<<ノルウェーの左翼>>


〔社会主義左翼党〕 Sosialistisk Venstreparti SV

 SVは1973年にまず社会主義人民党ノルウェー共産党、民主社会主義者−AIKおよび独立社会主義者の選挙連合である
社会主義選挙同盟Sosialistisk Valgforbundとして樹立された。
 これは1972年9月25日のEU加盟国民投票の勝利の結果を受けたものであった。
 1973年の議会選挙でSVは得票率11.6%で16議席を得た。
 著述家でニューウェーブ・バンド・ルンバゴのメンバーのモルテン・ヨルゲンセンMorten Jorgensenが1970代初期大学グループ
指導者となっていたが1977年にマルクス主義と決別。
 社会主義人民党のフィン・グスタフセン、ベルゲ・フッレ、AIKのベリット・オス、共産党のレイダル・ラルセンが指導者となった。
 1974年4月のオスロの会議で連合は旧党を解党し単一の党となることを決定。
 1975年、トロントハイムの会議で社会主義左翼党が結成されベリット・オスBerit Asが指導者に選ばれた。
 しかし同年、共産党は解党しないことを決定し他のSVのメンバーとの協力関係を絶った。
 共産党ではルネ・フレッドがラルセンを支持してSVに参加。
 ベリット・オスの指導性については批判が生じた、フィン・グスタフセンとは不和であった。1975年の地方選挙結果は6%を切った。
 ベリット・オス、レイダル・ラルセン(共産党を離れてSV参加、1999年党のNATOのユーゴスラヴィア戦争支持に反対し離党)、ベルゲ・フッレ
の3グループ分裂がうわさされた。
 結局、ベルゲ・フッレBerge Furreが指導者の地位にたった。(1976−1983年)
 フッレはオドヴァル・ノルディの労働党は中道に移行したと批判した。
 ステイン・オルホイが1977−1988年議員となった。(1995−1997年にはEUにノーの指導者)
 1977年選挙は4.2%と良くなかった。
 1981年末党書記のエリック・ソルハイムが党を傷つけていると党内左派を批判。
 テオ・コリツィンスキーが1983−1987年指導者。
 1980年代、SVは平和、軍備撤廃、失業問題、経済的不平等の問題で激しく戦い、支持が上昇した。
 コリツィンスキーは1985年共産党と労働者共産党との選挙での提携を拒否し、党員に労働党との協力を訴えた。
 1987−1997年までエリック・ソルハイムErik Solheimが指導者となった。
 エリック・ソルハイムは党の右派で、左派はフィン・グスタフセンが率いていた。
 後の共産党指導者キエル・ウンデルリッドエリック・ソルハイムの右より路線に反対し離党。
 1990年代初めSVの支持は再び低下した。しかし1994年のEU加盟の再投票で加盟に強く反対し、大勝利を得た。
 クリスティン・ハルヴォルセンKristin Halvorsenを指導者に選出し、SVの支持は再び上昇した。
 SVは教育に焦点をあて、”子供と若者が最初”というスローガンを打ち出した。

 コソヴォでの軍事行動はSV内部で論争となった。ハルヴォルセンを含む指導層はコソヴォでの民族浄化は停止されれべきと考え
NATO空軍の攻撃を支持したが、党内の多数は強くそのような支持に反対し、暴力は一層の暴力を惹き起こすと主張した。
 多くの外交問題でSVは軍事行動に反対した。米国のアフガン侵攻に反対し、イラク戦争とノルウェー軍のイラク駐在に大反対した。
 今日SVは男女平等、経済的平等、社会福祉、環境問題を闘い、より地方議会と、自由ないし公的教育のすべての人々の平等
に注力している。
 SVは2005年の国会選挙はうまく闘えなかったが、労働党と中央党の強力な行動のおかげで赤緑連合は議会の多数派を獲得し、
SVは初めてクリスティン・ハルヴォルセンが財務相として入閣した。
 古いメンバーにはハルヴォルセンは労働党にたいして優しすぎると批判するものもいる。
 ハルヴォルセンは保守派より実務的で穏健とみなされている。
 労働党の指導者のイェンス・ストルテンベルグとハルヴォルセンの良好な関係が連合形成のための主要要因である。
 アウドゥン・リスバッケン(1977年生)は2006年から党副指導者で2009年子供平等大臣となる。彼は社会主義青年同盟時代、
革命的社会主義者、マルクス主義者と宣言。しかし2011年選挙でもはやそうでないと述べる。2012年ハルヴォルセンをついで
党指導者となる。対抗馬のヘイッキ・ホルモスは早々撤退。

 SVは左翼(リベラル党)とともに最も女性議員の多い党で進歩党が最も少ない。
 SVは赤とともにEU外移民受け入れに積極的で進歩党はこれに反対。

 SVは北欧緑左翼連合のメンバーである。
 SVの国会の議席は1973年、11.2%で16議席(定数155)、1977年、4.2%、2議席、1981年、121569票、4.9%
、4議席、1985年、5.5%、6議席(157)、1989年、10.1%、17議席(165)、1993年、7.9%、13議席、1997年、6.0%、
9議席、2001年、12.5%、23議席、2005年、233051票、8.8%、15議席(169)、2009年、6.2%、11議席。

 2011年地方選挙は自治体選挙4.1%で−2.0%、州選挙4.3%で−2.2%と最悪でハルヴォルセンは辞任を発表。
 2012年アウドゥン・リスバッケンが指導者となるが汚職疑惑で子供平等大臣を辞任。
 2013年選挙は4.1%、7議席と4議席減。
 2017年選挙は6.0%、11議席。

 党員は2005年がピークで約10500名、2008年が9500名。

・ベリット・オスは1928年4月10日、オスト(東)フォルドOstfoldのフレドリクスタートFredrikstad 生まれで両親は教師。
 社会心理学者でフェミニスト。
 大学で学位を得てから喫煙害、消費者保護、子供の安全と住宅の問題に関係し、オスロ大学で女性問題を研究・指導
していた。
 彼女は長い間、ノルウェー労働党のメンバーであったが、1972年、EU加盟問題で党を追われた。
 1973年から1977年まで国会議員を務めた。

・クリスティン・ハルヴォルセンは1960年9月2日、ヴェスト(西)フォルドのホルテン生まれ。父は実業家、母は教師。
 大学で教育学と犯罪学を勉強し、学位をとらず法律助手として働いた。
 1982年、SVの青年組織である社会主義青年SUに加入し1984年から1986年の間、指導者となった。
 1985年から議会Stortingetの副メンバーを務め、1989年、オスロから議員に選ばれ以来、その席を確保。
 2005年の労働党、中央党との赤緑連合の選挙勝利で初の女性財務大臣となった。

