日本のマルクス経済学

2 戦後編 


2−2 東京と九大の正統派の形成 

2−2−1 正統派の分類

 佐藤金三郎、高須賀義博は資本論の解釈法から正統派、市民社会派、宇野派(とモデル・プラトン派)に分けたが、高須賀は
’正統派はマルクスにたいして忠実であろうとする心情を共通とするだけであって、理論的特徴をあげることがきわめて
困難である。’と述べ’宇野派、市民社会派、モデル・プラトン派と自らを区別するマル経残差グループと消極的に規定するほうが
実態に近いように思われる。’と述べている。

 正統派とは政治的意味合いでは、(1)マルクスに忠実、マルクス権威主義、(2)法則的、必然論的歴史観、(3)反宇野派、
(4)共産党支持を大きな特徴とする人々といえる。
 ただし、(1)の考えを持つ、経済理論的正統派は必ずしも、共産党支持とはいえないようであるし、また置塩信雄、大西広ら
数学的手法を用いる人々には、個別の命題を否定(あるいは避ける)する場合もあるが、マルクス主義の思想の核として法則的、
必然論的歴史観は維持しているようである。

 このような正統派には資本論の解釈あるいは経済原論の構成の仕方でも種々あり、同じ大学のグループでは比較的、
まとまっている傾向があるが、一橋大は分散が大きい。
 これは宇野派のように堅固な資本論解釈と経済理論体系を打ち立てた宗祖が存在しないため、理論的求心がないためである。
 これについては後に、各グループの経済原論を比較検討するが、ここでは大学ごとにマルクス経済学形成の由来と特徴を見る。

 資本論の忠実主義的解釈には旧講座派に連なる(共産党支持の)いわゆる正統派のほかに、労農派に由来する、向坂派と
久留間鮫造系があるが、久留間自身は資本論全体の整合的解釈、経済原論形成を行っておらず、そのため弟子たちは
経済原論を追求することはまれである。
 久留間系は独自の体系的経済理論活動を行っておらず、正統派内に埋没しているといえる。
 平田清明や望月清司は資本論解釈では正統派に埋没しており、そもそも経済理論形成の実体(独自の経済理論活動)に欠け、
市民社会派としては歴史哲学ないし、未来社会論が主である。

 更に、これに経済理論体系(経済原論と経済史分析の関係、帝国主義論の扱い、いわゆる経済学批判プランの展開)の違いがある。

 もう一つ大きな、集団の区別は現状分析ないしは政党支持の問題に関わる。
 現状分析では大きく向坂・宇野派の社会党支持派と、共産党支持派=通常の意味での正統派と、一時、活発な活動をした構造改革派
がある(あった)。

 ただし、正統派は基本的に戦前の講座派、特に山田盛太郎支持であるが、山田に批判的なグループが戦後、大阪市大や慶大出身者
を中心に少数であるが派生した。近代主義市民社会派の影響の少ない関西は、山田に対して熱狂的ではない。
 関西は、後に構造改革派を生み出す共産党分裂の一つの中心であったが、一方で、関西はイデオロギー(哲学)過剰で、ここから、
見田派と、更に、これと異なる哲学的原理主義的な日本の声・民学同系、大阪市大系のグループ(森信成、山本晴義、小野義彦ら)も生じた。

 以下、大学ごとに、正統派を見てみる。

2−2−2 東京のマルクス経済学の特徴

 関西は反東大=反宇野派感情を中心に正統派帝国が形成され、学者・知識人の世界も共産党支持者一色で、イデオロギー的に宇野派を
罵倒すること、異端撲滅に中心が置かれ、経済理論的には見るべきものが少なかったが、東京は大内兵衛のように学者・知識人の世界
に強い影響を持つ人物が存在し、また戦前の東大経済学は労農派が多く、労農派ではない、矢内原忠雄、舞出長五郎らも大内兵衛と
関係が良く、その影響で、戦後、東大には宇野派が繁栄し、そのため東京の正統派はある程度、理論的論争に取り組まざるを得なかった。
 正統派は戦後、一時期にしか存在しなかった東大の他に、強い反東大の一橋大や慶大、中央大等の私大でも繁栄した。

