<<ギリシャの左翼>>


ギリシャ共産党KKE

 1918年11月、ギリシャ社会主義労働党SEKEとして、テッサロニキのセファルディム・ユダヤ人教師で、労働運動指導者
アヴラーム・ベナロヤによって結成された。
 ベナロヤは1909年に主にユダヤ人からなる労働者社会主義連合を結成。これはオーストリア社会民主党に範をとり
ユダヤ、ブルガリア、ギリシャ、トルコのエスニックグループの独立連合であった。1913年以前のギリシャの社会主義者
の多くはエレフテリオス・ヴェニゼロス(連合国につく)に従ったがベナロヤらは国際主義をとり中立にたった。
 1915年総選挙でギリシャ国会に2名送り込んだ。同時に議員をもったアレクサンドロス・パパナスタシウ率いる社会主義者
グループは外交問題でヴェニゼロスについた。ベナロヤらはオーストロ・マルクス主義者の影響を受けていた。
 1918年には労働者総連合も結成された。政府の弾圧で1919年全国ストライキが起こり、ソ連誕生の余波もあり社会・政治
的に分極化し、急進派は強化され第3インター加盟にいたる。
 党はN.ディミトラトス、D.リグドプロス、M.シデリス、A.アルヴァニティス、S.コッキノスの5人の中央委員会メンバー
によって運営された。
 1920年の第2回党会議で第3インター加盟を決定し、ギリシャ社会主義労働党−共産主義者と名を変え、N.ディミトラトス、
M.シデリス、ヤンニス・コルダトス、G.ドゥマスらが指導部になった。
 SEKEは1919−1922年のギリシャ−トルコ戦争を帝国主義的として反対、ギリシャ兵士に職務を放棄して銃を国王に
向けるよう訴えた。
 1920年コンスタンティノス・スペラス、ヤンニス・ファヌラキスが反党分子として追放される。
 スペラスはギリシャ労働者総連合の活動家でアナルコ・サンディカリストであった。彼は1922年独立労働者党AEKを結成。
 これはテオドロス・パンガロス独裁下の弾圧で1925年解散。スペラスは1926年労働者総連合からもアヴラーム・ベナロヤ
により追放された。1943年OPLAにより暗殺される。
 1923年ベナロヤはボルシェヴィキ化に反対し追放された。
 1924年11月党名をギリシャ共産党KKEに変更し、マルクス・レーニン主義原則を採用した。
 パンデリス・プリオプロスが総書記に選ばれた。
 1923年、週刊誌”マルクス主義文庫”が発行され、1924年その周辺にデメトリウス・ヨトプロスを指導者とする
文庫Archeioマルクス主義組織が結成され、このグループは1930年、国際左翼反対派に参加した。
 1934年、文庫マルクス主義者の多数派は国際トロツキスト運動から撤退した。
 マケドニア問題で多くの追放者がでた。
 1927年、パンデリス・プリオプロスらが追放され、このグループは反対派を結成し、国際左翼反対派に加わった。
 マケドニア問題でこのほか、ヤンニス・コルダトス(歴史家、著作”ギリシャ革命の社会的意義”1924年でギリシャの史的唯物論
の記念碑を打ち立てた。)が党を離れた。

 1924年党は北ギリシャのマケドニアとトラス(トラキア)の独立国家建設推進を発表した。これはすべての諸民族が自決・独立した
単一の人民共和国思想に基づいていた。
 これはコミンテルンによる北方ギリシャの分離政策として当時の共産主義の人気を傷つけた。
 この問題は1954年、中央委員会で北方少数派の民族自決を引っ込めることで終結した。

 一連の法がはっきりと共産主義者の思想と信念を罰することを目的としていた。党は1936年、ヨアンニス・メタクサス第四
8月体制
(1936−1941年)で禁止された。多くのメンバーが投獄または孤島に追放された。
 KKEと他の左翼政治勢力は全国ギリシャ労働連合を含む労働組合結成を推進し、これは1928年の戦間期政府の反対に会い、
教育大臣のゲオルゲ・パパンドレウは組織された共産主義教師に対する規制を通過させた。

 KKEメンバーは1936−1939年のスペイン内戦において社会主義政府側で約440名が国際旅団で戦った。
 その多くはKKEの幹部であった。

 詩人ヤンニス・リツォスは1931年KKEに参加。

 1940年までKKEはほとんど崩壊、メタクサス独裁でほとんどのメンバー、指導者は投獄された。
 1940年10月まで約2000のメンバーで半分が投獄または亡命。
 著名な監獄はアクロナウプリア、アナフィ、イカリア、ケファロニアと中央アテネ監獄。
 1940年11月総書記のニコラオス・ザカリアディス(1903年生−1973年没、1931−1956年総書記)が獄中からムッソーリーニに
ファシズムに対し民族解放闘争をギリシャ人民に宣言。ニコス・プルンピディスらはこれを偽造として否定。
 ザカリアデスは党に秩序をもたらすためにスターリンにより1931年総書記に据えられたが1957年には支持者とともに党から追放された。
 1941年4月ナチス侵入開始。1941年9月民族解放戦線結成される。

 レジスタンスからギリシャ内戦 1941年4月ナチス侵入開始、1946年3月内戦開始、1949年10月内戦終結。
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 KKEは1947年12月臨時民主政府を結成、1949年8月敗北しギリシャを去る。

 内戦後、KKEは非合法を宣言され、多くの著名なメンバーはギリシャを逃れ、地下に潜入し、または転向を誓った。
 この法は1948年国王によって発行され、KKEとその仲間はソ連のスパイと決め付けられた。
 多くのKKEメンバーが告訴され、投獄または追放された。
 1952年、ニコス・ベロヤンニスが1954年にニコス・プルンピディスが処刑された。  
 プルンピディスのそのような罪による処刑は内戦後政府による最後のものである。
 左派市民の広がる反応への恐怖でそれ以上の処刑が抑制され、徐々に多くの政治犯が釈放された。
 1955年には4498人の政治犯と898人の国外追放者がおり、1962年には1359人の囚人と296人の追放者がいた。
 しかし、反共法の拡大で、共産主義者とKKE支持者は公共部門から閉ざされ、抑圧的反共監視体制のもとに生活した。
 共産主義者に対するそのような差別は1974年のKKE合法化で部分的に取り除かれ、1980年代に廃止された。
 非合法期、KKEは統一民主左翼(1951−)EDAを支持した。

 ギリシャ共産党の指導者はこれまでニコス・ディミトラトス(1918−1922)、ヤンニス・コルダトス(1922)、ニコス・サルゴロゴス(1922−1923)、
トマス・アポストリディス(1923−1924)、パンディス・プリオプロス(1924−1925)、エレフテリオス・スタヴリドス(1925−1926)、
パスティアス・ギアツプロス(1926−1927)、アンドロニコス・ハイタス(1927−1931、1935年ソ連で処刑)、
アンドレアス・ツィパス(1941年)、ゲオルギオス・シアントス(1942−1945)、ニコラオス・ザカリアディス(1931−1936、
1945−1956、1973年ソ連で自殺?)とほとんどが後に追放されている。
 これはソ連共産党の介入によるものだがこれはこの地域問題がソ連の利害と大きくかかわり、ギリシャやこの地域に不利な押し付けが
なされたためである。
 ニコラオス・ザカリアディスのあとアポストロ・グロゾスを臨時指導者としコスタス・コリヤンニス(1956−1972)が
指導者となった。
 1964年、ソ連修正主義に反対する毛沢東派がギリシャ・マルクス・レーニン主義組織OMLEを結成した。