(社会主義人民党) Sosialistisk Folkeparti SF
 SFはノルウェー労働党Det Norske ArbeiderpartiDNAから分裂したグループによって1961年に設立された。
 フィン・グスタフセントロルヴ・ソルハイムら分裂グループはDNAの親NATO・EEC外交政策に不満だった。
 1961年選挙でフィン・グスタフセンアスビヨルン・ホルムが議席獲得。この選挙でDNAは150中74議席でSFの
2議席が重要な位置を占めた。1963年、キングス湾問題によるSFの不信任でエイナル・ゲルハルドセンは約1ヶ月政権を失う。
 1960年代半ばSFの青年組織の社会主義青年同盟Sosialistisk UngdomfylkingSUFは急進化し、1969年分裂に至った。
 一部は労働者共産党Arbeidernes Kommunistparti(マルクス・レーニン主義者)AKPを結成した。
 SFは1969年の選挙で議席を失ったが、1972年DNAの議員がSFに加わった。
 SVはSFの後継者と見なすことができる。
 1973−1975年TVプロデューサーのステイン・オルホイが党の指導者。
 議会の1973−1977年の指導者はフィン・グスタフセン
 SFは1961年の選挙で2.4%、2議席、1965年、6.0%、2議席、1969年、3.4%、0議席。

 トロルヴ・ソルハイムTorolv Solheim
 1932年ヴィッゴ・ハンステーンヤコブ・フリース(1921−1922年コミンテルン代表、1933年離党、1936年DNAへ)ら
と共産主義学生グループ結成、1940−1945年NKP、フルボトンと不和で1945−1952年DNA、その後アクセル・サンデモセ
(作家)およびインゲル・ハゲルプ(女性著述家、詩人)と活動。1961年SF結成に参加し、1969−1971年指導者となる。


〔ノルウェー共産党〕 Norges Kommunistiske Parti NKP
 1923年11月4日、ノルウェー労働党から分裂結成。第二次大戦のドイツ占領に対するレジスタンスで重要な役割を
果たした。
 そのため戦後の短期間、政治的支持を得たが、冷戦で着実に後退した。今日は政治的にはたいした意味をもたない。
 ノルウェー労働党はマルティン・トランメルMartin Tranmalの指導下で1919年共産主義インターに加盟するが、
1923年、離脱し、親共産主義インター派は1923年11月4日、共産党を結成。創設者は主にDNAの青年同盟から来た。
ペテル・フルボトンPeter Furubotnなど)
 詩人のルドルフ・ニルセン(1901−1929年)も結成に参加。
 DNAの国会議員13名とDNA反対派労働組合の大部分が参加した。
 1920年代の指導者はオラフ・シェフロOlav Schefloであった。
 1924年の選挙では6.1%で6議席獲得。1930年には1.7%で議席を失う。1936年には0.3%ただし実質的に数選挙区
でしか闘わなかった。
 その間内部抗争が激しく、1924年には副議長のハルヴァルト・オルセンと労働組合指導者がNKPの労働組合政策
に抗議して離党した。1927年には創設議長のスヴェーレ・ステルスタドとその仲間が離党しDNAに加わった。
 1927年左翼知識人サークルのモット・ダグMot Dag・グループが参加したが翌年、NKPが極左偏向をとったため去った。
 ヴィッゴ・ハンステーンはモット・ダググループの多くが離党しても共産党に留まり、1941年ドイツにより処刑される。
 妻のキルステーンはドイツ占領中、秘密抵抗新聞”女性戦線”を編集、1945年共産党を代表し最初の女性大臣となる。
 オラフ・シュフロはスターリンに反対して1928年離党し、翌年労働党に再参加した。
 ペデル・フルボトンが1925−1930年の指導者(議長)となり1930−1938年モスクワに移る。
 その間1931−1934年ヘンリ・クリスチャンセンが指導者となる。クリスチャンセンヨハン・ヨハンセンは1941年ゲシュタポ
により逮捕され収容所に送られクリスチャンセンは1942年収容所で死亡。
 1934−1946年はアダム・ニッセンが指導者。
 1930年代には党は選挙でほとんど成果を得られなかったがスペイン内戦での連帯運動ではそれなりの役割を演じた。
 第二次大戦が始まり、NKPはドイツとソ連のモロトフ・リベントロップ協定を支持し、フィンランド冬戦争でソ連を支持し、これらと
反対するDNAとの関係は極度に悪くなった。
 1940年4月9日、ドイツはノルウェーを侵した。
 NKPはこれは帝国主義戦争であると宣言し、はっきりと亡命DNA政府と背を向けた。
 しかし地方のNKP細胞は北ノルウェーからレジスタンス行動に参加した。1940年NKPはドイツ占領当局によりノルウェー政党
として最初に禁止された。党は地下に潜行した。
 進行する党内の混乱のなかでペデル・フルボトンPeter Furubotnは占領に対するNKPによる積極的レジスタンスを
要求し始めた。12月31日、党は秘密の全国会議を開催し、フルボトンの積極戦争政策を採用した。
 NKPはサボタージュとゲリラ活動を組織し、レジスタンス運動で指導的役割を演ずるようになった。
 いくつかの異なった集団のレジスタンスは占領者に対する統一戦線を示したがNKPと国内戦線−亡命政府と秘密労働組合運動
との関係は必ずしも円滑ではなかった。ロンドンの亡命政府は戦争の終わりごろこれらの抵抗分子が積極的に参加するまで、新聞
や連合国への知的支援のような平和的抵抗しか提唱しなかった。一般的にNKPは占領者にたいしてより攻撃的な戦術を採用
したがった。
 NKPは戦闘の他にナチスによる拷問やナチスに対する協力者の発生などにより大きな損失を蒙った。
 戦後NKPはレジスタンス闘争における役割やソ連軍がフィンマルクからドイツ軍を追い出したことにより大衆的支持を受けた。
 戦後、国民統一政府が形成され、共産党から2人が入閣した。うち1名はノルウェー最初の女性大臣(キルステン・ハンステーン
であった。キルステン・ハンステーンKirsten Hansteenは戦後ヘンリエッテ・ビー・ロレンツェンと”女性と時間”を創設した。
 党の新聞Friheten(自由)は戦争直後、約10万部に達した。
 戦後の寛容の新しい雰囲気でDNAとNKPの再統合の議論まで持ち上がった。
 戦中、グリニ集中収容所に収容されたDNAとNKPの指導者の間で起こった、しかしこれらの計画はフルボトンによって放棄された。
 党の支持は歴史的頂点に達し、1945年の選挙で11.9%、7議席を獲得した。
 1946年、フルボトンが総書記に選ばれた。1946−1965年議長はエミル・ロヴリエンEmil Lovlien
 党の成長は短かった。冷戦が始まり、ノルウェー政府は西側に提携した。
 1949年の国会選挙は102、722票、5.8%であった。
 1948年、チェコスロバキアが共産主義者に乗っ取られた4日後、労働党の首相アイナル・ゲルハルセンはもし共産主義者に
あまりの力を与えるとノルウェーにも同じことが起こるだろう警告した。
 この演説は共産党とそのメンバーにたいする、投票を減らし労働運動への影響を減少させる公然、非公然の反対キャンペーン
開始の表現だった。

