<<オーストリアの左翼>>


オーストリア共産党〕 KIによる党史 OKP OKP
 1918年設立、1933−1945年までドイツ支配下で禁止。
 オーストリアのナチス抵抗運動で大きな役割を果たす。
 1959年以来議席をもたない。
 1970年にスティリア(シュタイアーマルク)の州議会で議席を失ってから政治的に重要性のない周辺運動化。
 2002年の国会選挙で0.56%、27568票。
 2003年のグラーツ(スティリア州都)地方選挙では20%、2005年のスティリア州政府選挙では6.3%獲得。
 新ヨーロッパ左翼フォーラムとヨーロッパ左翼党のメンバー。

 KPOの結成にはルート・フィッシャー(エルフリーデ・フリエンドレンダーのちトロツキスト)のサークルやフランツ・コリッショナー
周囲の社会党左翼、社会主義青年同盟やヨハン・コプレニヒ、ゴットリープ・フィアラ、カール・トマンのようなソ連から帰還した戦争捕虜
などが参加した。
 
 第一次大戦後のロシア革命あるいはドイツの1月ストライキの状況下で、オーストリアでの評議会共和国設立の試みは 
ドイツやロシアと違った結果をもたらした。ウィーンや上オーストリアなどの人口密集地域に評議会は孤立して樹立された。
 赤衛軍は結成されてすぐに人民防衛隊に統合された。
 1918年11月12日、クーデターが起こったがすぐに鎮圧された。
 1918年11月3日ヴィーンでドイツ・オーストリア共産党結成、1920年オーストリア共産党となる。
 レオ・ロートツィーゲルハンガリー革命に参加し919年死亡)、エゴン・エルヴィン・キッシュらの革命的国際社会主義者連合
FRSIが1919年参加。
 第一共和制の間、社会民主主義者が反対運動を統一できたためKPOは大した影響をもつことができなかった。
 1919年のコミンテルン結成会議にはカール・シュタインマルクが参加。
 1920年代末にはKPOは権威主義化の方向に進んだ。
 1924年コミンテルンからゲオルギー・ディミトロフが指導のため派遣される。
 1921年、ヨゼフ・フレイの大きな新左翼グループが社会党から移ってきた。
 ジェノヴィエフ路線とフレイは対立し、1925年、反対派を組織し始めた。
 フレイは1927年KPO反対派会議を結成した。このときKPOの活動家は約3千に対しKPO反対派は約400であった。
 これにはクルト・ランダウも加わっていた。
 オーストリアのトロツキストはトロツキーの加入戦術に反対した。
 1933年、ドルフス政権により共産党は禁止され地下運動組織になった。
 社会党SPOが禁止されてからエルンスト・フィッシャークリスチアン・ブローダのようなSPOの以前のメンバーは
KPOとともに地下運動を行った。
 KPOは1934年2月12日の労働者の反乱に参加したがこれは共和国防衛同盟によって火がつけられた。
 これはファシズムから民主主義を防衛する最後の企てであったが失敗した。これは連邦軍と護国団によって鎮圧された。
 1920年代から、KPOはスターリンの社会ファシズム論に反対だった。
 1934年2月のあとKPOは急速に4千から1万6千のメンバーに成長した。
 社会党も含めてオーストリアはドイツ国家の統一に傾斜していたが、KPOは中立的であった。
 1937年党誌”道と目標(ヴェーク・ウント・ツィール)”でアルフレッド・クラール(1944年アウシュヴィッツで死亡)がオーストリアの
民族問題と言う題の論文でオーストリアは自立の道を展開していると結論。
 1938年3月、ナチスドイツに併合されたとき、党はヒットラーの独裁に反対し、国民に独立のための闘いを求めた。
 1939年のモロトフ・リベントロップ協定の結果、多くのKPOメンバーは国外追放され、フランツ・コリッショナーのように
ソ連によりナチスに手渡された。
 ドイツとソ連の開戦によりソ連は急速に方針を転換し、KPOを支持し始めた。
 第三帝国の間、共産主義者はかつての政敵とともにヒットラー体制と戦った。
 レジスタンスで2千人以上の共産主義者が命を失った。
 軍事抵抗も行われた。ケルンテンではスロヴェニア人グループ、上オーストリアではマックス・ムヒッチュセップ・フィルス
グループ、後にはザルツカンマーグートでも、戦争末期にはユーゴスラヴィア・パルチザン部隊のなかにオーストリア自由大隊
ヴィリー・フランク(ナチス突撃隊との戦闘で死亡)ら、)とシュタイアーマルク戦闘グループの核が形成された。

 戦後、占領ソ連当局のの支援もあり、KPOは短い期間オーストリアで重要な地位を占めることができた。
 カール・レンナーの臨時政府で9人のキリスト教社会主義者、10人の社会主義者とともに共産党から7人参加した。
 党議長ヨハン・コプレニッヒが副首相でエルンスト・フィッシャーが教育問題相となった。
 1945年11月の選挙では5.4%(175000票、4議席)しか得ることができなかったがレオポルド・フィグル政府に1名入閣した。
 冷戦の開始により、1947年、内閣から離脱し、KPOは反対党になった。
 1949年は以前の社会党国会議員で中央委員のエルヴィン・シャルフの社会主義労働者党SAPと選挙同盟を結び、213066票、
5.08%、5議席を獲得した。
 1950年9月26日から10月6日まで賃金問題で大ストライキがスティリア、ヴェストおよびアメリカ占領地区で発生した。
 このストライキの中断でストライキはウィーンのソ連占領地域に移った。
 オーストリア労働組合連合OGBはストライキを拒否した。
 KPOはこのストライキで顕著な役割を果たし、このためクーデターによる人民共和国の設立を多くの政治勢力が恐れた。
 10月5日、建築木材労働組合議長のフランツ・オラーがストライキ解散に成功した。オラーは共産主義者と衝突しながら、
SPO支持の労働者の組織に成功した。実はソ連軍がストライキに介入しなかったこことがストライキ終焉をもたらした。

