コーカサスの歴史
[3] コーカサス前史
(1)
ハヤサ・アズィ(BC1500−1290)
ハヤサ・アズィHayasa-Azziは晩期青銅器時代のアルメニア高地の2つの王国の間に形成された種族連合。
ハヤサはトラブゾンの南に位置し、アズィはユーフラテスの北、ハヤサの南に位置する。
ハヤサ・アズィ連合はBC14世紀にヒッタイト帝国と衝突し、これでBC1190年頃、ハッティは崩壊に至った。
トゥドハリヤ3世以前(BC1500−1340)
ヒッタイトの石碑で山の国、ハヤサと、またはアズィがヴァン湖周辺にあったことが証明された。
幾人かの学者はアズィを
イスワの北方に置き、ハヤサとアズィを同じとする学者もいる。
初期のヒッタイトのトゥドハリヤ王の一人は首都ハトゥサを放棄しサピヌワに移動した。
BC14世紀初期にサピヌワもまた焼かれた。
ハトゥシリ3世は当時アズィはサムハをその国境にしたと記録。
トゥドハリヤ3世と
スッピルリウマ1世(BC1360−1320)
トゥドハリヤ3世はカスカ、ハヤサ・アズィその他の敵からの攻撃に直面しハトゥサを放棄し重要な信仰都市サムハに宮廷を置いた。
しかしサムハは一時的にアズィの国からの勢力によって占領された。
この頃、ハッティの王国は敵によって激しい攻撃にあっていた。しかしトゥドハリヤはなんとか自分の勢力を招集できた。
トゥドハリヤはハッティの北東国境にハヤサ・アズィを打ち破るために将軍としてスッピルリウマを送った。
彼らはハヤサ・アズィに侵攻し、クマハ近くでその王カランニを倒した。
ハヤサは生け捕ったヒッタイト臣民を戻し国境を譲った。ハッカニはヒッタイトの義理の兄弟となった。
ハヤサと、またはアズィの一連の支配者が記録されている。
カランニ、マリヤ、ハッカニ(フッカナ)。ハッカニはヒッタイトの王女と結婚。
スッピルリウマが王になるとハッカニはスッピルリウマの姉妹と結婚。
ムルシリ2世(BC1320−1290)
ハヤサ・アズィの王国は一時、ヒッタイトの忠実な従属国であった。
しかし、ムルシリの統治7年にアズィの侯アニヤはピンフニヤの
カスカ統一を利用してヒッタイト国境地域ダンクワを襲撃し住民を王国に
連れ去った。
アニヤの反乱に対しヒッタイトはすぐに応答。ヒッタイト王ムルシリ2世はピンフニヤを破り、ハヤサ・アズィ国境に進み、生け捕った
住民の返還を要求したが、アニヤは拒否し、ムルシリ2世は直ちにハヤサの国境の要塞ウラを攻撃。
ムルシリの統治9年にアニヤは大きな反撃を行う。
更に悪いことにムルシリ2世の兄弟、ヒッタイトのシリア副王サリ・クスフSarri-Kusuhが死亡。
これでヌハセが反乱。ムルシリ2世は将軍クルンタをシリアへ、ヌワンザをハヤサ・アズィ攻撃に派遣。
ムルシリ2世は統治10年にハヤサ・アズィに侵攻、再征服し従属国とした。
アニヤの敗北後、ハヤサ・アズィは統一民族としてヒッタイトまたはアッシリアの記録に出現しない。
*以下
ロシア語のウィキペディア
ハヤサまたはハヤサ・アズィはヒッタイト楔形文字資料でBC16−13世紀に言及される国家で、中心はアルメニア高地の
チョロフ川とユーフラテス川上流。
この時期、ハヤサはときどきヒッタイト王国と和平を結び貢納し、あるいは軍事衝突した。
BC13世紀までにハヤサは崩壊し、領土はフリ人に占領された。この時期ハヤサの土地はダイザニのフリ王国と関係づけられる。
トゥドハリヤ3世以前(BC1500−1340)
トゥドハリヤ3世の統治までハヤサに関するヒッタイトからの情報は非常に少ない。
BC14世紀にハヤサはヒッタイト領土に侵攻し、その新都サピヌワを焼き払い、国境にサムクを建設した。
楔形文字盤から数名のハヤサ王が知られる。マリヤ、カランニ、フッカナ、アナニア(アニア)など印欧起源の名である。印欧語の
馬飼育に関する言葉もある。
BC1405年、マリヤ王の統治の間、ヒッタイトはハヤサを攻撃、ツォプク(ソフェネ)を奪った。
戦争はマリヤの後継者カランニと続いた。
BC1397年頃、ヒッタイトはカランニをカタライア(カッパドキア)の戦いで破った。
ヒッタイトはツォプクを攻撃したが撃退された。同年、アニ(カマフ)要塞近くで戦闘が起き、ヒッタイト軍は後退を余儀なくされた。
戦争はBC1380年まで続き、カランニはヒッタイト王国の領土を何度か攻撃し荒廃させた。
BC1938年、カランニは首都ハトゥサを占領、焼き払った。
BC1375年頃、ヒッタイトは黒海からハヤサに上陸しようとし、続く戦いで手痛い敗北を蒙った。
BC1350年、ヒッタイトは再びツォプクを占領し、トガルマとメリドの侯主はヒッタイトに送られ、フッカナはヒッタイトの支配を受け入れた。
しかしフッカナは同年カッパドキアを攻撃、そのためヒッタイトはミタンニ地域から撤退を強いられた。