 同時に党は最も跡を引くような内部分裂を体験した。1946年、フルボトンの戦中の密接な仲間が追放された。(フルボトン事件
 1949年、党内のフルボトンの敵(ロヴリエン派、ヨハン・ヨハンセンアスビヨルン・スンデ)は彼を追放するためのキャンペーンを
始めた。10月26日、フルボトンとその支持者(ラグナル・カルハイムロアルド・ハルヴォルセン)が追放された。彼らはトロツキスト、
ブルジョア民族主義者、チトー主義センターと断罪された。これらの文句は限りなく繰り返された。
 これらの経過はNKPの政治的疎外の開始に寄与した。レジスタンス闘争の英雄とみなされたフルボトンの追放は政治的自殺
であった。

 ヨハン・ヨハンセンは1955年モスクワに送られた。
 ラグナル・カルハイムは1959−1973年労働党、ついでAIK、SVと移り1974年死亡。
 ロアルド・ハルヴォルセンも1973年の社会主義選挙同盟に他の旧フルボトン・グループと参加、1975年のSV結成で議員となる。
 フルボトン派でレイフ・ヴェトレセンハンス・クレヴェンは酌量され党に戻ったが、レイフ・ヴェトレセンは1956年ソ連の
ハンガリー介入で離党し労働党参加、ハンス・クレヴェンは1961年ヨルゲン・フォクト周辺の少数派として中執辞任、(フォクト事件)、
社会主義左翼党結成時にはマルティン・クヌッセンを支持、1982年議長となりそれ崩壊以降は政治活動から撤退し
マルクス主義フォーラムを推進。

 追放の方法や追放者にたいするNKPの論評での強い言葉は、NKPに陰謀の党というイメージを与えるのに寄与した。
 NKPはいつもソ連共産党の忠実な追従者とみなされた。ときどきソ連路線に反対する独立的位置をとったとしても、たとえば
1968年のソ連のチェコ侵入をNKPは非難したが。ノルウェー青年共産主義者同盟は党よりいくらか自立路線をとる傾向があった。
 米国は1960年代半ばで党員は約4500名と見積もっている。

 1960年代は右派少数派と中央・左派多数派に分裂、1967年少数派が党から離れた。
 1967年中執少数派(ハンス・クレヴェンヨルゲン・フォクト)は辞任し独立組織であるマルクス主義フォーラムを結成。これは後
社会主義のための運動BfSと協力。(フォクト事件
 主要な論点は労働党との関係であった。フォクトクレヴェン派は労働党に好意的であった。社会主義人民党との関係も
問題となったが両者とも統合には反対であった。
 フルボトン事件と異なりフォクト事件では追放者はでなかったが後に議長となったハンス・クレヴェン以外は強固な反対派となった。
 多数派の親中国派キエル・ハヴデン1970年4月の荒れたストライキで著名)らは1970−1971年に党から離れ1970年
マルクス・レーニン主義戦線結成。この多数派は1972年共産主義労働者同盟KA結成、少数派は労働者共産党AKPに参加。
 マルクス・レーニン主義戦線MLFはSUF(ml)マルクス・レーニン主義グループMLG(SUF(ml)の元メンバー等が1970年結成)と
協働するがやがてMLFとMLGは対立し、1972年MLFは分裂し少数派はMLGに参加し多数派は共産主義労働者同盟KA結成。

 1973年の議会選挙で党は社会主義人民党民主社会主義者と選挙同盟−社会主義選挙同盟に参加し、その指導者
レイダル・ラルセンReidar Larsen(1965−1975年議長)を選出した。1961年の共産党としての議席をエミル・ロヴリエン
が失っていた。
 1975年、社会主義選挙同盟は社会主義左翼党となり、これは現在のノルウェーの最大の急進左派党である。
 共産党は選挙同盟の新党への転換過程には参加したが結局、別の党としてとどまることに決定した。
 1975年の党会議で113名が独立した党としてとどまることに賛成し(マルティン・クヌッセン、1975−1982年議長)、
30名がSVへの統合に賛成した。
 会議のあとラルセンと他の人々はNKPを去り社会主義左翼党に参加した。

 ソ連でゴルバチョフが政権を握り、改革が始まってからNKPは他のほとんどのヨーロッパの共産党同様に過去のソ連政策を
修正し始めた。党はソ連の諸政策から距離をとり始め、柔らかい共産主義に焦点をあてた。
 1981年の選挙では6673票、0.27%しか獲得できなかった。
 1990年代初期から民主的社会主義という言葉が党の文章に頻出するようになった。
 1990年頃からやはりNKP内部で再編に動く傾向が生じた。
 1989年の議会選挙で彼らは労働者共産党AKP、赤色選挙連合RV及び独立社会主義者と”環境と連帯のための州名簿”を
結成したが22126票、0.8%で議席は確保できなかった。
 1990年代初期にやはりいくつかの地区で赤色選挙連合RVと名簿に参加したり、他の地区ではRVのために運動したりした。
 しかしこの統一政策は1990年代中には棄てられた。
 ソ連共産党の守旧派によるゴルバチョフに対する1991年クーデタの企てに党が反対したときに対ソ政策修正をはっきりさせる瞬間
が訪れた。
 今日、党の原則的宣言ははっきりとソ連は民主的原理から遊離していることを示していると認め、これらの問題の批判の欠如の
責任をとらなければならないことをもまた党は認めている。
 しかし党は依然これらの国々を社会主義と進歩に対し尊敬すべき国、前例の体制の見本とみなしている。
 NKPがソ連の崩壊から生き残っても内部の苦悶と特に若者からの加入の欠如は党をすでにはるかに周辺化させている。
 1990年代初期に、党は上層部に若い指導者(イングヴェ・イヴェルセン、1991−1993年、指導者、1972年生)を選出する
ことでこれらのいくつかに反攻することを試みた。
 しかしこれらの動きは後押しする新党員の獲得に失敗し、結果的にソ連時期に参加した古い指導者に支配された。
 俳優を家族に持つペル・ロタール・リントネルが1993−2001年共同代弁者の一人となった。
 2001年からゼフェル・ゲゼットが指導者。
 2002年、共産党、SV、RV、DNAなどの種々の党の左派は社会主義のための運動BfSを結成。
 2003年党の代弁者の一人であったキエル・ウンデルリッド(1993−2000年)が離党しこれに参加。
 BfSは2008年マルクス主義フォーラムと雑誌”社会主義未来”を発行。
 NKPは2003年には地方選挙で3議席獲得した。そのうち2議席はオスネスであったが、オスネスの支部は2004年に
宗教、スターリン、他の左翼政党との協力の問題に対する不一致のため急進社会主義者を形成するため党を去った。
 2005年の選挙では1065票、0.04%しか獲得できなかった。
 2007年地方選には名簿を形成できるに必要な候補をみつけることができなかった。
 2009年国会選は697票。
 2010年指導者がスヴェント・ハーコン・ヤコブセンに代わる。
 2013年選挙は612票。