 1953年の選挙は選挙同盟人民の反対VOとして228159票、5.28%、4議席となった。

 経済回復と1955年の占領終焉によりソ連占領軍の保護的権威はKPOにとって失われた。
 KPOは他国共産党と同様の道をたどった。
 1956年は共産主義と左翼社会主義(エルヴィン・シャルフ)として198432票、4.4%、3議席。
 左翼社会主義は解散し共産党に合流。
 内部危機に揺さぶられながらスターリン主義化をたどり、フルシチョフ主義、1956年ハンガリー蜂起などの影響で退潮し、
1959年の選挙では192438票、3,3%となり議席を失った。
 1966年の選挙では18636票、0.41%と前回から2.6%減らし1%をきった。
 1970年には44750票、1.0%ととなり以降1%前後の得票を得ている。
 1986年には30104票、0.7%と1%をきり、1994年は11919票、0.3%まで下がった。
 1965年指導者がヨハン・コプレニッヒからフランツ・ムーリ(ー1990年)に代わる。
 1966年ヴィクトル・アイゼラー、ロイレンツ・ゲンニス、ヴィクトル・マタイカらが離党。
 1968年のソ連のチェコ・スロバキア介入はKPOが最初に批判した。
 エルンスト・フィッシャーフランツ・マレクがユーロ・コミュニズム路線を代表した。
 1969−1970年に党内の修正主義と対決するために雑誌新政治が発行され、エルネスト・フィッシャーフランツ・マレクの修正
主義に対しエルンスト・ヴィンマーヴァルター・ホリッツァーエルヴィン・シャルフブルーノ・フルフトマス・シェンフェルトらを中心に
幹部の大半が結集し批判を行った。
 1971年、ソ連回帰した。この危機によりエルンスト・フィッシャーが追放された。(1998年名誉回復)
 支持低下により1970年代晩期から1980年代初めに党はユーロ・コミュニズムに影響された。
 ユーロコミュニズムにより党の支持を広げようとしたが党内の中核の反発をまきおこした。
 戦後は15万のメンバーであったが、1960年代には3万5千に縮小し、1970年代には数千、2005年には3500となった。
 1975年 エルンスト・ヴィンマーの発案でアルトゥール・ヴェスヘルムート・リジーらにより主導された著名な著作家の年読会の
左翼の言葉を開始、これはKPOの人民の声祭りとともに開催され多くの有名な著作家が参加。
 エルフリーデ・イェリネクペテル・トゥリニヘルムート・ツェンカールート・アスペックマンフレド・バウアーロルフ・シュヴェンター
フェリックス・ミッテラーヤンコ・メスナークリスティーヌ・ネストリンガーゲルハルト・コフラーエルンスト・ヒンターベルガー
ジギ・マロンエルニ・マンゴルドらが参加。
 ソ連・東欧の崩壊により世界の他の共産党同様な困難な状況に陥った。
 ヴァルター・シルベルメイアー、スザンネ・ゾーン(1990−1991年)の新指導者は党の刷新に勤めた。
 1990年の選挙では左翼連合を設立した。党は3分の1のメンバーを失った。
 党指導者の周囲の幹部は党を解散し複数的左翼に転換しようとしていると考えられた
 1991年、新しい指導者たちは党内の支持を得られず辞任した。彼らは専従党官僚の抵抗にあった。
 かわって指導部にはオットー・ブルックナー、マルギッタ・カルテネッガー、ヴァルター・バイアー(党書記)、ユリウス・メンデ
(1991−1994年、党の代弁者)らがなった。1944年ヴァルター・バイアー(−2006)が党首となった。
 しかしヴァルター・バイアー周辺の党指導部と種々の党反対派(新聞”新人民の声”、KomInform周辺等)に衝突が発生。
 反対派はスティリア、チロルとヴィーンの一部の地域組織とブルーノ・フルフ、エドヴァルト・ラボフスキー、エルヴィン・シャルフ
であった。批判者はヴァルター・バイアーを修正主義でマルクス主義を裏切っているとした。
 1999年選挙は22016票、0.48%、2002年、27568票、0.56%、2006年、47578票。1.01%と上向いてきている。
 2000年エルネスト・カルテネガー(グラーツ市議)らの党執行部メンバーが次期党大会の政治綱領に反対、政治綱領を
決定できなかった。
 2003年には党首選にヴァルター・バイアーに対抗しマンフレド・エーベルが出馬し敗北。
 2004年EU選挙でレオ・ガブリエルを候補にしようとして党内の反対を受ける。
 レオ・ガブリエルは党のヨーロッパ左翼党参加に関連して、社会主義主義欧州を望まないと発言。
 もうひとつの問題はヨーロッパ左翼党参加でオーストリアのEUからの撤退を撤回したことであった。
 多くの組織が選挙運動を拒否し結果は0.77%、20497票と失望的であった。
 チロルとヴィーン・オッタクリングの地域組織が解散され、チロルの議長マンフレド・エーベル、女性議長ペトラ・ストック、
リスル・リツィー、GLB指導者ヘルムート・フェルナーら追放される。
 2004年12月党大会は多くの反対派とチロル、グラーツ/スティリア支部が不参加。ヴァルター・バイアーが対抗相手なく再選。
 反対派の一部が追放される。
 2005年1月レオベンの正統派勢力が共産主義者イニシアチフェを結成しオットー・ブルックナー、ゲルハルト・ブルニー、
ヴェルナー・ムルッグを代弁者に選出。
 激しい内部分裂のなかヴァルター・バイアーが2006年辞任、ミルコ・メスナーメリーナ・クラウスがKPOの代弁者となる。
 2012年からはミルコ・メスナー(ケルンテンのスラヴ系)が代弁者。
 現在党はフェミニズム、反グローバリズム路線をとっている。
 国会選挙では左翼名簿で闘い、欧州議会選挙ではヨーロッパ左翼党として闘っている。
 共産主義青年同盟KJOはシュタイアーKPO(独立状態にある)と共産主義者イニシアチフェを志向し党と緊張関係にある。
 共産主義学生同盟KSVもKJOと近い関係にある。

 2008年国会選挙は37362票、0.76%。
 2013年国会選挙は48175票、1.03%。
 2014年EU選は海賊党、変化(2012年結成)、個人ではマルティン・エーレンハウザーなどと別のヨーロッパを結成し2.14%。
 2017年国会選挙は青年緑フロラ・ペトリクらのグループと協同名簿結成したが0.8%。
 2019年は0.7%。

左翼
 2008年選挙のためにヨーロッパ・トルコ労働者協議会トルコ共産党ML系)、民主労働者統一連合(ヨーロッパのトルコ・クルド労働者組織)、
共産主義者イニシアチフェ社会主義左翼党社会主義革命同盟などが結成した選挙連合。個人ではダヴィド・ストッキンガー(SJO地区幹部)、
シモン・ピクラー、レオ・ガブリエル(ジャーナリスト)らが参加。指導者はゾニヤ・グルシュ(社会主義左翼党指導者)。
 2138票、0.04%獲得、2006年は社会主義左翼党で2257票、0.05%。

 共産主義者イニシアチフェは2003年KPOの分派として結成され、2005年離党。
 社会主義革命同盟は1980年代労働者観点Standpunktとして結成され2007年社会主義革命同盟に改名、第4インター同盟

マルクス・レーニン主義党
 1963年、KPOのフランツ・シュトロブルによって赤旗が創設されKPOのマルクス・レーニン主義派の機関紙となった。
 ソ連を修正主義と批判し中国を支持した。
 1966年、オーストリア・マルクス・レーニン主義となるとともに党内分裂がはじまった。
 1966年の選挙で486票獲得。
 1967年オーストリア・マルクス・レーニン党設立。
 1968年、一部が他のグループとオーストリア統一革命的労働者党VRA結成。
 毛沢東の死後、中国に批判的になり第三世界路線をとり始める。
 1978年末からオーストリア共産主義者同盟(1976年設立、1980年分裂。)が親中派組織となる。