 1963年5月、EDAの国会議員で平和運動活動家のグレゴリス・ランブラキスが暗殺された。
 これによりギリシャは長い政治的・社会的混乱の時期となった。
 EDAと中道連合は首相のカラマンリスと国民急進連合を非難した。
 ギリシャ諜報部と結びついた極右過激派が犯人とされたがそれ以上の究明はなされれず事件はうやむやにされた。
 ミキス・テオドラキスを指導者としてランブラキス青年運動が結成された。この組織は1960年代のギリシャの左翼運動で重要な
役割を果たし、後の左翼政治指導者の多くはこの運動参加者である。
 現在の共産党の指導者アレカ・パパリガやシリザのフォティス・クヴェリスなどがメンバーであった。
 1967年4月21日、ゲオルギオス・パパドプロスに率いられた右派ギリシャ軍大佐集団が共産主義の脅威を口実にクーデターを
起こし、大佐体制を確立した。
 EDAを含むすべての政党が解散させられ、すべてのギリシャ市民の市民的自由が抑圧された。
 軍事政権の他の反対者とともにKKEのメンバーが告訴された。
 愛国反独裁戦線PAMはKKEとEDAが1967年5月に結成し、ミキス・テオドラキスを指導者とした。
 ミキス・テオドラキスの歌は禁止された。テオドラキスは8月に逮捕された。
 多くのヨーロッパの主要都市でギリシャ国内での闘争を支援するために反軍事独裁事委員会が樹立された。
 ばらばらになったランブラキス青年運動のあとを継いで青年運動組織リガス・フェライオスが結成された。
 1968年、KKEの二つの主要な党派の間の危機が拡大した。危機はソ連のチェコスロヴァキア介入が引き金となった。
 このできごとの残忍さで多くのギリシャ共産主義者はソ連に忠実なKKEと衝突しユーロコミュニズム路線を生み出した。
 ユーロコミュニズム路線は社会主義へのより多様な接近を好んだ。
 KKEから分裂した多数派はギリシャ共産党(国内派)を形成した。(Antonis Brillakis, Babis Drakapoulos,Mitsos Partsalidesなど)
 飛び出した党はイタリア共産党のようなユーロコミュニズム諸党と強い関係を結んだ。
 KKEはKKE国外派(コリヤンニス派、指導者は東欧に住んでいた)と称され、国内派はKKEの政策はソ連共産党政治局により
指令されていると主張した。
 分裂に起因する問題のほかに、KKEはギリシャ軍事政権に対する反対的立場を次の6年間中継続した。
 体制に対する拡大する闘いとしての政治路線は大小の労働ストライキと全国での小さな話題的暴力勃発によって表された。
 その力は大学内で勃興し、1968年創設されたギリシャ共産主義青年同盟KNEが地下で活動した。
 あるいは統一労働組合反独裁運動ESAKが結成された。
 この全時期KKEの地下勢力はギリシャ内外で愛国反独裁戦線PAM、アンドレアス・パパンドレウの反独裁全ギリシャ運動PAK、
中道派の民主防衛のような左派のあるいは中道他の政治グループと密接に活動した。
 1972年指導者がコスタス・コリヤンノス(1956−1972年)からハリラオス・フロラキス(−1989年)に替わる。

 学生反独裁運動の頂点は1973年2月の法学校建物占拠と1973年11月17日の工科大学の学生反乱であった。
 学生と訴えに応えた人々で工科大学周辺は数日間あふれた。軍が攻撃し市民の告発によると50人が周辺で殺された。

 1974年のトルコのキプロス侵攻が独裁に終わりを告げさせ、カリスマ的指導者カラマンリスがパリから帰国し民主党を率い、
政権を握ることとなる。
 1973年6月、軍事政権は王制を廃止、共和制を宣言し、これは軍事政権崩壊後の1974年12月の国民投票で確認された。
 1974年の議会制民主主義の回復後、コンスタンティン・カラマンリスは国民的思い出の重大な部分の立ち直りを期待してKKE
を公認した。
 1974年の選挙ではKKEはKKE国内派とEDAと統一左翼として参加し、9.47%を獲得した。
 1977年から1989年までの選挙には独自に参加し、この間10%前後の得票を獲得している。
 1981年、パパンドレウのPASOKが勝利し政権を握る。
 ミキス・テオドラキスがKKE名簿の無所属として当選。
 1988年、KKEとギリシャ左翼(EAP、以前のKKE国内派)は他の左翼および中道政党、諸組織と左翼・進歩連合
(シナスピスモス)を結成した。
 同年党の青年組織ギリシャ共産主義青年同盟KNEの多くのメンバーと役員が分裂し新左翼潮流NARを結成した。
 これには主要都市とくにテッサロニキの青年同盟が参加した。
 1989年の選挙でシナスピスモスは13.1%を獲得し、新民主との連合に参加し、アンドレアス・パパンドレウ
全ギリシャ社会主義者運動PASOKの以前の支配に対する経済スキャンダルの告発により揺すぶられた政治的色合いの
真ん中に短期間のツァンニス・ツァンネタキス政権を形成した。
 同年11月、シナスピスモスは新民主および全ギリシャ社会主義者運動との共通政権に参加した。これはクセノフォン・ゾロタス
を首相とし3ヶ月続いた。
 指導者がグリゴロス・ファラコス(−1991年)に替わる。ハリラオス・フロラキスはシナスピスモスの議長となる。
 1991年KKEはシナスピスモスから撤退した。しかし党員の一部(ミミス・アンドルラキスヤンニス・ドラガサキス
マリア・ダマナキグレゴリー・ファラコスなど)は離党し、シナスピスモスにとどまり、これは別の左翼政党に発展した。
 指導者アレカ・パパリガとなる。
 1993年以降は5%前後を獲得し、ギリシャの第3党となっている。
 2000年、ヤンニス・テオノスミツォス・コストプロスのような主要な党幹部小グループが離党し、行動左翼統一運動を結成し、
2007年の国会選挙で急進左翼連合に参加した。
 2007年の選挙で共産党は8.15%(300議席中、22議席)を獲得し、急進左翼連合は5,04%(14議席)を獲得している。
 2009年選挙は7.5%、21議席。EU選は8.35%、2議席。
 2012年5月選挙は8.48%、26議席。6月選挙は4.51%、12議席。
 2013年ディミトリス・クツムパスが指導者となる。
 2015年1月選挙は5.5%、15議席。9月は5.55%、15議席。
 2019年EU選は共産党5.53%、2議席。国会選は5.30%、15議席。


ギリシャ共産党(国内派)
 1968年、レオニダス・キリコスらがギリシャ共産党から分裂、国内派はソ連共産党からの支配を断ち切り、イタリア共産党
などとの関係を確立した。
 大佐体制の時期にPAMや青年組織共産主義青年組織EKONリガス・フェライオスなどにより活発に反対闘争を展開。
 その後の体制転換期に1977年、EDAと進歩左翼勢力連合で2.72%、1981年は単独で1.34%、1985年、1.8%獲得。
 1986年解散し、ヤンニス・バニスを指導者とするギリシャ共産党(国内派)革新と多数派のレオニダス・キリコス
フォティス・クヴェリスらのギリシャ左翼に分裂。ギリシャ左翼は1989年、共産党とシナスピスモスを結成。
 ギリシャ左翼は1992年、シナスピスモスに合流。
 ギリシャ共産党(国内派)革新は1990年代初めに革新共産主義者エコロジカル左翼AKOAとなる。
 AKOAは1998年KKEと協力するが1999年選挙では協力解消されシナスピスモスとの協力に不満でKKEとの関係継続グループが
2000年共産主義者革新結成。
 AKOAは2000年選挙でシナスピスモスを支援、2004年以来急進左翼連合参加。
 2007年書記のヤンニス・ムタニアスとペリクリス・コロヴェシスが国会議員となるが2009年議席を失う。


社会党

 1920年社会主義労働党から反コミンテルンの少数派が分裂結成。
 党指導者のディミトリス・ストラティスが1931年ギリシャ労働総連合総書記となる。
 1923−1931年、1933年労働者・社会主義者インターに参加。
 1931年ストラティスらが分裂し独立社会党結成するが翌年解散しストラティスは党に戻る。
 第2次世界大戦の間、党は抵抗活動の前線として人民民主連合ELD結成に乗り出す。
 ELDは共産党主導のEAMに比べ小さな抵抗グループであった。社会党メンバーの大学教授アレキサンドロス・スヴォロス
1944年ギリシャ・レジスタンスによって形成された政府の大統領に指名される。1949年社会党は共産党との関係を絶つ。
 1950年選挙に参加し8議席獲得、1952年選挙で敗北。1953年民主党と合同し労働人民民主党を結成。社会主義者は党内で
社会主義者同盟結成。1957年の議長はディミトリス・ストラティス。
 労働人民民主党は1956年選挙は民主連合に参加し19議席獲得。1961年多くの中道政党と合同し老ゲオルゲ・パパンドレレウ主導の
中道連合結成。
 民主社会党は1935年老ゲオルゲ・パパンドレレウが結成。1951年、ゲオルギオス・パパンドレウ党となる。


統一民主左翼EDA)

