アロゼは議会では共和国前進参加。
 2019年EU選は、13.48%、13議席。(うち独立エコロジスト連合2、地域と連帯人民1)


[エコロジスト党]
 2016年、ジャン・ヴァンサン・プラセとフランソワ・ドゥ・リュギEELVのリベラル派が結成。ヴァル政権参加。
 2017年、バルバラ・ポンピリとフランソワ・ドゥ・リュギ、ギョーム・ヴュイエットが共和国前進に参加し当選。
 2018年、フィリップ政権参加。
 2020年、ジャン・カステクス政権参加。


[独立エコロジスト連合]
 2009年EU選のために独立エコロジスト運動、エコロジー世代行動フランスが結成。
 2011年、独立エコロジスト運動、エコロジー世代が去り、連合は政党となる。

独立エコロジスト運動EMI〕
 1994年、アントニ・ヴェシュテルが結成。右でも左でもないエコロジストだけの政党。MoDemに近い。

CAP21
 1996年結成の中道エコロジスト。

地域と連帯人民
 ブリターニュ、コルシカ、カタラン、オクシタン、アルザス、バスク、サヴォワのフランス語以外の言語地域の中道ないし中道左派政党
を結集。1995年結成。


市民運動MDC−共和主義と市民の運動MRC〕
 1993年、シュヴェーヌマンがCERESを基礎に設立。2003年、MDCを中心に共和主義と市民の運動MRCを結成。
 MDCは湾岸戦争のあとマーストリヒト条約国民投票の前にPS路線に反対して結成された。
 1994年EU議会選挙では”別の政治”名簿で2.54%獲得。
 これはMDC、共産主義者(アニセ・ルポール、元OCF)、フェミニスト(ギゼル・ハルミベアトリス・パトリヌ)、急進主義者
クロード・ニコレアンリ・カイラヴェ)、ゴーリストが参加。
 1995年大統領選はジョスパン支持。
 1997年国会選挙は複数左翼に参加、7議席(ジョルジュ・サール、シュヴェーヌマンなど)と1議席所属となり、急進・市民・緑RCV
結成。
 ジョスパン内閣でシュヴェーヌマンが内相となる。
 2002年大統領選のため共和主義極(柱:ポール)結成、これは急進主義ゴーリスト、主権主義者、社会主義者の広い範囲を含む。
 5.33%獲得。国会選挙では1997年のMDC7議席すべてを失う。、市民と共和主義運動MRCと再命名。第1書記
ジョルジュ・サール、代弁者(スポークスマン)ジャン・リュック・ローランなど。
 ジャン・ピエール・ミッシェルらが左翼共和主義連合AGR結成。
 共和主義極から急進共和主義連合U2Rが派生し分散する急進主義者を再結集しようとしている。
 2003年、エリックハルフェンらが分裂し共和主義と社会選択運動MARS結成(2006年、左翼共和主義CNGRと
MARS−左翼共和主義となる)
 2004年、EU選挙でPCF投票を呼びかけた活動家が追放される。
 2007年大統領選では2002年敗北再現を避けるためロワイヤルを支持、国会選挙では1議席獲得。
 2008年シュヴェーヌマンが指導権を握る。ジャック・デサラングルピエール・カラシュ、セナートのフランソワ・オタンが左翼党に移る。
 2009年EU選はシュヴェーヌマンが無投票の立場をとったため左翼戦線支持派が共和主義と社会主義を結成。
 2012年国会選は3議席獲得。(マリ・フランソワズ・ベシュテルジャン・リュック・ローランクリスチャン・ユタン
 2015年、シュヴェーヌマンが去る。
 2017年は1議席(クリスチャン・ユタン)。
 2019年、共和・エコロジストと社会主義者プログラムのための選択左翼共和主義者と社会主義者GRS結成したがMRCは消滅せず。
 EU選にはマノン・オブリの今人民の不屈のフランスに参加。GRSは1議席獲得。

[左翼共和主義者と社会主義者GRS]
 2019年、APRES共和・エコロジー・社会主義選択と共和・市民運動が合同して結成。
 APRESは2018年、マリ・ノエル・リエヌマン、エマニュエル・モレルがPSを去って結成。
 EU選では不屈のフランスと今人民マノン・オブリ)に参加。

赤と緑選択AREV〕
 1989年結成のエコロジストと左翼の政党。社会主義、自主管理、エコロジーが3本柱。
 ピエール・ジュカン周辺の旧PSUやLCRメンバーなどからなる。
 結成時には6000のメンバーがいたが緑やLCRなどに移り1998年には約300になった。
 1998年進歩主義者選択集会CAPと選択結成。

選択
 1998年、AREVCAP少数派が統合した左翼政治運動。連帯、エコロジー、フェミニズム、自主管理が4つの柱。
 PSUの後継組織。
 反リベラル左翼連合を支持し、2004年は5月29日集合(欧州憲法条約反対)に参加。2007年大統領選では
反リベラル左翼・共同候補結集発議全国集合に参加、最終的にジョゼ・ボヴェを支持。2007年は左翼選択に参加。
 2009年EU議会選は結局、不参加55%でNPA提携が41%。


〔選択(別の)左翼〕
進歩主義者選択集会CAP
  1994年結成。PCF(シャルル・フィッテルマンモロワ内閣大臣)、マルセル・リグーモロワ内閣大臣)、ジャン・ピエール・ブラール
ジルベール・ワッセルマン)、社会党、市民運動MC、LCRなどの旧メンバーが参加。1995年大統領選でドミニク・ヴォワネ(緑)を支持。
  1998年、緑や選択エコロージー・連帯集中ノエル・マメール)に移行者発生。シャルル・フィッテルマンは社会党へ移る。
  ジルベール・ワッセルマンは残るが2006年死亡。
  2009年EU議会選は左翼戦線参加(パトリク・シャルル)。
左翼選択2007
  2007年選挙で形成、旧PCF、LCR少数派、エコロジスト、反リベラル社会主義者、選択などから参加。
連帯・エコロジー・左翼選択SEGA
  1993年AREVとCAPの選挙連合として発足、以降左翼選択とエコロジストを再結集。
  2007年は左翼選択2007として結集。73220票獲得、主要メンバーは現在は選択にいる。