マルクス・レーニン主義学生MLS)
 共産主義学生組織。
 1970年民主青年同盟VDSから形成、修正主義派を追放し改名。
 1971年5月までKPOと協力関係、12月KPOに近い活動家を追放。
 1972年トロツキストが追放され革命的マルクス主義グループ(のち社会主義選択SOAL)結成。
 これによりMLSは毛派になる。
 同年一部がウィーン共産主義同盟を結成し、そこから1976年オーストリア共産主義者同盟が出現。
 後にMLSの学生活動家出身者はオーストリアでの政治的、文化的分野で大きな役割を果たした。
 2004年ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクなど。

オーストリアのトロツキズム> 歴史 1927−1950 
 ヨゼフ・フレイは社会党から追放され1921年OKPに参加。
 OKPでは極左はエルンスト・ベッテルハイム(ハンガリー人、コミンテルン代理人)、フランツ・コリッショナー、右派はヨゼフ・ストラッサー
(ドイツのポール・レヴィ支持)でカール・トマンはこの間を揺れていた。更にスターリン支持派のヨハン・コプレニッヒがいた。
 これに対しカール・トマンはヨゼフ・フレイと協力、ヨゼフ・フレイはトロツキーを支持していた。結局カール・トマンは社会党に戻る。
 赤旗編集者のクルト・ランダウは反対派結集に勤め、トロツキー路線を支持。
 1926ー1927年にヨゼフ・フレイ、クルト・ランダウは追放され、オーストリア共産党反対派を結成し”労働者の声”発行(1933年禁止)。
 1928年クルト・ランダウはオーストリア共産党反対派から追放され雑誌新しい訴えDer neue Mahnruf周辺にマーンルフ・グループ結成。
 ランダウはトロツキーによりドイツで親トロツキー派結集を要請され1929年オーストリアを去る。
 1930年ヨゼフ・フレイはトロツキーと衝突し、1934年労働者階級解放闘争同盟を結成。(1934−1941年小冊子”労働者の力”発行)
 1934年ドルフス政権と社会主義者の間に小内戦が起こり、社会主義者敗北。既にトロツキストは地下組織化していた。
 共和国防衛同盟などからトロツキスト組織への移行者発生。(フランツ・ドレクサーら)
 フレイは1938年スイスに亡命し政治的空白が生じる。
 一方1930年初期社会民主主義者から分裂したボルシェヴィキ・レーニン主義グループ(唯一の道Der Einzige Weg発行)が第4インターに参加。
 彼らは社会党内で活動しこれは1934年革命的社会主義者RSとなる。
 またコミンテルンの人民戦線路線採用に刺激され1934年共産主義青年同盟KJVが社会主義労働者青年SAJとなりそこから革命的共産主義者
RK(ヨゼフ・ヒンデルスゲオルグ・ショイアーエルンスト・フェデルン、カール・フィッシャー)が発生。
 1937−1938年にプラハで唯一の道はRK、スイス・トロツキスト・グループ・マルクス主義行動、チェコ・スロヴァキア共産主義国際主義者との
共同機関誌となる。ナチス侵入でトロツキスト組織はほとんど壊滅。
 1939年これらの残党が地下組織プロレタリア革命PR結成し雑誌イスクラ発行。
 更に別のグループ”流れに抗して”(ゲーゲン・デン・シュトローム)が結成される。
 しかし指導者のヨゼフ・ヤコボヴィッツ、フランツ及びレオポルド・カッシャが逮捕・処刑され、他の数人のメンバーも長期投獄刑となる。
 また主として旧フレイ・グループからなるプロレタリア国際主義者PI(フランツ・モドリック)が出現”先駆者”発行1940年”前哨”となる。
 1937年、フレイは、ソ連と同盟した帝国主義諸国では、革命的敗北主義は最早適用できず、労働者は戦争を支持し武装してファシズムと闘わなければ
ならないという結合戦争戦術KKTを主張。これにフランツ・ドレクサー、フランツ・モドリック、ハンス・バブニクの多数派が反対し分裂したが、1943年再統一。
 エルンスト・フェデルンとカール・フィッシャーはブッヘンヴァルト(収容所)宣言署名者として知られる。
 PIとPR残党は合体しカール・リープクネヒト同盟(国際共産主義者)を結成し1945年1月からスパルタクス主義者を発行。
 RK亡命者のゲオルゲ・ショイアー、カール・フィッシャーは1938年の第4インター結成会議に参加し結成に反対
 1945年闘争同盟と流れに抗して残党がカール・リープクネヒト同盟に参加しオーストリア国際共産主義者IKOが結成される。
 1940年代トロツキストは社会党内で活動するが、社民左派は共産党に参加し活動家を獲得できなかった。
 ソ連占領でKPOとによるトロツキストへの脅威が起こり、1945年収容所からでてきたばかりのカール・フィッシャーはシベリアの収容所に連れて
行かれ1955年にやっと解放された。
 1950年代フレイ・グループは分裂し労働者の力を発行。流れに抗してグループも1948年分裂しオーストリア・プロレタリア統一を結成し
労働新聞Arbeiterblatt発行。プロレタリア統一はナタリア・トロツキー第4インター絶交を支持。
 1949年社会民主党加入で加入賛成の少数派が分裂したが1954年多数派も加入で回復。
 1960年代、第4インター分裂に呼応して分裂。
 雑誌インターナショナルを反パブロ派(多数派フランツ・ドレクサー、ハンス・バブニク、ハインリッヒ・トマス、)が握り、パブロ−マンデル派
(少数派:フランツ・モドリック)は1962年労働者闘争を発行、パブロ−マンデル派はドイツのグループと国際展望発行。
 パブロ−マンデル派は1960年代社会主義大学生連合で活動するが成功せず。
 1970年代統一書記局はスイスのグループをオーストリアに送り、再組織化を行う。1972年マルクス・レーニン主義学生からマルクス主義グループ
分裂に伴い革命的マルクス主義グループGRMが結成され、統一書記局支部となる。
 1975年GRMから国際共産主義者同盟IKLが分裂発生。IKLは労働者の立場ArbeiterInnenstandpunktASt、労働グループ・マルクス主義AGM、
革命組織イニシアチフェIRO、革命的共産主義者同盟RKLに分裂し、1990年代中期トロツキズムから離れる。
 GRMは1980年代中期労働者志向に失敗し緑環境色合いを強め、1986年社会主義選択SOALとなる。
 労働者インター委員会の影響で1981年社会主義青年に雑誌”前進”グループ発生し1992年追放され1996年社会主義攻撃前進SOVとなる。
 2001年社会主義左翼党SLPとなる。1992年前進の伝統から社会主義青年内に火花グループ国際マルクス主義傾向)発生。
 SOVの残党から反ファシズム左翼が発生し、1998年から新聞”曙光”発行し、1999年から独立組織として活動。

社会主義選択SOAL〕
 統一書記局派のトロツキスト、1986年まで革命的マルクス主義グループGRM。
 1972年MLSからトロツキストが追放され結成。
 70年代オーストリアの急進左翼の強力な組織。高校ではKPOの共産主義学生同盟KSVを凌いぎ、反原発運動や反ネオナチ
の運動を展開した。
 1980年代中のGRM/SOALの衰退でメンバーやシンパは緑と選択名簿に流れていった。
 2004年の欧州議会選挙ではKPOと選挙連合左翼を結成したがエルネスト・キルヒヴェーガー・ハウスの土地売買問題*から
選挙連合から撤退した。
 1975年の選挙で1024票。
 *この土地はもともとKPOのものであったが急進左翼が占拠していた。これを財政難に陥ったKPOがネオナチス支持者の企業
 に売ろうとして大問題になった。