 そのほか、北大、東北大(服部親子)、九州大などでにもかなり強固に正統派は存在した。
 横浜国大は一橋大の正統派植民地であったが、長洲一二など棄教した連中が多い。
 福島大も東大などの正統派の植民地であった。
 東大では正統派は講座を維持していけなかったので、中央大などの私大にも集まったが、私大は雑多な集団となることが多く、しかも
慶大以外は後継者の育成が基本的にできなかった。共産党との人間関係などの影響等で個人間の抗争もあった。
 なお、立教大・法政大にはある程度、久留間鮫造の支持者が育った。

2−2−3 東大系

 戦後の東大には戦前に追放された、マルクス経済学者が復帰した。
 戦前の東大のマルクス経済学者は労農派系が多く、戦後も、大内兵衛を中心に結束し、宇野弘蔵も1947年に東大に来て強い
影響力をもった。
 東大では正統派と大内・宇野派は強く対立し、経済学部に関しては正統派は劣勢で講座を維持していくことが困難で学外に
出ざるを得ない場合が多く、そのため第一世代(1930年代生)以外の後継者は、日本経済史以外では、ほとんど育成できなかった
ようにみえる。
 山田盛太郎も指導者としての能力も人間的魅力もなく(批判に反論することはなかった)、資本論解釈も再生産表式論だけで、
現状分析では、戦前の考え方を脱却できず、時代に合わなくなっていった。(全集は日本資本主義分析と再生産過程表式分析序論
以外は、表式を基礎とした似たような断片ばかりで、よくこんなもので5巻、別巻1の全集を組んだものだと呆れてしまう。)
 山田支持者は土地制度史学会に結集し、時代遅れの農業問題に専念、これには大塚久雄も参加したが、のちに大塚は正統派と
不和になった。
 みかけの指導者となった宇高基輔には理論的指導者としての力量はなかったようにみえ、また、ソヴィエト経済の研究者となり名目上の
指導者にしかなりえなかった。
 その講座には古川哲(法政大学)、岡崎栄松(立命館大学)・堀晋作(国学院大学)、高山満(東京経済大学)、大島雄一(名古屋大学)、
南克巳(千葉大学)、二瓶敏(専修大学)、海道勝稔(神奈川大学)などいたが、東大を宇野派が占領したことにより正統派は東大に席を置く
ことが困難となり、、横浜国大や滋賀大、福島大、更に関東の私大や関西の私大に亡命、植民することとなったわけだが、それら私大で
後継者を育成することは容易ではなく、主に外部から招聘するので師弟の継承性は良くなかった。

 東大(宇佐美、宇高)も京大(木原、長砂)も講座は社会主義論が中心になっていったようにみえる。

 正統派の最初の講座の「経済学講座全5巻(1954年、大月書店)、第1巻:資本主義経済の基礎原理」でこそ、一橋や慶大に
遅れを取ったが(東大は横山正彦だけ)、1959年のマルクス経済学(青林書院新社)では東大が執筆者のほとんどを占めた。
 1963年の「マルクス経済学講座の第1:マルクス経済学入門」でも中心となり、マルクス経済学講座(1963年、有斐閣)も同様。
 1971年のマルクス主義講座(新日本出版社)は見田石介も監修者となり、執筆者が多様化(見田派が多くなった)、置塩信雄も
参加。見田系が多い、マルクス主義講座に参加していることをみても、置塩がイデオロギー的であることがわかる。