〔共和主義・急進主義〕

左翼共和主義連合AGR 
  2002年設立、MDCのあとを継ぐ。2004年多数派PS参加、少数派CNGRMARS−左翼共和主義統合)参加。
MARS−左翼共和主義
  MARSCNGRが2007年結成。
急進共和主義連合U2R
  シュヴェーヌマンの共和主義極から派生し分散した急進主義者を再結集しようとしている。

別の国際化運動

 反グローバリズムに政治的に近接しているが、民主主義、経済的正義、環境保護、人権など(ヒューマニズムと普遍的価値)
の国際的統合を支持し、ネオ・リベラルなグローバル化(とその民族主義的要素)に反対する。
 その意味でいかなる国際化にも反対する反グローバリズム(民族主義、保護主義、コミュニタリアニズムなど)とは一線を画す。
 特にWTO、IMF、OECD、G9、世界銀行などの国際制度を先進国のためのものと問題にする。
 反グローバロズムには共産主義・マルクス主義潮流=反資本主義、アナーキズム潮流、反リベラリズム潮流、主権主義・
民族主義潮流、環境主義(エコロジスト)潮流、脱成長主義潮流などがある。

 ATTAC 1998年結成。市民支援のための通貨取引税(外国為替取引に課税)運動連合。
 コペルニクス財団 1998年結成、別の国際化主義者のシンク・タンク

 国際組織としては独立メディア・センター国際社会フォーラムがある。

反リベラル

 日本では保守が極めて右翼的体質が根深い(反立憲主義的=明治憲法的)ため主に政治的意味合いでリベラル=政治的
自由主義と=進歩的となるが、立憲主義原則が保守・左翼で共有されている欧州ではリベラル=経済自由主義となる。

反リベラル左翼・共同候補結集発議全国集合 (集合:コレクティフcollectif)
  2006年5月地域連合の集合を推進するため樹立された政治組織。
  これはその前に出された2006年5月11日アッピールの(反リベラル左翼と共同候補結集のための)結果で、この
 アッピールは5月29日集合(欧州憲法制定条約の国民投票での反対派左翼)と関係していた。
  国民投票での勝利後、多くの人々や政治組織は親欧州・反リベラルの国民投票での反対派左翼の統一の経験を継続
 することを支持した。
  この意志は2005年11月22日のアッピール(2007年と2008年への統一候補)に表現された。
  5月11日アッピールに署名した主な組織やグループは
   選択(レ・アルテルナティフ)
   エコ発展集合(コレクティフ・プール・レコデヴロプマン)
   市民集中(コンヴルジャンス・シトワイアンヌ)
   共和主義左翼CNGR(共和主義左翼全国調整)
   共和主義と社会選択運動MARS
   フランス共産党
  その他次のような組織のメンバー
   ATTAC
   コペルニクス財団(1998年結成、別の国際化主義者のシンク・タンク)
   アルテール・エコロ:2005年結成、世界の緑、エコロジストを結集した青年政党、EU憲法国民投票に反対運動した元緑を結集)
   LCRの少数派
   労働組合組織:CGT(労働総同盟)、FSU(統一労働組合連合)、SUD(連帯労働組合連合:連帯・統一・民主)
   別の国際化主義者(アルテルモンディアリスト)

  2006年12月の全国会議で大統領選挙の候補が決定される予定で、そのため地域集合で討論が行われた。
  この過程でジョゼ・ボヴェが候補から撤退した。地域により統一手続きが異なり、議論の結果の集約は困難で、種々の
 報告がなされたが、すべてがマリー・ジョルジュ・ビュフェが首位で次がイヴ・サレス(LCR)とクレマンティヌ・オタン
 (コペルニクス財団)であった。
  12月の全国会議では結論が出ず、PCFの押すビュフェ、その他(選択やアルテール・エコロ)が押すボヴェが中心となり、
 LCRはブザンスノーを候補とした。
  反リベラル左翼(PCF、LCR、選択MARSCNGRAGR、社会共和主義PRS、緑やその他の活動家)の議論では
 大統領選よりそのあとの国会選挙も議論となった。
  PSとの関係も問題となった。PCFは反リベラル全左翼の結集を支持、LCRはPSを社民とし、PSに左の統一候補を主張。
  結局妥協はならなかった。
  2007年2月ジョゼ・ボヴェが立候補を宣言し、集合はマリー・ジョルジュ・ビュフェとジョゼ・ボヴェのどちらも支持せず。

社会選択とエコロジー連合FASE
   2008年12月結成。2009年EU選結集を目標。参加は
    選択Les Alternatifs
    統一共産主義者 パトリク・ブラウエゼックらのPCFグループ
    統一集合全国調整CNCU Coordination nationale des collectifs unitaires
    連帯エコロジー運動(マルティーヌ・ビラール
    アルテール・エコロ
    ユートピア運動
    グローバリズムへの選択集中と生産主義からの別離のための政治運動le Mouvement politique pour une convergence des alternatives a
     la globalisation et pour la sortie du productivisme
    左翼への新展望連合l'Association pour de Nouvelles Perspectives a Gauche
    社会主義民主的選択l'Alternative Democratie Socialisme(マルセル・リグー、旧CAP) 
    左翼選択のためにPAG Pour une Alternative a Gauche
  その他、市民選択(クレール・ヴィリエ)、民主社会連合人民教育政治連合ジャック・ニコノフ)、人道党などの活動家。
  その他個人ではイヴ・サレスコペルニクス財団)、クレマンティヌ・オタンなど。

  左翼戦線や反資本主義新党が参加せず、交渉不成功でEU選参加せず。
  ジョゼ・ボヴェヨーロッパ緑から立候補し当選。
  2011年左翼戦線参加。

ユートピア運動
 社会党や緑などのなかの潮流の連合、フランク・ピュピュナ(社会党で活動)により定義された新しい左翼思想
に基づく。1996年創設。
 ドミニク・メダアンドレ・ゴルツハンナ・アレントジャン・ガドレイらの思想から影響を受けている。
 成長のドグマ、消費社会と自由liberale思想の利益、労働価値中心主義の3つの疎外の否定から生まれた。
 2008年には1500人を超える活動家がおり、70%は社会党、10%が緑、他はATTAC人権同盟など。
 ベルナール・ラレマン、ドミニク・メダなどが支持・同伴者。ミッシェル・ロカールも興味を示す。
 2007年社会主義青年運動MJS青年緑Fac Verte(学生、大学教職員組織)、REVERなどの活動家が青年ユートピア結成。
 左翼急進党、共産党、LCR選択にも若干の活動家がいるが潮流を形成するまではなっていない。
 2007年選挙では社会党のミッシェル・フルニエ・アルマンが唯一のユートピアの流れを引く候補。
 フランク・ピュピュナは2008年11月に新たに結成された左翼党に参加。