トゥドハリヤ3世とスッピルリウマ1世(BC1340−1320)
トゥドハリヤ3世は王座について、スッピルリウマをヒッタイト地域から逃れてサムフに帰還したハヤサ人征服のため送った。
スッピルリウムはハヤサの支配者フッカナと和平を行い、フッカナはスッピルリウマに忠誠を誓った。
スッピルリウムは妹をフッカナに贈った。
BC1324年、ヒッタイトはドゥクマ要塞とエルズンカの町を征服。激しい抵抗のあとアナニアは再び和平を余儀なくされた。
ムルシリ2世(BC1320−1290)
BC1324、1321、1320、1319年にヒッタイトは一連のハヤサ領土への軍事遠征を行った。
しかし決定的な成功は得られなかった。
BC1319年、ヒッタイトはウラ要塞を奪おうとして反撃された。報復にアナニア軍はアリナとアンクヴァを占領し、周辺を荒らし、
撤退。
アナニアは同様に同年と翌年、ヒッタイトを、主に従属するカスカの勢力で攻撃。
1317年、ヒッタイトはウル要塞を攻撃したが厳しい敗北を蒙る。翌年ヒッタイトはカヌヴァラで敗北。
ムルシリ2世の統治以前にはヒッタイト資料にハヤサ・アズィの言及はない。
ヒッタイトとカスカの戦争中、ハヤサはヒッタイトからの避難者を保護し、アッズィの指導者、マリアの息子アニア(?)は
ヒッタイト地域から家畜を盗み、捕虜を得る。
ムルシリの要請に対しアニアはそれらの返還を拒否、ヒッタイトを戦争を始めウル要塞を包囲。
しかしハヤサ・アズィとの戦争中、ムルシリはもっと重要な敵アッシリヤに直面する。
彼の統治10年にムルシリ2世はハヤサへの対抗が頭を占めたが、彼らは山岳要塞に避難。
ムルシリはポントス山脈を超え黒海の都市アリプセを奪い、そこからアズィの中心トゥカマを攻略。国はヒッタイトに併合された。
しかし、後に保持に失敗。
ハヤサとアルメニア
20世紀前半に一部の学者がハヤサの起源がハヤで、これはアルメニア人の自称ハイに対応することを示唆。
サはヒッタイトの接尾辞で国を意味する。
支配者
BC1450−1400頃 マリヤ
BC1400−1375頃 カランニ
BC1375−1345 フッカナ ヒッタイトの王女と結婚
BC1345−1316 アニア(アナニア)
*ドイツ語
アズィはハヤサの州と思われる。
アズィとマリヤはハヤサの一部。
支配者
カランニス:トゥドハリヤ3世の時代
マリヤス:トゥドハリヤ3世の時代
フッカナス:スッピルリウマ1世の時代
アズィのアンダラトリス:スッピルリウマ1世の時代
アンニアス:マリアの息子、ムルシリ2世時代
ハリマンのムティス:ムルシリ2世時代
都市と要塞
アプリサ
ハリマン(要塞)
アズィのトゥカマTukkama 長老支配
ウラ(要塞)
(2)
ディアウエヒ(BC1118−760)
ディアウエヒ(ディアオヒ)はジョージア人種族の連合あるいは王国群でアナトリア北東に位置し、BC12世紀のヒッタイト期後に
形成された。
アッシリア王ティグラート・ピレセル1世の3年(BC1118)のヨンジャル碑文に通常(いつもではない)、同定される。
ウラルトゥ資料はディアウエヒの3つの主要都市、ズアZua、ウトゥUtuとサシルSasiluについて語る。
連合は強力でアッシリアの攻撃に対抗できたが、BC1112年、その王シエンSienはティグラート・ピレセル1世に敗北した。
彼は捕虜となったが封臣として釈放された。
アッシリア王シャルマネセル3世(BC859−824)はウラルトゥを蹂躙したあとBC845年、最終的にディアウエヒを征服し、
その王アシアAsia(BC850−825)を服従させた。
ディアウエヒは新しく出現した地域勢力ウラルトゥの目標となった。
ウラルトゥ王メヌア(BC810−785)とその息子アルギシュティ1世(BC785−763)の両者はディアウエヒ王ウトゥプルシ
(BC810頃−770)に対し軍事行動を起こし、最南端領土を付け加え、金、銀、銅などを貢納させた。
ディアウエヒはBC760年頃コルキスColchisの侵略によって破壊された。
<参考>
ディアウエヘ
ディアウエヘ(ディアウエヒ)はウラルトゥの北の鉄器時代の国または人々の連合。首都はサシルとズアニ。
ウラルトゥ碑文からだけで知られる。国でなく部族のようである。
メヌア
BC8世紀初めにウラルトゥ王メヌアはディアウエヘとエレクアに遠征。メヌアはディアウエヘと王都サシルを征服したと言う。
彼は城とともに国を焼き払ったと誇った。彼はディアウエヘの国境のズアとウトゥハの都市に進んだ。
ディアウエヘの王ウトゥプルシ(ニ)が降伏した。
彼はサシルの都市を征服し、神アルディのために石碑を立てたと報告。メヌアはまたディアウエヘ王の土地タリウニに言及。