社会主義左翼党SLP〕
 トロツキスト組織、労働者インター委員会CWIのメンバー。
 1975年社会主義青年同盟を中心にウィーンで火花グループ発生。中心はハインツ・フェターマン。このグループは後に前進グループ構成。
 1981年のIUSYのウィーンでの祭りで英国のミリオタント・グループが社会主義青年同盟の活動家に接触する。
 1982年前進グループが結成され、1983年前進が発行される。グループは社会主義青年同盟と社会民主党内で活動。
 1991年グループは社会民主党内で活発に活動し左派形成。
 1992年中心活動家が社会主義青年同盟から追放される。更にいくつかの地区支部が禁止される。
 1996年最終的に社会民主党と分裂し社会主義攻撃的前進SOV結成される。
 SOVは社会主義選択、共産党KPO、トルコ人の自由連帯党と共闘の交渉を行うが不成功。
 2000年社会主義左翼党結成。
 2002年、国会選挙に参加し3906票、0.08%の結果。
 2006年国会選挙は2136票。
 2008年国会選挙は左翼に参加。
 2013年国会選挙はウィーンで844票。


選択名簿ALO)
 学生、左翼、基礎民主主義(直接民主主義)者、反核、第三世界、平和、女性運動や革命的マルクス主義グループなどにより
1982年設立。
 ALOの起源は国連の環境会議に並行する1979年の左翼運動選択フォーラムに起源する。
 1983年の選挙で65816票、1.4%で93798票、2.0%の統一緑(保守・ブルジョア)VGOに遅れをとり、大衆的意味を失う。
 ALOとVGOを結集する動きが起こり、これはALOを分裂させた。
 穏健派は市民選択政府BIPに集まった。(ヨハネス・フォッゲンフーバーフレーダ・マイスナー・ブラウロベルト・ユンク
クリストフ・コールハー
 対抗例は1986年の緑選択結集GRASでALOのウィーン左派(トロツキストのウィーン選択名簿ALW)が加わった。
 1986年の選挙にはGRASは緑選択民主名簿GALで参加しわずか6005票しかえられなかった。
 フレーダ・マイスナーのグループはVGOと一緒になり緑選択として成功を収めた。

左翼転換Linkswende〕
 ウィーンを重要拠点とするトロツキスト組織。国際社会主義傾向トニー・クリフ派)の所属。
 1997年設立。
 2000年の右翼ポピュラリズムのオーストリア自由党FPOの政権参加に対しこの黒青連合に対し大衆反対運動を形成し
急成長した。
 反グローバリズム、反資本主義の運動の勃興も左翼転換の成長に味方した。
 左翼転換は動員力が大きいことで知られている。


社会民主党SDAP〕 
 1934年までは社会民主労働党、1945−1991年までは社会党。1945−2008年で25中12の連邦政権の首相を出す。
 党は1920年代は完全に成功したが、1930年代初期は右翼により迫害された。
 オーストリア・ファシスト独裁下の1934―1938年と1938―1945年のドイツによる占領の間、SDAPは禁止され厳しく迫害された。
 解放後社会民主主義者は戦後オーストリアの主要政治勢力となった。

 オーストリア労働運動は1848年革命からは生まれなかった。オーストリア労働運動はドイツ社会主義運動の影響を受けた。
 社会主義者の労働者運動との提携はオーストリアでは19世紀中から形成され始めた。
 党の最初の会合は1874年ブルゲンランドのノイドルフルであった。 
 翌年分派闘争があり穏健派とアナーキストに分裂した。
 1889年、医師のヴィクトル・アドラーの努力によりオーストリア社会民主労働党SDAPとして合同した。
 ハインフエルトでの党会議でアドラーの原則宣言受け入れが決定された。
 アドラーはマルクスよりフェルナンド・ラサールの影響を受けていた。
 1889年7月12日、党新聞“労働者新聞アルバイター・ツァイトゥング第1号が印刷された。
 党は初めマルクス主義に近く、特にウィーンとボヘミア、モラヴィア、スティリア、上オーストリアの産業地域で成長した。
 党は1889年7月のパリの第2インター結成に参加した。
 党は選挙権を含む労働者の権利のために運動した。
 1899年9月のブルンナー綱領で社会主義者はオーストリア・ハンガリー帝国の民主連邦国家化を要求した。
 社会主義者は1890年5月のウィーンの市議会選挙に立候補を許された。
 516議席中87議席を獲得しキリスト教社会党についで議会第2党となった。
 1911年までに社会主義者は第1党となった。
 党は当初セルビアへの宣戦布告を支持したが間もなく悲惨な戦争は支持できないと認識した。
 カール・レンナーの城内平和に対しフリードリッヒ・アドラーの小グループが反対した。
 フランツ・ヨゼフ皇帝の死後、1916年12月最初の平和集会が開催された。

 1918年1月までに戦争と特に労働者家庭が耐えなければならない大衆の悲惨状態の終焉を要求するストライキが勃発した。
 10月までに社会民主主義者カール・レンナーにより国民議会準備会議が開催された。
 ヴィクトル・アドラーの死後カール・ザイツが党議長として議会党を率い、憲法制定議会大統領(1919−1920年)となった。
 新国家首相カール・レンナー(1918−1920年)率いる新国家評議会の主導権のもと憲法案が作成された。
社会民主主義者は新国家形態を希望し、1918年11月12日、レンナーにより共和国宣言がなされた。
 ロシア革命の影響もあり党は1918年オットー・バウアーを副議長とし理論的指導者とした。(ー1934年)

 党は新オーストリア共和国“ドイツ・オーストリア”を主張しオーストリアのドイツとの政治連合推進を明確に望んだがセント・ジャーマン
条約
(1919年)はオーストリアとドイツのいかなる統一も禁止した。
 SDAPはそれでも大ドイツ内での彼らの地位強化と社会主義を希望し第1共和国(1918−1934年)の存在する間オーストリアと
ドイツの連合を擁護した。

 1919年2月の憲法制定国民議会の最初の選挙で女性が始めて投票が認められた。
 1919年憲法制定選挙では第1党になった。
 SDAPは最強の党となり1918−1920年、キリスト社会主義と大連立を形成。
 5月ウィーン市議会の選挙が続き、165議席中100議席を勝ち取った。ヤコブ・ロイマンがウィーンの最初の
 社会民主主義者市長となった。国中の大部分の保守支配のなかでウィーンは社会主義者の拠点となり続けた。
 社会主義市政は労働者階級のための共同住宅を建築し、社会、健康管理、教育改革を制定した。
 これらの施策は労働者の生活条件を改善し生活水準を向上させ、1920年代の赤いウィーンを刻印させた。
 またこれら施策は労働者を党へ深く結びつけ、党が依存できる多くの忠誠者を創造した。
 大連合のなかで党は8時間労働や労働者評議会法などの改革や1920年11月10日施行の新共和国憲法交渉に同意できた。
 1920年10月の議会選挙の後、キリスト教社会党が多数派となったため大連合から去った。
 第1共和制の間社会民主主義者は反対派に留まった。