 1951年、著名な中道左派および左派政治家によって結成された。その中には以前のギリシャ人民解放軍ELASのメンバーもいた。
 指導者は以前のELAS幹部のヤンニス・パッサリディスがなった。
 当初EDAは禁止された共産党の代替および大衆政治組織として活動するはずだったが、徐々に独自のむしろ多様で穏健な声を
集めるようになった。この発展は1968年共産党の幹部が分裂したときによりはっきりとしてきた。
 ほとんどすべてのEDAメンバーは穏健傾向のユーロコミュニストの分派に加わった。
 EDAは1952年から1964年のすべての選挙に参加した。
 1952年の選挙では9.55%獲得。
 1956年選挙では共和連合、自由党ソフォクリス・ヴェニゼロス)、労働人民民主党、農民・労働者連合、中道国民進歩連合、民主社会党
老ゲオルゲ・パパンドレウ)と民主連合を結成し、48.15%獲得。
 内戦が終わったばかりで反左翼政治が広まっていた当時としては驚くべきことに、1958年には24,42%、第2党、300中79
議席で反対派の主導的政党となった。
 1961年と1964年の選挙では間接的にコンスタンティヌス・カラマンリス国民急進連合に対し老ゲオルゲ・パパンドレウ
中道連合を支援した。
 1961年には宮廷によって起こされた詐欺的出来事により大きく得票を減らした。(国民農業党と汎民主農業戦線を結成し14.62%)
 1963年11月、14.34%、1964年、11.80%、
 1963年、5月、平和運動家でEDA議員のグレゴリス・ランブラキスが暗殺された。
 これによりギリシャは長い政治的・社会的混乱の時期となった。
 EDAと中道連合は首相のカラマンリスと国民急進連合を非難した。
 ギリシャ諜報部と結びついた極右過激派が犯人とされたがそれ以上の究明はなされれず事件はうやむやにされた。
 ミキス・テオドラキスを指導者としてランブラキス青年運動が結成された。この組織は1960年代のギリシャの左翼運動で重要な
役割を果たし、後の左翼政治指導者の多くはこの運動参加者である。(共産党のアレカ・パパリガ、シリザのフォティス・クヴェリス
 この組織はKKE国内派の組織となり後にリガス・フェライオス青年運動となった。
 1967年4月21日、ゲオルギオス・パパドプロスに率いられた右派ギリシャ軍大佐集団が共産主義の脅威を口実にクーデターを
起こし、大佐体制を確立した。
 1967年、パッサディリスは軍事政権により在宅拘留されそのため健康を悪くし1968年に死亡した。
 1967年クーデターにより党は非合法化され、メンバーは告訴された。
 1974年の民主主義回復後、EDAは1974年選挙でイリアス・イリウのもと共産党、共産党国内派と統一左翼として連合を組み
9.47%獲得。
 1977年は共産党国内派と進歩と左翼勢力連合を組み2.72%(共産党は単独で9,36%)。
 以降EDAは単独で選挙に参加することはなく、マノロス・グレゾスの指導で1981年と1985年はPASOKに参加。
 1989年1月は共産党、緑左翼などと左翼進歩連合(13.1%、28議席、11月は11.0%21議席)として参加。


左翼運動・エコロジー連合SYN(シナスピスモス:連合))

 シナスピスモスは1980年代末、KKEKKE国内派の多数派が分裂結成したギリシャ左翼の選挙連合として出現。
 それまでKKE指導者であったハリラオス・フロラキスが議長となる(1989−1991年)。
 1989年選挙ではKKE、ギリシャ左翼統一民主左翼左翼・進歩連合として6月には13.1%獲得。
 シナスピスモスは新民主との連合に参加し、短期間のツァンニス・ツァンネタキス政権に参加した。
 同年11月、シナスピスモスは新民主および全ギリシャ社会主義者運動との共通政権に参加した。これはクセノフォン・ゾロタス
を首相とし3ヶ月続いた。
 ソ連の崩壊が左翼の分裂をもたらし、KKEの伝統的多数派が元書記長グリゴロス・ファラコスを含む党内の非強硬派、
中央委員会のほぼ45%を追放し、連合から分裂した。
 連合の他の政党とKKEの新生部分(KKE多数派は彼らを修正主義者と呼んだ、再生を出版))は1991年連合から単一党に転換、
議長はマリア・ダマナキ
 1993年選挙は2.24%で3%制限を越えれず議席0、議長がニコス・コンスタントプロスに交代。
 1994年欧州議会選挙は6.26%、2議席。1996年議会選挙は5.12%獲得。
 1999年欧州議会選挙は5.16%、2議席(MEP)。
 2000年の選挙では小党のAKOAやエコロジストの小党の支援を受ける。3.2%獲得。
 選挙の数ヵ月後、PASOKとの協力をもとめるグループが多数派を新共産主義転換と非難し、離党し短期間存在した
政党左翼革新近代化運動AEKAを結成、これは数ヵ月後解散しメンバーはPASOKコスタス・シミティスのもとへ移行。
 ダマナキは1994年からPASOKの支援を受け、2003年、PASOKに移行。
 2003年左翼運動・エコロジー連合と改名。

 2004年選挙ではアレコス・アラヴァノスのもと小政党革新共産主義エコロジー左翼AKOA(旧KKE国内派メンバー、
指導者ヤンニス・バニス、2000年共産主義者革新KA分裂、KAは主にKKEと提携)、統一行動左翼運動KEDA(2000年代早期
KKEから分裂)、国際主義労働者左翼DEA(トロツキスト、2004年赤KOKKINOOKDEスパルタクス参加者が分裂)、
活動家市民(マノロス・グレゾスと関係)と急進左翼連合(シリザ)を結成し3.03%。
 同年の欧州議会選挙は党内不一致で独自候補を立てる。
 2005年小政党との連合が再結成され、議長のアラヴァノスは2006年地方選挙で30歳のアレクシス・ツィプラスをアテネ市長候補
とし党の若い世代化をはかる。
 2007年は5.04%獲得。(共産党は8.15%)
 2007年には急進左翼連合(シリザ)にギリシャ共産主義組織KOE、エコロジー介入民主社会運動DIKKI(1995年、
元PASOKディミトリス・ツォヴォラス結成)が参加。
 その他参加は赤KOKKINO(2004年DEAから分裂)、社会主義国際主義者運動CWI(PASOKから追放された1970年代発生
のトロツキスト)、人民2派社会運動など
 2008年、議長に1974年生まれの若いアレクシス・ツィパラスが就任。
 主な執行委員は アレコス・アラヴァノスヤンニス・ドラガサキス、以上旧KKE、フォティス・クヴェリス(旧KKE国内派)、
ニコス・コンスタントプロス(元PASOK)など。
 SYNは思想的にはマルクス、レーニン、ローザ・ルクセンブルクアントニオ・グラムシルイ・アルチュセールニコス・プーランザス
の影響を受けている。
 民主社会主義、エコロジー、フェミニズム、反軍国主義を標榜。
 党内にはプラットフォーム(傾向)というグループが存在する。
  左翼ストリーム:西欧マルクス主義主流、党中央左派。
  革新ウイング:急進社会民主主義、党右派。
  赤緑ネットワーク:エコ・マルクス主義、党左派。
  イニシアチブ:欧州懐疑主義、党極左
 2004年から左翼ストリーム、赤緑、イニシアチブが左派多数派を形成。
 2010年、革新ウイングが離党し民主左翼を結成。
 2013年解散。

民主左翼

 2010年、フォティス・クヴェリスタナシス・レヴェンティスらのシナスピスモスの革新ウイングが離党し結成。
 2011年、フォティス・クヴェリスが指導者となる。
 民主的社会主義を標榜する左派欧州主義。
 2012年3月PASOKから6名の議員合流。ヴァシリス・オイコノム(自由市民)も合流。
 2012年5月選挙は6.10%、19議席。6月選挙は6.25%、17議席。
 新民主ND、PASOKとの連立政権を結成しアントニス・サマラス(ND)内閣に参加。
 11月いくつかの政策に反対するが予算には賛成し3名の議員が党の方針に反対し党を去る。
 2013年4月、パリス・ムツィナス、オディセアス・ヴドゥリスが政府案に反対し離党。
 2013年6月、民主左翼は連立政権を去る。
 2014年EU選挙は1.20%と敗北。
 2015年1月選挙は緑(プラシノイ)と提携し0.49%と議席を失う。
 2015年9月選挙はPASOKと提携(民主連合)、1議席。
 2018年、PASOK、民主社会主義者運動、ト・ポタミ(川)と変革運動結成。間もなく、ト・ポタミが去り、民主左翼も去る。

社会第1
 2013年無所属議員パリス・ムツィナス、オディセアス・ヴドゥリスが民主左翼から離れたメンバーらと結成、これを元PASOKの
テオドロス・パラスタティディスが支持。
 2014年SYRIZA参加。