アルギシュティ1世
ディアウエヘはルサ、カタルザ、エティウヒとウィテルヒとともにアルギシュティ1世の遠征の標的。
ディアウエヘは金、銀と銅を貢納し、最終的に征服されなかった。
アルギシュティはタリウの土地に遠征したと言う。タリウを征服してから、フサ、ビアニとアスカラシに進んだ。
ディアウエヘ王が貢納のためにアフリアの都市に現れた。恐らく貢納を拒否したようで、2都市を破壊し多くの家畜を餌食にした。
多くを捕虜とし、一部は殺し、一部は連れ去った。この遠征で6要塞と50都市を焼き払ったと主張。
またディアウエヘとその提携者ルサの土地、カタルザの土地、エリアヒの人々、ウイテルヒの人々に遠征したと報告。
サルドリ2世
サルドリ2世は更に遠く北のエティウネ、ラグと、フサ近くのクルハに2度遠征。
都市
サシル:首都
ウトゥハ
ズアイニ:首都
ハルディリルヒ:メヌアによってウラルトゥに編入。
ディアウエヘとダイアエニ
ディアウエヘと
ダイアエニを同じとする学者がいる。
両者を
ディアオヒとする学者がいる。
ダイアエニはナイリ種族連合の一員でアッシリア王ティグラトピルセル1世とシャルマネセル3世と敵対。
BC844年、シャルマネセル3世はナイリに遠征し、ダイアエニから貢納を受けた。
彼の治世の15年にシャルマネセルは馬の貢納をダイアエニの国から受けた。
支配者
ティグラト・ピルセル1世の時、シエニ。
シャルマネセル3世の時、アシア。
ディアオヒはBC13−8世紀中期に存在した古代ジョージア王国。
(3)
ナイリ
ナイリはアルメニア高地の種族連合に対するアッシリアの呼び名で凡そ現代のトルコのヴァンとハッキャリ地域に相当。
黄銅器時代崩壊の間(BC13から12世紀)ナイリ種族はアッシリヤとハッティに対抗できる強さを持っていたと考えられる。
ナイリはBC10世紀にウラルトゥに併合された。
トレヴァー・ブライスによるとナイリ地域にはいわゆる獰猛な種族グループが住み、多くの侯国に分かれていた。
最初に言及されたのはトゥクルティ・ニヌルタ1世(BC1114−1076)の時で、彼は40のナイリ王を打ち破り、
貢物を取り立てた。ティグラト・ピレセル1世(BC1114−1076)によって23のナイリの土地の名が記録された。
その最南端はトゥメで、ウルミア湖の南西として知られ、北方の一つはダイアエニ。
これらの土地は敗北した王のリストから知られる。
“トゥメTummeの王、トゥヌベTunubeの王、トゥアリTualiの王、キンダリKindariの王、ウズラUzulaの王、ウンザムニUnzamuniの王、
アンディアベAndiabeの王、ピラキンニPilakinniの王、アトゥルギニAturginiの王、クリバルジニのKulibarzini王、シニビルニShinibirniの王、
ヒムアHimuaの王、パイテリPaiteriの王、ウイラム Uiramの王、シュルリアShururiaの王、アルバイア
Albaiaの王、ウギナUginaの王、
ナザビアNazabiaの王、アバルシウニAbarsiuniの王、そして、ダイアエニDaiaeniの王。”
ナイリはトゥール・アビディン山脈南から山脈地域、北はヴァン湖の南西に広がっていたと考えられる。
シャルマネセル3世はこの地域に遠征し、ティグリスの源に像を立てた。
ナイリに関する初期の文献の言及はアダド・ニラリ1世(BC13世紀)でナイリ地域から128頭の馬を獲得したと言及されている。
ナイリはアッシリアの南方からの侵入と戦い、後にウラルトゥに併合。
<参考>
ナイリ
中期鉄器時代の古代アルメニア種族のアッシリア名で、王国または種族の連合で民族的、文化的に一様ではなかった。
ナイリの諸国はBC13世紀のアッシリアの資料で言及され、アシュルからの粘土板によると中期アッシリア期に馬がナイリから
アッシリアにもたらされた。
アッシリアはナイリに対し何度か遠征に乗り出した。最初はトゥクルティ・ニヌルタ1世で、彼は何人かの地域ナイリ指導者と戦った。
トゥクルティ・ニヌルタ1世(BC1244−1208)がクドムシを征服した後に隣のアルセの王がアッシリア軍からナイリに更に
見知らぬ国に逃げた。
ティグラト・ピルセル1世(BC1114頃)はナイリに3回遠征、ナイリ23王を服従させたことを誇った。
後にナイリは連合を形成したようである。アッシリア資料はウラルトゥをナイリ侯国の一つとする。
シャルマネセル1世は8王、トゥクルティ・ニヌルタ1世は23王、ティグラト・ピルセル1世は60王の名をあげる。
ティグラト・ピルセル1世は碑文でトゥンメからダイアエニまでのナイリの征服者と呼ばれている。
ついで、ティグラトピルセルは破った敵を上の海(恐らくヴァン湖)まで追跡。