マルティン・トランメル

・オラフ・シェフロOlav Scheflo
 1905年から労働党員、10月革命以降労働党のコミンテルン加入に努力、1921−1927年コミンテルン執行委員。
 スターリンに批判的になり、1928年共産党から離れ1929年労働党に戻る。
 1935−1936年トロツキーがノルウェーに亡命中、彼を庇護、右翼反対派に接近。

ペデル・フルボトン(1890−1975)

○モット・ダグMot Dag(グループ)
 エルリング・ファルクの発案で創設。オスロの社会民主学生組織の議論フォーラムないし、ファルクの学習グループ
ヴィッゴ・ハンステーンら、)が起源、最初の編集者はシグルド・ホエル
 1922−1924年までは労働党の集合グループであったが追放され1927−1929年は共産党に所属。
 最大約200名で1936年解散時は約100名。1930年代新労働党結成しようとして不成功。
 オラヴ・ダルガルド(映画製作者)、オッド・エイデム(作家)、アルヌルフ・オヴェルランド(作家)など。
 短期間でも関係したことがあるのはエイナル・ゲルハルドセンオスカル・トロプ(労働党で1951−1955年首相)、
ヨン・リング(保守党で1963年首相)、ハーコン・リー(労働党1945−1969年書記)、ブリニュルフ・ブル(労働党オスロ市長)、
ウィリー・ブラントなど。


〔ノルウェー労働党〕 Det norske arbeiderpartiDNA
 1887年にアンデレス・アンデレセンAnders Andersenにより結成され、普通選挙権、ストライキ権、直接税、法定標準
労働日を目標とした。
 1981−1982年にクリスティアニアでドイツ人がアナーキズムを宣伝しアナーキズム・共産主義グループ自由を結成。
 クリストフェル・ハンステーンがこれで活発に活動、オレ・リアンらも影響を受けた。リアンはやがて穏健化しLOの指導者
となり(1906−1925年)、1911年にはマルティン・トランメル、ナルヴァルド・オルセンファグ反対派と対決、党内でも
右派となり1923年には反トランメル派と同盟した。
 1894年に最初の国会選挙に参加、得票率0.3%、1903年についに議席獲得、得票率12,1%、議席117中4。
 1898年男性普通選挙権が、1913年女性普通選挙権が導入され突破口となった。
 ノルウェー労働組合連合LO(1899年結成)の指導者となるハンス・イエンセンHans Jensenが1888−1889年の指導者となった。
 クリスチャン・クヌドセンChristian Knudsenは1918年まで党の中心的人物であった。
 1911年マルティン・トランメルMartin Tranmalが急進化をはかる。
 第1次世界大戦後ロシア革命によりこれが更に推進される。
 1918年キレ・グレップトランメルオラフ・シェフロが主導権を握る。
 1901年からの党書記のマグヌス・ニルセンが職を追われる。
 2年前の共産主義インターへの参加決定によって1921年に最初の分裂に見舞われ右派(オラフ・オクスヴィク
ハルヴァルド・ランゲマグヌス・ニルセンら)が社会民主労働党結成。
 1923年、共産主義インターから離脱し、1923年、一部がノルウェー共産党結成。
 1927年、社会民主労働党と再統合。
 1928年、最初の労働党政府がクリストフェル・ホルンスルドChristopher Hornsrudにより形成されるが2週間しかもたなかった。
 (1927年の選挙で36.8%、150中50議席)
 1932−1933年までロンドン・ビュロー(国際革命的マルクス主義者センター)参加。
 1930年代早期に労働党は革命戦略をすて改良主義にコースをとる。
 1933年党会議で議会重視が決定される。
 1930年代ロシア滞在から帰国したオレ・コルビヨルンセンOle Colbjornsen,が計画経済の思想を発表し大きな影響を与えた。
 彼はロシアでの経験と更にケインズベヴェリッジから影響を受けた。
 労働党は1935年に農民党の支持で政府に復帰し(1933年の選挙で40.1%、150中69議席)、1965年まで政権維持。
 ヨハン・ニューゴールスヴォルドJohan Nygaardsvoldは1935−1945年(1940−1945年はロンドン亡命政権)に首相となり、
エイナル・ゲルハルドセンEinar Gerhardsenはオスロ市長となった。
 エイナル・ゲルハルドセンは1945−1951年、1955−1963年、1963−1965年に首相となり国民の父と称される。
 1945年選挙はLP41.0%、76議席、H17.0%、25議席、V13.8%、20議席、NKP11.9%、11議席、農民党8.1%、
10議席、KrF7.9%、8議席、
SF6.0%、2議席。
 トリグヴェ・リー(1946−1952年国連事務総長)はトロツキーがソ連から追放されたときノルウェー滞在許可を与えた。
 左派指導者ホーコン・メイヤーはドイツ占領でドイツ協力の立場をとった。
 ノルウェー・ファシストの国民連合がドイツ占領下でヴィドクン・キスリング傀儡政権(1942年2月−1945年5月)を構成。
 1951−1955年はオスカル・トルプ(労働党)が政権を担当。
 1933年から1969年まで40%以上の得票率(1957年最高48.3%)であったが1973年に35.3%となり、1977年に再び
42.3%となるが1989年以降40%を切り、2001年には24.3%まで低下。2005年には32.7%に回復。
 1958年フィン・グスタフセンベルゲ・フッレによりイースター反乱(米国の核政策に反対し西ドイツが核兵器を持つべきでない
という決議が党でなされる)が起きる。
 1960年ヴィルヘルム・アウベルト周辺のグループ(フィン・グスタフセン)が追放され一部は社会主義人民党に参加。
 1961年、NATO問題で社会主義人民党が結成される。この選挙でDNAは150中74議席で社会主義人民党の2議席が重要
な位置を占めた。
 1962年のキングス湾問題(鉱山事故問題)により翌年エイナル・ゲルハルドセンが倒壊し、第2次大戦後初のブルジョア政権
が保守党のジン・リングにより形成される。(約1ヶ月で倒壊)
 1965−1971年は中央党SPのペル・ボルテンの4党(保守党H、キリスト民主党KrF、自由党V)中道右派政権。
 1965年選挙は労働党A43.1%、68議席、H20.3%、31議席、V10.2%、18議席、SP9.4%、18議席、KrF7.8%、13議席、
SF6.0%、2議席。
 1971年にトリグヴェ・ブラッテリ(−1976年まで首相)のもとで再び政権復帰、1972年にEC参加投票で敗北し政権を降りるが、
1973年に復帰、1981年まで政権維持(オドヴァル・ノルディが1976−1981年首相)。
 1981年、女性首相グロ・ハルレム・ブルントラントなるもすぐ失い1986年復帰、1989年失い、1990年再壇し、1996年辞職。
 ブルントラントエイナル・フェルデにより党の現代化が行われ、1985年選挙で好結果を得る。
 1981−1986年までは保守党カレ・ヴィロッホキリスト民主党中央党連立政権(1973年から)。
 1992年2−2002年トルビヨルン・ヤグランド(1996−1997年首相)がLO指導者イングヴェ・ホンゲンセンの支持により
党指導者となる。
 1997−2000年、2001−2005年はキリスト民主党キエル・マグネ・ボンデヴィック保守党キリスト民主党自由党
連立政権。