急進左翼連合(SYRIZA)〕

 2004年選挙の前に結成。
 しかし2001年の”統一のための対話と左翼共通行動の空間”までその結成過程はさかのぼれる。
 これは1990年末から発生したコソヴォ戦争、民営化などの問題への共通政治行動のため起こった。
 2004年結成に参加したのはシナスピスモス革新共産主義エコロジー左翼AKOA、統一行動左翼運動KEDA、国際主義労働者左翼
DEA、活動家市民、その他独立左派グループ。
 ギリシャ共産主義組織KOE(OMLE派生、2003年結成の毛派)は空間には参加したが、選挙連合には参加しなかった。
 選挙結果は241539票、3.3%で6議席獲得。6人はシナスピスモスでこれで連合に緊張が生じた。
 小政党の抗議で1議席AKOAのヤンニス・ムタニアスと交代。国際主義労働者左翼が分裂し赤KOKKINO結成される。両者とも連合
には留まる。2004年欧州議会選挙ではシナスピスモスは独自の候補をたて、他の連合の小政党は別のヨーロッパのための女性名簿
支持。2004年のシナスピスモス大会でニコス・コンスタントプロスが辞任しアレコス・アラヴァノスが新しく選ばれ危機が終わる。
 2007年にはギリシャ共産主義組織KOE、エコロジー介入民主社会運動DIKKI(1995年、元PASOKディミトリス・ツォヴォラス結成)
が参加。
 2007年選挙では5.04%、14議席。2007年選挙には人民連合2派社会運動(1989年民主センター連合元候補結成)も参加。
 2008年シナスピスモスの委員長が33歳のアレクシス・ツィプラスに交代、アラヴァノスはSYRIZAの議会グループ指導者に留まる。
 同年社会主義者国際主義者組織クセキニマ労働者インター委員会)が参加。
 2009年欧州議会選挙は4.7%、1議席。国会選挙は4.6%、13議席。
 他にギリシャ・エコ社会主義者、ROZAが参加。
 2011年社会主義者国際主義者組織クセキニマ労働者インター委員会)が離脱。
 反資本主義政治グループAΠO、急進参加。

 参加組織は
  活動市民:2002年マノリス・グレツォス結成。マノリス・グレツォスはEDA議員として活動し何度か投獄される。2004年参加。
  ギリシャ共産主義組織KOE:毛派、2007年参加。
  民主社会運動ΔHKKI:2007年参加。
  ギリシャ・エコ・社会主義者:2007年エコロジー介入などのメンバーが結成。エコ社会主義者国際ネットワークに参加。2008年参加。
  国際主義労働者左翼ΔEA:トロツキスト、2004年参加。
  赤KOKKINO:トロツキスト、2004年参加。
  統一行動左翼運動KEΔA:2004年参加。
  左翼運動・エコロジー連合SYN:2004年参加。
  革新共産主義エコロジー左翼AKOA:2004年参加。
  ROZA:政治・社会的権利のためのネットワークが基礎。2008年結成、参加。
  シナスピスモス:2004年参加。
  反資本主義政治グループAΠO:2009年結成のPASOKやKKEなど由来の幅広い色合いの左翼グループ。2011年参加。
  急進:2011年参加。

 2012年3月、統一運動(2011年PASOKから分裂)が参加。急進左翼連合−統一社会運動となる。
 2012年5月選挙は16.78%(+12.2%)で52議席で第2党となる。
 2012年6月選挙は26.89%、71議席と支持増やすが新民主も支持増で第1党獲得ならず。
 第1党のボーナス議席獲得のため単一党として再登録。

 参加組織は
  活動市民
  ギリシャ共産主義組織KOE
  民主社会運動DIKKI
  ギリシャ・エコ・社会主義者
  国際主義労働者左翼ΔEA
  赤
  統一行動左翼運動KEDA
  革新共産主義エコロジー左翼AKOA
  Roza
  シナスピスモスSYN
  反資本主義政治グループ
  急進:2009年活動市民から分裂。2011年参加。
  新戦闘者:2006年、憲法16条(教育)改定に反対してPASOKの内部分派として結成、2011年から参加。
  統一運動:2012年3月参加。
  民主中道連合:1976年結成、2012年5月参加。

 2013年党大会でツィプラス74%で指導者に選出、シッシ・ヴォヴ4.7%、パノス・イリオプス0.7%。
 パナイヨティス・ラファザニス率いる左翼プラット・フォームが中央委員会の30%(60名)確保、国際マルクス主義傾向の共産主義者
プラットフォームが2名確保。

 統合に参加したのは
  活動市民
  反資本主義政治グループ
  リガス・ヴェレスティンリス市民連合
  SYN(シナスピスモス
  ギリシャ共産主義組織KOE
  国際マルクス主義者傾向(共産主義プラットフォ−ム)
  民主社会運動DIKKI
  ギリシャ・エコ・社会主義者
  国際主義労働者左翼ΔEA
  統一行動左翼運動KEDA
  新戦闘者
  Roza
  急進
  赤
  革新共産主義エコロジー左翼AKOA
  民主中道連合
  統一運動(統一戦線):2011年以前のPASOKの議員パナギオティス・クルンプリスらが結成。2012年SYRIZA参加。2013年SYRIZAに解消。

 2014年EU選は26.6%で第1党となり、6MEP獲得。
 2015年1月選挙では社会第1社会協定エコロジスト緑などと提携し36.34%、149議席獲得。
 新民主27.81%、76議席、黄金の夜明け6.28%、17議席、ポタミ(川)6.05%、17議席、ギリシャ共産党5.47%、15議席、
独立ギリシャ4.75%、13議席、PASOK−民主整列7.60%、13議席。
 ツィプラスは独立ギリシャと連立政権樹立。

 2015年8月ツィプラスとEUの財政援助の合意を受け、これに反対のパナギオティス・ラファザニスら25名の議員が人民統一を結成。
コスタス・ラパヴィツァスもSYRIZAで当選し、人民統一に参加。)

 財政援助の合意に伴い、ツィプラスは辞任し信任をかけた2015年9月選挙ではSYRIZA35.46%、145議席、新民主28.10%、75議席、
黄金の夜明け6.99%、18議席、民主連合(PASOK−民主連合)6.28%、17議席、共産党KKE5.55%、15議席、ポタミ4.09%、11議席など。
 この結果からツィプラスが続投。人民統一は2.86%で議席獲得できず。
 2019年EU選は26.58%、6議席で、新民主33.11%、8議席、変革運動7.72%、2議席、共産党5.53%、2議席、黄金の夜明け4.88%、
2議席など。
 国会選は31.53%、86議席で39.85%の新民主に敗れる。


統一反資本主義左翼ENANTIA〕

 2007年社会主義労働者党SEK、OKDE−スパルタクス左翼再構成ARAN(毛沢東とアルチュセールの哲学の影響を受けている)、
左翼反資本主義グループARAS(毛派)が結成。
 2009年には統一反資本主義左翼労働者革命党EEK以外の急進左翼戦線MERAと反資本主義左翼戦線(打倒のための反資本主義左翼)結成。
 ギリシャ独立共産主義者組織AKOS、左翼再構成ARAN、左翼反資本主義グループARAS(2012年左翼グループAS)、革命的共産主義者運動EKKE、
新左翼傾向共産主義解放青年同盟選択エコロジストOKDE−スパルタクス社会主義労働者党SEK、共産主義者革新
2000年革新共産主義エコロジー左翼AKOAからSYRIZA協力反対派分裂、2000年選挙は共産党と提携)の10組織が参加。
 共産主義者国際主義者組織はすぐに撤退。
 2009年は打倒のための反資本主義左翼として欧州議会選挙は21951票、0.43%獲得。議会選挙は0.36%。
 2012年5月選挙は打倒のための反資本主義左翼として1.2%、6月選挙は0.33%。
 2015年1月選挙では労働者革命党と提携し0.64%。9月選挙は0.85%。左翼再構成ARANと左翼反資本主義グループARAS
は人民統一に参加。
 2019年選挙は0.41%。労働者革命党は0.04%。