彼はすべてのナイリ王を捕獲したことを誇った。ダイアエニの王シエニはアッシュル神に従わず、捕獲してアッシュル神に捧げられたが、
恩赦され解放された。
アダド・ニラリ2世はウラルトリへの勝利を報告している。その後、アッシュル神の加護で下ザブの他岸からルルメ、
ハビヒ、
ザムアと
ナムリ国まで進み、メフリ、サルアとウラルティまでの広いクマニを征服。
アッシュル・ナシル・アプリ2世はカルフでの就任式にシドン、ティレ、ムサシル、トゥメ、グルグム、ギルザヌとメリドゥの代表を
招待した。
これにはナイリの王たちが欠如。
シャルマナス3世もまたトゥメ、ダイアニとトゥヌベを知っていた。
ナイリ諸国についてのアッシリア資料
事項 (年代) アッシリア王
ウラルトゥのアラム:(BC858、856、844年);シャルマネセル3世(BC858−824)
カキア、ナイリ王:(BC858年);シャルマネセル3世(BC858−824)
ナイリ、ウラルトゥ:(BC9世紀初期);アシュルナシルパル(BC883−859)
ウラルトリ、ナイリ:(BC10世紀晩期);アダド・ニラリ2世(BC911−891)
ウラルトリ:(BC1070年頃);アシュル・ベル・カラ(BC1073−1056)
ナイリの23王: ティグラト・ピレセル1世(BC1114−1076)
ナイリの60王: ティグラト・ピレセル1世(BC1114−1076)
ナイリの土地の40王:(晩期13世紀);トゥクルティ・ニナルタ1世(BC1243−1207)
ウラルトリの8か国:(BC1273年頃);シャルマネセル1世BC1273−1244)
BC1392年頃 中期アッシリア帝国期 BC15世紀−13世紀
(4)
カスカ(BC1430−1200)
カスカは緩く結びついた青銅器時代の非印欧系種族で帰属不明のカスカ語を話し、東ポントス・アナトリアの山脈に住み、
ヒッタイト資料から知られる。
古ヒッタイト期にパラ(印欧語)はヒッタイトの支配下にあったが、古ヒッタイト期末期(BC15世紀)にカスカが黒海周辺を占領し、
ヒッタイトとパラの接触は断たれた。
カスカの侵入でパラ系住民は消失したようである。
カスカは最初、ヒッタイトの祈祷碑文に現れ、ハンティリHantili2世の約BC1450に遡り、荒廃した聖都市ネリクに彼らが移動した
ことを言及している。
ハンティリの息子トゥドハリヤTudhaliya2世のとき(BC1430頃)カスカに対する遠征が行われた。
彼の後継者アムワンダArnuwanda1世はいくつかのヒッタイトの都市(ネリク、カママ。ザルプワ)がカスカのもとにおちたことに
言及している。
アムワンダとスッピルリウマSuppiluliuma1世(BC1330頃)の統治の間、ときどきカスカは飢餓に陥り、ハヤサ・アズィとイスワに
加わり、ハトゥッサを焼き払った。
トゥダリヤ3世とスッピルリウマ1世は(BC1375−1350頃)はサムハに宮廷を設け、ハヤサ・アズィを侵略。
カスカが介入したがスッピルリウマは彼らを打ち破った。
カスカのおよそ12種族がピヤピリPiyapiliのもと統合したがピヤピリはスッピルリウマに対抗できなかった。
ムルシリMursili2世(統治:1312−1295頃)のときカスカは始めてティピヤのピンフニヤPihhuniyaのもと統一、彼は王のように
支配したとヒッタイトは記録。
彼はヒッタイトの都市を征服したが、ムルシリに敗れ捕虜となった。
ムルシリの息子ムワタリMuwatalli2世のとき、カスカはハトゥッサを包囲、彼は首都を南方タルフンダッサに移動、弟で将来の
ハットゥシリ3世を北方の統治者とした。
ハットゥシリは再征服したネリクでカスカを破った。
ハットゥシリは王座について首都をハトゥッサに戻した。
カスカはBC1200頃のヒッタイトの青銅器時代崩壊でのヒッタイト帝国の没落に寄与したと思われる。
それから、彼らは東アナトリアに侵入し、南方へ進出し続けアッシリアと遭遇。
アッシリア王ティグラト・ピレセル1世はBC12世紀末にカスカとそのムシュキ提携者がハッティ中心部で活動していることを
記録している。
ティグラト・ピレセル1世は彼らを打ち破り、カスカはすべての歴史記録から消え去った。
アッシリアに跳ね返され、カスカの一部は北東をへてコーカサスに行き、そこで恐らくプロト・コルキスあるいはザン原住民と混合し、
コルキスとなる集団を形成したと思われる。
主なヒッタイト王(省略あり)
BC1500−1450頃 ハンティリ2世
BC14世紀初期(BC1460−1440頃) トゥドハリヤ1世
(BC1440−1420頃) アムワンダ1世
BC1360?−1344(BC1460−1440頃) トゥドハリヤ2世
BC1344−1322頃(BC1380−1334) スッピルリウマ1世