 1997年ブルントラント政権で司法・警察大臣となったゲルド・リヴ・ヴァッラGerd-Liv Vallaは1974−1975年の
ノルウェー学生連合NSU指導者で共産主義大学グループ(ラーグ)KULに参加、このグループは共産主義労働者同盟KAと活動、
彼女は1982年KAから離れた。彼女はイングヴェ・ホンゲンセンのあとを継ぎ2001−2007年のノルウェー労働組合連合LO
指導者となり、ヴァッラ事件(醜聞)で辞任。

 2001年選挙は労働党24.3%、43議席、H21.2%、38議席、V3.9%、2議席、進歩党FrP(1973年結成の典型保守)14.6%、
26議席、SV12..5%、23議席、KrF12.4%、22議席、中央党(旧農民党)5.6%、10議席。
 現首相のイェンス・ストルテンベルグは1959年生、1985年から1989年までAUFの指導者、2000−2001年首相、2005年首相復帰。
 2005年選挙は労働党32.7%、61議席、進歩党H22.1%、38議席、H14.1%、23議席、SV8.8%、15議席、KrF6.8%、
11議席、中央党6.5%、11議席、V5.9%、10議席、で赤緑連合勝利。
 赤緑連合87議席(労働党61議席、SV15議席、中央党、11議席)、中道右派3党44議席、ポピュリスト進歩党38議席。
 2009年選挙は労働党35.6%、64議席、進歩党22.9%、41議席、H17.2%、30議席、SV6.2%、11議席、KrF5.5%、
10議席、中央党6.2%、11議席、V3.9%、2議席、で赤緑連合勝利。

 2011年7月、党の青年キャンプが極右思想の持ち主(元進歩党員)により襲撃され69名銃殺されるという大惨事発生。
 2011年9月の地方選挙結果は自治体選挙が労働党31.7%で+2.0%、保守党H(右翼)が28.0%で+8.7%、進歩党が
11.4%で−6.1%、中央党が6.8%で−1.2%、左翼V6.3%で+0.5%、キ人民党KrF5.6%、で−0.7%、
社会主義左翼党が4.1%で−2.0%、赤1.5%で−0.2%など。
 州選挙は労働党33.2%で+2.4%、保守党27.6%で+8.9%、進歩党11.8%で−6.8%、社会主義左翼党が4.3%で
−2.2%、赤1.7%で−0.3%など。
 2013年9月の国会選挙は30.8%、55議席、赤緑連合では40.4%、72議席。(中央党5.5%、10議席、社会主義左翼党4.1%、7議席)
 保守連合は保守党H26.8%、48議席、進歩党16.3%、29議席、キリスト民主5.6%、10議席。リベラルV5.2%、9議席。
 大惨事の2年後に進歩党参加の連立政権成立。

 2014年党首がヨナス・ガール・ストーレと交代。イェンス・ストルテンベルグはNATOの事務総長に任命される。
 2017年選挙は27.4%、49議席。保守党25.0%、45議席、進歩党15.2%、27議席、中央党10.3%、19議席、キリスト民主4.2%、8議、
リベラルV4.4%、8議席。ソルベルグ政権維持。

 ノルウェー労働組合連合LOは21全国組合、85万を超える産業労働者を主とする全国組織。

・ヨハン・ニューゴールスヴォルド Johan Nygaardsvold 1879年生−1952年死亡
 小作農の子、12歳から製材所で働く、1902年カナダ移住。1907年戻るまでカナダ、米国で働く。
 デンマークに戻りIWWの活動家となる。1910年労働党教育幹部となる。1916年国会議員となる。
 1920−1922年故郷マルヴィック市長となる。1928年ホルンスルト政権で農業大臣となる。
 1935−1940年首相となりナチス侵攻でロンドンの亡命政権。

・エイナル・ゲルハルドセン Einar Gerhardsen 1897年生−1987年死亡
 元は道路労働者で1920年代社会主義労働運動の活動家となる。共産主義から民主社会主義に徐々に移行。
 1930年代までのオスロ市長として首相のニューゴールスヴォルと国政の顔となる。
 第2次世界大戦の間ナチス占領レジスタンスとして収容所に入れられる。
 戦後臨時政権を形成、選挙で勝利し多数派となる。彼の政権前後で貧困と失業は産業化政策と累進課税による富再分配で
大きく減少、外交では西側陣営に参加NATO結成に加わる。
 多くのノルウェー人は彼を国民の父と称する。

・トリグヴェ・ブラッテリ Trygve Bratteli 1910年生−1984年死亡
 当初失業や種々の労働に従事、ナチス侵攻により労働党危機委員会書記となり逮捕され収容所に送られるが生き残る。
 1945年ノルウェーに戻り労働者青年同盟議長、党副議長となる。1965年党議長となる。
 ゲルハルドセン内閣で大臣を務める。1965−1971年のボルテン中道・右派政権崩壊後1971年組閣。
 EU参加の国民投票の拒絶で倒閣。1973年選挙後再度政権確保。

・グロ・ハルレム・ブルントラント Gro Harlem Brundtland 1939年生
 1963年オスロ大で医学博士、1965年ハーヴァード大で公衆健康修士。1966−1969年健康監督署で内科医として勤務。
 1969年オスロ健康サーヴィス公立学校で医師として働く。1974−1979年環境問題大臣となり、1981年初めての女性首相
となる。1998年WHO総長となる。現在はペプシ相談役!
 