急進左翼戦線MERA〕
 1999年、新左翼傾向NAR、革命的共産主義者運動EKKE(1970年結成の毛派)、労働者革命党EEK(トロツキスト)、
共産主義解放青年同盟NKA(NARの青年組織)、セレス独立共産主義者組織AKOSが結成。
 2004年、選択エコロジスト(1989年結成が起源)参加。
 1999年、EU議会選挙から2007年選挙で0.2%前後獲得。
 先に1993年に新左翼傾向NAR、革命的共産主義者運動EKKE(1970年結成の毛派)、労働者革命党EEK(トロツキスト)、
ギリシャ共産党(マルクス・レーニン主義)左翼闘争を結成し、1993年、0.12%、1996年、0.15%を獲得。
 2009年解散。

統一独立左翼運動EAAK〕
 大学レベル教育制度での左派学生組織、いくつかの独立組織よりなる。
 1990−1991年に共産主義青年同盟が分裂新左翼傾向が結成され大学学生組織(schema)ネットワーク左翼学生同盟ASFと
協力。
 共産主義解放青年同盟共産主義青年同盟から分裂した新左翼傾向が結成)、左翼再建ArAn、左翼反資本主義グループArAS、
革命的青年組織(労働者革命党EEK青年組織)、革命的共産主義者運動EKKE、OKDEスパルタクス労働者革命党EEK、
共産主義者組織再建、等10以上の組織が参加。
 2008年学生選挙DAP(民主党系)38.3%、PASP(PASOK系)25.7%、PKS(KNE、共産党系)16.2%、
統一独立左翼運動8.7%、統一左翼5.9%など。

統一左翼
 2007年、独立急進左翼スキーマネットワークDAPASと左翼スキマタ(1991年ギリシャ共産主義者組織KOEのグループが結成)
が結成した左翼学生グループ。


選択エコロジスト
 1989年nEU選挙に際しいくつかの独立選挙綱領(基盤、プラットフォーム)により結成され、1989年国会選挙にも参加1議席獲得。
 1993年連合参加の各グループが解散し連合に参加。いくつかのグループが選択エコロジストを名乗りその1つが急進左翼戦線に
参加。1994年緑グループが政治的エコロジーと称しEU選挙参加。1996年緑政治結成されたがいずれも重要な結果をもたらさなかった。
 2002年エコロジスト緑結成。2007年選挙で1.05%獲得。

エコロジスト緑
 2002年結成。2004年欧州議会選挙で0.67%獲得、2007年国会選挙では1.05%獲得。
 2009年欧州議会選挙で3.49%、1議席獲得。2009年国会選挙で2.53%獲得するも議席獲得ならず。
 2012年5月選挙は2.9%で3%超えられず。6月選挙は0.88%。
 2015年1月選挙ではシリザに参加、1議席、9月はシリザに参加し2議席。
 2019年EU選は0.87%。

全ギリシャ社会主義運動PASOK〕
 1974年9月結成、1980年代、1990年代、2000年代初期に政権を取る。
 ヨーロッパ社会党社会主義インター・メンバー、ゲオルゲ・パパンドレレウ(1952−、アンドレアス息子)は社会主義インター議長。
 PASOKはギリシャ軍事独裁政権の倒壊のあと1974年、アンドレアス・パパンドレウ(1919−1996)によって結成された。
 アンドレアス・パパンドレウはかつてのギリシャ中道政治家指導者ゲオルゲ・パパンドレウ(1888−1968)の息子。
 設立標語は民族独立、人民主権、社会解放、民主的過程であった。

 1974年11月選挙で13.58%、300議席中15議席の第3党となった。
 (1位はカラマンリス新民主54.47%、2位中道連合20.42%)
 1975年アンドレアス・パパンドレウとの不和でニコス・コンスタントプロスが追放される。彼は大学教授サキス・カラギオルガスと
社会主義者行進を結成し1975−1979年まで代弁者となる。コンスタントプロスは1977年選挙では進歩・左翼勢力連合
ギリシャ共産党国内派など))に参加。1989年にはシナスピスモス結成に参加。

 1977年選挙ではPASOKは25.34%では新民主41.84%についで第2党の主要反対政党になった。
 この年、メリナ・メリクーリがPASOK議員として当選。1881年の政権では文化大臣となる。(1981−1989、1993−1994)
 1981年の選挙では地すべり的勝利を得、48.07%、300中172議席となった。新民主35.87%。
 パパンドレウはNATOとEECからの撤退を主張したがすぐに方針転換した。
 1985年、PASOK政権は憲法修正し大統領から首相への権力委譲を行い、市民婚が宗教婚と同等に認められた。
 1985年の選挙では45.8%、161議席となった。(新民主40.8%、126議席)。
 1988年までに財政問題と醜聞により政府の人気とパパンドレウの健康にかげりが見えた。
 1989年選挙(6月と11月)ではPASOK39.1%、40.7%に対し新民主44.3%、46.2%と敗北。
 マリア・ファランドゥーリがPASOK議員となる。
 短期間の大連合政権のあと1990年選挙では新民主46.9%、PASOK38,6%と政権が新民主に移った。
 新民主のコンスタンティヌ・ミツォタキス政権は政府支出切り詰め、民営化、親米外交という典型的リベラル政策を採った。
 ミツォタキスの親米政策、特にマケドニア問題で新民主は分裂、政治的春が結成された。
 ミツォタキス政権でミキス・テオドラキスが大臣となる。
 パパンドレウはクレタ銀行醜聞で批判され指導力に危機が訪れたが、1993年選挙でPASOKは再び地すべり的勝利
を得た。PASOK46.88%、170議席、新民主39.30%、11議席。
 しかし1995年、パパンドレウの健康が悪化し指導部の衝突に悩まされた。
 1996年、パパンドレウが死亡し、PASOKの親欧派の現代化派候補コスタス・シミティスが跡を継いだ。
 シミティスはパパンドレウの信頼するアキス・ツォハツォプロスに勝利した。
 シミティスは20年に渡るギリシャの最大の危機に直面し、トルコに対する柔軟な立場、特に米国介入支持が批判された。
 シミティスのもとの1996年選挙では41.49%、162議席とイミア問題があったが経済がうまくいっていたため勝利を得た。
 PASOK政権は2004年オリンピック開催とユーロ圏加入を勝ち取ることができた。
 2000年選挙は43.79%、158議席と辛うじて勝利を得た。
 2000年6月、アテネでの英国準将ステフェン・サンダースの革命的組織11月17日(17N)による暗殺と特にオリンピックでの
テロリスト問題がPASOKに降りかかり、西欧のメディアにはPASOKはテロリストと結託していると非難するものもあった。
 米英の専門家の指導で2002年、革命的組織11月17日のメンバーが逮捕された。
 しかしPASOKはギリシャの下層・中層階層からの伝統的支持を失った。
 次の選挙のため2004年指導権がアンドレアスの息子のゲオルゲ・パパンドレウに受け継がれた。
 選挙結果はPASOK40.5%、117議席に対しコスタス・カラマンリスコンスタンティヌの甥)の新民主45.4%、165議席
に敗北した。
 2007年選挙も新民主が41.83%、152議席で辛勝した。(PASOKの38.10%、102議席)
 党首選でゲオルゲ・パパンドレレウは55.9%で38.2%のエヴァンゲロス・ヴェニゼロスに勝利、他にコスタス・スカンダリディスが5.7%。
 2009年総選挙で43.92%でND33.48%に勝利。
 2011年11月国家負債処理問題でゲオルゲ・パパンドレレウは首相辞任。
 2011年、全ギリシャ市民チャリオット自由市民統一運動が分裂。
 2012年、ルカ・カツェリハリス・カスタニディスらの社会協定が分裂。社会協定は2015年選挙でSYRIZAに参加。
 エヴァンゲロス・ヴェニゼロスが指導者となる。
 2012年5月選挙は13.18%(−30.7%)、41議席と大敗、第3党となる。新民主18.85%、108議席、SYRIZA16.78%、52議席、
KKE8.48%、26議席。
 右翼では国民正統連合は2.9%と後退し、逆に黄金の夜明けが6.97%、21議席と躍進、独立ギリシャ人も10.60%、33議席と躍進。
 多数派政権形成の連立工作失敗による6月再選挙は12.28%、33議席と更に後退。
 新民主は29.65%で129議席(ボーナス議席50)、SYRIZA26.89%、71議席、独立ギリシャ人7.51%、20議席、黄金の夜明け6.93%、
18議席、民主左翼6.25%、17議席、KKE4.51%、12議席と新民主とSYRIZAに支持が集まる。
 PASOKは新民主、民主左翼との連立政権(アントニス・サマラス首相)に参加。