BC1322−1321 (BC1334−1333) アムワンダ2世
BC1321−1295 ムルシリ2世
BC1295−1272 ムワタリ2世
BC1272−1267 ムルシリ3世
BC1267−1237 ハットゥシリ3世
BC1237−1209 トゥドハリヤ4世
BC1228−1227 クルンタ
BC1209−1207 アムワンダ3世
BC1207−1178 スッピルリウマ2世
(5)
イスワ(BC1630−1200)
イスワはアナトリアの東部に隣接するユーフラテス川上流地域、後にカンマヌKammanuのルウィ人のネオ・ヒッタイト国となる地域。
メリドはイスワとカンマヌの中心都市。
最初の国家はBC3000年以降と思われる。
イスワという名前はBC2000年のヒッタイトの文字使用期に知られた。
イスワの西には敵対するヒッタイト王国があった。
ヒッタイト王ハトゥシリ1世(BC1600頃)は彼の軍隊がユーフラテス川を渡りそこの都市を破壊したことを報告。
ヒッタイト王スピルリウマ1世は彼の父トゥドハリヤ2世(BC1400頃)の頃、イスワの地が敵対するようになったことを
記録している。
ミタンニ王シャウシュタタルはヒッタイト王アルヌワンダ1世にイスワからの支援で戦争を行ったようである。
これらの敵対はスピルリウマ1世の統治まで続き、BC1350年頃彼はユーフラテスを渡り、イスワの地に軍隊と入った。
彼はイスワを従属させたと主張。イスワはヒッタイトに従属する王によって支配され続けた。知られているイスワの王は少ない。
エフリ・シャルマがイスワの王としてBC13世紀のヒッタイトの文書に言及されたいる。
アリ・シャルマとい王が粘土封印に言及されている。BC12世紀初期のヒッタイト帝国の崩壊でイスワに新しい国家が出現した。
メリドの都市が新ヒッタイト国家と呼ばれる国家の一つ、ルウィ人国家カマンヌKammanuの中心となった。
ヒッタイトの消滅でフリギア人が西に定住し、東にはウラルトゥ王国が建設された。
アッシリア王ティグラト・ピルセル1世(BC1115−1077)と衝突しカマンヌはアッシリアに貢納するようになった。サルゴン2世
(BC722−705)のBC712年の包囲までカマンヌは繁栄した。
同時にキンメリアとスキタイはコーカサスから北東へアナトリアに侵入、これら遊牧民の動きでカマンヌは弱体化し、最終的にアッシリアの
侵攻でBC7世紀からローマまでの、定住と文化の衰退を引き起こしたと思われる。
(6)
シュプリア
シュプリア(シュブリア)またはアルメ・シュプリアはBC13世紀初めにアッシリア資料から知られるフリ人の王国で、アルメニア高地、
ヴァン湖の南西にあり、固有のアララトに接していた。
ウェイドナー(ケンブリッジ古代史)によるとミタンニのフリ人王シャットゥアラShattuaraが中期アッシリア帝国のアダド・ニラリ
Adad-nirari1世によってBC13世紀初期に打ち破られ、シュブリアまたはスバルトゥとして知られる小さくなった封臣国家の
支配者となった。
スバルトゥという名はずっと以前、初期メソポタミアの記録(BC3000中期)に認められるが、シュメール時代のこの語は
上部メソポタミア(アッシリア)を指していた。
アルマニ・スバルトゥ(フリ・ミタンニ)とともに、ハヤサ・アズィとナイリのような他の地域の住民はBC9世紀にウラルトゥの
支配に陥った。
彼らの子孫は後にアルメニア人形成に寄与したとされる。
シュプリアはエサルハドンのアッシュル神への手紙で言及され、エサルハドン(統治:BC681−669)はBC674年シュプリアに
遠征隊を派遣し、服従させた。
*(露)アッシリア資料から知られるフリ人の王国でBC12世紀にさかのぼる。
王国はアルメニア高地、ヴァン湖の南西にあり、ウラルトゥに接していた。
ムシュキ、ハヤサその他とともにBC9世紀ウラルトゥの支配に落ちた。
子孫はアルメニア民族形成に参加。
*(独)アッシリアとウラルトゥの間にあったために比較的長期に独立を維持。
サルゴン2世の時に使節を送っているのが記録されている。
エサルハドン(BC680−669)による征服(BC673)でシュプリアはウプムUpummuとクリメリKulimmeri州に分割された。
*ウラルトゥの呼び名はQulmeri(Kullimeri:アッシリア資料)首都名から。
(7)
アルズィ(露)
アルズィ(アルシェ)はアッシリアとウラルトゥの資料から知られる。
BC30世紀末から20世紀始めに、アルメニア高地のアラツァニ・ムラズ川峡谷(後のアルザネネ)にルウィ・フリ人の独立国が
多数あり(アッカド人の
シュブリア地域)、その一つがアルズィの王国。
BC17世紀に明らかにヒッタイトに従属。