・イェンス・ストルテンベルグ Jens Stoltenberg
 父親は労働党政権で大臣を2度務めたトルヴァルド・ストルテンベルグ(1958年NSU指導者)。
 1985−1989年の労働者青年同盟AFU指導者。オスロ大卒。

民主社会主義者−AIK) 
 ノルウェー労働党内反対派組織、ノルウェーのEU加盟に反対する労働運動情報委員会AIKは1972年1月EEC参加の国民
投票に先立って設立された。創設者は労働者青年同盟AUFといくつかの労働組合から来た。指導者はベルント・ルンド
 1973年3月AIFは労働党と分裂して民主社会主義者−AIKを結成し、ベリット・オスを指導者に選出し、社会主義選挙同盟SVに
参加、SVが社会主義左翼に転換したときAIKはそれに融合していった。

赤緑連合
 労働党社会主義左翼党中央党によって2005年中道右派に対する選択として結成、小差で絶対多数派となる。
 正義と連帯を基礎としたソリア・モリア宣言を4年間の共同政策としている。
 2009年も169議席中86議席で再び多数派を確保。
 2013年は敗北。公式には解散。

〔環境党緑〕  Miljopartiet De Gronne
 1988年、地域的環境派選挙名簿のメンバーが結成。国会議員はいない。(2005年の選挙で0.2%)。
 2007年地方選挙はカントリー選12379票、0.6%。2009年国会選は0.3%。
 ヨーロッパ緑グローバル緑に参加。
 2013年国会選挙は2.8%、1議席。
 2017年選挙は3.2%、1議席。

左翼Venstre(リベラル党)〕
 1884年結成で現在は社会リベラル政党である。
 議会制導入時点でVenstreは議会主義賛成であったのに対し保守党(ノルウェー表記右翼Hφyre)は議会主義反対であった。
 議会で保守党に対し議席が左側であったから左翼と称しただけで社会主義を意味したわけではなく保守党に対しリベラルないし
は急進の政党であった。
 歴史的に中道右派ないし中道政権に参加。
 普通選挙制を支持し1898年にこれが実現されると1913年には女性普通選挙制実現。
 1885年以来1935年まで6人の首相(ヨハン・スヴェルドルップヨハネス・ステーングンナル・クヌードセンオットー・ブレーア
ヨハン・ルドヴィヒ・モヴィンケル等)を送り出した。労働党の成長で後退し始め、旧メンバーによる1920年農民党、1933年キリスト教
人民党結成が後退に拍車をかけた。1918年までは30%前後かそれ以上であったが1921年から20%台、1933年から20%をきり、
1957年から10%をきった。1973年からは3%台に低下。
 第2次世界大戦後4つの連立政権に参加。1972年EC加盟問題でリベラル人民党分裂。1985年選挙の前に最初の最後の労働党
支持宣言で議席失う。1997年再度議席確保(6議席)。

中央党Sp〕
 1920年結成の中道の農業党(1959年まで農民党)。19−120世紀は大思想を基礎にしていたわけではないが非中央主義的経済発展、
政治決定維持に焦点を当てた。
 結成から2000年までは非社会主義者政権にだけ参加していたが2005年から赤緑連合参加。
 1930−2000年まで7連立政権に参加し3人首相(イェンス・フンドセイド(1940年ナチス支持の民族連合参加)、ペル・ボルテン
(1965−1971年)など)を出す。
 1930年代は元党員のヴィドクン・クィスリングがナチス支持の民族連合を結成し党はこれと政権交渉をさえした。そのため以前20%前後の
選挙得票が戦後10%台に低下。
 1972年から基本的にEU参加反対。

<ML派>

(労働者共産党) Arbeidernes Kommunistparti AKP(1973−2007)
 1973年結成。マルクス・レーニン主義党・組織国際協議会ICMLPOに参加。
 著名な人物はポル・ステイガン(1973−1975年指導者)、シグルド・アレルン(1975−1984年指導者)など。
 当初mlをつけていた(AKP(ml))が1990年に取った。
 AKPの結成メンバーはSFの青年組織のSUFからきており、1969年にSUFを分裂させている(SUF(ml))。
 一方NKP親中国派キエル・ハヴデン1970年4月の荒れたストライキで著名)らは1970−1971年に党から離れ
1970年マルクス・レーニン主義戦線結成。この多数派は1972年共産主義労働者同盟KA結成、少数派は
労働者共産党AKPに参加。
 マルクス・レーニン主義戦線MLFはSUF(ml)マルクス・レーニン主義グループMLG(SUF(ml)の元メンバーが中心、
シグルド・アレルン指導者)と協働するがやがてMLFとMLGは対立し、1972年MLFは分裂し少数派はMLGに参加し多数派
共産主義労働者同盟KA結成。

 労働者共産党は選挙のためには赤色選挙連合RVを結成し1973年から国会選挙では0.5%前後の得票を得ていたが、
1993年には1.1%、1議席(エルリング・フォルクボルド)を獲得し、1997年には最高の1.7%、0議席と、以降1%以上の得票を得ている。
 1980年代女性反乱に遭い以降キエルスティ・エリクソン(1984−1988年)、シリ・イエンセン(1988−1992年)、
ソルヴェイグ・アームダル(1992−1997年)、ヨルン・グルブランドセン(1997−2006年)ら女性が指導者となる。
 2007年にはRVとAKPは融合し新党を結成している。
 赤は2007年の地方選挙でクヌート・ヘニング・ティゲセンをリソル市長に当選させている。
 旧AKPメンバーの一部、特に学生組織共産主義学生同盟NKSのメンバーはこの党は民主集中制をとってないから共産党でない
としてマルクス・レーニン主義グループ革命共産主義綱領KPを結成。
 KPの目標はノルウェーに新しい共産主義者の党を結成することである。
  → 赤色戦線(オスロ大学学生の独立組織) 

〕 Rodt
 2007年3月、労働者共産党(イングリッド・バルツァーセンエルリング・フォルクボルド)と赤色選挙連合が合同して設立。
 新指導者は赤色選挙連合の指導者だったトルステイン・ダーレ、副委員長はアナ・ロペスイングリッド・バルツァーセン
 9月国際社会主義者が参加。
 2007年の地方選挙でクヌート・ヘニング・ティゲセンKnut Henning Thygesenをリソル市長に当選させている。
 青年組織は赤い青年RU、その指導者はマリ・エイフリング。  マリ・エイフリングYOU・TUBE
 2009年選挙は36220票、1.4%で左翼(リベラル党)についで第8党。
 2008年副委員長のマルテ・ミヨス・ペルセンは赤が大衆党としての能力を欠くとして労働党に移る。
 若い世代と1970年代からの古いメンバーとの間の軋轢がその根底にある。
 若いビヨルナル・モクスネス(1981年生)、インゲボルグ・ステインホルト(1986年生)、ミミル・クリスチャンソン(1986年生)などが
新指導者候補。
 2010年トゥリド・トマッセン(社会主義左翼党の国会議員ネステン・ヴォクセンと共同生活)が党指導者となる。
 2012年ビョルナル・モクスネスが党首となる。
 2013年国会選挙は1.1%、30659票。
 2017年選挙は2.4%でビョルナル・モクスネスがオスロ選挙区で初議席獲得。