 2013年前健康大臣アンドレアス・ロヴェルドス社会民主連合急進運動(2012年ロヴォルドス結成)の旧メンバーと
新ギリシャのための協定結成。
 テオドロス・パラスタティディスは2013年12月、新民主、PASOK、SYRIZA、独立ギリシャANEL、民主左翼DIMAR由来の議員と
議会グループ独立民主議員を結成。これにはアンドレアス・ロヴェルドスクリストス・アイドニスらの元PASOK参加。
 テオドロス・パラスタティディスは2015年選挙でSYRIZA参加。
 2014年、MEP(欧州議員)のマリレーナ・コッパが民主左翼に去る
 2014年EU選は新ギリシャのための協定躍動ギリシャ(以前のPASOK議員エリアス・モシアロス結成)、新改革者などと
オリーヴの木結成し、8.02%、2議席獲得。
 2014年の大統領選出失敗に伴う2015年1月の選挙では4.68%、13議席。
 2015年、ゲオルゲ・パパンドレウが分裂し民主社会主義者運動を結成、6名の議員で形成するが2015年1月選挙は2.46%で0議席。
 ヴェニゼロス辞任に伴う党首選でフォティ・ゲニマータが指導者に選出される。
 2015年9月選挙は民主左翼(2010年シナスピスモスから分裂)と提携し6.28%、17議席。
 2018年、民主社会主義者運動、民主左翼、ト・ポタミ(川)と変革運動KINAL結成。間もなく、ト・ポタミが去り、民主左翼も去る。
 2019年EU選は変革運動で7.72%、2議席。国会選は変革運動8.10%、22議席。

全ギリシャ市民チャリオット(4輪馬車)
 2011年4月PASOKの2人の議員ヤンニス・ディマラス、ヴァシリス・オイコノムらが結成。
 ヴァシリス・オイコノムらは10月自分たちの運動自由市民を結成。
 彼らは政府と欧州中央銀行等との協定に反対しPASOK議会グループから除かれた。
 2012年、元新民主のパノス・カンメノス結成の独立ギリシャと選挙で提携。

自由市民
 2011年10月、ヴァシリス・オイコノムらが全ギリシャ市民チャリオットから分かれて結成。
 2012年3月、ヴァシリス・オイコノムは民主左翼に参加、10月には100名以上が民主左翼に参加。12月多数派が
ヴァシリス・オイコノムと26名以上を追放し、民主左翼との提携解消。

統一運動
 2011年11月PASOK議員パナギオティス・クルンプリス、政治学者ニック・コツィア、アレクシス・ミトロプロスらが結成。
 2012年、急進左翼連合と急進左翼連合−統一社会運動結成。

社会協定
 2012年、PASOKの2人の元閣僚ルカ・カッツェリハリス・カスタニディスら議員9名が参加し結成。
 かれらは外国投資家との借金処理に反対し追放された。
 2012年選挙は1.0%。
 2015年選挙はSYRIZAと提携。

闘争社会党
 1984年結成。
 1981年PASOKが政権を取った際に、PASOKが党の結党趣旨から逸脱したことに反発したメンバー中心に結成。
 EUやNATOのような外国勢力からの独立、社会主義、人権、民主主義を主張。
 2007年選挙で0.03%、ほぼ2000票前後の得票。

民主社会運動
 1995年、ディミトリス・ツォヴォラスが結成。ツォヴォラスは元PASOK閣僚で1992年、金融不正問題で有罪となった。
 1996年選挙で4.43%、9議席獲得、1999年には2.69%、2004年には1.8%、その後ツォヴォラスが勝手に解散
をきめ、政界から引退。
 2007年選挙は急進左翼連合(シリザ)に参加。

[人民統一(人民連合)]
 2015年8月ツィプラスとEUの財政援助の合意を受け、これに反対のパナギオティス・ラファザニスら25名の議員が人民統一を結成。
 人民統一にはSYRIZAのほかにANTARSYA(ギリシャ反資本主義左翼戦線)からも参加。
 人民統一参加組織は
  左翼プラットフォーム
  国際主義労働者左翼ΔEA
  出発−社会主義者国際主義者組織労働者インターナショナル委員会CWI)
  計画B(2013年アレコス・アラヴァノスが結成)
  ドラクマ・ギリシャ民主運動5星(2013年テオドロ・カツァネヴァが結成)
  介入
  左翼再構成(2003年結成、毛派)
  左翼反資本主義グループ(旧ANTARSYAメンバー、毛派、1998年結成)
  左翼急進運動
  私は払わない運動(2012年結成)
  活動市民
  民主社会運動(1995年、元PASOKのディミトリス・ツォヴォラスが結成)
  新戦闘者
  共産主義者傾向(2013年結成、SYRIZA参加)
  反資本主義政治グループ
 など。
  選挙結果は2.86%。
  2019年選挙結果は0.28%。

[ヨーロッパ現実的不服従戦線MeRA25]
 2018年、前の財政大臣ヤニス・ヴァルファキスと以前のシリザ国会議員MPが結成。
 MeRAはヤニス・ヴァルファキスらが2015年結成したヨーロッパ民主主義運動2025DiEM25に参加。
 2019年EU選は2.99%。国会選は3.44%、9議席。

[自由路線]
 2016年、人民統一に加わったゾエ・コンスタントプルを中心にシリザを離れた人々とが結成。
 2019年EU選は1.6%。国会選は1.46%。


<毛沢東派>

 1964年、ソ連・東欧への亡命共産主義者のソ連修正主義に反対する毛沢東派がギリシャ・マルクス・レーニン主義組織
OMLEを結成。1976年、ギリシャ共産党(マルクス・レーニン主義)と少数派はギリシャ・マルクス・レーニン主義共産党に分裂。
 2003年、ギリシャ共産党(マルクス・レーニン主義)の元メンバーがギリシャ共産主義者組織KOE結成。
 1970年、反独裁学生運動のなかから革命的共産主義者運動EKKEが発生。
 ギリシャ共産党(マルクス・レーニン主義)左翼闘争を結成し、1993年、0.12%、1996年、0.15%を獲得していた。
 2007年選挙でギリシャ共産党(マルクス・レーニン主義)は0.24%、17561票、ギリシャ・マルクス・レーニン主義共産党
は0.11%、8088票獲得。
 1985年強固な反ロシアのギリシャ共産党再建組織が結成される。2007年選挙では2494票獲得。1993年から選挙参加。
 2009年は国会選で共産党(ML)0.15%、ML共産党0.08%、再建組織0.02%、EU選でML共産党0.26%、再建組織0.05%。
 2012年選挙ではギリシャ共産党(マルクス・レーニン主義)ギリシャ・マルクス・レーニン主義共産党で0.12%。
 2015年9月選挙はギリシャ共産党(マルクス・レーニン主義)ギリシャ・マルクス・レーニン主義共産党で0.16%。
 2019年選挙はギリシャ共産党(マルクス・レーニン主義)が0.14%、ギリシャ・マルクス・レーニン主義共産党が0.05%。

トロツキスト> RHSE) 

 初期トロツキスト(国際左翼反対派)は文庫Archeioマルクス主義組織パンデリス・プリオプロス(スパルタクス)グループなど。

 フラギスコス・ツラティは1919年秘密グループの共産主義連合を社会主義労働党内に結成し、理論に重きを置いたが
1921年初期解散。
 文庫Archeioマルクス主義は1922−1923年にギリシャ社会主義労働党の反対派として出現し、1923年フラギスコス・ツラティを
指導者としてマルクス主義文庫が発行される。指導者はやがてデメトリウス・ヨトプロスに変わる。
 ヨトプロスはNo.2にゲオルゲ・ヴィツォリス(コメディアン)を指名。
 1927年ヨトプロスパンデリス・プリオプロスとKKEから追放される。
 デメトリウス・ヨトプロス国際左翼反対派ILOと接触し1929年国際主義共産主義者連合EKDと名を変える。
更にギリシャ・マルクス(ボルシェヴィキ)・レーニン主義共産主義組織文庫マルクス主義KOMLEAと名を変え、1931年にILO
組織となる。
 ヨトプロスはILO書記局メンバーとなりウィッテと称しNo.2となる。文庫マルクス主義組織はメンバー2000人と称しILOの
最大組織であった。彼らは労働組合運動で活動し、共産党支配の統一労働総連合や改良主義組合に入っていた。
 サロニカでは労働組合や失業労働者運動や農民の間でも活動。
 文庫マルクス主義者やトロツキーはギリシャは革命的状況にあると判断。
 しかし1931年のサロニカの選挙では共産党の2300票の対し、590票しか獲得できず。これはボルシェヴィキ革命の威光にもよる。
 マケドニア問題(トロツキーはマケドニア独立の可能性を認める)、更にフランスの転換(社会党加入戦術)でトロツキーと衝突し、
1934年KOMLEAは分裂しゲオルゲ・ヴィツォリス、ルカス・カルリアフティスのグループは引き続きトロツキーと一緒に行動。
 デメトリウス・ヨトプロスに忠実なグループはギリシャ文庫マルクス主義共産党KAKEを、ヴィツォリスらはボルシェヴィキを結成。
 文庫マルクス主義者は1934年トロツキズム運動から撤退し国際右翼反対派ロンドン・ビュローに参加。
 1936年メタクサスの独裁でヨトプロスはパリに逃れる。1938年のパリの革命的社会主義者会議に参加。
 ギリシャ文庫マルクス主義共産党KAKEは1947年ギリシャ文庫マルクス主義党AKEとなる。
 1950年代KAKEは解散し、ヨトプロスは1950−1960年代右傾化し、旧トロツキストらと反共主義サークルに参加。
 ヨトプロスの息子アレクサンドロス・ヨトプロスは11月17日のメンバー。