人民教育政治運動M’PEP〕
 2004年ATTAC活動家などが結成。左翼の左翼。ジャック・ニコノフらが指導。


左翼急進党PRG
 (1972年、左翼急進・社会主義運動MGRS、1973年左翼急進運動MRG、1974年急進、1996年社会主義急進党PRS、
1998年左翼急進党と名を変えてきている。)
 1972年、共同綱領を支持し、1974年大統領選でミッテランを支持するグループが急進党から分裂。
 ロベール・ファーブルが党首。
 1970年代の社会党政権獲得で徐々に周縁化。
 1978年、ジスカールデスタン支持(共和国思考)の大量離脱者発生。
 1981年、大統領選ではミッシェル・クレポで2.09%、以降2002年まで候補なし。
 1981、1988、1997年と社会主義者政権参加。
 1982年、元MRGのギ・ジャンネソがフランス民主党PDF結成。
 1984年、EU選挙でブリス・ラロンドのエコロジスト、オリヴィエール・スティルンの急進中道連合UCRと共同名簿。
 1990年、ベルナール・タピを指導者とし、急進エネルギー名簿で1994年EU選挙で12.03%獲得。
 1996年党首がジャン・フランソワ・オリからジャン・ミシェル・ベイレに交代。
 1997−2002年まではRCV参加。
 2002年、大統領選ではクリスティアヌ・トビラを候補とし2.32%獲得。
 2007年には党有力者ベルナール・タピがサルコジを支持。
 国会選挙では7議席と海外2議席獲得。
 2002年以降PSと席を一緒にしている。
 2012年ジャンマルク・エロー政権でクリスティアヌ・トビラが司法大臣となる。
 2012年選挙は社会党と協力で13議席獲得。
 急進党(ヴァロワ)共に彼らの共同グループ欧州社会民主連合RDSE(中道右派、上院)に結集しようとしている。
 2016年党首シルヴィア・ピネルに交代。
 2017年選挙では7議席獲得。アニック・ジラルダンとジャック・メザールがエドアール・フィリップ政権に入る。
 2017年(ヴァロワ)急進党と合同を目指す。12月急進運動MRSL結成。
 ヴィルジニ・リジエール、ステファヌ・サン・アンドレが合同に反対、左翼急進結成を発表。
 2019年、PRGはMRSLのマクロン派参加を恐れこれから去る。
 EU選ではPRGは社会党と参加。


 またシュヴェーヌマンの共和主義極から急進共和主義連合U2Rが派生し分散した急進主義者を再結集しようとしている。

 急進党は1901年結成の古い政党で急進共和主義の左派的伝統から来ている。
 1880年代には急進主義は極左とみなされていたが1905年の社会主義者の出現で中道左派に移行し、以降徐々に
中道から中道右派に移動していった。
 戦前は1924年と1932年にSFIOと左翼カルテルを形成し、1936年には人民戦線に参加している。

 第2次世界大戦後、急進党も初期でのペタン支持により不信を受けた。戦後再建され第4共和制での重要な政党の1つ
となったが戦前の地位には戻れなかった。
 選挙では10%以下で、PCFやゴーリストが支配していた。

 人民共和主義運動MRP(1944−1967、キリスト教民主、親ドゴール)の出現の影響もうけた。
 共和主義左翼連合RGR(1946−1956)を結成したり、第3勢力連合に参加したりしていたが、マンデス・フランスは人気があり、
急進党を再興した。

 ピエール・マンデス・フランスのもとで穏健左翼に戻り、マンデス・フランスは植民地主義に強く反対し、1954−1955年首相
となりベトナム、チュニジア撤退を行っている。
 党内で右派対抗手はエドガール・フォールで1952年と1955−1956年首相を務めた。
 急進党はドゴール復帰に賛成し、反対するマンデス・フランスは党を去った。

 第5共和制で急進党は1959年政府支持から反対に戻り、1960年代は斜陽を続けた。
 SFIOと民主・左翼社会主義者連合を形成し、1965年はミッテランを支持した。
 ジャン・ジャック・セルヴァン・シュライベルの指導下、1970年代は左派に移行した。
 しかし共産主義者も参加するミッテラン体制で党は分裂、1972年、左派は離党し左翼急進・社会主義運動MGRSを結成した。

急進党(ヴァロワ)
 1969年、ジャン・ジャック・セルヴァン・シュライベルの指導下で1971年、シュライベルの中道革新派との提携派(431票)と、
モリス・フォールの左翼連合派(237票)に分裂。
 シュライベルは当初左派であったがやがて右派になっていく。
 1972年、シュライベル派は改革運動MRに参加し、人民共和主義運動MRPと連合する。
 他派はロベール・ファブル左翼急進運動MRG結成。
 以降いわゆるヴァロワ急進党が正統な後継者となっている。

 1978年、ジスカール・デスタンのフランス民主主義連合UDF結成に参加、UDFを通して急進党はRPR/UDFより生じた
すべての政権に参加。
 2002年大統領選ではフランソワ・ベイルがUDFの候補となったが急進党はシラクを支持した。
 その後多くの急進主義者は人民運動連合UMP結成に参加。
 UMPでのサルコジの指導権が上昇すると急進主義者はUMPで穏健派と社会派の対抗平衡をとりはじめこれがうまくいって
政界に再復帰した。メンバーは急進党(ヴァロワ)/UMPのどちらかに参加。
 2007年選挙では18議席獲得。
 2008年セナート選は6議席、2004年EU選は4議席獲得。
 2012年選挙は6議席。(UMP参加含むと13議席)
 ジャン・ルイ・ボルローが中道派結集で民主独立連合UDI結成。UMPから数名参加。
 急進党は1979〜2002年までUDF、2002〜20011までUMPと結びつき2012年のUDI結成で再び自立化。
 2017年選挙ではUDIで18名。
 選挙後、PRとPRGの統合が進められた(急進運動MRSL)が反対するPRG少数派が左翼急進を結成。
 UDIに参加するメンバーから統合に反対し去る者が出現。
 左翼急進は2019年EU選は社会党などと提携つもりであった。
 MRSLはマクロン派参加を考えていたためこれにPRGのシルヴィア・ピネルが反発。
 PRGは2019年MRSLから去ることを決定。
 結局MRSLはマクロン派に参加し1議席確保。
 PRGは社会党と提携し、左翼急進は参加できず。