 東大にもマルクス主義の哲学者はいたが、京大見田派のように経済学に介入するようなことは少なかったようで、どちらか
というと、平和主義や人道主義色が濃かったので、やたらと弁証法や史的唯物論をふりかざし、経済学を支配しようとした京大見田派
よりはましといえようか。
 なお、東大では法学部出身者に教条主義的理論を振りかざした人物が見られる。
 政治的感情が主なのでそうならざるを得ないのだろうか。平野義太郎、守屋典郎、有井行夫らがそうである。

 横山正彦は宇野の学問の自立性の主張に対し、’階級対立=闘争の極度に激化しているいま、どうしてできるであろうか’と
1964年出版の経済政策講座第1巻で述べている。
 松田弘三の言動と言い、教条主義者はソ連崩壊直前まで、革命は目前と妄想していたのであろうか。

 東大系でマルクス主義の影響が非常に大きかったのは歴史学と法学で、歴史学、特に日本史はマルクス主義(唯物史観)一色と
いっていいだろう。
 法学は特に政治的、実践的であり、ソ連の影響もつよかった。 
 法社会学の渡辺洋三を始めとして長谷川正安、藤田勇など。
 森下敏男はマルクス主義法学の終焉と民主主義法学の敗北を語る。


2−2−4 一橋大系

 戦後、講座派の強力な支援者となったは大塚久雄、高島善哉、内田義彦らの近代主義者、市民社会派と呼ばれる人々であり、
一橋大は戦前のマルクス経済学者追放の影響をあまり強く受けず、特に、近代主義者、市民社会派の高島善哉のもとから、
戦後初期の正統派の中心となる人々が排出された。
 高島(1904−)門下は(戦後派マルクス経済学者第1代は1930年代生が多いなか)、1920年代生が中心である。
 本間要一郎(1924)、長洲一二(1919)、平田(1922)、佐藤金三郎(1927)、古沢友吉(1925)、宮崎犀一(1924)など。
 これらは、戦後、最初の、スターリン批判前の、正統派の講座の「経済学講座全5巻(1954年、大月書店)、第1巻:
資本主義経済の基礎原理」において、慶大とともにその中心的担い手となった。

 また、大塚金之助(1892−1977)は戦後、ソ連礼賛と東独との交流に努力した。

 その後も一橋大は反東大感情とリベラル(戦後的状況では容共)感情で、容共近経派ないしは近経・マル系折衷派、
スミス・ヴェーバー・マルクス折衷派などの庇護のもと正統派が輩出される。
 都留重人などは外国ではマルクス経済学者と誤解されたりもした。
 しかしながら、これら正統派庇護者は容共ないし共産党支持であっても必ずしもマルクス主義者でなく、高島、杉本栄一、
都留重人、高須賀義博といった人々の庇護下、影響下にあったため複雑な様相を帯び、一方で、一橋大には社会主義論
(岡稔、野々村一雄ら)やマルクス主義哲学(岩崎允胤)なども比較的根強く継承され、教条的な傾向も生じた。
 イデオロギー、政治的にはともかく、経済理論的には折衷的要素を抱えることが少なくなかった。
 そのため色合いでは非常に分散、まとまりがない。
 しかしながら、戦後第一世代以降の継承がほとんどなされなかった東大、経済原論に重きを置かなかった「方法論」や
世界経済論中心の京大、寄せ合い所帯の中大にくらべ、一橋大は代々正統派を輩出している。

 資本論の研究 種瀬茂編(青木書店、1986年) はしがきB 12p−13p
 「資本論」の資本主義的蓄積の一般的法則の解明は、即われわれの目の前にある資本主義経済の厳しい現実問題
ー失業と貧困ーの解明である。
 これは有井行夫らの本質還元主義と同根である。

 ソ連崩壊後は、衰退する京大教条主義に代わって哲学・思想過剰教条主義の温床となりつつある。
 一方で、市民社会派(内田義彦、平田清明)や高須賀義博らの影響を受けた連中の折衷主義化も顕著である。