BC16世紀初め、クンマニKummanniとともにミタンニ国の基礎となる。
BC14世紀、ミタンニの衰退で、アッシリアと、ミタンニの領土の分割に参加。
ヒッタイトとの戦いでミタンニとともに
スッピルリウマ1世(BC1380−1334)のヒッタイトへの従属を余儀なくされる。
ついでヒッタイトの衰退で再び独立。
BC13世紀、王国はアッシリアの支配に落ちる。
これは高地のシュブリア諸国とともにアルズィがシャルマネセル1世に従属した時に始まる。
ついで、シュブリア諸国は統一し、アッシリアに反乱し、貢納をやめたが、トゥクルティ・ニヌルタ1世がこれを破り再び貢納させた。
BC1220−1200年頃までのアッシリアの弱体化で再びヒッタイトに従属。
BC1165年頃、その前にヒッタイトを破ったムシュキが、アルズィとプルクッズィを占領。
後に、BC9−8世紀に、アルズィはナイリ諸国の一部となる。そのなかからウラルトゥが勃興。
同時期、アッシリアがナイリ高地に遠征。アダドネラリ2世は、4度、アルズィを含むナイリ諸国に遠征
最終的にアルズィはウラルトゥ王メヌア(BC722−705)によって占領される。これはBC799年頃の碑文で言及。
サルゴン2世の治世に(BC722−705)、アルズィはウラルトゥによってシプリアという名で支配されたことが知られる。
現代歴史家はアルメニアの国の始まりは、古く、ウラルトゥとアッシリ没落期でなく、それ以前であると考える。
BC12−8世紀に存在したフリ・ルウィ・ムシュキ王国のアルズィが、アルメニア人国家の中心の一つと考えられる。
アルメの国がムシュキ王国、イスワ、シュプリア、アルシェ、プルルムズィなどと連合し、アルメニア高地の一部を統一したと思われる。
*参考 ⇒
アルメ
(8)
ムシュキ
ムシュキは鉄器時代のアナトリアの人々でアッシリア資料に現れ、ヒッタイト資料には見えない。
彼らをギリシャ資料の
モスホイあるいはグルジアの
メシュキ種族と結びつける人もいる。
2つの異なるグループがアッシリア資料でムシュキと呼ばれる。
一方(東ムシュキ)は、BC12−9世紀に、アルサニアス(ムラト)とユーフラテスの合流点におり、他方(西ムシュキ)は、
BC88−7世紀にカッパドキアとキリキアにいた。
初期アッシリア資料は西ムシュキを
フリギア人と同一視するがギリシャ資料ははっきりとフリギア人とモスホイを区別。
東と西ムシュキの識別ははっきりしないが、少なくとも一部の東ムシュキのキリキアへのBC10−8世紀の移動の仮定が可能で、
ムシュキをフリギア語、ジョージア語、アルメニア語またはアナトリア語の話者と同一視する考えが繰り返しだされている。
アルメニア人をフリ人、ルウィ人と、インド・ヨーロッパ語をアナトリアを横切り東に運んだプロト・アルメニア人のムシュキの混合と
考える学者もいるが、歴史的にはアルメニア人はBC6世紀に南コーカサスと北東アナトリアに出現した。
現代の研究ではギリシャ人及びフリギア人とアルメニア人の近縁性の主張は言語学的に確認されていない。
東ムシュキ
東ムシュキは、BC12世紀に、ハッティに移動したようで、種々の海の民と共にヒッタイトの衰退、崩壊をもたらした。
彼らはカッパドキアにポスト・ヒッタイト王国を確立した。
核ヒッタイト地域へ、東または西から入ったかは議論となっているが、まずアルメニアの地域を占拠したと考える人もいる。
古代の説明では、彼らはまず西の故郷(フリギア人移動の一部として)、トロイ地域またはマケドニアからブリゲス(古代バルカン人)
として到着したことを示唆する。
フリ人とカスカ人とともに、BC1160頃に、中期アッシリア帝国のアルズィと
プルフッズィ地域を侵略し、アシュル・ダン1世に
追い返され、征服された。BC1115年、ティグラト・ピルセル1世はミルドまで征服。
ムシュキは南コーカサス磁器の拡大と結びつけられる考えがあり、これは、BC2千年末に、西のトルコの現代エラジグまで
出現している。
この磁器は南コーカサス地域で発展したと考えられ、恐らくトリアレティ・ヴァナドゾル文化が起源で、これはムシュキの東故郷を
示唆する。
西ムシュキ
BC8世紀のタバル(ルウィ語を話す南中央アナトリアの新ヒッタイト王国)はポスト・ヒッタイト政治で最も影響があり、ミタのもとの
(西)ムシュキはタバル、カルケミッシュと反アッシリア連合に入った。連合は間もなくアッシリアのサルゴンによって打ち破られ、
カルケミッシュは占領され、ミタは自分の国に押し戻された。
タバルのアムバリスはアッシリア王女と結婚しアッシリア支配下のヒラク地域を受け取ったが、BC713年に退位させられタバルは
アッシリア州となった。