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絶対自由主義運動〕 絶対自由主義運動の歴史
  絶対自由主義選択(1991−)、アナーキスト連合FederationFA(1945−)、アナーキスト・グループ調整(2002−、FA派生)
 絶対自由主義共産主義者組織(1976−)、社会絶対自由主義攻撃アナーキスト連合UnionUA

毛沢東主義
  フランスの毛沢東主義は1960年のフルシチョフの非スターリン化で出現、中国共産党とアルバニア労働党を支持、
 フランス・マルクスレーニン主義共産党は1967年結成、1968年禁止され、秘密活動に入り、中国ーアルバニア衝突で分裂。
  この潮流は1975−1985年の間に凋落。今日政治的に影響ある毛沢東主義者はほとんどいない。
  フランス労働者共産党(1979年設立、アルバニア支持、国際マルクスレーニン主義諸党・諸組織ICMLPO(統一と闘争参加)、
 マルクス・レ−ニン主義共産主義組織・プロレタリアの道(1979−、ICMLPO参加)、毛沢東主義・マルクス・レーニン主義共産党
 (2000−)など。

フランス・マルクス・レーニン主義サークル連合FCMLF
 1964年、共産党を追放された活動家がフランス・中国友好組織を基にジャック・ジュルケとフランソワ・マルティらにより
指導され結成された組織。1966年フランス・マルクス・レーニン主義共産主義者運動MCFとなる。
 MCFは1967年フランス・マルクス・レーニン主義共産党PCMLFとなりジャック・ジュルケが率いる。党は中国政府の位置に反対し、
プロレタリア左翼の種々の自由意志主義を非難。1968年の学生・高校生運動に共感を示す。1968年に禁止され秘密組織となる。
 1970年には2000−3000の活動家がいたが同年3派に分裂。

・赤いヒューマニティ 1978年秘密組織化しマルクス・レーニン主義党、1985年毛沢東主義を捨て選択共産党PACを名乗る。
  当時約300人の活動家。PACは自主管理に傾く。ジャック・ジュルケは少数派になり1986年組織を去り、ジャン・リュック・エノディ
  多数派となる。1988年活動家は40人以下になる。大統領選で虹とピエール・ジュカンを支持やがて解散。
赤色戦線 1974年、秘密組織化しマックス・クリュゾーに指導され革命的共産党(ML)PCR−MLを名乗る。活動家約1000人。
  PCMLFと異なり、中国政府側に反対するのを拒否。1976年の毛沢東死後も中国支持、1978年選挙でPCMLFと共闘し約1%獲得。
  1981年革命的共産党となり毛沢東主義を放棄。自主管理路線を採用。トロツキストと連合しPSUのユゲット・ブシャルドーを支持、
  1982年ルネ・ロドリゲスがPCRの総書記になり1983年解散。
労働者 1970年、レイモン・カサス(エンヴェル・ホジャとフェリックス・ガダリの友人、1968年5月は毛沢東主義者を指導して活動)
  が結成。1977年消滅。
 
 1971年、赤いヒューマニティの周りに再結集、しかし新しい分裂が発生し、赤いヒューマニティは大した結集をみなかった。
 1975年、労働者グループ、PSU派生の革命的左翼、スクレリジェン(UDBからなる)から参加。
 1973年、社会帝国主義からフランスを守るためと称してド・ゴール主義者や新王党派運動と会合をもつ。
 1976年、毛沢東死後、毛沢東主義を放棄、1978年、秘密組織化しマルクス・レーニン主義党PCMLとなる。

フランス・マルクス・レーニン主義センターCMLF
 1965年、パトリック・プラドとクロード・ボリウが結成。ジャック・グリッパベルギー共産党側に立ち、中国政府を支持。
 ロシアおよびアメリカ帝国主義に対する民族自立を認めド・ゴール主義者体制を支持。1976年消滅。

マルクス・レーニン主義青年共産主義連合UJCml
 1966年共産主義学生連合UEC(元、親共産党組織、1939年結成、トロツキストはJCR結成)から排除された活動家が結成。
 ロベール・リナールベニー・レヴィー、ジャック・ブロワイエルに率いられ、主に高等師範学院で活動。1968年禁止によりプロレタリア左翼
となる。
 UJCmlは極右、共産党、警察に対する軍事行動のためのオリヴィエ・ロラン率いる準軍事組織自主防衛防護グループGPAを結成。
 1968年ベトナムでの犯罪行為を理由にロジェ・オランドルを襲撃。ソルボンヌの学生は極右を攻撃、1968年5月には種々の組織の極左
を集合しソルボンヌ周辺では警察の介入を挑発。
 学生運動をプチブルジョア運動としてデモに参加しなくなり、ルノーとプジョーでの騒乱により1968年解散させられる。
 1968年夏、フランス人民への再会の長い行進と称し、高校生(リセ)、学生、教師らが労働と農民闘争に参加。
 ベニー・レヴィはソショ、モニックとアンドレ・キュジニエはリオン、ニコルとロベール・リナールはラングドックでシトロエンの労働者と、
ジェラール・ミラーはナント地域、UNEF議長のジャン・テレル、ジャン・ピエール・ル・ダンテクとジェラール・ヴァレリは北海岸へ赴く。
 1968年末、UJCは分裂、少数派(ベニー・レヴィ、クリスチャン・リス、ジャン・シャヴォ、オリヴィエ・ロランセルジュ・ジュリ
アラン・ジェイスマール、ジャン・ポール・クリューズ、ジルベール・カストロ、ジャック・トゥロー、、ジャン・ピエール・ル・ダンテク
ベルナール・リシア、ロベール・リナール)はプロレタリア左翼を結成し、ポルト・ショワジーのシトロエン工場に行く。
 多数派(クロードとジャック・ブロワイエル、モニックとアンドレ・キュジニエ、アルノルド・バック)はフランス・マルクス・レーニン主義共産党
に参加。