 SDAPは内部的にはだいたい2派に分裂し続けた。一方は以前の首相カール・レンナー指導下の穏健派で、彼は議会、
自由民主制、福祉国家を擁護した。もう一方はオットー・バウアーマックス・アドラーらのより急進なオーストロ・マルクス主義であった。
 特に後者はキリスト教民主党とのこれ以上のいかなる協力も望まず、そのため政治的不安定さが増した。
 脅威感がつのりほんどの政党が独自の武装組織を形成した。1924年5月、SDAPは独自の準軍事組織共和国防衛同盟を結成。
 共産党は赤色旅団を、キリスト教民主党は護国団を結成した。
 共和国防衛同盟の創設指導者はユリウス・ドイチュテオドール・ケルナーアレクサンデル・アイファーらが加わった。
 武装政治民兵と自警団と正規警察と軍隊との共存だけでは若い共和国の更なる安定性を意味しなかった。
 これらの民兵の創設は上昇する政治的緊張の結果で、政党が議会内で抗争するにつれて悪化を招き、公然衝突の機会を増した。
 1926年11月3日、オットー・バウアー派の強い影響のリンツ綱領がSDAP党大会で承認された。
 これにより反対派キリスト教社会主義者と社会民主主義者の違いが強化された。
 同年宗教社会主義者同盟が結成された。多くはSDAPメンバーであった。
 1927年1月30日、シャッテンドルフで護国団メンバーが共和国防衛同盟メンバーを射撃し、2人の死者発生に至った。
 シャッテンドルフ事件は7月、裁判は司法が犯罪告発しなかった。
 共和国防衛同盟、SDAP、労働者はこの裁決に憤慨し、7月15日、抗議のデモを行った。 →Die Arbeiter von Wien
 大衆は不満を発散し、裁判所へ向かい、放火した。警察との衝突は85名の労働者と4名の警官の命を奪い、600名にのぼる負傷者
が発生した。裁判所の炎上とその周囲の流血は共和国の分裂を象徴し、民主制の終焉をもたらした。
 政治雰囲気は汚染され、支えきれなくなった。保守は社会主義者への反対を高め、護国団は1930年5月18日、コルンノイブルクの
誓いを宣言し、議会制民主主義の公然廃棄を要求した。
 1933年3月7日、議会は簡単な議会手続きで自ら解散した。
 表決の行き詰まりで下院の集団指導体制は職務から滑り落ち、代弁者、議長なしに議会から去った。
 連邦首相エンゲルベルト・ドルフスが議会の裏をかく機会を握り、1917年の非常事態権法により非常事態布告で統治した。
 SDAPにたいする圧力が増し、政治活動は減少し、報道検閲は増強された。
 社会主義者は抗議し、労働者の拠点のウィーン、リンツや他の産業地域、都市で団結した。
 1934年2月12日、警察がリンツの地域党本部に捜索のため入ったとき緊張は公然と突発した。
 社会主義者準軍事組織は警察勢力に抵抗し、その週にウィーン、グラーツ、ブルック・アン・デア・ムール、ユーデンブルク、ヴィーナー・
ノイシュタート、スタイルや東部、中央オーストリア産業都市のSDAP拠点で武装闘争が勃発した。
 ウィーンの反乱に軍隊が導入され、共和国防衛同盟メンバーが立てこもったカール・マルクス・ホフは砲撃された。
 内戦は2月16日まで続き、結局社会民主主義運動は完全に禁止され多くの指導者は逮捕された。
 カール・ミュニッヒライターゲオルク・ヴァイセルコロマン・ヴァリッシュが処刑された。 
 党指導部、オーストロ・マルクス主義者は決断せず無為にいた。決定的瞬間に動かなった。
 内戦の終了は第1共和制の明確な終焉を刻印し、ドルフスのもとでのオーストロ・ファシスト国家が始まった。
 保守による社会民主主義反対派の制圧は更なるオーストリアの弱体化を意味した。護国団と保守との間の内部闘争が続いた。
 首相ドルフスは内戦終了10週間後に国家社会主義者により暗殺された。ヒットラーがオーストリア内政に強く影響を及ぼした。
 ナチス・ドイツが強い圧力をかけた。ドルフスの後継の保守首相クルト・フォン・シュシュニッヒが非合法社会民主主義者や君主主義者
とも対話を試みた。社会民主主義者は民主制を支持したがオーストリア独立には気乗り薄であった。
 保守多数派はオーストロ・ファシズム体制でのオーストリア独立維持を望んだ。
 2党の極端な闘争と敵意は民主制とオーストリア独立を完全に廃棄した。
 1938年3月12日、シュシュニッヒ首相下のオーストリア政府はヒットラーの軍門に下り、オーストリアはナチス・ドイツに附属した。
 統合は当初カール・レンナーのような多くの社会民主主義者により熱狂的に歓迎され、ドイツとの統一の古い夢がとうとう実現した。
 民主制は視野になかったが、ヒットラーは更なる社会主義改革と政治安定と多くの労働者に仕事と平等を約束した。
 社会主義者のヒットラーへの熱狂は間もなく戦争とナチス占領の厳しい現実に席を譲った。

 1934年マンフレド・アッカーマンがSDAP禁止により革命的社会主義者RSを結成、カール・ハンス・セイラーヨゼフ・ブッティンガー
ケテ・ライヒター(1942年ラフェンスブリュック収容所で死亡)、ローザ・ヨッホマンらが参加。
 1935−1938年までジョセフ・ブッティンガーが指導した。1938年ブッティンガーヨセフ・ポドリプニッヒらとブリュッセルに逃れた。
 オットー・バウアー共和国防衛同盟ユリウス・ドイチュはチェコに逃れ1934年オーストリア社会民主党在外事務所ALOSを設立。
 ユリウス・ドイチュは1936−1938年スペインで国際義勇軍の指揮者として闘った。

 1938年、オットー・バウアーの下のオーストリア社会民主党在外事務所ALOSとジョセフ・ブッティンガーの下のRS幹部により
ブリュッセルでオーストリア社会主義者在外事務所AVOESが結成された。
 結成会議には他にフリードリッヒ・アドラー,、 オットー・ライヒター, オスカル・ポラック, ヨセフ・ポドリプニッヒ, カール・ハンス・セイラー
マンフレドアッカーマンが出席。
 1938年以前はSDAPやRSのような分派があったが、AVOESは幹部党であって個人だけが所属できた。
 1938年ブリュッセル、1939―1940年パリ、短期間モンタウベンの後ニューヨークと移った。
 AVOESオットー・バウアーフリードリッヒ・アドラー(1923−1940年社会主義労働者インター総書記)の社会主義労働者インター
での地位によって権威付けられていた。