BC709年にムシュキはアッシリアの提携者として再出現、サルゴンはミタを友人と呼んだ。
BC714年にキンメリアがマンナイからウラルトゥに侵攻、そこから彼らは西に黒海沿岸に沿ってシノプに向かい、ついで南の
タバルに向かった。BC705年、中央アナトリアのアッシリア軍への遠征でサルゴン2世が死亡したが、彼らはアッシリア支配地域から
一掃された。
ウラルトゥのルサ2世はBC7世紀に、彼らと反アッシリアの提携に入る前に、西方でムシュキ・ニMushki-niと戦った。
モスホイ
ミレトスのヘカタエウス(BC550−476)はモスホイをコルキア人と語っており、
マティエニ(フリ人、以前のマンナエ王国の土地)
の隣に置いている。
ヘロドトスによるとモスホイの服装はティバレニ、マクロネス、モシノエキとマルダエと同じである。
これらすべての種族はアケメネス朝の第19サトラッピを形成し、黒海南東に沿って広がり、南はアルメニア山脈で境されていた。
ストラボンはモスホイを2箇所に置いた。最初は黒海東岸の現代アブハジアのどこか、2番目のモスヒケはレウコテア神殿があり、
かつて富で有名であったが、パルナケスとミトリダテスによって蹂躙され、コルキア人、アルメニア人とイベリア人によって分断された。
これら後者のモスホイは明らかにジョージア人
メスヒ(メスヘティの住民)である。
プロコピウスは彼らをメスホイと呼び、彼らはイベリア人に服従し、彼らの主人の信仰であるキリスト教を信仰したと言っている。
1世紀のプリニウスは南アルメニアのモスヘニに言及。ビザンティンの記録ではモスホイはカッパドキア人の祖先でその首都はマザカ
と考えられた。
アルメニアの伝説ではマザカは伝説的始祖アラムの従兄弟で将軍のミシャクによって築かれ、その名が取られた。
学者にはミシャクとムシュキを結びつけるものもいる。
アルメニアの地域モスクと都市ムシュはムシュキに由来するかもしれない。
ムツヘトスとムツヘタ
トビリシ近くの古代都市ムツヘタはジョージア専門家によってムシュキ国の以前の首都と信じられている。
中世ジョージア年代記によると、この都市は伝説的族祖ムツヘトスにょって築かれた。
彼はジョージア民族伝説的族祖のカルトロスの5人の息子の一人で、カルトロスはトルゴムの息子、トルゴムはゴメルの息子、ゴメルは
ヤペテの息子、ヤペテはノアの息子。
年代記によるとムツヘトスの生涯に、トルゴムの子孫(ジョージア人、アルメニア人と他のコーカサス民族を含む)は統一してニムロド人
の攻撃への抵抗に成功、これをジョージア専門家はムシュキとアッシリアの古代の衝突への言及と解釈する。
ムツヘタの発掘調査によって、この都市がBC10000年まで遡ることが確認された。
カルトリの転向より古い年代記と更に古いアルメニアのモセス・ホレネの年代記は、アレクサンダー大王の征服以前とその間のムツヘタ史の
説明と矛盾する。
転向によると、アレクサンダー到来までムツヘタはジョージアの中世固有名カルトリの主要都市のままで、アレクサンダーが
アリアン・カルトリのアゾを据えることでムツヘタを支配する王朝を変えた。
年代記によるとムツヘトスの死後、カルトリはいくつかの小さな、敵対する地域に分解し、アゾによって統一が回復された。
アゾはアレクサンダーのマケドニア人将軍で、彼は逆に地域公子(半ペルシャ人)パルナワズによって追い払われ、パルナワズがカルトリの
新しい支配王朝を築いた。
モセス・ホレネはアレクサンダーはペルシャ人サトラプのミトリダテスをムツヘタに据えたと言う。
ジョージア専門家はこれら説明の解釈の詳細に不同意で、一般的に、ムシュキ国の衰退とアレクサンダー到来前のペルシャの影響の
繁栄であることに同意し、アレクサンダーは副作用として新しい王朝の下でムシュキ国の以前の地域の多くの統一の新しい時代を先導し、
新しい王朝はムシュキの対しカルトリの名を好んだ。
ムツヘタは依然としてカルトリ国の首都で、カルトリ国は5世紀までほとんどの言語でイベリアとして知られた。
*(参考)
メシュキ(メスヘティMeskheti、サムツヘ、古代資料では
モスキア)
南西ジョージアの山脈地域。ムシュキ(またはモスキ)とモシニクス(または
モシノエキ)は現代サムツヘ・ジャヴァヘティ
Samtskhe-Javakheti地域の最初の知られる住民。
BC2千年からBC4世紀には
メスヘティはディアウエヒの王国の一部。ついで6世紀までイベリアの王国の一部。
10−15世紀の間は統一ジョージア王国の一部。16世紀は独立、サムツヘSamtskheの侯国、やがてオスマン・トルコに占領され
併合された。
(9)
サスペル(地域名:
スペリ)
サスペルはヘロドトスに言及される起源不明の人々。
最も普及した説によると彼らはカルトヴェリ種族だが、その起源はまたスキタイ人に帰される。