 一橋大は近経の牙城というが、上述のように、容共近経や折衷主義者もいてマルクス経済学者の種瀬茂が学長になるなど、
他大学に比べ、安定的に正統派マルクス経済学者を供給してきている。
 更に、横浜国大などを植民地とするが、長洲らは横浜国大にいってそこを構造改革派の拠点とし、やがてこれらはマルクスを
放棄していくこととなる。

 長洲は出世するに従い、教条主義からマルクス放棄に転じていった。
 平田清明は名古屋大、京大と渡り歩き、革命家気取りからやがて’市民社会と民主主義’派、舶来品飛びつきと変化していった。
 佐藤金三郎は大阪市大、横浜国大と移り、論理=歴史の旧正統派に対し、論理説の新正統派を自称したが直ぐに自滅し、考証学に
退避した。佐藤金三郎の宇野批判(「資本論」と宇野経済学)はもっともまともな宇野批判といわれる。
 高須賀義博は宇野弘蔵を持ち上げるが、結局、宇野のいうことはマルクスと違うと平凡な結論に到った。
 数式を用い、独特な経済原論を形成しようとしたが成功したようには見えない。
 関根友彦は家出同然に宇野派入りし、カナダで近経を教えながら、やがて宇野の英語での紹介を行い、カナダにいくばくかの
宇野派を生み出し、伊藤誠とともに宇野派の欧米紹介に務めた。


2−2−5 慶大系

 慶大も比較的戦前のマルクス経済学者追放の影響をあまり強く受けず、たとえば、最初の正統派の講座である’経済学講座’の
 第1巻 資本主義経済の基礎原理では一橋大とともに中心を占めた。

 野呂栄太郎をいわば宗祖とする慶応大は、遊部久蔵を出発としてブルジョア大学のただなかで着実に学派を維持していく。
 ただし、遊部の資本論解釈はいわゆる資本一般論で、信用論を欠き、原論として欠陥があり、後継者はそれらの辻褄合わせに
苦労することとなる。
 北原勇がいわゆる重層理論の中心であるが、井村は重層理論に限界を感じているようである。
 資本論体系では重層理論が正統派の正統的地位を得ているように見えるが、批判も多い。

 その極端な批判者、は有井行夫だが(資本論=本質論、現実の資本主義=現象とし、本質にすべてを還元)で、
有井のような本質(資本主義における労働の悲惨さ、貧困化)還元主義傾向は正統派では根強い。

 重層理論の最大の欠点は歴史が分断されていることである。更に、階段状積み上げで、上層にいくほど理論が先細るという
批判もある。
 資本論を自由競争の理論であり、独占の基本的理論でもあるとするのも無理がある。

 慶大系は当然、山田より(の代わりに)野呂栄太郎を崇拝する傾向がある。

 豊田四郎、浅田光輝は戦後初期に日本経済機構研究所を設立して、慶大出身者を糾合して講座派(山田)批判を行った。
  日本政治経済の動向(1947年)
  経済学原理(1948ー1949年) 
  日本国家独占資本主義の構造(1948年)
  日本資本主義構造の理論(1948年)
  日本資本主義論争前進のために:労農派批判(1948年)
などを出版。
 特に、豊田は戦後初期に原論に属する書を出しているが、やがて党の理論中枢を担うようになり、学問的発展は?
 慶大の中心は遊部から常盤、井村、北原、飯田らが担っていくこととなる。

 野呂栄太郎とならぶ戦前の若い学者として伊藤秀一をあげることができよう。同じ北海道出身で1898−1394年、35才で死亡。
 世界経済概論(1931年)、世界経済の理論と概説(1933年)が挙げられる。