プロレタリア左翼GP
 1968年9月結成、マルクス・レーニン主義青年共産主義連合の後継。
 GPはナンテールの5月22日運動の活動家と高等師範学院のマルクス・レーニン主義サークルの若い知識人を再結集した、
マルクス・レーニン主義青年共産主義連合の後継のマルクス哲学とPCF、ルイ・アルチュセールの影響下で結成された組織。
 5月の学生反乱とそのCGTやPCFに反対する批判的労働運動との関係に将来の革命の兆候を見て、レーニンの大中央労働組織の
なかからの労働者分派の展開論は失敗し、新路線が必要と主張。
 1969−1970年、GP主義者は修正主義者の労働組織を越えるため自由意志主義を展開、自由意志を特徴とする人民の闘争のなかから
真の共産主義労働者党が建設されると考えた。そこで毛沢東主義者は種々の社会運動に関係した。
 既成運動にも乗り出し、主に学生よりなる活動家をプチブル知識人の偏見を取り除くため非熟練労働者として工場に派遣した。
 GPが種々の知識人や暴力的言論熱狂者からメンバーが来たことがレーニン主義型の組織をためらうことの1つの理由である。
 GPはベニー・レヴィアラン・ジェスマールによって率いられた。
 彼らのなかからは著名人や成功者がでた。
 セルジュ・ジュリオリヴィエ・ロラーンフレデリック・ファジャルディジェラール・ミレールジャン・クロード・ミルネール
マーリン・カルミッツアンドレ・グリュックスマンギレ・スゾンクリスチャン・ジャンベギュイ・ラルドローなど。
 歌手のドミニク・グランジュがこのグループの支持者として歌等で活動。新しいパルチザンLes Nouveaux Partisansはこの時代の歌として著名。
 悲劇的なことは活動家のピエール・オヴェルネイがルノーの秘密要員ジャン・アントニ・トラモニによって殺されたことである。

 公式的には1970年5月禁止された。GPは1973年新人民レジスタンスNRPを結成し解散。
 あるものは自主管理運動などに向かい、また国際旅団と勝利と生きるを結成。
 国際旅団は1977年人民自治中核軍を結成、1977年3月ジャン・アントニ・トラモニを暗殺した。

 GPメンバーであった、オリヴィエ・ロランアンドレ・グリュックスマン(親子で)、ベルナール・アンリ・レヴィらはフランスのネオコン
集団と目されるシンク・タンクの弁論サークルの中心メンバーとなった。 →サルコジと旧毛沢東主義者
 これは思想というより人格の問題である
 アンドレ・グリュックスマンベルナール・アンリ・レヴィらはユダヤ人であり、イスラエルとの結びつきが米国元トロツキスト崩れネオコン
同様、ネオコンへの道の原因のひとつであるといわれる。
 弁論サークルは2001年9月11日のすぐあとに創設された。2006年以来雑誌世界を良くするを発行。

フランス・マルクスレーニン主義共産主義運動
 1969−1985年存在。PCMLFよりプロレタリア左翼に反対。
 よく知られた主な旧メンバーはアラン・バディウシルヴァン・ラザリュスナタシャ・ミッシェルカトリーヌ・キミナル
 1985年政治組織結成。

共産主義万歳
  フランス・マルクス・レーニン主義共産党PCMLFとマルクス・レーニン主義青年共産主義連合UJC(ml)の分裂グループが
1968年合流、1969年革命万歳ロランド・カストロらにより結成。 
  他にギュイ・ホッカンエムステファーヌ・クルトワなどが参加。1971年解散。
  ステファーヌ・クルトワは1982年アニー・クリジェリと雑誌共産主義創設。

○労働共産主義組織OCT
  1971年、LCRの流れを汲む革命PSUの流れを汲む左翼労働者農民(マルク・ウルゴン)が合流し結成。1981年解散。

〔現存組織〕

マルクス・レーニン主義共産主義組織・プロレタリアの声OMCLVP
  ポスト毛沢東主義の自由意志主義者、1976年残存していた種々のML組織の流れの活動家を再結集。
  不法移民の組合闘争に参加。

フランス労働者共産党PCOF
  1979年、フランス共産党再建組織ORPCFとプロレタリア戦闘グループが合流した親アルバニア派の流れ。
  マルクス・レーニン主義党組織国際協議会参加。

マルクス・レーニン・毛沢東主義党
  共産主義自治中核と雑誌”社会戦線”の鼓舞者が2000年代結成。2003年かつての毛沢東主義組織のプロレタリア左翼を名乗る。


共産主義左翼
  評議会共産主義ルクセンブルク主義など、ときにはウルトラ左翼と称される。
  たとえば交換と運動(評議会主義、1975−)、共産主義民主(ルクセンブルク主義)、共産主義者運動(1998−)、
 共産主義理論(1975−)

フランスの極左テロリスト
  直接行動(1979−1987)、人民自治中核軍(1977−)

〔非毛沢東主義マルクス・レーニン主義
  共産主義者調整Coordination 1991年PCF内グループとして発生。これからPRCF、URCFなど発生。

  フランス労働者共産党PCOF 1979年結成の親アルバニア派。
  フランス共産主義再生の極(柱)PRCF 2004年結成。PCF内の1990年代転換反対派に起源。
  フランス革命的共産主義者連合URCF 2004年結成。1991年発生のPCF内グループに起源(ユー反対派)。
  共産主義者 2002年PCF少数派が分裂結成。書記長はローランド・ペルリカン
  プロレタリア左翼 1968年毛沢東主義者が結成。1968年夏運動の流れ、1970年禁止。知識人に影響を与え活動家からは
   著名な政治家や学者がでた。これらのうちオリヴィエ・ロランベルナール・アンリ・レヴィアンドレ・グリュックスマンらはフランス
  のネオコングループ弁論サークルの中核である。


自主管理運動
  現代自主管理運動は1973年のイアタリアの労働者自主管理であるがこれのフランスへの拡散は1974年ヤン・ムリエ・ブタン
 創設の雑誌”同志”を出発とする。急速に多くのグループが現れ、党や組合に反対で合意があったが絶対自由主義、特に
 反国家や反資本主義の思想には強い支持はなかった。
  他に状況主義者インターナショナルの流れや雑誌”人民の主張”の周辺の旧プロレタリア左翼などがあり、後者は
 セルジュ・ジュリの雑誌解放を生み出した。
  しかし直接行動の冒険を除いてイタリアのような鉛の年月はフランスでは起こらなかった。