 1941年4月オスカー・ポラックカール・ツェレンニッツロンドン事務所を設立した。 他にカール・アウシュアロイス・ブッティンガー
マリア・ヤーオダヨハン・スヴィタニクスらが参加した。フランツ・ノヴィ指導のオーストリア労働者クラブが支持者の組織としてあった。
 ロンドンでは1941年末共産主義者主導の自由オーストリア運動 (FAM)が結成されたが、キリスト民主とロンドン事務所は参加拒否。
 オーストリア労働者クラブのメンバーはこれを批判、マリア・ケストラー(社民のち共産主義者)ら主導で, オーストリア労働者クラブの
3分の2がFAMに参加した。分裂の主因はロンドン事務所がヒットラーと戦わないこことと、独立を目指さないことであった。

 スウェーデンではカール・ハインツロンドン事務所と協力して行動、彼が出国してからは若いブルーノ・クライスキーが行動、彼は
ここでウィリー・ブラントと知り合った。

 ニューヨークでは1942年フリードリッヒ・アドラーによりオーストリア労働者委員会 (ALC)が結成された。
 アドラーのグループのエルンスト・パパネックユリウス・ドイチュマンフレド・アッカーマンカール・ハンス・セイラー
オットー・ライヒターらのほかに米国からフーゴ・ブレイトナーカール・フルトミュラージャック・ハンナックカール・ハインツ
ベルトルト・クーニッヒらが参加。

 ソ連とナチスのウィーン戦闘は1945年4月13日終了。直ちに党はオーストリア社会党SPOとして再建された。
 最初の党議長にはアドルフ・シェルフがなった。

 暴政、破壊、戦争のあとに飢餓と腐敗に耐えながら国は再建されなければならなかった。
 ドイツ支配の精神的外傷経験で汎ゲルマン主義と主権、民主国家の独立オーストリアという考えを国内意見は揺れた。 
 2つの以前の敵同士、保守と社会主義者は繁栄と主権国家更新のため違いをわきへやった。
 両者側は大連合政権にはいり1966年まで続いた。
 戦後数年はソ連が占領連合権力として最大の影響を持った。スターリンは新自由オーストリアをソ連陣営に組み込むこと
に関心を持った。
 オーストリア共産主義者だけが一貫してナチス体制と戦ったと主張でき、モスクワの庇護と指導下にあった。
 そのためいかなる新オーストリア政権も彼らを組み込まなければならなかった。
 カール・レンナーは自分を保守と共産主義者の橋渡しができる時の人として位置づけようと試みた。
 ソ連と他の連合勢力はレンナーを機会主義者と見なし大いに留保した。レンナーは懐疑的スターリンの説得を試み、
 手紙で以前の統合支持に謝意を表し、同時に共産主義者と合意の到達できる唯一信用できる社会主義者政治家と自称した。
ソ連はためしにレンナー支持を決定した。
 1945年4月27日、ソ連支援のカール・レンナーとレオポルド・クンシャクはオーストリア臨時国家政権を宣言した。
 これに対し西側同盟国はソ連の人民共和国結成の陰謀を恐れたが、しかしさしあたりはオーストリア社会主義者は党の再建を
許され、比較的自由に活動できた。
 1945年10月20日、前首相カール・レンナーが連邦議会により新オーストリア連邦首相に選ばれた。
 彼は政権を彼の死の1950年12月まで保持した。
 党は1933年以来の最初の会議を1945年12月に開催した。党は保守と歩調を合わせる決定をした。
 党はキリスト教民主党の後継のオーストリア人民党OVPとの大連合に入った。
 この大連合は1966年まで続く。
 1950年のカール・レンナーの死後、1951年5月テオドル・ケルナーが連邦議長に選ばれた。
 SPOはフランクフルトで結成された社会主義インターの特別charterメンバーである。

 1957年5月ブルーノ・ピターマンが党議長となり、前議長アドルフ・シェルフは1957年4月連邦大統領となり、1963年に再選された。
 1965年5月やはり社会党のフランツ・ヨナスが後を継いだ。

 SPOとOVPの大連合政府は政治・社会制度の安定化と経済成長と社会的平等に集中した。
 1946年労働者長期休暇が実現し、多くの企業が国有化され、労働者の状況が労働奨励金と社会福祉で改善された。
 中立政策で軍事支出と軍事的陣営参加義務の心配がほとんどなかった。
 しかし1960年、外相ブルーノ・クライスキーがEFTA加入に署名した。
 1966年4月選挙でOVPが多数派を獲得し、社会主義者は大連合から去り、反対派になった。
 1967年1月ブルーノ・クライスキーが党議長に選ばれた。
 1970年選挙ではSPOが相対多数派となり少数政権となりオーストリア自由党FPOの支持を当てにした。
 この政権は短命で1971年選挙が行われSPOは絶対多数派となり、ブルーノ・クライスキーのもと、以降13年の政権を維持した。
 1974年社会主義者候補ルドルフ・キルヒシュレーガーが大統領選勝利。
 経済的には週40時間労働が実現した。
 中立政策による経済的および国際的成功によりクライスキーとSPOは1979年選挙でも勝利しこのときは51%を獲得した。
 しかし1983年選挙では勝利に失敗し、クライスキーは退陣し、フレッド・シノヴァッツが新首相となり、FPOとの連立政権を形成した。
 シノワッツはFPOの自由liberal派に頼ろうとしたが、政治的内部闘争と民族主義者ヨルク・ハイダーの台頭により連立少数派との
連立が不可能となった。
 シノヴァッツの後を継いだフランツ・ヴラニツキーが1986年小連立を終えさせ、選挙に打って出た。
 SPOが再び最大党となりOVPとの大連立にはいり、これは1988年から2000年まで続いた。
 1990年の選挙でも勝利し最大党となった。
 1991年、党名を社会党から社会民主党に変更。
 1993年、性の平等問題で女性候補の割り当て制を導入、最低候補の40%を女性とすることにした。
 首相のヴラニツキーは物議をかもしたクルト・ヴァルドハイムの大統領選が引き起こした国際的印象の損失の改善に努力し、
1983年イスラエルを訪問した。SPOはオーストリアのEU加盟を支持、1994年の国民投票で賛成66%で1995年、オーストリアは
EU加盟した。
 1994年の選挙はよくなかったが最大党となった。1995年の選挙で得票は戻った。
 1997年ヴラニツキーが後進に道を譲るため退陣、ヴィクトル・クリマが後を継いだ。
 1998年党綱領を改訂、社会民主主義、自由、平等、正義、連帯を再評価。