 パンデリス・プリオプロスは1927年KKEから追放され、このグループは1928年反対派(スパルタクス・グループ、1928年から
雑誌スパルタクス発行)を結成し、国際左翼反対派に加わった。スパルタクス・グループは文庫マルクス主義者を宗派主義として
これに参加しなかった。文庫マルクス主義者は1932年スパルタクス・グループは75名といっている。
 トロツキーによって文庫マルクス主義が受け入れられ、プリオプロスのグループは文庫マルクス主義から分裂したミカリス・ラプティス
(ミッシェル・パブロ)らとともに批判を受け、トロツキスト運動から追放された。

 1930年ミカリス・ラプティス、クリストス・スラスのグループ(宗派主義者)は文庫マルクス主義から分裂し共産主義者統一グループ
KEO結成、これは主に学生よりなっていた。
 1932年アギス・スティナスが共産党から追放されKEOと一緒になりKKEレーニン主義反対派LAKKEと名乗る。1934年ラプティス
スパルタクスとギリシャ国際主義共産主義者組織OKDEを結成した。プリオプロスとラプティスはILOのクルト・ランダウ(ドイツのILO)、
レイモン・モリニエ(フランスのPCI結成者)と関係していた。

 一方ボルシェヴィキも分裂、ヴィツォリスとアギス・スティナスギリシャ国際主義共産主義連合KDEE結成、他のグループは
新しい道ルカス・カルリアフティス、サッコス・パパドプロス)を結成。  
 1937年新しい道(クリストス・アナスタシアデス)はOKDE(プリオプロスラプティス)と統一OKDE
ギリシャ・国際主義共産主義者統一組織(EOKDE)を結成。

 1938年ギリシャ・国際主義共産主義者統一組織EOKDE(スパルタクス)は第4インター結成大会に参加。
 1939年KDEEとEOKDEは第4インターに参加、ゲオルゲ・ヴィツォスリとミカリス・ラプティスが代表として参加。

 1945年KDEEはギリシャ国際主義共産党DKKEとなり、更にギリシャ国際主義革命党DEKEとなる。(wiki文庫マルクス主義者
 トロツキストの統一は第2次世界大戦後にしか達成されなかった。

 スティナのギリシャ国際主義革命党DEKE、EOKDEから結成されたアナスタシアデスのギリシャ国際主義共産党KKDE、KKDEから
多数派により結成されたカルリアフティスの革命的国際主義者EDKEの3グループがドイツ占領期に存在

 ミカリス・ラプティス(ミッシェル・パブロ)はメタクシス独裁でフランスに亡命し、以降人生の大部分をフランスで過ごす。
 パンデリス・プリオプロスは1939年メタクシス独裁下で逮捕されギリシャに侵攻してきたイタリア軍の手に落ち、1943年、100人以上
の活動家とともにイタリア占領軍により処刑される。処刑の際、兵士に対し反ファシスト抵抗者に対しそのような犯罪を犯すべきでない
と演説し、兵士は処刑を拒否し、警察が処刑を行った。
 ゲオルゲ・ヴィツォリスはメタクシス独裁で(有名な俳優だったおかげで)フランスに亡命し、ドイツ占領でレジスタンスに参加、1954年
フランスで死亡。

 アンドレアス・パパンドレウ(後のPASOK指導者)はアテネ大学時代1938年トロツキスト(デモステネス・ヴルツキス率いる13グループ
というEOKDEに近いグループ、これにはコルネリウス・カストリアディスも参加)として逮捕され、父親の力でアメリカに逃亡。

 トロツキストはメタクシス独裁、イタリア、ドイツ占領更には内戦ではスターリン主義者の犠牲となった。
 メタクシスやファシストよりスターリン主義者に殺されたトロツキストのほうが多かった。(共産党系の政敵暗殺組織、人民闘争保護
組織OPLAによるトロツキスト犠牲者は600あるいは800名ともいわれる。)

 (以下ルカス
 1942年多くのトロツキストが監獄を脱出し、活動を始めた。このとき3グループが出現。
 ルカス・カルリアフティスのギリシャ労働者国際主義者党EDKE。
 アギス・スティナスの労働者戦線。(後にKDEEを率いる)
 クリストス・アナスタシアデス(1910−1987年)のギリシャ共産主義者国際主義者党KKDE(元EOKDE)。
 パブロは当初レジスタンスは反動的としたが1944年に転換し進歩的とした。
 カルリアフティススティナスはレジスタンス参加に反対、アナスタシアデスはパブロを支持したが積極的活動はしなかった。

 (以下KDKE1946−1967(Gr)
 1945年3月スティナスのギリシャ国際主義革命党DEKE以外がギリシャ革命的国際主義党EDKE結成。
 9月、EDKE、DEKE(スティナス)、コスタ・カロツェリ率いるテッサロニキのギリシャ国際主義共産党地域委員会PEDKKE及び
赤旗グループが統一会議創設組織委員会を結成。
 アナスタシアデス、カルリアフティス、スティナスの3派の事前交渉ではスティナスがソ連を批判。

 国際書記局の命令で1946年7月統一会議が開催され、シェリー・マンガン、パブロも参加し、ギリシャ共産主義者国際主義党KDKE
が結成される。、カルリアフティス派は16代表、アギス・スティナス派は10代表、クリストス・アナスタシアデス派は8代表を派遣。
 中央委員会は多数派カルリアフティス5、左派スティナス3、少数派アナスタシアデス3。
 カルリアフティスは統合で総書記となるがやがて内戦で他のメンバーと疎遠となる。
 スティナスとアナスタシアデスが多数派となる。しかしスティナスは国家資本主義説で1947年、スティナスはKDKEから離れる。
(1948年第4インター会議ではカストリアディス(1945年パリ移住)がグループを代表して発言、しかしカストリディアスのグループ
(社会主義か野蛮か)とは間もなく衝突。)
 再びカルリアフティス派が多数派となる。当初から国際書記局のパブロとマンデルはアナスタシアデス派と結びカルリアフティス派は
やがてヒーリー派となる。
 1953年の第4インター分裂で国際書記局のパブロに忠実なアナスタシアデスがギリシャ支部を率いた。
 1958年カルリアフティスの少数派がパブロ派と分裂、1963年労働者前衛(他にスクラヴォス)を結成し1964年ヒーリー・ランベール派
国際委員会支部となる。
 1972年スクラヴォスのグループが国際委員会の組織となり、カルリアフティスは追放される。独裁の終焉でカルリアフティスのグループは
国際委員会派と統一書記局派に奪われる。

 (以下アレキサンダー
 第2次世界大戦後、ギリシャのトロツキストが4つのグループに分裂して出現。
 ギリシャ国際主義労働者党EDKE、ギリシャ国際主義革命党DEKE、マケドニア地域独立組織(PEDKKEか?)、社会党(不詳)
からの分裂グループ。

 第4インターヨーロッパ書記局はギリシャのトロツキストの統一に着手。
 シェリー・マンガン、パブロらを派遣し1946年統一しギリシャ国際主義者共産党KDKEが結成される。 
 1977年国際主義者共産党KDKEは他のトロツキスト・グループとギリシャ国際主義共産主義者組織OKDEを結成し統一書記局
に参加継続。

 1965年パブロのグループが統一書記局と衝突し”社会主義へ”となり、このグループは一時アンドレウ・パパンドレウのPASOK
で活動し、パブロはアンドレウ・パパンドレウの助言者となる。1982年のPASOKの選挙の勝利で衝突。
 このグループは1982年のポーランド連帯を支援。