ピンク豹(パンテール・ローズ)
  急進クイア・グループ、2002年大統領選挙時出現。
  ピンク・ブロック戦術を取る。
  革命行動同性愛戦線(1971−1976年)、力解放のためのAIDS連合Act Up(1987−)などの活動の後継。

アンティファ(反ファシズム)運動〕
  アンティファは1980年代にドイツで特に自主管理グループからでてきた左翼の運動・行動に直接的起源をもつ。
  アンティファ=戦闘的反ファシストは暴力を使用し街頭で物理的存在を示すファシストに対し同等の対抗手段をとる必要
 があると考える。

  率直反ル・ペン・グループSCALP 
   1984年6月6日ツールーズで自主管理主義者運動から出現した、反ファシズム絶対自由主義者グループが起源。
   この動きは注目をあび、フランス各地に広がった。SCALPは選択ロック音楽とともに展開した。
   これらグループの連合結成が試みられたがうまくいかなかった。パリでは雑誌REFLEXesが発行され影響を与えた。
   LCRはこれらのグループへの派遣を公言して影響を与えた。
   LCR(LC)は既に1973年6月21日ファシスト新秩序に大規模な組織的攻撃を行い解散をくらっている。
   1993年には全国グループとしてノー・パサランが結成された。

  ノー・パサラン:1992年出現、SCALPから派生、2003年、絶対自由主義・社会攻撃的OLS派生。
  刈上げ(ラスras)戦線:1990年結成。LCRの影響を受けている。

反人種差別運動
  SOS人種主義 1984年設立、SPに近い。移民や少数人種支援。
  MRAP 1949年設立、1972年名称変更(反セム主義を除去)、戦中反人種主義から植民地戦争後の移民増大という
    時代変化に対応。
  LICRA 1926年設立。


〔右派政党の動向〕 フランスの政党

・中道(キリスト教民主)  人民共和主義運動MRP(1944−1967年)、民主中道CD(1966−1972年)、民主・社会中道CDS(1976−1995年)
    フランス民主連合UDF(1978−)、民主運動MoDem(2007−)、新中道NC(2007−)  

  人民共和主義運動MRPは第4共和制でのキリスト教民主政党。1944−1967年存在、親ドゴール、集散を経て、
 1978年フランス民主連合UDFとなる。これはジスカール・デスタン支持の選挙連合から単一党化、右派でのゴーリスト対抗勢力。
  UDFは民主・社会中道CDS(1976年民主中道中道民主進歩とMRP、CNIP、UDSRメンバーが結成)、共和党PR、急進党、PSDなどが結成。
  UDFは2007年、民主運動MoDemフランソワ・バイル)となるがサルコジ支持派は新中道NC結成。
  NCは2012年民主独立連合UDI結成参加、2016年中道主義者LCとなる。2017年LCはUDIから離れる。

  民主中道CDはジャン・ルカニュエが1966年結成。キリスト教民主やMRP、CNIPなどのメンバーが結成。ゴーリストと左派に対し第3路線。
  1969年中道派がポンピドー支持のため分裂し中道民主進歩CDP結成。
  CDは1976年CDPと合流し民主・社会中道CDS結成。CDSは1978年ジスカール・デスタンの共和党、急進党とフランス民主連合UDF結成。

  1995年UDFの中道派とCDSと社会民主党PSDが民主勢力フランソワ・バイル)結成。1998年UDFの単一党化で消滅。

  改革運動MRは1972年セルヴァン・シュライベルの急進党とCDが結成。1974年はジスカール・デスタンを支持するがサルコジ派勃興で没落。
  多くはUDFへ。
  進歩と現代民主制PDMは1968年CDと独立派農民全国センターCNIPが結成。

  第3勢力は第4共和制(1947−1958年、議会制)でSFIO、UDSR、MRP、穏健派、(CNIPも支持)よりなり、共産党とドゴール派に反対し
1947−1951年に政権維持。
  PCF、SFIO、PRPの3党連合が1946−1947年の政権維持。ドゴールは大統領制を支持し1946年に政権を去り、1958年政権復帰。
  戦後、伝統的第3共和制政党(急進党と保守)は支持されなかった。1946−1951年は共和左翼連合を急進党、UDSR(ミッテラン参加)と
 中道ないし右派が結成。

穏健派(右派)  独立派農民全国センターCNIP(1951−)

   1870年成立のの第3共和制(1970−1940年)で急進派や社会主義者に対抗し漸進主義を主張した中道左派。1876−1890年代フランス政治を支配。
   第4共和制では1945年ミッシェル・クレマンソー派が自由共和党PRL、ジスカール・デスタン、ルネ・コティ独立共和派RI、それとポール・アンティエ
  社会連合農民党結成。この3党は1951年独立派農民全国センターCNIPとなる。
   CNIPは1958年のドゴール復帰を支持。1962年にはドゴール反対となり、ドゴール支持のジスカール・デスタン独立共和派RI(第5共和制)結成。
   1965年にCNIPはMRPとCD結成したが1968年再度独立したが周辺化し、2002−2008年までUMPに参加。
   1987年一部が独立派国民連合を結成し議会右派や国民戦線と関係をもつ。
   ジャン・マリ・ル・パンは1958−1962年にCNIPの国会議員。

   ジスカール・デスタン独立共和派RIは1977年共和党となりUDFに参加し、1995年分裂、1997年リベラル民主DLとなり、UDFを去るが、
  反対派は独立共和とリベラルの極PRILを結成し1998年民主勢力などとUDF参加、DLは2002年UDFメンバーとUMP参加。

ド・ゴール派  共和国連合RPF(1947−1953年)、新共和連合UNR(1958−1968年)、共和国民主連合UDR(1968−76年1)、
          共和国連合RPR(1976−2002年)、人民運動連合UMP(2002−2015年)、共和主義者(2015−