 しかしSPOとOVPの2大政党により大連立政権はやがて国民に不満を募らせ、FPOが急成長してきた。
 1999年選挙でSPOは最大党を維持したが、FPOがOVPに小差で第2党となった。
 大統領のトーマス・クレステルは社会民主党に組閣を命じたが、連立相手がなかった。
 ヴォルフガング・シュッセル下のOVPはFPOと交渉に入り、2000年2月OVPとFPOの中道右派政権が成立した。
これは国内外の大きな抗議を巻き起こした。
 社会民主党の多くはOVPに憤慨しその行動を寝返りとみなした。アルフレッド・グセンバウアーが新党議長となり党再建をはじめた。
 2002年の解散総選挙でSPOは最大党の座をOVPに明け渡した。
 OVPはSPOの犠牲で目覚しい勝利を得、36.5%を獲得した。
 しかしいくつかの州選挙で得票を呼び戻し、伝統的保守支配州に食い込んだ。
 伝統的拠点のウィーン、ブルゲンランドの他に党はスティリア(シュタイアー・マルク)、ザルツブルクでも勝利し州政権を形成した。
 2004年大統領選でSPOのハインツ・フィッシャーは保守のベニータ・フェレーロ・ヴァルドナーに勝利。
 これで保守政権と社会民主大統領が向かい合った。
 フィッシャー大統領は繰り返し政府の公式立場と異なる言明を行った。同性愛者の平等を言明し、移民の取り扱い改善を要求した。
 2004年のEU議会選挙で18議席中9議席を獲得した。
 2006年選挙ではSPOはOVPの66議席に対し68議席を獲得(SPO名簿の自由フォーラム議長含む)。
 長引いた連立交渉の結果選挙の3ヵ月後、2007年1月グセンバウアーを首相としOVPとの大連立が結成された。
 2008年6月ヴェルナー・ファインマンが議長となる。
 2008年7月、OVPは政権からおり、9月に選挙が行われ、極右自由党と自由党から分裂した極右未来同盟が躍進、
社会民主党は第1党となったもののOVPとともに後退した。
 SDPO29.26%、57議席(−11)、人民党OVP25.98%、51議席(−15)、自由党17.54%、34議席(+13)、未来同盟
ヨルク・ハイダー名簿)10.70%、21議席(+14)、緑ー緑選択10.43%、20議席(−1)でSDPは1945年以来最悪の結果。
 しかし、10月ハイダーは交通事故死した。
 人民党ヨゼフ・プロルヴェルナー・ファインマン連立交渉は難航し12月になってファインマンを首相とする大連立成立。
 2009年欧州議会選挙は人民党29.98%、6議席、SDPO23.74%、4議席、ハンス・ペテル・マルティン名簿17.67%、3議席、
自由党12.71%、2議席、緑9.93%、2議席。
 2013年3月、ケルンテン州で赤・黒(人民党)・緑連立(ケニア連立)成立。
 政権党だった自由党が大幅後退し(17から6議席へ)、社会民主党と緑が躍進。(ともに3議席増の14と5議席)
 チーム・ストロナッハが初挑戦で4議席獲得。
 国会選挙は26.82%、52議席、他は人民党23.99%、47議席、自由党20.51%、40議席、緑12.42%、24議席など。
 人民党との連立政権継続。
 2014年EU選は24.09%、5議席、人民党は26.98%、5議席、自由党は19.72%、4議席。
 2016年大統領選の失態で首相がクリスティアン・ケルンと交代。
 2017年国会選挙は26.9%、52議席、人民党31.5%、62議席、自由党26.0%、51議席、NEOS(リベラル)5.3%、10議席など。
 この結果政権を失い、人民党と自由党の連立政権成立。
 2018年、ケルンが党首を辞任、パメラ・レンディ・ヴァーグナーが最初の女性党首となる。
 2019年、クルツ内閣の不信任投票が通り、倒閣。
 9月議会選挙は21.2%、40議席、人民党37.5%、71議席、自由党16.2%、31議席、緑13.9%、26議席、NEOS8.1%、15議席。
 ブリギッテ・ビアラインの約半年の暫定政権の後、クルツの緑との連立政権成立。

 社会主義青年同盟SJOは1976年ヨゼフ・アッカール(−1978年)が議長となりヨゼフ・カップ(1978−1986年議長)、
ラインハルト・トート(1975−1982年書記)らにより左に転換した。同年、SPOとともにトロツキストの火花グループが出現。
 1978年にはアッカールカップにより議長を奪われた。これによりSPOが左傾化した。
 主要論題は労働時間短縮、平和問題、ツヴェンドルフ原発建設であった。
 青年組織SJOには穏健主流派のほかにStamokapとトロツキストの火花グループがあり2008年SJOのStamokapとトロツキストの
火花グループが合流。
 アルフレッド・グセンバウアーは1984−1990年議長。
 学生組織としては学生批判活動が1976年結成された。以前は社会主義中等Mittel学生同盟が1973年まであった。
 高級学校組織として社会主義学生同盟がある。オーストリア全学連では20%前後の得票で主に緑・選択学生と連合。

緑・緑選択
 1986年保守的な統一緑(1982年結成)と進歩的な選択名簿(1982年結成)が結成。
 1986年は緑選択GA、1993年から公式に緑・緑選択

 オーストリアの緑運動は特に1970年代前半の反原発運動(ツヴェンドルフ原発)に起源する。
 1976年大学を基礎とするグループや毛派オーストリア共産主義者同盟、トロツキスト革命的マルクス主義グループ
イニシアチフェ・オーストリア反原発−対抗者Gegner結成。更に他の反原発グループも結成され1977年全国から7千人が集まり
デモが行われる。1978年国民投票で小差(50.47%)で勝利。
 1970年代には俳優のヘルベルト・フックス統一緑創設者であるが性問題で追放され1986年選択名簿へ)や元社会民主党
ヨゼフ・ブフナー(1983−1994年統一緑指導者、アレクサンダー・トルマンから引き継ぐ)らが活動。
 当初フックスブフナー統一緑選択名簿が競い統合交渉が1982年からなされたが統一緑指導者トルマンが拒否。
 1983年選挙はフィックスの性問題もあり統一緑は1.93%、一方選択名簿も1.36%しか獲得できず。
 統一緑の指導者がトルマンからブフナーに交代。
 1984年ハインツブルクの原発建設反対運動が戦われた。
 ギュンター・ネンニング(1985年社会民主党追放されスイス社会民主党参加)らが議会グループ結成。
 1985年選択名簿の穏健派は市民選択政府BIP結成、カスパナツェ・ジンマアンドレアス・ヴァブルヨハネス・フォッゲンフーバー
フレーダ・マイスナー・ブラウが指導者。
 選択名簿の左派(ウィーン)は1986年緑選択結集GRASを結成。
 1986年のSPO−FPO政府崩壊による選挙では、フレーダ・マイスナー・ブラウ名簿が結成されたが、GRAS指名の歴史家
アンドレア・コムロジー拒絶に失敗。
 緑選択フレーダ・マイスナー・ブラウ名簿は234028票、4.82%で8名獲得し、アンドレア・コムロジーの緑選択民主名簿は6005票。

 統一緑は1981年、アロイス・エングランダーが緑組織結成を発表、コンラット・ローレンツオットー・クニッヒ
フリーデンスライヒ・フンデアトヴァサーアレクサンダー・トルマンらを獲得。
 1982年、エングランダーは統一緑結成を発表しアレクサンダー・トルマンが指導者となる。
 ヘルベルト・フックスヨゼフ・ブフナーもすでに統一緑周辺にあり、1983年フックスが指導者となる。
 