2−2−6 九大系

 九大では戦後、労農派の向坂逸郎、高橋正雄らが復帰。特に向坂は九大に強い影響を持った。
 しかし、向坂は戦後は経済学から遠ざり、政治とイデオロギーに特化した。
 向坂ら労農派は戦後、社会主義協会を結成するが、高橋はやがて、教条主義の向坂と喧嘩別れする。
 協会派からは清水慎三、高野実らも分かれていった。
 九大の向坂派も後に太田派と分裂する。分裂のきっかけは協会に別党路線を主張する人々が出たためであるが、
その中心人物は水原輝雄という元共産党で、このグループはやがて人民の力(1971年)など、新左翼的路線に
引き付けられていく。

 九大にも当然、古くから、正統派のマルクス主義経済学者も存在した。
 奥田八二によると、九大で向坂と対立した講座派の領袖は森耕二郎であったという。
 岡崎次郎によると経済学部内の長老森耕二郎派と新興向坂逸郎派とは、もちろん政党のように明確に分かれていた
わけではなかったが、戦後新たに学窓を巣立った人々はかなり旗幟を鮮明にしており、しかも向坂派に属する人々のほうが
圧倒的に多かった。’という。
 三戸公は正田誠一と吉村正晴を講座派にあげる。

 向坂系が強かったが、非向坂系の恐慌論の高木幸二郎や国際経済論の木下悦二、村岡俊三、田中 素香、吉村正晴ら
も特色のある学問を形成。
 ただし、木下悦二は大阪市大出身で、国際経済論というのも関西の傾向にあるといえる。


2−2−7 横浜国大、旧高専系

 横浜国大には一橋大の植民地で、長洲一二らが構造改革派を形成するが、後にマルクス放棄。

 旧高専系の福島大、滋賀大は正統派の植民地。
 福島大は東大系が多いように見える。富塚良三も一時、籍を置いた。
 滋賀大は京大が中心。


2−2−8 早大

 早大ではマルクス経済学は有力でないので多くは外へ出るようだが、関西、大阪市大などが主だったように見える。

 早大のマルクス経済としては、杉山清が近代経済学からマルクス経済学を研究したといわれ、マルクス価値論の研究(1951)、
資本論の均衡論(1950)、資本論の経済学的研究(1949)などがある。

 マルクス経済学教科書としては
  経済学原理 三野昭一 1979年 汐文社
  マルクス経済学原論 小林茂 1976年 新評論
  経済学入門 町田実、永山武夫、西宮輝明、松原昭 1957年 有信堂 
などが見える。

 木林茂には農業問題に関する著作がある。(農業問題論農業経済学基礎理論
 木村は農業経済学の体系を、’産業資本主義段階の農業経済学の理論である『農業経済学原論』を土台として、その上の展開された
独占資本主義段階の特殊理論としての『独占資本主義農業理論』が成立し・・’という。いわゆる重層理論であろう。

 松原昭には’賃労働と社会主義’ 1976年 早稲田大学出版部
 町田実には’国際貿易の史的構造’ 1978年 前野書店

 堀江忠男は’マルクス経済学の創造的発展’(1958年)、労働価値説の新たな発展(1959年)、マルクス経済学と現実(1965年)、
弁証法経済学批判(1975年)、「資本論」と資本主義の運命(1981年)で資本論批判を展開した。


2−2−9 中央大、立教大、法政大などの私大

 私大でマルクス経済学が唯一後継者が延々と続いたのは皮肉なことに天下のブルジョア大である慶応であった。
 一方、その他の私大はたえず外部からの流入者で学派が形成されるために人間関係は複雑で抗争がある場合があり、
その典型は中央大であった。
 立教も戦前から宮川実がおり、更に井上周八、山本二三丸、三宅義夫などと繁栄するが、宮川と山本の対立は激しかった
という。 (渡辺雄三自伝第10回
 小松善雄の「川鍋正敏先生の人と学問」では’戦後、立教大学経済学部は、立教リベラリズムと呼ばれた学統のもと、
戦前来の日本のマルクス経済学研究の最高峰と目された久留間鮫造先生の研究系譜を受け継ぐ、価値論・恐慌論の
山本二三丸先生、信用論・恐慌論の三宅義夫先生、さらに経済学史、スミス、リスト、スチュアート研究の泰斗の小林昇先生、
「大塚史学」の立場からドイツ経済史を担う松田智雄先生らを擁し、その学会誌『立教経済学研究jは毎回、発刊の度毎に注目を
集め、わが国の学界のブリリアントな研究拠点となっていた。’と自画自賛。