赤色選挙連合) Rod ValgallianseRV
 1973年、労働者共産党の選挙戦線として設立。1991年、独立した党となった。
 その結果、この党は種々のレーニン主義思想を寄せ集めた。
 1970年代指導者はシグルド・アレルン労働者共産党AKPの中心人物でもあった。
 1989年選挙では共産党と協力。
 1991年からは個人参加でAKPのほか労働者の力グループ革命同盟マルクス・レーニン主義グループ革命などからも参加。
 1993年から1997年までエルリング・フォルクボルドが国会議員となる。1997年党として最高の43252票、1.7%獲得、しかし
フォルクボルドは議席を失う。
 2003年、ベルゲン大学の経済学者のトルステイン・ダーレTorstein Dahle(1947年生)が指導者に選ばれた。
 2005年の選挙では32370票、1.2%獲得。2007年、労働者共産党と融合し新党となる。
 旧AKPメンバーの一部、特に学生組織共産主義学生同盟NKSのメンバーはこの党は民主集中制をとってないから共産党でない
としてマルクス・レーニン主義グループ革命共産主義綱領KPを結成。
 KPの目標はノルウェーに新しい共産主義者の党を結成することである。

 RVの2007年地方選挙は自治体選41340票、1.9%、州選2.1%。

共産主義労働者同盟KA)
 1972年、キエル・ハヴデンら共産党の活動家が形成。最初は親中路線であったが後、親アルバニア路線をとる。
 ML派ではAKPmlに対し左派の立場。1973年共産主義大学グループKULと協力関係樹立。
 1980年代親アルバニア派がマルクス・レーニン主義同盟結成、1980年代中消滅。
 1987年この残存グループがマルクス・レーニン主義グループ革命結成、このグループは赤色選挙連合支持
クリスティヌ・モロ・クリステンセン(1988年結成のEUにノーに参加)ら)。
 旧モット・ダグ・グループのリズ・デディケンが晩年KAに参加し遺産をKAに譲渡しこのなかに小印刷店がありこれでKAは
赤い労働者をトルビヨルン・ヒスタドらが2005年まで発行。
 2006年春解散。

共産主義大学グループ(ラーグ)KUL)
 オスロ大学の哲学・社会経済学部を中心に1973年に結成された1970年代の革命的学生組織。
 AKP(ml)をプチブルで民族主義、軍事主義と批判しこれの左翼と自認。
 KULは共産主義労働者同盟KAと協力しこの学生組織となる。KULはベルゲン大学の共産主義労働グループKAG/Bとも協力。
 KULはKAGの勢力のあったベルゲン以外にも勢力をもった。
 KULは評議会共産主義レーニン主義を推進しようとしたがAKPml同様中国の影響を受け、1976年の毛沢東死後中国を批判、
一時期アルバニアを支持。スターリンを評価するKAと1980年衝突。一部は1981年まで政治活動を継続。
 著名なメンバーはエスペン・ソビエゲルド・リヴ・ヴァッラハラルド・ベルンステンヨルゲン・サンデモセトルルス・ヴィッレル
ニルス・ヨハン・リングダル(多くは学者)。

 KAG/Bは1971年、ベルゲン大学の以前のSUFmlメンバーと独立マルクス主義グループが結成。1973年解散し
社会主義選挙同盟
に参加するグループとこれに反対するマルクス主義グループ・ベルゲンMGBに分裂。
 KAG/BはAKPmlをスターリン主義、プチブルと批判し、1970年代大学でのAKPmlの衰退に大きな影響を与えた。
 著名な人物はテリエ・ロドラルセン(外務省に勤め、1996年トルビヨルン・ヤグランド政権で行政大臣、1999年国連の
中東問題代表)、ハンス・エッビング(SV議員)などでそのほかもSV、その青年組織SU、労働党青年組織AUF幹部となった。
 その他SVではエリック・ソルハイムモルテン・ヨルゲンセンなど。

 KAGはフランスの構造主義、ニーチェ、フロイト、ポストモダニズム(フーコー、デリダ、バルト、ラカン)の方向を志向したが、
KULはヘーゲル的方向(晩期マルクス即ち資本論の論理を重視し初期マルクスの唯物史観を経済理論でないとするマルクス
の資本の論理的解釈、ラルス・グレ)を志向した。

 現在はオスロ大学には独立グループとして赤色戦線があり左翼連合と協力している。

マルクス・レーニン主義同盟MLF)
 1980年代はじめに存在。共産主義労働者同盟を去った若い活動家を核に形成。政治的にアルバニア労働党に接近。
 反修正主義、親アルバニア。マルクス・レーニン主義党・組織国際会議に所属。
 1980年代中に解散。1987年、マルクス・レーニン(ML)主義グループ・革命として再登場。
 マルクス・レーニン主義グループ革命は赤色選挙連合支持(クリスティヌ・モロ・クリステンセン(1988年結成のEUにノーに参加)ら)。

トロツキスト> 初期(ニルス・ダール回想)

 1928年オラフ・シェフロコンラド・ノルダール、ジャネット・オルセンらが追放され、これにはトロツキーと似た考えのものいた。

 ノルウェーへの初期のトロツキズム運動の導入は主にドイツ亡命者によってなされた。
 なかでも重要な役割を果たしたのはヴァルター・ヘルドハインツ・エッペ)である。ヘルドは1934年ノルウェーに来住、
主にモット・ダグ・グループの知識人に接触した。彼はグループ創設者のエアリング・ファルクと親しくなった。
 1936年トロツキストとして共産党から追放されたジャネット・オルセンと雑誌10月(1937−1939年)を編集、10月グループ
を結成。これにはニルス・ダールらも投稿。
 10月グループにはヘルゲ・クロッグシグルド・ヘールアルヌルフ・オヴェルランドらが加わっていた。グループは国際的にはトロツキストと協力。
 ヘルドは1940年のナチスのノルウェー侵入でソ連経由で米国へ渡ろうとしてモスクワで逮捕処刑された。
 1936年ファルクモット・ダグ・グループから疎外されトロンド・ヘグナが指導者となり労働党に入った。
 ニルス・ダールもモット・ダグ・グループから追い出され労働党に加入。
 トロツキストは労働党特に労働者青年同盟AUFで左派となり戦中NKPに参加し、多くが1949−1950年のフルボトン事件に関連し追放された。
 この時期トロツキーに同情的グループはオラフ・シェフロ周辺グループであったが労働党左派らホーコン・メイヤーエルリング・オルセンのような
ナチス協力者が出現した。
 フィンランド戦争でノルウェーのトロツキストはトロツキーの路線に反対。ナチスの侵入でトロツキストは革命的敗北主義かナチスとの闘争かで
混乱する。
 チェコスロヴァキア人アリオス・ノイラート、フランス人ダニエル・ゲラン、ウィリー・ブラント、ヴィルヘルム・ライヒなども1930年代
にオスロに滞在・亡命した。
 ドイツ占領でヘルゲ・クロッグシグルド・ヘールはスウェーデンに逃れオヴェルランドは逮捕・収容所送りとなったが生き延びた。
 これらは戦後いずれも著作家等となる。