  1947年フランス人民連合RPFがド・ゴールにより結成される。1953年社会行動共和連合URAS、1956年社会共和全国センターCNRS結成。
  1958年新共和連合UNR結成、UNRは1962年UDTとUNR−UDT結成。
  UNRは1967年第5共和国民主連合として選挙、1968年共和国防衛連合、後共和国民主連合UDR(1971−1976年)となる。
  1973年選挙でUDR、独立共和派RI、CDPが共和進歩連合結成URP。
  UDRは1976年解散、ジャック・シラク共和国連合RPRを結成。1984年EU選挙からRPR−UDF連合結成。
  1988年は中道共和連合URC、1993年はフランス連合UPFをUDFと結成、1993年の勝利ではシラクが共存を拒否、エドワール・バラジュールが首相となる。
  1999年選挙でフランス連合RPF分裂、また”たて共和国DLR”が結成される。
  2002年選挙でシラク結成の人民運動連合UMPがRPRに取って代わる。
  1993年選挙前はドゴール派保守のRPRと中道のUDFが連合を組んでいたが、1995年大統領選でシラク支持派とバラジュール支持派に分裂。
  1997年議会選挙敗北で右派はフランス連合結成。
  2002年大統領選前は3党に分かれていたシラク支持派が運動連合結成。シラク再選で議会選のため大統領多数派連合結成。これはUMPと再命名。
  人民運動連合UMPにはドゴール派保守のRPR、リベラル右派のリベラル民主DL、かなりの中道UDFすなわちUDFのキリスト民主、急進党、
 フランス民主・人民党PPDF(1995年UDFのジスカール・デスタン忠誠派、シラク支持派が結成)がつまりドゴール派、共和右派、キリスト民主、右派急進勢力が
 参加。2004年自立化し始め、シラクとラファラン不人気でシラク対抗者サルコジを支持するようになった。サルコジは2015年共和主義者と改名。

  発議と自由運動(1981年結成)、たて共和国などの小組織がドゴール派の教義を独立して維持しようとしている。

  労働民主連合UDTは左派ゴーリストルネ・カピタンルイ・ヴァロンが1955年結成。
   その他左派ゴーリストミッシェル・ジョベールアンドレ・マルロージャン・シャルボネルフィリップ・デシャルトルロベール・グロスマン
  レオ・アモンジャック・ドエールレイモン・オフロイフィリップ・セガンロジェール・バルベローなど。


政権(首相)

第3共和制
大統領 1944−1946年 シャルル・ド・ゴール
1944−1945年 ジュール・ジャンヌネイ急進PRS) MRP、SFIO、農民党PP、独立共和RI、PCF、PRS、民主主義者・社会主義者抵抗連合UDSR、
1945−1946年 ヴァンサン・オリオール(SFIO)ら4名 MRP、PCF、SFIO、RI、UDSR

1946年 大統領フェリックス・グアン(SFIO) SFIO、MRP、PCF、PRS
1946年 大統領ジルジュ・ビドール(MRP) MRP、SFIO、PCF、PRS
1946−1947年 大統領レオン・ブルム(SFIO) 首相ギ・モレ(SFIO)等 SFIO

第4共和制
大統領 1947−1954年 ヴァンサン・オリオール(SFIO)
1947年 ポール・ラマディエ(SFIO) SFIO、PCF、MRP、RI、PRS、UDSR
1947年 ポール・ラマディエ(SFIO) SFIO、MRP、RI、PRS、UDSR
1947−1948年 ロベール・シューマン(MRP) MRP、SFIO、PRS、RI、UDSR
1948年 アンドレ・マリ(PRS) UDSR、PRS、SFIO、MRP、RI、自由共和党PRL
1948年 ロベール・シューマン(MRP) MRP、SFIO、PRS、RI、UDSR、進歩連帯党PSP
1948−1949年 アンリ・クイユ(PRS) MRP、SFIO、PRS、UDSR、PRL、CNI
1949−1950年 ジルジュ・ビドール(MRP) MRP、SFIO、PRS、UDSR、CNI、PP
1950年 ジルジュ・ビドール(MRP) MRP、SFIO、PRS、UDSR、CNI
1950年 アンリ・クイユ(PRS) MRP、PRS、UDSR、PRL、CNI、PP
1950−1951年 ルネ・プルヴァン(UDSR) PRS、SFIO、MRP、CNI、PP
1951年 アンリ・クイユ(PRS) PRS、SFIO、MRP、CNIP、UDSR
1951−1952年 ルネ・プルヴァン(UDSR) PRS、CNIP、MRP、UDSR
1952年 エドガール・フォール(PRS) PRS、CNIP、MRP、UDSR
1952年 アントワーヌ・ピネイ(CNIP) PRS、CNIP、MRP、UDSR
1953年 ルネ・メイエル(PRS) PRS、MRP、UDSR、CNIP、社会共和行動ARS
1953−1954年 ジョセフ・ラニエル(CNIP) ARS、PRS、社会行動共和連合URAS、CNIP、MRP、人民結集RPF、UDSR

大統領 1954−1959年 ルネ・コティ民主連合AD、CNIP)
1954年 ジョセフ・ラニエル(CNIP) ARS、PRS、URAS、CNIP、MRP、RPF、UDSR
1954−1955年 ピエール・マンデス・フランス(PRS) CNIP、PRS、UDSR、ARS、URAS、MRP
1955−1956年 エドガール・フォール(PRS) PRS、CNIP、MRP、UDSR、RDA、ARS、社会連合農民党PPUS
1956−1957年 ギ・モレ(SFIO) SFIO、UDSR、PRS、社会共和CNRS、RDA
1957年 ブルジェ・モヌリ(PRS) 共和左翼結集RGR、PRS、UDSR、RDA、CNRS、SFIO
1957−1958年 フェリックス・ジェイヤール(PRS) PRS、CNIP、RDA、MRP、SFIO、CNRS、UDSR、RGR
1958年 ピエール・プフリムラン(MRP) SFIO、URAS、RDA、CNIP、MRP、RGR、PRS、UDSR

第5共和制
大統領 1959−1969年 シャルル・ド・ゴール(UNR、UDR)
1959−1962年 ミッシェル・ドブレ新共和連合UNR)  UNR、独立農民全国センターCNIP、アフリカ民主結集RDA、人民共和運動MRP、急進
1962年 ジョルジュ・ポンピドー MRP、UNR、労働民主連合UDT
1962−1966年 ジョルジュ・ポンピドー UNR、RI
1966−1967年 ジョルジュ・ポンピドー(UNR−UDT) UNR−UDT、民主左翼GD、RI、民主センターCD
1967−1968年 ジョルジュ・ポンピドー(UDVe) 第五共和民主連合UDVe、RI、
1968年 ジョルジュ・ポンピドー(UDVe) UDVe、共和防衛連合UDR、RI、労働主義者戦線FT
1968−1969年 モーリス・クーヴ・ド・ミュルヴィル(UDR) UDR、RI