ヘロドトスによるとペルシャの北にメディア人がおり、これに接してサスペル(サスペイレス)人が、これの隣にはコルキス人がいる。
後にサスペリはギリシャ・ローマとビザンティンの著者によってイスピル平原近くに置かれた。
彼らの大体の故郷はチョルフ川とティグリスとユーフラテス川の源の間に位置する。
ジョージア資料によるとチョルフ川はスペリ川と黒海はスペリ海と呼ばれた。
BC12−8世紀にはスペリ地域は新しく形成された種族連合ディアウエヒの一部であった。
BC760年代、これはコルキスに併合された。BC720年までにキンメリアが北から侵入しコルキスを破壊し、地域社会と文化に大きな
影響を与えた。
引き続く世紀に新しい種族連合が形成され、最も有名なのはスペリ(サスペリ)であった。
BC6-5世紀にアケメネス朝の拡大で
マティエネ人、サスペル人、
アラロディア人(ヘロドトスがウラルトゥ王国で言及)はペルシャの
18番目のサトラピーに編入された。
末期古代のスペルはアルメニアの一部で、恐らく古典著者のシスピリティス。
シスピリティスはストラボンの地理誌でアルメニア起源神話の一部で言及される。
BC5−4世紀
(10)
ムサシル
アッシリアの記録でムサシル、ウラルトゥではアルディニはウラルトゥの古代都市。
アッシリアの記録にBC9−8世紀に出現。
BC800年頃ウラルトゥ王イシュプニが獲得。市の守護神は戦士の神ハルディ。
*アッシリアとウラルトゥの間には西から東へ
スブリアSubria(アッシリア名、ウラルトゥでは
クルメリ)、クメ
Kumme、ウックUkku、
フブシュキアHubushkia、
ギルザヌGilzanu、
ムサシルMusasir(Ardini)といった小国の緩衝国があった。
<補足>
露
ヴァン湖南東、大ザブ川上流に位置した古代都市国家。
ウラルトゥ種族が最初に定住した場所。
彼らはBC2000年末期からBC1000年初期に北へ移住し、アルメニア高地にウラルトゥ王国を形成。
最高神ハルディの信仰センター。
8世紀末、ウラルトゥ王イシュプニが隣のアッシリアの危機を利用してムサシルをウラルトゥへ併合。
ムサシルはアッシリアとウラルトゥの緩衝国であった。
BC714年、サルゴン2世はウラルトゥ王国に遠征、王ルサRusa1世を破り、ムサシルを略奪。
ルサ1世時代のウルルトゥとアッシリア国境付近、BC715−713年
<参考>
メリド(
メリテネ)
タウルス山脈に登るユーフラテス川支流トフマ川にあった古代都市。(上地図ではMilid)
鉄器時代には
イスワの王国の支配の中心となった。
恐らく西からのヒッタイトの脅威のため非常に要塞化された。
ヒッタイトはBC14世紀にこの都市を征服。14世紀中にはメリドはスピルリウマ1世のミタンニ首都
ワシュカンニ包囲の軍事遠征の
基地となった。
BC12−7世紀のヒッタイト帝国の終焉で、この都市は独立ルウィ人新ヒッタイト国家
カンマヌの中心となった。
アッシリアのティグラト・ピルセル1世(BC1115−1077)との遭遇で貢納を払わされるようになった。
BC804−743年にはカンマヌはウラルトゥに従属。
BC712年のアッシリア王サルゴン2世(BC722−705)の包囲までメリドは繁栄した。
そのときのキンメリアとスキタイのアナトリア侵入でこの都市は衰退した。
ストラボンによるとこの地域はメリテネとして知られた。
BC546年、
カッパドキア(メリテネを含む地域)はキュロス大王によって征服され、ペルシャ帝国のサトラッピとなったが、
従属国として、その支配者をもち、BC330年、
アリアラテス1世はアレクサンダー大王の宗主権を認めた。
カッパドキア王国はBC63年ローマの従属国となり、ティベリウス皇帝によって17年、ローマに編入された。
72年に
メリテネ(マラティア)が別の地域に軍団駐留基地として再建された。
メリテネはディオクレティアヌスの小アルメニア属州の中心の一つであった。
(11)
コバン文化
コバン文化(約BC1100−400)は北と中央コーカサスの晩期青銅器と鉄器時代文化である。
これは西コーカサスのコルキア文化と極東のハラチョイ文化に先行される。
その名前は北オセチアのコバン村にちなみ、1869年、戦闘斧、短剣、装飾品等がクルガンで発見された。
後に更なる遺跡が中央コーカサスで発見された。
コルキア文化(BC1000−600)は西コーカサス、主に西ジョージアの初期青銅器と鉄器時代文化で部分的にコバン文化に
継承された。
ハラチョイ文化はチェチェンの初期青銅器時代。陶器製ツボと石器製穀物容器が高水準に発展。
<参考> ⇒
キンメリア人、スキティア、サルマタイ、マッサゲタイ
<参考> ⇒
アルメニア前史