国際社会主義者IS〕
 ノルウェーのトロツキストは1968年前後の青年反乱で大した役割を演じなかった。
 戦後最初のトロツキストはAKP(ml)赤い青年Rの以前のメンバーが10月グループを結成(再建)。
 ISは1970年代の社会主義青年SU(SVの青年組織)の反対派に起源する。
 この反対派は2つのグループの連合で一方はイギリスのSWPの影響をうけており、他方はサンディカリスト傾向であった。
 このグループはSVの改良主義反対とNKP、AKPml反対で結びついていた。
 1980年代初期までに反対派はオスロ支部と機関紙青年社会主義者を支配。ベルゲン、トロントハイムでも支持者がいた。
 1981年SU指導部とSV(エリック・ソルハイム)は反対派排除を決めSUの解散再結成を行った。
 反対派は独自の組織労働者の力グループArbeidermaktgruppaAMG結成。これには10月グループの一部も参加。
 AMGには第4インター支持の小グループも参加。構成3派の和解が困難となり1985年大きな多数派が分裂、国際社会主義者
結成。少数はサンディカリスト連合(1977年再建)参加。
 1980−1990年代ISはある程度成長し反人種主義、反ネオナチス闘争やオスロの運輸部門の山猫ストに活発な役割
を果たした。2000年代初期ISは困難を経験、2001年には分裂でメンバーを失い、ATTAC組織結成でもメンバーを失った。
 2008年赤参加を決定。

 労働者の力グループの他のグループは赤色選挙連合RVに向かった。RV内のAMGは1990年代解散。
 革命同盟(1991年赤い青年RU、AKP(ml)などの旧メンバー結成)、AMG、IS旧メンバーは1999年同盟国際主義者FIN
結成、FINは2003年分裂しメンバーはRVやSVに参加。


政権
1945年 エイナル・ゲルハルドセン(労働党) 労働党、保守左翼農民党抵抗運動共産党
1945−1951年 エイナル・ゲルハルドセン(労働党) 労働党
1951−1955年 オスカル・トルプ(労働党) 労働党
1955−1963年 エイナル・ゲルハルドセン(労働党) 労働党
1963年 ヨーン・リング(保守) 保守、キリスト民主、左翼、中央党
1963−1965年 エイナル・ゲルハルドセン(労働党) 労働党
1965−1971年 ペル・ボルテン(中央) 中央、保守、キリスト民主、左翼
1971−1972年 トリグヴェ・ブラッテリ(労働党) 労働党
1972−1973年 ラルス・コルヴァルト(キリスト民主) キリスト民主、中央党、左翼
1973−1976年 トリグヴェ・ブラッテリ(労働党) 労働党
1976−1981年 オドヴァル・ノルディ(労働党) 労働党
1981年 グロ・ハルレム・ブルントラント(労働党) 労働党
1981−1983年 コレ・ヴィロッホ(保守) 保守
1983−1986年 コレ・ヴィロッホ(保守) 保守、中央党、キリスト民主
1986−1989年 グロ・ハルレム・ブルントラント(労働党) 労働党
1989−1990年 ヤン・ペッデル・シセ(保守) 保守、中央党、キリスト民主
1990−1996年 グロ・ハルレム・ブルントラント(労働党) 労働党
1996−1997年 トルビヨルン・ヤグラント(労働党) 労働党
1997−2000年 キエル・ボンデヴィク(キリスト民主) キリスト民主、中央党、左翼
2000−2001年 イエンス・ストルテンベルク(労働党) 労働党
2001−2005年 キエル・ボンデヴィク(キリスト民主) キリスト民主、保守、左翼
2005−2013年 イエンス・ストルテンベルク(労働党) 労働党、社会主義左翼党、中央党
2013−       エルナ・ソルベルグ(保守党) 保守党、進歩党、(キリスト民主、左翼が支持)

政党別国会勢力変遷
右翼 保守 キリスト民主 左翼(リベラル 中央 労働党 社会主義左翼 共産党
1936年 21.3(36 4.4(3 16.0(23 11.5(18 42.5(70
1945年 17.0(25 7.9(8 13.8(20 8.1(10 41.0(76 11.9(11
1949年 17.8(23 8.5(9 13.5(21 7.9(12 45.7(85 5.8(0
1953年 18.8(27 10.5(14 10.0(15 9.0(14 46.7(77 5.1(3
1957年 18.9(29 10.2(12 9.7(15 9.3(15 48.3(78 3.4(1
1961年 19.3(29 9.3(15 7.2(14 6.8(16 46.8(74 2.4(2 2.9(0
1965年 20.3(31 7.8(13 10.2(18 9.4(18 43.1(68 6.0(2 1.4(0
1969年 18.8(29 7.8(14 9.4(13 9.0(20 46.5(74 3.4(0 1.0(0
1973年 (進歩) 22.2(33 11.9(20 5.7(3 6.8(21 35.2(62 11.2(16
1977年 1.9(0 24.5(41 9.8(22 2.4(2 8.0(12 42.3(76 4.2(2
1981年 4.5(4 31.8(53 8.9(15 3.2(2 4.3(11 37.1(66 5.0(4
1985年 3.7(2 30.4(50 8.3(16 3.1(0 6.6(12 40.8(71 5.5(6 0.6(0
1989年 13.0(22 22.2(37 8.5(14 3.2(0 0.4 6.5(11 34.3(63 10.1(17
1993年 6.3(10 17.0(28 7.9(13 3.6(1 0.1 16.7(32 36.9(67 7.9(13 1.1(1
1997年 15.3(25 14.3(23 13.7(25 4.5(6 0.2 7.9(11 35.0(65 6.0(9 1.7(0
2001年 14.6(26 21.2(38 12.4(22 3.9(2 0.2 5.6(10 24.3(43 12.5(23 1.2(0
2005年 22.1(38 14.1(23 6.8(11 5.9(10 0.1 6.5(11 32.7(61 8.8(15 1.2(0
2009年 22.9(41 17.2(30 5.5(10 3.9(2 0.3 6.2(11 35.4(64 6.2(11 1.3(0
2013年 16.3(29 26.8(48 5.6(10 5.2(9 2.8(1 5.5(10 30.8(55 4.1(7 1.1
2017年 15.2(27 25.0(45 4.2(8 4.4(8 3.2(1 10.3(19 27.4(49 6.0(11 2.4(1


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