 1986年には一部少数以外の統一緑選択名簿の多数派は統一名簿を結成しフックスブフナーが当選。
 統一緑の大会では3分の1が独自組織派。
 統一緑の多くは緑選択GAに移り、統一緑の少数は右転回させようとしていた。
 統一緑はのちに単独で選挙を戦い1990年には92277票、約2%、1994年は約0.1%。
 1993年以降統一緑の選挙での見込みは薄く、FPOのハイダーが緑選択GAの崩壊をたくらむ統一緑の幹部との協力交渉を暴露、
多くが緑選択GA(ゲオルク・ヴィィリーら)に移った。一部はオーストリア市民緑を結成。残りの統一緑は1994年0.1%。

 緑・緑選択は党首のかわりに2人の指導者を置く。
 1991年ウィーンで急進派のペテル・ピルツと議会代表者ヨハネス・フォッゲンフーバーが対立。
 1992年党改革で筆頭代弁者にペテル・ピルツ(学生時代革命的マルクス主義グループGRM)が選ばれた。
 1994年マデレイネ・ペトロヴィッチ(急進派としてフォッゲンフーバーと対立)が代弁者となる。1995年選挙の敗北(4.81%、9議席)
で交代、1996年クリストフ・コールヘア(現実主義:レアロ派)が代弁者となる。
 1997年コールヘアの支持でアレクサンダー・ファン・デア・ベレン(元社会民主党)が代弁者となる。
 アレクサンダー・ファン・デア・ベレンミカエラ・スブルニが党内統一に努力。
 2002年選挙は9.47%、17議席。
 2002年選挙後OVPとの連立交渉を行い内部から批判が生じた。
 2004年ウィーンで分裂がおこり、コールヘアマリア・ヴァシラコウ(元オーストリア学生連合活動家)と交代させられた。
 2006年選挙は11.05%、21議席、2008年は10.4%、20議席。
 2008年エヴァ・グラヴィシュニヒ・ピーシチェクが代弁者となる。
 2013年3月、ケルンテン州で赤・黒(人民党)・緑連立(ケニア連立)成立。
 国会選挙は12.42%、24議席。
 2014年EU選は14.52%、3議席。
 2016年大統領選ではアレクサンダー・ファン・デア・ベレンが自由党のノルベルト・ホファーに辛うじて勝利当選。
 2017年ペテル・ピルツが党名簿選結果に不満で、独自名簿で元緑のブルノ・ロスマン、ヴォルフガング・ツィングル、元SPOの
ダニエラ・・フィクテンフーバー更にマルタ・ビスマン、オエテル・コルバら著名人を加え選挙に参加、この結果、4.4%で8議席獲得、
一方、緑はこれに加え青年緑の分裂で大敗し、3.8%で足切の4%に達せず、議席を失う。
 代弁者イングリド・フェリペと交代。間もなく同年ヴェルナー・コグラーと交代
 2019年選挙は13.90%、26議席で人民党と連立政権形成。

ウィーン行動主義
 1960−1970年代のアメリカ風のフルクサス(流束)、ハプニング、パフォーマンス、ボディー・アートなどの概念と挑発的方法の
ウィーンの芸術家グループの現代芸術運動。
 運動推進の中心はギュンター・ブルスオットー・ミュールヘルマン・ニッツルドルフ・シュヴァルツコルガーなど。
 1960から1971年まで活発で以降は各自独自に芸術活動を継続。
 特に自覚的運動やメンバーが形成されたわけではない。裸、破壊、暴力などの犯罪性を意図的に追求。
 ギュンター・ブルスオットー・ミュールヘルマン・ニッツはいずれも投獄の憂目にあっている。


政権
1945年 カール・レンナー(社民党) 社民党、人民党、共産党
1945−1953年 レオポルド・フィグリ(人民党) 人民党、社民党
1953−1961年 ユリウス・ラーブ(人民党) 人民党、社民党
1961−1964年 アルフォンス・ゴルバッハ(人民党) 人民党、社民党
1964−1970年 ヨゼフ・クラウス(人民党) 人民党、社民党
1970−1983年 ブルーノ・クライスキー(社民党) 社民党
1983−1986年 フレド・シノヴァッツ(社民党) 社民党、自由党
1986−1977年 フランツ・ヴラニツキー(社民党) 社民党、人民党
1997−2000年 ヴィクトル・クリマ(社民党) 社民党、人民党
2000−2005年 ヴォルフガング・シュッセル(人民党) 人民党、自由党
2005−2006年 ヴォルフガング・シュッセル(人民党) 人民党、未来連合
2007−2008年 アルフレド・グーゼンバウアー(社民党) 社民党、人民党
2008−2016年 ヴェルナー・ファイマン(社民党) 社民党、人民党
2016−2017年 クリスティアン・ケルン(社民党) 社民党、人民党
2017−2019年 セバスティアン・クルツ(人民党) 人民党、自由党
2019−2020年 ブリギッテ・ビアライン(無所属)
2020−      セバスティアン・クルツ(人民党) 人民党、緑

右翼 キリスト民主(人民党) リベラル 社民 共産党
1930年 20.9(27 35.7(66 41.69(72 0.58
1945年 49.8(85 44.6(76 5.4(4
1949年 11.7(16 44.0(77 38.7(67 5.1(5
1953年 10.9(14 41.3(74 42.1(73 5.3(4
1956年 6.5(6 46.0(82 43.0(74 4.4(3
1959年 7.7(8 44.2(79 44.8(78 3.3
1962年 7.0(8 44.0(76 45.4(81 3.04
1966年 5.35(6 42.56(74 48.35(85 0.41
1970年 5.5(6 44.7(78 48.4(81 1.0
1971年 5.5(10 43.1(80 50.0(93 1.4
1975年 5.4(10 42.9(80 50.4(93 1.2
1979年 6.1(11 41.9(77 51.0(95 1.0
1983年 5.0(12 43.2(81 3,4 47.6(90 0.7
1986年 9.7(18 41.3(77 4.8(8 43.1(80 0.7
1990年 16.6(33 32.1(60 4.8(10 42.8(80 0.6
1994年 22.5(42 27.7(52 6.0(11 7.3(13 34.9(65 0.3
1995年 21.9(41 28.3(52 5.5(10 4.8(9 38.1(71 0.3
1999年 26.91(52 26.91(52 3.65 7.40(14 33.15(65 0.48
2002年 10.01(18 42.30(79 0.98 9.47(17 36.51(69 0.56
2006年 15.15(28 34.33(66 11.05(21 35.34(68 1.01
2008年 28.28(55
FPO:17.5(34
BZO:
10.7(21
25.98(51 2.09 10.43(20 29.26(57 0.76
2013年 FPO:20.5(40
BZO:3.5(0

ストロナハ:5.37(11
23.99(47 NEOS
4.96(9
12.42(24 26.82(52
2017年 26.0(51 31.5(62 5.3(10 *4.4(8 26.9(52
2019年 16.17(31 37.46(71 8.10(15 13.90(26 21.18(40
*ペテル・ピルツ名簿


   ⇒ ヨーロッパの左翼


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