 1963年の統一書記局参加拒否したM.バストスのグループが1966年再組織化された国際委員会第3回会議に参加。
 1970年代の国際委員会から分裂したランベール・ヒーリー派のグループも存在し、1980年代中の第4インター再建組織委員会
(ランベール派)に代表を送っている。
 1970−1980年のモレノ派分裂で社会主義者同盟と社会主義者グループが発生。
 1979年の同格委員会世界協議会にはランベール派とモレノ派が参加。
 ヒーリー派も存在。
 1967年ポサダス派の革命的共産党が結成される。(週刊誌共産主義者闘争発行、間もなく消滅か)
 1979年のトロツキスト運動最悪期には13グループが存在しうち2グループがPASOK内で活動、他の7グループは200人以下
のメンバーといわれる。


〔現代のトロツキスト〕

社会主義者国際主義者組織(クセキニマ)CWI 
  PASOKから追放された1970年代発生のトロツキスト。
  2006−2007年民営化や歳費削減に反対する大学占拠運動に積極的に参加。
  2008年SYRIZA参加、2011年SYRIZAから去るが連合を支持。

労働者革命党EEK(トロツキスト、CRFI派)、1985年労働者国際同盟の後継として結成。
 (指導者サヴァス・ミカエルはカルリアフティスの労働者前衛から分裂し当初は労働者国際同盟を名乗り国際委員会派)
 2009年国会選挙では4536票、0.07%、EU選では0.12%。


ギリシャ国際主義共産主義者組織−スパルタクス OKDE−スパルタクス 
  歴史的OKDE、EOKDE、KDKEの後継組織。独裁の崩壊でアナスタシアデスのKDKEから改名。
  2007年選挙は統一反資本主義左翼に参加。

社会主義労働者党SEK
 国際社会主義者傾向IST加盟、ブリテン社会主義労働者党につぐIST第2の組織。
 1967年の軍事クーデタでロンドン亡命した学生から発生。毛沢東主義に影響され社会主義化革命組織OSEを組織。
 ロンドンでトニー・クリフ国際社会主義者と関係をもちISTと関係する。その後ギリシャに戻り関係は喪失。
 1989年代初期OSEは再度ISTと関係、組織拡大し1997年、SEKとなる。2001年少数派が国際主義者労働者左翼DEA結成。
 2004年から反資本主義連合として0.1%前後獲得、2007年はギリシャ・スパルタクス共産主義国際主義者組織(OKDEスパルタクス) 
再統一第4インター、トロツキスト)、左翼再建ARAN、左翼反資本主義グループ統一反資本主義左翼を結成し0.15%獲得。

1918−55ギリシャ共産党再組織化運動
 1996年結成のマルクス・レーニン・スターリン主義政党。
 ギリシャ統一共産党運動(1982年結成の親アルバニアのギリシャマルクス・レーニン主義組織などが1993年結成)などの
小グループが結成。これらは主に亡命共産主義者や旧EAM−ELAS兵士よりなっていた。
 ニコス・ザカリアディスの支持者、現在の共産党は1955年の脱スターリン主義前の党と何ら関係なく、ザカリアディスを裏切って
いると非難。


アナーキスト
 反国家正義は2006年に新民主事務所などを攻撃。
 黒い泥棒は2002年から活動し始め、銀行強盗などに従事。
 火の核の陰謀 2008年1月から出現。

<極左テロリズム・グループ
 革命的組織11月17日 1973年結成、主に米国、トルコ、ギリシャ右翼・中道を攻撃目標とする。2002年解散とされる。
  デメトリウス・ヨトプロスの息子アレクサンドロス・ヨトプロスがメンバー。
 革命闘争 2003年から出現。ギリシャ政府、米国を攻撃目標とする。
 革命家セクト 2009年2月出現。
 革命核 1997年5月出現。

2008年市民騒乱

 2008年12月6日のアテネでの青年小グループと警戒警官との論争が15歳少年の射殺事件に発展。
 これへの抗議行動が火炎瓶(モロトフ・カクテル)使用の騒乱まで発展、3週間におよぶ抗議デモ、街頭騒動・警察所襲撃等が起こる。
 8日には校舎占拠に発展、テッサロニキのアリストテレス大、アテネ国立工科大、アテネ大経済経営学部などが占拠される。
 10日に抗議のゼネ・ストが行われる。
 13日デモ・グループが国会前に結集、催涙弾使用される。
 17日には全労働者闘争戦線PAME(2000年革新共産主義エコロジー左翼AKOAから分裂した共産主義者革新の影響下にある)
が国会に向けた約5000名デモ実施。またギリシャ労働者総連合事務所が占拠される。
 18日1万人以上が国会近くに結集、騒乱となり警察は催涙弾で応酬し抗議参加者は大学へ逃げ込む。
 25日には銀行や車販売店への放火発生。31日のアテネと、テッサロニキの大学占拠終了。
 2009年1月1日にも銀行や車販売店への放火発生。1月5日、警備中の警官が銃撃される。
 9日デモ後一部と警察の小競り合い、アテネ大学施設を占拠しようとするが学生らに排除される。
 1月14日革命闘争が12月23日と1月5日の銃撃の犯行声明。
 15日警察の行動への抗議デモ、マノリス・グレツォス参加。



首相
1974−1978年 コンスタンティノス・カラマンリス(新民主) 新民主 
1980−1981年 ゲオルギオス・ラリス(新民主) 新民主 
1981−1989年 アンドレアス・パパンドレウ(PASOK) PASOK
1989年      ツァンニス・ツァンネタキス(新民主) 新民主、シナスピスモス
1989年      ヤンニス・グリヴァス 管理政権
1989−1990年 クセノフォン・ゾロタス 国民統一政権
1990−1993年 コンスタンティノス・ミツォタキス(新民主) 新民主
1993−1996年 アンドレアス・パパンドレウ(PASOK) PASOK
1996−2004年 コスタス・シミティス(PASOK) PASOK
2004−2009年 コスタス・カラマンリス(新民主) 新民主
2009−2011年 ゲオルゲ・パパンドレウ(PASOK) PASOK
2011−2012年 ルカス・パパデモス PASOK、新民主、国民正統連合
2012年 暫定 パナギオティス・ピクラメノス
2012−2015年 アントニス・サマラス(新民主) 新民主、PASOK、民主左翼(2013年離脱)
2015−2019年 アレクシス・ツィプラス(SYRIZA) SYRIZA、独立ギリシャ人
2020−      キリアコス・ミツォタキス(新民主) 新民主

国民正統連合 中道連合 EDA
1964年 35.26(107 52.72(171 11.80(22
右翼 新民主 EKND PASOK 急進左翼連合 共産党
1974年 54.37(220 20.42(60 13.58(12 9.47(8
1977年 6.82(5 41.84(171 11.95(16 25.34(93 2.72 9.36(11
1981年 35.87(115 48.07(172 1.34 10.93(13
1985年 40.8(126 45.8(161 1.8(1 9.1(12
1989年 44.3(145 39.1(125 13.1(28
1989年 46.2(148 0.8 40.7(128 11.0(21
1990年 46.9(150 1.1 38.6(123 10.3(19
1993年 39.30(111 46.88(170 2.94 4.54(9
1996年 38.12(108 41.49(162 5.12(10 5.61(11
2000年 42.74(125 43.79(158 3.20(6 5.52(11
2004年 2.2 45.4(165 40.5(117 3.3(6 5.9(12
2007年 3.80(10 41.83(152 1.05 38.10(102 5.04(14 8.15(22
2009年 5.63(15 33.48(91 2.53 43.92(160 4.60(13 7.54(21
2012.5 20.5* 18.9 2.9 13.2 16.8+6.1** 8.5
2012.6 16.01*(38 29.66(129 0.88 12.28(33 26.89+6.25 4.50(12
2015.1 6.29+4.74(17+13 27.81(76 ト・ポタミ(川)
6.05(17
4.68(13 36.34(149 5.48(15
2015.9 6.99+3.69(18+10 28.10(75 4.09(11 6.28(17 35.46(145 5.55(15
2019.7 3.70(10+2.93*** 39.38(158 MeRA25
3.44(9
変革運動
8.10(22
31.53(86 5.30(15
*国民正統連合+黄金の夜明け+独立ギリシャ人
**急進左翼連合+民主左翼
***ギリシャ解決+黄金の夜明け


   ⇒ ヨーロッパの左翼



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