大統領 1969−1974年 ジョルジュ・ポンピドー(UDR)
1969−1972年 ジャック・シャバン・デルマス(UDR) UDR、進歩近代民主PDM、RI、CNIP、共和センターCR
1972−1973年 ピエール・メスメル(UDR) UDR、独立共和FNRI、民主センターと進歩CDP、
1973−1974年ピエール・メスメル(UDR) UDR、FNRI、CDP
1974年 ピエール・メスメル (UDR) UDR、FNRI、CDP

大統領 1974−1981年 ヴァレリ・ジスカール・デスタン(FNRI)
1974−1976年 ジャック・シラク(UDR) UDR、革新運動MR、急進党RAD、FNRI、CR、CDP、
1976−1977年 レイモン・バール UDR、FNRI、社会民主センターCDS、RAD、CNIP、
1977−1978年 レイモン・バール 共和結集RPR、FNRI、CDS、RAD
1978−1981年 レイモン・バール RPR、UDF−共和党PR、UDF−CDS、UDF−RAD、GD、CNIP

大統領 1981−1995年 フランソワ・ミッテラン(PS)
1981年 ピエール・モロワ(PS) PS、民主運動MD、左翼急進党MRG
1981−1983年 ピエール・モロワ(PS) PS、MD、MRG、PCF
1993−1994年 ピエール・モロワ(PS) PS、MRG、PCF
1984−1986年 ローラン・ファビウス(PS) PS、MRG、PSU
1986−1988年 ジャック・シラク(RPR) RPR、UDF−CDS、UDF−PR、UDF−RAD、UDF−社会民主党PSD
1988年 ミッシェル・ロカール(PS) PS、MRG、UDF−RAD、エコロジー世代GE
1988−1991年 ミッシェル・ロカール(PS) PS、MRG、UDF−RAD、UDF−PR、UDF、UDF−CDS
1991−1992年 エディット・クレソン(PS) PS、GE、MRG
1992−1993年 ピエール・ベレゴヴォワ(PS) PS、MRG
1993−1995年 エドワール・バラジュール(RPR) RPR、UDF−CDS、UDF−PR、UDF−RAD、UDF−直属AD

大統領 1995−2007年 ジャック・シラク(RPR)
1995年 アラン・ジュペ RPR、UDF−PR、UDF−民主勢力FD、UDF−民主人民党PPDF、UDF−AD、UDF−RAD、
1995−1997年 アラン・ジュペ(RPR) RPR、UDF−FD、UDF−AD、UDF−PPDF、UDF−PR、UDF−RAD
1997−2002年 リオネル・ジョスパン(PS) PS、MDC、PCF、PRG
2002年 ジャン・ピエール・ラファラン(UDF−PPDF) 人民運動連合UMP、民主運動UDF、
2002−2004年 ジャン・ピエール・ラファラン(UMP) UMP、UDF、
2004−2005年 ジャン・ピエール・ラファラン(UMP) UMP、UDF、RAD−UMP
2005−2007年 ドミニク・ヴィレパン(UMP) UMP、UDF、RAD−UMP

大統領 2007−2012年 ニコラス・サルコジ
2007年 フランソワ・フィヨン(UMP) UMP、RAD−UMP、新センターFRS−UMP
2007−2012年 フランソワ・フィヨン(UMP) UMP、RAD−UMP、新センター進歩主義者

大統領 2012−2017年 フランソワ・オランド(PS)
2012−2014年 ジャンマルク・エロー(PS) PS、PRG、EELV
2014−2016年  マニュエル・ヴァル(PS) PS、PRG
2016−2017年 ベルナール・カズヌーヴ PS、PRG、エコロジスト党

大統領 2017− エマヌエル・マクロン(共和国前進)
2017−2020年 エドゥアール・フィリップ(共和主義者LR) 共和国前進、中道運動、PRG
2020−       ジャン・カステクス 共和国前進、中道運動、進歩領域、急進運動、アジール、エコロジスト党


極右(FN) 右派 キリスト民主 ゴーリスト 急進党 PS(SFIO) 極左(PSU)** PCF
1945年   15.67(53 23.91(150   10.54(71   23.45(146   26.23(159
1946年   12.82(78 28.22(166   11.61(52   21.14(128   25.98(153
1946年   12.94(72 25.96(173   11.12(69   17.87(102   28.26(182
1951年   13.64(96 16.20(95 21.93(103 10.17(93 15.39(107   26.27(103
1956年 12.62(52 14.99(95 10.88(83 3.87(22 14.84(91   14.93(55   25.36(150
1958年 11.90(81 13.70(132 9.10(57 17.60(189 8.3(35   15.50(40   18.90(10
1962年   13.61(55 9.80(36 31.94(233 7.79(44   12,54(65 2.33(2
PSU
21.84(41
1967年   5.10(9 12.64(41 37.73(243     18.96(117
FGDS
2.21(4 22.51(73
1968年   4.14 10.34(33 43.65(354     16.53(57
4.29 20.02(34
1973年   2.83 12.54(30 36.48(272     19.18(102
3.27(1 21.39(73
1978年     21.45(121 22.62(150   2.14 22.58(104
2.77(1 PSU
3.33
 極左
20.55(86
1981年   2.80(11 19.20(62 20.81(85   1.08 37.52(283 1.33 16.17(44
1986年 9.56(35 3.87(14 8.31(53 11.22(76   1.21 31.02(206 1.54 9.78(35
1988年 9.66(1 2.85(16 18.50(129 19.19(126   0.35 34.77(260 0.36 11.32(27
1993年 12.58(1 4.46 18.71(207 20.08(242   10.84( 17.61(53 1.69 9.30(24
1997年 14.94(1 6.60(2 14.22(112 15.65(139   6.83(7 23.49(255 2.53 9.92(35
2002年
11.34 3.65(8 4.86(29 33.30(357   4.51(3 24.11(140 2.47 4.82(21
2007年 4.29   2.37(22
NC
39.54(313 7.61(3
MODEM
3.25(4 24.73(186 3.41 4.29(15
2012年 13.60(2 2.20(12 27.12(194 1.76(2 5.46(17 29.35(280 0.98 6.91(10 *FG
2017年 13.20(8 LR 15.77(112 LREM 28.21
(308
UDI 3.03(18
MODEM 4.12(42
エコロジスト
4.30(1
9.51(45 FI 11.03(17 2.72(10
**1978年までPSU、同年以降極左(トロツキスト)



   ⇒ ヨーロッパの左翼
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