 久留間鮫造は立教大・法政大で教えたことがあるために、ここに久留間鮫造の系統が生じた。
 大内兵衛は久留間鮫造と宇野弘蔵の門下の将来の繁栄を予測している。
 宇野弘蔵についてはその通りになったといえるが、久留間鮫造はどうだろうか。
 価値形態論と交換過程論で宇野を批判し、反宇野派の先人を切ったがその後の仕事とについては正統派からも教条主義という
批判が出る始末である。
 類聚集的性格のレキシコン編集に生涯を捧げているが、マルクス忠実主義者が備忘録として利用するのはともかく、創造的理論発展に、
はたしてどういう意味があるのだろうか。

 久留間鮫造の息子の久留間健はやや異色で現状分析を主とし、「資本主義は存続できるか」を論じる。

 富塚良三は久留間鮫造の初期の直弟子で、久留間鮫造の還暦記念論文集(1958年)にも労農派や宇野派系と並んで
唯一、久留間の弟子として登場するが、後に、久留間と喧嘩別れして、正統派の資本論体系にはついに編集代表にまで
成り上がった。
 富塚良三の経済原論の出版は、どういうわけか、第3部は途中までで終わっているものが多い。
 富塚のいいとこ取りの恐慌論を崇める人々もいる。

 東大山田盛太郎の再生産論を墨守する宇高講座の南克巳、古川哲は法政大に植民し、この系列の人々を育てた。
 ’危機における現代経済の諸相’(1992年)を見ると、その系統は瀬戸岡紘、杉山清、鈴木春二、沢田幸治、増田壽男、矢吹満男、
三浦道行、相沢幸悦、久保新一、涌井秀行、草間俊夫、柿崎繁らである。
 彼らは、窮乏化論→軍事産業基軸論→戦争という論理で、ソ連崩壊前は冷戦帝国主義論を論じ、崩壊後は国連帝国主義を語り、
涌井秀行のごとくは、湾岸戦争からウクライナ戦争まですべてを、エネルギー資源を求めるアメリカの陰謀とする。
 ’ウクライナ戦争は、アメリカが国連を巻き込み利用し、国際社会の世論を作りながら、世界侵略・支配を目指す戦争だ、ということを
忘れてはならない。’!


2−2−10 マルクス経済学各派の比較

 いくつかの観点からの各派の比較一覧

正統派 宇野派 向坂派 平田派 久留間系 要綱派
形成史
資本論解釈
経済学体系方法論
原理論構築
段階理論
資本主義通史分析
現状分析
政治実践理論
歴史哲学、未来社会論


 原論では経済学批判要綱プラン(国家と世界市場の扱い)との関係、独占の扱い、恐慌論の違いなど。
 久留間自体は資本論解釈ではもっとも忠実的で、マルクスが追求していないことをそれ以上追求しようとはしない。
 経済学体系方法論は原理論・段階・通史分析の構造(経済学批判要綱プランとマルクス以降の発展の扱い)
 段階理論は帝国主義論以降、独占資本論、国家独占資本主義論、福祉国家論、グローバル資本主義論など
 正統派は唯物史観による経済史はあったが、資本主義の通史分析は欠如していた。
 平田派の資本論の経済理論としての解釈(平田だけ)は正統派に埋没。
 平田派、要綱派は構造改革派の流れ(政治的敗北)から派生(思想運動的に)、要綱派の政治実践は市民運動として。
 要綱派は内田弘以外はマルクス希薄化、社会思想運動化していったようにみえる。(沖浦、花崎など)



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